18の(2) 知られざる水戸藩郷士大野謙介

4 勝野豊作との親交

 

嘉永23月には、謙介の長年の艱難辛苦も報われ、徳川斉昭の藩政関与が許されることとなった。幕臣儒者の林鶴梁(伊太郎)の日記の同年99日の条に、「児島恭介と有之手紙来ニ付、開封、一過之処、国元ゟ鮭一尾呈上仕度、野村ゟ申来云々」とある。「野村」とは野村彝之介(鼎実)と思われる。国元の野村から鶴梁に贈られた鮭を謙介が届けたものと思われる。当時も謙介は江戸にいたらしい。なお、林鶴梁は藤田東湖とも親交があり、幽閉中の生活に窮する東湖に、同志9人と共に救援金を贈っていた経緯もあった(『林鶴梁日記』)。なお、これ以後嘉永6年に至るまでの大野謙介の去就は定かでない。

 

『井伊家史料・井伊家幕末風聞探索書』の安政22月の条に、「老公(斉昭)御慎御免の儀に付出奔致し、品々心遣ひを尽し候者共、去寅年(安政元年)一同召返しに相成候ては、去る丑年(嘉永6)松前表へ探索として罷越候関幸右衛門、萩信之助并右復太郎儀(原注・宮崎)も夫々旧職へ再勤仕候に付云々」とある。関幸右衛門とあるのが大野謙介と思われる。これによれば、謙介は嘉永6年に萩信之助(忠厚)や宮崎復太郎(日下部伊三次の変名)らと北海道松前を探索し、翌安政元年に旧職(郡奉行配下同心ヵ)に復したのである。

 

蝦夷地開拓は徳川斉昭の宿願であり、既に天保9年にその必要を老中大久保忠真らに建言する一方、窃かに那珂湊の豪商大内某に蝦夷地を調査させたという(山川菊栄著『幕末の水戸藩)。また、大野謙介たちを派遣したとされる年に、斉昭が幕府に提出した「海防愚存」の中に、「蝦夷地之儀ハ御開拓無之候ヘハ不遠魯夷等の有と相成儀差見候云々」、と早急な開拓の必要性を説いた上で、「此儀愚老年来の見込ニ候処、老境に入候ゆへ自身雪中へわけ入御用相勤候事も出来不申と残念千万ニ候、志かし仰付候ハハ開拓いたし云々」と記している。謙介たちの蝦夷地に関する探索報告書もあったのだろう。

 

 それから4年を経た安政5年、大野謙介と親交のあった勝野豊作の次男勝野保三郎(正満)の記した「勝野正満手記」のその年710日の条に、謙介の名が認められる。そこには、「夜中厳君(勝野豊作)江戸ヲ発シテ潜ニ上京セラレ、予随従ス。(中略)道ヲ中仙道ニトリ駒込先ナル庚申堂ニ至レハ水戸藩士大野謙介氏来居、同行蕨駅ニ至テ密談数剋爰ニテ大野氏ニ別レ」て上京したと記されている。この年6月、大老井伊直弼の違勅条約調印等に異議を唱えて不時登城した徳川斉昭らが処罰されていた。勝野豊作は日下部伊三次と共に(別行動)朝廷の力を借りて井伊直弼を幕政から除き、斉昭らの復権を図るため、この日密かに江戸を発したのである。

 

 「勝野正満手記」にはさらに、勝野親子が京都から戻った翌826日の条に、「戸塚駅ニテ大野氏ニ出会、同道品川駅ナル京平方ニ宿シ、翌日厳父は安藤伝蔵氏ニ、予ハ大野氏ト同道同氏之宅ニ行、二宿之後帰宅ス(原注・是大野氏後事ヲ慮ルカ故ナリ)」とある。大野謙介は、勝野親子が密かに江戸を発する際には蕨宿(埼玉県蕨市)まで同行し、父子の帰府に際しては戸塚宿(神奈川県横浜市)に出迎えたというのだ。謙介が勝野豊作といかに深く関係し、その素志宿願を同じくしていたかが歴然である。

 

 勝野親子が江戸に戻った翌97日、梅田雲浜の捕縛を皮切りに、過酷な安政の大獄が始まり、同月27日には日下部伊三次が投獄された。この時、偶々日下部家に在った勝野豊作は、捕吏がその顔を知らなかったため、辛くもその場を逃れたという(「勝野正満手記」)。だが、同日の夕刻に勝野家を襲った幕吏は、豊作の妻、長男森之助(正倫)、次男保之助と娘の家族全員を捕縛投獄したのである。その後、妻と娘、それに保之助は百日間の押込めとなり、長男森之助は三宅島に流罪となった後、文久2(1862)に許されて江戸に戻ったものの、その年の末に病没した。前途有為な若者だったという。

 

 一方、勝野豊作のその後は、『水戸藩死事録』に「(豊作は)潜ニ脱シテ本藩邸ニ投シ、大野謙介ノ家ニ匿ル、(中略)明年十月十九日、正道病テ謙介ノ家ニ死ス、年五十一、謙介密ニ屍ヲ水戸大戸村ノ人大野内藏太ニ托シ、之ヲ其地ニ葬ラシム云々」、と記されている。ちなみに、筆者は『歴史研究』第633号掲載の「忘れられた傑士勝野豊作」で、勝野は水戸領内に潜んでいたかのごとく記したが(本ブログ前稿では修正)、これは誤りであった。このことは、勝野豊作の孫陸軍中将勝野正魚の記した「安政大獄と勝野家」に、次のような事実が記されている。

 

まず、勝野豊作の江戸潜伏に関して、「年余江戸に於て能く其寄寓を秘し潜居しありしは、大野謙介夫妻の献身的義侠の発露に非れば不可能の事にして」、夫妻の勝野隠匿は徹底し、近くに住む大金氏に嫁した長女でさえ、その事実を識らなかったという。謙介は、「正道の死(安政61019日・脚気)するや、他に妙案なく屍体を大戸村山中に埋葬するに決したるも、当時江戸出入に対する警戒尤も厳なりしかば屍体の輸送に苦心し、先づ水路によらんとし、極めて堅固なる長持内に入れて謙介自ら義幹(謙介の子)と共に之に従ひ小網町に至れば、凡ての荷物の開梱取り調べあるを知り」、陸路を取ることに改め、幾多の苦難を経て「大戸村着後謙介の甥内蔵太には姓名を告げず唯自己の尤も大切なる武士の屍体なる旨を含め、紋付上下を着せしめ大小等を添へ厚き布団に包みて其山中に埋葬し、何時掘開あるも武士たることを明瞭ならしめたるものなりき」として、これは「大野氏の正道に対する義挙の一端此の如く、尋常情義の能く為し能わざる美事」である、と謙介の義侠を称賛している。

 

 明治4(1871)に豊作の遺体を改葬した際、埋葬当時の姿のままで掘り出されたという。謙介と勝野正道の親交の深さと、謙介が信義に厚い人であったことを示す逸話である。なお、これらにより、安政5年当時謙介の妻子も江戸に住居していたことが明らかである。

 

5 久坂玄瑞との親交

 

 長州藩久坂玄瑞が記した「骨菫録」に、万延元年(1860)正月から7月までの各月ごとに人名とその出身地が列記されていて、その3月の条に「大野謙介 水戸、浅川寿太郎 平戸、三島貞次郎 備中松山、樺山三圓 薩摩」とある。この当時久坂玄瑞は長州に在り、5月になって英学を学ぶために江戸へ出ている。この記事が何を意味するのか、また、この当時玄瑞が大野謙介と面識があったのかどうかは不明だが、この頃大野謙介の存在が久坂玄瑞にも知られていたことだけは確かである。

 

 なお、この年33日には、水戸浪士らによる大老井伊直弼襲撃事件(桜田門外の変)があり、同月22日には、この事件の首謀者高橋多一郎が、大阪でその子庄左衛門と共に幕吏の包囲下で自刃して果てていた。大野謙介のこの事件への関与等は一切不明である。

 

水戸藩住谷寅之助(信順)の日記(「住谷信順日記」)のこの年104日の条に、「大野謙介下着来話」として、「来る十五日方一橋公御登城の響云々」とか「「姫宮様御下向春迄御挨拶御延引云々」等、謙介が住谷に伝えた内容が記されている。謙介は引き続き江戸に在住していたらしい。住谷は、再度の藩難に連座して前年軍用掛見習の職を免ぜられ、この年俸禄も奪われて、閉居の身の上であった。

 

この年の1222日付けで、長州藩桂小五郎(後の木戸孝允)た宛てた水戸藩士尼子長三郎(久恒)と美濃部又五郎(新蔵)の書簡(木戸孝允関係文書』)に、謙介の名が認められる。そこには、「尊藩御論之趣、大謙へ御示教之趣逐一承知仕候、何れ其内当地之情実も得、貴意候事御坐候得共年内日取も無之候間、公務繁雑不得寸隙、後便に申上候事御坐候云々」とある。桂小五郎はこの年、従兄の松島剛蔵(久敬)と共に水戸の西丸帯刀()や岩間金平(誠一)らと、水長が連合して幕府を匡正することを議し、8月はに水戸が破(現状破壊)を、長州は成(破壊後の建設)を実行する「成破の盟約」(丙辰丸盟約)を結んでいた。

 

しかし、この盟約は水長有志の私的盟約であったことから、これを藩同士の関係に深めるため、翌年3月には、水戸藩側頭役美濃部新蔵らと長州藩用役宍戸九郎兵衛らとの会談を成立させることになる。先の書簡はそのことに関係するものと思われる。謙介は桂小五郎から長州の藩論を伝えられ、それを水藩の要人美濃部や尼子に伝達したらしい。

 

なお、この12月に作成された分限帳「水戸藩御規式帳」の、「御中間頭、徒列加藤五左衛門」配下に大野謙介の名が認められる。謙介の右隣4人には「郡列」とあり、左隣の人物には「御広間勤格」とある。謙介に関しては何も記されていないが、郡列ということであろうか。

 

文久元年になると、久坂玄瑞住谷寅之助の日記(以下「久坂日記」、「住谷日記」と記す)に謙介の名がしばしば認められるので、この日記の記述を中心にこの年の謙介を追ってみよう。まず「久坂日記」28日条に「水藩大野謙介、乙葉(乙葉大助・勝野保三郎の隠名)の転書を持来る。夜五時迄談候事」とあり、同月17日条には「大野謙介、乙葉大助、日下部伊三次翁の妻に会す。八ツ半時帰邸」とある。日下部伊三次は安政6年閏3月に牢死していた。日下部と関係の深かった謙介は、久坂や勝野とその妻を訪ねたのだろう。さらに同月29日には、「大野謙介来る。暮に至り去る」、翌晦日には「子遠(長州藩入江九一)此日を以て国許に帰る。我等送りて品川に至り別飲す。此日大野謙介来る」とある。

 

そして316日に、久坂玄瑞が国元の同志入江子遠(九一)に宛てた書中に、「大謙と老兄発足前重々申置候事も御座候得は、同志中に謀被成候て最早手を御下可被下候」とある。これによれば、謙介と玄瑞が、入江の帰国に際して、国元の同志に謀るべき何事かを託したらしい。翌48日付けで玄瑞が入江に宛てた書中には、「此節在府有志の士も沢山に有之候」として、飯井銀八郎、大野謙介、川又才助、岩間金平他九人の名が記され、その中には藤田東湖の子大三郎や小四郎の名も認められる。

 

「住谷日記」514日条には、「大野謙介ゟ」として、謙介から伝えられた情報が記されている。翌61日の「久坂日記」には、「樺、大野来る」とある。「樺」とは薩摩藩士樺山三圓(資之)である。翌73日の条に、「無逸来薩の三十八人の事を報ず。暮時彼邸に往。大野、町田(直五郎・薩摩藩)先在云々」とある。「無逸」とは長州藩士吉田栄太郎(稔麿)の字で、その無逸が伝えた「薩の三十八人の事」とは、前年の8月、攘夷の先鋒たらんと薩摩藩邸に駆け込んだ水戸の竹内百太郎ら38人のことで、この月5日には薩摩藩邸から水戸藩小梅別邸に引き渡されている。事前にその事実を吉田栄太郎から聞いた玄瑞が薩摩藩邸に赴くと、そこに大野謙介と町田直五郎(薩摩藩)がいたというのである。

 

それから2ヶ月後の97日、玄瑞は江戸を発して帰郷の途に就いている。その前日の久坂の日記に、「與樺町至大塚又至大子、日下部及美片大三氏会、入夜而帰」と記されている。玄瑞の送別の会が開かれたのだろう。日下部伊三次の妻も参加したらしい。「華」と「町」は薩摩の樺山三圓と町田直五郎、「片」は、水戸藩士の片岡為之允(常道)、「大」は大野謙介と思われる。玄瑞は片岡為之介とも親交があった。なお、「美」については、久坂の「卸襄漫録」のこの年8月の条に「美濃部に会ふ事」とあるので、美濃部新蔵ではないかと思われる。長州に戻った玄瑞の1127日の日記に、「水大謙、及町人来るを夢む、町人は面貌を忘る」とある。謙介の印象は、久坂玄瑞の脳裏に深く銘記されていたらしい。

 

6 「住谷成順日記」の中の健介

 

 「住谷日記」に記される大野謙介については、これまでも紹介してきたが、その文久元年125日の条に、「清次衛門ゟ来ル。去ル月廿九日大野ゟ之状共来ル」として、「悌之介去月四日死去、()依而ハ金六両取片付謝禮等外弐両壹分指越牢中へ入候分云々」とあり、同月24日条には、「大謙ゟノ状持参、去ル十七日悌之介回向院裏□而地改葬済候旨申来ル云々」と記されている。文中「清次衛門」とあるのは水戸藩士梶清次衛門(信基)で、「悌之介」は住谷寅之助実弟である。悌之介はこの年2月、脱藩して上京途中の堺で捕らえられ、この114日に伝馬町の牢内で非業の死を遂げていたのである。その遺骸の処置から埋葬(改葬)にいたるまで、謙介と川又才介(時亮・水戸藩)が取り仕切ったのである。

 

 なお、「住谷日記」のこの月の条に、「大謙三十日ニ而長州□微行ノ処、大謙セキ入早々立去候様申、イカニも臆病物()也トソ云々」とある。この謙介の長州微行の顛末は不明だが、「臆病者」とある点については、水野哲太郎が高橋多一郎に宛てた嘉永元年中の書中にも、「(謙介は)危急迫切之時に至りては、指支候事も可有之と存、再復轍を踏不申様と、大におぎけつき(怖気づきヵ)、むしろ慎重に失候も、軽忽に失し申間敷と相控へ申候云々」、と記されている。謙介は嘉永元年当時は既に40歳、文久元年当時は53歳であり、血気に逸る年齢ではない。本来の性格もあったろうが、その任務上数々の危難を潜り抜けて来た経験からも、慎重に事を運ぶ人だったらしい。性急な人やそれが意に沿わない人たちには、臆病と見えたのかも知れない。

 

 翌文久243日の「住谷日記」に、「丹雲(得能淡雲)二月四日入牢、勢州高槻の浪人宇野東桜、今梅信と云ふ、返心幕へ訴出るに付、丹召取に成候と云ふ、一人は幕の間者となり、水戸へ廿一日出立、原市(原市之進)へ探索に来る由、大謙より廿九日仕出にて申来と云ふ」とあり、3日後の同月6日条には、「宇野東桜昨夜原任(原市之進)へ不図も訪来るに付き、早速来候様申来行、此依る九鼓迄いろいろ相談の所、言語同断、可悪奴なれども致方無之天運に任せ候事」と記されている。謙介が報知した通り、宇野東桜が水戸を訪れたのである。言語同断の憎むべき奴としながらも、住谷たちは何故か「致し方なし」として反覆者の宇野に危害を加えることはなかったのである。

 

 前年112日に大橋訥庵が捕縛され、その3日後の坂下門外の事変後には連累者が次々に捕縛投獄されていたが、これは訥庵の門人で一橋慶喜の近侍山本繁三郎や宇野東桜の裏切りによるものであったという。そのため、尊攘派有志たちの宇野東桜に対する憎悪の念は強く、「勝野正満手記」にも、「同志ニテ変心セシ宇野東桜ナル者、水戸ニ行テ衆ヲ欺クノ説アリ、因テ(中略)四月十五日ヲ以テ江戸ヲ発シ水戸上町五軒町ナル美濃部又五郎方ニ潜メリ、此途中東桜ニ出会セハ一刀ノモトニ倒サン覚悟云々」とある。この勝野保三郎のことは「住谷日記」にも、「勝野倅(四月)十八日方来ル、東桜云々ニ付来ル」と出ている。勝野保三郎は、大橋訥庵の輪王寺宮公現親王を擁した日光での挙兵計画(未遂)に加わっていたのである(「勝野正満手記」)。なお、宇野東桜は翌年1月に長州藩伊藤俊輔(博文)らによって謀殺されている。

 

 大野謙介は、翌文久2年も引き続き江戸に在住していたらしい。若干ながら、この年の「住谷日記」等に謙介の名が垣間見える。まず、正月7日の条に「去ル五日仕出し状坂場ゟ来ル、宿次ニ而去三日大野謙介方へ留置候付、来ル七日小子、寺門両人付添罷下候旨申来ル」とある。「板場」は水戸藩士板場源助(常裕)、「寺門」については不明。

 

同月24日条には、「此夕下野来ル、林長来ル、坂場明朝出立ニ付一泊、大野、川又等ヘ悌七ノ礼遣シ云々」とある。「下野」は下野隼次郎(遠明)、「林長」は林長左衛門(信義)である。翌24日条には「大野ゟ一書来ル云々」として、「対州療治中如何相成候や不相分、出勤之心配と申事ニ御座候」と、謙介から、坂下門外の事件で負傷した老中安藤対馬守正信の様子を伝えて来たことが記されている。

 

また、同日別項に、「大謙ゟ上町ヘ運ニも心組ト死去之説有之趣運有之よし也、之も難信候事」と、謙介から書通のあった安藤正信の様態に関する事実が筆記されている。「上町」とは、先に勝野保三郎が潜伏した美濃部又五郎(新蔵)のことだろうか。謙介が報知したのは、安藤正睦に関して生存説と死亡説があるが、「運有之よし」即ち生存している、という事実だったのだろう。住谷はこれを「難信候」と一蹴したのである。住谷は坂下門事件にも深くかかわっていただけに、安藤の生死には並々ならぬ関心があったのである。

 

7 菊池教中「幽囚日記」と謙介

 

 「住谷日記」には、先の43日条に「大謙ゟ廿九日仕出にて云々」とあった以外、以後2ヶ月間謙介の名は見えない。この間を埋めるのが、大橋訥庵の連累者として伝馬町の獄舎に収監されていた宇都宮の豪商佐野屋当主の菊池教中(澹如)の「幽因日記」である。その文久2329日の条に、「昌大野へ行キ玄ヨリノ頼ヲ談スルニ快ク諾シ、且日玄イヨイヨサンニデモナル時ハ少クモ百人差出スヘシト云ル由也、大野殊ノ外雀躍セントテ昌大悦ナリ、東ノコトモ大野ヘ頼置ト也」とある。

 

 獄中日記のため隠語が多く、正確な理解は困難だが、文中「昌」とは大橋訥庵の次兄清水一方(正則)の娘の夫清水昌蔵(正熾)で、「玄」は、日本橋元浜町の佐野屋の番頭大橋玄六と思われる。推測するに、獄中の大橋訥庵が玄六を介して清水昌蔵に依頼したことなのだろう。謙介は清水昌蔵と旧知だったらしい。謙介は清水昌蔵の依頼(内容不明)を快く承諾し、清水昌蔵が愈々「サンニデモナル時ハ少クモ百人差出スヘシ」と言ったところ、謙介が欣喜躍如したというのである。「サン」とは恐らく「斬」のことだろう。訥庵が斬刑になった時ということか。その際は少なくとも100人差し出すという、興味ある記事だがその真相は不明である。

 

 また、謙介が清水昌蔵に頼まれた「東ノコト」とは、宇野東桜の件ではないかと思われる。この月19日付けの訥庵の清水昌蔵宛て獄中書簡に、「東生之事愈怪シクシテ、間諜ニ相違ナキ事ヲ慥ニ御見トメ被成候ハハ棄テテ置べキ者ニ非ズ、捨置テハ大ガイヲ仕出シ可申候故、早々御斬殺可被下候」とある(『大橋訥庵全集』)。前記のように、勝野保三郎が東桜を斬るために江戸を出立したのは、415日のことである。保三郎が謙介の意を受けていたことも十分考えられる。

 

なお、「幽囚日記」329日の欄外に、「淵上郁太郎坂井傳次郎山本實(3人共大橋訥庵の門人)右ノ説ト大野ノ説ヲキキテハ死ストモ可也ト順申シ来レリ、大野トハ龍宮ノ士ニテ兼知ノ者ノ由也、礫邸也」と記されている。「順」とは順蔵、即ち大橋訥庵である。その訥庵に「死ストモ可也」と言わしめた謙介の「説」については不明だが、ここにやや不可解な記述がある。それは「大野トハ龍宮ノ士ニテ云々」とあることである。「龍宮」とは普通幕府(将軍)の隠語であるため、謙介は幕府の士と受け取れる。しかし、「礫邸」即ち水戸藩邸ともあるので矛盾している。なお、大橋訥庵は獄中「龍・龍岡・龍岡屋・玄龍」等の隠名を用いていたが、このことと何か関係あるのだろうか、理解に苦しむが「兼知ノ者ノ由也」とあるから、謙介が菊池教中と既知の仲であったことだけは確かである。

