29 羽倉鋼三郎とその周辺

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実父(林鶴梁・括弧内は原註とない限り筆者註)と養父(羽倉簡堂)が共に高名な幕臣儒者で、慶応が明治と変わる直前、前橋藩兵等によって殺害された羽倉鋼三郎については資料も乏しく、これまでその生涯を追うことを断念していた。しかしその後、実父林鶴梁の日記(保田晴男『林鶴梁日記』・以後『鶴梁日記』という)に見える青少年期の鋼三郎と出会ったことから、ごく僅かな資料ながら、筆者の知る限りでその生涯を明らかにしておくこととした。なお、羽倉鋼三郎に関しては、會谷誠の「羽倉鋼三郎傅」と羽倉杉庵撰「羽倉鋼三郎傅」があるというが、筆者の怠慢からその何れも未見であることをお断りしておきます。

 

羽倉鋼三郎は、字を叔練といい、雨窓(迂窓)と号した。鋼三郎は通称である。後年官軍への反抗に尽瘁した際には、赤羽甲一の変名を用いている。その鋼三郎は林鶴梁と、旗本岡田将監の家来川島多久間(達馬)の次女久(雅号小香)の子として、天保11(1840)82日に生まれている。同腹の同胞は、後に昌平坂学問所の教授となった8歳違いの兄邦太郎(名は鈞・天保3年生)と、3歳年上の姉鈴(天保8年生)、それに異腹の弟卓四郎(夭折)と妹の琴がいた。

 

鋼三郎の父林鶴梁について、その心友藤森弘庵(天山)は、「長孺は気健にして胆大なり」と評している。鶴梁は死ぬまで髷を結い、洋品様物を家にいれることを禁じて、「拙者一代は攘夷で押し通す」と、常に枕元に大小を置いて寝たという(『伝記』収載望月紫峯「藤森天山の交友範囲」)。鋼三郎はこの父の気性を最もよく伝えていて、磊落で小節に拘らず、酔うといつも剣を抜き、王郎斫地の歌をうたうのが常だったと伝わる(望月茂著『藤森天山)。「羽倉鋼三郎傅」には鋼三郎の人となりについて、「幼ニシテ、鋭敏、稍々長ジテ、読書ニ従事ス、然レドモ章句ヲ治メズ、大義ヲ領スル耳、人ト為リ気ヲ負ヒ、苟も小節ニ拘ラズ」とか、「酒ヲ被リ無頼ナリ」とあるという。父鶴梁もまた酒豪であった。

 

父林鶴梁の通称は鉄蔵、後に伊太郎と改名している。鶴梁は号で、他に鶴橋・酔亭・蒼鹿等々の別号があった。鶴梁は武家の生まれではなく、上野国群馬郡荻原村(群馬県高崎市)の西川力蔵(西川家は「長者屋敷」と呼ばれた富家であったという)の子であった。生年は文化3(1806)813日である。鶴梁が後年(鶴梁33歳当時)旧師に贈った長詩の中に、「我生レテ六年始メテ書を読ム。十五ニシテ志君子ノ儒ニ在リ、不才不学中道ニシテ廃ス。般楽怠敖我吾ヲ忘ル。二十四歳始メテ節ヲ折リ、焦心苦学スルコト幾蛍雪云々」とある。この長詩を贈った旧師とは井田蘇南のことで、鶴梁はこの家に預けられて学問に励んだという。井田蘇南は上野国佐波郡玉村宿(群馬県玉村町)の人で、通称は金平、蘇南は号で、芹坪の別号があった。亀田鵬斎・綾瀬に学んで玉村宿で家塾存古堂を開き、近隣子弟の教導にあたっていた人である。

 

鶴梁はその後江戸に出たというが、それは先の長詩にある「十五ニシテ志君子ノ儒ニアリ」とある15の年(13歳とも)であったかどうかは定かでない。江戸に出た鶴梁は幕臣中山孫左衛門(御先手組頭)の家に寄寓して、高知平山(人物不詳)に師事する傍ら、推橋という人物に武芸を学んだという。その後間もなく中山孫左衛門の手引で林家の同心株を買い、「幕府武庫吏林佐十郎家」を嗣いだ。同心株は凡そ200両したというが、一説にその金を旧師井田蘇南が出したというが、これも定かではない。

 

先の長詩にあった「般楽怠敖我吾ヲ忘」れた時期はその前後のことだろうか。『鶴梁文鈔』にも「昔余少時遊蕩」と記している。このことに関して鶴梁の娘婿村田清昌が史談会(明治3112)で、「(鶴梁は)侠客の群に這入って十七、八歳よりは世に跋扈して害をなすものがあれば、面責いたし或いは打倒したと云うことで、麻布辺で林鉄と云うと人が恐れたと云うことでございます」、と語っている。鶴梁は一時期、学問の道から外れて遊侠無頼の生活を送ったというのだ。もっともそれは、「世の中段々と道徳の頽廃しますことを」嘆いてのことであって、文化の爛熟した文化文政期の頽廃した世相と武士の堕落に義憤を覚えてのことだったらしい。

 

鶴梁は24歳で心機一転「焦心苦学」するようになったと長詩にあったが、鶴梁は17歳の文政5年には友人山崎苞(如山)の『釣詩亭百絶』の序文を藤森弘庵と共に草している。鶴梁は7歳年上の弘庵や弘庵より年長らしい山崎苞等とも、それ以前から親交を結んでいたのである。なお、鶴梁は佐藤一斎にも師事したというから、藤森弘庵との親交などを考慮すると、17歳の当時は既に相当の学識を備え、詩文にも通じていたものと思われる。    

 

「焦心苦学」発心の動機となったのか、鶴梁はこの文政1224歳で川島達馬の次女久(小香)17(16とも)と結婚している。鋼三郎の母となる人である。妻久の雅号小香は、馥郁と香る梅花をこよなく愛した鶴梁が自ら名付けたという。この愛妻久は夫に先立って死去しているが(後述)、後年鶴梁は「亡妻川島氏墓表」(『鶴梁文鈔』)を書している。鶴梁の妻への深い想いが忍ばれるので以下に転載しておくこととする。

 

(前略)年十六、余ニ嫁ス、性婉順、詩書ヲ習ヒ、女工ニ善ㇱ、物ト□然抵ルコトナㇱ、舅姑事ニ事ヘテ克ク孝、内ヲ治メテ克ク勤ム、昔余少時遊蕩、年二十四、節ヲ折リテ書ヲ読ム、氏暁毎ニ余ニ先チテ起キ、洒掃畢リテ雅乃チ啼ク、一日風雪寒甚ㇱ、余臥ㇱテ褥中ニ在リ、枕ヲ欹テ仰ヒデ火盆ヲ案側ニ置キ、単座ㇱテ余ノ起ルヲ待ツヲ見ル、其ノ勤苦率ネ此ノ類ナリ、嗚呼、余ノ疎懶ヲ以テ尚能ク今ニ至リ、一、二名流ノ檳棄スル所トナラザルヲ得ル者、氏ノ劭助アルヲ以テナリ、二男一女ヲ産ム、(中略)晩更一女ヲ産ム、夭ス、氏亦タ是ノ日ヲ以テ卒ス、悲ㇱイカ(下略)

 

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父鶴梁は結婚の翌年長野豊山の私塾「積陰書屋」に入門した。佐藤雲外の「藤森弘庵と交渉をもつ人々」(『上毛及上毛人』)によれば、鶴梁を豊山の私塾に誘ったのは友人の藤森弘庵であったという。その弘庵が長野豊山の門を叩いたのは文政8(1825)であった(藤森天山)。弘庵の門人依田学海(百川・佐倉藩儒)の日記(『学海日録』)安政4(1857)116日条に、「林与先生同長野豊山、為高足弟子。(中略)林俊才多幹略云々」とある。鶴梁の心友で、後に鋼三郎の学問の師となった藤森弘庵は、播州小野藩一柳家(1万石)の家臣藤森義正の子として寛政11(1799)に生まれた。通称は恭助、名は大雅、字は淳風、弘庵は号で、安政の大獄後は天山と号した。柴野碧海、長野豊山古賀穀堂、古賀小太郎、古賀茶渓等に学び、父の跡を継いで天保2年に祐筆兼世子の侍読となった。しかし、天保52月に故あって致仕したという(藤森天山)。なお、藤森弘庵については友人世古格太郎(延世・神職国学者)の「唱義見聞録」(『野史台維新史料叢書』)に、「為人沈実果断大胆にして智略あり経学詩文共に長したるは世の知る所にしてまた書を能し方今の儒士にしては如斯兼備せるはなし故に儒家にて泰山北斗の称あり其志尊王攘夷にありて始終不変其学風は実用を尊ひ国家の弊風を正整せん事に力を尽しけり」とある。

 

鶴梁と弘庵が師事した長野豊山(名は確、通称友太郎)は伊予川之江の人で、中井竹山に学び、その後昌平校で修学した。伊勢神戸藩校教倫堂の教授や川越藩校博喩堂教授を勤めたが、文政8川越藩を辞し、江戸の麻布森本町に開塾していた。門人には鶴梁や弘庵のほか、尾藤水竹、保岡嶺南、久永松陵、大橋訥庵、遠山雲如等がいる。豊山天保5年夏に病に倒れ、以後は寝たり起きたりの状態だったらしい。同88月に55歳で没した。

 

鶴梁は27歳の天保3年に松崎慊堂に入門した。『慊堂日歴』同年227日条に、「須臾にして大槻士広・前野東庵・林鉄蔵・広沢権平また来る云々」と記されている。なお、静嘉堂文庫蔵の「日歴」原本の同日の末尾に、「林鉄蔵、井田定七門人、(中略)谷町同心、廿七歳、頗解書、始謁、士広(大槻磐渓)為介」とあるという。鶴梁を松崎慊堂に紹介したのは大槻盤渓(蘭学者大槻玄沢次男)だったのである。松崎慊堂は佐藤一斎同様高名な儒者なので、ここでは触れない。ただ一点、『松崎慊堂』の著者鈴木瑞枝氏は、その著の「まえがき」冒頭で、「松崎慊堂の人間的魅力の第一は、他人を思う暖かな心にあると言って差し支えないであろう」と記していることを紹介しておきたい。蛮社の獄で罪を得た門人渡辺崋山の救援の話はよく知られている。鶴梁の松崎慊堂との師弟関係は慊堂が没する天保15年まで続いていたという。

 

鶴梁が松崎慊堂に師事した年の2月、鋼三郎の兄(長男)邦太郎が誕生している。その翌年鶴梁は藤森弘庵との共編で『温飛卿詩集』を上梓した。長野豊山が保岡嶺南に宛てた同年1110日付け書中に、「此度藤森ト林ト両人温飛明ノ詩集ヲ刻シ申候、両人貧生ニ而糊口之助ト仕候為ニ刻シ申候也、御地ニ而少モ御売リ捌キ被成被遣候得ハ両人之窮乏ヲ救可被下候云々」と記されている。202人扶持の林家は家族も増えて生活に窮していたのである。既記のごとく藤森弘庵安政52月に小野藩を致仕したが、その年の9月には秋田藩士確井左中(大窪詩仏の姪)の紹介で土浦藩藩士子弟の読書指南として採用された。弘庵の才能を認めた大久保要(当時土浦藩御者頭火之番役)は、翌年6月藩学改革建白書草案を記して、弘庵を藩学指導の適任者として強く推挙している。

 

当時の土浦藩学は崎門学派が席巻し、弘庵(朱子学)の推挙問題は藩内の内訌にまで発展した(望月茂著『大久保要』)。弘庵の身を案じた鶴梁は、この年7月弘庵に親身な手紙を送って早々に土浦を退去して江戸に戻るよう勧めている(『鶴梁文鈔』)。しかし、弘庵は江戸に帰ることはなかった。大久保要の支援もあったのだろう翌天保77月には、その出精を賞されて金300疋を賜り、翌年9月には土浦藩学の引立方を委任され、扶持米も6人扶持から20人扶持に改められている。

 

天保88月長く病んでいた長野豊山が死去した。広岳禅院(芝区日本榎町)に葬られたが、その墓碑の撰文は鶴梁である。師豊山死去4ヶ月後の同年12月には鋼三郎の姉(長女)鈴が誕生した。その翌年鶴梁は鉄砲箪笥同心の組頭に任ぜられている。そして、その3年後の天保1182日に鋼三郎がこの世に生を受けたのである。時に父鶴梁は35歳、母は30歳で、兄邦太郎は9歳、姉鈴は4歳であった。この当時の林家の家族は、鋼三郎の父母兄姉以外に、鋼三郎には祖母に当たる父鶴梁の義母(62歳・妻小香の母という)が同居していた。

 

鋼三郎が生まれた翌12年、父鶴梁は奥火之番、次いで御徒目付に任ぜられた。翌13年には勘定方、その年の6月には評定所留役助となっている。この栄転には鶴梁の友人で、水戸藩徳川斉昭の股肱の臣藤田東湖の尽力が大きかった。天保128月末に東湖が鶴梁に宛てた書翰に、東湖が勘定奉行川路聖謨に対して「何卒林おば此上当路へ御推挙被致度旨述候へば、いやさか勘定所は、当路小普請方辺は横道の様に候へ共、横道の中、又当路へ出身の捷径も有之、いづれ林へ逢候而承度との事云々」と記されている。それから12年後のことと思われるが、東湖はまた鶴梁を昌平校儒官の佐藤一斎に対して鶴梁を儒官に取り立てるよう要請した。その一斎あて書翰に、「林が為人を称道し、卒伍に居らしむべき人にあらず、願くは是を祭酒にすすめよ」と推挙したが、「一斎も兼て其人を知れり、然れども当今の事情、容易に書生の推挙なしがたし」、と断られてしまったとある(藤田東湖全集』中「見聞偶記」)藤田東湖は鶴梁の才能を高く評価していたのである。

 

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鋼三郎が4歳となった天保14年の9月、父鶴梁は突然評定所留目役助(役高20010人扶持)の職を解かれて元の御勘定所帳面方掛(役高150)に任ぜられた。何があったのか左遷である。これより以前のこの年316日、林家に予期せぬ不幸が襲っていた。鋼三郎の母が産褥熱が原因で突然逝去してしまったのだ。前日15日の父鶴梁の日記に「夕分頃帰宅之処、拙荊()虫気(産気)ニ而、唯今臥り候趣、夫ゟ苦痛、晩九時過男子出産後尚又苦痛、死去いたし候云々」とあり、翌16日には「暁子下刻、細君産後死去云々」と記されている。生まれた男児もまた生後間もなく死去してしまった。最愛の妻を喪った鶴梁の悲嘆は激しく、日記に「誠に慟哭不堪」とか「鬱悶困苦云々」等と書き付けている。

 

父鶴梁の亡き糟糠の妻に対する哀惜の念は相当に深かったらしく、日記中に亡妻の夢を見た事実が度々記されている。鋼三郎も関係する亡妻の夢も多い。その年1011日条には、「此夜小香、自外遽入室来(中略)、小香抱剛児而臥焉云々」とある(日記はこの年末から弘化3年まで欠落)。また、妻小香との死別後4年近くを経た弘化4(1847)611(鋼三郎8)には、以下のように夢の内容を克明に記している。

 

「今朝夢玄麟(中略)、又小香来将帰、投指南器於吾枕上、吾送之数十歩与小香倶行(中略)、路上剛三郎在焉、吾指之謂小香日、是鋼児也、近日児髪位置不佳、乃剃髪、髪存者両鬢与領上爾、於是携児、又与小香倶出辰門(甲府辰町門)而右行数歩、小香云、此別甚惜然、奚須向蕎麦店頭、乃叙離情哉、吾携児涕泣嗚咽、夢乃覚、別時余伏行携児、小香直立」

 

父鶴梁は亡妻への強い哀惜の念と、幼くして母を失った鋼三郎に対する憐憫の情がそうした夢を見させたのだろう。「児啼泣嗚咽」とあるが、母が亡くなった時4(27ヶ月)で死の何たるかを知らない鋼三郎も、動かぬ母の骸に取りすがって嘆き悲しんだのだろうか。その時の有り様が鶴梁の脳裏に深く刻み込まれていたからこそ、そうした夢を見たのだと思われる。鶴梁は年を経ても亡妻小香への愛惜の想いは消えず、「鶴梁翁十日録」に「半生汝ト辛苦ヲ同ジウシ。白首期ヲ為シテ忽チ折催ス。旧ヲ想ヘバ今ノ如ク声涙迸シリ。黃昏ノ墓道ヲ独リ徘徊ス」、とあるという。鶴梁は、妻小香の死去した年の5月には鉄蔵の名を伊太郎と改めているが、愛妻の死が関係していたのかも知れない。

 

国太郎(12)・鈴(7)・鋼三郎(4)3人の幼児と年老いた義母(67)を抱え、自らの生活の前途を思い鶴梁は途方に暮れたことだろう。乳離の遅かったらしい鋼三郎には乳母を雇い、幼い鈴は知人に預けて急場を凌いでいる。そんな鶴梁の身を案じ、その後再婚の話が幾つもあったが、その年の12月鶴梁は門人中井虎之助(忠蔵)の姉庫子(30)と再婚した。鋼三郎の母となった庫子は、当時長府藩毛利右京亮の上屋敷で奥向の右筆を勤めていたという(鈴木常光著『幕末の奇士桜任蔵伝・貧侠桜花散』)。なお、「贈正五位林伊太郎傅」(『江戸』第5巻収載)等には、鶴梁の友人の桜任蔵(真金・村越芳太郎)が媒酌の労をとったとあるが、『鶴梁日記』を見る限りこれには疑問がある。結婚に至る経緯は、その年627日の条に「虎生ゟ姉之咄有之間、可然旨答候事」とあり、翌々月8日には「夜、与虎生姉之事、細々談事」と、また、その6日後の14日には「虎生夜来、云如左、姉方江一昨日母参候処、(中略)互ニ熟話いたし、姉も得と勘弁いたし候、(中略)然ル上は、早々に上り度候得共、十月下旬ニ無之而は幼主之母帰府不致」ため、奥家老から幼主の母が戻るまで待つよう頼まれているので、「何卒其節ニ参度旨姉申候由云々」と記されている。

 

鋼三郎の継母庫子が実際に林家に入ったのは、その年121日であった。婚儀はごく内々で、至って簡素に行われたらしい。この日の『鶴梁日記』中に、「此夜無客、数右衛門・虎生并同人母・家母・国児・鶴梁・庫子・竹栖夫婦、九人也」とある。仲人役は桜任蔵ではなく「竹栖夫妻」だったのである。「竹栖」とは渋谷碧(酒候)の号である。讃州高松の医師の子で、水戸に学ぶこと10年余、この間原南陽や藤田幽谷に学ぶ傍ら広く水戸の有志と交遊した。後に江戸に出て松代藩侍医渋谷養説を嗣いで同藩の侍医となった。蘇東坡に私淑してその書風を習い、自ら東坡坊と称してその書室を惟有蘇斎と名付けていたという。医業の傍ら書法を教授していた鶴梁と昵懇の儒医である。

 

なお、鶴梁と桜任蔵も別懇の仲であった。『鶴梁日記』に頻繁にその名が出ている。望月茂著『佐久良東雄』に、2人に関する逸話が記されている。それによると桜任蔵は「高山彦九郎を崇拝し、(中略)林鶴が彦九郎の日記全部を所持していると聞いて、泣いてこれを強求した。鶴梁も、その熱意にうごかされて、これを譲渡した」という。今もなお常陸地方に彦九郎の遺物や遺墨の多いのは、任蔵が蒐集に熱心であったことによるらしい。

 

桜任蔵は常陸国新治郡真壁町の医師の子で、藤田東湖や宮本茶村(任蔵は塾頭であった)に学び、東湖を介して川路聖謨の知遇を得て小禄ながら幕臣となった。後年のことになるが、水戸藩の弘化の難に際し、職を辞して徳川斉昭や東湖の雪冤運動に奔走した。その後の任蔵の尊王攘夷活動等については紙幅上割愛するが、鋼三郎もその謦咳に接しただろうこの人の人となりを知る資料を記しておきたい。それは、『学海日録』安政5824日条に記される新津圭斎の話で、「任蔵は義侠の名有り。甲寅の歳(安政元年)、都下に大震ありて、士民饑渇せり。任蔵は書を鬻ぎ剣を売り、全治せし所の者数千人あり。又節に死せし者に於て一書を著作し、以て不朽に伝えんとせり。嗚呼、当今若の如きの人幾何ぞ、余之が為に赧然たり」とあり、同じ依田学海の「先師(藤森弘庵)が友人桜任蔵の逸事」には、「先師も任蔵は奇人というより奇書だ、世間の奇事が残らず頭に入っておる。お前たち、若し文章の材料が無かったら、任蔵の話を聞くがかろうと云った。そこで私が尋ねると、一間きりの草屋に住み、書物に埋もれて転寝をしている。訳を言うと大いに喜び、古人の奇事、逸聞を語ったが、一つとして拠り所のない話はせぬ。必ず本を引き出して証明する。正確で尾鰭をつけぬ云々」、とあるという。

 

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ここで鋼三郎の継母の実家である中井家の人びとについても触れておきたい。野口勝一「野史一班」(『野史臺維新史料叢書』36)に、「中井丈右衛門鎗術ヲ以テ久留米藩ニ仕フ、故アリ藩ヲ脱シテ江戸ニ遊フ、子三人アリ、長ヲ数馬、次ヲ長観、三ヲ忠蔵(虎之助)ト日フ」とあるが、ここでは女子の庫子が除かれている。庫子は次男長観の妹で末子忠蔵の姉である。庫子の父中井(本姓は三井)丈右衛門については、『鶴梁日記』天保14913日条に「中井丈右衛門(原注・七十八歳病死、去る戍ノ七月十二日)、称三井氏、久留米藩士、出仕于深津主水(原注・監察御史)、ダルマ門前(中略)、又追々勤仕いたし、遂仕于勝田将監云々」とある、母については「卯六十一」、旗本大久保甚四郎の家来久我新右衛門の妹で、「三井氏深津ニ居候節、嫁来ル由」とある。また、『鶴梁日記』に父丈右衛門が勝田将監に仕えた時、「虎生二歳、庫子六歳」とある。

 

鋼三郎の継母庫子の長兄数馬(数右衛門・卯37)については、先の「野史一班」に、「数馬曾テ江戸与力トナリ、麻布我善坊町ニ住ス、薩州藩日下()伊三次ト隣ル、意気相投シ往来時事ヲ談ス、一日町奉行吏三四十人伊三次ノ家ヲ囲ム、伊三次、数馬ノ家ニ逃ル、数馬己レノ衣ヲ脱シ之ヲ着セ、窃カニ屋後竹林ヨリ脱セシム、吏数馬ヲ捕テ伊三次ノ所在ヲ問フ、数馬実ヲ吐カス、遂ニ之カ為ニ獄ニ下サル、拷問甚タ厳ナリ、既ニシテ伊三次ヲ捕ヒ数馬ヲ免ス、一日ヲ隔テ死シ、家為メニ絶ス」とある。言うまでもなく安政の大獄時の話である。「贈正五位林伊太郎傅」に、日下部伊三次は「名を宮崎又太郎と変じ(鶴梁が)妻の兄中井数馬(原注・御先手与力)に寄て麻布我善坊に潜むましむ」とある。なお、高松藩の尊攘家長谷川宗右衛門が日下部伊三次に宛てた安政5年正月18月付け書簡中に、「中泉林(鶴梁・当時駿州中泉代官)へ面会候処学問文章実に感心仕候深夜迄寛話候云々」とある。これは「贈正五位林伊太郎傅」に載る書簡で、そこには「編者日」として、以下のようなことが記されている。

 

「日下部伊三次は(中略)安政戊午密勅東下の事に坐して囚はる贈正五位長谷川宗右衛門は峻阜と号す高松藩の勤王家なり水戸藩の事に関し奔走中幕府の逮捕急なりと聞き鶴梁翁の義弟幕府鉄砲方与力藤田忠蔵の家に潜匿し後遂に投獄せらる宗右衛門是より先安政四年十月十一月国勝手を命せられ帰国途中に鶴梁翁を訪問したるなり帰国に先ち其次男(原注・誠一郎後に豊田郡長となる)を日下部中井両人へ預けたり云々」

 

先の書簡中にも、宗右衛門は「豚児儀嘸々御世話何分御総容様へ宜敷相願候云々」と記されている。中井数馬の死は安政6514日、享年53歳。また、日下部伊三次は同じ年の1217日に獄死した。享年は45歳であった。なお、先の「贈正五位林伊太郎傅」の記述によって、当時虎之助は鉄砲方与力の職に就いていたことが明らかである。『鶴梁日記』天保14810日の条に、「虎生、黒鍬被仰付候礼ニ来ル、右為祝、鉄槍遣し候事」とあり、この年幕臣となったのである。ちなみに、虎之助の長兄数馬について、『井伊家史料幕末風雲探索書』に収載の安政511月の「江戸風分」に、「伊三次より右近将監(忠寛・伊勢守・当時禁裏付)に相頼、中井経蔵黒鍬(45年前黒鍬の明株を求めたという)より御台所番に成り、其後火之番、引続き御徒目付にて、直に海防掛を勤め、纔に弐ケ年を不満身分も進み、海防懸の局へ入候は伊三次姦計道具いたし候もののよし、経蔵は伊三次へ公辺の機密相洩し候儀に有之よし云々」とある。事実の真偽はともかく、中井兄弟は皆実力のある人たちだったらしい。

 

中井数馬が非業の死を遂げた際、数馬には妻と当時25歳の長男房次郎、22歳になる次女朝子の2の子があった。「野史一班」によると、数馬の死後「弟長観(三井国蔵)数馬ノ妻子ヲ護り、浅草に寓ㇱ、機ヲ見テ兄ノ志ヲ続カントㇱ、広ク天下ノ志士ト交ル、(中略)維新ノ時、長観横浜ニ趣キ商事ヲ営ミ下総屋ト称ス」とあるが、中井房次郎のその後については寡聞にして知らない。なお、「昭徳院殿御実記」(『続徳川実紀』第四巻)の元治元年525日条に、「御目見持恪富士見御宝蔵番、中井経蔵」に対して「外国奉行支配調役並」が仰せ付けられた記事がある。

 

中井数馬の次女朝子に関しては、石橋絢彦著『回天艦長甲賀源吾傅』(編者甲賀宜政の父は三井長観)収載の「杉浦梅譚小傅」に、「(杉浦梅譚の)後妻中井氏先ちて没す。中井氏、父を数馬と云ふ。(中略)戊午一件にて数馬の家名断絶したるを以て、鶴梁の幼女となりて杉浦氏に嫁せしなり。今其孫法学博士儉一、梅譚翁の祀を守る」と記されている。杉浦梅譚本人の『杉浦梅譚目付日記』中の「経年記略」文久3717日条に、「細君(原注・阿喜美)自家江嫁ス、(原注・林)猪太郎鶴梁養女、実家中井数馬死娘」とあり、さらにそこには「此縁組友人羽倉鋼三郎ノ周旋ニテ成ル」と記されている。実に鋼三郎が友人の杉浦梅譚と朝子(喜美と改名)の間を取り持ち、父鶴梁の養女として梅譚に嫁がせたというのである。梅譚自身が鋼三郎を「友人」と記しているが、当時の鋼三郎は24歳、それに対して梅譚は一回り以上も年上の38歳である。残念ながら2人の交友の実態は定かでないが、杉浦梅譚の人となりについて触れておきたい。

 

杉浦梅譚の通称は正一郎、諱は誠、梅譚は雅号である。文政91月に小林祐義(順三郎)の長男として生まれている。父祐義は久須見祐明(権兵衛)の次男で、前年旗本小林家の養子となったが、梅譚の生まれた翌年には離別し、一人実家の久須美家へ戻ってしまった。なお、父祐義は一生出仕せず、久須見邸の道場等で剣槍を教授するなどして一生を終わった人であった。梅譚は7歳の時に久須美家に引き取られた。久須美家の当主祐明は当時勘定組頭格の職にあったが武芸百般に通じ、詩文学芸にも長じた温厚で思慮深い人だったという。梅譚はこの祖父祐明に愛され、天保14大阪町奉行就任の際にも、梅譚を大阪に伴い諸事見聞を広めさせている。翌年勘定奉行として江戸に戻ると、その年、大金を払って旗本杉浦家(500)の相続権を買い取り、梅譚にこの家を継がせたのである。そして同年、梅譚は叔父豊田友直(父祐義の実弟・当時二の丸留守番ヵ)の長女登志子と結婚した。梅譚23歳の年であった。

 

梅譚は文武両道の士であった。学問は大橋訥庵に経史を、詩を横山湖山・大沼枕山に学んでいる。維新後、詩人の大家となり、晩年には晩翠社を創設してその盟主となった。ちなみに、勝海舟の『氷川清話』に、「詩は壮年の時に、杉浦梅譚に習った」とある。また、武術は、剣を直新影流の男谷精一郎に、弓術は本田庄太夫に学んだという。安政64月に槍・剣・居合の三術を将軍の覧に入れて賞賜を受け、門人も相応にあったという。大阪時代も祖父祐明の居合の相手を勤めたというから(祐明は田宮流の居合を上覧に供している)、剣は勿論槍や居合術は祖父や父の相伝だったのかも知れない。さらに梅譚は、砲術を坂本鉉之助や藤川太郎、安政28月からは下曽根金三郎に師事している。梅譚の官歴は、万延元年6月鉄砲玉薬奉行、文久25月洋書調所頭取、同8月目付、同37長崎奉行(辞退ヵ)、同月目付再任、同年10月諸太夫に任ぜられ兵庫頭を名乗る、慶応21箱館奉行となり、維新に至るまで在職した(明治以後は略)。この間、嘉永41月妻喜多が死去、安政2年喜多の妹多嘉と再婚、文久32日その多嘉も死去、そしてその年7月に鋼三郎の周旋で喜美と結婚したのであるが、これらを見る限りでは、鋼三郎と杉浦梅譚との接点の見当のつけようもない。なお、以上は元田脩三「久須見蘭林節及びその一門」(『歴史地理』第50巻第1号収載)等を参考にしています。

 

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話を元に戻そう。『鶴梁日記』は弘化元年から同2年が欠けているので、この間の鋼三郎とその周辺の詳細は定かでない。鋼三郎が7歳になった翌弘化3年の3月、父鶴梁が甲府徽典館学頭を命ぜられ、その月6日に江戸を出立して任地甲府に赴いている。家族を江戸に残しての単身就任であった。なお、それより先の28日の鶴梁の日記に、「鋼三郎儀、依田氏江入門いたす」とある。依田氏の誰であるかは不明だが、鶴梁は自身の出張に際し、鋼三郎への四書五経素読と書法の学習を依田氏に託したのである。日記の同月22日条には「国太郎儀元吉方江入門云々」とあるから、長期不在を機に、兄国太郎も信頼できる長井豊山塾の同門保岡嶺南(元吉は通称)の塾に通わせることにしたのだろう。嶺南はその師長野豊山の推薦で、文政10年に川越藩校博喩堂創建以来教授となって藩侯の侍講も勤め、『川越版校刻日本外史22巻の刊行にも尽力した人である。なお、日記の嘉永元年104日の条に「国太郎儀、此間中ゟ保岡代稽古致遣候ニ付、同人ゟ白紙□枚被相送候云々」とあるから、兄国太郎は入門2年後には師の保岡嶺南の代稽古をするほど学問が進んでいたのだ。

 

翌弘化43月、父鶴梁が甲府徽典館学頭の1年間の任期を終えて、その月11日に江戸へ帰り、小十人組(役高100)に戻った。なお、この年11月には鶴梁は新番(役高250)に番替となっている。鶴梁が江戸に戻った同じ3月、鶴梁の心友藤森弘庵14年間に及んだ土浦藩を致仕して、江戸日本橋南槇町に居を構えた。弘庵は天保14年には藩校郁文館督学を兼ねて郡奉行(弘化3年辞職)となっている。辞職の動機については諸説あり定かでないが、藩主はこれまでの功績により、弘庵に3人扶持を与えた。弘庵はその年12月には「嚶々社」という詩社を創め、また講筵を開いて門人を取っている。『鶴梁日記』313日条に「藤森恭助来る」とだけある。

 

鋼三郎はこの年8月になって依田某の塾を止め、木村良治の塾に通うこととなった。鶴梁の日記820日の条に、「依田某江鋼三郎相連レ、国太郎罷越、糊入百枚送ル、ツクヱ・硯具等下ゲル。木村良治江國太郎罷越シ、入門申入ル、承知、明日鋼三郎参ル積リ」と記されている。前年の鋼三郎の依田塾への入門時もそうだったが、こうした手続は常に兄国太郎(当時16)が父の代理を勤めていて、頼りになる兄だったのだ。

 

8歳の鋼三郎が木村良治の塾に入った翌月24日の鶴梁の日記に、「庫子義、客来中鋼児打擲いたし候間、差止候処、不取用候付、教諭及候処、相詫ニ付、差免」とある。来客の前で夫鶴梁の制止を無視して鋼三郎を打擲し続けたというのだから、継母庫子は相当強情で気の強い女性だったらしい。一方、父鶴梁はこの月3日に「今晩、夢小香来新居、叙情実、抱鋼児、歓笑如常云々」と記している。父鶴梁がこの年の6月にも、亡妻小香と鋼三郎の夢を見たことは前述した。こうした夢は、常に亡妻と鋼三郎であって、国太郎や鈴女でなかった。やはり亡妻への哀惜の念と共に、幼くして母を喪った鋼三郎への憐憫の情が鶴梁の心から消えてはいなかったのだろう。

 

幼少期の鋼三郎と継母との関係は鋼三郎の人格形成に何らかの影響を与えただろうと思われるので、もう一つのエピソードを記しておきたい。それはやや後年のことになるが、鋼三郎が14歳になった嘉永638日の林家内の事件である。『鶴梁日記』のこの日の条に、「庫、昨夜鋼児之儀ニ付立腹之処、今朝一人ニ而出宅ニ付、其趣数馬江文通及候処、他出之旨、乍去慥ニ手前江参候旨、老嫗被申聞候よし云々」、と記されている。継母庫子が林家に戻ったのは、それから3ヵ月近くを経た63日のことであった。その前月29日の日記に、「入夜中井老嫗来り、くら改心可致ニ付、詫云々被聞候事」とある。この間、兄の国太郎が連日のように中井家を訪れて継母の帰宅を促すなど、涙ぐましいほどの苦労をしている姿が日記に見える。

 

なお、これより前の弘化元年には異母弟の卓四郎が生まれている。『鶴梁日記』の嘉永2117日条に、「木村良治発会、鋼三郎拉卓四郎罷越す、鋼三郎二百文、卓四郎糊入米切二百枚持参」とあるので、10歳の鋼三郎は6歳の卓四郎を連れて木村良治の塾に通っていたのである。さらに、2年後の同4714日の条には、「鋼三郎、卓四郎両人ゟ岩田三蔵江素読世話ニ成候間、小杉紙一束遣ス」とあり、2人は木村塾に通う傍ら岩田三蔵にも素読を教授されていたのだ。しかし、その異母弟卓四郎がその年の12月に病死したのである。この日の鶴梁の日記に、「卓四郎儀、朝五半時過、死去致す云々」、と記されている。不幸は追い打ちをかけるように鋼三郎の家族を襲った。翌年326日の日記に、「暮六時過、於鈴死、渋谷脩軒、俵蘭海来、治療、不能救云々」とある。鋼三郎の3歳年上の姉鈴女は16歳であった。父鶴梁や鋼三郎の悲しみは如何ばかりだったろう。

 

嘉永47月から鋼三郎が素読の世話になった岩田三蔵は、この年3月から父鶴梁の門人となったばかりの人であった。その経緯が鶴梁の日記にある。34日の条に、「渋谷脩軒来迄入塾生之事云々、生名岩田三蔵、下総人、宮本水雲旧門生、手狭ニ付入塾相断ル」とあるものの、岩田の入塾の意志は固く、翌5日の日記には「岩田三蔵来、送松魚節一箱、喫午飯、去。又夕刻来ル積、夕刻来、喫酒飯、一宿、翌朝朝飯後去ル」とある。そしてその翌日の日記に、「渋谷生来、又々乞三蔵入塾云々ニ付、承諾す」と記されている。岩田三蔵(信卿)は後に幕臣となり、慶応210月に派遣された遣露使節(正使小出大和守)に徒目付として参加した人である。岩田の旧師宮本水雲とは宮本茶村のことである。既記のとおり茶村は鶴梁の友人桜任蔵の師でもある。ちなみに、筑波挙兵の将として敦賀で非業に死んだ竹内百太郎も、この人の門人である。その宮本茶村に学んでいた岩田三蔵は、入塾早々鶴梁から鋼三郎や卓四郎の素読の指導を託されたのだから、既に相応の学問を積んでいたのである。

