29の(4) 羽倉鋼三郎とその周辺

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輪王寺宮一行は618日仙台へ向かうために会津を発ち、20日米沢城下に入った。この日の「雲井日記」に、「(前略)大塩ニ達スル頃、翠華ニ逢ヒ奉リ、之ニ扈して帰る」とあり、その前日には「未半又会ニ赴ク云々」とあるから、雲井は前日米沢を発って途中で輪王寺宮一行を出迎えたのである。21日の日記に「羽兄来藩」とあるので、鋼三郎は宮一行には同行していなかったのである。翌22日には「羽兄、東町泉州屋ヨリ我ヲ招ク、行カズ」とある。前日の21日には「告病在宅」とか「軍政府、公事廨ヨリ招ケドモ応ゼズ」とあり、この前日にも、軍政府に招かれたが応じなかった、と記されている。雲井はこれより先、会津から戻った翌日の同月8日に米沢を発って北越に赴き、奥羽越同盟軍米沢藩総督千坂太郎左衛門(高雅)やその参謀甘糟備後(継成)に会い、「二毛行御評判」の了承を得ていたのである。この時、雲井が薩長離間のために檄文中の白眉とされる「討薩檄」を書き、安井塾の同門時山直八(長州騎兵隊軍監)に送ったことはよく知られている。

 

なお、「二毛行御評判」とは、上州野州の諸藩を連合して賊(官軍)背を衝く兵を募り、遊撃戦を敢行して日光を回復の後に江戸を攻めるというものであった。しかし、藩庁はこれを危ぶんで躊躇し、差し止められたため雲井は家に閉じ籠もっていたらしい。或いは、鋼三郎の柴橋代官所領内での農兵募集の提案はこの「二毛行評判」の一環だったのかも知れない。とすれば、この策は輪王寺宮や義観たちも承知していたことだったことになるが。

 

「雲井日記」624日条に、「羽兄ニ接ス。片桐(忠静・御留守居)、木滑翁(要人・御仲間詰)等ト議ス、公事廨ニ上ル」とあり、翌25日条に「片桐翁ト共ニ、東町神明ニテ羽兄ニ接ス」、さらに翌26日にも「羽兄ニ接ス」、と記されている。そしてその翌日には、「昧爽、羽兄ト同発、会ニ赴ク、義平(鈴木義平)従フ」とある。雲井は、藩庁から「二毛行評判」を藩には直接関係のない、雲井の独断行動として暗黙の了解を得た上、鋼三郎と共に会津に向かったのである。会津藩に「二毛行評判」のための援兵を得るためだったらしい。米沢を出立するに際して雲井は、実姉への手紙に、「(前略)とんと今日出立仕り、一トまづあいずより、それよりゆわき(岩城)により、そのさきは、きりぬけられしだいに、上しう信しうの方までも参り申すべく候、久しくこんいに仕り居り候おはた本にて羽くら鋼三郎と申す人と同道に御座候、けっしてけっしてあやうき事は御座なく、いづれ八月頃には目出度くかえり来り云々」と書き送っている。なお、輪王寺宮一行も同じ27日に鋼三郎たちに送られ、仙台へ向けて米沢を出立していた。

 

28会津若松に入った鋼三郎と雲井は、藩主松平容保に援兵を願い出たが、会津城下に官軍の迫る緊迫した情勢下で、この願いは叶わなかった。「雲井日記」翌78日の条に、「林公(忠宗)并遊撃全軍中村城ニ赴ク、我亦然り、申前中村ニ投ズ、(中略)人見兄(勝太郎)来ル」とあり、12日条には「未半会ニ達ス、羽・原(直鉄)・飯・和(和田某)諸君ト会ス」とある。会津藩の援兵を得られなかった雲井は、相馬中村に滞陣する遊撃隊に協力を得るために赴いたのである。この雲井の日記では、鋼三郎は会津に残って雲井1人が中村に出かけたように受け取れる。しかし、人見勝太郎が明治363月の史談会で次のように語っている(『史談会速記録』)。この話に間違いなければ、相馬中村へは鋼三郎も同行していたのである。

 

「相馬城下に滞在中、雲井龍雄と云う米沢の藩士、これは函根で始めて面会して盟約した男である。それに羽倉鋼三郎これは旧幕の羽倉外記の孫で、私の友人でござりました。此の両人が参りまして、丁度林君其席にござりましたが、一夜を徹して別盃を傾けました。雲井、羽倉の申すには、これから烏山を越して上州の前橋に出て、(中略)之を説いて賊軍の背後に是非義兵を挙げさす積りである。前橋を説きて彼れが兵を挙げれば関東の諸侯は皆な応ずる。我輩は兵事には暗いが、舌を以て蘇泰張儀を学ぶ積りであるということで、詩などを作りて私に送りまして、翌日両人ながら立って参りました云々」

 

この時、人見勝太郎たち遊撃隊は既に蝦夷地に赴く方針が決まっていたため、2人の要請には応じなかったのである。その後、会津に戻った失意の鋼三郎たちは、城下やその近郊での募兵に奔走している。15日の「雲井日記」には「募兵ノ事アリ」とあり、翌16日には「雨、未明我塩川ニ赴キ、羽兄天寧(会津若松市天寧寺町)ニ赴ク、原、和(和田某)二兄、昨夜ヨリ天寧ニ在リ、是亦募兵ノ為めなり。未刻塩川ヨリ若松ニ帰ル」とある。2人は手分けして募兵に当たったのである。しかし、この月13日には磐城平城、翌日には出羽新庄城が落城し、15日には弘前藩奥羽越列藩同盟を脱盟するという情勢の中での募兵は一向に成果がなかった。ここに至って、会津での募兵を断念した鋼三郎たちは17会津若松を出立した。同日の「雲井日記」に「(前略)羽・原二兄ト同ク野州口ニ赴く、発時申牌也。(中略)義平従フ」とある。

 

鋼三郎と雲井に同行した原直鉄は、16歳で松平容保の側役に抜擢された会津藩士である。これより以前、藩主松平容が江戸から会津に帰還した後も原は江戸に留まり、脱兵を率いて各地を転戦し、この5月初旬に今市で大鳥圭介に兵を引き継いで会津に戻っていたのだ。当時18歳であった。鈴木義平については、雲井龍雄の妻の実家丸山家に伝わる雲井が藩庁に提出したとされる長文の手記草稿(『傅記』中「梟雄雲井龍雄傅新資料」・以下「雲井手記」という)に、「高津久村判頭喜蔵弟、義平、当辰三十四。右ハ当六月中旧幕臣羽倉鋼三郎御城下に来寓候節鋼三郎か相対の頼を以て小者と相成居候処鋼三郎拙者同道上州行の砌右義平召連致発足候。云々」とある。さらに文中で雲井は、この義平について「忠実義勇抜群の者」とか「難得人物に御座候間末頼母敷者」と絶賛している。

 

途中大雨や洪水に悩まされながら鋼三郎たちは、山王峠(会津野州の境界)の峻険を越えて24日に五十里(栃木県日光市)に到着した。そこで、日光・今市方面から敗走中の大鳥圭介の部隊に出会い、その後日光街道から道を転じて田島・檜枝岐・尾瀬沼・三平峠を経て812日上州小川村(群馬県片品村)に入った。「雲井日記」に見えるこの間の鋼三郎の姿を追ってみよう。87日条に「羽兄、高畑嶺(福島県南会津町)を越て檜枝岐(福島県檜枝岐村)に赴く、僕等留る」とある。同月4日一行は会津田島を発し翌5日は大桃(南会津町)に泊したが、大雨のためにそこに足止めされていたのである。翌日先行した鋼三郎を追って雲井たちが檜枝岐に到着した日には、「桜師、昨夜羽兄に先て、ここに投ず、共に信す」とある。「桜師」については729日条に「桜正師、日光ヨリ来ル云々」とあり、五十里に逗留中に一行に加わった日光山脱走の桜正坊隆邦である。羽倉敬尚の「利根片品殉難三烈士の事ども」(『上毛及上毛人』)によると。隆邦は栃木県上都賀郡栗野村の農民鈴木延吉の次男で、足利町龍造寺の僧として香樹林と号した人であり、龍造寺境内に隆邦の分骨塚があるという。また諸書に黄山寺桜正坊とあるが、殉難当時にそう偽称したらしく輪王寺門跡その他を調べたがそうした寺はなかったとある。河野正男「片品の三烈士の墓」によれば、桜正坊は天保13年生まれの26歳で、14歳で日光八十坊の一つ西谷の桜正坊に入って修行を積み、後に足尾の医王院龍蔵寺の僧となった人だという。

 

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「雲井日記」同月11日条に「羽兄、只見ニ赴ク、義平従ふ」とあり、雲井、原、桜正坊たちは翌12日檜枝岐を発って翌日小川村に入っている。鋼三郎がなぜ檜枝岐村からわざわざ只見(福島県只見町ヵ)に赴いたのかは定かでない。或いは募兵のためだったのかも知れない。雲井たちが小川村に到着した13日の「雲井日記」に、「未後戸倉関ニ入。夕陽、小川村に投じここに信ス。夜に入り前橋侯巡邏兵五六名来探」とある。先の旧前橋藩士大藤彬編輯「橋藩私史」の同日条に、「此前日、土出村の民来り報じて云、檜枝岐より士人体の者五名戸倉に向ひ来ると。軍記(杉原軍記・前橋藩狙撃隊長)の斥候を出し探らしむ云々」とある。当時、この戸倉(群馬県片品村会津藩)は既に官軍側に恭順していた前橋・沼田・小幡の3藩が警衛していて、杉原軍記がその総管であった

 

「橋藩私史」に「士人体の者五名」とあるが、『片品村史』には尾瀬峠を越えて戸倉の関所に来た一行は僧侶1人、従者1人を含む8人であった(他に6人説あり)とあり、一行の人数は一定しない。なお、当時鋼三郎と従僕義平は別行動中あった。一行の同志については「雲井手記」に、「日光脱走の桜正坊大忍坊前橋脱走シ(之ヵ)中川鏡二郎故幕府新徴組の近松清武内政之輔等召抱周旋為致候」とある。ここに「桜正坊」と共に記される「大忍坊」は、河野正男氏の「片品の三烈士の墓」によると、日光山西谷の桜正坊全応の徒弟として得度(桜正坊隆邦の弟弟子)して大忍坊全祐(温快)と名乗り、この前年に足尾の龍蔵寺第52世住職となった人だという。天保9年の生まれだというから、当時は31歳であったことになる。この大忍坊全祐は明治3年に、不平士族を糾合した政府転覆計画に加担したとして、首謀者の雲井龍雄らと共に斬刑に処されている。なお、この謀叛計画には原直鉄も加わっていて、共に斬首されている。

 

雲井龍雄の手記にある前橋藩脱藩の「中川鏡三郎」とは、屋代由平勝政の変名である。前橋藩御典医屋代流眠の4男で、「吾が藩は徳川の族家にして、且三百余年の恩義あり、一藩を挙て幕府を佐くるは素より其処なり」と同志数名と藩を脱して会津に赴き、羽倉や雲井に合流したという(『近世上毛偉人傅』)。しかし、この『近世上毛偉人傅』には、屋代由平が藩を脱したのは「明治元年八月十七日夜」とあり、事実と異なっている。「雲井日記」によれば、既記のとおり811日鋼三郎は義平を伴って只見に赴いているが、16日条には「雨、羽兄来ル。前橋ノ屋代鏡二郎、本庄ノ荒木生従ふ」とある。屋代の名が「雲井日記」に認められるのはこれが初見であり、当然屋代はこれ以前に脱藩していたのである。『近世上毛偉人傅』によれば、屋代由平は当時17歳であったという。なお、屋代は鋼三郎の従僕と名乗っているので、只見方面で同志に加わったものと思われる。

 

ちなみに、上記16日の「雲井日記」の屋代鏡二郎と本庄ノ荒木生のほか、11(鋼三郎が只見に赴いた日)の条には「土浦生(原註・近藤全九)、本庄生(原註・荒木兼作)来ル」とある。これらを総合すると、鋼三郎と雲井、原、義平以外でこの挙に加わった人たちは桜正坊、大忍坊、屋代鏡二郎、近松清、竹内政之輔、荒木兼作、近藤全九で、合わせて11人となる。後述する「雲井日記」と「橋藩私史」の818日条の記述によると、鋼三郎殉難当時の一行は合わせて9(新たに木村という人物が加わっている)とあって、上記11人の中の犬忍坊、近藤、竹内の名が認められない。3人は後日雲井と行動を共にしているので、事件当時は他出中だったらしい。以上のことから、鋼三郎や雲井と行動を共にした人物は2人を合わせて12人であったことになる。なお、荒木・近藤・木村については、いずれも人物像を明らかにできていない。

 

話を雲井龍雄たちの動向に戻すと、一行が小川村を出立した14日の「雲井日記」中に、「将ニ小川ヲ発セントスル時、前橋藩士三橋台作、西野彦六来議。巳牌小川ヲ発ス。途上前橋観察松本担兵衛来議。午牌須賀川ニ投ジ、こゝに信するノ決あり。沼田ノ桜井主膳、加藤恰来接」とある。この日の「橋藩私史」には、「彼已に須賀川村に来り途上に遇う。斥候之を民舎に止め其の来意を糺すに、彼の士等は雲井龍雄小松茂(原直鉄変名)、僧黄山寺と従僕二人にして、彼日く、歎訴の事あり、沼田及び前橋に出て、時宜に依りては太政官にも出訴せんの心計なり、願くは貴藩隊長に面陳を許されたしと。之を民舎に檻守して云々」とある。以後、雲井たちは須賀川(片品村須賀川)本陣星野家に足止めされ、3藩の兵士たちの厳重な監視下に置かれることになったのである。

 

「橋藩私史」15日条に、「三藩の士相共に雲井等の舎に至り、戸倉戦争(521会津軍が三平峠を越えて戸倉の官軍前進基地を急襲した事件)後は士人の通行を禁ぜし旨を諭す。彼云、朝敵にあらざる者の通行を禁ずる理なし。何を以て之を留むと容易に承引すべき様なし」と。鋼三郎たちが合流した翌16日には、「龍雄の同伴赤羽甲一なる者、従者三人と共に又須賀川に来る」とある。赤羽甲一が鋼三郎の変名であることは前記した。この日以後、3藩の役人たちとの折衝に鋼三郎も加わったのである。しかし、その主たる交渉は弁の立つ雲井が主体であったらしい。「橋藩私史」にその主張が記されているので、以下に転載しておくこととする。

 

「十七日又応接の者を出して龍雄に説く。日、朝敵にあらずとも其疑はしき者は決して通行を許さず。龍雄云、官軍に敵するの意なく朝敵に非ざる者を拒む理に於て有る可からず。抑々今回官軍の所業たる境を犯し領地に侵入し暴行至らざる所なし。是却て賊の所業に類せり。土民に於て何ぞ服する者あらん。隣家に盗あり、出て救うは人の義務、奸賊境を犯す何ぞ救はざるを得ん。奥羽の諸藩朝敵となる止むを得ざる所なり。貴藩此奸悪を払ふに同意せる時は謹で命を待つ。若し官軍を援けて我藩を拒むに於ては兵力を以て圧倒するも通過せざる可らず。然る時は多くの人命を害ふ。敢て好む所にあらず。宜く君公に伝へて速に結答あらんことを欲すと。暴論益々募る」

 

この日の「雲井日記」には、「須賀川ニ在リ。前橋ノ松本并ニ山口主馬、沼田ノ加藤、小幡ノ津田来接。決答ヲ得ズ。軍監姉川栄蔵(原註・久留米人)伊香保ヨリ今日追貝着ノ先触ヲ見ル。護兵増員五十余ニ至ル」とある。当時、追貝(沼田市利根町追貝)には官軍の先鋒部隊(軍監代原と豊永が統率)が滞陣していた。そこに軍監姉川栄蔵が着陣したのだ(一説に姉川は沼田に在陣とも)。雲井たちの対応に手を焼いていた3藩の藩士は、軍監姉川栄蔵にその処置を仰いだところ、18日に「面談無用、速やかに討ち取るべし」との厳命が下ったのである。そしてこの818日が鋼三郎の人生の終焉の日となった。この日の「雲井日記」と「橋藩私史」をそのまま転載することとする。

 

(「雲井日記」)十八日、晴。須賀川ニ在リ。護兵増員。晩日、松本(擔兵衛・前橋藩監察)・津田(準之進・小幡藩)来リ軍監隊長ノ命ヲ伝フ。我、原ト共ニ辰沢(片品村立沢)ニ赴ク。前橋人先導ス。木村・近藤、荒木・義平従フ。将ニ辰沢ニ入ラントス。伏兵起リ小銃乱弾、義平ヲ失フ。遂ニ際傍ノ山中ニ逃レ、深山ニ入リ、以テ潜行、筑地ノ民熊吉先導。羽兄、桜師・義平・屋代等ノ存没ヲ知ル可ラズ云々」

 

(「橋藩私史」)十八日、巡察使より居民に害なき様誅戮して可なる達あり。軍記、部下の衆を聚め協議を尽くし、之ヲ野外に誘ひ誅せんと予め狙撃の地をめ標竿を植て之を待つ。使を遣し雄雄を招く。龍雄、赤羽等三人を舎に残し、茂等六人と共に導かれて来り。山腹を繞れば標竿あり、恐懼躊躇す。我兵遥かに之を見て彼□りて奔らんことを察し、俄に小銃を発す。距離遠くして中らず、龍雄狼狽山間密叢の中に入る、時黃昏樹蔭暗くして遂に踪蹟を失ふ、民舎に遺る三人(原註・赤羽、屋代、黄山)は我藩の兵と之を囲み、狙撃隊指図役松本垣兵衛、兵隊士好田彌織と共に先に進て障を開く、甲一既に之を□り刀を撃つ、帽堅くして余刃膝に当て倒る、彌織垣兵衛を援け之を斫り、続て黄山等を斃す、銃士野中慶太郎甲一の首を揚ぐ、屋後より向ふ小幡の兵は其の従者と戦ひ討って之を殺す、是に於て事を具に軍監に報じ、尚龍雄等の踪蹟を探るに遂に知るなし」

 

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片品村史』に、鋼三郎たちが投宿していた本陣の当主星野要造の子利氏が、父母から聞いたというこの事件についての話が載っている。それによると、17日に2人の沼田藩士が一行の宿泊先の本陣に来て、「明後十八日、追貝から軍監代両人が出張されることになったが、この本陣は軍監代の宿舎、ならびに会見場所になるから、客人たちは旅宿藤屋へ移って頂きたい。なお、その日は午後、立沢あたりまで軍監代を出迎えに出向かれたい」、との申し入れがあったという。「羽倉鋼三郎氏戦死に関する事蹟取調書」(『上毛及上毛人』収載・以下「事蹟調査書」という)によれば、これは、当時本陣星野家の周囲は土手で囲われていて、攻撃側の襲撃に支障があるために一般の旅館に宿替えをさせたのだという。そして、鋼三郎たちが沼田藩士の要請に従って近くの旅宿藤屋に宿替えをし、翌18日雲井たちが軍監一行を出迎えに出るのを見計らい、鋼三郎たち3人が留まる旅宿藤屋を前橋・小幡・沼田の藩士30(沼田市史』)が包囲したとある。

 

筆者は当初、鋼三郎たち3人が藤屋に残った理由について、一行全員を漏らすことなく討ち取るための襲撃側の謀略ではないかと考えていた。しかし、『片品村史』に、「羽倉は折悪しく全身に皮膚病が出来ていたので止まることになり、屋代も主人(鋼三郎)と共に残り、また桜正坊も僧侶のことで遠慮」したとある。また、「事蹟取調書」にも「羽倉外二名は持病の発り気味にて山路を辿り難ければ」、宿所に残ったと記されている。3人とも持病が出たというのも腑に落ちないが。なお、この「事蹟取調書」には、「橋藩私史」とは異なる鋼三郎たちの闘死時の様子が次のように記されている。

 

(3藩の兵士は)白昼追撃する能はず夜に入るを待ち、警備隊は沼田藩にも応援をなさしめて、羽倉氏等の旅館を囲ましめ、晩餐半に発銃して襲う。氏等憤激、襲の卑劣を怒り、屋代氏は直ちに勝手口に至り、庭中を窺ひ抜刀突出し、一隊長及数名を倒して戦死す。桜正坊は茶の間より表座敷を経て討て出て込入らんとする者数名を追立縁側の有無を弁ぜず、足踏み外して倒れんとするを多勢一時に討ち懸る。氏奮戦数名に手を負はしめしも遂に力尽き戦死せられたり」

 

屋代由平が「一隊長及数名を倒し云々」とある部分は誇張と思われるが、鋼三郎が襲撃者を斬った点については、この記述を裏付ける証言がある。それは、先述した鋼三郎の知人本多敏三郎()が山崎有信に寄せた書簡(彰義隊戦史』中)で、そこには以下のように記されている。「往る明治十七八年の頃、予が横浜正金銀行の役員として前橋なる第三十三国立銀行支店并に蠶絲改良会社を監査せし時同会社の副頭取松本源五郎が常に足部の瘤疾に悩むを見其の故を聞くに維新の際藩の隊長として越後口より会津に攻め入らんとするや幕府脱走の士羽倉鉱()三郎なる者来りて官軍に背き会津に同盟せよと説き勧めしも、我断じて之を拒絶せしかば忽ち抜刀して切り付けたるを部下のもの其の場に彼を斃したり、其の時受けしは足部の疵にして平癒の後も年々春秋に疼痛を感ずと云へり、嗚呼羽倉氏は余が知人なり云々」。ちなみに、『片品村誌』に載る東小川村の名主荒井伊右衛門の記した「種々記念録」に、襲撃側の負傷者は2人だったとある。

 

鋼三郎たち3人の首級は星野家の庭先で洗い清められ、直ちに追貝の官軍陣営に送られ、首実検の後に路上に3日間梟首されたという。その高札には、「二十日三名の首級を戸倉村外に梟す、其の文に此の者米沢藩と称し雲井龍雄小松茂と共に一同佐幕の腐説を唱へ、我が官軍上州の諸藩をして己れ賊類に誘致せんと欲し、恐嚇扇動頻りに官軍を罵る條、逆賊不容誅依之梟首申付云々」、と記されていた(「橋藩私史」)。なお、明治22年の憲法発布の際の大赦により、鋼三郎たちの賊名は雪がれている。また、高橋桂作「殉難烈士雲井龍雄論」(『上毛及上毛人』収載)によると、鋼三郎たちの首級は土出村の大圓寺境内に葬られたが、明治29年になって、村民によってその胴体が手厚く埋葬されていた臥龍院境内に移されたという。

 

鋼三郎たちの墓は現在も須賀川臥龍(廃寺)墓地(国道120号線を沼田から日光に向かう片品村の町並み手前1Km程沼田寄り左手)に、左側から鋼三郎、桜正坊、屋代由平と並んで立っている。鋼三郎の墓石は正面に「羽倉鋼三郎墓」と刻されている。羽倉敬尚「利根片品殉難三烈士の事ども」に、「最愛の一子の殉難も、程経て鶴梁の耳に入ったらしい。明治十年前橋の渥美嘉六といふ人の使、児玉某といふが上京して、鋼三郎殉難当時の模様を物語ったという事である。鋼三郎の今の墓石は、父鶴梁に依って建てられたという事である」、と記されている。もっとも、地元の人によると、墓石の下には遺骸はないと聞いているとのことであった。改葬されたのか否か、筆者は羽倉家の菩提寺である正泉寺については確認を怠っている。なお、河野正男「片品の三烈士の墓」に、明治29年「天下晴れての供養塔が子孫や関係者、地元篤志者により、遺骸が埋葬された辺りを卜して建てられた」とあるから、地元の人の話通りなのかも知れない。河野氏によると、鋼三郎の墓(供養塔)は「赤羽霊神様」(林鶴梁の子という余慶もあって)と尊称され、秋の彼岸には古老たちが大勢集まって供養が続けられたという。

 

なお、村民の発起で建てられた(昭和99月建立)3士の墓近くに立つ「三烈士之碑」の長文の撰文と書は羽倉敬尚で、その題額の染筆は徳川家達(徳川宗家第16代当主)である。また、「特別賛助」として公爵徳川慶光(徳川慶喜の孫)と伯爵松平直富(結城松平家15代当主)等の名がある他、碑文中に「今年、村民相謀リ碑ヲ墓側ニ建テ以テ三士ノ英霊ヲ弔シ其ノ気節ヲ表セムトセシニ事畏クモ北白川宮殿下ノ台聴ニ達シ賻ヲ賜ヒ資ヲ助ケ給ヘリ」と刻されている。言うまでもないが、「北白川宮」とは北白川宮能久親王、すなわち鋼三郎が一時期臣事したことのある輪王寺宮公現法親王のである。

 

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鋼三郎と別行動を取った雲井龍雄たち一行のその後だが、伏兵の存在にいち早く気づいた雲井たちはその銃撃から山中に逃れ、翌19日早暁小川温泉(片品村東小川)に達していた。もっとも1人義平は一行からはぐれて行方が知れなかった。雲井たちは小川村の村民の案内で三平峠を越えて20檜枝岐村に到り、戸倉に人を送って鋼三郎たちの安否を探らせた。しかし、その報告が得られないまま雲井たちは23日の午後檜枝岐を発ち、豪雨と泥濘、そして相次ぐ会津藩の敗報の至るなかを、25日に田島に達した。この日の「雲井日記」に、「儀平、生還ノ報あり」とあり、翌26日には「儀平、午前に達ス」とあって、行方の知れなかった義平が雲井たちに合流したのである。先の雲井の手記(添書草稿)に義平が雲井らとはぐれた後の様子と鋼三郎に対する義平の忠誠ぶりが詳しく記されている。鋼三郎が自らその人物を見込んで従僕とした人なので、以下にこれを引用しておくこととする。

 

(18)岩鼻付近の賊の伏兵突起して及砲発拙者(雲井)以下悉討死と決候節は則右義平も附属罷有候処須賀川下宿に残居候羽倉鋼三郎桜正坊中川鏡二郎等か身の上を深く案じ死地より奔馳須賀川駅へ駆付可申含みにて単身馳せ戻候処帰路の左右叢林中より又々伏兵十人許突出三四発狙撃に及び兎ても須賀川へ馳付兼路左の大河片品川激湍之中に飛込岸下水中に身を隠し候処間もなく日暮れに及び云々」。義平はその後そこを逃れ、摺淵村(片品村摺渕)豪農春吉の好意で暫く土蔵に潜伏し、この日雲井たち一行に合流できたのであった。なお、豪農春吉が義平を匿ってくれたのは、春吉から鋼三郎の死を聞いた義平が、「甚だ愁傷し故主の羽倉氏は遂に非命に死し候へども拙者(雲井)は尚ほ生還致候へば此上は是非拙者に身を托し不日再挙是非羽倉等が為め弔合戦仕候て拙者か宿望是非貫徹仕候様致度存念にて無理々々帰国の事を願出候」ところ、その話を聞いた春吉が感嘆し、衣服や路銀等まで与えて夜陰に紛れて戸倉村関門近くまで送ってくれたのだという。

 

その後雲井たちと米沢に戻った義平は、「羽倉等が横死を深く悲嘆し朝暮仏壇に香華仏供を奠し時々花岳院住持を招き回向為致又自ら仏壇に向ひ木魚を打ち念仏相唱へ罷在体傍観の者」も感涙するほどであった。雲井龍雄もこの誠忠無二の義平に感激して、「(義平の)気慨侠骨実に士たる者にも無左と難得人物に御座候間行末頼母敷者と奉存候」、と記している。

 

この義平が雲井たちに合流した826日の「雲井日記」には、さらに「倉谷、野村四郎ヲ得、是を携ふ」とある。雲井龍雄はこの野村四郎を、鋼三郎との生前の約束を果すために米沢に連れ帰ったのである。その理由と経緯が雲井が米沢藩士三浦某に宛てた書簡(『伝記』収載羽倉敬尚「梟雄雲井龍雄傅新資料」)に克明に記されている。これも非常に長文だが、雲井龍雄の亡友羽倉鋼三郎に対する誠意と、その非業の死に報いようとする衷心が示されているので、最後に多くの稿を割くこととする。なお、文中に、生前の鋼三郎が自分の死後に残される幼い我が子の将来を常々雲井龍雄に遺言していた事実が割註として記されているので、前後逆になるがまずその部分から転載することとする。

 

「羽倉氏は小子が旧交の人なり。脱走以来別而倚頼に預り平生感来の情話にも涕泣しつゝ申聞けには此生無国無家且無君亡国之亡命万一半途にして没せば誰か我心の深浅を了せん。死し且湮滅せば是禽獣に不殊。我に一男児ありと雖僅に一歳亦且其存歿を不可知。願はくは会米の中に一有為の児を求め之を養ひて養子と定め我れ若し死せば君に此子を託するにつき他年此子をして我遺志を為継呉れよと屢々申居り候へども小子毎度捧腹して垂死病翁如き不吉の話は僕之を聞くを欲せず抔と打消し居り候処先般上毛へ同行共に危難に遭ひ羽倉氏は遂に死し小子は生還せり。一は死し一は生き生きたる小子が心中に於ける実に悵然断腸せざる不能。遺托遺姓遺志とは此事を指すなり。其曲折は書不盡言」

 

(書簡本文・前略)小子先般上毛より帰藩の節御同府横山氏の遺孤鉄四郎君を会津南山倉谷駅より御介抱申上于今茅屋ニ而失敬申上居候儀は唯至幼の児を至危の巷に為彳候を看過するに不忍、夫故即時御介抱申上候事に御座候処追々御素情を拝聞仕候而心中独□仕候には此児万一野村氏と深き縁故も無之節は末々茅屋にて養成仕亡友羽倉鋼三郎か遺孤を全ふして他年其遺志をも為成度若し野村氏とは既に父子の約束も定り居り右の愚存も叶はぬ節はせめては野村氏の居処の不相分内にても茅屋にて養ひ置候処既に相分りし節速に護送可致いづれ此児が身事の曲折は誰ぞ至昵の親戚方と篤と相談仕り度且好便も有之節は横浜まで音信相通じ其実母実兄にも委曲引合せ申度存居候内南部君の妾とかの由にて偶会の婦人より鉄四郎君迎ひの者を差送られ候に付其事情承り候処此婦人は横山家に於ける全く引責る者にも無之唯偶会以来暫時粗世話致し候までの者の由且其の気底如何哉不可知又此末何れの地に漂白する哉も難測者らしく依て尚塾思するに(少休)

 

「万一此児の母兄とか又は至昵の親戚松本先生如き人より羽倉遺姓は難為継仔細有之御請取の節は速に御渡し可申上なれどもかゝる縁故もなく気底も分らぬ者に意に任せ伏屍未収哭声未断焦土の会墟へ送り返す儀は実に安んじ難き処縦令寒餓に不至とも貴戚の孤に負かぬ動作起居は必ず相成間敷加之万一変故を生じ候節は少婦の果敢なさ重而如何の危難に遭はせ候やも不可測、依て断然謝絶に可及と奉存候。しかも尚又熟思するに松本先生野村君には于今一晤細話も不致候へば謝絶の名義に於て少敷慊らざる処も有之。幸にして先生台下弊邑に被為在候へば先生台下に御高諭を奉蒙候上□(しか)と決慮仕度奉存候。小子儀は素より疎豪の暴書生薄俸寒族殊に少年の者に御座候へば鉄四郎君を撫育する抔とは甚以失敬千万唯凍俄に奉免候までに可有御座候へども読書撃剣等追々御世話申上げ貴戚の遺孤たるに不負一有為の才とも養成申上度折角淬励仕居候へば此鄙衷の深浅御慈量被下候而宜敷御快答被下度奉渇望候(下略)

 

この孤児鉄四郎は雲井の旧知で、亡き横山桂次郎の遺児であった。鉄四郎は当時7歳で、父の死後会津の南部氏に育てられていたが、故あって家僕に伴われて江戸に戻る途中この家僕にはぐれ、途方に暮れていたのだ。雲井はこの子を米沢に伴い、後に亡友鋼三郎の後嗣とすべく鋼一郎と改名させている。羽倉敬尚「梟雄雲井龍雄傅資料」によると、明治3年雲井の死後は雲井の実家中島家に引き取られて成長し、後に米沢の上村家の養子となって成人後は逓信省の高等官となったという。雲井の意図とは異なり、羽倉家は鋼三郎の没した年に生まれた遺児安吉が継いでいる。なお、鋼三郎には、この安吉とは別に「はん」という娘(年齢不詳)がいた。この娘はんは、後に品川の呉服商宇佐美氏に嫁したという。そして、鋼三郎の妻うめは、夫の戦死の2年後の明治3715日、駿府浜松城内の屋敷で病没し、浜松市内の発心山菩提寺に葬られた。享年は25歳であった(河野正男「片品の三烈士の墓」)

 

一方、鋼三郎の兄国太郎については、管見にしてその人物像の詳細を明らかにできていない。「贈正五位林伊太郎傅」に、わずかに「邦太郎と云ふ学問所教授に挙げられ、明治元年静岡に移住し、後東京に還り五年死す。(中略)邦太郎一男一女あり、男圭次郎、明治四十年死、曾孫清茂其祀を承す」と認められるだけである。鋼三郎と邦太郎の愛児を亡くした林鶴梁は、長男邦太郎の死の6年後の明治11116日、多くの門生たちに看取られてこの世を去った。享年は73歳。東京赤坂の澄泉寺に葬られた。

