ⅩⅣの12 【中国地方以西の浪士組参加者たち】

 

熊本県域からの浪士組参加者たち(5名)

  姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

大内志津馬

37

7番組小頭

不明 ・細川越中守家来土門宇右衛門5男

肥後熊本産 当時播州姫路浪人

文久3年4月20日付池田徳太郎宛て岳父後藤亥之助の書簡中「兎角当地(江戸)も惑乱之折柄故、御帰府は暫時御見合之方可然、尤大内志津馬殿被参候て、貴所様御滞留之方可然旨同人も申候、右はいつれ大内よりも委細申上候積申置候、且御帰府之事も同人より揚合見計ひ申上候、其節御帰府相成候様奉存候云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に11番小頭、「組別名簿」に小頭で名あり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に2番隊伍長で名あり。 ・511日石原多門隊、越後長岡方面応援に鶴岡出陣、陣中に探索方として大内志津馬の名あり。 ・915越後国境関川へ進軍する一隊の中に「病気或ハ手負等全癒ノ由ニテ出張」する者として大内志津馬あり。 ・916日関川奪回戦に山上の胸壁からの激しい銃撃に「大内志津馬(原注・頭上)打レテ死ス」と。(何れも『戊辰庄内戦争録』)

・小山松『新徴組』に「慶応四年九月十五日病気療養中であった大内志津馬等が原隊に復帰した。九月十六日関川部落奪回戦が続いて、昨日原隊に復帰したばかりの大内志津馬が頭部に銃丸を受けて戦死」とある。

田川温泉場寄宿帳に「先代志津馬養子大内魁一郎」とあり。 ・「開墾士氏名」に魁一郎の名あり。 ・明治65月司法省酒田臨時裁判所の召喚により東京を出立した旧新徴組士の中に大内義春あり、魁一郎か。 ・大内義春は明治75置賜県へ貫属替

関口三千之助

22

5番組

不明   ●肥後熊本細川玄蕃頭浪人

新徴組入り ・「目録」に21番組小頭として名あるも「組別名簿」に名なし。

・『藤岡屋日記』元治元年19日条に、村上常右衛門、関口小千之助(4人略)に付「右之者ども兼而私家来江御預被仰付居候ニ付、浅草向柳原下屋敷江差し置、家来共附置候処、追々永く相成御府内廻り方ニも差し響き、甚以不都合ニ御座候間、可相成は何方成とも早速御預替え被仰付被下度云々」と庄内藩主から幕府への請願書り。 ・同書同年同月15日条に、三宅備後守家来に対し「右之者共(関口三千之助、鯉渕太郎)、酒井左衛門尉家来江御預被仰付置候処、三宅備後守家来江御預替被仰付候間、受取方手当向之儀は左衛門尉并阿部越前守へ可被談候」との達文あり。 ・『続徳川実記』元治元年326日付封廻状に「右於阿部越前守御役宅、御目付小出五郎左衛門立会、越前守申渡之」として村上常右衛門、関口三千之助(23才とあり)、鯉渕太郎他1人に対し「一と通尋之上召連人江預け」とあり、以後の去就不明。

本多新八郎

35

3番組

不明   ●肥後熊本浪人

「井上松五郎日記」文久336日条に「()夫より浪士面々ニ三壬寺ニ罷至候由承り、逢ニ参り候処へ沖田、本多、佐藤、井上右四人ニ而たつね参り、夫より佐藤東太郎、下拙同道ニ而高瀬川生亀と申処ニ而酒宴いたし、夫より沖田、本多両ニわかれ云々」とある。本多は3新見錦組で井上源三郎沖田総司等と同組の本多新八郎と思われる。

新徴組入り ・「目録」16番飯塚謙輔組平士に名あり、「組別名簿」小頭飯塚謙輔組平士に本多学之助とある人か。その後の去就不明。

柚原鑑五郎

28

7番組

1人 ・肥後熊本細川越中守家来柚原伴十郎子

当時江戸外神田御成道京屋伊兵衛方同居

新徴組入り ・「目録」に34番三村伊賀右衛門組平士、「組別名簿」に小頭三村伊賀右衛門組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族2) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に1番隊平士として名あり。石原多門隊附属として越後地方探索方として出陣。

・「開墾士氏名」に柚原伴三郎とある人か。

明治7年2月東京府へ貫属替の柚原伴十郎か。

「柚原鑑五郎日記抄」(清河八郎記念館所蔵)

吉村魁一

29

4番組

妻子2人   ●肥後熊本浪人 当時江戸表六番町山中又兵衛家来太田庄一郎方同居

新徴組入り ・「目録」に名なし。 「村上俊平潜匿日記」文久3513日条に「夜風体を変じ、角中に至り出塚次郎を訪ひ、夫より芳原に至らんとす。既にして吉田主税、芳邨魁一来る。芳邨此夜断髪、髪形を変し師横山光蔵の仇を報せんとて涕如雨。光蔵なる者、流行流(柳剛流ヵ)の剣客にて正義党の士なり。奸者の為に四日の夜、青山にて切害せらる。此夜吾党の計企顕わるを告るものあり。因て党を会し、舟に乗じ小梅に至る。此にて談合離散を計る。主人飯を焚き吾等に饗す。吉田、芳邨の両人は当寺に残り、別に臨んで芳邨滲然泣下、僕等亦愴然に堪えず云々」とあり。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久3518日条に「武井十郎、吉村魁一、吉田主税外五人の者致金策候得共、失非後悔致し、此三人は豊前守殿へ欠込願仕候に付、吟味中河津殿へ御預に相成候に付、局中へ預り可申も、河津殿より御内意之趣なれ共諸組小頭より不承知申立候」とあり。

・『歴史のなかの新選組』に「文久三年5月新徴組から放逐せらる」とあり。小山松『新徴組』も同。

蘭方医村上随憲』

   愛媛県域からの浪士組参加者たち (2)

原田左之助

24

6番組

不明 ・伊予松山藩足軽原田長次の長男

伊予国温泉郡矢矧村

安政3年頃江戸三田の松山藩邸で中間をしていたと。又翌4年頃藩地へ帰り若党をしていたが、出奔して大阪で谷三十郎(弟万太郎とも)に種田宝蔵院流の槍術を学んだ後、江戸に出て近藤勇の試衛館道場に出入りするようになったという。

浪士組上洛後、近藤勇らと新選組を結成し、副長助勤、後に10番隊長となる。

鳥羽伏見戦に敗れて江戸へ引揚げ、甲陽鎮撫隊に加わり惨敗を喫す。後近藤勇らと決別し、永倉新八らと別軍(靖兵隊)を組織して会津へ向かう途中、一人引き返して彰義隊に参加し、上野の山の戦いで銃創を負い、本所猿江町の旗本神保山城守邸まで落ち延びたが518日落命したと。

享年29歳。墓所不明。なお、原田は生き延びて満州へ渡って馬賊頭目になったとの異説あり。

吉田庄助

36

5番組

1人 ・伊予新谷藩加藤大蔵少輔家中吉田幸衛門子   ●伊予浪人 ・当時江戸下谷山伏町寓居

「高木潜一郎浪士組従軍日記」文久333日条に「今日番手ニ而、御見廻役人松岡万、吉田庄助、西村泰翁、新井式部云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に7番組小頭、「組別名簿」に肝煎として名あり。・文久3519日廻状に小頭として吉田庄助の名あり。 ・元治元年2月付申渡書に「右(山田官司、吉田庄助、草野剛蔵)今般文学御開業ニ付、局中世話心得申渡間相掛申談、諸事引請入念可相勤候」と。 ・慶応元年6月、5番6番組持肝煎締役となる。

『峠越え』中伊東瀧三郎「市中見廻日諸留」に肝煎締役で吉田庄助の名あり。 ・「御用記」(慶応2年ヵ)「右(吉田庄助)は当五月廿九日小筒打方取調掛被仰付候付、当御地盤金之内利一ケ年弐両之御割合を以被下置候」とあり。

慶応4年庄内入り(家族5) ・小山松『新徴組』に「(慶応4年3月朔日)五番組、組士吉田庄助以下二十三人、その家族五十一人、計七十四人」が本藩士赤澤源弥等の付添で庄内へ向けて江戸を出立したとあり。

・「田川温泉場寄宿帳」に「五六番肝煎締役、吉田庄助」とあるも、「戊辰庄内戦争出張姓名」、「開墾士氏名」に吉田庄助の名なし。

明治6年寄留替

子母沢寛『露宿洞雑筆』に「吉田庄助ははじめ肝煎取締で、飛ぶ鳥を落としたが、どうも品行が悪いというので平組に落とされた」とあるが。

   長崎県域からの浪士組参加者たち (2)

阿比留鋭三郎

22

3番組

不明   ●対馬藩浪人 当時江戸麻布市兵衛町丹波谷組屋敷高久安二郎同居

北辰一刀流千葉道場門人 ・清河八郎の「玄武館出席大概」に対州藩阿比留鋭三郎の名あり。

文久3310会津藩主に対して京都残留(会津藩の差配)を嘆願した17人の浪士の中に阿比留の名あり。 ・浪士組江戸帰還途中の同月14日鵜殿鳩翁ら浪士取扱が目付杉浦正一郎に宛てた書簡に記される「今朝同人(松平肥後守)家来へ引渡京地へ相残申候」者(芹沢鴨16)の中に阿比留の名なし。 ・同月15日京都残留浪士24人中20会津藩庁に出頭するが、残りの「四人之者ハ病気ニ而不参候」とある中に阿比留の名あり。 ・同月22日老中板倉勝静に将軍の滞京を直訴建白した18人の中に阿比留の名なし。 

・同月25会津藩士本多四郎が壬生を訪れ壬生狂言を見物した際の「世話集聞記」の記事に「此阿比留ハ大病ニ付、江戸表ニ両親有之候ニ付、近々江戸表江罷下ル由ニ咄有之」とあり。 ・翌46日病没。 ・墓は京都壬生寺境内と東京都北区滝野川の寿徳寺。

藤本 昇

45

3番組

妻子2人   ●肥前長崎産 上州館林浪人 当時江戸南本所深川六間堀代地住居

浪士組江戸帰還後清河八郎らと横浜焼き打ちを画策。

・『東西紀聞』に「此節当地浪人共夥敷当月(文久34)二日ゟ五日比迄浅草御蔵前家持大家并大傳馬町日本橋辺大家を見込押借申出市中騒動云々」、この騒動は「右五人頭立」として石坂周造、村上俊五郎らと共に藤本昇の名あり。 ・『藤岡屋日記』同年同月10日条に「()石坂周造、藤本昇右両人之者、回向料并為塔婆料金百五十疋持参、御橋下水上ニ首無死骸二ツ(神戸六郎と朽葉新吉)有之候処、見受候ニ付晒候も不便ニ存候間、何卒右死骸畑沖江引出可然回向致呉候様云々」と(回向院から奉行所への届)。 

・暮地義信「新徴組略記」に「(同月)十五日松平上総介町奉行より浪士の内村上俊五郎、石坂周造()、藤本登()等六人御用有之旨被申渡()町奉行へ処一応尋問の上国事犯に付、夫々諸侯へ御預けに相成たり」と。・『東西紀聞』に「六人大名ニ御預ケ云々」として「一ト通り尋上松平出雲守に預遣ス、藤本昇」とあり。 ・千葉弥一郎「新徴組史料」に「和田理一郎、白井庄兵衛、藤本昇三名の終は未詳」と。 ・石坂周造「清河正明贈位建言書」中に「此六名ノ志士ハ執レモ()皇政維新ノ大赦ニ遭ヒテ放免セラレタリ」とあり。

かすみがうら市郷土資料館発行『新徴組と古渡喜一郎』に「(藤本昇は)晩年まで喜一郎と交流を深めた人物で、喜一郎が遺した資料の中には藤本との交流を示す手紙が3通みられています。()手紙には、喜一郎の小頭昇進を喜んだり、藤本昇の子息への心遣いに感謝したり、二人の関係には子弟を想像させるやり取りが記されています」とあり。

   岡山県域からの浪士組参加者たち (1)

村田新蔵

35

1番組

父母弟4人 ・百姓利兵衛倅

備中国上房郡上村住居

新徴組入り ・「目録」に5番水野倭一郎組平士、「組別名簿」に小頭水野倭一郎組平士で名あり。 ・伊東瀧三郎「市中見廻日諸留」(慶応元年6月1日~同年9月8日)に、ほぼ連日「病気村田新蔵」、「病気引村田新蔵」と記されている。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」及び「開墾士氏名」に名なし。

明治8年現在鶴岡居住

村田新蔵は、根岸友山の甲山組(埼玉県小川町「新井家文書」)に属して浪士組に参加していること、「柚原鑑五郎日記抄」「上京有志姓名録」に武州比企郡平村(東松山市都幾川村に村名あり)とあるが、これ等の地で存在が確認できないこと、また「浪士姓名簿」(当時取締役所持)に父親の名も明記されていることから、岡山県域出身で間違いないと思われる。

   広島県域からの浪士組参加者たち (1)

山口三郎

 名・高賢

31

道中目付

不明 ・郷士山口常兵衛3男   ●備後国御調郡綾目村出生、当時川越辺ニ住

千葉弥一郎「新徴組と荘内藩雑話」に「山口三郎は備後の浪人で、浪士募集の前年川越に来て長屋玄平の家に暫く世話になって居たのである。浪士募集の令を耳にして、両人手を携えて募集に応じたのである。三郎は始終玄平を恩人として居った」と。

新徴組入り ・「目録」に1番組小頭、「組別名簿」に肝煎で名あり。 ・文久3419日世話役 ・「柚原鑑五郎日記抄」同年519日条に「山口三郎、草野剛蔵、西恭助、石倉久七、右御仕法替に付世話役御免小頭役云々」と。 ・同年12月肝煎役(明細書麁調) ・慶応元年6月肝煎締役 ・慶応2年百石を給う(「田川温泉場寄宿帳」)

『新編庄内人名辞典』に「慶応3藩士田辺儀兵衛に随従して江戸開成館での幕府列藩代表会議に出席する」と。 ・田辺儀兵衛「公私日記」慶応4115日条に「開成処()ゟ集議有之候ニ付、有志之者罷出候様申来候間、山口三郎差出様御沙汰有之差出候、翌十六日ニも西ノ丸江差出候」 ・同日記翌27日条に「於公儀所諸藩士公儀御開候相成候間、差出候相御目付様御沙汰、来る九日ニ罷出候との事ニ御座候、戸田惣十郎、山口三郎」とあり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・同年226日江戸出立 ・『田川温泉場寄宿帳』に「戊辰役奥羽の各藩へ使命を帯び、後ち最上農兵の頭となり、六十里越の守衛として官軍と戦ひ云々」と。 ・『庄内沿革誌』に、410日「辻庄一郎白井吉郎を米沢藩に使はし清川及天童の戦は何れも先方より挑むを以て止を得す応戦したるにありて元より王師に抗するの意にあらさるの事情を奥羽鎮撫の九條殿に執奏あり度しと依頼す同十四日加藤半蔵上野專右衛門山口三郎を仙台藩に使いし米沢藩に依頼したると同一の事を依頼し云々」とあり。

・先の「公私日記」78日条に「昨夜天童領成生林と申処江百姓共多人数打寄、同領羽入村打壊候よし、御領分も横行難計候ニ付、山口三郎新銃隊召連神町江出張云々」等の記事あり。

『新編庄内人名辞典』に「戦後は大泉藩大属に任ぜられ、藩の東京昌平橋邸に在勤、藩知事酒井忠宝に従って諸官衙との折衝に当り、その後引続き東京に在住した」と。 ・千葉「維新前後荘内物語」に「明治五年廃藩置県後藩と方針を異にして移住した」と。 ・明治85東京府へ貫属替

山口三郎の人となりについて、上記『人名辞典』に「体躯矮小ながら眼光炯々、すこぶる意思強く、機略に富んだという」と。 ・千葉「新徴組と荘内藩雑話」に「(長屋)玄平の直話に依ると、三郎は玄平の宅にぶらぶらして居る時分から総ての言行が非凡であった。人世零落しても何とか人の上坐にありたいと思うが、夫れには坊主か医者より外にない。坊主は葬式の時は誰よりも上席する。医者も病家へ招かれると誰よりも上席する。()三郎日医学は少しも知らぬが、医者になるのは六ツ敷事はない。病人と云ふものは十中の九までは医薬で癒るのでない。寿命があれば薬を用ひずとも癒るものだ。医者として腹の下るのを止るのを覚えて居れば沢山だ。明日からやつて見よふと思ふと云て、翌日医者の看板を掲げた云々」と。又「浪士の募集を機会に廃業して出京した。両刀は勿論衣服も買求めて中々立派な風をして浪士組へ加入した。奇才に長じて居って浪士組でも頭角を顕し云々」等とあり。

・同書にはその外に、「(山口は)池田徳太郎とは互に信頼した中であった。()三郎は清川八郎とは大に意見を異にした。()浪士が攘夷説を唱ふる中で、(三郎は開国論者で)窃かに蘭学をやった。砲術を学んだ。危険だから公然口には出さぬが、玄平抔に対しては隔意なく物語った。攘夷だの、鎖国だの、阿呆者の寝言だと罵倒して居った」、「三郎は井伊直弼を日本の救世主と仰いで居った。井伊がなければ、日本もどうなったか分らん云々」と。同書に山口三郎の逸話多し。

明治維新史料、明治期』庄内史料集126-2・小山松『新徴組』・『日野市立歴史館叢書』第10輯・子母沢寛『幕末奇談』

   徳島県域からの浪士組参加者たち (1)

柏尾馬之助

26

6番組

不明 ・「明細書麁調」に松平阿波守元家来柏尾嘉蔵子(次男ヵ)とあり。父の名は嘉平次とも称した。  ●阿波国美馬郡貞光村浪人(村上俊五郎と同郷) ・江戸豊島町三丁目柏ヤ方ニ同居

北辰一刀流千葉十太郎門人樋口伝左衛門正隣の「英名録」に「北進一刀流千葉十太郎門人柏尾馬之介 同虎之介 万延元年八月十六日ゟ廿五日迄」とあり。・下総佐原で剣術道場を開いていたとも。 ※『上毛剣術史』に「柏尾馬之助はその剣技鬼神の如しと鶴岡地方では現代でも語り伝えられているとあるが。

新徴組入り ・「目録」に14番組々頭兼剣術教授方、「組別名簿」に肝煎兼剣術教授方で名あり。

・田辺儀兵衛「公私日記」慶応4223日条に「柏尾馬之助病気ニ付、庄内江難罷下候間、親類共江暫罷在申度旨申聞候ニ付、永の御暇被下置候」とあり。

「人名移動詳細」に「柏尾馬之助は千葉周作の門人にして剣道は天下の名人なりと称せらる。()二番組肝煎役となり剣術教授方たり。常に撃剣の稽古を欠席せし事なく、市中見廻りも欠勤した事なきも、戊辰の一月の末肺患に罹り回復の見込みなく、止むなく願の上暇を賜り、江戸に残りたるも幾ならず病死せり。余弟伊東乕太も剣客たり。庄内に下り戊辰戦争には奮闘せり。稲田隼之助が脱走せし時、追跡して最上山寺で稲田と戦ひ手疵を負ひしも一ヶ月許にて全癒す云々」とあり。

柏尾馬之助は慶応448日病没。 ・墓は柏尾家墓地に在ったのを後に徳島市内に移されたと。

千葉弥一郎『新徴組史料』に「「櫛淵先生(一橋家剣術師範役櫛淵太左衛門、弥一郎の師)が新徴組の柏尾右馬之助ハ天下の名人だ、流義なんかは何でも構はんから、同人より教示を受けろと云はれた」と。

蔵敷村(東大和市)名主内野氏の日記(『里正日誌』)に「辰(慶応4)閏四月十九日頃城憲隊ト唱ひ十四五人所澤河原宿新光寺へ参滞留いたし、追々人数相増凡三十人余ニ相成所澤村薬王院へ引移り、賊徒鎮防方撫育隊ト改称シ、五月ニ至り五十余人ニ相成官軍阿州稲田之附属精勇隊ト改号シ、惣隊長江戸住居柏尾嘉平次、所澤出張屯所隊長小野民之丞・鈴木織之助、調役市村郡司外役々十人余云々」と。又柏尾嘉平次については「外神田三嶋町材木店ニ而家主加賀屋長三郎()阿州稲田藩精勇隊之隊長柏尾嘉平次同居ニ而、御同人と長三郎とは伯父・姪ニ而」と。又同書中「()掛川()御人数御調御手控」に、「精勇隊隊長 柏尾直之助二十六七才・剣術師範柏尾嘉平次六十才・死去 同人倅同姓馬之助」と。更に精勇隊士53人中、柏尾嘉平次(剣術)門弟が23人、柏尾馬之輔門弟が2人、千葉十次郎(馬之助の師)門弟が4人と記されている。なお、精勇隊士たちは同年618掛川藩兵によって捕縛され、江戸へ連行された。その後は未確認。

『荘内史料集16-2 /明治維新史料 明治期』・『静岡県史』資料編15・『日野市立歴史館叢書』第10輯・『大和市史通史編』・東大和市立郷土博物館刊『里正日誌』・吉野式『幕末諸隊研究』五周年記念号・(小説)子母沢寛『にげ水』『幕末奇談』『小説のネタ』

   福岡県域からの浪士組参加者たち (1名)

中村又太郎

25

1番組

不明 ・「明細書麁調」に「生国武蔵、久留米藩有馬中務大輔元家来中村主仙子」と。 ・田辺儀兵衛「公私日記」に「中村又太郎実父中村玄道」とあり。※元久留米藩士中村中村主仙(玄道)の子として江戸で出生か。

筑後国久留米浪人(「浪士姓名簿」)

久留米藩剣道師範役津田左衛門正之創始の津田一伝流剣法を学んだという。

新徴組入り・「目録」に30番組小頭、「組別名簿」に小頭で名あり。 ・後小頭に剣術世話心得兼任。

・田辺儀兵衛「公私日記」慶応427日条に「中村又太郎儀被申渡儀有之候付、麻上下着用罷出候、町奉行ゟ申趣候趣、御上屋敷ゟ御沙汰ニ罷出ル、御委任以前ニ付、御構無之趣被申渡候段申出ル」と。同書翌8日に「中村又太郎差扣伺差出候間、其儘相返候」とあり。

慶応4年庄内入り(家族5人、内13歳以下)