 

父鶴梁は勿論、木村良治や岩田三蔵の指導のもと、鋼三郎の学問も進歩していたらしい。『鶴梁日記』の嘉永5323日条に、「国・鋼二児、堆橋輪講へ参候事、鋼三郎、今日初而也」とある。また、翌年39日条には「午後、詩会出席、高須鉄次郎(2人略)・三蔵・国太郎・鋼三郎、席上題、春雨」とある。嘉永5年は鋼三郎13歳の年である。この頃から、輪講や詩会に出席するようになっていたのである。なお、この年の4月に一家は麻布谷町の新居に移居している。この地(400)松代藩抱えの町家で、前年藩主真田幸貫(信濃守・天保12年から弘化元年迄幕府老中)の好意で鶴梁に贈与されたものであった。鶴梁は幸貫の信頼が深く、侍講も勤めたともこともあったという。また、水戸藩講道館を範として松代藩校を設立するため、幸貫は鶴梁から藤田東湖に問わしめたともいう。『鶴梁日記』には、真田幸貫との交流の事実が頻繁に記されている。

 

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嘉永66月、父鶴梁が遠州中泉の代官に任ぜられた。高橋雄豺の「幕末の儒者林鶴梁」(長谷川才次監修『歴史残花』収載)に、「(鶴梁の代官就任は)その前年九月に、かねて藤田東湖が鶴梁を推挙していた川路聖謨が一色丹後守の公認として公事方勘定奉行に任命されたから、鶴梁の代官任命が川路の手で行われたことは疑いない」とある(郡代・代官は勘定奉行の支配であった)藤田東湖が鶴梁を高く評価して、川路聖謨佐藤一斎に鶴梁を推挽していたことは前述した。遅きに失したが、藤田東湖と鶴梁の出会いについて、東湖の「見聞偶筆」に「乙未(天保6)の夏、彪(東湖の諱)、始めて会津藩士林甚右衛門が許に相逢ふ。一見故の如く、共に知己と称す。齢亦相同じ云々」、と記されている。2人は意気投合したのである。そうしたことから、鶴梁は東湖を介して徳川斉昭の引き立ても受け、また多くの水戸藩士たちとの交際があった。

 

中泉代官所は、遠江三河205ヵ村、58,150石余を支配した。『江戸幕府代官史料』によると、附属の役人は手付手代合わせて8名、中泉詰8名、出張陣屋詰3名、その他合わせて22名であった。中泉に近い天竜川は災害が多く、付近の民心は荒廃し、遠州は難治の評が高かったという。鶴梁自身も福井藩橋本左内へ宛てた安政381日付け書簡(『橋本景岳全集』)に、「一体遠州人気不穏、兎角支配申付候ても違背に及び云々」、と記している。鶴梁は917日鋼三郎(14)を含む家族4人と使用人、それに同行を願い出た門人2人を伴い江戸を出発し、丸7日間の道中を経て同月23日の黃昏時中泉陣屋に入った。なお、一家が江戸を発つ前月の7日には異母妹の琴子が生まれていた。

 

『鶴梁日記』で鋼三郎の中泉での様子を幾つか拾ってみよう。15歳になった翌嘉永7(11安政改元)正月2日の条に、「午後、国太郎、鋼三郎、喜平、近村縦歩、見附古城跡、今之浦、并ニ御殿跡等罷越、黃昏帰陣」とあり、同月8日には「国太郎、鋼三郎、喜平召連レ、御飯後福田湊ゟ三鹿原江参リ、夕刻帰陣、二役所見回ル」、翌月11日条には「国太郎、鋼三郎、拉喜平、袋井辺へ朝ゟ参リ、夕帰ル」等とあって、鋼三郎が時々8歳年上の兄に伴われ、領内の巡回と名所旧跡等の見学をしている姿が記されている。

 

また、『鶴梁日記』の嘉永773日条に、「杉山東七郎ゟ国太郎ヘ一封、同竜太郎ゟ鋼三郎江一封」とあり、同月14日には「鋼三郎ゟ杉山竜太郎ヘ紙包壱、中井房次郎ヘ同断壱」、翌85日条には「房次郎・幸次郎ヘ鋼三郎ゟ手紙遣ス」等と、鋼三郎と江戸の友人たちとの書通の様子が記されている。ここにある中井房次郎は中井数馬の子であり、杉山竜太郎は杉山東七郎の子と思われるが、いずれも父鶴梁の門人でもあった。ちなみに、杉山竜太郎が鶴梁の門下となった嘉永4125日の『鶴梁日記』に、「杉山竜太郎入門、束脩扇子箱台共、并ニ目録百疋持参、東七郎も同断、麻上下着用、入門同様候旨申聞候事云々」とあり、杉山東七郎自身も鶴梁に師事していたのだ。杉山東七郎は鋼三郎の兄国太郎の剣術の師匠でもあり(嘉永24月入門)、鶴梁自身も時々杉山から剣術の手ほどきを受けてから、鋼三郎も指導を受けていたのかも知れない。

 

なお、杉山東七郎については『鶴梁日記』嘉永元年624日条に、「(前略)到杉山東七郎宅、(中略)糀町三宅屋敷裏出雲内蔵頭家来分、神道無念流元祖岡田十松門人」、と記されている。杉山東七郎政和は、旗本交代寄合本堂親道(8000)の家来の子で、初め松山直次郎(他に杉山直次郎、松山大助、杉山大助とも)といった。撃剣館岡田十松道場で修行し、文政10年に兄弟子斎藤弥九郎の推挙で韮山代官所江戸役所の雇侍となった。主に江川太郎左衛門英龍の子十五郎英毅の剣術の相手をつとめ、後に同門秋山要介らと韮山随行した。文政12年には韮山を辞して翌年3月に江戸の麹町で道場を開いたという。天保5年暮か翌6年早々に渡辺崋山の招きで田原に赴き、同年2月中旬まで滞在して田原藩士たちの指南に当たった。翌々年には3人扶持で田原藩の江戸における剣術指南として召し抱えられた(以上は主に木村紀八郎著『剣客斎藤弥九郎伝』による)

 

『茨城史林』第41号収載「剣客金子健次郎について」(あさくらゆう稿)によると、杉山東七郎は天保12年には田原藩を辞して交代寄合本堂親道(慶応47月加増されて志筑藩を立藩)の家来になったという。或いは父の跡を継いだのかも知れない。なお、「江川英龍直門名簿天保139月に入門者中に東七郎の名があるから、江川太郎左衛門英龍に砲術等の教えを受けてもいたのである。鋼三郎の兄国太郎が杉山東七郎道場に入門した嘉永2年当時は、麹町の本堂家の一角で道場を開いていたのである。ちなみに、鶴梁の「嘉永三年覚書」に、「本堂内蔵助、八千石、三十五六計、惣領好学云々」、と記されている。

  ※以下は次回29(2)に続きます。

28の(2) 幕臣となった水戸郷士小室謙吉の半生

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宇都宮藩はその年(元治元年)1111日に至って、懸信緝らに対して正式な罪科の申し渡しを行っている。信緝に対する申渡書には、「其方儀当四月以来大平山へ集候水藩之由浮浪之者共盡忠正議之者ト見込重立取計候自事起衆心及動揺候儀ニモ至」り不埒であるとして、「御番頭末席遠慮被付者也」とある(『史料宇都宮藩史』)。そして、『懸六石の研究』には、この時処分された者の中に「小室登の名が記されていない所から、彼等はまだ罪科保留と見」るべきであると記されている。しかし、小室謙吉の6月以降の行動から推察すると、これ以前に幽閉は解かれていた可能性もある。それを証する資料の一つが、一橋家の野州高根沢陣屋役人横井鐐之助の日記(「横井氏日記控」・『渋沢栄一傳記資料』中)である。これも既に本ブログ22で、元治元年7月に渋沢喜作と同苗栄一が人選御用で陣屋を訪れた際の出来事として引用しているが、ここに再度転載することとする。

 

「八月七日、宇津鐘吉罷出、鹿沼宿本陣ニ居候医師鈴木鍵益と申モノ江戸表渋沢之族()宿迄来リ、此度組立之者共之内江組入之儀願出候由ニ而、宇津権右衛門厄介ニ致シ、請書差出候様致度段、渋沢并右鈴木両人より飛脚ヲ以権右衛門方江申越、前鈴木鍵益ハ水戸産ニ而慥成者兼而権右衛門モ存意之モノノ由ニハ得共(候脱ヵ)、先頃浪士大平山ニ籠リ居候節ハ、仲ケ間ニ相成、当時浪士之方破門致し候赴ニ付相断候様可旨申聞候事」

 

宇津権右衛門は救命丸で知られた宇津家の当主である。鐘吉は宇津家の者と思われる。87日当時、渋沢両人は関東の一橋領の廻村を終えて江戸に戻っていたので、小室謙吉も江戸に滞在中だったことになる。その経緯は不明だが、小室謙吉は一橋家に出仕しようとしていたのである。しかし、謙吉は一橋家領外の人であったため、宇津家の厄介(居候)という名目を得るために渋沢両人と謙吉が依頼の書簡を送ったものの、後難を恐れた権右衛門に断られたのである。もっとも、いかなる方法を取ったのか、謙吉はこの年一橋家に士官しているので、京都に戻る渋沢両人と共に上洛したものと思われる。

 

渋沢栄一の回顧談『雨夜譚』に、「九月の初めに右の五十人ばかりの人数を連れて中山道を京都へ」登ったとあるから、謙吉もこの一行の中にいたのだろう。一橋家家臣(この時穂積亮之助と改名・以後本稿ではこの名を用いる)としての穂積亮之介の活躍を見る前に、ある事件に触れておきたい。それは穂積が渋沢たちと上洛したと思われる翌月(10)22日、相州鎌倉の若宮小路近くの路上で起きた英国士官殺害事件である。この日、鎌倉の名所を馬に乗って遊歩中の2人の英国士官が、暴漢2人によって無惨に惨殺されたのである。その後、犯人の1清水清次は江戸深川の仮宅で捕縛され、1130日に横浜戸部の刑場で斬首の上梟首された。そして、もう1人の間宮一も翌年9月に捕らえられて清水と同じ運命を辿ったが、先に処刑された清水清次という人物が穂積亮之助の関係者だったのである。

 

この事実は、『原胤昭旧蔵資料調査報告書』(東京都千代田区教育委員会発行・以後『調査報告書』という)の中の「殺害英人之件」に関する北町奉行所同心山本啓の在方出役の際の記録(「廻り方手控」)で知ることができる。この中で、清水清次在牢中の風聞取調等により、「細川越中家来医師田中春岱、并疑敷廉有之」として田中春岱の妻ふみ(20歳・川越の出)を尋問した結果、「(田中家で)水府浪人之由、横田藤四郎并小栗徳三郎、小室健()吉同人へ随身いたし候清水清次、北里常助、其外名前不知浪人体之もの多人数集会いたし候義有之云々」等の供述があった外、夫春岱は先年病死した父の墓参と称して1122日に江戸を出立し、国元(桑名)到着後は「小室健吉義一橋殿付ニて京地ニ罷在、中林紋蔵も右を便リ罷在候間」、これに会うために上洛したらしいことが判明したのである。

 

田中春岱は前記した『宮和田光胤一代記』に、「(宮和田が)兼テ田中春岱方已来懇意人ハ鈴木鎌吉」とあった人である。小栗徳三郎は尾張の人で宮和田と同門千葉周作の門人であった。穂積を頼って上洛した中林紋蔵については、『調査報告書』の「牢内風聞」に「紋蔵ハ清次元主人一橋付三上良之助え随身いたし、京都え御供いたし、同所ニ罷在候由」とある。三上良之助は穂積亮之助の誤り(或いは変名)と思われるが、中林紋蔵も穂積亮之助の従者として上京したというのである。また、これらにより、前述した、この年54日に水戸藩下目付と称して栗橋関所を通過した「小室献吉僕壱人」(『栗橋関所資料』)の「僕」とは、清水清次だったのではないかと思われる。

 

『調査報告書』によると、清水清次は下獄後の厳しい尋問にも口から出任せの自供を繰り返すだけで、決して共犯者の名は明かさなかったという。清水清次が剛直な人であったことは、清次の処刑に立ち会った英国公使アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』にも、清次が刑場に引き出された際、「その男(清次)の口からの最初の言葉は、酒をくれというのであった」とか、斬首の際も「清水は、日本の役人に目隠しないでくれというのであった」とある。こうした清次の態度にアーネスト・サトウは、暗殺者を憎まずにはいられないが、「この明らかに英雄的な気質をもった男が、祖国をこんな手段で救うことができると信ずるまでに誤った信念をいだくようになったのを遺憾とせずにはいられなかった」、と記している。

 

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この鎌倉の英国士官殺害事件に関する清水清次の共犯者については、当時奉行所役人の得た情報も錯綜していたらしい。『調査報告書』中の「牢内風聞密々探索仕候赴」として、「大畑外記、水府浪人三野歓次、原庄作、中林文蔵、清次五人ニて殺候由、右歓次、庄作ハ清次被捕候迄は、春岱方ニ罷在候由、外記ハ当時水府浪人武田伊賀之介ニ付居由」、とある。こうした情報から、奉行所では「京都類役共へ春岱并中林紋蔵行衛探索方申遣」わすと共に、南北両奉行所の三廻り役人を京都へ派遣した。元治元年125日付けで南北両奉行所役人が京都町奉行所役人に対して、「中林紋蔵と申もの、一橋殿付穂積亮之介え随身いたし、同人を相便罷在候付、御地ニ立廻可申赴、(中略)是非春岱并中林紋蔵とも召捕候様」にと要請している。こうした結果、田中春岱は12月中に京都市中で捕縛されている。

 

下獄した田中春岱が奉行所役人に自白したところによると、春岱は桑名藩馬廻役渡辺勝左衛門の4男で、23歳のときに細川越中守の定府医師田中立庵の養子となった人で、当時42歳だったとある。また、春岱の供述によれば、自分は亡父の墓参の後、「一橋殿御家来穂積亮之助ハ知己ニ有之、同人伜より届物も被相頼候付」、懇意の桑名藩士が上京するのに同行して入京し、「亮之助を相尋候処、当節北国筋へ出張罷在候赴ニ付、頃日ニも帰京いたし候ハゝ面会可致と存候内」に就縄の身となったとある。これが事実なら穂積亮之介には息子がいたことになるが、この事実は管見にして知らない。さらに春岱は、「先年右亮之助義江府ニ住居之節、家僕ニ罷在候懇意ニいたし候駿府御蔵番伜清次と申もの、当十月初頃出府、芝口弐町目ニ旅宿此者方へ度々雑居罷越し候」等と自供している。通説では清水清次は遠州金谷の浪人清水健次郎の子とされるが、この田中春岱の供述によれば幕臣の子だったのであったのである。

 

この英国士官暗殺犯人については異説がある。まったくの余談になってしまうが、押し込み強盗の頭目で旗本の青木弥太郎の懺悔談(「青木弥太郎懺悔談」)がそれである。この懺悔談によると、青木弥太郎の仲間である「井田(進之助・姫路の人とある)(平尾)桃巌斎の息子は」、入牢した仲間古田主税の家から千両もする貞宗の刀を盗み出し、「逃げて行く途中、鎌倉で西洋人を斬りました。それはまったく井田と桃巌斎の息子が斬ったのです。けれども、水戸浪士の清水清次というものが、私が西洋人を斬りましたと言って訴え出て」横浜で処刑された。そのわけは、「清水は何か賊を働いて江戸におられないで、逃げて行く途中、井田に出会って西洋人を斬ったということを聞いて、どうせ無い生命だから自分が西洋人を斬ったことにして、自訴に及んだ」のだというのである。

 

この話の真偽は不明だが、清水清次が横浜で事件を起こす前に2人の無宿人(蒲池源八、稲葉丑次郎)と押込み強盗を働いていたことは事実であった。1118日に戸部の刑場で清水清次と共に処刑された2人の罪科申渡書(栗原隆一著『斬奸状』)に、「清水清次共々相州鳥羽村農家へ罷越、清水儀横浜表外国人退治に罷越に付、軍用金可差出」不承知なら斬り殺すと脅して多額の金を奪い、清水から配分金を貰ったとある。また、清水清次の罪科申渡書には、押借りの後に2人と別れ「住所不知高橋藤次郎と申合、相州鎌倉八幡前におゐて外国人切害致云々」とあるから、もし青木の話が事実なら、清水が横浜へ赴く途中で井田進之助と桃巌斎の息子に会ったということになる。しかし、押借りの罪と外国人殺害の罪ではその量刑の差は明らかなので、清水清次が敢えて井田らの罪を被ったという青木の話は信じ難いと言わざるを得ない。

 

なお、井田進之助と平尾桃巌斎の息子は、「青木弥太郎懺悔談」によれば、その後鎌倉の某寺に逃げ込んで匿ってもらっていたという。しかし、このことを住職の妾が訴えでたため、井田は姫路へ逃げて行く途中で捕らえられ、桃巌斎の息子は江戸牛込の本田某の士となっていたところを捕らえられ、両人とも殺されたと記されている。平尾桃巌斎信種とその養子間宮一(杉本右近)については、本ブログ19(3)「神に祀られた旧幕臣松岡萬」でふれている。なお、鎌倉の外国人殺害事件については、更に事件の事実を混迷させる史料が存在する。それは『旧事諮問録』に載る、事件当時の江戸町奉行山口直毅(泉処)の次のような話である。

 

町奉行の時に清水清(原注・常陸谷田部郡細川家浪人)が両人できたことがありました。あの英人(中略)を斬った奴です。あのとき捕まえて、全くこうこうで、こういう風に斬ったと申して爪印までした。それが二、三年経って、また清水清次というのが出て、つまらぬ罪で捕らえて見ると、英人を斬ったことを白状するので、それが言うことも前の清次と暗合し、年齢そのほかも似ている、どうして斬ったとか、どこで昼飯を食べてなぞと、暗合しているから不思議まのです。そのままにして置きまして、私は転役しました。どういたしましたか、牢死でもしたそうです云々」

 

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穂積亮之助が一橋家に勤仕した正確な日付や職位は定かではない。穂積と共に上洛したと思われる須永伝蔵(於菟之輔・渋沢栄一従兄弟)の一橋家への出仕が元治元年11(山崎有信著『彰義隊戦史』)なので、穂積も須永と同じ11月だったと思われる。その11月の中旬頃から京都市中に、水戸の天狗党が京都を目指して中山道を西上中であるとの噂が流れるようになっていた。藤田小四郎ら水戸天狗党筑波山再登山後、諸生党や幕府軍・近隣諸藩兵との抗争を繰り返していたが、衆寡敵せず10月下旬には武田耕雲斎率いる一隊や潮来勢と共に那珂湊を脱出していたのである。武田耕雲斎を主将とした1000余人の天狗勢は、禁裏守衛総督として在京中の一橋慶喜公に伏奏して尊攘の素志を貫徹しようと、京都を目指していたのである。

 

1128日には、いよいよ天狗勢が京都に近づいたとの風聞が伝わり、洛中は不安の空気に包まれたが、この時幕府は既に目付由比図書を関ケ原方面に遣わして迎撃体制を整えつつあった。そうした中の同月29日、一橋慶喜は自ら出馬して天狗党を追討することを朝廷に願い出たのである。『徳川慶喜公傳』によると、これは本国寺詰めの水戸藩(本圀寺党・天狗派)たちが、同志たちを「他藩の手に討取らせては藩の面目にも係るべければ、水藩の一手にて討取り、且死罪を宥めて大名預となさんと」働き掛けた結果であったという。おそらく慶喜自身の心底も同じ思いだったのだろう。

 

慶喜の願いは2日後の30日、朝廷内で一部の異論はあったものの「若し降伏せば相当の取扱致すべし」との条件付きで許され、翌月3慶喜は出陣し、大津に本陣を置いた。この出陣に際し、「御出陣ニ付思召を以御手当被下左之通」として、金八両づつが御用談所調役渋沢成一郎と渋沢篤太夫(栄一)、並びに御徒目付組頭穂積寛()之輔の3人に支給されている(渋沢栄一伝記資料』中「御出陣中御書留」)。これによれば、穂積は当初から御徒目付組頭として採用されていたらしい。

 

なお、この穂積の役職については異なる資料がある。それは渋沢栄一編『昔夢会筆記』中の薄井龍之の話で、「その頃京都の一橋家には御用談所というのがあって、その主任が原(市之進)、梅澤(孫太郎)、黒川(嘉兵衛)、川村(恵十郎)、それから渋澤篤太夫、渋澤成一郎、穂積亮之助というような顔ぶれ云々」とある。なお、薄井は天狗党筑波山に挙兵当時から参加し、西上途中の故郷飯山付近で一隊から離脱した人である。薄井は大正37月の史談会の席上で、「京都へ上って、慶喜公に其建白書(藤田小四郎から内々に頼まれた天狗党の素志を認めた書)を上る積りで、京都の若狭屋敷に行きました。所が私の目的の人、御用談所調役穂積良之助という者が慶喜公の内名を受けて越前に出て」いたので、渋澤栄一に頼んだが取り合ってくれなかった、との逸話を語っている。また、これとは別に、金沢藩士の記した「葉役日録」(『水戸浪士西上録』収載)の元治213(47日慶応と改元)の条に、「一橋様御目付木村幾太郎、同御用談所懸り渋澤誠一郎、同儒官穂積亮之助云々」とある。いずれが事実なのか定かでない。

 

さて、武田勢(水戸天狗党)中山道を一路京都を目指し、121日には谷汲川を渡って揖斐に宿泊した。この時、武田勢が草津方面へ向かうことを阻止するため、畿内への入口である関ケ原彦根と大垣の藩兵が布陣していた。この日、武田耕雲斎の元へ「先鋒総督」とのみ記された書状が届けられている。そこには「(前略)脆弱な兵で貴殿の鋭鋒に当たるのは、火に飛び込む蛾の如きものである。それを知りながらここまで出陣して来たのは、誠に武士たる者の止むを得ざる処である。故に勝負を度外視し、敢えて次のように請うものである。私の首を以て入京の土産とせよ」(原漢文・要約)とあった。こうしたこともあって、武田勢は中山道を断念して美濃から越前・若狭を経て京都に至る道を選ぶこととなったという。後にこの差出人不明の書状を見た穂積亮之助が、「斯る文書を書き得るものは由比図書の外あらざるべしと云ひしとぞ」、と『筑波始末』に記されている。由比図書はその日大垣の陣中にいて、穂積の推測は当たっていたという。

 

同月2日に揖斐を発した武田勢が、その後蝿帽子、笹又、木ノ芽等の言語を絶する雪中の険路を経て、越前新保に至ったのは同月11日のことであった。しかし、その行く手の葉原には、永原勘七郎(孝知)、赤井傳右衛門(直喜)、不破亮三郎(真順)率いる2000加賀藩兵が満を持して待ち構えていたのである。以後の、永原勘七郎らの武士道の真髄をみるような武田勢への対応は、残念ながら紙幅上割愛せざるを得ない。永原らは武田勢に同情して、西上の真意等を書した耕雲斎の嘆願書を大津の本営に差し出したが、その仲介の努力も虚しく、幕吏や一橋慶喜の指示によって武田勢への総攻撃は17日と決定された。その総攻撃の前日、不破亮三郎が武田勢にその旨を通告するため、葉原へ赴いたことが『徳川慶喜公傳』に記されている。そこには次のようにある。

 

「此日(16)加州藩は不破亮三郎を武田伊賀の陣に遣して手切の談判に及びしに伊賀守遂に降伏の意を表せしかば、乃ち本営に報じて進撃の猶予を請ふ。次で伊賀等再び嘆願書始末書といへるを呈出したれども、是れ亦陳情に過ぎずと却下せらる。黒川嘉兵衛、梅沢孫太郎、原市之進、穂積亮之介等相謀り加州藩士をして密に伊賀に就いて「呈書いつも陳情に止まらば、一橋殿には天朝、幕府に執成の道なくして、焼き捨てらるゝの外なし」と言わしめたれば、二十日伊賀等遂に降伏状を加州の軍門に送れり」

 

このことについて、金沢藩士の記した先の「葉役日録」には、「手切之談判として、亮之助彼陣江罷向。且穂積亮之助子細有之鈴木賢蔵与称ル同伴いたし、則及談判候処、(中略)弥降伏いたし候段小野斌男(藤田小四郎)段々之申聞無拠次第に而、重而降伏可差出与申聞候付引取云々」とあって、『徳川慶喜公傳』と異なり、穂積が不破に同行して藤田小四郎との談判をしたとある。「南越陣記」(『若狭路文化叢書』第12集「水戸天狗党敦賀関係史料」)には、「一橋公御内意ヲ含穂積亮之介罷越降伏状認方幕府ェ奉対恐入候趣相調有之候得者御取揚可有之段黒川嘉兵衛殿原市之進殿ヨリ申来候ニ付」、あらましの草稿を作成して武田陣営へ届けたと記されている。20日に耕雲斎が修正した降伏状が正式に受理される21日までの間、穂積は武田耕雲斎らの加賀藩への投降に大きく関わっていたのである。なお、徳川昭徳(後の昭武)に寄合隊長として従軍していた酒泉彦太郎(正元)の日記(「酒泉直滞京日記」)に、穂積に関して次のような記事がある。

 

武田正生以下加賀金沢藩の陣営ニ降ル。我藩ニ帰陣ヲ命ス。依テ兵ヲ督シテ駄田駅ヲ発ス。茲ニ督府ノ臣穂積亮之介神保ヨリ来リ会シ、武田始メ面会ノ情況ヲ聞ク。穂積ハ総督府内命ヲ以テ神保ニ出張シ、武田、藤田面会セント云。其際藤田信ハ平袴ヲ穿チ陣羽織ヲ被イ、太刀帯テ応接ニ出居シト云。穂積密ニ武田ヘ内意ヲ漏シ、武田源五郎ヲ誘引シテ京都ニ入リ大野鎌介ノ尽力ヲ以テ因州邸ニ潜伏シ嫌疑アルヲ以テ後備前岡山ニ移ル」

 

水戸天狗党の降伏が正式に認められたのは1221日で、水戸藩兵が駄田を引き払ったのが同月24日、そして京都に帰還したのは翌年13日である。ということは、穂積が帰京中の水戸藩陣営を訪れたのは24日以後のことになるので、この酒泉彦太郎の日記の内容からすると、穂積はこの間も慶喜の本陣と新保の間を往復していたらしい。なお、文中、穂積が天狗党の陣中から密かに連れ出し、大野鎌()介を介して因州藩邸に潜伏させた武田源五郎とは、武田耕雲斎4男である。この武田源五郎救出のことは、本ブログ18「知られざる水戸郷士大野謙介」でふれている。しかし、穂積亮之助が大きく関わっている事件であるため、ここでも屋上屋を重ねることとする。

 

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穂積亮之助から武田源五郎を引き受け、因州藩邸へ伴った水戸郷士大野謙介は前年9月、凝花洞の守衛の職を解かれ、当時は京都市中に滞在していた。なお、「酒泉直滞京日記」に記される、大野謙介が穂積から武田源五郎を預かり、さらにその潜匿を依頼した因州鳥取藩の用人安達清一郎(清風)の日記(「安達清風日記」)の元治212日条に、「水戸武田源五郎、原幸三郎両人原市ゟ□被託」と記されている。「原市」とは一橋家用人原市之進で、原幸三郎はその弟である。これによれば、穂積が新保から連れ出したのは武田源五郎だけではなかったのである。ちなみに、同じ「安達清風日記」文久3913条に、「晩與水戸、原、大野、梅澤会飲、于三樹月波楼極愉快云々」とある。「原」は原市之進、「大野」は大野謙介、「梅澤」は小十人目付の梅澤孫太郎である。武田源五郎らの救出に係わった大野謙介、原市之進、安達清一郎は皆旧知だったのである。穂積と大野の交際の実態は不明だが、尊攘の志を同じくする水戸郷士同士であるため、早くから交際があったのだろう。なお、武田源五郎らの件については渋沢栄一編『昔夢会筆記』に上記とは異なる事実が記されているので、長くなるが以下に引用する。

 

「穂積亮之助、あれが一番あすこ(武田源五郎の救出)を斡旋しましたので、猛(武田源五郎)を引き出したのも穂積らしゅうございます。(中略)穂積が御前(一橋慶喜)の御内意をもって、耕雲斎は誠に罪はあるけれども、その事情を察してみると甚だ愍然の情もあるによって、とにかく名家であったものを、この一挙で祀を絶やしてしまうというのは甚だ不憫に思う。それでこれはあるまじきことだが、誰か一人子供でも具しているならば、それをひとつその方が行って秘密に救い出せという御沙汰を蒙って、そこで有難いことだというので、すぐにかの地へ参りまして、そうしてかの原、梅澤などとだんだん相談をしましたところが、これも誠に喜びまして、幸いに穂積が、これまで武田勢から趣意書、嘆願書などを出しましたことについて、かの陣へたびたび往来しておりますところから、その伝手で穂積が耕雲斎に会いまして、何か秘密話を致したのでございましょう。もとより穂積が明言しているのではありません。またほかに確証も見出しませんが、何が動機となったものでございますか、すぐに一行の中から武田猛、梶又左衛門、原幸三郎、この三人を連れ出して、京都へ参りまして云々」

 

これは元桑名藩士江間政発(蘇洞・漢学者)の推測を含めた話であるが、この話について、渋沢栄一を初め当時の事情を知る人たちの異論がなかったらしいから、ほぼ事実に近いのだろう。もっとも、同じ『昔夢会筆記』の中の武田金次郎(源五郎)の談話に、穂積に連れ出された源五郎と原幸三郎以外の人物は、梶又左衛門ではなく三木左太夫()であったとあり、他の資料上からもこれが事実らしい。また、『昔夢会筆記』には江間が後日武田金次郎(源五郎)から聞いた父子別離の当時の話が載っている。それによると、源五郎が耕雲斎に呼ばれて「父の前へ出たところが、これから藤田小四郎を加賀の陣屋に遣わすから、貴様もついて行け、しかしこういう場合だから、どんな間違いができぬものでもないから、万一のことに際会したならば、潔くやれ、卑怯なことをしては相成らぬ、そこは厳重に申し渡すからと言って、懐中から黄金を三枚、それに新しい下帯を三筋添えまして云々」と、父耕雲斎と別れたという。なお、耕雲斎には源五郎以外に、長男彦衛門と次男の魁介、それに3男藤太の4人が従っていたが、藤太は鹿島郡飯田村で敵軍包囲の中屠腹、彦衛門と魁介は父と共に敦賀で斬首された。ちなみに、耕雲斎の妻、13歳と10歳の息子、それに孫の男子3人も、耕雲斎らが斬首された翌月諸生党によって無惨に殺害されている。武田家で唯一生き残った源五郎は大正5(1916)まで生存した。

 

余談が長くなったが、江間政発の談話と先の「安達清風日記」の記述を考え合わせると、穂積が武田陣営から密かに連れ出したのは3人で、このうち因州鳥取藩に託したのは源五郎と幸三郎の2人だったのである。なお、江間は別のか所で源五郎たちの救出に関して先の話とはやや異なり、原幸三郎も合わせて助け出したことから想像すると、「やはり原、梅澤、穂積あたりの極の機密上から、君公へは恐れ入りったことだけれども、御名を矯め奉って、そんな挙動に及んだのだろうと見込みをつけても、大差ないだろう」と推定している。もっとも、これに対して阪谷芳郎は「原市之進の専断でやったことになりますな、一橋公の御沙汰だということもできず、御沙汰がなくてはできぬことであるし云々」と発言している。慶喜や原市之進たちは当然耕雲斎ら天狗党の人たちの投降後の過酷な運命を予想できたろうから、思う所は同じだったのだろう。          

 

再び『昔夢会筆記』中の武田金次郎の話に戻そう。耕雲斎との別離の際「他に同席の人はありましたか」との質問に対して金次郎は、「同時に会ったのが今の穂積亮之助、それが何用かで来ておった。その時父は烈公から拝領した小さな銀の時計を持っておった……、その時には結構なもので……それを腰から取って穂積にくれました。それですぐに小四郎も支度をして、さあ行こうというので、そんな連中四、五人して加賀の陣へ行って」、その後すぐに穂積が3人を連れて京都へ行った、と証言している。耕雲斎は穂積に銀製の時計を贈って感謝の意を表したのである。穂積は感激ひとしおだったと思われる。穂積が維新後に穂積耕雲と名を改めていて、これは穂積が武田耕雲斎に私淑していたためだという。なお、武田源五郎らの救出については、以上の事実とは異なる資料が「南梁年録」(茨城県史料』幕末編Ⅲ)及び『野史台維新資料叢書』36中の「野史一班」で確認できる。参考までに、最後に「南梁年録」に記される事実を引用しておくこととする。

 

       三木左太夫 武田源五郎 原幸三郎

右は加州ニて大目付役相勤候永原陣七郎同勤不破良()三郎と申者敦賀出張之節、永原事武田より倅源五郎を貰い請自分倅之槍持ニいたし、京都原一之進手元へ相送り候由之処、当節矢張永原倅方に可罷在由、三木と原とは不破永原の人数へ打交り京都へ入込候へ共、当節は多分備前之国へ参り居可申との由

 

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水戸天狗党の西上事件のあった年の翌年である慶応元年以後の穂積亮之助については、本稿冒頭でほとんど未確認であることをお断りした。ただし、手元の資料に僅かながらその名が認められるので、参考までにその事実だけを以下に書き留めておくこととする。

 

『安達清風日記』慶応2127日条の、「晩與長森穂積三国諸人飲于天萬亭云々」とある中の「穂積」は亮之助ではないかと思われる。翌212日には「晩秋田晴吉穂積良之助城井慎太郎酒焉」。520日には「晩與三国幽眠秋田稲人穂積亮之輔同六郎重春塘(等ヵ)ト川上村榎並氏之別荘ニ飲、夜間雨大至遂投宿云々」とある。「同六郎」とある人が誰であるかは気にかかるところである。また、この年については『渋澤栄一傳記資料』の中に、一橋慶喜の第二次長州征伐への出陣に関係する826日付けの「御出陣御供被仰付御留置ニ相成候姓名」にその名が認められる。具体的には、御用人(榎本亮造、佐久間小左衛門、原市之進、梅澤孫太郎)手付として、川村恵十郎、渋澤篤太夫、穂積亮之介の3名の名が記されている。

 

慶応3年に関しては、『淀稲葉家文書』(日本史跡協会叢書)に収載される、1215日付けで穂積と新井謙二が記した探索書が確認できる。これは、主君徳川慶喜が京都二条城を立ち退き大阪城に入った(同月13)後の慶喜に対する朝廷や諸侯の評判や、朝廷と諸侯の動静を記したものだが、ここでは内容の紹介は割愛する。慶喜の京都退去後も、穂積は京都に残留して精力的に諸藩の知人を訪ね、情報の収集に当たっていたらしいが、その後の穂積に関しては一切把握できていない。なお、維新後の穂積に関しては先の小林義忠氏の「幕末・明治維新を駆け抜けた男()―勤王志士・梅村速水の生涯と思想―」に簡明にふれられているので、参考までに引用させていただきます。

 

「穂積は一橋(徳川)慶喜と静岡に移ると、旧幕臣として仕え国文学教授となった。『教育勅語』・『中庸随神解』等書籍がある。明治六年東京府に転籍し教部省より俳諧教導職に任命され、鈴木鉞太郎(原注・号を月彦)と称した。また浅草鳥越神社の祠官を歴任。埼玉県大宮の氷川神社少宮司となり、同十五年千葉安房神社宮司に転じ、明治二十年四月九日正七位を贈られる。二十二、三年頃同社を辞して東京・神田三崎町の稲荷神社社司に転じたが、同二十五年三月二十九日、六十九歳で没した。穂積耕雲の墓は東京都染井霊園に埋葬されていたが、その後、明治三十三年栃木県鹿沼市寺町の雲龍寺に移葬されている。」

 

過日穂積耕雲の墓があるという鹿沼市雲龍寺を訪れ、ご住職の奥様の案内を頂いて鈴木家の塋域を確認したが、鈴木石橋以外の墓石はいずれも風化が進んでいて穂積耕雲(鈴木俊益)の墓石を確認することはできなかった。