 

「幽囚日記」412日の条には、「朝竹節え之返事認置、堀克ノ書ヲ水人大野え廻シ呉候様ニ頼遣ス」と記されている。「竹節」とは大橋訥庵の長兄清水礫洲(正直)の門人で、礫洲の3男清陰を養子とした人である。また「堀克」とは、初代米国総領事ハリス暗殺を企て、安政4年以来獄舎に在った人で、吉田松陰に「篤厚の奇士」と敬慕(留魂録」等)された現茨城県大子町佐貫出身の郷士堀江芳()之助である。余談だが、この人物については、『在野史論』第17集に拙稿「篤厚の奇士堀江芳之助伝」を掲載しています。

 

「幽囚日記」同月15日条には、「水浪ノ事ハ大野謙助ニ可承ト也」とあり、翌月7日の条には「水ノ大野健助より堀江蛮書ノ受取書来ル、大野健助事隠名吉田洋之助ト昌候間以来其積ニ而往来致度ト申来ノ事」とある。謙介から堀江芳之助へ蛮書(洋書ヵ)の受取書が届いたという。獄中、それも強硬な攘夷論者の堀江が何故蛮書を所持し、何故謙介へこれを渡したのか、これも一切が不明である。翌58日条には、以下のごとき謙介との問答が記されている。

 

「龍宮抔ヘ薩より申来リシハ廿八日也ト龍宮大野云ヘリ、(中略)大野ニ問フ、島津和泉陪臣ノ身トシテ勅命ヲ受テ伏見ニ在留トハ、和泉カ家名ニ取テ無比上規模也、此勢ニテ万一攘夷ノ命ヲ薩ヘ蒙ル時ハ龍宮何ノ面目アリテ世上ノ人ヲ見ンヤト難タル処、サレハ其事ナリ、先日モ申候通今般西州動揺ノ義ニ付テハ一手段アリト申タルコト也、薩ニ先シラレテハ何ノ面目カアラン、故ニ此節天狗党ノ者極密相談策略最中也、然トモ未定論セズ苦心最中也リシトナリ」

 

ここでも「龍宮大野」としている。「トナリ」とあるから、獄外の人物(清水昌蔵ヵ)が謙介との問答を獄中の菊池教中たちに伝えたのだと思われる。ここに「島津和泉」とあるのは、薩摩藩島津茂久の実父久光であることは言うまでもない。その島津久光が、朝廷に「公武合体、皇威振興、幕政変革」を建白するため、1000余の精兵を率いて鹿児島を発したのは文久2316日のことであった。翌月13日に京都伏見の薩摩藩邸に入った久光は、同月16日朝廷に対して幕政改革と、久光の挙兵に期待(誤解)して洛中に蝟集していた尊攘激派浪士たちの取り締まりを建白した。

 

当時の久光は公武合体論者であったが、謙介たちは、外藩の薩摩藩に朝廷から攘夷の勅命が降ることを恐れていたのである。そのために、水戸藩尊攘派の志士たちが極密に相談していた策略がいかなるものかは知る由もない。なお、久光の命により、薩摩藩士同士が血で血を洗う惨劇が繰り広げられたのは、423(寺田屋事変)のことであった。

 

菊池教中の「幽囚日記」に謙介の名が認められるのは、同月21日条の「水ノ大野云、九條防城(坊城)広橋幽閉ノよし」とあるのが最後である。なお、教中は同年7月出獄したが、その数日後に急死した。大橋訥庵もまた同月出獄した後に急死している。幕吏による毒殺だったといわれる。   以降は次稿18の(3)に続きます。

 

18の(1) 知られざる水戸藩郷士大野謙介

1 はじめに

 

水戸藩郷士大野謙介の名を知る人は、おそらく皆無に近いだろう。その大野謙介について、水戸藩徳川斉昭の股肱の臣藤田東湖が茅根伊予之助(為宜)に宛てた、弘化3(1846)97日付け書中に次の詩詞と2首の七言絶句が記されている(高橋多一郎著『遠近橋』・筆者注、以後も括弧内は原注とない限り同じ)

 

予友関生(原注・大野謙介)博愛、嘗欲申理国冤、決然辞家、流離間関、百折不撓、皇々竭力者四年于茲、而我有司探索甚、頃者聞、潜匿於浦賀鎮台、窃賦二絶以寄云

五秋未遇黯雲晴、憐子潜居浦賀営、儻逢外虜窺辺日、莫辱雄藩神武名

東道咽吭天一隅 負山枕海壮規模 海山形勢未親覧 為寄相房要害図

 

 藤田東湖と大野謙介の関係は、管見にしてこの書簡の記事以外に知らない。しかし、ここに「予の友関生」とあるからには、藤田東湖と大野謙介の間に、身分を越えた親交のあったことは疑いないだろう。なお、この2年前の弘化元年5月、徳川斉昭が幕譴を被り、致仕謹慎処分を受けた際(甲辰の国難)側用人藤田東湖も免職・蟄居に処されていた。その後、水戸藩の士民あげての雪冤運動により、同年11月には斉昭の謹慎が解かれたものの、藩政への関与は許されず、東湖ら側近の蟄居処分もそのままであった。そのため、弘化2年以後、水戸士民による斉昭の復権運動が激しさを増していたのである。

 

大野謙介もこの運動の中心人物高橋多一郎(愛諸・元奥右筆)のもと、復権運動に奔走していたことが、先の『遠近橋』の記述で明らかである。その弘化2717日の条に、『夜大野健介(原注・元郡同心、亡命嘆願に出候者)江南へ微行云々』とある。郡奉行配下の同心だった謙介は、藩主斉昭が幕譴を被った年に脱藩し、以来江戸に在って同志と共に、その雪冤のために幕臣や諸藩の有志に周旋し、また江戸での情報を水戸の同志に伝達していたのである。ちなみに、水戸藩で同心とは足軽のことだったらしい(水戸市史』中巻三)

 

 筆者が大野謙介の名を知ったのは、「忘れられた傑士勝野豊作」(『歴史研究』第633号掲載)を纏めるに際してのことであった。当時、その出身地と推定された茨城県茨城町役場に問い合わせたところ、町内大戸の大野千里氏が何かご存知かも知れないとのことであった。直ちに大野氏に問い合わせたところ、「謙介について詳しいことは解らないが、先祖のことでもあり直接話がしたい」とのことであった。しかし、当時大野謙介に関する知識がほとんどなかったことや、その他諸々の事情もあって長くお伺いすることができずにいた。

 

その後7年を経た令和45月某日、思い立って茨城町の大野家をお訪ねしたところ、千里氏はすでに2年前にご逝去されたとのことであった。しかし、ご在宅の奥様が、千里氏が書き残された大野家の略系図や明治2(1869)に撮影された謙介の写真など、貴重な資料をお見せ下さり、大野謙介の人物像の一端を知ることができたのである。ちなみに、その写真の謙介は、両足を広げて身を乗り出すように椅子に座り、右手に握った大刀を太腿上に横たえ、眼光鋭く正面を見つめた顔貌は厳つく、意思の強さと不屈の精神を窺わせるものであった。

 

 千里氏作成の「大野家略系図」によれば、謙介は大野家(豪農、水戸まで他人の土地を踏まずに行けたとの口承がある)29代政幹の次男として文化6(1809・月日不明)に生まれている。同胞は第30代を継いだ雄幹、3男長四郎、4男郡之丞の3人である。なお、『水戸藩死事録』によれば、謙介の甥で大野本家第31代内蔵太は、慶応2(1866)83日に44歳で没している。『水戸幕末風雲録』には、「水戸の獄舎にて死亡したるもの」と記されている。謙介同様に国事に奔走し、非命に斃れた人だったのである。

 

 大野千里氏作成の「大野謙介家略系図」によれば、謙介は宮田氏の女えいと結婚(年月不明)し、友謙と義幹(同じ天保13827日生まれ)2人の子があったとある。しかし、2人共没年も同じ明治38年の同月同日と記されているため、2人は同一人物で、通称が友謙で、義幹は諱だったのではないかと思われる。なお、勝野豊作の曾孫陸軍中将勝野正魚の記した「安政大獄と勝野家」に、安政6(1859)当時大野謙介には、19(天保12年生れとなる)の嗣子義幹及び5歳の次男、それに水戸藩士大金氏に嫁した長女の3人の子があったとある。

 

 この稿では、これまで筆者が確認した大野謙介に関する史料に従い、紙幅の許す限り、年代順にその足跡を紹介することとしたい。なお、前稿「忘れられた傑士勝野豊作」と重複する部分の多くあることをご了承ください。

 

2 甲辰の藩難と謙介(1)

 

 筆者が大野謙介の名を史料上で確認できたのは、『遠近橋』が初見である。これは、高橋多一郎が主君斉昭の雪冤運動の顛末を詳記(弘化2年から嘉永元年迄)したもので、主に弘化4年と翌嘉永元年(1848)に、大野謙介が関興()左衛門、関興衛門、奥興衛門、児島恭助の隠名で頻出している。いくつかの事実を紹介し、謙介の活躍の様子を追ってみよう。まず、謙介の人柄の一端を窺わせる次のようなエピソードから記そう。

 

 弘化2年当時、謙介ら復権活動に携わる水戸脱藩士の江戸の潜伏場所は、小路町裏隼人町の和泉屋という後家持ちの屋敷であった。その家には、主人の妹が子ども1人と共に同居していたが、「或時大謙(原注・大野謙介)越かたの事共互に話合候処、彼婦人頻りに落涙に沈ぬ」、そこで謙介が事情を問い正すと、私の夫は「鍋島内匠頭殿養兄法暁庵と申て庵人と相成り、手習指南致し隠居仕候処、当鍋島家の役人共不心得にて、座敷(牢カ)住居に致され候まま、此子供一人預り姉の所へ下り」暮らすこととなったが、主人の艱難を見るに忍びず、窃かに牢内へ鋸を持ち込んで破牢させ、その後共に隠れ住んでいた。しかし、暫くして主人は探し出されて再び厳重に幽閉され、間もなく牢死してしまい、「今日が四十九日めに御坐候とて、菓子抔備へ回向致し涙に被咽故」謙介も共々貰い泣きした、とある。先の藤田東湖の詩にも「予友関生博愛」とあった通り、謙介は情味豊かな人だったらしい。

 

 『遠近橋』翌弘化36月の条に、「原田兄弟悲嘆に不堪、当有司へ指出申候嘆願書、関(原注・大野謙介)南上に付、福山(原注・阿部正弘)迄為廻申控へ」として、その嘆願書の文面が記されている。この原田兄弟とは、斉昭の天保改革に尽力し、今回の藩難で町奉行職から留守居物頭の閑職に左遷され、この年更に蟄居押込となった原田兵助(成裕)の子である。謙介は兄弟の父宥免のための嘆願書を老中阿部正弘邸に持参したのである。ちなみに、兄弟の兄原田八兵衛成徳は当時18歳、弟次郎成之は16歳であった。

 

 この弘化3年中における大野謙介に関し、木崎好尚著『頼三樹傳』に掲載の頼三樹三郎の年譜に、「水戸藩士大野謙介へ手紙、退寮につき、昨日、門田の手より金壹両を借受けたれど、今壹両借用を頼む事」とあり、本文中に、頼三樹三郎から謙介に宛てた書簡文が記されている。ちなみに、三樹三郎に1両を貸した「門田」とは、福山藩主阿部正弘の侍読門田堯佐(朴斎)である。

 

  「扨昨日罷出で申し候処、御留守故空しく帰り残念、唯御案じ申し上げ候は、一昨日朝、本所へ御越しなされ候故、若し先日敵薬(意味不明)に、御病気に障り申し候様なる儀にはこれなく候や、生儀、廿日夜遂に退寮命ぜられ、誠に当分之物事に困窮仕り候、居所は谷中善光寺坂、尾藤方へ罷り越し申し候筈也。唯最も憂ふる所のものは金。此間頼み置き奉り候儀は如何に候うや、先生の窮も固より存じ居りナガラ、甚だ以て厚面皮と思召され候はんなれども、誠に以て、両圓(原注・二両)バカリ、これなくては、寮中及び諸拂、月俸(原注・月謝)等に相困り申し候、右故、昨日丸山屋敷(原注・門田朴斎方)にて、壹圓借取り申し候。今壹圓之処、何卒御救ひ下され候義相成らず候や、然らずんば頼三木三郎退寮といひ、諸拂致し兼ね候はば、天下の醜体極る。何卒々々宜敷御酌取、御返事待入申し候、頓首不乙」

 

断るまでもないが、頼三樹三郎(鴨涯)は高名な儒者頼山陽()の季子である。三樹三郎は、天保14(1843)江戸に出て昌平黌に入ったが、激烈な尊王思想に加え、豪放な性格と酔狂から、上野寛永寺の石灯籠を蹴倒すなどして、この年の3月昌平黌を逐われたのである。書中「尾藤方」とあるのは、儒者尾藤水竹(髙蔵・寛政三博士の一人尾藤二洲子)で、水竹の母は三樹三郎の祖母(祖父頼春水の妻)の妹であった。当時謙介は尾藤水竹の家に出入りしていたので、三樹三郎とはここで懇意になったと思われる。2人の関係については、これ以外に知るところはない。

 

 『遠近橋』弘化4313日の条に、この夜、江戸から水戸へ戻った大野謙介が、高橋多一郎に江戸の情況を諸事報告した中に、「先達而、御書面(多一郎の)、御贈もの等、早速勝野へ差出申候処、大悦に御座候。別て冑は錆も落着、恰好と申(中略)、安伝へも罷越候処(原注・安藤傳蔵、当時御徒目付、少々学問も有之有志也)(中略)久振故一杯と申、酒杯を被振廻云々」とある。また、同年94日に謙介が水戸に帰着の際の記事には、「鮭魚十八本、玉造村郷医柴田易簡迄付送り、彼より大健舟路にて、8日江戸へ上着、諸藩并聖堂衆、同監の有志へ贈る」、と記されている。

 

同月15日に、謙介が遠藤勝介の伝書を携えて水戸に下った際の報告には、先の鮭魚は「勝野不快の所へ持込候へは大悦にて、早速裁割酒宴を催し、主人(旗本阿部四郎五郎)へも遣申候由、其外遠藤、会津の水野、佐賀の古賀、細川の福田、小川町の大久保、阿部の石川、原弥十郎、安藤傳蔵等」へ即日持参したところ、殊の外の喜びだったとある。斉昭の復権のため、謙介はこうした人たちの間を周旋していたのである。

 

ちなみに、幕府御徒目付安藤伝蔵(龍淵)は、書家としても高名な人である。遠藤勝介(鶴洲)紀州藩儒官、「会津の水野」は会津藩用人水野清兵衛、「佐賀の古賀」は佐賀藩用人古賀太一郎、「細川の福田」は熊本藩江戸留守居役福田源兵衛、「小川町の大久保」は西ノ丸御側衆大久保駿河守忠誨と思われる。また、「阿部の石川」は福山藩儒官石川和助(関藤藤陰)で、原弥十郎幕臣で勤士並寄合から新砲兵頭、奥祐筆組頭となった人である。

 

3 甲辰の藩難と健介(2)

 

 前後するが、『遠近橋』の弘化4518日の記事には、「夜四更、関興左衛門来る。直様模様承り候処」、謙介から次の様な報告があったとある。なお、この記事によれば、謙介は水戸藩を亡命後に、雪冤活動の便宜を得るため、幕臣高島流砲術家の下曽根金三郎(信敦)の門下となっていたのである。

 

その下曽根金三郎に対して謙介が、「私共は仙台者之由申上置候所、一体は水戸のものに御座候所、中納言(斉昭)乍恐御冤罪被為蒙候付、難願に罷出、四年この方御当地に落魄いたし、可然しるへも有之様はゝ嘆願もいたし、万分之一も老大君御免御解の御はしにも可相成哉と、辛苦を厭ひ不申斯の体にて世を過し、先生御門下に罷成、段々赤心をも御打明申上嘆願仕、御手蔓をも相願候積りにて是迄御随身申上、御流儀相学ひ候事に御座候」、と一生懸命になってこれまでの事情を打ち明けたところ、「先生(下曽根金三郎)も流石感激の様子にて、吾子の御心ざし感入申候、我等も仙台のものには無之、水府の方と最初より見受、口には不出罷過候処、今日の御赤心相伺候上は此上共無御心置御相談可申候」と、総て承知の上で、今後の協力を約束してくれたと報告している。

 

下曽根金三郎は、嘉永6年露国使節プチャーチン来航の際、川路聖謨と共に応接にあたった筒井政憲の子で、幕府から高島流砲術指南を許され、後に講武所砲術師範(後に歩兵奉行兼帯)となった人である。松代藩佐久間象山もその門下で、象山もその人物を高く評価しているが、謙介への配慮を見ても高邁な人であったことが窺える。

 

 翌嘉永元年(1848228改元)になると、大野謙介の名は『遠近橋』に更に多出する。この年2月の条に「関幸衛門帰来事情之覚」として、「廿二日朝五ツ過武陽出発、翌廿三日夜五ツ時到着諸有志よりの来書左之通り」とあり、安藤傳蔵と大久保要(土浦藩寺社役、この4月用人に進む)、及び勝野豊作(正道・旗本阿部四郎五郎門客)の高橋多一郎宛て書簡文が記されている。謙介は朝8時過ぎに江戸を出立して、翌日の午後8時に水戸に到着しているが、通常江戸と水戸の間は3日を要したというから、その健脚ぶりが窺える。水野哲太郎(信順・水戸藩)は、高橋多一郎へ宛てた書簡に「謙子健歩、勇力絶倫云々」と記している。また、『遠近橋』中の頭注に、「大謙身の丈六尺余、依而当時呼て大男又は鯨太といふ」とあって、その健脚も然も有りなんと思われる。

 

 なお、謙介の水戸での逗留先については、前年94日の条に、「此節予宅奸目付置候由に相聞候間、(謙介は)天王町増子宅へ逗留さす」とあるので、謙介の妻子は妻の実家か、郷里の大戸村に住んでいたのかも知れない。文字通り妻子を捨てて復権活動に専心していたのである。

 

 同年7月、尼子長三郎(久恒)と鮎沢伊太夫(國維・高橋愛諸弟)が記した「微行事情書」に、14日神田橋の勝野豊作を訪ねて、「興(原注・大野謙介)之儀に付兼々厚く預御世話、謝言之申様も無之所相述申候所、幸右衛門義も此節被探申候、礫川之間諜と思敷もの両人程、打続き拙宅へ罷越、ととけ物有之振に聞繕候よし、興衛門儀も折角是迄相凌、今更捕に就き候ては、是迄いろいろと心配仕候詮も無之候故」、兼ねて懇意の浦賀奉行浅野中務少輔(長祚)の所へ謙介を同道して、事情を話したところ、「浦賀之方も大に受も宜しく、(謙介を)浅野家来分に致し、家老一人呑込居り候約に御座候、幸に家中砲術剣術等未熟に付、ともとも修行為致申度よし云々」とある。

 

謙介はこの当時勝野豊作の屋敷に住居していたのである。その勝野家に、水戸藩邸の間諜らしき者が、謙介への届け物と称して打ち続いて訪れたというのだ。謙介の身柄の保護を引き受けた浅野長祚は、詩文や書画を愛した文人でもあり、勝野や尾藤水竹、藤田東湖とは懇親の仲であった。なお、本稿冒頭の藤田東湖の七絶は、東湖が謙介のこの浦賀への潜居の事実を知って詠んだものである。

 

しかし、929日付け高橋多一郎の大久保要宛て書中に、「興衛門儀、御厚情を以好き所へ潜居罷在候処、来月三旬位之暇に而罷出候由、然処当節用向段々御座候間、可相成者跡三十日計も、貴地へ指置申度奉存候云々」とあるものの、翌月四日付け大久保要の高橋多一郎と石川徳五郎(幹忠)に宛てた書中に、「昨夜は罷帰、関氏御出に而、病後始傾一盃、枕を置初而安眠、()関氏気種の気味云々」とあり、謙介はこの書簡を所持して同月8日には水戸を訪れている。謙介には気腫の持病があったのである。気腫は肺胞(酸素と炭酸ガスを交換する)の組織が壊れて、肺に溜まった空気を押し出せなくなる病気だという。

 

『遠近橋』には、83日付け大久保要の石川徳五郎宛て書中に、「関氏被促、燈火大略云々」とか「関氏之儀、逸々御丁寧蒙御仰却而恐入候」とあり、また、同日付けの謙介が尼子長三郎や高橋多一郎に宛てた書簡文が載っている。さらに、918日付け大久保要の野村彝之介(鼎実)宛て書中には、「浦賀へも急に及書通、関氏迅速御出、尚又微行に付云々」等とあるので、謙介が浦賀奉行浅野長祚に世話になった期間はごく僅かで、浦賀潜居中も従前同様の活動をしていたらしい。主君斉昭の雪冤を焦眉の急務とする謙介は、安閑と浦賀に留まっていることはできなかったのだろう。

 

