1 はじめに
「日本資本主義の父」と呼ばれる偉大な渋沢栄一に、『雨夜譚』や『青淵百話』等の懐旧談がある。筆者は四半世紀以前にこれを読み、以来、過激な攘夷倒幕論者の渋沢栄一が一転将軍後見職一橋慶喜に臣従することとなった経緯に、違和感を持ち続けてきた。最近、偶々目にした幸田露伴著『渋澤栄一傅』や山本七平著『渋沢栄一近代の創造』にも、そうした疑問が呈せられていることを知った。そこで、『雨夜譚』等渋沢栄一の懐旧談と幾つかの関係資料とを対比しながら、改めていくつかの点を検証してみることとした。なお、本稿は『歴史研究』第680号に特別研究として掲載されたものに、補筆修正を加えています。
渋沢栄一(幼名市三郎後英治郎、青淵と号す・括弧内は「原注」とない限り筆者の注記である)は、天保11年(1841)に武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)の富農渋沢市郎右衛門(晩香)の長男として生まれた。7歳で隣村手計村(深谷市)の従兄尾高惇忠(初新五郎・号藍香・栄一の伯母の子)に師事し、この塾で惇忠の弟長七郎(諱弘忠・号東寧)や、栄一の叔父の子渋沢喜作(誠一郎・号盧陰)と刎頸の交わりを結ぶこととなった。師の惇忠は栄一より10歳(天保元年生)、長七郎は4歳(天保8年生)、喜作は2歳(天保9年生)の年長であった。
栄一17歳の年、父の名代で出頭した岡部藩の陣屋代官から嘲弄侮蔑を受けたことが、栄一の人生の転機となった。『青淵回顧録』によれば、栄一は心中憤懣に絶えず、以来「田舎の百姓で一生を終わるよりも、武士となって世に立ちたいといふ希望は瞬時も忘るる事が出来なかった」、そして「十五六歳の頃からウロ覚えながら大義名分を論じ、尊王攘夷に賛成してゐたものであるが、代官事件のあって以来、感情的に倒幕の念が一層熾烈になった」という。栄一が17歳の安政3年(1856)は、米国総領事ハリスが下田に着任した年で、日米修好通商条約の締結はこの2年後のことであり、当時は倒幕論者の跋扈は勿論のこと、尊王攘夷論者の跳梁前夜のことである。
文久元年の春、栄一は「十七歳の時に発した念慮が増長し」、「到底百姓をして居る時節ではない」と考えて、当時海保漁村の塾に寄宿し、伊庭軍兵衛の道場に通っていた尾高長七郎を頼りに江戸に上った。文武の上達が目的ではなく、「只天下の有志と交際して、才能芸術のあるものを己の味方に引き入れようという考えで、早く云って見れば、かの由比正雪の謀反を起こす時に能く似て居た」。そしてその年の5月頃まで海保の塾から「お玉ヶ池の千葉といふ撃剣家の塾」へ通った(以上は『雨夜譚』)。
従兄尾高長七郎の在府は文武修行のみでなく、「他日為すことあるの日来らんとの考えが、尾高惇忠を首領として余等同士の間にあったから、彼を専任者として江戸と郷里の間を往来せしめ」(『青淵百話』)ていたのである。その長七郎がこの年10月、長州の多賀谷勇と共に、輪王寺宮公現法親王を擁しての攘夷挙兵を画策した。長七郎たちは同月21日大橋訥庵を訪ねて協力を要請(『阪下義挙録』)、2人は訥庵の指示で同士糾合のために各地を奔走したが、一向に人を集めることができなかった。