28 幕臣となった水戸藩郷士小室謙吉の半生

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小室謙吉という人物については、本ブログ中の「若き日の渋沢栄一の転身」や「玄武館千葉道場塾頭真田範之助」等の中でふれているが、本稿では重複をお許しいただき、筆者がこの人物について確認できた事実を記しておきたい。もっとも、小室謙吉に関する手元資料もごく僅かであり、特に謙吉が幕臣となって以後、特に慶応元年(1865・括弧内は原注とない限り筆者注)以後については一切確認出来ていないことを予めお断りしておきます。なお、小室謙吉については各種資料に、小室昇()、小室献()吉、鈴木献吉、鈴木俊益、鈴木賢蔵、そして幕臣になってからは穂積亮之助、維新後は一時期鈴木鉞太郎(号・月彦)、神官として穂積耕雲等の名が認められる。本稿では便宜的に小室謙吉の名を基本に、幕臣となって以後は穂積亮之助の名を用いることとします。

 

小室謙吉の「謙吉」の名は通称と思われるが、その幼名や諱等については定かでない。謙吉は文政7(1824・月日不明)に小室藤次衛門(小室家当主の通し名)の子として、水戸藩常陸国那珂郡下檜沢村(茨城県常陸大宮市)に生まれている。小室家は水戸藩献金郷士で、農を業としていた。謙吉は次男で、兄は藤次衛門(吉満)と言った。兄藤次衛門の長男左門(吉久)は、慶応4年に滋野井公寿に従った赤報隊士として刑死した人である。なお、小室家近くの山腹に小室家歴代の葬地があるが、その墓石の多くが後年合葬整理されたらしく、某日小室家々人のご案内を頂いて確認したが、最上段に祀られる小室左門の碑以外、謙吉の父母や兄の墓石を見出すことはできなかった。

 

小室家のある下桧沢村は、茨城と栃木の県境に近い現在の県道常陸太田・那須烏山線沿いの山狭にあり、小室家は下桧沢の集落からやや離れた県道沿いにある。現在も4メートルにも及ぶ漆喰塗りの土塀と広大な屋敷が残されている。「壬申年生産高取調書上」(『美和町史』)によると、明治5(1868)の下桧沢村の米・麦以外の主要生産物は楮700両、煙草673両、蒟蒻225両の3品となっている。明和5(1766)の「紙問屋講中一覧」(『美和町史』)に「問屋並、小室藤次衛門」とあって、小室家が当時紙問屋を営んでいたことが確認できる。しかし、寛政7(1795)に「問屋」として藤次衛門(謙吉の父ヵ)の名があるものの、弘化4(1847)には名がなく、おそらく幕府の寛政の改革で紙の需要が激減したために廃業したのだろうという。

 

小室家では煙草や蒟蒻の生産も手掛けていたと思われるが、蒟蒻の仲買商も営んでいた。元治元年(1864)の「御国産物粉蒟蒻改仕出覚帳」(『美和町史』)によると、小室家ではこの年粉蒟蒻100俵を出荷し、その前年の文久3(1863)には藤次衛門が「粉蒟蒻改人」に任命されている。言うまでもなく、この藤次衛門が小室謙吉の兄である。

 

小室謙吉がどのような幼少年期を過ごし、後に郷里を離れて鹿沼宿に出るまでの間文武を誰に師事したのかも一切不明である。『美和町史』に「野口の時雍館からは斉藤監物、田尻新介、鯉淵伊織、下桧沢村の小室藤次衛門を排出した云々」とあるから、謙吉もここに学んだのかも知れない。しかし、時雍館は謙吉が27歳の年の嘉永3(1850)に開設されたというから、この当時謙吉は既に下桧沢村を離れていた可能性がある。

 

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江戸の難波町で北辰一刀流の剣術道場を開いていた宮和田又左衛門光胤の自伝『宮和田光胤一代記』に、「鈴木(小室)謙吉此謙吉ハ水戸野州境領分郷士之次男ニテ例幣使街道鹿沼宿へ聟養子ニ被参候人ノ由」とある。また、薄井龍之(督太郎)の「江東夜話」(頼山陽の家族』収載)にも、「此鈴木と云ものは下檜山郷士小室藤次衛門といふものゝ弟で鈴木方の養子に参ったもので云々」と記されている。このことについて、水戸市郷土史会発行の『郷土文化』第54号に載る小林義忠氏の「幕末・明治維新を駆け抜けた男()―勤王志士・梅村速水の生涯と思想―」の中に、小室謙吉は「後に野州鹿沼宿で医を開業する。鈴木文平の塾麗沢舎に入門し、儒学や医術を学び、文平の娘かい子の婿養子となり、名を鈴木俊益と改めた」とある。謙吉は儒医鈴木文平に儒学と医学を学び、後に鹿沼宿で医を開業して師文平の娘の婿養子になったというのである。

 

小林義忠氏の論稿では、謙吉は結婚と同時に鈴木俊益と名を改めたかの如くにとれる。しかし、鹿沼市教育委員会発行の『鈴木石橋と麗澤之舎―鹿沼の知の文化の潮流』には、「文久三年(1863)の冬、前年息子泰三を亡くした水雲は、娘かいの夫である小室献吉を旧鈴木俊益家に住まわせ、鈴木家の家政を任せることにした。泰三に代わる跡継ぎを考えていたのだろう」とある。「水雲」とは鈴木文平の号である。「鈴木俊益」とは鈴木文平の兄で、文平の生家(本家)の跡を継いだ人である。その鈴木俊益の死後文平の息子泰三が継いだものの、泰三も亡くなったため、謙吉がその家に入って鈴木俊益を名乗ったらしい。なお、薄井龍之の「江東夜話」に次のような逸話が記されている。

 

「私は日光に在勤して居りましたが、近国の志士と結託して不及ながら国事に尽力して居りました。就中深密に交りを共にしたのは宇都宮の菊池介之助(原注・さの屋主人なり)、小島強介、岡田新吾、懸勇記、真岡の小山春山、横田藤四郎、栃木の国府義胤、鹿沼の鈴木俊益、足利の鈴木千里等でした」。また、「薄井龍之君傳」(『史談会速記録』第285輯収載)には、「嘉永六年春擢ンテラレ日光准后王府ノ侍講トナリ、曾テ尹府ノ教授ヲ掌ル」とある。これらに間違いなければ、小室謙吉は嘉永年間には鈴木俊益を名乗っていたことになる。もっとも、薄井の「江東夜話」等は明治になって記したものなので、姓氏を厳密に使い分けていたかどうかは疑問である。おそらく、この当時は鈴木俊益ではなく鈴木謙吉()を名乗っていたのだろう。

 

話は前後するが、謙吉は天保か弘化年間には鹿沼宿に出て、鈴木文平に師事していたのではないかと思われる。そして、謙吉が師の鈴木文平に見込まれて、文平の娘の婿になった事実や謙吉の後年の様子から推測すると、謙吉の儒学や医学に対する素養は相当深かったのだろう。また、謙吉は兄小室藤次衛門の影響もあったのだろう、薄井龍之の話の如く早くから尊王攘夷思想を懐抱していたらしい。「東江夜話」には、謙吉に関する次のような逸話も記されている。

 

「日を遂て外事は切迫し幕府の処置は益々失着のみ多く公武の折合甚悪敷天下の形勢容易ならぬ場合に立至」ったため、「小島、小山、横田、鈴木等と密かに鹿沼に会し(小室謙吉の家と思われる)まして種々商議した。その結果、頼三樹三郎(頼山陽3)に学んで京都に知人の多い薄井が上洛して、京都の形勢を探索した後に「鹿沼まで帰り鈴木方へ泊まりまして」、菊池たち一同に連絡してその結果を報告したとある。そしてさらに次のような逸話も記されている。

 

安政の大獄頼三樹三郎が捕縛されると、その連累として薄井も日光で逮捕されたものの、門人某某等のために助けられ、「逃亡して鹿沼の鈴木俊益方へ参ッて一分一什を話した所鈴木は大に驚き夫れは大変だ今此処らにまごまごして居ては必ず追手の為に捕へられるに相違ない、早く何ちらへか逃げるがよい、シタが他の所へ行ッては迚も免かれる訳にはいくまい先づ兎に角水戸へ行ッて諸友に相談するがよかろうとのことで鈴木より同氏の兄の所へ手紙を呉れた、(中略)ソコで其の手紙を以て水戸へ参りました、下檜山と云ふ所は水戸の城下より五六里も距ツ所でしたからその翌日下檜山へ云々」

 

薄井龍之の話を聞いた謙吉の兄藤次衛門は、「御辛労御察し申す、宜しい緩るりと御逗留なさい、どこまでも御世話申しましょう」、と快く小室家での潜居を引き受けてくれたという。その後、龍之はしばらく小室家に滞在していたが、追々幕府の探索も緩やかになったため、藤次衛門は水戸城下に赴き、武田耕雲斎に龍之の身の振り方を相談した結果、龍之は武田家の食客として匿われることになった、と記されている。

 

遅きに失したが、小室謙吉の養父となった鈴木文平について少々説明しておく必要があるだろう。鈴木文平は通称で、諱は之彝、字は文龍(後に文秉と改める)、水雲と号した。寛政8(1796)鹿沼宿仲町の鈴木俊益の子として生まれ、後に父俊益の弟鈴木石橋の養子に入った儒医鈴木松亭(通称重蔵、諱之綱、字紀仲)の養子に迎えられた。昌平坂学問所に学び、また画を谷文晁に師事し、帰郷後は義父の後を継いで「麗澤之舎」で儒と医の教導に当たったという。天保7年には鹿沼宿の本陣役に、また同9年からは押原東内町の名主も勤めていた。なお、水雲の祖父に当たる鈴木石橋(通称四郎兵衛、諱之徳、字沢民)は、林家塾(後の昌平坂学問所)に学んだ儒者で、私塾「麗澤之舎」を開いて近郷各地の若者の教導に当たった人である。寛政の3奇人の1蒲生君平は石橋の門下であった。鈴木石橋は宇都宮藩から五人扶持を給され、藩校「潔進館」の設立にも携わり、藩士の講釈にも当たったという。

 

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万延元(1860)と翌文久元年(1861)については、小室謙吉に関する資料は一切確認できていないが、文久2年になって、宇都宮藩士懸信緝(称勇記・号六石)の日記(『栃木県史』資料編七・「縣信緝日記」)に僅かにその名が認められる。懸信緝は清水赤城や大橋訥庵に学び、蒲生君平を敬慕する尊王攘夷論者であった。小林友雄著『懸六石の研究』によると、信緝はこの年正月の坂下門事件に関係して家禄を没収の上謹慎処分を受けたが、4月末には謹慎を解かれ、翌月には「当分御雇格五人扶持」を給されて三河の郡奉行兼正親町三条家御用を命ぜられていた。そして、この月江戸に出て獄中の師友の赦免運動や山陵修補事業の発議と、その計画遂行に奔走していた。

 

この山陵補修事業とは、当時坂下門事件で大橋訥庵ら多くの関係者を出して「戸田家(宇都宮藩)ノ湮滅衰亡」の危機にあったことから、「勤王翼幕ノ事業ヲ奉シ、主家安全の基礎ヲ立ルノ一策」(懸信緝筆「山陵修理始末略記」)として懸信緝が発案した事業である。これは信緝が敬慕する蒲生君平の遺志を継ぎ、荒廃著しい山陵(天皇墓所)を補修しようとするもので、当時公武合体の政策を推進していた幕府の意向にも沿うものであった。信緝はこの案を胸中に江戸に上り、江戸家老間瀬和三郎(忠至)の同意を得たらしい。出府当日(514)の信緝の日記に、「江戸ニ着ス、間瀬太夫ノ家ニ宿ス」とあり、翌日宿所は移したものゝ18日以後は同月末に江戸を去るまで連日「間瀬君ニ行ク」と記されている。

 

信緝は同月27日江戸を発ち、29日に宇都宮に帰ったが、翌612日再び江戸に上っている。そしてその翌月3日の日記には、「夕七ツ頃、伝奉屋敷ニ行キ、大原三位ニ拝謁、夜三更帰云々」と記されている。「伝奉邸」とは竜の口の伝奉屋敷(当時御馳走所と改められていた)のことで、将軍の上洛等「勅旨三策」を幕府に迫るため、そこに滞在していた勅使大原重徳に謁見したのである。大橋訥庵等同志の救解と山陵修補事業への力添えを得るためだったらしい。それから3日後の信緝の日記(76)に、「伝奏邸ニ行キ山科兵部ニ面語、小室献吉書至」とあり、さらに翌81(信緝は722日帰藩)の条には、「小室献吉ニ書ヲ贈ル、(中略)小室献吉書達ス」と記されている。山科兵部とは大原重徳に随従していた薩摩藩吉井友実(幸輔)である。信緝が山科兵部に会ったその日、信緝の元に小室謙吉からの書状が届いたのである。そして、翌月1日には懸信緝が謙吉に宛てて書状を発したその日に、謙吉から信緝に再び書状が届いたのである。

 

なお、この縣信緝の日記は、謙吉について鈴木ではなく小室の姓で(献吉或いは昇と)記されている。あるいは、万一の場合に婚家に類の及ぶことを恐れ、敢えて旧姓を用いていたのかも知れない。小室謙吉が懸信緝といつ頃から関係していたのか、またその関係性等についても定かではない。このことについて小林友雄の『懸六石の研究』には、「同藩(宇都宮藩)の小室登はこの後の活動から眺めて、六石の密偵格となり水戸浪士の行動を探っている人物と見られる」とある。小室を宇都宮藩士と特定しているが、「宇都宮藩士分限帳」(徳田浩淳著『宇都宮の歴史』)にその名が認められない。また密偵格という点についてはともかく、小室が信緝のために情報収集等に尽力していたことは事実はである。

 

懸信緝の日記の翌閏817日条には、「小室献吉、船越平作来ル、亀清ニテ酌ム、道中御手当金渡ル」とある。信緝は前月9日再び出府していたのである。或いは謙吉はこの日江戸に出て来たのかも知れない。この月の8日には、藩主の名で幕府へ山陵修補事業の建白が行われていた。信緝は幕府の許しが出た後の918日には入洛しているので、謙吉と舟越平作はこれに従ったらしい。間瀬和三郎は914日幕府から山陵修補事業専任を命じられ、藩主戸田氏の戸田姓(和三郎は藩主忠恕の従兄弟)を名乗って1021藩士30名を伴って入洛しているので、信緝たちはそれに先立って上洛したのだろう。なお、舟越平作については、「懸信緝日記」の1017日の条に、「柿沼斉宮、舟越平作、御陵営造御用中御雇ヲ命セラル、一ケ月一人扶持金二分ツゝ」とあるが、その人物像は定かでない。

 

「懸信緝日記」の921日条に、「三宅将曹、西洞院四條上ル久留米邸、松浦八郎、小室献吉、舟越平作来、夜夫人賜酒」とある。三宅将曹は久留米藩士だったらしいが、文久2年の「久留米藩分限帳」(「御手廻並嫡子分限帳」)にはその名が見あらない。松浦八郎は久留米藩郷士で、元治元年に真木和泉らと共に天王山で自刃して果てた人である。ちなみに、『久留米同郷会誌』に収載される松浦の書簡によれば、松浦は前年11月には江戸から、また、文久21023日には伊豆の三島から郷里の父宛てに手紙を送っている。諸国を遍歴して尊攘活動に挺身していたのである。この日、久留米藩邸でどのような話し合いがあったのかは不明である。

 

小室謙吉が懸信緝らと久留米藩邸を訪ねた3日後の信緝の日記に、「小室献吉、住丸屋与惣吉、将曹来ル、皆酒ヲ供ス」とあり、翌107日には「献吉来ル、福島屋ニ馬ノリヲ眺ル」、さらに2日後の同月9日には、「小室献吉、松浦八郎、渥見祖太郎来」と記されているが、その後この年の信緝の日記に小室謙吉の名は一切認められない(文久3年分の日記は不明)。なお、信緝の日記の109日条に名の認められる渥見祖太郎は、信緝の日記1024日条に「御用人格心得を以京都表御留守居兼帯被仰付之右之通、渥見祖太郎を以て御達有之」とあって、「宇都宮藩分限帳」に「御取次上席 高百五十石(内二十石増) 渥見祖太郎」と認められる。小室謙吉が舟越平作や柿沼斎宮(雅雄・平田門)のように宇都宮藩から御雇として御陵造営御用を命じられていたか否かは不明だが、舟越や柿沼以外にも御陵造営御用に任じられた人たちがいたらしく、前記宮和田光胤の『宮和田光胤一代記』に次のような一文がある。

 

「此節光胤方へ入門致し、食客稽古場頭取を致し居候ハ下野鹿沼宿の神官ニテ平田先生(篤胤)門人柿沼河内守也、此人宇都宮真()瀬和三郎後大和守ニ附属し、神武天皇御陵之儀ニ心掛け横田藤四郎等一同大和の国ニ至り、真瀬氏に附属中、真瀬氏之漸進論ニテ不折合心より帰府ニ候得共、攘夷其外幕吏違勅之廉多きをいきとほり居り、(中略)右柿沼氏ハ渋沢なども懇意故、光胤ニも依頼ヲ千葉師へ為連行候事なりける、是も武田伊賀守ニ依頼一度光胤江なりける」

 

鹿沼宿の神官柿沼河内守(広達)と共に間瀬和三郎に従って上洛した横田藤四郎(祈綱)下野国真岡(栃木県真岡市)の商人で尊王攘夷家である。この横田藤四郎は翌年の水戸天狗党による筑波挙兵に参加して敦賀で死んでいる。謙吉とも同志の人であったが、同じ鹿沼宿の神官である柿沼河内守とも交友のあったことだろう。この柿沼河内守は山陵修補事業の進め方に異論をもち、帰府してしまったというのである。なお、この後、懸信緝は10月中に御用人格となり京都御留守居兼務を命じられて山陵の修補に奔走していたが、翌年2月末に突然帰藩を命じられて宇都宮に帰っている。

 

                  4

 

先の「宮和田光胤一代記」の記述にあった、柿沼河内守と懇意の「渋沢」とは渋沢栄一のことである。さらに「千葉師へ為連行候事云々」とあるのは、本ブログ20「若き日の渋沢栄一の転身」等に転載して詳述した「宮和田光胤一代記」の記述である。屋上屋を重ねることになるが、小室謙吉が関係しているので本稿でも再度転載することとする。

 

「此度一橋公後見職ニテ上京先登と成りしより幸ひニ同志をつのり一橋公ニ付添ひ度志願のものニハ千葉周作門人塾頭致居候生国ハ八王子同心之伜真田範之助、同人結合之友ハ渋沢栄一、渋沢誠一郎両人又兼テ田中春岱方已来懇意人ハ鈴木謙吉、此謙吉ハ(中略・前述)、此渋沢両人を同伴ニテ真田範之助、鈴木謙吉、光胤宅被参、範之助より依頼ニハ此渋沢両人儀一橋公へ附属し上京致度候云々」

 

ここでの詳しい説明は省略するが、小室謙吉が真田範之助や渋沢栄一たちと宮和田光胤を訪ねた時期は、「若き日の渋沢栄一の転身」で、武田耕雲斎一橋慶喜の上洛に随従するよう幕命のあった文久21211日から、耕雲斎が江戸を発った同月24日の間であったろうと推定した。この推定が正しければ、小室謙吉は懸信緝に先んじて文久2年中に離京していことになる。もっとも、その理由は後日の信緝との関係からすると、柿沼河内守同様の事情ではなかったと思われる。なお、先の「宮和田光胤一代記」の記事によると、小室謙吉は宮和田光胤や玄武館千葉道場塾頭の真田範之助、渋沢栄一たちとも懇意だったのである。また、「兼テ田中春岱已来懇意ハ鈴木鎌吉」とある田中春岱は熊本藩の医師である。この人物については、後に詳述することになる。

 

翌元治元年(1864220改元)224日の懸信緝の日記に、再び小室謙吉の名が認められる。そこには「(前略)小室献吉、舟越平作来」とあり、欄外に「鉄函心史一冊、地ノ巻、小室ニ貸ス(後略)」と記されている。浅学にして「鉄函心史」については知らない。

25日の日記にも「小室献吉来」とだけあって、その後は4月に到るまで謙吉の名は記されていない。信緝はこの前年2月に突然帰藩を命ぜられて宇都宮に帰り、その年5月には御用人に任ぜられたことは前記したが、謙吉が信緝を訪ねた2月には中老職を命ぜられて会計総裁の要職に就いていた。

 

その後、信緝の日記の45日の条に、「水戸小川館同盟士百二十人余、宇都宮ニ宿ス、物議沸騰」とあり、翌6日には「水戸斎藤佐次右衛門・藤田小四郎両人ニ、修道館ニ於テ、戸田公平・安形半兵衛・自分三人応接(中略)夜四ツ前、藤田小四郎外五人来訪、議論、暁ニ至ル云々」と記されている。そしてその翌7日には、「午後、斎藤左次右衛門・藤田小四郎来、戸田公平来、応接、小室登・小山弘来」とある。田丸稲之衛門を主将に、藤田小四郎ら水戸天狗党激派が常陸筑波山に挙兵したのは前月の27日のことであった。この筑波勢が翌43日、日光東照宮に拠って諸国に攘夷の決起を呼び掛けようと筑波山を下山し、宇都宮城下に宿陣したのは2日後の同月5日のことであった。

 

藤田安義手記「宇都宮藩変革禄」に「(筑波勢は藩主)忠恕公ニ面謁ヲ乞藩士之レヲ拒ムノ論紛々タリ、懸氏之レニ説ヒテ修道館ニ於テ謁セラル」とある(宇都宮市史』通史編)。筑波勢への対応に宇都宮城内は議論紛々騒然となったが、当時勢力のあった面会拒否派(佐幕派)を信緝が説得し、藩校進修館で自らが藤田小四郎らと折衝したのである。藤田たちは勤王藩として知られる宇都宮藩の全面的協力を要請したが、もしこれを受け入れれば藩の存亡に関わる。筑波勢に同情的な信緝には苦渋の応接だったが、日光東照宮への参詣を保証する条件(当時宇都宮藩は日光警衛を命じられていた)で滞陣2日目の7日夜(8日明け方ヵ)に筑波勢は城下を去り、日光へ向かうこととなったのである。

 

46日夜の信緝と藤田小四郎らとの会談に関して、「懸信緝手記(諸草按)(『栃木県史』資料編)に、「小四郎私別間に於て談し度よしニ付、直側之別間ニ於て小四郎と両人差向、談事候へとも、(中略)天明ニ至り候ニ付、随従之者帰を促、罷帰、其意更ニ不相分候に付、翌日小室登を以テ情実内索ニ遣し候て云々」とある。7日の信緝の日記に謙吉の名があったのはこのことだったのである。なお、徳富蘇峰著『近世日本国民史』第54巻「筑波山一挙の始末」に、「懸勇記は、鹿沼駅医鈴木俊益もて、金千両を軍資として(筑波勢に)寄贈したから、彼等も安心して云々」と記されている。これは謙吉が信緝の屋敷を訪れた47日で、この日のことは薄井龍之の「筑波騒動実歴談」に次のように記されている。なお、これによれば、謙吉は藤田小四郎を始めとして筑波勢中に多くの友人がいたらしい。また、この逸話からも、謙吉に対する縣信緝の信頼が深かったことが窺える。

 

「その夜(47)県勇記の使と称し、鈴木俊益という者が藤田(小四郎)の旅宿に参りました。この者はもと水戸の郷士小室藤次右衛門という者の弟で、これより先き鹿沼の鈴木某の養子となって医者を業としていた者で、かねて藤田らと知己でありますから、県が特にこの者を選んで使に遣わしたので、さて鈴木は藤田に面会して県の言を伝えて言うには、(中略)と申して金子七〇○両送ってよこしました。藤田はこれを受納して、その翌日、即ち四月八日に日光へ向けて発足した」

 

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懸信緝の日記には、小室謙吉について記されていない事実が多くあるらしい。「懸信緝手記」の記述がそれを物語っている。その「縣信緝手記」の414日条に、「(前略)小室登一同、水人模様伺候ため、栃木宿迄罷越、御陣屋詰同人へも一応其段断置、滞留仕居候、此日一同大平山へ参籠仕、鎮静方、美濃部・山国等ハ栃木ニ止宿仕候」と記されている。当時、謙吉たちは、筑波勢の動静を知るために足利藩栃木陣屋のある栃木町に滞在していたのだ。そこには筑波勢鎮撫のために派遣された水戸藩士美濃部又五郎や山国兵部らが滞在していたのである。

 

「懸信緝手記」にある「小室登一同」について、『懸六石の研究』は「渥美清介、松沼勇三、小室献吉、松井一郎らを指す」としている。館林藩士塩谷甲介(良翰)の『塩谷良翰回顧録』に、「同藩(宇都宮藩)松井一郎探索の任にて(栃木に)罷在候」とあり、『懸六石の研究』の記述を裏付けている。もっとも、『縣六石の研究』に名のある松井一郎は、徳田浩淳著『宇都宮の歴史』に記される「宇都宮藩士分限帳」(文久~慶応年間)によると、百石高の郡奉行で、明治4年の宇都宮県職員に権大属として名のある人である。

 

塩谷良翰の回顧録に、塩谷が栃木陣屋役人の善野司から聞いた話として、「昨十九日鎮静方立原朴次郎、真田半之介(範之助)、小室謙吉右三人は金龍寺借り受罷在度懸合に付承知相答候由云々」、と記されている。立原朴二郎の一行は、栃木宿の旅宿押田屋に逗留していたが、都合により戸田家の菩提寺である金龍寺に宿所を移そうとしたのである。その金龍寺への交渉に小室謙吉も立ち会っていたのだ。立原に従っていた旧知の真田範之助の依頼があったのかも知れない。鎮撫使の立原朴二郎とは、水戸藩史館総裁立原翠軒の孫(父は立原杏所)で、当時は歩士頭の職にあった。これも余談になるが、この立原朴二郎も、また縣信緝も千葉玄武館道場で北辰一刀流を学んでいる。小室と真田範之助との関係(真田と共に渋沢栄一らを宮和田光胤家に伴った事実)や、宮和田光胤とも旧知だったこと等から推測すると、小室も北辰一刀流を学んでいたのかも知れない。

 

なお、水戸天狗党関係の多くの資料は、小室謙吉が筑波勢に加わっていたと取れるものが多い。いくつかの資料を見てみよう。まず、「常野集」(茨城県史料』幕末編Ⅲ収載)の「子五六月頃野州浮浪之風聞」に藤田小四郎殿内として千葉道三郎(千葉玄武館々主)らと共に小室献吉の名が記されている。また『栃木市史料叢書』第一集「岡田親之日記」の中の「元治元年大平山屯集名禄」には、公用方申諭し方兼小荷駄奉行として「鹿沼宿医師鈴木俊益事小室昇」とある。さらに、『波山記事』に記される「浪人大平山権現参拝之節宿割」に、「右同所(栃木町)押田屋彌次郎方ニ止宿、宇都宮藩、松井一郎、小室謙吉、上下三十人」とある。なお、この宿割には、鎮撫吏の美濃部又五郎や山国兵部、立原朴二郎一行の名も記されているので、当時栃木宿に滞在していた人たちを全て筑波勢と混同してしまったらしい。この宿割にある宇都宮藩の「上下三十人」については、『塩谷良翰回顧録』に、塩谷が栃木宿の角屋に投宿中の宇都宮藩士柳澤金十郎に会った際、柳澤から「拙者儀砲士二十七人を召連れ(中略)当駅へ罷在候子細は当藩重役戸田七兵衛次男次郎事弾正と改め浪士加連此者引取度掛合中」であると聞いたとある人達であった。戸田次郎(光形・宇都宮藩尊攘激派領袖)は戸田弾正(村樫易王丸とも)と変名して筑波勢に参加していたのである。

 

この戸田次郎に関連して「懸信緝手記」415日条に、「小室登咄ニハ、次郎義兎角懸氏を讒訴いたし、人心を動し候様子云々」とある。「次郎」とは戸田次郎のことで、懸信緝を憎んで暗殺を目論んでいたのである。それを耳にした謙吉が、その旨を信緝に知らせたのだ。戸田次郎は、宇都宮天狗党を結成してその領袖となるなど、その過激な行動を危ぶんだ藩老たちに、この年退藩を命じられていた。それを恨んで信緝誅殺を目論んでいたのだという。なお、『懸六石の研究』に、この15日「栃木宿に在った斎藤佐次衛門を訪れた小室謙吉が、更に戸田次郎の人物を論じて、加盟中より除名せられたき旨を極力論詰めたため」、佐次衛門が「明日登山の際は、次郎の登山は見合わせることを約した」と記されている。しかし、これは実現しなかったようだ。

 

16日の信緝の日記に、「雷雨、小室献吉栃木ヨリ来、但在鹿沼」とあり、同日の「懸信緝手記」の一節に、「何分山中之者得心不致、日光表よりして彼ニ被欺候故、是非宇都宮へ押よせ、勇記を刺候なと申居候赴ニ付、小室登を以鹿沼迄差遣、云々」と記されている。東照宮参拝を機に日光占拠を目論んでいた筑波勢は、警備厳重でこれが実現しなかったため、これは参拝に付き添った信緝の策略だろうと疑う者が多かったのである。日光の占拠を断念して14日に太平山に登り、宿陣していた筑波勢の中にあった戸田次郎の讒訴が火に油を注いだのだ。当時鹿沼宿に出張していた信緝は、筑波勢が宇都宮へ押し寄せるとの情報を得たため、小室謙吉に大平山内の動静を探るよう指示したのである。そのことは、「懸信緝手記」に次のようにある。

 

「朝、小室登昨日太平山へ罷越候処、被差止、一宿被致、様子相伺候処、昨夜山中大動ニて、既ニ栃木へ押出し、宇都宮人数へ切込候なと申候を、田中愿蔵之手ニて種々申諭し、漸静り候へとも、此後とも甚以心配之旨、早朝下山之上咄し有云々」

 

謙吉は17鹿沼で用事を済ませた後に、太平山の筑波勢本陣を訪ねようとしたものの、浪士たちの信緝への怒りが頂点に達していたため、その関係者である謙吉の登山は拒まれたらしい。謙吉は混乱する山中の様子を知らせるため、翌日早朝に信緝を訪ねたのだ。謙吉には藤田小四郎を初め筑波勢の中には多くの知友がいたにもかかわらず入山を拒まれたのである。筑波勢の信緝に対する怒りは相当のものだったのだろう。だが、この騒動も鎮撫吏の立原朴二郎等の介入もあって、なんとか収拾がついたらしい。その後、筑波勢が再び筑波山に陣を移すために大平山を下りたのは翌5月末のことであった。

 

この17日以後は「懸信緝手記」に小室謙吉の名は認められない。その日記にも、同月23日と翌24日の2日にわたって「小室献吉来」とあるが、謙吉が信緝を訪ねた理由等は定かでない。そして翌25日には、「献吉鹿沼ニ帰ル」と記されている。信緝の日記に謙吉の名が認められるのは翌518日が最後である。そこには、「横田藤四郎、小室登、渥美清介来」と記されている。懸信緝はこの月15日に、幕府への攘夷建白等筑波勢後援のために江戸へ出ていた。したがって、当時小室謙吉も出府ていたのである。なお、「栗橋関所資料」(『埼玉県史料叢書』15)54日の条に、「水戸殿下目付小室献吉、僕壱人栃木町より江戸屋敷迄相通候事」とあるから、この日江戸に出るため水戸藩士と偽って栗橋の関所を通ったのだろうか。

 

懸信緝は翌67日宇都宮に帰ったが、その月の22日、筑波勢に対する処置が不適切であったとして御役御免の上厳重慎みの処分を受けている。『宇都宮藩史』に、「或ハ云フ幕府ノ命令ニ出ヅルトモ」とある。この時、信緝以外で罰せられた者に戸田三左衛門、岡田真吾らと共に「小室登」の名もある。信緝は「「愁思録」(『縣六石の研究』収載)の中で小室謙吉への処罰に関して、「御家ノ為メニハ功有リテ罪無キ小室登ヲ就縛幽因シ、兼テ尊王攘夷ヲ唱フル正義ノ士ヲ見ル事叛逆凶徒ニヒトシキハ何事ゾヤ、沙汰ノカギリト云ベシ」、と憤慨をあらわにしている。先の「幕末・明治維新を駆け抜けた男」なよると、この時小室謙吉の養父鈴木水雲も宇都宮藩から譴責を受けたという。

 

 ※以下は「26(2)」に続きます

27 水戸天狗党の将山田一郎敏久

[付録] 水戸天狗党の騒乱に関係した南部盛岡藩士たち

           1

  

「誓て東照宮の遺訓を奉じ、奸邪誤国の罪を正し、醜虜外窺の侮を禦ぎ、天朝幕府の鴻恩を奉ぜんと欲す」。これは、幕府に奉勅攘夷を迫り、その先鋒たらんと常陸の名峰筑波山に挙兵した水戸天狗党の檄文の一節である。

 

元治元年(1864)3月、水戸天狗党筑波山に挙兵したものの、幕軍と諸藩兵や領民までも巻き込んでの水戸藩内の抗争に終始し、常総野の地を戦乱の坩堝と化すこととなった。あげく、京都を目指した200余里の行軍の末、その年の12月には加賀藩の軍門に降り、翌年2月には、敦賀の地で350余人もの浪士たちが無惨に斬首されることとなったのである。

 

 本稿で取り上げる山田一郎は、藤田小四郎(藤田東湖4)と共に挙兵の主軸となりながら、旗揚げ後わずか40日余りでこれを離脱し、幕府に自訴した人物である。特に山田一郎は、挙兵に不可欠な軍資調達を担当したことから、栃木宿を灰燼に帰して悪名を轟かせた田中愿蔵(水戸藩医猿田玄碩次男)と同類視され、歴史にその汚名のみを残している。

 

 筑波挙兵に共に参加した薄井竜之(信州飯田の尊攘家・天狗党の上洛途中で離脱)さえ、その回想談である『筑波騒動実歴談』のなかで、「(山田は)性来残忍な者ゆえ、(軍費調達のため)その召喚したる者に対してよほど厳酷なる談判」に及んだと語っている。また、幕府の儒官安井息軒の飫肥藩士宛て書簡にも、「山田は新徴組を出奔し、人も四五人位は殺し(中略)至極の悪党に御座候」(黒木盛幸編『安井息軒書簡集』)と、山田を極悪人のごとく記している。

 

 こうした資料が元になってか、徳富蘇峰は『近世日本国民史』(54巻「筑波山一挙の始末」)のなかで、「田中愿蔵、山田一郎の如きは、尤も甚だしき札付きであった」と断定している。山本秋広著『維新前後の水戸藩』にも、「山田や田中の一味のやった無謀な行動のために、筑波勢はいまや全く世間の好意と同情を失い(中略)致命的な損失となってしまった」と記されている。その他の水戸天狗党関係の著書も大同小異で、山田一郎を全く無視するか、田中愿蔵と同類視するかの何れかであり、なかには山田を田中愿蔵の手下とするものさえある。

 

 その山田一郎は、本名を横田博、名は嘉郁、また敏久といった。山田一郎の名は、生地の名を取っての変名である。その生地とは、平成23年の三陸沖大津波で未曾有の被害を被った、岩手県下閉伊郡山田町川向の地である。その山田湾に面した川向の地は、周囲の緑の山並みと、紺碧の海の景色以外のすべてが溟海に呑み込まれ、山田一郎が生まれ、生きた痕跡を今は微塵も留めていない。

 

 山田一郎は、天保8(1837)に質業を営む横田宇右衛門の3男として生まれた。横田家の菩提寺虎洞山龍昌寺の塋域に、山田一郎の父母の墓と思われる夫婦墓がある。法名を「緑山妙□禅信女」と刻まれたその側面には、「横田宇右衛門妻、名於連阿部留五郎女也、天保十四年癸卯冬十月十四日没春秋三十六」とあるが、山田一郎の父と思われる法名「松岳道嶂信士」とある墓石の側面には、なぜか墓誌が刻まれていない。山田の兄等の墓も見当たらず、何か深い事情のあったらしいことを窺わせている。墓石によれば、母於連は山田一郎が7歳の時に没しており、山田はその後母方の祖父阿部留五郎に養育されたという。

 

 山田一郎の姪横田ハヨ女の談(山田町の郷土史家川瀬一郎編輯『筑波義挙の志士山田一郎畧伝』・以後『畧伝』という)に、「博伯父は、ナンス色が白くて背の高い立派な人でござんした。何時も私の家の室に寝起きして、昼は本ばかり読んでおり、何か一生懸命勉強していた」云々とあり、『南部維新記』の著者故大田俊穂(岩手放送社長)が、山田一郎を知るその祖母万亀女から、山田一郎は「家の仕事は見向きもせず、昼は一日、部屋に閉じこもって読書をし、夜は木剣を提げて、海岸で独り素振りに専念していた」、と聞いたという。

