16の2 村上俊五郎について (文久3年―明治2年)

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文久2(1862)11月末には、幕府による大赦が、その翌月の8日には浪士召募の方針が決定した。そして、同月29日には村上俊五郎ら「虎尾の会」の同志たちが正式に赦免されている。清河八郎が仙台の桜田敬助と戸津宗之進に宛てた翌文久3年正月10日付けの書簡に、「十二月廿二日頃之書通及村上俊五郎ニ御恵投之御状等いさい相達し、躍如拝誦云々」とあるので、俊五郎は文久312月中旬以前には、仙台を出発していたのだろう。

 

俊五郎が出府した後、浪士組結成までの俊五郎の動向は定かでない。「新徴組移動詳細」に「(俊五郎は)石坂と共に浪士募集に尽力した云々」とあるが、石坂周造や池田徳太郎たちのように関東各地を巡回した様子は見られない。おそらく、江戸にあって、剣術関係の知人たちに参加を働きかけていた程度だったのではないだろうか。浪士組の結成後、俊五郎が組頭になった6番組士の柏尾右馬之助(俊五郎と同郷)や下総香取郡植房村の椿佐一郎(後に俊五郎の養子になったとも)は、そうした人達だったのかも知れない。

 

俊五郎は、浪士組では6番組小頭と道中目付(監察・遊軍)を兼任した。なお、1番組小頭根岸友山の記した「御用留」に、上洛途上の215(道中8日目)付けで、取締役から「右者乱暴人取締方申付候間左様可心得候」として、俊五郎を筆頭に7人の浪士の名が記されている。しかし、いずれの浪士組名簿にも乱暴人取締方(狼藉者取押役)は中川一ら4人で、俊五郎の名は記されていない。一度7人が任命され、後に訂正された可能性もある。

 

浪士組の江戸出立(28)以後、この根岸友山の「御用留」の記事以外の資料に俊五郎の名を認めることはできない。もっとも、永倉新八の『新撰組顛末記』には、俊五郎と山南敬助の諍いに関する事件が記されている。それは入京前日の同月22日、俊五郎が3番組小頭山南敬助に対して、「貴公の組は乱暴をしてはなはだ迷惑をいたす。取締らっしゃい」と注意すると、山南が、「なにが乱暴だ。拙者をはずかしめんとしてさようのことを申すのだな」、と烈火のごとく怒り出し、浪士取締の鵜殿鳩翁や取締役山岡鉄太郎が宥めたものの、山南の怒りは収まらなかったというのである。

 

そのため鵜殿と山岡は、「入京後3日目以内に必ず村上を処置する」、と山南に約束してその場を収め、約束通り着京3日目に、山岡が俊五郎の大小を腰から取らせて山南に謝罪させたと記されている。この記事だけで判断する限り、事実であったとは考えられない。そもそも、山南敬助が小頭だった記録は一切ない。不時の小頭の補充(途中交代)は、武田本記(岡田盟跡)、西恭助(芹沢鴨)、武井三郎(宇都宮左衛門代番)等の例のごとく、当初から道中目付(監察)から選任されており、管見ながら平士から小頭に選任された例は認められない。道中目付を遊軍とも称したのはそのためだろう。小頭から平士となった例も知らない。

 

また、玉石混交の浪士の監視は道中目付の本来の任務であり、その任務を果たした者が大小刀を脱して謝罪するなど考えられず(事実無根の理不尽な言掛りなら別だが)、大小を腰にする俊五郎の矜持も赦すはずがない。浪士組で道中目付の任を務めた中村維隆(草野剛三)が、明治36(1903)3月の史談会で、道中目付の役割と当時の状況を次のように語っている。

 

「兎も角烏合の兵が集まっているのだから、一つこれを監察する者がなければならぬ。そこで私共は監察となったのです。そうして山岡などと一緒に居った。所が清川八郎の居所が無い、即ち監察附きの者と一緒に居ったのです。それで私共は清河と一つになって其時分の隊中の処分から或は他藩の者に対する全ての応接から、万事私共がしたのでございます」