大橋訥庵の義弟菊池教中宛て翌11月1日付け書中に、多賀谷勇を「段々問詰候処最初より三十人位即刻相弁候様申居候得共委敷吟味し詰て見候得は十人は無之候」という有り様で、訥庵門下の児島強介や河野顕三らを人数に加えてもようやく10人位のため、とても兵を挙げるには覚束ない、と記されている。そして、訥庵の教中宛て同月10日付けの書中には、「再三熟思之上昨日拙生ゟ異論を発し、先々当分見合候而同業人離散致候様致候様申談候処」、「多賀谷之外頭分は不残鄙説ニ服し候而ャメと相成申候」とある(何れも『大橋訥庵全集』)。
血盟の友ともいうべき長七郎が死士の糾合に窮していたのに、渋沢栄一がこの挙兵計画に関与した形跡はない。この春、「由井正雪の謀反を起こす目的で江戸に上った栄一(『雨夜譚』)であったにも関わらずである。なお、長七郎の兄惇忠に関しては、先の訥庵の11月1日付け書中に、「昨日は尾高之兄新五郎と申者出府致来候故段々談候処、長七郎ゟは沈着致居候而少々略も有之頼敷人物ニ御坐候、乍去当時一家之主人にして祖父母と老母など有之長七郎とㇵ違候故只今即刻駆付候人数ニㇵ加わり兼申候云々」とある。この当時は栄一にもそうした家庭の事情があったのだろうか。
下総宮和田村(茨城県取手市)の名主宮和田又左衛門光胤は平田篤胤没後門人で、かつ北辰一刀流剣法を修めた人である。その長男勇太郎は足利三代木造梟首事件に関与し、養子進は大村益次郎の暗殺事件に与して斬死している。父子揃っての尊王攘夷家であった。その宮和田光胤の自伝『宮和田光胤一代記』(私家本・『共同研究明治維新』に一部収載・以後『一代記』という)の文久2年の条に、次のような記事がある。
「同人(千葉周作門人塾頭致居候真田範之助)結合之友ㇵ渋沢栄一渋沢誠一郎両人、又田中春岱方巳来懇意ㇵ鈴木謙吉(中略)此渋沢両人を同伴ニテ真田範之助鈴木謙吉光胤宅被参、範之助より依頼ニㇵ、此渋沢両人儀一橋公へ附属し上京致度候得共手続無之、別テ御附人ㇵ武田君故是非共附属して上京致度、夫ニ付テも一度千葉先生へ入門之上右門人を名として手続き仕度、範之助自分より申込ミ候テㇵ又如何之場合も有之候ニ付、先生同道ニテ入門御申込被下度旨(中略)依テ光胤渋沢両人を同伴師家ニ行入門為致候云々」
将軍後見職一橋慶喜に、将軍上洛(来春予定)に先立って上京するよう達せられたのは文久2年8月24日である。そして水戸藩家老武田耕雲斎に水藩有志を率いて慶喜に随従するよう、幕命があったのはその年の12月11日で、耕雲斎が江戸を発ったのは同月の24日であった。したがって、『一代記』のこの話は12月11日以後、耕雲斎の江戸出立までのごく僅かな期間の出来事だったことになる。ちなみに、宮和田光胤は耕雲斎とは旧知で、当時は江戸難波町俚俗竃河岸(中央区日本橋)で北辰一刀流の剣術道場を開いていた。
先の文中、真田範之助と共に渋沢両人を伴ってきた光胤旧知の鈴木謙吉は、『一代記』に「水戸野州境ひの領分郷士之次男ニテ例幣使街道鹿沼宿へ婿養子ニ被参候人の由、何れもの友人横田藤四郎の物語ニテ知ル、後に一橋附已来穂積良之助又神官となりテ耕雲ト云」とある。この鈴木謙吉は水戸郷士小室藤次右衛門の弟で、鹿沼宿本陣鈴木水雲の婿養子となった儒医である。元治元年(1864)の水戸天狗党の筑波挙兵時には小室登(献吉)の名で宇都宮藩重臣縣信緝の探索方などを勤め(『縣六石の研究』)、後に渋沢栄一を介して穂積亮(良)之助の名で一橋家に仕えることになる。