 

 先の『筑波騒動実歴談』に、山田一郎は「文学もあり」等とあり、また、『波山記事』(日本史籍協会叢書)所載の「探索書」に、「(山田の)持流は二刀流ニ而、一刀流仕方モ上手ニ而、拾人懸り為致候由唱ニ有之候ニ付、事実見聞仕候得ハ五六人位迄ハ惣掛り為致、日々稽古致居」とあり、早くから文武の道に励んでいただろうことが窺える。それにしても56人を相手に(総掛かりで)稽古をしていたというのだから、山田一郎の剣技には抜群のものがあったのだろう。

 

 山田一19歳の安政2(1855)、山田地方の領主漆戸茂幹(南部藩家老加判・1000)にその才能を認められ、側用人として仕えることとなった。盛岡城下に出た山田は、漆戸茂幹に仕える傍ら文武の師を得たらしいが、その詳細は不明である。この頃の逸話として、先の万亀女の談に、万亀女の祖父毛馬内伊織家を、漆戸茂幹がしばしば訪れ、2人の用談中、主人に随従してきた山田一郎が、よく石つぶてで小鳥を取ってくれたという。3度に1度は必ず命中するほどの腕前だったらしい。

 

 『南部維新記』に、ある時「母の病気でしばらくぶりで山田へ帰った博は、(中略)白石藩で攘夷論者として忌避され、漂然と山田へやって来た矢田義一に会い」、その攘夷論に魅せられ、また剣客でもあった矢田に剣技を伝授されたとある。病の母とは義母であろうか。母親のことは記されていないが、『畧伝』にも、安政3年のこととして、白石藩の勤王の志士矢田義一が山田村に亡命してきて、小武助屋に仮泊していた際、山田一郎は矢田から勤王思想を鼓吹されたとある。矢田義一がいかなる人物なのか、白石市生涯学習課に問い合わせたが、「白石藩系譜書」や「白石藩役人帳」等にも、矢田姓の家臣は見当たらないとのことであった。

 

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 『畧伝』によれば、その後、山田一郎は盛岡に戻ったものの、安政5年には、脱藩して涌谷藩の剣術指南役鈴木直之進(諱は明光・天辰一刀流剣術開祖)に入門、剣技を磨いた。山田はさらにその後、仙台藩の剣術指南役桜田良佐(藩内尊攘派の重鎮)に師事して文武を修行し、文久2(1862)に、清河八郎が仙台に潜行した際には、「桜田良佐、遠藤文七郎、山田一郎等と謀り攘夷の決行を約」したという。遠藤文七郎とは、仙台藩尊攘派の領袖、清河八郎は出羽庄内清川村出身の尊攘家、その清河八郎記述の『潜中始末』や『潜中記事』の仙台潜行中の記事等に、山田一郎らしき姿は確認できない。

 

 清河八郎文久2年末、朝廷に攘夷実行を約した幕府に協力して浪士募集を献策、これが容れられて、翌年2月の浪士組の上洛となった。『畧伝』等には、山田は清河八郎の浪士募集に協力し、共に上洛したとあるが、これは誤りである。各種浪士組名簿にその名のないことは勿論、浪士組3番小頭大館謙三郎作成と推定される「上洛先供有志浪士掛役人并浪士姓名」(太田市史資料編』)中の「上京浪士帰府前加入」者46名のなかに、山田一郎の名が明記されている。山田は浪士組上洛後に、遅れて浪士組に参加したのである。

 

『甲子雑録』(日本史籍協会叢書52)に、山田一郎の宛名不明の書簡文が収載されている。その文久424(220日元治と改元)付の書簡には、「去歳幕府に於いて不肖野生を召出され、新徴組世話役仰付られ」云々とある。山田は、浪士組から新徴組に改編後間もない文久3519日、世話役に抜擢されたのである。このことを以てしても、山田の実力のほどが察せられる。加入後間もない新徴組内でも一目置かれていたのである。

 

 なお、『畧伝』等では、山田の上府は文久3年のごとく読み取れるが、『波山記事』に「此者(山田)南部出生にて、所々徘徊、商人の風体ニ手流浪致し、新徴組に入り其後不首尾にて水浪に入り候由、多才の者にて都て懸合等の重立候事を取扱」とある。また、『下野勤皇烈士傅』には、安政611月、昌木晴雄(下総結城の人・天狗党参加後磔刑)が結城藩に捕えられた際、当時牢屋奉行の家に滞在していた山田一郎が、昌木を救った逸話や、山田が長倉(茨城県城里町)水戸藩士の田中愿蔵や鯉淵要人と相識り、同道して安政72月に、長岡(水戸藩に降った密勅返納反対の激派が屯集)に相会したことが記されている。出典は示されていないが、これらが事実なら、山田は早くから関東で活動していたことになるが、真偽は不明である。

 

また、『畧伝』等には、仙台で山田が清河八郎と攘夷の決行を約した、とあるが、清河八郎横浜焼き討ちを策して、幕府の手で殺害された後、清河に同調して捕えられた主要浪士組浪士のなかに山田一郎の名はなく、攘夷決行を約したとする記述は疑わしい。さらに、小山松勝一郎著『新徴組』に、清河八郎の死後「山田一郎は有志と相談し、金五十両を京の池田徳太郎に贈り、東下して一同を統括してくれるよう」使者を送った、と記されているが、これも疑わしい。沢井常四郎著『維新志士池田徳太郎』収載の、浪士たちが池田徳太郎の上府を切望して、「金五拾両差贈り申候」等と記された書簡の送り主は、「上京仕有志一統」とあって、池田と共に上洛した人たちである。そもそも、山田の浪士組加入時期からみて、山田と池田徳太郎とは面識がなかったのではないだろうか。

 

 なお、浪士組で道中目付を勤めた中村維隆(草野剛蔵)の自伝に、「国分新太郎、南部藩山田一郎其他手兵百六十人を率いて横浜の先鋒たらんことを請う。鵜殿、山岡之を諾し」云々と記されている。国分新太郎は、後に水戸天狗党に参加して敦賀で斬首された水戸藩士で、攘夷決行を期待して新徴組に参加していた。鵜殿は鵜殿鳩翁(浪士組取扱)、山岡は山岡鉄太郎(浪士組取締役)である。その時期からみて、山岡の免職蟄居後のことで、詳細は不明である。

 

 山田の新徴組在籍期間は短かった、先の山田の書簡には前記に続いて「(新徴組世話役として)及ばずながら七月まで勤仕罷在候処、いささか斬奸の嫌疑にて酒井繁之丞殿の邸中に禁固申付けられ、同志十一人共々囚人に相成、(中略)十九日に及び御免に相成候得共」云々と記されている。酒井繁之丞とは、新徴組預かりとなった庄内藩主である。このことに関係するのだろう、新徴組剣術教授方中村定右衛門筆記の「御用留」に記された、725日付の廻状に、木村久之丞、山田一郎、岩城喜一の3人に対して、「願之通世話役差免尤局中不都合之義も可聞候間当分之内酒井繁之丞屋敷へ相越理非分明いたし候以上慎罷在帰り候」という申渡書が筆写されている。この文中にはさらに、石井鉄之丞、田島哉弥等5人の小頭役に対しても、「其方共山田一郎其外世話役共同志の毛の深存込(中略)願之通小頭役差免」とある。

 

 この事件に関係すると思われる「新徴組山田岩城木村出奔一件」なる史料が、小山松勝一郎著『新徴組』の巻末に、「清河八郎記念館所蔵」とあるため、同館に問い合わせたが、現在所蔵されていないとの回答であった。山田の書簡内容等とやや異なるが、『新徴組』に、この史料を参考にしたと思われる事件の顛末が記されている。それによると、新徴組士佐久間権蔵を親の敵とする水戸藩士の13歳の遺児が、新徴組屋敷を訪れ、佐久間の門前払いを求めたという。これに同情した山田たちが、藩当局に佐久間の門前払いを求め、それが容れられなければ世話役や小頭を辞任する、と主張したというのである。山田たち世話役3人は、それが原因で724日に庄内藩中屋敷に預けられたが、翌月4日の夕刻3人は脱走し、小頭5人も同月11日、願の通り永の暇を賜ったとある。

 

 山田の書簡に、「いささか斬奸の嫌疑にて」禁固されたとあったが、書簡の別の箇所にも、「野生なども昨年交易人斬殺かたがた幕府の嫌疑に立行きがたきところ」云々とある。「嫌疑」とあり、事実の詳細は不明だが、安井息軒の書簡にも「(山田は)人も五六人位は殺し」とあることから、当時そうした風聞も流布していたのである。もっとも、そのことが謹慎処分の原因でなかったらしいことは、既記のとおりである。なお、山田の書簡には、「幕府に於いて赤心相つらぬき候義も及びかね」云々ともあり、攘夷を素志とする山田にとって、幕府が朝廷に攘夷断行を約しながら、生麦事件に対する多額の賠償金を英国に支払うなど、攘夷の意志のないことが露呈したことへの不満が、この事件の根底にあったと推定される。

 

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 新徴組脱走後について、先の山田の書簡に、「水国御軍師山国喜八郎今兵部先生相談の上、同志之者廿人引纏メ罷下(中略)水国厄介ヲ得」云々とある。山国喜八郎(兵部)水戸藩軍学の大家で、当時江戸詰の目付役であった。これによれば、山田は山国兵部の同意のもとに同志と共に水戸入りすることになったのである。山田は山国兵部と既知の仲であったのか、それとも、共に新徴組を脱した水戸浪士を介して山国と相談したのかは定かでない。

 

 水戸街道府中宿(茨城県石岡市)の妓楼紀州屋の娘(当時18)の回想談等を纏めた、山口誠太郎著『筑波義軍旗揚の前後』(以後「府中古老談」という)に、山田一郎一行が府中に乗り込んできたのは、文久310月半ば頃、一行は18人であったとある。その時の服装は片肌脱いで、襦袢には異人の首を斬る絵が描かれていて、腰には長い刀を差していたという。また、その後間もなくこの地を訪れた藤田小四郎に会ったともある。

 

 この点について『筑波騒動実歴談』には、「江戸の攘夷家の中山安太郎、山田一郎の両人が、同志の士六、七人とともに水戸へ参る途中、藤田の同処(府中)に滞在するを伝聞し訪ねて」来たとあり、同じ薄井竜之の「江東夜話」には、その時期を「慥か十二月初旬と記憶」していると記されている。そしてさらに、『筑波騒動実歴談』には、「中山らの一行は江戸へ引き返し(中略)二月にいたり江戸より山田一郎が前約を履み、同志十余名を引連れて府中へ参って加盟した」とある。『故老実歴水戸史談』にある岩谷信成(薄井竜之)口話にも、ほぼ同様の話がある。後に記された天狗党関係の著書は、すべてこの薄井の話を前提にしているが、前記山田の書簡の内容とも矛盾し、薄井の話には種々納得し難いものがある。また、薄井の話に出てくる中山安太郎についても、その人物像を明らかにしえない。

 

 山田の書簡には、「野生小川駅天聖寺寓居ニ而外有志七拾人ニ及候(中略)正月元旦水戸野生寓居出発両野州へ有故徘徊(中略)同月十九日水戸へ相戻」とあり、藤田小四郎等二十一人の名が記されている。水戸入り後の山田は、小川郷(茨城県小美玉市)近くの天聖寺を本拠とし、正月早々同志糾合のため野州や上州の地へ、手分けして出掛けたのである。山田はこの頃、阿部震斎と名乗っていたという。ちなみに、「住谷信順日記」の16日の条に、「藤田小四郎、三橋金四郎、山口庄次郎等上州辺江出張トゾ」とある。

 

「壬生藩天狗党応接関係吟味書」(『栃木県史資料編』・以下「壬生藩吟味書」という)の、壬生藩士増田鋳太郎の供述に、「去(文久四年)正月上旬、川連虎一郎より寸四郎方へ手紙参候ニ付、同人一人綿屋錦之助方へ罷越、出会仕候処、山田一郎、藤田小四郎も罷越居面会仕候云々」とある。川連虎一郎とは、関宿藩領真弓村の大庄屋で、天狗党に参加後、関宿藩佐幕派によって斬殺された人である。寸四郎とは、壬生藩の尊王攘夷派鎌田寸四郎基豊で、探索方として水戸浪士に接触していた。綿屋とは壬生城下の旅宿。この「壬生藩吟味書」には、山田と藤田を「只今は浪人中ニても頭分之者故云々」とあり、山田は元治元年の1月には藤田小四郎と共に、頭分として挙兵のための準備に奔走していたのである。

 

 山田が水戸へ戻った19日以後について、山田の書簡に、「山口正二郎、猿田愿蔵、野生三人ニ而水戸城下江出発、山口猿田両氏者直々東都山国先生へ秘密有之出発、野生は於武田耕雲斎先生其外同志中相談ニ而五六日滞留」云々とある。山田は武田耕雲斎(水戸藩執政)とも面識があったらしい。武田と面会の結果は、「幕府江奉勧攘夷候様可被成若シ幕府応シ不申候ハハ水国一手ヲ以夷虜洒攘可被成様申談」じたところ、「武田太夫モ不得止事」と述べたと記されている。なお、「住谷信順日記」によれば、25日に田中(猿田)愿蔵が、またその翌日に山口正二郎が在府中の住谷を訪ねており、山田の書簡内容の事実であることの一端が傍証できる。

 

 山田の書簡はさらに、その後「日光野州周旋探索、小川駅迄藤田小四郎同行、同人者直々東都行、何レモ来ル中に十二日、十三日筑波エ集会」云々と記されている。当初は、2123日の決起を予定していたのだろうか。なお、宇都宮藩尊攘派重臣懸信緝(通称は勇記・中老職)の手記(『栃木県史資料編』)に、2月中に藩士から聞いたとして、「水戸表正義家弥発奮、公儀ニて攘夷御決断無之候ハハ、水戸ニて手初いたし、神祖之御恩召并前中納言様之御恩召を貫き、徳川家之恥辱を雪可申と決心之者多人数出来、右ニ付てハ日光山へ依関八州譜代大名へ正義を以説得いたし、公辺之御為合力攘夷之儀申勧候方ニ弥内決」云々とある。これを知ったのは、多分2月初旬と思われるが、当時の浪士たちの様子が的確に把握されている。また、山田の書簡にあった、山田が武田耕雲斎に掛け合った話の内容とも一致している。

 

 天狗党は筑波、日光、大平山と転々とし、当初から明確な戦略に欠けていたとされる。先の岩谷信成の口話にも、筑波挙兵直後のこととして、「もし幕府がせめて来たなら、此の小勢では六ツかしい、日光へ立こもって居れば幕府も攻る事が出来ないから、日光へ移ろう」ということになったとある。しかし、これは明らかに誤っている。先の『懸信緝手記』でも明らかだが、328日付、水戸藩奥右筆照沼平三郎の報告書(『波山記事』)にも、「前日の説に(中略)日光山へ楯籠候との事の由」と記されている。幕府の手の出せない日光山占拠は、早くから決まっていたのである。

 

 山田の書簡に、「日光野州探索周旋」に出掛けたとあったが、「府中古老談」にも、山田一郎一派は府中と「小川の天聖寺との間を往復する外、一週間、十日と留守にするのが常であった。多くは野州地方の遊説らしかった。筑波へ立籠る前も二十日間ばかり宿を留守にして日光方面を遊説し」云々とある。また、『下野勤皇烈士傅』には、「日光並びに大平山を調べることに決し、尾州の人山田一郎は僧侶に変装し、信義(壬生藩尊攘派太田源三郎)は其従者に擬して出発、詳細な地図を製して帰った」とある。日光山占拠は山田の発案だったのかも知れない。なお、山田を「尾州の人」としているが、『波山記事』にも「喜連川出生にも唱相馬より相出候浪人とも唱山田一郎と名乗」とあるから、時によりその生地を偽っていのかも知れない。

 

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 先の「府中古老談」には、さらに続きがある。それは、山田一派は府中で「相当手荒いことをやった」が、その一つは文久312月の高橋友泰殺害事件であったという。直接手を下したのは山田配下の天野準次や田島哉弥等であったとある。この真偽はともかく、これには裏話があって、事件の前日の夜、紀州屋の2階で浪士たちが揮毫などをやっていた際、「山田一郎はなかなか書が上手で、特に彼は口に筆をくわえて豪放な字をかく芸当を得意とした」が、これを高橋が「大道でやって見せたら金儲けになる」等と冷笑したため、これも原因の一つだったのではないかとしている。もっともこの事件はついては、坂井四郎兵衛著『水戸見聞実記』に、「府中古老談」とは異なる次のような事実が記されている。

 

「十二月新治郡府中(原注・今の石岡)に於いて水戸医師高橋友泰殺害に遭へり。這は同人

 義一旦激派へ組せしに何缺秘密の事を泄したりとて、口留の為小川館の者にて切り殺し 

 、捨札の面へは此者儀久木直次郎へ同意し、金作を働き人民を驚かし候に付天誅を加ふ

と記したる由」

 

 もう一つの逸話は、挙兵直前の315日の元穀屋伝七殺害事件である。この事件については「元治元年甲子記録」(石岡市史資料編』)にも、「伝七成者糸綿ヲ売買スルヲ以テ(中略)小川村天聖寺ニ宿居スル新徴組之浪士山田一郎、此徒三、四人伝七宅ヘ乱入シ彼ガ首ヲ刎(中略)是頗ル糸綿ヲ横浜送リ諸人之困苦ヲ知ラルヲ以テ如是と云」とある。この後に始まる、軍資調達を円滑にするための見せしめ的な蛮行であったらしい。なお、「府中古老談」に、2つの事件には「勿論山田自身は手を下さなかったが、こうした手荒い仕事は彼一派の手で引き受けるのであった」とある。

 

 山田一郎たちは327日、水戸藩町奉行田丸稲之右衛門を総帥として筑波山に挙兵した。「元治元年甲子記録」には、これより前の23日「山田一郎其後之者三十余波山に登る」とある。挙兵準備のためだったのだろうか。「南梁年録」(茨城県史料』幕末編Ⅲ)収載の「日光勢存意書取」にある名簿には、山田の役職について、遊軍総括、使番、さらに調練奉行ともあり、藤田小四郎作成とされる「行軍録」には使番とあって一定しない。資料により軍師使番兼、使番兼調練奉行等ともある。また、『波山記事』収載の「探索書」には、「山田一(原注・年齢三十才余サンギリ髪)藤田小四郎等は瀬尾伴右衛門方へ止宿」云々とあり、「南梁年録」にも「右(山田)は大平山の浪士頭取の由也」とある。先の安井息軒の書簡にも、「頭取は山田一郎、猪俣小六」と記されている。猪俣小六は藤田小四郎の変名だが、当時山田一郎がどのような立場にあったかが明瞭である。

 

 この後、山田一郎による軍資の調達が本格化する。このことに関して『筑波騒動実歴談』に、「軍資が乏しくては何もせぬから、その金作掛りというのを設けて、山田一郎があたることになった。これより山田は筑波近傍にて富豪の聞こえある家々へ召喚状を発し、日を期して筑波へ喚びあつめた云々」とある。

 

 山田の軍資調達に関しては、「筑波山騒擾大略調」(『波山始末』)に、「筑波山江集り、七八里四方へ山田一郎名印之差紙(中略)殊之外大金策立候」とある。また『続徳川実紀』に記される旗本日下数馬の届出書には、「隊長山田一郎と申者近郷所々目撰之上呼出し、日々軍用金之由申付」とか、真壁郡酒寄村の百姓が筑波山へ呼び付けられ、山田一郎から、軍用金が不足なので、「是ヨリ(村方へ)出向借用可致筈に候得共右ニテハ女童共恐惑可致察入候間是迄差控候」と脅して、「各方力之可及丈借用」したいとの要請があり、即刻金子を取り揃えて持参したところ、山田から「意趣厚挨拶イタシ久兵衛、吉兵衛ハ少々酒代呉候」云々とある。

 

また、「甲子見聞録」(下妻市史料』)に記された事実を要約すると、筑波町役人から下妻町の物持ち3人に即刻筑波へ罷越すよう差紙があり、翌朝代理人3人と差添役人が出頭すると、山田一郎から「其方共遠方大義」と労いの言葉があった。そして、筑波へ呼び出したのは、その方たちの家々へ押掛けたのでは迷惑が掛かること、横浜開港以来「追々穀物ハ高値ニ相成既ニ凶年ニ而も有之候ハバ、渇命ニも相成事眼前」である、ついては我々が身命を掛けて横浜征伐の先駆けをするので、「其替リ其方共弐枚着る着物も壱枚着て情々金子用立呉様申」、それが迷惑なら、「其方共存意可申出候」ようにと言うので、一度村へ戻って相談したいと言うと、山田は声を荒げて「(村方へ)人数拾人も差向候抔ト申威」すので、結局1100両ずつ払うことになったという。そして、うち1人が「色々なげき弐拾金差戻し」て貰ったとある。

 

こうした際の強要は必要悪であろうが、山田のそれは、決して非情な強奪とばかりはいえないものがあった。この点について、井坂敦著『常陸小川稽医館と天狗党』では、「山田一郎が軍用金徴収に用いた要領は、相手の弱点をよくとらえ、おだやかな交渉のなかにきついものをもっていた」と指摘している。

 

なお、懸信緝は軍資調達に関して、その筆記「愁思録」に、田中愿蔵等の所業は別であるとの前提で、「世俗ハ大平筑波ノ士ヲシテ逆賊悪徒トナス者多シ、我ハ逆悪ノ賊トハ思ハザルナリ、仁ヲ成シ、国難ニ殉シテ皇国ノ生気ヲ挽回シ、大恥辱ヲ一洗セント志之者ナレバナリ、此大義ニ立テバ有徳ノ者ニ金銀ヲ出サスルコトナド極メテ小罪」であると記している。尊王攘夷の志を同じくする縣信緝らしい思念である。

 

43日、準備の整った浪士たち(以下「筑波勢」という)は、この日下山した。小山朝弘(春山)著『常野戦争誌略』に、「筑波ニハ山田一郎等数人ヲ留守セシメ」とある。しかし、『波山記事』収載の「水戸様家中書簡抄」には、「山田一郎之手并小川潮来之内猪俣ト山田ヘ属シ候モノ共出立、山田江緋羅紗之陣羽織着用為致」とあり、『小山市史資料編』収載の「天狗騒動につき魚継問屋廻状」(以下「魚継問屋廻状」という)には、「右大将たるものは山田市郎、田丸稲()右衛門其外四五人も大将分もの共出立、人数凡そ百四、五拾人」とある。この日一行は小栗宿に宿営した。

 

4日は石橋宿泊り。「水戸藩一件写し」(『皇国形勢聞書』)に、この日年寄半蔵方に宿を取った山田について、「山田市郎様、木村久之丞様其外何れも白胴着ニて袴を懸割羽織野袴着用」云々とある。木村久之丞とは、山田と共に新徴組を脱走した人で、浪士組では乱暴者取抑役を勤めた。姫路浪人という。

 

この日の石橋宿本陣問屋の届出書(『筑波記事』)に、「山田一郎者茶代其外左ニ」として、「金貳百匹宿主人エ一同壹歩勝手遣之者、年寄多左衛門、善左衛門両人機嫌聞ニ参候処、人馬配り方談有之金壹歩山田一郎殿ヨリ直々呉遣申候」とある。山田のこうした配慮は、その人柄もさることながら、ある意図があったのではないかと推定される。これは後にふれたい。

 

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「壬生藩吟味書」によれば、筑波勢は石橋から壬生通りを日光へ進む予定であったが、鎌田寸四郎が山田一郎に嘆願して進路を変更してもらったという。鎌田は同志に、「其節山田一郎と申者之世話に相成候間、馬具を貸し不遣候ては不相成候」ため、至急馬具を石橋宿に届けるよう要請、その晩遅く同志が馬具を届けると、「総髪之男罷出候、此者は山田一郎と申者之由、同人より寸四郎へ申聞面会仕品物」を渡したという。なお、この鎌田寸四郎は、この後、藩内の政変により脱藩の罪で藩当局に拘束され、獄中獄吏の刀を奪って自刃したという。鎌田は、同志増田鋳太郎に、「死するまでハ城を捨不申」(「壬生藩吟味書」)と語るほどの誠忠の士であった。

 

5日、筑波勢は宇都宮に入った。『波山記事』に、「山田一郎主頭ニ而拾三人同所宿屋手塚屋五郎兵衛宅ニ罷在」とある。筑波勢は、勤王藩として知られる宇都宮藩に挙兵への協力を要請したが、談判は不調に終わった。この時応接に出たのが懸信緝であった。得ることなく宇都宮で丸2日を費やした筑波勢は、7日に日光へ向けて出発、翌8日に今市宿に到着した。しかし、この時すでに、日光奉行は領内猟師等約800(日光市史』)を動員すると共に、日光守衛役の宇都宮、館林両藩に警備強化を指示し、8日には幕府が近隣諸藩に対して、日光警備のための動員令を発していた。

 

筑波勢は日光山の占拠を断念し、懸信緝の仲介により、101組での日光廟参拝にとどまった。「懸信緝日記」(『栃木県史』資料編)9日の条に、「藤田小四郎、山田一郎等弐十人登山、此日危難を免る」とある。「危難」云々について「懸信緝手記」(『栃木県史』資料編)には、「水戸人本陣へ勇記殿御出之節、戸田次郎外五六人申合、勇記殿を刺候謀策有之、右を山田一郎と申者察し、常に勇記殿側を不離罷在候故、不能発して止候よし」とある。戸田次郎(弾正・村樫易王丸)は、斉藤弥九郎等に剣を学んだ宇都宮藩天狗党の首領で、過激な言動から藩を追放され、懸信緝に含むところがあったのである。その戸田次郎等から、山田がなぜ懸信緝を守ったのかは定かでない。戸田は、後に礒浜の戦いで戦死した。

 

 筑波勢は、11日今市を発し、鹿沼を経て翌日金崎宿に入り、ここに14日まで留まった。日光廟へ参詣する例幣使一行の通行をやり過ごすためであった。『波山記事』に、例幣使一行が、栃木宿本陣で休息中、割羽織小袴着用の6人の浪士が旅宿清蔵方に入り、「壹人ハ山田一郎ト申者ニ而本陣ヘ相出多ニ人数最寄ヘ参集致居り候ニ付、一同日光表ヘ御供致度旨相願候、断ニ相成候」ため、山田一郎は浪士たちの待つ旅宿へ引き上げたとある。山田には、例幣使一行に随従して日光山に入り、そのまま占拠しようとする意図があったらしい。

 

稲葉誠太郎著『天狗党栃木宿焼打事件』に収載の「波多野日記」に、例幣使一行が合戦場宿に宿泊の夜、「浪士方大将ハ山田市郎甲冑ヲ着同勢鉄砲ニテ御本陣前御固ノ前ヲブラリブラリと夜中ニ通行様子伺ケル」云々とある。著者は、文中に「白木ノ長持紋は二ツ巴目ハ有之由、古宿ゟ継来リ候、山田市郎の紋也ト云」とあることに着目し、これは山田ではなく、田中愿蔵であると断じてよいであろう、としている。指摘通りで、山田家の墓石によれば、その家紋は五三桐である。山田一郎に関する風聞の頼りなさの一例である。

 

 14日、筑波勢は滞陣のため大平山に登った。大平山宿営を大平山連祥院に交渉したのは、山田一郎と小林幸八(水戸藩属吏・後に横浜で斬首)であった。連祥院から幕府寺社奉行への届出書(『続徳川実紀)に、「十四日水戸様御家中山田一郎殿、木村(小林)幸八殿と申仁」が来て、「拙者共重役義当山江志願有之祈祷相願度段申付候罷出候、夫に付迷惑ながら一泊相願候」とのことで、断ったが断れきれなかったとある。なお、「浪人大平山権現参拝之節宿割」(『波山記事』)には、「軍師使番兼山田一郎外拾五人余、右之者栃木町止宿当時水戸表へ罷越居候」とあるが、「甲子見聞録」には、「四月十四日山田一郎義は又々筑波山戻リ金策仕候」とある。山田は連祥院に宿営を折衝した後、直ちに山を降りたのである。その後の様子からも、山田が大平山に滞在した様子はない。

 

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 山田一郎は筑波には赴かなかったのだろうか、同じ14日の「懸信緝日記」に、「今宿へ宿す、此夜山田一郎願彦根差留之事承知候事」とある。「彦根差留之事」が何を意味するかは定かでない。当時彦根藩井伊家は、野州安蘇郡に佐野等15村の所領があり、佐野陣屋から例幣使一行への護衛兵も出ていた。これまで、筑波勢(山田一)彦根藩領の村々で軍資の強談をした形跡はない。これは、水戸浪士による井伊大老襲殺の過去の経緯もあって、無用な摩擦を避けようとしたのではないかと思われる。

 

なお別件だが、後に懸信緝が藩当局に提出した「御届出書」(小林友雄著『勤皇烈士懸六石の研究』)に、「山田一郎嘆願之義ニ付、美濃部、山国エ書面差遣候処、平山之徒憤之、騒立候故(中略)美濃部外壹人取鎮候為」云々とある。この件について、『史料宇都宮藩史』に、「山田一郎ハ大平山之幹部之一人ナリ(中略)頗ル才物ナレバ専ラ四方ニ出テテ軍資ノ募集ヲ担当シタリ、今同人嘆願ノ儀ト云フハ即本藩ニ向テ資金ノ寄贈ヲ請求シタルナルべシ」とあるが、これは誤りである。

 

 このことは、「懸信緝手記」に、「十四日例幣使御用人田中内匠ニ面会之節館士嘆願之様子有之、此後帰路心配之由ニ付」、当時江戸の小石川藩邸から派遣されていた鎮撫使の美濃部又五郎等へ、この旨の書簡を送ったところ、「館士一同で勅使へ御無礼不申段盟置候処、猶狐疑を抱候条武士道有之間敷儀」と憤ったというのである。なお、山田一郎が例幣使への随従を嘆願した13日夜、輔翼の斉藤佐治右衛門と藤田小四郎が合戦場宿の例幣使の宿所を訪れ、同行を求めていた(茨城県史料』幕末編Ⅲ収載「常野集」)。こうした度重なる浪士たちの動きに、例幣使一行は戦々恐々としていたのである。

 

 416日付けで、山田一郎、小林幸八等3人の名で栃木宿で出した人馬継立書(「常野集」)に、16日小山泊り、17日下館泊り、18日筑波着と記されている。先の「魚継問屋廻状」にも、「山田一郎其外馬三疋、結城町江戸屋中飯にて下館町へ継立」等とある。日程が一日遅れたのだろうか、『波山記事』収載の「風説写」に、「松平大炊頭家来之由、小幡友七郎、大高忠兵衛外三人、是者去十七日江戸方ヨリ早駕籠ニ而相越、小山宿山田一郎旅宿ヘ落合、直ニ栃木宿ヘ立越候」云々とある。石川若狭守家来の届出書(「常野集」)にも、17日のこととして「駕籠貳挺参着一郎旅宿相尋候」等とある。なお、栃木宿には、当時鎮撫使の美濃部や山国一行が滞在していた。

 

「栗橋関所御用留」(『埼玉県史料叢書』)で、17日小幡友七郎一行が早駕籠で関所を通過し、同月21日一行上下5人が「日光より江戸屋敷迄早駕籠ニ而」通ったことが確認できる。山田を訪ねた小幡友七郎とは、宍戸藩主松平大炊頭頼徳の近習頭で、後に主君頼徳の死を悲憤して自刃した人である。小幡友七郎は、恐らく主君頼徳の命を受け、筑波勢の領内引き上げの説得に奔走していたのではないかと思われる。 

 

  

瀬谷義彦著『水戸藩郷校の史的研究』によれば、水戸藩弘道館助教石河明善の日記の文久4127日の条に、「水戸藩の支封宍戸藩当局が小川郷校に拠るいわゆる小川勢に籾を贈ったこと、それは南部藩浪人で天狗党に加わった山田一郎の斡旋らしいこと、を記している」とあるから、山田は宍戸藩主の知遇を得ると共に、尊攘派の小幡とも知己の仲だったのかも知れない。小幡は目的達成のため、まず最初に山田一郎を訪ねた可能性がある。

 

 19日、山田は筑波の町役人を介して近郷の物持ちを呼び付け、軍資金提供を要請している。井上伊予守家来の届出書(「常野集」)にも、やはり山田が金を届けた者に、「別金を以金五両紙ニ包利兵衛、孫左衛門江酒代として遣候」云々とあり、また別の届出書にも、即刻金子を取揃えて山田一郎に届けると、山田は「忝旨丁寧ニ挨拶被及(中略)少々ツツの酒代呉候間貰受引取候」と記されている。山田が態々筑波に赴いて軍資調達を行っていることに注目する必要がある。

 

 その同じ19日、館林藩士塩谷良翰が、探索方々藤田小四郎に会うために大平山に登っている。『塩谷良翰懐古録』に、大平山登山の際、「山田一郎は人物の由に付、承り候処筑波表へ越し居候」との返答があったと記されている。山田一郎の人物であることは、周辺諸藩の有志たちにも聞こえていたのである。

 

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 大平山籠山後20日余りを経た56日、筑波勢の補翼斉藤佐治右衛門が大平山を脱走した。「水輜重府室町氏筆記」(『維新史料編纂』)に、「斉藤左次衛門甫翼之処、法列を乱し、一同より議論大に有、脱走す」とある。この頃、大平山内で内紛が起きていたらしく、59日付の井上伊予守家来の届出書(「常野集」)に、「大平山内悉く仲間割れ致し候哉、大揺之由」云々とある。斉藤佐治右衛門脱走の翌7日には、鎮撫使の山国兵部等も、「夕刻より俄ニ支度、昨八日出達致し」江戸へ帰ったとある。下妻藩主井上伊予守は大平山内に間諜でも入れていたのか、情報把握が迅速で、詳細である。筆者の推測だが、鎮撫吏山国兵部は、筑波勢に水戸領内への撤退を求めていたというから、山田一郎はこれと同意見で、山田に同調する人たちも加わり大平山内で諤々の論争があったのではないだろうか。あるいは、斎藤佐治右衛門も山田と同じ意見だったのかも知れない。

 

 井上伊予守家来の先の幕府への届出書には、さらに、「山田一郎儀は此程小山宿ニ罷り居、何歟謀合之義有之候哉、江戸表ヘ自訴致し候趣之由ニ付、当方より薩摩藩林藤蔵練兵方ニ駕籠ニ而罷越候由、不相用候哉最早出立之由承知仕候」とある。この届出書により、山田の筑波勢からの脱隊は、59日以前であったこと、また通説のように、山田はこそこそと逃げ出したのではなく、藤田等に事前に周知の上(薩摩脱藩士林藤蔵の説得にも応ぜず)、堂々と筑波勢から離脱したことが明らかである。その筑波勢離脱の理由は、藤田小四郎たちとの上記水戸領内引き上(他領内での軍資調達に反対も含め)げに対する意見の相違であったと思われるが、このことは後に再びふれる。

 

「波山等騒擾大略調」には、「金策ヲ相立候内山田一郎ト申者は自分組之者七八人引連五月十日筑波を出立、御府内江罷出自訴致シ候風聞」云々とある。山田等は小山宿から筑波を経て府中に赴いたらしい。なお、山田と共に脱隊した者は10人余とする資料もある。

「府中古老談」に、「山田が隊を離れるときには府中の紀州屋へ行くと言って出たのであるが、その通り彼は紀州屋に来たのであった。(中略) 彼等は何処へともなく姿を消してしまった」とある。そして、それから10日程して筑波(勢ヵ)から尋ねの使いが来たが、筑波では鎧櫃の中の軍資金が不足していたことから山田等の脱走に気付いたとある。しかし、この話は一部先の井上伊予守家来の届出書等とも矛盾している。

 

「府中古老談」には、山田の筑波勢離脱に絡んだ逸話がもう一つ載っている。それは、脱走者の1人川野健之助は、行方郡延方村(茨城県潮来市)の人で、父親を志筑藩の者に殺され、親の敵を討つため紀州屋おかみの仲介で山田一郎の養子分になっていたという。「山田は義理堅いので脱走のとき川野を連れて行き、江戸に行ってからは川野の後事を中山信安に依頼し、川野の手当金として金千両を渡したのである」とある。山田が川野の後事を託したという中山信安とは、後の茨城県権令で、緒方洪庵蘭学を学んだ開明的な幕臣である。当時は新徴組支配定役を勤めていた。その中山信安が、千両もの不浄な金を受け取ったというのは果たしてどうか。中山が気節の士であったことを示す逸話が、長谷川伸の『私眼抄』にあるが、それを読む限り「府中古老談」の話は信じがたい。