29の(3) 羽倉鋼三郎とその周辺

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文久3年、鋼三郎24歳のこの年、先に触れた鋼三郎が中井数馬の遺児朝子(喜美)と杉浦正一郎(梅譚)の間を取り持ったという事実以外、鋼三郎に関しては管見にして確認できた事実はない。羽倉簡堂の孫娘梅と結婚後は、神田和泉橋通りの羽倉家に入ったのだろうが、無役のまま学問所にも通い、武術の修行にも励んでいたのだろうか。なお、鋼三郎の剣術修行については、先に誰に師事したか定かでないとしたが、河野正男「片品の三烈士の墓」(『群馬風土記』収載)に、鋼三郎は「千葉周作道場で習得した北辰一刀流云々」との記載がある。しかしその出典の記述はなく、また千葉周作安政2年に死去している上に、それ以前の父鶴梁の日記にそうした事実は一切記されていない。鋼三郎は安政元年(14歳)から父鶴梁に従って中泉陣屋で生活するようになっているが、あるいは、安政5年に中泉から江戸に戻った後に千葉玄武館道場に入門したのだろうか。ちなみに、河野正男氏は後に鋼三郎と行動を共にした桜正坊や大忍坊等(後出)について詳しく調査されている。

 


父鶴梁はこの年9月28日、御納戸頭(役高700石)から新徴組支配(1000石高)となっている。新徴組はこの年の春に幕府が徴募した浪士組が改称され、4月にその取扱が出羽の庄内藩に委任されたが、その実質的支配は幕府から派遣された役人たちが行っていた。鶴梁が新徴組支配に任ぜられた当時は、松平上総介と河津三郎太郎(祐邦)の2人の新徴組支配以外に、組頭8人、調役8人、定役16人、書物方6人が出役していた。当時の新徴組士は230余人で、黐の木坂(本部)と三笠町にその屋敷があった。鶴梁は外国奉行(2000石高)に栄転した河津三郎太郎の後任となったのである。

 


鶴梁が新徴組支配となった後の翌10月26日には、庄内藩以下13藩に治安の乱れる江戸市中警衛の命が下り、庄内藩は丸の内、本郷、浅草、谷中、本所、両国等の江戸の中心部が割り当てられた。しかし、翌11月には庄内藩の要請もあって、新徴組は庄内藩に全面的に委任されることとなり、幕府諸役人の派遣は廃止となったのである。『柳営補任』に「十一月廿二日新徴組支配被廃止ニ付、上総介、伊太郎御役御免寄合被仰付候事」とある。鶴梁の新徴組支配の職は僅か2ヶ月間に過ぎなかったのである。

 


新徴組支配を御役御免となった翌月2日、父鶴梁は学問所頭取(700石)に任ぜられた。この学問所頭取については、『日本教育史史料』第7巻に「文久亥年三月初て御仰付場所高七百石席の儀は二丸御留守居の次講武所頭取の上」とある。また、『大武鑑』中巻元治元年の項に「学問所には御奉行が三人あり、その下の御儒者衆として林大学頭、その下に学問所世話役頭取七人があり、鶴梁もその中にある」、とあるという(「幕末の儒者林鶴梁」)。『日本教育史史料』によると、学問所奉行も文久2年11月に新設された職制で、大名がその任に当たっていた。学問所頭取の定員は7人だが、その職務の詳細は定かではない。ちなみに、文久4年2月当時の御儒者は、塩谷脩輔、望月萬一郎、若山壮吉、吉野立蔵、安井息軒、塩谷甲蔵(脩輔の兄)、中村敬輔、佐野令助の8人であった。

 


父鶴梁の学問所頭取の在任期間も1年間に過ぎなかった。翌元治元年12月12日に御役御免・勤仕並寄合となっている。その理由は不明だが、鶴梁が免職となった6日後には同じ頭取の仙石彌兵衛と永井三郎の2人も御役御免となり、永井三郎は御儒者に栄転しているが、仙石彌兵衛は鶴梁と同じ勤仕並寄合となっている。学問所頭取の職が廃止された慶応元年10月までの間に12人がこの職にあったが、その間死亡の1人を除き鶴梁と仙石以外は御儒者や御目付、外国奉行に栄転している。2人には何か不都合なことがあったのかも知れない。なお、『旧幕府』第2号収載の木村芥舟「幕府名士小傅」に、林鶴梁が非職となったことに関連して次のような記事がある。

 


「(鶴梁は)積学紡文性沈重にして卓識あり、(中略)晩年に入て納戸頭に任ずといへども、時既に非にして其技倆を著はすに由なくして止む、従来幕府の文学の士を待つ官学より出て、其向の薦引する所にあらざれば、要路に進むことあたはざるの傾きあり、故に博学有為の士にして、多く下僚に沈滞し、一生轗軻(ことが思うようにならない様)志を得ざるもの多きは、夙に識者の嘆ずる所なりといへり」

 


鋼三郎に関しては、元治元年と翌慶応元年も番入りはなく、無役のままだったのだろうか。翌慶応2年、鋼三郎27歳の年の6月11日になって京都見廻組与力勤方に任ぜられているので、或いはそれ以前に番入りをしていたのかも知れない。鋼三郎が就任した京都見廻組は、元治元年の4月、物情騒然たる京都の治安の維持のために、京都守護職の下に新たに設けられた組織であった。その組織構成は、2人の京都見廻役の配下に各200人ほどを指揮する与頭が2人、これを補佐する与頭勤方各2人の下(御家人)に、肝煎、見廻組、見廻組並、見回組御雇、見廻組並御雇の職階があった(時により改正あり)。構成員は旗本と御家人(肝煎以下)で、詰所は二条城の側に置かれて、同じ守護職配下の新選組祇園や三条などの町人街や歓楽街を管轄したのに対し、見廻組は御所や二条城周辺の警備や治安の維持を任務としていた。就任は家族同伴がきまりであったので、当然鋼三郎も妻(幼い女児がいたと思われる)を伴っての入京だったはずである。

 


当時は長州再征の最中で、その敗報相次ぐなかの7月20日には将軍家茂が死去し(発喪は8月20日)、9月2日には長州藩との間に休戦協定が締結された。幕府軍の敗戦は誰の目にも明らかで、幕威の凋落は著しく、反幕勢力の活動は勢いを増す一方であった。そうした中での鋼三郎の見廻組与力勤方としての活躍の様子は明らかではない。在京当時の鋼三郎に関する消息としてほんの僅かだが、本多敏三郎(晋・当時幕府陸軍調役・彰義隊発起者の1人)が『彰義隊戦史』の著者山崎有信に寄せた一文の中に、「羽倉氏は余が知人なり、氏元来憂国慷慨の士にして慶応年間巡邏隊長として京都にあり、予偶々木屋町の酒楼に会して初て相知り次で云々」とある。また、「(鋼三郎は)生家(林家)の薫陶養家(羽倉家)の家風を継ぎ氏が漢学の素養ありしは固より其所なり、上京航海中詩あり」として、鋼三郎が詠んだ漢詩が、「鯨波萬里去漫々 遠嶽如黛連海天 知是九十九岩処 怒風捲潮々打船 半夜朦朧月落峰 臥過七十五里灘」、と記されている(「此の書今尚予が家に蔵せり」とある)。これにより、京都へは舟行したことが明らかである。

 


鋼三郎は翌慶応3年10月にはその職を解かれて小普請入りとなっている。その理由も定かでない。なお、鋼三郎の小普請入りとの因果関係は不明だが、この年8月見廻組に不名誉な事件が発生していた。それは、見廻組に反幕派の公卿鷲尾隆聚、滋野井実在・公寿、正親町公薫の屋敷の警備監視が命ぜられていたにも関わらず、鷲尾邸に倒幕派浪士たちが出入りしている事実を見逃すという失態であった。それも、その事実が判明したのが、その浪士たちが新選組によって捉えられたためで、見廻組はその責任を問われて同月御所等の警備一切を解任されてしまったのである。鋼三郎の小普請入りはこの事件に関係していたのかも知れない。

 


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鋼三郎がいつ京都を離れたのかは不明だが、上野寛永寺執当覚王院義観の日記である「覚王院義観戊辰日記」(『維新日乗纂輯』第5巻・以下「義観日記」という)に、翌慶応4年1月18日付けで鋼三郎が河野三郎と共に、輪王寺宮公現法親王を介して徳川慶喜に差し出したと思われる建白書が記されている(要約と思われる)。これは日記の5月13日条にあるもので、日記にはまず「河野羽倉事壹州周旋ニ而登用両人も得意之容貌也云々」とある。これによれば、鋼三郎と河野は上野戦争3日前の5月13日に輪王寺宮公現法親王に登用されたのである。そして、さらに同日記5月27日条には、「河野三郎羽倉鋼三郎ハ十五日ゟ御付添」と記されている。河野と鋼三郎は上野戦争の日から輪王寺宮に付き従ったのである。なお、輪王寺宮公現親王とは東叡山寛永寺座主、覚王院義観は龍王院堯忍と共にその執当であった人である。河野三郎は大三郎とも言ったらしく、幕府の目付だったというが、鋼三郎との関係もその人物像も定かではない。この建白書の内容は、当時の鋼三郎の心事を知る貴重なものであるため転載しておくこととする。

 


「一、御旗本知行早々復旧可仰出候事。一、忠言極諫之者御褒賞被為在決而御咎等不相成事。一、御所表江御執成之儀ハ朦中ニ付有宮江之書ハ見合伏見親王仁和寺宮江直書差進候事。一、万一将外夷攻京坂候様之儀御座候ハゝ皇国人心離叛御家之大事止ミ可申事。一、大事件衆議難決候ハゝ東照宮神慮を以御決断之事。以周文聖以易断疑者所以示公明正大無一毫私也易日断天下疑通天下志云々如我神州京師宜依勢陽太神石清水八幡等関東宜奉東照神慮也。右等之儀御採用可為在候ハゝ猶御老中方へ執当より可申上事。右之書面者宮御方ゟ上様江御上ケ之事」

 


前将軍徳川慶喜は蟄居謹慎のため(それまでの経緯は紙幅上省略)、この前日の2月12日江戸城を出て、寛永寺塔頭大慈院に入っていたのである。慶喜大慈院蟄居後、鋼三郎は朝敵となった慶喜の救解雪冤のために奔走していたらしい。先の本多敏三郎が山崎有信に宛てた一文中に、「戊辰の春前橋侯をして朝廷に哀訴嘆願せんとせし時、氏(鋼三郎)も亦諄々侯に説きたり」と記されている。慶喜大慈院に入ると、輪王寺宮や義観に対して宮自らが上洛して慶喜の助命嘆願を行うよう執拗に要請する一方、諸藩主や家臣たちにもそれを求めたのだ。田安大納言等の要請もあって、輪王寺宮は2月21日京都に向けて江戸を出立している。本多敏三郎による嘆願運動については、「本多晋の喘余吟録」(『彰義隊戦史』)に次のようにある。

 


「此頃侯(前橋藩主松平大和守)の京師より召されしを聞き(前年12月の朝廷による諸侯に対する上洛要請)此便宜によりて朝廷に(救解を)哀訴せしめんと此義を立花出雲守(種恭・老中格会計総裁)に謀り、伴(門五郎)、須永(於菟之輔)、小田井(蔵太・使番格)と共に前橋侯に到り謀るに侯の説、吾公の主旨協はさる所あるにより小田井、伴、須永、大に激昂し、其旨を立花雲州侯に陳して上聞に達せんと請ひ、若し聴かされば屠腹せんと三氏主張すれば、夜半雲州邸に至り、侯に謁し陳述せしに、詳悉領承せられ翌日直に上聞に達し、終に前橋侯の上京を決するに至れり云々」

 


ここに鋼三郎の姿は見えない。しかし、本多敏三郎が松平大和守直克に上洛を嘆願した際、鋼三郎もまた「諄々侯に説」いたと明言しているのだから、この日鋼三郎も同席していたはずである。元前橋藩士大藤彬編輯「橋藩私史」(『上毛及上毛人』収載)によれば、前橋藩主は2月10日に上京の途に就いている。従って上記の話は1月下旬か2月初旬のことだったことになる。

 


この「橋藩私史」の3月13日条に、「幕儒林鶴梁前橋に来る。蓋藩政を補くるの意あり。議合はずして退く」と記されている。なお、この事に関して『近世上毛偉人傅』に、「(鶴梁は)維新後、前橋に来る。前橋侯之聘せんとす。鶴梁既に芹坪を訪ふて玉村駅に在り。侯使を馳て玉村に要す。鶴梁避けて逢はず。再び江戸に帰り、塾生を教授す」とある。鶴梁の前橋藩訪問の意図は不明だが、『近世上毛偉人傅』の前橋侯(松平大和守直克)が鶴梁を招聘しようとした話は事実と矛盾している。というのは、この前月21日に江戸を出立した松平直克は、途中名古屋で東征大総督有栖川宮に足止めされ、漸く入京できたのは3月29日のことだったからである。なお、それ以前の3月8日には東山道総督府軍が高崎城下に入り、前橋藩を含めた上州諸藩は天朝政府への忠誠を誓わされていた。鶴梁が前橋を訪れた2日後の15日には前橋藩東山道軍に対して武器・弾薬等を献納している。当時藩主不在の前橋藩内は、混乱を極めていたのである(『前橋市史』)。

 


この3月と翌4月中の鋼三郎に関する資料は確認できていない。翌閏4月に関し『旧幕府』第2巻9号中の旧幕士岡崎撫松稿「伏見戦争前後の記事」に、「羽倉鋼三郎。右八日富津へ上陸暁の頃伊庭の陣所本郷宿え行然る処出先にて談話も不相成先陣所迄内行払暁に勝山之陣所え掛合人数一小隊為差出夫より名子と申処にて昼飯相調館山え着泊又人数一小隊程並に金鼓を出為差出九日大雨に付滞留十日総軍林所持之和船え乗込十一日夜出帆にて小田原え着船之心得に候」とある。鋼三郎が舟行して閏4月8日払暁富津港に上陸し、暁方本郷宿の伊庭(伊庭八郎と思われる)の陣所を訪ねたというのだ。しかしその後、出先で談話も不自由なので勝山の陣所まで同行したというのだろうか。それ以後の記事、特に文末の「小田原え着船之心得に候」とあることから、鋼三郎は伊庭八郎を訪ねて遊撃隊に加わったとも読める。鋼三郎の知人だったらしい伊庭八郎(秀穎)は、「伊庭の小天狗」と呼ばれた心形刀流伊庭家8世軍兵衛秀業の長子である。伊庭八郎はこの月3日、人見勝太郎(寧)と共に遊撃隊士30余人を率いて鯖江藩主林肥後守忠宗率いる兵士たちと合流し、真武根陣屋を出陣していた。箱根の関門を占拠して官軍の退路を断ち、彰義隊大鳥圭介軍・奥羽越の諸藩と協力してこれを殲滅する作戦であったという。

 


この鋼三郎の遊撃隊参加のことについては、鋼三郎の従弟石橋絢彦著『回天艦長甲賀源吾傅』に、「前に京都見廻組与頭を勤め、後に遊撃隊に投じたる羽倉鋼三郎云々」とある。しかし、鋼三郎の名は、「林昌之助戊辰出陣記」にも請西藩軍事掛檜山省吾の従軍日記「慶応戊辰戦争日記」にも一切見い出せない。鋼三郎が合流したとされる後の遊撃隊(正確には黒駒で全隊を遊撃隊と命名)は、9日は大雨のため長須賀村(館山藩領)に滞陣し、翌10日館山港から船で相州真鶴港に向かっている。その後の遊撃隊の動向については紙幅上ここでは触れない。何れにしても鋼三郎は翌月13日には輪王寺宮に登用されているので、早期に遊撃隊を離れたことは確かである。なお、鋼三郎が赴いた富津(上総)から遊撃隊が舟行した真鶴(相模)は伊豆の隣りである。前記した「義観日記」5月13日条に「河野羽倉壹州周旋ニ而登用云々」とあった「壹州」(不明)が「豆州」の誤りであれば、鋼三郎が富津に赴いた理由はこのことと関係していると推測することができるが、そうであれば、『回天艦長甲賀源吾傅』の記述には疑問が生じる。

 


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鋼三郎が輪王寺宮の付添に登用された5月15日は、彰義隊が官軍に包囲殲滅された日で、この日輪王寺宮も上野の山を脱出している。鋼三郎たちはこれに従ったのである。なお、『新彰義隊戦史』等には、鋼三郎が彰義隊に加わったと記されているが、先の本多敏三郎の文中に「(鋼三郎は)彰義隊を設立するや屢々隊中に来りて論談計画せしことありし」とあるので、彰義隊に加わったわけではなかったのだろう。鋼三郎は京都から江戸に戻った後は輪王寺宮に接近し、彰義隊が結成されると両者の橋渡しや調整に尽力していたのかも知れない。輪王寺宮の逃避行の詳細に触れることは出来ないが、資料上に鋼三郎の姿を追ってみよう。

 


上野戦争から10日後の同月25日の米沢藩雲井龍雄の日記(安藤英男著『雲井龍雄研究伝記編』中・以下「雲井日記」という)に、「羽河等、翠華ニ扈して来ル云々」とある。「羽」が鋼三郎、「河」が河野三郎、そして「翠華」が輪王寺宮である。この日記の主雲井龍雄は、安井息軒の三計塾に入門半年後には塾頭になった俊才で、幕末維新期の第一等の漢詩人ともいわれる。本名は小島龍三郎といった。弘化元年の生まれだから鋼三郎より4歳の年下である。雲井は前年の慶応3年2月に藩命によって上京し、大政奉還・王政復古・鳥羽伏見戦争、そして会津追討という激動の京洛で情況探索と列藩への公武合体策の周旋に奔走した。翌4年4月には貢士に選抜され、新政府に仕えることになったが、東征等は薩長の専横と野望であると見た雲井は、「薩長の狡奴、私憤を洩して私利を図り、大政を弄す。七生して薩長に抗し、大勢を挽回する」と決意して京都を去り、関東へ下ったのである。

 


雲井には徳川政権回復の意図はなく、「王政」の掲げる「御一新像」の貫徹にあり、それを障げる者(特に薩摩藩)との闘争と「列藩の和解」こそが念願だったという(『共同研究明治維新』中判沢弘「宮島一郎と雲井龍雄」)。雲井は5月18日密かに江戸に入り、米沢へ帰るため、仙台藩の仲介で品川沖に停泊中の旧幕府軍艦長鯨丸に乗船していた(同月20日)。その長鯨丸へ輪王寺宮一行が乗り込んで来たのが、先の「雲井日記」の同月25日のことだったのである。この輪王寺宮の長鯨艦への乗船に関して、『回天艦長甲賀源吾傅』に「羽倉鋼三郎(原注・編者の従弟)は副総裁(榎本武揚)に面謁し、輪王寺公現法親王を長鯨丸に奉乗し、奥州に走らんことを云へり。然るに副総裁は辞し奉るや云々」、と記されている。なお、『旧幕府』第五号に輪王寺宮乗船当時の様子について榎本武陽自身の次のような談話が載っている。

 


「上野の宮様は戦争の後築地の船宿に七日間御潜伏遊ばされ、後に長鯨丸に召させられて奥州へ御下りになりしなり、其時船宿の座敷にて拝謁し、奥州へ御開きになるとも決して南北朝の昔の如き事を御勧め申す者が有之候とも御同意遊ばすなと申し上げ、其の御約束を御認めになり榎本和泉へと遊はして賜はりしとあり、殿下の御側には僧も居り余の傍には羽倉外記の子も居たり」

 


長鯨丸は翌26日に品川沖を抜錨し、28日常陸の平潟港に着船した。雲井龍雄の日記に、「(前略)平方洋ニ泊ス、翠華ト共ニ平方港に上陸云々」とある。その後の雲井は輪王寺宮に従う鋼三郎たちと別れ、1人米沢に戻っている。なお、鋼三郎と雲井はこの時が初対面だったのか、或いは在京当時に既に面識があったのか否かは定かでない。しかし、以後鋼三郎と雲井は志を同じくして行動を共にすることになる。以後も紙幅上説明は極力控え、資料を中心に鋼三郎の死に至るまでの軌跡を追うこととする。

 


雲井龍雄は6月1日米沢に戻ると、翌日国老毛利安積にこれまでの報告を済ませ、直ぐ様会津に向けて出発し、3日に会津に入ると輪王寺宮出迎えのため再びここを出立した。翌4日の雲井の日記に「中山の東ニテ羽河等ニ逢フ。横河ニ達セント欲する頃翠華ニ逢ひ奉る。是ニ扈して帰ル。黃昏、壺下ニ投ズ。羽河等と同発、午牌猪苗代駅ニ投ず。(中略)此夜、羽河二兄来議、徹宵」とある。鋼三郎と河野三郎は輪王寺宮一行に先行していたのである。情況偵察のためだったのだろう。翌6日には「巳前猪苗代ヲ発シ、午後若松ニ投ず、(中略)羽氏ニ接ス」とある。雲井は藩老と相談の上、輪王寺宮を仙台に迎えて奥羽越列藩同盟の盟主に迎えることを鋼三郎たちと協議したのかも知れない。輪王寺宮の同意も得たのだろうか、雲井はその日再び米沢に戻っている。

 


雲井が米沢に戻った日の「義観日記」に、「午半与大楽・南昭・浄門同入城、謁宰相公及阿部美作守・板倉伊賀・小笠原壱岐・牧野雪堂・緩晤・伊州日河野三郎羽倉鋼三郎法王假為近習而事不便云々遂泊城外」とある。覚王院義観は上野戦争の日、混乱の中で輪王寺宮と行き違いとなり、輪王寺宮の後を追って土浦、水戸、棚倉を経てこの日会津若松に入ったのである。その2日後の6月6日の「義観日記」に、「河野三郎来羽倉両人江金五拾両差遣功徳鈴木(輪王寺宮臣下の安芸守時信と思われる)江相談候処右ハ御上ゟ被下候積ニ候筈。同人ゟ羽倉代官地百姓説得農兵ニ而も取建置度且領分税抔之儀も有之云々」、と記されている。このことに関して「贈正五位林伊太郎傅」に、「(鋼三郎は)輪王寺宮の旨を奉して桑折・塙等奥州所在の旧幕府領地に於ける代官の事務を掌り以て其力を竭さんとせしが」、官軍が会津に迫ったために実現しなかったとある。しかし、「義観日記」を見る限り、鋼三郎が嘗て父鶴梁が柴橋代官を勤めた地で農兵を募り、また租税を減免することを提案したらしいものゝ、「贈正五位林伊太郎傅」に記される事実があったかどうかは定かでない。

 


※次回(4)に続きます。

 


           

29の(2) 羽倉鋼三郎とその周辺

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父林鶴梁の中泉代官としての活躍は、鋼三郎にも少なからざる影響を与えたと思われるので、その事蹟の幾つかを見てみよう。中泉陣屋への着任から半年も経たない嘉永71月のペリー艦隊の再来航には、直ちに近隣領主たちに出陣を促し、自らも20人近い配下等を率いて騎馬で御前崎まで出向いて指揮をとっている。また、幕府の海防費用の徴募に際しては、8,000両の上納に成功している。さらに、その年114日に発生した安政東海地震は、東海道筋日坂から舞阪にかけての壊滅的被害と天竜川筋村々に津波による甚大な被害をもたらしたが、鶴梁はいち早く情況見聞と勘定所への被害状況の報告を行った。また、自らも塩断ちをし、被害の甚大な袋井宿で自ら炊き出しを行い、夫食、囲穀、復旧資金の貸し出しを行っている。翌安政27月の暴風雨による天竜川と大井川筋の洪水被害にも、股を没する洪水の中を廻村し、直ちに夫食・救い金の手当や宿村相続金貸付等を行った。さらに、その年928日にも大きな地震があり、翌102日には江戸に甚大な被害をもたらした安政の大地震が発生した。こうした度重なる災害被害をうけ、鶴梁は恵済倉という貯穀倉の設立を発案し、富者の拠出金と自らも130両余の私財を投じて着手した。しかし、これは転任によって完成を見ることは出来なかったが、後任の代官に引き継がれて、維新後この利金で中泉小学校が設立されたという。ちなみに、鶴梁は就任に際して決意した心事を、後年江戸の知人泰壽太郎に宛てた書簡で次のように記している(『鶴梁文抄』)

 

「僕任に到って思えらく、職は治民に在り。夫れ治民の道は先づ己を修むるに在り。乃ち自ら鞭策を加え、身を慎み倹を守り、其の事を策するや民材を費さざるを以て努めと為し、請謁を断ち苞苴を禁じ、其の訴を訊く民に冤を致さざるを以て主を為す。平生為す所此くの如きに過ぎず。然れども此等の事は世俗の笑うて迂と為す所也。況や三遠の民風狡猾にして、俗詐欺を尚び、教条の施す所往々方□円鑿相合す可からず云々」

 

鋼三郎はこうした父鶴梁の覚悟と、困難な職務に懸命に取り組む姿を目の当たりにしていたのである。鋼三郎の人間形成に、大きな影響を与えたであろうことは間違いない。また、職務以外でも鶴梁を中泉陣屋に訪ねてくる士人も多かった。安政2年の124日には、越前藩士橋本左内(景岳)がその師吉田禎蔵(東篁)の紹介状を携えて鶴梁を訪ねて来た。左内はこの年、医官を免ぜられて御書院番に抜擢されていた。その左内が出府を命ぜられて前月28日に福井を発ち、上府の途次わざわざ中泉に鶴梁を訪ねたのである。その日の『鶴梁日記』には「(前略)橋本左内罷越候間対話之事、尤同人義格別之人物ニ付、悉く吐露いたす処云々」とあり、その翌5日に鶴梁が江戸の左内に宛てた書中には、「御初対面には候へども、概略吐露之処、議論暗合、乃不覚鄙衷尽くし、近年の愉快此事と存候。乍去徹夜之長談、御疲労中御迷惑之儀と跡にて奉存候。余りに喜悦、心中転倒、種々申残候事多々、甚だ残念奉存候。(中略)今一度近き内に拝唔いたし度奉存候」(『橋本景岳全集』)と記されている。この時鶴梁50歳、左内は22歳であった。2人は徹夜で議論を交わし、左内が去った日の夜にはこの手紙を出しているのである。いかに鶴梁が感激興奮し、いかに左内が傑出した人物であったかが窺える。

 

鶴梁と左内の書通はその後も続いていたが、翌365日鶴梁の期待通り、帰国の途次、左内は中泉陣屋に立ち寄り、一泊して翌6日夕食後に中泉を後にして福井へ帰っていった。鋼三郎も当然左内と言葉を交わしたろうし、兄国太郎(当時24)より若い左内が父と夜を徹して論談する姿を眼前にして、16歳の多感な時期の鋼三郎も感ずるものがあったことだろう。

 

なお、父鶴梁はこの安政2年と前年の暮れに大切な友人を2人失っている。鋼三郎もこの2人とは面識があったと思われる。1人は、安政元年12月に他界した鶴梁の豊山塾の先輩尾藤水竹(積高・幕府儒官尾藤二州の子)である。尾藤水竹は「豪邁閑放家計ヲ省ミス赤貧洗フカ如シ。然レトモ食客常ニ十数人」(『義烈傅纂稿』)もあったため、その貧窮を見かねた鶴梁が、嘉永3年に浦賀奉行浅野梅堂(長祚)に推挙して組頭に就任した。しかし、間もなく病んで職を辞し、閑居していたがこの年死去したのである。享年は55歳であった。そしてもう1人は、翌安政210月の江戸の大地震で圧死した藤田東湖である。鶴梁は藤森天山からの知らせでこれを知ったが、天山に東湖を紹介したのは鶴梁であった。なお、鶴梁に東湖を紹介したのは桜任蔵である。

 

中泉代官就任以来の『鶴梁日記』には、職務に忙殺される日々のためか、以前のようには鋼三郎や家族の記述が少なくなっている。その日記から、安政3年の鋼三郎に関する記事を幾つか拾ってみよう。まず321日条に、「玄知来(中略)兼而預置候短刀気ニ不入候間、今日玄知江返却。且鋼三郎刀モ返候積申談置ク云々」とあり、825日条には「渡辺玄知江鋼三郎太刀作リ刀一本返却、但手紙添」とある。鋼三郎も17歳になっていたので、剣術の修行も積んでいたと思われるが。誰に何流の剣技を学んでいたのか、父の日記からは一向に知ることが出来ない。鋼三郎は後年見廻組与力勤方に任じられていることなどから、剣術も相応に身に付けていたのだろう。

 

『鶴梁日記』のこの年元日の条には、「泰蔵外七人、例之通り内坐罷出、年始祝儀申述。自分、国太郎、鋼三郎謁云々」とあり、99日条には「泰蔵外五人、重陽之祝儀罷出、例之通於内座謁之。国太郎・鋼三郎待坐」とある。奉行所内の行事には鋼三郎も兄と共に、列席していたのである。また、45日条には、「国太郎、鋼三郎儀、惣太郎、忠吉召連、浜松辺迄遊歴いたし、玄知宅立寄、茶一箱相送ル、弁当喫帰ル。尤浜松之内所々参詣之上帰宅、夕七半時頃」と記されている。

 

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安政4年1年間の父鶴梁の日記は欠落しているが、この安政4116日に鶴梁の畏友藤森弘庵が中泉陣屋を訪れ、同月20日まで滞在している。弘庵は関西遊歴のため、門人を伴って同月10日に江戸を発ち、この日中泉に立ち寄ったのである。弘庵に従っていた依田七郎(字百川・雅号学海・佐倉藩)の日記(『学海日録』)116日条に、「中泉に抵る。先生、県令林君鶴橋を訪ふ。林と先生と同に長野豊山に仕へて、高足の弟子たり。林奉待甚だ厚し。余、□塾に在りて、嘗て其の息男と相知る。林は俊才にして幹略多し。又政積有り。百姓畏服する」とある。また、翌17日条に「小林(国太郎)来りて会話す云々」とあり、18日条には「林令に謁す。云々」とあって、夫々に対話の内容が記されている。

 

『学海日録』19日条には、「林氏に滞す。小林と会話す云々」とあって、その記事の中に「林氏兄弟、長は名は轄、字は伯桎。次は名は鋼、字は叔錬。皆文才有り。叔錬より府官源道画く所の大野浦図、并びに本州聖福寺蔵ト氏笈図を贈らる」と記されている。鋼三郎はこの年18歳、兄国太郎は26歳、依田七郎は天保4年生まれの25歳であった。依田七郎は嘉永5年以来藤森天山に師事していた。この翌年には佐倉藩の藩校成徳書院の都講に任ぜられることになる。

 

20日、藤森弘庵一行は中泉陣屋を発ち京都を目指したが、その日の『学海日録』には「午後将に発せんとし、人馬皆至る。時に先生林令と話別久しうして出でず。日暮るゝに及びて乃ち出づ云々」とある。肝胆相照らす鶴梁と弘庵は、話もはずんで別れ難く、結局出発は夜になってしまったのである。弘庵一行は京都、津山、松山、姫路から西尾、山岡、大垣と遊歴し、8ヵ月後の913日に江戸に戻っている。勿論、帰路も中泉陣屋に立ち寄って鶴梁一家の歓待を受けていた。もっとも、『学海日録』はこの年519日以降が欠けているので、その詳しい状況を知ることは出来ないが、弘庵が江戸に戻った翌々月16日付けで鋼三郎の兄国太郎に宛てた弘庵の書中に次のような一節がある。

 

(前略)過日は度々罷出不一方御厚情御周旋被下奉万謝候、早々呈一書鳴謝之積ニ御座候得共実ニ無寸暇稽緩海涵可被被下候、先達而令君(鋼三郎)ニも委細御書中之処、右書面間違候て、一旦江戸迄参候て、又々京迄返り夫ニ又々江戸え達候間十月二十日頃相達候、夫故如何相成候かと日々御案じ申候処、先斎藤(拙堂)へ御落着ニ候由、先々安心仕候云々」

 

藤森弘庵は江戸に戻った後、鶴梁と国太郎それに鋼三郎それぞれに礼状を出したのだろう。その鋼三郎への手紙が江戸と京都の間を往復して鋼三郎の手元に届いたのが1020日頃だったらしい。それを弘庵が知ったのは、鋼三郎からの返書が届いたからだと思われる。弘庵の書中に「先斎藤へ御落着ニ候由」とあるのは、当時鋼三郎は斎藤拙堂の学塾に入門していたのである。弘庵が帰路中泉に立ち寄った際には、既に鋼三郎は家を離れていたらしいが、斎藤拙堂への入門の時期はこの年の何時頃だったか定かでない。

 

鋼三郎がなぜ斎藤拙堂の門戸を叩いたのかも不明だが、父鶴梁の意向があったことに間違いないだろう。鋼三郎が師とした斎藤拙堂は『叢書・日本の思想家』39等によると、名は正謙、字は有終、拙堂は号で、通称は徳蔵といった。寛政9(1797)に江戸柳原の伊勢国津藩藤堂家(324千石)上屋敷で生まれている。鋼三郎が入門した安政4年には61歳であった。拙堂は昌平黌で古賀精里に師事して朱子学を学んだ。文政2(1819)23歳で儒員試補となり、翌年藩校有造館が創建されると、有造館儒員試補(10人扶持)となり、一家(父正修は藩校厨司)で津に転居した。同6年には有造館講官(150)、翌々年には侍読を兼ねた。天保12年には郡奉行を勤めたが、翌々年には有造館督学参謀となり、弘化元年には督学となった。この間、藩主の上府に扈従して度々江戸に登り、諸名士と交わりを結んだ。

 

督学となった拙堂は、洋学館を設けて蘭学者を招き、また武場を拡張して洋式訓練を行い、安政元年には藩医とはかり、医学寮に種痘館を設けて種痘の普及を行ったほか、有用の藩士を江戸に送って洋学や西洋兵術を学ばせるなど文教の振興に力を注いだ。安政2年には幕命により将軍に拝謁、その年10月昌平黌儒官の命を受けたがこれを辞退して帰藩した。この時藩主自らが道に拙堂を出迎え、禄高300石に加増されている。なお、長岡藩の河井継之助嘉永5年に江戸で拙堂に師事しているが、拙堂はこの年6月に江戸勤番で上府しているので、江戸在勤中も門人を取っていたのである。また、松山藩の三島貞一郎(中洲)は同じ年の春に津で拙堂に師事している。その時のことを、中洲が次のように語っている(「斎藤拙堂先生と茶磨山荘」・「斯文」収載)

 