この『一代記』は、宮和田光胤が自らの日記をもとに纏めたものだという。内容が詳細で具体的であり、信頼できるのではないかと思われる。しかし、前記の事実は、『雨夜譚』等の渋沢栄一の回顧談には一切触れられてない上に、その内容とも大きな矛盾がある。その一つは、前記のごとく『雨夜譚』には、栄一の玄武館千葉道場入門は、この前年の春であったとあること。また、栄一と真田範之助との出会いは、「千葉道場で懇意になった真田範之助」とあり、『一代記』の内容とは明らかに異なっている。
なお、青淵渋沢栄一記念事業協賛会等が発刊した『新藍香翁』(塚原蓼州著『藍香翁』の現代文訳)に、真田範之助が手計村を訪れて尾高新五郎(惇忠・藍香)と長七郎の兄弟と試合をしたことが記されている。真田は江戸川主殿輔と共に、万延元年(1860)に尾高兄弟等の剣術家を収録した『武術英名録』を上木しているので、この話は安政年間(1854~ 1859)のことと思われる。『新藍香翁』にはさらに、「真田はその後たびたび手計に来て翁と長七郎に兄事して、翁等の横浜焼討事件にも参加したのである」と記されている。真田が「その後たびたび手計に」来たことが事実なら、惇忠に師事して尾高家に頻繁に出入りしていた栄一が、この間真田と顔を合わせなかったとは考えにくく、『宮和田光胤一代記』の記述内容当を考え合わせると、『雨夜譚』の栄一の先の懐旧談は記憶違いだったのではないかと思われる。
さらに、栄一の玄武館千葉道場への入門についても、『一代記』の記述に間違いなければ、栄一の記憶とは異なり、栄一は文久2年暮か翌3年の春、宮和田光胤の紹介で始めて千葉道場に入門したことになる。これを前提とすれば、『雨夜譚』に記される栄一が22歳の春、「其頃、長七郎が下谷練塀小路の海保(漁村)の塾に居て、サウシテ剣術遣ひ(伊庭軍兵衛)のところへ通って居たから、夫を便りに」江戸に上り、「海保の塾に居て、(中略)お玉が池の千葉といふ撃剣家の塾に」通ったという事実も記憶違いであったことになる。
なお、栄一の千葉道場への入門に関して、塾頭の真田範之助がなぜ直接同道できなかったのかは疑問だが、この年の2月に館主の千葉栄次郎が病死しており、その相続問題(長谷川伸著『真田範之助』参照)等が背景にあったのかも知れない。また、『一代記』の栄一たちの様子から、千葉道場入門は名目を得るためのものだったように思えるが、その理由も定かではない。いずれにしても、栄一たちの武田耕雲斎への随従は実現しなかったのである。
武州小仏関所の関所番見習いで、後に渋沢栄一と前後して一橋家々臣に取り立てられた川村恵十郎(正平)は、栄一の一橋家への仕官に並々ならぬ尽力をした人である。その経緯は、彼が残した日記(『渋沢栄一傅記資料』に一部収載)に詳しく記されている。しかし、この日記と『雨夜譚』の栄一の懐旧談の内容には相異なるものがある。そこで、この両者を対比しながら、文久3年における栄一の足跡を追ってみることとする。
この年の春、栄一は「また江戸へ出て海保の塾と千葉の塾に入って」4ヶ月ばかり在塾し、「そのうちだんだん思考して、ついに一の暴挙を企てることを工夫」した。尾高惇忠や渋沢喜作と密議をこらした結果、その年の8月頃には11月12日を以て蜂起して高崎城を乗っ取り、次いで横浜の異人街を焼き打つことを決定。重立つ仲間は、3人のほか尾高長七郎と「千葉の塾で懇意になった真田範之助(中略)海保の塾生で中村三平」など、合わせて69人であった。