浦賀潜居後の謙介は、隠名を児島恭介と変えている。『遠近橋』929日の条に、「夜児島恭介(原注・関興衛門事)発足」とあり、また「恭介不快にて、彼是延引之処、余程快く相成候に付、鮭魚松茸肉等為持、今夜三更発足云々」とある。「恭介不快」とあるから、気腫の症状が時々謙介を苦しめたらしい。翌月8日には、謙介は江戸の諸有志の書簡等を携えて水戸に戻り、同月12日未明には野村彝之介と共に水戸を発足し、江戸に戻っている。

 

以上、ここに紹介した『遠近橋』に見える大野謙介の活躍は、ごく一部に過ぎないが、紙幅の関係上これまでとし、以後は次回18(2)に続きます。

17 忘れられた傑士勝野豊作

1 出自と人となり

 

薩摩藩尊王攘夷派の志士有馬新七(正義・括弧内は原注とない限り筆者注記、以下同様)の「都日記」の中に、「此は秋の半過(安政5年)八月廿九日の夜になむありける。竊に日下部氏が(中略)家に至りて宿り、水戸の殿人鮎澤伊太夫、征夷府の家人勝野豊作等の人々も集来て、夜もすがら酒飲みかはし、天下の形勢を深切に物語りしつ、寅の刻比宿を立出でぬ。都に疾く行かまほしく云々」、という一節がある。

 

 ここに名のある日下部氏とは、薩摩藩士日下部伊三治(信政)である。日下部の父連(訥斎)は、もと海江田と称した薩摩藩士で、故あって脱藩して諸国を遊歴の後に水戸領内に住し、郷校益習館の館守を勤めた。伊三冶はここで生まれ、郷校益習館の監事に抜擢されて槍術・学問の教授となり、父没後はその跡を継いで館守となった(瀬谷義彦著『水戸藩郷校の史的研究』)。弘化元年(1844)藩主徳川斉昭が幕譴を蒙ると、伊三治はその雪寃に奔走した。後に幕臣川路聖謨の知遇を得、安政2年(1855)には薩摩藩への復帰を許され、江戸藩邸糾合所の訓導に挙げられていた。

 

また、鮎澤伊太夫(国維)は、大老井伊直弼暗殺の中心人物水戸藩士高橋多一郎(愛諸)実弟で、天保の末年に鮎澤正行の養子となり、藩校弘道館の舎長となった。日下部伊三冶同様に兄と共に烈公斉昭の雪寃運動に奔走し、一時は罰せられたが、この当時は勘定奉行の職にあった。

 

 そして、もう1人の勝野豊作は、祿高2100石余の旗本阿倍四郎五郎家の家臣で、名は正道、字は仁卿、台山と号した。文化5年(1808)、勝野六太夫正弘の子として江戸神田橋外小川町で生まれている。「尾張屋版・江戸切絵図」によれば、阿倍四郎五郎の屋敷が小川町にあるので、勝野家は阿倍家の屋敷の一角にあったと思われる。

 

東京大学史料編纂所所蔵の「勝野正満手記」(正満は豊作次男・以下「手記」という)によれば、勝野家は清和源氏嫡流源頼信の子乙葉三郎頼秀の後裔で、仁科氏を称して信濃で栄えたが、武田晴信によって滅ぼされ、その(仁科盛政か)遺児2人が家臣勝野角左衛門に育てられたという。2人は以後「勝野」を姓として、兄五太夫は井伊家に仕えた。しかし、弟六太夫(正清か)は仕官を好まず、後に阿倍四郎五郎にその武勇を愛されて、その賓客となったという。

 

「手記」には、勝野家は「表面ハ(阿部氏の)家来ト唱ルモ客分ニテ宴席ナト常ニ阿部氏ニ同席シ」、「阿倍氏ノ家政取締向等総テ顧門」であったとある。『井伊家資料幕末風聞探索書』に収載される安政5年中の井伊家徒目付等の探索報告書にも、「豊作先祖と十次郎先祖とは儀契の交り致し候者にて、十次郎先祖被召出候以来客分の扱ひにて家来に相成り、累代弐百石余宛行置」」とか、「阿倍家の事は豊作存意次第之由」と記されている。ここに「十次郎」とあるのは、先代阿倍四郎五郎政成が弘化4年に死去し、継子十次郎がまだ幼かったことによる。また、「手記」によれば、勝野家の祿高は表向き200石のところ、阿倍家知行所中の不毛の地を拓き、実質は300石余りもあったという。

 

勝野豊作の人物風采については、安政の大獄の際の手配書に、「歳五十位、丈高く太ク、形角顔、色白く、赤身有之、眉毛濃く、前髪之跡細く明居候、髪いてふ、江戸言葉、静成方」とある。その人となりについては、茨城県教育会刊行の『勤王実記水戸烈士傳』(以下「水戸烈士傳」という)に、「俊爽にして気慨あり。好んで書を読み、文雅を嗜み、又武技を善くし、最も槍剣に長じ、古侠者の風あり、然れども謙挹にして圭角を露はさず(中略)屡人の困厄を救う」とある。文武二道に長じた人であったのだ。

 

2 その交友

 

 伊勢松坂の国学者世古格太郎の『唱義聞見録』に、「勝野は文学を好み且武備あり、慷慨の士にして、交わり広く有名の士なり。常に水府へ出入し、藤森弘庵日下部等も友たり」とある。また、『水戸烈士傳』にも、「(勝野は)凡そ都下に在り文武を以て名ある者は其の面を知らざる者なく、力士俳優雑技の徒に至るまで相往来して交際頗る広し。鴻儒尾藤髙蔵の如き又能く交誼を厚うす云々」と記されている。

 

ここに名のある藤森弘庵は、当時高名な漢学者である。弘庵は、安政の大獄で拘引された際の幕吏の尋問に対して、「是(勝野)ハ随分心安く仕候云々」と答えている。また尾藤髙蔵とは、寛政三博士の1人尾藤二洲の子である。『義烈傳纂稿』に、「正道又尾藤水竹ト善シ(中略)憂時慨世ノ意ヲ寓シ論甚タ正道ト合ヘリ」とある。『水戸烈士傳』には、「正道春花秋月の賞遊に尾藤を伴ふ、尾藤は赤貧洗うが如く常に衣物を典売し、外出に障碍あるを以て、正道之を償復し相携へて遊ぶを例とす」と、2人の親交の深かったことが記されている。

 

幕臣儒者の乙骨耐軒(彦四郎)の日記の嘉永2年(1849323日の条に、「水竹宅観梅、会者、牧、臺、余、石州、淵、諸木雄」とあり、勝野と尾藤髙蔵との交友の一端が窺える。この日の、尾藤家の観梅客中、「臺」は勝野豊作。日記の主乙骨耐軒は、天保14年(1843)に昌平校助教から甲府徽典館の初代学頭となった人で、弘化2年以来江戸にあった。嘉永6年には再び徽典館の学頭に挙げられている。

 

また「牧」とあるのは、高松藩江戸藩邸学問所の文学兼侍講牧野黙庵(唯助)である。ちなみに、黙庵はこの年7月に54歳で没している。「石州」は石川和助で、後に関藤藤陰と称した福山藩の儒者。「淵」とは幕府の徒目付安藤伝蔵で、龍淵と号し、市河米庵等に学んで隷書を善くした。この安藤伝蔵については、高橋多一郎の『遠近橋』に、「伝蔵は四拾余の人にて、兄の跡を継順養子に仕候。兄の子有之に付、自分は妻を嫁り候得は子供も出来、甥の難儀に相成候事気の毒に存、独りにて被居候処、勝野抔有志の者打寄相進、此頃妻を取り申候との由、一体潔白なる人にて清貧に有之、万事勝野助力を受申候との事」、との逸話が記されている。後に勘定奉行格寄場奉行から信濃国中之条代官、甲斐国市川代官をへて関東代官となった人である。

 

乙骨耐軒の日記にあるもう1人「諸木雄」とは、諸木雄介で、後年勝野の次男保三郎(正満)の烏帽子親となった人である。「手記」には、「福山藩士」と明記されているが、その人物像は管見にして定かではない。なお、乙骨耐軒日記の翌年112日の条に、耐軒がこの日「贈諸木」と題する2詩を詠んだことが記され、そこに「余屡与君及野臺山、西拙脩会飲于湖楼」と詩書されている。「野臺山」は勝野豊作であり、「湖楼」とあるのは、横山湖山の家である。

 

横山湖山は後に姓を小野と改めた。梁川星巌の玉池吟社で塾頭を勤めた人で、詩人として名高く、後に吉田藩の儒官となった。湖山が梁川星巌に宛てた安政5710日付けの書中に、「此の人(勝野)小生には無二の旧心者にて、当時国家の御為心思を焦がし候事、恐らく府下には比類なき忠実の士に御座候」とある。勝野の死後、湖山は「臺山勝野君碣銘」を撰している。しばしば耐軒や勝野と湖山邸を訪れて会飲したもう1人の「西拙脩」とは、幕臣中西忠蔵である。諸木雄介と共に古賀侗庵に学んで詩文を善くした。

 

 勝野豊作は、幕臣で漢学者の林鶴梁(伊太郎)とも昵懇であった。林鶴梁の日記(『鶴梁日記』)に、勝野の名が散見されるが、嘉永3217日の条に、「赴浅野中務少輔招飲、別延也。(中略)水竹不快断り。相客、添川、石川、大要、勝野(下略)」と記されている。浅野中務少輔は、3500石の旗本浅野梅堂で、当時浦賀奉行の任にあった。「添川」は会津人の添川寛平で、安中藩邸学問所の講師であった。「石川」は石川和助、「大要」とは土浦藩主の信任厚い大久保要(親春)である。

 

 「類を以て集まる」という。当時の知名人と勝野との交友を記せば枚挙にいとまがない。「手記」によれば、小笠原敬次郎(後の唐津藩壱岐守長行)が勝野家に出入りしていたことや、勝野が禁獄された高島秋帆の宥免に尽力したことなども確認できる。

 

3 水戸人士との交友

 

 勝野豊作の交友については、『水戸烈士傳』の中に、さらに「藤田虎之介(後誠之進・彪)、安島弥次郎(後帯刀・信立)、高橋多一郎(愛諸)、大野謙介等と親み、就中、大野と刎頸の交をなせり」と記されている。この4人は、いずれも水戸藩士である。

 

 藤田虎之介(東湖)と勝野の関係について、横山湖山が草した「東湖詩鈔」の序文に、「勝仁卿ハ、先生ト交ルコト兄弟ノ如シ」とある。同文中にはまた、「嘗テ仁卿ト先生ヲ礫川ノ邸舎ニ訪フ云々」と、正道と湖山の2人で、小梅の水戸藩邸に藤田虎之介を訪ねた際の逸話が記されている。

 

安島弥次郎は、藩主斉昭の信任厚い家老。その安島が安政5年春、藩主慶篤の継室(広幡基豊の娘)を迎えるために上洛した際、勝野が梁川星巌に安島を紹介した書簡(316日付け)がある。そこには、「此度水戸重臣安島弥太郎姫君御迎として上京披致候に付、老先生拝顔願敷き御座候間、委細横山氏に内話仕り、同人より別封差上申候云々」とある。この安島の上洛に関し、星巌が佐久間象山に宛てた同年45日付け書中に、「安島彌次郎上京、此の人は藤田の跡。彼は戸田の直弟、忠直の人物の由にて、勝野豊作方より老拙に逢ひ候様、書面にて申し越し候。昨日入京」と記されている。これによれば、勝野は佐久間象山とも交友があったらしい。

 

高橋多一郎は、天保12年以来奥右筆の職にあったが、弘化元年、藩主斉昭が藩政改革に関連して幕譴を蒙ると、その寃を雪ぐために奔走した。藤田東湖は「こころのあと」の中で、「雪寃の首功は多一郎に推すべし」と記している。『遠近橋』は、その多一郎が雪寃運動の顛末を記した編著である。その『遠近橋』に、弘化4518関興衛門が勝野の伝言として高橋に話した中に、「不得拝顔して、書通のみ恐入候事候間、近々常陸の地行所へ廻りに出申候間、其節参堂得拝顔候迄、御無沙汰候段云々」とある。この後、勝野が常陸の地行所(筑波山麗)を訪れ、高橋多一郎を訪ねたのだろう。同年11月に高橋が実弟鮎澤伊太夫に宛てた書簡には、「安傳へも勝宅にて対面、酒宴長座」とある。今度は、高橋多一郎が勝野家を訪ねたのである。「安傳」は、安藤傳蔵である。

 

勝野の伝言を高橋多一郎に伝えた関興衛門は、大野健介の変名である。『遠近橋』には、「水戸郷士」或いは「元郡同心」とあり、また、「大野健と云者、嘆願に出て落魄す。旗下の士阿部四郎五郎家長勝野豊作(文武の士也)の家に寓す」とも記されている。さらに、斉昭の雪寃に奔走していた鮎澤伊太夫等の、嘉永元年7月の高橋多一郎宛て報告書に、「神田橋勝豊へ参り(中略)興之儀に付、兼々厚く預御世話、謝言之申様も無之所相述申候」とある。「興」は関興衛門、即ち大野健介である。大野は勝野家を足場に、江戸で斉昭の雪寃運動に奔走していたのである。なお、この人物については、次稿以降で詳述する予定です。

 

 これより以前、弘化33月に頼山陽の子頼三樹三郎が昌平校を退寮となった際、三樹三郎が大野健介に宛てた書簡に、「先生の窮も固より存じ居りナガラ、甚だ以て厚面皮と思し召され候はんなれども、誠に以て両圓バカリ、これなくては寮中及び諸払、月俸等に相困り申し候。(略)今壹圓之処、何卒御救ひ下され候義相成らず候や、何卒何卒宜敷御酌取御返事待入り候」等と記されている。

 

 この頼三樹三郎と勝野の関係について、三樹三郎の門人だった薄井龍之(督太郎・信濃国飯田の人)の著『頼三樹の人物』に、三樹三郎が乱酔して事件を起こし、古賀侗庵の塾を破門された際、勝野家で暫く世話になったことが記されている。また同人の「江東夜話」には、薄龍之が三樹三郎に江戸で兵学を学びたい旨を相談したところ、「身分は低いが学識もあり、交際も広い」勝野が「極懇意である」ので紹介してやろうということで、勝野家で1ヶ月程「大きに深切に世話をして」貰っていたことが記されている。

 

 斉昭の雪寃には、勝野自身も尽力した。『遠近橋』の弘化3313日の条に、「尾藤、阿閣(老中阿部正弘)への呈書有之由、近々廻し呉候様勝野申遣置候」とあるなど、勝野は尾藤髙蔵、安藤伝蔵等と共に雪寃に奔走している外、その縁者である小石川水戸藩邸の奥女中を通じて、藩邸内の事情を諜報していたことが、『遠近橋』に記されている。

 

高橋多一郎の江戸城大奥対策や、水戸士民挙げての激しい運動、そして勝野を始めとする諸有志の熱心な奔走もあって、嘉永23月、斉昭の藩政への復帰が許されている。勝野は後に斉昭から、「盡忠報国」の四字を大書して贈られたという。

 

4 水戸藩への密勅降下運動

 

安政56月、大老井伊直弼は、朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を締結し、同月、徳川慶福の将軍後継を発表、その翌月4日には、違勅条約締結に異議を唱えて不時登城した徳川斉昭尾張・越前・水戸の藩主等を処罰した。

 

違勅条約調印のあった620日付けで、長崎の篆刻師小曾根乾堂が、福井藩橋本左内に宛てた書中に、「仰ぎ願くば、明日七ツ時頃より御降駕被下度、勝野主人も頻りに渇想之様子、一同相楽居申候」(『橋本景岳全集』)と記されている。「勝野主人」とは勝野豊作である。翌月1日付けで勝野が左内に宛てた書中には、「昨朝は寛々得拝顔大慶仕候。其節今夕罷出候様申上置候所、無據差支出来御断申上候、明夕は必ず参上可仕候」とある。左内は勝野との関係について、後日奉行所役人の尋問の際、「当夏此印剋師遠方より豊作方へ来り居候故、夫者ニ印章相頼候ニ付、両度罷越候処、被印剋師より宅ノ主人豊作私へ面会相度趣申聞候由相咄候故」面会したと語っているが、面会の内容は分明でない。

 

安政5710日、勝野は日下部伊三治と共に、安島帯刀や鮎沢伊太夫等に送られて、夜陰に紛れて江戸を発った(『水戸藩史料』等)。朝廷の力を借りて、大老井伊直弼等の奸臣を幕政から除き、斉昭等の復権を図るためであった。「手記」に、「七月十日ノ夜半厳君(豊作)江戸ヲ発シテ潜ニ上京セラレ、予随従ス」とある。勝野は次子保三郎を伴っていたのだ。また「手記」には、その夜中山道の庚申塚に大野健介が待ち受けていて、蕨宿で密談数刻にして別れたとあり、『信濃人物誌』に、「一旦郷里切久保ニ帰リ、祖祖の墓ニ展墓したのち上京した」とある。『賜勅始末』には、「日下部は途に安中に泊し、其の藩の山田三郎に其の意を告げて去る」とあるので、2人は別行動をとったのである。

 

「手記」によれば勝野父子は、同月21日に大阪城代土屋寅直(土浦藩)の公用人大久保要の屋敷に投じ、勝野は「二日を経て」保三郎を大久保家に残して上京。その晩、日下部伊三治も大久保家に至り、即夜上京したとある。

 

上京後の勝野は梁川星巌頼三樹三郎、伊丹蔵人等の協力のもと、青連院宮尊融親王に、また日下部は近衛家や三条家に働き掛けたらしい。82日付けで勝野が青蓮院宮に奉った建言書がある。そこには「奸臣共右様夷狄を信じ、宗室(御三家)を倒し、幼主(慶福)を挟て権を壇にし、言語を塞ぎ上下隔絶徳川家の危難如此は未有之候」、このままでは「必ず内乱を引出し候様可相成」ため、「早々に勅を以被召呼、違勅の奸臣共相除、先づ国家の大害」を除き去るように等、と記されている。

 

水戸藩に密勅が降ったのは、それから6日後のことであった。「手記」によれば、大久保要は保三郎に対して、「厳父等ノ尽力」によって水戸家に密勅が下ったが、「其文意甚タ手ヌルシ、此ノ如クナランニハ勅意ノ貫徹覚束依テハ直ニ上京厳父ニ其旨ヲ伝フ可シト」命じたという。保三郎は直ちに上京したものの、既に勅諚を奉載した鵜飼幸吉と日下部伊三治は離京の後であった。その後勝野父子も京都を発ち、「廿六日戸塚駅ニテ大野氏に出会、同道品川駅(中略)ニ宿シ」、翌日勝野は安藤傳蔵家へ、保三郎は大野家に2泊して帰宅した。

 

5 安政の大獄とその死

 

 有馬新七の『都日記』に、「征夷府の事情を詳に朝廷辺に奏し奉り、彼奸賊を誅戮ひ、夷狄等を払ひ平げ、我中将君斉彬公の御遺志を継奉り、朝廷辺を鎮め奉らむ者ぞと云々」との一節がある。有馬は先の密勅が、水戸藩の因循によって功を奏さなかったため、朝廷に再度の勅諚降下を願うため、上京しようとしていたのである。本稿冒頭の『都日記』の日下部伊三治家での別宴の様子は、この時のことである。勝野父子が江戸に戻った3日後のことであった。有馬新七は上洛後、西郷隆盛や僧月照の支援を得て、先の密勅の写しと三條実万の直書を手に916日帰府した。

 

 有馬新七在京中の97日には、梅田雲浜が就縛された。大獄の始まりであった。有馬離京の前日10日には、難を避ける月照を送って西郷隆盛も京都を去った。有馬新七帰府翌日には、江戸で飯泉喜内が、その翌18日には、京都で鵜飼吉左衛門父子が捕縛された。「手記」に、「爾来(京都から戻って以来)厳父ハ戒心アリ、出入毎ニ必ス予ヲ供ニサレタリ」とある。勝野も身の危険を感じていたのである。

 

 そうした中の同月25日、高橋多一郎から勝野に招きがあった。「手記」によれば、行徳駅(千葉県市川市)で会いたいとのことで、勝野が保三郎を伴ってそこに赴くと、「都合アリテ舟橋ニ越シタレハ直ニ同所ニ来レ、尤帰路モ自ラ護衛ノアルアリ愁ル勿レト、爰ニテ予ハ去リ、厳父ハ舟橋駅ニ一宿シテ」帰ったとある。この時、二2人の間でどの様な会話が交わされたかは不明だが、高橋多一郎が関鉄之助に宛てた翌月2日付けの書中に、「臺山ハ過日同舟之通其後も相携念五予を舟橋駅舎へ逐来リ、一夜寝物語リ血涙紛々酌取の紅袗怪しみ去申候。御一笑〱翌朝をおしみ四時分手此真情御察可被下候、十五年水魚之知己故身ニ引受両三子之処ハ請負居申候」とある。

 

 勝野家に北町奉行所の取方が踏み込んだのは、勝野が舟橋から戻った翌日夕刻のことであった。その同じ27日(有馬新七の日記には23日とある)、日下部伊三治が捕縛された。『唱義聞見録』に、「此日(日下部捕縛の日)勝野豊作来り合せ時事を談じ居ける時なりけれど豊作は幕吏其人を知らざれば免れ、夫より家に帰らす直に出奔しけり。果して豊作の家にも同時に取方向ひけるなり」とある。しかし、「手記」には、捕吏が勝野家に踏み込んだ時勝野は家に在って、長男森之助と保三郎の機転によってその場から逃亡したとある。この時、勝野本人は危難を免れたものの、その後森之助が三宅島に流罪、妻、保三郎と娘の3人が50日間の押込めに処されることとなった。