「先生は藩の用人格で城内に住んで居られるから、先生の宅へ入り込んで講義を聞くといふことは出来ない。他藩のものはめったに城内に入ることは出来ないから、(中略)昔はその藩が一万石でも三万石でも、その藩内は自分の天下であるから、外藩のものはめったに内へ入れぬ。(中略)その時城外に茶磨山といふのに先生の別荘があった。これは茶磨山荘といって、(中略)先生のいはるるには、私はたびたび茶磨山荘へ遊びに行からその時に御座れ、文章も見て上げやうということであったから、私はそれから先生の別荘へ行っては、文章を添削して貰ったり、先生の持って来られる弁当や酒などを頂戴して、一日山荘で学問の話をしたり景色を眺めたりして居った。それ故私の拙堂先生と会見することは月に三、四回程度であった」

 

鋼三郎の入門は、三島貞一郎が拙堂に師事してから5年余り後のことだが、おそらくほぼ同様の実態だったのだろう。茶磨山荘の前門を「迎遠門」といい、門を入った所に「方来舎」と塾があって、拙堂は毎月数回ここに来て遠来の塾生たちに講義していたという。なお、拙堂の年譜を見ると、この茶磨山荘は嘉永4年頃造営され、鋼三郎入門までの間に藩主自ら数度来駕したことが見える。拙堂の人となりや学問等について、先の三島貞一郎の文中に次のように記されている。

 

「要するに文章学といふ上に於ては、拙堂先生は日本に於ての泰斗であると云っても、決して誇張の言でない。又先生は政治経済の方にも心を用ひられて、昔は儒者、医者といへば、世捨人同様、世間に用のないもののやうに思はれたのを、先生は真の儒者は大に経世の志が無くてはならぬといはれて、或は郡奉行となり、或は用人となって、藩政の改革整理に努められたのである。徳川氏の末には、儒者にして国政経済の事に任じた人も大分有ったが、先生のやうに一方には俗務に鞅掌し、一方には名文章を多く余に発表されると云ふような精力家は少なかった」

 

會谷言成の「羽倉鋼三郎傅」に、「始、鋼三郎、拙堂斎藤氏ニ従ウテ学ブ、酒ヲ縦マニシ、無頼ナリ、拙堂其ノ人トナリヲ偉トシテ問ハズ焉、後、藤森大雅ニ学ブ」とあるというから、学問には真剣に取り組まなかったのかも知れない。『鶴梁日記』の翌安政5年の記述も5月以降は欠落しているが、その中で鋼三郎に関する記事は119日条に「国太郎ゟ鋼三郎書」とあるのみである。

 

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父鶴梁は、この年の5月に出羽国柴橋の代官に転任を命じられている。中泉で領民からも信頼され、職務にも誠実に励んで実績を上げたにも関わらず左遷であった。『江戸文人辞典』等は、鶴梁が攘夷論を持論とし、交わる人たちも攘夷論者が多かったため、幕閣たちから忌避されたためであったとしている。しかし、高橋雄豺「幕末の儒者林鶴梁」では、その理由を次のように推測している。

 

「『近世儒林編年志』には「案裁を経ずして事を理した」のが理由だとしている。あるいは承認をうけずに恵済倉の計画を実行したのをとがめられたのかも知れぬが、これは表面上のことで、おそらくはその年に井伊直弼大老となり、将軍継嗣問題や開港問題について反対派を粛清し、鶴梁を引き立てて来た川路聖謨も五月五日に勘定奉行から西丸留守居役の閑職に移されたときだったので、川路の直系と見られた鶴梁が、江戸と京都の中央にあって、政治に関係の多い者の中枢にある中泉から動かされたのだろう」

 

柴橋代官所の支配地域は54200石余で、『県令集覧』によると、その属僚は江戸詰17名、柴橋詰6名、寒河江3名、大石田船改番所1名の合計27名であった。柴橋代官は江戸在勤であったため、家族全員で中泉を引き上げ、江戸麻布谷街の私邸に入った。なお、前年3月に鋼三郎の祖母(鶴梁の先妻の母という)が中泉で病没していた。鶴梁は在任期間中検見のため2回任地に赴き、廃坑同然だった管内幸生銅山の採掘に成功するなどの業績を上げているが、鋼三郎には直接関係がないのでここではその詳細は省略したい。

 

『鶴梁日記』は翌安政6年の1年間も欠落し、翌安政7(318日万延と改元)から翌文久元年9月半ばまでが残存しているが、その安政717日条に、「国太郎・鋼三郎義、両林家。艮斎・藍梁宅江年始ニ罷越云々」と記されている。鋼三郎は江戸に戻っていたのである。何時頃鋼三郎が斎藤拙堂の方来舎を退塾して江戸に戻ったかは不明だが、先の「羽倉鋼三郎傅」に鋼三郎は斎藤拙堂に学んだ「後、藤森大雅ニ学ブ」とあることからその期間は僅かだったのである。ちなみに、拙堂の年譜によると、安政310月に拙堂は江戸から津に戻り、翌49月には大垣・関ヶ原・加納・岐阜等の周遊の旅に出ている。拙堂が津に戻った時期は不明だが、鋼三郎が教えを受けた期間はごく僅かだったのではないかと思われる。

 

鋼三郎が藤森弘庵に学んだ期間も僅かであったらしい。というのは、安政638日には鋼三郎は兄邦太郎と共に林家塾に入塾しているからである。なお、このことに触れる前に、鋼三郎が師事した藤森弘庵について記しておきたい。藤森弘庵は、鋼三郎が斎藤拙堂に師事した翌年(安政5)104日には幕吏に捕われている。弘庵が強硬な攘夷論者であったことは既記の通りだが、鶴梁が中泉代官に就任した年のペリー来航時、幕府の対応に憤激した弘庵は、「海防備論」を著して幕府に建白した。また時局を論じた「芻論」を烈公徳川斉昭に呈上していた。なお、この時烈公は弘庵を水戸藩に迎え入れようとしたが、弘庵が「二君に仕えず」と固辞したため、烈公は弘庵に10人扶持を給したという。これに対し弘庵は「仕えずして禄を受くるは非礼」なりとして、毎月6回宛て藩の講筵に出ることを申し出たらしい。ちなみに、弘庵の攘夷論に関し、安政4年に弘庵が世古格太郎の別荘を訪れた際に語った内容が、「唱義聞見録」(『野史台維新史料叢書』35)に次のようにある。弘庵は決して盲目的な攘夷論者ではなかったのである。

 

「今正議を唱ふる者今猶打払の策を主張すれとも是も亦的論にあらす既に戦争の機先年に在りて最早期に後れ候に応接あり今日の勢に及し事なれはいつれ交易はせされはならす然るに其交易を為に法令を正し境界をたてゝせされは終にいつく迄つけ上る事やはかりかたし此故に予も交易事宜といへるものを書せんとて既に草稿あり終にはいつれ戦争なれとも一旦下田にて約條せし事今訳なくこれを打払ひに及ぶ時は其曲は我にあり云々」

 

鋼三郎もこうした見解を聞かされていたのかも知れない。弘庵捕縛の理由は、水戸藩への密勅降下問題に関与した嫌疑等によるらしい。捕縛後の同月18日弘庵は「主人古賀謹一郎預け」となったが、実際には自宅謹慎であっという。その後、翌年2月に揚り屋入りを命じられたが、数日後には病気により再び宅慎となった。そして、その年1027日に中追放の処分が下されたのである。「唱義聞見録」に、弘庵が呉服橋外で追放された際、「馬乗袴を着し覆面したる士五六人出来」って弘庵を籠に乗せて連れ去ったとある。鋼三郎もこの人数の中にいたのかも知れない。弘庵はその後「下総古賀辺へ行諸所流落下総行徳ニ門人ありて終に爰に卜居」(「唱義聞見録」)した。弘庵が卜居した「行徳」とは、現在の千葉県市川市である。

 

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父鶴梁の日記は翌万延元年1年間と、その翌文久元年9月まで残されている。鋼三郎21歳の万延元年17日のその日記に、「国太郎・鋼三郎義、両林家・艮斎・藍梁宅江年始ニ罷越」とある。「両林家」とは、幕府直轄の教育機関昌平坂学問所(昌平黌)の祭酒である大学頭林学斎(昇・前年9月父林復斎が死去後第12代大学頭を継ぐ)と、第二林家の儒官で西之丸留守居を兼務する図書頭林鶯渓(晃・林復斎の長男)の家である。『鶴梁日記』翌216日条には「祭酒不快ニ而休会ゆへ、国・鋼遊墨水、土産蜆一籠」、68日には「林祭酒へ国・鋼ゟ白砂糖一箱ヅツ遣ス」とも記されている。鋼三郎と兄国太郎は安政638日以来林家の家塾「弘文館」に通っていたのである。弘文館の入門者名簿「升堂記」のこの日の項に、「安政六己未、入門三月八日」として、「御代官伊太郎惣領、紹介伊太郎、林国太郎」と「同断、同次男、林鋼三郎」、と記されている。鋼三郎はこの日、兄と共に揃って林家塾に入門したのである。

 

正月7日に鋼三郎が兄と共に年始に訪れたもう1人の「艮斎」とは、昌平黌儒官の安積艮斎と思われる。安積艮斎は佐藤一斎の学僕として刻苦の末、二本松藩の藩校敬学館の教授となったが、嘉永3年に幕府の儒官に抜擢されて昌平黌で教鞭を取っていた。この安積艮斎については、『林鶴梁日記』を見る限り、父鶴梁との交際の事実は見当たらない。なお、艮斎はこの年の1171歳で死去している。もう1人の「藍梁」の誰であるかは浅学にして知らない。

 

父鶴梁はこの月、鋼三郎のために屋敷内に書斎を増築している。その128日の鶴梁の日記に、「今朝ゟ六右江門来り、鋼三郎書斎并ニ廊下作事ニ取掛ル」とある。その翌月の鶴梁の日記を見ると、鋼三郎にとって不都合な事件があったらしい。事件の内容は不明なため、日記に記される事実を記すと、まず210日条に「鋼三郎義、藤田相詫候得共、勘考之上と申答置ク」とあり、翌11日には「藤忠参り、尚又鋼三郎之儀相詫候ニ付、今般ハ差免ス」とある。「藤田」「藤忠」とは藤田忠蔵で、義母の弟三井忠蔵(虎之助)である。忠蔵はこれ以前に藤田家に養子に入っていたらしい。伯父が謝罪してもすぐには納得なかったのだから、鋼三郎にとって許し難い事情があったのである。なお、11日の日記には「右同人(藤田忠蔵)義、庫之儀相詫候ニ付、右同断云々」とあるので、この事件には義母も関係していたらしい。余談だが、野口勝一著「野史一班」(『野史台維新史料叢書』36)に「忠蔵ハ後上野黒門前ニ戦死ス」とあるが、『彰義隊戦史』等で確認する限り彰義隊の戦死者中に藤田(三井)忠蔵の名は見当たらない。

 

この年(万延元年)、鋼三郎は昌平黌に入学している。しかし、入学に至るまでの経緯には曲折があったらしい。『鶴梁日記』同年326日条に、「川島此兵衛ヲ鋼三郎事ニ付相招キ乃談判候処、能々了簡承糺申度旨申聞候間、任其意此兵衛同道、今日鋼三郎義此兵衛宅へ参ル」とある。推測だが、鋼三郎は昌平黌入学に積極的ではなく、父鶴梁の勧めにも応じないため、鶴梁は鋼三郎の伯父川島此兵衛(鋼三郎の母の兄・旗本岡田将監家来)に説得を頼んだのだろう。もっとも、それ以外にも父鶴梁との間に意見の相違等の確執が生じていたらしい。約1ヶ月後の翌閏328日条に、「川島此兵衛義、鋼三郎改心誤入候旨申述、且昌平江入学之儀も被申聞候間、承諾云々」と記されている。この間、兄国太郎が数度川島家を訪れていて、家に戻らない鋼三郎と話し合ったことが鶴梁の日記中に見える。

 

父鶴梁に鋼三郎の昌平黌入学の決意が知らされた翌日には、「国太郎と鋼三郎、至昌平、入寮相談初候事」とあり、翌49日にも2人で昌平黌を訪れている。そして、それから約3ヶ月後の73日条に、「今朝鋼三郎、聖堂ニおゐて学力吟味相済」とあって、その5日後の8日には「今日、鋼三郎、学問所寄宿ニ入ル、国太郎モ罷越云々」とある。鋼三郎は昌平黌の寄宿寮に入って、学問に励むことになったのである。鋼三郎が寄宿した昌平黌の寄宿寮について、『日本教育史料』第7巻にその概略が記されているので次に転載しておこう。

 

「寄宿人部屋ハ三棟アリ一棟十軒ツゝナリ三棟ノ内一棟ハ六畳四畳二タ間アリ四畳ハ家来ノ部屋ナリ三棟ノ内二棟ハ七畳ツゝナリ但シ三棟ニテ部屋ノ数三十アリテ三十人ヲ限トス御目見以上ノ者二十人御目見以下ノ者十人ノ定メナリ御目見以上ハ四書五経素読ニテモ入学差許ス御目見以下ハ四書ノ講釈ナラテハ入学差許サス寛政以来ノ規則ナリ天保以来ハ相部屋又部屋ノ建立アリテ四十八人ヲ定トス。(中略)学則ハ二七ノ日午前輪講三八ノ日朝五時前経義ノ講釈試アリ一ケ年文会四度詩会二度膳部并餅菓子ヲ賜ハル但シ詩文会ハ通稽古人諸藩士ノ者モ出席ノ事」

 

この寄宿生以外にも、昌平黌生徒には通学して学ぶ者(通学生にも句読生として毎日稽古場に通って教授方出役の教えを受ける者と、寄宿寮の南楼に部屋があってそこから通学する者の2種類あった)があり、また、諸藩士や処士たちが寄宿する諸生寮(定員44)があった。鋼三郎の父鶴梁は家禄30(役高は150)ながら、弘化4年に永々御目見以上の身分になっているから、鋼三郎は旗本の扱いであった。

 

なお、『鶴梁日記』のこの年1117日条に、「川島此兵衛同道、鋼三郎來謁、此兵衛喫酒去。鋼三郎一宿、又明日も一宿、十九日帰寮」とある。鋼三郎は父鶴梁との間のわだかまりが消えず、326日以来この日まで家には帰っていなかったらしい。しかし、親の心子知らずで、父鶴梁は鋼三郎の昌平黌入学のため「入用弐十両」を用意する(410)他、鋼三郎の借金等「弐拾両」を返済(11)している。また、714日には「鋼三郎方へ日本人詩集并□(原注・博ヵ)議等遣ス」とあり、さらに同月21日には「鋼三郎方ヘナマリ節并茄煮付二重遣ス」とか、翌月15日には「聖堂ヘ団子六人分遣ス、但壱人団子十七ヅゝ、外柿・栗・豆添」等とあって、父鶴梁の親心は、鋼三郎と他の入寮者との融和にも心を砕いていたのである。

 

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万延2(1861219文久改元)22歳となった鋼三郎は、前年の7月以来昌平黌の寄宿寮で生活していた。寄宿寮の規則(日本教育史史料』第7)に、「寄宿任人外出ハ一ヶ月十度ニ限ル云々」とあり、鋼三郎も入寮以来時々家に戻っては宿泊していた。もっとも正月休みは別だったらしく、『鶴梁日記』この年正月4日の条には、「国、鋼二子、往賞雪於広尾」とあり、同月10日には「去ル二日、鋼三郎下宿イタシ、今日帰寮イタス也」、と記されている。この間、4日には兄国太郎と共に麻布の広尾へ雪景色を見物に出かけたのだ。2人が出かけた広尾は、明治40年刊行の『東京案内』に「広尾ヶ原=一に土筆ヶ原と称す。もと摘草及虫の名所にして、又枯野を以て知らる。次第に旧観を失うものありと雖も尚お茅花風に翻り、流流原野を縫うの景趣を存し云々」とある。兄弟は広漠たる雪の原野を遊歩し、互いに詩作に熱中したのかもしれない。

 

この年の8月、父鶴梁は柴橋代官の職はそのまま、予定される皇女和宮の将軍徳川家茂への降嫁に際して、これに供奉して江戸入りをする公家衆の接待掛を命ぜられた。『鶴梁日記』820日条に、「平服出勤之処、竹垣、荒井、林、森江下野殿被仰渡。此度、和宮様御下向ニ付、年頭兼勅使供奉之公家御馳走御賄御用被仰付」とある。幕府は、加熱一方の尊王攘夷運動への対抗策として、孝明天皇の妹皇女和宮と将軍徳川家茂の婚儀を画策し、曲折の末この月5日に孝明天皇の了解が得られ、下向は10月中旬と決定していたのである。鶴梁と共に公家衆接待掛を命ぜられた「竹垣」とは竹垣三右衛門(直道)、「荒井」とは荒井清兵衛(顕道)である。余談だが、荒井清兵衛の長男は、蝦夷共和国の海軍奉行となり、維新後初代中央気象台長となった荒井郁之助である。

 

父鶴梁は公家衆接待掛となった3日後の823日、接待場所となる伝奏屋敷に出向き、その2日後の25日には、本務である柴橋・寒河江領内の検見のために江戸を出立した。この年の914日以後の『鶴梁日記』は欠けているため、鶴梁が支配領地の検見を終えていつ江戸に戻ったのか、また、和宮の江戸到着後の公家衆の接待がどうだったのかも一切が不明である。皇女和宮1020日に京都を発駕し、中山道を経て1115に江戸に到着しているから、鶴梁はそれ以前には帰府していたはずである。和宮に供奉して東下した公家は、権大納言中山忠能、権中納言今出川実順、左近衛中将八条隆声、同今城定国、左近衛権少将千種有文、右近衛権少将岩倉具視等々の人たちであった。将軍家茂と皇女和宮の婚儀が行われたのは翌年211日なので、公家たちが帰京するまでの間、鶴梁も心労の日々を送ったことだろう。

 

『鶴梁日記』で追える鋼三郎の姿はこの文久元年が最後なので、その7月と8月中の鋼三郎に関する記事をいくつか拾っておこう。まず73日、異母妹の瑟5歳が病死するという不幸が林家を襲った。その日の条に、「即刻鋼三郎方へ手紙遣シ、(中略)鋼三郎、乗馬、駆来云々」とある。突然の悲報に、鋼三郎は昌平黌寄宿寮から馬を駆って家に戻ったというのである。訃報に接した鋼三郎の驚きと、妹瑟を思う情愛の深さが窺える。葬儀の行われた同月5日の条には、「川島此兵衛・鋼三郎、平服ニ而寺江参り、世話いたす」とあり、同月11日には「澄和泉寺・正福寺壹朱ヅツ、鋼三郎持参」、と記されている。そして、同月16日の条に「鋼三郎当月3日下宿、今夕帰寮」とあるから、鋼三郎は半月近くも在宅して、妹の葬儀等の万端を率先して行ったらしい。突然の妹の死の癒しがたい悲しみも、帰寮を遅らせた原因だったのかも知れない。

 

『鶴梁日記』87日条には、「国太郎儀、昨日昌平参候処、鋼三郎食傷いたし、臥床いたし候由」とある。ちなみに、この前々月24日条には、「鋼三郎儀、国太郎病気見舞ニ来宿ス」、と記されている。妹瑟の葬儀等に国太郎の姿がなかったのは、当時まだ病が癒えていなかったのかもしれない。それはともかく、前にもふれたが、こうした記事を見ても鋼三郎と兄国太郎の仲の良さが窺える。なお、鋼三郎が『鶴梁日記』で確認できるのは、父鶴梁が検見のために江戸を出立した際の見送り人の中に、その名が見えるのが最後となっている。

 

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文久2年、鋼三郎23歳のこの年(或いは翌年1月ヵ)、鋼三郎は羽倉簡堂家へ養子に入っている。その経緯については、望月紫峰の「藤森弘庵の交友範囲」の中に、「此年(文久2)は麻疹が流行し、簡堂も其の養子の内記も、これに罹患した。内記先づ死し、簡堂亦起たざるを知って、近親に謂って日く、『我無き後は、鶴梁の二男鋼ざぶろうに乞ふて、我が家を継がしめよ』と、遺言は、その通り実行され」た、と記されている。死期を覚った羽倉簡堂がその病床で、鋼三郎を自分の後継にするよう、遺言したというのである。優秀な門人や知人も数多くあった中で、鋼三郎に白羽の矢が立ったのだ。簡堂は生前から鋼三郎に嘱目していたのだろうか。『鶴梁日記』を見る限り、父鶴梁が年始で羽倉家を訪れる程度で、深い交際があったようには見えない。もっとも、万延元年1028日条に、「羽倉之儀、祭酒為尋候処、儒官ニは不承□(原註・墨黒・知ヵ)也」とあり、「羽倉」は羽倉簡堂と思われるので、この時鶴梁は林大学頭学斎に簡堂を昌平黌儒官に推薦したらしい。2人の間には日記上にはない交友関係があったのだろう。なお、鋼三郎の師藤森弘庵と羽倉簡堂は親交があったので、簡堂は常々弘庵から鋼三郎のことを耳にしていたのかも知れない。

 

羽倉簡堂とその養子内記()の命を相次いで奪った麻疹について、『武江年表』に「(文久2)夏の半ばより麻疹世に行われ、七月の半ばに至りてはいよいよ蔓延し、良賤男女この病痾に罹らざる家なし」とある。また、この時麻疹で命を失った者は、「幾千人なるを量るべからず」とも記されている。羽倉簡堂が死去した日については、『明治維新人名辞典』には閏821日とあるが、『東京掃苔録』(『續日本史籍協会叢書』)には73日とあり、『国書人名辞典』、『江戸文人辞典』、『江戸幕臣人名辞典』等はみなこの日とっている。しかし、羽倉簡堂と親交のあった幕臣川路聖謨の「座右日記」(川路聖謨文書』)を見ると、この年閏821日条に「雨、羽倉外記、今暁病気差重之旨為知来る」とあり、翌91日条に「羽倉外記病死に付、茶并花を太郎(聖謨嫡男)に為持遣し候」と記されている。死去の日を91日とは断定できないが(前日の可能性もある)、「座右日記」に間違いがなければ、羽倉簡堂の死亡日は閏821日でも、73日でもなかったことになる。なお、羽倉簡堂の享年は73歳、目黒区芝三田台町の浄土宗正泉寺に葬られた。川路聖謨は亡友簡堂を偲んで「座右日記」に、「あすの日はわれも行ぬるみちなからしはしか程の別れ悲しも」と、「あすよりはいかに世を経む君のみそむかしをかたる友にりしか」の2首の歌を記している。ちなみに、鋼三郎に関しては「座右日記」の翌年24日条に、「羽倉外記跡相続人初見」とだけ見える。

 

羽倉簡堂に先立って病没した簡堂の弟で養子の羽倉内記については、「慎徳院殿御実記」(『続徳川実記』)天保13124日条に「代官羽倉外記養子内記」とあるから、簡堂は早くから弟内記を養子としていたのである。紹介が遅きに失したが、鋼三郎を養子に懇望した羽倉簡堂は、名は用九、字は士乾、通称は外記と称した。簡堂は号で、晩年は蓬翁と号している。寛政2(1790)に、大阪の代官を勤めていた羽倉秘救(権九郎)の子として生まれた。同5年に父秘密救が豊後国日田の代官(後に郡代へ昇任)となり、簡堂は青少年期をこの日田の地で過ごし、広瀬淡窓の薫陶も受けたという。簡堂19歳の年、父秘救が在職中の日田で病死したため、簡堂は父の職を継ぎ(家禄80)、見習いとして亡父の支配所を預かった。翌年越後国脇野町の代官となった後は、下野、駿遠、房総等の代官を歴任すること30年余に及んだ。天保13年には老中水野忠邦に抜擢されて納戸頭、次いで勘定吟味役となって天保の改革の枢機に参与したが、忠邦の失脚に伴って家禄半減、小普請入りの上逼塞の処分を受けた。翌年許されたが、以来公職に就くことはなかった。

 

公職を退いた後の羽倉簡堂は、神田和泉橋通りの屋敷に開塾して門生の育成と読書や著述に専念した。牧野健次郎著『維新傅疑史話』に、「(羽倉外記は)旧幕の名士なり。博覧多識、最も温史に精通せり。世因りて『通鑑羽倉』の目あり。蓬翁家塾あり、員を限り之れを舎す。視ること猶ほ子姪のごとし。参河の松本奎堂等秀才を以て其の愛する所たり云々」とある。松本奎堂が塾頭の当時この塾に入った仙台藩士岡鹿門は、その著『在臆話記』の中で「簡翁ノ人物、旗士ニ其類ヲ見ザルノミナラズ、恐ラクハ当世儒流ニ其倫ナカラン」と評している。

 

話をもとに戻そう。「幕末の儒者林鶴梁」によると、この年(文久2)9月、父鶴梁は柴橋代官を免ぜられて新御番となったが、12月には御納戸頭を命ぜられたとある。『徳川幕府代官全人名辞典』には新御番入の事実の記述はなく、「81日増地で関東代官へ場所替となる。同年1218日に納戸頭となり、布衣を許され、100俵高へ加増」、と記されている。『徳川幕臣辞典』もほぼ同じ内容だが、「贈従五位林伊太郎傅」では「文久二年和宮御付となり尋で御納戸頭に進み云々」とある。「贈従五位林鶴梁傅」の記述はともかく(前述のように、公家衆接待掛は柴橋代官兼務で、また「和宮御付」ではない)、御納戸頭に任ぜられる以前に新御番組入したのか、または関東代官に就任したのかである。ちなみに、関東郡代は関東の天領を分割支配するために5人の代官が置かれたという。或いは、和宮に供奉した公家たちの接待役となった鶴梁以外の2人が関東代官の職にあったことから、鶴梁も同じ職にあると混同されたのかも知れない。

 

この文久2年には、父鶴梁の畏友で鋼三郎の学問の士であった藤森弘庵が病死している。弘庵は安政6年以来行徳で流謫の生活を送っていたが、前年早春に南総から房州方面を遊歴し、この年4月に行徳に戻ったものの翌月には再び上州に旅立ち、12月上旬まで西上州の各地に遊んだ。なお、弘庵が行徳を留守にする理由について、上州藤岡から弘庵が友人の田口江村に宛てた書中に、「実は、嫌疑多き時節ニ付、宅に候得ば、書生抔来り候て、慷慨談抔致候得ば、まさか黙視も不相成、つゐに一二及答え候得ば、次々伝播面倒ニ而」家を開けている、と記している。

 

弘庵が上州遊歴から行徳に帰宅すると、そこには友人羽倉簡堂の「詠史」が届いていて、弘庵は同月27日付けでこれに評点を加えて返書している。その書中には「小生抔も衰候甚敷、大に弱申候、(中略)此間中少々出かけ候て試候処、余程大義に覚候間先ちゞめ候て、少々北越辺計に致候積に相成候」、と記されている。しかし、その後の弘庵の病勢と身体の衰弱の進行は著しく、北越への旅は実現しなかったのである。胃癌だったという。病状は日ごとに進み、翌年9月に至って危篤に陥った。この間友人や門人たちが奔走し、103日に弘庵の罪が許されると、門人たちは弘庵を輿に乗せて江戸本郷龍岡町の次男の家に送り届けたという。弘庵は同月8日この家で瞑目した。64歳であった。葬儀は5日後の13日に行われている。その席上には、父鶴梁と兄国太郎と共に鋼三郎も参列していたと思われる。弘庵は港区南麻布の臨済宗曹渓寺に葬られた。

 

※以下は(3)に続きます

29 羽倉鋼三郎とその周辺

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実父(林鶴梁・括弧内は原註とない限り筆者註)と養父(羽倉簡堂)が共に高名な幕臣儒者で、慶応が明治と変わる直前、前橋藩兵等によって殺害された羽倉鋼三郎については資料も乏しく、これまでその生涯を追うことを断念していた。しかしその後、実父林鶴梁の日記(保田晴男『林鶴梁日記』・以後『鶴梁日記』という)に見える青少年期の鋼三郎と出会ったことから、ごく僅かな資料ながら、筆者の知る限りでその生涯を明らかにしておくこととした。なお、羽倉鋼三郎に関しては、會谷誠の「羽倉鋼三郎傅」と羽倉杉庵撰「羽倉鋼三郎傅」があるというが、筆者の怠慢からその何れも未見であることをお断りしておきます。

 

羽倉鋼三郎は、字を叔練といい、雨窓(迂窓)と号した。鋼三郎は通称である。後年官軍への反抗に尽瘁した際には、赤羽甲一の変名を用いている。その鋼三郎は林鶴梁と、旗本岡田将監の家来川島多久間(達馬)の次女久(雅号小香)の子として、天保11(1840)82日に生まれている。同腹の同胞は、後に昌平坂学問所の教授となった8歳違いの兄邦太郎(名は鈞・天保3年生)と、3歳年上の姉鈴(天保8年生)、それに異腹の弟卓四郎(夭折)と妹の琴がいた。

 

鋼三郎の父林鶴梁について、その心友藤森弘庵(天山)は、「長孺は気健にして胆大なり」と評している。鶴梁は死ぬまで髷を結い、洋品様物を家にいれることを禁じて、「拙者一代は攘夷で押し通す」と、常に枕元に大小を置いて寝たという(『伝記』収載望月紫峯「藤森天山の交友範囲」)。鋼三郎はこの父の気性を最もよく伝えていて、磊落で小節に拘らず、酔うといつも剣を抜き、王郎斫地の歌をうたうのが常だったと伝わる(望月茂著『藤森天山)。「羽倉鋼三郎傅」には鋼三郎の人となりについて、「幼ニシテ、鋭敏、稍々長ジテ、読書ニ従事ス、然レドモ章句ヲ治メズ、大義ヲ領スル耳、人ト為リ気ヲ負ヒ、苟も小節ニ拘ラズ」とか、「酒ヲ被リ無頼ナリ」とあるという。父鶴梁もまた酒豪であった。

 

父林鶴梁の通称は鉄蔵、後に伊太郎と改名している。鶴梁は号で、他に鶴橋・酔亭・蒼鹿等々の別号があった。鶴梁は武家の生まれではなく、上野国群馬郡荻原村(群馬県高崎市)の西川力蔵(西川家は「長者屋敷」と呼ばれた富家であったという)の子であった。生年は文化3(1806)813日である。鶴梁が後年(鶴梁33歳当時)旧師に贈った長詩の中に、「我生レテ六年始メテ書を読ム。十五ニシテ志君子ノ儒ニ在リ、不才不学中道ニシテ廃ス。般楽怠敖我吾ヲ忘ル。二十四歳始メテ節ヲ折リ、焦心苦学スルコト幾蛍雪云々」とある。この長詩を贈った旧師とは井田蘇南のことで、鶴梁はこの家に預けられて学問に励んだという。井田蘇南は上野国佐波郡玉村宿(群馬県玉村町)の人で、通称は金平、蘇南は号で、芹坪の別号があった。亀田鵬斎・綾瀬に学んで玉村宿で家塾存古堂を開き、近隣子弟の教導にあたっていた人である。

 

鶴梁はその後江戸に出たというが、それは先の長詩にある「十五ニシテ志君子ノ儒ニアリ」とある15の年(13歳とも)であったかどうかは定かでない。江戸に出た鶴梁は幕臣中山孫左衛門(御先手組頭)の家に寄寓して、高知平山(人物不詳)に師事する傍ら、推橋という人物に武芸を学んだという。その後間もなく中山孫左衛門の手引で林家の同心株を買い、「幕府武庫吏林佐十郎家」を嗣いだ。同心株は凡そ200両したというが、一説にその金を旧師井田蘇南が出したというが、これも定かではない。

 

先の長詩にあった「般楽怠敖我吾ヲ忘」れた時期はその前後のことだろうか。『鶴梁文鈔』にも「昔余少時遊蕩」と記している。このことに関して鶴梁の娘婿村田清昌が史談会(明治3112)で、「(鶴梁は)侠客の群に這入って十七、八歳よりは世に跋扈して害をなすものがあれば、面責いたし或いは打倒したと云うことで、麻布辺で林鉄と云うと人が恐れたと云うことでございます」、と語っている。鶴梁は一時期、学問の道から外れて遊侠無頼の生活を送ったというのだ。もっともそれは、「世の中段々と道徳の頽廃しますことを」嘆いてのことであって、文化の爛熟した文化文政期の頽廃した世相と武士の堕落に義憤を覚えてのことだったらしい。

 

鶴梁は24歳で心機一転「焦心苦学」するようになったと長詩にあったが、鶴梁は17歳の文政5年には友人山崎苞(如山)の『釣詩亭百絶』の序文を藤森弘庵と共に草している。鶴梁は7歳年上の弘庵や弘庵より年長らしい山崎苞等とも、それ以前から親交を結んでいたのである。なお、鶴梁は佐藤一斎にも師事したというから、藤森弘庵との親交などを考慮すると、17歳の当時は既に相当の学識を備え、詩文にも通じていたものと思われる。    

 

「焦心苦学」発心の動機となったのか、鶴梁はこの文政1224歳で川島達馬の次女久(小香)17(16とも)と結婚している。鋼三郎の母となる人である。妻久の雅号小香は、馥郁と香る梅花をこよなく愛した鶴梁が自ら名付けたという。この愛妻久は夫に先立って死去しているが(後述)、後年鶴梁は「亡妻川島氏墓表」(『鶴梁文鈔』)を書している。鶴梁の妻への深い想いが忍ばれるので以下に転載しておくこととする。

 

(前略)年十六、余ニ嫁ス、性婉順、詩書ヲ習ヒ、女工ニ善ㇱ、物ト□然抵ルコトナㇱ、舅姑事ニ事ヘテ克ク孝、内ヲ治メテ克ク勤ム、昔余少時遊蕩、年二十四、節ヲ折リテ書ヲ読ム、氏暁毎ニ余ニ先チテ起キ、洒掃畢リテ雅乃チ啼ク、一日風雪寒甚ㇱ、余臥ㇱテ褥中ニ在リ、枕ヲ欹テ仰ヒデ火盆ヲ案側ニ置キ、単座ㇱテ余ノ起ルヲ待ツヲ見ル、其ノ勤苦率ネ此ノ類ナリ、嗚呼、余ノ疎懶ヲ以テ尚能ク今ニ至リ、一、二名流ノ檳棄スル所トナラザルヲ得ル者、氏ノ劭助アルヲ以テナリ、二男一女ヲ産ム、(中略)晩更一女ヲ産ム、夭ス、氏亦タ是ノ日ヲ以テ卒ス、悲ㇱイカ(下略)

