ⅩⅠ 文久3年の浪士召募活動の一側面

1 池田徳太郎と農兵(義民)の募集

幕府による前代未聞の浪士の召募は、文久2年(1862)12月末に決定し、その徴募活動は翌年正月早々から始まった。そして、それがさらに古今未聞の出来事だったのは、浪士の徴募が出羽庄内清川村郷士清河八郎とその同志たち(浪士取締役となった山岡鉄太郎と松岡万の「虎尾の会」旧同志含む)に一任されていたことであった。

これは、浪士召募の端緒となった政治総裁職松平春嶽への松平主税助の建白書(文久2年9月)に、「其党之近きに在者二三人を探出して幕府の難有を知らしめは、一封ニても(浪士たちが)相集まり可申候」とあったことや、清河八郎が同年11月に行った同じ松平春嶽への上書に、「先挙天下馳名之傑士両三輩、使此輩広募忠義節烈英偉倜儻之士」とあったことが、幕閣たちにそのまま受け容れられたのである。

浪士の徴募を幕府から一任されたことを、清河八郎仙台藩桜田敬助らに宛てた翌年正月月10日付の書簡に、「浪士共撰擢致し候も専らこの方共より取立て候御頼みに付き、曾て他事これ無く候」、と記している。

浪士の徴募活動は、清河八郎の同志池田徳太郎と石坂周造が関東各地を遊説し、清河や山岡鉄太郎が、各地の同志たちに書簡や人を送るなどして行われた。しかし、池田徳太郎が行った遊説の主旨は、従来いわれている不逞浪士の募集、すなわち松平主税助の建言の一つである「幕政に不満の流浪の有志者を幕府に引き付ける」、ということとも、清河八郎の上書の「忠義節烈、英偉倜儻の士」を募る、ということともいささか異なっていた。池田は武州、上州、野州の農兵(義民)を募ろうとしていたのである。

 これは、「浪士取扱方被仰付候に付、農兵募り方の義奉申上候」として、池田徳太郎が浪士募集を命ぜられた際に提出した幕閣への意見書に、「武州甲州、上野は別て土俗雄壮、其間に生長仕候義民、日頃文武を嗜み剣馬を相貯へ、如何にも尽忠報国の志厚き者多く有之兼て見留置、古へ農兵の例に従ひ今般出格の御儀を以、右之義民御募被成候はば、一際の御用に相立可申と奉存候」とか、「(これら義民を)今般御募浪士共の内へ御差加へ、一隊の遊軍にも御備立、御供被仰付候」などとあるので、この池田の意見が容れられて、関八州の義民の徴募に至ったものと思われる。

なお、この意見書には、武州甲州、上野の地の名が挙げられているが、池田徳太郎も石坂周造も甲州を遊説した形跡はない。恐らく甲州は、山岡鉄太郎や清河八郎の同志森土鉞四郎(浪士組五番小頭・現山梨県田富町出身)等に、その徴募を託していたのではないかと思われる。

 池田徳太郎の意見書に、「(これら義民は)日頃文武を嗜み云々」とあったように、幕末のこの時期、天領地の多い関八州の農村部では治安が乱れるなどしていたため、富農層の間で武術を学ぶ者が多かった。現在の埼玉県域から浪士組に参加した人たちも、武術の習得に励んでいた人たちが多く、浪士組参加時前後に剣術道場を経営していた事実が確認できる人物だけでも16人に及んでいる。
 ちなみに、この16人の剣術流派は、甲源一刀流9人、神道無念流4人のほか、馬庭念流、北辰一刀流、甲源北辰流各1人となっている。

池田徳太郎の意見書にはさらに、「右之内郷士体の者共、其村里において日頃思意を以て結び置候強壮の義民も有之候へば、此の魁首御募り被成候上は、右強壮の義民共も後之に進退可仕候事」と、松平主税助や清河八郎の上書と同じ趣旨の記述があった。
もっとも、こうした池田徳太郎の発想は、先の文中に「兼ねて見留置云々」とあった通り、池田自身が以前に上州伊勢崎方面を遊歴していたこともあり、身を以て村里の実態を知悉していたことによるものであった。

2 浪士徴募の協力者たち

池田徳太郎が最初に上州の地を訪れたのは、安政3年(1856)の頃、旧友大舘謙三郎(浪士組二番小頭)の紹介で、伊勢崎藩の侍医頭栗原順庵の家族や周辺子弟に儒学を教授するためであった。この時、栗原順庵が謙三郎へ宛てた礼状には、「(池田氏は)至而好人物また教道念入懇切ニ被致、家属共も一同相悦居候、此段御礼申上候、何卒打続滞留願度心組ニ罷在候」、と記されている。

 池田は、安政5年には連取村(群馬県伊勢崎市)の領主駒井左京(幕府目付)の北国沿岸の巡察に従った後、房州方面を遊歴していたが、栗原順庵の要請によって再び伊勢崎に戻っている。このことは、上毛文苑の玄関番と称された深町北窓に宛てた池田の書簡に、「栗原翁より再遊之親書到来いたし、当月二日此地へ再遊いたし候。(略)尚又今度も不相替宜敷御周旋奉願上候、(中略)末文乍憚御家内御一統様宜敷御声可被下候」とあることで明らかである。池田は、伊勢崎とその周辺地域の人びとから深く信頼され、村人から名付け親を頼まれるほどであった。

 栗原順庵に池田を紹介した大館謙三郎は、池田の浪士徴募の大きな力となった。その大館は、伊勢崎近村上田中村(群馬県太田市)の人で、尊攘憂国の志士でもあった。文政7年(1824)の生まれであるから池田より7歳の年長であった。昌平校に入り、傍ら古賀侗庵に経史を学んで、詩を善くした。その大館が尊王攘夷思想を抱懐するにいたったのは、境町(伊勢崎市)の村上随憲(シーボルトに師事した蘭法医・尊王攘夷論者)が主催する傷寒論倫講会に参加したことによるといわれる。
ちなみに、この傷寒論倫講会の参加者には、斎藤文泰、黒田桃民、粟田口辰五郎、深町矢柄、高橋亘、石原伊之助等、浪士組に参加した人たちが多かった。随憲の3男俊平(菅俊平と変名)も参加者の1人であった。

 なお、池田徳太郎は大館謙三郎以外にも、上野の名門新田岩松氏第21代当主新田満次郎や、日光例幣使街道太田宿本陣橋本金左衛門等の、この地の魁主(有力者)にも協力を要請している。しかし、これらの人たちから如何なる協力が得られたかは不明である。
 池田徳太郎の頼りとする村里の魁主は、武州にも野州にも存在した。武州では、根岸友山と府川甚右衛門である。根岸友山は、武州甲山村(埼玉県熊谷市)の豪農で、尊王攘夷論者であった。その邸内には学問所や剣術道場もあり、常に食客10余人を有していたという。

浪士組一番小頭となった山田官司は、玄武館千葉道場の同門で、浪士組参加時には根岸家に逗留中であったと推定される。また、一番根岸友山組の家里次郎も、安政5年(1858)頃から根岸家に出入りしていたといわれる。この根岸友山は池田と旧知ではなかったが、清河八郎玄武館道場の同門として親交があった。池田が農兵徴募のため、1月上旬に根岸家を訪れた際は、「公命を以て広く天下之有志のもの不拘貴賎御召寄之事に相成則同志池田某を以て廻国周旋為致申候間いさひ当人より可申入」、などと記された清河の書簡を携えていたのである。 

 武州で浪士徴募に尽力したもう1人の府川甚右衛門は、中山道桶川宿本陣の12代目の当主で、根岸友山の妹の子であった。当時29歳で、文武を好み、昌平校書生寮の舎長だった松本圭堂や岡鹿門を招いて、学問に打込むほどの人であったが、この年の3月晦日に病没している。甚右衛門は、池田徳太郎や山岡鉄太郎とも旧知の仲であった。1月14日付けで池田徳太郎が甚右衛門に宛てた書簡に、「何分其地辺の豪傑も御集メ置可被下候、学問剣術には不及唯勇猛義気盛ナル者にて宜敷、年齢は二十三十の者をも宜敷御座候、御精力可被下候」、と記されている。

 野州での池田徳太郎への協力者は、青木彦三郎(春方)であった。野州大前村(栃木県足利市)の豪農で、尊王攘夷を唱え、屋敷近くに弘道館を建て、村民たちに文武を奨励した。会沢正志斎、小野湖山、山岡鉄太郎等その交友は広く、池田徳太郎とも旧知であった。元治元年の水戸天狗党の挙兵の際、上州隊と称する同志の一隊を率いて参戦したが、古河藩兵に捕えられて斬首されている。

池田徳太郎は自らの上書の通り、不逞浪士ではなく、義民(農兵)を募るため、根岸友山、府川甚右衛門、大館謙三郎、青木彦三郎等といった村里の魁主たちに徴募を託したのである。

3 義民の一隊での浪士組参加

 浪士の召募を一任された清河八郎や池田徳太郎たちは、その浪士選抜を各地の魁主たちに依頼するに際し、一隊(一隊三十人乃至一組十人)での参加を要請していた。
 こうした浪士召募の地方の魁主への要請と一隊での参加のことは、正月5日付で清河が大館謙三郎に宛てた書簡に、「人数割方之義大信寮ニ而相定候間、其迄内々御しらへ、名前付目安ニ必ず御持参可被下候」とあり、また同月25日付の清河の根岸友山宛ての書簡に、「御調達次第一衆ニ無之とも御遣可被下候」とあるほか、同月26日付で池田徳太郎が青木彦三郎に宛てた書簡にも、「御召連れの人々姓名明細書き為持御越可被下候」と記されていることなどで明らかである。

『小川町史』(埼玉県小川町)資料編に収録される、浪士組士新井庄司の書付に、根岸友山の居住地の地名を取った「甲山組」と称する30人の名が記されている。池田徳太郎や清河八郎の要請によって、根岸友山自らが組織した30人である。この名簿に名のある人たちは、2名の人物(途中で帰村か)を除き、浪士組名簿の一番組に名のある人たちとほぼ一致している。もっとも、甲山組に名のある中村定右衛門や片山庄左衛門は、浪士組の上洛途上で狼藉者取押役に選任されるなど一部入れ替えが行われている。浪士組はこれ以外にも、江戸出立後に頻繁な組織変更が行われている事実がある。

武州からの参加者のうち、甲山組28人以外に、3番常見一郎組も、阿比留鋭三郎(清河や根岸友山と玄武館千葉道場の同門)1人を除く人たちは、神道無念流の剣術仲間か、常見の経営する神道無念流「義集館」道場の門弟たちで、10人一組で参加したらしい。府川甚右衛門の呼び掛けに応じた人たちだったと思われる。

武州では他に近藤勇等の試衛館道場関係者11人が、水戸の芹沢鴨一党5人(全員神道無念流の剣客)と連合して2組を編成し、芹沢鴨新見錦が小頭となっている。なお、芹沢鴨組(後に小頭は西恭助、更に近藤勇に変更)の組士9人は、山南敬助等6人の試衛館関係者と平山五郎等3人の神道無念流関係者で構成されている。また、新見錦組9人のうち、熊本浪人の1人と井上源三郎等5人の試衛館関係者以外の3人(小林助松、加藤善次郎、小山憘一郎)は、いずれも神道無念流の剣客たちである。前述のように、常見一郎組の10人も神道無念流の剣術家と推定されるので、3番組の30人はほぼ全員が試衛館道場関係者と神道無念流剣術関係者で編成されていたのである。

ちなみに、芹沢鴨は戸賀崎熊太郎、或いは岡田十松吉利の門人といわれるが、十松吉利は文政3年(1820)に病没している。もし芹沢が神道無念流宗家3代戸賀崎熊太郎芳栄に学んだとすれば、芹沢と同じ3番組の常見一郎、小山憘一郎、加藤善次郎、金子蔵之丞、小松助松、島野喜之丞等は、みな芹沢の兄弟弟子だったことになる。

甲山組の1番組や芹沢鴨等の3番組と同様に、2番組の30人も殆どが上州人で占められている、小頭の大館謙三郎、黒田桃民、岡田盟(後に伊勢崎藩藩士武田本記と交代)の3人も何れも上州人である。大館謙三郎等の奔走によって編成された、「上州組」とも称すべき一隊30人での参加だったことは明らかである。

このことは、野州についてもその形跡が窺える。野州の参加者は15人と少ないが、4番組小頭の青木慎吉(野州大前村)と斎藤源十郎(野州江川村)は、青木彦三郎周辺の人たちである。青木慎吉は、池田徳太郎が青木彦三郎に宛てた1月26日付けの書簡に、「(前略)慎吉義君此書御同覧御一笑可被下候」とあるが、その人物像は判然としない。

野州の人たちも、青木彦三郎、青木慎吉、斎藤源三郎を小頭に、一隊での参加を予定していたらしいことが、『下野勤皇列伝』に記されている。そこには「池田徳太郎が来て相謀るや、志士の一隊を糾合し(中略)五十部の人広瀬定平等郷党の壮士数十名を率い約に赴かんとして、途中利根川を渡って足僅に武州の地を踏めば忽ち飛報があった。曰く、同志事を誤り企画中座して桶川の会合は画餅に帰したと云う。春方天を仰いで長嘆し慰喩して広瀬以下の壮士を郷里に還らせ云々」とある。この記述の出典も、同志が事を誤った事実の詳細等も不明だが、青木彦三郎参加のことは十分あり得ることである。

なお、清河八郎や池田徳太郎たちが、一隊での参加を要請していたことは明らかだが、単独で参加してくる人たちについては、主に石坂周造、村上俊五郎、森土鉞四郎、松沢良作といった清河八郎の同志たちが小頭となって組入りさせていたのである。

池田徳太郎が浪士徴募の遊説をした武州(埼玉県域のみ)、上州、野州からの参加者は124人に及んでいるが、石坂周造が遊説したとされる房州、総州(何れも千葉県)、常州茨城県)の浪士組参加者は17人ほどである。このなかには、芹沢鴨を始め水戸天狗党と呼ばれた人たちもいるので、遊説の結果は池田徳太郎のそれとは比較しようもない。この石坂の遊説結果は、1月20日付けで清河と山岡が池田徳太郎に宛てた書中に、「石宗(石坂周造)事少々不速之事有之」とあることに原因があったらしいが、その詳細は不明である。

4 浪士組名簿と浪士たちの実態

『下野勤皇列伝』に「桶川の会合は画餅に帰した」と記されていたが、池田が遊説した武州、上州、野州の義民は、2月29日に中山道桶川宿に集結した。この桶川宿集結のことは、1月21日付けで池田徳太郎が府川甚右衛門に宛てた書簡に、「上州表におゐて忠勇之義士如雲相集り申候間、当月二十九日其御本陣え相集り候事に手積仕置候」とあり、その2日後の同月23日付けで根岸友山が甚右衛門に宛てた書簡には、「今般池田氏出役義民選集の義、本月二十九日尊家へ相揃、二月朔日江戸着の積ニ申候」と記されている。

そして、池田徳太郎に率いられた義民たちが、予定通り1月29日に桶川宿に集結し、揃って2月1日に上府しただろうことは、根岸友山が上府後の2月3日付けで郷里の子息伴七に宛てた書簡に、「朔日江戸着之節ハ山岡之同役松岡万と申御方庚申塚迄御出迎下御酒披下候」とあることで推定される。浪士取締役の松岡万が、わざわざ板橋宿手前の庚申塚まで出迎えているのである。

池田徳太郎や石坂周造の関東各地への遊説と、清河八郎や山岡鉄太郎の徴募活動によって、230余人の浪士が集まり、2月8日に揃って江戸を出発したとされている。しかし、現在認められる浪士組名簿(組織編成や浪士の人数等)は、浪士組が江戸を出立する際の名簿ではなく、上洛途上等で加筆修正されたものではないかと思われる。

このことは、浪士組士分部宗右衛門の書簡や早川文太郎の「修行日記帳」で、早川文太郎や分部再輔は浪士組上洛後に組入りしたことが明らかであること。また、根岸友山の「御用留」に、2月15日付けで「右乱防人取押方申付候間左様可候心得」として中川一、片山庄左衛門ら4人の名が記されていること、さらに、分部宗右衛門の「新徴組記録外綴込もの」で近藤勇と佐々木如水が、2月14日付けで道中先番宿割を命ぜられていることでも明らかである。ちなみに、近藤勇は江戸出立つ時は目付役であったと思われる。

浪士組の名簿は複数残されているが、個々の浪士が夫々に作成したとは考えられず、恐らく浪士取締役等の人たちが作成したものが1、2冊(東京大学法学部図書室所蔵の「浪士姓名簿」はその一つと思われる。)あり、変更の都度これに修正加筆したのだろう。浪士たちはこれを書写し、書写後の変更はその浪士自身が加筆修正したものと推定される。なお、2月8日の江戸出立時点での浪士組名簿は、管見にして現在のところ確認できていない。

なお、『東西紀聞』に、「浪人三百人余当二月八日小石川伝通院に集会夫より発足致し候趣ニ候云々」として8組76名の浪士と、道中世話役10名の名が記されている。この名簿では、他の名簿では認められない浪士の名が数名散見される。例えば、他の浪士組名簿では7番小頭の1人は大内志津馬とあるが、この名簿では「西村河白組」と記されている。他の浪士組名簿に、小頭西村河白の名は確認できないが、陸奥白河藩阿部家の記録『公餘録』に載る「御掛役幷浪士連名控」のなかに、佐々木只三郎らと共に「御出役」として西村泰翁の名が認められる。同一人物と思われる。

西村泰翁(河白)については、7番組平士高木潜一郎の「御上洛御供先手日記」に、「(2月25日)他出無用、松岡万蔵殿、西村泰翁殿外弐人目付」とか、「(2月晦日)三番五番組六拾人松岡万・西村泰翁先達ニ而御所拝見」などとあり、西村泰翁が浪士組の一員として行動していたことは明らかである。浪士組上洛後の3月1日前後に西村敬蔵家で清河と山岡に会い、農兵募集の周旋方を頼んだ北垣晋太郎(国道)は、後年史談会で、「文久三年の春でございましたが、山岡鉄太郎、それから清河八郎、西村などといった連中が京都に来ました」と語っている。この西村が、西村泰翁だと思われる。

『東西紀聞』に載る名簿には、西村河白以外にも加藤健三、山本正道、河野弥熊太、熱田當吾等複数の他の浪士組名簿に名のない人物が記されている。単なる記載誤りなのか、それとも途中で脱退した人たちなのかは断定できない。なお、ここに名のある加藤健三は、根岸友山が府川甚右衛門に宛てた書翰(文久3年1月16日付)に、「(遊説中の)池田君同行の加藤鍵次郎君又々当方へ御出に付云々」等とある人かも知れない。

