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父林鶴梁の中泉代官としての活躍は、鋼三郎にも少なからざる影響を与えたと思われるので、その事蹟の幾つかを見てみよう。中泉陣屋への着任から半年も経たない嘉永7年1月のペリー艦隊の再来航には、直ちに近隣領主たちに出陣を促し、自らも20人近い配下等を率いて騎馬で御前崎まで出向いて指揮をとっている。また、幕府の海防費用の徴募に際しては、8,000両の上納に成功している。さらに、その年11月4日に発生した安政東海地震は、東海道筋日坂から舞阪にかけての壊滅的被害と天竜川筋村々に津波による甚大な被害をもたらしたが、鶴梁はいち早く情況見聞と勘定所への被害状況の報告を行った。また、自らも塩断ちをし、被害の甚大な袋井宿で自ら炊き出しを行い、夫食、囲穀、復旧資金の貸し出しを行っている。翌安政2年7月の暴風雨による天竜川と大井川筋の洪水被害にも、股を没する洪水の中を廻村し、直ちに夫食・救い金の手当や宿村相続金貸付等を行った。さらに、その年9月28日にも大きな地震があり、翌10月2日には江戸に甚大な被害をもたらした安政の大地震が発生した。こうした度重なる災害被害をうけ、鶴梁は恵済倉という貯穀倉の設立を発案し、富者の拠出金と自らも130両余の私財を投じて着手した。しかし、これは転任によって完成を見ることは出来なかったが、後任の代官に引き継がれて、維新後この利金で中泉小学校が設立されたという。ちなみに、鶴梁は就任に際して決意した心事を、後年江戸の知人泰壽太郎に宛てた書簡で次のように記している(『鶴梁文抄』)。
「僕任に到って思えらく、職は治民に在り。夫れ治民の道は先づ己を修むるに在り。乃ち自ら鞭策を加え、身を慎み倹を守り、其の事を策するや民材を費さざるを以て努めと為し、請謁を断ち苞苴を禁じ、其の訴を訊く民に冤を致さざるを以て主を為す。平生為す所此くの如きに過ぎず。然れども此等の事は世俗の笑うて迂と為す所也。況や三遠の民風狡猾にして、俗詐欺を尚び、教条の施す所往々方□円鑿相合す可からず云々」
鋼三郎はこうした父鶴梁の覚悟と、困難な職務に懸命に取り組む姿を目の当たりにしていたのである。鋼三郎の人間形成に、大きな影響を与えたであろうことは間違いない。また、職務以外でも鶴梁を中泉陣屋に訪ねてくる士人も多かった。安政2年の12月4日には、越前藩士橋本左内(景岳)がその師吉田禎蔵(東篁)の紹介状を携えて鶴梁を訪ねて来た。左内はこの年、医官を免ぜられて御書院番に抜擢されていた。その左内が出府を命ぜられて前月28日に福井を発ち、上府の途次わざわざ中泉に鶴梁を訪ねたのである。その日の『鶴梁日記』には「(前略)橋本左内罷越候間対話之事、尤同人義格別之人物ニ付、悉く吐露いたす処云々」とあり、その翌5日に鶴梁が江戸の左内に宛てた書中には、「御初対面には候へども、概略吐露之処、議論暗合、乃不覚鄙衷尽くし、近年の愉快此事と存候。乍去徹夜之長談、御疲労中御迷惑之儀と跡にて奉存候。余りに喜悦、心中転倒、種々申残候事多々、甚だ残念奉存候。(中略)今一度近き内に拝唔いたし度奉存候」(『橋本景岳全集』)と記されている。この時鶴梁50歳、左内は22歳であった。2人は徹夜で議論を交わし、左内が去った日の夜にはこの手紙を出しているのである。いかに鶴梁が感激興奮し、いかに左内が傑出した人物であったかが窺える。
鶴梁と左内の書通はその後も続いていたが、翌3年6月5日鶴梁の期待通り、帰国の途次、左内は中泉陣屋に立ち寄り、一泊して翌6日夕食後に中泉を後にして福井へ帰っていった。鋼三郎も当然左内と言葉を交わしたろうし、兄国太郎(当時24歳)より若い左内が父と夜を徹して論談する姿を眼前にして、16歳の多感な時期の鋼三郎も感ずるものがあったことだろう。
なお、父鶴梁はこの安政2年と前年の暮れに大切な友人を2人失っている。鋼三郎もこの2人とは面識があったと思われる。1人は、安政元年12月に他界した鶴梁の豊山塾の先輩尾藤水竹(積高・幕府儒官尾藤二州の子)である。尾藤水竹は「豪邁閑放家計ヲ省ミス赤貧洗フカ如シ。然レトモ食客常ニ十数人」(『義烈傅纂稿』)もあったため、その貧窮を見かねた鶴梁が、嘉永3年に浦賀奉行浅野梅堂(長祚)に推挙して組頭に就任した。しかし、間もなく病んで職を辞し、閑居していたがこの年死去したのである。享年は55歳であった。そしてもう1人は、翌安政2年10月の江戸の大地震で圧死した藤田東湖である。鶴梁は藤森天山からの知らせでこれを知ったが、天山に東湖を紹介したのは鶴梁であった。なお、鶴梁に東湖を紹介したのは桜任蔵である。