・「戊辰庄内戦争出張姓名」に1番隊肝煎役で名あり。

・『戊辰庄内戦争録』に、慶応4年5月11日越後長岡応援人数中に探索方として中村又太郎の名あり。※新徴隊取扱頭取林茂助隊の肝煎訳役として出征。

「開墾士氏名」に名あり。 ・千葉弥一郎「維新前後荘内物語」に「明治二年の秋であった。上ノ山藩の家老松平清之進と云ふ人が剣客二名を鶴ケ岡に同伴して来られ、撃剣の仕合を申込まれた。其の時新徴組から中村又太郎、小堀大太郎、山田精策と老生の四人が選抜され云々」と。

・明治511月「長屋玄蔵宅ニ中川一仁科理右衛門玉城織衛中村又太郎()扣居候ニ付」大島定靖等が割腹を覚悟した桂田寛吾の助命を申し立てたが、助命は叶わなかったと。(中澤貞祇の記録)

小山松『新徴組』に、明治6227日新徴組最後の脱走が実行され、その26人の脱走に中心となって活躍したのが中村又太郎であったと。又、同年3月庄内脱走の旧新徴組と新整組士80人が酒田県の非道私曲を司法省に告訴した事件で、中村又太郎も捕縛され鍛冶橋監獄に収監されたと。 ・明治73月禁獄90日の刑に処せられる。

明治710東京府へ貫属替 、後警視庁入庁と。

「新徴組之内武蔵・上野・甲斐三箇国より罷出候者之中、土着願上候ニ付、心得之件々、大概左ニ」とする人名列挙中に「浪人 中村又太郎」あり、「生国武蔵」が正しいと思われる。

尾崎恭蔵の妻は元久留米藩士中村玄道娘という。田辺儀兵衛「公私日記」慶応47月条に「中村又太郎実父中村玄道」とあることは前記した。 ・同日記翌月の条に「笹森村江、山本荘馬、中村玄道、鈴木弥平太外農兵四人、其模様ハ村々相廻取締致候事」と。 ・同日記同月25日条に「昨日中村玄道笹森ゟ罷帰ル云々」と。

中村又太郎の妹富士子は殿山義雄の妻で、殿山死後鎌田昌琢と再婚。

『日野市立歴史館叢書』第10輯・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号及び『新徴組研究』第8号・『上毛剣術史』・『庄内史料集16-2 明治維新史料、明治期』

   大分県域からの浪士組参加者たち (1名)

玉城織衛

45

5番組

妻及び厄介1人 ・(「明細書麁調」)生国豊後国、中川修理大夫家老中川平右衛門家来代々頭役勤大橋藤左衛門子。  ●豊後岡藩浪人 当時江戸二葉町道場所持

直心影流島田虎之助(嘉永59月病没)を慕って上府、男谷精一郎友信の道場で修行したという。

新徴組入り ・「目録」33番組々頭兼剣術教授方、「組別名簿」に小頭兼剣術教授方で名あり。 ・慶応元年65番組肝煎に選任さる。 ・慶応元年1212日の旗本石川又四郎を斬殺し3人の新徴組士が引責自刃した事件当日の見廻隊統率者は玉城織衛であった。(千葉弥一郎『新徴組と荘内藩』等)

慶応4年庄内入り(家族3) ・「戊辰庄内戦争出張姓名』に新徴隊取扱頭取菅野正助隊肝煎役で名あり。

「開墾士氏名」に名なし。 ・桂田寛吾割腹事件に関する若林守信等の酒田臨時裁判所への申立書に、明治511月割腹を覚悟した桂田を救うため、若林等が長屋玄平宅に居た「中川一仁科理右衛門玉城織衛(他3人略)」等に桂田の助命を求めたが、中川等は「(桂田の脱走は)血盟并同士申合之切磋素意ニ背候大胆成者故申付候様赤澤源弥ゟモ内意有之且七人役席()揃上ニ而者助命之義不相成」と受け入れなれなかった、とあり。稲田隼雄事件及び小山清照、中追胤親脱走事件に関しても玉城織衛関与の記録あり。(何れも中沢貞祇の記録)

小山松『新徴組』に「明治5722日の夜、新徴組60人、新整組20人ほどの大脱走が成功した。この世話をしたのは、玉城織衛等三名といわれている」と。

・明治6年新徴組の一連の事件で鍛冶橋監獄に収監され、翌明治7年3月禁獄90日の判決を申し渡される。

・明治7年7月東京府へ貫属替

『上毛剣術史』・鈴木克久『峠越え』

   佐賀県域からの浪士組参加者たち (1名)

宇都宮左衛門

40

7番組小頭

姑妻子3人   ●肥前佐賀鍋島浪人 当時上州伊勢崎住居   ●『群馬文化』百号所収橋田友治論稿に「宇都宮左衛門が伊勢崎町に借家して、軍学指南の看板をあげていた云々」とあり。

文久3213日廻状中に「宇都宮左衛門代番武井三郎」とあり。 ・翌14日廻状に「宇都宮左衛門儀病気も追々快方ニ趣申候間、右隊長之儀は是迄之通可被相心得候云々」とあり。 ・同月24学習院へ建白書を持参提出した6人の浪士の中に名あり。

・「目録」に名なく、江戸帰還後早期に脱退。

「村上秋水日記」文久4111日条に「伊勢崎へ賀年行く。順庵、栗原恭輔、細野万助、栗原幹、宇都宮左衛門を訪う」とあり。

薄井竜之『筑波騒動実歴談』に「(野州大平山へ)上州より西岡邦之助、昌木晴雄、宇都宮左衛門ら百五十人の志士をひきいて前約を履んで出会云々」と。 ・「水戸浪士田中愿蔵看聞記」元治元年5月1日条に「肥州浪士宇都宮左衛門ゟ古久屋三郎次方江書状を以、近日之内我等尋罷越候仁有之候間、心配無之旅宿頼入候()野州足利郡大前村ゟ使ヲ以申越候云々」と。 ・同書同月12日条に「早朝浪人大平山江出立()大将分三人白麻ニ自分紋付羽織()宇都宮左衛門頭取与相見、弓矢ヲ携へ罷在云々」と。 ・同書同月18日条に「江戸表ゟ宇都宮左衛門ヲ尋参候平尾東巌斉()、熊谷四郎()八十宿へ行云々」と。

・『筑波戦争記』に「此領分(野州寺岡村)栗田源兵衛()、黒村(原注・新次郎)二十位、宇都宮(原注・左衛門)ト申者等」70~80人が513日から同月27日まで宿陣したと(阿蘇地方で金策)。 ・『甲子太平記』に「(5)廿八日(一団は)同勢栃木止りニて翌廿九日昼前之内小山宿へ出立云々」と。

・『筑波町史』に「六月二日再び筑波山へ帰還した筑波勢は、沼田村明蔵院に須藤敬之進、宇都宮左衛門の天勇隊が大筒を道路に向って配置して警備した」と。 ・『常野集』に、昌木晴雄と宇都宮左衛門が栃木宿の山本屋藤吉宅に616日「馬五疋鉄砲四挺鑓等を持込」宿陣したと。 ・宇都宮左衛門らが宗道河岸等で金銭等の徴発活動を行う。(「中山氏聞記」) ・『常野集』にも「廿八日水戸様浪人宇都宮左衛門と申もの上下拾九人、鎗鉄砲長刀其外鑓弐本押立、佐衛門儀騎馬ニ而相模守領分常州真壁郡久下村徳右衛門方江押込金弐千両可差出旨厳敷申懸云々」と。

・翌76日追討軍の来襲に備え宇都宮左衛門等は龍勇隊を率いて下館口沼田村に陣を敷く。(「波山始末」等)

・『波山記事』に同月9日の下妻合戦に際し「右四人之者指揮致(下妻城下へ)忍入候由」として飯田軍蔵、宇都宮左衛門の名あり。 ・同月21日の藤田小四郎らの水戸城攻めに反対して府中へ立ち退いた者の中に宇都宮左衛門あり。(『常野集』等)

7月末から8月初旬藤田小四郎らは府中に、滝平主殿らは玉里村円妙寺に布陣した際、滝平らが藤田に宛てた88日付書簡に「円妙寺警固は宇都宮、昌木、高橋等五日六日の二日二晩の約で参っている。()その後七日夜九ツ頃宇都宮、昌木、高橋らが円妙寺警固御免を云う。()宇都宮(前記2人略)ら昨晩は旅仕度致し居り、又々府中へ出向いたようす云々」と。(玉里村史』)

・『常野集』813日条に「府中出張、宇都宮左衛門、人数五十人程」と。 ・「伊東榮太郎日記」同月22日条に「府中止宿仕候宇都宮左衛門昌木春雄両人ヨリ林五郎三郎方へ書状ヲ以テ相頼越候儀ハ()今宵松平播磨守城下可焼払旨風聞有之ニ付、早速御立帰城下元固メ可被下趣云々」と。 ・「旭桜雑志」に「鮎沢公より既急使参り、神勢館大炊頭持張がたく候故、急御加勢願度由申来候故、其夜(825日カ)即刻仕度、明朝七ツ立つと定め、其節須藤啓之進()昌木、宇津宮等も同意に而云々」と。 ・後宇都宮等は小川、玉造へ移動したが、幕軍の攻撃を受け鹿島に集結した。

92日から3日に掛けて大平組と称する600人余の浪士が鹿島神宮に集結。この中に宇都宮左衛門あり。 ・「飛鳥川附録」に「五番隊長、西岡邦之助、宇都宮左衛門、人数九十人余、甲冑の騎馬七、八人何れも花やかなる陣羽織を着け、重藤の弓を持ち、甲冑にて矢を負へるもの二人、是は歩行武者なり云々」と。しかし、同月6日の幕軍の総攻撃で四散した。 ・『波山始末』に「鹿島の陥るや西岡邦之介等五、六十人遁れ去りて府中に到り、市店一百六十戸を焼き、藩兵と戦って之に勝ち、十数人を殺傷す。()土浦藩兵と田部井に合戦す。利あらずして衆徒退却し桜川を渡る。藩兵追撃する急なり。()宇都宮左衛門、林庄七郎、石橋民右衛門は走りて酒丸村安楽寺に入りて自殺す」とあり。

・「甲子見聞録」に「(9)九日朝酒丸村安楽寺と申寺へ散乱の浪人隠居候趣注進有之候間、早速繰出右寺へ打入候処五人隠居、五人の内四人は直様馬捨場にて首打申候、一人は角力取に候間小田村へ引連吟味の上令十日打首云々」と。 ・「家の記」に「筑波天王院聟之咄、同人事安楽寺隣山中と申油屋に細工致居候処、安楽寺境内裏の笹山にて緋毛氈敷二人自害、一人は宇都宮左衛門云々」と、又「宇都宮左衛門紫縅の鎧革の陣羽織を着、其上ござ着て打たれ申候」とあり。

宇都宮左衛門に関し、『波山記事』に「戸田采女正様元家来石田弾正、新徴組入一色次郎ト申候由」(『天狗騒ぎ』も同内容)、が、これは全くの別人。『史料宇都宮藩史』に、戸田二郎(光形、変名戸田弾正、老職戸田七兵衛光利ノ二男)は「五月浪士に応シ大平山ニ入り、後筑波山ニ入り、又那珂湊ニ転シテ同所ニ戦死ス」とある。 ・「都賀郡山田村記録」元治元年413日条に「四月十三日より追々水府浪徒大平山へ集屯有之云々」として「戸田弾正、宇都宮左衛門、昌木晴雄」と列記あり。

太田市史史料編』・『蘭方医村上随憲』・『水戸史学』中水代勲「昌木晴雄小伝」・『水戸藩史料』・『元治元年』・『下妻市史料』・『筑波町史料』・『水戸浪士西上録』・『天狗騒ぎ』・『栃木県史史料編』・『野史台維新史料叢書』29・『水戸幕末風雲録』・『天狗党鹿島落ち』・『筑波戦争記』・『鹿島史叢』・『麻生町史』・『武田耕雲斎詳伝』等

 

●以上浪士組士総人員は222人。これに石坂周造、村上俊五郎を加えて224人。

 なお、石坂周造と村上俊五郎についても、次回以降で取り上げたいと考えています。

ⅩⅣの11 【近畿地方の浪士組参加者たち】

 

兵庫県域からの浪士組参加者たち (6)

  姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

大島一学

 後に学

 名・正照

38

5番組

後乱暴者取押役

妻1人 ・松平修理大夫高近家臣大島一学子

摂州西成郡三ツ谷村出生 ・当時江戸鎌倉町住居(鎌倉岸荒木堂)

柳生心眼流柔術(大月興左衛門高弟)

文久3215日順達に「右者乱妨人取押方申付候」として大島一学の名あり。

新徴組入り ・「目録」に33番玉城織衛組平士大島一学の名(この後改名か)あり、「組別名簿」に小頭玉城織衛組平士で大島学の名あり。後に小頭兼柔術教授方。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に3番隊伍長で名あり。

・「田川温泉場寄宿帳」に「五番組小頭大島学、長男久吉」とあり。 ・「開墾士氏名」に長男大島久吉の名あるも大島学なし。

明治77東京府へ貫属替 

山岡鉄舟の援助で東京小伝馬町付近で柔術道場を開き、傍ら明治女学校等で教授したという。又一時期加納治五郎も大島に学んだともいわれる。

吉野式『新徴組研究』第9

木村久之丞

 名・重治

36

道中目付

不明   ●播磨国姫路浪人 当時斉藤熊三郎同居

『水戸史談』中岩谷信成の談に「姫路の木村久之丞」、「於筑波山尊攘奮起之義士分職姓名」に「姫路新段()組より出物微部(ママ)木村久之丞」とあり。

全生庵「尊攘遺墨連名者名簿」の虎尾の会支援者中に木村久之丞の名あり。

文久3215日廻状で乱妨人取押役に選任さる。

・同年5近藤勇の書簡に「右清河八郎、村上俊五郎、石坂周造、木村久之丞()右六人ハ洛陽におゐて梟首可致と周旋仕候処云々」とあり。

浪士組江戸帰還後の清河八郎らによる横浜焼打ち計画には関与しなかったらしい。(415評定所召喚者等の中に名なし)

新徴組入り ・「目録」に名なし。文久3519日世話役に選任される。 ・小山松『新徴組』に、7月組士佐久間権蔵を仇とする西山祐之助の13歳の遺児に同情した世話役山田一郎、岩城太熊、木村久之丞は、佐久間を門前払いするよう支配神津に意見書を提出してが、結果は返って厳重慎みの処分を受けることとなったと記されている。

・中村正行「忠士日記」には、7月上記3人に対する申渡書」に「其方共世話役御免申立直ニ三笠町屋敷立去り、其後追々所存之趣承り候処、同志之義深存込廉々申立候ケ條之内、連月御手当金之義ハ既ニ御指図も相済候事故難相整候、其伺之義も不容易筋ニ有之候得共、存込候義無謂筋無之候間、成否者難計候共、様々尽力致し申立候様、就而者一己之覚悟をも致し候程之義、且ハ数々無断外宅致候段、子細有之儀とハ乍申、規則ニも拘り候間、願之通世話役御免、尤局中不打合候儀も相間候間、当分之内酒井左衛門丞屋敷江相越、理非分明致し候まで慎ミ可罷在候」とある。(『柚原鑑五郎日記抄』に同じ記事あり) ・86日付廻状に、3人及び「外壱人」に関し「右之者先達て中、酒井繁之丞屋敷ニおゐて為取慎置候処、去ル五日夜六ツ時頃門出いたし、行衛不相知候間云々」とあり。

長谷川伸「よこはま白話」に「元治から文久かのことだろう、山田一郎、岩城詫摩、木村久之丞などという浪士と称えるものがよこはまに潜入して、欧米人と商取引する商人に天誅を加えるといって呼び出しをかけた。この奇禍に罹ったものが幾人かあった」とあるが。(長谷川伸全集』第12)

・新徴組脱走後は山田一郎らと水戸の文武館に寄寓。※『水戸史談』中の岩谷信成の談話に「(小川・潮来郷校に)其れから新徴組で異論を唱えて立退いた姫路の木村久之丞、水戸の長谷川庄一郎など七八も居った」と。

元治元年水戸天狗党の筑波挙兵当初からこれに参加する。 ・「日光山義挙姓名並紀聞祿」中に龍勇隊(軍将沼田準次郎)隊長の一人として名あり。 ・元治元年44日石橋宿宿陣に年寄伴蔵方宿泊者に「山田一郎上下十三人、木村久之丞上下十人」と。 ・石橋宿役人の届出に「()下宿之内山田市郎様、木村久之丞様白地無地幕を張、御着之砌御行列真先ニ切火縄鉄砲左右江弐壱拾挺云々」、又「山田市郎様、木村久之丞様其外何れも白胴着ニて袴を懸割羽織袴着用云々」とあり。(『皇国形勢聞書』) ・『前橋藩松平家記録』中「宇都宮江屯致人数百五十人程之内重立候もの」に木村の名あり。 ・「行軍録」に「左軍龍勇隊伍長」として名あり。 ・「都賀郡山田村記録」に「四月十三日より追々水府家浪徒大平山へ屯集有之云々」として「小松屋旅宿、小荷駄奉行、室町稲太郎、木村久之丞」等々あり。 

・「甲子年七月筑波山楯籠居候浪士性()名、但し重立つ候者計」に木村久之丞の名あり。 ・8月筑波勢の分裂に際して鹿島に赴いたか。青木邦之介の獄中血書中に「木村久之丞、剣客」とあので、9月初旬鹿島に集結した青木邦之介らと行動を共にしていたらしが、詳細は不明。※山田一郎の筑波勢脱退後は、資料上木村久之丞の名を見ることは少なくなる。

『歴史のなかの新選組』に「(筑波挙兵の)敗北後姿をくらまして京に上る。慶応3年原市之進暗殺とのかかわりにより投獄され獄死する」と。 ・全生庵墓地の山岡鉄舟墓石左脇に依田雄太郎、鈴木常太郎、同豊次郎、笠原八雲、木村久之丞、清水武二郎の合葬墓あり。※管見ながら木村久之丞(笠原八雲、清水武二郎を含め)が原市之進暗殺に関与したとする史料には出会えていない。

『史談会速記録』広瀬重武の明治25715日の談話に「28番長屋に、諸藩の有志と共に居ましたが、其重たつ者は田中河内介親子()浪士清河八郎、安積五郎、木村忠之助、藤本鉄石等」とある木村忠之助とは。

『甲子雑録』・『常野集』・『下野史談』・『栃木県市資料編』・『下妻町史料』・『筑波町史料』・小山松『新徴組』・『波山紀事』・『南梁年録』・『水戸幕末風雲録』・『下野勤皇烈傅』・『筑波戦争録』・「勤王志士青木彦三郎傅」等

小林登之助

36

7番組

不明   ●播州佐用郡森伊豆守(三日月藩)家臣小林官之進弟 ・当時江戸外神田御成道京屋ニ罷在候

安政年間、神田お玉ヶ池に砲術道場を開く。 ・『丁卯雑拾録』に「小林登之介と申希世之豪傑有之、当時桃井俊蔵缺小林登之介缺と申候神田於玉池ニ住し寄宿之門人も多く有之候」とあり。

小山松『新徴組』に「小林登之助はお玉ヶ池の砲術塾を門人の師範代に預け、浪士組に応募した。登之助は門弟たちの将来を考え、まず自分が参加してその内情を探り、もし適当であれば、門弟をもこれに入れようと計画を立て、門弟たちともいろいろ相談しこれに応募したと思われる』と。

「慶応二年五月酒井左衛門尉附属大砲組内願書』中に「去文久戌年中上洛之刻浪士御取扱之御方々於京地被仰渡候有志之もの共猶召募可申趣承私共一同九拾有餘人赤心報国之為一命を奉幕朝必死之御奉公相勤度段同三亥年中同志之内小林登之助ヲ以申上云々」とあり。

「柚原鑑五郎日記抄」文久3415日条に「小林登之助御老中松平豊前守殿へ罷出私共七番組の者は何れも赤心の者にて別心なく、勿論金策等に携はり候事無之、御疑を受候ては迷惑之趣申立候処、豊州尤の儀なれば若し町奉行より沙汰有之共豊前守声懸りの者と相□候て可然と被申候、又候登之助豊前殿へ罷出候処、尚被仰□は此方一人心得居候ても外にも多きもの故、何等申来候て却て面倒に可成候へは評定所()其後登之助外三人鵜殿へ参り候処病気にて逢兼候趣云々」と。

新徴組入り ・「目録」に練兵教授方として名あり。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久38月条に「砲術心得実名前」4名中小林登之助の名あり。 ・小山松『新整組』に「文久38月頃、登之助は、新徴組支配川津三郎太郎に対して、大砲組志願について、老中板倉勝静に周旋してくれるよう頼んだ。()小林組は9月から10月にかけて、閣老板倉勝静の「格別の思召しを以て内御用の儀」の仰せを受けて江戸市中取締りに当った。()小林組の江戸取締りは、死中のみならず近在近郷までも探索し、法を無視する乱暴者を捕縛したことがあり、十一月には小林組全員、一人あて白銀五枚ずつの賞与があった。同じ十一月、板倉閣僚より庄内藩に対し、小林組を預かるようにとの命が伝えられた。小林組は庄内藩預りの新徴組と並んで府内警備の先頭に立つのである」と。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久3912日条に「小林登之助被仰渡同断新徴組練兵教授方小頭過人被仰付候」とあり。

・『官武通紀』に「同(文久310)廿六日朝五ツ時頃、新徴組調役大澤源次郎、小頭小林登之助、外に三十六七人に而、手前浅草茅町初五郎と申者に案内為致、一同品川へ参り()、右(旅籠坂本屋)に休息致し、今日一橋殿御発駕に付、御供之内に目懸け候者有之、相待居候と申候趣、然処俄に御舟に而御出立相成候に付、右を承り一同引取申候由云々」とあり。(「探索書」)

・『藤岡屋日記』文久3111日条に「侍体之男弐人、右は於榎坂辺ニ抜刀を以駆廻り候ニ付、新徴組小頭小林登之助門弟共取押候ニ付云々」と。

文久31128日、小林登之助は深川越中島で、門弟小林組90余人を指揮して、林流(林流)練兵の真髄を披露した。(小山松『新整組』等)