浪士組名簿に乗らない人物について、2番組菅俊平(本名、村上俊平)の「浪士組上京日記」2月11日の条に、気になる記述がある。この日は本庄宿を出立した日だが、日記には唐突に芹沢鴨新見錦、杉山弁吉(俊平と同じ2番黒田桃民組)の名が記され、さらに「吉見」と記された後に、「同(鴻巣在)大神宮社官須永土佐」、「同徳永大和」、「北有馬太郎門人山川立蔵」と、3名の名が列記されているのであ。

ここにある徳永大和は、根岸友山の組織した甲山組の2番組小頭だが、須永土佐は、徳永大和が神職修行をした吉見大神宮(現吉見神社)の大宮司で、根岸友山とは昵懇の仲であった。須永は後年、刀傷を負って逃亡中の薩邸浪士小島直次郎を匿った人でもある。浪士組に関わっていた可能性は十分あり得るだろう。なお、山川立蔵は、いうまでもなく道中世話役の山川達造である。

以上のような事実を見ても、途中脱退や何らかの事情で名簿に載らない浪士たちも複数存在していたと推測される。なお、本稿を『歴史研究』第626号に掲載の際、京都の医師西村泊翁(敬蔵)と幕臣西村泰翁を混同するという誤りを犯してしまいました。お恥ずかしい限りですが、この稿の最後に2人の人物像を補記しておきました。

浪士組参加者で確認できる人物は、筆者の調査では236人(池田徳太郎や石坂周造を除く)となる。現在の都道府県域別内訳では、推定も含めて群馬県56人、埼玉県55人、山梨県19人、栃木県13人、東京都15人、茨城県10人、千葉県7人、長野県6人、兵庫県6人、福島県、愛知県、熊本県が各5人、その他18府県34人となっている(後日浪士組士全員の県域名簿を載せる予定です)。

なお、これも推計ではあるが、脱藩者等浪士・浪人と称する人たち(武田浪人や郷士を除く)とそれ以外の人たち(農工商層)で比較すると、池田徳太郎が遊説した埼玉県、群馬県、栃木県の3県域では、浪士・浪人19人に対して、それ以外が105人となっている。これに対して3県以外の27県域の合計(不明含む)では、浪士・浪人63人に対して、それ以外が49人となっている。

以上のように、池田徳太郎は主に武州、上野、下野の義民(農兵)を徴募したのである。その池田は、浪士組江戸帰還後に行った建白書に、「俄に御集に相成候事故、玉石混淆仕候義は勿論に候得共、要之義気憤発、家産も妻子も抛遣り来り候心情、亦深く可憐事共に御座候、名は浪士と相唱候へ共、其実義民に御座候」と記している。


【補記】西村泊翁(敬蔵)と西村泰翁(河白)について

 西村泊翁(敬蔵)は但馬国養父郡八鹿村の人で、名は温、字は仲恭、泊翁は号である。文化10年(1813)の生れで、池田草庵に陽明学を、また江馬静安に蘭方医学を学び、京都富小路で医を業とした。コレラの流行時には、その治療法を発見して名を馳せたという。梅田雲浜梁川星巌清河八郎らと交わり、特に田中河内介と昵懇で、この河内介の妹を娶っている。河内介に清河八郎を紹介したのも、この西村泊翁であった。
 寺田屋事件や大和挙兵、禁門の変等に関係した志士たちの多くを、潜匿させ救護したという。維新後の明治16年(1883)には宮内省用掛に任ぜられた。同24年2月5日病没。享年は79歳であった。

 西村泰翁については、本文に記したように、陸奥白河藩阿部家の記録『公餘録』に「御出役」として「西村泰翁」の名があるほか、浪士組7番組平士高木潜一郎の「御上洛御供先手日記」の上洛後の記事に「目付、西村泰翁」とある。また、『東西紀聞』には通常の名簿の「7番大内志津馬」に代わって「西村河泊組」とある。西村泊翁と西村河白とは同一人物で、「御出役」とあるので幕臣だったと思われるが、これ以外の事実は現在のところ明らかにできていない。

なお、木崎好尚著『頼三樹傳』に、文久3年(1863)の春、頼三樹三郎の遺骸を長州藩士たちが改葬中に、三樹三郎を深く敬慕する幕臣松岡万が、その遺骸の腕を奪った事件の際、松岡が「同行の退翁に託して長州の士を説き、ひそかに一、二片を持ち去れりとぞ」、とある。この西村泰翁こそ、山岡鉄太郎や松岡万らと共に浪士組に出役となった人ではないかと思われる。

※本稿は『歴史研究』第626号(2014年11号)の特別研究に掲載された「文久三年の浪士召募に関する一考察」に、一部加筆修正を加えています。また、本稿等の内容は、2004年上梓の拙著『埼玉の浪士たち-「浪士組」始末記』が基底となっています。

【主な参考文献】
○『清河八郎遺著』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『東西紀聞』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『維新志士池田徳太郎』(澤井常四郎・広島県三原図書館)
○『埼玉県剣客列伝』(山本邦夫・遊戯社)
○『近世文人書簡集』(篠木弘明・俳文亭文庫)
○『蘭方医村上随憲』(篠木弘明・境町地方史研究会)
○『近世上毛偉人伝』(高橋周槇・吾妻書館)
○『下野勤皇烈士傳』(栃木懸教育會・皇国青年教育教會)
○『杉浦梅潭目付日記』(小野正雄監修・みずうみ書房)
○『幕末生野義挙の研究』(前嶋雅光・明石書店)
○『埼玉史談』(埼玉県郷土文化会)
○『頼三樹傳』(木崎好尚・今日の問題社)
○『贈位諸賢伝』(田尻佐・近藤出版社)
○『群馬県大田市史資料編』(群馬県太田市)
○『埼玉県桶川市史資料編』(埼玉県桶川市)
○『埼玉県小川町史資料編』(埼玉県小川町)
○『新選組日記』(菊池明、伊東成郎、山村竜也編・新人物往来社)
○『埼玉の浪士たち―「浪士組」始末記』(小高旭之・埼玉新聞社)

Ⅹ 【浪士組発起と松平忠敏辞任に関する私論】

1 清河八郎大赦の建白
出羽国田川郡清川村(山形県庄内町清川・括弧内は以後も筆者の注記)の郷士清河八郎(本名・斎藤元治)は、醇乎たる尊王攘夷論者であった。文久元年(1861)春には、尊王攘夷党「虎尾の会」を結成し、横浜の異人街を焼き討ち、幕府を攘夷の実行に追い込もうとした。しかし、同年5月、清河自身が町人を斬殺したこともあって、この画策は頓挫した。その後の清河は、その年の冬には京都に上って田中河内介(綏猷)と謀議し、九州を遊説して再度の攘夷挙兵を企てたが、これも翌年4月の寺田屋事件で水疱に帰することとなった。

 関西での攘夷挙兵を断念した清河八郎は、今度は水戸の浪士を奮起させて横浜を焼き討つため、再び京都から関東に下った。このときの経緯については、清河が郷里の父斉藤治兵衛に宛てた文久2年9月21日付けの書中に、「拙者も元来今度東下の子細は(中略)薩摩士に相談、とても此儘にては埒明不申故、水戸の浪士を引出し、横浜を攘ひ候て早速事に可及申とて」東下した、と記されている。

薩摩の同志たちから200両ばかりを贈られた清河八郎は、同年8月24日に江戸に入り、「虎尾の会」の同志だった幕臣山岡鉄太郎らと密談。その3日後には江戸を発ち、翌閏8月9日に水戸に入った。ここで住谷寅之介(信順)や下野隼次郎(遠明)らと横浜焼き討ちを謀議したのである。その様子が、先の父宛ての清河の書簡に、「(横浜焼き討ちに)余程同意も御座候得共、そのうち公辺にて殊の外正方におもむき自然攘夷の風に相成、獄中のものも大赦の由故、その矢先に又々横浜騒動引起しては」却って「大赦の事もなるまじきと水戸にて論ありて」、正方に向かいつつある幕政を暫く見守ることとなった、と記されている。
清河八郎は、水戸藩士たちの意見に従って、横浜焼き討ち等の実力行使は当面見合わせることとしたのである。

水戸の住谷寅之介や下野隼次郎たちは、清河八郎のよき理解者であった。翌文久3年の春、浪士組に参加するために上府した根岸友山(武州甲山村の豪農)が、郷里の息子伴七に送った書簡に、「(2月)二日夜山岡、清川、水戸の角屋虎之助、久保田屋(根岸らの宿泊先)迄訪呉候。此人は桜田一件之元〆也。英雄ニ御座候、大愉快云々」等と記されている。住谷は清河らの浪士徴募にも深く関わっていたのである。

清河の父宛て書中に、「公辺にて殊の外正方におもむき」とあるのは、この年2月に行われた将軍家茂と皇女和宮の婚儀の決定に際し、幕府は朝廷に対して、武備の充実により、「七、八年乃至十年以内」の破約攘夷を約束し、将軍の上洛も発表されていた。また、5月には兵制改革と武備充実についての将軍自らの諭告があり、7月には朝廷の意向もあって松平春嶽が政治総裁職に、一橋慶喜将軍後見職に就任、8月には井伊政権を引き継いだ前老中安藤正信らが処罰されていた。

さらに、この年閏8月5日には、「徳川斉昭への贈官と大獄以来の殉難志士たちの復権」に関する朝旨により、故徳川斉昭正一位大納言が追贈されていた。清河八郎が水戸に入った当時は、水戸藩内は喜びに沸き立っていたことだろう。この大赦のことは、清河にとっても他人事ではなかった。前年の横浜焼き討ち計画と町人斬殺事件に関連して、愛妾蓮女と実弟、それに同志ら6人が投獄され、既に3人の盟友が獄死していたのである。もちろん、指名手配中の自らの大赦も重大事であった。

清河が文久2年3月3日付けで山岡鉄太郎に宛てた書簡に、「貴兄に相托候事は只々連座の人々也。何卒御周旋奉希候」と記し、その翌日付けで山岡が清河に宛てた書簡には、「獄中の者の儀、色々工夫を運し候得共、右者前の振合故策誠に六ツケ敷、出牢成兼苦心致し居候」、などと記されている。指名手配中で身動きの取れない清河に代わって、山岡鉄太郎が獄中の同志救解のために苦心していたのである。

そして清河八郎は、同年閏8月20日付けの父宛て書簡で、「江戸に於て(山岡たちが)大赦令の事も大に力を尽し罷在候云々」と記し、さらに「京師より右の通り御書付(7月勅使大原重徳が松平春嶽らに求めた十一ヵ条か)関東に罷下り、関東にても以前と大違ひ、有志の人は私に限らず大赦の事に及可申間云々」と記して、近く大赦が行われることになるだろうと伝えている。

清河八郎が時流に便乗して「幕府の執事に上がる書」を記し、住谷寅之介を介して江戸の山岡鉄太郎と土佐藩士馬崎哲馬(滄浪)に送り、政治総裁職松平春嶽に上書したのは、その数日後のことであった。その翌月21日付けで、清河が父親に宛てた書簡に、「(山岡鉄太郎が上書に関して)越前侯の方に手寄りもあるよし」とあり、10月28日付けの父宛て書簡には、「右上書を山岡氏自身持参、越前老侯春嶽公に差上候処、殊の外御受よろしく、いさい尤の至故、不遠大赦可致必す心配不致様との慥に御返答」があったとある。

上書は長文だが、そこには「夫れ草莽有志の感奮する所以は、未だ必ずや在上或は有志の感奮に由らずんばあらず。而して在上有志の感奮する所以も、亦未だ必ずや草莽有志の感奮に由らがんばあらざるなり。此れ乃ち上下相待ちて而して并び行わるるもの。今は大赦独り在上に行われ在下に達せざるは、亦豈無偏無党の道ならんや、故に方今の時天下の人心を安んぜんと欲せば疾く大赦を行うに若くはなし」などと、草莽有志たちの大赦が今日の急務である、と記されていた。

この年9月24日付けで間崎哲馬が清河に送った書簡には、「御上書の大赦一條御丈千万、今日第一の急務に候。早速山岡君と謀り春嶽公へ呈し、此書板倉、水野、小笠原諸閣老へ伝覧に相成候へば、近日大赦も相発し候様子云々」、と記されている。

この年の8月に、「諸大名幷に諸藩士、浪人等正義の徒の幕譴を蒙れる者を大赦せよ」、との朝命が既に幕府に達せられていた。翌月には幕府の命によって、水戸の大場一心斎、武田耕雲斎、山国兵部等々の謹慎が免ぜられていた。こうした状況のなかでの清河八郎の上書は、大赦を一般の浪士等へも徹底させようとしたもので、11月には広く大赦令が発せられた。

2 清河八郎の浪士召募の上書
松平春嶽周辺の動向を記した『枢密備忘』の文久2年9月8日の条に、「松平主税介殿罷出御相願清河八郎呼寄浪士鎮定之策を施すに付、犯罪之者へ逢対忌諱被触候故、何度趣之其上ニ而、周防殿も相伺度趣故御取次ニ而伺済、周防殿も御咄置可被成御答え」、とある。

清河八郎のその前月閏8月20日付け父宛て書中に、「殊に講武場教授方の輩五六人別て此方の事を心配、夫々手を尽くし呉誠に人情の厚き感入候」、とあるので、この5~6人の講武場教授方のなかの1人が松平主税助(忠敏)で、自ら進んで清河たちの救解に奔走していた可能性も否定できない。

しかし、複数残る清河の文久2年12月以前の書簡等に松平主税助の名は一切見い出だせず、清河と主税助との交際の事実は確認できない。おそらく、山岡鉄太郎が主税助に働きかけて、政治総裁職松平春嶽に、清河八郎呼寄せのことを願い出ていたと考えられる。春嶽と主税助は同じ徳川家康を祖として、周知の仲であった。また当時、主税助は講武所剣術教授方、山岡は剣術世話心得の職にあった。

『枢密備忘』によれば、松平主税助はその後も頻繁に松平春嶽を訪ねている。その9月18日の条には、「松平主税介殿被罷出隠状の徒党鎮定不容易趣内訴有云々」、翌月2日には、「松平主税介殿被罷出浪士扶助の件の事」、その4日後の6日には、「松平主税介来り浪士手当の儀嘆達」などとある。そして同月の18日、主税助は幕閣に対して「浪士付属の見込み」の建白を行ったのである。

この松平主税介の建白書には、「浪士共其儘差置被遊候而は此上何様之変事相働候哉難計、少しも早く御引付天下人心惣而幕府へ帰嚮上下一致候様御処置」が現在の急務であり、「来春御上洛之節此者を供奉有司中何れの部下に共御附被遊候て御召連れに相成候はば」、諸藩を始め京都大阪の人心も改まって、将軍警護の一助ともなるだろう、などと記されていた。

この年の夏以来、京都では天誅の嵐が吹き荒れ、将軍上洛を翌年早々に控えた幕閣たちにとって、浪人問題は最大級の懸案事項であった。主税助はその浪人対策に関して献策したのであ。通説ではこの主税助の建白は、清河八郎が背後にあって、山岡鉄太郎を介して画策したものであるとされている。

しかし、現在残されている、水戸滞在中の清河が父親に宛てた10月28日付け、及び11月1日付けの書簡に、この主税助の建白のことも、主税助が自分を江戸に呼び寄せようとしていることも、一切記されていない。筆まめで、親思いの清河である。その事実を知っていれば、真っ先に記して知らせたはずである。

さらに、先の10月28日付けの書中には、「(清河自身が)たとひ東都追放にても、東都側に住居も相成、かつ当時の勢ひ故京師に住居致度」、と記されている。このことは、その前月21日付けの書簡にも、「夫より(大赦周旋の後は)上京、薩摩の様子京の様子を見候上、慥に落付処取極め可申」とあるので、これらの書簡を見る限り、この頃清河の心中には、浪士徴募のことなど一切なく、自らの赦免のことさえ確信がなかったと推測される。

その清河が、松平主税助の建白より2ヶ月近く後の11月12日になって突然、「幕府大執権松平春嶽公に上る書」を記して建白したのである。前後の状況から、この建白も山岡鉄太郎の清河への働きかけがあって行われたと推測される。

この清河八郎の建白書の内容は、第1に攘夷の即時実行、第2に国事犯に対する大赦の実施、第3に天下の英材を募るべきである、という3項目であった。その第3については、「天下非常の士を集め(中略)幕下の豪傑卓犖の士両三輩を選び、以て之が総宰となし、更に之が一館舎を設け、基材に因りて之に俸禄を施し、(中略)先ず天下馳名の傑士両三輩を挙げ、此輩をして広く忠義節烈、栄偉倜儻の士を募らしめ(中略)上下斉一以て敵愾の志を練らば、則ち何の虜か攘う可からざらむ」、とあった。

第1の攘夷の即時実行といい、第3の天下非常の士を募って上下斉一、敵愾心を練れば「何の虜をは掃う可からざらむ」といい、清河八郎にとって、大赦と共に攘夷が最大の関心事であったことが明らかである。

その清河の先の10月28日付け父宛ての書翰には、「当時の形勢彌夷狄打払之事と相成り可申」とか、「その内合戦と相成可申、万その御覚悟にて御油断なく御取計可然奉存候」、などとある。攘夷督促の勅使三条実美らが、10月28日に江戸に到着していた。清河はこうした形勢からも、幕府による攘夷の実行が間近にあると確信しつつあったのである。清河八郎が、幕府を欺き幕府を利用して浪士を集めさせ、討幕のためにこれを利用しようとしたなどという通説は論外である。

余談だが、松平主税助の建白活動については、管見にして講武所の練兵に関するもの(勝海舟『陸軍歴史』中)と、蝦夷開発に関するもの(『定本松浦武四郎』下巻)しか確認していないが、後者は松浦武四郎の代書である。「浪士附属の見込み」も山岡鉄太郎あたりの代書だったと見るのは穿ち過ぎだろうか。

ともかくこの間の山岡鉄太郎は、清河とその同志の救解のために、並々ならぬ努力をしていたのである。清河はそのことに感じ入り、10月28日付けの父親宛て書中に、「春以来山岡党の働き実に感服之至、平生久敷深交致候次第なから重々珍敷事に御座候」などと、山岡に対する心からの感謝の念を記している。

3 浪士召募の決定と松平主税介の辞任
松平主税助の建白の内容に賛否はあったが、浪士の召募は12月8日の幕議で決定し、翌日主税助に「浪士の内有志の者取扱」が命じられた。同月19日には、主税助に尽忠報国に志厚き輩の召募の命が下った。そして、その5日後の同月24日には主税助の相役に、鵜殿鳩翁が就任している。しかし、翌年1月26日になって、突然主税助が浪士取扱の職を辞任し、同日付で中条金之助がその後任を命じられたのである。なおまた、その同じ26日付で、鵜殿鳩翁に対して、「京都え為御用被差遣候条可致意致」とする辞令が交付されている(『藤岡屋日記』)。