中泉代官就任以来の『鶴梁日記』には、職務に忙殺される日々のためか、以前のようには鋼三郎や家族の記述が少なくなっている。その日記から、安政3年の鋼三郎に関する記事を幾つか拾ってみよう。まず3月21日条に、「玄知来(中略)兼而預置候短刀気ニ不入候間、今日玄知江返却。且鋼三郎刀モ返候積申談置ク云々」とあり、8月25日条には「渡辺玄知江鋼三郎太刀作リ刀一本返却、但手紙添」とある。鋼三郎も17歳になっていたので、剣術の修行も積んでいたと思われるが。誰に何流の剣技を学んでいたのか、父の日記からは一向に知ることが出来ない。鋼三郎は後年見廻組与力勤方に任じられていることなどから、剣術も相応に身に付けていたのだろう。
『鶴梁日記』のこの年元日の条には、「泰蔵外七人、例之通り内坐江罷出、年始祝儀申述。自分、国太郎、鋼三郎謁云々」とあり、9月9日条には「泰蔵外五人、重陽之祝儀罷出、例之通於内座謁之。国太郎・鋼三郎待坐」とある。奉行所内の行事には鋼三郎も兄と共に、列席していたのである。また、4月5日条には、「国太郎、鋼三郎儀、惣太郎、忠吉召連、浜松辺迄遊歴いたし、玄知宅立寄、茶一箱相送ル、弁当喫帰ル。尤浜松之内所々参詣之上帰宅、夕七半時頃」と記されている。
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安政4年1年間の父鶴梁の日記は欠落しているが、この安政4年1月16日に鶴梁の畏友藤森弘庵が中泉陣屋を訪れ、同月20日まで滞在している。弘庵は関西遊歴のため、門人を伴って同月10日に江戸を発ち、この日中泉に立ち寄ったのである。弘庵に従っていた依田七郎(字百川・雅号学海・佐倉藩士)の日記(『学海日録』)の1月16日条に、「中泉に抵る。先生、県令林君鶴橋を訪ふ。林と先生と同に長野豊山に仕へて、高足の弟子たり。林奉待甚だ厚し。余、□塾に在りて、嘗て其の息男と相知る。林は俊才にして幹略多し。又政積有り。百姓畏服する」とある。また、翌17日条に「小林(国太郎)来りて会話す云々」とあり、18日条には「林令に謁す。云々」とあって、夫々に対話の内容が記されている。
『学海日録』19日条には、「林氏に滞す。小林と会話す云々」とあって、その記事の中に「林氏兄弟、長は名は轄、字は伯桎。次は名は鋼、字は叔錬。皆文才有り。叔錬より府官源道画く所の大野浦図、并びに本州聖福寺蔵ト氏笈図を贈らる」と記されている。鋼三郎はこの年18歳、兄国太郎は26歳、依田七郎は天保4年生まれの25歳であった。依田七郎は嘉永5年以来藤森天山に師事していた。この翌年には佐倉藩の藩校成徳書院の都講に任ぜられることになる。
翌20日、藤森弘庵一行は中泉陣屋を発ち京都を目指したが、その日の『学海日録』には「午後将に発せんとし、人馬皆至る。時に先生林令と話別久しうして出でず。日暮るゝに及びて乃ち出づ云々」とある。肝胆相照らす鶴梁と弘庵は、話もはずんで別れ難く、結局出発は夜になってしまったのである。弘庵一行は京都、津山、松山、姫路から西尾、山岡、大垣と遊歴し、8ヵ月後の9月13日に江戸に戻っている。勿論、帰路も中泉陣屋に立ち寄って鶴梁一家の歓待を受けていた。もっとも、『学海日録』はこの年5月19日以降が欠けているので、その詳しい状況を知ることは出来ないが、弘庵が江戸に戻った翌々月16日付けで鋼三郎の兄国太郎に宛てた弘庵の書中に次のような一節がある。
「(前略)過日は度々罷出不一方御厚情御周旋被下奉万謝候、早々呈一書鳴謝之積ニ御座候得共実ニ無寸暇稽緩海涵可被被下候、先達而令君(鋼三郎)ニも委細御書中之処、右書面間違候て、一旦江戸迄参候て、又々京迄返り夫ニ又々江戸え達候間十月二十日頃相達候、夫故如何相成候かと日々御案じ申候処、先斎藤(拙堂)へ御落着ニ候由、先々安心仕候云々」
藤森弘庵は江戸に戻った後、鶴梁と国太郎それに鋼三郎それぞれに礼状を出したのだろう。その鋼三郎への手紙が江戸と京都の間を往復して鋼三郎の手元に届いたのが10月20日頃だったらしい。それを弘庵が知ったのは、鋼三郎からの返書が届いたからだと思われる。弘庵の書中に「先斎藤へ御落着ニ候由」とあるのは、当時鋼三郎は斎藤拙堂の学塾に入門していたのである。弘庵が帰路中泉に立ち寄った際には、既に鋼三郎は家を離れていたらしいが、斎藤拙堂への入門の時期はこの年の何時頃だったか定かでない。