 

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父鶴梁は結婚の翌年長野豊山の私塾「積陰書屋」に入門した。佐藤雲外の「藤森弘庵と交渉をもつ人々」(『上毛及上毛人』)によれば、鶴梁を豊山の私塾に誘ったのは友人の藤森弘庵であったという。その弘庵が長野豊山の門を叩いたのは文政8(1825)であった(藤森天山)。弘庵の門人依田学海(百川・佐倉藩儒)の日記(『学海日録』)安政4(1857)116日条に、「林与先生同長野豊山、為高足弟子。(中略)林俊才多幹略云々」とある。鶴梁の心友で、後に鋼三郎の学問の師となった藤森弘庵は、播州小野藩一柳家(1万石)の家臣藤森義正の子として寛政11(1799)に生まれた。通称は恭助、名は大雅、字は淳風、弘庵は号で、安政の大獄後は天山と号した。柴野碧海、長野豊山古賀穀堂、古賀小太郎、古賀茶渓等に学び、父の跡を継いで天保2年に祐筆兼世子の侍読となった。しかし、天保52月に故あって致仕したという(藤森天山)。なお、藤森弘庵については友人世古格太郎(延世・神職国学者)の「唱義見聞録」(『野史台維新史料叢書』)に、「為人沈実果断大胆にして智略あり経学詩文共に長したるは世の知る所にしてまた書を能し方今の儒士にしては如斯兼備せるはなし故に儒家にて泰山北斗の称あり其志尊王攘夷にありて始終不変其学風は実用を尊ひ国家の弊風を正整せん事に力を尽しけり」とある。

 

鶴梁と弘庵が師事した長野豊山(名は確、通称友太郎)は伊予川之江の人で、中井竹山に学び、その後昌平校で修学した。伊勢神戸藩校教倫堂の教授や川越藩校博喩堂教授を勤めたが、文政8川越藩を辞し、江戸の麻布森本町に開塾していた。門人には鶴梁や弘庵のほか、尾藤水竹、保岡嶺南、久永松陵、大橋訥庵、遠山雲如等がいる。豊山天保5年夏に病に倒れ、以後は寝たり起きたりの状態だったらしい。同88月に55歳で没した。

 

鶴梁は27歳の天保3年に松崎慊堂に入門した。『慊堂日歴』同年227日条に、「須臾にして大槻士広・前野東庵・林鉄蔵・広沢権平また来る云々」と記されている。なお、静嘉堂文庫蔵の「日歴」原本の同日の末尾に、「林鉄蔵、井田定七門人、(中略)谷町同心、廿七歳、頗解書、始謁、士広(大槻磐渓)為介」とあるという。鶴梁を松崎慊堂に紹介したのは大槻盤渓(蘭学者大槻玄沢次男)だったのである。松崎慊堂は佐藤一斎同様高名な儒者なので、ここでは触れない。ただ一点、『松崎慊堂』の著者鈴木瑞枝氏は、その著の「まえがき」冒頭で、「松崎慊堂の人間的魅力の第一は、他人を思う暖かな心にあると言って差し支えないであろう」と記していることを紹介しておきたい。蛮社の獄で罪を得た門人渡辺崋山の救援の話はよく知られている。鶴梁の松崎慊堂との師弟関係は慊堂が没する天保15年まで続いていたという。

 

鶴梁が松崎慊堂に師事した年の2月、鋼三郎の兄(長男)邦太郎が誕生している。その翌年鶴梁は藤森弘庵との共編で『温飛卿詩集』を上梓した。長野豊山が保岡嶺南に宛てた同年1110日付け書中に、「此度藤森ト林ト両人温飛明ノ詩集ヲ刻シ申候、両人貧生ニ而糊口之助ト仕候為ニ刻シ申候也、御地ニ而少モ御売リ捌キ被成被遣候得ハ両人之窮乏ヲ救可被下候云々」と記されている。202人扶持の林家は家族も増えて生活に窮していたのである。既記のごとく藤森弘庵安政52月に小野藩を致仕したが、その年の9月には秋田藩士確井左中(大窪詩仏の姪)の紹介で土浦藩藩士子弟の読書指南として採用された。弘庵の才能を認めた大久保要(当時土浦藩御者頭火之番役)は、翌年6月藩学改革建白書草案を記して、弘庵を藩学指導の適任者として強く推挙している。

 

当時の土浦藩学は崎門学派が席巻し、弘庵(朱子学)の推挙問題は藩内の内訌にまで発展した(望月茂著『大久保要』)。弘庵の身を案じた鶴梁は、この年7月弘庵に親身な手紙を送って早々に土浦を退去して江戸に戻るよう勧めている(『鶴梁文鈔』)。しかし、弘庵は江戸に帰ることはなかった。大久保要の支援もあったのだろう翌天保77月には、その出精を賞されて金300疋を賜り、翌年9月には土浦藩学の引立方を委任され、扶持米も6人扶持から20人扶持に改められている。

 

天保88月長く病んでいた長野豊山が死去した。広岳禅院(芝区日本榎町)に葬られたが、その墓碑の撰文は鶴梁である。師豊山死去4ヶ月後の同年12月には鋼三郎の姉(長女)鈴が誕生した。その翌年鶴梁は鉄砲箪笥同心の組頭に任ぜられている。そして、その3年後の天保1182日に鋼三郎がこの世に生を受けたのである。時に父鶴梁は35歳、母は30歳で、兄邦太郎は9歳、姉鈴は4歳であった。この当時の林家の家族は、鋼三郎の父母兄姉以外に、鋼三郎には祖母に当たる父鶴梁の義母(62歳・妻小香の母という)が同居していた。

 

鋼三郎が生まれた翌12年、父鶴梁は奥火之番、次いで御徒目付に任ぜられた。翌13年には勘定方、その年の6月には評定所留役助となっている。この栄転には鶴梁の友人で、水戸藩徳川斉昭の股肱の臣藤田東湖の尽力が大きかった。天保128月末に東湖が鶴梁に宛てた書翰に、東湖が勘定奉行川路聖謨に対して「何卒林おば此上当路へ御推挙被致度旨述候へば、いやさか勘定所は、当路小普請方辺は横道の様に候へ共、横道の中、又当路へ出身の捷径も有之、いづれ林へ逢候而承度との事云々」と記されている。それから12年後のことと思われるが、東湖はまた鶴梁を昌平校儒官の佐藤一斎に対して鶴梁を儒官に取り立てるよう要請した。その一斎あて書翰に、「林が為人を称道し、卒伍に居らしむべき人にあらず、願くは是を祭酒にすすめよ」と推挙したが、「一斎も兼て其人を知れり、然れども当今の事情、容易に書生の推挙なしがたし」、と断られてしまったとある(藤田東湖全集』中「見聞偶記」)藤田東湖は鶴梁の才能を高く評価していたのである。

 

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鋼三郎が4歳となった天保14年の9月、父鶴梁は突然評定所留目役助(役高20010人扶持)の職を解かれて元の御勘定所帳面方掛(役高150)に任ぜられた。何があったのか左遷である。これより以前のこの年316日、林家に予期せぬ不幸が襲っていた。鋼三郎の母が産褥熱が原因で突然逝去してしまったのだ。前日15日の父鶴梁の日記に「夕分頃帰宅之処、拙荊()虫気(産気)ニ而、唯今臥り候趣、夫ゟ苦痛、晩九時過男子出産後尚又苦痛、死去いたし候云々」とあり、翌16日には「暁子下刻、細君産後死去云々」と記されている。生まれた男児もまた生後間もなく死去してしまった。最愛の妻を喪った鶴梁の悲嘆は激しく、日記に「誠に慟哭不堪」とか「鬱悶困苦云々」等と書き付けている。

 

父鶴梁の亡き糟糠の妻に対する哀惜の念は相当に深かったらしく、日記中に亡妻の夢を見た事実が度々記されている。鋼三郎も関係する亡妻の夢も多い。その年1011日条には、「此夜小香、自外遽入室来(中略)、小香抱剛児而臥焉云々」とある(日記はこの年末から弘化3年まで欠落)。また、妻小香との死別後4年近くを経た弘化4(1847)611(鋼三郎8)には、以下のように夢の内容を克明に記している。

 

「今朝夢玄麟(中略)、又小香来将帰、投指南器於吾枕上、吾送之数十歩与小香倶行(中略)、路上剛三郎在焉、吾指之謂小香日、是鋼児也、近日児髪位置不佳、乃剃髪、髪存者両鬢与領上爾、於是携児、又与小香倶出辰門(甲府辰町門)而右行数歩、小香云、此別甚惜然、奚須向蕎麦店頭、乃叙離情哉、吾携児涕泣嗚咽、夢乃覚、別時余伏行携児、小香直立」

 

父鶴梁は亡妻への強い哀惜の念と、幼くして母を失った鋼三郎に対する憐憫の情がそうした夢を見させたのだろう。「児啼泣嗚咽」とあるが、母が亡くなった時4(27ヶ月)で死の何たるかを知らない鋼三郎も、動かぬ母の骸に取りすがって嘆き悲しんだのだろうか。その時の有り様が鶴梁の脳裏に深く刻み込まれていたからこそ、そうした夢を見たのだと思われる。鶴梁は年を経ても亡妻小香への愛惜の想いは消えず、「鶴梁翁十日録」に「半生汝ト辛苦ヲ同ジウシ。白首期ヲ為シテ忽チ折催ス。旧ヲ想ヘバ今ノ如ク声涙迸シリ。黃昏ノ墓道ヲ独リ徘徊ス」、とあるという。鶴梁は、妻小香の死去した年の5月には鉄蔵の名を伊太郎と改めているが、愛妻の死が関係していたのかも知れない。

 

国太郎(12)・鈴(7)・鋼三郎(4)3人の幼児と年老いた義母(67)を抱え、自らの生活の前途を思い鶴梁は途方に暮れたことだろう。乳離の遅かったらしい鋼三郎には乳母を雇い、幼い鈴は知人に預けて急場を凌いでいる。そんな鶴梁の身を案じ、その後再婚の話が幾つもあったが、その年の12月鶴梁は門人中井虎之助(忠蔵)の姉庫子(30)と再婚した。鋼三郎の母となった庫子は、当時長府藩毛利右京亮の上屋敷で奥向の右筆を勤めていたという(鈴木常光著『幕末の奇士桜任蔵伝・貧侠桜花散』)。なお、「贈正五位林伊太郎傅」(『江戸』第5巻収載)等には、鶴梁の友人の桜任蔵(真金・村越芳太郎)が媒酌の労をとったとあるが、『鶴梁日記』を見る限りこれには疑問がある。結婚に至る経緯は、その年627日の条に「虎生ゟ姉之咄有之間、可然旨答候事」とあり、翌々月8日には「夜、与虎生姉之事、細々談事」と、また、その6日後の14日には「虎生夜来、云如左、姉方江一昨日母参候処、(中略)互ニ熟話いたし、姉も得と勘弁いたし候、(中略)然ル上は、早々に上り度候得共、十月下旬ニ無之而は幼主之母帰府不致」ため、奥家老から幼主の母が戻るまで待つよう頼まれているので、「何卒其節ニ参度旨姉申候由云々」と記されている。

 

鋼三郎の継母庫子が実際に林家に入ったのは、その年121日であった。婚儀はごく内々で、至って簡素に行われたらしい。この日の『鶴梁日記』中に、「此夜無客、数右衛門・虎生并同人母・家母・国児・鶴梁・庫子・竹栖夫婦、九人也」とある。仲人役は桜任蔵ではなく「竹栖夫妻」だったのである。「竹栖」とは渋谷碧(酒候)の号である。讃州高松の医師の子で、水戸に学ぶこと10年余、この間原南陽や藤田幽谷に学ぶ傍ら広く水戸の有志と交遊した。後に江戸に出て松代藩侍医渋谷養説を嗣いで同藩の侍医となった。蘇東坡に私淑してその書風を習い、自ら東坡坊と称してその書室を惟有蘇斎と名付けていたという。医業の傍ら書法を教授していた鶴梁と昵懇の儒医である。

 

なお、鶴梁と桜任蔵も別懇の仲であった。『鶴梁日記』に頻繁にその名が出ている。望月茂著『佐久良東雄』に、2人に関する逸話が記されている。それによると桜任蔵は「高山彦九郎を崇拝し、(中略)林鶴が彦九郎の日記全部を所持していると聞いて、泣いてこれを強求した。鶴梁も、その熱意にうごかされて、これを譲渡した」という。今もなお常陸地方に彦九郎の遺物や遺墨の多いのは、任蔵が蒐集に熱心であったことによるらしい。

 

桜任蔵は常陸国新治郡真壁町の医師の子で、藤田東湖や宮本茶村(任蔵は塾頭であった)に学び、東湖を介して川路聖謨の知遇を得て小禄ながら幕臣となった。後年のことになるが、水戸藩の弘化の難に際し、職を辞して徳川斉昭や東湖の雪冤運動に奔走した。その後の任蔵の尊王攘夷活動等については紙幅上割愛するが、鋼三郎もその謦咳に接しただろうこの人の人となりを知る資料を記しておきたい。それは、『学海日録』安政5824日条に記される新津圭斎の話で、「任蔵は義侠の名有り。甲寅の歳(安政元年)、都下に大震ありて、士民饑渇せり。任蔵は書を鬻ぎ剣を売り、全治せし所の者数千人あり。又節に死せし者に於て一書を著作し、以て不朽に伝えんとせり。嗚呼、当今若の如きの人幾何ぞ、余之が為に赧然たり」とあり、同じ依田学海の「先師(藤森弘庵)が友人桜任蔵の逸事」には、「先師も任蔵は奇人というより奇書だ、世間の奇事が残らず頭に入っておる。お前たち、若し文章の材料が無かったら、任蔵の話を聞くがかろうと云った。そこで私が尋ねると、一間きりの草屋に住み、書物に埋もれて転寝をしている。訳を言うと大いに喜び、古人の奇事、逸聞を語ったが、一つとして拠り所のない話はせぬ。必ず本を引き出して証明する。正確で尾鰭をつけぬ云々」、とあるという。

 

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ここで鋼三郎の継母の実家である中井家の人びとについても触れておきたい。野口勝一「野史一班」(『野史臺維新史料叢書』36)に、「中井丈右衛門鎗術ヲ以テ久留米藩ニ仕フ、故アリ藩ヲ脱シテ江戸ニ遊フ、子三人アリ、長ヲ数馬、次ヲ長観、三ヲ忠蔵(虎之助)ト日フ」とあるが、ここでは女子の庫子が除かれている。庫子は次男長観の妹で末子忠蔵の姉である。庫子の父中井(本姓は三井)丈右衛門については、『鶴梁日記』天保14913日条に「中井丈右衛門(原注・七十八歳病死、去る戍ノ七月十二日)、称三井氏、久留米藩士、出仕于深津主水(原注・監察御史)、ダルマ門前(中略)、又追々勤仕いたし、遂仕于勝田将監云々」とある、母については「卯六十一」、旗本大久保甚四郎の家来久我新右衛門の妹で、「三井氏深津ニ居候節、嫁来ル由」とある。また、『鶴梁日記』に父丈右衛門が勝田将監に仕えた時、「虎生二歳、庫子六歳」とある。

 

鋼三郎の継母庫子の長兄数馬(数右衛門・卯37)については、先の「野史一班」に、「数馬曾テ江戸与力トナリ、麻布我善坊町ニ住ス、薩州藩日下()伊三次ト隣ル、意気相投シ往来時事ヲ談ス、一日町奉行吏三四十人伊三次ノ家ヲ囲ム、伊三次、数馬ノ家ニ逃ル、数馬己レノ衣ヲ脱シ之ヲ着セ、窃カニ屋後竹林ヨリ脱セシム、吏数馬ヲ捕テ伊三次ノ所在ヲ問フ、数馬実ヲ吐カス、遂ニ之カ為ニ獄ニ下サル、拷問甚タ厳ナリ、既ニシテ伊三次ヲ捕ヒ数馬ヲ免ス、一日ヲ隔テ死シ、家為メニ絶ス」とある。言うまでもなく安政の大獄時の話である。「贈正五位林伊太郎傅」に、日下部伊三次は「名を宮崎又太郎と変じ(鶴梁が)妻の兄中井数馬(原注・御先手与力)に寄て麻布我善坊に潜むましむ」とある。なお、高松藩の尊攘家長谷川宗右衛門が日下部伊三次に宛てた安政5年正月18月付け書簡中に、「中泉林(鶴梁・当時駿州中泉代官)へ面会候処学問文章実に感心仕候深夜迄寛話候云々」とある。これは「贈正五位林伊太郎傅」に載る書簡で、そこには「編者日」として、以下のようなことが記されている。

 

「日下部伊三次は(中略)安政戊午密勅東下の事に坐して囚はる贈正五位長谷川宗右衛門は峻阜と号す高松藩の勤王家なり水戸藩の事に関し奔走中幕府の逮捕急なりと聞き鶴梁翁の義弟幕府鉄砲方与力藤田忠蔵の家に潜匿し後遂に投獄せらる宗右衛門是より先安政四年十月十一月国勝手を命せられ帰国途中に鶴梁翁を訪問したるなり帰国に先ち其次男(原注・誠一郎後に豊田郡長となる)を日下部中井両人へ預けたり云々」

 

先の書簡中にも、宗右衛門は「豚児儀嘸々御世話何分御総容様へ宜敷相願候云々」と記されている。中井数馬の死は安政6514日、享年53歳。また、日下部伊三次は同じ年の1217日に獄死した。享年は45歳であった。なお、先の「贈正五位林伊太郎傅」の記述によって、当時虎之助は鉄砲方与力の職に就いていたことが明らかである。『鶴梁日記』天保14810日の条に、「虎生、黒鍬被仰付候礼ニ来ル、右為祝、鉄槍遣し候事」とあり、この年幕臣となったのである。ちなみに、虎之助の長兄数馬について、『井伊家史料幕末風雲探索書』に収載の安政511月の「江戸風分」に、「伊三次より右近将監(忠寛・伊勢守・当時禁裏付)に相頼、中井経蔵黒鍬(45年前黒鍬の明株を求めたという)より御台所番に成り、其後火之番、引続き御徒目付にて、直に海防掛を勤め、纔に弐ケ年を不満身分も進み、海防懸の局へ入候は伊三次姦計道具いたし候もののよし、経蔵は伊三次へ公辺の機密相洩し候儀に有之よし云々」とある。事実の真偽はともかく、中井兄弟は皆実力のある人たちだったらしい。

 

中井数馬が非業の死を遂げた際、数馬には妻と当時25歳の長男房次郎、22歳になる次女朝子の2の子があった。「野史一班」によると、数馬の死後「弟長観(三井国蔵)数馬ノ妻子ヲ護り、浅草に寓ㇱ、機ヲ見テ兄ノ志ヲ続カントㇱ、広ク天下ノ志士ト交ル、(中略)維新ノ時、長観横浜ニ趣キ商事ヲ営ミ下総屋ト称ス」とあるが、中井房次郎のその後については寡聞にして知らない。なお、「昭徳院殿御実記」(『続徳川実紀』第四巻)の元治元年525日条に、「御目見持恪富士見御宝蔵番、中井経蔵」に対して「外国奉行支配調役並」が仰せ付けられた記事がある。

 

中井数馬の次女朝子に関しては、石橋絢彦著『回天艦長甲賀源吾傅』(編者甲賀宜政の父は三井長観)収載の「杉浦梅譚小傅」に、「(杉浦梅譚の)後妻中井氏先ちて没す。中井氏、父を数馬と云ふ。(中略)戊午一件にて数馬の家名断絶したるを以て、鶴梁の幼女となりて杉浦氏に嫁せしなり。今其孫法学博士儉一、梅譚翁の祀を守る」と記されている。杉浦梅譚本人の『杉浦梅譚目付日記』中の「経年記略」文久3717日条に、「細君(原注・阿喜美)自家江嫁ス、(原注・林)猪太郎鶴梁養女、実家中井数馬死娘」とあり、さらにそこには「此縁組友人羽倉鋼三郎ノ周旋ニテ成ル」と記されている。実に鋼三郎が友人の杉浦梅譚と朝子(喜美と改名)の間を取り持ち、父鶴梁の養女として梅譚に嫁がせたというのである。梅譚自身が鋼三郎を「友人」と記しているが、当時の鋼三郎は24歳、それに対して梅譚は一回り以上も年上の38歳である。残念ながら2人の交友の実態は定かでないが、杉浦梅譚の人となりについて触れておきたい。

 

杉浦梅譚の通称は正一郎、諱は誠、梅譚は雅号である。文政91月に小林祐義(順三郎)の長男として生まれている。父祐義は久須見祐明(権兵衛)の次男で、前年旗本小林家の養子となったが、梅譚の生まれた翌年には離別し、一人実家の久須美家へ戻ってしまった。なお、父祐義は一生出仕せず、久須見邸の道場等で剣槍を教授するなどして一生を終わった人であった。梅譚は7歳の時に久須美家に引き取られた。久須美家の当主祐明は当時勘定組頭格の職にあったが武芸百般に通じ、詩文学芸にも長じた温厚で思慮深い人だったという。梅譚はこの祖父祐明に愛され、天保14大阪町奉行就任の際にも、梅譚を大阪に伴い諸事見聞を広めさせている。翌年勘定奉行として江戸に戻ると、その年、大金を払って旗本杉浦家(500)の相続権を買い取り、梅譚にこの家を継がせたのである。そして同年、梅譚は叔父豊田友直(父祐義の実弟・当時二の丸留守番ヵ)の長女登志子と結婚した。梅譚23歳の年であった。

 

梅譚は文武両道の士であった。学問は大橋訥庵に経史を、詩を横山湖山・大沼枕山に学んでいる。維新後、詩人の大家となり、晩年には晩翠社を創設してその盟主となった。ちなみに、勝海舟の『氷川清話』に、「詩は壮年の時に、杉浦梅譚に習った」とある。また、武術は、剣を直新影流の男谷精一郎に、弓術は本田庄太夫に学んだという。安政64月に槍・剣・居合の三術を将軍の覧に入れて賞賜を受け、門人も相応にあったという。大阪時代も祖父祐明の居合の相手を勤めたというから(祐明は田宮流の居合を上覧に供している)、剣は勿論槍や居合術は祖父や父の相伝だったのかも知れない。さらに梅譚は、砲術を坂本鉉之助や藤川太郎、安政28月からは下曽根金三郎に師事している。梅譚の官歴は、万延元年6月鉄砲玉薬奉行、文久25月洋書調所頭取、同8月目付、同37長崎奉行(辞退ヵ)、同月目付再任、同年10月諸太夫に任ぜられ兵庫頭を名乗る、慶応21箱館奉行となり、維新に至るまで在職した(明治以後は略)。この間、嘉永41月妻喜多が死去、安政2年喜多の妹多嘉と再婚、文久32日その多嘉も死去、そしてその年7月に鋼三郎の周旋で喜美と結婚したのであるが、これらを見る限りでは、鋼三郎と杉浦梅譚との接点の見当のつけようもない。なお、以上は元田脩三「久須見蘭林節及びその一門」(『歴史地理』第50巻第1号収載)等を参考にしています。

 

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話を元に戻そう。『鶴梁日記』は弘化元年から同2年が欠けているので、この間の鋼三郎とその周辺の詳細は定かでない。鋼三郎が7歳になった翌弘化3年の3月、父鶴梁が甲府徽典館学頭を命ぜられ、その月6日に江戸を出立して任地甲府に赴いている。家族を江戸に残しての単身就任であった。なお、それより先の28日の鶴梁の日記に、「鋼三郎儀、依田氏江入門いたす」とある。依田氏の誰であるかは不明だが、鶴梁は自身の出張に際し、鋼三郎への四書五経素読と書法の学習を依田氏に託したのである。日記の同月22日条には「国太郎儀元吉方江入門云々」とあるから、長期不在を機に、兄国太郎も信頼できる長井豊山塾の同門保岡嶺南(元吉は通称)の塾に通わせることにしたのだろう。嶺南はその師長野豊山の推薦で、文政10年に川越藩校博喩堂創建以来教授となって藩侯の侍講も勤め、『川越版校刻日本外史22巻の刊行にも尽力した人である。なお、日記の嘉永元年104日の条に「国太郎儀、此間中ゟ保岡代稽古致遣候ニ付、同人ゟ白紙□枚被相送候云々」とあるから、兄国太郎は入門2年後には師の保岡嶺南の代稽古をするほど学問が進んでいたのだ。

 

翌弘化43月、父鶴梁が甲府徽典館学頭の1年間の任期を終えて、その月11日に江戸へ帰り、小十人組(役高100)に戻った。なお、この年11月には鶴梁は新番(役高250)に番替となっている。鶴梁が江戸に戻った同じ3月、鶴梁の心友藤森弘庵14年間に及んだ土浦藩を致仕して、江戸日本橋南槇町に居を構えた。弘庵は天保14年には藩校郁文館督学を兼ねて郡奉行(弘化3年辞職)となっている。辞職の動機については諸説あり定かでないが、藩主はこれまでの功績により、弘庵に3人扶持を与えた。弘庵はその年12月には「嚶々社」という詩社を創め、また講筵を開いて門人を取っている。『鶴梁日記』313日条に「藤森恭助来る」とだけある。

 

鋼三郎はこの年8月になって依田某の塾を止め、木村良治の塾に通うこととなった。鶴梁の日記820日の条に、「依田某江鋼三郎相連レ、国太郎罷越、糊入百枚送ル、ツクヱ・硯具等下ゲル。木村良治江國太郎罷越シ、入門申入ル、承知、明日鋼三郎参ル積リ」と記されている。前年の鋼三郎の依田塾への入門時もそうだったが、こうした手続は常に兄国太郎(当時16)が父の代理を勤めていて、頼りになる兄だったのだ。

 

8歳の鋼三郎が木村良治の塾に入った翌月24日の鶴梁の日記に、「庫子義、客来中鋼児打擲いたし候間、差止候処、不取用候付、教諭及候処、相詫ニ付、差免」とある。来客の前で夫鶴梁の制止を無視して鋼三郎を打擲し続けたというのだから、継母庫子は相当強情で気の強い女性だったらしい。一方、父鶴梁はこの月3日に「今晩、夢小香来新居、叙情実、抱鋼児、歓笑如常云々」と記している。父鶴梁がこの年の6月にも、亡妻小香と鋼三郎の夢を見たことは前述した。こうした夢は、常に亡妻と鋼三郎であって、国太郎や鈴女でなかった。やはり亡妻への哀惜の念と共に、幼くして母を喪った鋼三郎への憐憫の情が鶴梁の心から消えてはいなかったのだろう。

 

幼少期の鋼三郎と継母との関係は鋼三郎の人格形成に何らかの影響を与えただろうと思われるので、もう一つのエピソードを記しておきたい。それはやや後年のことになるが、鋼三郎が14歳になった嘉永638日の林家内の事件である。『鶴梁日記』のこの日の条に、「庫、昨夜鋼児之儀ニ付立腹之処、今朝一人ニ而出宅ニ付、其趣数馬江文通及候処、他出之旨、乍去慥ニ手前江参候旨、老嫗被申聞候よし云々」、と記されている。継母庫子が林家に戻ったのは、それから3ヵ月近くを経た63日のことであった。その前月29日の日記に、「入夜中井老嫗来り、くら改心可致ニ付、詫云々被聞候事」とある。この間、兄の国太郎が連日のように中井家を訪れて継母の帰宅を促すなど、涙ぐましいほどの苦労をしている姿が日記に見える。

 

なお、これより前の弘化元年には異母弟の卓四郎が生まれている。『鶴梁日記』の嘉永2117日条に、「木村良治発会、鋼三郎拉卓四郎罷越す、鋼三郎二百文、卓四郎糊入米切二百枚持参」とあるので、10歳の鋼三郎は6歳の卓四郎を連れて木村良治の塾に通っていたのである。さらに、2年後の同4714日の条には、「鋼三郎、卓四郎両人ゟ岩田三蔵江素読世話ニ成候間、小杉紙一束遣ス」とあり、2人は木村塾に通う傍ら岩田三蔵にも素読を教授されていたのだ。しかし、その異母弟卓四郎がその年の12月に病死したのである。この日の鶴梁の日記に、「卓四郎儀、朝五半時過、死去致す云々」、と記されている。不幸は追い打ちをかけるように鋼三郎の家族を襲った。翌年326日の日記に、「暮六時過、於鈴死、渋谷脩軒、俵蘭海来、治療、不能救云々」とある。鋼三郎の3歳年上の姉鈴女は16歳であった。父鶴梁や鋼三郎の悲しみは如何ばかりだったろう。

 

嘉永47月から鋼三郎が素読の世話になった岩田三蔵は、この年3月から父鶴梁の門人となったばかりの人であった。その経緯が鶴梁の日記にある。34日の条に、「渋谷脩軒来迄入塾生之事云々、生名岩田三蔵、下総人、宮本水雲旧門生、手狭ニ付入塾相断ル」とあるものの、岩田の入塾の意志は固く、翌5日の日記には「岩田三蔵来、送松魚節一箱、喫午飯、去。又夕刻来ル積、夕刻来、喫酒飯、一宿、翌朝朝飯後去ル」とある。そしてその翌日の日記に、「渋谷生来、又々乞三蔵入塾云々ニ付、承諾す」と記されている。岩田三蔵(信卿)は後に幕臣となり、慶応210月に派遣された遣露使節(正使小出大和守)に徒目付として参加した人である。岩田の旧師宮本水雲とは宮本茶村のことである。既記のとおり茶村は鶴梁の友人桜任蔵の師でもある。ちなみに、筑波挙兵の将として敦賀で非業に死んだ竹内百太郎も、この人の門人である。その宮本茶村に学んでいた岩田三蔵は、入塾早々鶴梁から鋼三郎や卓四郎の素読の指導を託されたのだから、既に相応の学問を積んでいたのである。

 

父鶴梁は勿論、木村良治や岩田三蔵の指導のもと、鋼三郎の学問も進歩していたらしい。『鶴梁日記』の嘉永5323日条に、「国・鋼二児、堆橋輪講へ参候事、鋼三郎、今日初而也」とある。また、翌年39日条には「午後、詩会出席、高須鉄次郎(2人略)・三蔵・国太郎・鋼三郎、席上題、春雨」とある。嘉永5年は鋼三郎13歳の年である。この頃から、輪講や詩会に出席するようになっていたのである。なお、この年の4月に一家は麻布谷町の新居に移居している。この地(400)松代藩抱えの町家で、前年藩主真田幸貫(信濃守・天保12年から弘化元年迄幕府老中)の好意で鶴梁に贈与されたものであった。鶴梁は幸貫の信頼が深く、侍講も勤めたともこともあったという。また、水戸藩講道館を範として松代藩校を設立するため、幸貫は鶴梁から藤田東湖に問わしめたともいう。『鶴梁日記』には、真田幸貫との交流の事実が頻繁に記されている。

 

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嘉永66月、父鶴梁が遠州中泉の代官に任ぜられた。高橋雄豺の「幕末の儒者林鶴梁」(長谷川才次監修『歴史残花』収載)に、「(鶴梁の代官就任は)その前年九月に、かねて藤田東湖が鶴梁を推挙していた川路聖謨が一色丹後守の公認として公事方勘定奉行に任命されたから、鶴梁の代官任命が川路の手で行われたことは疑いない」とある(郡代・代官は勘定奉行の支配であった)藤田東湖が鶴梁を高く評価して、川路聖謨佐藤一斎に鶴梁を推挽していたことは前述した。遅きに失したが、藤田東湖と鶴梁の出会いについて、東湖の「見聞偶筆」に「乙未(天保6)の夏、彪(東湖の諱)、始めて会津藩士林甚右衛門が許に相逢ふ。一見故の如く、共に知己と称す。齢亦相同じ云々」、と記されている。2人は意気投合したのである。そうしたことから、鶴梁は東湖を介して徳川斉昭の引き立ても受け、また多くの水戸藩士たちとの交際があった。

 

中泉代官所は、遠江三河205ヵ村、58,150石余を支配した。『江戸幕府代官史料』によると、附属の役人は手付手代合わせて8名、中泉詰8名、出張陣屋詰3名、その他合わせて22名であった。中泉に近い天竜川は災害が多く、付近の民心は荒廃し、遠州は難治の評が高かったという。鶴梁自身も福井藩橋本左内へ宛てた安政381日付け書簡(『橋本景岳全集』)に、「一体遠州人気不穏、兎角支配申付候ても違背に及び云々」、と記している。鶴梁は917日鋼三郎(14)を含む家族4人と使用人、それに同行を願い出た門人2人を伴い江戸を出発し、丸7日間の道中を経て同月23日の黃昏時中泉陣屋に入った。なお、一家が江戸を発つ前月の7日には異母妹の琴子が生まれていた。

 

『鶴梁日記』で鋼三郎の中泉での様子を幾つか拾ってみよう。15歳になった翌嘉永7(11安政改元)正月2日の条に、「午後、国太郎、鋼三郎、喜平、近村縦歩、見附古城跡、今之浦、并ニ御殿跡等罷越、黃昏帰陣」とあり、同月8日には「国太郎、鋼三郎、喜平召連レ、御飯後福田湊ゟ三鹿原江参リ、夕刻帰陣、二役所見回ル」、翌月11日条には「国太郎、鋼三郎、拉喜平、袋井辺へ朝ゟ参リ、夕帰ル」等とあって、鋼三郎が時々8歳年上の兄に伴われ、領内の巡回と名所旧跡等の見学をしている姿が記されている。

 