この松平主税助辞任のことについては、旧庄内藩士俣野時中が、明治28年(1895)12月の史談会で、「募った浪士は段々その人數を増やしてくる。石坂、池田両人は帰って松平主税介に復命するところによれば、少なくとも三百人、五百人はあろうかということで、主税介は驚愕してしもうた。(中略)石坂ら浪士を募集するには金がいるから、地方の豪家からよほど大金を出させました。また甲州土豪からも金を借用してきたから、これだけは返してくれ」と主税助に迫ったため、主税助は進退窮まって「浪士が集まるという2月4日に辞職してしもうた。」と証言している。

この俣野時中の話は、主税助の辞任の日も異なっているし、池田徳太郎や石坂周造が甲州を遊説したという事実も怪しく、相役の鵜殿鳩翁がありながら、主税助1人が進退極まって辞任するなど、矛盾が多い。さらに俣野はこの時の談話で、「最初募集の浪士は五十人であったから、是に給する費用が一人五十両づつ給付するという準備」で、総予算が2,500両であったと断言しているが、その根拠も不明である。

浪士掛目付杉浦正一郎(梅潭)の記した「浪士一件」の12月19日の条に、「其才知人柄により仕向之形色少も金銀も平均致し壱人拾人扶持之積先以弐拾人分も御渡金被下度候事」とあり、『続徳川実紀』の同月21日の条には、「浪士之内者引寄有之候ニ付而ハ、先百人扶持被下候積、可被取計候事」と、主税助に達したとある。しかし、これは当面の経費であり、主税助の建白書にある、「草莽有志之者共」を引き出すための「其党近きに在者」に要する経費だったと思われる。

だが、浪士組への応募者が幕閣や主税助の予想を大きく上回ったのは事実であった。それは清河八郎にとっても意想外のことであった。これは、清河が1月10日付けで仙台藩桜田良佐らに宛てた書簡に、「僕等は主税助を始め山岡及び松岡等を同伴、浪士のもの六七十人も相集め一隊に致し上洛致すべくとの事に相成り、彼これ多端申し難く計り候」とあり、それから9日後の同月19日付けの父宛て書簡には、「私儀当月下旬来月初旬迄諸有志引連百人計りも上京に御座候」、と記されていることでも明らかである。

俣野時中が先の史談会で、清河や石坂たちが「幕府にて五十人限りというても、三千人でもかまうことはなく募れ、(中略)かねての一挙をやる機会である」、といったとも証言しているが、そもそも50人限りという制約があったかも怪しい。なお、応募浪士の人数が清河八郎の想定を大きく上回った主な理由は、池田徳太郎による武州や上州等での義民(農兵)の募集にあった。その事実は、次稿「文久3年の浪士徴募活動の一側面」で詳述します。

浪士組への応募者が、幕府や清河の予想を遥かに上回ったため、幕府は上洛直前になって定員を300人と定めたらしい。浪士の1人高木潜一郎の「御上洛御供先手日記』文久3年2月の条に、「上京浪士三百人限り可為旨仰出候事」とある。浪士組が「三百人組」と呼ばれた所以である。

松平主税助(この当時は上総介)の辞任に関しては、後に浪士取扱に就任した高橋謙三郎(泥舟)の『泥舟遺稿』のなかに、「初め幕臣松平上総介に属す、諸浪士服せず」辞任したとある。また、石坂周造も明治33年11月の史談会で、「松平主税(助)という男が、(中略)浪士組の頭であった。然るに私共はそれを退けて鵜殿鳩翁を入れた云々」と語っている。俣野の談話内容とは異なる主税助の辞任理由である。

しかし、永倉新八の『新選組顛末記』のなかには、「上総介は当時上下に信望があつい器量人で浪人などから一種の崇拝をもってむかえられていた」、高橋や石坂の話とはと真逆のことが記されている。主税介は、後日清河たちの横浜焼き討ち計画を幕閣に密訴したともいうから、あるいは、高橋謙三郎や石坂周造は、主税助を快く思っていなかったのかも知れない。

松平主税助は、後に新徴組取扱に復職していることなどから考えると、辞職の理由は他にあったのではないかと思われる。それは、主税助が松平春嶽に提出した建白書の一節に関係しているのではないだろうか。主税助は建白書のなかで、召募した浪士を「御召連れに相成候はば、諸藩を始め京摂間の人心も之が為めに相革り御警衛の一助にも相成可申候」とか、「幕府に於て真実叡慮御遵奉被為在全く公武御一和光明正大の御処置にさへ相成候へば、薩長と云共為べき様無之」、と主張している。

また、この主税助の建白書に対する浪士掛目付杉浦正一郎が提出した意見書には、浪士の徴募は「世上之耳目ヲ一新仕、御政事変革尋常ニは無之段、京都は勿論諸藩江も自ら相響き、却而折合ニも可相成哉ト奉存候」、と記されている。

こうした松平主税助の建白書や杉浦正一郎の意見書の趣旨をより効果あらしめるため、幕府は主税助ではなく、鵜殿鳩翁に浪士を率いての上洛を命じたと思われる。鵜殿はペリー応接掛やハリス上府御用掛を勤め、安政の大獄の際には、一橋派吏員として井伊政権によって罷免・隠居の処分を受けた人であり、攘夷論者であったという。その一橋派吏員として井伊政権から処罰された経歴は、朝廷を始め攘夷派浪士たちから、好感を以て受け容れられるだろう、と幕閣たちは考えたのではないかと思われる。

浪士組を率いて堂々の上洛を期待していた主税助は、当然江戸に残って、遅れて駆けつけてくる浪士たちを収容する立場となる。主税助は不満だったに違いない。ちなみに、先の清河八郎桜田良佐ら宛て1月10日付け書簡に、「僕等は主税助(中略)等を同伴浪士のもの」を引連れて上洛することになったとあったが、清河もこの時点では主税助が上洛するという認識だったのである。

松平主税助の辞任の日と中条金之助の浪士取扱就任、それに鵜殿鳩翁への浪士を率いての上洛命令が同日となっているが、幕閣が鵜殿の上洛を検討中に、それを知った主税助が不満を表明したため、主税助に対する慰撫説得が行われたものの、主税助がこれを聞き入れずに辞任という結果になったと推測される。

鵜殿鳩翁は翌2月8日、浪士230余人を率いて堂々上洛した。『東西紀聞』に載る鈴木半内の書簡に、「世話役之内ニ而清川八郎儀万端一人ニ而差配致居候由」とある。清川八郎は、浪士の集団のなかにあって、形の上では浪士取締役山岡鉄太郎の付属だったが、実質は浪士頭取として行動していたのである。浪士の一人柚原鑑五郎の日記にも、「羽州浪人清川八郎山岡に付属す」とあり、高木潜一郎の日記には、「浪士頭取清川八郎」と明記されている。

【主な参考文献】
○『清河八郎遺著』(日本史籍協会編・東京大学出版会)
○『東西紀聞』(日本史籍協会編・東京大学出版会)
○『続徳川実記』(黒板勝美国史大系編修會編・吉川弘文館)
○『杉浦梅潭目付日記』(杉浦梅潭・杉浦梅潭日記刊行会)
○『史談会速記録』(史談会・原書房)
○「浪士一件」(杉浦梅潭文庫・国文学研究史料館蔵)
○『土佐維新史料』書翰編(平尾道雄編・高知市民図書館)
○「柚原勘五郎日記」(清河八郎記念館蔵)
○『新田町誌資料編』(群馬県新田町)
○『泥舟遺稿』(安倍正人編・国光書房)
○『維新史料綱要』(東京大学史料編纂所東京大学出版会)
○『埼玉県史研究』第8号(県民部県史編さん室・埼玉県)
○『近世日本国民史』(徳富猪一郎・明治書院)
○『新撰組顛末記』(永倉新八新人物往来社)
○『新選組史録』(平尾道雄・白竜社)
○『清河八郎』(大川周明・文録社)
○『清河八郎』(小山松勝一郎・国書刊行会)

 ※本稿は『歴史研究』第620号(平成26年4月号)に、特別研究「浪士組の発起者は清河八郎ではなかった」として掲載されたものの一部を加筆修正しています。

Ⅸ 【庄内藩脱藩士水野行蔵小伝】

1 その人となりと生い立ち

 元館林藩士で、青森県参事などを勤めた塩谷良翰の『回顧録』に、「安藤閣老其(大老井伊直弼・括弧内は以後も筆者の注記)の跡を承け志士皆其為す所を怒り、人心恟々たり。塩谷宕陰、水野行蔵、其外慷慨憂国の名士屡々来りて時事を論じ、謀議する所あり。」と記されている。ここに名のある塩谷宕陰とは、老中水野忠邦の顧門を勤め、後に幕府の儒官となった碩学である。

その宕陰と共に慷慨憂国の名士として名のある水野行蔵については、文久2年(1862)に塩谷宕陰と共に幕府の儒官に抜擢された安井息軒が、老中格小笠原長行の諮問に答えた「明山公に答ふる書」に、「忠実にして才気も有之本気に天下之事を憂候者」として、「藩中ニ而者は水野行蔵、金子与三郎、三浦五助、草莽ニ而者田口文蔵等」と名前を挙げた上で、さらに、「此者共各長短得失御座候得共、執れも忠実にして百人に勝候才略御座候、中ニも水野は勝候様見請申候」と記している。

 安井息軒が、「忠実にして百人に勝候才略」のある金子与三郎、三浦五助、田口文蔵たちより更に「勝候様身請」られるとした水野行蔵とは、庄内藩脱藩の士である。本姓は上野、幼名は重助、通称は禎蔵。字は図南、諱は曲直、鵬と号した。水野行蔵は脱藩後の変名である。

 水野行蔵は文政2年(1819)5月5日を以て、鶴岡上下最上町に、足軽組外上野猪蔵の長男として生まれた。文武修行の詳細は不明だが、元庄内藩士股野時中が明治28年(1895)2月の史談会で、「上野禎蔵の家は、金には不自由のない頗る贅沢を極めて居った様子でございます。家は余裕がございましたから、上野も当時藩に於いては普通以上の教育を受け、漢学にも通じて居ったと云う事でございます。」と語っている。

さらに股野は水野の学問について、「漢学の一点に就いて申せば、上野禎蔵は経書その他古書を読むに注解を見ずして、只本文を見まして、仮令間違うとも自分の意見を以て解釈」し、友人が誰々の解釈にはドウあると言っても、それは更に聞かずに、「彼は一己の解釈であるから、自分の意見も一己の解釈である」、と言って譲らなかったと語っている。学問に対する自信以上のものを感じさせる逸話だが、世人の毀誉褒貶に頓着しない剛直さがあったらしい。

 水野の甥上野友三郎が記した「上野家勤書」によれば、水野は天保6年(1835)、17歳で御役所見習役となり、同12年御帳番として5石2合扶持を給された。同14年御帳付代として辻順冶に従い下総国印旛沼御普請御手伝場に出張、翌年3月帰郷し、弘化2年(1837)6月には郷方改役、その翌3年正月には大津方役に就いた。しかし、それから7年後の嘉永6年(1853)正月、水野は隠居禁足を申し渡されたのである。

2 脱藩上府

 水野行蔵に対する隠居禁足の申渡書には、「放蕩亡頼其上身分不相応之品等相奢風説不宜敷趣ヲ以」とあった。この隠居謹慎処分に関して、後年水野と深い親交のあった幕臣澤簡徳(勘七郎)の記した「水野行蔵事績」(以下「事績」という)に、「当時有志輩評セリ、之猜疑ノ為ナラント、本人モ亦斯ノ如キ辞ヲ以テ罰セラルルノ所為有ルヲ覚エスト心底自若タリ」とある。

その猜疑の内容について、旧庄内藩加藤正之の談話として、水野は「経世の才を抱き、論策する所多きも、藩庁一人の之を理解するなく、却って徴賤の身を以て徒らに政治を是非するものとなし、軽侮圧迫を加うるに至れるを以て、韜晦して其難を避くるに如かずとし、故さらに品行を乱し、驕奢を装い」、敢えて藩庁の処分を招くよう、花柳の巷に出入りし、楼上に朱塗りの据風呂を焚かせたり、節分には黄金の豆撒きをするなどの放蕩を行ったとある。

水野は藩政刷新のため、様々な献策を藩当局に呈出したのではないかと思われる。佐幕一辺倒の保守的な庄内藩では、軽輩微賤の分際で藩政に容喙するなど思いもよらない。周囲からも白眼視され、藩政の刷新に絶望したのだろう。翌安政元年(1854)12月、水野は妻子を国に残し、温海温泉に湯治に行くと偽って脱藩、江戸に上った。

水野は攘夷論者であった。それは晩年になっても変わらず、慶応3年(1867)7月に水野が甥清水増之助に宛てた書簡にも、「江都兵庫開港抔之噂有之候、西洋好き姦吏之念中可悪事に御座候」と見える。水野が脱藩した年、米国等との間に和親条約が結ばれている。脱藩はそのことにも関係していたのではないかと推測される。

上府後の水野は、旗本佐野日向守(2,000石)の家臣で叔父の高橋清助の家に寄寓した。翌年10月6日付で、その4日前に発生した安政の大地震の惨状と、自らの無事を郷里の妻に伝えた水野の書簡に、「(2日)夕方過林図書殿より帰り食事仕舞、塾中少年の文章など添削致候得ども」とか、「翌三日(中略)林図書之助え参る(中略)上書の相談もと存参見候処、図書殿実母八代洲河岸林大学頭殿妻地震にて殿屋長屋とも潰れ圧死外家来十四五人同様と申に付相談にも居りかね一寸逢候て引取」とあるほか、この日その後「筒井殿屋敷え入候得者痛は佐野殿より少々増候位潰れ候」とか、「夫より相馬候の邸え見舞」などと記されている。

ここに記される林図書之助とは、第二林家の家督を継いで幕府儒官となった林鶯渓である。その父八代洲河岸林大学頭とは、第11代大学頭林復齋であり、アメリカのペリー提督と主席全権委員として和親条約の締結交渉を行った人である。筒井殿とは、この当時ロシアのプチャーチンと和親条約の締結交渉に当たっていた筒井肥前守政憲と思われる。また、相馬候とは、当時寺社奉行を勤めていた相馬中村藩主の安藤信正である。

水野は上府後1年にも満たないこの時、錚々たる幕臣たちの屋敷に出入りし、さらに、林図書助を介して幕閣に建白書を提出しょうとしていたのである。これらの様子からも、志を抱いての脱藩上府だったことは疑いない。後年水野が庄内藩の捕吏に縛せられた際の口上書(以下「口上書」という)には、「私儀天下ノ御為ニ相成候様致度ト心懸候モノニモ自力ニテ出来候事ニモ無御座候間、其人ヲ得候テ私申処採用ニ相成候者直ニ御為ニモ可有之ト相心得候云々」とある。また後年、澤簡徳が水野の甥清水敬典にあてた書簡にも、水野が国事に尽力したことは自分も熟知しているが、水野も自分も特に「幕府末路万一大乱ニモ立至ナハ国家安危ノ岐ルル時ト」苦慮したと記されている。

3 堀織部正に陪従する

 佐藤三郎著『庄内藩酒井家』等には、水野が林図書之助の塾に入ったとある。しかし、明治28年2月の史談会で、旧久留米藩士佐田白茅が、「私はその(林図書之助)塾に入りましたが、その時水野行蔵君が毎日来られて、時に塾生を連れて旨味い物を喰はせることで、余程大胆な人の様でありました。」とか、「林図書之助或る夜水野行蔵の話しがあったが、あれは庄内藩の探偵であるまいかと云う事でありました。」と語っていることなどから、水野の林家への出入りは、図書助に贄を執ったのではなく、幕政改革の手段を得るためだったと思われる。

 安政3年正月2日付で、水野が郷里の長男寛に宛てた書簡に、「当年(堀織部正に)陪従函館エ罷候積、右ニ付同屋敷受取候而旧臘廿八日引移申候(中略)勤方ハ在府年ハ堀侯ノ嫡庶並家中ノ子弟教授外鎮台手元用取扱候テ斥ハ用人席誠に客分同様御坐候云々」とあり、二月下旬には箱館へ渡る心算であることなどが記されている。また、同年5月2日付の清水増之助宛て書簡には、「小生モ貳月貳拾七日江戸出立、参月貳拾五日箱館着、称名寺ト申ニ四月五日迄旅館其後御役所引移至テ無事罷在候」とある。

 水野が陪従することとなった堀侯とは、函館奉行堀織部正利煕である。海防掛目付であった嘉永7年6月から7月にかけ、北蝦夷地(樺太)を巡見して幕閣に詳細な報告書を呈出、7月には函館奉行に任命されていた。

安井息軒が平部良介に宛てた安政2年4月28日付書簡に、「(堀織部正が)公儀にも為差人物も無御座候故、当其器候者御座候はば、陪臣浪人中よりも被召出候様被申立御聞済成候由、堀は余程之人物と相見候」とある。堀は函館着任に際して、優秀な人材を在野からも登用しようとしていたのである。水野の堀織部正陪従の経緯はこの辺にあったのだろう。

先の5月2日付の清水増之助宛書簡に、水野は函館着任直後の日々の様子を「鎮台手元取調べ懸諸向取締ノ命ニテ(中略)鉄砲馬打調練ノ稽古シキリニ致シ身体ノタメ別ニ宜、文事ハ勿論間断ナク致シ居候」、「鎮台巡見有之、小子ハ右等ノ度毎定式付添候付、所々一見致候」などと記している。水野は蝦夷地開拓に関する献策も積極的に行ったらしい。

この年12月付の建言書の草稿には、人材(「浪人百姓町人たりとも卓見卓識の者」)の登用のこと、コモカムリ等浮遊の者に衣食を給し、「厳刑ヲ以コラシ厚賞ヲ以勧メ」て良民に化すべきこと、蝦夷人の離反を防ぐためにも「蝦夷人取扱候吏温厚ニシテ事情ニ通達仕候モノ」を当てるべきこと、蝦夷地に金銀銅山を拓き、開拓の費用に充てるべきである等々、多方面にわたる献策が記されている。

北方防御の要である蝦夷地の開拓に、水野は熱意をもって取組んでいたのである。しかし翌年4月、水野はその箱館を去り江戸に戻っている。『旧幕府』の中に澤簡徳の談話として、その理由が「織部と説が合わなかったので半途にして」帰ったと記されている。水野は剛直であり、堀は燗癖の強い人であったといわれる。疎隔の原因はその辺にもあったのだろうか。

 「事績」によれば、水野は江戸に戻った後、旗本野間釜之助の長屋に借宅。安政5年4月からは、旗本深尾繁三郎の長屋に移っている。

4 虎尾の会の同志と水野行蔵

 安井息軒の娘婿であつた北有馬太郎の日記の安政5年12月9日の条に、「水野行蔵、上田専太郎、雄吉来る」と記されている。水野と同行していた上田専太郎とは、後に和歌山藩明教館の寮長となった人で、この当時は安井息軒塾の塾頭であった。雄吉は、北有馬太郎の塾舎のあった武州富村(埼玉県狭山市)の村役人である。この3人が訪れたのは、北有馬太郎の出張教授先である武州豆戸村(埼玉県鳩山町)の鋳物師宮崎家であった。