・登之助は新徴組の荘内藩預けの際、門人90余人を引き連れて幕府への仕官を画策した。幕府はこれを認めず文久311月新徴組同様荘内藩預けとし、翌年9月には大砲組と命名、正式に荘内藩付属の隊となった。なお、大砲組士達はその後も幕府直臣を希求、慶応25月隊士80余人が提出した内願書が『淀稲葉家文書』の中にある。その書中に「幕朝江御奉申上奉微躯賤名を子孫ニ遺候宿願ニ御座候故、亥年子年共貮ケ年活計ヲ廃し、妻子を棄勉励罷在()、右二ケ年之間不給無祿ニ而瑣細之家財を典却し又売払取続罷在候儀故、必死と困究至極仕云々」、「私共尽忠報国之儀申立候は、彼等(新徴組)と同志ニは御座候得共偽名を報国ニ託し暴行之所業相働候儀を忌嫌専奉御内命、且は正誼之次第判然と相立度存念より、彼等と暫時敵仇之間と相成云々」、「幕朝江御奉公仕候上ハ扶持祿等ニ付多少之望聊無御座襌偏ニ身命を抛、貳百五十年来之御恩澤ニ奉報度一同之宿願ニ御座候」等と記されている。

・『歴史のなかの新選組』に「元治元年10月依願永暇」と。小山松『新整組』に<慶応元年六月の「新徴組組別名前帳」に「小頭過人、小林登之助」とあり、さらに「病気永暇」とある。これは元治元年11月に新徴組を脱退したことを正式に届け出せず、病気といって休み、大砲組に入ったのであろう>とあり。又同書に「小頭過人というのは、結局余計者である。余り者の扱いである。それで登之助は新徴組には病気として永の暇をとってそのまま脱退したのであろう」と。

・「御用私記」元治元年12月条に「昨十四日御老中御連名之御奉書御到来()、新徴組者勿論、小林登之助始門弟共迄御家来同様御取扱、拾七万石之御軍役被成御勤候様云々」とあり。

「慶応三年十一月江戸風聞書」に「(月不明)十五六日ニハ御旗本納金中井新右衛門ニ集り候事を存同家江押入候事」、「押込之夜ハ必薩人重立候者品川ニ遊居候由云々」等として「小林登之助者元ゟ同意云々」とあり。(『淀稲葉家文書』)

・『丁卯雑拾録』同年10月から12月までの風説に「()浅草御蔵前坂清と申蔵宿へ欠矢を以表の戸を打砕四五十人ニ而押入古金二三萬両()奪取し由其外()大小盗多く探索方も不行届よし()然る処右之者(酒井侯附属小林組)之所為成よし探索ニ及といへとも容易ニ難召捕、町方役人より内々酒井家へ御頼ニ相成、酒井家ゟ深夜数十人押懸彼小林宅を取巻寝所へ踏込家内残らす斬殺し、家内を展検仕候処彼坂清にて奪取し古金初其餘数千両有之候由、巷説ニは御座候へ共専風聞仕候云々」と。

・小山松『新徴組』には「小林登之助は、慶応三年十月、長州藩に内通しているという嫌疑により、神田の居宅を新徴組に襲撃されて生命をおとした。闇の中の襲撃だから、小林の子まで斬られたという」と。

・高麗神社第56代社掌高麗大記の『桜陰筆記』に「謀叛人小林昇之介当月初酒井左衛門尉殿之手へ被召捕候由、妻子廿五人、是ハ関東の頭の由、展しり諸大名御召ニ而上京也、留守ニ乱ヲ起し八州諸城ヲ乗取、江戸ヲ焼払い云々」と。

『日野市立歴史館叢書』第15輯・『庄内史料集16-1明治維新史料 幕末期』・吉野式『新徴組研究』第5号・(小説)子母沢寛『幕末奇談』、『小説のタネ』

平山五郎

35

六番組

不明   ●播州姫路浪人

神道無念流斉藤弥九郎篤信に師事、免許者と。

鏡新明智流桃井春蔵門人樋口孫三郎(出石藩)の「撃釼英名録」に「鏡新明智流桃井春蔵門人、()当山兵部少輔家来、平山五郎」と、又松山藩士柴田鉄平清貞安政521日の日記に「此度播州姫路御中雅樂守御藩中、鈴木流無念流一ツ宮方、門人平山五郎修行として罷越、追て手合有之候積り」と、同日記同月9日には「酒井雅樂守様藩中、鈴木流無念流一ノ宮隊方門人平山五郎、今日手合有之候とあり。又神道無念流岡田助右衛門利貞門人佐藤万次郎(八戸藩)の「釼術修行帳」に「播州姫路藩、鈴木流神道無念流釼術、一ノ宮録蔵門人、平山五郎、右は安政五年三月十日試合」と、又直心流萩原連之助(相模国鎌倉村)の試合記録「剣客名」翌安政6

524日に「姫路藩神道無念流、堀川福太郎門人、平山五郎宅、未五月廿四日面会」とあり。

(以上は『歴史研究』第697号掲載、浦出卓郎氏「壬生浪人たちの修行時代」より)

浪士組上洛後、芹沢鴨近藤勇らと新選組を結成、副長助勤となるが、同年918日八木源之丞邸で近藤勇一派により暗殺される。

・西村兼文『新撰組始末記』に「平山五郎ハ三南敬助原田左之助之二士ノ為ニ殺害セラレタルハ事共也、娼婦ハ此紛乱ニ逃失タリ云々」と。

花火を製作中の事故により左目を失明したという。

壬生寺芹沢鴨と連名の墓・東京北区滝野川の寿徳寺境外墓地の新選組供養碑に名あり。

山本左右馬

  莊馬

38

5番組

不明   ●播州林田藩建部内匠頭元家来山本鶴司養子 当時江戸神田二番町筒井武左衛門同居山川安左衛門家来高島源蔵同居

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」に小頭兼槍術教授方で名あり。※「柚原鑑五郎日記抄」文久3年9月7日条に「山本左右馬、富田忠右衛門、手塚要人槍術教授方組中取立方は勿論稽古場取締専務に相心得一同申合可相勤御手当金月々一両宛被下置候」とあるので、槍術教授方選任はこの時か。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に1番隊伍長で名あり(新徴隊取扱頭取林茂隊)

「開墾士氏名」中に名なし。山本達馬とある人は。

明治6年10月寄留替 ・『歴史のなかの新選組』に「明治610月より神田五軒町建部従五位邸内寄留の山本莊司は同一人と思われる」と。

吉沢徳之進

 後小源太と改名ヵ

31

7番組

不明   ●播磨国明石藩松平左兵衛督元家来 当時江戸牛込山伏町石尾寅之助家来田中武右衛門方同居

新徴組入り ・「目録」に7番吉田庄助組平士、「組別名簿」に小頭中村錦三郎組平士で名あり。 ・元治元年2月28日「昨年中剣術出精ニ付、為御賞誉左衛門尉殿より小菊紙」を下された者の中に名あり。 ・慶応3423日夜忍廻りの節猿若町で強盗を捕らえた事件で、組士一統に金百疋づつの骨折料を賜る。

慶応4年庄内入り(家族3) ・以後「戊辰庄内戦争出張姓名」、「開墾士氏名」、「田川温泉場寄宿帳」、「明細書麁調」、又貫属関係資料等に吉沢徳之進の名はなく、代わって全て吉沢小源太の名が記されている。改名か。

吉沢小源太は明治64月寄留替

   京都府域からの浪士組参加者たち (3)

新井式部

18

五番組

不明   ●城州京地浪人

「高木潜一郎浪士組従軍日記」文久333日条に「今日番手ニ而御見廻り役人松岡万、吉田庄助、西村泰翁、新井式部云々」とあり。

上山藩士金子与三郎の清河八郎文久341日付書簡に「書中を以申上候、然は新井式部親病死に付、在所へ引戻し申度由、尤同人帰府前拙寓の右在所より追々迎ひの人参り申候、右に付山岡君え御相談被下、明朝にも帰郷致候様取計被下候、委細は当人り御聞取可被下候云々」とあり。

谷右京

63

5番組

妻子2人 ・丹波国柏原藩士生駒彦左衛門子

丹波柏原浪人 谷中新堀村酒井五左衛門地面に住居。

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」に砲術教授方として名あり。 ・「人名移動詳細」には、五番山本仙之助組平士として谷右京の名あり。

・小山松『新徴組』に文久36月末日松平上総介から谷右京への申渡書に「病気脱退の儀聞き届け難く、心長く養生致すべし」とあり、根岸友山の「御用留」に文久3713日付で「谷京、右病気ニ付、永之暇相願候処、願之通難相成、心永養生可被致旨、御支配より被仰渡候、此段御心得御達申候」との廻状文あり。

・「柚原鑑五郎日記抄」同年912日条に「谷右京()従来防禦之術致鍛錬居候趣に付、攻守の利害火砲の得失等佐野三郎申合新徴組兵勢相立候様可致依之過人被仰付云々」とある。 ・元治元年7月脱退。

川路聖謨「座右日記」文久3527日条に「窪田治部右衛ゟ之書状に而浪人河野音次郎、谷右京来る。面謁、両人共大砲之事を申来る。音次郎は岩槻在、右京は丹波之もの也と云」と。

『林鶴梁日記』の「嘉永三年覚書」に「谷右京ヵ左京ヵ、丹波ノ織田(原注・柏原織田出雲守二万石)ノ浪人、浅草辺住居、砲術家、奇術、五十歳計」と。

明治1025日没。墓は東京荒川区の南泉寺

吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号(詳細あり)・「大工手中明王太郎の江戸時代の日記」に谷右京の名頻出。

辺見米三郎

35

6番組

親妻子4人  ●城州葛野郡洛西桂浪人 当時江戸相生町4丁目住居

新徴組入り ・「目録」に31番鯉淵大三郎組平士に名あるも「組別名簿」に名なし。・柚原鑑五郎の「日記抄」文久38月条に「今日組入、辺見米三郎組合へ稲田隼之助」とあり。・根岸友山の「御用留」に同年9月中の組中廻状に小頭として辺見米三郎の名が確認できるが以後不明。

   和歌山県域からの浪士組参加者たち (2)

井上忠太郎

  (丑太郎)

 名・道明ヵ

29

4番組

不明 ・加藤出羽守元家来井上政之助子

伊予大洲浪人 ・当時牛込拂方町翁や常三郎方住居

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士井上忠太郎、「組別名簿」に小頭瀬尾権三郎組平士井上丑太郎の名あり(改名ヵ)。「黐木坂屋敷絵図」にも井上丑太郎で名あり。・後に槍術世話心得(槍術世話方)

慶応4年庄内入り(家族2) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に2番隊平士で名あり。 ・「開墾士氏名」に名あり。

明治55月高尾文吾と楽岸寺業輝が病気治療の帰路知人宅(尼寺)で饗応を受けたことで「高尾申合之規則破り病気に加こ徒希(つけヵ)尼寺江立酒食等いたし候言語同断之義割腹為致可然□存候、尤強而進メ候而も不致候ハハ大小取上揚家内之者江渡置禁錮拵発狂致し候与申立長く入置其内ニ□□慮も可有之各罷越右之件取計候様ニト申聞候、依之右両人外ニ組合ニ而井上道明高尾宅江罷越右之件今申聞候得共割腹ハ不致申候間大小取揚家内之ものへ渡シ候云々」とある井上道明は井上丑太郎か。(中沢貞祇の記録)

・明治65月司法省酒田臨時裁判所の召喚により東京を出立した旧新徴組士の中に井上道明あり。

明治76東京府へ貫属替(井上道明)

『上毛剣術史』

住山涛一郎

29

7番組

親妻子4人 ・浪人住山惣右衛門子

紀州和歌山浪人 当時江戸本郷菊坂町与七店寓居

新徴組入り ・「目録」に34番三村伊賀右衛門組平士、「組別名簿」に小頭三村伊賀右衛門組平士で名あり。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久三年8月条に「砲術心得名前」として住山涛一郎の名あり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に1番隊平士で名あり。・「開墾士氏名」には涛一郎の名なく、住山正一郎の名あり、子か。

・明治665日司法省酒田臨時裁判所の召喚命令により江戸を出立した旧新徴組士の中の住谷盛常は。

明治76月貫属替

「開墾士氏名」に載る住谷正一郎(守常ヵ)は涛一郎と共に明治76東京府へ貫属替。

『上毛剣術史』

   大阪府域からの浪士組参加者たち (1)

田中範也

36

4番組

不明   ●摂州麻田藩青木家浪人 当時斉藤熊三郎同居   ●「目録」に名なく去就不明

   三重県域からの浪士組参加者たち (1)

家里次郎

25

1番組

不明 ・富農小林清右衛門次男 ・天保10年生・幼名次郎  ●伊勢松坂大黒田新田 ・当時中山道桶川宿に寓居

小林次郎は母の実弟で儒医の家里悠然の養子となって家里次郎と名乗る。なお、それ以前に次郎の伯母(母の妹)の子新太郎(儒者)が悠然の養継子となり家里家を継いでいた。

新選組大人名事典』に「安政4年には京都の新太郎の家に厄介になっていたが、その行動は<無頼><風流男子>と評されるものであった。のち修学のため江戸へ出て、同五年武州大里郡甲山村の根岸友山を訪ねる」(出典不明)とある。

・浪士組参加当時の居所「中山道桶川宿」は恐らく桶川本陣府川甚右衛門家であったと思われる。当主甚右衛門は、昌平黌から松本奎堂や岡鹿門等を招いて講義を受ける程の好学の人であった。府川家は根岸友山の母の実家でもあり、友山の曽祖父の妻も府川家の人であった。甚右衛門は池田徳太郎とも旧知で、文久3114日付で浪士徴募途中の池田徳太郎が甚右衛門に宛てた書簡中に「いづれ当月廿五日頃は軍勢相そろひ、其御陣屋へ相をもむき申候、何分其御地辺の豪傑も御集メ置可被下候、学文剣術には不及唯勇猛義気盛ナル者にて宜敷、年令は二十三十のものをも宜敷御座候、御精力可被下候云々」とある。甚右衛門も浪士募集に深く関わっていたのである。家里次郎はこうした関係から根岸友山の組織した甲山組(1番組)に名を連ねたのだろう。なお、甚右衛門はこの年3晦日に病没している。

浪士組江戸帰還直前、1番組の家里次郎と殿山義雄に対し、鵜殿鳩翁から「有志の者相募候はば、京都江戸の内え罷出候儀は、其者の心次第可致候、京都に罷在度旨申候者は、会津家々中え引渡、同家差配に可随旨可被談候」命じられている。ⅩⅡ【京都守護職の浪人対策と浪士組】で記したが、これは通説とは異なり、浪士組内部の問題ではなく、広く京坂の浪士の募集指示書であったと思われる。 ・上記により、家里次郎たちは「芹沢、近藤らの京都残留に同意して京都守護職御預りの壬生浪士の一員として新選組発祥の礎となる」(新選組のすべて』)とする通説の誤りであることもⅩⅡで指摘した。

文久3424日大阪の土佐堀川に架かる常安橋脇の町会所で、芹沢鴨近藤勇らによって詰腹を切らされる。 ・「井上松五郎日記」同日条に「()淀川筋御城下其他参り、ざつこ沢山取酒宴。浪士芹沢、山南、平山壱人網ニ而取るざこ煮付、酒宴催、其後、近藤参り、夜ニ入近藤ヲ送り常安橋会所迄泊り。家里次郎殿少々切腹いたし、浅きつ。」とある。 ・ⅩⅡで家里の死を、浪士の召募に関係してと断定したが、殿山義雄のような斬殺でなくなぜ切腹だったのか。

新選組日誌』

 

ⅩⅥの10【中部地方の浪士組参加者たち(2)】

(愛知・福井・静岡・石川・富山県)

愛知県域からの浪士組参加者たち(5)

  姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

市岡重太郎

25

五番組

親両人  ●尾州浪人、当時麹町五丁目大横町本多巳之助(柔術)方寓居

新徴組入り 「目録」に18番仁科五郎組平士、「組別名簿」に一色次郎組平士で名あり。

・元治元年2月廻状に「市岡重太郎、右之者不正之筋有之候ニ付、尋中其方(中村定右衛門)組合え預ケ申渡云々」とあり。『歴史のなかの新選組』に「慶応元年三月不埒の儀有之、永牢病死」とある。

・中村定右衛門「御用留」に「子三月朔日、一五両也、内壱両壱分 定右衛門分外ハ壱人ニ付金三分ツゝ、関口・荒井・内田・秋山・市岡〆五人分」と。

・小山松『新徴組』に、文久31120日「いよいよ庄内藩の勢いが強くなり、圧迫もひどくなるだろうと考える者があり、いち速く次の八人が脱退・脱走した」とある8人の中に市岡重太郎の名あり。

『日野市立歴史館叢書』第11

伊藤亀之進

23

2番組

親両人 ・尾張藩士河野兵助8

尾州名古屋浪人 当時相生町四丁目住居

文久3415評定所召喚22名の中に名あり。(鵜殿・中条家来預け)

新徴組入り ・「目録」に24番大津彦太郎組平士とあるも「組別名簿」に名なく去就不明。

「麁調」に「伊東虎之助、亡父伊東十郎儀尾州殿家来河野兵助八男にて、文久亥年正月集会仕、同二月御上洛御先供仕、還御後御組入被仰付云々」とあり。

・虎之助は庄内入り(家族2) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」1番隊平士に伊藤()寅太、「開墾士氏名」に伊東寅太とある人か。 ・伊藤()虎之助は明治77月貫属替。

稲熊力之助

 名・繁樹

24

6番組

不明   ●尾州愛知郡戸部村浪人 当時大島一学方ニ同居 ・『東西紀聞』に「元御手筒同心当時浪人江戸住稲熊力之助ゟ之文通之内云々」とあるが。

文久3415評定所召喚者22人の中に名あり。

・小山松『新徴組』に「石坂(周造)は藤本昇をこちらから出向かせて、(高崎藩士に対して)何ゆえにかかる包囲をなすのであるかを問わせた。付き添いは稲熊力之助、小山僖一郎である」と。

新徴組入り ・「目録」に4番山田官司組平士、「組別名簿」に中沢良之助組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族4) 「庄内戊辰戦争出張姓名」に1番隊平士で名あり。 ・「公私日記」慶応47月新庄表出張者名に「稲熊力之助弟稲熊小次郎」とあり。 ・「開墾士氏名」に名なし。

・『戊辰庄内戦争録』に「此日(913)稲熊若林ヲ大代ニ遣シヌルニ昨日ヨリ敵大代ニ陣屋ヲ設テ居ルト農夫共ニ聞シト報スト」と。

明治64月司法省酒田裁判所呈出の稲田隼雄、尾崎恭蔵事件に関する奥秋実昌、猪熊繁樹、中村貞成連名の口上書あり。(中沢貞祇記録) ・同年725日付、椿佐一郎事件に関する酒田臨時裁判所での佐々木正健と連名の「再御調御手続書写」あり。()

明治76東京府へ貫属替 ・明治18年当時本郷区元町住

小沢義光等と清河八郎顕彰のため「旧新徴士会」を結成。明治422清河八郎贈位報告追悼祭を開催、同445月浅草伝法院で清河八郎50年祭を挙行した。

『上毛剣術史』・『日野市立歴史館叢書』第15輯・吉野式『新徴組研究』第7

佐々木周作

 名・正勝ヵ

35

5番組

不明  ●内藤金一郎元家来 当時大島一学同居

・「麁調」に、生国三河、元挙母藩内藤金一郎家来、設楽郡津奥村佐々木喜三郎子とある。

新徴組入り ・「目録」に35番中川一組平士、「組別名簿」に中川一組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族3人)

・「庄内戊辰戦争出張姓名」に2番隊平士で名あり。・「開墾士氏名」に名あり。

明治7年7月貫属替

小山僖一郎妻の墓誌に「()清高清重及□□□□□文之助成重佐々木周作正勝皆武州□□之参也云々」と。

原田儀助

23

五番組

不明   ●三州吉田浪人 当時浅草三軒町西村次一郎同居 ・「明細書麁調」に「生国三州渥美郡村上村、百姓久治郎子」とあり。

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士、「組別名簿」に小頭瀬尾与一郎組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「田川温泉場寄宿帳」に「四番組小頭渡辺平作後任」とあり。因みに渡辺平作については「四番組小頭より柏尾の後任として二番組肝煎」とあり。 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に1番隊伍長で原田儀助の名あり。 ・「開墾士氏名」に名なし。

福井県域からの浪士組参加者たち(4)

坂井友次郎

29

四番組

不明   ●越前福井浪人 当時大島一学方ニ住居

『歴史のなかの新選組』に「帰府後離脱し、下野国江川村の斉藤源十郎方に厄介になっていた。113日勝野保三郎とともに上京、それ以降不明」と。

「勝野正満手記」に「仝年(文久3)十月(原注・日ヲ失ス)野州足利在江川村ニ寄寓セル新徴組ニテ同隊ニ在リシ越前人坂井友次郎ナル者ヲ誘ヒ帰リテ十一月三日江戸ヲ発シテ上京ス()(元治元年五月)ヨリ先キ、坂井ハ大野氏(水戸藩士大野謙介)寄食シ」と。

青木彦三郎の坂井友次郎勝野保三郎宛書簡中(日不明)に「両兄御道中無御障去霜月十二日御到着之旨大悦々々猶同月二十二日御認之貴翰去臘月二十九日相達拝読委細敬承御厚意之條々感激ニ不堪令拝読候、螻蟻の微身国恩の万一を報し度砕身周旋、尚己きる決心にて勉強罷在候、扨御書中有志一人も無之旦模様大変等の件々血涙の至りに御座候云々」と。

「勤皇志士青木彦三郎傳」

瀬尾与一郎

 後に権三郎

 名・直重

28

7番組

不明  ●越前福井浪人(松平越前守臣瀬尾権八)

新徴組入り ・「目録」に26番組々頭、「組別名簿」に小頭で瀬尾与一郎の名あり。 ・「明細書麁調」に小頭兼槍術世話方として瀬尾権三郎の名あり(千葉「維新前後の荘内藩」にも槍術世話方とあり)。 ・「田川温泉場寄宿帳」には4番小頭で名あり。

慶応4年庄内入り(「麁調」に「家族なし」と) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に2番隊伍長、「開墾士氏名」に瀬尾権三郎の名あり。

・明治57月、稲田隼雄割腹事件に関係し、締役長屋玄蔵による稲田糾問の際列席した5人の新徴組士の中に瀬尾権十郎あり。 ・明治65月酒田臨時裁判所の召喚命令で東京を出立した者達の中に瀬尾直重あり。