鋼三郎がなぜ斎藤拙堂の門戸を叩いたのかも不明だが、父鶴梁の意向があったことに間違いないだろう。鋼三郎が師とした斎藤拙堂は『叢書・日本の思想家』39等によると、名は正謙、字は有終、拙堂は号で、通称は徳蔵といった。寛政9年(1797)に江戸柳原の伊勢国津藩藤堂家(32万4千石)の上屋敷で生まれている。鋼三郎が入門した安政4年には61歳であった。拙堂は昌平黌で古賀精里に師事して朱子学を学んだ。文政2年(1819)23歳で儒員試補となり、翌年藩校有造館が創建されると、有造館儒員試補(10人扶持)となり、一家(父正修は藩校厨司)で津に転居した。同6年には有造館講官(150石)、翌々年には侍読を兼ねた。天保12年には郡奉行を勤めたが、翌々年には有造館督学参謀となり、弘化元年には督学となった。この間、藩主の上府に扈従して度々江戸に登り、諸名士と交わりを結んだ。
督学となった拙堂は、洋学館を設けて蘭学者を招き、また武場を拡張して洋式訓練を行い、安政元年には藩医とはかり、医学寮に種痘館を設けて種痘の普及を行ったほか、有用の藩士を江戸に送って洋学や西洋兵術を学ばせるなど文教の振興に力を注いだ。安政2年には幕命により将軍に拝謁、その年10月昌平黌儒官の命を受けたがこれを辞退して帰藩した。この時藩主自らが道に拙堂を出迎え、禄高300石に加増されている。なお、長岡藩の河井継之助は嘉永5年に江戸で拙堂に師事しているが、拙堂はこの年6月に江戸勤番で上府しているので、江戸在勤中も門人を取っていたのである。また、松山藩の三島貞一郎(中洲)は同じ年の春に津で拙堂に師事している。その時のことを、中洲が次のように語っている(「斎藤拙堂先生と茶磨山荘」・「斯文」収載)。
「先生は藩の用人格で城内に住んで居られるから、先生の宅へ入り込んで講義を聞くといふことは出来ない。他藩のものはめったに城内に入ることは出来ないから、(中略)昔はその藩が一万石でも三万石でも、その藩内は自分の天下であるから、外藩のものはめったに内へ入れぬ。(中略)その時城外に茶磨山といふのに先生の別荘があった。これは茶磨山荘といって、(中略)先生のいはるるには、私はたびたび茶磨山荘へ遊びに行からその時に御座れ、文章も見て上げやうということであったから、私はそれから先生の別荘へ行っては、文章を添削して貰ったり、先生の持って来られる弁当や酒などを頂戴して、一日山荘で学問の話をしたり景色を眺めたりして居った。それ故私の拙堂先生と会見することは月に三、四回程度であった」
鋼三郎の入門は、三島貞一郎が拙堂に師事してから5年余り後のことだが、おそらくほぼ同様の実態だったのだろう。茶磨山荘の前門を「迎遠門」といい、門を入った所に「方来舎」と塾があって、拙堂は毎月数回ここに来て遠来の塾生たちに講義していたという。なお、拙堂の年譜を見ると、この茶磨山荘は嘉永4年頃造営され、鋼三郎入門までの間に藩主自ら数度来駕したことが見える。拙堂の人となりや学問等について、先の三島貞一郎の文中に次のように記されている。
「要するに文章学といふ上に於ては、拙堂先生は日本に於ての泰斗であると云っても、決して誇張の言でない。又先生は政治経済の方にも心を用ひられて、昔は儒者、医者といへば、世捨人同様、世間に用のないもののやうに思はれたのを、先生は真の儒者は大に経世の志が無くてはならぬといはれて、或は郡奉行となり、或は用人となって、藩政の改革整理に努められたのである。徳川氏の末には、儒者にして国政経済の事に任じた人も大分有ったが、先生のやうに一方には俗務に鞅掌し、一方には名文章を多く余に発表されると云ふような精力家は少なかった」
會谷言成の「羽倉鋼三郎傅」に、「始、鋼三郎、拙堂斎藤氏ニ従ウテ学ブ、酒ヲ縦マニシ、無頼ナリ、拙堂其ノ人トナリヲ偉トシテ問ハズ焉、後、藤森大雅ニ学ブ」とあるというから、学問には真剣に取り組まなかったのかも知れない。『鶴梁日記』の翌安政5年の記述も5月以降は欠落しているが、その中で鋼三郎に関する記事は1月19日条に「国太郎ゟ鋼三郎書」とあるのみである。
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父鶴梁は、この年の5月に出羽国柴橋の代官に転任を命じられている。中泉で領民からも信頼され、職務にも誠実に励んで実績を上げたにも関わらず左遷であった。『江戸文人辞典』等は、鶴梁が攘夷論を持論とし、交わる人たちも攘夷論者が多かったため、幕閣たちから忌避されたためであったとしている。しかし、高橋雄豺「幕末の儒者林鶴梁」では、その理由を次のように推測している。