 水野たちが遥々北有馬太郎を訪ねたのは、前年北有馬が離別した息軒の長女須磨子の出産等に関することであったと推定される。北有馬は前年5月、尊攘活動で師家に禍の及ぶことを恐れて懐妊中の須磨子を離別していた。北有馬の日記の翌年3月1日の条に、「(小児を)携え山川達三及び曲竹乳婆奥富に抵る。」とある。この後北有馬は、幕吏に捕縛されるまでの間2人の幼い子を養育している。

 なお、北有馬太郎の翌安政6年2月11日の条にも、「午後奥富に到り西川兄を訪ねる。水野行在り、云う昨日来る。」等の記述がある。西川兄とは、北有馬の盟友で、水野と同じ庄内出身の清河八郎尊王攘夷党「虎尾之会」に共に参加し、文久元年に共に伝馬町の獄舎で非業の死を遂げた西川練造である。西川も北有馬の塾舎の近くで医を業としていた。
 水野が西川練造を訪ねた同じ2月、清河八郎が郷里へ旅立ったその留守中に、清河の淡路坂の塾舎が類焼した。水野は、清河の愛妾蓮女や食客の笠井伊蔵等の身を案じ、笠井たちに水野家への一時避難を呼び掛けている。その笠井への書簡には、「御賄方等は小子御引受申候上は、何一つ御持参は堅く御断申上候、粗食之処は何分御忍恕を相願ひ候、其余者少しも御懸念不被下候様、皆々様へも宜敷御周旋下度奉願候」等とあり、水野の人柄を偲ばせる文面である。

 水野も攘夷論者ではあったが、清河八郎の過激な尊攘論とは一線を画するものがあった。清河は攘夷の扉を外から力によってこじ開けようとしたが、水野は内側に入って幕吏に扉を開けさせようとしたのである。したがって、清河が文久元年に結成した「虎尾之会」には水野は参加していない。しかし、東京都千代田区発行の『原胤昭旧蔵資料報告書』によれば、清河が町人を斬殺した前日5月19日付の手配書に、清河たちと共に「出羽儒者水野行蔵」、とその名が列記されている。清河やその同志たちとの親交は、幕吏に同類と疑わせるに十分だったのだろう。

 水野への誤解は早くに解けたらしい。この時投獄された清河の実弟斎藤熊三郎が郷里に宛てた書簡に、「上野禎蔵様、当時水野行蔵様と申居られ候、私入牢之始めより、通路にも六ケ敷処へ度々御心附金子御送被下、御影にて命をひろい申候。誠に難有次第、此上もなきしんせつの御方に御座候云々」とある。

 斎藤熊三郎と同時に入獄した蓮女や池田徳太郎等に対しても、水野は援助を惜しまなかった。池田徳太郎の出獄後、その父元琳が徳太郎に宛てた書簡には、「水野公ノ御仁恕厚恩如泰山紅海、其不知所謝、真ニ所謂君子之人乎君子之人也」と記されている。

5 盟友幕臣澤勘七郎

 水野行蔵の交際は広かったが、後年水野が庄内藩に就縛された際の口上書には、特に懇意な人として、老中板倉周防守家臣川田剛、田口文蔵、駒込龍光寺、安井息軒等の名が挙げられている。しかし、もっとも懇意にしたのは幕臣澤勘七郎(左近将監・簡徳)であった。この澤については、安井息軒の「明山公に答ふる書」に、文久3年2月、前年の生麦事件の賠償を求めて来航した英国艦隊との応接に派遣すべき人材として、幕臣では澤勘七郎を第一番にあげ、「澤左近儀者忠義才略兼備り、事変を見通候儀燭を執而暗夜を照候如く、実に天下不易得之才と存候」と記されている。

 水野と澤との出会いは、先の水野の口上書に、「深尾繁三郎殿簡徳殿懇意ニテ折々罷越云々」とあり、「事績」には、「水野行蔵氏ハ、安政五年冬頃ヨリ相往来シ、当時ノ形勢ニ就キ互ニ論議スル所アリ、其意見大同小異ナレトモ要領ニ至リテハ殆ント一致シケレハ意気相投シ頗ル懇親ノ交際ヲ為シタリ、氏ハ性行直実方正ナル人ナリキ」とある。澤もまた攘夷論者であった。

 「事績」には、安政の大獄で中追放の処分をうけた藤森弘庵の救解のため、「拙者建言シテ其赦免ヲ乞ヒシニ方リ、氏(水野行蔵)ハ閣老ノ家臣ヲ初メ其下僕等ノ門ニ奔走」したり、謹慎中の水戸藩国老武田耕雲斎の宥免や、同藩士長谷川作十郎の遁走に2人で尽力したことなどが記されている。

 文久2年10月、澤は講武所頭取から目付役に進んだ。「事績」に、「拙者目付ニ転役ノ節氏ハ拙者ノ家来ニナランコトヲ請フニ因リ」、家来にしたとある。志を遂げるための方便だったのだろう。その年12月、澤は将軍後見職徳川慶喜に従って上京したが、「事績」に「氏ヲ従ヘテ行ク」とあり、また「氏カ在京中窃ニ国事ヲ憂ヘ尽力スル所アリシカハ、文久三年ノ春閣老板倉周防守、小笠原壱岐守ヨリ氏ニ面会スヘキ旨の通達アリ云々」とあり、水野は両閣老に対して、「今ニ於テ日本国家ヲ永遠不朽ニ保続シ以テ泰山ノ安キニ措ント欲セハ、憚リ多キ鄙見ナルモ幕府政権ヲ奉還シ衆諸侯ト協心勠力シ、一意朝廷ヲ奉載シテ以テ人心ヲ安ンシ」、以て海外諸国に対応すべきである、と主張したとある。驚くべきことに水野は文久3年の時点で、幕閣に対して政権の朝廷への返還を直詞したのである。
 水野が閣老に意見を開陳した際、その隣室で、京都町奉行永井主水正尚志がこれを聞いていて、後に澤に対し、「彼(水野)カ議論ハ実ニ激烈ニシテ手ニ汗ヲ握リタリ」と語ったという。

 また、股野時中の先の史談会での談話に、「(水野を)武田耕雲斎等も重んじて兄として待遇した」とある。『古老実歴水戸史談』に収載される「きのふの夢」に、藩内抗争の絶えない水戸藩を憂慮し、武田耕雲斎に対して、「庄内藩の水野幸三いたく心配して、公平の政治をなされずば、水戸家の御為にならざるのみならず、閣下の声望も地に堕るに至らん。閣下は水戸有志の泰山北斗なり。宜しく御反省なさるべし」と直諫したとある。

6 下獄と終焉

 元治元年(1864)6月23日、澤勘七郎は外国奉行を御役御免となり、閉門蟄居の身となった。この月、横浜鎖港や常野屯集浪士への派兵問題で、老中板倉周防守や小笠原壱岐守等も職を免ぜられていた。先の鈴木信右衛門の上野友三郎宛て書簡に、「小笠原図書様板倉抔は勿論、澤様も専ら鎖港第一の方と相聞申候、然るに右御役人方不残お役御免に相成候」とある。攘夷論者の澤も幕政から遠避けられたのである。

 水野が庄内藩の捕吏によって就縛されたのは、その翌月5日のことであった。澤の屋敷から微酔して帰る途中のことであったという。「事績」に、「氏ノ捕縛セラルルヤ罪状ノ証徴アルナシ、唯当時ノ閣老牧野備前守、氏カ国事ヲ憂ヘ四方ニ奔走スルヲ探知シ、彼レハ澤左近将監等ト私カニ共議シ(中略)其持論ヲ貫徹セントノモノノ如シ」として、庄内藩に命じて捕縛させたのだとある。

 獄中での水野は、牢番に対して学問を勧め、『左伝』等の講義をしたりしていたらしいが、翌年5月に鶴岡へ檻送されたのである。その年9月に、獄中の水野が清水増之助に宛てた書簡には、「返ス々々モ御一統エ面目ヲ為失候事、慙愧無此上候、未タ聊存念有之候間、性命相保居候心得ニ御座候」とあり、旧友たちの救解活動に一縷の望みを賭けていたのだろう。この年の池田徳太郎の宛名不明の書簡には、「水野行蔵幽囚一條、右等内々周旋仕候、日夜血誠罷在候云々」とある。

また、この年11月に安井息軒が娘須磨子に宛てた書簡には、「水野行蔵も庄内にて未御免にはならず候得共、大に相緩み酒なども飲まれ候よし、牢舎にては寒中如何有之心配致候処、右の様にては心遣ひは無御座致安心候、大方遠からず御免にも相成可申候」と記されている。

 しかし、安井息軒の見込みに反して、その後も水野に対する出牢の沙汰はなかった。慶応2年(1866)9月23日付の清水増之助宛て書簡には、「如此(入牢)恥辱を取り候上は養生も無益と存候事、折に触れ思出候得共、未だ尽力致見込も有之、夫が為御迷惑相懸実に恥入候次第に御座候」とあり、さらに「近来は毎朝水にて半身位をふき気血をめぐらし、加之掃除の者手伝ひ(中略)運動の為か別而宜様に御座候」とある。また、翌年7月の同人宛て書簡にも、「小生無障消光、友三郎周旋にて通鑑綱目借呉候故日々読書楽居候」などとあって、出牢への望みを断つことはなかったのである。

 なお、この慶応3年、庄内藩内では藩政改革派の人々に対する大弾圧事件があった。1月に首領株の酒井左京、松平舎人(後に自刃)が自宅謹慎となり、その他総勢28名の藩士に対して斬罪、永牢、禁固等の断罪が行われていた。改革派の中心人物大山庄大夫は、前年11月に危難を察知して自刃していたが、この年9月、その遺骸を墓地から掘り出し、腰斬の刑に処すという酷薄なものであった。

 この事件の余波か否か、その3カ月後の慶応4年、明治と変わる年の正月4日の夜、憂国の志士水野弘蔵は、揚り屋内で還らぬ人となったのである。毒殺されたとの噂がもっぱらであったという。享年50。その遺骸は、上野家の菩提寺である本鏡寺に葬られいる。

【主な参考文献】
○「水野行蔵」』(清水安義・山形県鶴岡市立図書館所蔵)
○「隠れたる英雄水野行蔵先生」(山形県鶴岡市立図書館所蔵)
○「庄内脱藩勤王志士資料」(阿部正巳資料所収・鶴岡市立図書館所蔵)
○『維新前後に於ける庄内藩秘史』(石井親俊・壹誠社)
○『明治維新史料、幕末期』(『鶴岡市史資料編、庄内史料集16-1・鶴岡市)
○『庄内藩酒井家』(佐藤三郎・東洋書院)
○『やまがた幕末史話』(黒田傳四郎・東北出版企画)
○『旧幕府』(残花戸川安宅編・原書房)
○「安井息軒書簡集」(黒木盛幸監修・安井息軒顕彰会)
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』収載・久留米郷土研究会)
○『清河八郎遺書』(日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『史談会速記録』(史談会・原書房)
○『古老実歴水戸史談』(高瀬真卿・合同出版)
○『原胤昭旧蔵資料調査報告書(3)』(東京都千代田区教育委員会)
○『清河八郎』(小山松勝一郎・国書刊行会)

Ⅷ 【宇野東桜(吉良七郎)関係資料について】

ここに掲げる宇野東桜に関する資料は、前稿Ⅶ「尊王攘夷党『虎尾の会』始末」をまとめるに際して確認したものです。宇野東桜は、文久3年正月13日に幕府の密偵として、長州藩士たちによって慘殺された人物です。その郷里高槻市には確認していないため、ごく限られた資料ですが、ここに掲載します。なお、括弧内は原注とない限り筆者の注記です。
●『野史台維新史料叢書』36 (日本史籍協会編)中「野史一班」に
・東桜惨死 宇野東桜通称ハ八郎武州高槻藩士ナリ、性放逸嘗テ人ノ妻ニ姦シテ罪ヲ得タリ、是レヨリ痛ク自ラ悔匕樹立スル所アラントス。然レトモ書ヲ読ミ画ヲ好ミ兵法ヲ習ヒ皆成ラス。曾テ清川八郎ト親善ニシテ其家ニ寓ス。尊王攘夷ノ論ヲ唱ヘ長州人ト交ル。井伊掃部頭変死シテ後長州人ノ為メニ往テ藩情ヲ探リ為メニ捕ヘラレ幾クモナク赦サレ帰テ又変心スル所アリ、長州人之ヲ悪ミ夜ル邸ニ招キテ其刀ヲ奪ヒ遂ニ之ヲ殺ス事ハ八郎ガ死ニ先ツ事僅ヵニ両月ニ有リ、復某ヨリ江幡五郎ニ寄スル書翰ヲ記スルアリ
  去る十二日の夜中虎御門外へ侍体の死骸を筵に包み捨置き其上へ横二尺五寸竪一尺四五寸程の板に左之通認有之                   宇野 八郎
   右之者儀東桜と号し年来有志の徒に交り事実探索致奸吏共に内通せしめ数多忠誠之士を害したる段譎詐反覆天地不可容之大罪依之如此加天誅者也   亥正月
 右年三十二歳元永井飛騨守殿家来にて先年国許御暇に相成、此者画名東桜と号し画書兵学相応に出来、江戸表等巡行昨年夏頃より松平山城守(上ノ山藩ナリ)家来金子与三郎方に多分止宿世話に相成候由。右父宇野剛右衛門と申者死骸引取申候。総身切疵突疵等浅深十四ケ所也
●『東西紀聞』一(日本史籍協会叢書)
・正月十二日之夜新橋外御用屋敷裏堀際に侍体之死骸筵ニ包捨有之其上ニ横三尺位竪壹尺程之板ニ左之通書し有之候
 此者儀東桜ト号シ年来有志之徒ニ交り事実探索致し姦吏共ニ内通せしめ多数誠忠之士を害ひたる段譎詐反覆天地不可容之大罪依之如斯加天誅者也
   正月
   右八郎相応之大小帯罷在候由身分未承候
久坂玄瑞「江月斎日乗」(『久坂玄瑞全集』)
文久元年4月5日、晴、午後千葉英二郎塾へ行。多賀生及房州人山田官司(原注・剣客)、摂津高槻処士宇野東桜(源三郎)と八辻(原注・四谷)に飲す。夫より礫川に到。片岡及酒泉彦太郎同道にて上野無極庵に飲す。夜四時帰邸。
・同年4月11日、(中略)是日宇野東桜来る。
・同年4月12日、早朝より宇野来る。大野又七郎亦来話。
・同年4月13日、午後片岡為之允、樺山三圓、町田直五郎、益満新八郎(原注・薩藩)来話、益満初面会なり、暮時東桜去る、東桜昨夜宿せしなり。
・同年4月20日、(中略)宇野東桜来る、宇野浅草へ入居せしよし(後略)。
・同年4月27日、直八、大輔、吉田翁同道にて骨原廻向院に来る、路に東桜を訪(下略)。
清河八郎「潜中記事」(万延元年5月20日)
・余、固より書画会なるものを屑しとせず。自づから帷を東都に垂れて、未だ嘗つて一たびも其の乞に応ぜず。偶吉良某なる者有りて、会を萬八楼に催し、強ひて余及び同社に請ひて日はく、「水府の志士、幾たびか会に因りて子に見えんことを請ひ、再応之れを強ふ」と。是に於いて、遂に諸士を伴ひて至る。帰路、一無礼人有りて、遂に之れを斬る。
●根岸仁輔(友山)の「出府日記」文久元年3月17日の条
・宇野(東桜ヵ)同行ニ而清川(清河八郎)ヲ尋ル、大雪ニ付七ツ頃迄清川ニ居ル
●「住谷寅之助日記」文久元年3月21日条(国立国会図書館所蔵)
・過日他邦人来訪応接ノ所、彼同志高槻藩今ハ遊歴人宇野東桜と申もの原任(原市之進)へも以前参候もの、此度ハ不参候よし(下略)
●大橋訥庵の菊池教中宛て文久元年11月1日付け書翰(『大橋訥庵全集』)
・廿八日ニ一封差出し愚見申述候間最早披展相成候事と存候其後未タ申入候程之事も無之柴田山城ゟ昨日今朝とも未タ相見不申昨日は宇野東桜と申者参候て奪之一條柴田と力を合せ是非仕遂候様ニ申候間能々盡力候様申聞置候(後略)
一橋慶喜擁立の件及び老中安藤正信暗殺に関する件
●大橋訥庵の菊池教中宛て文久元年11月13日付け書翰(同前)
・(前略)役者ハ十七八人にても奪之方が大丈夫ニ候得は随分芝居ニ相成可申候得共それも甚だ危き体にて必得と申場迄参り不参無理ニ致せバ必敗無疑候故ヤメ申候咎め候ニ付彼もそれをセツナガリて役者を説き集候手段を東桜へ相談して桜を連てあるき候故それだけ奪之手続後れ候而旨き場迄参り不申候故旁以ヤメと致申候(後略)
●大橋訥庵(獄中)の清水昌蔵等宛て文久2年3付き19日付(同前)
・東生(宇野東桜)之事愈怪シクシテ間諜ニ相違ナキ事ヲ慥ニ御見トメ被成候ハバ書簡(同前)捨テテ置べキ者ニ非ズ捨置テハ大害ヲ仕出シ可申候故早ク御斬殺可被下候但廣精(広田精一)ハ渠奴ト同意シテ間諜スべキ男ニハ毛頭無之候故東ガ愈怪しシク候ハバ其子細ヲ明細ニ廣ヘ談シテ熟議之上活カストモ御決断可被下候渠奴ヲ斬殺スルニハ拙ニ一説有之候故殺ト御説ガキマリ候ハバ早々御申越可被下候但シ此時節ニハ激ナル事ヲ仕出シテ内変ヲ招クハ拙キ者之ワザ故其加減ハ御精慮ナクテハナラヌ也兎ニモ角ニモ拙之身如風前燈云々
●「住谷寅之助日記」(国立国会図書館所蔵)
文久2年4月3日 (前略)丹雲二月四日入牢、勢州高槻浪人宇野東桜今梅信ト云、返心幕ヘ訴出ルニ付丹召取ニ成候ト云、壹人ハ幕ノ間者トナリ水戸ヘ廿一日出立、原市ヘ探索ニ来ル由、大謙ゟ廿九日仕出ニ而申来ト云。
  ※丹雲とは、得能淡雲(大洲藩藩士)・原市は原市之進・大謙は大野謙介(水戸藩士)
・同年4月6日 下野来ル。同道義新原任雙松ヘ行。但宇野東桜昨夜原任ヘ不図も訪匕来ルニ付、早速来候様申来行。此夜九鼓迄いろいろ相談ノ所言語同断可悪奴ナレ共致方無之天運ニ任セ候事。    ※下野は下野隼之介、原任は原任蔵即ち原市之進
・同年4月27日 勝野悴十八日方来ル。東桜云々ニ付来ル。
  ※勝野とは、旗本阿部四郎五郎の臣勝野豊作次男勝野保之助正満
●「勝野正満手記」(東京大学史料編纂所所蔵)
文久二年壬戊正月坂下ノ事アリ、去歳ノ故トテ併テ嫌疑尤甚シ、且モト同志ニテ変心セシ宇野東桜ナル者、水戸ニ行テ衆ヲ欺クノ説アリ、因テ笠間在ナル庄屋茂右衛門ナル者ノ僕トナリ、笠間ナル稲荷ニ詣スルヲ名トシテ一小刀ヲ帯シ小包を背負テ同行、四月十五日ヲ以テ江戸ヲ発シ、十八日水戸上町五軒町ナル美濃部又五郎方ニ潜メリ、此行途中東桜ニ出会セハ一刀ノモトニ倒サン覚悟成ニ何レニテカ行違ヘリ、然シテ聞ク処ニヨレハ東桜ノ毒ハ格別流シ得サリシモ、此頃水戸ノ国情甚タ多端故ニ予等一ヶ所ニ長ク居リ難ク、備前町ナル岡部藤助、八幡町ナル片岡為ノ允ヨリ下国井村ナル渡辺長左エ門方ニ移ル、六月ニ至リ幕府ノ大政大ニ変シ(下略)
●『史談会速記録』増戸武平(元上山藩士)の明治37年5月21日の談話
・(前略)私の藩内に宇野東桜と云ふ浪人が居りましたが、屋敷の都合により私の所に同居をさして居ました。此者は本名吉良七郎と申すもので漢学もあり弁才もあり、且つ交際の広い男であったゆへ、国事に奔走させて居りました所が、君の屋敷に居る宇野東桜と云ふものは坂下で安藤閣老を刺した時現場には望まぬが、其ことに関係し盡力した一人であると云ふことを聞て居る、彼事たるや正当の事ではあるまいが、兎も角生命を抛って国家の奸物を刺すと云ふのであるから国に対して忠義の者に相違ない。