 

新撰組始末記』にあるような事件に、取締鵜殿鳩翁自らが差配する前に、清河八郎と山岡鉄太郎、山岡万らが協議して厳正に対処したはずである。そもそも、この事件に限らず、本庄宿大篝火事件や、山岡鉄太郎が傍若無人芹沢鴨に対して、辞職して江戸に帰ると言ったという逸話など、『新撰組顛末記』は浪士組の実態を著しく歪曲しているのではないかと思われる。

 

223日の浪士組の入京後、俊五郎の6番組10人は村会所を宿所とした。在京中の俊五郎の動静を伝える資料も管見にして認められない。ただし、近藤勇新選組結成後の同年526日付けで、郷里の佐藤彦五郎等に宛てた書中に、「右清川八郎、村上俊五郎、石坂周造、木村久之丞、斎藤熊三郎、白井庄兵衛、右六人は洛陽において梟首致す可しと周旋仕候処折悪誅戮を加えず候。右之者儀は道中より拙者共異論御座候」、とある。これを見る限り、近藤一派と俊五郎たちとの間には、上洛途上から諍いのあったことは推測される。

 

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 江戸に戻った後の浪士組は、本所三笠町の旗本小笠原加賀守の空屋敷を屯所とした。もっとも、石坂周造ら26人の浪士は、ここに入らず、馬喰町の羽生屋等3カ所の旅籠に分宿している。三笠町の屋敷が狭隘だったためか(後に飯田町黐木坂の田沼玄蕃頭の空屋敷も屯所となった)、或いは攘夷断行の準備のためか(後に26人全員が評定所に呼び出されている)は定かでない。俊五郎は石坂とは別に、他の浪士たちと共に三笠町の屋敷に入っている。

 

 幕府による攘夷の先鋒たらんと、浪士たちは意気込んで江戸に戻ったものの、幕府にその意志は毛頭なかった。それを察知した清河八郎ら浪士たちは、4月に入ると、独自での攘夷の断行を決意し、軍資金の調達を開始した。俊五郎も率先してその任にあたっている。

 

 俊五郎や石坂たちは、浅草蔵前の札差の家々に押し掛けて多額の軍資金上納を強談したのである。そんな中の同月9日、浪士取締役松岡萬と草野剛蔵が、浪士組士を騙って吉原や深川で無銭飲食等をしていた朽葉新吉と神戸六郎を捕らえ、三笠町の屯所に引き立てて来る事件が生じた。ちなみに、神戸六郎は浪士組士鈴木長蔵が大阪表から募って来た浪人であることは、「141 東北地方の浪士組参加者たち」で紹介した。

 

 2人の処分は協議の結果斬首と決定し、神戸を俊五郎が、朽葉を石坂が斬首して両国橋手前に梟首している。このことは「柚原鑑五郎日記抄」の411(13)日の条に、「(前略)役宅の庭にて両人共斬首す。神戸は村上俊五郎朽葉は石坂宗順きる。此二級両国に梟首す云々」と記されている。なお、この事件について後日評定所で尋問された際のことを、石坂周造が明治3311月の史談会で次のように語っている。

 

  「その両人の梟首した一條に付いてその吟味を受けた。その梟首を致しました者は即ち五百名が皆同意でそれを手討ちにして梟首したに相違ありませぬけれども、自分は一人を殺して五百人の同士が連鎖を受けるようなことがあってはならぬと云う決心でありまして、自分一人でしたということを申立てた。然るに村上新()五郎と云う男は妙な男でありまして、それはお前自分一人でその罪を引き受けて腹を切って潔くしては此の新五郎が立たぬと云って、有体に口羽新吉は新五郎(石坂の誤り)が斬る、神戸六郎は拙者が斬ったと云うことを明らかに言い立てたと云う、マア其罪の譲合いでございます云々」