 

渡辺盛衛著『有馬新七先生傳記及遺稿』に載る有馬の日記断片の、勝野出奔3日後の101日の条に、「越長の返答に依ては九日登城是非(井伊大老を)討取るべし。幸にして万一逃るる路あらば、京都に馳登るべし(中略)且勝野豊作に切手の事(後文散逸)」と記されている。有馬新七たちは、日下部伊三治等が就縛されるに及んで、井伊大老斬奸を決意したのである

 

先の日記はその後が散逸しているため、勝野の大老斬奸計画への係わりの詳細は不明だが、「切手」とは「斬り手」のことだろうか。もっとも、この計画は実行されるには至らなかった。前越前藩主松平慶永が、「自ら潜て都に馳上り、朝廷を奉衛護て奸賊を討つの策を決定」(『都日記』)したからである。有馬はこれに呼応するため、すぐさま旅立ったのである。

 

その後の勝野については、『水戸烈士傳』に「水戸藩邸に入り、大野又は尼子長三郎(恒久)の家に匿る」とある。しかし、勝野は翌安政61019日に病没した。享年は51歳であった。『水戸藩死事録』に、「大野密に屍を水戸大戸村の人大野内蔵太に託し、之を其地に葬らしむ」とある。大野内蔵太は健介の甥で、健介同様に国事に奔走した水戸郷士で、慶応2年(18668月獄死している。その大野家近くの山中に、勝野豊作は手厚く葬られた。後年従四位が追贈されている。

 

※本稿は、『歴史研究』第633号に掲載されたものに一部手を加えています。

 

※追記:勝野豊作の次男保三郎(正満)文久3年の浪士組の上洛時、4番組の平士として参加していたことは「東京都・千葉県域の浪士組参加者たち」で明らかにし、父豊作逃亡に関連して50日の押し込めとなったことも記しました。また、この稿でも、保三郎の母や妹も保三郎と同じ処分を受け、兄森之助(正倫)が三宅島へ流罪となったことは簡単に触れましたが、4人が投獄され尋問を受けた際の悲しい有様が、世古格太郎の「唱義聞見録」に記されているので、以下に転載します。なお、世古格太郎も安政の大獄で投獄された人であることは御承知のとおりです。

 

なお、保之助の兄勝野森之助については、残念ながらその名さえ知る人は皆無に近いと思います。この人については、「義烈傳纂稿」に「勝野森之助傳」があり、その中に「森之助長身白皙與人言語、性情温柔婦女子、而於弓馬鎗刀諸技皆極、其師傳之秘之秘、死時年未三十云々」とあります。鷲津毅堂や坂谷朗盧、小野湖山等とも親しく交際した傑出した人物だったようです。

 

〇「唱義聞見録」中、「勝野森之助」の項より(文中、句読点等を挿入してあります)

・豊作男なり。戊午十月十八日弟保三郎と倶に牢屋敷預となり、其後度々吟味あり。翌己未六月後、予が吟味に出たる時にもた度々其面を見たり。同十月十二日夜吟味の時は、留役浅野彌一郎と互に大声にて争ひけり。此時予も同時に吟味なりければ、目撃した事なりき。同月二十七日父の罪科によりて遠島申渡たり。其罪状は聞留む事を得さりき。此時年三十歳。

 

・弟保三郎同時押込申付られたり二十二歳なり。

 

・豊作妻ちか、娘ゆう、度々評定所にて予其面を見たり。午十月十八日囚につきたる時は、牢屋敷預けとなりけると聞きしに、未六月予と同日評定所に出たる時は、主人阿部十次郎預りなりといへり。十月二十七日両人とも押込申付られ、申渡文中に、夫の危難見捨かたく書付類不残火中致し候儀於人情左も可有筈なれとも云々申付るとあり。予同日の所置なりけれは、傍に有てこれを聞所なり。

 

・此時森之助既に遠島申付られ白洲に引落し腰縄に付て平伏したるを、母妻押込故、椽の上よりこれを見たる事なれは、是生涯の離別実に断腸の思ひなるへしと、予も竊に楸然たり。斯て母子表の間へ退き出て甚た涕泣せしに、殊に妻は誠に声を揚て悲慟し、懐中紙を顔に当てたるに涙にて瀝るはかりにしと。その号哭の声床に響き、頓ち両眼腫れ、明を失ひし如く流るゝ涙実に瀧の如くとなりしなり。是予か預り人辻某対座して見る処を後に語れり。此時母ちか四十九歳、娘ゆり二十四歳なり。

 

〇勝野森之助は文久3年の大赦により江戸に帰ったが、その年の928日に病没した。母ちかも、その前年12月に息子の姿を見ることなく逝去した。文中「母妻押込故」とあるが森之助の妻が押込となったとは聞かない。「妻」は「妹」の誤りか。森之助の妻については、保之助の「手記」中にも見当たらない。

16の4 村上俊五郎について(明治13年~同34年)

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再び『海舟日記』の中の俊五郎の姿を追うこととする。明治13年は11日に「滝村小太郎。村上俊の火鉢五ツ出来につき二十五円遣わす」とのみある。滝村小太郎は、徳川宗家の家夫溝口勝如の配下である。火鉢は徳川宗家からの注文だったのだろうか。火鉢一つ5円。俊五郎は火鉢の製作で糊口をしのいでいたのか、それとも徳川家からの特別の依頼だったのだろうか。この後も徳川宗家へ俊五郎作成の火鉢や家具を納めている事実がある。翌明治14年も「五円、村上へ遣わす」とあるだけであり、明治15年の海舟の日記には俊五郎の名を見ることはない。当時の俊五郎は比較的安定した生活を送っていたのかも知れない。もっとも、海舟と俊五郎の接触が、すべて海舟の日記に記されている分けではないと思われるが。

 

明治16516日になって、「千駄ヶ谷より永井へ拝借の金子、其他三百円差し越す。村上へ遣わし候分入る」とある。徳川宗家から海舟のもとに永井尚志への拝借金等300円が届き、その中には俊五郎に遣わされる金も含まれているというのである。814日には「山岡鉄太郎。村上俊五郎、大久保へ乱行の旨」とある。俊五郎が大久保一翁宅で乱行に及んだことを山岡が海舟に伝えたのである。大久保忠寛は当時元老院議官の職にあった。事件の顛末は一切不明である。なお、日記にはないものの、海舟の「戊辰以来会計荒増」のこの年56日条に「二十円、村上へ遣わす」と記されている。

 

この年、俊五郎と石坂周造は、清河八郎贈位実現のため尽力している。その石坂が右大臣岩倉具視に提出した建言書の文中に、「村上政忠松岡萬ノ如キハ八郎等ト大ニ辛苦ヲ共ニシ天下ノ為メニ身命ヲ抛テ尽力セシモ今ヤ世上ノ一棄物トナリ鬱々トシテ惟性命ヲ存スルノミ」とあって、石坂は当時の俊五郎を「世上の一棄物」と記している。なお、このことは俊五郎自身も左大臣有栖川宮親王に提出した建言書に、「政忠爾来世上ノ一棄物ナリ僅カニ生命ヲ全存シ天下ノ情勢アズカリ知ラザル云々」と自ら記している。特に石坂の活躍を見ているだけに、心中忸怩たる思いがあったのかも知れない(清河八郎記念館で建言書の写所蔵)

 

この年の俊五郎に関しては、山岡鉄太郎の無刀流の門人香川善治郎の「覚書」(森川竜一『無刀流秘録香川善治郎伝』収載)の中に、次のような記事がある。

 

(立切試合を)当日午前六時より開始する事とし、対手は十人にして立替り入代り息の有る限りに攻め懸るなり。甲が労るれば乙懸り、乙の労るれば丙となり、則ち車輪の如く交代に攻め懸るなり。(中略)正午に至って昼飯をなし、暫時休憩して亦以前の如くに始む。互攻の中に午後五時半頃となり定数二百面を仕済ましぬ。(中略)春の日長に十一時間のべつ立切るは難儀にありしなり。適々村上政忠と云ふ人あり。始終傍観し居たり、此人は先生配下の人なり。余が寓所へ帰り休息中へ来りて日く、『本日の数試合は充分ならず、先生の不満とする処なり、明日は一層激励あるべし』と嗾ける。余日く、『宜し明日は充分に奮発すべし』と約したり。然るに亦対手へも右の如く励ましありしなり。(原注・此言は則ち先生より余等を試めさんがためなり)

 

香川善治郎は十人を相手に連日激烈な立切試合を続けたが、香川の決死の覚悟を見届けた山岡からその4日目に成就を告げられたという。俊五郎は春風館道場で香川の立切の一部始終を検証していたらしい。ここには自ら「棄物」と自虐するような姿は見受けられない。道場に立つと人が変わったように精気を取り戻したのかも知れない。

 

香川善治郎の高弟石川龍三の話の中に、香川から聞いたらしく「(俊五郎は)立ち切りの時には何時でもすさまじい勢いで鉄扇で板の間を叩き、<ヤッケロ、殺シテシマへ>と励ましたそうで、それが又立ち切り稽古をするものゝ非常な助けになったそうです」(前著)とある。

なお、村上康正編『山岡鉄太郎先生遺存剣法著』に、香川善治郎の立切試合を証明する「終日立切弐百面試合記録」の検証者として、村上政忠と中村正行の名が記されているという。中村正行(定右衛門)は、浪士組の乱暴人取押役等を勤め、後に山岡の門人になった人である。

 

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明治17年以降の俊五郎については、『海舟日記』以外の資料にはほとんど出会えていないため、以後は「海舟日記」からの抜出に終始することとなる。なお、紙幅上の関係や不明な事実も多いため、説明は最低限とします。

 

明治171229日「村上俊五郎、深夜無心ニ来る。五十円遣わす」。同月30日「滝村小太郎、村上の事、其他相話し置く。(中略)村上より三印(藤三郎)差し越す。一昨夜、暴行。山岡聞込み怒り居り、出入り留めの旨につき手紙差し越す。誤()まり入り候旨申し越す」。

 

明治1811日「溝口勝如、村上の事、金子六十円下され度く、家内へ賞遣わし候旨、内話」。同月26日「村上俊五郎、二十円頂き度く申し出す」。同月28日「永井尚志方にて、村上の事、其他相談」。126日「村上俊五郎、大困難、家、引取られ候に付、今一度救い候様、多五郎其他押込み来る。右の段、溝口、千駄谷へ申し遣わす」。同月7日「溝口勝如、村上一件所置の此段、忠二郎ヲ頼む。同人宅引受けの談判へ遣わす」。同月8日「忠二郎、再び村上の宅引受の談判に遣わす。百五十円代価渡し、談判済む。滝村小太郎、村上宅引取りの金子共三百円持参、預け置く」。

 

この事件は、先に記した俊五郎の妻サワの軽率な行為から、俊五郎の南伊賀町の土地建物が借金の抵当にされたことに関係するのだろう。俊五郎の苦境に対して、徳川宗家が金を出してくれたため、家屋は他人の手に渡らずに済んだのである。そのお礼のためだろうか、「海舟日記」のこの月31日条に、「山岡鉄太郎。村上俊、火鉢、千駄ヶ谷へ差し上げ候につき、二十円遣わす」と記されている。

 

明治19年以後しばらくの間、『海舟日記』中に俊五郎の名をやや多く見るようになる。まず218日「村上俊五郎、第()病死につき、金子の事申し越す、二十円遣わす」。弟は俊五郎と同居していたのだろうか、この人についても一切が不明である。713日「溝口勝如、相原瓦解、幷びに村上へ金子下されの事等、山岡へ談これあり候旨」。同月23日「滝村小太郎、村上借財へ百五十円遣わす儀、談じ置く」。同月25日「昨夕、村上藤井□□(2字不明)へ百五十円遣わす。是、借財嵩み、進退出来難き旨ニ因る」。

 

87日「滝村、千駄ヶ谷へ村上乱入につき呼び候。来り、同道。所分相談」。翌8日「山岡第(原注・弟)子仲田、村上の所分申し附け百円遣わす。仲田へ酒代十円」。同月9日「仲田、村上恐れ入り候旨申し聞く」。翌10日「千駄ケ谷、村上一件、幷びに木下川流行病の事申し遣わし置く。同月12日「千駄ケ谷より村上へ下され候百円、仲田へ十円、且、木下川虎病(コレラ)これあるにつき惣計二百円差し越す」。同月15日「滝村小太郎、村上件落着の顛末、仲田頼みの事」。この月海舟もコレラに感染している。30日の日記に、「夕刻、暴潟、難渋云々」とある。しかし、翌月17日には「遊歩を試む」と記されている。

 

128日「村上、中気の旨、水戸在より申し越し候段、三印藤三郎申し越す」。同月10日「山岡、村上秋田にて中症相発し候につき迎え指し遣わし、金子持たせ遣わし候段、取敢えず同氏へ五十円渡し置く」。同月15日「溝口勝如、村上より千駄ヶ谷へ百円拝借の事(申し)出す。溝口、千駄ヶ谷、山岡へ申し遣わす」。長年の飲酒や不摂生も原因したのだろう、俊五郎が秋田(水戸ヵ)脳出血でたのである。何様あって秋田へ出掛けたのだろうか。俊五郎の症状は幸い軽く済んだらしい。

 

明治20627日「溝口勝如、村上へ十円遣わす」。77日「村上暴行」。同月8日「滝村小太郎、五百円、村上手当、酬恩雑費、木下川普請手当等持参」。同月11日「溝口、村上、昨夜大久保へ話談罷り越し候旨」。同月23日「村上俊、困究につき二十五円遣わす」。99日「溝口勝如、村上へ百五十円下され金持参。右の内、百円、渡し候積り」。1130日「滝村小太郎、村上俊五郎手紙、十円遣わす」。124日「村上俊五郎、身代限りにつき云々申し越す」。同月5日「村上、割腹、生前香奠として百円、別に五十円遣わす」。俊五郎は割腹をちらつかせて(或は割腹したのか)まで金を無心したのである。

 

明治2133日「村上俊五、小言申し聞く、五円遣わす。詫入れ」。714日「村上俊五郎へ三十円遣わす」。そしてこの月19日、長年にわたって俊五郎を庇護してくれた山岡鉄太郎が胃癌のため53歳で死去したのである。この日の「海舟日記」には、「山岡病死ニつき訪う。且、溝口同道、話、葬式の事、徳川家より始末させべしとして千円、幷びに病中見舞い五百円賜わる」とのみ記されている。

 

山岡鉄太郎の葬儀は同月22日に行われた。小倉鉄樹の『おれの師匠』に、「師匠が死ぬと村上は殉死しようとしたが、人に見つかって止められた。然しあぶなくて仕様がないので、師匠の葬儀の日は四谷警察に預けられた」とある。俊五郎は両四肢を捥ぎ取られたような喪失感に襲われていたのかも知れない。

 

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山岡鉄太郎の死後、失意の俊五郎は何処へ行くともなく東京から姿を消した、と諸著に記されている。これは『おれの師匠』に、「山岡があってこそ村上の面目も保たれたが、山岡と離れちゃ、木から落ちた猿同様どうにもならなかった。それで彼は三味線一挺抱へて漂然と一人東京を去った。どこという目的もなく放浪の旅を送りつづけ、人の話では奥州の方へ行ったということだが、どうなったか」、とあることによると思われる。しかし、この『おれの師匠』の記述とは異なり、俊五郎は山岡の死が原因で東京から出奔したという事実はなかったらしい。引き続き『海舟日記』で俊五郎の姿を追って行くこととする。

 

山岡鉄太郎の死去した翌817日には、「村上俊五郎、印たんす代十五円遣わす」とある。96日「村上俊五郎、夜中あバれ込む」。同月17日「十円、村上」。同月28日「中山信安。村上へ月々五円宛増手当の事、其他談」。金額は不明だが、徳川宗家から俊五郎に手当が出ていたのである。ここに出てくる中山信安(修輔)茨城県権令当時の明治912月、地租改正に絡む暴動を鎮圧したが、それが越権であるとして辞職した人である。当時徳川宗家に仕えていたのだろうか。105日「夜中、村上俊五郎荒ハれす(るヵ)」。同月11日「滝村小太郎、村上手当二百円預り置く」。117日「村上俊五郎、救解申し諭し、三百円遣わす」。1231日「村上俊五郎、火鉢十差し越す、金子無心」。海舟は自立支援のために、俊五郎に指物の制作をさせていたのだろうか。

 

明治2236日「村上、三十円」。同月31日「二十五円、村上」。429日「村上、二十円」。83日「溝口勝如、村上俊五の事ニ付き三百円預り。(中略)村上俊五郎、散々不埒、申し聞かせ百円遣わす」」。同月4日「溝口、村上へ今百円遣わし候様申し聞く。村上へ百円渡す」。同月26日「溝口勝如、村上俊五郎、昨朝同家へ参り候旨云々」。同月28日「玉忠。村上俊、大場へ頼み談じ呉れ」。同月31日「富田鉄之助、大場知栄、村上の事ニ付き三十円渡す」。96日「三村一、村上、千駄ヶ谷ニて強情申し聞け候旨」。同月10日「上総武射郡松尾村、今村俵蔵より来翰、村上俊五郎、(上ヵ)総方へ参り候云々申し越す。返書遣わす」。以前にもあったが、こうした来簡がなぜ海舟の元に届くのか。これもまた疑問である。同月25日「村上俊五郎。戸塚文海、釜、水指し遣わす」。同月27日「村上俊へ、大場を介し百円御恵み」。1230日「村上俊五郎、五十円」。

 

明治23114日「大庭、村上、月々の下され物、五円増願い」。226日「村上、五円、その他三円」。同月27日「大庭、村上歎願ニ付き二十円遣わす」。48日「大庭知栄、村上へ二十五円救助渡す」。620日「村上、二十円遣わす」。712日「大庭知栄、村上へ同人より二十円、金子にて此方より渡す」。同月15日「大庭、村上の事件」。817日「大庭知栄、村上の一件、佐藤宇吉の事ニ付き談、頼み」。同月18日「村上へ、大庭より金百円遣す」。

 

104日「村上へ月々渡金差引四十円、大場()知栄持参、預り置く。内五円、同人宅へ渡す」。同月14日「大庭、村上へ百丗円遣わす儀、談決」。同月18日「溝口、村上金子の事談ず」。同月23日「大庭知栄、村上俊五郎へ遣わす百円渡し、取斗り方依頼」。112日「大庭知栄、村上引き、金二十円持参」。同月23日「大庭知栄、村上へ遣わし候百円の受け取り取らさす」。1230日「村上留守宅、十円」。

 

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明治24年と翌25年の勝海舟の日記にも、引き続き俊五郎に関する記事が見える。その明治2427日には、「大庭知栄、村上おか可へ三十円遣わす」とある。「おか可」とは俊五郎の妻(サワヵ)と思われる。同月22日には「大庭、村上俊五郎宅へ月々五円宛、二十円の内にて先借りの事願い出」。328日「大庭、村上へ繰り替え金百五十円渡す」。同月31日「溝口、種々内話、諏訪の事、村上の事其他」。

 

48日「大庭、村上受取り書持参」。712日「大庭、村上へ二十円。大庭へ二十五円下され金相渡す」。916日「大庭知栄、村上、来月の取越し三百円頂き度き旨」。同月18日「大庭知栄、村上俊五郎、来年五月より取越し、百円遣わす」。同月20日「滝村小太郎。村上へ遣わす百円、伜へ百円、二百円持参」。俊五郎には息子がいたのである。『おれの師匠』にも、俊五郎が両国橋上で巡査と乱闘事件を起こした際、俊五郎が「昨夜は妻子に未練があったから心ならずも謝ったが云々」と啖呵を切ったとある。1014日「滝村小太郎。蒔絵箱代二百円受け取る。村上の買揚()物代、酬恩其他の手当二百円預る」。1229日「大庭知栄、村上へ遣わす三十円渡す」。徳川宗家から俊五郎に渡されていたのは、この「酬恩其他の手当」という名目だったらしい。

 

明治2532日「村上俊五郎、三百円御渡し願い」。同月25日「大庭、村上金子の事云々」。同月27日「大庭知栄、村上繰替え願い金、三百円渡す」。87日「溝口勝如、村上、金子の事、山岡直記の事話す」。山岡直記はいうまでもなく山岡鉄太郎の子息である。同月8日「湯浅より村上、火鉢代二百円受け取り、大庭へ渡す」と記されている。

 

これ以後、勝海舟の日記には、翌26719日条に、「村上、三位殿へ献品、大庭ヲ以て歎願ニ付き、金子二百円御遣わし、直ニ大庭ヲ以テ渡し方相頼む。此金子、廿一日、大庭ヲ以て同人へ渡す」、と記されたのを最後に、俊五郎の名は姿を消す。『海舟日記』は、明治31年まで続くが、明治26年以降は月や日の欠落が多く、明治27年の日記の冒頭に「一月より丹毒ニ罹り、臥病数月、人事に惰く筆を執る能わず」、と記されている。海舟が77歳で急逝したのは、それから5年後の明治321月のことであった。