「『近世儒林編年志』には「案裁を経ずして事を理した」のが理由だとしている。あるいは承認をうけずに恵済倉の計画を実行したのをとがめられたのかも知れぬが、これは表面上のことで、おそらくはその年に井伊直弼が大老となり、将軍継嗣問題や開港問題について反対派を粛清し、鶴梁を引き立てて来た川路聖謨も五月五日に勘定奉行から西丸留守居役の閑職に移されたときだったので、川路の直系と見られた鶴梁が、江戸と京都の中央にあって、政治に関係の多い者の中枢にある中泉から動かされたのだろう」
柴橋代官所の支配地域は5万4200石余で、『県令集覧』によると、その属僚は江戸詰17名、柴橋詰6名、寒河江詰3名、大石田船改番所1名の合計27名であった。柴橋代官は江戸在勤であったため、家族全員で中泉を引き上げ、江戸麻布谷街の私邸に入った。なお、前年3月に鋼三郎の祖母(鶴梁の先妻の母という)が中泉で病没していた。鶴梁は在任期間中検見のため2回任地に赴き、廃坑同然だった管内幸生銅山の採掘に成功するなどの業績を上げているが、鋼三郎には直接関係がないのでここではその詳細は省略したい。
『鶴梁日記』は翌安政6年の1年間も欠落し、翌安政7年(3月18日万延と改元)から翌文久元年9月半ばまでが残存しているが、その安政7年1月7日条に、「国太郎・鋼三郎義、両林家。艮斎・藍梁宅江年始ニ罷越云々」と記されている。鋼三郎は江戸に戻っていたのである。何時頃鋼三郎が斎藤拙堂の方来舎を退塾して江戸に戻ったかは不明だが、先の「羽倉鋼三郎傅」に鋼三郎は斎藤拙堂に学んだ「後、藤森大雅ニ学ブ」とあることからその期間は僅かだったのである。ちなみに、拙堂の年譜によると、安政3年10月に拙堂は江戸から津に戻り、翌4年9月には大垣・関ヶ原・加納・岐阜等の周遊の旅に出ている。拙堂が津に戻った時期は不明だが、鋼三郎が教えを受けた期間はごく僅かだったのではないかと思われる。
鋼三郎が藤森弘庵に学んだ期間も僅かであったらしい。というのは、安政6年3月8日には鋼三郎は兄邦太郎と共に林家塾に入塾しているからである。なお、このことに触れる前に、鋼三郎が師事した藤森弘庵について記しておきたい。藤森弘庵は、鋼三郎が斎藤拙堂に師事した翌年(安政5年)の10月4日には幕吏に捕われている。弘庵が強硬な攘夷論者であったことは既記の通りだが、鶴梁が中泉代官に就任した年のペリー来航時、幕府の対応に憤激した弘庵は、「海防備論」を著して幕府に建白した。また時局を論じた「芻論」を烈公徳川斉昭に呈上していた。なお、この時烈公は弘庵を水戸藩に迎え入れようとしたが、弘庵が「二君に仕えず」と固辞したため、烈公は弘庵に10人扶持を給したという。これに対し弘庵は「仕えずして禄を受くるは非礼」なりとして、毎月6回宛て藩の講筵に出ることを申し出たらしい。ちなみに、弘庵の攘夷論に関し、安政4年に弘庵が世古格太郎の別荘を訪れた際に語った内容が、「唱義聞見録」(『野史台維新史料叢書』35)に次のようにある。弘庵は決して盲目的な攘夷論者ではなかったのである。
「今正議を唱ふる者今猶打払の策を主張すれとも是も亦的論にあらす既に戦争の機先年に在りて最早期に後れ候に応接あり今日の勢に及し事なれはいつれ交易はせされはならす然るに其交易を為に法令を正し境界をたてゝせされは終にいつく迄つけ上る事やはかりかたし此故に予も交易事宜といへるものを書せんとて既に草稿あり終にはいつれ戦争なれとも一旦下田にて約條せし事今訳なくこれを打払ひに及ぶ時は其曲は我にあり云々」
鋼三郎もこうした見解を聞かされていたのかも知れない。弘庵捕縛の理由は、水戸藩への密勅降下問題に関与した嫌疑等によるらしい。捕縛後の同月18日弘庵は「主人古賀謹一郎預け」となったが、実際には自宅謹慎であっという。その後、翌年2月に揚り屋入りを命じられたが、数日後には病気により再び宅慎となった。そして、その年10月27日に中追放の処分が下されたのである。「唱義聞見録」に、弘庵が呉服橋外で追放された際、「馬乗袴を着し覆面したる士五六人出来」って弘庵を籠に乗せて連れ去ったとある。鋼三郎もこの人数の中にいたのかも知れない。弘庵はその後「下総古賀辺へ行諸所流落下総行徳ニ門人ありて終に爰に卜居」(「唱義聞見録」)した。弘庵が卜居した「行徳」とは、現在の千葉県市川市である。