 

もしこの証言通りなら、石坂の判断力が疑われる。なぜなら、衆人監視の中で行われた斬殺行為に関して、偽証が罷り通ると思ったこと。さらに、俊五郎が石坂の証言を素直に受け入れると思ったことである。そうだとすれば、石坂は日ごろ、俊五郎を武士(百姓上がりだが)としての矜持もなく、廉恥の心もない臆病者と侮っていたことになる。まさに俊五郎がいう通り、俊五郎が面目を失うことは必定である。恐らく、この史談会の石坂の談話は、己の評価を高めるための虚言だったのだろう。

 

 この事件から3日後の413日、幕府は首魁の清河八郎を暗殺すると、翌14日には庄内、白川、小田原等6藩に三笠町の御用屋敷と馬喰町の旅籠を包囲させ、浪士の巨魁の捕縛を命じた。白河藩阿部家資料『公余録』によれば、幕閣から「時宜次第打捨候共不苦」として、村上俊五郎と石坂周造は今日中に召捕るよう、また和田理一郎、藤本昇等4人は「跡にても可然」との指示があったという。浪士組士早川文太郎(暮地義信)の「新徴組略記」に、この時の様子が次のように記されている。

 

  「十四日夜より酒井左衛門尉、松平右京介、相馬安房守、松浦肥前守、松平上総介等数万の兵を以て屯所を取り囲む。翌十五日松平上総介町奉行より、浪士の内村上俊五郎、石坂周造(4人略)等六人御用有之旨被申渡、右諸侯の兵を以て村上俊五郎以下六人を警固して町奉行へ出頭したる処一応尋問の上云々」

 

 石坂周造が史談会で語ったところによれば、包囲に参加した諸藩の中には野戦砲まで配

備していたという。この14日、浪士取締役の山岡鉄太郎や松岡萬も御役御免の上、差控

の処分を受けていた。翌15日夜、村上俊五郎は菰野藩主土方聟千代家(1万石)預けとなり、

以後幕府瓦解の慶応4(1868)までの約5年間、囚禁の生活(預け替えの実態不明)を送る

こととなったのである。

 

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俊五郎も石坂周造と同様、慶応4315日に出獄を許されて山岡鉄太郎に預けられた

と思われる。山岡が俊五郎らの救出に尽力したことが、先の「新徴組略記」に「慶応四年二月、山岡鉄太郎が村上俊五郎外五人等を赦免に相成候様其筋へ請願したる節始めて赦免に相成たり」、とある。山岡が精鋭隊頭歩兵頭格を命じられたのが、この年224日なので、これを機に、獄中にあるかつての同士たちの救解に奔走したのだろう。

 

出獄後の俊五郎について、当時陸軍総裁だった勝海舟の日記(「海舟日記」・『勝海舟全集』)44日の条に、「村上俊五郎来る」とある。何用あって俊五郎が勝海舟を訪ねたのか、また、俊五郎にとってこれが海舟との初対面であったのかどうかは不明である。

 

同月7日の「海舟日記」には、「山岡、村上、秋月、林来訪。山岡より村上已来()生活の談これあり」とあり、翌8日には「河内武彦へ村上、石坂已下生活料百円渡す」と記されている。7日は4人で来訪したらしいが、秋月(会津秋月悌次郎)、林の誰であるかは不明である。河内武彦は田安家の家臣だろうか。

 

また、「海舟日記」の同月25日条に、「山岡来る、市中取締り、石坂、村上の事相談云々」とあり、翌閏43日条には「石坂云う、明日より市中廻り致すべしと云う云々」とあって、俊五郎と石坂が「市在取締頭取」に任ぜられたことは、前稿でも記した。

 