9月13日に父の許しを得た栄一は、翌14日「江戸へ出て、およそ1ヶ月ばかり逗留して居て10月の末に」家に帰った。「十月二十五、六日になって尾高長七郎が京都から帰って来た」ので、29日の夜に惇忠の家に集まって挙兵に関して評議したが、西国の情勢(8・18の政変や天誅組の壊滅等)をつぶさに見聞した長七郎がこれに強く反対したため、「自分(栄一)は長七郎を刺しても挙行するというので、ついに両人で殺すなら殺せ、刺違えて死ぬというまで」の激論となった。しかし、結局一同は長七郎の論に服して計画は中止となり、翌11月8日には、栄一と喜作は関八州取締役の嫌疑を避けるために郷里を発ち、江戸を経て京都に上った。
一方、川村恵十郎はこの年の5月、小仏関所支配の伊豆韮山代官所手代柏木惣蔵を介して一橋家用人平岡円四郎に面会し、「有志之農民兵募兵之儀」等を献策した。これを採用した平岡円四郎は、川村に対して有志の徴募を依頼したのである。前年7月には主君慶喜が将軍後見職に就いたため、当時の一橋家では即戦力となる有為な人材の採用が喫緊の急務だったのだ。このことが栄一や喜作が一橋家に採用される端緒となったのである。なお、川村が正式に一橋家に採用されたのは、この年の12月16日である。余談だが、この川村恵十郎と真田範之助は、同じ嘉永5年(1852)に天然理心流松崎多四郎の道場に入門した仲であった。
川村の日記に、栄一と喜作の名が初めて認められるのは9月9日で、そこには唐突に2人の出身地と氏名が記されている。『龍門雑誌』第498号に載る栄一の懐旧談に、「其の前に口上を以て(川村に)紹介して呉れたのは柏木惣蔵と云ふ人であった」とあるから、推測するにこの日柏木から川村に2人の推薦があったのではないかと思われる。なお、『御口授青淵先生諸傅記正誤控』(『渋沢栄一傳記資料』中)に、「私を平岡の処へつれて行ったのは柏木総蔵(原注・之は江川太郎右衛門の手付の人)河村恵十郎(原注・甲州の駒木野の関守役の一人)の両人であった。どうした訳合で此両人と知合になったかははっきりしない」、とあるが、川村の日記では、栄一と喜作を最初に平岡のところにと伴ったのは川村一人である(後出)。なお、柏木総蔵と最初に知り合ったのは渋沢喜作であったともいう。
川村恵十郎の日記の9月16日の条には、「松浦作十郎榎本幸蔵来(中略)渋沢喜作同英一郎之話致し候事、尤聊此等之身分其外之儀申述」とある。文中の松浦作十郎は一橋家物頭助、榎本幸三蔵(享造ヵ)は同家物頭である。この日、喜作と栄一の一橋家採用後の身分その他のことまで話し合われていたのである。9月14日に郷里を出た(『雨夜譚』)栄一たちは16日には江戸についていたと思われる。川村の日記の中に、この日2人と会ったとは記されていないが、2人の一橋家への紹介は当然事前の了解を得ていたと思われる。川村か柏木の手紙により、2人が江戸へ出て来たと見るほうが自然ではないだろうか。
川村の日記の9月18日の条には、「朝渋沢喜作同英一郎来四ツ半頃まで相話ス(中略)今日ニも明晩ニも(松)浦方え行呉候様談判候事。(中略)夜半平岡行(中略)渋沢喜作同栄一郎云々之儀申述候事、尤同人ニ於ても殊外感激之様子相見候事」とあって、この日初めて川村から平岡円四郎に栄一たちのことが報告されたらしい。その2日後の同月20日には、川村が栄一たちの宿泊先を訪ねて、2人が一昨夜松浦作十郎に会ったことを確認し、川村はその足で再び平岡家を訪れ、「両人之儀談判夜迄掛」と川村の日記にある。翌21日にも、川村が松浦作十郎と栄一たちのことを談じたと記されている。