また、『鶴梁日記』の嘉永773日条に、「杉山東七郎ゟ国太郎ヘ一封、同竜太郎ゟ鋼三郎江一封」とあり、同月14日には「鋼三郎ゟ杉山竜太郎ヘ紙包壱、中井房次郎ヘ同断壱」、翌85日条には「房次郎・幸次郎ヘ鋼三郎ゟ手紙遣ス」等と、鋼三郎と江戸の友人たちとの書通の様子が記されている。ここにある中井房次郎は中井数馬の子であり、杉山竜太郎は杉山東七郎の子と思われるが、いずれも父鶴梁の門人でもあった。ちなみに、杉山竜太郎が鶴梁の門下となった嘉永4125日の『鶴梁日記』に、「杉山竜太郎入門、束脩扇子箱台共、并ニ目録百疋持参、東七郎も同断、麻上下着用、入門同様候旨申聞候事云々」とあり、杉山東七郎自身も鶴梁に師事していたのだ。杉山東七郎は鋼三郎の兄国太郎の剣術の師匠でもあり(嘉永24月入門)、鶴梁自身も時々杉山から剣術の手ほどきを受けてから、鋼三郎も指導を受けていたのかも知れない。

 

なお、杉山東七郎については『鶴梁日記』嘉永元年624日条に、「(前略)到杉山東七郎宅、(中略)糀町三宅屋敷裏出雲内蔵頭家来分、神道無念流元祖岡田十松門人」、と記されている。杉山東七郎政和は、旗本交代寄合本堂親道(8000)の家来の子で、初め松山直次郎(他に杉山直次郎、松山大助、杉山大助とも)といった。撃剣館岡田十松道場で修行し、文政10年に兄弟子斎藤弥九郎の推挙で韮山代官所江戸役所の雇侍となった。主に江川太郎左衛門英龍の子十五郎英毅の剣術の相手をつとめ、後に同門秋山要介らと韮山随行した。文政12年には韮山を辞して翌年3月に江戸の麹町で道場を開いたという。天保5年暮か翌6年早々に渡辺崋山の招きで田原に赴き、同年2月中旬まで滞在して田原藩士たちの指南に当たった。翌々年には3人扶持で田原藩の江戸における剣術指南として召し抱えられた(以上は主に木村紀八郎著『剣客斎藤弥九郎伝』による)

 

『茨城史林』第41号収載「剣客金子健次郎について」(あさくらゆう稿)によると、杉山東七郎は天保12年には田原藩を辞して交代寄合本堂親道(慶応47月加増されて志筑藩を立藩)の家来になったという。或いは父の跡を継いだのかも知れない。なお、「江川英龍直門名簿天保139月に入門者中に東七郎の名があるから、江川太郎左衛門英龍に砲術等の教えを受けてもいたのである。鋼三郎の兄国太郎が杉山東七郎道場に入門した嘉永2年当時は、麹町の本堂家の一角で道場を開いていたのである。ちなみに、鶴梁の「嘉永三年覚書」に、「本堂内蔵助、八千石、三十五六計、惣領好学云々」、と記されている。

  ※以下は次回29(2)に続きます。

28の(2) 幕臣となった水戸郷士小室謙吉の半生

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宇都宮藩はその年(元治元年)1111日に至って、懸信緝らに対して正式な罪科の申し渡しを行っている。信緝に対する申渡書には、「其方儀当四月以来大平山へ集候水藩之由浮浪之者共盡忠正議之者ト見込重立取計候自事起衆心及動揺候儀ニモ至」り不埒であるとして、「御番頭末席遠慮被付者也」とある(『史料宇都宮藩史』)。そして、『懸六石の研究』には、この時処分された者の中に「小室登の名が記されていない所から、彼等はまだ罪科保留と見」るべきであると記されている。しかし、小室謙吉の6月以降の行動から推察すると、これ以前に幽閉は解かれていた可能性もある。それを証する資料の一つが、一橋家の野州高根沢陣屋役人横井鐐之助の日記(「横井氏日記控」・『渋沢栄一傳記資料』中)である。これも既に本ブログ22で、元治元年7月に渋沢喜作と同苗栄一が人選御用で陣屋を訪れた際の出来事として引用しているが、ここに再度転載することとする。

 

「八月七日、宇津鐘吉罷出、鹿沼宿本陣ニ居候医師鈴木鍵益と申モノ江戸表渋沢之族()宿迄来リ、此度組立之者共之内江組入之儀願出候由ニ而、宇津権右衛門厄介ニ致シ、請書差出候様致度段、渋沢并右鈴木両人より飛脚ヲ以権右衛門方江申越、前鈴木鍵益ハ水戸産ニ而慥成者兼而権右衛門モ存意之モノノ由ニハ得共(候脱ヵ)、先頃浪士大平山ニ籠リ居候節ハ、仲ケ間ニ相成、当時浪士之方破門致し候赴ニ付相断候様可旨申聞候事」

 

宇津権右衛門は救命丸で知られた宇津家の当主である。鐘吉は宇津家の者と思われる。87日当時、渋沢両人は関東の一橋領の廻村を終えて江戸に戻っていたので、小室謙吉も江戸に滞在中だったことになる。その経緯は不明だが、小室謙吉は一橋家に出仕しようとしていたのである。しかし、謙吉は一橋家領外の人であったため、宇津家の厄介(居候)という名目を得るために渋沢両人と謙吉が依頼の書簡を送ったものの、後難を恐れた権右衛門に断られたのである。もっとも、いかなる方法を取ったのか、謙吉はこの年一橋家に士官しているので、京都に戻る渋沢両人と共に上洛したものと思われる。

 

渋沢栄一の回顧談『雨夜譚』に、「九月の初めに右の五十人ばかりの人数を連れて中山道を京都へ」登ったとあるから、謙吉もこの一行の中にいたのだろう。一橋家家臣(この時穂積亮之助と改名・以後本稿ではこの名を用いる)としての穂積亮之介の活躍を見る前に、ある事件に触れておきたい。それは穂積が渋沢たちと上洛したと思われる翌月(10)22日、相州鎌倉の若宮小路近くの路上で起きた英国士官殺害事件である。この日、鎌倉の名所を馬に乗って遊歩中の2人の英国士官が、暴漢2人によって無惨に惨殺されたのである。その後、犯人の1清水清次は江戸深川の仮宅で捕縛され、1130日に横浜戸部の刑場で斬首の上梟首された。そして、もう1人の間宮一も翌年9月に捕らえられて清水と同じ運命を辿ったが、先に処刑された清水清次という人物が穂積亮之助の関係者だったのである。

 

この事実は、『原胤昭旧蔵資料調査報告書』(東京都千代田区教育委員会発行・以後『調査報告書』という)の中の「殺害英人之件」に関する北町奉行所同心山本啓の在方出役の際の記録(「廻り方手控」)で知ることができる。この中で、清水清次在牢中の風聞取調等により、「細川越中家来医師田中春岱、并疑敷廉有之」として田中春岱の妻ふみ(20歳・川越の出)を尋問した結果、「(田中家で)水府浪人之由、横田藤四郎并小栗徳三郎、小室健()吉同人へ随身いたし候清水清次、北里常助、其外名前不知浪人体之もの多人数集会いたし候義有之云々」等の供述があった外、夫春岱は先年病死した父の墓参と称して1122日に江戸を出立し、国元(桑名)到着後は「小室健吉義一橋殿付ニて京地ニ罷在、中林紋蔵も右を便リ罷在候間」、これに会うために上洛したらしいことが判明したのである。

 

田中春岱は前記した『宮和田光胤一代記』に、「(宮和田が)兼テ田中春岱方已来懇意人ハ鈴木鎌吉」とあった人である。小栗徳三郎は尾張の人で宮和田と同門千葉周作の門人であった。穂積を頼って上洛した中林紋蔵については、『調査報告書』の「牢内風聞」に「紋蔵ハ清次元主人一橋付三上良之助え随身いたし、京都え御供いたし、同所ニ罷在候由」とある。三上良之助は穂積亮之助の誤り(或いは変名)と思われるが、中林紋蔵も穂積亮之助の従者として上京したというのである。また、これらにより、前述した、この年54日に水戸藩下目付と称して栗橋関所を通過した「小室献吉僕壱人」(『栗橋関所資料』)の「僕」とは、清水清次だったのではないかと思われる。

 

『調査報告書』によると、清水清次は下獄後の厳しい尋問にも口から出任せの自供を繰り返すだけで、決して共犯者の名は明かさなかったという。清水清次が剛直な人であったことは、清次の処刑に立ち会った英国公使アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』にも、清次が刑場に引き出された際、「その男(清次)の口からの最初の言葉は、酒をくれというのであった」とか、斬首の際も「清水は、日本の役人に目隠しないでくれというのであった」とある。こうした清次の態度にアーネスト・サトウは、暗殺者を憎まずにはいられないが、「この明らかに英雄的な気質をもった男が、祖国をこんな手段で救うことができると信ずるまでに誤った信念をいだくようになったのを遺憾とせずにはいられなかった」、と記している。

 

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この鎌倉の英国士官殺害事件に関する清水清次の共犯者については、当時奉行所役人の得た情報も錯綜していたらしい。『調査報告書』中の「牢内風聞密々探索仕候赴」として、「大畑外記、水府浪人三野歓次、原庄作、中林文蔵、清次五人ニて殺候由、右歓次、庄作ハ清次被捕候迄は、春岱方ニ罷在候由、外記ハ当時水府浪人武田伊賀之介ニ付居由」、とある。こうした情報から、奉行所では「京都類役共へ春岱并中林紋蔵行衛探索方申遣」わすと共に、南北両奉行所の三廻り役人を京都へ派遣した。元治元年125日付けで南北両奉行所役人が京都町奉行所役人に対して、「中林紋蔵と申もの、一橋殿付穂積亮之介え随身いたし、同人を相便罷在候付、御地ニ立廻可申赴、(中略)是非春岱并中林紋蔵とも召捕候様」にと要請している。こうした結果、田中春岱は12月中に京都市中で捕縛されている。

 

下獄した田中春岱が奉行所役人に自白したところによると、春岱は桑名藩馬廻役渡辺勝左衛門の4男で、23歳のときに細川越中守の定府医師田中立庵の養子となった人で、当時42歳だったとある。また、春岱の供述によれば、自分は亡父の墓参の後、「一橋殿御家来穂積亮之助ハ知己ニ有之、同人伜より届物も被相頼候付」、懇意の桑名藩士が上京するのに同行して入京し、「亮之助を相尋候処、当節北国筋へ出張罷在候赴ニ付、頃日ニも帰京いたし候ハゝ面会可致と存候内」に就縄の身となったとある。これが事実なら穂積亮之介には息子がいたことになるが、この事実は管見にして知らない。さらに春岱は、「先年右亮之助義江府ニ住居之節、家僕ニ罷在候懇意ニいたし候駿府御蔵番伜清次と申もの、当十月初頃出府、芝口弐町目ニ旅宿此者方へ度々雑居罷越し候」等と自供している。通説では清水清次は遠州金谷の浪人清水健次郎の子とされるが、この田中春岱の供述によれば幕臣の子だったのであったのである。

 

この英国士官暗殺犯人については異説がある。まったくの余談になってしまうが、押し込み強盗の頭目で旗本の青木弥太郎の懺悔談(「青木弥太郎懺悔談」)がそれである。この懺悔談によると、青木弥太郎の仲間である「井田(進之助・姫路の人とある)(平尾)桃巌斎の息子は」、入牢した仲間古田主税の家から千両もする貞宗の刀を盗み出し、「逃げて行く途中、鎌倉で西洋人を斬りました。それはまったく井田と桃巌斎の息子が斬ったのです。けれども、水戸浪士の清水清次というものが、私が西洋人を斬りましたと言って訴え出て」横浜で処刑された。そのわけは、「清水は何か賊を働いて江戸におられないで、逃げて行く途中、井田に出会って西洋人を斬ったということを聞いて、どうせ無い生命だから自分が西洋人を斬ったことにして、自訴に及んだ」のだというのである。

 

この話の真偽は不明だが、清水清次が横浜で事件を起こす前に2人の無宿人(蒲池源八、稲葉丑次郎)と押込み強盗を働いていたことは事実であった。1118日に戸部の刑場で清水清次と共に処刑された2人の罪科申渡書(栗原隆一著『斬奸状』)に、「清水清次共々相州鳥羽村農家へ罷越、清水儀横浜表外国人退治に罷越に付、軍用金可差出」不承知なら斬り殺すと脅して多額の金を奪い、清水から配分金を貰ったとある。また、清水清次の罪科申渡書には、押借りの後に2人と別れ「住所不知高橋藤次郎と申合、相州鎌倉八幡前におゐて外国人切害致云々」とあるから、もし青木の話が事実なら、清水が横浜へ赴く途中で井田進之助と桃巌斎の息子に会ったということになる。しかし、押借りの罪と外国人殺害の罪ではその量刑の差は明らかなので、清水清次が敢えて井田らの罪を被ったという青木の話は信じ難いと言わざるを得ない。

 

なお、井田進之助と平尾桃巌斎の息子は、「青木弥太郎懺悔談」によれば、その後鎌倉の某寺に逃げ込んで匿ってもらっていたという。しかし、このことを住職の妾が訴えでたため、井田は姫路へ逃げて行く途中で捕らえられ、桃巌斎の息子は江戸牛込の本田某の士となっていたところを捕らえられ、両人とも殺されたと記されている。平尾桃巌斎信種とその養子間宮一(杉本右近)については、本ブログ19(3)「神に祀られた旧幕臣松岡萬」でふれている。なお、鎌倉の外国人殺害事件については、更に事件の事実を混迷させる史料が存在する。それは『旧事諮問録』に載る、事件当時の江戸町奉行山口直毅(泉処)の次のような話である。

 

町奉行の時に清水清(原注・常陸谷田部郡細川家浪人)が両人できたことがありました。あの英人(中略)を斬った奴です。あのとき捕まえて、全くこうこうで、こういう風に斬ったと申して爪印までした。それが二、三年経って、また清水清次というのが出て、つまらぬ罪で捕らえて見ると、英人を斬ったことを白状するので、それが言うことも前の清次と暗合し、年齢そのほかも似ている、どうして斬ったとか、どこで昼飯を食べてなぞと、暗合しているから不思議まのです。そのままにして置きまして、私は転役しました。どういたしましたか、牢死でもしたそうです云々」

 

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穂積亮之助が一橋家に勤仕した正確な日付や職位は定かではない。穂積と共に上洛したと思われる須永伝蔵(於菟之輔・渋沢栄一従兄弟)の一橋家への出仕が元治元年11(山崎有信著『彰義隊戦史』)なので、穂積も須永と同じ11月だったと思われる。その11月の中旬頃から京都市中に、水戸の天狗党が京都を目指して中山道を西上中であるとの噂が流れるようになっていた。藤田小四郎ら水戸天狗党筑波山再登山後、諸生党や幕府軍・近隣諸藩兵との抗争を繰り返していたが、衆寡敵せず10月下旬には武田耕雲斎率いる一隊や潮来勢と共に那珂湊を脱出していたのである。武田耕雲斎を主将とした1000余人の天狗勢は、禁裏守衛総督として在京中の一橋慶喜公に伏奏して尊攘の素志を貫徹しようと、京都を目指していたのである。

 

1128日には、いよいよ天狗勢が京都に近づいたとの風聞が伝わり、洛中は不安の空気に包まれたが、この時幕府は既に目付由比図書を関ケ原方面に遣わして迎撃体制を整えつつあった。そうした中の同月29日、一橋慶喜は自ら出馬して天狗党を追討することを朝廷に願い出たのである。『徳川慶喜公傳』によると、これは本国寺詰めの水戸藩(本圀寺党・天狗派)たちが、同志たちを「他藩の手に討取らせては藩の面目にも係るべければ、水藩の一手にて討取り、且死罪を宥めて大名預となさんと」働き掛けた結果であったという。おそらく慶喜自身の心底も同じ思いだったのだろう。

 

慶喜の願いは2日後の30日、朝廷内で一部の異論はあったものの「若し降伏せば相当の取扱致すべし」との条件付きで許され、翌月3慶喜は出陣し、大津に本陣を置いた。この出陣に際し、「御出陣ニ付思召を以御手当被下左之通」として、金八両づつが御用談所調役渋沢成一郎と渋沢篤太夫(栄一)、並びに御徒目付組頭穂積寛()之輔の3人に支給されている(渋沢栄一伝記資料』中「御出陣中御書留」)。これによれば、穂積は当初から御徒目付組頭として採用されていたらしい。

 

なお、この穂積の役職については異なる資料がある。それは渋沢栄一編『昔夢会筆記』中の薄井龍之の話で、「その頃京都の一橋家には御用談所というのがあって、その主任が原(市之進)、梅澤(孫太郎)、黒川(嘉兵衛)、川村(恵十郎)、それから渋澤篤太夫、渋澤成一郎、穂積亮之助というような顔ぶれ云々」とある。なお、薄井は天狗党筑波山に挙兵当時から参加し、西上途中の故郷飯山付近で一隊から離脱した人である。薄井は大正37月の史談会の席上で、「京都へ上って、慶喜公に其建白書(藤田小四郎から内々に頼まれた天狗党の素志を認めた書)を上る積りで、京都の若狭屋敷に行きました。所が私の目的の人、御用談所調役穂積良之助という者が慶喜公の内名を受けて越前に出て」いたので、渋澤栄一に頼んだが取り合ってくれなかった、との逸話を語っている。また、これとは別に、金沢藩士の記した「葉役日録」(『水戸浪士西上録』収載)の元治213(47日慶応と改元)の条に、「一橋様御目付木村幾太郎、同御用談所懸り渋澤誠一郎、同儒官穂積亮之助云々」とある。いずれが事実なのか定かでない。

 

さて、武田勢(水戸天狗党)中山道を一路京都を目指し、121日には谷汲川を渡って揖斐に宿泊した。この時、武田勢が草津方面へ向かうことを阻止するため、畿内への入口である関ケ原彦根と大垣の藩兵が布陣していた。この日、武田耕雲斎の元へ「先鋒総督」とのみ記された書状が届けられている。そこには「(前略)脆弱な兵で貴殿の鋭鋒に当たるのは、火に飛び込む蛾の如きものである。それを知りながらここまで出陣して来たのは、誠に武士たる者の止むを得ざる処である。故に勝負を度外視し、敢えて次のように請うものである。私の首を以て入京の土産とせよ」(原漢文・要約)とあった。こうしたこともあって、武田勢は中山道を断念して美濃から越前・若狭を経て京都に至る道を選ぶこととなったという。後にこの差出人不明の書状を見た穂積亮之助が、「斯る文書を書き得るものは由比図書の外あらざるべしと云ひしとぞ」、と『筑波始末』に記されている。由比図書はその日大垣の陣中にいて、穂積の推測は当たっていたという。

 

同月2日に揖斐を発した武田勢が、その後蝿帽子、笹又、木ノ芽等の言語を絶する雪中の険路を経て、越前新保に至ったのは同月11日のことであった。しかし、その行く手の葉原には、永原勘七郎(孝知)、赤井傳右衛門(直喜)、不破亮三郎(真順)率いる2000加賀藩兵が満を持して待ち構えていたのである。以後の、永原勘七郎らの武士道の真髄をみるような武田勢への対応は、残念ながら紙幅上割愛せざるを得ない。永原らは武田勢に同情して、西上の真意等を書した耕雲斎の嘆願書を大津の本営に差し出したが、その仲介の努力も虚しく、幕吏や一橋慶喜の指示によって武田勢への総攻撃は17日と決定された。その総攻撃の前日、不破亮三郎が武田勢にその旨を通告するため、葉原へ赴いたことが『徳川慶喜公傳』に記されている。そこには次のようにある。

 

「此日(16)加州藩は不破亮三郎を武田伊賀の陣に遣して手切の談判に及びしに伊賀守遂に降伏の意を表せしかば、乃ち本営に報じて進撃の猶予を請ふ。次で伊賀等再び嘆願書始末書といへるを呈出したれども、是れ亦陳情に過ぎずと却下せらる。黒川嘉兵衛、梅沢孫太郎、原市之進、穂積亮之介等相謀り加州藩士をして密に伊賀に就いて「呈書いつも陳情に止まらば、一橋殿には天朝、幕府に執成の道なくして、焼き捨てらるゝの外なし」と言わしめたれば、二十日伊賀等遂に降伏状を加州の軍門に送れり」

 

このことについて、金沢藩士の記した先の「葉役日録」には、「手切之談判として、亮之助彼陣江罷向。且穂積亮之助子細有之鈴木賢蔵与称ル同伴いたし、則及談判候処、(中略)弥降伏いたし候段小野斌男(藤田小四郎)段々之申聞無拠次第に而、重而降伏可差出与申聞候付引取云々」とあって、『徳川慶喜公傳』と異なり、穂積が不破に同行して藤田小四郎との談判をしたとある。「南越陣記」(『若狭路文化叢書』第12集「水戸天狗党敦賀関係史料」)には、「一橋公御内意ヲ含穂積亮之介罷越降伏状認方幕府ェ奉対恐入候趣相調有之候得者御取揚可有之段黒川嘉兵衛殿原市之進殿ヨリ申来候ニ付」、あらましの草稿を作成して武田陣営へ届けたと記されている。20日に耕雲斎が修正した降伏状が正式に受理される21日までの間、穂積は武田耕雲斎らの加賀藩への投降に大きく関わっていたのである。なお、徳川昭徳(後の昭武)に寄合隊長として従軍していた酒泉彦太郎(正元)の日記(「酒泉直滞京日記」)に、穂積に関して次のような記事がある。

 

武田正生以下加賀金沢藩の陣営ニ降ル。我藩ニ帰陣ヲ命ス。依テ兵ヲ督シテ駄田駅ヲ発ス。茲ニ督府ノ臣穂積亮之介神保ヨリ来リ会シ、武田始メ面会ノ情況ヲ聞ク。穂積ハ総督府内命ヲ以テ神保ニ出張シ、武田、藤田面会セント云。其際藤田信ハ平袴ヲ穿チ陣羽織ヲ被イ、太刀帯テ応接ニ出居シト云。穂積密ニ武田ヘ内意ヲ漏シ、武田源五郎ヲ誘引シテ京都ニ入リ大野鎌介ノ尽力ヲ以テ因州邸ニ潜伏シ嫌疑アルヲ以テ後備前岡山ニ移ル」

 

水戸天狗党の降伏が正式に認められたのは1221日で、水戸藩兵が駄田を引き払ったのが同月24日、そして京都に帰還したのは翌年13日である。ということは、穂積が帰京中の水戸藩陣営を訪れたのは24日以後のことになるので、この酒泉彦太郎の日記の内容からすると、穂積はこの間も慶喜の本陣と新保の間を往復していたらしい。なお、文中、穂積が天狗党の陣中から密かに連れ出し、大野鎌()介を介して因州藩邸に潜伏させた武田源五郎とは、武田耕雲斎4男である。この武田源五郎救出のことは、本ブログ18「知られざる水戸郷士大野謙介」でふれている。しかし、穂積亮之助が大きく関わっている事件であるため、ここでも屋上屋を重ねることとする。

 

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穂積亮之助から武田源五郎を引き受け、因州藩邸へ伴った水戸郷士大野謙介は前年9月、凝花洞の守衛の職を解かれ、当時は京都市中に滞在していた。なお、「酒泉直滞京日記」に記される、大野謙介が穂積から武田源五郎を預かり、さらにその潜匿を依頼した因州鳥取藩の用人安達清一郎(清風)の日記(「安達清風日記」)の元治212日条に、「水戸武田源五郎、原幸三郎両人原市ゟ□被託」と記されている。「原市」とは一橋家用人原市之進で、原幸三郎はその弟である。これによれば、穂積が新保から連れ出したのは武田源五郎だけではなかったのである。ちなみに、同じ「安達清風日記」文久3913条に、「晩與水戸、原、大野、梅澤会飲、于三樹月波楼極愉快云々」とある。「原」は原市之進、「大野」は大野謙介、「梅澤」は小十人目付の梅澤孫太郎である。武田源五郎らの救出に係わった大野謙介、原市之進、安達清一郎は皆旧知だったのである。穂積と大野の交際の実態は不明だが、尊攘の志を同じくする水戸郷士同士であるため、早くから交際があったのだろう。なお、武田源五郎らの件については渋沢栄一編『昔夢会筆記』に上記とは異なる事実が記されているので、長くなるが以下に引用する。

 

「穂積亮之助、あれが一番あすこ(武田源五郎の救出)を斡旋しましたので、猛(武田源五郎)を引き出したのも穂積らしゅうございます。(中略)穂積が御前(一橋慶喜)の御内意をもって、耕雲斎は誠に罪はあるけれども、その事情を察してみると甚だ愍然の情もあるによって、とにかく名家であったものを、この一挙で祀を絶やしてしまうというのは甚だ不憫に思う。それでこれはあるまじきことだが、誰か一人子供でも具しているならば、それをひとつその方が行って秘密に救い出せという御沙汰を蒙って、そこで有難いことだというので、すぐにかの地へ参りまして、そうしてかの原、梅澤などとだんだん相談をしましたところが、これも誠に喜びまして、幸いに穂積が、これまで武田勢から趣意書、嘆願書などを出しましたことについて、かの陣へたびたび往来しておりますところから、その伝手で穂積が耕雲斎に会いまして、何か秘密話を致したのでございましょう。もとより穂積が明言しているのではありません。またほかに確証も見出しませんが、何が動機となったものでございますか、すぐに一行の中から武田猛、梶又左衛門、原幸三郎、この三人を連れ出して、京都へ参りまして云々」

 

これは元桑名藩士江間政発(蘇洞・漢学者)の推測を含めた話であるが、この話について、渋沢栄一を初め当時の事情を知る人たちの異論がなかったらしいから、ほぼ事実に近いのだろう。もっとも、同じ『昔夢会筆記』の中の武田金次郎(源五郎)の談話に、穂積に連れ出された源五郎と原幸三郎以外の人物は、梶又左衛門ではなく三木左太夫()であったとあり、他の資料上からもこれが事実らしい。また、『昔夢会筆記』には江間が後日武田金次郎(源五郎)から聞いた父子別離の当時の話が載っている。それによると、源五郎が耕雲斎に呼ばれて「父の前へ出たところが、これから藤田小四郎を加賀の陣屋に遣わすから、貴様もついて行け、しかしこういう場合だから、どんな間違いができぬものでもないから、万一のことに際会したならば、潔くやれ、卑怯なことをしては相成らぬ、そこは厳重に申し渡すからと言って、懐中から黄金を三枚、それに新しい下帯を三筋添えまして云々」と、父耕雲斎と別れたという。なお、耕雲斎には源五郎以外に、長男彦衛門と次男の魁介、それに3男藤太の4人が従っていたが、藤太は鹿島郡飯田村で敵軍包囲の中屠腹、彦衛門と魁介は父と共に敦賀で斬首された。ちなみに、耕雲斎の妻、13歳と10歳の息子、それに孫の男子3人も、耕雲斎らが斬首された翌月諸生党によって無惨に殺害されている。武田家で唯一生き残った源五郎は大正5(1916)まで生存した。

 

余談が長くなったが、江間政発の談話と先の「安達清風日記」の記述を考え合わせると、穂積が武田陣営から密かに連れ出したのは3人で、このうち因州鳥取藩に託したのは源五郎と幸三郎の2人だったのである。なお、江間は別のか所で源五郎たちの救出に関して先の話とはやや異なり、原幸三郎も合わせて助け出したことから想像すると、「やはり原、梅澤、穂積あたりの極の機密上から、君公へは恐れ入りったことだけれども、御名を矯め奉って、そんな挙動に及んだのだろうと見込みをつけても、大差ないだろう」と推定している。もっとも、これに対して阪谷芳郎は「原市之進の専断でやったことになりますな、一橋公の御沙汰だということもできず、御沙汰がなくてはできぬことであるし云々」と発言している。慶喜や原市之進たちは当然耕雲斎ら天狗党の人たちの投降後の過酷な運命を予想できたろうから、思う所は同じだったのだろう。          

 

再び『昔夢会筆記』中の武田金次郎の話に戻そう。耕雲斎との別離の際「他に同席の人はありましたか」との質問に対して金次郎は、「同時に会ったのが今の穂積亮之助、それが何用かで来ておった。その時父は烈公から拝領した小さな銀の時計を持っておった……、その時には結構なもので……それを腰から取って穂積にくれました。それですぐに小四郎も支度をして、さあ行こうというので、そんな連中四、五人して加賀の陣へ行って」、その後すぐに穂積が3人を連れて京都へ行った、と証言している。耕雲斎は穂積に銀製の時計を贈って感謝の意を表したのである。穂積は感激ひとしおだったと思われる。穂積が維新後に穂積耕雲と名を改めていて、これは穂積が武田耕雲斎に私淑していたためだという。なお、武田源五郎らの救出については、以上の事実とは異なる資料が「南梁年録」(茨城県史料』幕末編Ⅲ)及び『野史台維新資料叢書』36中の「野史一班」で確認できる。参考までに、最後に「南梁年録」に記される事実を引用しておくこととする。

 

       三木左太夫 武田源五郎 原幸三郎

右は加州ニて大目付役相勤候永原陣七郎同勤不破良()三郎と申者敦賀出張之節、永原事武田より倅源五郎を貰い請自分倅之槍持ニいたし、京都原一之進手元へ相送り候由之処、当節矢張永原倅方に可罷在由、三木と原とは不破永原の人数へ打交り京都へ入込候へ共、当節は多分備前之国へ参り居可申との由

 

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水戸天狗党の西上事件のあった年の翌年である慶応元年以後の穂積亮之助については、本稿冒頭でほとんど未確認であることをお断りした。ただし、手元の資料に僅かながらその名が認められるので、参考までにその事実だけを以下に書き留めておくこととする。

 

『安達清風日記』慶応2127日条の、「晩與長森穂積三国諸人飲于天萬亭云々」とある中の「穂積」は亮之助ではないかと思われる。翌212日には「晩秋田晴吉穂積良之助城井慎太郎酒焉」。520日には「晩與三国幽眠秋田稲人穂積亮之輔同六郎重春塘(等ヵ)ト川上村榎並氏之別荘ニ飲、夜間雨大至遂投宿云々」とある。「同六郎」とある人が誰であるかは気にかかるところである。また、この年については『渋澤栄一傳記資料』の中に、一橋慶喜の第二次長州征伐への出陣に関係する826日付けの「御出陣御供被仰付御留置ニ相成候姓名」にその名が認められる。具体的には、御用人(榎本亮造、佐久間小左衛門、原市之進、梅澤孫太郎)手付として、川村恵十郎、渋澤篤太夫、穂積亮之介の3名の名が記されている。

 

慶応3年に関しては、『淀稲葉家文書』(日本史跡協会叢書)に収載される、1215日付けで穂積と新井謙二が記した探索書が確認できる。これは、主君徳川慶喜が京都二条城を立ち退き大阪城に入った(同月13)後の慶喜に対する朝廷や諸侯の評判や、朝廷と諸侯の動静を記したものだが、ここでは内容の紹介は割愛する。慶喜の京都退去後も、穂積は京都に残留して精力的に諸藩の知人を訪ね、情報の収集に当たっていたらしいが、その後の穂積に関しては一切把握できていない。なお、維新後の穂積に関しては先の小林義忠氏の「幕末・明治維新を駆け抜けた男()―勤王志士・梅村速水の生涯と思想―」に簡明にふれられているので、参考までに引用させていただきます。

 

「穂積は一橋(徳川)慶喜と静岡に移ると、旧幕臣として仕え国文学教授となった。『教育勅語』・『中庸随神解』等書籍がある。明治六年東京府に転籍し教部省より俳諧教導職に任命され、鈴木鉞太郎(原注・号を月彦)と称した。また浅草鳥越神社の祠官を歴任。埼玉県大宮の氷川神社少宮司となり、同十五年千葉安房神社宮司に転じ、明治二十年四月九日正七位を贈られる。二十二、三年頃同社を辞して東京・神田三崎町の稲荷神社社司に転じたが、同二十五年三月二十九日、六十九歳で没した。穂積耕雲の墓は東京都染井霊園に埋葬されていたが、その後、明治三十三年栃木県鹿沼市寺町の雲龍寺に移葬されている。」

 

過日穂積耕雲の墓があるという鹿沼市雲龍寺を訪れ、ご住職の奥様の案内を頂いて鈴木家の塋域を確認したが、鈴木石橋以外の墓石はいずれも風化が進んでいて穂積耕雲(鈴木俊益)の墓石を確認することはできなかった。

28 幕臣となった水戸藩郷士小室謙吉の半生

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小室謙吉という人物については、本ブログ中の「若き日の渋沢栄一の転身」や「玄武館千葉道場塾頭真田範之助」等の中でふれているが、本稿では重複をお許しいただき、筆者がこの人物について確認できた事実を記しておきたい。もっとも、小室謙吉に関する手元資料もごく僅かであり、特に謙吉が幕臣となって以後、特に慶応元年(1865・括弧内は原注とない限り筆者注)以後については一切確認出来ていないことを予めお断りしておきます。なお、小室謙吉については各種資料に、小室昇()、小室献()吉、鈴木献吉、鈴木俊益、鈴木賢蔵、そして幕臣になってからは穂積亮之助、維新後は一時期鈴木鉞太郎(号・月彦)、神官として穂積耕雲等の名が認められる。本稿では便宜的に小室謙吉の名を基本に、幕臣となって以後は穂積亮之助の名を用いることとします。

 

小室謙吉の「謙吉」の名は通称と思われるが、その幼名や諱等については定かでない。謙吉は文政7(1824・月日不明)に小室藤次衛門(小室家当主の通し名)の子として、水戸藩常陸国那珂郡下檜沢村(茨城県常陸大宮市)に生まれている。小室家は水戸藩献金郷士で、農を業としていた。謙吉は次男で、兄は藤次衛門(吉満)と言った。兄藤次衛門の長男左門(吉久)は、慶応4年に滋野井公寿に従った赤報隊士として刑死した人である。なお、小室家近くの山腹に小室家歴代の葬地があるが、その墓石の多くが後年合葬整理されたらしく、某日小室家々人のご案内を頂いて確認したが、最上段に祀られる小室左門の碑以外、謙吉の父母や兄の墓石を見出すことはできなかった。