なお、前稿で石坂がその職名にそぐわない脱走旧幕兵の鎮撫に奔走したことを紹介したが、これに関連して、武州比企郡菅谷村(埼玉県嵐山町)の平澤寺第40世奥平栄宜の記した「明治戊辰變見聞録」(『埼玉叢書』第五)に、次のような記述がある。

 

明治元年三月廿八日出京松澤良作に会し石坂周造、村上俊五郎と共に勝安房、山岡鐵太郎氏の命を受け、徳川幕臣誠忠隊三百余名下総流山に屯集せし兵士等を説諭引戻し、麴町山王境内に引集合せしめ彼等の徒を鎮撫せし云々」

 

奥平栄宜が江戸に上って会った松澤良作は、谷中の全生庵所蔵の「尊皇攘夷発起」に「幹事」としてその名があり、早くから清河八郎らと関係していたらしい。文久34月に諸藩預けとなった5人の浪士の1人で、放免後は俊五郎らと行動を共にしていたのである。これにより、俊五郎も石坂周造と共に脱走旧幕兵の鎮撫に当っていたことが明らかである。

 

「海舟日記」でその後の俊五郎の姿を追ってみると、516日条に「多賀上総宅、官兵焼打ち、我が宅へ乱入、刀鑓、雑物を掠脱奪し去る。夕刻、村上俊五郎、田安へ来り、その転末を話す」とある。この前日、上野の彰義隊が新政府軍によって一掃されていた。勝海舟はこの日田安邸に詰めていて、赤坂の私邸は留守であった。そこを200人余りの新政府軍兵士が包囲し、武器や家財までも恣に掠奪して行ったのである。俊五郎はその状況を海舟に伝えに田安邸を訪ねたらしい。

 

この事件から2日後の「海舟日記」同月18日と19日の条に、「山岡宅へ、市中取締り役所等、官兵尋問すと云う」とある。俊五郎たちの市中取締り役所は山岡鉄太郎宅にあったのである。もっとも、旧幕府による江戸市中の治安の維持は51日には解除されていた。これ以後の俊五郎たちの活動の実態は不明である。それから4カ月後の916日の「海舟日記」には、「村上俊五郎、明朝出立につき、一翁殿並びに中老衆へ一書、中條の事、其他の議申し遣わす。並びに宅状、俊へ餞別千疋(二両二分)持たせ遣わす」と記されている。

 

徳川家はこの524日に、田安亀之助(家達)駿河国府中(静岡県静岡市)の城主として70万石を下賜されていた。亀之助は8月には静岡に移住し、前将軍慶喜もその前月には水戸から駿府の宝台院に入っていた。勝海舟自身が江戸を離れて駿府に到着したのは10月の中旬のことであった。もっとも、俊五郎が宅状を託されているから、勝海舟の家族は俊五郎の駿府入り以前に移住していたのである。

 

ちなみに、明治22日調べの「静岡藩職員録」(『同方会誌』)を見ると、家老平岡丹波を筆頭に、中老として浅野次郎八以下6人、次いで「同様(中老)御取扱」大久保一翁(忠寛)、そして幹事役として勝安房と山岡鉄太郎の名がある。山岡鉄太郎の年譜には、「五月二十日付、鐵舟若年寄挌幹事役被申付」とある。

 

俊五郎は駿府移住に当って、勝海舟から大久保一翁や浅野次郎八らへの書簡を託されたのである。中條金之助(景昭・精鋭隊頭)に関しても何か伝言を託されたらしい。なお、精鋭隊は919100人が、同月26日には残りの100人が駿河府中に入っている(静岡県史』通史編・近現代)

 

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俊五郎が勝海舟の妹瑞枝と結婚(正式かどうか不明)したことは、よく知られている。それが江戸在住の時か、駿河移住後のことだったのかは不明である。後に詳述する瑞枝と強矢道場の同門だった小松崎古登女の話には、「(俊五郎は)勝海舟先生、山岡鉄舟先生とは、義兄弟の約を結んでおられました。こんな関係から、海舟先生の妹御瑞枝さんが先生(俊五郎)に再縁することになりました」とある。海舟も2人の関係に異議を挟まなかったらしいので、俊五郎に対しても当時それなりの評価をしていたのかも知れない。