・酒田裁判所出頭者「一同日記」同年718日条に、この日酒田に到着した一行中に瀬尾直重あり。「日記」では大野嘉右衛門事件(詳細不明)を主に尋問されたらしい。

明治76東京府へ貫属替

・吉野式『新徴組研究』第5号に、明治214月の陸軍省の記録に「故2等巡査瀬尾直重」等とあると。

『上毛剣術史』

中川一

40

狼藉者取抑役

妻子4人 ・福井藩士中川清閑2男 ・文政6724日生

越州福井浪人 当時江戸京橋松川町ニ住居

天保9年武術修行のため出府、揚心流柔術を戸塚彦右衛門に学び、免許皆伝を許される。又新陰流剣法を修めて江戸京橋松川町に道場を開き、門人を育成する。

文久3215日廻状に「右乱妨人取押役申付候云々」として中川一の名あり。それ以前は不明。 ・「高木潜一郎日記」同年226日条に「目付、中川一、見廻取締」とあり。

新徴組入り ・「目録」に35番組々頭、「組別名簿」に小頭で名あり。 ・「明細書麁調」に「六番組肝煎」とあり。又、柔術教授方を勤める。

・元治元年68日の池田屋事件3日後、近藤勇は中川一宛に事件の顛末を報告する書簡を送ったと。

・慶応353日「四月廿三日忍廻り之節於猿若町金子強談之注進有之早速駈着云々」として、金150疋を賞与される。

慶応4年庄内入り(家族4) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」、「開墾士氏名」に名なし。 ・同年7月荘内藩家中組に編入され村山郡の代官となり、百石を給される。

明治64月奥秋実昌等(2人略)が酒田裁判所に呈出した「訴訟仕候六ケ条御調手続口上書」中に「中川一(4人略)稲田尾崎追付候由ニ付追打加募トシテ罷越候」等とあり、中川が尾崎恭蔵割腹事件に深く関わっていたことが記されている。 ・同年同月24日若林守信等が裁判所呈出の「訴訟仕候六ケ条御調手続」中に「(桂田寛吾が)割腹ト覚悟いたし候ニ付()助命為然致度奉存候、尤長屋玄蔵宅ニ中川一(5人略)扣居候ニ付中山四郎幷私共罷越助命之義申立候処、中川申聞候ニハ血盟幷同志申合之切磋素意ニ背候大胆成者故割腹申付候様赤澤源弥ゟモ内意有之()助命之義不相成候、此旨当人江申含割腹相進可」と指示したと。 ・椿佐一郎割腹事件に関する佐々木正健等の「酒田ニおいて酉七月廿五日再御調手続書写」中に「和田東蔵宅酒を調ひ種々佐一郎越饗応いたし深く酔居候処荒井縫右衛門萩谷手早く首縄掛〆縊候処中川一金玉蹴殺し候哉区々風聞有之候」と。

旧新徴組士達の訴えにより、明治7年禁獄90日の刑に処される。

千葉弥一郎『維新前後の荘内藩』に「廃藩置県飽海郡菅里村に移住し、同村の戸長となり、同村で没した」と。 ・菅里村の自邸内に道場を設け、公務の傍ら近隣子弟に剣術や薙刀を教授したという。

・『新編庄内人名事典』に「飽海郡北目区務所戸長にあげられて市条村の戸長を兼ね、同17(1874)7月遊佐村戸長に転ずる。70歳で病没、長男寅蔵は高瀬村の4代目村長となり、長女福は点字楽譜創始者として知られる遊佐の佐藤国蔵に嫁した」とある。

明治25811日歿 享年70歳 墓は菅野中学校(廃校)の裏山(吉野式『幕末諸隊研究・五周年記念号』)

『上毛剣術史』・小山松『新徴組』・『新選組大人名辞典』・『日野市立歴史館叢書』第1011

吉田五郎

25

四番組

兄弟5人   ●越前国敦賀郡敦賀新田筑屋敷村住(郷士) ※他の名簿に「敦賀郡笹屋敷村」、又「敦賀築山の郷士」、「敦賀郡笹屋村」出身とあり。

「目録」に名なし。在京中か江戸帰還前後に離脱か。

・村上俊平「潜匿日記」文久3511日条に「芳原の金瓶大黒楼に逗ず、翌夜吾党を伺(窺ヵ)うを告ぐる者ありしにより、吉田五郎、五島万帰一、武井十郎と郭を去る、吉田主税送て郭外に至る()小梅の常泉寺前嶺松寺に潜匿す」。 ・同書同610日条に「此日正岡、松岡、吉田、武井等へ書状を差出す」。 ・同書同月15日条に「鯖江を発し福井の家来本多氏の居城府中に至る、市中妓楼多く甚だ繁華なり、其医生を訪ふ、吉田令弟並其旧友に逢う、吉田の弟は嘗て崎陽に遊び、蘭英の学を墨美フルベッキに学ぶ、帰時二人送て町末に至る」 ・同書同月16日条に「暁に今城を発し木芽嶺を越ゆ。この途上北に高山を望む、これを吉田に問う、サニイが嶺という、此夜疋田に泊す、夜半五郎兄帰来、兄は昼別れて角屋に至りしなり」と。(この他日記に吉田五郎の名なし) ※『長崎遊学者事典』に吉田五郎の弟らしき名確認できず。又『福井市史』資料編9近世編に吉田姓の医師の名複数あるも、それらしき人物確認できず。

『歴史のなかの新撰組』に「(文久3)10月生野一挙に加わり捕えられる。元治元年720日京都六角獄舎で斬首された」とあるが、前嶋雅光『幕末生野挙兵の研究』中の「生野挙兵関係者一覧」や『平野國臣伝記及遺稿』等生野挙兵関係者中に吉田五郎の名を確認できず。なお『平野國臣伝記及遺稿』中に「是日(720)國臣と同じく(六角獄舎で)難に殉ずるもの」として、村上俊平、南雲平馬と共に「池田屋事件連累の嫌疑、越前敦賀の人」として吉田五郎の名あり。

墓は京都上京区行衛町竹林寺

   静岡県域からの浪士組参加者たち(2)

岡田林兵衛

25

7番組

不明   ●沼津浪人 駿州駿東郡下香貫村出生

当時江戸外神田御成道京屋伊平方同居 ※志田源四郎、小林登之助、川崎渡も同様。

新徴組入り ・「目録」に1番山口三郎組平士、「組別名簿」に小頭手塚要人組平士で、又「黐木坂屋敷絵図」に岡田林兵衛の名あり。

・『人名移動詳細』に「黐坂下より脱走」とあり。小山松『新徴組』に「今さら奥州下りでもあるまいと()川崎渡、岡田林兵衛の脱走もこの時である」と。『歴史のなかの新選組』に「慶応312禁錮のところ、明治元年中に組除」とあり。

志田源四郎

36

7番組

妻子3人   ●豆州賀茂郡下田町浪人 当時外神田御成道京屋伊兵衛方同居(小林登之助、柚原鑑五郎、川崎渡も同断)

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」に名なし。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久3823日条に「人選にて黐木坂へ被召出候」として片山庄左エ門以下19人中に志田の名あり。同日記抄翌96日条に「御仕法替に付御暇金五両宛被下」として4人中志田源四郎の名あり。・文久3916日達文に「御仕法替に付御暇金五両宛日下云々」として志田源四郎の名あり。

「人名移動詳細」に「小林登之助と共に大砲組に入、暗殺せらる」とある。 ・『淀稲葉家文書』所収の慶応25月、新整組士一同が幕府への付属を嘆願した内願書の「姓名書」に志田現四郎の名あり。

慶応4年庄内入り 戊辰庄内戦争『出張姓名』に新整隊取扱頭取朝比奈長十、石原数右衛門配下に嚮導として志田現四郎の名あり。 ・『戊辰庄内戦争録』818日条に、秋田攻めの際「綱木ニ向フ途中()樹木茂レル小山有、数右衛門隊志田現四郎、池田主税、本田謙三郎ヲ先トシテ七八人駆登リ、敵ヲ眼下ニ打下シヌ、味方ノ諸隊モ之ヲ見テ大ニ勇テ烈戦スレハ、敵叶ハサルヲ知レルヤ砲撃少シク止ム云々」と。翌910日の糠場山の激戦で負傷する。負傷者名簿に「石原数右衛門隊分隊長」とあり。

明治6年当時鶴岡在住。

   石川県域からの浪士組参加者たち(2)

杉本安道

46

7番組

妻厄介2人   ●加州浪人 ・当時江戸池之端七軒町徳兵衛店寓居

新徴組入り ・「目録」に33番玉城織衛組平士、「組別名簿」に小頭玉城織衛組平士で名あり。 ・「柚原鑑五郎日記抄」文久38月条に「砲術心得実名前」として杉本安道の名あり。

・「黐木坂屋敷絵図」に名なく去就不明。

中追太助

40

5番組

妻子6人  ●越前浪人 当時斉藤熊三郎方ニ同居

・「明細書麁調」には「生国加賀国上倉掛組中追田村、百姓仁右衛門子」とあり。

『石坂周造研究』に「浅吉(後の中追太助)は馬喰町のはたごや大松屋の男衆(原注・下男)だったのだが、大松屋では清川斉藤家の平素の恩義にむくいるために、牢奉行の石出帯刀に願って獄丁として雇ってもらい、牢中の人との連絡にあたらせた()内実にはどのような肉体的苦痛にも耐えることができたという剛気の所有者で、これが牢内の池田徳太郎の人となりに心服し、その見識といい、胆力といい、衆にすぐれた人物であるこの池田が牢にとらえられるような人ではないということを見抜き、よくその命に服して忠勤したのだという」と。(出典不明・小山松『清河八郎』にも類似の記事あり)

新徴組入り ・「目録」に次席満岡元司組平士、「組別名簿」に小頭永島甲一郎組平士で名あり。

・俣野時中明治27512日の史談会談話に「(薩摩藩邸に)荘内藩からして探偵を入れた事がある、其探偵に這入った者は新徴組の()永矢源蔵、中追多内という両人であります、()中追と云う男は探偵と云う嫌疑を受けて、非常に拷問を受け、梁の上に釣るし上げられた、けれども容貌を見ますと馬鹿な風の奴で、都て挙動の愚昧なる体裁を為すのみならず、其性質大分強情な男ですから拷問に掛けられて梁に釣上けられいも、一向平気で、約り拷問甲斐もないのみならず、容貌も馬鹿やうな男であったもの故終に免された」とある。この談話については小山松『新徴組』で「(薩邸内には)新徴組から脱走して、薩邸浪士となった横山明平その他がいるのである。長屋、中追がそう容易に薩邸に入ることなどできるものではない」と疑問を呈している。

・「公私日記」慶応428日条に「小倉宗次郎、中追太助、右両人北新堀ニ而歩兵と間違致し、歩兵四五人江手負セ、両人も手疵ヲ得罷在候趣云々」 ・同書同月18日条に「小倉宗次郎、中追太助慎御免」とあり。

慶応4年庄内入り(家族6) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士で名あり。 ・「開墾士氏名」に中追太助の名なく、悴錦次郎の名あり。

中沢貞祇の記録中「小山清高事件」に「小山清忠中追胤親申上候、去四月中十五日学向執向仕度存念ニ而取扱共之不得許所彼地発足仕候処、小国□与申処ニ而翌十六日昼飯致居候所、長沢松弥(2人略)其余若輩之者十余名程同宿ニ而追付引戻サレ候、大罪人是非共然ル処此度之義ハ再血盟モ有之、皆議定誓詞ヲ破候事言語ニ絶タル大罪人是非共割腹致候様赤澤源弥中川一(2人略)相進候事」等とあり。その後両人は「()血盟ニ背キ候義ハ絶タル事ニ候へ共凡若輩之者共故追而改心致候迄両人之者我等(玉城織衛等の取扱役)方ニ預ルト申出候、依之右取扱共之預ニ相成候」とある。ここに「若輩」とあるので、中追胤親の通称が錦次郎で、太助の名が胤正だと思われる。

・明治65月司法省酒田臨時裁判所の召喚命令により東京を出立した一行の中に中追胤正あり。召喚者「一同日記」の718日酒田に到着した一行中に中追胤正あり。・『歴史のなかの新撰組』に「明治74月馬喰町3丁目小山清兵衛方寄留の中追胤正は関係者か」とあり。

明治7年11月貫属替

『史談会速記録』・『庄内史料・明治維新史料』・『上毛剣術史』・『相楽総三とその同志』・小山松『新徴組』

   富山県域からの浪士組参加者たち(1)

清水準之助

37

1番組

不明   ●越州富山浪人 ・当時千葉道三郎内弟子

「目録」に名なし。「組別名簿」に小頭玉城織衛組平士で名あり。 ・「柚原鑑五郎日記抄」文久3912条に「玉城織衛組合へ清水準之助他四人」とあり。 ・元治元年12月依願永暇。

「早川文太郎修行日記」文久3229日条に「(入京後)直ニ前川庄司と申郷主宅鵜殿鳩翁様御本陣ニ相成、鵜殿様方之顧入、御用人指図有之ニ衣て雀森更雀寺於山田官司様へ相尋、并清水順之介様詰有有之、座敷上り浪士取扱方願出、廿九日其内山田官司様へ被預ケ候云々」とあり。

名簿により清水準之助の出身地を越前、又武州比企郡広尾(野ヵ)村とするものがある。筆者は以前『埼玉の浪士たち』の中で、比企郡広野村に清水を姓とする家は存在しないと断定した。しかし、その後の調査により、同地権田家墓地に「清水家累代精霊供養塔」が確認され、過去この地に清水姓の家が存在したことが確認された。

 なお、その上で清水準之助を富山出身と推定したのは、先の供養塔や権田家に伝わる位牌から、文政44月に亡くなった人物以後、清水を姓とする人物は確認できないこと(絶家か)、又北辰一刀流玄武館道場の内弟子で、山田官司同様に根岸友山家に出入りしていたことから、甲山組として友山らと共に参加した可能性が高いことからで、越前説も否定できない。。

 

ⅩⅥの9 【中部地方の浪士組参加者たち(1)】

(山梨・長野県域)

山梨県域からの浪士組参加者たち (19)

姓 名

年齢

所属等

家族・出身地・その他参考

雨宮仁一郎

38

7番組

親妻子4人   ●八代郡東原村住居

「目録」に名なく去就不明。

石原新作

  新蔵

(「麁調」に「新蔵即ち新作」とある)

23

5番組

親両人 ・石原六左衛門子

八代郡藤井村住居

祐天由松(山本仙之助)子分(『黒駒勝蔵』等)

新徴組入り ・「目録」に7番吉田庄助組平士石原新作、「組別名簿」に小頭中村錦三郎組平士石原新蔵あり。

文久3年6月26日付廻状に「御門限相更候ニ付慎被仰付候」として「山本仙之助組合鈴木長蔵、石原新助」の名あり。組士に新助の名がないため、新作の誤りか。

・元治元年2月の石原新作への申渡書に「其方儀、小塚原町旅籠屋林蔵方ニて小松弾六郎外三人酒宴()立入間敷場所え立入、被召捕候次第ニ至り不束ニ付、組合小頭手塚要人え預ケ之上、急度慎申渡之」と。

・慶応2年103日私用外出の帰路市ヶ谷無縁坂自証院前で襲われ、翌4日死去(小山松『新徴組』) ・「御用日記」に「寅十月三日横死、同十二月十八日跡断被仰候」 ・「人名移動詳細」に「黐坂下邸にて切腹、断絶」、「和田弥助自筆横折帳」にも「黐坂下邸で自殺、断絶、石原新作」とあり。 ・「新徴組御用記」に、慶応33月の「覚」として「金六両二分、石原新作、()右は寅十月三日横死、同十二月十八日跡断被仰達候間、高弐拾六両之月割書面之通被下置候様宜御沙汰被下度奉存候云々」とあり。 ※『日野市歴史館叢書』第6輯の遭難事件の詳述あり。

『日野市歴史館叢書』第10輯・小山松『新徴組』・吉野式『新選組研究』第5号・子母澤寛『幕末奇談』

内田佐太郎

 

32

5番組

親両人 ・百姓国五郎長男 ・文政9年生

山梨郡菱山村住居

博徒菱山の佐太郎 祐天(山本)仙之助の兄弟分。

新徴組入り ・「目録」に23番村上常右衛門組平士、「組別名簿」に小頭中村定右衛門組平士に名あり。

文久3年4月29日付け中村定右衛門の父伊右衛門宛て書中に「組合ニおゐても不都合無之御安心可被候、内田佐太郎殿も廿八日出立致候、是も十日之積り遣し候間、間違もある間敷候云々」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」2番隊平士で名あり。

「開墾士氏名」に名あり。

・桂田寛吾割腹事件の際、桂田が「割腹之覚悟至極相見え候迄宅番として内田佐太郎(2人略)附置云々」とあり。(大島定靖等の裁判所への供述書) 

・天野静一郎割腹事件に関し「右七人之者静一郎宅へ参於東京表不都合之次第有之趣ニ而我々附添被仰附候間大小取揚云々」(萩原忠義口上書)とある7人の中に内田佐太郎の名あり。(萩原忠義口上書) 

・明治7年酒田県庁に召喚された旧新徴組士「一同日記」730日条に「天の清一郎割腹砌誥合人名内田佐太郎古渡名前相違いたし則佐太郎立会者無相違趣此段認替御届ケ出ス」と。(「中村貞祇の記録」)

明治8年現在鶴岡住 ・貫属替時期等不明 ・後東京下谷で煙草屋を営業、その看板「諸国烟草秋」は山岡鉄舟に書いて貰ったという。後神金村の妹(小田原橋の田中家)を頼って甲州に戻り、百姓仕事を手伝っていたが、明治2526年頃息子を頼って神戸に移住。明治3934日病没したという。享年81歳 ・墓は神戸にあると。

子母沢寛『露宿洞雑筆』『新選組始末記』に、大村達尾の父桑原来助を殺害したのは内田佐太郎であったとある。 ・『歴史読本』昭和551月号等に、内田佐太郎が山本仙之助の仇を討ったとある。しかし子母沢寛はこれを先きの著で否定している。

『日野市歴史館叢書』第11輯・小山松『新徴組』・『日本侠客100選』・『上毛剣術史』

大森浜

 名・光信

23

5番組

親両人 ・百姓安右衛門子

巨摩郡大蔵村

新徴組入り ・「目録」に11番大内志津馬組平士、「組別名簿」に小頭黒井卓一郎組平士で名あり。

・『甲子雑録』に元治元年正月9日付けで「右之者共兼而私家来え御預被仰付居候()追々永々相成御府内廻り方ニ茂差響甚以不都合御座候間可相成は何方え成共早速御預替被仰付下度云々」として村上常右衛門他5名の中に大森浜次の名あり。※同月15日村上等4人は預け替えされているが、この中に大森浜次の名なし。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」3番隊平士に名あり。 ・『戊辰庄内戦争録』826日温出の戦いで「敵一人茅ノ透間ヨリ現ハレ出タリ名乗レト声ヲ掛ヌルニ備中足守ト答フ馬場玄助大森浜治千葉弥一郎一斉ニ発射シテ打斃シ云々」と。

「開墾士氏名」に名あり。

明治6917日酒田県へ寄留願提出。翌明治72東京府へ貫属替

加川英一『黒駒勝蔵』、子母澤寛『露宿洞雑筆』等に大森浜次は祐天由松子分とあり。

小山松「新徴組」・子母澤『幕末奇談』・『藤岡屋日記』

久保坂岩太

44

7番組

1人  ・甲斐国浪人

都留郡駒橋村、また西後屋敷村とも。

「目録」に名なく去就不明。

角田五郎

30

道中世話役

妻子3人   ●八代郡白井河原村産、当時浪人上州行方郡大洲村に住す。

上京後目付 ・高木潜一郎「御上洛御供先手日記」2月27日条に「出役並見廻広瀬六兵衛、取締松岡万、附西村泰翁、御目付角田五郎外三人」とあり。

・「目録」に名なく去就不明

高尾文助

  文吾ヵ

 名・啓明ヵ

33

7番組

母弟3人 ・百姓庄右衛門子

都留郡小沼村住居

新徴組入り ・「目録」に名なし。「組別名簿」に小頭富田忠右衛門組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族3)

・「庄内戊辰戦争出張姓名」「開墾士氏名」に名なし。

・明治55月の高尾・楽岸寺事件の当事者高尾文吾は文助のことか。当事件は高尾文吾と楽岸寺業輝が病気治療の帰路「尼寺江立寄酒食等いたし候言語同断」と、同志から「其許割腹可致若致し兼候ハハ自分共差殺呉候」、もし切腹しなければ「高尾江毒呉候」とまで追求されたが、結局謹慎処分となった。・諸田政治著「上毛剣術史」に、高尾文吾は「後に二人は悶死したとも伝えられている。」とあり、『歴史読本20043月号小佐野淳氏論稿には「両名は大小を取り上げられた上に座敷牢に閉じ込められ、悶死したと伝えられている」とある。

・明治6年7月27日付け中追胤正等3名の司法省提出の「奉願候口上書」中に「高尾文吾申聞候ニ者当月廿四日夜十一時此嶌田利太郎留守宅江夜盗忍入候ニ付近隣之者共打寄云々」とあり。

明治6917日酒田県へ寄留願を出した高尾啓明は高尾文助か。 ・明治76月高尾文吾山梨県へ貫属替。(『日野市歴史館叢書』第15p88)

田辺富之助

  

31

道中世話役

1人 ・武田浪人(山梨県史』通史編に)

山梨郡下於曽村住居

「廻状留」文久3年2月13日条に「二番世話役、田辺富之助、右之通申渡候間云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に18番仁科五郎組平士、「組別名簿」に一色次郎組平士で名あり。 ・文久42月「昨年中剣術出精ニ付」賞せられる。

・同年同月23日「嘆願書」提出(元一色次郎組合、当時中村定右衛門預り組、田辺富之祐とあり)、その大略左に、「()勤役中武州新港え英国軍艦渡来、()自然応接破壊ニ相成候節は、速ニ戦争ニ可相成候間、江戸表おゐて指揮ヲ請ケ可抽忠誠ヲ之段、()鵜殿鳩翁殿より御達有之、右は基より懇願之儀ニ御座候得は、難有御請ケ奉申上、期一死下向仕候、以来年月押移候迄御沙汰中絶ニ相成、()時ニ惣代ヲ以推参も不顧、種々建白仕候得共、未タ差当御用筋も不被仰付、()依ては近時之内御用筋も無御座義ニ候ハハ、恩給奉返上御暇相願、一ト先帰国仕度決心罷在候()、何卒以御仁慈速ニ御暇被仰付候、後来愚臣相応之御奉公筋有之候歟、攘夷之期限到来急務被仰出候儀も有之候ハハ、譬え不被微候共同郷同志之者撰択参府可仕心得、基より報国之徹意忘却不仕候間、前条申立候嘆願之趣意即刻御挙容被下置、御聞済被成下候様伏て奉願上候()」。(「中村定弘氏所蔵文書」)  