 

小室家のある下桧沢村は、茨城と栃木の県境に近い現在の県道常陸太田・那須烏山線沿いの山狭にあり、小室家は下桧沢の集落からやや離れた県道沿いにある。現在も4メートルにも及ぶ漆喰塗りの土塀と広大な屋敷が残されている。「壬申年生産高取調書上」(『美和町史』)によると、明治5(1868)の下桧沢村の米・麦以外の主要生産物は楮700両、煙草673両、蒟蒻225両の3品となっている。明和5(1766)の「紙問屋講中一覧」(『美和町史』)に「問屋並、小室藤次衛門」とあって、小室家が当時紙問屋を営んでいたことが確認できる。しかし、寛政7(1795)に「問屋」として藤次衛門(謙吉の父ヵ)の名があるものの、弘化4(1847)には名がなく、おそらく幕府の寛政の改革で紙の需要が激減したために廃業したのだろうという。

 

小室家では煙草や蒟蒻の生産も手掛けていたと思われるが、蒟蒻の仲買商も営んでいた。元治元年(1864)の「御国産物粉蒟蒻改仕出覚帳」(『美和町史』)によると、小室家ではこの年粉蒟蒻100俵を出荷し、その前年の文久3(1863)には藤次衛門が「粉蒟蒻改人」に任命されている。言うまでもなく、この藤次衛門が小室謙吉の兄である。

 

小室謙吉がどのような幼少年期を過ごし、後に郷里を離れて鹿沼宿に出るまでの間文武を誰に師事したのかも一切不明である。『美和町史』に「野口の時雍館からは斉藤監物、田尻新介、鯉淵伊織、下桧沢村の小室藤次衛門を排出した云々」とあるから、謙吉もここに学んだのかも知れない。しかし、時雍館は謙吉が27歳の年の嘉永3(1850)に開設されたというから、この当時謙吉は既に下桧沢村を離れていた可能性がある。

 

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江戸の難波町で北辰一刀流の剣術道場を開いていた宮和田又左衛門光胤の自伝『宮和田光胤一代記』に、「鈴木(小室)謙吉此謙吉ハ水戸野州境領分郷士之次男ニテ例幣使街道鹿沼宿へ聟養子ニ被参候人ノ由」とある。また、薄井龍之(督太郎)の「江東夜話」(頼山陽の家族』収載)にも、「此鈴木と云ものは下檜山郷士小室藤次衛門といふものゝ弟で鈴木方の養子に参ったもので云々」と記されている。このことについて、水戸市郷土史会発行の『郷土文化』第54号に載る小林義忠氏の「幕末・明治維新を駆け抜けた男()―勤王志士・梅村速水の生涯と思想―」の中に、小室謙吉は「後に野州鹿沼宿で医を開業する。鈴木文平の塾麗沢舎に入門し、儒学や医術を学び、文平の娘かい子の婿養子となり、名を鈴木俊益と改めた」とある。謙吉は儒医鈴木文平に儒学と医学を学び、後に鹿沼宿で医を開業して師文平の娘の婿養子になったというのである。

 

小林義忠氏の論稿では、謙吉は結婚と同時に鈴木俊益と名を改めたかの如くにとれる。しかし、鹿沼市教育委員会発行の『鈴木石橋と麗澤之舎―鹿沼の知の文化の潮流』には、「文久三年(1863)の冬、前年息子泰三を亡くした水雲は、娘かいの夫である小室献吉を旧鈴木俊益家に住まわせ、鈴木家の家政を任せることにした。泰三に代わる跡継ぎを考えていたのだろう」とある。「水雲」とは鈴木文平の号である。「鈴木俊益」とは鈴木文平の兄で、文平の生家(本家)の跡を継いだ人である。その鈴木俊益の死後文平の息子泰三が継いだものの、泰三も亡くなったため、謙吉がその家に入って鈴木俊益を名乗ったらしい。なお、薄井龍之の「江東夜話」に次のような逸話が記されている。

 

「私は日光に在勤して居りましたが、近国の志士と結託して不及ながら国事に尽力して居りました。就中深密に交りを共にしたのは宇都宮の菊池介之助(原注・さの屋主人なり)、小島強介、岡田新吾、懸勇記、真岡の小山春山、横田藤四郎、栃木の国府義胤、鹿沼の鈴木俊益、足利の鈴木千里等でした」。また、「薄井龍之君傳」(『史談会速記録』第285輯収載)には、「嘉永六年春擢ンテラレ日光准后王府ノ侍講トナリ、曾テ尹府ノ教授ヲ掌ル」とある。これらに間違いなければ、小室謙吉は嘉永年間には鈴木俊益を名乗っていたことになる。もっとも、薄井の「江東夜話」等は明治になって記したものなので、姓氏を厳密に使い分けていたかどうかは疑問である。おそらく、この当時は鈴木俊益ではなく鈴木謙吉()を名乗っていたのだろう。

 

話は前後するが、謙吉は天保か弘化年間には鹿沼宿に出て、鈴木文平に師事していたのではないかと思われる。そして、謙吉が師の鈴木文平に見込まれて、文平の娘の婿になった事実や謙吉の後年の様子から推測すると、謙吉の儒学や医学に対する素養は相当深かったのだろう。また、謙吉は兄小室藤次衛門の影響もあったのだろう、薄井龍之の話の如く早くから尊王攘夷思想を懐抱していたらしい。「東江夜話」には、謙吉に関する次のような逸話も記されている。

 

「日を遂て外事は切迫し幕府の処置は益々失着のみ多く公武の折合甚悪敷天下の形勢容易ならぬ場合に立至」ったため、「小島、小山、横田、鈴木等と密かに鹿沼に会し(小室謙吉の家と思われる)まして種々商議した。その結果、頼三樹三郎(頼山陽3)に学んで京都に知人の多い薄井が上洛して、京都の形勢を探索した後に「鹿沼まで帰り鈴木方へ泊まりまして」、菊池たち一同に連絡してその結果を報告したとある。そしてさらに次のような逸話も記されている。

 

安政の大獄頼三樹三郎が捕縛されると、その連累として薄井も日光で逮捕されたものの、門人某某等のために助けられ、「逃亡して鹿沼の鈴木俊益方へ参ッて一分一什を話した所鈴木は大に驚き夫れは大変だ今此処らにまごまごして居ては必ず追手の為に捕へられるに相違ない、早く何ちらへか逃げるがよい、シタが他の所へ行ッては迚も免かれる訳にはいくまい先づ兎に角水戸へ行ッて諸友に相談するがよかろうとのことで鈴木より同氏の兄の所へ手紙を呉れた、(中略)ソコで其の手紙を以て水戸へ参りました、下檜山と云ふ所は水戸の城下より五六里も距ツ所でしたからその翌日下檜山へ云々」

 

薄井龍之の話を聞いた謙吉の兄藤次衛門は、「御辛労御察し申す、宜しい緩るりと御逗留なさい、どこまでも御世話申しましょう」、と快く小室家での潜居を引き受けてくれたという。その後、龍之はしばらく小室家に滞在していたが、追々幕府の探索も緩やかになったため、藤次衛門は水戸城下に赴き、武田耕雲斎に龍之の身の振り方を相談した結果、龍之は武田家の食客として匿われることになった、と記されている。

 

遅きに失したが、小室謙吉の養父となった鈴木文平について少々説明しておく必要があるだろう。鈴木文平は通称で、諱は之彝、字は文龍(後に文秉と改める)、水雲と号した。寛政8(1796)鹿沼宿仲町の鈴木俊益の子として生まれ、後に父俊益の弟鈴木石橋の養子に入った儒医鈴木松亭(通称重蔵、諱之綱、字紀仲)の養子に迎えられた。昌平坂学問所に学び、また画を谷文晁に師事し、帰郷後は義父の後を継いで「麗澤之舎」で儒と医の教導に当たったという。天保7年には鹿沼宿の本陣役に、また同9年からは押原東内町の名主も勤めていた。なお、水雲の祖父に当たる鈴木石橋(通称四郎兵衛、諱之徳、字沢民)は、林家塾(後の昌平坂学問所)に学んだ儒者で、私塾「麗澤之舎」を開いて近郷各地の若者の教導に当たった人である。寛政の3奇人の1蒲生君平は石橋の門下であった。鈴木石橋は宇都宮藩から五人扶持を給され、藩校「潔進館」の設立にも携わり、藩士の講釈にも当たったという。

 

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万延元(1860)と翌文久元年(1861)については、小室謙吉に関する資料は一切確認できていないが、文久2年になって、宇都宮藩士懸信緝(称勇記・号六石)の日記(『栃木県史』資料編七・「縣信緝日記」)に僅かにその名が認められる。懸信緝は清水赤城や大橋訥庵に学び、蒲生君平を敬慕する尊王攘夷論者であった。小林友雄著『懸六石の研究』によると、信緝はこの年正月の坂下門事件に関係して家禄を没収の上謹慎処分を受けたが、4月末には謹慎を解かれ、翌月には「当分御雇格五人扶持」を給されて三河の郡奉行兼正親町三条家御用を命ぜられていた。そして、この月江戸に出て獄中の師友の赦免運動や山陵修補事業の発議と、その計画遂行に奔走していた。

 

この山陵補修事業とは、当時坂下門事件で大橋訥庵ら多くの関係者を出して「戸田家(宇都宮藩)ノ湮滅衰亡」の危機にあったことから、「勤王翼幕ノ事業ヲ奉シ、主家安全の基礎ヲ立ルノ一策」(懸信緝筆「山陵修理始末略記」)として懸信緝が発案した事業である。これは信緝が敬慕する蒲生君平の遺志を継ぎ、荒廃著しい山陵(天皇墓所)を補修しようとするもので、当時公武合体の政策を推進していた幕府の意向にも沿うものであった。信緝はこの案を胸中に江戸に上り、江戸家老間瀬和三郎(忠至)の同意を得たらしい。出府当日(514)の信緝の日記に、「江戸ニ着ス、間瀬太夫ノ家ニ宿ス」とあり、翌日宿所は移したものゝ18日以後は同月末に江戸を去るまで連日「間瀬君ニ行ク」と記されている。

 

信緝は同月27日江戸を発ち、29日に宇都宮に帰ったが、翌612日再び江戸に上っている。そしてその翌月3日の日記には、「夕七ツ頃、伝奉屋敷ニ行キ、大原三位ニ拝謁、夜三更帰云々」と記されている。「伝奉邸」とは竜の口の伝奉屋敷(当時御馳走所と改められていた)のことで、将軍の上洛等「勅旨三策」を幕府に迫るため、そこに滞在していた勅使大原重徳に謁見したのである。大橋訥庵等同志の救解と山陵修補事業への力添えを得るためだったらしい。それから3日後の信緝の日記(76)に、「伝奏邸ニ行キ山科兵部ニ面語、小室献吉書至」とあり、さらに翌81(信緝は722日帰藩)の条には、「小室献吉ニ書ヲ贈ル、(中略)小室献吉書達ス」と記されている。山科兵部とは大原重徳に随従していた薩摩藩吉井友実(幸輔)である。信緝が山科兵部に会ったその日、信緝の元に小室謙吉からの書状が届いたのである。そして、翌月1日には懸信緝が謙吉に宛てて書状を発したその日に、謙吉から信緝に再び書状が届いたのである。

 

なお、この縣信緝の日記は、謙吉について鈴木ではなく小室の姓で(献吉或いは昇と)記されている。あるいは、万一の場合に婚家に類の及ぶことを恐れ、敢えて旧姓を用いていたのかも知れない。小室謙吉が懸信緝といつ頃から関係していたのか、またその関係性等についても定かではない。このことについて小林友雄の『懸六石の研究』には、「同藩(宇都宮藩)の小室登はこの後の活動から眺めて、六石の密偵格となり水戸浪士の行動を探っている人物と見られる」とある。小室を宇都宮藩士と特定しているが、「宇都宮藩士分限帳」(徳田浩淳著『宇都宮の歴史』)にその名が認められない。また密偵格という点についてはともかく、小室が信緝のために情報収集等に尽力していたことは事実はである。

 

懸信緝の日記の翌閏817日条には、「小室献吉、船越平作来ル、亀清ニテ酌ム、道中御手当金渡ル」とある。信緝は前月9日再び出府していたのである。或いは謙吉はこの日江戸に出て来たのかも知れない。この月の8日には、藩主の名で幕府へ山陵修補事業の建白が行われていた。信緝は幕府の許しが出た後の918日には入洛しているので、謙吉と舟越平作はこれに従ったらしい。間瀬和三郎は914日幕府から山陵修補事業専任を命じられ、藩主戸田氏の戸田姓(和三郎は藩主忠恕の従兄弟)を名乗って1021藩士30名を伴って入洛しているので、信緝たちはそれに先立って上洛したのだろう。なお、舟越平作については、「懸信緝日記」の1017日の条に、「柿沼斉宮、舟越平作、御陵営造御用中御雇ヲ命セラル、一ケ月一人扶持金二分ツゝ」とあるが、その人物像は定かでない。

 

「懸信緝日記」の921日条に、「三宅将曹、西洞院四條上ル久留米邸、松浦八郎、小室献吉、舟越平作来、夜夫人賜酒」とある。三宅将曹は久留米藩士だったらしいが、文久2年の「久留米藩分限帳」(「御手廻並嫡子分限帳」)にはその名が見あらない。松浦八郎は久留米藩郷士で、元治元年に真木和泉らと共に天王山で自刃して果てた人である。ちなみに、『久留米同郷会誌』に収載される松浦の書簡によれば、松浦は前年11月には江戸から、また、文久21023日には伊豆の三島から郷里の父宛てに手紙を送っている。諸国を遍歴して尊攘活動に挺身していたのである。この日、久留米藩邸でどのような話し合いがあったのかは不明である。

 

小室謙吉が懸信緝らと久留米藩邸を訪ねた3日後の信緝の日記に、「小室献吉、住丸屋与惣吉、将曹来ル、皆酒ヲ供ス」とあり、翌107日には「献吉来ル、福島屋ニ馬ノリヲ眺ル」、さらに2日後の同月9日には、「小室献吉、松浦八郎、渥見祖太郎来」と記されているが、その後この年の信緝の日記に小室謙吉の名は一切認められない(文久3年分の日記は不明)。なお、信緝の日記の109日条に名の認められる渥見祖太郎は、信緝の日記1024日条に「御用人格心得を以京都表御留守居兼帯被仰付之右之通、渥見祖太郎を以て御達有之」とあって、「宇都宮藩分限帳」に「御取次上席 高百五十石(内二十石増) 渥見祖太郎」と認められる。小室謙吉が舟越平作や柿沼斎宮(雅雄・平田門)のように宇都宮藩から御雇として御陵造営御用を命じられていたか否かは不明だが、舟越や柿沼以外にも御陵造営御用に任じられた人たちがいたらしく、前記宮和田光胤の『宮和田光胤一代記』に次のような一文がある。

 

「此節光胤方へ入門致し、食客稽古場頭取を致し居候ハ下野鹿沼宿の神官ニテ平田先生(篤胤)門人柿沼河内守也、此人宇都宮真()瀬和三郎後大和守ニ附属し、神武天皇御陵之儀ニ心掛け横田藤四郎等一同大和の国ニ至り、真瀬氏に附属中、真瀬氏之漸進論ニテ不折合心より帰府ニ候得共、攘夷其外幕吏違勅之廉多きをいきとほり居り、(中略)右柿沼氏ハ渋沢なども懇意故、光胤ニも依頼ヲ千葉師へ為連行候事なりける、是も武田伊賀守ニ依頼一度光胤江なりける」

 

鹿沼宿の神官柿沼河内守(広達)と共に間瀬和三郎に従って上洛した横田藤四郎(祈綱)下野国真岡(栃木県真岡市)の商人で尊王攘夷家である。この横田藤四郎は翌年の水戸天狗党による筑波挙兵に参加して敦賀で死んでいる。謙吉とも同志の人であったが、同じ鹿沼宿の神官である柿沼河内守とも交友のあったことだろう。この柿沼河内守は山陵修補事業の進め方に異論をもち、帰府してしまったというのである。なお、この後、懸信緝は10月中に御用人格となり京都御留守居兼務を命じられて山陵の修補に奔走していたが、翌年2月末に突然帰藩を命じられて宇都宮に帰っている。

 

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先の「宮和田光胤一代記」の記述にあった、柿沼河内守と懇意の「渋沢」とは渋沢栄一のことである。さらに「千葉師へ為連行候事云々」とあるのは、本ブログ20「若き日の渋沢栄一の転身」等に転載して詳述した「宮和田光胤一代記」の記述である。屋上屋を重ねることになるが、小室謙吉が関係しているので本稿でも再度転載することとする。

 

「此度一橋公後見職ニテ上京先登と成りしより幸ひニ同志をつのり一橋公ニ付添ひ度志願のものニハ千葉周作門人塾頭致居候生国ハ八王子同心之伜真田範之助、同人結合之友ハ渋沢栄一、渋沢誠一郎両人又兼テ田中春岱方已来懇意人ハ鈴木謙吉、此謙吉ハ(中略・前述)、此渋沢両人を同伴ニテ真田範之助、鈴木謙吉、光胤宅被参、範之助より依頼ニハ此渋沢両人儀一橋公へ附属し上京致度候云々」

 

ここでの詳しい説明は省略するが、小室謙吉が真田範之助や渋沢栄一たちと宮和田光胤を訪ねた時期は、「若き日の渋沢栄一の転身」で、武田耕雲斎一橋慶喜の上洛に随従するよう幕命のあった文久21211日から、耕雲斎が江戸を発った同月24日の間であったろうと推定した。この推定が正しければ、小室謙吉は懸信緝に先んじて文久2年中に離京していことになる。もっとも、その理由は後日の信緝との関係からすると、柿沼河内守同様の事情ではなかったと思われる。なお、先の「宮和田光胤一代記」の記事によると、小室謙吉は宮和田光胤や玄武館千葉道場塾頭の真田範之助、渋沢栄一たちとも懇意だったのである。また、「兼テ田中春岱已来懇意ハ鈴木鎌吉」とある田中春岱は熊本藩の医師である。この人物については、後に詳述することになる。

 

翌元治元年(1864220改元)224日の懸信緝の日記に、再び小室謙吉の名が認められる。そこには「(前略)小室献吉、舟越平作来」とあり、欄外に「鉄函心史一冊、地ノ巻、小室ニ貸ス(後略)」と記されている。浅学にして「鉄函心史」については知らない。

25日の日記にも「小室献吉来」とだけあって、その後は4月に到るまで謙吉の名は記されていない。信緝はこの前年2月に突然帰藩を命ぜられて宇都宮に帰り、その年5月には御用人に任ぜられたことは前記したが、謙吉が信緝を訪ねた2月には中老職を命ぜられて会計総裁の要職に就いていた。

 

その後、信緝の日記の45日の条に、「水戸小川館同盟士百二十人余、宇都宮ニ宿ス、物議沸騰」とあり、翌6日には「水戸斎藤佐次右衛門・藤田小四郎両人ニ、修道館ニ於テ、戸田公平・安形半兵衛・自分三人応接(中略)夜四ツ前、藤田小四郎外五人来訪、議論、暁ニ至ル云々」と記されている。そしてその翌7日には、「午後、斎藤左次右衛門・藤田小四郎来、戸田公平来、応接、小室登・小山弘来」とある。田丸稲之衛門を主将に、藤田小四郎ら水戸天狗党激派が常陸筑波山に挙兵したのは前月の27日のことであった。この筑波勢が翌43日、日光東照宮に拠って諸国に攘夷の決起を呼び掛けようと筑波山を下山し、宇都宮城下に宿陣したのは2日後の同月5日のことであった。

 

藤田安義手記「宇都宮藩変革禄」に「(筑波勢は藩主)忠恕公ニ面謁ヲ乞藩士之レヲ拒ムノ論紛々タリ、懸氏之レニ説ヒテ修道館ニ於テ謁セラル」とある(宇都宮市史』通史編)。筑波勢への対応に宇都宮城内は議論紛々騒然となったが、当時勢力のあった面会拒否派(佐幕派)を信緝が説得し、藩校進修館で自らが藤田小四郎らと折衝したのである。藤田たちは勤王藩として知られる宇都宮藩の全面的協力を要請したが、もしこれを受け入れれば藩の存亡に関わる。筑波勢に同情的な信緝には苦渋の応接だったが、日光東照宮への参詣を保証する条件(当時宇都宮藩は日光警衛を命じられていた)で滞陣2日目の7日夜(8日明け方ヵ)に筑波勢は城下を去り、日光へ向かうこととなったのである。

 

46日夜の信緝と藤田小四郎らとの会談に関して、「懸信緝手記(諸草按)(『栃木県史』資料編)に、「小四郎私別間に於て談し度よしニ付、直側之別間ニ於て小四郎と両人差向、談事候へとも、(中略)天明ニ至り候ニ付、随従之者帰を促、罷帰、其意更ニ不相分候に付、翌日小室登を以テ情実内索ニ遣し候て云々」とある。7日の信緝の日記に謙吉の名があったのはこのことだったのである。なお、徳富蘇峰著『近世日本国民史』第54巻「筑波山一挙の始末」に、「懸勇記は、鹿沼駅医鈴木俊益もて、金千両を軍資として(筑波勢に)寄贈したから、彼等も安心して云々」と記されている。これは謙吉が信緝の屋敷を訪れた47日で、この日のことは薄井龍之の「筑波騒動実歴談」に次のように記されている。なお、これによれば、謙吉は藤田小四郎を始めとして筑波勢中に多くの友人がいたらしい。また、この逸話からも、謙吉に対する縣信緝の信頼が深かったことが窺える。

 

「その夜(47)県勇記の使と称し、鈴木俊益という者が藤田(小四郎)の旅宿に参りました。この者はもと水戸の郷士小室藤次右衛門という者の弟で、これより先き鹿沼の鈴木某の養子となって医者を業としていた者で、かねて藤田らと知己でありますから、県が特にこの者を選んで使に遣わしたので、さて鈴木は藤田に面会して県の言を伝えて言うには、(中略)と申して金子七〇○両送ってよこしました。藤田はこれを受納して、その翌日、即ち四月八日に日光へ向けて発足した」

 

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懸信緝の日記には、小室謙吉について記されていない事実が多くあるらしい。「懸信緝手記」の記述がそれを物語っている。その「縣信緝手記」の414日条に、「(前略)小室登一同、水人模様伺候ため、栃木宿迄罷越、御陣屋詰同人へも一応其段断置、滞留仕居候、此日一同大平山へ参籠仕、鎮静方、美濃部・山国等ハ栃木ニ止宿仕候」と記されている。当時、謙吉たちは、筑波勢の動静を知るために足利藩栃木陣屋のある栃木町に滞在していたのだ。そこには筑波勢鎮撫のために派遣された水戸藩士美濃部又五郎や山国兵部らが滞在していたのである。

 

「懸信緝手記」にある「小室登一同」について、『懸六石の研究』は「渥美清介、松沼勇三、小室献吉、松井一郎らを指す」としている。館林藩士塩谷甲介(良翰)の『塩谷良翰回顧録』に、「同藩(宇都宮藩)松井一郎探索の任にて(栃木に)罷在候」とあり、『懸六石の研究』の記述を裏付けている。もっとも、『縣六石の研究』に名のある松井一郎は、徳田浩淳著『宇都宮の歴史』に記される「宇都宮藩士分限帳」(文久~慶応年間)によると、百石高の郡奉行で、明治4年の宇都宮県職員に権大属として名のある人である。

 

塩谷良翰の回顧録に、塩谷が栃木陣屋役人の善野司から聞いた話として、「昨十九日鎮静方立原朴次郎、真田半之介(範之助)、小室謙吉右三人は金龍寺借り受罷在度懸合に付承知相答候由云々」、と記されている。立原朴二郎の一行は、栃木宿の旅宿押田屋に逗留していたが、都合により戸田家の菩提寺である金龍寺に宿所を移そうとしたのである。その金龍寺への交渉に小室謙吉も立ち会っていたのだ。立原に従っていた旧知の真田範之助の依頼があったのかも知れない。鎮撫使の立原朴二郎とは、水戸藩史館総裁立原翠軒の孫(父は立原杏所)で、当時は歩士頭の職にあった。これも余談になるが、この立原朴二郎も、また縣信緝も千葉玄武館道場で北辰一刀流を学んでいる。小室と真田範之助との関係(真田と共に渋沢栄一らを宮和田光胤家に伴った事実)や、宮和田光胤とも旧知だったこと等から推測すると、小室も北辰一刀流を学んでいたのかも知れない。

 

なお、水戸天狗党関係の多くの資料は、小室謙吉が筑波勢に加わっていたと取れるものが多い。いくつかの資料を見てみよう。まず、「常野集」(茨城県史料』幕末編Ⅲ収載)の「子五六月頃野州浮浪之風聞」に藤田小四郎殿内として千葉道三郎(千葉玄武館々主)らと共に小室献吉の名が記されている。また『栃木市史料叢書』第一集「岡田親之日記」の中の「元治元年大平山屯集名禄」には、公用方申諭し方兼小荷駄奉行として「鹿沼宿医師鈴木俊益事小室昇」とある。さらに、『波山記事』に記される「浪人大平山権現参拝之節宿割」に、「右同所(栃木町)押田屋彌次郎方ニ止宿、宇都宮藩、松井一郎、小室謙吉、上下三十人」とある。なお、この宿割には、鎮撫吏の美濃部又五郎や山国兵部、立原朴二郎一行の名も記されているので、当時栃木宿に滞在していた人たちを全て筑波勢と混同してしまったらしい。この宿割にある宇都宮藩の「上下三十人」については、『塩谷良翰回顧録』に、塩谷が栃木宿の角屋に投宿中の宇都宮藩士柳澤金十郎に会った際、柳澤から「拙者儀砲士二十七人を召連れ(中略)当駅へ罷在候子細は当藩重役戸田七兵衛次男次郎事弾正と改め浪士加連此者引取度掛合中」であると聞いたとある人達であった。戸田次郎(光形・宇都宮藩尊攘激派領袖)は戸田弾正(村樫易王丸とも)と変名して筑波勢に参加していたのである。

 

この戸田次郎に関連して「懸信緝手記」415日条に、「小室登咄ニハ、次郎義兎角懸氏を讒訴いたし、人心を動し候様子云々」とある。「次郎」とは戸田次郎のことで、懸信緝を憎んで暗殺を目論んでいたのである。それを耳にした謙吉が、その旨を信緝に知らせたのだ。戸田次郎は、宇都宮天狗党を結成してその領袖となるなど、その過激な行動を危ぶんだ藩老たちに、この年退藩を命じられていた。それを恨んで信緝誅殺を目論んでいたのだという。なお、『懸六石の研究』に、この15日「栃木宿に在った斎藤佐次衛門を訪れた小室謙吉が、更に戸田次郎の人物を論じて、加盟中より除名せられたき旨を極力論詰めたため」、佐次衛門が「明日登山の際は、次郎の登山は見合わせることを約した」と記されている。しかし、これは実現しなかったようだ。

 

16日の信緝の日記に、「雷雨、小室献吉栃木ヨリ来、但在鹿沼」とあり、同日の「懸信緝手記」の一節に、「何分山中之者得心不致、日光表よりして彼ニ被欺候故、是非宇都宮へ押よせ、勇記を刺候なと申居候赴ニ付、小室登を以鹿沼迄差遣、云々」と記されている。東照宮参拝を機に日光占拠を目論んでいた筑波勢は、警備厳重でこれが実現しなかったため、これは参拝に付き添った信緝の策略だろうと疑う者が多かったのである。日光の占拠を断念して14日に太平山に登り、宿陣していた筑波勢の中にあった戸田次郎の讒訴が火に油を注いだのだ。当時鹿沼宿に出張していた信緝は、筑波勢が宇都宮へ押し寄せるとの情報を得たため、小室謙吉に大平山内の動静を探るよう指示したのである。そのことは、「懸信緝手記」に次のようにある。

 

「朝、小室登昨日太平山へ罷越候処、被差止、一宿被致、様子相伺候処、昨夜山中大動ニて、既ニ栃木へ押出し、宇都宮人数へ切込候なと申候を、田中愿蔵之手ニて種々申諭し、漸静り候へとも、此後とも甚以心配之旨、早朝下山之上咄し有云々」

 

謙吉は17鹿沼で用事を済ませた後に、太平山の筑波勢本陣を訪ねようとしたものの、浪士たちの信緝への怒りが頂点に達していたため、その関係者である謙吉の登山は拒まれたらしい。謙吉は混乱する山中の様子を知らせるため、翌日早朝に信緝を訪ねたのだ。謙吉には藤田小四郎を初め筑波勢の中には多くの知友がいたにもかかわらず入山を拒まれたのである。筑波勢の信緝に対する怒りは相当のものだったのだろう。だが、この騒動も鎮撫吏の立原朴二郎等の介入もあって、なんとか収拾がついたらしい。その後、筑波勢が再び筑波山に陣を移すために大平山を下りたのは翌5月末のことであった。

 

この17日以後は「懸信緝手記」に小室謙吉の名は認められない。その日記にも、同月23日と翌24日の2日にわたって「小室献吉来」とあるが、謙吉が信緝を訪ねた理由等は定かでない。そして翌25日には、「献吉鹿沼ニ帰ル」と記されている。信緝の日記に謙吉の名が認められるのは翌518日が最後である。そこには、「横田藤四郎、小室登、渥美清介来」と記されている。懸信緝はこの月15日に、幕府への攘夷建白等筑波勢後援のために江戸へ出ていた。したがって、当時小室謙吉も出府ていたのである。なお、「栗橋関所資料」(『埼玉県史料叢書』15)54日の条に、「水戸殿下目付小室献吉、僕壱人栃木町より江戸屋敷迄相通候事」とあるから、この日江戸に出るため水戸藩士と偽って栗橋の関所を通ったのだろうか。

 

懸信緝は翌67日宇都宮に帰ったが、その月の22日、筑波勢に対する処置が不適切であったとして御役御免の上厳重慎みの処分を受けている。『宇都宮藩史』に、「或ハ云フ幕府ノ命令ニ出ヅルトモ」とある。この時、信緝以外で罰せられた者に戸田三左衛門、岡田真吾らと共に「小室登」の名もある。信緝は「「愁思録」(『縣六石の研究』収載)の中で小室謙吉への処罰に関して、「御家ノ為メニハ功有リテ罪無キ小室登ヲ就縛幽因シ、兼テ尊王攘夷ヲ唱フル正義ノ士ヲ見ル事叛逆凶徒ニヒトシキハ何事ゾヤ、沙汰ノカギリト云ベシ」、と憤慨をあらわにしている。先の「幕末・明治維新を駆け抜けた男」なよると、この時小室謙吉の養父鈴木水雲も宇都宮藩から譴責を受けたという。

 

 ※以下は「26(2)」に続きます

27 水戸天狗党の将山田一郎敏久

[付録] 水戸天狗党の騒乱に関係した南部盛岡藩士たち

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「誓て東照宮の遺訓を奉じ、奸邪誤国の罪を正し、醜虜外窺の侮を禦ぎ、天朝幕府の鴻恩を奉ぜんと欲す」。これは、幕府に奉勅攘夷を迫り、その先鋒たらんと常陸の名峰筑波山に挙兵した水戸天狗党の檄文の一節である。

 

元治元年(1864)3月、水戸天狗党筑波山に挙兵したものの、幕軍と諸藩兵や領民までも巻き込んでの水戸藩内の抗争に終始し、常総野の地を戦乱の坩堝と化すこととなった。あげく、京都を目指した200余里の行軍の末、その年の12月には加賀藩の軍門に降り、翌年2月には、敦賀の地で350余人もの浪士たちが無惨に斬首されることとなったのである。

 

 本稿で取り上げる山田一郎は、藤田小四郎(藤田東湖4)と共に挙兵の主軸となりながら、旗揚げ後わずか40日余りでこれを離脱し、幕府に自訴した人物である。特に山田一郎は、挙兵に不可欠な軍資調達を担当したことから、栃木宿を灰燼に帰して悪名を轟かせた田中愿蔵(水戸藩医猿田玄碩次男)と同類視され、歴史にその汚名のみを残している。

 

 筑波挙兵に共に参加した薄井竜之(信州飯田の尊攘家・天狗党の上洛途中で離脱)さえ、その回想談である『筑波騒動実歴談』のなかで、「(山田は)性来残忍な者ゆえ、(軍費調達のため)その召喚したる者に対してよほど厳酷なる談判」に及んだと語っている。また、幕府の儒官安井息軒の飫肥藩士宛て書簡にも、「山田は新徴組を出奔し、人も四五人位は殺し(中略)至極の悪党に御座候」(黒木盛幸編『安井息軒書簡集』)と、山田を極悪人のごとく記している。

 

 こうした資料が元になってか、徳富蘇峰は『近世日本国民史』(54巻「筑波山一挙の始末」)のなかで、「田中愿蔵、山田一郎の如きは、尤も甚だしき札付きであった」と断定している。山本秋広著『維新前後の水戸藩』にも、「山田や田中の一味のやった無謀な行動のために、筑波勢はいまや全く世間の好意と同情を失い(中略)致命的な損失となってしまった」と記されている。その他の水戸天狗党関係の著書も大同小異で、山田一郎を全く無視するか、田中愿蔵と同類視するかの何れかであり、なかには山田を田中愿蔵の手下とするものさえある。

 

 その山田一郎は、本名を横田博、名は嘉郁、また敏久といった。山田一郎の名は、生地の名を取っての変名である。その生地とは、平成23年の三陸沖大津波で未曾有の被害を被った、岩手県下閉伊郡山田町川向の地である。その山田湾に面した川向の地は、周囲の緑の山並みと、紺碧の海の景色以外のすべてが溟海に呑み込まれ、山田一郎が生まれ、生きた痕跡を今は微塵も留めていない。