それから2日後の23日の日記には、川村は松浦、平岡、榎本、猪飼(勝三郎)らと「寄合万々談判渋沢両人ㇵ断之積ニ候、尚又評議改リ是計ㇵ何れニ缺致し候積ニ治定大酔。渋沢両人松浦え来夫々え面会」、とある。この日の評議で一時「断之積」に至った理由は、おそらく、栄一と喜作が岡部藩(安倍家)領の百姓だったからではないかと推測される。それでも松浦や平岡たちは再考の結果、「是計(2人の採用)ㇵ何れニ缺致し候」ことに決定したのである。そして、この日栄一と喜作は初めて平岡円四郎の面識を得たのである。ちなみに、『雨夜譚』には、「自分と喜作とは(平岡とは)その前からたびたび訪問してよほど懇意になっていました」とか、「拙者(平岡)も心配してやろうから直ちに(一橋家へ)仕官してはどうだという勧めがあった云々」とあり、川村恵十郎の日記に記される経緯とは異なっている。
その後の安倍家への交渉は難航したらしい。川村の日記同月26日条に、「朝平岡行今日出勤之由、渋沢両人模様大ニ宜敷もはや今日明日之内安倍摂津守殿え懸合ニ相成候由」とあるものの、その結果は思わしくなかったのである。29日条には「一橋家稽古場に比留間相尋面会之処、血洗島渋沢両人之儀小林清三郎致心配居候様子云々」とあって、小林清三郎も「今明之内安倍家え可罷出」て交渉すると約束したと記されている。なお、「比留間」とは甲源一刀流の遣い手比留間良八で、この年一橋家に15石5人扶持で召し抱えられ、稽古場の剣術世話心得となっていた。小林清三郎(清五郎ヵ)については、残念ながら寡聞にして知らない。これによれば、喜作と栄一に関する安倍家との交渉が難航している事実は他の一橋家々臣たちにも伝わっていたのである。
その後も栄一たちの安倍家への譲渡し交渉は難行したらしい。紙幅上その詳細は記しかねるが、川村恵十郎の日記の10月1日の条には、「未タ安倍家より挨拶無之、乍去仮假令何様之挨拶有之候共此儀ㇵ何れニ缺致し候由、尤品ニ寄候ㇵゝ用達之風ニも可致哉之由なり」とあり、平岡や榎本は安倍家の了承が得られなくても、2人を一橋家の「用達の風」にでもして上京させる心算だったのである。なお、翌元治元年(1864)2月27日(栄一たちの一橋家仕官後)の川村の日記に、川村恵十郎草案の安倍家に対する栄一たちの譲受交渉文が筆写されている。その文中に、「昨年中薄々及御懸合云々」「此度右両人共、御用談所調役江抱入候様中納言殿被存候間、此段及御断候云々」等とある。結局、安倍家の了解を得られないまま、一橋家では栄一と喜作を採用することに決定していたのである。こうした経緯は、『雨夜譚』等の渋沢栄一の懐旧談には一切記されていない。
5 渋沢栄一の一橋家仕官
在府中の栄一たちが10月19日付けで郷里の尾高惇忠に宛てた書簡(『渋沢栄一傅記資料』)に、「一橋公も必々登京に相成候様子、付而は是非両生(栄一と喜作)には御供被仕度、平岡榎本抔被申候、(中略)実に千歳之一機会、呉々も不可疑と決心一段大奮起、独歩都下を圧倒いたし候」と記されている。栄一たちは川村恵十郎の指示に従い、前夜松浦作十郎に面会していたのである。その際、松浦から2人に対して、一橋家採用と上洛についての具体的な話があったのだろう。先年来の宿願であった一橋家への仕官と、岡部陣屋事件以来の悲願(武士になる)が実現することについて、栄一たちは欣喜躍如していたのだ。