 

 山田一郎は4人の配下(剣法の弟子とも)と共に、514日、勘定奉行木村甲斐守の役宅に自訴した。『水戸藩史料』中の「槙野紀聞」に、「願書持参自訴致候」とあるが、残念ながらこの願書は確認できていない。定めてそこには、幕府による奉勅攘夷に関する訴願の一項目があったことだろう。

 

『波山記事』によれば、取調役の勘定奉行所留役斉藤辰吉等に対し山田は、「私儀皇国之御為攘夷先鋒相勤度(中略)武備用意之為金子才覚仕儀等も有之候、私欲之御取調にて、御討手被差向候哉ニ奉伺候而者、何共恐入微志も貫兼候、不及是非候間御大法に被所度」と述べたという。「私欲之御取調にて云々」とあるから、いうまでもなく、これは取調役斉藤辰吉の尋問に対する山田の陳述内容である。

 

 山田はさらに吟味役の斉藤辰吉等に対して、「外ニ同志之者も御座候得共、右者私壹人之罪に帰し候間、外之者共は寛大之御吟味に被成下度」と訴えたが、他の四人もまた、「一郎壹人にて御咎被仰付候ては無拠、畢竟私共同罪之事に御座候間、御刑法奉仰候」と申し立てたというのである。揃いも揃ってなんと道義に厚い、士道の鑑とさえいえる態度である。

 

 山田一郎と固い信頼関係で結ばれていた4人のうち、田島哉弥は山田と同じ浪士組帰府前参加の新徴組士(小頭兼剣術教授方)で、山田に同調して脱隊した上州浪人、この時山田より1歳年上の29歳。天野準次は旗本松平鷹吉元家来で、この時27歳。佐藤継助は南部藩領野田村(岩手県野田町)の人で、父は鉄山を経営する素封家。玄武館千葉道場で北辰一刀流を学び、渋沢栄一等の横浜焼打ち計画に関与後に水戸に入った。当時24歳。渡辺欽吾は、常陸国行方郡若海村(茨城県行方市)の修験三光院の子で、文久3年藩主徳川慶篤上洛の後を追って上府し、攘夷実行のため新徴組に入った。当時19歳であった。

 

 山田一郎等の脱隊と自訴の理由については、「水戸道中筋探索書写」(『波山記事』)に、「南部浪人山田一郎ト申者党類江加ハリ居、一体利発之者ニ付、筑波山ニ籠居候浪人之頭分ト相成居候処、逐々変心之気顕レ中間之者共ニ可被及殺害様子ニ付、雑用之タメ貯置候金子ヲ持脱シ、剣法之弟子之由ニテ、外ニ四人一郎供ニ密に出立、公儀御役所江自訴ニ被及」とあるが、この探索書には種々疑問がある。まず、殺害を恐れて自訴するなど、士道に悖ること甚だしく、自訴後の山田たちの出処進退からもあり得ないだろう。また、殺害を恐れての脱走なら、死を覚悟で幕府に自訴する必要などなく、逃亡すればすむことである。さらに、文中「密に」とあるが、先の井上伊予守家来の届出書とも明らかに矛盾する。

 

また、「金子ヲ持脱シ」とある点については、『甲子雑録』収載の「五月廿二日出東都来簡」に、「(山田は)四人召具し、金四千両を持て出奔し」とあり、「塚本勇範日記」(『筑波町史料』)にも、「山田一(中略)金千両余持て筑波ヲ立」云々とある。また、『真岡市史近世資料編』収載の「天狗討伐につき真岡陣屋鉄炮方出兵手控」なる資料には、「右之者(山田)金計壱万両所持いたし居り候よし、御噂有之」とある。しかし、いずれも風聞である。

 

多くの同志が共に脱隊した以上、逃走費用等も必要であり、山田たちが、何がしかの金を持ち出したことは疑いないだろう。しかし、筑波騒動で厳戒体制下にあった街道筋を、多額の金を無事に江戸まで持ち込むことができたとも思えない。また、筑波勢にとって重大事であるにも関わらず、薄井竜之(岩谷信成)が、このことに一切言及していない。なお、後に山田の身柄を預かった白河藩阿部越前守家来の報告書(「常野集」)には、山田の所持金は、「金貳百三拾四両貳歩」と記されている。

 

 ちなみに、山田等の脱隊自訴の理由について、『近世日本国民史』は、「彼が筑波義徒の同志より、其の態度を疑われた為めであったかも知れない」としているが、金沢春友著『藤田小四郎』にいたっては、「山田一郎の場合は、集めた義軍の金を、何万両となく、自ら之を懐中にして(中略)糾弾の声が内外から起こって、遂にかういふ、哀れな結論になった」ようである、と記している。また横瀬夜雨著『天狗騒ぎ』では、「(幕府へ)一万両を献じて罪をあがなをうとしたといわれる」とまで書いている。いずれも言葉を濁しているが、吉村昭の『天狗争乱』では、「(軍資金を)着服しているのではないか、と疑われているのに気づき、身の危険を感じて抜け出たのである」と断定している。いずれも「山田一郎は許されざる悪人である」という強い思い込みが前提にあると思われる。

 

引用が長くなるが、関山豊正著『元治元年』では「幕府追討軍が怖くなったらしい、山田は開戦以前に脱走したのである」等とある。幕府が筑波勢追討を決定するのは翌月のことであるが、いずれも、山田一郎の人物像からはとても想像し難いことである。なお、この『元治元年』では、「田中愿蔵、山田一郎らは、その過激派(攘夷倒幕)の代表的存在である」と断定しているが、筆者は、山田一郎には倒幕の思念など一切なかったと推測している。

 

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 山田等の自訴の理由で注目されるのは、幕府の目付杉浦兵庫頭梅潭の日記(『杉浦梅潭目付日記』)である。その516日の条に、「大平山屯集浪士之内、山田一郎初拾人程、新宿江止宿、右始末内密御聞糺し之処、大平山屯集之内、近郷ニ而金子掠取候抔、如何之所業致し、右は水戸殿江対し恐入候儀ニ付、山田一郎初銘々一身に引受其筋江自訴致候由」とある。これこそ先の井上伊予守家来の届出書と共に、山田たちの自訴の真相を伝えるものではないかと思われる。

 

 山田にとって、尊王攘夷の聖地と敬慕する水戸藩の名誉失墜は、あってはならないことだったのだろう。そのため、水戸藩士でない山田が、庶民から最も厭われる軍資調達を一手に引受けたのではないか。その上で、私欲のためでないことを明らかにするため筑波町役人を介し、資金提供者には相応の配慮をする等、庶民からの反発を最小限に止めようとしたのだろう。『杉浦梅潭目付日記』に、「水戸殿江対し恐入候儀」とあったこと。また、壬生藩士鎌田寸四郎が同志増田鋳太郎に語った、「山田一郎も水戸藩と名乗申候、如何ニモ自家主為ニは徹心仕居候」(「壬生藩吟味書」)の言葉でも、山田一郎の水戸家への思いが窺える。

 

また、「杉浦梅譚目付日記」に記される山田一郎の供述に、「大平山屯集之内、近郷ニ而金子掠取抔」云々とあったが、山田たち一派が常陸、下総の地以外で軍資金の調達を行った形跡はないことは前にも述べた。従ってこれは、山田一郎一派以外の行った軍資調達のことを言っていると思われる。

 

大平山登山後の筑波勢は、「有志が沢山集まり来って七百人ばかりにもなって、金がまたまた入用」(「岩谷信成口話)になり、山田の意に反して軍資の調達手段の方針転換があったと推定される。事実、5月以降、上州伊勢崎や太田方面に浪士を派遣しての軍資調達が行われており、山田等の脱隊後の510日頃からは、さらに大規模で強硬な軍資調達が開始されている。なお、『波山記事』収載の「宇都宮書翰抄」には、「(筑波勢が宇都宮出立後も)田中愿蔵其外当所ニ残居り金銭懸合』云々とあり、田中や千葉小太郎等の一派は早くから強談を始めていたのである。また、人数の増加と共に無頼の徒も増加し、「少々人馬(の手配に)差支候ても鉄扇并鞭ヲ以打擲、又は斬殺抔と刀ヲ抜振廻」(小山市史資料編』収載「石ノ上村願書」)等の狼藉も頻発するようになっていた。

 

前にも記したが、山田はこうした事態を憂慮し、藤田等に、水戸家を貶める軍資調達方針の撤回を求めたが受け容れられなかったのではないか。已む無く、山田は身を挺してこれを留まらせるため、これまでの凡ての罪を「一身に引受其筋江自訴」することを藤田等に周知の上で脱隊、自訴したものと推測される。山田や藤田たちが身命を賭して事に当たっていたことは、彼等が大平山から老中板倉勝静に呈上した願書に、「攘夷ノ令ヲ布キ叡慮御奉シ被遊候御事業天下ニ相顕レ候ハハ、我々共如何ナル重科被仰付候共聊御恨不申上候」、とあることでも明らかである。現代文明に毒されてしまった我々には、理解しえない心事であると思われるが。

 

なお、挙兵直前での日光の探索や、例幣使に随従しての日光入山交渉など、山田が日光占拠に拘っていたことは明らかである。それゆえ山田は、日光占拠断念の時点で挙兵の失敗を判断した可能性がある。そのまま他領に留まれば、幕府追討軍との戦いは必定であり、そうなっては水戸家に対しても恐れ入ることである。山田は山国兵部等鎮撫使の説諭どおり、常陸国内へ引き上げての再起を主張していたのではないかと思われる。

 

 自訴後の山田たちについては、『藤岡屋日記』に、「同日(十四日)江戸宿伏見屋重兵衛宅江御預ケ、翌十五日御呼出、一ト通吟味之上、山田一郎ハ阿部越前守江御預ケ、其余揚屋入被仰付候処、十八日尚御呼出上、何れも元主人江御預ケ被仰付候」とある。4人が預けられた元主人とは、田島哉弥が旗本加藤寅之助、佐藤継助が南部藩主南部美濃守、天野準次が旗本松平鷹吉、渡辺欽吾が水戸藩徳川慶篤である。その後、渡辺欽吾が同年915日、佐藤継助が同年1211日に処刑されている。他の2人の末路は不明だが、当時の状況から処刑されたことは間違いないと思われる。

 

 山田一郎を引き取りに出向いた白河藩主阿部越前守家臣の報告書(白河藩阿部家史料『公余録』)に、「右御預人(山田一)ザンギリ美男ニ而当子廿七之由、衣類等絹布、人体宜敷弁舌等至而静ニ而取廻し落付、通例之人々ニは無之様子也、但出生南部之ものとの事」とある。いかにも、山田一郎の人品人柄を彷彿とさせるものがある。

 

 白河藩阿部家史料『公余録』によれば、623日、山田一郎は上州小幡藩松平摂津守家来へ預け替えとなっている。その後、山田一郎は小塚原の刑場で斬首されたのである。小塚原回向院の過去帳に、「死罪者、十二月六日亡、覚心信士、山田一郎、市郎」とあるという。すでに自訴の際、泰然自若として「通例之人々ニは無之様子」だった山田一郎である。「覚心信士」の法名からも、心静かに刑に服したことが察せられる。

 

 藤田小四郎等のように贈位の恩典もなく、汚名を一身に引き受けて死んだ山田一郎の墓石は、郷里山田町龍昌寺の暗い樹林のなかにある。法名を「俊然義貫清居士」と刻まれた墓誌には、なぜか、「元治甲子年十一月十日没、俗名横田嘉郁、行年二十八歳」とある。

 

※本稿は『歴史研究』第660号「特別招待席」に掲載したものに一部補筆修正を加えています。

 

[付録]水戸天狗党の騒乱に関係した南部盛岡藩士たち

 

岩手放送社長故大田俊穂氏の著書『南部維新記』に、水戸天狗党の乱に関係した南部藩士は山田一郎、佐藤継助、蛇口安太郎の3人であったと記されている。しかし、管見ながらこれまでに筆者が確認した南部藩(元も含め)はこの3人を含めた5人である。参考までに、僅かながら山田一郎以外の4人に関する筆者が知る事実を以下に記しておくこととする。なお、手元の蔵書や資料で確認できた事実だけであることを付言しておきます。

 

  1. 佐藤継助

山田一郎と共に筑波挙兵当初から天狗党に参加したと思われる佐藤継助については、太田俊穂氏の『南部維新記』以外に、同氏の『維新の血書』、『血の維新史の影に』、『最後の南部藩士』等で取り上げられている。それらによると、佐藤継助は天保12(1841)盛岡藩九戸郡野田村で鉄山を経営する素封家佐藤儀助の長男として生まれた。父儀助は藩の鉄奉行をつとめ、士分に取り立てられていた。佐藤家は野田地方きっての名家で、継助の死後は弟がその家を継ぎ、維新後には村長などをつとめたという。ちなみに、太田俊穂氏は、この弟の孫謙次郎と中学の同級生で、この人から継助に関する資料も見せてもらったという。※『角川日本姓氏歴史人物大辞典』第3岩手県には、「父宇助は野田通宇部代官所(久慈市)の下役小田弓助の四男で、同村の屋号「酒屋」の当主となった。長兄継弥の長男はのちに国会議員となった小田為綱」とある。

 

継助は少年時代から俊敏の誉が高く、城下で剣と学問を学び、19歳の時に江戸藩邸詰を命じられ、千葉玄武館道場で北辰一刀流を修めた。継助は在府中志士たちと交わるうちに尊攘思想を懐抱するようになり、万延元年(1860)の夏脱藩して藩邸から姿を消したという。なお、『歴史読本』平成142月号に掲載された「史実のなかの吉村貫一郎(筆者失念)に、後に新選組隊士となった南部藩吉村貫一郎は、元治元年2月に玄武館道場に入ったが、「この時期、玄武館道場で前年6月から修行を積んでいた同藩の佐藤継助が、125日に聞き届けられた常州への修行を名目として出掛けたまま帰らないでいた」ため、入門早々の吉村が同門の蛇口安太郎と共に継助を連れ戻すよう藩命を受けた。しかし、吉村と蛇口の2人は目的を達することはできず、継助は511日付けで出奔とみなされたとある。

 

これは盛岡藩の武道名鑑「忌辰録」を根拠にしたというが、文中には、佐藤継助は「田中愿蔵の配下にいた、那珂湊の激戦後に江戸へ逃れた云々」とあるなど、事実とは異なることも記されている。また、同じ太田俊穂氏の『最後の南部藩士』等によると、継助は「坂下事件の関係者として追われることとなり、名を奥麟之介と変えていた」とある。しかし、これも何を典拠としたかは不明で、澤本猛虎著『阪下義挙録』や『大橋訥庵傅』、大橋訥庵の書簡類を調べたが、佐藤継助らしき人物の名を見出すことはできなかった。

 

文久3(1863)渋沢栄一らによる横浜焼打ち計画に、継助は玄武館塾頭真田範之助らと共に参加している。渋沢栄一述『雨夜譚』に、「この徒党中の重立った人々は、(中略)千葉の塾で懇意になった真田範之助、佐藤継助、竹内練太郎、横川勇太郎、海保の塾生で中村三平などで云々」とある。この挙兵計画は栄一とその義兄尾高惇忠、渋沢喜作の3人で計画し、その年8月頃に1123日を挙兵の日と決定したが、10月末には中止となっている。1019日付けで江戸から栄一と喜作が郷里の尾高惇忠に宛てた手紙に、「真田外三四輩抔も、殊之外大奮然、期限迄之無事を苦居候様子、依而約し候通、前後不残発足に相成候、尤も真田は明廿一日に相成可申候、何れ下旬迄郷里辺迄参着相成候」と記されている。佐藤継助たちは1019日以前に江戸を出立して、武州下手計村近辺へ向かったが、徒労に終わったのである。

 

佐藤継助はその後、「府内を点々としているうちに同じ南部出身の志士山田一郎と偶然合った。(中略)佐藤と山田は常州石岡へ向かい、藤田の誘いで筑波山の挙兵に参加した」(『維新の血書』)というが、山田と継助が「偶然合った」という点は、おそらく太田俊穂氏の推測だろう。2人の出会いついては特定できない、というのが事実と思われる。佐藤継助のその後については、山田一郎と行動を共にしているので省略する。なお、『歴史読本』昭和504月号「ずいひつ」欄に、太田俊穂氏の「『草莽志士』の原型」と題する一文があり、その中に文久2年秋とする、継助が郷里の父儀助に宛てた手紙文が紹介されているので、参考までにその一部を以下に転載させていただく。

 

「衆説には安藤対馬守御閉門にて文庫に封印相付し候由。多分半地改易申渡されるとの事。(中略)京都にても大分勢よく外異()打払の公論相見え候間、遠からず、相い始め申す可く候。(中略)打払いに相成り候はば乱を好むものにては決して之無く、一日も太平を楽しみ度きものに候得ども外異()渡来によっては上は一天万乗の君の御心を悩まし奉らず、下は万民のために患を払い候事に候。(中略)天下英雄の士、死を争いて朝恩に報ずべく候。腰折一言詠じ申候。 

えみしらを払う時しも来つるかな、やがて皇国の花や咲くらん」

 

(2)蛇口安太郎

 ア、蛇口安太郎(諱義明、通称安太郎、号無及庵)は、天保1031日、盛岡城花屋町の農民久保田弥七の長男として生まれた。太田俊穂著『南部維新記』に、安太郎の生まれた下花屋町は北郊の寺町に近く、安太郎の家は農業の副業として、墓参に訪れる人々のための花を栽培し、表通りに小さな花売の店を開いていたとある。また、安太郎は学問や剣法に熱心だったため、父弥七は安太郎を貧乏侍の蛇口家へ持参付きで養子に出したという。

 

下級侍ながら盛岡藩士となった安太郎は、経史を藩儒遠藤幹斎に、また剣法を新当流師範村上分右衛門に学び、18歳の年には村上道場の師範代をつとめるまでになった(岩手県人名辞典』等)というから、剣技には天びんの才能があったのだろう。文久元年には江戸へ藩費留学を命ぜられ、千葉玄武館道場に入門した。『南部維新記』によると、その後1年ほどして帰国し、しばらく家庭教師などをして「蛇口先生」と慕われ、その頃には剣術も師の村上分右衛門を打ち負かすほどだったという。

 

安太郎はその後再び江戸へ出ている。元治元年2月に玄武館に入門した盛岡藩吉村貫一郎と蛇口が、吉村の入門早々に出奔した佐藤継助を連れ戻しに常州に出向いた、と「歴史のなかの吉村貫一郎(歴史読本)にあることは上記「佐藤継助」でふれた。また、既に前稿26に記したが(下記『栗橋関所史料』)、同年412日には筑波勢の鎮撫吏水戸藩士立原朴次郎一行に蛇口が真田範之助たちと共に従い、日光街道栗橋宿を通過して栃木宿に至っていること。また、その1ヶ月後の512日には再び立原一行の一員として栗橋宿を通過して江戸に戻っている。翌62日には、宇都宮藩重臣の縣信緝が玄武館道場を訪れると、そこに立原朴次郎や真田範之助たちと共に蛇口がいたことは、下記『縣信緝日記』で明らかだが、その後の蛇口がどのような行動を取ったのかは判然としない。

 

立原朴次郎はその後、水戸藩主の目代宍戸藩主松平頼徳の水戸領内鎮撫のための下向に従って84日江戸を出立している。頼徳邸に滞在していた真田範之助はその前日、同志50余名と鹿島、大船津方面に向けて松平邸を後にしている(筑波勢とは行動は共にしていない)が、一行の中に蛇口がいたか否かは不明である。「明志録」(下記 )に、水戸藩徒目付石川義路たちが上府途中の小幡宿(水戸街道を水戸を発して長岡の次の宿駅)で、823日に蛇口安太郎、海後差幾之助ら3人と出会ったと記されているが、なぜ安之助がそこにいたのかも不明である。

 

蛇口安之助と同道していた海後差幾之介とは、桜田門外で井伊大老を襲撃した18人の内の生き残り海後嵯磯之介宗親だと思われる。諸著には、海後は松平頼徳に従っていた水戸藩執政榊原新左衞門に属して那珂湊等で戦ったとある。松平頼徳や榊原新左衞門一行は、水戸城を占拠する諸生派(水戸藩俗論党)に入城を拒まれて戦いとなり、この812日には那珂湊に入って改めて入城を図ろうとしていた。「明志録」には、安太郎たちを「何レモ暴兵ナリ」とあるので、石川義路たちは安太郎たちを筑波勢の一党と見做していたらしい。それが事実かどうかは定かでないが、安太郎と海後嵯磯之介とはその後別行動を取ったのだろうか。その後海後は榊原新左衛門に従って幕軍に投降し(「南梁年録」収載の堀田相模守預けとなった榊原新左衛門以下464名の中に海後の名は見当たらない)、明治の世を生きたという。一方の安太郎は、翌月非業の最期を遂げている。そのことについては、下記関山豊山著『元治元年』に詳しいのでここでは省略する。

 

 イ、上飯坂直美著『盛岡名人忌辰録』中の[龍谷]項目内に「蛇口義明、安太郎ト称ス、元治元年九月三十日、安眞見義居士、大正五年建碑」と。また[新当流師範、上村武右衛門]項目内に「新当流高弟嘉村権太郎、新当流高弟蛇口安太郎」と。

 

 ウ、「栗橋関所史料・御用留」(『埼玉県史料叢書』15)

  ・元治元年412日条、「水戸殿徒頭立原朴二郎・水戸殿士分、村上左馬介・真田範之助・高橋渡人・山本祐太郎・左良平助・石川熊武・蛇口安太郎・中村松太郎・鬼川三郎・大貫信三・竹内廉太郎・横川祐太郎・佐藤斎司・丹羽新蔵・以下三人(中略)右者御関所江断ハ為鎮静野州宇都宮宿迄罷越候由申立候(以下略)

  ・同年512日条、「水戸殿内立原朴次郎上下五人・其外真田範之助・蛇口安太郎・高橋渡人・佐藤才次郎・村松太郎宇都宮出立ニ而通行(以下略)

 

 ヱ、宇都宮藩士縣信緝の日記(『栃木県史』資料編近世七)

  ・元治元年517日条に千葉道三郎家ニ至リ、立原朴二郎へ面会、竹内廉太郎・真田半之助・蛇口安太郎へ面会」

  ・同年62日条「立原朴二郎・蛇口安太郎来、小栗徳三郎来、沢田五郎兵衛来」

 

 オ、水戸藩徒目付石川義路(東之助)の体験記・見聞録である「明志録」(茨城県立歴史館史料叢書16)

  ・元治元年823日一行48名と水戸から上府の途次「小幡ノ松並ヘ懸レハ三人ノ兵出逢ケル、一人ハ蛇口某(原注・千葉道三郎門弟ニテ南部侯ノ藩ノヨシ、余モ玄武館(中略)ニテ屡面会セリ)、一人ハ海後差幾之介、一人ハそれがし、何レモ暴兵ナリ、大森出逢ヒ先ツ目白侯(松平頼徳)ハ如何ト問ヘハ、皆ナ西ノ(筑波勢の斥候西恒之介)言イシ如シ、(中略)民兵等諸方ヨリ鉄砲ヲ打チ候ヘハ御用心アレトテ、是モ別レテ行キ過キケル

 

 カ、関山豊山著『元治元年-波山分離隊の最期-』に

   「盛岡藩士蛇口安太郎は、水戸藩の内紛事情を調査に派遣されたというが、天狗党に共鳴し行動を共にしていた(出典不明)。たまたま馬場の徳蔵寺に身をひそめていた所を捕らえられ、農兵の首領に尋問されることになった。しばらく河岸の仁平氏に預けられていたが、最後は六万坂で処刑になった。こんな談話が残っている。身長六尺剣道は山岡鉄舟より一段と古老は語っている。又最初に蛇口の挙動に不信を抱き捕縛したのが、小川の山田屋太兵衛と玉川の二人と伝えられている。後天聖寺に葬られたが、今は無縁仏に等しい状態にある。墓碑に「盛岡藩士贈従五位蛇口安太郎君之墓」と刻まれてある。(以下略) 」 ※六万坂処刑場跡は現小美玉市小川の地にあり、蛇口安太郎の墓の位置と矛盾がない。しかし、安太郎の最期については次のような異説がある。

 

 『角川日本姓氏歴史人物大辞典』には安太郎「の最期について、那珂湊で壮烈な戦死を遂げた」と。また、『贈位諸賢傅』には「(竹内)棟の弟哲次郎等数人と鹿島に赴く、途上幕軍の攻囲を脱し、那珂港に奔り筑波党に合す、九月晦日、奮戦傷を負ふて死す」とある。大日本国民中学会編『贈位功臣言行録』にも、蛇口の最後は那珂湊戦で、幕府の軍艦からの砲撃により戦死したとあるという。

 

キ、著者も著名も不明の手元コピーに

   「9月の初小川館(水戸藩郷校)が棚倉藩に攻められた時、大部分の浪士は鉾田方面に逃亡したが、蛇口は徳蔵寺に残っていて農兵に逮捕された。しばらく河岸町の仁平神官宅に預けられていて、930日六万坂で斬首刑になった。首は水戸へ送られたというが、遺体は刑場付近の山に埋葬されていた。蛇口家文書に『明治3年庚午52日藩公の命を奉じ、上田茂善昭に蛇口安太郎の霊を告ぐ。汝方天下至難の際大義を唱え、身を以て之に殉ず。吾その忠節を善くして而して遺体の原野に留まるを憐れみ、有志をして常の東明山(天聖寺)の東南の地に葬せしむ』とある」云々と。

 

 ク、『波山始末』に、「仝(9)九日武州野田村平民熊太郎、仝城の内村新十郎、奥州南部盛岡平民蛇口安太郎、仝飯田村山之丞、常州那珂郡静村平民勝之助、(3人略)常州吉田原に於て斬罪梟首せらる」 ※常州吉田原の刑場(吉田村境橋行刑場跡)は、現水戸市元吉田の地にあり、小美玉市小川の天聖寺にある墓との関係から疑問がある。

 

ケ、小美玉市小川の天聖寺の墓石、及び盛岡市須川町の碑石には、没年が「元治元年九月三十日」と刻まれている。『小川町史』上巻(茨城県小美玉市)によると、大正411月、安太郎に従五位の追贈があったのを機に、安太郎の縁戚久保田弥一郎が来町し、安太郎の墓碑建設と改葬を行ったという。明治3年にも改葬が行われたことは上記ケにあるが、その際に儒者加古治教撰文による次のような誌石が刻まれたという(原漢文)。なお、郷里盛岡の菩提寺曹洞宗虎嶽山竜谷寺(盛岡市須川)の参道にも安太郎の碑石が立っているという。

 

  「君通称は安太郎、陸中盛岡藩也。心尊攘の大義に凝り、元治元年甲子九月三十日身を以て之に殉ず。年二十有五。旧君善く其れ忠節、故に今有司をして此の地に改葬せしむ。実に明治三年庚午五月二日也。(中略)常州小川村水戸城下より七里向天聖寺境内に儒葬祭也。」、末尾に「水戸より出役、宮本主馬之介、佐川辰五郎、川又堂之介」と。

 

(3)寺田末次

 ア、『茨城県資料・維新編』所収「己巳公文録石岡藩之部<癸丑以来国事関係之事跡調>」中に

      南部浪人    寺田末吉()       子二十三歳

      下総栗橋    田原新八郎        子二十歳

      常州小岩戸村百姓民次伜

              勇崎泰助         子三十六歳

     以上三人幕府関東取締出役木村□蔵口上書取之同九月十五日支配書常州石岡

     泉町杉並木ニおいて打首ニ相成申候云々

 

イ、『殉難録稿』巻二十三の「駿州田中藩士中村一(太郎)」の文中に

   元治元年、松平頼徳水戸騒動鎮撫のため、かしこに出張する由を聞き、一智慨然として意を決し、正気消えて三綱滅す。是我輩の死ぬべき秋なりとて、其友寺田末次、下田武敏等と昼夜兼行してかけつけしに、頼徳は既に水戸領に入り、其道筋に新関を構へ、往来の武士を機察する事厳密なりければ、やがて姿を変へ、昼伏し夜行き、十余日を経て、漸く常陸小川に馳付き、藤田信等がむれに加はり、那珂湊辺にて合戦す。間もなく軍敗れ、鹿島まで落ち行き、幕兵并に棚倉の兵に取囲まれしを、()麻生の陣屋近辺にて、()遂に此にて捕られ云々。 

 

(4)下田三次(武敏)  ※上記(3)中『殉難録稿』に名あり

 ア、『波山始末』に「(元治元年9)十一日、聖堂教授方芳野秀一郎、奥州盛岡下田三次、筑後人池尻嶽五郎、常州小牧村小池星助、同石谷村周平、下総結城千抜佐助、同清吉、同岩吉、常州行方郡玉造にて捕獲せらる」

 

 ウ、『水戸藩史料』に

   「鉾田より西南行方地方に出でたる浪士は前後幕軍の為めに道路を遮断され芳野芳

六郎()下田三治(盛岡の人)池尻嶽五郎(久留米藩)大貫信三、小牧星助、千抜佐助等は九月十一日玉造村に於て土兵の為めに捕われ云々」

 

 ヱ、『小川町史・上巻』(茨城県小美玉市)に、「九月十一日、盛岡浪人下田三次外六名玉造にて斬首」

 

(5)その他

 ア、『筑波戦争記』(日本史籍協会叢書別編29)中「九月七日着水戸浪士征伐軍記」に「筑波山浪人」として、「小川館、百人頭、南部浪人、長谷川佐右衞門」とあるが。

 

イ、『波山始末』に「仝(9)九日、武州野田村平民熊太郎、仝城の内村新十郎、奥州南部盛岡平民蛇口安太郎、仝飯田村山之丞、(中略)常州茨城郡吉田原に於て斬罪梟首せらる」とあるが、「仝飯田村山之丞」とある飯田村という村名は確認できない。

 

26 玄武館千葉道場塾頭真田範之助

1 はじめに

 

 戯曲『沓掛時次郎』や『一本刀土俵入』など、数多くの股旅物の名作を世に残した作家長谷川伸は、また一方で『日本捕虜志』や「相楽総三とその同志』など、自らが「紙の香華」、或いは「紙碑」と称した数々の史伝を残している。その史伝作品の一つである『佐幕派史談』の序文には、真摯で誠実な長谷川伸らしく、「私は常日ごろ埋没している人々のために、不足不備を承知の上にて、それらの人の”伝の第一稿”を作ることを心掛けている。なるべく有名ならぬ人物を拉し来たるはその故である。」と記している。

 

 その長谷川伸の『佐幕派史談』に収められた作品「真田範之助」は、それまでの作品「樽詰」や「巾着切」を一本にした「玄武館の人々」を昭和13(1938・括弧内は原注とない限り筆者注)に発表し、さらに従来の誤りを訂正して同17年にこの『佐幕派史談』の一編として発表したものである。長谷川伸がこの作品に込めた思い入れの深さが窺える。そしてさらに、『佐幕派史談』の序文の末尾には、「わが貧しき伝の第一稿の不足不備を補充完結せらるることあるべく、祈る」と結ばれている。

 

 このごとく、長谷川伸が誠意と熱意を込めて真田範之助という人物の紙の墓碑銘を打ち立てようとしたにもかかわらず、この作品における真田範之助と水戸天狗党との関係に関する部分には少なからず誤りが認められる。それは、近年発表された東郷隆氏の作品「屏風の陰」(『我餓狼と化す』の一編)においても、一部長谷川伸の「真田範之助」の誤りをそのまま踏襲されているため、限られた資料と紙幅ながら、真田範之助の生涯の一端を明らかにしてみることとした。なお、本稿も本ブログ前稿等と重なる部分が多くあることを予めお断りしておきます。

 

2 人となり

 

 真田範之助の人となりについては、小島政孝著『武術天然理心流、新選組の源流を訪ねて』などに詳しいので、本稿では紙幅上、概略のみにとどめることとしたい。真田範之助の幼名は郡司、諱は直昌、玉川狂夫と号し、天保5(1834)武州多摩郡左入村(東京都八王子市左入町・以下注記のない限り括弧内は筆者注)豪農小峰久治郎の長男(同胞は弟2人妹2)として生まれている。父久治郎は増田蔵六に天然理心流剣法を学び、自邸内に仮道場を設けて修行に励んでいたというから、範之助も幼い頃から父の膝下で教えを受けたのだろう。19歳で増田蔵六の門人松崎和多五郎に師事し、同年9月切紙相伝、翌年4月には予目録、翌安政元年(1854)11月中極意相伝と、その異例な早さから、小島政孝氏は「天然理心流開闢以来の大天才」と評されている。天然理心流中極意を伝授された翌年正月、範之助は山本万次郎の道場に移ったが、さらに、その年の末には江戸神田お玉ヶ池の北辰一刀流千葉栄次郎(父周作はこの年11月末62歳で死去)玄武館道場に入門した。この頃、真田範之助を名乗るようになったという。

 

範之助がなぜ流派の異なる玄武館道場に入門したかは不明だが、山本万次郎道場の同門で神官の高井丹後と称する人物も、後に玄武館千葉道場に移っているから、決して範之助が例外ではなかったようだ。なお、範之助の玄武館入門から6年後の文久2(1862)正月には、範之介より1歳年上の道場主千葉栄次郎が病没し、当時水戸藩に仕えていた弟道三郎が後を継いでいる。諸書に範之助は道三郎時代の塾頭とあるが、『全国諸藩剣客人名事典』には、千葉栄次郎の代に塾頭となったとある。

 

 範之助は早くから他流試合で、実践的剣技を磨いていたらしい。相州平戸村(神奈川県横浜市)直心影流萩原連之助道場の「剣客名簿」の安政3410日の条に、「北辰一刀流千葉周作門人真田範之助直政」とあるという。また、これは長谷川伸作「真田範之助」の冒頭にも引用されているが、塚原蓼洲著『藍香翁』に、範之助が村上右衛門と称する人物と共に武州手計村(埼玉県深谷市)神道無念流練武館道場を訪れ、尾高新五郎(藍香)・長七郎兄弟(渋沢栄一の従兄弟)と立ち会ったことが記されている。この間の顛末は本ブログ25で詳述しているので、ここでは省略する。

 

 万延元年(1859)、範之助は無双刀流江戸川主殿輔と共に、関東諸国の剣術家616名とその剣術流派、及び在村名を記した『武術英名録』(渡邉一郎著『幕末関東剣術英名録の研究)を上木している。武者修行による他流試合の成果だったのだろう。なお、この『武術英名録』に記される範之助の居所は、江戸神田小柳町(千代田区神田)とあるから、この頃範之助はここに道場を開いていたのかも知れない。というのも、この年3月、旧師松崎和多四郎が牛沼村山王神社(秋川明神社)に天然理心流の大扁額を奉納していて、その奉額に客分として「北辰一刀流真田範之介直昌」の名と、「真田門人」3名の名が列記されているというからである。一時期玄武館道場を離れていたのだろうか。

 

3 渋沢栄一との出会い

 

 文久3(1863)、範之助は尾高新五郎・長七郎兄弟や渋沢栄一らが画策した攘夷挙兵計画に加担している。渋沢栄一の回顧談『雨夜譚』によれば、この挙兵計画は、まず上州高崎城を乗っ取り、兵備を整えた上で横浜異人街を焼き払うというものであった。その徒党中の人々は尾高兄弟と渋沢喜作(栄一の従兄弟)、それに栄一の外に「千葉の塾で懇意になった真田範之助、佐藤継助、竹内練太郎、横川勇太郎、海保(漁村)の塾生で中村三平など」と、親戚郎党など合わせて69人ばかりであったという。この渋沢栄一の回顧談の「千葉の塾で懇意になった真田範之助云々」に関しては、本ブログ2 0等で何度もその矛盾を提起した。屋上屋を重ねること甚だしく、また、やや横道にそれる感も否めないが、再度ここに記しておくこととしたい。既にご存知の方は、読み飛ばしてください。

 

 江戸難波町俚俗竃河岸で(中央区日本橋)、剣術道場を開いていた宮和田光胤の記した一代記(『宮和田光胤一代記』)文久3年の条に、次のような一節がある。

 

「此度一橋公後見職ニテ上京先発と成りしより、幸ひニ同志をつのり、一橋公ニ付添ひ度志願のものニハ、千葉周作門人塾頭致居候生国八王子千人同心之伜真田範之助、同人結合之友ハ渋沢栄一、渋沢誠一郎(喜作)両人(中略)此渋沢両人を同伴ニテ吉()田範之助、鈴木謙吉(後の幕臣穂積亮之助)、光胤宅ニ被参、範之助より依頼には、此渋沢両人義一橋公え附属し上京致度候へ共手続無之、別テ御附人ハ武田君(耕雲斎)故是非共附属して上京致度、夫ニ付テも一度千葉先生へ入門之上、右門人を名として手続度、範之助自分より申込ミ候テハ又如何之場合も有之候ニ付、先生同道シテ入門御申込被下度旨、其余程之時節柄之内話も有之候、依テ光胤渋沢両人を同伴師家ニ行入門為致候也」