 

 山田一郎は、天保8(1837)に質業を営む横田宇右衛門の3男として生まれた。横田家の菩提寺虎洞山龍昌寺の塋域に、山田一郎の父母の墓と思われる夫婦墓がある。法名を「緑山妙□禅信女」と刻まれたその側面には、「横田宇右衛門妻、名於連阿部留五郎女也、天保十四年癸卯冬十月十四日没春秋三十六」とあるが、山田一郎の父と思われる法名「松岳道嶂信士」とある墓石の側面には、なぜか墓誌が刻まれていない。山田の兄等の墓も見当たらず、何か深い事情のあったらしいことを窺わせている。墓石によれば、母於連は山田一郎が7歳の時に没しており、山田はその後母方の祖父阿部留五郎に養育されたという。

 

 山田一郎の姪横田ハヨ女の談(山田町の郷土史家川瀬一郎編輯『筑波義挙の志士山田一郎畧伝』・以後『畧伝』という)に、「博伯父は、ナンス色が白くて背の高い立派な人でござんした。何時も私の家の室に寝起きして、昼は本ばかり読んでおり、何か一生懸命勉強していた」云々とあり、『南部維新記』の著者故大田俊穂(岩手放送社長)が、山田一郎を知るその祖母万亀女から、山田一郎は「家の仕事は見向きもせず、昼は一日、部屋に閉じこもって読書をし、夜は木剣を提げて、海岸で独り素振りに専念していた」、と聞いたという。

 

 先の『筑波騒動実歴談』に、山田一郎は「文学もあり」等とあり、また、『波山記事』(日本史籍協会叢書)所載の「探索書」に、「(山田の)持流は二刀流ニ而、一刀流仕方モ上手ニ而、拾人懸り為致候由唱ニ有之候ニ付、事実見聞仕候得ハ五六人位迄ハ惣掛り為致、日々稽古致居」とあり、早くから文武の道に励んでいただろうことが窺える。それにしても56人を相手に(総掛かりで)稽古をしていたというのだから、山田一郎の剣技には抜群のものがあったのだろう。

 

 山田一19歳の安政2(1855)、山田地方の領主漆戸茂幹(南部藩家老加判・1000)にその才能を認められ、側用人として仕えることとなった。盛岡城下に出た山田は、漆戸茂幹に仕える傍ら文武の師を得たらしいが、その詳細は不明である。この頃の逸話として、先の万亀女の談に、万亀女の祖父毛馬内伊織家を、漆戸茂幹がしばしば訪れ、2人の用談中、主人に随従してきた山田一郎が、よく石つぶてで小鳥を取ってくれたという。3度に1度は必ず命中するほどの腕前だったらしい。

 

 『南部維新記』に、ある時「母の病気でしばらくぶりで山田へ帰った博は、(中略)白石藩で攘夷論者として忌避され、漂然と山田へやって来た矢田義一に会い」、その攘夷論に魅せられ、また剣客でもあった矢田に剣技を伝授されたとある。病の母とは義母であろうか。母親のことは記されていないが、『畧伝』にも、安政3年のこととして、白石藩の勤王の志士矢田義一が山田村に亡命してきて、小武助屋に仮泊していた際、山田一郎は矢田から勤王思想を鼓吹されたとある。矢田義一がいかなる人物なのか、白石市生涯学習課に問い合わせたが、「白石藩系譜書」や「白石藩役人帳」等にも、矢田姓の家臣は見当たらないとのことであった。

 

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 『畧伝』によれば、その後、山田一郎は盛岡に戻ったものの、安政5年には、脱藩して涌谷藩の剣術指南役鈴木直之進(諱は明光・天辰一刀流剣術開祖)に入門、剣技を磨いた。山田はさらにその後、仙台藩の剣術指南役桜田良佐(藩内尊攘派の重鎮)に師事して文武を修行し、文久2(1862)に、清河八郎が仙台に潜行した際には、「桜田良佐、遠藤文七郎、山田一郎等と謀り攘夷の決行を約」したという。遠藤文七郎とは、仙台藩尊攘派の領袖、清河八郎は出羽庄内清川村出身の尊攘家、その清河八郎記述の『潜中始末』や『潜中記事』の仙台潜行中の記事等に、山田一郎らしき姿は確認できない。

 

 清河八郎文久2年末、朝廷に攘夷実行を約した幕府に協力して浪士募集を献策、これが容れられて、翌年2月の浪士組の上洛となった。『畧伝』等には、山田は清河八郎の浪士募集に協力し、共に上洛したとあるが、これは誤りである。各種浪士組名簿にその名のないことは勿論、浪士組3番小頭大館謙三郎作成と推定される「上洛先供有志浪士掛役人并浪士姓名」(太田市史資料編』)中の「上京浪士帰府前加入」者46名のなかに、山田一郎の名が明記されている。山田は浪士組上洛後に、遅れて浪士組に参加したのである。

 

『甲子雑録』(日本史籍協会叢書52)に、山田一郎の宛名不明の書簡文が収載されている。その文久424(220日元治と改元)付の書簡には、「去歳幕府に於いて不肖野生を召出され、新徴組世話役仰付られ」云々とある。山田は、浪士組から新徴組に改編後間もない文久3519日、世話役に抜擢されたのである。このことを以てしても、山田の実力のほどが察せられる。加入後間もない新徴組内でも一目置かれていたのである。

 

 なお、『畧伝』等では、山田の上府は文久3年のごとく読み取れるが、『波山記事』に「此者(山田)南部出生にて、所々徘徊、商人の風体ニ手流浪致し、新徴組に入り其後不首尾にて水浪に入り候由、多才の者にて都て懸合等の重立候事を取扱」とある。また、『下野勤皇烈士傅』には、安政611月、昌木晴雄(下総結城の人・天狗党参加後磔刑)が結城藩に捕えられた際、当時牢屋奉行の家に滞在していた山田一郎が、昌木を救った逸話や、山田が長倉(茨城県城里町)水戸藩士の田中愿蔵や鯉淵要人と相識り、同道して安政72月に、長岡(水戸藩に降った密勅返納反対の激派が屯集)に相会したことが記されている。出典は示されていないが、これらが事実なら、山田は早くから関東で活動していたことになるが、真偽は不明である。

 

また、『畧伝』等には、仙台で山田が清河八郎と攘夷の決行を約した、とあるが、清河八郎横浜焼き討ちを策して、幕府の手で殺害された後、清河に同調して捕えられた主要浪士組浪士のなかに山田一郎の名はなく、攘夷決行を約したとする記述は疑わしい。さらに、小山松勝一郎著『新徴組』に、清河八郎の死後「山田一郎は有志と相談し、金五十両を京の池田徳太郎に贈り、東下して一同を統括してくれるよう」使者を送った、と記されているが、これも疑わしい。沢井常四郎著『維新志士池田徳太郎』収載の、浪士たちが池田徳太郎の上府を切望して、「金五拾両差贈り申候」等と記された書簡の送り主は、「上京仕有志一統」とあって、池田と共に上洛した人たちである。そもそも、山田の浪士組加入時期からみて、山田と池田徳太郎とは面識がなかったのではないだろうか。

 

 なお、浪士組で道中目付を勤めた中村維隆(草野剛蔵)の自伝に、「国分新太郎、南部藩山田一郎其他手兵百六十人を率いて横浜の先鋒たらんことを請う。鵜殿、山岡之を諾し」云々と記されている。国分新太郎は、後に水戸天狗党に参加して敦賀で斬首された水戸藩士で、攘夷決行を期待して新徴組に参加していた。鵜殿は鵜殿鳩翁(浪士組取扱)、山岡は山岡鉄太郎(浪士組取締役)である。その時期からみて、山岡の免職蟄居後のことで、詳細は不明である。

 

 山田の新徴組在籍期間は短かった、先の山田の書簡には前記に続いて「(新徴組世話役として)及ばずながら七月まで勤仕罷在候処、いささか斬奸の嫌疑にて酒井繁之丞殿の邸中に禁固申付けられ、同志十一人共々囚人に相成、(中略)十九日に及び御免に相成候得共」云々と記されている。酒井繁之丞とは、新徴組預かりとなった庄内藩主である。このことに関係するのだろう、新徴組剣術教授方中村定右衛門筆記の「御用留」に記された、725日付の廻状に、木村久之丞、山田一郎、岩城喜一の3人に対して、「願之通世話役差免尤局中不都合之義も可聞候間当分之内酒井繁之丞屋敷へ相越理非分明いたし候以上慎罷在帰り候」という申渡書が筆写されている。この文中にはさらに、石井鉄之丞、田島哉弥等5人の小頭役に対しても、「其方共山田一郎其外世話役共同志の毛の深存込(中略)願之通小頭役差免」とある。

 

 この事件に関係すると思われる「新徴組山田岩城木村出奔一件」なる史料が、小山松勝一郎著『新徴組』の巻末に、「清河八郎記念館所蔵」とあるため、同館に問い合わせたが、現在所蔵されていないとの回答であった。山田の書簡内容等とやや異なるが、『新徴組』に、この史料を参考にしたと思われる事件の顛末が記されている。それによると、新徴組士佐久間権蔵を親の敵とする水戸藩士の13歳の遺児が、新徴組屋敷を訪れ、佐久間の門前払いを求めたという。これに同情した山田たちが、藩当局に佐久間の門前払いを求め、それが容れられなければ世話役や小頭を辞任する、と主張したというのである。山田たち世話役3人は、それが原因で724日に庄内藩中屋敷に預けられたが、翌月4日の夕刻3人は脱走し、小頭5人も同月11日、願の通り永の暇を賜ったとある。

 

 山田の書簡に、「いささか斬奸の嫌疑にて」禁固されたとあったが、書簡の別の箇所にも、「野生なども昨年交易人斬殺かたがた幕府の嫌疑に立行きがたきところ」云々とある。「嫌疑」とあり、事実の詳細は不明だが、安井息軒の書簡にも「(山田は)人も五六人位は殺し」とあることから、当時そうした風聞も流布していたのである。もっとも、そのことが謹慎処分の原因でなかったらしいことは、既記のとおりである。なお、山田の書簡には、「幕府に於いて赤心相つらぬき候義も及びかね」云々ともあり、攘夷を素志とする山田にとって、幕府が朝廷に攘夷断行を約しながら、生麦事件に対する多額の賠償金を英国に支払うなど、攘夷の意志のないことが露呈したことへの不満が、この事件の根底にあったと推定される。

 

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 新徴組脱走後について、先の山田の書簡に、「水国御軍師山国喜八郎今兵部先生相談の上、同志之者廿人引纏メ罷下(中略)水国厄介ヲ得」云々とある。山国喜八郎(兵部)水戸藩軍学の大家で、当時江戸詰の目付役であった。これによれば、山田は山国兵部の同意のもとに同志と共に水戸入りすることになったのである。山田は山国兵部と既知の仲であったのか、それとも、共に新徴組を脱した水戸浪士を介して山国と相談したのかは定かでない。

 

 水戸街道府中宿(茨城県石岡市)の妓楼紀州屋の娘(当時18)の回想談等を纏めた、山口誠太郎著『筑波義軍旗揚の前後』(以後「府中古老談」という)に、山田一郎一行が府中に乗り込んできたのは、文久310月半ば頃、一行は18人であったとある。その時の服装は片肌脱いで、襦袢には異人の首を斬る絵が描かれていて、腰には長い刀を差していたという。また、その後間もなくこの地を訪れた藤田小四郎に会ったともある。

 

 この点について『筑波騒動実歴談』には、「江戸の攘夷家の中山安太郎、山田一郎の両人が、同志の士六、七人とともに水戸へ参る途中、藤田の同処(府中)に滞在するを伝聞し訪ねて」来たとあり、同じ薄井竜之の「江東夜話」には、その時期を「慥か十二月初旬と記憶」していると記されている。そしてさらに、『筑波騒動実歴談』には、「中山らの一行は江戸へ引き返し(中略)二月にいたり江戸より山田一郎が前約を履み、同志十余名を引連れて府中へ参って加盟した」とある。『故老実歴水戸史談』にある岩谷信成(薄井竜之)口話にも、ほぼ同様の話がある。後に記された天狗党関係の著書は、すべてこの薄井の話を前提にしているが、前記山田の書簡の内容とも矛盾し、薄井の話には種々納得し難いものがある。また、薄井の話に出てくる中山安太郎についても、その人物像を明らかにしえない。

 

 山田の書簡には、「野生小川駅天聖寺寓居ニ而外有志七拾人ニ及候(中略)正月元旦水戸野生寓居出発両野州へ有故徘徊(中略)同月十九日水戸へ相戻」とあり、藤田小四郎等二十一人の名が記されている。水戸入り後の山田は、小川郷(茨城県小美玉市)近くの天聖寺を本拠とし、正月早々同志糾合のため野州や上州の地へ、手分けして出掛けたのである。山田はこの頃、阿部震斎と名乗っていたという。ちなみに、「住谷信順日記」の16日の条に、「藤田小四郎、三橋金四郎、山口庄次郎等上州辺江出張トゾ」とある。

 

「壬生藩天狗党応接関係吟味書」(『栃木県史資料編』・以下「壬生藩吟味書」という)の、壬生藩士増田鋳太郎の供述に、「去(文久四年)正月上旬、川連虎一郎より寸四郎方へ手紙参候ニ付、同人一人綿屋錦之助方へ罷越、出会仕候処、山田一郎、藤田小四郎も罷越居面会仕候云々」とある。川連虎一郎とは、関宿藩領真弓村の大庄屋で、天狗党に参加後、関宿藩佐幕派によって斬殺された人である。寸四郎とは、壬生藩の尊王攘夷派鎌田寸四郎基豊で、探索方として水戸浪士に接触していた。綿屋とは壬生城下の旅宿。この「壬生藩吟味書」には、山田と藤田を「只今は浪人中ニても頭分之者故云々」とあり、山田は元治元年の1月には藤田小四郎と共に、頭分として挙兵のための準備に奔走していたのである。

 

 山田が水戸へ戻った19日以後について、山田の書簡に、「山口正二郎、猿田愿蔵、野生三人ニ而水戸城下江出発、山口猿田両氏者直々東都山国先生へ秘密有之出発、野生は於武田耕雲斎先生其外同志中相談ニ而五六日滞留」云々とある。山田は武田耕雲斎(水戸藩執政)とも面識があったらしい。武田と面会の結果は、「幕府江奉勧攘夷候様可被成若シ幕府応シ不申候ハハ水国一手ヲ以夷虜洒攘可被成様申談」じたところ、「武田太夫モ不得止事」と述べたと記されている。なお、「住谷信順日記」によれば、25日に田中(猿田)愿蔵が、またその翌日に山口正二郎が在府中の住谷を訪ねており、山田の書簡内容の事実であることの一端が傍証できる。

 

 山田の書簡はさらに、その後「日光野州周旋探索、小川駅迄藤田小四郎同行、同人者直々東都行、何レモ来ル中に十二日、十三日筑波エ集会」云々と記されている。当初は、2123日の決起を予定していたのだろうか。なお、宇都宮藩尊攘派重臣懸信緝(通称は勇記・中老職)の手記(『栃木県史資料編』)に、2月中に藩士から聞いたとして、「水戸表正義家弥発奮、公儀ニて攘夷御決断無之候ハハ、水戸ニて手初いたし、神祖之御恩召并前中納言様之御恩召を貫き、徳川家之恥辱を雪可申と決心之者多人数出来、右ニ付てハ日光山へ依関八州譜代大名へ正義を以説得いたし、公辺之御為合力攘夷之儀申勧候方ニ弥内決」云々とある。これを知ったのは、多分2月初旬と思われるが、当時の浪士たちの様子が的確に把握されている。また、山田の書簡にあった、山田が武田耕雲斎に掛け合った話の内容とも一致している。

 

 天狗党は筑波、日光、大平山と転々とし、当初から明確な戦略に欠けていたとされる。先の岩谷信成の口話にも、筑波挙兵直後のこととして、「もし幕府がせめて来たなら、此の小勢では六ツかしい、日光へ立こもって居れば幕府も攻る事が出来ないから、日光へ移ろう」ということになったとある。しかし、これは明らかに誤っている。先の『懸信緝手記』でも明らかだが、328日付、水戸藩奥右筆照沼平三郎の報告書(『波山記事』)にも、「前日の説に(中略)日光山へ楯籠候との事の由」と記されている。幕府の手の出せない日光山占拠は、早くから決まっていたのである。

 

 山田の書簡に、「日光野州探索周旋」に出掛けたとあったが、「府中古老談」にも、山田一郎一派は府中と「小川の天聖寺との間を往復する外、一週間、十日と留守にするのが常であった。多くは野州地方の遊説らしかった。筑波へ立籠る前も二十日間ばかり宿を留守にして日光方面を遊説し」云々とある。また、『下野勤皇烈士傅』には、「日光並びに大平山を調べることに決し、尾州の人山田一郎は僧侶に変装し、信義(壬生藩尊攘派太田源三郎)は其従者に擬して出発、詳細な地図を製して帰った」とある。日光山占拠は山田の発案だったのかも知れない。なお、山田を「尾州の人」としているが、『波山記事』にも「喜連川出生にも唱相馬より相出候浪人とも唱山田一郎と名乗」とあるから、時によりその生地を偽っていのかも知れない。

 

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 先の「府中古老談」には、さらに続きがある。それは、山田一派は府中で「相当手荒いことをやった」が、その一つは文久312月の高橋友泰殺害事件であったという。直接手を下したのは山田配下の天野準次や田島哉弥等であったとある。この真偽はともかく、これには裏話があって、事件の前日の夜、紀州屋の2階で浪士たちが揮毫などをやっていた際、「山田一郎はなかなか書が上手で、特に彼は口に筆をくわえて豪放な字をかく芸当を得意とした」が、これを高橋が「大道でやって見せたら金儲けになる」等と冷笑したため、これも原因の一つだったのではないかとしている。もっともこの事件はついては、坂井四郎兵衛著『水戸見聞実記』に、「府中古老談」とは異なる次のような事実が記されている。

 

「十二月新治郡府中(原注・今の石岡)に於いて水戸医師高橋友泰殺害に遭へり。這は同人

 義一旦激派へ組せしに何缺秘密の事を泄したりとて、口留の為小川館の者にて切り殺し 

 、捨札の面へは此者儀久木直次郎へ同意し、金作を働き人民を驚かし候に付天誅を加ふ

と記したる由」

 

 もう一つの逸話は、挙兵直前の315日の元穀屋伝七殺害事件である。この事件については「元治元年甲子記録」(石岡市史資料編』)にも、「伝七成者糸綿ヲ売買スルヲ以テ(中略)小川村天聖寺ニ宿居スル新徴組之浪士山田一郎、此徒三、四人伝七宅ヘ乱入シ彼ガ首ヲ刎(中略)是頗ル糸綿ヲ横浜送リ諸人之困苦ヲ知ラルヲ以テ如是と云」とある。この後に始まる、軍資調達を円滑にするための見せしめ的な蛮行であったらしい。なお、「府中古老談」に、2つの事件には「勿論山田自身は手を下さなかったが、こうした手荒い仕事は彼一派の手で引き受けるのであった」とある。

 

 山田一郎たちは327日、水戸藩町奉行田丸稲之右衛門を総帥として筑波山に挙兵した。「元治元年甲子記録」には、これより前の23日「山田一郎其後之者三十余波山に登る」とある。挙兵準備のためだったのだろうか。「南梁年録」(茨城県史料』幕末編Ⅲ)収載の「日光勢存意書取」にある名簿には、山田の役職について、遊軍総括、使番、さらに調練奉行ともあり、藤田小四郎作成とされる「行軍録」には使番とあって一定しない。資料により軍師使番兼、使番兼調練奉行等ともある。また、『波山記事』収載の「探索書」には、「山田一(原注・年齢三十才余サンギリ髪)藤田小四郎等は瀬尾伴右衛門方へ止宿」云々とあり、「南梁年録」にも「右(山田)は大平山の浪士頭取の由也」とある。先の安井息軒の書簡にも、「頭取は山田一郎、猪俣小六」と記されている。猪俣小六は藤田小四郎の変名だが、当時山田一郎がどのような立場にあったかが明瞭である。

 

 この後、山田一郎による軍資の調達が本格化する。このことに関して『筑波騒動実歴談』に、「軍資が乏しくては何もせぬから、その金作掛りというのを設けて、山田一郎があたることになった。これより山田は筑波近傍にて富豪の聞こえある家々へ召喚状を発し、日を期して筑波へ喚びあつめた云々」とある。

 

 山田の軍資調達に関しては、「筑波山騒擾大略調」(『波山始末』)に、「筑波山江集り、七八里四方へ山田一郎名印之差紙(中略)殊之外大金策立候」とある。また『続徳川実紀』に記される旗本日下数馬の届出書には、「隊長山田一郎と申者近郷所々目撰之上呼出し、日々軍用金之由申付」とか、真壁郡酒寄村の百姓が筑波山へ呼び付けられ、山田一郎から、軍用金が不足なので、「是ヨリ(村方へ)出向借用可致筈に候得共右ニテハ女童共恐惑可致察入候間是迄差控候」と脅して、「各方力之可及丈借用」したいとの要請があり、即刻金子を取り揃えて持参したところ、山田から「意趣厚挨拶イタシ久兵衛、吉兵衛ハ少々酒代呉候」云々とある。

 

また、「甲子見聞録」(下妻市史料』)に記された事実を要約すると、筑波町役人から下妻町の物持ち3人に即刻筑波へ罷越すよう差紙があり、翌朝代理人3人と差添役人が出頭すると、山田一郎から「其方共遠方大義」と労いの言葉があった。そして、筑波へ呼び出したのは、その方たちの家々へ押掛けたのでは迷惑が掛かること、横浜開港以来「追々穀物ハ高値ニ相成既ニ凶年ニ而も有之候ハバ、渇命ニも相成事眼前」である、ついては我々が身命を掛けて横浜征伐の先駆けをするので、「其替リ其方共弐枚着る着物も壱枚着て情々金子用立呉様申」、それが迷惑なら、「其方共存意可申出候」ようにと言うので、一度村へ戻って相談したいと言うと、山田は声を荒げて「(村方へ)人数拾人も差向候抔ト申威」すので、結局1100両ずつ払うことになったという。そして、うち1人が「色々なげき弐拾金差戻し」て貰ったとある。

 

こうした際の強要は必要悪であろうが、山田のそれは、決して非情な強奪とばかりはいえないものがあった。この点について、井坂敦著『常陸小川稽医館と天狗党』では、「山田一郎が軍用金徴収に用いた要領は、相手の弱点をよくとらえ、おだやかな交渉のなかにきついものをもっていた」と指摘している。

 

なお、懸信緝は軍資調達に関して、その筆記「愁思録」に、田中愿蔵等の所業は別であるとの前提で、「世俗ハ大平筑波ノ士ヲシテ逆賊悪徒トナス者多シ、我ハ逆悪ノ賊トハ思ハザルナリ、仁ヲ成シ、国難ニ殉シテ皇国ノ生気ヲ挽回シ、大恥辱ヲ一洗セント志之者ナレバナリ、此大義ニ立テバ有徳ノ者ニ金銀ヲ出サスルコトナド極メテ小罪」であると記している。尊王攘夷の志を同じくする縣信緝らしい思念である。

 

43日、準備の整った浪士たち(以下「筑波勢」という)は、この日下山した。小山朝弘(春山)著『常野戦争誌略』に、「筑波ニハ山田一郎等数人ヲ留守セシメ」とある。しかし、『波山記事』収載の「水戸様家中書簡抄」には、「山田一郎之手并小川潮来之内猪俣ト山田ヘ属シ候モノ共出立、山田江緋羅紗之陣羽織着用為致」とあり、『小山市史資料編』収載の「天狗騒動につき魚継問屋廻状」(以下「魚継問屋廻状」という)には、「右大将たるものは山田市郎、田丸稲()右衛門其外四五人も大将分もの共出立、人数凡そ百四、五拾人」とある。この日一行は小栗宿に宿営した。

 

4日は石橋宿泊り。「水戸藩一件写し」(『皇国形勢聞書』)に、この日年寄半蔵方に宿を取った山田について、「山田市郎様、木村久之丞様其外何れも白胴着ニて袴を懸割羽織野袴着用」云々とある。木村久之丞とは、山田と共に新徴組を脱走した人で、浪士組では乱暴者取抑役を勤めた。姫路浪人という。

 

この日の石橋宿本陣問屋の届出書(『筑波記事』)に、「山田一郎者茶代其外左ニ」として、「金貳百匹宿主人エ一同壹歩勝手遣之者、年寄多左衛門、善左衛門両人機嫌聞ニ参候処、人馬配り方談有之金壹歩山田一郎殿ヨリ直々呉遣申候」とある。山田のこうした配慮は、その人柄もさることながら、ある意図があったのではないかと推定される。これは後にふれたい。

 

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「壬生藩吟味書」によれば、筑波勢は石橋から壬生通りを日光へ進む予定であったが、鎌田寸四郎が山田一郎に嘆願して進路を変更してもらったという。鎌田は同志に、「其節山田一郎と申者之世話に相成候間、馬具を貸し不遣候ては不相成候」ため、至急馬具を石橋宿に届けるよう要請、その晩遅く同志が馬具を届けると、「総髪之男罷出候、此者は山田一郎と申者之由、同人より寸四郎へ申聞面会仕品物」を渡したという。なお、この鎌田寸四郎は、この後、藩内の政変により脱藩の罪で藩当局に拘束され、獄中獄吏の刀を奪って自刃したという。鎌田は、同志増田鋳太郎に、「死するまでハ城を捨不申」(「壬生藩吟味書」)と語るほどの誠忠の士であった。

 

5日、筑波勢は宇都宮に入った。『波山記事』に、「山田一郎主頭ニ而拾三人同所宿屋手塚屋五郎兵衛宅ニ罷在」とある。筑波勢は、勤王藩として知られる宇都宮藩に挙兵への協力を要請したが、談判は不調に終わった。この時応接に出たのが懸信緝であった。得ることなく宇都宮で丸2日を費やした筑波勢は、7日に日光へ向けて出発、翌8日に今市宿に到着した。しかし、この時すでに、日光奉行は領内猟師等約800(日光市史』)を動員すると共に、日光守衛役の宇都宮、館林両藩に警備強化を指示し、8日には幕府が近隣諸藩に対して、日光警備のための動員令を発していた。

 

筑波勢は日光山の占拠を断念し、懸信緝の仲介により、101組での日光廟参拝にとどまった。「懸信緝日記」(『栃木県史』資料編)9日の条に、「藤田小四郎、山田一郎等弐十人登山、此日危難を免る」とある。「危難」云々について「懸信緝手記」(『栃木県史』資料編)には、「水戸人本陣へ勇記殿御出之節、戸田次郎外五六人申合、勇記殿を刺候謀策有之、右を山田一郎と申者察し、常に勇記殿側を不離罷在候故、不能発して止候よし」とある。戸田次郎(弾正・村樫易王丸)は、斉藤弥九郎等に剣を学んだ宇都宮藩天狗党の首領で、過激な言動から藩を追放され、懸信緝に含むところがあったのである。その戸田次郎等から、山田がなぜ懸信緝を守ったのかは定かでない。戸田は、後に礒浜の戦いで戦死した。

 

 筑波勢は、11日今市を発し、鹿沼を経て翌日金崎宿に入り、ここに14日まで留まった。日光廟へ参詣する例幣使一行の通行をやり過ごすためであった。『波山記事』に、例幣使一行が、栃木宿本陣で休息中、割羽織小袴着用の6人の浪士が旅宿清蔵方に入り、「壹人ハ山田一郎ト申者ニ而本陣ヘ相出多ニ人数最寄ヘ参集致居り候ニ付、一同日光表ヘ御供致度旨相願候、断ニ相成候」ため、山田一郎は浪士たちの待つ旅宿へ引き上げたとある。山田には、例幣使一行に随従して日光山に入り、そのまま占拠しようとする意図があったらしい。

 

稲葉誠太郎著『天狗党栃木宿焼打事件』に収載の「波多野日記」に、例幣使一行が合戦場宿に宿泊の夜、「浪士方大将ハ山田市郎甲冑ヲ着同勢鉄砲ニテ御本陣前御固ノ前ヲブラリブラリと夜中ニ通行様子伺ケル」云々とある。著者は、文中に「白木ノ長持紋は二ツ巴目ハ有之由、古宿ゟ継来リ候、山田市郎の紋也ト云」とあることに着目し、これは山田ではなく、田中愿蔵であると断じてよいであろう、としている。指摘通りで、山田家の墓石によれば、その家紋は五三桐である。山田一郎に関する風聞の頼りなさの一例である。

 

 14日、筑波勢は滞陣のため大平山に登った。大平山宿営を大平山連祥院に交渉したのは、山田一郎と小林幸八(水戸藩属吏・後に横浜で斬首)であった。連祥院から幕府寺社奉行への届出書(『続徳川実紀)に、「十四日水戸様御家中山田一郎殿、木村(小林)幸八殿と申仁」が来て、「拙者共重役義当山江志願有之祈祷相願度段申付候罷出候、夫に付迷惑ながら一泊相願候」とのことで、断ったが断れきれなかったとある。なお、「浪人大平山権現参拝之節宿割」(『波山記事』)には、「軍師使番兼山田一郎外拾五人余、右之者栃木町止宿当時水戸表へ罷越居候」とあるが、「甲子見聞録」には、「四月十四日山田一郎義は又々筑波山戻リ金策仕候」とある。山田は連祥院に宿営を折衝した後、直ちに山を降りたのである。その後の様子からも、山田が大平山に滞在した様子はない。

 

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 山田一郎は筑波には赴かなかったのだろうか、同じ14日の「懸信緝日記」に、「今宿へ宿す、此夜山田一郎願彦根差留之事承知候事」とある。「彦根差留之事」が何を意味するかは定かでない。当時彦根藩井伊家は、野州安蘇郡に佐野等15村の所領があり、佐野陣屋から例幣使一行への護衛兵も出ていた。これまで、筑波勢(山田一)彦根藩領の村々で軍資の強談をした形跡はない。これは、水戸浪士による井伊大老襲殺の過去の経緯もあって、無用な摩擦を避けようとしたのではないかと思われる。

 

なお別件だが、後に懸信緝が藩当局に提出した「御届出書」(小林友雄著『勤皇烈士懸六石の研究』)に、「山田一郎嘆願之義ニ付、美濃部、山国エ書面差遣候処、平山之徒憤之、騒立候故(中略)美濃部外壹人取鎮候為」云々とある。この件について、『史料宇都宮藩史』に、「山田一郎ハ大平山之幹部之一人ナリ(中略)頗ル才物ナレバ専ラ四方ニ出テテ軍資ノ募集ヲ担当シタリ、今同人嘆願ノ儀ト云フハ即本藩ニ向テ資金ノ寄贈ヲ請求シタルナルべシ」とあるが、これは誤りである。

 

 このことは、「懸信緝手記」に、「十四日例幣使御用人田中内匠ニ面会之節館士嘆願之様子有之、此後帰路心配之由ニ付」、当時江戸の小石川藩邸から派遣されていた鎮撫使の美濃部又五郎等へ、この旨の書簡を送ったところ、「館士一同で勅使へ御無礼不申段盟置候処、猶狐疑を抱候条武士道有之間敷儀」と憤ったというのである。なお、山田一郎が例幣使への随従を嘆願した13日夜、輔翼の斉藤佐治右衛門と藤田小四郎が合戦場宿の例幣使の宿所を訪れ、同行を求めていた(茨城県史料』幕末編Ⅲ収載「常野集」)。こうした度重なる浪士たちの動きに、例幣使一行は戦々恐々としていたのである。

 

 416日付けで、山田一郎、小林幸八等3人の名で栃木宿で出した人馬継立書(「常野集」)に、16日小山泊り、17日下館泊り、18日筑波着と記されている。先の「魚継問屋廻状」にも、「山田一郎其外馬三疋、結城町江戸屋中飯にて下館町へ継立」等とある。日程が一日遅れたのだろうか、『波山記事』収載の「風説写」に、「松平大炊頭家来之由、小幡友七郎、大高忠兵衛外三人、是者去十七日江戸方ヨリ早駕籠ニ而相越、小山宿山田一郎旅宿ヘ落合、直ニ栃木宿ヘ立越候」云々とある。石川若狭守家来の届出書(「常野集」)にも、17日のこととして「駕籠貳挺参着一郎旅宿相尋候」等とある。なお、栃木宿には、当時鎮撫使の美濃部や山国一行が滞在していた。

 

「栗橋関所御用留」(『埼玉県史料叢書』)で、17日小幡友七郎一行が早駕籠で関所を通過し、同月21日一行上下5人が「日光より江戸屋敷迄早駕籠ニ而」通ったことが確認できる。山田を訪ねた小幡友七郎とは、宍戸藩主松平大炊頭頼徳の近習頭で、後に主君頼徳の死を悲憤して自刃した人である。小幡友七郎は、恐らく主君頼徳の命を受け、筑波勢の領内引き上げの説得に奔走していたのではないかと思われる。 

 

  

瀬谷義彦著『水戸藩郷校の史的研究』によれば、水戸藩弘道館助教石河明善の日記の文久4127日の条に、「水戸藩の支封宍戸藩当局が小川郷校に拠るいわゆる小川勢に籾を贈ったこと、それは南部藩浪人で天狗党に加わった山田一郎の斡旋らしいこと、を記している」とあるから、山田は宍戸藩主の知遇を得ると共に、尊攘派の小幡とも知己の仲だったのかも知れない。小幡は目的達成のため、まず最初に山田一郎を訪ねた可能性がある。

 

 19日、山田は筑波の町役人を介して近郷の物持ちを呼び付け、軍資金提供を要請している。井上伊予守家来の届出書(「常野集」)にも、やはり山田が金を届けた者に、「別金を以金五両紙ニ包利兵衛、孫左衛門江酒代として遣候」云々とあり、また別の届出書にも、即刻金子を取揃えて山田一郎に届けると、山田は「忝旨丁寧ニ挨拶被及(中略)少々ツツの酒代呉候間貰受引取候」と記されている。山田が態々筑波に赴いて軍資調達を行っていることに注目する必要がある。