斯る忠義の者の事迹を湮滅に帰せしむるは惜むべき事であるから、長州藩に於て事実を調べて記録に遺して置きたい、依て宇野に面会して委はしく聞きたいから私の屋敷に寄越して呉れまいかと云ふ事で、これは私に直接の話ではありません、同藩の士に中村平介と云って塩谷(宕陰)の門人でありましたか其同門に徳山藩藤井何某と云ふがあり、長州の上屋敷に居て此事を申ししたそうです。其事を宇野に傳えるや同人は喜んで行ったと申す事で、私は役所より帰って初めて聞きました。

然るに何日経っても還って来ぬ、不思議なることと思ふて居りますと、三日ばかり後に殺されて仕舞まして、新らし橋外の堀端に捨られ札をたててりまして、此者義は陽に勤王を唱へ陰に佐幕なすものである、依て天誅を加へると云ふことが出てありましたそふで驚きましたが、其儘になったと云ふ様なことでござりました。(後略)

・談話後の応答
外崎覚―宇野さんは陽に勤王を唱へて陰に佐幕と云ふことを聞きましたがそうではありませぬか。
増戸武平―初めは如何か存じませぬが幕府に尊王をさせると云ふ主意から同意して来ましたのであると思ひます。
小野保―私も宇野は知って居りますが弁舌も能し役にたちさうな人で、遂に長州の手でああいうことになったが、貴方の手で御養ひになったさうでござりますが、最初の御考へでは奸物でもなかったのでござりますか。
増戸武平―私共は奸物とは思ひませぬ、甚だ惜んで居りました。同人の殺されましたのが即ち旧藩の疑はれて居りました証拠の一ツであると思ふのであります。
小野保―宇野は絵も画きました。
増戸武平―殺された時は私の所に柳行李が一ツあって書いたもの抔がありましたが、絵の事は気が付きません。屋敷に居る時は刀も差さず本の町人的客分の様にしてありました。屋敷へ参らぬ前は両国ばしの上で売卜をして居たと云ふ事を聞きました。
小野保―宇都宮を(のヵ)広田(精一)が私に宇野を紹介したが、広田は彼は油断はならぬ、けれども世間の事を能く知って居る、それで使ふには宜いと言った事があります。
増戸武平―旧藩の金子(与三郎)の処に参って度々議論を闘はした末遂に信用した様であります。
小野保―金子さんに逢ひましたが、表は中々勤王家であると言って居られました。
●『史談会速記録』増戸武平の明治37年11月26日の談話
・(前略)私に於ては(宇野東桜が)斯様な反覆表裏の者であると云ふ事は少しも知らすに居りました。長州屋敷に参ってそれ切り帰りませんで、死体を新し橋に捨てられた時の建札に、此者儀陽に勤王を唱へ陰に幕吏に媚びたとございましたが、当時私どもの考へましたには、是は常に佐幕を唱ひて居る私どもの屋敷に居りました為めに陰に幕吏に媚びると云ふ嫌疑を受けたものと思ふて居ました。併し私の藩の佐幕は勤王の為めにする佐幕でありまして、普通の佐幕ではない。それを誤解して殺さるると云ふは如何にも冤罪である。

気の毒であると思ふて居りました。然る所右雑誌(『名家叢談』)に記載があるが如く私共の旧藩に関係せぬ以前に反覆表裏の行為を為した者であれば、其党派の人々に復讐せらるるは当たり前であって、気の毒でも何でもないわけになります。それを知らずに私方にかくまいましたは不明に帰する事で慚愧の外はありませぬ。

併し果して宇野東桜は斯様に反覆した物であれば、同人ハ幕吏の気に入る訳である。態々金子(松ノ山藩参政金子与三郎)に取入って私方に身を寄せるには及バぬ訳、又金銭にこう窮しては居ましたけれども、まさかそんな卑劣な人物でもなかろうように思われましたが、是にハ何か間違いでもなかろうかと云ふ疑念が私の胸中に今に離れぬのであります。御会に若し同人の反覆したる事実を御存じの方があらせらるるならば御聞を願ひたいと思ひます。

  文久二年の秋の末か冬の初め頃でありましたが、一日金子の処の書生が私方へ遊びに来まして、昨夜は奇妙な人が来て宅の先生と大激論を始め、終夜其議論が済まぬ為めに私ハ夜一夜眠る事も出来ぬでありました。此後彼の論はドゥ極まるかと云ひましたゆへ、それは何処の何と云ふ人であった歟と尋ねました所其処までは聞かぬから存ぜぬと云ひました。私は如何なる人かと思ふて其後金子を訪ふて聞きますと、其人物は宇野東桜でありまして、本名吉良七郎と云ふ者であります。

吉良ならばそれより三年前私が林家に居った時分折々遊びに来ましたので顔を知って居ります。彼れは其頃長州の多賀谷勇など云ふ人と頻りに尊王攘夷を唱へて居りましたけれ共、貧乏書生でありまして書画会を催ふし銭を儲けようとして居りました処、折節桜田の一件が起り其事ががらり外れたと云ふ様な事でありました。そ(さヵ)れば私は両人共格別の人物とも思へませなんだゆへ深く交際をしませぬで居りました。

然るに金子の処で数回議論の末金子は吉良を頗る事の判ったものと認めまして、爾来は同志の中に入れて互に助け合ふ積りであるが、家では都合が悪いから貴様の方に置いて呉れぬかと云ふ事でござりますから、私は金子の主義で尊王するものと思ふて置きました。尤金子に対しては安藤要撃の仲間であのしと云ふ事は打明けた様子でありますが、金子はそれを聞いて幕府に密告して他の党類を捕へさせる様な事は決して致しませぬ。

其訳は第一安藤要撃は壬戊の年の正月で、宇野が金子に来たハ其年の八月以後九月か十月頃でありまして、時日が十ヶ月も違ひますのみならず、其頃金子は佐幕を唱へてハ居ましたけれども、未だ幕府に密事を告ぐる程の知己ハありません。(中略)

  安藤ハ其頃の幕吏中第一等の人物であったと云ふ人もありますけれども、当時私や金子の考へには矢張り井伊大老の残党と思ふて居りました。故に其撃たれた事を聞いて頗る愉快に感じ、宇野が其要撃仲間でありしと云ふ事を聞いて却って同人の信用を厚くした位の事であります。して見れば金子が宇野の反覆を悦んで其党類を苦めん為め密告をする筈は萬々ありません。

(中略)宇野が裏切りをしたと云ふ事を(金子与三郎が)知って居りますれば、之を入れませんで斥ける所であったろうと思います。それ故に私の考えまするには、宇野が反覆したり或は間違であると云ふ事に付、尚ほ疑念ハありますけれども、実際反覆したに違ひないと云ふ事になれば金子にハ其事実を隠して置いて他の共謀者の攻撃を避ける為めに私方に隠れたものであったろうと考へて居るのであります。(後略)
●上記の史談会での村田直景の談話
・私ハ宇野の事は最初能く知って居る訳ですが、今日から考えればあれ等ハ勤王家荒しの壮士とでもいふので、勤王家を困らせた人物であると存じて居る。余程前から江戸中の方々の先生の処に書生に這入って其先生の挙動とか其先生はドゥ云ふ事をするとか云ふ事を見て歩いたものと存じます。

  私の伯父ハ清水松蔵と申して其頃田安家の儒者で、そこへ宇野ハ吉良七郎と称して書生に来ました。私共ハ伯父に就て学問をして居りました。吉良と一所に輪講もすれば会読もしました。吉良ハ高慢な理屈を云ふけれども、其実勉強もせぬ変な男でありました。彼は高槻永井の藩であった。其頃その親ハ藩邸に居ったのが、なにか悪いことがあって藩を出さるやうになった事があって、私の兄がその邸へ行ってやって荷物などの奔走した事がありました。

  その内兎角不品行で伯父が放逐して仕舞ひましたるされど引違ひに程なく多賀谷勇が来ました。これも学問するでもなく僅かに居て直きに出ました。唯どれもいけない書生とばかり思ふて居った所が、其内に国事一件が起って見ると、同じ私の伯父の大橋訥庵の処へこれ等が入込んで居るのを知りました。私共は大変疑いました。アア云ふ者が這入って勤王などと騒ぐ様では、屹度禍ひの本であろうと思ひましたけれども、私共はその時分は若年であるからなんと申し様もありませぬでした。
●『史談会速記録』明治34年6月8日柴太一(元会津藩士)の談話
・(中略)幕府大改革旧会津藩にて京都守護職に任ぜられましたときに、私は摂津高槻浪人宇野東桜と云ふ者と同行し、先発視察の一人として参りました。此宇野は清川が前に書画会の帰り掛け人を殺害して立退きましたが、其時の会主をした人でございます。そうして伊勢の山田へ参り神職の御炊太夫氏は山田大路名は親彦に滞在して居りました。(中略)

其際に清川とは同卿一体とも称す可き安積五郎が同所に潜伏して居りました。宇野は同窓の親友、其話に伏見寺田屋事件の後清川共に当所に潜伏して居ったが、清川氏は近頃関東に参ったとの事であった。(後略)   ※斎藤治兵衛の史談会での談話中の発言
●『史談会速記録』第三百十輯 田尻稲里(元水戸郷士)の談話
・段々長州及び水戸藩の者の相談(老中安藤正信要撃の)が出来て、桜田の人數程は出来ませぬでも、十四人とかいふ決死隊が出来たさうであります。それは後に高槻藩の宇野東桜とかいふ者が矢張り有志の仲間であったけれとも、其当時の言葉でいふと返り忠であって、是が浪士の評議を幕府の役人に密告した。それから一層坂下に関係する有志の団体は大に崩れて参りまして、遂に危くなって来て、今度は長州の方も手を引いて参って、残る所は水戸の人數丈けになりました。

●『久坂玄瑞』(竹田勘治著・マツノ書店)に、「処士宇野東桜(源三郎)」と括弧書きがある。
●『大橋訥庵伝』(寺田剛著・至文堂)
・訥庵の捕縄に到ったのは、山本繁三郎の変心(中略)とともに宇野東桜なる者の密告によると伝えられている。宇野は幕府の隠密であったとの説がある。彼は日光宮擁立運動に関し、文久元年十月末日に先生を訪れて活動を約したことが見えている(11月1日書簡)から、隠密ならば発覚後もっと詳細に運動を告げるべきであろう。寧ろ変心説(『殉難録稿』)をとるべきであろう。

  先生の獄中からの書簡には、「東生之事愈々怪シクシテ間諜ニ相違ナキ事ヲ慥ニ御見トメ被成候ハハ捨テテ置べキ者ニ非ズ捨置テハ大害ヲ仕出シ可申候故早ク御斬殺被下候」と見え、住谷日記四月三日の條に、「丹雲(得能丹雲)二月四日入牢、丹召捕ニ成候ト云、一人は幕の間者となり水戸へ廿一日出立、原市ヘ探索ニ来る由、大謙より廿九日仕出に申来と云」とあり。

六日の条には、「宇野東桜昨夜原任へ不図も訪来るニ付、早速来候様申来行、此夜九鼓迄いろいろ相談の所、言語同断、可悪奴なれども致方無之天運に任せ候事」とあり、変心して間諜となったものと見るべきであろう。
●『伊藤公實録』(中原邦平著・啓文社)
・公(伊藤博文)等同志は幕府の隠密宇野東桜を桜田藩邸内の有備館の二階で殺したことがある。是も公使館焼討後のことであろうと思はるる。此宇野と云ふ男は前にもチョット話した如く、奥右筆某の依頼を受けて、尊攘有志者の仮面を被って、公等同志の仲間に這入り込んで、其様子を幕府に密告した者であって、大橋順蔵が捕へられたのも、此宇野東桜の密告である。

それで高杉等が、彼は我々の行動を幕府に密告する奴であるから、活かして置かれぬ、是非殺してやろうと云ふことを決議に及んだ、そこで白井小助が好い加減のことを言ふて、宇野を有備館へ連れて来て、さうして有備館の二階で高杉と白井小助が応接して四方山の話の内に、高杉が自分の刀を出して、私は近頃斯う云ふ刀を贖ふたが、一つ御鑑定を願ひたいと言ふと、宇野が然らば拝見と言ふて、其刀を引抜いて暫く眺めて居たが、如何にも結構な御刀ですと言ふて返した。

  さうすると高杉が貴方の御佩刀も一つ拝見致したいものと、言ふたので、宇野が自分の刀を差出すと、高杉は其刀を抜いて切先を宇野の胸先の方へ向け熟視する風をして、不意にズツと突込んだ。さうすると白井が後で止めを刺したと云ふやうに私は聞いて居る。此白井小助と云ふ人は後に素行を改めて七十幾つまで生きて居ったので、私は曾て訪問して、此事を聞て見ると、あれは高杉が殺したのである。其時俺は唯だ高杉の刀で宇野の頬をブチ切った位であるが、彼を旨くだまして連れて来たのは、俺であるとの答であった。

  其時政府の役人麻田公輔(原注・周布政之助変名)有備館の塾長桂小五郎抔が此事を聞くや、現場へ望んで、ドゥも藩邸の内で人殺しをするやうな乱暴なことをしては困ると言ふて、叱り付て、さうして戸棚を捜して見ると、白井の刀が匿してある、それを引抜いて見るとマダ血が拭いてない、依て麻田が白井に向ひ、貴様狼狽へたたのではないか、人を殺したのならば、是非跡の血は立派に拭いて置くものだと言ったと云ふ話があるので、それで此事を白井に聞いて見ると、ナニあれは高杉の刀であるから、錆ひやうが錆まひが、こっちには関係がないので、其儘納て置いたとの話であった。

  後に天野御民の逸話記事を見ると、宇野は公が殺したやうに書てあるので、何時ぞや大磯に往って、公に聞き質した所、吾輩が殺したといふ訳でもないが、皆んな愚図々々して居るから、一つヤッテやろふと思ふて、短刀を彼の喉へ突付けやうとした所が、其短刀を遠藤多一が吾輩の手を執って、直に突込んで仕舞ふた、さうすると白井小助めが刀を抜いて横腹をブスブス刺して殺したのであると言はれた、其死骸は薦に包んで公等三四人が担いで、屋敷の門を出て、暫く隔った所へ棄てて仕舞った。
  ※『伊藤痴遊全集』第7巻にも伊藤博文らによる宇野東桜慘殺事件の詳述があります。

※その他宇野東桜に関して確認できた資料は、『斬奸状』(栗原隆一著、井手孫六監修・學藝書林) ○『野史台維新史料叢書七』(日本史籍協会編・東京大学出版会)※「友人某贈那珂通高書」 ○『小野権之丞日記』(『維新日乗編輯』4・日本史籍協会叢書・マツノ書店) ○『鈴木大雑集』3(日本史籍協会叢書・東京大学出版会) ○『坂下義挙録』(澤本江南編・小塚原回向院殉難烈士遺蹟保存会) ○『補修殉難録稿』(宮内省・マツノ書店) ○『近世日本国民史・文久大勢一変上編』(徳富猪一郎・明治書院)等

Ⅶ 【尊王攘夷党「虎尾の会」始末】

1 尊王攘夷党「虎尾の会」の結成

出羽庄内清川村山形県庄内町)の郷士清河八郎が、尊王攘夷の実践活動を決意したのは、万延元年(1860)3月の桜田門外の変であったという。その年の冬、大津彦五郎ら水戸天狗党激派の一部が霞ヶ浦北岸の玉造(茨城県行方市)に屯集し、横浜の夷狄を打払うなどの噂がもっぱらであった。これを知った清河は、翌年の正月、下総にその様子を探ったが、その実態に失望し、独自での攘夷断行を決意したのである。

清河八郎は、下総から戻った直後の2月11日、郷里の叔父に宛てた手紙で、「どうしても近き中に争動始り可申、其時は天晴の働き致可申と楽罷在候。それに付ても、只今のうちに私共に存分力を助け呉候得ば云々」と軍資金の無心をしている。そして、さらにその書中には、「此元にて名高き本の勇士の面々余程手に付け置候間、急度の働き相成可申」とも記されている。一介の草莽に過ぎない清河にとって、尊攘の大義を貫徹するためには、志を同じくする義勇の士と結ぶ以外にはなかったのである。

清河が集めた同志は、清河の記した「潜中記事」のなかに、「薩藩邸に居る者七名、幕下に居る者三名、処士に居る者十余名、此れ皆な卓犖不群」とあり、「自叙録」には「諸義士凡十七八人を結び、いづれも皆当時に名高き文武忠勇の士のみなり、その外従随するもの甚だ多く」と記されている。これらの手記には、同志たちの個々の名は記されていないが、「虎尾の会」の同志の一人村上俊五郎が、清河への贈位申請のため、明治16年(1883)に有栖川宮に提出した建言書のなかに、その名が列記されている。そこには自らを除いて、山岡鉄太郎、石坂周造、伊牟田尚平、益満休之助、安積五郎、池田徳太郎、北有馬太郎、神田橋直介、樋渡八兵衛、西川練造、笠井伊蔵、松岡万、斎藤熊三郎の面々13人の名がある。なお、小山松勝一郎著『清河八郎』には、上記の人びとに加えて、美玉三平、白井佐一郎、村上俊平の三名の名が挙げられている。