・小山松『新徴組』中に「文久3年11庄内藩による圧迫がいよいよ強くなることを予想して脱退、脱走した者」の中に田辺富之助の名があるが、田辺は文久4年2月に依願永暇。

結城禮一郎『旧幕新選組結城無二三』中に「隆造さん(無二三の姉の子)の奥様すなわち竜雄さんたちのお母様は、同郡七里村字下於曾の田辺家から来た方で、()田辺叔父ちゃんの胤違いの兄さんが大阪の小林一三さんだ。()於曾の田辺の一族で田中()富之助というのも(浪士組に)加入しました云々」とあり。

千野栄太郎

22

5番組

親両人   ●巨摩郡西井出村住居

「目録」に名なく去就不明

辻隆介

19

取締役手付

不明 ・武田浪人(山梨県史』通史編)

山梨郡国府村住居

「目録」に名なく去就不明

土橋鉞四郎

 後、瀬兵衛

 更に今福真

明と改む

浪士組参加に際し、土橋と森花の姓から森土と称したか。

 

40

5番組小頭

2人 ・武田浪人(山梨県史』通史編)・長百姓森本瀬兵衛苗茂4男

巨摩郡今福村住、当時森下()瀬兵衛方寄寓

文久3324学習院へ建白書持参6人中の1

新徴組入り ・文久3519日取締付 翌6月剣術教授方、9番小頭兼務 ・同年11月肝煎兼剣術教授方 ・元治元年812日依願永暇

文政6年今福村に生まれ、21歳で遠光寺村の土橋家(母の実家)の養子となり、鉞四郎と改名。安政元年実弟に養家の家督を譲って出府し 剣術修行に励む。北辰一刀流井上八郎門下。清河八郎玄武館出席大概」に名あり。 ・嘉永4年12月井上八郎の飛騨高山陣屋出張教授に従った3人の門弟の1人。(出典失念、参考までに)

安房先賢偉人伝』中「烏山家譜考」に、烏山確斎が「弘化丙午夏四月甲州ニ遊ビ遠光寺邑ニ抵リ土橋氏ニ宿リ云々」と。

清河八郎「潜中始末」文久元年条に「甲州中に我等の同志に比したる山岡鉄太郎の組とも云ふべき勤皇攘夷連頗る多し、()中に剣術同門なる土橋鉞四郎と云ふあり、今福村に住宅せる由故、明早天甲府を発し、雨を凌ぎて今福村の森花瀬兵衛方に到る。鉞四郎此家の後見なり云々」、また鉞四郎に関し「よき気節の士なり」等とあり。 ・同書文久元年11月京都挙兵画策時の記事に「甲州の鉞四郎方にも書状を外事に託し認め、東都の山岡方迄も書帖遣す、皆外事に相託し、他人見ては一向相分らぬ様相認めぬる。何れも京師の首尾能近きに義兵を揚ぐべき故云々」とあり。同書別項に「我等は東都及び甲州の同志を引率し、京師に参会、三千年已来の大功業を樹て申すべしとて云々」とあり。 

文久2年4月11付清河と安積五郎の山岡鉄太郎宛書中に「回天の一番乗可仕心底に御座候、折角御周旋甲土(甲州の土橋)に早々御手配可被成候云々」とあり。又同年720清河八郎は富士山に登って3合目に宿泊し、甲州に下って土橋鉞四郎に会う。

浪士組脱退の後(時期不明)、兄病死により兄嫁を娶って生家を嗣ぐ。市川代官所陣屋の剣術教授。維新後は遠州金谷で剣術道場を開く。のち甲府の剣法館の創設や大日本武術会山梨県支部の創設に尽力し、明治29年第2回武徳祭で剣道精錬證を授与さる。

・『歴史読本20043月号小佐野淳氏論稿に「維新後は今福真明と名乗り、大日本武徳会で最初に精錬証を授与された15名中の一人である。日本一流の剣士で、当時「今福の突き」といって他の追随を許さなかった」と。

明治33年病没、享年77歳、墓は甲府市内長禅寺

・今福毛宅地内に「今福真明頌徳碑」(榎本武陽篆額并撰文)ある。

加川英一著『黒駒勝蔵』に祐天吉松の身内として森土鉞四郎の名があるが。

『田富町誌』・「中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部会臨地研究資料」・『清河八郎遺著』・「むすび」第105

内藤弥三郎

45

7番組

妻子6人 ・武田浪人(山梨県史』通史編)

山梨郡下於曽村住

江戸帰還途中の下諏訪宿で有志召募を受命。

新徴組入り ・「目録」に30番中村又太郎組平士、「組別名簿」に中村又太郎組平士で名あり。

・中村定右衛門「御暇申請候一条之事」に、文久36月新徴組が荘内藩に全面委任されて飯田町屋敷の棒杭が書き換えられた事件に関連し「()棒杭之事、門札之事、番之事右三ケ条書付ニ致し、肝煎仁科五郎ニ内藤弥三郎認相渡し相頼ミ候処、右三人(仁科及山口三郎分部宗右衛門)之者被頼候趣ならず、跡形も無之讒言ヲ致し候と相見え、()小頭一同ニ役所え可罷出旨申ニ付一同罷出候処、中村定右衛門、常見一郎、内藤弥三郎右三人之者ニは控可居旨被申候ニ付、差控罷居り候処(略・その後酒井家家来3人と立会の山口三郎ら肝煎4人による尋問の際)誰か公辺之地面ニ居り度旨申候者有は致さぬ哉と尋ニ付、()其節内藤弥三郎肝煎ヲ相頼候、三ケ条之儀書付ニ致し肝煎り仁科五郎へ相渡し置候間、此書付と引合、即相違も有之候ハハ何れニも恐入申と相答申候云々」 ※中村定右衛門は親族等の嘆願により翌年許されたが、常見一郎、内藤弥三郎のその後は不明。

・元治元年9月病乱につき親類鈴木道四郎へ引き渡し。(『歴史のなかの新選組)

『日野市立歴史館叢書』第11

早川文太郎

(早川太郎)

幼・慶次郎

名・義信

改・暮地義信

28

2番組

親妻3人 ・百姓代早川伝兵衛次男(兄夭折) ・天保7714日生   ●都留郡上暮地村住居

文久3229日京都で入隊 ・文太郎の「修行日記帳」に「同(文久31)廿九日大津ニて昼弁当、此時雨風ニて難儀有之候間、八ツ時京都壬生四条通西ニ相成、直ニ前川庄司と申郷主()宅鵜殿鳩翁様御本陣ニ相成、鵜殿様方え願入、御用人差図有之ニ依て雀森更雀寺於山田宦司様へ相尋、幷清水順之介様詰合有之、座敷上リ浪士取扱方願出、廿九日其内山田宦司様へ被預ケ候、是ニて三月二日御手当金五両被下云々」とあり。

・江戸帰還途中の下諏訪宿甲州有志の徴募を受命。

新徴組入り ・「目録」に27番分部再輔組平士、「組別名簿」に分部再輔組平士で名あり。 ・文久42月、「昨年中剣術出精ニ付」賞せらる。 ・慶応42月庄内引き移りの際脱退。(和田助弥自筆横紙帳に「庄内へ引き移りの際出奔、早川太郎」と)

伊東甲子太郎と親交があり、慶応3年伊東の新撰組入隊に際し、門人高山平蔵(次郎)随行させたという。また、藤堂平助とも千葉道場以来の知己であったという。

嘉永元年江戸の商家に奉公、翌年武家奉公に出て旗本石原平十郎に弓術及び馬術を学ぶ。安政3北辰一刀流千葉栄次郎の玄武館に入門。同6長州藩士平野隼人に柔術を学ぶ。後文久元年迄諸国を武者修行。

新徴組離脱後尾張藩附属の有志隊「帰順生気隊」を組織し、各地に転戦して武勲を挙げる。※大島百太郎も行動を共にする。

明治43月愛知県に移住し巡査となる。同10西南戦争に朝廷義勇軍新撰旅団中隊長として軍功をたて、警部補心得に昇進し、翌年愛知県から士族の称号授与。

42歳で退官後は郷里上暮地に帰り、富士山麗の開墾に従事し、傍ら尚武館を創建して剣道と柔術の指導にあたる。 ・日露戦争の際、陸軍参謀本部に「奇兵剣隊必要論」を上申する。

明治天皇崩御後の大正元年1130日追腹を切って殉死した。享77歳 ・墓は上暮地の福昌寺

・千葉弥一郎「新徴組」に「因に云ふ、早川太郎は乃木将軍殉死の後、彼も殉死として自刃せり。或は精神の異状なりしならんとの説あり。尤も彼は質朴にして慷慨家であった」と。

「相州大山寺剣術奉納額」に「甲(甲州流) 暮地義信の名あり。

著「新徴組略記」・「明倫義信歌集」・「天性剣術日本武基」・「修行日記帳(表紙裏に「攘夷」と墨書あり)

小佐野淳『富士山麗幕末偉人伝』・「日野市歴史館叢書」第10輯、15輯・『英風記-分部実行の生涯』・「富士吉田市史研究」・『日本歴史』第622号・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号

依田熊弥太

 名・道長

 

20

7番組

親両人 ・百姓依田長賢長男(11人兄弟)天保15年生  ●山梨郡下井尻村住居

「目録」に名なく江戸帰還後早期脱退か。 ・加川英一『黒駒勝蔵』に「依田熊弥太は同郷の旗本真下晩菘の紹介で浪人取締役山岡鉄太郎と清川八郎に会って浪士隊に加わり京に上った云々」とあり。

山梨県史』通史編に「下井尻村(山梨市)で最初に浪人身分を獲得したのは依田家である。亨保9年、石和代官小宮山杢之進の浪人改に、依田家の当主与右衛門が応じたのである。まず与右衛門は同年11月、仮名を民部、実名を長安と変えて、長百姓役と与右衛門の名前を息子に譲った。翌10年、父惣兵衛長継のとき浪人となり下井尻村に居住した云々」と。

一説に戊辰の役に護国隊に関係したという。しかし隊士名簿には住所年齢等で該当する人物はなし。

明治5年下井尻村戸長、後に山梨県議会議員を経て衆議院議員となると。

吉野式『新徴組研究第7号』

山本仙之助

幼・由松

称・祐天由松

 祐天仙之助

35

5番組小頭

1人 ・山伏の子 ・『庄内人名辞典』に文政7年生とあり、文久3年には40歳となるが、「浪士姓名簿」には浪士組参加時35歳とある。

甲府元柳町住 ・出生地は駿州と甲州2説あり。『明治維新人名辞典』では甲斐国山梨郡相川村生と。

江戸帰還途中の中山道下諏訪宿甲州の有志徴募を受命する。

新徴組入り ・文久34月世話役、同5月取締役付 ・同1016日大村達尾に親の仇と誤認され、助太刀藤林鬼一郎のもと千住の路上で殺害される。墓は墨田区大平町の法報恩寺内陽運院

甲州古府中の行蔵院の行者祐敬の弟子祐天。後に博徒(三井の卯吉子分)となる。津村の文吉と兄弟分。島抜けの竹居の吃安の捕縛に代官所に協力後、子分を連れて江戸に出ると。

山梨県史通編』に「文久元年6月8日朝、上小田原村の百姓周兵衛方へ年齢40歳くらいと30歳くらいの男2人がやって来て、かねて名前は聞き及んでいるはずの勇天(祐天)主従であることを告げ、食事を要求したうえに、大菩薩峠越えの荷持人足の差出を強要した。()追手の組合村の者たちが立ち会って荷物を取り調べた(内に剣道用具等29点あり・略)甲州を離れ活動の場を替えるために用意された物品であることを右の29点は物語っている。大菩薩峠越えで江戸へ向かおうとする途中で、組合村の者たちの追補に遭い、遁れたのちの彼の行動はしばらくわからない」、又「(浪士組への参加は)

甲州出身で、当時洋書調所調役組頭であった真下専之丞の勧めによったものだといい」とあり。

・『幕末の武家』中旧幕臣飯島半十郎の談話に「或るとき(祐天仙之助が)駿府甲府博徒と喧嘩を致し、その博徒を殺し、本人は死する覚悟で寺社奉行の手に廻りました。そのころ私の叔父に飯島辰五郎と申す者がございましたが、評定所留役を勤めており、山本の裁判に関係し、その終りに無罪放免を申し渡しまして、辰五郎が厚く説諭いたした事がござりました。その後は山本が叔父の恩に服しましたので、私も懇意になった次第です。この山本が瓦壊の頃に()叔父のところに来まして、江戸市中の護衛をさせてくれと願いました。併し採り用いる筋ではございませぬゆえ、その志は嘉して帰国せよと申しましても、決心して江戸に出しゆえ帰ることは出来ぬ、当分幕府には御厄介はかけぬと言い、私を当てにして新徴組へ参りました」とあり。 談話中に・仇討事件に関しても話あり。

子母澤寛は『新選組始末記』『幕末奇談』で、仙之助の子分内田佐太郎が大村達尾の父桑原来助を殺害したとしているが、千葉弥一郎は「維新前後庄内物語」等でこれを否定している。

『東西紀聞』・『藤岡屋日記』・『日本侠客100選』・高橋敏「博徒の幕末維新」・『日野市歴史館叢書』第6 輯・小山松『新徴組』・吉野式『新徴組み研究』第6号・加川英一『黒駒勝蔵』・『歴史読本』昭和55年新年号等多数有り

若林宗兵衛

 名・守信

28

5番組

母妻子3人 ・百姓勘助子 ・祐天仙之助子分

八代郡藤井村居住

新徴組入り・「目録」に8番山本仙之助組平士、「組別名簿」に大熊領兵衛組平士で名あり。

・慶応4年庄内入り(家族4) ・「田川温泉寄宿帳」に6番小頭とあり。 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」の3番隊平士に名あり。 ・慶応48月越後領界熊田の戦いに功名あり。(『戊辰庄内戦争録』)

・「開墾士氏名」に名あり。

明治6年424日付若林守信と大島定靖の桂田寛吾割腹事件に関する司法省酒田臨時裁判所への上申書あり。(中沢貞祇の記録)

明治75山梨県へ貫属替

『上毛剣術史』・千葉「新徴組と庄内藩」・小山松「新徴組」

分部再輔

 幼・七弥

 称・才助

32

1番組

妻子2人 ・分部惣右衛門実親3男、惣()右衛門実啓弟、早川文太郎の姉の夫、弟に奥秋助司右衛門あり。

都留郡上暮地村住居

文久3328日付分部宗右衛門の届出書中に「(宗右衛門が浪士組組入り上京後)跡より宗右衛門弟才助幷百姓代伝兵衛伜久太郎も上京、同様御組入ニ相成云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に27番組頭、「組別名簿」に小頭で名あり ・元治元年8月依願永暇

叔母分部民弥(甲州に於ける女医の嚆矢)の家を嗣ぎ、玄徴と名乗り医師となる。・『英風記-分部実行の生涯』に、「再輔は、彼が二歳の赤子のときから叔母民弥の後嗣の名義で一家創立が予定されていたのである」と。

分部宗右衛門

 名・実啓

39

7番組

親妻子8人 ・上暮地の名家分部惣右衛門実親嫡男 ・弟に分部再輔(3)、奥秋助司右衛門(4男、新徴組士)・妻は都留郡河口村富士浅間神社宮司高橋豊前次女   ●都留郡上暮地村住居

天保10年大平真鏡流勝俣与五左衛門、同13年に北辰一刀流千葉周作に師事し、弘化元年12月免許皆伝を伝授さる。清河八郎玄武館出席大概」に名あり。

嘉永2家督を嗣ぎ名主役となる。

文久3328日付届出書に「上暮地村宗右衛門義幼年之頃より剣道執心ニ付、江戸神田玉ケ池千葉周作弟子ニ入修行罷在候ニ付、門人数多知り人有之、尤近年村方え引込名主役罷在候、然ル処、参州岡崎宿在豊川稲荷え心願有之、当二月中参詣として中仙道筋罷越候処、此度国々より(尽忠報国)勇気志有之もの相集、御用ニも可相立心得之ものハ、浪士取扱掛御役人方御召連ニ相成候由、千葉周作門人より途中ニて承候ニ付、素より執心之道未熟之小子ニ候得共、芸古仕候故、此節柄御用ニも相立候ハゝ丹誠を可抽と心付、鵜殿鳩翁様え申立候処、国所、親妻子有無幷身分御糺ニ付、倶ニ申立候処、浪人人数え御組入ニ付、道中入用被下置、則上京云々」と。 

・江戸帰還途中の中山道下諏訪宿甲州の有志募集を受命する。

新徴組入り ・文久34月世話役、同5月取締役付、同113番組肝煎となる。

慶応212月縁者上暮地村年寄高山安兵衛3男彦五郎(17歳、実行)を娘の婿養子とする。彦五郎は「田川温泉場寄宿帳」「庄内戊辰戦争出張姓名」「開墾士氏名」に名あり。後陸軍士官学校を卒業し、西南戦争で戦死。

・宗右衛門の山口三郎宛て届出書に「私儀当寅四十二歳ニ罷成候処、男子無御座娘年頃にも相成候ニ付、縁者甲州都留郡上暮地村年寄安兵衛三男彦五郎儀十七歳ニ罷成候、右之者私重縁血脈正統之者に御座候間娘婿養子奉願度、此段御内意申上度奉頼入候」とあり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・同年4月新徴組3~6番組を率いて川上、清川に出陣。 ・同年7月御家中組を仰付けられ村上郡御領地代官を受命、100石を賜る。 ・明治36月酒田家御物成収納酒田御蔵方役となる。(明治63月迄)

明治6年惣右衛門殺害計画の噂を聞き庄内を脱出し翌年郷里上暮地に帰り、暮地学校世話掛、地租改正評議掛、南都留郡第7学区学務委員、桂村戸町等を歴任し、明治24年郷社生玉大神祠官となる。

『富士北麗幕末偉人伝』・「富士吉田市史研究』・『英風記=分部実行の生涯』・『上毛剣術史』・千葉弥一郎『新徴組と庄内藩』・『日野市歴史館叢書』第6輯、10輯、15輯・小山松『新徴組』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号

渡辺彦三郎

21

1番組

親両人   ●都留郡小沼村居住

新徴組入り ・「目録」に名なし、「組別名簿」に清水小文治組平士で名あり  ・元治元年6月依願永暇

   長野県域からの浪士組参加者たち (6)

姓 名

年齢

所属

家族・出身地・その他参考

上林藤平

26

3番組

不明   ●小県郡矢沢村出生浪人

文久3年4月15日評定所呼出、同日鵜殿、中條家来預け。(この件に関する「封廻状」には24歳とあり)

・慶応31017日最上駿河守へ預け替え(『藤岡屋日記』) ・以後の去就不明。

「目録」の17番組加藤為右衛門組平士に名あり。

五嶋万帰一

26

7番組

不明   ●小諸藩牧野兵部太夫元家来当時浪人、当時牛込七軒寺町仙寿院止宿

「柚原鑑五郎日記抄」に「(3)廿日須原出立の日福島関所ゟ此方ニ来ル五嶋萬帰一と吉羽三郎と争論の由にて、同士の内三四人参り、五嶋は酒狂の体にて内々に相済候得共道中除列日々先に遣候」と。 ・「目録」に名なく江戸帰還直後に脱退か。 

・「贈従五位村上(俊平)君墓碑銘」に「五月、越前の人吉田五郎、上野の人南雲平馬、常陸の人後藤(五島ヵ)萬鬼一等与に謀りて日はく、今や幕府大いに吾儕を索むれば以て事を成し難し、乃ち路を北陸に取り再び京師に至らん云々」とあり。※村上俊平「家言録」には「下野ノ人後藤萬鬼一」とあり。 ・村上俊平「潜匿日記」511日条に「芳原の金瓶大黒楼に逗ず。翌夜吾党を窺うを告ぐる者ありしにより、吉田五郎、五嶋万帰一、武井十郎と郭を去る。吉田送て郭外に至る。」と。

・加藤桜老「近光日記」627日条に「前夜五島萬帰一、手塚次郎両人、三條河原にて打取らる。佛生寺(彌助ヵ)等と同敷、表裡の大賊なれば也」とあり。

蘭方医村上随憲』・小山松『新徴組』・加藤桜老『榊陰年譜』

佐々木如水

 名・盛信

45

(64)

 

 

道中先番宿割

妻子4人 ・小諸藩御持筒役小竹半太夫長男

「浪士姓名簿」「人名移動詳細」には亥45歳とあるが、「麁調」には丑64歳とあり。

佐久郡小諸住

文久3年2月14日回状に「近藤勇佐々木如水右両人道中宿割池田徳太郎手入相付申候事」と、出発時の所属不明、道中目付か。

新徴組入り ・「目録」に35番中川一組平士、「組別名簿」に中川一組平士で名あり。

文久3年4月23日根岸友山の池田徳太郎宛書中に「岡田盟佐々木如水君より書状にても可差出処甚多忙に付拙老より宜敷申上呉候様申出候云々」と。又同日付金子正玄の池田宛書翰に「根岸友山君佐々木如水外一同にも松平上総介殿に援兵願候処云々」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」の2番隊平士に如水長男貞三郎と共に如水の名あり。 ・湯田川新徴組墓地の長男貞三郎盛聖の墓誌に「明治元年九月十二日関川戦争ニ於テ鉛丸ニ当リ銃創癒エズ明治二己年六月二日卒」と。 ・「田川温泉寄宿帳」に「佐々木茂 先代如水二男 如水長男悌次郎は父と共に庄内口に至り関川戦争にて打死、舎弟茂相続」とあり。 ・「公私日記」に「(慶応4年Ⅰ月16)佐々木如水次男貞次郎、銃隊方広瀬滝三郎処江養子ニ遣候所、不縁ニ付双方熟談之上離縁仕候旨届出る」とあり。又同書同年7月の新庄表出張者名の中に如水の名あり。 

・「人名移動詳細」に「如水疾後男茂が相続して庄内へ下り戊辰の役関川口にて戦死した」とあるのは誤り。「開墾士氏名」に佐々木茂(如水の名なし)の名あり。

明治6418日付で旧酒田県の横暴を司法省に訴え出た庄内脱走旧新徴組士25名中の佐々木正健について、諸田政治氏の説明に「信濃国牧野家佐々木半太夫の子とあり。これが事実なら如水の兄弟となるが。「目録」「組別名簿」「麁調」「移動詳細」「庄内戦争出張姓名」「開墾士氏名」等に、他の佐々木姓は佐々木周作のみ。この周作については「麁調」に「丑37歳、生国三河、元内藤金一郎家来、設楽郡津奥村百姓佐々木喜三郎子」とあり。明治6年以降の記録に周作の名は見えず、周作と正健は同一人物か。