 

俊五郎が東京を出奔したのは明治26年頃だったのではないかと思われる。出奔の理由は定かでない。その出奔先については、『おれの師匠』には、「人の話では奥州の方へ行ったということだが、どうなったか。奥州は彼が清川八郎などと共に尊王攘夷に骨を折った時分の知己もあるので、或いはそれなどを頼って行ったのかも知れない」とある。

 

なお、これ以後の俊五郎に関しては、清河八郎記念館発行の『むすび』の記事以外には確認できていないため、これを引用させていただくこととする。その第109号に、俊五郎は「めぐりめぐって奥州仙台郊外宮城野の根白石の桜田敬助宅に身を寄せた。明治27年、日清戦争が始まると、もともと熱血男児の村上は、村々を馬で駆けめぐり、軍夫募集をやった。勿論酒を飲んでどなり散らすのだから、村上のところにはさっぱり人が集まって来なぃ。そして挙句の果ては落馬して脚を折った」とある。小倉鉄樹の予想は当たっていたのである。

 

明治28年の6月初旬、清河八郎の研究家須田古竜が桜田家を訪ねた際、桜田家に俊五郎が滞在していることを聞き、早速会おうとしたところ敬助から、「アルコール中毒によって廃人同様であるから会っても無駄である」といわれ、会わずに帰ったという。その後、俊五郎は体調が回復したのだろうか、明治31~32年の頃に、酒田の本間家を訪ねたという。『むすび』第109号に次のようにある。

 

(俊五郎は)立派な刀をもって酒田の本間家に行き、御礼であるとか言うのだが、何分酒気をおびているので何のことか訳がわからず、酒田の警察署に通じた。その時須田古竜の弟子佐藤古夢は酒田新聞の記者であったので、このことを知って宿泊している伝馬町三浦旅館に行って面会を求めた。(中略)古夢が清川八郎のことをいうと感激して泣き、どうしてあの時八郎とともに死ななかったかと嘆き、そのまま酔って寝てしまい、話にならなかったという」

 

『むすび』を書いた小山松勝一郎は、俊五郎が刀を持って本間家を訪ねた理由ははっきり解らないとしながらも、「庄内藩に預けられた新徴組の椿佐一郎にでも会いにやって来たとき、本間家と何かあったのではないだろうか。椿佐一郎は村上の養子であった」、と推測されている。

 

その後の俊五郎の去就は不明である。なお、過日浦出卓郎氏から、都立公文書館に明治33年に俊五郎が扶助料(明治17年文官の恩給制度発足=官吏恩給令ヵ)の申請を行った史料が、また、国立公文書館つくば分館には「恩給裁定原書・明治33年文官扶助料」10巻が所蔵されている(恩給請求の際には戸籍の提出が必要)、との貴重な御教示をいただいたが、諸般の事情で未だ御好意に報いることができていない。俊五郎は公務(文官)に就いていたことがあるのだろうか。また、明治33年当時俊五郎は江戸に戻っていたのだろうか、これを確認すれば、新たな事実が明らかにできると思われる。

 

俊五郎がこの世を去ったのは、扶助料を申請したとされる年の翌年、明治34621日であった。享年は68歳。しかし、その死去した場所も、どのような死に方をしたのかも一切が不明である。俊五郎の墓は、東京都台東区谷中の全生庵の山岡鉄太郎の墓前に、石坂周造の墓と並んで立っている。

 

全生庵で俊五郎に関して調査した小山松勝一郎が、昭和3745日付けで須田古龍に宛てた手紙に、「村上俊五郎の墓は昭和129月、村上欣によって建てられた。『村上家之墓』とだけ刻まれてある。過去帳には『村上信吾郎政忠、明治三十四年六月二十一日没』となっていた。『信吾郎』は『俊五郎』の誤り、なお村上家の墓を現在守っている方は、渋谷区代々木西原町九六七光成社内、熊谷啓之という方だとのことでした」(『むすび』第99)、と記されている。また、『新選組大人名事典』に、全生庵の台帳に「村上信五郎政忠鉄舟門下、真光院實性克己大居士」、とあるとある。

 

なお、かつて俊五郎が開墾地主であった現在の御前崎市白羽の新神子地先の路傍に、「開拓総理村上政忠塔」と刻まれた石碑が立っている(写真で確認)。塔の左側面には「真光院実性克己大居士」と、また右側面には「明治三十四年六月に十一日寂、享年七十歳」、裏面には「三十七年祭執行、明治四十一年四月」とあり、その台座には「有志中」として白羽村神子曽根房吉外7人と御前崎村の住人1人、それに建碑発起人白羽村加藤又八と佐倉村塚本豊吉の名が刻まれている。この塔は白羽村西浜田の開墾開始後37年を記念して、村の有志たちが建てたものだが、なぜ俊五郎の墓のような仕様にしたのだろうか。当時はまだ俊五郎たちの乱暴狼藉を記憶している人たちも多く生存していたはずである。或いは、この地に俊五郎を慕う人たちもいたのだろうか。

 

俊五郎に関してはこの他にも多くの疑問が残る。俊五郎は、なぜある時から突然粗暴になり、身を持ち崩すことになったのか(本文で推測はしたが)。また、その俊五郎に対して勝海舟をはじめ、静岡藩(静岡県)の上層部や徳川宗家までが生活の扶助や身辺の面倒まで見たのか。これは、他の困窮する旧幕臣たちに対する支援をはるかに超えているように見える。そして、俊五郎が多くの事件を起こしながらも、見捨てる(勝海舟を含め)ことがなかったのはなぜなのか。残念ながら解明も、推測もできないままこの稿を終わります。

 

※追記・(1)『旧幕府』合本五(第三巻第八号)に載る「駿藩各所分配姓名録」に、府中奉行中台信太郎配下の「市中取締」として村上俊五郎の名が記されている。なお、静岡県史資料編の載る「静岡藩職員録」(明治33月末)に村上俊五郎の名はない。

(2)村上俊五郎が、井上馨邸の宴会で太棹を弾くよう呼ばれた際の事件や、両国橋上での巡査との乱闘事件等、俊五郎に関する乱暴事件等の具体的な記事は、『おれの師匠』に詳しいため本稿ではふれなかった。

16の3 村上俊五郎について (明治2年8月―同12年)

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小松崎古登女が村上家を去って間もなくのことだろうか、明治2(1869)8月、俊五郎は市中取締りを免じられ、新たに金谷原開墾方を命じられた。ちなみに、この前月には新番組(前年224日に精鋭隊として発足し同年929日新番組と改称)頭の中條金之助ら250名に対して牧ヶ原(金谷原)1425町歩の開墾が命じられ(榛原郡茶業史』)、新番組から金谷開墾方と改名されていた。

 

『海舟座談』(勝海舟全集』11)によれば、新番組頭の中條金之助や頭並大草多喜次郎が勝海舟に、隊士たちの処遇について相談したことから、牧之原開墾のことが実現したとされる。これが事実なら、俊五郎に対する開墾方任命もこのことと深く関わっていた可能性がある。もっとも、この年の「海舟日記」に俊五郎の名は記されていない。また、俊五郎への開墾方の任命は中條金之助らのそれとは別のものであった。

 

この金谷開墾方に関して、825日付けで藩庁から俊五郎に対して「右開墾御用被命候、依之市中取締被御免候、尤開墾場所之儀ハ追テ可相達候間、其段可被申渡候事」(静岡県史』資料編)、という任命書が出ている。さらに、その3日後の同月28日付けで、俊五郎に対して、具体的な開墾地を指示する次のような示達があった。

 

「別紙(なし)絵図面遠州城東郡佐倉村地先朱星之内一番空地凡反別二十町歩余之場所開墾被命候間、附属之者之内人選致し召連可申候、尤元領主用達所家屋幷右持場之分、林地共御渡相成候間、可被得其意候、右之通可被申渡候、尤相良勤番組之頭附属ニ被命候間、其も可被申渡候」(静岡県史』資料編)

 

俊五郎に藩庁から下げ渡された開墾地は、遠州城東郡佐倉村(静岡県御前崎市佐倉)24町歩余の荒蕪地であった。中條金之助ら旧新番組士250人が入植した金谷原(牧之原)大地のほぼ最南端に位置し、遠州灘に面した現在の浜岡原子力発電所近くの土地である。俊五郎は60人余の付属の内から20人を人選し、佐倉村地内の旧領主旗本宮城氏の陣屋を拠点として共に開墾に当るよう命じられたのである。相良勤番組頭の附属という立場であった。

 

翌月6日には横須賀勤番組頭(相良勤番組頭ではない)を介し、俊五郎とその付属20人に対して、「御扶持方三人扶持、同付属之者共当分之内年々金九百両御扶持方弐拾人扶持被下候間、其段可被申渡候云々」、と示達された。俊五郎は3人扶持、附属の者20人は各1人扶持で、900百両は開墾のための諸費用ということだろうか。1人扶持は1日玄米約5合、1年間にすると玄米5俵となる。一般の牧之原開墾方には1年間で50両から60両の手当金が支給されたというから(三枝康高著『静岡藩始末』)、俊五郎はこの藩命にも扶持米にも不満があったのかも知れない。もっとも、この扶持米の支給も長くは続かなかったらしい。

 

『浜岡町史』によると、この年124日に池田新田町の最寄総代丸尾文六が島田郡政役所に呼び出され、俊五郎に引き渡すべき佐倉村の空地24町歩の検分の立ち合いと、引き渡しの請書に奥印したとあるから、俊五郎一行の佐倉村移住はこれ以後のことであったと思われる。『広報おまえさき』に、静岡藩中老浅野八次郎が詳細な開墾地の内容を俊五郎に宛てて示した1216日付けの示達書が掲載されている。なお、俊五郎の妻瑞枝が佐倉村へ同行したか否かは定かでない。あるいは、この時瑞枝は勝家へ戻り、俊五郎はこのことにも不満があったのかも知れない。

 

俊五郎たちによる開墾事業の実態は、『白羽町史』に「(俊五郎たちは)村民ヲ強制使役シ或ハ村役人等ニ対シ金穀ヲ強要シ、応ゼザルハ乱暴狼藉ヲ逞フシ人民ヲ威嚇シ民心恟然タリ」、と記されている。自らが鋤や鍬を手にしたのではなく、周辺農民を使役(労賃の有無は不明)して開墾に当らせたのである。俊五郎たちは、騎馬で督促して廻るのが常であったという。もっとも、『島田市史』に収載される「榛葉元三郎手記」に、中條金之助配下の開墾方の中にも、「何兵衛今日は百姓仕事に来いと命じ、若し之に応じない時は投げ飛ばし云々」とあるほか、戸羽山澣の「彰義隊残党遺聞」には、元彰義隊大谷内龍五郎らの金谷開墾方(明治3年に80戸が入植)の中にも「良民を蟲けら同然に見下し」、不満があると「直ぐ大刀を抜いて狼藉を極め」たなどと記されている。

 

『浜岡人物誌』によると、俊五郎たちは豊五郎という博徒上りの男を使い、農民の監督に当らせたり、金策に応じない富家の打ち毀しを行わせたという。静岡藩の旧幕臣たちの動向探索を任とした密偵の記した「密員某派出中日誌之抜萃」(静岡県史』資料編・以下『密員日誌』という)に、豊五郎と思われる人物に関して次のような記事がある。

 

「村上氏ノ付属ニ小嶌周蔵ト云ル者アリ(原注・小島周蔵ハ鬼小島万五郎ト名乗リ、諸所ニ於テ強盗ノ働キニ及ヒタル者ナリ、然ルニ壬申初春頃東京府ヨリ浜松県へ捕亡吏ヲ出張致サセシ時、佐久良邑村上俊五郎宅ニ右周蔵潜伏ノヨシニテ、捕亡吏罷越候得共、村上俊五郎ニ恐レ暫シ猶予ノ内、周蔵ハ脱逃セリ云々)

 

東京府の捕亡吏さえ近付けなかったというのだから、当時の俊五郎が人々からいかに恐れられていたかが明らかである。後述するが、東京府から捕亡吏が派遣された「壬申」は明治5年で、その前年には俊五郎は佐倉村の地を去っている。もっとも、開墾地の地主の地位はそのままだったので、時々監視に戻っていたのだろうか。なお、佐倉村は明治411月以後(静岡県が浜松県と静岡県に分割される)は浜松県の管轄下に置かれていた。

 

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俊五郎の傍若無人な行動は開墾に関してだけではなかった。『静岡県水産誌』には、「明治二年徳川家康()公家臣村上俊五郎仝家開墾方ノ名義ヲ以テ移住シ旧慣ヲ破リ漁業ヲ創始セシモ仝四年解散ス」と記されている。その実態は不明だが、俊五郎たちは地域の掟を無視して漁業まで始めたというのである。

 

この俊五郎の横暴には静岡藩庁も手を焼いていた。「海舟日記」明治31225日条に、「織田(泉之・郡政掛権大参事)。村上俊五郎、金子押貸し妄行の旨、申し聞る」とあり、翌4413日条には「浅野(次郎八・藩庁掛権大参事)、村上乱暴の事内話。切腹或いは入牢然るべしと云う」とある。藩庁上層部では、俊五郎の切腹の話まで出ていたのである。なお、浅野八次郎の職名は明治33月末の「静岡藩職員録」で、前記中老の職は明治22月調べの「静岡藩職員録」による。

 

浜松県庁が俊五郎の乱暴狼藉に手を焼いていた事実に関して、先の「密員日誌」に次のような記事がある。長くなるが次に転載する。なお、文中の「伊庭軍平」とは、心形刀流伊庭家第九代を継いだ秀俊で、当時横須賀勤番組之頭並の職にあった人である。前記のごとく俊五郎の剣術の師でもあった。

 

(明治510)廿一日、密員某浜松県下ニ至リ、貫属伊庭軍平ヲ訪フ(原注・軍平ハ剣術師ニシテ、村上俊五郎ハ軍平ノ門人ナル由)密員某伊庭ニ問テ日、村上俊五郎事ハ先生ノ御預リノヨシ、如何ナル事ニ候ヤ、伊庭ノ日ク、村上ハ暴行無頼ニシテ静岡・浜松両県ニ於テモ彼ヲ制スル者無ク、依テ浜松県ヨリ吾輩ニ村上俊五郎ヲ預リ候様トノ沙汰有之、其節屡辞退致スト雖トモ県庁是ヲ免シ給ハス、然ルニ吾輩既ニ横須賀貫属三四百名ノ取締ヲ致シ居、尚又村上ト我ト住所ノ距離殆五里計モ有之、旁不行届出来候モ難計ニ付、再三相断リ候、然ルニ県庁ヨリ我ト村上トハ師弟ノ事ニ付、是非共支配ノ儀心得呉候様書翰モ来候ニ付、不得止我支配ヲ致居候形ナリ云々」

 

浜松県庁や静岡県庁の職員の中で、俊五郎の暴行無頼を制止出来る者がなかったというのだから、想像を絶する凄まじさである。そのため浜松県庁では、かつての剣術の師であった伊庭軍平に俊五郎の「お預かり」を無理やり押し付けたのである。しかし伊庭は変貌著しい俊五郎への対応には手の施しようがなく、困り果てていたらしい。伊庭軍平の話は更に続いている。

 

「彼者(鬼小島周蔵)何乎悪行有之、既ニ捕縛相成可キ筈ノ処、村上氏ノ宅ニ潜伏中脱走致シ候故、其責村上氏ニ掛リ候、其末県庁ヨリ我等ニ屡御尋有之候ニ付、大ニ心痛致シ候得共、五里モ隔リ居候事故、万事取締不行届ハ勿論ナリ、況ヤ同人付属トカ食客トカ申者ノ儀故、尚更行届不申、然レトモ県庁ヨリ頻リニ迫リ来リ候故、甚困却致シ候、実ニ村上氏ハ暴行無頼言語ニ絶ヘ候者ニ付、如何ナル不都合可有之哉モ難計、元来我等事モ以前ノ通リ剣術師範致シ居候ハゝ、彼レ出入オモ可差留者ニ候得共、当時ハ左モ不相成、無拠預リノ名ニ相成居候江共、実ニ彼レハ虎狼ノ如キ人物ナリト云云」

 

俊五郎たちの暴虐無道に県庁も伊庭軍平も手が出せず、いわば佐倉村は治外法権の地のごとき状態だったらしい。伊庭に「暴行無頼言語ニ絶へ候者」とか「虎狼ノ如キ人物ナリ」と謂わしめるのだから、駿府在住当時以前の俊五郎とは別人となっていたのである。しかし人の評価は様々で、そんな俊五郎を高く評価する者もいたらしい。同じ「密員日誌」の106日の条に次のような記事がある。

 

「密員日、今金谷ケ原ニ天下ノ為メニ身ヲ棄テ忿発スル者有ルヤ如何、西野日、尽ク皆然リ、最モ其内大草滝二郎・今井信郎、此両人抔ハ則チ其人ニ当ル可シ、又佐久良邑住村上俊五郎ハ一層盛ナル人ナリ、密員日、徳川士ノ盛ナルハ多ク登楼ナリ、彼モ亦如斯ノ人ニアラスヤ、西野色ヲ起テ日、何ソ先年ノ幕府人ト今日ノ人トハ大ニ異ナリ、就中村上・今井両人ハ誠ニ万夫不当ノ英雄ナリト云可シ、密員ノ日、然ラハ村上氏ハ此迄何事ヲ成シタルソ、西野日、此迄ノ功山ノ如ク枚挙ニ遑アラス、其内一ヲ挙テ云ンニ、村上氏曾テ浜松県庁ヘ行キ卓権令ヲ挫キ、他ノ官吏ヲ叱唾セシ事抔ハ常人ノ能ハサル所ナリ」

 

西野とは西野三郎といい、「(前略)西野強盗ヲ働キ候御嫌疑相掛リ候節、山岡哲太郎方ヘ行キ依頼セシニ、一議ニモ及ハス中条へ托シ入隊サセテ危急ヲ救ヒタルヨシ」と文中にある。今井信郎は説明するまでもなく、直心影流の免許皆伝で、坂本竜馬の暗殺に関与したとされる人物である。俊五郎が浜松県庁で「卓権令ヲ挫き(中略)官吏を叱唾」した事件については定かでない。なお、西野三郎は密員との話の中で、「我等中条隊ト村上徒トハ規則甚違ヘリ、我隊ハ節倹ヲ守リ時ヲ待ツナリ、村上徒ハ金銀ヲ散スルコト湯水ノ如シ、又一事心ニ適セサルハ直ニ手ヲ下スナリ、然レトモ徳川家ニ尽ス所ハ皆一ナリ」、とも語っている。

 

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「密員日誌」の中に、俊五郎を説諭するためだろうか、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助外67人が佐倉村の俊五郎のもとを訪れたことが次のように記されている。

 

「十一月朔日、密員某遠州西山寺邑ヘ至リ、松岡万付属小林龍蔵・安田友三郎ニ面会ス(原注略)小林龍蔵ノ日、昨年山岡・松岡・中条外六七名、卒然村上俊五郎宅ニ至ル、其節村上ノ日、今日迄空敷年月ヲ送リ候各々ハ何トカ被思召候ヤト、腕ヲ張リ衆人ニ向ツテ大ニ憤激ス、中条答日、胸中然ルカ如シ、乍併暫ク時ヲ待ニ不如ト云、村上又日、然リト雖トモ今日主従共ニ如斯ノ大恥辱ヲ請ケンヲ如何セント遂ニ声高ヲ発シ泣涕止マス云々」

 

中條や山岡を前にして、憤激した俊五郎が「今日迄空敷年月ヲ送リ」とか、現在の境遇を「大恥辱」と訴え、人前を憚らず涙を流して泣き続けたというのである。その大恥辱を耐え忍んできた中條金之助も共有する「暫ク時ヲ待ツ」、その「待ツ」とは何を待つのか。前記の西野三郎の言葉の中にも、「我隊ハ節倹シテ時ヲ待ツナリ」とあった、とすれば、それは金谷原開墾方の旧幕臣たちも共有していたものだったに違いない。

 

勝海舟の「解難録」(勝海舟全集』11)の中の、明治1111月、海舟が金谷開墾方の隊中へ寄せた書に、このことと関係すると思われる事実が記されている。この書は、「慶応四年、官軍、我が江戸に逼る。ついに城地を致して去る。この時、君等予に告げて日く」で始まっている。『海舟座談』によれば、ここにいう「君等」とは精鋭隊幹部の「大草、中條ほか三人の隊長」だったとある。大草多喜次郎や中條金之助たちは、海舟に対して「泣血襟を沾」して次のように訴えたとある。

 

「時世ここに到る、今は何おか述べん。しかりといえども我輩、同志五百名、主家の令を守り、遁走暴挙せず。今日に到りて故国を去る。その心中、いうに忍びざるものあり。同志中、その純を撰抜し、一百名、従容義に就き、西城に入り、屠腹一死をもつて、主家百年の恩に報ぜん。先生、これを許可せよ」

 

その大草や中條の訴えに感動した海舟は、「(前略)今、天下新たに定まり、人心の不測知るべからず。この時にして空死す、何の益かあらん。予、君等をもって駿河久能山に拠らしむべし。もって精を養い、約を守り、一朝不測の変あらば、死をもって時に報ぜば如何。君等よろしく熟慮してもってその去就を決せよ」と告げたところ、「後、君等この事を可とし、ついに去って久能に入る。云々」と記されている。