しかし、この同じ書簡に、「武器も梅田(慎之助・武具問屋)に而好機会に而余程相調申候、革具足に而手堅物十人前外着込二十人位は調立て相成候云々」とあるなど、挙兵の準備を着々と進めている事実も記されている。翌年の7月26日(栄一の一橋家仕官後)付けで栄一が惇忠に宛てた書中に、恩人平岡円四郎(6月16日暗殺さる)の横死に関連して、「去冬御同様一死報国最早かかる濁世に安居も義士之恥する処と深く決心之至、只々東寧(尾高長七郎)之所論生気鼓舞致兼、殊ニ流賊之名可恐との場合、無拠先小(少)見合(挙兵を)迄之事(中略)遂に西上□く場合に相成候云々」、と記されている。『雨夜譚』等栄一の懐旧談によれば、長七郎との激論の末に挙兵の中止(「少々見合迄之事」)を決断したのは10月29日夜である。
栄一たちが挙兵中止を決定した7日前の同月22日の川村の日記には、「両人一條彌跡より登京決定、渋沢両人ㇵ跡より平岡榎本両人為家来為登候積」とあり、24日には「渋沢両人も来居、先触一條万々談判」と記されている。そして、27日条には「朝渋沢喜作来、(中略)平岡江之書面も相認為見出府候ハゝ早々平岡江罷越其上ニ而万々可致処置候段申聞相別候事」とあり、さらに「平岡行。渋沢両人来候節一橋江書状(先触れ)差出遣之旨万々おやすとの(円四郎の妻)へ談判」、と記されている。挙兵中止の2日前には、川村恵十郎によって2人の上洛準備は万端整えられ、そのことは渋沢喜作にも伝えられていたのである。『雨夜譚』等には、先触れの発行は平岡とその妻の好意によるとあるのみで、川村恵十郎が事前手続きをしていたことなど一切触れられていない。その川村はこの翌日(10月28日)、自身の上洛の準備のために駒木野村に帰郷している。
その後の栄一と喜作については『雨夜譚』に、「この企て(挙兵)を止めることになるとすこぶる危険と思われたから」栄一と喜作は11月8日に血洗島村を発ち、江戸を経て同月25日に入京したとある。そして上京の理由については、「一橋家へ仕官する望みではなく、唯々京都の形勢を察しやうという目的」であり、「眼目とする幕府を覆さうといふ一條に付ては其端緒にだも出来ない(中略)是といふ機会を見付けることが出来ずに居ました」とあって、一橋家への仕官など念頭になく、相変わらず倒幕の念慮を懐抱していたとある。
上洛後の栄一たちは在京の諸有志を訪ねたり、伊勢神宮を参詣したりして日を送っていたが、翌元治元年2月初旬に「何か事の間違いから捕縛せられて入牢」した尾高長七郎から手紙が届いたという。その書中には、捕縛された際に幕府を「転覆せんければ御国の衰微を増長させる云々」と書いて栄一たちが長七郎に宛てた手紙を懐中していた、とある(『雨夜譚』)。この長七郎の下獄のことは、川村の日記の2月14日条に「正月二十三日夕刻、安藤森川人数板橋宿固罷在、(長七郎等を)召捕候由」、と記されている。長七郎が戸田の原で通行人を斬り、この日捕縛されていたのである。
『雨夜譚』にはさらに、長七郎からの手紙を手にして思案に窮していた栄一たちの許へ、平岡円四郎から「ちょっと相談したい事があるから直ちに来てくれ」という手紙が来た、とある。そして、(経緯の説明は縷々あるが)進退に窮していた2人は、平岡円四郎の強い勧めによって「節を屈して」一橋家の家来になることになった、とある。なお、川村恵十郎の日記には、正月28日の条に「渋沢来、同人共之儀平岡相談」とあり、川村はこの日栄一たちを平岡のもとに伴い、2人の出仕の手続き等に関して相談したらしい。長七郎の下獄5日後のことであり、『雨夜譚』にある長七郎の獄中からの手紙云々の話は、下獄直後の獄中からの書通や当時の通信事情を考えると疑問がある。