明治6年65日酒田県庁の召喚により東京を出立した旧新徴組士中に佐々木如水の名あり。・翌月酒田県から司法省酒田臨時裁判所への口上書に「墓参登之佐々木如水も昨日(7月19日酒田へ)着県致し候旨相届候云々」とあり、召喚者「一同日記」19日条に「佐々木如水十字頃三浦屋重助ニ着ス」と。同日記88日条に「右□宿より之書付(「稲田隼雄所持之品書写」)佐々木如水所持ニ而御省江御届申上候云々」とあり。

・明治77月貫属替

小諸城址内に如水の筆塚

『庄内史料集・明治維新史料』・『維新志士池田徳太郎』・『上毛剣術史』

島田利太郎

 名・行武

26

5番組

両親妻3人 ・真田信濃守元家来島田利藤治子

埴科郡森村住

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士、「組別名簿」に瀬尾権三郎組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「庄内戦争出張姓名」の2番隊平士に名あり。「開墾士氏名」に名あり。

・明治6727日付で中追正胤他2名が酒田県に提出した「奉願候口上記」中に「高尾文吾申聞候ニ者当月廿四日夜十一時嶌田利太郎留守宅江夜盗忍入候ニ付近隣之者共打寄霊験()□□脇差取落シ有之候ヲ若井壮蔵(以下10人略)見請有之候処、其脇差ヲ古屋常三郎与申者隠シ置候江共、其節不相分然処常三郎隠シ候ニ紛無之趣云々」とあり。この件については酒田県庁召喚者「一同日記」にも記述あり。

明治7年8月長野県へ貫属替

『上毛剣術史』

庄野伊左衛門

 名・義則

32

7番組

不明 ・松本藩松平丹波守家来望月深蔵子

江戸帰還途中の322日信州の有志徴募を受命。

新徴組入り ・「目録」に31番鯉渕大三郎組平士、「組別名簿」に小頭で名あり。しかし、「中村定右衛門御用留」中の文久3年5月5日付廻状に、『小頭壱番ゟ姓名』とある14番目に庄野伊左衛門殿とあり。

文久3年7(日不明)付け達しに「其方義高石鎌吉募方中村八郎左衛門与同意いたし不束之始末其余風分も有之小頭勤候者ニハ不相応之儀ニ付屹度も可申付之処出格之訳ヲ以小頭役取上平組申付け候 六番小頭庄野伊左衛門」とあり。 ・同7月27日廻状に「以廻状得御意候然者西恭助者御役申渡、椿佐一郎組柏尾右馬之助庄野伊左衛門組小頭申渡候間此段御達ニ及び云々」とあり。 ・「御用記」慶応2年中達しに「(前略)庄野伊右衛門、右六月廿五日、小筒打方世話役被付候付、当御地盤金之内利一ケ年弐両之御割合を以被下置候」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「田川温泉場寄宿帳」に5番組小頭で名あり。

・「庄内戦争出張名簿」に3番隊伍長 ・矢島城城下入口の敵砲隊陣地へ隊長林茂助に従い突貫奮戦す。(千葉「新徴組と庄内藩」・『戊辰庄内戦争録』)

「開墾士氏名」に名あり。 ・小佐野淳氏論稿に「明治五年七月二十四日稲田隼雄と尾崎恭蔵は脱走() 尾崎は庄野伊右衛門に無抵抗で捕らえられ、嬲り殺しにされた」と。 ・司法省酒田臨時裁判所に召喚され、明治6年65日に東京を出立した旧新徴組士中に庄野義則あり。・召喚者「一同日記」同年84日条に「(前略)私共儀無拠用向出来候ニ付本月四日鶴ヶ岡江罷越来ル七日帰省御届可申上段奉伺候也」として庄野等四人の名あり。

明治7年4月寄留替、麻布西町11番地に寄留

『上毛剣術史』・『日野市立歴史館叢書』第10輯・小山松『新徴組』・『歴史読本20043月号

立花()常一郎

22

2番組

不明 ・信州中村百姓亀治郎

信州中村 ・上州新田郡本町村住 岡田盟厄介

新徴組入り ・「目録」に12番須永宗司平士(立花恒一郎)、「組別名簿」に須永宗司組平士で名あり。

・千葉弥一郎「維新前後の庄内物語」に「慶応三年の十月、吉原方面へ廻る途次、浅草の猿若町で夜半の弁当を食する為め、自身番に休憩して居ると、酒屋から強盗の届があった。其時の組は、小頭中澤良之助、立花常一郎、大島百太郎、中島健次郎、千葉弥一郎()五人の者に賞与があった」と。

・慶応4年庄内入り(家族3) ・「庄内戦争出張姓名」の1番隊平士に名あり。 ・「開墾士氏名」に名あり。

・明治710月貫属替

 

ⅩⅥの8 【東京都・千葉県域の浪士組参加者たち】

 

東京都域からの浪士組参加者たち (14)

 姓 名

年令

 

所属等

 

  家族・出身地・その他参考

岡戸小平太

43

道中世話役

親妻子5人  ・山角四郎兵衛元家来当時浪人

江戸牛込御門矢部栄之烝長屋住居

新徴組入り ・「目録」に35番中川一組平士、「組別名簿」に中川一組平士として名あり。・「柚原日記抄」文久3年912日条に「中川一組合へ岡戸小平太他四人」とあり。その後の去就不明。

沖田総司

 称・惣次郎

 名・春政

   (房良)

22

6番組

なし ・奥州白河藩阿部家江戸詰家臣沖田勝次郎(222人扶持・弘化212月没)子 ・天保15年江戸麻布白河藩下屋敷で出生

当時牛込加賀屋敷近藤勇方同居

9歳で江戸牛込の近藤周助野試衛館道場に入門、内弟子修行10年で免許皆伝、塾頭となる。 ・安政59月近藤周助の日野八坂神社の奉額の世話人席に沖田惣次郎藤原春政とあり。

浪士組上洛後近藤勇らと新選組を結成、第一次編成で副長助勤、剣術師範頭、第二次編成で一番隊隊長

慶応4年正月の鳥羽伏見での敗戦後肺患重病の身で富士山艦に乗り江戸に戻るも、療養甲斐なく同年530日死去す。享年25歳。墓は港区麻布専称寺

近藤勇の佐藤彦五郎ら宛て慶応元年11月付け書簡に「剣流沖田へ相譲り申度、この段宜しくお心添え下され度、この辺も当時御他言お断り申し上げ候」と。

総司2歳で父勝次郎と死別。同胞は姉2人、11歳年長の姉光は日野の井上総蔵の弟林太郎(後新徴組士)を婿養子に迎えて沖田家を相続。他の姉は江戸詰の館林藩士中野由秀の妻となると。

沖田林太郎

 名・房政

   元常

38

3番組

妻子4人 ・武州日野宿在住井上総蔵(井上松五郎家の分家)弟 ・文政9222日生 ・近藤周助に天然理心流剣術を学ぶ。近藤勇4代目襲名披露の野試合で軍奉行を務める。

奥州白河藩阿部家江戸詰家臣(222扶持、足軽小頭)沖田勝次郎(弘化2年没)の長女ミツ(沖田総司)に入婿(弘化4年頃)沖田家を相続。 嘉永6年長男房次郎出生。 後に脱藩浪人となる。

江戸四谷伝馬町一丁目住居 ・「浪士姓名簿」には「阿部播磨守浪人、当時近藤勇方厄介ニ罷在候」とあり。

「沖田林太郎御用留」文久3223日条に「京地江朝四時一同無滞参着、四條大宮西へ入雀森更雀江壱番弐番三番迄一と先落着申候」と、翌日には「雀森更雀寺より二月廿四日中村小藤太方へ引移申候」と。

・京都残留の近藤勇や義弟沖田総司と別れ江戸帰還。

新徴組入り ・「目録」に34番三村伊賀右衛門組平士、「組別名簿」に小頭三村伊賀右衛門組平士で名あり。

新徴組入り(家族6) ・「庄内戊辰戦争出張姓名簿」に林茂助隊伍長で名あり。矢島の攻略戦や関川の戦いに参戦。長男芳次郎も菅野正助隊平士で出征する。

「開墾士氏名」には芳次郎の名のみあり。

明治710月酒田県に寄留替提出。・東京に戻った後は墨田区向島の梅屋敷に住居、後日野に戻り生糸の仲買商を営んだとも。

明治16213日病没。享年58歳。墓は東京港専称寺

井上源三郎

 名・一重

35

3番組

不明 ・八王子千人同心井上藤左衛門3男、井上松五郎の弟 ・文政1231日生。

武州多摩郡八王子村

佐藤彦五郎、後に近藤周助に天然理心流剣法を学ぶ。

安政5年日野八坂神社奉額に近藤周助藤原邦武門人として井上源三郎一重の名あり。万延元年5月免許を伝授さる。

浪士組上洛後近藤勇らと新選組結成 ・第一次編成で副長助勤、第二次編成で六番隊長

慶応4年Ⅰ月淀千本松の戦いで戦死 ・埋葬地不明、碑は日野市宝泉寺 

源三郎の甥井上泰助の遺談に「おじさん(源三郎)は、ふだん無口で温和しい人だったが、一度こうと思いこんだらテコでも動かないようなところがあった。伏見の戦いの時も、味方が不利になり大阪へ引き揚げるため引けという命令が出たが、少しも引かず戦いを続けついに弾丸にあたってたおれてしまった云々」と。 ・近藤芳助の「新撰組往時実戦譚書」に「文武とも劣等の人なり」とあるという。

勝野保三郎

 称・保之助

 名・正光

  後に正満

変・乙葉大輔

25

4番組

1人 ・旗本阿部四郎五郎賓客勝野正道(豊作)季子、天保9926日生。

本所根来前通南割下丸毛恒次郎内清水謙蔵同居

安政5水戸藩への密勅降下運動のため父に従って上洛。安政の大獄に母姉兄と共に下獄し、兄森之助は三宅島流罪文久2年許されるも死去。保三郎は翌610月出獄。父正道は潜伏先で安政610月病没。

徳富蘇峰文久大勢一変』に「大橋訥庵先生義兵を挙ぐ。有志の面々来り投ぜよと昌道しながら、下野の河野通桓、小山朝弘、()丹後の宇野東桜、江戸の乙葉大介、薩摩の鮫島雲城、()など三十余人の壮士来り集り云々」と。大橋訥庵の義挙計画への参加の事は「勝野正満手記」にも記述あり。

「目録」に名なし。「勝野正満手記」に「(文久3)十月(原注・日ヲ失ス)越前人坂井友次郎ナル者ヲ誘匕帰リテ同行113日江戸ヲ発シテ上京ス、途中水戸藩美濃部又五郎家来原大輔ト名乗土浦藩士大久保親彦ヨリノ書面ヲ携ヘ京柳馬場錦小路上ル所井筒屋久兵衛方ニ投シ其の儘此家ニ遇ス云々」とあり。 ・翌元治元年(月不明)青木春方が勝野と坂井に宛てた書簡に「両兄御道中無御障去年霜月十二日御到着之旨大悦々々猶同月二十二日御認之貴翰去臘二十九日相達拝読委細敬承御厚意之條々感激ニ不堪令拝読候、()扨御書中有志一人も無之但模様大変等の件々血涙の至りに御座候云々」とあり。

元治元年5水戸藩より「一橋様御守衛被仰候條酒泉彦太郎朝倉五郎右衛門得指図相勤候様云々」の達しあり、弐番床几隊に編入される(本圀寺党)。・慶応4年1月朝命により水戸の奸徒掃除のため執政鈴木縫殿に従って東下、長年の労を賞され与力を仰せ付けられて物代50石を賜る。3月江戸を発して水戸に入る。12月東京勤務を命じられ、翌年公用人試補となる。

吉田松陰の「留魂録」に「越前の橋本左内二十二歳にして誅せらる、実に十月七日なり、左内(伝馬町牢内)東奥に座する五六日のみ、勝保(勝野保三郎)同居せり、後勝保西奥に来り、予と同居す、予、勝保の談を聞きて益々左内と半面なきを嘆す云々」等とあり。

久坂玄瑞入江九一文久元年48日付書簡に「乙葉も不相替盛に御座候、僕同寓仕居申候云々」と。又『久坂玄瑞全集』に久坂の勝野宛書簡等複数あり。又文久元年48日付勝野の尾寺新之丞、高杉晋作宛書簡あり。(高杉晋作史料』)

久坂玄瑞の「御襄滿録」、「江月斎日録」に勝野保三郎(乙葉大助)に関する記事あり。

「勝野正満手記」(東京大学史料編纂所所蔵)

吉田松陰全集』・『久坂玄瑞全集』・『贈従四位土浦藩士大久保要』・「勤皇志士青木彦三郎傳」・「酒泉直滞京日記」・『続再夢紀事』

父勝野豊作に関しては「水戸藩死事録」、「義烈傳纂稿」、「志のぶ草」、『勤王実記水戸烈士傳』、『遠近橋』、『林鶴梁日記』、『水戸幕末風雲録』,『補修殉難録稿』等多数あり。

川崎渡

 

23

7番組

不明 ・府内浪人

当時外神田御成道京屋伊兵衛方同居

「浪士姓名簿」で京屋伊兵衛方同居者は川崎渡以外に小林登之助、柚原鑑五郎、志田源四郎、岡田林兵衛。

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士、「組別名簿」に瀬尾権三郎組平士で名あり。 ・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に川崎渡の名なし。 ・「人名移動詳細」に「黐木坂邸より脱走」とあり。 ・『歴史のなかの新選組』に「元治元年1月新宿において松平近江守廻り先にて捕縛・明治元年2月脱走」と。 ・小山松『新徴組』には慶応42月庄内下りの際に脱走(この時岡田林兵衛も)とあり。

近藤勇

 幼・勝五郎

 称・勝太

 名・昌宜

変・大久保剛

 近田勇平

 大久保大和

(広島出張時)

近藤内蔵之助

 

30

取締役付属

或は道中目付

 

後道中先番宿割

更に

6番組小頭

父妻子3人 ・天保5109多摩郡上石原村の農民宮川久次郎の3男として出生。嘉永210月天然理心流宗家近藤周助の生家島崎家の養子となり島崎勝太を名乗る。後島崎勇と改め、更に近藤勇となる。

当時市ヶ谷加賀屋敷山川磯太郎地借住居

『浪士文久報国記事』に「此時(浪士募集)市ヶ谷加賀屋敷柳町ニ罷在ル近藤勇剣術道場ヲ開キ日々稽古盛り、稽古終テ稽古人集リ各々議論国事ヲ愁ル云々」とあり。

近藤の佐藤彦五郎宛文久3118日付書簡中に「拙者儀昨日帰府仕候処、下調山岡鉄太郎殿廻状十九日拙者御呼出に相成候、何れ有無廿日迄可申上候、僕儀殊之外風邪難儀罷在候、何れ近々全快可相成哉云々」と。

文久3214日廻状に「近藤勇佐々木如水右両人道中宿割池田徳太郎手入相付申候事」と。 同月17廻状に「芹沢鴨隊長相止跡へ近藤勇跡役申渡候、右近藤勇組一隊石坂宗順一隊より繰替致し候間云々」と。 ・同月17日廻状に「六番西恭助御用ノ儀有之此方ニ引置候跡小頭ノ儀近藤勇エ申付候云々」と。 同月23日着京宿割に、「八木源之丞 六番近藤勇組十人」とあり。

・高木潜一郎の日記226日条に「高久安二郎広瀬六兵衛松岡万(2人略)野音次郎、右ノ御方浪士頭取扱清川八郎近藤勇外二人附添、御寄場へ上書致御聞置相成其断御目付方へ御達ニ被参候」とあり。

京都残留浪士16人で新選組を結成し局長となる。

慶応3年12高台寺党残党の狙撃を受け右肩を重傷、翌年鳥羽伏見敗戦後富士山丸で江戸に帰り、甲陽鎮撫隊を結成し隊長(若年寄)となるも甲州勝沼の戦いに破れ敗走。後下総流山に屯集するも官軍に包囲されて投降、同年4月25日板橋宿で斬首され、京都三条河原に梟首された。享年35歳。墓は国電板橋駅前、南千住円通寺三鷹市竜源寺、岡崎市法蔵寺、会津若松天寧寺に、又京都壬生寺に遺髪塔、その他あり。

佐藤房次郎

 名・延和

28

2番組

妻子3人 ・八王子千人同心佐藤惣兵衛弟

青柳村佐藤家八代総兵衛の時代に同村奥泉庄三郎から同心株を買う。房次郎は九代東太郎(総兵衛)の弟。

多摩郡日野村住居

「目録」に名なく、帰府直後に脱退帰村か。

慶応42近藤勇甲陽鎮撫隊に春日隊士として参加。・佐藤昱『聞きがき新選組』に、官軍が日野宿進駐の際は「井上松五郎と佐藤房次郎の両剣士は逸早く姿を消して云々」と。又、「(房次郎は)駿府に隠退した。その一子英次郎氏の長女貞子は、(土方)歳三の甥孫土方忠に嫁している」と。

藤堂平助

 名・宜虎

20

6番組

不明 ・藤堂平助に関し永倉新八の筆記に「関東浪士、藤堂和泉守落胤、文武研究所剣術千葉周作門人目録云々」と。※藤堂和泉守落胤説も、千葉周作門人説(周作死去の安政2年当時平助は12)も疑問視あり。・加納通広の史談会談話に「藤堂は伊東(甲子太郎)の寄弟子なれば云々」とあり。・阿部隆明(十郎)の史談会談話に「藤堂平助は小兵でございますけれども、なかなか剣術はよく使いまして、また文字もございます」と。

当時近藤勇方同居

上洛後近藤勇らと新選組結成、第一次編成で副長助勤、第二次編成で八番隊組長。

元治元年11月帰府の際伊東甲子太郎新選組に勧誘。伊東は門人を引き連れて入隊。 ・慶応3310伊東甲子太郎新選組を脱隊、禁裏御陵衛士となる。同年1118近藤勇らの奸計で京都七条小路で斬死。遺体は満月山光縁寺に葬られるも翌年3泉涌寺塔頭戒光寺に改葬。享年24歳。

永倉新八

 幼・栄次

 名・

後杉村義衛

25

6番隊

なし ・松前藩浪人・天保10411松前藩邸内長屋で生まれる。江戸定府取次役(150)永倉勘次子

神道無念流宗家2代岡田十松に学び、18歳で本目録を受ける。翌年藩邸を出奔し同流百合本升三に就き修行。文久元年同門松前藩浪人市川宇八郎(後の芳賀宜道)と近国を武者修行。後に心形刀流堀内主馬道場の師範代になる。

牛込加賀屋敷近藤勇方同居

上洛後近藤勇らと新選組を結成、第一次編成で副長助勤、第二次編成で2番隊組長、撃剣師範

・慶応4甲陽鎮撫隊甲府城攻略戦後近藤勇らと離間し、芳賀宜道の靖兵隊に参加、副隊長格となる。後松前藩に帰参、杉村松柏の養子となり杉村義衛と改名。松前樺戸監獄の剣術師範を務める。

大正415日老衰死。享年77歳、墓は小樽市中央墓地、札幌市里塚霊園、東京滝野川の寿徳寺境外墓地の新撰組供養碑等

『浪士文久報国記事』・『新選組顛末記』等

中村太吉

 幼・太郎吉

 名・満通

 号・祐翁

 多吉郎

  後半兵衛

24

3番隊

母妻子3人 ・日野宿旅宿業中村半兵衛3

多摩郡日野宿住居

「「目録」に名な江戸帰還後脱退

幼少時江戸麹町の呉服商に丁稚奉公に出る。俳句や狂歌を好み、狂歌の絵馬屋四世を継ぐもこれを譲って帰郷、佐藤彦五郎門脇の長屋で小料理屋を営む。傍ら同長屋の天然理心流道場で彦五郎や近藤周助に学ぶ。 ・日野八坂神社の奉額に発起人として中村多吉助藤原満通の名あり。

日野農兵隊に参加し、慶応2武州一揆の打ち払い、慶応3年八王子宿壺伊勢屋での薩邸浪士召捕り、慶応4甲陽鎮撫隊に春日隊士として参加する。

維新後店を日野駅前に移して妻に任せ、玉川屋祐翁と号して俳句三昧に余生を送ったという。

明治37年没 ・墓は日野大昌寺

仁科五郎

後に理右衛門

29

4番隊

不明  ・曲渕安芸守家来仁科理右衛門子

当時大島一學方に同居

新徴組入り ・「目録」に「18番仁科五郎組」 ・「組別名簿」に「肝煎」 ・中村正行「忠士日記」文久3616日条に「訳有候ニ付慎仁科五郎、芳賀忠次」と。

慶応4年庄内入り(家族8) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に「2番隊肝煎役」 ・『庄内沿革誌』に、728日秋田矢島城攻略戦の際「寺内の官軍を望む此所数尺の断崖にして降る能はす茂助(新徴組頭林茂助)意を決して飛び降る茂助か隊士之れを見て続て降るもの五六人進て寺内に至る官軍貳人之れを見て逃けんとす茂助か隊士仁科五郎之を斬る」と。・916日の関川部落奪回戦で仁科五郎股を撃ち抜かれる。(『戊辰庄内戦争録』)

「開墾士氏名」の筆頭に仁科理右衛門の名あり。

・明治33月椿佐一郎は「新徴組を一括して新徴組募集当時の趣旨に復し尊王の途を講じ」るため「仁科天野の二人を党与にせんと欲せしに()仁科の密告に依り」、仁科と執政部が謀り椿佐一郎を刺殺した。(千葉「新徴組史料」)

・明治55月高尾文吾楽岸寺業輝が病気治療の帰路、懇意の尼寺で酒食の饗応を受けた事件で2人に切腹を迫った際、「仁科理右衛門井上政右衛門板木持参直に禁錮ニ取掛り云々」と。(中澤貞祇記録)

・明治5724日庄内脱走後連れ戻された尾崎恭蔵に対して、公正な「新王政御法りの処置」をとの新徴組士らの主張の中「理右衛門義御家ヲ背キ其上同士之誓ヲ破候故割腹申付然与強而申聞候」と。(前書)

・明治63月分部宗右衛門の酒田県権大属戸田次作への談に「先の椿事件に際し仁科五郎が源弥、東蔵、為右衛門等の若者を扇動して余輩を斬らんと計画したことあり。それ以来仁科等に対し警戒致しおりしに今又このことを聞く、余輩の忿激その極に達す」(『分部実行の生涯』)