清河たちは、この集まりを「虎尾の会」或は「英雄の会」と呼んだ。紙幅の関係上、著名な人物以外の何人かの関係について紹介したい。伊牟田尚平は薩摩藩老肝付家の臣、安政元年(1854)に出府して医術を学ぶ傍ら安井息軒等に師事し、また長沼道場で直心影流剣法を学んだ。清河八郎との出会いは、この長沼道場であったといわれる。息軒塾の同門北有馬太郎とは、安政元年当時からの知己であったらしい。

その北有馬太郎は、肥前島原の人。久留米の木村士遠に学び、真木和泉らと親交があった。後に江戸に出て安井息軒に師事し、塩谷宕陰の媒酌で息軒の長女と結婚。当時は武州川越在下奥富村(埼玉県狭山市)で私塾を開いていた。江戸にあった安政2年頃、西川練造と共に旗本久貝因幡守の屋敷に寄寓していたことがあった。

その西川練造は、武州川越在小仙波村(埼玉県川越市)の儒医。医術の傍ら漢学、兵学、剣術なども学び、当時は北有馬太郎と同じ武州下奥富村で医を業としていた。北有馬との出会いは、弘化3年(1846)、北有馬が尾藤水竹の塾に寄寓した際のことだったらしい。大川平兵衛道場の同門笠井伊蔵を、清河八郎に紹介した人だといわれる。

その笠井伊蔵は、武州石井村(埼玉県坂戸市)の富農小谷野半平の子。大川平兵衛から神道無念流剣法を学び、同心株を買って武士となった。通説では清河塾の内弟子とされているが、東京都千代田区発行の「原胤昭旧蔵資料報告書」(以下「原胤昭資料」という。)に収載される資料に、「右八郎方同居、御先手金田式部組同心七之助弟笠井伊蔵」、「神奈川御船勤番」とある。さらに、『藤岡屋日記』に載る組頭金田式部の届出書に、笠井の身分は講武所の剣術教授方世話心得とある。清河塾の内弟子ではなく、食客だったのではないかと思われる。

村上俊平は、上州境町(群馬県伊勢崎市)の蘭法医村上随憲の子で、北有馬太郎や伊牟田尚平と同じ安井息軒に学んだ。池田徳太郎とは、池田が上州伊勢崎方面に遊歴していた安政3年頃からの知己であった。村上が西川練造を訪ねた折りの、「五月十一日(年不明)、奥富村訪西川景甫、適不在家、待帰至夜半、時月色清明頗感旅情」と詩書した七言律詩も遺されているので、西川とも親交のあったことが明らかである。

 清河八郎たちの攘夷実行計画は、5月中頃に決定した。「潜中記事」などに、風寒く気の立ちたる8、9月の頃、火攻めによって「醜虜の内地に在る者」を悉く打払い、檄を遠近に飛ばして尊王攘夷の士を募り、敵対する者は王公・相将といえどもこれを斬る。その後、天皇に奏上し、錦旗を奉じて攘夷を天下に号令する。そして、これが成らなかった時には、関八州に広く義民を募って、尊攘の大義を実現する計画であったとある。
 具体的な攻撃目標は、「潜中始末」に「横浜東部の夷人館」とあるが、村上俊平の記した「睡餘録」に、「北有馬東禅寺へ乱入の計策など予に語られしが、事緻密にして云々」とあるから、芝高輪東禅寺のイギリス仮公使館を焼き払う計画もあったのだろう。

2 清河らの捕縛命令と書画会参加

 石坂周造の史談会での談話によれば、石坂は文久元年(1861)4月に下総の神埼から上府したという。その後の「虎尾の会」の集まりは、清河八郎塾の土蔵のなかで行われたが、「(清河塾の)隣家に湊川と云う力士がありまして、(中略)其の力士の方へ徳川の探偵吏が這入って、床下に隧道を造り潜って吾々の密談を床下で聴取ったのです」、と語っている。そしてそれは、「(清河の下総行で)三人(清河、石坂、村上)は既に天狗組を結合したものと期う云う看做を受け」たが故だったろうとしている。このことは、清河の「潜中記事」にも、「官吏、これ(下総行)より終に心を我が動静に用ひると云ふ」などと記されている。

 幕吏による清河塾の監視は、前年12月のヒュースケン暗殺事件も関係していたのかも知れない。ヒュースケンを殺害したのは、伊牟田尚平、益満休之助、樋渡八平衛、神田橋直助らの薩摩藩士たちであった。事件直後に幕吏が暗殺犯人を探知していなかったとしても、この事件後には不逞浪士への監視の目が一層強化されていたはずである。

「原胤昭資料」によれば、後述する清河八郎による町人斬殺事件の前日である文久元年5月19日には、清河たちに対する捕縛命令が出ていたのである。この資料は、南北両奉行所の廻り方同心の在方出役が、清河八郎一味の捕縛のため、文久元年7月1日付で庄内藩の掛役人に送った依頼状の一部で、そこには「文久元酉五月十九日別紙名前之もの御吟味筋有之、召捕候様三廻一同へ御沙汰有之候処、其以前池田播磨守殿ニても御沙汰有之、取調罷在候付、双方三廻打合之儀申上候処御懸合有之、其通被仰渡」とあり、別紙として、「神奈川御勤番笠井伊蔵、庄内藩清川八郎、薩摩藩いむ田庄平、下総浪人村上某、医師西川練造・北有馬太郎、浪人池田徳太郎、出羽儒者水野広蔵」の8名の名が列記されている。

なお、最後に名のある水野広(行)蔵は庄内藩脱藩の士で、北有馬太郎らの師安井息軒とも親交のあった人である。その息軒が小笠原壱岐守に宛てた手紙に、「(水野は)忠実にして才気も有之、本気に天下之事を憂候者」とし、「百人に勝候才略」者として水野行蔵、金子与三郎、三浦五助、田口文蔵の名をあげて、「中ニも水野は勝候様見請申候」と記している。水野は尊王攘夷論者ではあったが、過激な清河八郎攘夷論とは一線を画するものがあったという。その水野に捕縛命令が出ていた理由は不明である。後に水野は獄中の池田徳太郎と連絡をとって、清河の愛妾蓮女や弟斎藤熊三郎に、金品を送って手厚く援助しているから、この時は入牢することはなかったのだろう。

清河たちは、5月中旬に攘夷計画の方針が決まると、多人数の会合は人目につくこと、また、攘夷決行の準備や広く同志を募るためもあって、しばらくの間四散することとなった。その直前の5月の20日、手配中の身であることを知らない清河たちは、柳橋の万八楼で開かれた書画会に参加した。「潜中始末」に、「五月二十日に及び或る処の書画会に無理に請誘はれ、同志七人ばかりにて参る云々。」とある。また、「潜中記事」には、「余、固より書画会なるものを屑しとせず。自から帷を東都に垂れて、未だ嘗て一度も其の乞ひに応ぜず。偶吉良某なる者ありて、会を万八楼に催し□ひて余及び同志に請ひて曰く、『水府の志士、幾たびか会に因りて子に見えんことを請ひ、再応之を強ふ』と、是に於いて遂に諸士を伴ひて至る」とある。

「水府の志士」の誰であるかは不明だが、書画会の会主「吉良某」とは、高槻藩脱藩の吉良七郎である。変名を宇野東桜といった。宇野と旧知だった旧上山藩士増戸武平は史談会で、「両人(宇野と多賀谷勇)共貧乏書生でありまして書画会を催して銭を儲けとして居りました」と語っている。また、やはり宇野と旧知の旧会津藩士柴秀冶は、同じ史談会で、「宇野は清川が前に書画会の帰り掛け人を殺害して立退きましたが、其時の会主をした人でございます。」と証言している。

この宇野東桜は、文久2年正月の坂下門事件に関連して大橋訥庵が捕縛された際の密告者として、長州の高杉晋作伊藤俊輔らによって、翌年の正月に殺害さてれている。宇野は、訥庵らによる日光山挙兵計画にもその名を連ね、訥庵の思誠塾には頻繁に出入りしていた。北町奉行黒川備中守手付の密偵だったともいわれている。或は、清河たちの捕縛に一役買っていたのかも知れない。この人物については、次稿Ⅷに関連資料を掲載してあります。

この日の書画会に参加した虎尾の会の同志は、清河八郎以外に、山岡鉄太郎、伊牟田尚平、益満休之助、神田橋直助、樋渡八兵衛、村上俊五郎、安積五郎の7人だったという。

3 清河の町人斬殺事件とその後

事件は書画会の帰路で発生した。「潜中始末」には、その事件について、「帰路何れも或店に立寄る。最早夕暮に及ぶ。路途に一無礼の者ありて、已むを得ず斬棄つる。」とあり、「潜中記事」には、「帰路黄昏一の暴漢に遇ひ、之を斬る」と記されているだけである。

この事件について、小山松勝一郎著『清河八郎』には、「(一行が)甚左衛門町にかかった(中略)ここに捕吏の練りに練った罠がしかけてあった。職人風に変装した手先が酒くさい息をふきかけながら(中略)棒を手にして八郎の前をさえぎった。(中略)無礼人の首は飛んで云々」とあり、それを合図のように、今まで物陰にに潜んでいた捕り手が立ちあがった、などと記されている。しかし、幕府から前日の19日に捕縛命令が出ているなかで、捕吏がそのような姑息な罠を仕掛ける必要などなかったはずである。

この事件に直接関係すると思われる資料が、『藤岡屋日記』に載っているのでやや長文になるが、ここに転載したい。これは、甚右衛門町で料理茶屋を営んでいた豊田屋が、その筋に届け出た事件で、その届出書の表書には、「(文久元年)五月廿日夕七ツ時頃、狼藉者一件』と記されている。

右は留守居寄合参会茶屋ニ而、振り之客ハ不致候処、今日侍六人来り候処、様子悪敷候間、今日ハ魚切ニ付、相休申候由、相断候処、侍共立腹致し、刀抜はなし、二階の柱障子畳其外切散し、其上ニ而万久ニ而吞直し候間、案内致せと申ニ付、若者半天を着、案内ニ出候処、余り気味悪敷候ニ付、道ニ而はづし路次へ隠れ候処、其節往来通り懸り候半天を着候男を捕へ、案内致せと云、私ハ不存と云、侍立腹致、刀引抜候故、迯出し候処、近辺不残右騒ニ付、戸を締候処、木具や一軒戸明居候故、迯込候処ニ追込て、腕を切落候由、然ル処、誰有而捕押候者壱人も無之、近辺ハ皆々戸締有之候ニ付、侍共ハ迯も不致、六人一所ニゆうゆうと両国之方へ参り有之候由、跡より見物人、切た切たと大勢附行候得共、跡を振返ルと迯出し候由、然ル処、右六人も日中之事故、六人一所ニてハ迯ル事不能と分れ候而、壱人ハ浅草見附普請場へ迯込、被召捕也、二人ハお玉ケ池千葉周作へ欠込候処、跡より手先共附行、右之趣、千葉へ知らせ候故、千葉ニて二人捕へ差出し候由、跡三人ハ未ダ行衛知れ不申由。

ここに記された顛末が事実なら、実に理不尽極まりない事件である。銘酊していたとはいえ、料理茶屋豊田屋での乱暴狼藉といい、見ず知らずの通行人に無理難題を吹きかけて切り付けるなど、心ある武士の所業とはとても思えない。しかし、事件に関わった浪人の数や、事件の顛末などに大きな違いがあるものの、同じ甚右衛門町で5月20日の夕方4時頃に発生した事件であったからには、清河の町人斬殺事件のことであることは間違いないだろう。書画会の終了後に、同志の内の1人は、別れて先に帰ったのかも知れない。

この事件に関して安井息軒が小野勘左衛門に宛てた手紙にも、「両国万八楼之書画会有之、会散候後、清川八郎と申者外三四人、前楼之会之酒興之上、散々乱防候、其後於途中路人を致切害云々」とある。また、庄内藩留守居役黒川一郎が本藩に送った報告書に、「廿日茶屋にて酒を飲み、ふんざけ帰り候途中ゆえ、境町裏通りなる甚右衛門町にて人を殺し、これは職人体、よろしく切れ候。(中略)この節五六人連れにつき、うかとは取方の者かかられ申さざる由云々」とあり、「酒興之上、散々乱防候」とか「酒を飲み、ふんざけ帰り候途中」とか、豊田屋の届出書と附合するところがある。

この事件の後、大がかりな逮捕劇が始まった。「潜中始末」によれば、「夜に入り何れも立帰る」とあるから、先の豊田屋の届出書とはことなり、全員が清河塾に帰ったらしい。清河たちは、そこで今後の身の振り方を相談した結果、奥富村の広福寺にしばらく潜伏して様子を窺うことに決定。翌21日の夕方、清河、安積、村上、伊牟田の4人は秘かに江戸を出立、翌22日に広福寺に着いたとある。

小山松勝一郎著『清河八郎』には、清河たちが逃げ込んだ広福寺の住職は、元水戸藩士で清河と玄武館の同門の「意章」という人であると記されているが、同氏は月刊誌「むすび」(153号)のなかでは、「広福寺の和尚は、かって練造の紹介によって八郎と知り合った仲である」としている。なお、川越の郷土史家故岸伝平氏の論稿には、広福寺の住職は、旗本の次男で、西川練造が江戸遊学中に知己となり、思想上の共鳴者であったため、その縁故で(練造が)広福寺近くに居を構えた、とある。北有馬太郎の漢詩集には、住職の名は、「無染」とある。北有馬は広福寺の東側に学塾を開いていた。清河たち4人が広福寺に到着した日、早速西川練造が寺を訪れたが、北有馬太郎は出張教授に出ていたらしく、翌23日に広福寺を訪れている。

小山松勝一郎著『清河八郎』によれば、その同じ23日、江戸では池田徳太郎、笠井伊蔵、斎藤熊三郎の3人が、清河塾から奉行所に引き立てられ、同日、清河の愛妾蓮も預けられていた水野行蔵宅から伝馬町の獄舎に投じられたとある。
しかし、『藤岡屋日記』に載る笠井伊蔵の組頭金田式部の届出書には、笠井の捕縛について、「五月廿一日四ッ谷組屋敷ニ於而、笠井甲(伊)蔵被召捕候」とある。また、斎藤熊三郎と愛妾蓮女に関して、同じ届出書に、「右(清河八郎)は酒井左衛門尉元家来故、屋敷より手勢を以、討手差し向候処ニ、八郎ハ逃去、行衛不知、妻・弟ハ廿三日召取、町奉行ヘ引渡し、同夜仮炉(牢)入有、翌廿四日揚屋入」とあるので、2人とも庄内藩によって捕縛されたのである。池田徳太郎については、沢井常四郎著『維新志士池田徳太郎』に、5月21日に神田お玉が池の清河塾で捕えられたとある。

一方、清河たちの潜む奥富村では、5月24日、捕吏100人余が入間川村の名主宅に集まっていると知らされたため、西川練造が様子を窺いに出かけて捕縛されてしまった。捕吏追尾のことは、先の金田式部の届出書に、「(清河は)酔狂之上切殺逃去候、但、川越辺え逃去候由ニ付、公儀より討手被差向候よし」と記されている。

24日の広福寺では、西川練造が捕縛されたと察知し、協議の結果、一先ず江戸の様子を探るため、その夜清河ら4人は奥富村を脱出していった。翌日、北有馬太郎が捕縛された。広福寺住職も就縛され、入牢となったが、『藤岡屋日記』には、6月15日、「改村役人江戸宿え預ケ遣ス」とある。村人たちの必死の嘆願があったという。

西川や北有馬同様5月20日の事件現場にいなかった石坂周造は、「原胤昭資料」に「石坂宗順義ハ下総国香取郡神埼宿高照寺ニ罷在候由申立候、医師右宗順義ハ八州廻へも御沙汰有之、南北八州方打込にて、下総ニて召捕」と記されている。その日は、前川周冶著『石坂周造研究』に、6月23日とある。

これ以外に、虎尾の会の同志ではなかったが、医師で篆刻師の嵩春齊が投獄された。清河は江戸に戻った後、5月25日から28日にかけてこの嵩春齊宅に潜んでいた。また、6月12日に越後新潟から春齊に宛てた清河の手紙が、幕吏の手に落ちている。この間の一連の事実は、「原胤昭資料」に記されている。こうしたこともあって、同志或いは協力者と見なされたのだろう。

清河の町人斬殺事件に関連し、捕縛された者で明らかになっているのは、以上の9人である。このうち、笠井伊蔵は、小塚原回向院の墓石には、文久元年10月16日に獄死とあるが、笠井家の位牌には、11月15日死去とある。享年35歳。西川練造は同年12月14日に獄死、享年45歳。北有馬太郎は師家に類の及ぶのを恐れて身分を明かさなかったため、無宿牢に入れられて同年9月3日獄死(異説あり)、享年35歳。清河の愛妾蓮女は、文久3年9月5日死去。庄内藩による毒殺説もある。享年24歳。嵩春齊の入牢後の消息は不明である。老齢であったため、間もなく牢死したと推定されている。

清河八郎はその後、京都での挙兵を画策したものの、文久2年4月の寺田屋事件で頓挫。さらに、幕府が勅旨に従って破約攘夷を表明したことなどから、浪士徴募を幕府に献策。その実現をみたが、その後幕府に攘夷断行の意思のないことを察知し、横浜異人街の焼き打ちを計画したものの、その直前の文久3年4月13日、幕吏によって暗殺されてしまった。享年34。


【主な参考文献】 
○『清河八郎遺書』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会) 
○『清河八郎著「潜中紀事」訓註』(石島勇・『日野市立新選組のふるさと歴史館叢書』第12輯・日野市) 
○『原胤昭旧蔵資料調査報告書-江戸町奉行所与力・同心関係史料-』3(千代田区教育委員会) 
○『藤岡屋日記』(須藤由蔵著・鈴木 三、小池章太郎編・三一書房)
○『史談会速記録』(史談会・原書房) 
○『蘭方医村上随憲』(篠木弘明・境町地方史研究会) 
○『大橋訥庵伝』(寺田剛・慧文社) 
○『斬奸状』(栗原隆一著・井出孫六監修・學藝書林) 
○『安井息軒書翰集』(黒木盛幸監修・安井息軒顕彰会) 
○『石坂周造研究』(前川周治・三秀社) 
○『清河八郎』(小山松勝一郎・岩波書店)
○『清河八郎』(大川周明・文禄社)
○『勤皇家贈従五位西川練造傳』(峯岸登僊著・川越市役所) 
○『むすび』第153号(清河八郎記念館)

※本稿は『歴史研究』第614号(2013年9月号)に「特別研究」として掲載されたものに、若干の訂正を加えています。

Ⅵ 【志士伊牟田尚平について】(北有馬太郎関係)