 

 その同じ19日、館林藩士塩谷良翰が、探索方々藤田小四郎に会うために大平山に登っている。『塩谷良翰懐古録』に、大平山登山の際、「山田一郎は人物の由に付、承り候処筑波表へ越し居候」との返答があったと記されている。山田一郎の人物であることは、周辺諸藩の有志たちにも聞こえていたのである。

 

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 大平山籠山後20日余りを経た56日、筑波勢の補翼斉藤佐治右衛門が大平山を脱走した。「水輜重府室町氏筆記」(『維新史料編纂』)に、「斉藤左次衛門甫翼之処、法列を乱し、一同より議論大に有、脱走す」とある。この頃、大平山内で内紛が起きていたらしく、59日付の井上伊予守家来の届出書(「常野集」)に、「大平山内悉く仲間割れ致し候哉、大揺之由」云々とある。斉藤佐治右衛門脱走の翌7日には、鎮撫使の山国兵部等も、「夕刻より俄ニ支度、昨八日出達致し」江戸へ帰ったとある。下妻藩主井上伊予守は大平山内に間諜でも入れていたのか、情報把握が迅速で、詳細である。筆者の推測だが、鎮撫吏山国兵部は、筑波勢に水戸領内への撤退を求めていたというから、山田一郎はこれと同意見で、山田に同調する人たちも加わり大平山内で諤々の論争があったのではないだろうか。あるいは、斎藤佐治右衛門も山田と同じ意見だったのかも知れない。

 

 井上伊予守家来の先の幕府への届出書には、さらに、「山田一郎儀は此程小山宿ニ罷り居、何歟謀合之義有之候哉、江戸表ヘ自訴致し候趣之由ニ付、当方より薩摩藩林藤蔵練兵方ニ駕籠ニ而罷越候由、不相用候哉最早出立之由承知仕候」とある。この届出書により、山田の筑波勢からの脱隊は、59日以前であったこと、また通説のように、山田はこそこそと逃げ出したのではなく、藤田等に事前に周知の上(薩摩脱藩士林藤蔵の説得にも応ぜず)、堂々と筑波勢から離脱したことが明らかである。その筑波勢離脱の理由は、藤田小四郎たちとの上記水戸領内引き上(他領内での軍資調達に反対も含め)げに対する意見の相違であったと思われるが、このことは後に再びふれる。

 

「波山等騒擾大略調」には、「金策ヲ相立候内山田一郎ト申者は自分組之者七八人引連五月十日筑波を出立、御府内江罷出自訴致シ候風聞」云々とある。山田等は小山宿から筑波を経て府中に赴いたらしい。なお、山田と共に脱隊した者は10人余とする資料もある。

「府中古老談」に、「山田が隊を離れるときには府中の紀州屋へ行くと言って出たのであるが、その通り彼は紀州屋に来たのであった。(中略) 彼等は何処へともなく姿を消してしまった」とある。そして、それから10日程して筑波(勢ヵ)から尋ねの使いが来たが、筑波では鎧櫃の中の軍資金が不足していたことから山田等の脱走に気付いたとある。しかし、この話は一部先の井上伊予守家来の届出書等とも矛盾している。

 

「府中古老談」には、山田の筑波勢離脱に絡んだ逸話がもう一つ載っている。それは、脱走者の1人川野健之助は、行方郡延方村(茨城県潮来市)の人で、父親を志筑藩の者に殺され、親の敵を討つため紀州屋おかみの仲介で山田一郎の養子分になっていたという。「山田は義理堅いので脱走のとき川野を連れて行き、江戸に行ってからは川野の後事を中山信安に依頼し、川野の手当金として金千両を渡したのである」とある。山田が川野の後事を託したという中山信安とは、後の茨城県権令で、緒方洪庵蘭学を学んだ開明的な幕臣である。当時は新徴組支配定役を勤めていた。その中山信安が、千両もの不浄な金を受け取ったというのは果たしてどうか。中山が気節の士であったことを示す逸話が、長谷川伸の『私眼抄』にあるが、それを読む限り「府中古老談」の話は信じがたい。

 

 山田一郎は4人の配下(剣法の弟子とも)と共に、514日、勘定奉行木村甲斐守の役宅に自訴した。『水戸藩史料』中の「槙野紀聞」に、「願書持参自訴致候」とあるが、残念ながらこの願書は確認できていない。定めてそこには、幕府による奉勅攘夷に関する訴願の一項目があったことだろう。

 

『波山記事』によれば、取調役の勘定奉行所留役斉藤辰吉等に対し山田は、「私儀皇国之御為攘夷先鋒相勤度(中略)武備用意之為金子才覚仕儀等も有之候、私欲之御取調にて、御討手被差向候哉ニ奉伺候而者、何共恐入微志も貫兼候、不及是非候間御大法に被所度」と述べたという。「私欲之御取調にて云々」とあるから、いうまでもなく、これは取調役斉藤辰吉の尋問に対する山田の陳述内容である。

 

 山田はさらに吟味役の斉藤辰吉等に対して、「外ニ同志之者も御座候得共、右者私壹人之罪に帰し候間、外之者共は寛大之御吟味に被成下度」と訴えたが、他の四人もまた、「一郎壹人にて御咎被仰付候ては無拠、畢竟私共同罪之事に御座候間、御刑法奉仰候」と申し立てたというのである。揃いも揃ってなんと道義に厚い、士道の鑑とさえいえる態度である。

 

 山田一郎と固い信頼関係で結ばれていた4人のうち、田島哉弥は山田と同じ浪士組帰府前参加の新徴組士(小頭兼剣術教授方)で、山田に同調して脱隊した上州浪人、この時山田より1歳年上の29歳。天野準次は旗本松平鷹吉元家来で、この時27歳。佐藤継助は南部藩領野田村(岩手県野田町)の人で、父は鉄山を経営する素封家。玄武館千葉道場で北辰一刀流を学び、渋沢栄一等の横浜焼打ち計画に関与後に水戸に入った。当時24歳。渡辺欽吾は、常陸国行方郡若海村(茨城県行方市)の修験三光院の子で、文久3年藩主徳川慶篤上洛の後を追って上府し、攘夷実行のため新徴組に入った。当時19歳であった。

 

 山田一郎等の脱隊と自訴の理由については、「水戸道中筋探索書写」(『波山記事』)に、「南部浪人山田一郎ト申者党類江加ハリ居、一体利発之者ニ付、筑波山ニ籠居候浪人之頭分ト相成居候処、逐々変心之気顕レ中間之者共ニ可被及殺害様子ニ付、雑用之タメ貯置候金子ヲ持脱シ、剣法之弟子之由ニテ、外ニ四人一郎供ニ密に出立、公儀御役所江自訴ニ被及」とあるが、この探索書には種々疑問がある。まず、殺害を恐れて自訴するなど、士道に悖ること甚だしく、自訴後の山田たちの出処進退からもあり得ないだろう。また、殺害を恐れての脱走なら、死を覚悟で幕府に自訴する必要などなく、逃亡すればすむことである。さらに、文中「密に」とあるが、先の井上伊予守家来の届出書とも明らかに矛盾する。

 

また、「金子ヲ持脱シ」とある点については、『甲子雑録』収載の「五月廿二日出東都来簡」に、「(山田は)四人召具し、金四千両を持て出奔し」とあり、「塚本勇範日記」(『筑波町史料』)にも、「山田一(中略)金千両余持て筑波ヲ立」云々とある。また、『真岡市史近世資料編』収載の「天狗討伐につき真岡陣屋鉄炮方出兵手控」なる資料には、「右之者(山田)金計壱万両所持いたし居り候よし、御噂有之」とある。しかし、いずれも風聞である。

 

多くの同志が共に脱隊した以上、逃走費用等も必要であり、山田たちが、何がしかの金を持ち出したことは疑いないだろう。しかし、筑波騒動で厳戒体制下にあった街道筋を、多額の金を無事に江戸まで持ち込むことができたとも思えない。また、筑波勢にとって重大事であるにも関わらず、薄井竜之(岩谷信成)が、このことに一切言及していない。なお、後に山田の身柄を預かった白河藩阿部越前守家来の報告書(「常野集」)には、山田の所持金は、「金貳百三拾四両貳歩」と記されている。

 

 ちなみに、山田等の脱隊自訴の理由について、『近世日本国民史』は、「彼が筑波義徒の同志より、其の態度を疑われた為めであったかも知れない」としているが、金沢春友著『藤田小四郎』にいたっては、「山田一郎の場合は、集めた義軍の金を、何万両となく、自ら之を懐中にして(中略)糾弾の声が内外から起こって、遂にかういふ、哀れな結論になった」ようである、と記している。また横瀬夜雨著『天狗騒ぎ』では、「(幕府へ)一万両を献じて罪をあがなをうとしたといわれる」とまで書いている。いずれも言葉を濁しているが、吉村昭の『天狗争乱』では、「(軍資金を)着服しているのではないか、と疑われているのに気づき、身の危険を感じて抜け出たのである」と断定している。いずれも「山田一郎は許されざる悪人である」という強い思い込みが前提にあると思われる。

 

引用が長くなるが、関山豊正著『元治元年』では「幕府追討軍が怖くなったらしい、山田は開戦以前に脱走したのである」等とある。幕府が筑波勢追討を決定するのは翌月のことであるが、いずれも、山田一郎の人物像からはとても想像し難いことである。なお、この『元治元年』では、「田中愿蔵、山田一郎らは、その過激派(攘夷倒幕)の代表的存在である」と断定しているが、筆者は、山田一郎には倒幕の思念など一切なかったと推測している。

 

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 山田等の自訴の理由で注目されるのは、幕府の目付杉浦兵庫頭梅潭の日記(『杉浦梅潭目付日記』)である。その516日の条に、「大平山屯集浪士之内、山田一郎初拾人程、新宿江止宿、右始末内密御聞糺し之処、大平山屯集之内、近郷ニ而金子掠取候抔、如何之所業致し、右は水戸殿江対し恐入候儀ニ付、山田一郎初銘々一身に引受其筋江自訴致候由」とある。これこそ先の井上伊予守家来の届出書と共に、山田たちの自訴の真相を伝えるものではないかと思われる。

 

 山田にとって、尊王攘夷の聖地と敬慕する水戸藩の名誉失墜は、あってはならないことだったのだろう。そのため、水戸藩士でない山田が、庶民から最も厭われる軍資調達を一手に引受けたのではないか。その上で、私欲のためでないことを明らかにするため筑波町役人を介し、資金提供者には相応の配慮をする等、庶民からの反発を最小限に止めようとしたのだろう。『杉浦梅潭目付日記』に、「水戸殿江対し恐入候儀」とあったこと。また、壬生藩士鎌田寸四郎が同志増田鋳太郎に語った、「山田一郎も水戸藩と名乗申候、如何ニモ自家主為ニは徹心仕居候」(「壬生藩吟味書」)の言葉でも、山田一郎の水戸家への思いが窺える。

 

また、「杉浦梅譚目付日記」に記される山田一郎の供述に、「大平山屯集之内、近郷ニ而金子掠取抔」云々とあったが、山田たち一派が常陸、下総の地以外で軍資金の調達を行った形跡はないことは前にも述べた。従ってこれは、山田一郎一派以外の行った軍資調達のことを言っていると思われる。

 

大平山登山後の筑波勢は、「有志が沢山集まり来って七百人ばかりにもなって、金がまたまた入用」(「岩谷信成口話)になり、山田の意に反して軍資の調達手段の方針転換があったと推定される。事実、5月以降、上州伊勢崎や太田方面に浪士を派遣しての軍資調達が行われており、山田等の脱隊後の510日頃からは、さらに大規模で強硬な軍資調達が開始されている。なお、『波山記事』収載の「宇都宮書翰抄」には、「(筑波勢が宇都宮出立後も)田中愿蔵其外当所ニ残居り金銭懸合』云々とあり、田中や千葉小太郎等の一派は早くから強談を始めていたのである。また、人数の増加と共に無頼の徒も増加し、「少々人馬(の手配に)差支候ても鉄扇并鞭ヲ以打擲、又は斬殺抔と刀ヲ抜振廻」(小山市史資料編』収載「石ノ上村願書」)等の狼藉も頻発するようになっていた。

 

前にも記したが、山田はこうした事態を憂慮し、藤田等に、水戸家を貶める軍資調達方針の撤回を求めたが受け容れられなかったのではないか。已む無く、山田は身を挺してこれを留まらせるため、これまでの凡ての罪を「一身に引受其筋江自訴」することを藤田等に周知の上で脱隊、自訴したものと推測される。山田や藤田たちが身命を賭して事に当たっていたことは、彼等が大平山から老中板倉勝静に呈上した願書に、「攘夷ノ令ヲ布キ叡慮御奉シ被遊候御事業天下ニ相顕レ候ハハ、我々共如何ナル重科被仰付候共聊御恨不申上候」、とあることでも明らかである。現代文明に毒されてしまった我々には、理解しえない心事であると思われるが。

 

なお、挙兵直前での日光の探索や、例幣使に随従しての日光入山交渉など、山田が日光占拠に拘っていたことは明らかである。それゆえ山田は、日光占拠断念の時点で挙兵の失敗を判断した可能性がある。そのまま他領に留まれば、幕府追討軍との戦いは必定であり、そうなっては水戸家に対しても恐れ入ることである。山田は山国兵部等鎮撫使の説諭どおり、常陸国内へ引き上げての再起を主張していたのではないかと思われる。

 

 自訴後の山田たちについては、『藤岡屋日記』に、「同日(十四日)江戸宿伏見屋重兵衛宅江御預ケ、翌十五日御呼出、一ト通吟味之上、山田一郎ハ阿部越前守江御預ケ、其余揚屋入被仰付候処、十八日尚御呼出上、何れも元主人江御預ケ被仰付候」とある。4人が預けられた元主人とは、田島哉弥が旗本加藤寅之助、佐藤継助が南部藩主南部美濃守、天野準次が旗本松平鷹吉、渡辺欽吾が水戸藩徳川慶篤である。その後、渡辺欽吾が同年915日、佐藤継助が同年1211日に処刑されている。他の2人の末路は不明だが、当時の状況から処刑されたことは間違いないと思われる。

 

 山田一郎を引き取りに出向いた白河藩主阿部越前守家臣の報告書(白河藩阿部家史料『公余録』)に、「右御預人(山田一)ザンギリ美男ニ而当子廿七之由、衣類等絹布、人体宜敷弁舌等至而静ニ而取廻し落付、通例之人々ニは無之様子也、但出生南部之ものとの事」とある。いかにも、山田一郎の人品人柄を彷彿とさせるものがある。

 

 白河藩阿部家史料『公余録』によれば、623日、山田一郎は上州小幡藩松平摂津守家来へ預け替えとなっている。その後、山田一郎は小塚原の刑場で斬首されたのである。小塚原回向院の過去帳に、「死罪者、十二月六日亡、覚心信士、山田一郎、市郎」とあるという。すでに自訴の際、泰然自若として「通例之人々ニは無之様子」だった山田一郎である。「覚心信士」の法名からも、心静かに刑に服したことが察せられる。

 

 藤田小四郎等のように贈位の恩典もなく、汚名を一身に引き受けて死んだ山田一郎の墓石は、郷里山田町龍昌寺の暗い樹林のなかにある。法名を「俊然義貫清居士」と刻まれた墓誌には、なぜか、「元治甲子年十一月十日没、俗名横田嘉郁、行年二十八歳」とある。

 

※本稿は『歴史研究』第660号「特別招待席」に掲載したものに一部補筆修正を加えています。

 

[付録]水戸天狗党の騒乱に関係した南部盛岡藩士たち

 

岩手放送社長故大田俊穂氏の著書『南部維新記』に、水戸天狗党の乱に関係した南部藩士は山田一郎、佐藤継助、蛇口安太郎の3人であったと記されている。しかし、管見ながらこれまでに筆者が確認した南部藩(元も含め)はこの3人を含めた5人である。参考までに、僅かながら山田一郎以外の4人に関する筆者が知る事実を以下に記しておくこととする。なお、手元の蔵書や資料で確認できた事実だけであることを付言しておきます。

 

  1. 佐藤継助

山田一郎と共に筑波挙兵当初から天狗党に参加したと思われる佐藤継助については、太田俊穂氏の『南部維新記』以外に、同氏の『維新の血書』、『血の維新史の影に』、『最後の南部藩士』等で取り上げられている。それらによると、佐藤継助は天保12(1841)盛岡藩九戸郡野田村で鉄山を経営する素封家佐藤儀助の長男として生まれた。父儀助は藩の鉄奉行をつとめ、士分に取り立てられていた。佐藤家は野田地方きっての名家で、継助の死後は弟がその家を継ぎ、維新後には村長などをつとめたという。ちなみに、太田俊穂氏は、この弟の孫謙次郎と中学の同級生で、この人から継助に関する資料も見せてもらったという。※『角川日本姓氏歴史人物大辞典』第3岩手県には、「父宇助は野田通宇部代官所(久慈市)の下役小田弓助の四男で、同村の屋号「酒屋」の当主となった。長兄継弥の長男はのちに国会議員となった小田為綱」とある。

 

継助は少年時代から俊敏の誉が高く、城下で剣と学問を学び、19歳の時に江戸藩邸詰を命じられ、千葉玄武館道場で北辰一刀流を修めた。継助は在府中志士たちと交わるうちに尊攘思想を懐抱するようになり、万延元年(1860)の夏脱藩して藩邸から姿を消したという。なお、『歴史読本』平成142月号に掲載された「史実のなかの吉村貫一郎(筆者失念)に、後に新選組隊士となった南部藩吉村貫一郎は、元治元年2月に玄武館道場に入ったが、「この時期、玄武館道場で前年6月から修行を積んでいた同藩の佐藤継助が、125日に聞き届けられた常州への修行を名目として出掛けたまま帰らないでいた」ため、入門早々の吉村が同門の蛇口安太郎と共に継助を連れ戻すよう藩命を受けた。しかし、吉村と蛇口の2人は目的を達することはできず、継助は511日付けで出奔とみなされたとある。

 

これは盛岡藩の武道名鑑「忌辰録」を根拠にしたというが、文中には、佐藤継助は「田中愿蔵の配下にいた、那珂湊の激戦後に江戸へ逃れた云々」とあるなど、事実とは異なることも記されている。また、同じ太田俊穂氏の『最後の南部藩士』等によると、継助は「坂下事件の関係者として追われることとなり、名を奥麟之介と変えていた」とある。しかし、これも何を典拠としたかは不明で、澤本猛虎著『阪下義挙録』や『大橋訥庵傅』、大橋訥庵の書簡類を調べたが、佐藤継助らしき人物の名を見出すことはできなかった。

 

文久3(1863)渋沢栄一らによる横浜焼打ち計画に、継助は玄武館塾頭真田範之助らと共に参加している。渋沢栄一述『雨夜譚』に、「この徒党中の重立った人々は、(中略)千葉の塾で懇意になった真田範之助、佐藤継助、竹内練太郎、横川勇太郎、海保の塾生で中村三平などで云々」とある。この挙兵計画は栄一とその義兄尾高惇忠、渋沢喜作の3人で計画し、その年8月頃に1123日を挙兵の日と決定したが、10月末には中止となっている。1019日付けで江戸から栄一と喜作が郷里の尾高惇忠に宛てた手紙に、「真田外三四輩抔も、殊之外大奮然、期限迄之無事を苦居候様子、依而約し候通、前後不残発足に相成候、尤も真田は明廿一日に相成可申候、何れ下旬迄郷里辺迄参着相成候」と記されている。佐藤継助たちは1019日以前に江戸を出立して、武州下手計村近辺へ向かったが、徒労に終わったのである。

 

佐藤継助はその後、「府内を点々としているうちに同じ南部出身の志士山田一郎と偶然合った。(中略)佐藤と山田は常州石岡へ向かい、藤田の誘いで筑波山の挙兵に参加した」(『維新の血書』)というが、山田と継助が「偶然合った」という点は、おそらく太田俊穂氏の推測だろう。2人の出会いついては特定できない、というのが事実と思われる。佐藤継助のその後については、山田一郎と行動を共にしているので省略する。なお、『歴史読本』昭和504月号「ずいひつ」欄に、太田俊穂氏の「『草莽志士』の原型」と題する一文があり、その中に文久2年秋とする、継助が郷里の父儀助に宛てた手紙文が紹介されているので、参考までにその一部を以下に転載させていただく。

 

「衆説には安藤対馬守御閉門にて文庫に封印相付し候由。多分半地改易申渡されるとの事。(中略)京都にても大分勢よく外異()打払の公論相見え候間、遠からず、相い始め申す可く候。(中略)打払いに相成り候はば乱を好むものにては決して之無く、一日も太平を楽しみ度きものに候得ども外異()渡来によっては上は一天万乗の君の御心を悩まし奉らず、下は万民のために患を払い候事に候。(中略)天下英雄の士、死を争いて朝恩に報ずべく候。腰折一言詠じ申候。 

えみしらを払う時しも来つるかな、やがて皇国の花や咲くらん」

 

(2)蛇口安太郎

 ア、蛇口安太郎(諱義明、通称安太郎、号無及庵)は、天保1031日、盛岡城花屋町の農民久保田弥七の長男として生まれた。太田俊穂著『南部維新記』に、安太郎の生まれた下花屋町は北郊の寺町に近く、安太郎の家は農業の副業として、墓参に訪れる人々のための花を栽培し、表通りに小さな花売の店を開いていたとある。また、安太郎は学問や剣法に熱心だったため、父弥七は安太郎を貧乏侍の蛇口家へ持参付きで養子に出したという。

 

下級侍ながら盛岡藩士となった安太郎は、経史を藩儒遠藤幹斎に、また剣法を新当流師範村上分右衛門に学び、18歳の年には村上道場の師範代をつとめるまでになった(岩手県人名辞典』等)というから、剣技には天びんの才能があったのだろう。文久元年には江戸へ藩費留学を命ぜられ、千葉玄武館道場に入門した。『南部維新記』によると、その後1年ほどして帰国し、しばらく家庭教師などをして「蛇口先生」と慕われ、その頃には剣術も師の村上分右衛門を打ち負かすほどだったという。

 

安太郎はその後再び江戸へ出ている。元治元年2月に玄武館に入門した盛岡藩吉村貫一郎と蛇口が、吉村の入門早々に出奔した佐藤継助を連れ戻しに常州に出向いた、と「歴史のなかの吉村貫一郎(歴史読本)にあることは上記「佐藤継助」でふれた。また、既に前稿26に記したが(下記『栗橋関所史料』)、同年412日には筑波勢の鎮撫吏水戸藩士立原朴次郎一行に蛇口が真田範之助たちと共に従い、日光街道栗橋宿を通過して栃木宿に至っていること。また、その1ヶ月後の512日には再び立原一行の一員として栗橋宿を通過して江戸に戻っている。翌62日には、宇都宮藩重臣の縣信緝が玄武館道場を訪れると、そこに立原朴次郎や真田範之助たちと共に蛇口がいたことは、下記『縣信緝日記』で明らかだが、その後の蛇口がどのような行動を取ったのかは判然としない。

 

立原朴次郎はその後、水戸藩主の目代宍戸藩主松平頼徳の水戸領内鎮撫のための下向に従って84日江戸を出立している。頼徳邸に滞在していた真田範之助はその前日、同志50余名と鹿島、大船津方面に向けて松平邸を後にしている(筑波勢とは行動は共にしていない)が、一行の中に蛇口がいたか否かは不明である。「明志録」(下記 )に、水戸藩徒目付石川義路たちが上府途中の小幡宿(水戸街道を水戸を発して長岡の次の宿駅)で、823日に蛇口安太郎、海後差幾之助ら3人と出会ったと記されているが、なぜ安之助がそこにいたのかも不明である。

 

蛇口安之助と同道していた海後差幾之介とは、桜田門外で井伊大老を襲撃した18人の内の生き残り海後嵯磯之介宗親だと思われる。諸著には、海後は松平頼徳に従っていた水戸藩執政榊原新左衞門に属して那珂湊等で戦ったとある。松平頼徳や榊原新左衞門一行は、水戸城を占拠する諸生派(水戸藩俗論党)に入城を拒まれて戦いとなり、この812日には那珂湊に入って改めて入城を図ろうとしていた。「明志録」には、安太郎たちを「何レモ暴兵ナリ」とあるので、石川義路たちは安太郎たちを筑波勢の一党と見做していたらしい。それが事実かどうかは定かでないが、安太郎と海後嵯磯之介とはその後別行動を取ったのだろうか。その後海後は榊原新左衛門に従って幕軍に投降し(「南梁年録」収載の堀田相模守預けとなった榊原新左衛門以下464名の中に海後の名は見当たらない)、明治の世を生きたという。一方の安太郎は、翌月非業の最期を遂げている。そのことについては、下記関山豊山著『元治元年』に詳しいのでここでは省略する。

 

 イ、上飯坂直美著『盛岡名人忌辰録』中の[龍谷]項目内に「蛇口義明、安太郎ト称ス、元治元年九月三十日、安眞見義居士、大正五年建碑」と。また[新当流師範、上村武右衛門]項目内に「新当流高弟嘉村権太郎、新当流高弟蛇口安太郎」と。

 

 ウ、「栗橋関所史料・御用留」(『埼玉県史料叢書』15)

  ・元治元年412日条、「水戸殿徒頭立原朴二郎・水戸殿士分、村上左馬介・真田範之助・高橋渡人・山本祐太郎・左良平助・石川熊武・蛇口安太郎・中村松太郎・鬼川三郎・大貫信三・竹内廉太郎・横川祐太郎・佐藤斎司・丹羽新蔵・以下三人(中略)右者御関所江断ハ為鎮静野州宇都宮宿迄罷越候由申立候(以下略)

  ・同年512日条、「水戸殿内立原朴次郎上下五人・其外真田範之助・蛇口安太郎・高橋渡人・佐藤才次郎・村松太郎宇都宮出立ニ而通行(以下略)

 

 ヱ、宇都宮藩士縣信緝の日記(『栃木県史』資料編近世七)

  ・元治元年517日条に千葉道三郎家ニ至リ、立原朴二郎へ面会、竹内廉太郎・真田半之助・蛇口安太郎へ面会」

  ・同年62日条「立原朴二郎・蛇口安太郎来、小栗徳三郎来、沢田五郎兵衛来」

 

 オ、水戸藩徒目付石川義路(東之助)の体験記・見聞録である「明志録」(茨城県立歴史館史料叢書16)

  ・元治元年823日一行48名と水戸から上府の途次「小幡ノ松並ヘ懸レハ三人ノ兵出逢ケル、一人ハ蛇口某(原注・千葉道三郎門弟ニテ南部侯ノ藩ノヨシ、余モ玄武館(中略)ニテ屡面会セリ)、一人ハ海後差幾之介、一人ハそれがし、何レモ暴兵ナリ、大森出逢ヒ先ツ目白侯(松平頼徳)ハ如何ト問ヘハ、皆ナ西ノ(筑波勢の斥候西恒之介)言イシ如シ、(中略)民兵等諸方ヨリ鉄砲ヲ打チ候ヘハ御用心アレトテ、是モ別レテ行キ過キケル

 

 カ、関山豊山著『元治元年-波山分離隊の最期-』に

   「盛岡藩士蛇口安太郎は、水戸藩の内紛事情を調査に派遣されたというが、天狗党に共鳴し行動を共にしていた(出典不明)。たまたま馬場の徳蔵寺に身をひそめていた所を捕らえられ、農兵の首領に尋問されることになった。しばらく河岸の仁平氏に預けられていたが、最後は六万坂で処刑になった。こんな談話が残っている。身長六尺剣道は山岡鉄舟より一段と古老は語っている。又最初に蛇口の挙動に不信を抱き捕縛したのが、小川の山田屋太兵衛と玉川の二人と伝えられている。後天聖寺に葬られたが、今は無縁仏に等しい状態にある。墓碑に「盛岡藩士贈従五位蛇口安太郎君之墓」と刻まれてある。(以下略) 」 ※六万坂処刑場跡は現小美玉市小川の地にあり、蛇口安太郎の墓の位置と矛盾がない。しかし、安太郎の最期については次のような異説がある。

 

 『角川日本姓氏歴史人物大辞典』には安太郎「の最期について、那珂湊で壮烈な戦死を遂げた」と。また、『贈位諸賢傅』には「(竹内)棟の弟哲次郎等数人と鹿島に赴く、途上幕軍の攻囲を脱し、那珂港に奔り筑波党に合す、九月晦日、奮戦傷を負ふて死す」とある。大日本国民中学会編『贈位功臣言行録』にも、蛇口の最後は那珂湊戦で、幕府の軍艦からの砲撃により戦死したとあるという。

 

キ、著者も著名も不明の手元コピーに

   「9月の初小川館(水戸藩郷校)が棚倉藩に攻められた時、大部分の浪士は鉾田方面に逃亡したが、蛇口は徳蔵寺に残っていて農兵に逮捕された。しばらく河岸町の仁平神官宅に預けられていて、930日六万坂で斬首刑になった。首は水戸へ送られたというが、遺体は刑場付近の山に埋葬されていた。蛇口家文書に『明治3年庚午52日藩公の命を奉じ、上田茂善昭に蛇口安太郎の霊を告ぐ。汝方天下至難の際大義を唱え、身を以て之に殉ず。吾その忠節を善くして而して遺体の原野に留まるを憐れみ、有志をして常の東明山(天聖寺)の東南の地に葬せしむ』とある」云々と。

 

 ク、『波山始末』に、「仝(9)九日武州野田村平民熊太郎、仝城の内村新十郎、奥州南部盛岡平民蛇口安太郎、仝飯田村山之丞、常州那珂郡静村平民勝之助、(3人略)常州吉田原に於て斬罪梟首せらる」 ※常州吉田原の刑場(吉田村境橋行刑場跡)は、現水戸市元吉田の地にあり、小美玉市小川の天聖寺にある墓との関係から疑問がある。

 

ケ、小美玉市小川の天聖寺の墓石、及び盛岡市須川町の碑石には、没年が「元治元年九月三十日」と刻まれている。『小川町史』上巻(茨城県小美玉市)によると、大正411月、安太郎に従五位の追贈があったのを機に、安太郎の縁戚久保田弥一郎が来町し、安太郎の墓碑建設と改葬を行ったという。明治3年にも改葬が行われたことは上記ケにあるが、その際に儒者加古治教撰文による次のような誌石が刻まれたという(原漢文)。なお、郷里盛岡の菩提寺曹洞宗虎嶽山竜谷寺(盛岡市須川)の参道にも安太郎の碑石が立っているという。

 

  「君通称は安太郎、陸中盛岡藩也。心尊攘の大義に凝り、元治元年甲子九月三十日身を以て之に殉ず。年二十有五。旧君善く其れ忠節、故に今有司をして此の地に改葬せしむ。実に明治三年庚午五月二日也。(中略)常州小川村水戸城下より七里向天聖寺境内に儒葬祭也。」、末尾に「水戸より出役、宮本主馬之介、佐川辰五郎、川又堂之介」と。

 

(3)寺田末次

 ア、『茨城県資料・維新編』所収「己巳公文録石岡藩之部<癸丑以来国事関係之事跡調>」中に

      南部浪人    寺田末吉()       子二十三歳

      下総栗橋    田原新八郎        子二十歳

      常州小岩戸村百姓民次伜

              勇崎泰助         子三十六歳

     以上三人幕府関東取締出役木村□蔵口上書取之同九月十五日支配書常州石岡

     泉町杉並木ニおいて打首ニ相成申候云々

 

イ、『殉難録稿』巻二十三の「駿州田中藩士中村一(太郎)」の文中に

   元治元年、松平頼徳水戸騒動鎮撫のため、かしこに出張する由を聞き、一智慨然として意を決し、正気消えて三綱滅す。是我輩の死ぬべき秋なりとて、其友寺田末次、下田武敏等と昼夜兼行してかけつけしに、頼徳は既に水戸領に入り、其道筋に新関を構へ、往来の武士を機察する事厳密なりければ、やがて姿を変へ、昼伏し夜行き、十余日を経て、漸く常陸小川に馳付き、藤田信等がむれに加はり、那珂湊辺にて合戦す。間もなく軍敗れ、鹿島まで落ち行き、幕兵并に棚倉の兵に取囲まれしを、()麻生の陣屋近辺にて、()遂に此にて捕られ云々。 

 

(4)下田三次(武敏)  ※上記(3)中『殉難録稿』に名あり

 ア、『波山始末』に「(元治元年9)十一日、聖堂教授方芳野秀一郎、奥州盛岡下田三次、筑後人池尻嶽五郎、常州小牧村小池星助、同石谷村周平、下総結城千抜佐助、同清吉、同岩吉、常州行方郡玉造にて捕獲せらる」

 

 ウ、『水戸藩史料』に

   「鉾田より西南行方地方に出でたる浪士は前後幕軍の為めに道路を遮断され芳野芳

六郎()下田三治(盛岡の人)池尻嶽五郎(久留米藩)大貫信三、小牧星助、千抜佐助等は九月十一日玉造村に於て土兵の為めに捕われ云々」

 

 ヱ、『小川町史・上巻』(茨城県小美玉市)に、「九月十一日、盛岡浪人下田三次外六名玉造にて斬首」

 

(5)その他

 ア、『筑波戦争記』(日本史籍協会叢書別編29)中「九月七日着水戸浪士征伐軍記」に「筑波山浪人」として、「小川館、百人頭、南部浪人、長谷川佐右衞門」とあるが。

 

イ、『波山始末』に「仝(9)九日、武州野田村平民熊太郎、仝城の内村新十郎、奥州南部盛岡平民蛇口安太郎、仝飯田村山之丞、(中略)常州茨城郡吉田原に於て斬罪梟首せらる」とあるが、「仝飯田村山之丞」とある飯田村という村名は確認できない。