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父鶴梁の日記は翌万延元年1年間と、その翌文久元年9月まで残されている。鋼三郎21歳の万延元年1月7日のその日記に、「国太郎・鋼三郎義、両林家・艮斎・藍梁宅江年始ニ罷越」とある。「両林家」とは、幕府直轄の教育機関昌平坂学問所(昌平黌)の祭酒である大学頭林学斎(昇・前年9月父林復斎が死去後第12代大学頭を継ぐ)と、第二林家の儒官で西之丸留守居を兼務する図書頭林鶯渓(晃・林復斎の長男)の家である。『鶴梁日記』翌2月16日条には「祭酒不快ニ而休会ゆへ、国・鋼遊墨水、土産蜆一籠」、6月8日には「林祭酒へ国・鋼ゟ白砂糖一箱ヅツ遣ス」とも記されている。鋼三郎と兄国太郎は安政6年3月8日以来林家の家塾「弘文館」に通っていたのである。弘文館の入門者名簿「升堂記」のこの日の項に、「安政六己未、入門三月八日」として、「御代官伊太郎惣領、紹介伊太郎、林国太郎」と「同断、同次男、林鋼三郎」、と記されている。鋼三郎はこの日、兄と共に揃って林家塾に入門したのである。
正月7日に鋼三郎が兄と共に年始に訪れたもう1人の「艮斎」とは、昌平黌儒官の安積艮斎と思われる。安積艮斎は佐藤一斎の学僕として刻苦の末、二本松藩の藩校敬学館の教授となったが、嘉永3年に幕府の儒官に抜擢されて昌平黌で教鞭を取っていた。この安積艮斎については、『林鶴梁日記』を見る限り、父鶴梁との交際の事実は見当たらない。なお、艮斎はこの年の11月71歳で死去している。もう1人の「藍梁」の誰であるかは浅学にして知らない。
父鶴梁はこの月、鋼三郎のために屋敷内に書斎を増築している。その1月28日の鶴梁の日記に、「今朝ゟ六右江門来り、鋼三郎書斎并ニ廊下作事ニ取掛ル」とある。その翌月の鶴梁の日記を見ると、鋼三郎にとって不都合な事件があったらしい。事件の内容は不明なため、日記に記される事実を記すと、まず2月10日条に「鋼三郎義、藤田相詫候得共、勘考之上と申答置ク」とあり、翌11日には「藤忠参り、尚又鋼三郎之儀相詫候ニ付、今般ハ差免ス」とある。「藤田」「藤忠」とは藤田忠蔵で、義母の弟三井忠蔵(虎之助)である。忠蔵はこれ以前に藤田家に養子に入っていたらしい。伯父が謝罪してもすぐには納得なかったのだから、鋼三郎にとって許し難い事情があったのである。なお、11日の日記には「右同人(藤田忠蔵)義、庫之儀相詫候ニ付、右同断云々」とあるので、この事件には義母も関係していたらしい。余談だが、野口勝一著「野史一班」(『野史台維新史料叢書』36)に「忠蔵ハ後上野黒門前ニ戦死ス」とあるが、『彰義隊戦史』等で確認する限り彰義隊の戦死者中に藤田(三井)忠蔵の名は見当たらない。
この年(万延元年)、鋼三郎は昌平黌に入学している。しかし、入学に至るまでの経緯には曲折があったらしい。『鶴梁日記』同年3月26日条に、「川島此兵衛ヲ鋼三郎事ニ付相招キ乃談判候処、能々了簡承糺申度旨申聞候間、任其意此兵衛同道、今日鋼三郎義此兵衛宅へ参ル」とある。推測だが、鋼三郎は昌平黌入学に積極的ではなく、父鶴梁の勧めにも応じないため、鶴梁は鋼三郎の伯父川島此兵衛(鋼三郎の母の兄・旗本岡田将監家来)に説得を頼んだのだろう。もっとも、それ以外にも父鶴梁との間に意見の相違等の確執が生じていたらしい。約1ヶ月後の翌閏3月28日条に、「川島此兵衛義、鋼三郎改心誤入候旨申述、且昌平江入学之儀も被申聞候間、承諾云々」と記されている。この間、兄国太郎が数度川島家を訪れていて、家に戻らない鋼三郎と話し合ったことが鶴梁の日記中に見える。
父鶴梁に鋼三郎の昌平黌入学の決意が知らされた翌日には、「国太郎と鋼三郎、至昌平、入寮相談初候事」とあり、翌4月9日にも2人で昌平黌を訪れている。そして、それから約3ヶ月後の7月3日条に、「今朝鋼三郎、聖堂ニおゐて学力吟味相済」とあって、その5日後の8日には「今日、鋼三郎、学問所寄宿ニ入ル、国太郎モ罷越云々」とある。鋼三郎は昌平黌の寄宿寮に入って、学問に励むことになったのである。鋼三郎が寄宿した昌平黌の寄宿寮について、『日本教育史料』第7巻にその概略が記されているので次に転載しておこう。