 

前記のごとく俊五郎の心中には、60人余の配下を擁した市中取締方の解任と、金谷原開墾方の任命に対する強い不満はあったことだろう。しかし、佐倉村への移住と共に人が変わったように兇暴になったのは、「不測の変」の生じる可能性が失われていく現実への絶望感もあったのかも知れない。なお、「密員日誌」の10晦日の次の記事も、或いはこの「一朝不測の変」への備えに関係している可能性がある。

 

「密員某、相良湊ニ至る、当所ニ石屋十蔵ト云ル者アリ、彼者ハ博奕徒ノ頭ニシテ、子

 分凡三百人計モ有之ヨシ、然ルニ村上俊五郎ヨリ右十蔵ヘ扶持米幷子分ノ者へ多分ノ武器ヲモ渡シ有之ヨシ、是村上ノ意中ニ事アル時ハ、必ス彼等ヲ鼓舞スヘキノ手配ト相見へ候ヨシ、最モ十蔵へノ扶持米ハ当時遣ハサザルヨシナリ」

 

話は元に戻り、山岡鉄太郎や中條金之助が佐倉村に俊五郎を訪ねた話の続きになるが、失意で泣涕し続ける俊五郎を山岡鉄太郎が説諭したらしい。先に続けて「密員日誌」に、「時ニ席ヲ改メ奥ノ座敷ニ至リ、門人ヲ退ケ良久敷閑談ニ及ヒ、而テ後チ以前ノ席ニ出テ衆ト共ニ酒宴ス、衆其閑談ノ意ヲ知ラスト云々」、と記されている。俊五郎と山岡の間でどの様な話合いがあったのか、この後の俊五郎の言動を見る限り、俊五郎が山岡の説諭に承服することはなかったと思われる。

 

なお、この山岡や中條、それに松岡萬らの俊五郎の説得に関係するのだろうか、山岡たちが佐倉村を訪れた約1ヵ月後の明治31210日付けと思われる静岡県権大参事大久保一翁の松岡萬宛書簡(静岡県の「ふる里を語る会」発行の『ふる里を語る』)の中に、次のような記載がある。

 

遠州へ大参事殿不日可為相越由に付而者、老婆心聊心配は村上氏には何様の賢者為来而も村上氏の存通には不為行事と存候。兎角世の中はめいめいの思様に不成所に面白みも有之もの故、只々応時自分可致当然之業計に能々安し外之事には口出手出不致方却而皇国之御為と存候。此段御通置何分御頼申候」

 

「村上氏」とは俊五郎のことと思われる。この書簡の末尾には、前文に続いて「忘れめと思う心は迷いにてわすられぬこそまことなりけり」、との歌が記されている。俊五郎の心の一途さを詠んでいるようにも思われるが、筆者の思い過ごしだろうか。この書簡によれば、静岡藩の大参事平岡丹治(丹波)が態々俊五郎に関して、遠州に出張することになっていたらしい。しかし、大久保一翁は、俊五郎の存念は誰にも変えることは出来ないと見越していたのだ。その一方で、世の中は思い通りにならないのだから、外事に関わらず自らの業計に安んじることが国のためであることを、松岡から俊五郎に伝えておくよう依頼したのである。

 

平岡大参事の遠州出張(実現したかどうかは不明)も、大久保一翁の松岡を通しての説諭も効果はなかったのだろう。以後も俊五郎の様子に変化は認められない。なお、話は更に錯綜することとなるが、「密員日誌」に、山岡鉄太郎が当時俊五郎をどう見ていたか等興味ある記事があるので、再び次に転載しておくこととする。

 

「同(10)十日ヨリ十七日迄、密員小野駒方へ滞留、小野駒ハ山岡哲太郎ノ弟ナリ、小野日、兄哲太郎平生云ルニ、村上俊五郎ハ非常有用ノ人ナリ、最刺客抔ニハ奇妙ナリト云云、又日、兄哲太郎宅ニハ先年来嫌疑ヲ請ケ候潜伏人一日モ絶へス、先般村上俊五郎儀ニ付テハ身ニ引請尽力致シ候、此儀ハ紺屋町様(原注・慶喜ノ事ナリ)・勝・大久保モ同様尽力致サレ候ト云云」

 

文中の山岡鉄太郎が「身ニ引請尽力」した先般の「村上俊五郎儀」とは、小島周蔵潜匿の件だろうか。これには前将軍徳川慶喜勝海舟、それに大久保一翁までがその解決(俊五郎の救解か)に力を尽くしたというのだ。驚くほかはない。そうした俊五郎への手厚い保護救済は以後も続くことになる。

 

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俊五郎らによる佐倉村24町歩の開墾は、明治4年初頭には終了したらしい。俊五郎たちはその後、引き続き佐倉村と地続きの白羽村内の海岸砂地の開墾に当った。後出する資料(『広報おまえさき』中)に、「白羽村西浜田開墾地去ル明治二年開墾ノタメ政忠拝借地下附相成、同三年土居新築及、同四年中開墾人曽根弥十郎、朝平豊吉始メ外数名江割下シ永久進退作付可致確約ヲ以テ切開キ云々」と記されている。これによれば、この土地は明治2年には俊五郎に下付されていたのである。

 

この開墾に関しては従来と異なり、地主俊五郎と開墾に当った村民が永久耕作約定を結び、田1反につき米2升、畑1反につき米1升を地主俊五郎に納めるというものであった。しかし、その年の46日には、地元で「村上騒動」とか「蓑冠事件」と呼ばれる事件が発生した。佐倉、白羽両村の村民が島田郡政所に俊五郎一党の横暴を訴え出ようとしたのである。

 

『広報おまえさき』収載の「丸尾家譜」に、「明治四年四月六日、白羽両村ミノカブリ平田村マデ行ク、差シ留メル。村上氏開墾ノ儀ニ付紛糾アリ、予説論ニテ一時鎮マル」と記されている。丸尾文六が村民たちを平田村まで追いかけ、村民たちを引き返させたというのである。だが、同月15日に事件は再び起こった。「丸尾家譜」には「(俊五郎一党の)乱暴入レ通知コレアリ()前川賢三、予同道島田ヨリ白羽ヘ来ル。頭男谷氏外捕亡方、山岡鉄太郎君来ル」とあって、文六たちは今回は島田郡政役所に援けを求めたらしい。

 

村方の主だった人達が、前後策を検討するために白羽村の斉藤家に集まっていたところへ、これを聞き付けた俊五郎が、槍を片手に付属の者たちと共に騎馬で乱入したのである。俊五郎たちはまず村の酒屋へ押し込み、槍で酒樽を突き破る等の狼藉を働いた後、槍を振るって斉藤家に突入したものの、村民たちは逸早く逃げ去って事なきを得たらしい。

 

この事件を聞いて駆け付けた「頭男谷氏」とは、島田最寄の職にあった権小参事男谷勝三郎(剣聖男谷精一郎の孫)と思われる。山岡鉄太郎は当時権大参事で藩政補翼を勤めていた。この事件の話は、小倉鉄樹の『おれの師匠』に面白おかしく記されていて、「この騒ぎは山岡の計らいで村上も無罪で済んだ」とある。なお、この『おれの師匠』に出てくる村民たちを扇動したという儒者については、管見にして地元資料等で確認できていない。また同著には男谷精一郎の名も出てこない。

 

『浜岡町史』には、事件は「関口(隆吉)、佐倉信武(宮ノ池神社神主)の説諭により」一応修まったと記されている。関口隆吉は明治37月に金谷開墾方頭取並となり、その11月には城東郡月岡村に開墾地を賜わっていた。関口隆吉の父隆船は、月岡村に近い佐倉村の池ノ宮神社祠官佐倉氏の生まれで、後に幕臣の関口家を嗣いだ人である。関口隆吉は翌4年冬には新政府から召喚されて出京し、翌年正月には三猪県(現福岡県内)の権参事に任じられ、明治22静岡県知事の時、列車事故による負傷が原因で亡くなっている。佐倉信武は関口隆吉の従弟だろうか。俊五郎はこの人からも多額の借金をしている。

 

俊五郎はこの「村上騒動」の後に佐倉村の地を去り、東京に出ている。山岡鉄太郎らの説得があったのだろう。開墾地の地主という俊五郎の立場はそのままだったので、解任ではなく、開墾地の管理等は、地主の俊五郎に代わって附属の阿部泰一郎らが行ったらしい。なお、この頃には藩からの給付金も途絶え、小作料も微々たるものであったと思われので、附属の者たちの生活費となり、俊五郎の手元には入らなかったのかも知れない。

 

なお、前記伊庭軍平の話(明治510)に、「当節彼ノ者(俊五郎)帰籍、山岡哲太郎方へ行候間、厄介相除候云々」とあり、「海舟日記」のこの年829日条に、「山岡、村上水戸辺脱()中、発狂の議なりと」、また翌月4日の条には「村上悔悟の旨、同人処置相談」と記されているので、俊五郎は8月以前には離村していたらしい。しかし、それも俊五郎にとっては不本意なことだったのかも知れない。前後するが、『浜岡町史』に「村上は佐倉村陣屋に付属する場所に道場を開き、地域の若者に撃剣と柔術、そして学問などを教えた」とある。現にこの道場で学んだという人もあり、俊五郎は迷惑一方の人でもなかったらしい。

 

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東京へ転居した後の俊五郎は、当初は山岡家に厄介になっていたが、その後山岡家の近くの四ッ谷南伊賀町41番地に居を構えている。俊五郎の生活費については小倉鉄樹の『おれの師匠』に、「師匠は村上に月々二十円づつやってゐた云々」とある。これがいつ頃のことだったのかは不明だが、しばらくは山岡の厄介になっていたのだろう。ちなみに、山岡はこの年6月に請われて明治天皇の侍従という職に就いていた。

 

遊興に慣れ、また心中に鬱屈したものを抱える俊五郎は、山岡から貰う金では不足だったのだろうか。『おれの師匠』には、「村上と勝(とは・中略)義兄弟になる訳で、村上が困ると金の無心に勝のところへ絶えず行ったものだ。金をくれぬと、刀を抜いて威かすので、勝も手古摺ってしまった。村上は剣術はうまかったからね、云々」、と記されている。

 

勝海舟が俊五郎に金を与えていたのは事実だが、「海舟日記」を見るとそれは俊五郎に脅迫されて、というような単純な話ではないように思える。その真相に近づくためにも、また俊五郎の荒廃してゆく生の軌跡を知るためにも、以後も「海舟日記」に記される俊五郎に関する記事を見てゆきたい。

 

俊五郎が東京に移住した翌明治594日の「海舟日記」に、勝海舟と山岡が俊五郎の処置について相談したとあることは、すでに記した。翌6417日の「海舟日記」には、「村上俊五郎へ、二百円遣わす」とあり、71日条には「村上、十両遣わす」とある。この年勝海舟は、豪商大黒屋六兵衛から徳川宗家に対して3万両余という大金を献金させている。海舟は以後、この徳川宗家の金を運用して困窮する旧幕臣とその家族の生活扶助を行なっているので、俊五郎への金銭の給付もこの一環だったのかも知れない。

 

大黒屋からの献金のことは「海舟日記」1231日の条に、「溝口へ三万六千両の事、幷に大六の金子猶予の事、幷に書籍館出金の事等談ず。大六より利金納む。一万五千五百両の利子百三十三両、徳川家へ納む云々」と記されている。溝口とは元勘定奉行の溝口勝如(元伊勢守)で、金銭の出納業務はこの溝口を筆頭に、複数の徳川宗家の家扶たちが行っていて、海舟は主に貸付や困窮者への扶助を行なっていたらしい。

 

翌明治715日の「海舟日記」には、「村上酔狂」とあり、同月20日には「参・岩倉殿へ村上其他の事申し上ぐ』とある。「参」は「参内」の意か。太政大臣代理の岩倉具視にまで、一介の俊五郎に関する(酔狂による事件ヵ)話を上げたというのだから、大きな問題だったのだろう。同年47日条には「村上へ十五円」とある。

 

明治8年には、62日条に「兵頭氏、村上書付残り書き。窮乏にて発狂の様察せらるる事」とあるが、金銭の援助の形跡(記事)はない。1229日になって「唯武連より、先年用立て候九十両返し遣わす。内二十両、村上へ遣わす」とある。この年、白羽村の開墾地(俊五郎が地主)が洪水で流出する惨事が発生した。8月早速俊五郎の留守委任代理阿部泰一郎が農民たちを集め、再び開墾に取り掛かることを決議させている。(『広報おまえさき』)

明治931日には「村上、飯代二十両」。1129日「村上へ二十円遣わす」と記された後、同10年、11年に関しては俊五郎に関する記事は全く見いだせない。

 

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明治12年の「海舟日記」は1220日になって、「村上俊五郎分百円」とのみ記されている。この年、俊五郎にとって寝耳に水の不本意この上な事件が発生した。白羽村西浜田の開墾地が他人に売却され、開墾人である農民たちが地主の俊五郎を裁判所に訴え出たのである。俊五郎の代理人阿部泰一郎が、明治1211月付けで静岡区裁判所に提出した「上申書」の中の次ぎの記事で、事件の内容を知ることが出来る。(『広報おまえさき』)

 

「明治六年地券発行之際政忠名義ニテ券証御下渡相成ニ付、開墾人之者江約定証ヲ相渡シ既ニ本年ニ至ル迄懇成冬カシテ為切開分米ヲ以進退作付罷有候処、鈴木廉次郎成者出京金談之末借用金ノ抵当ニ地券預ケ置候、豈図哉該ヲ本年六月中白羽村加藤豊平方江売渡セシ趣開墾人ヨリ出申出ルニ付、廉次郎出願先江出向同人取調候処、該開墾地者申ニ不及政忠ノ所有地不残偽証ヲ拵売地之契約ヲ結ビ有之候云々」

 

鈴木廉次郎が借金の抵当にした土地は、白羽村の開墾地と四ッ谷南伊賀町の俊五郎の宅地であった。この事件は翌13年になるとより複雑になる。奥田喬治なる者が、土地の買取人加藤豊平に有利な俊五郎名の偽証を裁判所に提出したのである。同年1114日、俊五郎自身が白羽村の開墾人曽根弥十郎らに宛てた「証明書」(弁明書)に次のようにある。

 

(前略)明治十二年十二月廿六日附ヲ以テ奥田喬治ナルモノ拙者ノ代理人トシテ白羽村加藤豊平へ当テ回答書ヲ遣シ今回上等裁判所へ一点ノ証ニ上ケ控訴ニ及候趣キ聞及右へ全ク拙者ヨリ奥田喬治ヲ以テ回答書ヲ差出候抔委諾候儀更ニ無之段聢ト証明書差出候処如件」

 

この白羽村開墾地の売却問題は、俊五郎にとって大きな痛手だったと思われる。というのも、この事件に深く関わっていのは、再婚した妻サワとその関係者鈴木廉次郎と奥田喬治だったからである。その事実は、明治14530日付けで、その妻サワが開墾人総代曽根弥十郎等に宛てた「実明書」の次の記事で明らかである。なお、この俊五郎の妻サワについては一切不明だが、年齢はそう若くはなかったらしい。

 

「自分手元ニ於テ幼年ヨリ丹精ヲ以養育ナシタル同県(静岡県)周智郡村松村鈴木廉次郎ナルモノ、明治十二年中カキカラ町示商会所ニ於テ仲買営業店設置致度見込ヲ以テ夫ニ手配シタルニ、今少ク資本金ニ不足スルヲ以テ一時金融ノタメ遠州羽村開墾地券状貸渡呉度段夫政忠ヘ懇談致シ貰度旨自分へ再三相嘆クニ付其情難黙止無余儀夫政忠へ程能ク申ナシ該地ノ券状金融ノタメ廉次郎ヘ貸渡サセ候処、故意の所為ヲ以テ同国白羽村加藤豊平ニ売渡シタルニ付同人ヲ被告トシテ上訴可致手配罷有候内他人ヲシテ軽々ニ相嘆クニ付政忠ニ於テモ容易ナラサル勘弁ヲ以テ其情ヲ斟酌シ前罪ヲ咎メス、(次に続く)

 

該地開墾人共前約ノ通リ永世進退スル処更ニ不都合無之趣ヲ以テ売地ノ承諾ナシタリ、其後明治十三年六月中自分ノ縁故アル静岡県士族奥田喬治罷越申聞ルニ開墾人共ヨリ預リアル処ノ議定書今般ノ買主加藤豊平ニ引渡シ被下度此義後日異論ノ生ズベキ事毫モ無之旨ヲ以テ頼談サルルニ因リ何心ナク夫政忠ヘ一応ノ相談モセス同人任依頼添書を付シ相渡候其添書ハ白紙ニ夫ノ印形アルヲ用ヒ喬治該書ノ日付ヲ明治十二年十二月ト記シタルモ同人取斗ク事故ニ不都合無之義与存居候処豈今回控訴ノ事件起リ夫政忠証明スルニ付尋問被及驚嘆ニ不堪云々」(『広報おまえさき』)

 

『広報おまえさき』には、この裁判の結審は明治17年だと思われるが、資料がないため正確なことは分からないとある。なお、同紙に白羽村開墾地の事件とは別に、俊五郎と曽根弥十郎、朝平豊吉との間で取り交わした年月不明の「約定書」が掲載されている。次にその約定事項の幾つかを記しておこう。

 

「一 四ツ谷四ツ谷伊賀町四十一番地村上政忠所有地静岡県下佐倉村ニ有之地所何

町歩ヲ同県下白羽村曽根弥十郎及同県下佐倉村朝平豊吉両人エ今般示談ノ上売渡スニ契約ス

一 所有主村上政忠於テ該北ヲ抵当トナシ静岡県下佐倉村佐倉信武氏ヨリ借入有之三百円及東京四ッ谷南伊賀町四十一番地此処ヲ抵当トシテ同人ヨリ金九十円三十銭計四百四十円三十銭借入有之負債ヲ買主朝平豊吉曽根弥十郎両人引受返済スルニ付テハ該負債両口ノ利子等悉皆引受債主佐倉信武エ皆返済可致約定ノ事

一 前項両口ノ負債引受償却為シタル外ニ明治八年発行鉄録公債□出額面千円買主朝平豊吉曽根弥十郎両人ヨリ売主村上政忠ニ相渡可申之事(以下略)

 

この「約定書」の別項に、「買主ニ於売主政忠ノ負債ヲ佐倉信武ニ明治十四年三月三十日マデニ返済ナシ売買ヲ決行為ス」とあるので、この「約定書」はこの年初めか、その前年に結ばれていたものと思われる。この文中から、俊五郎が宮ノ池神社神主(関口隆吉の従弟ヵ)から440円余の借金があったことが明らかである(前述)。付属の者たちの生活のためか、遊興のための借金だったかは不明である。いずれにしても、明治17年前後には、俊五郎は総ての開墾地の地主の地位を失ったのかも知れない。妻サワとのその後については定かでない。

 

※以後は次回に続きます。

16の2 村上俊五郎について (文久3年―明治2年)

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文久2(1862)11月末には、幕府による大赦が、その翌月の8日には浪士召募の方針が決定した。そして、同月29日には村上俊五郎ら「虎尾の会」の同志たちが正式に赦免されている。清河八郎が仙台の桜田敬助と戸津宗之進に宛てた翌文久3年正月10日付けの書簡に、「十二月廿二日頃之書通及村上俊五郎ニ御恵投之御状等いさい相達し、躍如拝誦云々」とあるので、俊五郎は文久312月中旬以前には、仙台を出発していたのだろう。

 

俊五郎が出府した後、浪士組結成までの俊五郎の動向は定かでない。「新徴組移動詳細」に「(俊五郎は)石坂と共に浪士募集に尽力した云々」とあるが、石坂周造や池田徳太郎たちのように関東各地を巡回した様子は見られない。おそらく、江戸にあって、剣術関係の知人たちに参加を働きかけていた程度だったのではないだろうか。浪士組の結成後、俊五郎が組頭になった6番組士の柏尾右馬之助(俊五郎と同郷)や下総香取郡植房村の椿佐一郎(後に俊五郎の養子になったとも)は、そうした人達だったのかも知れない。

 

俊五郎は、浪士組では6番組小頭と道中目付(監察・遊軍)を兼任した。なお、1番組小頭根岸友山の記した「御用留」に、上洛途上の215(道中8日目)付けで、取締役から「右者乱暴人取締方申付候間左様可心得候」として、俊五郎を筆頭に7人の浪士の名が記されている。しかし、いずれの浪士組名簿にも乱暴人取締方(狼藉者取押役)は中川一ら4人で、俊五郎の名は記されていない。一度7人が任命され、後に訂正された可能性もある。

 

浪士組の江戸出立(28)以後、この根岸友山の「御用留」の記事以外の資料に俊五郎の名を認めることはできない。もっとも、永倉新八の『新撰組顛末記』には、俊五郎と山南敬助の諍いに関する事件が記されている。それは入京前日の同月22日、俊五郎が3番組小頭山南敬助に対して、「貴公の組は乱暴をしてはなはだ迷惑をいたす。取締らっしゃい」と注意すると、山南が、「なにが乱暴だ。拙者をはずかしめんとしてさようのことを申すのだな」、と烈火のごとく怒り出し、浪士取締の鵜殿鳩翁や取締役山岡鉄太郎が宥めたものの、山南の怒りは収まらなかったというのである。