 

 宮和田光胤は千葉周作の直弟子で、範之助の玄武館道場の兄弟子である。その宮和田光胤に、なぜ玄武館塾頭の範之助が渋沢両人の玄武館入門の労を依頼したのか、その理由は不明だが、これが事実なら渋沢栄一の回顧談とは異なり、範之助と渋沢の出会いは玄武館入門以前であったことになる。このことは、塚越蓼洲の『藍香翁』に、先の範之助と尾高兄弟との他流試合に関して、「真田は其後(試合後)度々手計に来りて、翁と長七氏とに兄事して余念なかりき云々」、とあることからも『雨夜譚』との矛盾が裏付けられる。

 

安政年間のことと推測されるこの他流試合のころ、新五郎に師事して毎日のように尾高家に出入りしていた渋沢栄一が、度々尾高家を訪れていた範之助と顔を合わなかったとは考えられないからである。文久元年春、「長七郎が下谷練塀小路の海保(漁村)という儒者の塾に居て、ソウシテ剣術遣いの所(心形刀流伊庭道場)へ通って居たから、それを便りに」江戸へ出て、この時玄武館に入門したと『雨夜譚』にある。しかし、これは渋沢の記憶違いで、この時は玄武館ではなく、長七郎の通っていた心形刀流の伊庭道場に入門したのではないだろうか。

 

4 挙兵計画の挫折

 

 『雨夜譚』によれば、渋沢らが横浜焼打ちのための挙兵の日を文久31123日と決定したのが同年8月ごろ。挙兵の準備のために栄一と喜作が江戸に出たのが翌914日で、およそ1ヶ月ばかり後の10月の末に帰郷したという。そして、1029日の夜、京都から帰ったばかりの長七郎と新五郎に、「自分と喜作と中村三平と五人」で評議したが、西国の情勢を見聞してきた長七郎が挙兵に強く反対し、「長七郎は自分を殺しても挙行を抑止するというし、自分は長七郎を刺しても挙行するというまでに血眼になって論じた」結果、ついに挙兵は中止となった。その後、栄一と喜作は関八州取締役等の嫌疑を避けるため、118日に郷里を出立、同月14日江戸を発って京都に登り、翌年2月に2人揃って心ならずも一橋家に士官したと記されている。

 

 栄一と喜作が出府した翌月19日付けで、郷里の新五郎に宛てた書簡(渋沢栄一傳記資料』第一巻)がある。その書中に、「真田外三四輩抔も殊之外大奮然(中略)依而兼て約し候通、前後不残発足ニ相成候、尤も真田者明廿一日ニ相成可申候、何れ下旬迄郷里辺迄参着可相成候」とある。範之助は921日に栄一たちに先立って江戸を出立し、栄一たちの挙兵に参加するため、深谷在の下手計村に赴く予定だったのである。

 

 この書簡には、挙兵のための「武器も梅田(慎之助)ニ而好機会ニ而余程相調申候、革具足ニ而手堅物十人前、外着込弐十人計、剣道具弐十人者調立ニ相候云々」、と挙兵のための武器、武具類の調達の有様や、「殊ニ博徒ニ而胆略有之候人物壱人有之候由」なので、参加の説得に当たるよう新五郎に要請している等、挙兵の準備に余念のない有様が記されている。しかし、その一方でこの書簡には、「一橋公も必々登京ニ相成候様子、付而ハ是非両生(栄一と喜作)ニ者御供被仕度、平岡(円四郎・一橋家用人)、榎本(幸蔵・一橋家物頭)抔被申候(中略)実ニ千歳之一機会、呉々不可疑と決心一段大奮起独歩都下を圧倒いたし候」、と一橋慶喜の上洛に是非とも随従するよう、平岡円四郎たちから要請されたことに対して、これは千載一遇の好機会であると欣喜躍如している有様が記されている。

 

またそこには、「橋府一条も大因循、因而尚又小林より永田馬場へ掛合次第、何れか相成可申候」とある。ここにある「永田馬場」とは、栄一たちの領主岡部藩の本邸のことである。このことは、栄一たちの一橋家出仕の恩人川村恵十郎の日記の928日の条に、「一橋稽古場行比留間(良八ヵ)相訪面会之処、血洗島渋沢両人之儀小林清三郎(清五郎ヵ)致心配居候様子ニ付、小林清三郎ニ御玄関脇ニ而面会」したところ、「今明之内安部家江可罷出よし結約」と記されている。これは安部家の領民栄一と喜作を、一橋家で譲り受けたいとの交渉で、その後も安部家からの了解は得られず、川村の日記によれば、翌月21(渋沢両人が新五郎に書簡を出した2日後)には、一橋家用人平岡円四郎が直接安部家に談判に赴いている。先の両渋沢の書簡に「橋府一条も大因循」とあるのは、これらの経緯を指していたのである。

 

 そもそも、川村恵十郎の日記の916日の条には、「松浦作十郎榎本幸蔵来(中略)渋沢喜作栄一郎之話致し候事尤聊此等之身分其外之儀申述」とあり、2日後の18日には「朝渋沢喜作同栄一郎来四ツ半(午前十一時)頃まで相話ス(中略)今日ニも明晩ニも()浦方え行呉候様談判候事」、「夜平岡行(中略)渋沢喜作同栄一郎云々之儀申述候事尤同人ニ於ても殊外感激之様子相見候事」と記されている。文中、松浦作十郎とは、一橋邸付人で当時物頭助の職にあった人である。

 

 川村恵十郎の日記に渋沢両人の名前が登場するのは、99日であり、渋沢両人が血洗島村を出立する以前から2人の一橋家への採用の話は進められていたらしい。渋沢両人は、攘夷挙兵と前年来の念願であった一橋家への出仕を天秤に掛けていたのだろう。いやむしろ、先の新五郎宛て書簡に「(一橋家出仕に)実ニ千歳之一機会、呉々も不可疑と決心一段大奮起独歩都下を圧倒」という喜び様からすれば、一橋家出仕に軸足があったとしか思えない。17歳の時に安倍家陣屋代官から受けた屈辱以来、武士になることが栄一の念願だったことや、一橋慶喜(烈公徳川斉昭の子)の攘夷実行への期待は、当時の攘夷論者たちの信仰にも近いものだったからである。範之助たちは、こうした渋沢の心事を知る由もなかったと思われる。

 

5 長谷川伸の紙碑「真田範之助」の娯認

 

 渋沢たちとの攘夷挙兵計画が挫折した翌元治元年(1864)3月末、水戸藩士の藤田小四郎らが常陸筑波山尊王攘夷の兵を挙げ、この年末に至るまでの間常野の地は戦乱の坩堝と化したのである。長谷川伸の「真田範之助」には、この事件と範之助の関係について大略次のように記されている。

 

田丸稲之右衛門から範之助に至急参加せよとの指令があったため、範之助は玄武館四天王と呼ばれた海保帆平、稲垣七郎、庄司弁吉、井上八郎に相談して、塾生を欺き四十六人全員を率いてこれに参加しようとした。そして、「四天王も真田と行動をともにした」が、筑波山に向かう途中の1015日の夜、幸手宿に投宿中の範之助たちは、筑波勢の討伐に向かう途中の井上越中守率いる兵に襲われて四散し、辛うじて筑波山に入ったものは、範之助、海保、井上、稲垣、庄司の他わずかであった。

 

 長谷川伸はこの話を、46人の塾生の中にいた小森八郎(江戸麹町三丁目の葉茶屋山本の伜とある)の話を基とし、「私が調べ得た多少を挿入しただけのものである」と記している。しかし、この話には明らかに事実との相違が認められる。

 

 まず、範之助が相談したという玄武館四天王のうち、海保帆平は前年10月に水戸で病没している。稲垣七郎は不明だが、庄司弁吉も宍戸藩松平頼徳の家臣として、この年1016日に水戸で斬罪に処せられている。もう1人の井上八郎は、当時幕府講武所剣術教授方の職にあり、範之助が水戸天狗党への参加を相談したとは考えにくい。また、幸手宿の事件についても、1016日といえば、筑波山は既に追討軍に占拠され、藤田小四郎たちは那珂湊に追い詰められ、7日後の23日にはここをも放棄している。さらに、地元埼玉県幸手市にこの事件に関する資料も口碑も一切残されていない。そもそも、日光街道幸手宿の次の宿駅栗橋宿にあった関所の「御用留」(『埼玉県史料叢書・栗橋関所史料』)によれば、井上越中守(常陸下妻藩主)582人の追討兵を率いて栗橋関所を通過したのは81日のことである。

 

6 鎮撫吏立原朴二郎に従う

 

日光街道栗橋関所「御用留」の元治元年412日の条に、水戸藩徒頭立原朴二郎が17名の従者と共に関所を通過したことが記されている。立原朴二郎は、側用人美濃部又五郎や目付山国兵部(2人は先発)と共に、藤田ら筑波勢の鎮撫のため、宇都宮を目指していた。その立原朴二郎の従者の中に真田範之助の名が認められる。村上左馬介を筆頭に記される(範之助の名は2番目)17名の中には、後に範之助と行動を共にした蛇口安太郎(奥州盛岡脱藩士)、竹内廉太郎(下総小金井の郷士)、横川勇太郎(八王子千人同心)等の名もある。村上左馬介は、清河八郎の記した「玄武館出席大概」に、「旗本」としてその名が見える。ここに名を記した人たちは、みな玄武館千葉道場の人たちであった。なお、「御用留」の17名の肩書には、いずれも「水戸殿士分」と記されている。

 

 立原朴二郎は彰考館総裁立原翠軒の孫で、千葉道三郎の妹稲子を妻としていた(先妻安島帯刀の長女高子は文久29月死去)。範之助たちの同行には、道三郎の義弟への配慮があったのだろうか。稲葉誠太郎編著『水戸天狗党栃木町焼討事件』収載の「波多野日記」にも、「立原氏と共ニ参りたる者ハ千葉門人内弟子ナル人計り参り申候」とあるが、栗橋関所の「御用留」に記される17名の中には、玄武館千葉道場関係者以外の人物の名も含まれている。その1人が「石川熊武」で、「御用留」には「左之名前之者朴次郎通行後六人通」とあって、「石川熊武塾生剣術」6人の名が記されている。石川熊武は後の鹿児島県副知事多賀義行で、本名は白石義行、常州久慈郡里見村(茨城県常陸太田市)郷士である。当時は江戸深川で小野派一刀流の剣術道場を開いていた。

 

 鎮撫吏一行は12日に宇都宮に着し、翌13日に宇都宮藩重役縣信輯らと会談。14日に筑波勢が大平山に滞陣したことを知った一行は、翌日大平山に登り、田丸や藤田と会談した。話し合いは1617日と続いたが藤田らは兵を引くことを肯んじなかった。この間、美濃部、山国一行は大平山に留まったが、立原一行は山を降り、栃木宿に宿を取っている。栃木県栃木市の旧家岡田家所蔵の『岡田嘉右衛門親之日記』(栃木市史料叢書』)の中の「水府異変一件見聞記」の元治元年416日の条に、「水戸立原朴次郎、宿、押田源兵衛、是者廿人程召連浪人所業見届取締として宇都宮より跡追欠()参り候」とある。

 

 立原朴二郎のもとには、その後も江戸から駆けつけた人数があったらしく、『波山記事』に「昨十九日栃木町本陣押田屋源兵衛方ニ止宿罷在候水府徒頭立原朴次郎従者弐十人余之処、猶又昨今江戸表ヨリ著相候由ニ而本陣壹軒ニ而ハ間ニ合兼候間金龍寺貸呉候様住職へ欠()合中ニ御座候」とある。この金龍寺への掛け合いについては、館林藩士塩谷甲介の回顧録(『塩谷良幹回顧録)に、栃木陣屋役人善野司からの419日の聞き書きとして、「鎮静方立原朴次郎、真田半之助、小室謙吉、右三人は金龍寺泊り受罷在度懸合付承知の旨相答え候由云々」と記されている。

 

 立原朴二郎や真田範之助と共に、金龍寺へ一行の滞在を掛け合った小室謙吉は、前年暮に範之助と共に渋沢栄一と喜作を宮和田光胤の道場に伴った鈴木謙吉と同一人物である。常州下桧沢村(茨城県常陸太田市)郷士小室藤次右衛門の弟で、鹿沼宿本陣鈴木文平(水雲)の婿養子となり、名を鈴木俊益と改めた儒医である。当時、宇都宮藩重役懸信輯の探索方も努めていたらしい。水戸天狗党に参加した薄井龍之の「筑波騒動実歴談」に、「その夜(47)縣勇記(信輯)の使と称し、鈴木俊益という者が藤田(小四郎)の旅宿へ参りました。(中略)かねて藤田らと知己でありますから、県が特にこの者を選んで使に遣わしたので、さて鈴木は藤田に面会して県の言を伝えて(中略)金子七百両送ってよこしました云々」とある。この金を受納した、藤田らは翌8日に宇都宮を発って日光に向かっている。

 

 小室謙吉と範之助との関係は不明だが、深い交わりがあったらしい。或いは小室は玄武館北辰一刀流を学んでいたのかも知れない。小室は不思議な人物で、懸信輯の京都滞在中の日記にも、「小室謙吉、松浦八郎、渥美祖太郎来」(文久2109)等の記事が見える。松浦八郎は久留米藩郷士で、元治元年7月、真木和泉守らと天王山で自刃した人である。また、栗橋関所の「御用留」のこの年54日の条には、「水戸殿下目付小室謙吉僕壱人栃木町より江戸屋敷迄相通候事」とある。小室はこの年6月、人選御用で関東に下った渋沢栄一らの有志募集に応じ、9月には上京して穂積亮之助の名で一橋家に出仕している。

 

7 遊女掠奪事件

 

 筑波勢の説得に失敗した鎮撫吏一行は、その後も栃木宿に留まっていたが、424日には、美濃部又五郎上下と沼田準二郎ら2人の目付方が江戸に帰ったことが、栗橋関所の「御用留」で確認できる。しかし、山国兵部や立原朴二郎一行は、引き続き栃木宿に留まっていた。範之助たちは近龍寺で無聊の日々を送っていたのだろうか、境内で剣術の稽古を始めたらしい。「波多野日記」に、近龍寺へ引越した千葉門人内弟子たちの間で、「剣術稽古有之候、我等も罷出稽古致候云々」とあるので、範之助たちの剣術の稽古には、近在の人たちも参加していたのである。

 

 翌57日、立原朴二郎の従者である三浦勘助、橋本四郎、根本直衛の3人が、宇都宮城下伝馬町の丸屋小兵衛方の抱え女2人を連れて逐電するという事件が発生した。この3人は、412日範之助たちに遅れて栗橋関を通過した石川熊武剣術門人6人の中に名のある人物であった。なお、石川熊武は、これより先の同月14日に他の3人の塾生を伴い、栗橋関を経て江戸へ帰っていた。「波多野日記」に、「右両人(三浦勘助と橋本四郎)ハ江戸新徴隊之者成由、新入ニ四月十三日ニ栃木町へ先ニ着到シテ水府浪士(中略)仲間入シテ間もなく宇都宮へ他出娼家名ハ丸屋江遊ニ参り云々」とあるので、この記述に間違いなければ、2人は新徴組を脱退した後、立原朴二郎に従って栃木町にあったが、師の石川熊武の帰府には従わずに栃木宿に残っていたのだ。筑波勢に参加していたとの資料もある。

 

 出奔した3(遊女を含め5)に対して、直ちに大々的な追手が掛けられた。『栃木県史資料編』収載の「天狗党一件騒動記録」によれば、「水戸川俣茂七郎殿上下拾人 馬壱疋、真田範之助殿、滝平主殿殿、池尻嶽五郎殿上下七人 馬壱疋、立原朴次郎殿上下拾人 馬壱疋」、その他7人と、40人近い人たちが追手となったのである。「日光山義挙姓名並紀聞」によれば、追手の中の川俣茂七郎(奥州松山藩藩士)は筑波勢の監察、滝平主殿(水戸近郊の神官)と池尻嶽五郎(筑州久留米藩藩士)2人は同じく使番とある。栃木宿に留まっていた筑波勢の人たちと鎮撫吏一行がともに5人の追跡に加わったのである。

 

 三浦勘助ら3人が捕縛されたのは翌9日の夜、真壁郡大室村(茨城県下妻町)の旅籠屋で、捕らえたのは真田範之助であった。「天狗党一件騒動記録」に、「右三人は水府真田範之助殿召捕被成」と記されている。その後の3人は、大平山に引き立てられ、同月15日に三浦勘助と橋本四郎は斬首され、2人の従者根本直樹は百敲の上追放された。

 

 三浦勘助たちの追跡者の中に名のあった立原朴二郎について、『栃木市史史料編近世』に収載される黒川要左衛門の子息太左衛門宛て書簡(58日付)に、「栃木近龍寺罷居候立原朴次郎殿者江戸小石川上屋敷ニ而大目付(誤り)役人御人と申三拾人計家来引連、其内江戸御玉ケ池地場(千葉)先生門人拾八人計入、今八日宇都宮江行夫より江戸小石川迄云々」と記されている。立原朴二郎が8日宇都宮に向かったことは、「常野集」収載の下妻藩主井上伊予守家来の幕府への届出にも記されているので間違いない。立原朴二郎は三浦勘助たち追跡の途中で引き返し、宇都宮を経て江戸の藩邸へ戻ったのである。

 

 「常野集」の下妻藩家来の届出には、同時に「山国兵部、片岡右門其外家来下々不残一昨七日夕刻より俄ニ支度昨八日出致し、館林通りより小石川江返り候由云々」とあるから、鎮撫吏一行全員が筑波勢の説得を一時断念して、急遽江戸に戻ることになったらしい。なお、山国兵部は後日再び大平山を訪れ、田丸(山国兵部実弟)や藤田の説得に当たったが、田丸や藤田の決意は固く、山国兵部の必死の説得も功を奏さなかった。

 

 真田範之助は三浦勘助たちを捕らえた後、3人を縄付きで護送して宇都宮で筑波勢に引き渡し、立原朴二郎一行に合流したらしい。なお、三浦勘助らの捕縛に関し、茨城県郷土文化研究改編「郷土文化」掲載の藤本昭春稿「立原朴次郎と宇都宮天狗騒動」に、「(捕縛した5人を)小山(栃木県小山市)で滝平主殿に引き渡すつもりで栃木に発とうとする真田へ、川俣から苦情が出た。役目がらの掛りだから渡せ、いいや渡さぬと論議に及び結局宇都宮へ引き立て、女両人は丸屋に引き渡し(中略)罪人三人もその日のうちに川俣の手で」大平山に護送された、という逸話が記されている。出典は不明である。

 

真田範之助は宇都宮で立原朴二郎一行に合流した後、共に江戸に戻っている。栗橋関所の『御用留』の512日の条に、「水戸殿内立原朴次郎上下五人、其外真田範之助、蛇口安太郎(中略)宇都宮出立ニ而通行云々」とある。

 

8 範之助の下獄事件

 

 江戸に戻った後の範之助については、宇都宮藩の中老懸勇記(立原朴次郎と旧知)の日記の517日の条に、「千葉道三郎家に到り立原朴次郎、竹内廉之助、真田半之助、蛇口安太郎面会」と確認できる。また、「従五位西丸松陰翁小伝」(斉藤保郎稿)に、筑波勢の挙兵後「幕府酒井左衛門()ヲシテ都下アルノ士ヲ駆ル事甚ダ急ナリ、氏(西丸松陰)之を郷里ニサケントス、因テ別レヲ四方ニ告ゲ六月十七日千葉栄次郎ニ一泊ス、十八日千葉ノ塾長真田範之介、水戸藩沼田準次郎等ト別盃ヲ筋違門広小路ノ酒楼ニ挙グ、稍々シテ長槍室ヲ払フテ楼ヲ」囲まれ、3人共に庄内藩の手によって捕縛されてしまった、と記されている。

 

 西丸松陰は、通称を帯刀、常州北茨城郡大津村(茨城県北茨城市)郷士で、万延元年7月、長州の軍艦丙辰丸上において、水戸藩士岩間金平らと共に、桂小五郎長州藩士と「成破の盟約」を結んだ人物である。これ以前に江戸に上り、深川の従兄弟の家に潜伏していた。また、もう1人の沼田準次郎は水戸藩士で、維新後に高山県知事となったものの、その失政を問われて獄中非業に死んだ梅村速水である。沼田はこれより先、筑波勢鎮撫吏美濃部又五郎らに徒目付として従っていた。栗橋関所の「御用留」によれば、筑波勢の説得に失敗して江戸に帰った後、沼田は同僚と2人で江戸と栃木町を往復しているが、帰府後の510日再び1人で栃木町に向かったが、帰路の通過が「御用留」で確認できない。この時脱藩したのかも知れない。

 

 小林義忠稿「幕末・明治維新を駆け抜けた男―勤王志士・梅村速水の生涯と思想」(茨城県郷土文化研究会編『郷土文化』収載)によれば、沼田準次郎は脱藩後、玄武館千葉道場で剣の修行に専念していたという。なお、「従五位西丸松陰小伝」に、西丸は「六月十七日千葉栄次郎ニ一泊ス」とあるが、千葉栄次郎は文久2111日に30歳で病没している。当時は言うまでもなく弟の千葉道三郎が館主であった。沼田と範之助は旧知だったのか、それとも栃木町で知り合い、脱藩後範之助を頼って玄武館に潜居していたのかは不明である。

 

 「従後位西丸松陰小伝」によれば、西丸帯刀と沼田準次郎は624日、水戸藩に引き渡されたが、筑波勢追討の出兵騒ぎで藩邸内が混乱する中、2人は脱走して大津村に逃げ帰った。この後の2人の足跡については、範之助と関係しないため省略する(長久保片雲著『西丸帯刀と幕末水戸藩の伏流』に詳述あり)。一方、範之助は捕縛後間もなく放免されたという。

 

 この事件の翌々月の84日、立原朴二郎は、水戸藩内の騒乱を鎮撫するため水戸に赴く宍戸藩主松平大炊頭頼徳に従って江戸を出立した。当時、水戸藩内は諸生党(保守佐幕派・奸党)水戸城を占拠し、攘夷より先に城の奪還を目指す筑波勢との間で激しい戦いが行われていた。水戸支藩の宍戸藩主松平頼徳は、水戸藩主の名代としてこの鎮撫を託されたものの、一行は諸生派によって水戸城への入城を拒絶されてしまった。その後は、諸生派一党に加担した幕軍や諸藩兵と松平頼徳軍(大発勢)に筑波勢や武田耕雲斎の手勢等も加わり、常野の地で血みどろの壮絶な戦いが繰り広げられることになったのである。

 

立原朴二郎は同月23日、神勢館の戦いで壮絶な死を遂げている。『水戸藩史料』に、「立原鑽砲隊戦士を率いて新町口の敵を破り突進先登して福性院の敵陣を抜く、(中略)立原鑽又進んで十町目口に向ひしが後軍継がず、単騎重囲に陥り縦横馳突遂に戦死す。時に年三十二」とある。立原朴二郎の戦死は悲惨であった。同書によれば、「嗚呼あわれなるかな士卒のおくれたるままあいなく討たれ、刀脇差衣類まではぎ取られから裸ニして捨置かれけり」とある。死者に鞭打つごとく、立原朴二郎の首は翌月、川俣茂七郎らの首と共に獄門に架けられたという。

 

9 筑波勢分派との合流

 

 真田範之助は、立原朴二郎と行動を共にしてはいなかった。『水戸藩史料』に、「塙又三郎重義岡見徳三()行立花辰之介之順等水戸を発して江戸の高田(原注・支藩宍戸松平氏の別邸)に在り横山亮之介徳馨内藤文七郎等数十人(原注・此中には芳野秀六郎(原注・江戸の学者芳野世育の子)、真田半之介(原注・剣客千葉門人)岩名政之進(原注・幕府の有志)草野剛蔵(原注・相馬の人)戸田弾正(原注・宇都宮の人)等あり此等諸有志は初め波山勢に加はりしが故ありて分離せしなり))目白邸(原注・宍戸松平氏本邸)に在り此の二団体の意は専ら攘夷を断行するに在り」とある。範之助たちが戦乱の水戸領を目指したということは、出来れば筑波勢と合流して攘夷の素志を完遂するためだったのだろう。

 

 ここに記される芳野秀之助(世行、秀六郎、桜陰)とは、幕府儒官吉野金陵(立蔵)3(長男は12歳で病没・2男は早世)で、万延元年駿州田中藩々校日知館漢学助教となり、文久3年には21歳で昌平黌の助教となった俊才である。その昌平黌助教の職を捨て、桜山三郎と変名して範之助たちと行動を共にしていたのである。その他の人たちの紹介は控えるが、岩名政(昌)之進については、後に範之助と共に庄内藩士たちに惨殺された人であるため、現在確認できるこの人に関する事実を稿末に「参考」として記した。

 

 『水戸藩史料』の先の記述によれば、範之助も始め筑波勢に加わっていたことになるが、これまで見てきた通りその形跡はない。鎮撫吏立原朴二郎の従者とはいえ、筑波勢の人たちとは、共に攘夷を志す同志として接していたろうから、栃木宿の人たち等から誤解を受けたのだろう。なお、芳野秀六郎については『武田耕雲斎詳傳』に、724日の筑波勢の筑波山下山に当たり、田丸稲右衛門等に反対した者の中に桜山三郎の名がある。また、『故老実歴水戸史談』の著者高瀬真卿も同様に、桜山三郎は西岡邦之助等と共に筑波山下山に際して異論を唱えて分離したと記している。幾つかの天狗党の名簿等で桜山三郎の名を確認すことは出来ていなが、或いは筑波勢の大平山滞陣中に参加したのかもしれない。ちなみに、横山亮之介(龍虎軍将)、内藤文七郎(監察)、戸田弾正(使番)は、挙兵当時からの参加だが、大平山滞陣中か下山後に脱隊して別行動を取ったと思われる。また、範之助とも行動を共にすることとなる西岡邦之助とは、本名を青木彦三郎(春方)という下野国足利郡大前村(栃木県足利市)豪農尊王攘夷家である。赤城隊と称する一隊を率いて筑波勢に参加していた。後に古河(茨城県古河市)で斬首されたが、獄中で記された遺書(血書)はよく知られている。

 

 『水戸藩史料』によれば、その後「此の二団体(桜山三郎の1隊と西岡邦之助の1隊)は合して六十余人相率いて北下し小川地方に到りしに云々」とある。『小川町史』(茨城県小美玉市小川)にこの間の経緯が以下のように記されている。なお、文末に「史料がある」とあるが、出典は不明である。

 

「『(2団体は)八月三日水戸家の浪士(誤り)五七、八名が、江戸から徒歩で木下(原注・利根町布川対岸の河岸)に出て、船で利根川を下って鹿島(茨城県鹿島市利根町木下は同県印西市)大船津で昼食となった所をそこを潮来(水戸藩郷校)の約百名に会い詰問された。先口の三七、八名は逃れ出して船で鉾田(茨城県鉾田市)豊島屋へ寄ったが、後口の十七、八名は捕らえられた。やがて潮来館勢は豊島屋を取り囲み、戦争も辞さない剣幕だったので、出て尋問に応じた。その結果、天狗党ではあるが、諸生党に転向する気配が見える、という疑問付きで、強談の上、天狗党に協力せよと説得したが、決断がつかなかったので潮来に帰り、船を仕立てて麻生(茨城県麻生市)の天王崎を回って小川館(水戸藩郷校)に渡した。小川館の再吟味で目白組、目黒(高田ヵ)組であることがわかった』という史料がある。」

 

 井坂敦著『常陸小川稽医館と天狗党』によれば、その後の2団体は下馬場(茨城県小美玉市)の徳蔵寺に滞在することになったという。なお同著に、これより以前、「千葉周作の道場から塾長級の真田範之介という剣士が、小川館の師範に派遣されていた」、との記事がある。この件に関して小川町役場に問い合わせたが、当時の史料は天狗党の騒乱で灰燼に帰してしまい、同著が何をもとに記されたかは確認できないとのことであった。

 

 『水戸藩史料』には、先に続いて「此の時筑波勢も亦小川に滞陣したれば一日小塙村の某寺院」で、筑波勢の田丸や藤田と2団体が、水戸城奪還が先か攘夷断行が先かを議したが、結局意見は合わず物別れに終わったという。塙又三郎と行動を共にした高田別邸組の岡見徳三が、822日付けで鹿島から養父母に宛てた書中に、「達行儀ハ府下発足之時節、書残候素志ニ基キ、江南ニ而必死之周旋、天下之義士六十余人申合、聖天子之聖慮ヲ奉ジ、幕府ノ名義ヲ後世ニ立、水府尊攘之教ヲ天下ニ明ニセント意ヲ決シテ、近日ノ内同盟之士共ニ横浜ニ当リ、随分ノ働キ可仕云々」とある。目白組と高田組の2団体は、田丸等との論議の結果、当初の目的である攘夷断行を各方面に呼びかけたのだろう。

 

水戸城奪還を否定し攘夷断行を目指す人たちは鹿島に集結したのである。その数凡そ600人という。当時磯浜(茨城県大洗町)の筑波勢の陣中にあった横田藤四郎の日記(『野史台維新史料』)92日の条に、「川俣茂七郎(松山藩藩士)芳野周蔵ノ男桜山三郎等坊州総州行論鉾田行。今日鹿島ヘ廻候ヨシ」とある。2団体は鉾田から北浦(茨城県行方市)を舟行し、3日に鹿島に入った。その時の様子が『飛鳥川附録』に次のようにある。なお、当時桜山三郎や真田範之助の一隊は、「集義隊」と称していたという。

 

「四番隊長 桜山三郎、真田範之助、人数四十八人、桜山は黒糸の鎧、真田は黒革の鎧、何れも紺木綿の陣羽織立烏帽子にて兜は冠らず、着替への具足櫃二つ持たせ騎馬なり。其の余何れも、小具足或は鎖襦袢小手臑当にて立烏帽子紺木綿の陣羽織何れも同じ姿なり。兵卒者一人も之なく、異国の品々絹布の類一切用いず、衣服も木綿なり、(中略)髪は尋常にて大たぶさに結び、至っておとなしき姿なり。三日早朝大掾台より繰り込み、夜通しと相見え(中略)大町立原作太夫へ宿陣」

 

10 攘夷の挫折と死

 

船で大挙横浜の夷人街へ攻め込もうと、意気込んで鹿島に至った浪士たちを待ち受けていたのは、思わぬ事態であった。この時鹿島の陣中にあった西岡邦之助が後に獄中で記した「血書」に、「総房に押渡らんと船二三艘用意罷在候処、水主共逃去り甚窮す云々」とある。そのため、浪士たちは協議の結果、鹿島宮中での追討軍との戦闘を避け、大船津(鹿嶋市)から延方(茨城県潮来市)へ渡船することとなった。『飛鳥川附録』に、渡船の前日5日「桜山三郎組の者十人ばかり遣はし延方(潮来市)潮来、牛堀(潮来市)に限り小舟、大舟を嫌わず、数十艘引き来らせ云々」とある。

 

その後の浪士たちを西岡邦之助の「血書」で追ってみると、「九月六日朝潮来を渡り延方に着す、其勢は神武軍桜山之手、神武軍西岡之手二百名許り跡勢(川俣茂七郎・伊藤益荒勢)渡らんと用意中麻生之方(麻生藩兵)より四艘程迅風に帆を揚乍ら押来右二軍陸より発砲す。(中略)幕兵奸兵共に攻懸る」も、激しく防戦したため、2軍は多くの犠牲を出しながらも ようやく渡りきった。そこで全軍潮来長勝寺に集まり、「猶川を渡り南発を議」したものの船が調わずに断念し、「総勢悉く(夜ヵ)行に而小川より片倉(小美玉市)府中(茨城県石岡市)筑波山麗を越し絹川を渡り武州え押出」さんと出発した。

 

しかし、「暗夜の事教導を失ひ伊東(伊藤益荒)の手は先んじて進み小生(西岡邦之助)の手は前後を見合ひ候中に皆紛擾し桜山の手は麻生之辺にて遅れ」てしまった。この後、桜山三郎は小川手前の玉造(行方市)で捕えられている。この時共に捕われた下田三次(盛岡の士)以下6名は即日斬首されたが、幕府儒官の父の威光か、桜山三郎一人は後に許されて家に返された。

 

範之助と岩名昌之進はこの時その場を逃れ、江戸に潜行したのだろうか。ちなみに、範之助らと鹿島に集まった内の主要人物の末路は、西山邦之助捕斬、伊藤益荒自刃、伊藤斎自刃、林壮七郎自刃、清水謙介自刃、熊谷誠一郎自刃、川俣茂七郎自刃、水野主馬捕斬、宇都宮左衛門自刃、昌木晴雄逆磔、塙又三郎も同志と共に捕斬、とほぼことごとくが非業の最期を遂げている。範之助と行動を共にしていた蛇口安太郎、竹内廉之助の弟竹内哲次郎、中村太郎(田中藩士)たちもみな死んだ。

 

範之助は1117日、潜伏先の江戸深川新田橋組屋敷水主同心御船蔵前小林平助方で、庄内藩酒井吉弥率いる寄合組の人々に、岩名昌之進と共に無残に斬殺された。この顛末は、『甲子雑録』や『荘内史料集』等にも史料があり(稿末「参考」に転載あり)長谷川伸の著書の中にも詳しく記されているので、ここでは省略する。ただ、この時範之助は身に21ケ所、岩名は13ケ所に刃を受け、襲撃者側にも5人の重軽傷者があったことだけは記しておきたい。時に範之助は31歳であった。

 

鹿島に集結して死んだ名のある人たちは、維新後その殆どが贈位の恩典を受けたが、その中に真田範之助はない。また、共に斬殺された岩名昌之進は『殉難録稿』に収録されている(稿末「参考」に)ものの、そこ真田田範之助の名は記されていない。長谷川伸は、そうしたこともあって「眞田範之助」を書き残したのかもしれない。ちなみに、範之助と行動をともにしていた蛇口安太郎や竹内哲次郎も、従五位の恩典を受けている。

 

範之助は鹿島への出陣に際し、「秋の野のあはれは虫の音のみかや民のなげきもそへてきくなり」(飛鳥川附録』)と詠んでいる。決死の出陣を前にしても、心静かに虫の音に心を寄せ、戦乱に苦しむ人びとにも思いを馳せることのできた、心豊かで惻隠の情の深い人であったように思われる。

 

参 考

(1)『常野集』(茨城県史料』幕末Ⅲ) 十月十七日御用番様御届(庄内藩)

                         水戸殿家来

                        千葉道三郎元内弟子之由

      常州浮浪立原朴次郎組領分之由        真田帆之助

                            子廿六七歳位

                         御目見医師

                         変名昌山久離之由

      武田伊賀守別懇之由             岩名昌之進

                          子廿五六歳位

   右之者共昨夜水野和泉守様依御指図家来共差遣御軍艦奉行支配深川

   新田嶋組屋敷水手同心御船蔵番小林平助方ニ忍居候ニ付踏込捕押懸

   り候処抜刀を以飛懸手向致候付無余儀両人共深手為添捕押候付召連

   申候此段御届申上候以上

                       酒井左衛門尉家来

     十月十七日               酒井 吉彌

    真田帆之助雑物

     一 大小壹通    一 朦中鏡    一 守  

一 胴巻      一 金三両    一 竹の子笠

      岩名昌之助雑物

       一 大小壹通    一 竹の子笠

      右両人雑物入交

       一 印形 壹ッ   一 □布     一 書類

       一 真鍮物尺    一 忍頭巾    一 羽織 二ッ

       一 袴 貳ツ    一 着込 二ツ  一 紙入

       一 頭巾      一 多葉粉入二ツ 一 金壹両壱分

       一 風呂敷     一 弓張桃灯   一 脇差引□

        〆

        手疵請候者名前

       頭上并脇                北楯金之助

       頭上少々                小竹弁蔵

       脇之際                 長坂九郎治

       頭上                  村上善作

       左腕                  野澤壽三郎

       右之通

       其方家来共去ル十七日於深川辺浪人共取押候儀常々申付方宜敷家来

共も平常格別相心得罷在候故と一段之事ニ候家来共之内疵受深手之

者も有之由精々手当療養相加候様可被致候右之者共江為御手當銀五

十枚被下候間夫々拝戴候様可被致候尤御勘定奉行可被談候

                   浪人 昌之進弟

                     岩名耻三郎 

                       子十九歳                  

右之者真田帆之助并兄岩名昌之進一同御府内江忍居候者之由相聞候

付家来共差遣下谷金杉上町辺ニおゐて捕押昨夕松平石見守方江引渡

申候此段御届申上候以上

  十月廿日                酒井左衛門尉

 