 

ここに記すまでもないが、海舟の妹瑞枝は嘉永5(1852)12月、16歳で松代藩佐久間象山(42)嫁ぎ、元治元年7月に象山が暗殺された後は勝家で生活するようになっていた。当時は順子といい、象山死後に瑞枝と改名したという。宮本伸著『佐久間象山』に、「順子は象山の死の折は二十九歳で、当時江戸の勝家(里帰りヵ)にあったが、悲しみのあまり自害しようとして果たさず、落飾して象山の冥福を祈った。象山の死後、兄海舟とともになにくれとなく格次郎(象山の異腹の子)の面倒をみた云々」とある。海舟が明治維新後も格次郎の面倒をみたことは、「海舟日記」でも確認できる。

 

俊五郎の移住直後の駿府での様子は、三田村鳶魚が、撃剣会に女武者の行装で参加していた前記の旧幕臣の娘小松崎古登女に、友人を介して聞き取った話(三田村鳶魚全集』第15)で知ることができる。貴重な聞き書きなのでここで紹介したい。なお、駿府移住後の俊五郎は、附属の者60人以上を率いて、移住者で混乱する府中市街の治安維持を任としていたらしい。

 

「私(小松崎古登女)は旧幕臣の娘で、十六歳の時から薙刀を水野大炊頭様御師役強矢武甲斎先生につきて修行しました。丁度二十二歳の時が明治の御維新で、()私も親どもと静岡へ参りました。(当時)静岡市中の取締りは、その頃武芸で名高い村上俊五郎先生が勤めておられました。先生は阿波の農家の生まれだったそうですが、稀代の豪傑で()。瑞枝さんと私とともに、強矢先生の門に習いました縁故がりますから、私は静岡へ参りますと、スグ村上先生夫婦を訪ねました」

 

小松崎古登女が村上俊五郎の家を訪ねた正確な時期は不明だが、明治元年(1868)末から翌年早々だったのではないかと思われる。瑞枝と古登女が共に薙刀を学んだ強矢道場とは、甲源一刀流強矢良輔(武甲斎・新宮水野土佐守の指南役)の四谷伝馬町の道場である。良輔の妻佐登子も戸田武甲流薙刀の使い手として多くの門人に教授したというから、2人はこの人から薙刀を学んでいたのかも知れない。古登女の話は続く。

 

(古登女が村上家を訪ねると)、すると先生が非常に喜ばれて、静岡へ初見参のためとして、御自分の部下から四人の勇士を選んで、雷電寺の伝(仏ヵ)殿で試合をやることになりました。その朝、先生は馬に一鞭くれて秋葉ヶ原に陣営を張っている精鋭隊へ行かれ隊長中條金之助、大草多起次郎の諸仁()を同行して来られ、また市中からも見物が見え、随分晴れの試合となりました」

 

俊五郎は古登女を歓待するため、精鋭隊長()の中條金之助や副隊長(頭並)大草多起次郎(高重)を自ら呼びに行き、市民の見物人にも公開しての大々的な試合を行わせたのである。古登女の薙刀の腕は相当のものだったらしく、古登女は「この試合後、私は村上先生の道場で、武芸の指南をしておりました」と語っている。

 

この話で、俊五郎は駿府の屋敷に道場を構え、公務の傍ら剣術を教えていたことを知ることが出来る。なお、古登女の話に、俊五郎夫婦が住んでいた屋敷について、「今の静岡ステーションの付近で、表門は天満町とて、遊郭や料理店のある熱閙な地で、防ぐに地の理はよろしゅうございますが、裏門は一面の水田で、足掛りの悪いといったらない」所であったとある。この俊五郎の屋敷の話に関連して、古登女は俊五郎に関する次のような殺伐とした事件について語っている。