その一 
 伊牟田尚平の幼名は伊勢吉、長じて茂時、また永頼といい、真風と号した。尚平は通称である。志士活動に際しては、相良武振や善積慶介の変名を用いている。天保3年(1832)5月25日に、薩摩国揖宿群喜入(鹿児島市)領主肝付兼善の家臣伊牟田倉左衛門と、母幾久(中村喜三六女)の次男(3男1女)として生れた。長男は安政2年(1855)に病没し、3男は志々目家に入った。妹は海江田家へ嫁している。

なお、伊牟田尚平の後年の供述書(「京都府史料刑賞之部之覚書」)には、「私生所薩州藩中伊牟田荘左衛門二男ニ有之、父ハ先年致隠居兄熊太郎家督イタシ候処、十三ケ年以前致病死候付私儀順養子相成」家督を継いだとあって、父の名が異なっている。父は山伏(薩摩では山伏は武士身分)であったという。

 伊牟田は幼い頃から資性豪邁であったという。15歳の時、医師を志して島津斉彬の侍医東郷泰玄の門に入った。『三百藩家臣人名事典』には、その後「嘉永五年藩命で泰玄に随行して長崎で蘭学を学ぶ。』とあり、その他諸著にも、長崎で蘭学を学んだと記されている。しかし、伊牟田尚平について深く研究された川端利久氏の『維新の志士伊牟田尚平』には、「嘉永五年の冬、師匠東郷泰玄と共に長崎等へ探索に出向い」たとあるものの(『鹿児島歴史研究』No2)、蘭学を学んだとは記されていない。

その二
 安政元年1月、島津斉彬の参府に随従した東郷泰玄と共に江戸に上った。上府後は医学を学ぶ傍ら、塩谷宕陰や安井息軒に師事すると共に、長沼四郎左衛門の門に入って、直心影流剣法を学んだという。伊牟田にとって、北有馬太郎(本名中村貞太郎)は安井息軒塾(三計塾)の大先輩だったのである。ちなみに、出羽庄内の郷士清河八郎と伊牟田の出会いは、長沼道場だったという。

 安井息軒の門人帳である「故旧過訪録遊従及門録」に、伊牟田尚平の名は見い出せないが、息軒の三計塾に出入りしていたことは確からしい。というのも、北有馬太郎が恩師安井息軒に宛てた嘉永7年(1854)8月10日付け書中に、「伊牟田所沢迄参り候、序に出府為致呈書仕候。」とあるからである。この内容から、当時伊牟田は江戸には住んではいなかったらしい。下奥富村(埼玉県狭山市)に貞太郎を訪ねた理由は不明だが、「序に出府為致呈書云々」とあるから、この8月10日付け息軒宛て書簡は、北有馬が伊牟田に届けさせたのである。このことから、伊牟田は上府早々に安井息軒の三計塾に出入りしていたらしい。
 
 余談だが、この北有馬の息軒宛て書中には、「承り候得ば、異国船当六日三艘下田着帆致候由、尤川越にての風説には、右船は英吉船の由、猶近々類船渡来致候由、尚墨夷アハダムス渡来相待居候趣申候由、右之様子にては英墨申合候儀も可有之哉に被察候。尚其後船数も相増、応接等も可有之、如何之振に相成居候哉、(中略)都合次第御引越奉待候。事により不肖御迎に出府可仕候云々」、との一節がある。8月6日、下田に英国東インド艦隊が、日英修好条約の調印を求めて来航していたのである。北有馬太郎は江戸市中の騒乱を予測し、恩師安井息軒に、一家での下奥富村への移住を勧めていたのである。もっとも、北有馬の予想は杞憂となり、同月23日には修好条約が締結され、恩師一家の奥富村移住が実現することはなかった。

 「維新の志士伊牟田尚平」によれば、伊牟田は北有馬太郎や三計塾の同門村上俊平(上州境町の人)の影響で、尊王攘夷活動に奔走するようになったという。北有馬の日記は、安政2年から同4年までが欠落し、安政元年も殆ど記されていため、日記からは2人の交友の実態を知ることはできない。なお、貞太郎の漢詩集(「廣茅中村太郎先生詩稿」)の安政3年の条に、「飯岡村寓居伊牟田真風来訪附贈」と題する次のような七絶がある。
   武城三月百花時 酔上江楼惜別離 今日相逢須痛飲 人間聚散本難期
 安政3年当時、北有馬太郎は前年の春に結婚した恩師安井息軒の娘須磨子と共に、下総飯岡村(千葉県成田市)へ移住し、その地で講筵を開いていた。そこを伊牟田尚平が訪ねたのである。北有馬はこの年7月頃、病父を迎えに京都に向かっているので、伊牟田の飯岡村訪問はそれ以前のことだったのだろう。この詩は、この年の春3月、貞太郎が奥富村を離れて、飯岡村へ向かう途中の江戸で、伊牟田と別宴を開いた際のことを詠ったのだと思われる。

 伊牟田尚平は、飯岡村に北有馬太郎を訪ねた年の11月、その過激な行動を憂慮した東郷泰玄らによって帰国させられ、鹿児島到着と同時に謹慎を命ぜられている。『三百藩家臣人名事典』には、「(安政)4年脱藩して奥州に行き、相良武振と変名して医業を開いたり、京都で田中河内介、桜任蔵らと交わったりしたが、安政6年藩に帰り喜入領主から謹慎を命じられた。」とある。また、『明治維新人名辞典』には、「(安政)四年脱藩して大阪・京都に出て田中河内介・桜任蔵らと交わった。」とある。これらの典拠は不明だが、「維新の志士伊牟田尚平」には、謹慎を命じられた伊牟田は「喜入の家で悶々と日を過ごす。」とあるのみで、そうした事実は記されていない。

 この間、安政5年1月10日の北有馬太郎の日記に、「晴。内田喜兵衛来。齎師家昨日書、伊牟田真風去年十一月廿八日書云々。」とある。内田喜兵衛とは、北有馬の門人内田豊吉である。その豊吉が、安井息軒の書簡と前年11月に伊牟田が出した書簡を、飯岡村の貞太郎のもとに届けたのである。その内容は知る由もない。なお、北有馬の日記は、安政6年末を最後に未完となっている。

その三
 万延元年(1860)の閏3月、桜田門外の変を契機に、江戸藩邸守衛のために増員される関山糺に従って、伊牟田尚平は再び江戸に上った。この再上府は、関山糺の陪臣であった三玉三平(高橋祐次郎の変名)が、関山に伊牟田を紹介し、肝付左門に関山が掛け合って実現したという。関山糺は島津久光の次男で、関山家に養子に入った人である。この時は、精兵100余人を率いての出府であった。

 是枝柳右衛門の「羇中浮草」に、「(3月)二十五日水口ノ横田川ニテ関山糺君ニ行逢ヌ。伊牟田尚平茂時兄ニ談合シ、供ノ政七ハ大阪ヘ返シ、自分ハ土山迄引返シヌ。宵ノ間ハ関山君ノ旅宿ニテ森川氏、川上氏ト共ニ酒宴シテ山形屋庄兵衛方ヘ帰リ、真風兄ト面談シテ有村雄助切腹ノ由承リ云々。」とあり、上府途上の江州水口の横田川で、伊牟田は是枝柳右衛門に会ったのである。

是枝は薩摩国鹿児島郡谷山の商家生れの尊王家で、和歌に長じていた。大老井伊直弼の暗殺を企てて郷里を発し(途中桜田門外の事件を知る)、京都に上る途中であった(『幕末志士是枝柳右衛門』)。なお、文中の「有村雄助切腹云々」は、弟有村次左衛門と共に桜田門外の事件に関与した有村雄助が、この3月23日に藩命で切腹させられた事件のことである。

伊牟田が上府した年の10月29日付で、薩摩藩大山綱良に宛てた書簡があり、そのなかに次のように記されている。(水藩37士の薩邸駆け込み事件等の記事もあるが省略する。)
一 北有馬西川両人江者いまた一度も逢不申、笠井「本小谷野元三郎」より承候得共、当時之事情者一言も聞申度無御座と両人なから申候而決而出府不仕由、さも可有之候想像罷在候。
一 私ニ栗先生方ゟ外江者一切参不申御傳言之趣不日可申述と承諸申上候。(中略)
一 私ニも外宅相叶不申候故、(中略)江戸表におゐて御製薬方掛とか掛之医とかニて、
外宅は其身勝手次第と申事御免許相成候様、御働被下候儀者相叶申間敷く幾重にも
御願申上候、御賄等頂戴ニも及不申候。美玉ニも此段申越被置とふそ偏ニ御配慮奉希
上候。

 これによれば、伊牟田は上府以来外出が禁じられていたらしい。それを解くよう、大山に助力を頼んでいるのである。伊牟田の医術の腕は、他人にも認められるものだったらしい。伊牟田がこの書簡を送った大山綱良は、維新の後に初代鹿児島県令となったが、西南戦争西郷隆盛に加担して、長崎で斬首刑に処せられた人である。幼名を格之助といった。示現流の達人で、寺田屋事件の際には鎮撫吏として同志弟子丸龍助を斬った。戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督として活躍している。

また、伊牟田が外出を禁じられていた家の「栗先生」とは、国学者有職故実家の栗原信充(号は柳庵)のことである。後に島津久光に聘せられ、短期間ながら鹿児島に赴き、「軍防令講義」全八巻を刊行したり、柳庵流の鎧制作の指導にあたっている。なぜ、伊牟田が栗原家で外出禁止状態にあったのかも不明である。「三玉」とは、伊牟田の同志美玉三平ではないかと思われる。

 この書簡に記される、北有馬太郎と西川練造がいう、一言も聞きたくない当時の事情とは何か。そのために出府しないというのだから、重大な事情があったのだろうが、残念ながらその事情は不明である。なお、この事実を伊牟田に伝えた笠井とは、武州入間郡勝呂村(埼玉県坂戸市)の人で、幕臣の同心株を買って武士となり、当時は講武所剣術世話心得に出役していた。清河八郎内弟子であったという。西川練造とは神道無念流大川平兵衛道場の同門でもあった。北有馬の安政元年9月28日の日記に、「柳舟與葛西偉蔵来。晩二子去。」等とあるから、北有馬は早くから笠井伊蔵と知り合っていたのである。
 
 「維新の志士伊牟田尚平」によれば、伊牟田は翌11月に薩摩藩邸に帰り、その4日、北有馬太郎を奥富村から呼び寄せ、広尾の梅屋敷で、樺山三円、椎原興三次、森岡善助(昌純)、永山弥一郎らと時事を議論したという。そこでどのような話し合いが行われたのか、残念ながらこれも知ることはできない。

余談だが、倉田施報の『北有馬百之略伝』に、「万延元年六月登嶽す。」とある。富士山に登った当時、北有馬太郎は大豆戸村(埼玉県鳩山町)の宮崎家に、西川練造は下奥富村に在住していた。

その四
 伊牟田尚平は、藩邸に戻った翌月16日夜、薩藩の同志と共に米国公使館の通訳ヒュースケンを暗殺した。この暗殺に加わったのは、伊牟田のほか、益満新八郎、樋渡八兵衛、神田橋直助、大脇仲左衛門らであった。仙台藩玉虫左太夫の『官武通紀』に、「善積は、薩州藩にて本名伊牟田當平といふ、亡命後善積と改名候由。同人江戸赤羽似て<キウシケン>を刺殺候節、馬の尾を切り候者之由なり。」と記されている。

 伊牟田がヒュースケンの暗殺に用いた刀は、三善長光作と伝わる無名の業物だったが、清河八郎は早速これを貰い受け、それを収めた白鞘に次のように書き付けた。
  「伊牟田真風、米国訳虜を赤羽に屠りし刀なり。文久癸亥の春、磨きて更にその室を集す。壮士冠を衝くの古在り。吾が皇の徳義、威盛ならんと欲す。尺余の短剣、醜虜を屠る。殉国の名声、海内に轟く。醜ひとりを斬りてし秀の剣、御国の後の宝なるらん。」

「維新の志士伊牟田尚平」によれば、伊牟田はヒュースケン暗殺事件10日後の同月27日、国(相馬中村藩)に帰る岡部正蔵を送るため、樺山三円、益満新八郎、大脇仲左衛門らと、外桜田の料理店で別宴を開いたという。その際、伊牟田は岡部に、水戸藩武田耕雲斎への書翰を託したが、その書中には、「身をいかに尽さはかかる大御世の恵の露に報ゆへきやは」の歌が記されていたとある。

 翌万延2年春、伊牟田は清河八郎らと尊王攘夷党「虎尾の会」を結成し、横浜異人街の焼き討ちを画策した。これには、北有馬太郎、西川練造らも加わっていたこと、また、この計画は早くから幕吏に漏れ、5月19日には清河らの捕縛命令が出ていた等、この事件については「北有馬太郎と西川練造」に記した。翌々月出た手配書には、伊牟田について「元薩州御家来 伊牟田尚平 歳三十位、丈高く、太り候方、色黒く、丸顔、頬骨高く、眼丸く、眉毛濃く、口並鼻高く」とある。ちなみに、西川練造の娘澄女が後年、「清河(八郎)さんや池田(徳太郎)さんや山岡(鉄太郎)さんにもお目にかかったことがあります。(中略)伊牟田さんは色が黒く痘痕が少しありました。色々と志士の方が(西川家に)来て泊まりました」、と伊牟田の風貌を伝えている。なお、伊牟田はこの年の4月には、藩邸を脱していたという。

横浜焼き討ち計画の頓挫した後、水戸とその周辺に潜伏していた伊牟田は、住谷寅之助らと、和学所の塙次郎に譲位の先例(廃帝)を調べさせているという閣老安藤対馬守を討つことを約束した。まず伊牟田は、潜伏中の清河八郎を誘うために仙台を訪れたが、その際の伊牟田は乞食同然の姿であったという。

安藤閣老暗殺も水戸藩の事情で断念した伊牟田は、同年11月には清河八郎らと京都を経
て九州へ渡った。京都挙兵の遊説のためであった。12月には、薩摩藩主の決起を促すため、筑前福岡藩脱藩の平野国臣と共に薩摩に入り、大久保利通らと会見した。伊牟田は薩摩入りの様子を、仙台藩桜田良佐らに宛てた翌年3月28日付の書簡で、「去冬十二月初旬弊藩迄微行仕申候。尤間道より参候得共、忽ち関門間道締り之役人より被獲、城下迄参候処、案外都合宜敷、入国之時と違ひ、出立之時には、途中ながら父母にも面会仕、殆ど安心之至り、是又御悦可被下候。肥筑豊之間盤旋罷在、正月上旬上京云々」、と記している。

 4月には、福岡藩主が島津久光の上洛を止めようとしていると聞き、平野国臣と共にこれを阻止しようとした。そのため、2人共捕らえられ、伊牟田は悪石島への流罪となった。元治元年(1864)4月には種子島に移され、そこで寺子屋の師匠として、子弟の教育にあたっていたが、9月には赦されて帰郷した。『種子島家譜』に、「伊牟田尚平其の余一向宗流人十六名を赦して郷に帰らしむ。今般太守少将公天賜を拝するを以て藩内に大赦云々」とあるという。その後の伊牟田は、藩の周旋方として、諸藩等の動静探索に奔走したらしい。

その五
 伊牟田はその年の10月、西郷隆盛らの密命を受けて、武力倒幕の火付け役として益満新八郎と共に江戸に上った。相楽総三や益満新八郎らと、三田の薩邸に倒幕派浪士を糾合し、江戸とその近郊を撹乱して幕府を挑発するためであった。『史談会速記録』に、この時、伊牟田が江戸城二の丸に放火した話が載っている。寺島宗徳が、「其時伊牟田などが團炭を風呂敷に包みて塀を越へて這入って、本丸の玄関の疊を毀はして、其下に團炭を入れて點けたと云ふことを聞きますが」、と尋ねたのに対し、元薩摩藩士の市来四郎が、「まっちの流行りかけで、長崎から畳をこすると火が出る物を持って来て居ると云ふことであったやら申します云々。」、と答えている。この事件は12月23日のことであった。この江戸城放火の後、伊牟田は品川沖に停泊していた薩摩藩の翔鳳丸に潜んでいたという。

なお、『徳川慶喜公伝』には、この二の丸炎上について、「二の丸は天璋院夫人(将軍家定夫人・島津斉彬養女)の住居なれば、大奥の女中、薩藩士と通じて火を放ちたるなりともいひ云々」、と記されている。

伊牟田らの暗躍が功を奏し、江戸城二の丸炎上の2日後の夜明け方、庄内、上山等の藩兵が薩邸の焼き討ちを断行した。多勢に無勢、薩邸の浪士たちの多くは脱出し、漁船で品川沖に停泊中の翔鳳丸に逃げ込もうとしたが、幕府軍艦回天丸の砲撃により、翔鳳丸に辿り着けた船は一艘のみであった。この時乗船できた薩邸浪士隊の総裁落合源一郎は、後年、この時の伊牟田尚平の活躍を次のように語っている。

「胡蝶丸(翔鳳丸)の大砲を引受けて居りましたは、鹿児島藩の伊牟田尚平と云ふ人でご
ざりまして、実に此人の胆力と云ひ、其振舞と云ひあっぱれで当時戦争の中なれば、実に場数巧者の侍といふべき人で、向ふの船から来ます丸が当たらぬのも此方の船を越して海に沈みますくらい、段々寄せて参りましたのでござりますが、夫れにも関はらずして未だ距離が遠いと云って、夫り程こちらの船に当るを忍んで、向うの船の寄するのを待って居った胆力と云ふものは実に凄いことでござりました。」(『史談会速記録』)

翔鳳丸が放った砲弾が命中した回天丸が、一時追撃を躊躇したため、翔鳳丸は無事品川沖を脱出し、途中暴風雨にあって漂流を余儀なくされたものの、無事兵庫港に入港した。京都に入った伊牟田は、直ちに関東撹乱の顛末を西郷隆盛に報告したところ、西郷は「此戦争ヲ早メ徳川氏滅亡ノ端ヲ開キタルハ実ニ貴兄等ノ力ナリ、感謝ニ絶ヘズ」と喜んだという。

その後の伊牟田は、大総督府参謀の西郷隆盛に従って奔走していたが脱藩し、翌慶応2年7月19日、京都粟田口の刑場で斬首の上梟首されてしまった。享年37。罪状の申し渡し書には次のようにあった。
「其方儀北越出兵人数ニ加リ候筈相成候付テ、金策方之儀上田務ニ及内談候処、良考モ
無之旨相答候付、同人手筋ヲ以多人数同類ヲヵタラ匕、去年(慶応3年)6月15日夜江
州長浜今津屋弥十郎方エ押入、家内之者ヲ縛リ多数之金子奪取、剰威之為トハ雖申、泡致シ候付一人相果並弥十郎之耳ヲ引放シ、不具之身ト致シ、其上去年主家脱走イタシ候段重々不届ニ付苗字帯刀取上之上梟首申付者也。」
 
 伊牟田尚平は、会津征討越後口総督仁和寺宮(小松宮彰仁親王)の出陣に従軍しようとして、浪士を引き連れ、軍費等の調達のために外国貿易で財を成した近江長浜の今津屋を襲ったのである。男一人を射ち殺し、主人弥十郎の耳を引きちぎった上、4,000両余の金を強奪したという。