「寄宿人部屋ハ三棟アリ一棟十軒ツゝナリ三棟ノ内一棟ハ六畳四畳二タ間アリ四畳ハ家来ノ部屋ナリ三棟ノ内二棟ハ七畳ツゝナリ但シ三棟ニテ部屋ノ数三十アリテ三十人ヲ限トス御目見以上ノ者二十人御目見以下ノ者十人ノ定メナリ御目見以上ハ四書五経ノ素読ニテモ入学差許ス御目見以下ハ四書ノ講釈ナラテハ入学差許サス寛政以来ノ規則ナリ天保以来ハ相部屋又部屋ノ建立アリテ四十八人ヲ定トス。(中略)学則ハ二七ノ日午前輪講三八ノ日朝五時前経義ノ講釈試アリ一ケ年文会四度詩会二度膳部并餅菓子ヲ賜ハル但シ詩文会ハ通稽古人諸藩士ノ者モ出席ノ事」
この寄宿生以外にも、昌平黌生徒には通学して学ぶ者(通学生にも句読生として毎日稽古場に通って教授方出役の教えを受ける者と、寄宿寮の南楼に部屋があってそこから通学する者の2種類あった)があり、また、諸藩士や処士たちが寄宿する諸生寮(定員44名)があった。鋼三郎の父鶴梁は家禄30俵(役高は150俵)ながら、弘化4年に永々御目見以上の身分になっているから、鋼三郎は旗本の扱いであった。
なお、『鶴梁日記』のこの年11月17日条に、「川島此兵衛同道、鋼三郎來謁、此兵衛喫酒去。鋼三郎一宿、又明日も一宿、十九日帰寮」とある。鋼三郎は父鶴梁との間のわだかまりが消えず、3月26日以来この日まで家には帰っていなかったらしい。しかし、親の心子知らずで、父鶴梁は鋼三郎の昌平黌入学のため「入用弐十両」を用意する(4月10日)他、鋼三郎の借金等「弐拾両」を返済(翌11日)している。また、7月14日には「鋼三郎方へ日本人詩集并□(原注・博ヵ)議等遣ス」とあり、さらに同月21日には「鋼三郎方ヘナマリ節并茄煮付二重遣ス」とか、翌月15日には「聖堂ヘ団子六人分遣ス、但壱人団子十七ヅゝ、外柿・栗・豆添」等とあって、父鶴梁の親心は、鋼三郎と他の入寮者との融和にも心を砕いていたのである。
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万延2年(1861・2月19日文久と改元)、22歳となった鋼三郎は、前年の7月以来昌平黌の寄宿寮で生活していた。寄宿寮の規則(『日本教育史史料』第7巻)に、「寄宿任人外出ハ一ヶ月十度ニ限ル云々」とあり、鋼三郎も入寮以来時々家に戻っては宿泊していた。もっとも正月休みは別だったらしく、『鶴梁日記』この年正月4日の条には、「国、鋼二子、往賞雪於広尾」とあり、同月10日には「去ル二日、鋼三郎下宿イタシ、今日帰寮イタス也」、と記されている。この間、4日には兄国太郎と共に麻布の広尾へ雪景色を見物に出かけたのだ。2人が出かけた広尾は、明治40年刊行の『東京案内』に「広尾ヶ原=一に土筆ヶ原と称す。もと摘草及虫の名所にして、又枯野を以て知らる。次第に旧観を失うものありと雖も尚お茅花風に翻り、流流原野を縫うの景趣を存し云々」とある。兄弟は広漠たる雪の原野を遊歩し、互いに詩作に熱中したのかもしれない。
この年の8月、父鶴梁は柴橋代官の職はそのまま、予定される皇女和宮の将軍徳川家茂への降嫁に際して、これに供奉して江戸入りをする公家衆の接待掛を命ぜられた。『鶴梁日記』8月20日条に、「平服出勤之処、竹垣、荒井、林、森江下野殿被仰渡。此度、和宮様御下向ニ付、年頭兼勅使供奉之公家御馳走御賄御用被仰付」とある。幕府は、加熱一方の尊王攘夷運動への対抗策として、孝明天皇の妹皇女和宮と将軍徳川家茂の婚儀を画策し、曲折の末この月5日に孝明天皇の了解が得られ、下向は10月中旬と決定していたのである。鶴梁と共に公家衆接待掛を命ぜられた「竹垣」とは竹垣三右衛門(直道)、「荒井」とは荒井清兵衛(顕道)である。余談だが、荒井清兵衛の長男は、蝦夷共和国の海軍奉行となり、維新後初代中央気象台長となった荒井郁之助である。
父鶴梁は公家衆接待掛となった3日後の8月23日、接待場所となる伝奏屋敷に出向き、その2日後の25日には、本務である柴橋・寒河江領内の検見のために江戸を出立した。この年の9月14日以後の『鶴梁日記』は欠けているため、鶴梁が支配領地の検見を終えていつ江戸に戻ったのか、また、和宮の江戸到着後の公家衆の接待がどうだったのかも一切が不明である。皇女和宮は10月20日に京都を発駕し、中山道を経て11月15に江戸に到着しているから、鶴梁はそれ以前には帰府していたはずである。和宮に供奉して東下した公家は、権大納言中山忠能、権中納言今出川実順、左近衛中将八条隆声、同今城定国、左近衛権少将千種有文、右近衛権少将岩倉具視等々の人たちであった。将軍家茂と皇女和宮の婚儀が行われたのは翌年2月11日なので、公家たちが帰京するまでの間、鶴梁も心労の日々を送ったことだろう。