・明治65月下旬、庄内脱走旧新徴組士の訴えにより赤澤、仁科()等執政部と親しい一派が司法省から「御不審之義有之候条捕縛之上当省へ可差出候事」と召喚を受け東京へ護送収監される。(千葉「新徴組と庄内藩) ・明治73月、禁獄90日の判決あり。

明治8年鶴岡に居住事実あり。 ・明治147月の松ヶ丘開墾場社員名簿に仁科欽治とあるが。

『上毛剣術史』・小山松『新徴組』

馬場兵助

 後市右衛門

 名・武忠

24

3番組

父母妻3人 ・日野宿荒物商扇屋の馬場市兵衛長男

天保12715日生

多摩郡日野宿住居

新徴組入り ・「目録」に33番玉城織衛組平士、「組別名簿」に小頭玉城織衛組平士として名あり。

慶応4年庄内入り(家族3)

明治初年に市右衛門と改名、鶴岡城下東屋敷に居住。明治77月神奈川県へ貫属替をし、日野宿の馬場市兵衛方に一時同居(家族5人) ・同年還禄資金354円を得て、12月神奈川県程久保(日野市)の官有林五町七反余の払い下げを申請する。

明治19110日歿、享年46歳。

佐藤彦五郎道場で近藤周助に天然理心流を学ぶ。日野八坂神社近藤周助の奉額に馬場兵助藤原武忠の名あり。

『日野市歴史館叢書』第6輯 ・鈴木克久『峠越え』

土方歳三

29

6番組

不明 ・土方義諄4男 ・天保655日生   

多摩郡石田村住居

出生前に父を失い、6歳で母と死別。後兄喜六夫婦に養育され、11歳で江戸の伊藤松坂屋へ丁稚奉公に出たが長続きせず。17歳で江戸大伝馬町の呉服屋に奉公に出るも女中と関係を生じて帰郷、後家伝の石田散薬の行商の傍ら、義兄佐藤彦五郎道場で近藤周助に天然理心流剣術を学ぶ。ここで近藤勇と義兄弟の義を結び、江戸の試衛館道場に寄食して修行する。

上洛後近藤勇らと新選組を結成、副長となる。

慶応4年近藤らと甲陽鎮撫隊を結成、甲州勝沼の戦いに破れ、近藤の官軍本営出頭後は幕府脱走軍の一方の将として野州から会津に転戦、仙台から榎本武陽らと北海道へ渡る。明治元年11月函館五稜郭を占拠、函館政府の陸軍奉行並に選任される。翌年3宮古湾の甲鉄艦奪取に失敗後、二股峠の戦い等に奮戦したが、同年511日一本気関門の異国橋付近で銃弾に斃れた。享年35歳。

日野石田寺に墓碑と顕彰碑、函館の称名寺に供養碑等

千葉県域からの浪士組参加者たち(7)

伊藤滝三郎

37

5番組

妻子2人 ・長百姓又右衛門2男 ・奥医師杉枝仙庵浪人 ※妻は大御番加納備中守組同心和田善右衛門娘

山辺川場村 ・当時芝口露月町に稽古場所持(「江戸芝口二葉町で奥医師杉枝仙庵方に勤め柳剛流の道場を経営」・嘉永74月以来)

新徴組入り・「目録」に34番三村伊賀右衛門組平士、「組別名簿」に三村伊賀右衛門組平士で名あり。「柚原日記抄」に「文久3912日三村伊賀右衛門組合へ」として瀧三郎他4人の名あり。 ・元治元年2月小頭 ・「公私日記」慶応4年1月24日条に「伊藤滝三郎養育伊藤新之助儀文武稽古処江差出申度旨願出ル」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「田川温泉場寄宿帳」に「宿又右衛門、先代瀧三郎養子、伊東民三郎」とあって瀧三郎の名なし。

「庄内戊辰戦争出張姓名」に名なし。慶応4113日死去、養子民三郎(川場村石川源右衛門2)跡目相続。 ・「開墾士氏名」に伊藤民三郎の名あり。 

・明治147月の松ヶ丘開墾社員名簿に民三郎の名あり。民三郎は以後も庄内に居住。

「市中見廻日諸留」(慶応元年6月1日~98)

『幕末新徴組始末―峠越え』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号

酒井寿作

22

7番組

親妻子3人   ●香取郡並木村住居

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士に名あるも「組別名簿」に名なし。 ・『歴史のなかの新選組』には「元治元年2月出奔」とあり。 ・以後の去就不明。

寺田忠左衛門

34

3番組

妻子3人   ●香取郡神埼本宿住居

文久3415評定所に呼び出された22人中名あり。 ●新徴組入り ・中村正行「忠士日記」に「病気ニ付難相勤御暇候ニ付聞済ニ相成候、小倉平太組寺内()忠左衛門、(文久3)六月十六日」とあり。小山松「新徴組」によれば、この時共に脱退したのは朝比奈儀三郎、神代仁之助、中沢造酒之丞、河野和蔵の4人。

・以後の去就不明。

椿佐一郎

 名・則忠

30

6番組

親妻子4人 ・百姓椿佐七(甚兵衛)2

香取郡植房村住居

新徴組入り ・「目録」24番大津彦太郎組、 「組別名簿」に共に大津彦太郎組平士に名あり。 ・中村正行「御用留」文久355日条に記される小頭19名中に椿の名あり。 ・同年同月19日取締付任命の18名中に椿の名あり。 ・同年727日付廻状に「()椿佐一郎組柏尾馬之助庄野伊左衛門組小頭申渡候間此段御達ニ及候云々」とあり。 ・柚原勘五郎「柚原日記抄」同年8月条に「椿佐一郎組合へ桜井彦太郎、天野静一郎、堀越金吾、関根一作」とあり。 

・中村正行「御用留」元治元年2月条に「昨年中剣術出精ニ付為御賞誉左衛門尉殿より小菊紙被下候」として椿佐一郎の名あり。 ・同年6月中村定右衛門宛申渡書に「椿佐一郎、右は今度黐木坂下屋敷え引移之上、直ニ中村定右衛門組合え割入申渡候間、諸事小頭得差図、念入可相勤候」と。(「中村定弘氏所蔵文書」)

慶応4年庄内入り(病弱の妻子は遅れて庄内入りと) ・「田川温泉場寄宿帳」、「戊辰庄内戦争出張姓名」、「開墾士氏名」に椿の名なし。 ・「人名移動詳細」に「湯田川温泉より脱走暗殺せられたるとの説あり」と。

・千葉弥一郎「新徴組史料」に「椿佐一郎は千葉県の産にして、清川八郎と進退を共にせし村上俊五郎の義子にして、文武の修養相当にあり。気節あるの士なり。尊王は彼が常に唱ふる所、戊辰の役清川戦争と同時に彼は町奉行の檻倉に繋がれ、九月の始放免せられ湯田川の宿所に帰る。入檻せらるる当時、敢て官軍に通じたにはあらざるも、彼が平素に依り警戒せられしものならん。老生とは無二の友にて、()老生が鶴岡より妻を娶りたるを悦ばず、尚早を説きたる事あり。椿が不軌の目的とする所は、庄内の藩情を政府に申告し、新徴組を一括して新徴組募集当時の趣旨に復し、尊王の途を講じ成すあらんとの計画にして、仁科・天野の二人を党与にせんと欲せして云々」とあり。

・中沢貞祇の記録に「椿佐一郎事明治三年三月中仁科理右衛門椿佐一郎両人従弁事御用ニ付急速出立候様向役人共ゟ達有之依之同月廿日椿義出立仁科義ハ追而出立之旨沙汰有之則椿義廿日昼頃出立尤松平権十郎宅江立寄候様沙汰ニ付立寄候処其侭ニ而出候事見候者無之与申或ハ闇殺いたし候抔ト区々之風聞之候」と。(司法省へ出訴の旧新徴組士らの御調御尋談口上書)

・上記記録に「(椿が松平権十郎邸に立寄り)其ニ而出不申候由之風聞も有之候或ハ於和田東蔵宅酒を調ひ種々佐一郎越饗応いたし深く酔居る候処新井縫右衛門萩谷弥太郎手早く首縄掛〆縊候処中川一金玉(原注・カ)蹴殺候哉之区々之風聞有之候」等の記事あり。(佐々木正健稲熊繁樹の証言)

・田辺儀兵衛「公私日記」明治341日条に「鈴木弥平太、庄内ゟ昼早ニ而罷登、新徴組椿等為申合致し云々ニ付、同組取頭ゟ来状、但庄内三月廿四日出立之趣」とあり。

・明治28月椿佐一郎の妻長男(万次郎)を産むも、同年1210日死去。翌311日妻も死去する。湯田川長福寺の妻子の墓石に「私ハ死セル子ヲ嘆キ悲シム妻ヲ哀レミ放心ノ体ナリ、妻ハ明治3年元旦逝去、妻ト子ハ別々ノ地ニ生マレ同ジ家ニ死去ス、私ハ椿トイウ姓ニテ、椿ニハ生命ノ長ク目出タイ故事ガアルガ、シカシ死ハ誰ニモ襲イクル、ソウトハ思イナガラモ妻ト子ヲ思匕続ケテタダ泣哭スルバカリデアル」と。(小山松『新徴組』)

・中沢貞祇の記録に「椿慶一郎 右父佐一郎東京へ登候道中ニ於て出奔ニ付御大法之通家断絶被仰付候得共御構無之候間親類共引取候尤生涯壱人扶持被下候 (明治4年カ)五月十五日」とあり。

『日野市歴史館叢書』第10輯・小山松『新徴組』・『上毛剣術史』・子母沢寛『露宿洞雑筆』・吉野式『幕末諸隊研究』第8号・鈴木克久『峠越え』

殿内義雄

 称・大二郎

34

道中目付 後1番組

1人ヵ ・名主土屋忠右衛門季子 ・元結城藩水野日向守家来  ※土屋家屋号「殿内」

武射郡森村殿内(結城藩領) ※土屋家の屋号「殿内」

安政3年昌平黌入寮、翌4年退寮。文久2年昌平黌再入寮、翌3年退寮。

中村又太郎(久留米浪士・1番組平士)の妹を妻とする。殿内の死後妻は鎌田昌琢(奥州中村・3番組平士)と結婚。

文久3219日廻状に「殿内義雄、右は目付役差免根岸友山組ニ入候云々」と。 ・翌3(日不明・10日ヵ)浪士取扱鵜殿鳩翁より殿内、家里次郎に対し「有志之者相募候ハハ京都江戸之内江罷出候義ハ其者之心次第可致候、京都ニ罷在度申聞候者ハ会津家々中江引渡、同家差配ニ可随旨可被談候」との指示書が出る。

通説では浪士組内での京都残留者の募集とされているが、広く組外有士の募集を託されたものであることは、ⅩⅡ「京都守護職の浪人対策と浪士組」に詳述。

京都四条橋で、近藤勇らに殺害される。近藤勇の郷里宛て書簡に「同志殿山義雄と申す仁、去る四月(3)中四条橋上ニ而打果シ候」とあり。

・「世話集聞書」に「昨夜(25日夜)四条橋之上ニ大小差、切殺され居ル由承リ候ニ付、高橋癸亀一同参リ見物致し候処、藩中者と覚敷者ニて頭上を切られ、袈裟ニ切られ、左手首より小ゆひの処迄手に掛て疵有り、嶋之縞高袴、羽織ハ鼡地ニて紋付、衣類ハ唐木綿を着用こん足袋着ス、脇ニ茶屋提灯有之、大小柄袋有、大小と懐中ハ闇討ちニ御役場有之候付()後よりやみ打ニ被致候と申説も有之、又弐人ニて被殺候と申説も有之候得共不明」と。

・「前書」に「廿四日ニ四条橋爾て被切殺候者ハ壬生浪士之内ニて殿山義雄ト申者之由ニて、兼而浪士仲ケ間ニても如何之儀共有之、仁良満礼居候よしニテ、右殺候者ハ仲ケ間之内ニて殺候と申説なり」と。

新選組人名大事典』等各種新選組関係事典・吉野式『幕末諸隊研究』特別版

山田官司

 名・文次

 号・鏡浦

39

 

1番組小頭

母妻子5人 ・百姓千右衛門2男 ・文政8年生

平郡亀ケ原村住居

北辰一刀流千葉周作に学び、書を藤森弘庵、絵を菊池容斎に学ぶ。「武術英名録」、清河八郎玄武館出席大概」に山田官司の名あり。

久留米藩士佐田白茅の「根岸友山小伝」に「白茅滞留中(安政2年根岸家に)剣師千葉門人某来、数週間伝剣術、此時友山築振武所」とあり、この門人某が山田官司らしい。 ・新井庄司の覚書(『小川町史』)に浪士組参加のために組織した「甲山組」30人の隊長3人中山官司(他は根岸友山と徳永大和)の名あり。 ・文久323日付で根岸友山が江戸から郷里の息子伴七に宛てた書簡に「山岡宅へ被招隊長三十人御選に相成候、武州にては我等豊洲被仰付、常見一郎被仰付候、山田官司此方へ被仰付云々」とあり。

久坂玄瑞「江月斎日乗」万延元年45日条に「午後千葉栄二郎塾へ行、多賀生(勇ヵ)及房州人山田官司(原注・剣客)津高槻処士宇野東桜(原注・源三郎)と八辻(原注・四谷)に飲す」とあり。

新徴組入り ・文久3419日世話役 ・同年六月末剣術教授方兼務 ・元治元年2月文学世話心得() ・慶応2年六月肝煎取締役

・中村定右衛門「御暇申請候一条之事」に、元治元年黐木坂屋敷大棒杭事件に関し押込めとなった定右衛門の親族がその救済のため「山田官司ニ面会、種々相談ニ及

候処、同人申ニ迚も何度嘆願差出し候共役所え打込被置候事必定ニ候間、口上ニて申立候より外手段無之、右ニ付ては肝煎衆え夫々土産持相願ミ廻り、殊ニ同役教授方えも廻り、一先帰郷可致、いつれ共当暮之中之御免ニ相成候様、肝煎一同ニて精々致候由云々」とあり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・「田川温泉寄宿帳」に「先代官司長男幼少 山田文太郎、山田官司は三四番組肝煎取締剣術教授方百石 本高八十石 役扶持二十石」 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に2番隊取締役とあり。 ・明治元年912越後国境関川の戦いで左脇腹から背骨にかけて貫通銃創を負い、翌年51破傷風のため死去。享年45歳。 墓は鶴岡総穏寺、千葉県館山市の横峰堂に顕彰碑。

官司は勝海舟の妹や娘に薙刀を教授し、庄内入りの時には海舟から則長の名刀を贈られた。(小山松『新徴組』)

・継嗣文太郎(文明)は大泉藩過労松平権十郎から愛されて、藩校致道館で学び、後に庄内神社社掌になった。詩歌や篆刻の才があり、父官司の肖像画を残している。(同上) ・(官司は)身長六尺二寸の偉丈夫、眼光は鋭いが、性いたって温和、かって怒ったことがなかったという。(同上)

(官司は)漢学の素養もあり画は下手であったが常に楽しんで居った。撃剣は千葉周作に師事し、画は菊池容隣に師事した。刀の縁頭に孝經の一章を彫刻する抔、武士的堅固の人であった。先づ文武兼備と賞揚してよかろう。後ち山田三郎と共に百石を賜ふ。戊辰の戦役には各地に転戦し、後ち小名部口の激戦で敵の砲弾破裂し、脇腹と背に重傷を負う。陣中を退き、湯田川村に在って療養を加へ中途快方に赴きしも再発して終に没した。(千葉「維新前後の庄内藩)

千葉「新徴組と庄内藩」に「その男文明は後田林の開墾に従事し後ち小学校員の職に就けり」とあり。・「田川温泉場寄宿帳」に「先代官司長男、幼少、山田文太郎」とあり。・明治147月の「松ヶ岡開墾場社員名簿」に山田文太郎」の名あり。・『庄内人名辞典』に「長男文明はのちに庄内神社」社掌をつとめた」と。

著「千葉成政先生夜話聞書」

『戊辰庄内戦争録』・『庄内人名辞典』・小山松『新徴組』・『久坂玄瑞全集』・「むすび」105号・吉野式『幕末諸隊研究』5周年記念号・子母澤寛『逃げ水』

 

ⅩⅥの7 【埼玉県域の浪士組参加者たち(3)】

(は行~ )   16

 姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

蓮見源次郎

32

3番組

1人   ●埼玉郡戸ヶ崎村居住(三郷市)

「目録」に名なく、江戸帰還直後に加藤善次郎らと帰郷か。以後の去就不明。

神道無念流加藤善次郎の明治10年5月菖蒲神社奉額に門人名及び「建具師蓮見源次郎」とあり。

福永正蔵

40

道中世話役

母妻子4人 ・修験福永山正蔵

・文政7年生ヵ ・北有馬太郎門人

高麗郡赤工村住(飯能市)

「目録」に名なく、帰府直後に帰郷か。

福永山正蔵院に関し、『新編武蔵風土記稿』に「下赤工村、福山院と号す、本山修験郡中篠井村観音堂配下なり」と。現在廃院。

「北有馬太郎日記」安政51021日条に「正蔵院来行束修」、翌6310日条に「与(山川)達蔵正蔵院詣子権現社」、同年626日条に「正造院来」等とあり。※『漂白の志士・北有馬太郎の生涯』で当福永山正蔵院と長岡山正蔵(飯能市南川)とを混同したため、『埼玉の浪士たち』も福永正蔵を埼玉県域出身者から除外する誤りを犯しました。

武蔵国入間郡森戸村本山修験大徳院日記」弘化3119日条に「詩発会是ゟ一月三日位宛致ス人数者()赤工正蔵院玄有云々」と。又「赤工村正蔵泊』、「赤工正蔵院良山来泊云々(天保1512)」等の記事あり。

高麗神社祠掌高麗大記『桜陰筆記』元治元年611条に「大徳院正蔵院来る。五月廿二日寄合之模様、且正蔵院義先達江無届此度宗門武学館取立之願入ニ加リ候段大久保表ニ而詫済候由通達之事」、同月16日条に「正蔵院ニ逢、英士之約束申置候事(渋沢栄一の関東人選御用廻村に関し)」、翌年101日条に「正蔵院山川達蔵来る、帰る」等の記事あり。後の去就不明。

堀内大輔

 名・義信

36

一番組

不明 ・堀内庄右衛門政信子

秩父郡野上町(長瀞町)

「目録」に名なし。 ・「菅谷村報道」(嵐山町の広報紙)中「新徴組(9)」に文久3515日「水野倭一郎書出、堀内大輔、右の者は自分病気に付願済みの上帰国仕り、快方次第罷り出で御用相勤めべく申上ます」との記事あり。

野上光洞寺廃寺跡の墓地に、文政484日死没の堀内庄右衛門源政信(行年60)の墓石に「嫡子堀内大輔義信建之」とあり。大輔自身の墓石は確認できず。

堀内家は房州里見一族で甲斐の堀内城の城主だったが、里見一族滅亡後当地に土着して堀内と改姓し、維新後再び里見姓に復したという。(野上・里見某氏話)

細田市蔵

24

6番組

不明  ●入間郡黒須村(入間市)

「目録」に名なく去就不明。

甲源一刀流比留間家第2代半蔵利充の神文帖元治元年3月の項に「黒須村、細田一三」とあるという。(入間市の剣士たち』)

市内蓮華院の墓地に、「清巌壽□信士、浄月壽栄信女」と刻まれた夫婦墓の施主が細田市造」とあるが、墓誌は風化で判読できず。 ・細田家は屋号が「大屋」と称する酒屋(酒造業ヵ)で、維新後入間川の渡船場の管理をしていたと。

細田精一郎氏談「父から、曾祖父は新徴組に参加した人で、子供の頃、泣くとよく父から<泣くな、お前のひいお爺さんは二本差しで歩いた人なんだぞ>と言われたが、曾祖父は若くして亡くなったと聞いている」と。

吉野式『新徴組研究』第3号

松沢良作

 名・正景

41

四番組小頭

母妻子4人  ●大里郡富田村(寄居町)

甲源一刀流強矢良輔武行の高弟 ・邸内に道場開設

・門人帖(「神文帳」)219(信濃、越後、下野、上州等多岐に渡る)列記。中に浪士組士小沢勇作、中島政之進、町田政治郎の名あり。

安政48月妻沼の聖天山の貴惣門に奉額。額面に講武所頭取森川久右衛門の名あり。又、飯野清三郎、須永宗司の浪士組士や天然理心流横田馬之助行勝等と共に神文帳の人数を遥かに越える門人名が記されている。又願主松澤良作源正景の下に松澤主計源正信とあり、良作の子か。 

・小沢義光蛭川駒形神社の奉額の師匠席に松沢良作の名あり。

山岡鉄舟筆記「尊王攘夷党発起」中に「幹事、嵩春斎、桜田良助、松沢良作()」とあり。

広報誌「菅谷村(嵐山町)報道」に「富田の松澤、甲山の根岸より要請がありましたので水野倭一郎取計らい、内田、新井、松本その他の面々により相談の結果(浪士組に)参加したのであります」とあり。

中村維隆(『史談会速記録』合本19)の談話「(偽浪士朽葉新吉らを取抑えて)松沢良作といふ男に預けて置いた」と。 ・『東西紀聞』に「当地浪人共夥敷当月(文久34)二日ゟ五日此迄浅草御蔵前家持大家幷大伝馬町日本橋辺大家を見込押借()右五人頭立候而押込候由云々」として石坂周造らと共に松沢の名あり。 ・同月23日付浪士組有志一統の池田徳太郎宛書簡に「松沢良作事十四日夜出奔仕候へ共十五日へ欠込」とあり。

・松沢良作は和田理一郎と共に大関肥後守預となる。

奥平栄宜「明治戊辰變見聞録」に「明治元年三月二十八日出京松澤良作に会し石坂周造、村上俊五郎と共に勝安房、山岡鉄太郎両氏の命を受け、徳川幕臣誠忠隊三百余名下総流山に引集合せしめ彼等の徒を鎮撫云々」と。

墓は富田の大日堂墓地、「明治十二己卯年八月十八日行季六拾有一」とあり。

『藤岡屋日記』・『埼玉叢書』・『埼玉剣客列伝』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号・『幕末維新埼玉人物列伝』

松本為三郎

 名・年一

 通・半兵衛

21

1番組

父母妹3人 ・甲源一刀流道場主百姓松本半平(新井庄司師匠)長男 ・天保131115日生

比企郡上横田村住居(小川町)