 事の正否はともかく、半年前には江戸撹乱のための暴虐を指示され、それを実行してきた伊牟田である。従軍費用も自前であれば、軍費調達のための押借りは横行していたのだろう。
伊牟田には、押借りに左程抵抗はなかったかも知れない。伊牟田尚平は、新政府の要人たちが、維新直後に攘夷から開国へと急転直下方向転換したようには、意識転換ができなかったのだろう。伊牟田の処刑は、民心を得るために新政府が取った、押借り防止のための見せしめだったのかも知れない。

伊牟田の処刑に関しては、薩摩藩士某が、維新前後の権謀術数を知り過ぎた伊牟田を罪に陥れたとする説さえある。伊牟田尚平と共に幕府を挑発し、武力討幕の発端を誘発した相楽総三の非業の死や、益満休之助の上野戦争での不可解な死を考えると、この説もあながち無視できないのかも知れない。。
なお、伊牟田の口供書には、「去年(慶応4年)四月同藩ト議論之上脱走致シ御当地(京都)
ニ罷登リ、兼テ心易致シ候先斗町難波屋こま方に同居罷在申候。」とある。
 
伊牟田と同郷の勝田孫弥は、史談会の席上で伊牟田尚平について、次のように語ってい
る。長い引用になるが、伊牟田尚平のために敢えて記します。なお、勝田は精華女学校を開校するなどした教育家であり、明治維新の研究家としても、『西郷隆盛傳』や『大久保利通傳』等を著した人である。

  「鹿児島は郷士も城下の士と区別がありまして、郷士は田舎者といって頭が上がらぬ。伊牟田は郷士で田舎者でしたから、頭が上がらぬと一つはさう云ふ乱暴なことをやって、自分はやらなかったか知らぬが、部下の者が大分乱暴を働き戦争が始まってからも近江や大津辺へ強盗に這ったといふことで、遂に京都で斬罪になったといふ男であります。是等の為めに今日迄鹿児島の方では一部の人々から疎外されて居る。然しながら、諸藩の人々で当時伊牟田と往来した方抔より聞くと随分能く言はれ、尊敬せられて居る。品川(弥二郎)さん等も大層能く言って居られたが、此の如き始末であったのと一つに鹿児島に於る地位が卑しかった為に、今日では殆んど歴史上から葬むられんとして只々僅かの一隅に残って居る有様であります。(中略)同情に堪へませんので、彼の事績を調べて見ると、決して壮士みた様な人物でなく、学問もあり胆気もあり、有志者の領袖になって居ったといふことは確で、(中略)こういふ人物が歴史上全く埋没して居ると云ふ事は甚だ遺憾であります。」

 伊牟田尚平は国難を憂慮し、国(薩摩藩)も棄て、家も棄てて国事に奔走しながら、贈位の恩典等は一切なかった。斬刑梟首という不名誉な最期のためだったのだろう。しかし、伊牟田が城下士たちから、「田舎の肥タゴ士」とか、「一日兵児(一日武士の形をし、一日農耕をする士)と蔑視されていた郷士の出であったからだともいわれている。

【主な参考文献】 
○「維新の志士伊牟田尚平」(川畑利久・『鹿児島歴史研究』No2・鹿児島歴史研究会編)  
○「国事鞅掌者の映像―伊牟田尚平について」(安藤良平・『幕末維新論集』12・吉川弘文館)
○『史談会速記録』(史談会・原書房) 
○『官武通紀』(玉虫左太夫・『確定幕末史資料大成』・日本シェル出版) 
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』収載・久留米郷土研究会) 
○「廣茅中村太郎先生詩稿」(内田豊吉筆写・内田清氏蔵) 
○『安井息軒書簡集』(黒木盛幸監修・安井息軒顕彰会) 
○『清河八郎遺著』(日本史籍協会編著・東京大学出版会) 
○『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一平凡社東洋文庫) 
○『喜入町郷土誌』(喜入町郷土誌編集委員会・喜入町) 
○『幕末志士是枝柳右衛門』(黒木弥千代・是枝翁顕彰会) 
○『清河八郎』(小山松勝一郎・新人物往来) 
○『江戸文人事典』(監修者朝倉治彦・編者石山洋鈴木瑞枝、南啓治・東京堂出版)
○『三百藩家臣人名事典』(家臣人名事典編纂委員会・新人物往来社)
○『幕末維新人名事典』(奈良本辰也監修・學藝書林)

Ⅴ 【南部藩儒官山崎士謙(鯢山)について】 (北有馬太郎関係)

その一
 北有馬太郎(本名中村貞太郎)の日記に山崎士謙を見るのは、弘化3年(1846)11月9日、「東白乃ち発す。(中略)独り山崎士謙送って品川に至る。途赤羽邸を過ぎる。山本君山、船曳環、津留崎銀蔵、亦送って高輪に至って別れを告げる」、とあるただ一度だけである。北有馬太郎が学半ばで、失意のうちに江戸を去る日のことであった。
 この日、山本君山ら久留米藩士たちと高輪で別れた後も、山崎士謙は北有馬太郎を送って1人品川まで至ったのである。この日の朝は、昨夜の降雪が溶け、路は泥濘が深かったという。
この山崎士謙は、通称は謙蔵、名は吉謙、士謙は字で、鯢山と号した人である。文政5年(1822)に山崎治右衛門吉興の次男として、陸中下閉伊郡津軽石村(岩手県宮古市)に生まれている。北有馬太郎より5歳の年長であった。

 山崎士謙の兄友仙は、医を業とした。『上閉伊郡志・巌手懸下閉伊郡志』に、この兄友仙について、「(医業の)傍ら盛合光恕等と謀り近郷の子弟を集め孔孟の教を講ず。門弟数百名。詩書を善くし米年と号し、遺墨の世に傳ふるもの尠からず。當時、文道和尚、盛合う魯斎と名を等ふし、時人、閉伊の三傑と称せり。」とある。儒医として私塾も開いていたのである。友仙と士謙の父吉興の人物像については定かでない。

 山崎士謙は、17歳の天保9年(1838)に、江戸に遊学して佐藤一斎、安積艮斎に学び、林大学頭述斎にも師事して経史を修め、次いで尾藤水竹にも従学したという。北有馬太郎は、弘化3年の7月から尾藤水竹の家に寄寓しているので、2人の出会いはこの時のことであったと思われる。とすれば、2人の交友は3ヶ月余りに過ぎなかったことになる。
 この時、山崎士謙の江戸での学問修行は既に8年に及んでいた。その山崎士謙の号鯢山は、学問を志して郷里を発足する際、立志家郷を後にするからには、鯨山(上閉伊郡下閉伊郡の境界に聳える標高600メートル余の山)のような衆目を集める人になろう、と決意したことに因んで付けられたという。

 山崎士謙は江戸で学んだ後、京都に上り、梁川星巌に師事して詩文を学んだとされる。しかし、梁川星巖は天保5年から弘化2年の6月まで、江戸のお玉ヶ池に玉池吟社を開いていたので、士謙は在府当時から梁川星巖の門に出入りしていたのではないだろうか。その梁川星巖は、山崎士謙の詩を評して、常に「天籟の響きあり」と賛嘆している。士謙は後に、横山(小野)湖山、大沼枕山と共に「梁門の三山」と呼ばれている。その山崎士謙の門人で、書家の山口剛介の手録「鯢山遺稿」のなかに、「送中村太郎帰久留米」と題する次のような詩がある。
   送到城南離別地 潜然堪灑無言涙 五年離合泣窮塗 三月同窓論宿志
   逆浪暁収明石船 疎鐘暮響高砂寺 何時更把数行杯 聞爾騒壇建一幟
 この他に七言絶句が2首あるが、弘化3年11月、帰郷する北有馬太郎を送って品川宿で詠んだものだろう。

 また、「鯢山遺稿」のなかに、「與西川桂輔同賦原十首」と題した次の3首の七言絶句が収載されている。西川桂輔とは、北有馬の畏友西川練造である。
   風雪僅収夕日低 抄冬景色転凄凄 倚欄自愧吾漂泊 已似寒鴉未得栖
   聖人之道鳥衰夫 多見官途事佞諂 若問読書実用事 世間何物是真儒
   豪懐何嘆歳将除 大任吾曹感有余 喚起西窓酔易直 分燈通暁読兵書
 易直とは、西川練造の名である。この次に「谷口課題春未夏初限麻韻」と題する七言絶句が掲載されているので、「與西川桂輔同賦原十首」は、先の「送中村太郎帰久留米」と然程時を経ずに詠まれたものと思われる。山崎士謙は、北有馬太郎と西川練造の共通の友だったのである。
山崎士謙が江戸に遊学した天保9年は、西川練造が遊歴の旅に出たとされる年と一致する。2人は、佐藤一斎か尾藤水竹の塾で出会っていたのかも知れない。なお、以上の事実以外には、山崎士謙と西川練造との関係を示す資料は確認できていない。

その二
山崎士謙、大沼枕山と共に「梁山の三山」と呼ばれた横山(後に小野と改姓)湖山は、文化11年に三河吉田藩領の医師の子として生まれている。名は巻、字は懐之といい、初め医を修めたが、後に江戸に遊学し、梁川星巌に詩を、尾藤水竹・藤森弘庵等に儒学を学んだという。永井荷風著『下谷叢話』に、湖山が始めて江戸に出たのは、天保3年5月であったとある。梁川星巌が江戸京橋八丁堀に玉池吟社を開いたのは、同じ年の10月であった。「星巌集」には、「横山懐之ハ(中略)来ッテ余ノ塾ニ遇ス。年僅ニ二十七。志気頗壮ナリ云々」とあるという。これが湖山の玉池吟社への入塾の時なのか、その後の寄寓の時なのかは不明である。

横山湖山の「湖山楼十種」に、「山崎鯢山来過談及帰計座間賦呈」と題する次の七絶がある。
  落托知君同我感 慚将敝褐向家山 慈親情本與人異 不問窮通只望還
この作詩のいつ頃かは不明だが、『山崎鯢山伝』等に言う通り、山崎士謙は京都で梁川星巌に詩を学んだのであれば、この詩は弘化2年6月に星巌が江戸を去り、その後士謙が上京して星巌に師事した後のものだったのだろう。なお、北有馬太郎の日記弘化2年9月5日の条に、「戸田氏を辞す。横山懐之家に遇す。」とあり、その2ヶ月後の1月10日の条に「横山懐之を辞す。依田氏に遇す。」と見える。当時貞太郎は、寄寓先を転々としていて、横山湖山の家にも世話になっていたことがあったのである。

『近世藩校に於ける学統学派の学風』にも、士謙は江戸で学んだ後、「また京都に遊んで梁川星巌に詩を学び、頼三樹三郎・小野湖山・鷲津毅堂・嶺田楓江・松岡毅軒等と交わって教養を広めた。」と記されている。また、鯢山は大阪に安政年中2年ほど留まった(『山崎鯢山伝』)という。
籾山衣洲の『明治史話』のなかに、上京後の士謙は、梅田雲浜頼三樹三郎らと共に国事に奔走したと記されているという。士謙は儒学や詩文以外に、兵学や洋学等も学び、佐久間象山の門にも出入りしていた。西欧列強諸国やロシアのアジア侵攻への危機感も強かったらしく、嘉永4年(1851)には、「英吉利新志」や「魯西亜史略」を著している。

また山崎士謙は遊歴を好み、その足跡は関東から関西、山陰、山陽等の諸国に及んだという。安政4年に士謙が上木した「鯢山詩稿」に、横山湖山が記した序文には、特に「毛武之間に鯢山を知る者多し」とある。その「鯢山詩稿」や士謙の門人山口剛介の手録「鯢山遺稿」に、その事実であることの証拠が数多く見いだせる。その幾つかを拾い出してみよう。

紙幅の関係上詩題だけの紹介になるが、上州に関しては「十一月念四同深町北荘大館霞城細谷為山飲於為山樓」、「木崎僑居示桑原吾樓田島栗斎二首」、「「三光石歌為藤岡湯浅石亭賦坡公仇池石韻」等々がある。ここに名のある深町北荘は、伊勢崎藩御用達を勤めた豪農で、寺門静軒に師事し、金井鳥洲に南画を学んだ。上毛に来遊の文人たちはまず北荘を訪ねたことから、「上毛文苑の玄関番」と呼ばれていた。大館霞城は古賀侗庵等に学んで、漢詩人として詩名が高く、また尊王攘夷家でもあった。細谷為山はこの地の豪農で、農間渡世としての糸絹商いで財を為した人である。なお、しの木弘明編著『深町北荘資料』に、安政2年11月付と推定される大館霞城の山崎士謙宛て書簡が収録されている。

 さらに、桑原吾樓とは金井之恭のことで、画家で勤王家の金井鳥洲の子であり、高山彦九郎に私淑した尊王攘夷家であった。田島栗斎については、管見にして特定できていない。藤岡の湯浅石亭は、元中山道本庄宿の人で、名石や珍石などの蒐集家として知られていた。なお、藤岡には山崎士謙門下の大戸五峰がおり、この人に関する詩も複数確認できる。

 武州に関しては、「訪問吉田久彌」、「妻沼客中空谷上人賦」、また詩題が長文なので省略するが根岸友山・雲外兄弟、尾高藍香等の名も見える。ここにある吉田久彌は、通称を六左衛門と称した豪農で、その家には来遊する文人墨客も多く、幕末には薩摩の寺島宗則五代友厚も潜匿した家である。空谷上人とは、妻沼の古刹歓喜院の院主で、法号を英雅といった人である。詩文を愛好し、寺域を寺門静軒に提供して私塾両宜塾を開かせている。ちなみに根岸友山は、田畑80町歩余を有する豪農で、文武を好んで邸内には学問所や剣術道場も備えていた。来遊した有志は枚挙に暇なく、食客は常に10人を降らなかったという。雲外は友山の末弟で、寺門静軒の娘を妻とし、詩を好み、椿椿山に師事して画を善くした。尾高藍香は渋沢栄一の義兄で、学問の師でもあった人である。
 以上は、山崎士謙が来遊した毛武の名家のほんの一例である。

その三
 安政6年、山崎士謙は南部藩に儒官として招かれ、後に藩校明義堂(慶応元年に作人館と改称)の助教と侍講とを兼ねた。士謙が南部藩に仕えた年の翌年、長州の吉田松蔭とも親交のあった江幡梧楼(那珂通高)が明義堂の助教に任ぜられ、以後2人は親交を深めている。
 管見にして、士謙の維新に至るまでの去就は定かでない。友人の江幡梧楼は戊辰戦争の際、楢山佐渡の秋田討伐への従軍や、奥羽同盟の斡旋等の罪を問われている。江幡は東京に護送され、南部家の菩提所である芝の松林山金地院に幽閉されたが、その幽閉先の金地院を士謙が度々訪れていた様子を、江幡の記した『幽囚日録』で知ることができる。それによれば、士謙は当時、藩校作人館の漢学教授と御取次兼御勘定方を兼ねていたらしい。

 明治の初年には県庁に奉職し、『岩手県誌』の編纂に従ったが、幾許もなくして職を辞し、明治12年(1879)には、盛岡に私塾集義塾を開いて経史を講じた。従学する者数百人に及び、大倉誠之、山口剛介、谷本桜盧等の有為な人材を育て、同29年に没した。享年は79歳であった。

 門人大倉誠之の記した碑銘に、「先生人となり謙虚、恬淡、人に接するに和易・矜飾する所なし、常に故旧に厚く、零丁無倚の者を見れば、則ち之を救い一文無しとなるも、意に掛けざるなり。是を以て、人皆其の徳に服せざるはなきなり。」とある。山崎士謙が金銭に余り頓着しなかったらしい様子は『幽因日録』にも、「昨夜議論せしハ謙蔵と菊池稲蔵の二人にて、謙蔵、旧臘の内借、未だ返却せざるニ依てなりといへり。」とか、「謙蔵来る。楢山君、窃ニ金を賜ふ。此は、去る十五日の夜、内借の為ニ稲蔵ニ談ぜられたるを御聞ありしニ依て也。」、などという記述が見える。士謙に金を与えた「楢山」とは、南部藩家老楢山佐渡のことで、この後国元に送られて、自刃させられた悲劇の人である。戊辰の役の際、秋田に兵を進めて、一藩の順逆を誤った責を負わされたのである。

 再び長い引用になるが、『山崎鯢山伝』に士謙の学問と詩について次のようにある。
 「鯢山先生の場合は、漢学者と見るべきであり、そして、何れの漢学者も同時に詩人でもあったが、鯢山先生は、むしろ詩人として任じ、且つ其の天分が、詩に於て、十分発揮されたと見るのが妥当であろう。先生の詩に、<自分の本来は、兵法にある>と言うように力説されてはいるが、然し乍ら、先生の兵法は六韜であり三略である。(中略)当時の科学者を動員して、兵法の革新を図って居る時、鯢山先生の理念の兵法たる孫子呉子の兵法は、時代的に既に、古色蒼然たるものであり、従って現実とは程遠い物であった事が想像される。故に、折角研究された先生の兵術が明るみに出る事がなかったのであろう。此心が、詩となって生まれたものと思う。又、特に易経に精通され、当時の学究達も詩人としてより、経史に通じた人として、承認していたようであるが、然し、先生の真の面目は、詩人に於いて、遺憾なく発揮されて居ると見たいのである。(中略)鯢山先生の詩は、旧来の形式主義を捨てさり、心魂の叫びを、文字を駆使して、自由奔放、生彩陸離たるものがある。文字の叫びと言うより魂の叫びであり、天真の流露であった。」

 引用ついでに、山崎士謙その人に直接接したことのある『盛岡市史』の筆者は、士謙について、「筆者年少鯢山を見る、言、僕実にしてその風貌はさきに記した毅軒の文に彷彿としている。鯢山は実に為人の高逸を以て伝らるべきであろう。」と記している。文中にある「毅軒の文」とは、松岡毅軒が山崎士謙の風格について、「鬢の毛が乱れて痘瘢の顔で眼光が鋭く躍々として人に迫るものがある。」と評したことを指している。

【主な参考文献】 
○『盛岡市史・別編人物誌』(盛岡市史編纂委員会・盛岡市) 
○『上閉伊郡志・巖手懸下閉伊郡志』(巖手懸教育會・臨川書店) 
○「鯢山詩稿」(山崎鯢山・『南部叢書』第八冊・南部叢書刊行会・歴史図書社) 
○「鯢山遺稿」(山口剛介・『南部叢書』第八冊・南部叢書刊行会・歴史図書社) 
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷會誌』・久留米同協会) 
○『幽囚日録―那珂梧楼日記』(岩手古文書会編・国書刊行会) 
○『梁川星巌』(田村榮太郎・三元社) 
○『下谷叢話』(永井荷風岩波文庫) 
○『近世藩校に於ける学統学派の学風』(笠井助治・吉川弘文館) 
○『深町北窓資料』(しの木弘明編著、境町地方史研究会)