『鶴梁日記』で追える鋼三郎の姿はこの文久元年が最後なので、その7月と8月中の鋼三郎に関する記事をいくつか拾っておこう。まず7月3日、異母妹の瑟5歳が病死するという不幸が林家を襲った。その日の条に、「即刻鋼三郎方へ手紙遣シ、(中略)鋼三郎、乗馬、駆来云々」とある。突然の悲報に、鋼三郎は昌平黌寄宿寮から馬を駆って家に戻ったというのである。訃報に接した鋼三郎の驚きと、妹瑟を思う情愛の深さが窺える。葬儀の行われた同月5日の条には、「川島此兵衛・鋼三郎、平服ニ而寺江参り、世話いたす」とあり、同月11日には「澄和泉寺・正福寺江壹朱ヅツ、鋼三郎持参」、と記されている。そして、同月16日の条に「鋼三郎当月3日下宿、今夕帰寮」とあるから、鋼三郎は半月近くも在宅して、妹の葬儀等の万端を率先して行ったらしい。突然の妹の死の癒しがたい悲しみも、帰寮を遅らせた原因だったのかも知れない。
『鶴梁日記』8月7日条には、「国太郎儀、昨日昌平江参候処、鋼三郎食傷いたし、臥床いたし候由」とある。ちなみに、この前々月24日条には、「鋼三郎儀、国太郎病気見舞ニ来宿ス」、と記されている。妹瑟の葬儀等に国太郎の姿がなかったのは、当時まだ病が癒えていなかったのかもしれない。それはともかく、前にもふれたが、こうした記事を見ても鋼三郎と兄国太郎の仲の良さが窺える。なお、鋼三郎が『鶴梁日記』で確認できるのは、父鶴梁が検見のために江戸を出立した際の見送り人の中に、その名が見えるのが最後となっている。
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文久2年、鋼三郎23歳のこの年(或いは翌年1月ヵ)、鋼三郎は羽倉簡堂家へ養子に入っている。その経緯については、望月紫峰の「藤森弘庵の交友範囲」の中に、「此年(文久2年)は麻疹が流行し、簡堂も其の養子の内記も、これに罹患した。内記先づ死し、簡堂亦起たざるを知って、近親に謂って日く、『我無き後は、鶴梁の二男鋼ざぶろうに乞ふて、我が家を継がしめよ』と、遺言は、その通り実行され」た、と記されている。死期を覚った羽倉簡堂がその病床で、鋼三郎を自分の後継にするよう、遺言したというのである。優秀な門人や知人も数多くあった中で、鋼三郎に白羽の矢が立ったのだ。簡堂は生前から鋼三郎に嘱目していたのだろうか。『鶴梁日記』を見る限り、父鶴梁が年始で羽倉家を訪れる程度で、深い交際があったようには見えない。もっとも、万延元年10月28日条に、「羽倉之儀、祭酒江為尋候処、儒官ニは不承□(原註・墨黒・知ヵ)也」とあり、「羽倉」は羽倉簡堂と思われるので、この時鶴梁は林大学頭学斎に簡堂を昌平黌儒官に推薦したらしい。2人の間には日記上にはない交友関係があったのだろう。なお、鋼三郎の師藤森弘庵と羽倉簡堂は親交があったので、簡堂は常々弘庵から鋼三郎のことを耳にしていたのかも知れない。
羽倉簡堂とその養子内記(紹)の命を相次いで奪った麻疹について、『武江年表』に「(文久2年)夏の半ばより麻疹世に行われ、七月の半ばに至りてはいよいよ蔓延し、良賤男女この病痾に罹らざる家なし」とある。また、この時麻疹で命を失った者は、「幾千人なるを量るべからず」とも記されている。羽倉簡堂が死去した日については、『明治維新人名辞典』には閏8月21日とあるが、『東京掃苔録』(『續日本史籍協会叢書』)には7月3日とあり、『国書人名辞典』、『江戸文人辞典』、『江戸幕臣人名辞典』等はみなこの日とっている。しかし、羽倉簡堂と親交のあった幕臣川路聖謨の「座右日記」(『川路聖謨文書』)を見ると、この年閏8月21日条に「雨、羽倉外記、今暁病気差重之旨為知来る」とあり、翌9月1日条に「羽倉外記病死に付、茶并花を太郎(聖謨嫡男)に為持遣し候」と記されている。死去の日を9月1日とは断定できないが(前日の可能性もある)、「座右日記」に間違いがなければ、羽倉簡堂の死亡日は閏8月21日でも、7月3日でもなかったことになる。なお、羽倉簡堂の享年は73歳、目黒区芝三田台町の浄土宗正泉寺に葬られた。川路聖謨は亡友簡堂を偲んで「座右日記」に、「あすの日はわれも行ぬるみちなからしはしか程の別れ悲しも」と、「あすよりはいかに世を経む君のみそむかしをかたる友にりしか」の2首の歌を記している。ちなみに、鋼三郎に関しては「座右日記」の翌年2月4日条に、「羽倉外記跡相続人初見」とだけ見える。