(2)鶴岡市史資料編・荘内史料集16-1』中「大府輯録五十一」

  潜伏中の水戸浪士密偵を討取りの覚

 十月十七日深川辺之新田島組水主御同心御船蔵()小林平助方へ忍居候水戸浪人二人

 公儀ニ而御召捕相成兼候者、十六日ニ召捕候様御老中御沙汰之儀、此方ゟ御備組弐拾

 人余御遣し相成、所々穿鑿之処、右同所へ忍ひ居候由ニ、十七日之明方参り候処、浪

 人二人ハ寝もせて罷在候所へ御人数参り召捕兼、終ニ打取申候、味方ニ而も夫々手疵

 等可有之、人命ニ拘り候儀は有之間敷とのよし。右ニ付公儀ゟ蒙御称旨手疵之者へ手

 等療治いたし候様、銀五拾枚被下置候、尤此方ゟも手負へ左之通被下置候。

                             酒井吉弥

  一昨十七日水野和泉守様ゟ御沙汰ニ付浪人真田帆之助・岩名昌之進と申者、深川新

  田島組水主同心御船蔵番小林平助方へ潜伏罷在候を為召捕御備御家中召連罷越、指

  揮方格別骨折候段達尊聴、一段ニ思召、御意之上、白鞘御刀一腰被下置候

            (外九名への賞誉は省略)

  右真田帆之助年廿八才、水戸浪(藩ヵ)軍学者武田鳳竜斎手之者也、岩名昌之進年廿五

  、是ハ松平大炊頭様手之者、右両人討留候、但水戸浪人之間者ニ而 公儀之御沙汰向

  聞繕ひニ参り候ものゝよし

 

(3)鶴岡市史資料編・荘内史料集 16-1』中「堀文庵日記」

 水戸浪人真田帆之助・岩名正之進と申者二人、永代橋向水戸殿米蔵詰座敷ニ住へ居候由

 申聞候ニ付、当御家中酒井吉弥様始として五十余人押寄、十人ハ右座敷へふん込けるハ

 小竹弁蔵・大久保健次・長坂九郎治・村上善作大ニ手疵を受、北楯金之助頭上四寸余切ら

 れなから岩名ニ組付けれ□ともせす戦へける。大将酒井吉弥勝はいの長きを気遣へ右座敷へ押込見候所、てきミかた血色ニ成て戦ヒける、吉弥弐尺八寸の正宗の脇指ぬぐ手も見

 せす真田を胴切ニす、又岩名か腰車を切落しける。政宗と言切手と言きたんの業也と、真田ハ二十八才、岩名ハ二十五才也、岩名水戸浪人の大将、武田幸雲斎の家来也と言り、此

 戦へハ十月十七日也。

 

(4)『甲子雑録三』(届出者等不明) 

                水戸殿家来ニ而千葉(原注・道ヵ)太郎弟子剣術者

              疵所廿壹ケ所           眞田帆之助  

              同 十三ケ所           岩名昌之進

 深川永代橋軍艦奉行組同心構内罷在候由ニ而酒井左衛門尉人数ニ而召捕候其節左衛門尉家来ニ茂五人手疵負何レ茂重手之由此者両人ハ打捨死骸ハ同日御番所江差出申候

 

(5)岩名昌之進について

ア、『修補殉難録稿・巻之五十一』に (事実と異なる部分もあると思われるが)

 岩名廉徳は、通称を政之進、又昌(之ヵ)進と言ふ。世世江戸の人にて番町に住せり。廉徳人と為り魁岸雄偉。音吐鐘の如く、好で史を読み、又撃剣を能くす。元治元年八月、水戸藩士某某とともに松平頼徳に属し、之を輔けて水戸の騒擾を鎮撫せんと、国境まで至りし処、頼徳奸党の為に欺かれて、空しく自殺したりしより、味方皆ちりぢりに為り、廉徳ものがれて、ひそかに江戸に忍び帰り、幕府の志士関口艮輔、及び儒生蒲生精庵が家に隠れ、時の様うかがひ居しに、ある日さり難き事ありて、深川のほとりに赴き、途中旧友某に会せしかば、とある酒楼打上がり、己が身の上つぶさに語り聞けたりしを、隣室にありし幕府の幕府の偵吏に聞きつけられ、帰路永代橋に差しかゝりし時、大勢に取囲まれければ、刀引抜き渡り合ひ、六七人を殺傷せしも、つひに其身も此に死す。翌日艮輔、精庵之を聞き、大橋(とう)次と相謀り、若干の金を出して屍を引取り、厚く小塚原に葬りたりといふ。廉徳かつてよめる歌二つ、

ほとときす京都の空にかけらんと先つ啼渡る大平の山

      湊川水上遠くほとときす昔忍ひて啼き渡るらん

 

イ、『藤岡屋日記』元治元年5月14日条に、「五月十四日夜世ツ時頃」として

                     因州藩士   浅山 万

                     浪人     岩名昌之進

  右両人同道ニ而、柴田町七丁目海月楼と申料理茶屋江罷越し酒宴致し、夕刻ニ至り、手紙使を以、熊本藩士田中彦右衛門と申者を、海月楼江呼寄候也、此者ハ元松平右近将監殿藩中ニ而、当家江養子ニ参り、句読師ニ而、御家ニ而辻八卦と異名をうけしもの也、右三任同道ニ而海月楼を立出、品川へ参り候途中、高輪泉岳寺惣門外駒寄際ニ而、右彦右衛門を両人ニ而殺害致し候よし。

    疵処、天窓ゟ背中へ懸ケ、長一尺二寸計、深サ二寸余

    右泉岳寺へ引取、重体ニ付、内〃養父田中漸方江引取、妻一人、男子三才、女子二人有之、寺ハ真言宗三田貞林寺へ葬ル也。

 

ウ、父岩名昌山久離について

 ()東栄著『伊東玄朴傅』中に

   安政48月、種痘術普及のため、大槻俊斎や伊東玄朴らが神田元誓願寺前の川路

聖謨の拝領地を借り上げて種痘所を建設しようとした際、川路の幕府への伺書に記された「種痘所建設の費用を拠出せる人名」80余人の中に「岩名昌山」の名あり。

 ()『名家談叢』第5号中、勝海舟の「想昔談」に

  「岩名昌山という医者があったが、是はえらい豪傑であった。是等(高野長英)の志士が幕府の嫌疑を受けて、或は捕われて殺された、或は自殺して仕舞ったが云々」と、また、「私は長英や岩名昌山などに逢って、種々の話を聞いたが、昌山は御目見え医者だ。御目見え医者というのは誰の藩中の医者でも良い医者があれば皆将軍へ御目見えに出して、それを栄誉として居た。昌山は長英等の仲間に這入る前には、彼の南部騒動のあった時に相馬大作をかくまって置いたことがある。洋学は知らない漢学医者為りしが、意気相投合したるものと見えて、長英等の仲間に這入って能く海外のことを研究した」

 ()水戸藩士高橋多一郎の『遠近橋』に「岩名昌三」とある。岩名昌山と同一人物か。

   ◯弘化38月の条に、「武田子(武田彦九郎)出府の節、岩名昌三と申者世話致候義有之、昌三は伊(伊東宗益)へ懇意のよしにて、即其時も相談有之候趣也。夫れ彼(岩名昌三)水府様(徳川斉昭)は御親みも有之候得は、微力丈ケは乍不及盡し可申、且又先達て水府の神官共、諸御屋形之嘆願に罷出候節、願書等も内覧致、尚又供連等の義も世話致遣し申候事も有之候位に候得は、乍不及微力丈は盡し可申存慮也との御話に御座候。」(弘化42月にも名あり) ※江戸で徳川斉昭の雪冤活動を続ける平三郎(元御郡同心浜田平介の変名)の高橋多一郎への報告内容中の一節。

ヱ、弟岩名耻三郎について

 ・「南梁年録」(茨城県史料幕末編Ⅲ』)中、「同僚鯉淵幸蔵江戸客中より来書」(慶応元 

914日付)中に、「去子十二月四日断罪に相成候もの廿四人之内大学様元家来七人水

府浪人ニて坪秀英郡司平三郎諸浪人之内にて山田一郎平尾桃岩斎古田主税山中一郎岩

名耻二郎天野順二郎佐藤健介其外都合前書之通り廿四人の由此外当節水府領潮来最寄

農兵の類五六人入牢致居候」

 

25 の(2) 撃剣家東寧尾高長七郎小伝

 

                   7

 

菊池教中に宛てた大橋訥庵の文久元年(1861)111日付け書中に、輪王寺宮擁立策への参加人数について訥庵が多賀谷勇を問い詰めたところ、「(多賀谷は)最初三十人位即刻相弁様」と豪語していたが、詳しく問いただしたところ「十人ハ無之」状態で、「此方ゟ強介(児島強介)や真岡之河野顕蔵之類を彼是と数ニ入れて漸く十人位」になる有り様であったとある。長七郎と多賀谷による挙兵のための人集めは、思わしくなかったのである。

 

長七郎と多賀谷はその後も必死に同志の糾合に奔走したらしい。1113日付け訥庵の教中宛て書簡には、「多賀ハ江戸に居て朝ゟ夜迄日々奔走致し候得共、二日掛りて壹人を得たり、三日説て漸く両人出来候なる事にて墓々敷参り不申」とあり、今度は逆に長七郎が地方に出掛けて人集めに奔走したとある。同じ書中に、「尾高と中野方蔵之両人ハ上下毛へ立分れて発足致し八日之夜と九日之朝少々之人を引連れて帰来候、扨著到に調候十八九人」であったと記されている。なお、長七郎と別れて人集めに奔走した中野方蔵(晴虎)佐賀藩脱藩の士で、翌年3月捕らわれて獄中で幽死した。大橋訥庵門下で、昌平黌に学び、江藤新平大木喬任らとも親交があった。中野の獄死を知った江藤新平は、「中野已に斃る。吾人にして起たずんば、誰か復其志を継ぐものあらんや」、と奮起して脱藩を決意したという。

 

長七郎と多賀谷の周旋の様子を窺っていた訥庵は、同月7日頃には既に決起の断念を考えていたらしい。そしてその翌々日には、その旨を挙兵参加予定者たちに伝えたのである。訥庵の教中宛て同月10日付け書中に、「此度之店開き(挙兵)両三日前ゟ迚も出来ぬきざし見受候、再三熟慮之上昨日拙生ゟ異論発し、先々当分見合候而同業人離散致候様申談候処、最初ハ不服之者多く彼是と難詰致し候者」もあったが、「後ニハ一同承知」したとある。大橋訥庵は、この時輪王寺宮擁立策から老中安藤正信暗殺計画に舵をきったのである。しかし、多賀屋勇は強硬に決行を主張したらしく、同じ書中に「独リタガ屋斗不承知にて是非とも店開きを此ですると申て強情を張り居候得共不同意之者」が多くなり、その場は中止と決まったものの、多賀谷一人納得しなかったらしい。多賀谷と共にこの計画の発起者である長七郎は、この時どうしていたのだろうか。このことに関して、「勝野正満手記」(東京大学史料編纂所所蔵)に気になる次のような事実が記されている。

 

「訥庵大橋先生輪王寺ノ宮ヲ奉シテ兵ヲ挙ルノ事アリ、予又預ル同盟殆ト二百余名先寛永寺ニ入テ宮ヲ奪ヒ奉リ日光ニ至テ兵ヲ挙ルノ計画タリ、(中略)先生日事コゝニ至テ不会者多シ宜シクホコサキヲ治テ後挙ヲ謀ルヘシ、ユメ諭ラルゝ勿レト、予旨ヲ受テ尾高長七外一名ト共ニ去ル時既ニ未ノ刻ナレハ吾妻橋ヲ渉テ午飯ヲ喫スルアタリ長七云フ、訥庵師モ又人ニヨッテ事ヲ為スモノナリ、士ノ事ヲ為ス何ソ多数ヲ要セン、己レ上野ノ地理ヲシル、今夜三人事ヲ挙ン事敗レハ一死アルノミト、予云事頗ル壮ナルモ決テ目的ヲ果サシ、其上死シテ汚名ヲ残サン、(中略)長七遂ニ予ヲ詈ルゝニ至ル、(中略)因テ假ニ彼ニ服スル真似ヲ為ス、長七又云フ今朝会シタル者ヲ誘因セハ十四五ノ死士ヲ得ルハ容易ナラン、今ヨリ先ツ宇野東桜方ニ行ン案内セヨト、予茲ニ於テ始テ活路ヲ得タリ、其故東桜ノ寓居ハ浅草馬道ナル医王院ノ境内ニシテ此辺縦横ニ長屋アリ(中略)予幸ニ此辺ノ地理ニ委敷ケレハ二人ヲ寺ノ門前ニ待タセ置キ直ニ(中略)垂レ駕古ヲ雇ヒテ脱走云々」

 

「同盟殆二百余名」は誇張が過ぎるが、この「勝野正満手記」を記した勝野保三郎(正満)は、旗本阿部四郎五郎の賓客勝野豊作(正道・150)の次男である。父豊作については本ブログ10「忘れられた傑士勝野豊作」で、また勝野保三郎は13「関東地方から参加した浪士たち」の中で紹介している。この「勝野正満手記」の記事が事実なら、長七郎は多賀谷と同様に訥庵の決定に不服だったのである。その後の2人の行動の様子から、或いは長七郎と勝野保三郎に同行していた人物は多賀谷勇だったのかも知れない。ともあれ、長七郎と多賀谷が目論んだ輪王寺宮擁立策は、9日夜の策動も含めて失敗に帰したのであった。

 

                   8

 

大橋訥庵が輪王寺宮擁立策に次いで画策した老中安藤正信要撃策は、翌年115日に決行されたが、大橋訥庵と菊池教中の2人はその3日前の12日に幕吏によって捕縛投獄されていた。その後、輪王寺宮の擁立計画策に参加した人では、小島強介が同月28日、小山春山が翌29日、その翌日横田藤太郎が捕縛され、2月に入って得能淡雲、3月に中野方蔵らが縛に就いていた。当然のことだが、長七郎も幕府の捕縛対象者であったことは言うまでもない。

 

大橋訥庵らが下獄するに至ったのは、訥庵門下で一橋家家臣山本繁三郎の告訴と幕府の密偵宇野東桜(八郎・元高槻藩)の暗躍によるものであったという。この宇野東桜は、先の「勝野正満手記」にも名のあった人物だが、訥庵が教中に宛てた1113日書中にも、「元来奪之術ハ東桜と申者へ任置候処、多賀へ役者不足之義を拙生度々小言を申し咎め候ニ付、彼もそれをセツナガリて役者を説き集候手段を東桜へ相談して桜を連れてあるき候云々」と記されていて、長七郎や多賀谷はこの人物を頼りにしていたのである。当然のことながら、2人のことも幕府に筒抜けだったのだろう。訥庵は獄中で宇野が間諜であると確信したらしく、清水昌蔵(訥庵の次兄)らに宛てた翌年319日付け書中で、「東生之事愈怪シクシテ間諜に相違ナキ事()早ク御斬殺可被下候」とまで記している。宇野は後日長州藩士たちによって殺害されている。なお、渋沢栄一の『雨夜譚』に坂下門事件後の長七郎に関する後日談があるので、長くなるが引用する。

 

「その事(坂下門外の事変)に連累して大橋訥庵が捕縛になって、尾高長七郎もまた嫌疑を受けたが、長七郎はその時田舎に来ていたから、田舎迄も逮捕の沙汰があるということを自分が聞き込んだけれども、長七郎はかえってそれを知らずに江戸へ出るといって、既に出立したということだから、自分は一方ならぬ心配をして、その夜の十時頃から宅を駆け出して、四里ほど隔て居る熊谷宿まで追っ掛けてようやく長七郎を引き止めて、さて貴兄は知らぬ様子だが、坂下連中はその場に出もせぬ児島泰助(強助)までも縛られたほどだから、この田舎ですら実は危険千万に思う矢先である」と説得し、「一刻も早く信州路から京都を志してしばらく嫌疑を避けるのが上分別であろう、と忠告して、直ぐに京都の方へ落して遣った云々」

 

児島強介が下獄したのは128日であるから、この話は恐らく2月初旬のことだろう。大橋訥庵等の就縛の事実は長七郎にも伝わっていただろうから、そうした時期になぜ長七郎が江戸に出ようとしたのかはともかく、以上の渋沢栄一の懐旧談と矛盾すると思われる資料が存在する。それは久留米藩士松浦八郎(寛敏)文久元年1114日付けで多賀谷勇の父三郎に宛てた書簡(『久留米同郷会誌』収載)で、そこには次のように記されている。

 

「昨十三日夜漸浅草にて(勇と)得拝顔、御伝言之趣委細御咄仕候処、即ち今十四日に上途にて一先御在所より御帰郷に相成候御覚悟之趣に付、内々御噂之御模様も有之、其上御咄仕候通当節柄江府内は憂世のもの居不申方可然儀に付早々御出立可然と御勧め申上、今日途中迄御見送申候」、また「二白」として「御潜之御住所被成候様子等は御同行之尾高へ委細申置候に付、同人へ篤と御相談、幾重にも来春頃迄は御留め可被候、私より御左右可仕、夫迄は何分にも御留め可然重々奉祈候」

 

この書簡は、多賀谷の父三郎から息子勇の即時帰郷の説得を託された松浦が江戸に至り、父三郎の意向を多賀谷に伝えた結果を三郎に書き送ったものである。この書簡によれば、当時長七郎は多賀谷と同居していて、松浦の説得によって長七郎も多賀谷に同行して長州に下ることになったらしい。2人が長州の多賀谷の実家に赴き、その地で年を越したとすれば、渋沢栄一の先の懐旧談の内容とは明らかに矛盾することとなる。また、長七郎と多賀谷が坂下門事件に関与しなかった理由も浮上する。

 

なお、松浦八郎の書中に「幾重にも来春頃迄は御留め云々」とあったが、書簡にはさらに「御本人(多賀谷勇)には来早春再遊之御存立に候」とか、「御本人御再遊之御思召は迚も御止め被成兼候半、就ては早々御養子の御手筋にても御立被成候方可然歟と愚存申上候」と記されている。父三郎の願いも虚しく多賀谷は翌春再び郷里を後にしたのである。当時獄中にあった菊池教中の「幽囚日記」(1942年・静観堂)文久2311日条に、「多賀谷勇見囚百姓牢ニ入ル」とあり、翌12条には「四五日前多賀新駅ニテトラハルトノ風聞云々」と記されている。ちなみに、水戸藩士野村鼎実の「代紳秘録」には「三月十日、揚屋入」とある。多賀谷が捕らわれた「新駅」がどこなのか、浅学な筆者には特定できないが(新宿のことか)、もしそれが中山道新町宿(倉賀野宿と本庄宿の中間)であれば、多賀谷は再上府の途次そこで捕らえられたのかも知れない(長七郎は土地勘があり逃れたか)。投獄された多賀谷勇は、その後郷里右田の獄に移され、その年の11月には朝旨を以て出獄し、再び国事に奔走していた。しかし、翌年の正月病んで帰郷し、その年の513日病没した。享年は36歳であった。

 

長七郎が長州へ赴いたことを傍証する(思料される)資料がある。それは『渋澤栄一傳記資料』に収載される署名、宛名、年月不明の書簡(大正12年の震災で焼失とある)であるが、書中に「過日留守へ相尋、此一冊(『春雲楼遺稿』と思われる)上梓に付、弘め呉候様」とあるので、書簡が記されたのは、長七郎と渋沢栄一文久37月に『春雲楼遺稿』を刊行(後に再度記す)後間もなくのことだったと推定される。そして、その書中には「新五郎弟尾高某、()此節は長州罷越居説に云々」と記されている。現在形となっているが、文久37月以降長七郎が長州に下った形跡はないので、これは前年多賀谷と長州に同道した時のことではないかと思われる。なお、この書簡には、長七郎は「兄新五郎ゟ文武とも余程勝り居」とあって、「文」の誤伝があるとはいえ、当時長七郎の剣術の評判は高かったことが窺える。

 

余談になるが、『宇都宮市史』や『大橋津訥庵先生傳』等には、輪王寺宮擁立計画に加わった者の中の一人に松浦八郎の名が上げられている。しかし、この松浦の先の書簡に、「客月中(10)は参堂依例御懇御饗被成下御厚情云々」とか、「野生事先月(10)廿六日夜舟にて京都へ云々」とあり、さらに江戸に出た松浦が多賀谷に会えたのが1113(9日の訥庵の塾での会合に松浦は参加していなかったことになる)であったことから、松浦は輪王寺宮擁立計画には関与していなかったのである。なお、大橋訥庵の誠思塾の門人帖(『大橋訥庵先生傳』)には、多賀谷勇と松浦八郎の名が記されている。

 

                    9

 

松浦八郎の書簡以外で、この時期の長七郎に関して確認できる資料は、上州境町(群馬県伊勢崎市)の医師村上秋水の日記(篠木弘明著『蘭方医村上随憲』収載)である。その文久2327日の条に、「尾高長七郎来る」と記されている(多賀谷勇が捕縛されたのが37)。松浦八郎の先の書翰に記される事実を度外視した上で、『雨夜譚』に記される事実に間違いなければ、渋沢栄一に促されて長七郎が上京(早くても2月初旬)し、後1ヶ月程度の滞在で再び関東に戻っていたことになる。ちなみに大橋訥庵はこの年の77日に出獄して同月12日に病死し、菊池教中は725日に出獄後翌月8日病死、小島強介625日に獄死している。『雨夜譚』の記事を前提とすれば、長七郎は大橋訥庵ら(多賀谷勇も)が獄中で呻吟している最中に郷里に戻ったことになる。もっとも下手計村には戻らずに、上州か信州あたりに潜伏していたのかも知れない(この事実は先の長州へ下った話とも矛盾はしない)。ちなみに、長七郎は信州南佐久郡下県村(長野県佐久市)の漢学者で詩人の木内芳軒の家に潜居していたこともあったという。

 

なお、その後の村上秋水の日記には、翌412日条に「尾高長七郎診を請い来る」とあり、13日には「長七去る」とある外、527日「尾高長七、中村三平、福田治助来話」、61日「尾高長七来宿す」、同月2日「尾高子俊平を誘い太田へ行く」、同月9日「この夜俊また長七と同帰来、長七宿る」、同月22日「田恬、田謙、尾高長七、中村三平、福田滋助、文泰ら来る、談盛なり、鶏鳴に至り漸く寝につく」、と記されている。これらのことから、この間に長七郎が上洛していたとは考えにくい。なお、622日の秋水の日記にある「田恬」は田島恬頤、「田謙」は大館謙三郎、「文泰」は斎藤文泰で、皆上州の尊王攘夷家たちである。長七郎はこうした人たちとも知友だったのである。

 

村上秋水の日記に、7月以降翌年3月まで長七郎の名は認められないので、623日以降に上洛したのかも知れない。というのも、秋水の日記の翌文久3326日の条に、「手計村尾高長七を訪う。他行なり」とあり、2日後の28日に「尾高長七来りて京師の説を話す」とあるからである。あるいは、村上秋水は長七郎が京都から戻ったことを知り、西国の情勢を聞くために下手計村に長七郎を訪れものの不在だったが、帰宅後にこれを知った長七郎が翌々日村上家に赴いたのかも知れない。もし、この間の上洛だとすれば渋沢栄一の懐旧談にある、幕府の嫌疑を避けるための上洛ではなかったはずである。

 

その後、村上秋水の日記にはこの年(文久3)612日に至るまで長七郎の名は見えない。その612日の条に、「小此木(小此木村・群馬県伊勢崎市)四ツ辻にて尾高長七郎、福田滋助らに遇う」とあり、同月14日条に「夜福田、尾高ら世良田(群馬県太田市)行の途上、予が家を訪えり」と記された後は、この年12月まで長七郎の名は認められない。この間の7月、長七郎は渋沢栄一と共に『春雲楼遺稿』を上梓している(「春雲生」は河野顕三の雅号)。この『春雲楼遺稿』の刊行に至る経緯は、この年の春に遡る。長七郎は同志の川連虎一郎(義路)と共に坂下門外で闘死した河野顕三(通桓)の遺族の家を訪れていた。

 

川連虎一郎も河野顕三も、長七郎が多賀谷勇と共に画策した輪王寺宮擁立計画に名を連ねた人達であった。川連は下野国真弓村(栃木県栃木市)大庄屋で、水戸天狗党の筑波挙兵に関与して元治元年8関宿藩佐幕派によって斬殺(享年23)された人である。また、河野顕三は本姓を甲田(又は越智とも)といい、父は下野国吉田村(栃木県小山市)の医師であったが早くに死去したため、顕三は母の手で育てられた。彼も医術を学んだが、憂国の念止みがたく国事に奔走し、坂下門事件に参加して闘死(享年25)していたのである。

 

長七郎と川連が鬼怒川西岸の河野の家を訪れた当時、その家は闕所となって家財道具も没収され、荒れ果てた草屋には顕三の母と祖父守弘(下野国誌』の編纂者・文久3年没)がひっそりと暮らしていた。顕三の遺物も僅かに一巻の詩稿が残されているのみであった。長七郎は顕三の遺族の許しを得て、これを持ち帰って渋沢栄一に示すと、栄一も顕三の志への同情と長七郎の情義の切なるを憐れみ、これを敢行することになったという。この詩集は、長七郎の「春雲楼遺稿の後に書す」の跋文と、渋沢栄一の「越智通桓小傳」が巻頭にあり、顕三の遺稿3849首の後に次の鷲津毅堂(尾張出身の漢学者)の評(原漢文)がある。

 

「尾高、渋沢二生畏友越智春雲の遺稿を携えて来謁す。余点定す。余未だ春雲なる者を知らずと雖も、二生作る所の伝と跋とを閲するに、けだし施全、王著の一輩之を出す。詩また慷慨、悲壮、奇気巻に溢る。所謂人を以て出んる者なり。何ぞ句の小疵瑕を論ぜんや。乃ち圏を加えて会心の処に批し、而して之を返す。  癸亥星夕後二日 毅堂妄評」

 

この遺稿は、江戸で密かに157部が刊行され、長七郎と栄一によって顕三の友人知己に配られたという。顕三の同志小山春山の子馨三郎(水戸天狗党の筑波挙兵に参加し、19歳で越前敦賀に刑死した)の詩集「殉難余響」に、「春雲楼遺稿を読む」と題して、「惨然として几に倚り遺稿を読む、一涙一吟揮って消えず、耿耿として青灯隣火に似たり、悲風榻を遶りて夜寥寥」と詠じた七絶がある。以上、『春雲楼遺稿』に関しては、『下野史談』第42号に載る岩崎良能氏の論稿「河野通桓の春雲楼遺稿」等を参考にさせて頂きました。

 

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渋沢栄一の『雨夜譚』では、『春雲楼遺稿』刊行の逸話が記されていないため、長七郎は文久2年春以来翌年9月まで京都に滞在していたかのようにとれる。しかし、先の松浦八郎の書翰や村上秋水の日記、さらに『春雲楼遺稿』の刊行を前提にすると、長七郎は文久37月以降に(再びか)上洛したのである。そして、さらに桃井可堂(儀八)の「帰郷日録」の7晦日の条に、「(前略)問長七郎、歟宣三(儀八次男)共行」とあるので、長七郎が郷里を後にしたとすれば、8月以降のことだったことになる。ちなみに、「帰郷日録」のこの年の328日の条には「発彦之家訪油屋、新五(惇忠)長五(長七郎)兄弟不在」、と記されている。

 

なお、本ブログ21儒者桃井可堂と梗概組の挙兵計画について」で詳述しているが、桃井可堂は武州榛沢郡阿賀野(埼玉県深谷市)の人である。江戸で私塾を開いていた(備中庭瀬藩主や伊勢亀山藩主の賓師)が、外夷の跳梁黙止が難く、攘夷挙兵のためにこの3月に帰郷していた。当時はその準備に奔走中だったのである。可堂親子が長七郎を訪ねたのも、そのことに関係していたと思われる。ちなみに、宣三は可堂の次男で、長七郎と同様に神道無念流大川平兵衛の門人でもあった。

 

『雨夜譚』によれば、この年(文久3)渋沢栄一たちも「春以来(槍や刀を)秘密に買い調え」、「八月頃」に「尾高惇忠、渋沢喜作の両人と自分と都合三人で」、冬至の日の1123日に挙兵すると決定したという。長七郎はこの挙兵計画決定の直前に上洛したのだろうか、重大な決定に長七郎が関与していないとはどういうことなのか。『龍門雑誌』第313号中の栄一の談話にも、「之れ(義挙)を統率するは実に藍香と喜作と予とで云々」とある。そして、さらに栄一がその準備のため「914日に江戸へ出る時に」、京都滞在中の長七郎へ使者を出し、「ほぼこういう計画に定めたから」有用な人物を連れて帰って来い、と手紙を持たせてやったというのである。そして長七郎は1025日か26日頃に京都から戻り、29日の夜に一同で話し合ったが、長七郎は次のように主張して挙兵計画に強く反対したという。

 

「暴挙の一案は大間違いである、今日七十人や百人の烏合兵では何することも出来ない。好しや計画通りに高崎城が取れたにせよ、横浜へ兵を出すことは思いも寄らぬことである。直ちに幕府や近傍諸藩の兵に討滅されることは明瞭である。実に乱暴千万な考えというものだ。つまりただ百姓一揆同様に見做されてしまうであろう」、「今この計画したような乱暴なことをして、万一流賊一機と見做されてことごとく縛首に逢うようなことがあっては残念だから、どこまでも力を極めて留める」

 

これに対して渋沢栄一は、「自分は決してやめぬ、必ず決行する」と徹夜で激論したが、「長七郎は自分(栄一)を殺してでも挙行を抑止するというし、自分は長七郎を刺しても挙行するというので、ついに両人して殺すなら殺せ、刺違えて死ぬというまでに血眼になって論じた」末に、栄一が「長七郎のいう所はもっともである」と服して決起は中止となったという。長七郎の主張は至極冷静なものであり、2年前の輪王寺宮擁立運動に狂奔していた同じ人物とは思えない。なお、先の『竜門雑誌』第482に載る「尾高藍香・東寧両居士追悼会」での栄一の談話では、長七郎の挙兵の反対理由について、『雨夜譚』とは別の事実が次のように記されている。

 

「最初天子御親らでなくても、三条(実美ヵ)さんあたりからでも何かもらへると思って居たが、現在の朝議は公武合体論が強いから何も出してもらへぬ。何もないのに暴挙をすれば賊徒になり、縛り首にされるだろう。我々は義兵なら挙げてもよいが、賊になる為めに兵を挙げるのは愚かな話である」

 

これが事実なら当時長七郎は朝廷や三条家へ出入りしていたか、朝臣との意思疎通の伝があったらしい。そして栄一たちから挙兵計画の連絡を受けた当初、長七郎はそれに乗り気だったからこそ朝廷や朝臣に働かけたのだろう。このことから、長七郎の挙兵反対の理由は、朝廷や朝臣から同意が得られなかったという一点だったことになる。四方に遊んで広く世間を知り、情勢判断のできただろう長七郎が大義名分のない挙兵に反対したことは納得できる。しかし、この事とは別に、どうしても理解し難いのは、本ブログ20「若き日の渋沢栄一の転向」等で既に指摘(以下重複)した、当時栄一たちの念願だった一橋家への出仕の道が開けつつあった事実との矛盾である。これもブログ20と重複するが、栄一と喜作の一橋家への出仕に尽力した川村恵十郎の日記の1019日の条には、「榎本亨造(一橋家物頭)より渋沢両人登京可然之書面来、依之右書面江得申聞く」とある。この知らせを受けた栄一と喜作は、早速同じ日に尾高惇忠に宛てた書簡(渋澤栄一傳記資料』)で次のように記している。

 

「一橋公も秘々登京に相成候様子、付而は是非両生には御供被仕度、平岡(円四郎・一橋家用人)、榎本(享造)抔被申候、右僕等発郷之声言妙計と奉存候、御含御声言被下置候度奉願候、実に千歳之一機会、呉々も不可疑と決心、一段大奮起、独歩都下を圧倒いたし候、乍然郷里は相成丈謹粛に致度候間、不然様御配慮可被下候、外有志も発郷之声言は参宮抔宜敷候云々」

 

川村恵十郎の日記には、それから3日後の同月22日の条に「榎本亨造川崎泊ニ而今日出立ニ付川越(崎ヵ)え罷越両人(栄一と喜作)一條跡より登京決定。(中略)渋沢両人ㇵ跡より平岡榎本両人為家来為登候積」、と記されている。栄一は17歳の安政3(1856)、安倍摂津守の陣屋役人から恥辱を受けて以来、「武士となって世に立ちたいという希望は瞬時も忘れる事が出来なかった」(『青淵回顧録)のである。今その長年の願望が現実のものとなりつつあったのである。しかし、2人が欣喜雀躍し「独歩都下を圧倒する」心地のしていたその頃、長七郎はまだ京都から戻ってさえいなかった。こうした事実からして、先の長七郎と栄一の挙兵の是非をめぐる激論の顛末、すなわち渋沢栄一が長七郎と刺違えてまで攘夷挙兵を主張したとある事実をどう解すべきなのか。

 

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文久3726日付けで渋沢栄一が尾高惇忠に宛てた書簡の中に、「只々東寧之所論精気鼓舞致兼、殊ニ流賊之名可恐との場合、無拠先小()(挙兵を)見合迄之事(中略)遂に西上□く場合に相成候云々」、とある。そして、先の栄一たちが一橋家仕官(正式には翌年2)の喜びを惇忠に伝えた同年1019日付けの同じ書中に、次のような事実が記されているのである。

 

「真田外三四輩抔も、殊之外大奮然、期限迄之無事を苦居候様子、依而約し候通、前後不残発足に相成候、尤真田は明廿一日に相成可申候、何れ下旬迄郷里辺迄参着相成候」「此間上州御周旋、格別之御守備委細は盧陰兄(喜作)より承及(中略)殊に博徒に而胆略有之候人物三人有之候由云々」「武器も梅田に而好機会に而余程相調申候、革具足に而手堅物十人前、外着込二十人前、剣具二十人位は調立に相成候」

 

これによれば栄一たちは、一橋家への仕官の手続きが進められている一方で、同時に挙兵の準備にも余念がなかったのである。文中の「真田」とは、安政年間に下手計村の尾高家を訪れ、長七郎や惇忠と手合わせをした玄武館千葉道場の師範代真田範之助である。真田以外の同志たちは栄一たちの挙兵に参加するため、既に江戸を出立し、真田も2日後には下手計村へ向かうというのである。真田たちは栄一や喜作の一橋家への仕官の話は知っていたのだろうか。この一連の資料を見る限り、当時の渋沢栄一たちは一橋家への出仕と攘夷挙兵の二股を賭けていたとしか思えない。

 

 挙兵中止が決定し、栄一たちが郷里を去った(118)後の長七郎については、上州の名門岩松満次郎の家老畑織之輔がこの翌128日付けで満次郎に宛てた書簡(群馬県史研究』収載中島明稿「赤城山挙兵計画の基礎研究」)に、その名が見える。そこには、「去五日下田嶋新助義手計村ニむこ御座候間、内々新助ヲ遣ハシ様子承リ候様申付、差遣シ申付候処、右手計村長七郎と申ハ、油屋とも申候者ニ御座候、此長七郎方ニ浪人共多分居申候事相違無御座候、金子等も殊之外持寄候事慥ニ見届申候由、又血洗島村永治郎・喜作右両人、長七郎同様大将分ニ御座候云々」、と記されている。これが事実なら、真田範之助たちは12月に入っても尾高家に滞在していたらしい。また、この書翰に記される事実からは、長七郎が挙兵に反対した様子も窺えない。なお、同月18日の村上秋水の日記に、「竜太郎は手中に尾高長七郎を訪うと、因て尾高に書を展す」とある以外、長七郎が翌年の正月に人を斬って下獄するまでの消息は定かではない。

 