 

そのため鵜殿と山岡は、「入京後3日目以内に必ず村上を処置する」、と山南に約束してその場を収め、約束通り着京3日目に、山岡が俊五郎の大小を腰から取らせて山南に謝罪させたと記されている。この記事だけで判断する限り、事実であったとは考えられない。そもそも、山南敬助が小頭だった記録は一切ない。不時の小頭の補充(途中交代)は、武田本記(岡田盟跡)、西恭助(芹沢鴨)、武井三郎(宇都宮左衛門代番)等の例のごとく、当初から道中目付(監察)から選任されており、管見ながら平士から小頭に選任された例は認められない。道中目付を遊軍とも称したのはそのためだろう。小頭から平士となった例も知らない。

 

また、玉石混交の浪士の監視は道中目付の本来の任務であり、その任務を果たした者が大小刀を脱して謝罪するなど考えられず(事実無根の理不尽な言掛りなら別だが)、大小を腰にする俊五郎の矜持も赦すはずがない。浪士組で道中目付の任を務めた中村維隆(草野剛三)が、明治36(1903)3月の史談会で、道中目付の役割と当時の状況を次のように語っている。

 

「兎も角烏合の兵が集まっているのだから、一つこれを監察する者がなければならぬ。そこで私共は監察となったのです。そうして山岡などと一緒に居った。所が清川八郎の居所が無い、即ち監察附きの者と一緒に居ったのです。それで私共は清河と一つになって其時分の隊中の処分から或は他藩の者に対する全ての応接から、万事私共がしたのでございます」

 

新撰組始末記』にあるような事件に、取締鵜殿鳩翁自らが差配する前に、清河八郎と山岡鉄太郎、山岡万らが協議して厳正に対処したはずである。そもそも、この事件に限らず、本庄宿大篝火事件や、山岡鉄太郎が傍若無人芹沢鴨に対して、辞職して江戸に帰ると言ったという逸話など、『新撰組顛末記』は浪士組の実態を著しく歪曲しているのではないかと思われる。

 

223日の浪士組の入京後、俊五郎の6番組10人は村会所を宿所とした。在京中の俊五郎の動静を伝える資料も管見にして認められない。ただし、近藤勇新選組結成後の同年526日付けで、郷里の佐藤彦五郎等に宛てた書中に、「右清川八郎、村上俊五郎、石坂周造、木村久之丞、斎藤熊三郎、白井庄兵衛、右六人は洛陽において梟首致す可しと周旋仕候処折悪誅戮を加えず候。右之者儀は道中より拙者共異論御座候」、とある。これを見る限り、近藤一派と俊五郎たちとの間には、上洛途上から諍いのあったことは推測される。

 

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 江戸に戻った後の浪士組は、本所三笠町の旗本小笠原加賀守の空屋敷を屯所とした。もっとも、石坂周造ら26人の浪士は、ここに入らず、馬喰町の羽生屋等3カ所の旅籠に分宿している。三笠町の屋敷が狭隘だったためか(後に飯田町黐木坂の田沼玄蕃頭の空屋敷も屯所となった)、或いは攘夷断行の準備のためか(後に26人全員が評定所に呼び出されている)は定かでない。俊五郎は石坂とは別に、他の浪士たちと共に三笠町の屋敷に入っている。

 

 幕府による攘夷の先鋒たらんと、浪士たちは意気込んで江戸に戻ったものの、幕府にその意志は毛頭なかった。それを察知した清河八郎ら浪士たちは、4月に入ると、独自での攘夷の断行を決意し、軍資金の調達を開始した。俊五郎も率先してその任にあたっている。

 

 俊五郎や石坂たちは、浅草蔵前の札差の家々に押し掛けて多額の軍資金上納を強談したのである。そんな中の同月9日、浪士取締役松岡萬と草野剛蔵が、浪士組士を騙って吉原や深川で無銭飲食等をしていた朽葉新吉と神戸六郎を捕らえ、三笠町の屯所に引き立てて来る事件が生じた。ちなみに、神戸六郎は浪士組士鈴木長蔵が大阪表から募って来た浪人であることは、「141 東北地方の浪士組参加者たち」で紹介した。

 

 2人の処分は協議の結果斬首と決定し、神戸を俊五郎が、朽葉を石坂が斬首して両国橋手前に梟首している。このことは「柚原鑑五郎日記抄」の411(13)日の条に、「(前略)役宅の庭にて両人共斬首す。神戸は村上俊五郎朽葉は石坂宗順きる。此二級両国に梟首す云々」と記されている。なお、この事件について後日評定所で尋問された際のことを、石坂周造が明治3311月の史談会で次のように語っている。

 

  「その両人の梟首した一條に付いてその吟味を受けた。その梟首を致しました者は即ち五百名が皆同意でそれを手討ちにして梟首したに相違ありませぬけれども、自分は一人を殺して五百人の同士が連鎖を受けるようなことがあってはならぬと云う決心でありまして、自分一人でしたということを申立てた。然るに村上新()五郎と云う男は妙な男でありまして、それはお前自分一人でその罪を引き受けて腹を切って潔くしては此の新五郎が立たぬと云って、有体に口羽新吉は新五郎(石坂の誤り)が斬る、神戸六郎は拙者が斬ったと云うことを明らかに言い立てたと云う、マア其罪の譲合いでございます云々」

 

もしこの証言通りなら、石坂の判断力が疑われる。なぜなら、衆人監視の中で行われた斬殺行為に関して、偽証が罷り通ると思ったこと。さらに、俊五郎が石坂の証言を素直に受け入れると思ったことである。そうだとすれば、石坂は日ごろ、俊五郎を武士(百姓上がりだが)としての矜持もなく、廉恥の心もない臆病者と侮っていたことになる。まさに俊五郎がいう通り、俊五郎が面目を失うことは必定である。恐らく、この史談会の石坂の談話は、己の評価を高めるための虚言だったのだろう。

 

 この事件から3日後の413日、幕府は首魁の清河八郎を暗殺すると、翌14日には庄内、白川、小田原等6藩に三笠町の御用屋敷と馬喰町の旅籠を包囲させ、浪士の巨魁の捕縛を命じた。白河藩阿部家資料『公余録』によれば、幕閣から「時宜次第打捨候共不苦」として、村上俊五郎と石坂周造は今日中に召捕るよう、また和田理一郎、藤本昇等4人は「跡にても可然」との指示があったという。浪士組士早川文太郎(暮地義信)の「新徴組略記」に、この時の様子が次のように記されている。

 

  「十四日夜より酒井左衛門尉、松平右京介、相馬安房守、松浦肥前守、松平上総介等数万の兵を以て屯所を取り囲む。翌十五日松平上総介町奉行より、浪士の内村上俊五郎、石坂周造(4人略)等六人御用有之旨被申渡、右諸侯の兵を以て村上俊五郎以下六人を警固して町奉行へ出頭したる処一応尋問の上云々」

 

 石坂周造が史談会で語ったところによれば、包囲に参加した諸藩の中には野戦砲まで配

備していたという。この14日、浪士取締役の山岡鉄太郎や松岡萬も御役御免の上、差控

の処分を受けていた。翌15日夜、村上俊五郎は菰野藩主土方聟千代家(1万石)預けとなり、

以後幕府瓦解の慶応4(1868)までの約5年間、囚禁の生活(預け替えの実態不明)を送る

こととなったのである。

 

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俊五郎も石坂周造と同様、慶応4315日に出獄を許されて山岡鉄太郎に預けられた

と思われる。山岡が俊五郎らの救出に尽力したことが、先の「新徴組略記」に「慶応四年二月、山岡鉄太郎が村上俊五郎外五人等を赦免に相成候様其筋へ請願したる節始めて赦免に相成たり」、とある。山岡が精鋭隊頭歩兵頭格を命じられたのが、この年224日なので、これを機に、獄中にあるかつての同士たちの救解に奔走したのだろう。

 

出獄後の俊五郎について、当時陸軍総裁だった勝海舟の日記(「海舟日記」・『勝海舟全集』)44日の条に、「村上俊五郎来る」とある。何用あって俊五郎が勝海舟を訪ねたのか、また、俊五郎にとってこれが海舟との初対面であったのかどうかは不明である。

 

同月7日の「海舟日記」には、「山岡、村上、秋月、林来訪。山岡より村上已来()生活の談これあり」とあり、翌8日には「河内武彦へ村上、石坂已下生活料百円渡す」と記されている。7日は4人で来訪したらしいが、秋月(会津秋月悌次郎)、林の誰であるかは不明である。河内武彦は田安家の家臣だろうか。

 

また、「海舟日記」の同月25日条に、「山岡来る、市中取締り、石坂、村上の事相談云々」とあり、翌閏43日条には「石坂云う、明日より市中廻り致すべしと云う云々」とあって、俊五郎と石坂が「市在取締頭取」に任ぜられたことは、前稿でも記した。

 

なお、前稿で石坂がその職名にそぐわない脱走旧幕兵の鎮撫に奔走したことを紹介したが、これに関連して、武州比企郡菅谷村(埼玉県嵐山町)の平澤寺第40世奥平栄宜の記した「明治戊辰變見聞録」(『埼玉叢書』第五)に、次のような記述がある。

 

明治元年三月廿八日出京松澤良作に会し石坂周造、村上俊五郎と共に勝安房、山岡鐵太郎氏の命を受け、徳川幕臣誠忠隊三百余名下総流山に屯集せし兵士等を説諭引戻し、麴町山王境内に引集合せしめ彼等の徒を鎮撫せし云々」

 

奥平栄宜が江戸に上って会った松澤良作は、谷中の全生庵所蔵の「尊皇攘夷発起」に「幹事」としてその名があり、早くから清河八郎らと関係していたらしい。文久34月に諸藩預けとなった5人の浪士の1人で、放免後は俊五郎らと行動を共にしていたのである。これにより、俊五郎も石坂周造と共に脱走旧幕兵の鎮撫に当っていたことが明らかである。

 

「海舟日記」でその後の俊五郎の姿を追ってみると、516日条に「多賀上総宅、官兵焼打ち、我が宅へ乱入、刀鑓、雑物を掠脱奪し去る。夕刻、村上俊五郎、田安へ来り、その転末を話す」とある。この前日、上野の彰義隊が新政府軍によって一掃されていた。勝海舟はこの日田安邸に詰めていて、赤坂の私邸は留守であった。そこを200人余りの新政府軍兵士が包囲し、武器や家財までも恣に掠奪して行ったのである。俊五郎はその状況を海舟に伝えに田安邸を訪ねたらしい。

 

この事件から2日後の「海舟日記」同月18日と19日の条に、「山岡宅へ、市中取締り役所等、官兵尋問すと云う」とある。俊五郎たちの市中取締り役所は山岡鉄太郎宅にあったのである。もっとも、旧幕府による江戸市中の治安の維持は51日には解除されていた。これ以後の俊五郎たちの活動の実態は不明である。それから4カ月後の916日の「海舟日記」には、「村上俊五郎、明朝出立につき、一翁殿並びに中老衆へ一書、中條の事、其他の議申し遣わす。並びに宅状、俊へ餞別千疋(二両二分)持たせ遣わす」と記されている。

 

徳川家はこの524日に、田安亀之助(家達)駿河国府中(静岡県静岡市)の城主として70万石を下賜されていた。亀之助は8月には静岡に移住し、前将軍慶喜もその前月には水戸から駿府の宝台院に入っていた。勝海舟自身が江戸を離れて駿府に到着したのは10月の中旬のことであった。もっとも、俊五郎が宅状を託されているから、勝海舟の家族は俊五郎の駿府入り以前に移住していたのである。

 

ちなみに、明治22日調べの「静岡藩職員録」(『同方会誌』)を見ると、家老平岡丹波を筆頭に、中老として浅野次郎八以下6人、次いで「同様(中老)御取扱」大久保一翁(忠寛)、そして幹事役として勝安房と山岡鉄太郎の名がある。山岡鉄太郎の年譜には、「五月二十日付、鐵舟若年寄挌幹事役被申付」とある。

 

俊五郎は駿府移住に当って、勝海舟から大久保一翁や浅野次郎八らへの書簡を託されたのである。中條金之助(景昭・精鋭隊頭)に関しても何か伝言を託されたらしい。なお、精鋭隊は919100人が、同月26日には残りの100人が駿河府中に入っている(静岡県史』通史編・近現代)

 

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俊五郎が勝海舟の妹瑞枝と結婚(正式かどうか不明)したことは、よく知られている。それが江戸在住の時か、駿河移住後のことだったのかは不明である。後に詳述する瑞枝と強矢道場の同門だった小松崎古登女の話には、「(俊五郎は)勝海舟先生、山岡鉄舟先生とは、義兄弟の約を結んでおられました。こんな関係から、海舟先生の妹御瑞枝さんが先生(俊五郎)に再縁することになりました」とある。海舟も2人の関係に異議を挟まなかったらしいので、俊五郎に対しても当時それなりの評価をしていたのかも知れない。

 

ここに記すまでもないが、海舟の妹瑞枝は嘉永5(1852)12月、16歳で松代藩佐久間象山(42)嫁ぎ、元治元年7月に象山が暗殺された後は勝家で生活するようになっていた。当時は順子といい、象山死後に瑞枝と改名したという。宮本伸著『佐久間象山』に、「順子は象山の死の折は二十九歳で、当時江戸の勝家(里帰りヵ)にあったが、悲しみのあまり自害しようとして果たさず、落飾して象山の冥福を祈った。象山の死後、兄海舟とともになにくれとなく格次郎(象山の異腹の子)の面倒をみた云々」とある。海舟が明治維新後も格次郎の面倒をみたことは、「海舟日記」でも確認できる。

 

俊五郎の移住直後の駿府での様子は、三田村鳶魚が、撃剣会に女武者の行装で参加していた前記の旧幕臣の娘小松崎古登女に、友人を介して聞き取った話(三田村鳶魚全集』第15)で知ることができる。貴重な聞き書きなのでここで紹介したい。なお、駿府移住後の俊五郎は、附属の者60人以上を率いて、移住者で混乱する府中市街の治安維持を任としていたらしい。

 

「私(小松崎古登女)は旧幕臣の娘で、十六歳の時から薙刀を水野大炊頭様御師役強矢武甲斎先生につきて修行しました。丁度二十二歳の時が明治の御維新で、()私も親どもと静岡へ参りました。(当時)静岡市中の取締りは、その頃武芸で名高い村上俊五郎先生が勤めておられました。先生は阿波の農家の生まれだったそうですが、稀代の豪傑で()。瑞枝さんと私とともに、強矢先生の門に習いました縁故がりますから、私は静岡へ参りますと、スグ村上先生夫婦を訪ねました」

 

小松崎古登女が村上俊五郎の家を訪ねた正確な時期は不明だが、明治元年(1868)末から翌年早々だったのではないかと思われる。瑞枝と古登女が共に薙刀を学んだ強矢道場とは、甲源一刀流強矢良輔(武甲斎・新宮水野土佐守の指南役)の四谷伝馬町の道場である。良輔の妻佐登子も戸田武甲流薙刀の使い手として多くの門人に教授したというから、2人はこの人から薙刀を学んでいたのかも知れない。古登女の話は続く。

 

(古登女が村上家を訪ねると)、すると先生が非常に喜ばれて、静岡へ初見参のためとして、御自分の部下から四人の勇士を選んで、雷電寺の伝(仏ヵ)殿で試合をやることになりました。その朝、先生は馬に一鞭くれて秋葉ヶ原に陣営を張っている精鋭隊へ行かれ隊長中條金之助、大草多起次郎の諸仁()を同行して来られ、また市中からも見物が見え、随分晴れの試合となりました」

 

俊五郎は古登女を歓待するため、精鋭隊長()の中條金之助や副隊長(頭並)大草多起次郎(高重)を自ら呼びに行き、市民の見物人にも公開しての大々的な試合を行わせたのである。古登女の薙刀の腕は相当のものだったらしく、古登女は「この試合後、私は村上先生の道場で、武芸の指南をしておりました」と語っている。

 

この話で、俊五郎は駿府の屋敷に道場を構え、公務の傍ら剣術を教えていたことを知ることが出来る。なお、古登女の話に、俊五郎夫婦が住んでいた屋敷について、「今の静岡ステーションの付近で、表門は天満町とて、遊郭や料理店のある熱閙な地で、防ぐに地の理はよろしゅうございますが、裏門は一面の水田で、足掛りの悪いといったらない」所であったとある。この俊五郎の屋敷の話に関連して、古登女は俊五郎に関する次のような殺伐とした事件について語っている。

 

「私が静岡へまいる二月前に、村上先生が人を斬ったことがありました。斬られた人はお旗本の歴々で、名は失念しましたが、江戸明け渡しの時、二百人ばかり率いて脱走し、ついに下総の流山で縛について、静岡へ引き渡され、謹慎を命ぜられましたが、この人はどうしても佩刀を渡さぬ、強いて取り上げようとすれば斬って掛る気色であって、町奉行の中台さんも、これには大いに困ったそうです。で、大久保一翁さんと相談して、その説諭方に村上先生に銘()じました」

 

下総流山で縛に就いた脱走隊とは、奥平栄宜の「明治戊辰變見聞録」にあった誠忠隊と思われる。大山柏著『戊辰役戦史』によれば、420日の下総岩井の戦いに敗れた誠忠隊は、22日には岩井の南20キロの流山に落ち延びたて宿営していた。その後、田安家からの招撫の使者の説得等により、25日に千住で田安家の家来や官軍によって武装解除させられている。その後全員が田安家に引き渡されたが、その際の人数が、脱走歩兵(110余人)を合わせて375人であったという。

 

この気骨ある旗本の名は、誠忠隊長の山中孝司のことだろうか。俊五郎にこの旗本の説諭を頼んだ町奉行の中台とは、中台信太郎である。中老格大久保一翁や中台信太郎が、数ある藩士の中で、俊五郎に旗本を説得する力があると判断したことは勿論、流山での田安家の使者に加わっていた経緯もあったのかも知れない。この話は更に続く。

 

(俊五郎はその旗本を)懇々説諭したそうですが、その人は、理の当然に言い詰められ、涙をハラハラ流したと思う一刹那、たちまち抜打ちに先生へ斬り付けた。さすが先生、その刀が鯉口を離れる八寸ばかりの中に、ただ一刀で切り倒しました。斬った手際の鮮やかさ、右の肩から鉄鍔かけて、刀のコミまで真二つになったそうです」

 

古登女の又聞きではあるが、俊五郎の腕の冴えを証明する逸話である。俊五郎には居合の心得もあったのである。この事件の顛末は更に続く。

 

「斬られた人の部下二百人は、銘々謹慎を仰せ付けられ、諸処に預けられておりましたが、謹慎が明けると、この人たちが村上先生へ仕返しをするという大騒ぎになりました。これは私が先生のもとにおるようになってからのことでございます。サア、この評判が大きくなってしまいましたから、中台さんや大久保さんが、万一を計って御心注けるもあるし、先生の屋敷では、部下の士六十人ほど集まって、用心堅固に堅めている始末でした」

 

この騒ぎの中で、俊五郎は古登女を呼んでいうに、「今日のありさまは、貴女の見ておられる通りで、ナカナカ人の大切な娘さんを預かっている場合ではないから、今日にでも親元へ帰るように」、と至急屋敷を出るよう説得したという。

 

しかし古登女は、「こんな危急の場合に臨んで、何と自分1人を安くして、先生を見捨てることができましょう」、と俊五郎の申し出を断り、玄関先を守ること満1か月に及んだが、とうとう切込みはなく、ほどなく浪士たちは静岡から1人もいなくなったという。

 

この騒動は当時関西方面にまで知られたらしく、事件後しばらくして俊五郎の甥が大阪から訪ねてきて、ある時の酒宴の席で、「叔父さんのところでは、この間大騒動があったそうですね、()大阪へんでは大評判でした」と語ったと、古登女の話にある。

 

この事件からしばらくして、古登女は父親が遠州横須賀に屋敷をもらったため、「村上先生御夫婦には深くお礼を申し上げ」、俊五郎の屋敷を後にしたことで、古登女の話は終わっている。

 

 ※以下は次回に続きます。

16の1 村上俊五郎について (天保3年―文久2年)

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明治になってからの村上俊五郎は、虎尾の会や浪士組で共に活躍した石坂周造のような華々しい活躍とは真逆に、自らを「棄物」と自虐するほど堕落した半生を送った。しかし、そうした俊五郎の頽廃には、それなりの理由があったはずである。また、維新後の俊五郎は、元妻瑞枝の兄勝海舟宅へ度々無心に訪れたとされている。しかし、勝海舟の日記(「海舟日記」)をみると、むしろ勝海舟や徳川宗家が俊五郎の生活を支えていたらしい一面も見受けられる。それはなぜなのか。そうした事実の真相に僅かでも近づくため、本稿の後半では、「海舟日記」(勝海舟全集』192021)の中の俊五郎に関する記事をほぼすべて転載するなど、非常に煩雑で冗長なものとなっています。ご了承ください。

 

村上俊五郎については、その出自も、その人となりについてもほとんど明らかにされていない。その生年や通称でさえ異説があるのが実態である。また、『人名事典』等の中には、上州境町(群馬県伊勢崎市・括弧内は「原注」とない限り筆者の注記)出身の村上俊平(蘭方医村上随憲の子・浪士組士)と村上俊五郎を混同しているものさえある。