羽倉簡堂に先立って病没した簡堂の弟で養子の羽倉内記については、「慎徳院殿御実記」(『続徳川実記』)天保13年12月4日条に「代官羽倉外記養子内記」とあるから、簡堂は早くから弟内記を養子としていたのである。紹介が遅きに失したが、鋼三郎を養子に懇望した羽倉簡堂は、名は用九、字は士乾、通称は外記と称した。簡堂は号で、晩年は蓬翁と号している。寛政2年(1790)に、大阪の代官を勤めていた羽倉秘救(権九郎)の子として生まれた。同5年に父秘密救が豊後国日田の代官(後に郡代へ昇任)となり、簡堂は青少年期をこの日田の地で過ごし、広瀬淡窓の薫陶も受けたという。簡堂19歳の年、父秘救が在職中の日田で病死したため、簡堂は父の職を継ぎ(家禄80石)、見習いとして亡父の支配所を預かった。翌年越後国脇野町の代官となった後は、下野、駿遠、房総等の代官を歴任すること30年余に及んだ。天保13年には老中水野忠邦に抜擢されて納戸頭、次いで勘定吟味役となって天保の改革の枢機に参与したが、忠邦の失脚に伴って家禄半減、小普請入りの上逼塞の処分を受けた。翌年許されたが、以来公職に就くことはなかった。
公職を退いた後の羽倉簡堂は、神田和泉橋通りの屋敷に開塾して門生の育成と読書や著述に専念した。牧野健次郎著『維新傅疑史話』に、「(羽倉外記は)旧幕の名士なり。博覧多識、最も温史に精通せり。世因りて『通鑑羽倉』の目あり。蓬翁家塾あり、員を限り之れを舎す。視ること猶ほ子姪のごとし。参河の松本奎堂等秀才を以て其の愛する所たり云々」とある。松本奎堂が塾頭の当時この塾に入った仙台藩士岡鹿門は、その著『在臆話記』の中で「簡翁ノ人物、旗士ニ其類ヲ見ザルノミナラズ、恐ラクハ当世儒流ニ其倫ナカラン」と評している。
話をもとに戻そう。「幕末の儒者林鶴梁」によると、この年(文久2年)の9月、父鶴梁は柴橋代官を免ぜられて新御番となったが、12月には御納戸頭を命ぜられたとある。『徳川幕府代官全人名辞典』には新御番入の事実の記述はなく、「8月1日増地で関東代官へ場所替となる。同年12月18日に納戸頭となり、布衣を許され、100俵高へ加増」、と記されている。『徳川幕臣辞典』もほぼ同じ内容だが、「贈従五位林伊太郎傅」では「文久二年和宮御付となり尋で御納戸頭に進み云々」とある。「贈従五位林鶴梁傅」の記述はともかく(前述のように、公家衆接待掛は柴橋代官兼務で、また「和宮御付」ではない)、御納戸頭に任ぜられる以前に新御番組入したのか、または関東代官に就任したのかである。ちなみに、関東郡代は関東の天領を分割支配するために5人の代官が置かれたという。或いは、和宮に供奉した公家たちの接待役となった鶴梁以外の2人が関東代官の職にあったことから、鶴梁も同じ職にあると混同されたのかも知れない。
この文久2年には、父鶴梁の畏友で鋼三郎の学問の士であった藤森弘庵が病死している。弘庵は安政6年以来行徳で流謫の生活を送っていたが、前年早春に南総から房州方面を遊歴し、この年4月に行徳に戻ったものの翌月には再び上州に旅立ち、12月上旬まで西上州の各地に遊んだ。なお、弘庵が行徳を留守にする理由について、上州藤岡から弘庵が友人の田口江村に宛てた書中に、「実は、嫌疑多き時節ニ付、宅に候得ば、書生抔来り候て、慷慨談抔致候得ば、まさか黙視も不相成、つゐに一二及答え候得ば、次々伝播面倒ニ而」家を開けている、と記している。
弘庵が上州遊歴から行徳に帰宅すると、そこには友人羽倉簡堂の「詠史」が届いていて、弘庵は同月27日付けでこれに評点を加えて返書している。その書中には「小生抔も衰候甚敷、大に弱申候、(中略)此間中少々出かけ候て試候処、余程大義に覚候間先ちゞめ候て、少々北越辺計に致候積に相成候」、と記されている。しかし、その後の弘庵の病勢と身体の衰弱の進行は著しく、北越への旅は実現しなかったのである。胃癌だったという。病状は日ごとに進み、翌年9月に至って危篤に陥った。この間友人や門人たちが奔走し、10月3日に弘庵の罪が許されると、門人たちは弘庵を輿に乗せて江戸本郷龍岡町の次男の家に送り届けたという。弘庵は同月8日この家で瞑目した。64歳であった。葬儀は5日後の13日に行われている。その席上には、父鶴梁と兄国太郎と共に鋼三郎も参列していたと思われる。弘庵は港区南麻布の臨済宗曹渓寺に葬られた。
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