ちなみに、尾高惇忠と長七郎が挙兵の中止後郷里に残った理由について、『雨夜譚』には、惇忠は「その身が一家の戸主であるから、家政万端の責任があるによって」家出する訳にはいかないとあり、長七郎については「元来撃剣家で、この頃京都から帰宅したばかりだから、直ぐに京都に引返すのも面白くなかろう」というので、下手計村に留まって撃剣の指南をしながら、「そのうち時機を見てゆるゆる京都に来るがよかろう」ということになったとある。栄一や喜作が、「八州取締が窺い知って既に手を廻して居る」らしいので、「安閑としてこの地に居るのは極めて危うい」ため早々に郷里を去ったというのにである。なお、当時の長七郎には剣術の門人がいたのである。先の「尾高藍香・東寧両居士追悼会」での渋沢栄一の追悼談話にも、「東寧も近所の弟子に教えて居る云々」とある。尾高家近くの鹿島神社の傍らに嘉永年間(1848~1853)に建てられた「錬武館道場」があり、長七郎はここで修行し、ここで門人たちに剣術を教授していたのである。また真田・村上との試合もここで行われたとのことである。

 

『雨夜譚』によると、渋沢栄一たちが入京(1125)した翌年1月、栄一たちの元に獄中の長七郎から手紙が届けられたという。長七郎はこの月の23日、戸田の原(中山道戸田の渡し近く)で人を斬って投獄されていたのである。この事件については、『雨夜譚』に「長七郎が中村三平と福田滋助の両人を連れて江戸へ出る途中において、何か事の間違いから捕縄せられてついに入牢した」とあるものの、その事件に関する詳細は定かではないとある。なお、川村恵十郎の日記の214日の条に、長七郎が捕縛された事実が「此度江戸表ニ而被召捕候者」として次のように記されている

 

 川越大川平兵衛妻ノ弟      浮浪人 榛澤七郎

   実は武州榛澤郡下手計村名主新五郎弟    実名 尾高長七郎 二十七

                        富田三郎

   紀州水野家来野中昌菴甥          実名 中村三平 二十二

   駒井山城守知行所             治助

   上州那波郡前川原村名主彦四郎伜      実名福田治助 二十二

 七郎三郎両人は無宿之旨申立 治助は神田小柳町三丁目慎之助(梅田慎之助ヵ)方へ

 止宿致居候由申立

 

渋沢栄一や同喜作が、長七郎救出のために種々奔走したことは、本ブログ22渋沢栄一の関東人選御用について」に記している。なお、そこではふれなかったが、翌215日には、川村恵十郎が川越藩山田太郎右衛門(老中)に面会して長七郎の救出方を依頼している(川村恵十郎日記)。ちなみに、幕府の目付杉浦正一郎(梅譚)の「東下備忘」(『杉浦梅譚目付日記』)2(日不明)中の条に、「都筑駿河(峯暉・勘定奉行)ゟ話之事、小()高長七郎云々、橋府抱之もの云々」と記されている。日ならずして長七郎救解の話が幕府の目付や勘定奉行にまで伝わっていたのである。これも川村恵十郎の尽力の賜物ではないかと思われる。なお、渋沢栄一は後年この長七郎の刃傷事件に関して、『藍香翁』の著者塚原蓼州に次のように語ったという。

 

(長七郎が渋沢栄一と激論した際)彼の長七郎が慟哭した事です。私初め喜作も其外も、かの行懸りで逆上しては居ったが、其の長七郎の哭く容子が余程事変って見えたので孰れも驚いた(中略)或は此時に精神に異常を来した。其れが其の(戸田ノ原の事件)原因に為ったのでは有るまいかと思います。(中略)同人が事を作すに熱心に、全幅の精神を傾注して吝まずという尊い性質を有って居ったのも、此れで判ことと存じます」

 

この事件について『藍香翁』には、「長七郎もまた去って江戸に行き、元治元年三月帰郷の途次誤って人を殺し云々」とあるが、これは誤りと思われる。川村恵十郎の日記の214日条に、「此度江戸表ニ而被召捕候者として右(長七郎他2)正月廿三日夕刻安藤森川人数板橋宿固候在召候由」とあて、『雨夜譚』に記されるように元治元年の1月に板橋宿で捕らわれていることから、江戸に出る途中の事件であったと思われる。なお、栄一の長女敦子の記した『はゝその落葉』に、次のような記事がある。

 

(長七郎が)かの企をしひていさめ止めける折、集りける同志の若人ばらは云ひがいなしとてひたすらはやり憤りけるを、長七郎君にはいといたう力を尽くしてさとしなだめ一まづおのがしじ退き帰らしめ給ふ。大人と成一郎ぬしとの都へとて出立たせ給ひける後も、かの人々をした志をかへず又かろがろしきふるまひなく、静かに時を待たしめんとて、それらが許に折々おとづれてねもごろに語ひなぐさめ給ひなどさまざま御心尽させ給ひ、又ひとつには彼企あたりける事を深く秘めて世にもらさじとつとめ給ひける云々」

 

ここに記される事実は、先の長七郎が「精神に異常を来し云々」とある栄一の話と異なり、長七郎は至って冷静(捕縛された際に「榛澤七郎」の変名を名乗り、「無宿」と詐称している点も含め)で、栄一らとの激論で精神に異常を来していたとは考えにくい。その長七郎がなぜ行き摺りに人を斬り殺したのか。何とも腑に落ちない事件である。その後の渋沢栄一たちの長七郎救解の懸命の努力も虚しく、長七郎はその後明治維新に至るまでの約4年間を獄中で呻吟することになったのである。

 

長七郎の出獄は維新の特赦によるものと思われるが、兄惇忠が長七郎の身柄を引き取りに赴いた時、長七郎にかつての面影はなく、生ける屍のようだったという。出獄の年(明治と改元された2月後)1118日、長七郎は病んで郷里手計村の実家で33年の生涯を閉じている。渋沢栄一は昭和22月、「米寿を迎へて」と題する談話(『龍門雑誌』第461)の中で、長七郎の死に関して次のように語ってその悲運な死を悼んでいる。

 

「東寧は思慮もあり撃剣も立派な腕を以て居ったが、廻り合せが悪かった為め、何等の効果もなく、単なる下働きに終わり国家社会の表面に現れないで終わりました。(中略)然るに数年にして病気となり、私が欧州から帰朝した時遂に三十一歳(誤り・拙著『幕末維新埼玉人物列伝』はこれを鵜呑みにしました)を以て情無い境遇で世を去るに至った。病気で会ったから致し方が無かったとは居へ、私としては特に親しくした従兄の間柄であり、彼の妹は私の妻であったから、俄に其の人を失った時の感慨は云うに辞なき次第であった」

 

深谷市下手計の通称丸山堂にある尾高家の塋域に、「東寧尾高弘忠之墓」と刻まれた長七郎の墓石が立っている。墓石の右側面には、「尾高勝五郎第二子明治元年戊辰十一月十八日没」とあり、左側面には、「澁澤栄一建石」と刻まれている。

25 撃剣家東寧尾高長七郎小伝

 

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渋沢栄一は、昭和3(1928・括弧内は原注とない限り筆者注)11月に寛永寺で行われた尾高長七郎とその兄尾高惇忠の謝恩追悼会の席上、「お二人に対しては、私は普通の親戚以上に感じている」とか、「尾高兄弟と私とは殆ど同じ境遇で育てられた」と語っている。長七郎と従兄弟の渋沢栄一がいかに親密な関係にあったかが窺えるが、この席上さらに栄一は、「始終東寧(長七郎)は私の為に色々なことをして呉れて、遂に死んだようなものである。二人の関係は撚り合わせた糸のようである」と語り、「東寧の末路などは何であゝ情けないか」とその死を深く哀惜している。なおまた、そうした2人の関係から、「此両人の位牌は私の家の位牌堂へ存置し」て尾高家と渋澤家の両家で祀った、とも語っている(渋沢栄一傳記資料』)

 

長七郎は若くして非命に死んだため、渋沢栄一や渋沢喜作たちのように青史にその名を留めることはなかった。その尾高長七郎については、筆者は拙著『幕末維新埼玉人物列伝』の中でその小伝を記している。この小伝は主に『雨夜譚』等の渋沢栄一の懐旧談を参考にしたが、その後確認した他の資料で検証すると、いくつかの矛盾する部分が認められたため、改めて本稿でその人物像を記すこことした。なお、本ブログ21及び22と内容的に重複する部分の多くあることをご了承ください。

 

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尾高長七郎は、天保7(1836)武州大里郡八基村下手計(埼玉県深谷市)の名主尾高勝五郎(保孝)の次男として生れた。幼名は弥三郎、諱は弘毅、後に弘孝、更に弘忠と改め、省斎と号し、東寧の別号もあった。長七郎の生まれた尾高家は、長七郎の祖父磯五郎(横瀬村の萩野家の番頭であったという)が新たに興した家で、家業は米穀、塩、油等の日用品と藍玉の加工販売を主とし、他に農業を営んでいた。『龍門雑誌』第482号中の渋沢栄一の談話筆記に、当時の尾高家は「余り富んで居らず、横根の萩野と云ふ家に相当の負債がありました」、とある。それでも父勝五郎の代には手計村の里正を勤めるようになっていた(『八基村郷土誌』)。この父勝五郎は長七郎が17歳の嘉永5(1852)に病没している。

 

長七郎の母は隣村大里郡八基村血洗島(埼玉県深谷市)豪農渋沢宗助(諱政徳)の次女でやへ(八重)と言った。「渋沢家本支系図」によると、母八重の兄市郎右衛門(諱美雅・号晩香)の長男が渋沢栄一(天保112月生)である。渋沢栄一は長七郎より4歳年下の従弟だったのである。ちなみに、母の兄で市郎右衛門の弟文左衛門(初め長兵衛・号以静) の子が、後に一時彰義隊の隊長を勤めた渋沢喜作(成一郎・諱英明・号蘆蔭)である。喜作は天保9年の生まれで、長七郎より2歳の年少であった。

 

長七郎には兄と弟の他に2人の姉と2人の妹の同胞があった。兄の惇忠(初め新五郎・諱惇孝、後改め惇忠・号藍香)は、長七郎より6歳の年長(天保元年7月生)であった。その惇忠について、渋沢栄一は『龍門雑誌』の中で、「藍香は非常な天才で、七歳の頃四書の句読を受くる時から夙く頴敏の誉を得、同時に書法を伯舅渋沢氏学び、更に遊歴儒者として此村に来れる菊池菊城に就て経義を講じたのみで、殆ど独学であったのだが、却々の学者として近郷に隠れ亡き声名を博していた」、と語っている。

 

なお、『埼玉県人物事典』によれば、菊池菊城は天保末期から弘化2(1845)頃まで血洗島村の渋沢宗助家で開塾(「本材精舎」)していたという。惇忠はこの時菊池菊城に贄を執ったのだろう。菊池菊城はその後もこの地を訪れ、栄一も直接教えを受けたことがあったというから、長七郎も菊城に教えを受けたことだろう。

 

渋沢栄一はまた長七郎の兄惇忠について、「(惇忠は)私の師匠で且つ義兄である。私の一身上には非常に重大な関係がある云々」とか、「尾高の家は、自分の宅から七八町の東であった。それからは毎朝尾高の家へ通学して一時間半から乃至二時間位づゝ」惇忠から教えを受けた、と語り残している(『龍門雑誌』)。長七郎や渋沢喜作たちも栄一と共に惇忠の教えを受けた学友であった。さらに、惇忠は栄一の「義兄である」とあるように、栄一の妻(ちよ)は惇忠や長七郎の妹であり、長七郎にとって渋沢栄一は義理の弟でもあったのである。

 

長七郎の2人の姉のうち、上の姉(みち)は長七郎の剣術の師でもあった大川平兵衛(後に川越藩神道無念流剣術師範役)の嫡男修三に嫁している。長七郎の弟は平九郎(諱は昌忠)といい、長七郎より11(弘化4年生)の年少であった。学問は長兄惇忠に、また、剣術は従兄(母の兄の子)の渋沢新三郎(宗助・大川平兵衛門人)に学び、後に江戸に出て兄長七郎と同じ心形刀流の伊庭道場に通ったという。平九郎は慶応2(1866)11月、渋沢栄一が民部大輔徳川昭武に従って渡仏する際には栄一の見立養子となり、同4年の彰義隊の結成に際しては兄惇忠や渋沢喜作らとこれに参加した。後に彰義隊が分裂すると、兄淳忠や渋沢喜作らと振武軍を結成して武州飯能の能仁寺に拠って西軍と戦ったが、多勢に無勢で戦いに敗れ、敗走中武州黒山村(埼玉県越生町)で官軍包囲の中屠腹している。享年22歳であった。

 

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長七郎については、兄惇忠の記した「省斎文稿記」に「自幼好文余力読書試剣」とある。物心ついた後は兄惇忠に学び、傍ら従兄渋沢新三郎(大川平兵衛門人)に就いて神道無念流剣法を修業した。長七郎は学問もできたが、剣術には非凡の才があって、師の新三郎も「弥三郎は別物だ」と、その太刀筋の良さを称賛ていたという。塚原蓼州の『藍香翁』にも、「(長七郎の)人と為りや魁偉、面冠玉の如し。膂力無双、最も撃剣に長じて、其の成童たるや既に抜群の手腕あり、且つ文学を嗜みて、造詣浅からず」とある。また、渋沢栄一も、「長七郎は撃剣は飛び抜けて強かった。力に於ては私もひけを取らなかったが、竹刀を持ってはまるで子供扱いされた」(『雨夜譚会談話筆記』)とか、「(長七郎は)大兵の上に腕力もあり、且つ撃剣に於ては非凡の妙を得た人であった」(『夜雨譚』)、と語っている。

 

長七郎が剣術家になった経緯は、師の渋沢新三郎から、江戸の諸家の流派を学んで剣の奧儀を極めるよう奨められたこともあったが、当時の尾高家が余り豊かではなかったこともあって、「私(栄一)の父も奨め、藍香先生も賛成して、撃剣家にするがよいと云うこと」で、「百姓の子であるのに、武士のようにそだてられ」たという(『龍門雑誌』第482号中の栄一の談話)。もっとも、長七郎自身が剣術が好きだったらしく、渋沢栄一が勉学のために尾高家へ通っていた子どもの頃、決まって竹刀を手にした長七郎が門前で栄一たちの来るのを待っていたという(『夜雨譚』)。また、栄一は先の『龍門雑誌』の懐旧談で、子どもの頃「東寧とは共にいたずらをして、よく伯母さん(長七郎の母)に叱られたりした」、と長七郎との思い出を語っている。

 

嘉永4年に、16歳の長七郎が1年間の剣術の試合相手を記した(一部と思われる)「剣法試数録」(渋澤栄一傳記資料』)が残されていて、長七郎の剣術への執心ぶりが窺える。この「剣法試数録」によると、長七郎は4月には15日間、5月と10月に1日づつ、11月は4日間、12月は5日間、と出稽古に来た大川平兵衛と試合稽古をし、また、後に長七郎の姉みちの夫となる平兵衛の子大川周造(修三)3月に2日試合稽古をしたことが記されている。なおまた、815日に小谷野元之助という人物と試合をしているが、これは大川平兵衛の門人小谷野元三郎のことではないかと推測される。元三郎は入間郡勝呂村(埼玉県坂戸市)の人で、後に同心株を買って武士(笠井伊蔵と名乗る)となり、講武所の剣術世話心得となったが、文久元年(1861)清河八郎らの虎尾の会事件に関係して獄死した。長七郎を清河八郎に紹介したのはこの小谷野元三郎であることは後にふれる。

 

安政元年(1854)の春、長七郎は江戸に上り、海保漁村(元備)下谷練塀小路の塾で儒学を、また同所和泉橋の伊庭道場に心形刀流剣法を学んだ。長七郎が師とした海保漁村は上総国武射郡北清水村(千葉県横芝町)の人で、太田金城に学び、安政4年に処士で初めて幕府の医学館教授となった人である。また、長七郎が剣法を学んだ伊庭道場の当時の当主は、伊庭家9代軍兵衛秀俊(8代軍兵衛秀業の養子)で、安政3年の講武所開設当初から剣術教授方を勤め、後に師範役から奥詰、遊撃隊頭取となった人である。8代秀業の次男が「伊庭の小天狗」と呼ばれた伊庭八郎秀頴で、安政元年にはまだ11歳の少年であった。萩野勝正著『尾高惇忠』によれば、長七郎のこの時の修行は3年に及んだという。

 

長七郎が江戸から戻って間もなくのことだったのだろうか。安政36月、長七郎は「省斎文稿」と題する詩文集を作成している(渋澤栄一伝記資料』)。そこには兄惇忠と渋澤栄一の序文があり、栄一の序には「友人省斎君、才富学博」とあるので、栄一も長七郎の才識と学識の広さを認めていたのである。また、同年11月に兄惇忠と栄一が作成した「金洞紀行」には、長七郎の序文が記されている。この頃長七郎は兄や栄一、喜作たちと、盛んに詩文を作るなどして互いに切磋琢磨していたのである。

 

『雨夜譚談話筆記』の中で渋沢栄一は、「尾高長七郎と一緒に武者修行とまでは行かないが、上州を廻ったこともある。出掛けるのは家業の合間を見て、大抵春、秋、冬の三遍位で、少なくも十日間掛かった。その外には、誰々が来たと云っては寄り寄りに試合することがあった」と述懐している。長七郎は剣技を磨くため、上州や野州等の剣術家を訪ね歩いていたのだろう。ちなみに、栄一の「青淵詩存」に「送尾高東寧於信州」と題す二首の詩が収められている(渋澤栄一傳記資料』)。また、いつのことかは不明だが、長七郎が武者修行に出るに際して兄惇忠が送った送別の詩(原漢文)「家弟東寧の両毛に遊ぶを贈る」がある。長くなるが『新藍香翁』から引用させていただく。

 

「丈夫菽()麦を弁ずるの知れば、あに英志の遠離を軽んずることなからんや、宜なり家弟の書剣を負うことを、一朝果して脱頴の錐を見ん、離筵図らず壮烈を生ずるを、盃を勧めて慇懃にするに重ねて辞を以てす、丈夫の漫遊は偶爾にあらず、努力躬を以て明時に奉ぜんとす、文を李唐に学ぶ吉備氏、武を鞍馬に講す源中児、大江政を評す鎌倉府、加藤王を虜にす高句麗、千古歴々皆斯くの如し、丈夫の心事それここにあり、ああ古より丈夫憾むところあり、忠孝如何せん公と私と、今吾と爾と内外にあり、丈夫の心事羈るところなし、親を顕し名を揚るは爾が職とするところ、用を節し養を奉ずるは吾これをなさん、行けや勉めや文また武、此の行三旬幾ど奔馳せよ、名士と討論せば得る所あるべし、吾もまた目を刮して帰期を待たん」

 

兄惇忠は母や祖父母と家を守らねばならなかったため、弟の長七郎に文武に励んで家名を挙げることを期待したのである。その兄惇忠の期待を裏切ることなく、長七郎は剣では178歳で神道無念流の中印可を、223歳の頃には免許皆伝を伝授され、北関東屈指の使い手といわれるほどになっていたという。なお、渋沢栄一の四男渋沢秀雄の著『澁澤栄一』のなかに、父の栄一から聞いたらしい長七郎の剣技に関する次のような逸話が載っている。

 

「長七郎は父と立合うとき、よく面をかぶった自分の頭上に右手でシナイを水平に乗せ、それをクルリと回転させて手を放す。父がそのスキをねらって打ち込むと、彼は一瞬早く回転してきたシナイのツカを握って、片手上段にピシリと面へきたそうである」

 

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長七郎が江戸から郷里に戻って以後、安政6年までの間のことと思われるが、『藍香翁』の中に長七郎と兄惇忠が手計村を訪れた玄武館千葉道場の真田範之助や村上右衛門助と立ち合った話が記されている。著者の塚原渋柿園がどの様な資料を典拠にしたのか、『雨夜譚』を始め渋沢栄一の懐旧談の中にこの話は一切認められない。なお、真田範之助(この人物については後日別稿で記す予定)は初め天然理心流を学んで安政元年に中極意を授けられ、翌年から北辰一刀流千葉道場に入門して修行し、後に師範代を勤めた人である。後年栄一らの挙兵計画に参加している。もう一人の村上右衛門助と称する人物は、清河八郎の記した(安政45年頃)玄武館出席大概」の「御旗本方」に村上左馬之介とある人ではないかと思われる。もし村上右衛門助と村上左馬介が同一人物であるなら、勝海舟の日記の慶応4826日条に、「練馬松月院に村上左馬之介寄合い、鈴木弾正等五百名程屯集、官軍御殺戮の挙あらむとす云々」等とあるので、血気盛んな人だったらしい。

 

『藍香翁』に試合の詳細が微に入り細に入り記されているが、それによると、まず兄惇忠と真田が立ち合った結果は引き分けであった。2人の試合は20余合に及んだが、相手が強いと読んだ真田が相打ちを覚悟で闘ったためであるとある。次に長七郎と村上(真田より剣技は上で、柔術も得意とある)の試合では、剣術で敗北した村上は竹刀を投げ打って長七郎に組付いたが、難なく長七郎に抑え込まれてしまったという。その後、さらに長七郎と真田が闘ったが、長七郎の方が格段に強く、ほとんど試合というまでに至らなかったと記されている。その後、江戸に戻った真田と村上の2人は、「関八州を巡ったが、上州安中の根岸中蔵と手計の尾高兄弟は別物だ」と吹聴し、この日以後真田は惇忠と長七郎に兄事し、たびたび手計村を訪れるようになったと記されている。

 

『真田範之助』の作品のある長谷川伸は、その随筆「石瓦混肴」(長谷川伸全集』第12)の中で、知ったところによると真田範之助は「人物技倆ともに非凡だとしか思えない。ところが『藍香翁』という尾高新五郎惇忠の伝記を見ると、真田範之助はひどく書かれている」とし、「この件り(真田と長七郎の試合)は故塚原渋柿園翁が非真田側の談話を執筆したのだから、渋柿園翁の知ったことではあるまいが」と、ことの真偽を問う以前の記事であるかのごとく突き放している。なお、長谷川伸はこの随筆の中で、「翁の弟長七郎は有為の材にして夭折した人である」、とも記している。

 

ちなみに、真田範之助は文久2年千葉栄次郎の没後、千葉道三郎の代に玄武館道場の師範代を勤めたという。そして、その2年前の万延元年秋には、江川主殿輔と共に関東諸国22616人の剣客の名と流派、それに在村地を網羅した『武術英名録』を上木している。真田自身が凡ての人と立ち合ったのかどうか不明だが、真田は各地の道場を遍歴したらしいから、『藍香翁』の記述内容はともかく、手計村の尾高兄弟とも立ち合った事実はあったのかも知れない。『武術英名録』には、神道無念流の尾高新五郎と同長七郎、また上州安中藩の三神荒木流根岸忠蔵の名も記されている。

 

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渋沢栄一の『雨夜譚』に、長七郎の上府後7年を経た文久元年春、渋沢栄一が海保漁村の塾に入った際、長七郎は「海保という儒者の塾に居て、ソウシテ剣術遣いの所へ通って居た」(『雨夜譚』)とあるので、長七郎は相変わらず内弟子として海保塾に在籍し、そこから伊庭道場(と思われる)に通って稽古に励んでいたかのごとくにとれる。しかし、前述の塚原渋柿園著『藍香翁』や荻野勝正著『尾高惇忠』の記述に間違いなければ、長七郎は一度郷里に戻った後、再び江戸に上って文武の修業に励むこことなったのだろう。なお、渋澤栄一が海保漁村の塾に入った当時、長七郎は海保塾の塾頭をしていて、「海保の塾へ来いと東寧から手紙で勧めて来たので」、栄一は惇忠と相談して江戸に出たのだという(『龍門雑誌』第482)

 

長七郎の2度目の出府は、文武の修行以外に別の目的もあったらしい。『藍香翁』によると、家業や家族を守る必要から身を以て国事に関われなかった兄惇忠に代わり、長七郎は「翁の内命を承けて江戸に出で、一面には当時の有為の士と交遊し、一面には幕府が施政の形情を視察するの任に」当たったという。兄惇忠がその時長七郎に贈ったのだろうか、「賦示家弟東寧」と題する七言絶句がある。

 

生気堂々感聖神 丈夫心事見天真 何図挫夷尊王計 却及吾人処士身

 

長七郎は剣術以外にも、槍術の稽古にも励んでいたらしく、上州境町の尊攘の志士村上俊平(号清節)が江戸から郷里の兄村上秋水(医師)に宛てた書簡(119日付け)に、「手墓()村の尾高長七郎抔は、此節又鎗術抔盛ニ相始メ候由」と記されている。槍術の師の誰であるかは定かでない。なお、この村上俊平は、長崎でシーボルトに学んだ蘭方医村上随憲の次男である。随憲は慷慨憂国の人で、その私塾症病余暇廣楼からは大館謙三郎、黒田桃民、金井之恭、桃井八郎・宣三兄弟(桃井儀八子)ら多くの尊攘の志士たちが輩出している。その父の薫陶を受けた俊平も、桜山五郎等の変名で尊攘活動に奔走し、元治元年の禁門の変の際に京都の六角の獄舎内で平野國臣らと共に処刑されている。俊平は安政4年正月に安井息軒に学ぶために江戸に出ているが、この書中に「小生杯ももはや廿二載を益し候」とあるので、安政6(俊平は天保9年の生まれ)の正月に兄に宛てた書簡であることが明らかである。

 

渋澤栄一が海保塾に入ったその年の上旬ごろ、長七郎はそこを退塾して郷里に戻ったらしい。この年の7月、出羽庄内清川村郷士清河八郎が手計村に長七郎を訪ねたことが清河の『潜中始末』に記されている。清河八郎はこれより以前に横浜異人街の焼き討ちを画策し、この年5月中旬以後幕吏に追われる身となっていたのである。清河は712日に潜伏していた越後の松之山温泉を発し、「高崎城下を過ぎ、武州地に入り、兼て笠井の取立なる、我家にも時々来りし」長七郎を訪ねて、江戸の様子を尋ねようとしたのであった。清河は同行していた安積五郎(武貞)に尾高家の様子を探らせると、長七郎は「寄居(埼玉県寄居町)と云ふ、五里ばかり側に、修業に出でらると云ふ故」、寄居へ行くと、長七郎は寄居から更に二里ばかり離れた田舎にいて、清河たちはそこで漸く長七郎に会うことができたという。その後の顛末は、「潜中始末」に次のように記されている。

 

「彼(長七郎)も深切に然らば明日此処を去りて、本庄町(埼玉県本庄市)に到る故、八幡町(埼玉県児玉町)にて待ち給へと云ふ故、二里ばかりにて八幡に泊る、翌日長七郎来り、色々様子を伺ふに、我等亡命の廿八日に当り、水戸浪人十七八人とか、東禅寺に打込みしを、清川の浪人を語らひ、水戸浪人と共に打込みしとて、専らの評判なり。()、兄を浪人の頭取と云ひて、幕府にても殊の外探索甚しく、今よりして出府するは水火に入る如し、今両三年近づくべからず、身こそ大事なれ、早々西走し給えとて、東行を止めらる。然らば西行すべしとて、よきにいたり、本庄にて相別る」

 

この「潜中始末」に記される、清川八郎に長七郎を引き合わせた「笠井」とは武州入間郡勝呂村(埼玉県坂戸市)の人で、元の名を小谷野元三郎といった。長七郎の記した「剣法試数録」に小谷野元之助とあった人ではないかと推定した人である。笠井伊蔵は大川平兵衛神道無念流を学び、後に清河八郎道場の内弟子(居候か)となったが、剣の腕を認められて講武所の剣術世話心得に出役していた。しかし、清河の先の事件に関係して当時は獄中に在った。この年の1015(16日とも)に獄死している。享年は35歳であった。

 

清河八郎たちが手計村の長七郎を訪ねた事実は幕吏に探知され、兄惇忠たちも事情聴取を受けたらしい。『渋澤栄一傳記資料』に、その内容からその年の7月以降のものと思われる、差出人も宛名人も不明の書簡が収載されている。その書中に、「武州本庄在血洗島渋澤栄一郎、同親族近村尾高新五郎と申者とも岡部侯料()民、文武を心懸、慷慨甚敷、既に彼清川氏留置、公辺御調に相成、深く迷惑之咄抔御座候云々」とある。長七郎が嫌疑の対象となったことは勿論と思われるが、清河八郎の来訪は尾高家に大きな波紋を残したらしい。

 

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清河八郎が長七郎を訪ねた翌月、村上俊平の兄である上州境町の医師村上秋水の日記に、11日「尾高長七郎来り時事を談ず」、24日「尾高長七郎来り、藤森大雅(天山)を出し示す」と記されている(篠木弘明編著『蘭方医村上随憲』)。長七郎はこれ以前から、この地方の剣術家や尊攘の志士たちと交流し、しばしば村上家にも足を運んでいたらしい。これは、この地が手計村から近かったこともあるが、那波郡国領村(群馬県伊勢崎市)の福田彦四郎家が長七郎の母の妹(こま)の嫁ぎ先であり、その子治助(後に彦四郎)は長七郎と国事に奔走する仲であった。また、母の末の妹(きい)が新田郡成塚村(群馬県太田市)の須永家に嫁いでいたことも、長七郎が上毛の地に足繫く通っていた一因であったろう。ちなみに、須永家に嫁いだ叔母の子虎之輔(莵之助・後伝蔵)は、幕臣(陸軍調役並勤方)となり伴門五郎らと彰義隊を結成した人である。

 

長七郎が村上秋水を訪ねた翌々月(10)清河八郎が再び手計村に長七郎を訪ねている。「潜中始末」によると、清河は京都で再挙を図るため、安積五郎、伊牟田尚平と共に109日に仙台を発ち、福島、太田原、鹿沼を経て上州太田宿から利根川を越えて、この日(日不明)手計村に至ったのである。清河たちの目的は、長七郎に「東都の風形をも承りて、且路用」を乞うためであった。しかし、長七郎は「折悪しく留守」であったため、清河たちは失意のうちに寄居から三峰山を越えて甲府に至り、11月初旬に京都に至っている。

 

清河八郎一行が手計村の尾高家を訪れた年の10月、長七郎は長州藩家老毛利筑前の元家臣多賀谷勇(誠光)と共に、輪王寺宮公現親王を奉じた日光山(または筑波山)での挙兵を画策している。長七郎と多賀谷は、水戸藩有志たちの協力を得るため、10月中旬に原市之進を訪ね、その後さらに下野真岡の小山春山(鼎吉)に計画への参加を求めていた。この間のことが水戸藩住谷寅之助(信順)の日記(東京大学史料編纂所所蔵)1022日の条に、「竹下(下野隼次郎)より」として次のように記されている。

 

「此間ハ武州安部ノ家来尾高源蔵(長七郎)ト可申もの多賀谷同行原(原市之進)へ被訪候よし。剣ニ長し、文学も有之頗る慷慨有為ノ談御座候よし、御下向前切迫ノ容子ニ相見申候よし、依而野州へ差向候との事御座候」

 

原市之進と長七郎らとの会見に下野隼次郎も同席したのだろうか、原の意見か下野の見解かは不明だが、長七郎を「剣に長し、文学も有之」と高く評価している。また、「頗る慷慨有為ノ談」とあるから、長七郎たちの挙兵計画にも水戸側は賛同したらしい。なお、「御下向前切迫ノ様子」とあるので、挙兵の目的の一つは皇女和宮の降嫁を阻止することにあったことが明らかである。これは、激化する尊王攘夷運動への対応策として、孝明天皇の妹和宮を将軍家茂に嫁がせ、難局を乗り切ろうとした幕府が、朝廷に執拗に要請した結果、前年降嫁が決定していた。しかし、尊攘派の志士たちは挙ってこの公武合体策に反対していたのである。長七郎や多賀谷もこの実現を阻止しようとしていたのだ。

 

原市之進が、長七郎と多賀谷を「野州へ差向」けたとあり、2人は市之進から下野真岡の医師小山春山(朝弘)と相談するよう指示されたらしい。小山春山は2人の計画に賛意を示し、同道して宇都宮の菊池教中(佐野屋幸兵衛・豪農)を訪れて計画を打ち明けた結果、教中もこれに賛同して、2人を直ちに江戸の義兄大橋訥庵の元へ向かわせたのであった。訥庵も既にこの前月初旬に「政権恢復秘策」を起草し、これを門人椋木八太郎(元津和野藩士・変名南八郎)に持たせて上洛させていた。朝廷から攘夷の勅命を下すよう運動し、併せて和宮降嫁を阻むためであった。しかし、当時の京都は公武合体の気運に包まれていて、これが受け入れられる情勢にないことが訥庵の元にも伝わってきていた。長七郎と多賀谷が小梅の誠思塾を訪れたのは、そうした中の1021日夜であった。

 

長七郎らの話を聞いた訥庵は、その策を危ぶみながらも、2人に30人の同志を集めるよう指示したのである。当初は多賀谷が同志の糾合に当たり、長七郎は輪王寺宮奪還の準備に従事したらしいが、両者共に事の進捗は果々しくなかった。訥庵は1028日付けで菊池教中に宛てた書中で、「尾高ハ当地ニ残リ候而、奪却之手続請合候様子之処一向手段も出来不申空敷数日暮し候様子故、其様なる粗鹵之手段ニては迚も事は成申間敷と多賀生へ昨夜ゟ段々小言申し云々」とか、「元来両生之力ニハ余候処大山故成功如何参リ可申哉無覚束様ニ存候」、と伝えたと記している。そうしたことから、訥庵や菊池教中は、長七郎や多賀谷と水戸側有志との協議内容にも疑念をもち、小山春山を水戸へ送って事実を確かめさせていた。住谷寅之助の日記の1027日条に次のように記されている。

 

「宮(宇都宮)より小山鼎吉原任へ来る。多賀谷勇、尾高源蔵(長七郎)来り、宮様奪取、一方へ立籠り候策を佐野屋へ水戸の論なり迚説付、金子百両掠取候より、久世安藤二閣を討籠抔申聞候所、疑敷存、小山鼎吉を以て態々聞に来る也」

 

これによれば、長七郎と多賀谷は、輪王寺宮擁立策は水戸側の策であり、老中久世大和守と安藤対馬守の斬奸もその策中にあると菊池教中や訥庵を欺瞞していたのである。なお、訥庵は先の教中宛て書簡の中で、「拙生も強てタフカの説(閣老斬奸)を弁破致候事にも参り不申、何れ之説ニ而も慥ニ出来候方を致すが宜しと申置候」と記し、宮様奪取計画以外にも閣老の暗殺計画も同時に画策していたのである。そうした中の同月晦日、長七郎の兄惇忠が小梅の誠思塾を訪れて大橋訥庵と会見したことが、その翌日の訥庵の教中宛て書中に次のように記されている。

 

「昨日は尾高之兄新五郎と申者出府致来候故段々談候処、長七郎ゟは沈著致居候而少々略も有之頼敷人物ニ御座候、乍去当時一家之主人にて祖父母と老母なと有之、長七郎とは違候故、只今即刻駆付候人数ニハ加リ兼候趣申候、それも尤之事故跡幕之処を申聞候而今朝発足帰郷仕候」

 

惇忠は誠思塾に一泊したらしいが、訪問の意図がどこにあったのかは定かでない。なお、渋沢栄一の『雨夜譚』に「此挙(坂下門事件)は東寧も加はる筈になって居たが、私達は彼に犬死をさせ度くなかったから我々で切に止めた」とか、「尾高藍香が大橋訥庵に引合って、吾々の仲間が不同意だからと主張して、結局東寧は其一味を脱した」と記されている。しかし、上記手紙文からは、惇忠が訥庵に長七郎の脱退を要請した形跡はない。そもそも、この『雨夜譚』の話は翌年早々に生じた老中安藤対馬守暗殺計画(坂下門外の変)への長七郎の参加のことらしいが、長七郎がこの事件に関与した事実を示す資料はなく、惇忠が再度大橋訥庵を訪ねた形跡はない。なお、先の住谷寅之助の日記にも、大橋訥庵の菊池教中宛て書中にも長七郎について尾高源蔵と記されているので、この当時長七郎は変名を使っていたのかもしれない。

 

長七郎が安藤閣老襲撃に加わる予定だったとする話は、おそらく栄一の記憶の混乱だと思われる。しかし、何より不可解なのは、『雨夜譚』等栄一の懐旧談には、長七郎が主体的に策動し、同志の糾合に四苦八苦していた輪王寺宮擁立策については一切触れられていないこと、また栄一たちが関わった形跡もないことである。この春、栄一が江戸の海保塾に入り千葉道場に通ったのも、「只天下の有志と交際して、才能芸術のあるものを己の味方に引き入れようという考えで、早く云ってみれば、かの由井正雪の謀反を起す時に能く似て居た」(『雨夜譚』)、ということだったにも拘わらずである。

 

※以下は次回25(2)に続きます。