川村の日記の翌2月8日の条には、「水戸住谷七之丞、横山良之助(2人共水戸藩士)来、猪飼、喜作出会」とあり、喜作はこの日早くも御用談所で他藩士との応接に同席している。そして翌9日には、『渋沢喜八(作)、同栄一郎今日奥口番被仰付、尤ゟ御用談所調方下役被仰付云々』とあって、この日栄一たちは正式に一橋家家臣となり、ここに栄光の人生の大きな第一歩を踏み出すこととなったのである。
6 おわりに
明石照男編『青淵渋沢栄―思想と言行―』に、栄一の挙兵画策当時の回相談がある。そこに、「自分の最初の理想は(中略)日本の封建制度、世官世祿の積弊が幕府を腐敗させているから、これを打破して国力を挽回したいということにあった」、その実現のための「第一の目的(倒幕)が頓挫した後、私は偶然の機会から一橋家に仕へることになった。当時一橋慶喜公は賢明の誉があったので、この君に仕へ、この君を有為の人とすれば、時勢の変化に伴ふて、この公によりて自分の理想を実現することが出来るであろう。自分が最初に立てた目的を直接することを止め、その代わりに実力のある一橋公により之を達したいと思った。即ちだいいちの目的を全く変えたのではなく、同じ方面に向かいながら、執る所の手段を異にしたに過ぎなかった」、と語っている。
また、倒幕云々の話はともかく、渋沢栄一の元治元年8月8日付け藍香宛て書中にも、「只々攘夷之儀、今一度もり返し、公(一橋慶喜)をして死地に入り周旋被遊候云々」とあり、一橋家への出仕後も栄一たちの攘夷の志願に変わりはなかったのである。川村恵十郎の日記に、「此者共(喜作と栄一)真之攘夷家ニ候」(文久3年9月18日条)とあることも頷ける。栄一たちは水戸烈公徳川斉昭の子である一橋慶喜に攘夷断行を託していたのである。しかし、その一橋家への出仕の過程には、見て来た通り『雨夜譚』等渋沢栄一の回想談の内容とは異なる経緯があったのである。
『雨夜譚』は、「先生(渋沢栄一)子弟ノ請ニヨリ、明治二十年(1882)、深川福住町ノ邸ニ於テ、(中略)談話セラレタル筆記」したもの(『青淵先生六十年史』)であり、永い年月が聡明卓抜な栄一の記憶に変容を生じさせたとしても不思議はないだろう。特に、討幕によって明治維新を成し遂げた薩長閥の全盛と、世に旧幕政蔑視の風潮の横溢していた明治20年である。評論家故小林秀雄も、「記憶とは、過去を刻々に変えて行く策略めいたある能力である」、と断じている。
<主な参考文献>
◯『青淵回顧録』 渋沢栄一述 小貫修一郎編著 青淵回顧録刊行会
◯『青淵先生六十年史』 龍門会編 博文社
◯「川村恵十郎日記より見たる青淵先生」 藤井喜久麿稿
龍門社刊『龍門雑誌』第621号~第623号収載 国立国会図書館所蔵
◯『青淵渋澤栄一、思想と言行』 明石照男編 渋澤青淵記念財団龍門社
◯『新藍香翁』 青淵渋澤栄一記念事業協賛会
◯「八王子出身の幕末志士川村恵十郎についての一考察」 藤田英照稿
(松尾正人編著『近代日本の形成と地域社会』収載 岩田書院)
◯「旧幕臣川村正平(恵十郎)の生涯」 川村文吾稿 (『大日光』第64号)
◯「足利将軍木像梟首事件」浅井昭治稿 (『共同研究明治維新』収載)
◯『宮和田光胤一代記』 宮和田光胤稿 宮和田保編 私家本
◯『大橋訥庵全集』 至文堂