新徴組入り ・「目録」に名なし ・小山松『新徴組』及び『歴史のなかの新選組』に95日脱退(依願永暇)と。

父松本半平は水野倭一郎の父年賀から甲源一刀流刀法を学ぶ。為三郎は水野倭一郎年次に学んだ。

甲源一刀流宗家逸見愛作の明治14年の宝登山神社奉額師範代席、同じ逸見愛作の靖国神社の奉額目代席、瀬山鉄五郎の明治45年の鎌形神社の奉額師範席の松本半兵衛の名あり。

為三郎の墓誌に「()弱冠劒法ヲ学ヒ兼テ算術ヲ□ム造詣スル所アリ、文久三年将軍家茂天下ノ壮士ヲ募ルニ応シ新徴組ニ入ル、幾許モ無ク父疾ニ會シ帰田、明治九年地租改正ノ事ニ當リ大ニ勉、晩年書翰墨ノ間ニ遊ヒ□花盆景ヲ娯ム、本田氏ニ配シ三男一女ヲ生ム、昭和4年十二月二日歿享年八十七長子為太郎家ヲ嗣ク云々」と。

・墓は上横田の曹洞宗輪禅寺

水野倭一郎

44

1番組

妻子孫6人 ・名主水野清吾年賀長男 ・文政5年生

比企郡志賀村(嵐山町)

父年賀は甲源一刀宗家逸見多四郎義年の高弟。根岸友山も年賀の門人。宗家5代多四郎長英の三峰神社の奉額(天保13)に「初目録、水野清吾年賀、男和一年次、属弟一千五百人」とある。 ・邸内の道場を「試関演武場」(『埼玉県教育史』に開設文政5年と)と称し、倭一郎も此処で修行し、父年賀死(嘉永2)後経営を引き継いだ。

新徴組入り ・「目録」に5番小頭、「組別名簿」に小頭として名あり。 ・元治元年229日達文に「右は昨年中剣術稽古出精上達ニ付、為御賞誉左衛門尉殿より小菊紙二束被下之、右は昨日達落ニ付、今日為心得及達候」として3名中水野倭一郎の名あり。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊伍長で名あり。 ・「戊辰庄内戦争録』に、8月5日山田(由利郡由利町)の庄内兵を攻撃してきた官兵に対して交戦、「(官兵)坂ヲ下リ畔ヲ渉リテ引退ク処ヲ二番半隊山田官司ヲ先トシテ山ヲ駆下シ二番三番隊一手ニ成テ追撃ス山田官司水野倭一郎太刀打撃ニテ敵一人ヲ相討ス」と。

・この戦役には倭一郎の3男令三郎も2番隊平士として出陣し9月19日負傷(『庄内戊辰戦争録』)113日死去した。湯田川新徴組墓地の令三郎の墓誌に「()父ト共ニ新徴隊士トシテ庄内ニ来リ、明治元年七月ヨリ各方面ニ勇戦セリ、或ハ北境鳥海山ノ頂上ヨリ八嶋城ヲ焼打シ転ジテ南越後境ノ関川ニ於テ官軍ト戦匕、終ニ銃丸ニ膝ヲ打抜ヵレ病創ノ為明治元年十一月永眠セリ」とあり。 ・志賀の水野家墓地にも令三郎の碑あり。

「開墾士氏名」に名なし。明治77月熊谷県に貫属替(倭一郎の墓誌や『嵐山町史』には明治8年とある)

宝登山神社逸見愛作の奉額に名あり、

倭一郎の墓誌に「新徴隊剣之師範及小頭兼務」とあり、『嵐山町史』に「倭一郎は五番組小頭、剣術師範となり」とあるが、根拠不明。

明治36年歿 ・享年81歳 ・墓は志賀の水野家墓地

『埼玉県人物事典』・『埼玉剣客列伝』・小山松『新徴組』・「埼玉県武道家資料蒐集事業資料」・『埼玉大学紀要』・吉野式『幕末諸隊研究』第四号・『幕末維新埼玉人物列伝』

村田新作

36

1番組

妻子2人   ●比企郡平村住(東松山市)

小山松「浪士組上京日記」に「二月二十四日、脱退者、池田徳太郎、村田新作、町田政次郎」とあり。

「目録」に名なし ・去就不明

薮田幾馬

37

5番組

不明  ●武州忍浪人、当時小川町与力尾崎三蔵地借田中良吉同居。

脱退時期、その後の去就等一切不明。

嘉永6年忍藩松平忠国家中分限帳に薮田姓の藩士名あり。

山川竹蔵

28

道中世話役

不明 ・山川文次郎子 ・天保7年生 ・山川達造弟

高麗郡下赤工村住居(飯能市)

北有馬太郎門人。安政56月頃入門、「北有馬太郎日記」翌726日条に「晩万福寺と山川氏を訪ねる()赤工に達す(名栗川の)対岸乃山川氏宅の後也。達造竹蔵水を渡って迎えに来る。夜宿る」と、以後日記中に兄弟の名頻出。なお山川家は屋号「質屋」と呼ばれたと。又同日記翌61128日条に「与山川竹蔵其弟春之輔来」、翌月26日条に「山川竹蔵山川春之輔去」と。

兄達蔵及び弟春之輔も北有馬太郎の門人であった。

新徴組入り ・「目録」32番三上七良平士 ・「組別名簿」桜井彦太郎組平士 ・文久311月脱退(小山松『新徴組』) ・『相楽総三とその同志』に「山川竹蔵は新徴組にいるとき小頭桜井万之助と争って斬られたという経歴がある云々」と。

文久312晦日付竹蔵の池田徳太郎宛書翰に「高橋君は当二十八日二の丸御留格にて講武所槍術師範役に被為成候、山岡君は未其儘に有之、此儀御周旋の程奉願候」とか「夷狄之蟲日本の地を喰ひ人民塗炭の苦九死一生も難斗、君之良薬を以て天下に施し彼蟲一時に云々」等とあるが新徴組脱退の記述なし。

相楽総三とその同志』に「薩邸焼討のとき鮫洲へ行かずに四散したものが多い。その中で判明しているものは」として「山川竹蔵、武州飯能、新徴組」とある。しかし「赤報記」中「江門著到人名」に「山川竹蔵、卯十一月帰郷元新徴組武州五郡飯能産」とある。

「町会議員当選の廻文と諸役員占拠の通知」に「下赤工邨、村総代(3)中に山川竹蔵の名あり。明治17年原市場村連合会議員下赤工村連合会議員に名あり。

大正5217日歿、享年82歳・墓は山川家墓地

「維新志士池田徳太郎」・『飯能市史』資料編・「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』)・『幕末維新埼玉人物列伝』

山川達造

32

道中世話役

両親妻子4人 ・山川文次郎長男 ・天保3711日生 ・山川竹蔵の兄

高麗郡下赤工村居住(飯能市)

北有馬太郎門人。「北有馬太郎日記」安政631日条に「携山川達蔵及曲竹乳婆抵奥富」、翌2日条に「遣達蔵乳婆及阿綱于江戸」、同月7日に「留乳婆于奥富、独与達蔵帰小瀬戸」とある(安井息軒の娘と離縁し嫡子小太郎を引き取ったのであ。)又、同月10日には「与達蔵、正蔵院詣子権現社」、826日条に「与達蔵出遊経原市場、芦久保、武甲山云々」等あり。

山岡鉄太郎清河八郎連名の池田徳太郎宛文久3120日付書簡に「()達氏にも口演仕候得共御恕察之上(浪士組士として)引集候人々には疑慮相生不申様御工夫、早々御誘引御出可被成()出府迄の処は御苦心有之度彼是多雑意外之苦心不能委細達氏より御聞取可被下候云々」とある達氏は達蔵と思われる。なお、池田徳太郎が武州上州等の浪士徴募に際し懐中にしたメモ書きに山川達蔵の名あり(『維新志士池田徳太郎』)

新徴組入り ・文久3519日世話役に選出されるも、その後の去就不明。

・達造の池田徳太郎宛同年418日付東帰要請の書翰中に「今以て御帰府にも不相成、将又御文通も御贈り無之甚以御案事申上候、何れにも御安否早々被仰聞被下様奉願候云々」とあり。

高麗神社祠掌高麗大記『桜陰筆記』慶応元年1020日条に「正蔵院、山川達蔵来る云々」とあり。

倉田施報「北有馬百之略傳」に「(文久元年5月師北有馬太郎捕縛に際し)門人山川達蔵急に家中の書を集め四方交通の文の如きは挙て之を火に投じ、以て其證左を滅し、其他は皆擢取して己れの家に秘し、令子の年やや長ずるを待て之を傳□、故を以て今尚幸に存せり云々」とあり。

・北有馬太郎嫡男安井小太郎略傳に「父は間もなく傳馬町の牢で病死した。時に文久元年九月三日。この間、私達(姉あり)は、赤工村に父の門人の山川達蔵といふ人がゐたので、ここに厄介になった。私はまだ生れて一年も立たない、ここで私は乳の代わりに甘酒ばかりをのまされました。この山川達蔵といふ人は、工科大学の教授となった山川義太郎の父であります云々」(『大東文化』第17)とある。

 ※達蔵の長男義太郎は工学博士、2男信次郎は文学士、3男弘毅は理学士。

『飯能人物誌』山川義太郎の条に「その父辰蔵は県令として自治に尽くし云々」と。 ・明治127月下赤工村戸長となる。他は未確認。

明治23221日歿、 墓は赤工の山川家墓地

『維新志士池田徳太郎』・『幕末維新埼玉人物列伝』

山岸金十郎

28

1番組

親妻子4人  ●比企郡高谷村住(小川町)

新徴組入り ・文久395日脱退、以後の去就不明。 ・「菅谷村報道」(嵐山町菅谷)に「五月十五日水野倭一郎書出、山岸金十郎、右者は親病気に付願済の上帰国仰せ付られ候、両三日の内出府云々」と。

湯本半蔵

29

 

母兄弟3人 ・勘五郎子

埼玉郡羽生村(羽生市)

新徴組入り ・「目録」に13番分部泉(宗ヵ)右衛門組平士湯本半蔵 ・「組別名簿」に小頭天野静一郎組平士湯本半蔵 ・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に湯本逸蔵、以後「明細書麁調」に湯本逸平とある以外逸蔵の名。

慶応4年庄内入り(家族2) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士に名あり 千葉「新徴組と庄内藩」に「(816越後国)高畑山の1番先に突出した場所には、大森浜は馬場兵介、長沢松弥、荒井荘蔵、小林守之助、湯本逸蔵、千葉弥一郎の七人であったが、午前十一時頃敵が進撃してきた」が防戦の結果不残逃げて戦は終わった、と。

・「開墾士氏名」に名なし。以後の去就不明。

・『歴史のなかの新選組』に「明治88月現在庄内在住の湯本安五郎は関係者か?」とあるが。

横山明

後・立山奇平

31

6番組

不明  ●川越浪人(川越在紺屋村とも) 当時斎藤熊三郎同居

新徴組入り ・「目録」に11番大内志津馬組平士

・「組別名簿」に小頭大内志津馬平士で名あり。・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に名なし。

・『藤岡屋日記』元治元年45日条に「右(大内志津馬組勝田芳蔵、横山明)は細川越中守瀧口居屋敷ニ罷在候留守居、渡辺善右衛門江戸抱六尺手廻り之者部屋ニ而、金銭勘定等之儀ニ付而は、右之両人目を付、其筋江懸ケ合、追々ニ最早五十両程も差出候由、然ル処又々此度五十両之無心申懸候ニ付、(大幅略)内々前文相話候処、以之外之儀、手前方(酒井左衛門尉留守居)ニ而組合志津馬呼出し、急度可申付旨、彼方ゟ返答有之、其後一度(もヵ)参り不申候由」と。

「赤報記」に「立山奇平、初名横山明平、小荷駄方、武川コヘ」、又薩邸脱出後「羽根田上陸」者の中に名あり。慶応43月下諏訪での追放者の中に名あり。

・『相楽総三とその同志』に「相楽総三の隊が、濃州柏原へ宿神したのは慶応四年正月二十七日で()二十八日大久手の宿で大谷総司(後の渋谷総司)、丸尾雄蔵(後の丸尾清)横山明平が三人づれで追いついて合流した」と、又「横山明(立山奇平)は道化たことのうまい男だったが、下諏訪で追放され、江戸へ出て官軍に斬り殺されたとも、会津人に斬られて死んだともいう」とあり。

高橋長信(雲州冬広)作刀の銘に「於江府雲州高橋長信作之、高木氏用刀山田官司横山明平試之裁鹿角、文久三年二月日」とあると。

相楽総三関係史料集』 ・「日野市歴史館叢書」第6輯、或は10

吉野唯五郎

29

1番組

祖母妻子6人 百姓助右衛門子

比企郡羽尾村住居(滑川町)

甲源一刀流刀法を学ぶ(師不明) ・中村清介の兵執神社の奉額(明治27)靖国神社逸見愛作の奉額(明治28)小鹿野神社の逸見愛作の奉額(明治28)、箭弓神社の大塚□八の奉額の師範席に吉野唯五郎の名あり。

「目録」に名なし、しかし「柚原鑑五郎日記」文久38月条に「今日組入、山田官司組合へ坂本周助、吉野唯五郎」とあり。

吉野唯五郎の養子吉野茂一も甲源一刀流の剣術家で、「上武武術英名録」等に名あり。

明治351119日歿 享年67歳 ・墓は吉野家裏山の吉野家墓地。

埼玉大学紀要』・吉野式『幕末諸隊研究』第四号

和田堯蔵

44

3番組

妻子五人  ●松平大和守浪人 ・当時信州更科郡真田信濃守領分住居

文久3415評定所に召喚され処分された者の中に和田堯蔵あり。 

新徴組入り ・「目録」に和田堯蔵組(配下4)あり

・「組別名簿」に名なく去就不明。

 

ⅩⅥの6 【埼玉県域の浪士組参加者たち(2)】

(さ行~な行)   17

 姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

島野喜之助

42

3番組

母妻子7人  ●埼玉郡志多見村住(加須市) ・島野家は志多見村の旧家で豪農(島野家分家で聴取・本家島野家は大地主で日枝神社まで他人の土地をふまず行けた富農だったが、現在は子孫が桶川市に在住と)

「目録」等に名なく、江戸帰還後帰村したらしい。

神道無念流宗家3代戸賀崎熊太郎栄芳に学ぶ。神道無念流「起請盟文入門帳」に名あり。小林助松晴村入門の翌天保9722日に入門。金子蔵之丞も同門。 ・万延版「武術英名録」に「神道無念流武州別処、嶋野喜之助」とあり、又「神道無念流免許皆伝系譜」に名あり。 ・加藤善次郎の菖蒲神社奉額(明治9)に名あり。 ・戸賀崎道場の門人帳弘化4年条に「武州埼玉郡志多見村 嶋野喜之介取立 松村熊吉」とあり。

喜之助の嫡男定三郎は弘化2年の生まれ。神道無念流大木伍兵衛柳眠に学び、維新後は志多見村議会議員や初代志多見村村長を勤める。義侠心に富む慈父のような人柄で、多くの村民に敬愛されたという。

島野家墓地は志多見の共同墓地、喜之助の墓は不明。

『加須の剣客小林丈助』・『加須市史』人物編

清水五()

 幼・森蔵

 名・誓()

30

1番組

母兄弟6人 ・酒造業清水弥右衛門誓一5男 ・母は根岸友山の妹(後妻、姉が友山の前妻) ・兄は安政6年横浜に出店し、パリ万博にも出品した実業家清水卯三郎。 ・天保5年生。兄卯三郎は文政12年生。

埼玉郡羽生町住(羽生市)

浪士組離京後も根岸友山らと京都残留。 ・『会津藩庁記録』文久3315日条「爰許江廿四人相残()此度私とも御差配ニ可随旨被仰付候」者の中に名あり。

・同月22日老中板倉勝静に将軍京都滞留を直訴建白した近藤勇18人の中に根岸友山と共に名あり。

・同月24近藤勇らによる殿山義雄謀殺前後に根岸友山らと京都を離脱、翌月23日以前に帰府。

新徴組入 ・文久3719日付「清水五一 親看病ニ付武州埼玉郡羽生町え差遣候間道中往返共人馬遣・休泊等相対賃銭相払、帰郷中其所之法度堅可相守もの也」、裏書に「()日限七月十九日より同月廿九日迄()右日限外れ候ハハ組除之積りたるへき事」の達文あり。

慶応四年庄内入り(家族3) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士で名あり。

明治5527日痔疾のため庄内で死去。享年39歳。家族は「わがよのき」に「(吾一は)□□□□□の家来芹沢の妹しもを妻とし、二人の女子をもうけたれどもみな失せたり。やもめのしもは山形より帰りわが家にしばらく居り、手狭なれば羽生の兄の方へ送りやり云々」とあり。2人の女児は庄内で死去。

吾一の墓は鶴岡総穏寺、及び羽生市正光寺

兄卯三郎の自伝『わがよのき』・『焔の人しみづうさぶろうの生涯」・『郷土羽生の先覚者しみづうさぶろう』・『新選組大人名事典』・『幕末諸隊研究』十周年記念号

清水小文治

恵造

48

1番組

妻子2人 ・百姓小文治子(明細書麁調)

大里郡小八ツ林村住(熊谷市)

新徴組入り ・「目録」に12番須永宗司組平士清水小文治、「組別名簿」に小頭清水小文治、「黐木坂屋敷絵図」に清水恵造で名あり。

慶応4年庄内入り ・「田川温泉場寄宿帳」に清水恵三と共に養子清水三郎とあり。 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士で名あり。 ・田辺儀兵衛「公私日記」慶応4811日条に「小文司手之者弐人此方江居候者、今度庄内表ゟ御人数参候ニ付相帰し、壱分ツツ手当為取申候」とあり。

・「開墾士氏名」に清水三郎の名あるも恵造の名なし。

・清水三郎は尾崎恭蔵と稲田隼雄の庄内脱走時、追手の1人として戦い負傷する。

明治72月貫属替(埼玉県へ貫属替の清水親威ヵ)

明治6917日酒田県へ寄留願いを提出した清水親盛は養子三郎ヵ。

現在小八ツ林地区に清水姓の家なし。共同墓地に清水姓の墓(天保年間迄)が確認できるも、清水家は甲山へ転居したとのこと。(村民談)

伊東滝三郎「市中見廻日諸留」(鈴木克久『峠越え』)

・千葉弥一郎「維新前後荘内物語」・小山松『新徴組』

杉山弁吉

  弁蔵

50

2番組

父子2人 ・百姓勘助次男

横見郡一ツ木新田村住(吉見町)

新徴組入り ・文久42月廻状に「右之者昨年中剣術出精ニ付為賞誉左衛門尉殿より小菊紙被下候」として杉山弁吉の名あり。

・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に弁吉の名なく杉山音五郎あり。「明細書麁調」に「杉山音五郎、亡父杉山弁吉云々」とあり。 ・音五郎は慶応4年庄内入り(家族2) ・「田川温泉場寄宿帳」に「先代弁蔵長男、杉山音五郎」とあり。

「庄内戊辰戦争出張姓名」3番隊平士に杉山音次郎、「開墾士氏名」に杉山音次郎の名あり。

明治77月杉山音五郎東京府へ貫属替。

一ツ木長泉寺跡墓地の杉山某墓石に「杉山家始祖は横見郡の当地を担当した原大隅の守の長女に杉山玄馬之守(滑川町出身)が婿入し、元禄年間本家大隅の守長屋敷富士先門前に第一分家として別居」し、以後繁栄して分家等十数軒に至るとある。原大隅守は武田信玄の家臣原美濃守虎胤の後裔で、虎胤の孫原勘解由良房が文録年間にこの地に土着したと。13第当主原照胤は馬庭念流の剣術家という。杉山家は明治7年の荒川の河川改修で1軒を残し総て他に移転した。

須永宗司

 名・武義

須永家系図には宗司照武

31

7番組小頭

親妻子4人 ・百姓与兵衛子(「明細書麁調」)・須永家系図の父の名は須永新五郎照国 ・天保3年生。

幡羅郡飯塚村住(熊谷市)

甲源一刀流を学ぶ(師不明)安政4年松澤良作の聖天院貴惣門の奉額に、代師範席に須永宗司の名あり。 ・「武術英名録」に「甲源一刀流 深谷在 須永宗司」とあり。 ・邸内に剣術道場があったと伝わる。又宗司は「甲源流の剣術を好くせし人、小兵なれど気概あり」と。

新徴組入り ・「目録」12番組小頭、『組別名簿』小頭 

文久3521日廻状に「()壱番組小頭山田官司五番組須永宗司両人親病気ニ付立帰帰国願候ニ付承届ケ出立申渡候間云々」とあり。

「須永家系図」に「元治元()六月五日卒ス江戸牛込法泉寺薨年三十三歳」と。『太田村誌』に「慶応の年遂に新徴組の邸に悶死す」又「痔疾手術が真ならん」と。

「明細書麁調」に「須永宗太郎、亡父宗司()庄内入、(家族)二」、「田川温泉場寄宿帳」に「楽隊、先代宗司長男、須永宗次郎」とあり、「須永家系図」に「須永宗太郎義武()太田村大字飯塚黒沢作次郎ノ長男ニ生レ五歳ノ時父ヲ失ヒ十一歳ノ時母ノ再婚先ノ須永宗司ノ死後其養子トナル養父ノ跡ヲ継ギ新徴組ニ入隊ス」とある。

・「黐木坂新徴組御用屋敷絵図」に須永宗太郎の名あり。

・「庄内戊辰戦争出張姓名」、「開墾士氏名」共に宗太郎の名なし。 ・明治79月熊谷県に貫属替。

妻沼町誌』に「須永宗司は、大阪方の残党須田弾正親義が武者修行中発起してこの地に土着、姓を須永と改めて百姓になった人から十代目の新五郎照国の長男として天保三年に出生した」と。

『埼玉人物事典』須永武義(宗太郎)条に「明治7年陸軍兵学寮に入り、西南戦争に少尉で従軍、日清・日露戦争にも出征した。近衛歩兵第2連隊長、第9師団参謀長、歩兵72236師団長を経て同43憲兵司令官に就任、44年中将に昇進、452月予備役編入となった。(大正14年没)享年71歳」とあり。

大里郡郷土誌」・『妻沼村郷土誌』・『埼玉剣客列伝』・吉野式『幕末諸隊研究特別版』

諏訪山熊次郎

 名・家継ヵ