 

村上俊五郎は諱を政忠といった。通称の俊五郎については、「信五郎あるいは新五郎」ともいったとするものがあるが、管見にして史料上ではそうした事実は確認できない。ただし、『史談会速記録』に収録される石坂周造の明治33(1900)10月の談話には、「村上新五郎」と記されている。しかし、これは速記者が「俊(シュン)」と「新(シン)」を聞き違えたための誤りではないかと思われる。なお、谷中の全生庵の記録に「信吾郎」とあることについては後述する。

 

俊五郎の生年についても、天保3(1832)、同5年、同9年と記すものがある。しかし、文久3(1863)に幕府徴募の浪士組に参加した時の年齢が32(東京大学法学部図書館所蔵の取締役所持と思われる『浪士姓名簿』に)とあるので、逆算すると石坂周造と同じ天保3年の生まれであったこととなる。これは、俊五郎が明治34年に没した時の年齢が68歳であったことからも立証される。

 

その生地は、徳島藩領の阿波国美馬郡貞光村(徳島県美馬郡つるぎ町貞光)である。この貞光村は『日本歴史地名体系』37によれば、吉野川の右岸(南岸)に位置し、その吉野川に貞光川が合流した貞光川左岸に町場が形成された谷口集落である。『蜂須賀治世記』に「少し江町有り、然とも百姓町也」と記され、地内西浦には徳島藩代官所(貞光代官所)が置かれていたという。

 

また、『角川日本地名大事典』36によれば、美馬郡貞光村は「幕末期と推定される美馬郡村高其地控帳(新編美馬郡郷土誌)では家数587、人数2684。米、麦、藍、煙草などが主作物で、特産物に養蜂による蜂蜜があり、近郷山村の産物等や生活必需品を商う在郷町として発展した地であるという。俊五郎はこの地の農民の子(後出資料)として生まれている。なお、浪士組で俊五郎の6番組に属した剣客柏尾右馬之助もこの地の出身者であった。

 

俊五郎の同胞についても定かでないが、後出する資料で弟と甥の存在(いずれも名は不明)が確認できる。実家の農業は兄が継いでいたのではないかと思われる。俊五郎の前職については、徳島新聞に連載された「笑いのふくろ」(横山春陽文)に、「もとは徳島の大工だった」とあるという。俊五郎は指物(板を組み立てて作る家具や器具)を作るのが上手で、彼の作った掛幅を蔵する桐箱などは神品で、清河八郎の実家の斉藤家には、その俊五郎が贈った炯火鉢があったと、清河八郎記念館発行の『むすび』第109号にある。維新後には徳川宗家等へもその製作品を納めている事実が認められる。

 

俊五郎は体重が20(75kg)余りあって、大柄の人だったという。『石坂翁小伝』に、「是れ(俊五郎)は身体も大きく如何にも豪勇らしい」人物であったとある。また、同じ石坂周造が明治3310月の史談会で、「(俊五郎は)骨相といへ人物といへ随分面白い男でございました。それを宿に泊めて置きまして段々試しますると尋常一様の剣客ではございます(いませんヵ)」と語っている。文久元年に虎尾の会の事件で幕府が出した手配書には、「阿波出生の由、村上俊五郎、歳三十余、太り候方、顔丸く、色赤く、眼長く、眉毛濃く」とある。

 

また、俊五郎は阿波の人形浄瑠璃の三味線(太棹)が上手だったが、直情径行の粗暴漢であったとされている。しかし、先の『むすび』第109号に、清川斉藤家に残る清河八郎贈位のための俊五郎自筆の建言書(写し)見るに、その「筆跡は清潔であってしかも遒勁神経がゆきとどいていて実に巧者である云々」とある。晩年は酒に溺れ、身を持ち崩してしまったが、その性格には、外貌やその態度とは異なる繊細なものがあったのかも知れない。

 

俊五郎は剣術が得意で、自ら「文は清河、武は村上」と自賛し、特に居合を得意としたともいう。なお、後出の明治期の資料で、俊五郎が心形刀流伊庭軍兵衛に師事していたことが明らかである。しかし、伊庭家第8代秀業(安政5=1858年死去)の代からの門人だったのか、第9代秀俊の代に入門したのかは不明である。また、俊五郎は長沼流の槍術にも傑出していたという資料もある。

 

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俊五郎がいつ頃江戸に出て、清河八郎と出会ったのかも詳らかではない。清河八郎に対する贈位のため、明治16年に俊五郎が有栖川熾仁親王に上申した建言書に、「政忠不肖ナルモ癸丑、甲寅ノ年ヨリ天下ノ形勢ヲ嘆慨シ、尊攘ノ大義ヲ任トシテ東西ニ奔走縦横シ、東都ニ来ツテ偶山岡鉄太郎、清川八郎(中略)ト相会シ云々」とあるので、ペリー来航による条約調印問題が生じた嘉永6(1853)頃から尊王攘夷活動を行なうようになったらしい。嘉永6年は俊五郎22歳の年である。

 

この建言書の内容からすると、俊五郎は剣術修行ではなく、尊王攘夷活動のために江戸に上って山岡鉄太郎や清河八郎に出会ったらしい。清河八郎との出会いの時期は不明だが、俊五郎が江戸から漫遊の旅に出るに際し、万延元年(10月ヵ)に俊五郎に贈った次のような七言律詩があるから、それ以前に出会ったのである。ちなみに、清河八郎尊王攘夷活動の有効性に目覚めたのは、万延元年3月の桜田門外の変であったというが、俊五郎は武術修行のために清河の文武道場か、お玉が池の玄武館道場に出入りして清河や山岡に出会ったのかも知れない。

 

七尺丈夫三尺剣(七尺の丈夫、三尺の剣)  漫遊到処智勇張(漫遊到る処、智勇を張る)

天下已知日多事(天下已知る、日に多事なるを)  腥膻容易触疆場(腥膻容易に疆場に触る)

多年精神一朝貫(多年の精神一朝に貫く) 殉国英雄須棟梁(殉国の英雄、須く棟梁たるべし)

屈指竊数靖献策(指を屈して竊に数う、靖献の策)  功名誰能伴鷹揚(功名誰か能く鷹揚を伴わん)

 

 この詩からすると、俊五郎の遊歴は武者修行だけでなく尊攘の同志糾合を兼ねたものだったのかも知れない。なお、俊五郎は「下総佐原においてよき後援者を得て道場を開いていた」(小山松勝一郎『清河八郎』等)とするものがあるが、清河八郎の『潜中始末』に「佐原の近きに同志なる村上俊五郎の剣術修行に在らるるを訪う」とある。

 

また、前稿「石坂周造について」でもふれたが、俊五郎が下総神崎の石坂周造家を訪ねて、そこに23カ月(文久元年1月時点で)も滞在していたとあることからも、佐原に道場を開いたいうのは、誤りではないかと思われる。なお、俊五郎が一介の医師石坂周造家をなぜ訪ね、長くそこに留まっていたのかは不明である。

 

 石坂周造が俊五郎を介して、清河八郎と同志となった経緯も前稿で詳記した。なお、石坂の明治3311月の史談会での談話には、「(自分は潜伏中で出府出来ないので)八郎から此方へ来るならば何時でも面会しようと期う云う約束をしまして、それから村上新五郎は江戸へ帰りまして日を約して清河八郎を同道して下総神崎へ参りまして面会」したとある。

 

しかし、清河八郎の『潜中始末』や『潜中紀事』には、清河は水府の天狗連の動静を探るべく正月27日に一僕を伴って江戸を立ち、「幸佐原の近きに」同志の俊五郎が滞在しているので(『潜中始末』)、「神崎村に至り村上政忠に会ふ。我れを見て悦ぶこと甚し」(『潜中紀事』)と記されていて、これからすると清河と石坂の出会いは、石坂の史談会での証言とは異なっていたのである。

 

 清河と俊五郎、それに清河と一夜にして意気投合した石坂の3人は翌日、水府浪士の動静を探るべく潮来に至ったが、その取るに足らざる実態に失望し、その後清河は江戸に戻り、横浜異人街の焼き討ちを画策した。前稿にも記したが、薩摩の同志伊牟田尚平の清河宛て3月晦日付け書簡に、「総州之二豪傑之宜様御致希候」とあるので、俊五郎と石坂の2人は、当時江戸に出ていたのである。

 

 その年の5月、俊五郎たちは、清河を盟主として尊王攘夷党「虎尾の会」を結成し、89月の間に挙兵して、横浜の異人街を焼き打つことを決定した。しかし、清河たちの動静を探索していた幕府は、同月19日に虎尾の会同志たちの捕縛を命じたのであった(東京都千代田区発行『原胤昭旧蔵資料報告書』)。万八楼での書画会の帰路、酩酊した清河が町人を斬殺したのはその翌日のことであった。この日、俊五郎も清河一行の中にいたのである。

 

 事件翌日の夜、俊五郎は清河、安積五郎、伊牟田尚平と共に江戸を脱出し、武州富村の広福寺に潜伏しようとしたものの、捕吏の執拗な追跡にあい、24日夜4人は奥富村を脱出して再び江戸に潜入した。その後4人は在府同志の様子を探るため、昌平橋河畔の大阪屋(同志笠井伊蔵の叔母の家)で落ち合うことを約して二手に分かれた。

 

しかし、江戸市中の思いの外の厳戒状態に身の危険を感じた俊五郎と伊牟田の2人は、大阪屋で清河たちを待つことなく江戸を脱出した。後に俊五郎と行動を共にした伊牟田尚平は清河に対して、江戸脱出後の行動を次のように語っている(『潜中始末』)

 

  「東都にて我等(清河と安積)と別れしより、処々相尋ね、夫より山岡(鉄太郎)に到り、(大阪屋に立ち寄った後)終に水戸に走る。中川関も恙なくして、神崎村に到るに昨日頃、石坂宗順は召捕へらると云ふ。夫より直ちに水府に入るに、あと付けし者ありしと云ふ。彼書状を以て磯浜古渡理兵衛に到る。折悪しく類焼にて近所の茶店に宿せしむ。()、寛三郎方(安積艮斎塾で清河と同門菊池寛三郎)に到るに、よく受込み、夫より(水戸藩)有志連頭取住谷寅之助方に到るに、始めは疑ひしに説弁の上、大いに相信じ、然らば御世話すべし()、夫より住谷の世話にて、所々にて潜伏いたし云々」

 

住谷寅之助の日記(「住谷信順日記」・東京大学史料編纂所所蔵)文久元年6月朔日の条に、「両人初テ来訪、サツ伊牟田尚平・阿人村上俊五郎」とあって、さらに「右両人ゟ所聞」として、清河ら虎尾の会同志たちの事件後の様子が聞き書きされている。また、最後に「下野呼寄セ相談ノ上磯浜ヘ遣ス」とある。「下野」とは藩校弘道館教授(彰考館編修兼務)で、元治甲子の擾乱に関係して慶応元年(1865)に斬罪となった下野隼次郎である。住谷とは同志であった。

 

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この年(文久元年)8月末、清河八郎が仙台に潜伏していることを知った伊牟田は、1人で仙台に潜行し、清河、安積と共に、関西で挙兵するために京都に上った。清河たちが仙台に潜伏していることを知った俊五郎も、すぐさま駆け付けたが、3人は既に京都に向けて出発した後であった。以後、俊五郎は桜田良佐・敬助父子の世話になっていたが、その後清河たちが京都で挙兵の準備中であることを知り、急ぎ京都へ向け仙台を出立した。

 

その俊五郎が東海道関宿に到った時、寺田屋事件で挙兵に失敗して東帰途中の清河と出会ったのである。この出会いには、清河が伊勢山田の山田大路親彦家に立ち寄った際、俊五郎が清河を追って上洛途上にあることを聞き、清河がすぐさま引き返して関宿で俊五郎に追い付くことができたという経緯があった。

 

清河の『潜中紀事』に、清河が俊五郎に邂逅した時の心境が、「関駅に至るころおい、忽ち俊五郎に遇いて、喜び天外に出づ」とある。また同書には、清河を追って俊五郎が上洛するに至るまでの経緯が、俊五郎の言葉として次のように記されている。

 

「去秋(文久元年秋)、子(清河)の仙台に在るを聞き、忽ち跡を追い至る。既に至れども、子と尚平、五郎と既に已に洛に上るに、三日後る。故を以って遂に仙府の桜田氏に潜むに、頗る慇懃を忝くす。春来、子の書牘至りて、仙府大いに振へり、(中略)将に勤王を以って師を起こさんとす。更に宗之進(戸津氏)、敬助の両士をして啓行して京師の動静を伺はしめんと欲す。僕は則ち挺進先づ至るのみ云々」

 

そのため、俊五郎と清河は京都に入り、仙台藩邸を訪ねたが、戸津、桜田両士は未だ上洛していなかった。その後、俊五郎は大阪で清河から、「足下既に期会に後れ、以て名を為すべからず、足下若し心有らば、倶に與に奸賊島田氏を屠り、以て東行の贐(はなむけ)と為せん」と勧められて、清河と共に再び京都に引き返したのであった。

 

2人は619日夕方、九条家の諸太夫島田左近宅を襲ったものの、島田はいち早く逃走して暗殺は未遂に終わったが、襲撃の証拠とするため島田左近の刀を奪って出京した。2人は同月22日和歌山に出て高野山に上り、吉野を巡って、29日伊勢山田大路親彦家を訪ね(俊五郎も清河も上洛時にも立ち寄っている)、ここに10日間留まっている。

 

翌月10日船で吉田に到り、駿府に留まること4日、同月20日に2人は富士山に登って3合目に宿泊し、翌早朝山頂に至って鮮麗な御来光を仰いでいる。その後の2人の足取りは『潜中紀事』等に詳しいので紙幅の関係で省略する。

 

824日江戸に潜入したものの、指名手配中の2人はそこに長く留まることはできず、27日に水戸を目指した。結城から野田を経て、まず那珂郡上小瀬村の庄屋井樋政之允を訪ねている。『潜中紀事』に、「里正井樋政之允を訪ぬ、村上政忠嘗って潜みし所なり、厚く政忠を潜ましめ、相去ると雖ども猶ほ能く之を思慕す」とある。俊五郎を思慕したというからには、俊五郎には人に好感を与える何かがあったのである。2人は漁猟をするなどして井樋家には7日間滞在している。

 

この井樋家滞在中、清河は俊五郎に、仙台の有志と結んで横浜の夷虜を打ち払い、天下の義気を激動する策を提案したところ、俊五郎は奮い立って、「固より願ふ所なるのみ、唯だ夫れ府下の有志、屡禍変に困しむ、外に奮ふと雖ども、内に猶ほ姑息を抱き、相応ずる所以に非ざるなり。若かし、此の間義民を募るに更に金孫(金子孫二郎)の遺子勇次郎なる者を勧め、則ち義民に足すのみ」、と応じたと『潜中紀事』にある。

 

俊五郎は無学な粗暴漢のように扱われているが、現状に対する情勢判断とその打開方針も抱懐していたらしい。この後、清河は幕府に浪士徴募の献策を決意し、同月末には「幕府の執事に上る書」を作成して幕閣に上申している。その後の浪士徴募に際しても、主に義民の募集が中心となっている事実を考えると、浪士組の結成過程で、俊五郎の構想が清河八郎に何ほどかの影響を与えていたのかも知れない。

 

814日、水戸城下を発足する2人を住谷寅之助が送って共に祝町の相模屋彦兵衛方に泊まっている。その翌日早朝に、江口忠八という人物が2人を訪ねて来たことが、『潜中紀事』に次のように記されている。

 

 「寅の刻(午前4時頃)、江口忠八忽ち来たる。尋ぬる者小野村の義民にて、嘗つて佐野竹之助を潜せし者なり。眞風(伊牟田尚平)、政忠等、皆な之れ潜ましめ、頗る我が党の者を欽慕す。故に夜を犯して来訪するなり。夫れ誠実の気言面に見はれ、覚えず感涙を促す云々」

 

この江口忠八と清河は初対面で、俊五郎がかつて世話になった人である。先の井樋政之允といい、この江口忠八といい、俊五郎に対する欽慕の念には相当なものがあったのだろう。『水戸藩死事録』に、江口忠八に関して「茨城郡下大野村農、慶応元年正月二日死ス、年四十二。一ニ飯野ニ病死ス」とのみ記されている。まさに、江口忠八は俊五郎がいう「義民」の1人だったのである。

 

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俊五郎と清河八郎820日仙台に向けて水戸を出発し、河原村の潮湯で清河は幕閣への上書を書き上げ、同月24日田尻浜の空窪寺に至ってこれを住谷寅之助に送った。

なお、『潜中紀事』に、空窪寺について「伊牟田眞風、来たり潜む所なり」とあり、伊牟田が1人で仙台の清河を訪ねている事実からも(前記)、水戸に潜伏当時の俊五郎と伊牟田は、別行動をとっていて、お互いの所在は知らなかったらしい。俊五郎はこの空窪寺滞在中に、清河八郎の父斉藤治兵衛に宛てて、次のような書簡を送っている。

 

「一翰呈上仕候。秋冷相増候得共、先以其御地御家様、益々御勇健被為入、恐悦至極奉存候。先年は罷出種々御馳走相成、千萬忝奉多謝候。近頃御心配之儀奉察入候、且御賢息様此度之儀者、天下之大功相勤、諸国え高名発、実にお手柄之御事に候。御身上者野拙守護仕、何方迄も同道致、一死を共に可仕心底に而御座候。此段御安意可被下候。将又此度処々徘徊仕、同志之輩にも会合致、実否承候処、御府内之運(連ヵ)中、近々赦免之風説有之候。御安堵被下御待可被成候。且此廉品御笑納可被下候得者忝奉存候。先者差急大略失敬、平に御緩免可被下候、恐惶謹言。

 閏八月廿四日出        村上俊五郎政忠   斎藤治兵衛様

 

 この書簡は、短い文章の中に必要事項を簡明に記していて、俊五郎が決して無学目盲の徒でなかったことが明らかである。また、子を気遣う親の心に共感して安心させようとする配慮もあり、意外に繊細な心の持主だったのかも知れない。なお、この書簡で、俊五郎は仙台に潜伏中に、清河八郎の生家を訪ねていたことも確認できる。

 

 また、手紙を添えて送った「廉品」は、恐らく俊五郎製作の品と思われる。ちなみに、翌月10日に清河が父斎藤治兵衛に宛てた書中にも、「爐壹ツ差上候、此は村上のこしらへ候品、誠に上手也」とある。その品は清河も絶賛するほどの出来栄えだったのである。この清河の書簡にはさらに、「村上は京師より始終同道に及び候間、猶更丈夫也」とも記されている。

 

 俊五郎たちは閏826日に空窪寺を出立し、相馬中村等を経て97日仙台に入った。

桜田家を訪ねた後、2人は清河の郷里の様子を探るため、大友某を伴って同月10日に陸奥と出羽の国境に近い川渡温泉に至って、ここで様子を探りに出た大友某の帰るのを待つこととなったのである。

 

しかし、『潜中紀事』に、「川渡に在ること五日、村上先づ仙城に反る。蓋し彼れ俗了にして、無聊に堪へざるならん」とあって、俗化して風流を解さない俊五郎は退屈に耐えられず、清河を1人残して仙台に帰ってしまったのである。

 

 その後、清河八郎は同月27日に仙台に戻ったと『潜中紀事』にある。その記事に「廿七日、敬助漸く至り、相伴はれ仙城に至る。此の時に至り、山岡氏もまた至る。稍東都の情勢を詳らかにし云々」とあって、清河が仙台に戻った前後に山岡鉄太郎が仙台を訪れ、江戸表の情勢を清河に伝えたというのである。

 

 余談になるが、この山岡鉄太郎が仙台を訪れたという『潜中紀事』の記述には疑問がある。というのも、『住谷信順日記』の925日条に、「間埼(哲馬)ゟ所聞」として「昨廿四日山岡来り話のよし云々」とあり、また翌26日にも「過刻山岡来ル云々」とあること。ちなみに、当時の住谷寅之助は江戸に滞在中であった。

 

そしてなによりも、104日付け山岡鉄太郎の清河宛て書中に、「先月下旬熊池石とも出獄云々」とあるほか、「此の書状、仙水に一通づつ差し出し候」と記されていることである。山岡は104日時点で清河の所在が確定できないため、この手紙を仙台と水戸の両方に送っているのである。

 

清河は107日仙台を後にした。『潜中紀事』に「仙城を辞す。更に俊五郎をして我が書を携へ、遠野の江田大之進に至り、姑らく之に潜み、以て動静を待たしむ」とある。なぜか俊五郎は清河と同道しなかったのである。俊五郎が世話になった江田大之進とは、名を重威といい、南部盛岡藩支藩である遠野藩の藩校信威堂教授で、清河とは安積艮斎塾の同門であった。

 

清河八郎は、1人水戸に入り、その後江戸に上っている。この清河と山岡鉄太郎の大赦(同志の出獄)と浪士組の結成に至るまでの努力は、「浪士組発起と松平忠敏辞任に関する私論」等でふれているので、ここでは省略する。

 

  • 以下は次回とします。なお、この稿は次回を含め、以後3回に分けての掲載となる予定です。