 

「私が静岡へまいる二月前に、村上先生が人を斬ったことがありました。斬られた人はお旗本の歴々で、名は失念しましたが、江戸明け渡しの時、二百人ばかり率いて脱走し、ついに下総の流山で縛について、静岡へ引き渡され、謹慎を命ぜられましたが、この人はどうしても佩刀を渡さぬ、強いて取り上げようとすれば斬って掛る気色であって、町奉行の中台さんも、これには大いに困ったそうです。で、大久保一翁さんと相談して、その説諭方に村上先生に銘()じました」

 

下総流山で縛に就いた脱走隊とは、奥平栄宜の「明治戊辰變見聞録」にあった誠忠隊と思われる。大山柏著『戊辰役戦史』によれば、420日の下総岩井の戦いに敗れた誠忠隊は、22日には岩井の南20キロの流山に落ち延びたて宿営していた。その後、田安家からの招撫の使者の説得等により、25日に千住で田安家の家来や官軍によって武装解除させられている。その後全員が田安家に引き渡されたが、その際の人数が、脱走歩兵(110余人)を合わせて375人であったという。

 

この気骨ある旗本の名は、誠忠隊長の山中孝司のことだろうか。俊五郎にこの旗本の説諭を頼んだ町奉行の中台とは、中台信太郎である。中老格大久保一翁や中台信太郎が、数ある藩士の中で、俊五郎に旗本を説得する力があると判断したことは勿論、流山での田安家の使者に加わっていた経緯もあったのかも知れない。この話は更に続く。

 

(俊五郎はその旗本を)懇々説諭したそうですが、その人は、理の当然に言い詰められ、涙をハラハラ流したと思う一刹那、たちまち抜打ちに先生へ斬り付けた。さすが先生、その刀が鯉口を離れる八寸ばかりの中に、ただ一刀で切り倒しました。斬った手際の鮮やかさ、右の肩から鉄鍔かけて、刀のコミまで真二つになったそうです」

 

古登女の又聞きではあるが、俊五郎の腕の冴えを証明する逸話である。俊五郎には居合の心得もあったのである。この事件の顛末は更に続く。

 

「斬られた人の部下二百人は、銘々謹慎を仰せ付けられ、諸処に預けられておりましたが、謹慎が明けると、この人たちが村上先生へ仕返しをするという大騒ぎになりました。これは私が先生のもとにおるようになってからのことでございます。サア、この評判が大きくなってしまいましたから、中台さんや大久保さんが、万一を計って御心注けるもあるし、先生の屋敷では、部下の士六十人ほど集まって、用心堅固に堅めている始末でした」

 

この騒ぎの中で、俊五郎は古登女を呼んでいうに、「今日のありさまは、貴女の見ておられる通りで、ナカナカ人の大切な娘さんを預かっている場合ではないから、今日にでも親元へ帰るように」、と至急屋敷を出るよう説得したという。

 

しかし古登女は、「こんな危急の場合に臨んで、何と自分1人を安くして、先生を見捨てることができましょう」、と俊五郎の申し出を断り、玄関先を守ること満1か月に及んだが、とうとう切込みはなく、ほどなく浪士たちは静岡から1人もいなくなったという。

 

この騒動は当時関西方面にまで知られたらしく、事件後しばらくして俊五郎の甥が大阪から訪ねてきて、ある時の酒宴の席で、「叔父さんのところでは、この間大騒動があったそうですね、()大阪へんでは大評判でした」と語ったと、古登女の話にある。

 

この事件からしばらくして、古登女は父親が遠州横須賀に屋敷をもらったため、「村上先生御夫婦には深くお礼を申し上げ」、俊五郎の屋敷を後にしたことで、古登女の話は終わっている。

 

 ※以下は次回に続きます。