ⅩⅥの10【中部地方の浪士組参加者たち(2)】

(愛知・福井・静岡・石川・富山県)

愛知県域からの浪士組参加者たち(5)

  姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

市岡重太郎

25

五番組

親両人  ●尾州浪人、当時麹町五丁目大横町本多巳之助(柔術)方寓居

新徴組入り 「目録」に18番仁科五郎組平士、「組別名簿」に一色次郎組平士で名あり。

・元治元年2月廻状に「市岡重太郎、右之者不正之筋有之候ニ付、尋中其方(中村定右衛門)組合え預ケ申渡云々」とあり。『歴史のなかの新選組』に「慶応元年三月不埒の儀有之、永牢病死」とある。

・中村定右衛門「御用留」に「子三月朔日、一五両也、内壱両壱分 定右衛門分外ハ壱人ニ付金三分ツゝ、関口・荒井・内田・秋山・市岡〆五人分」と。

・小山松『新徴組』に、文久31120日「いよいよ庄内藩の勢いが強くなり、圧迫もひどくなるだろうと考える者があり、いち速く次の八人が脱退・脱走した」とある8人の中に市岡重太郎の名あり。

『日野市立歴史館叢書』第11

伊藤亀之進

23

2番組

親両人 ・尾張藩士河野兵助8

尾州名古屋浪人 当時相生町四丁目住居

文久3415評定所召喚22名の中に名あり。(鵜殿・中条家来預け)

新徴組入り ・「目録」に24番大津彦太郎組平士とあるも「組別名簿」に名なく去就不明。

「麁調」に「伊東虎之助、亡父伊東十郎儀尾州殿家来河野兵助八男にて、文久亥年正月集会仕、同二月御上洛御先供仕、還御後御組入被仰付云々」とあり。

・虎之助は庄内入り(家族2) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」1番隊平士に伊藤()寅太、「開墾士氏名」に伊東寅太とある人か。 ・伊藤()虎之助は明治77月貫属替。

稲熊力之助

 名・繁樹

24

6番組

不明   ●尾州愛知郡戸部村浪人 当時大島一学方ニ同居 ・『東西紀聞』に「元御手筒同心当時浪人江戸住稲熊力之助ゟ之文通之内云々」とあるが。

文久3415評定所召喚者22人の中に名あり。

・小山松『新徴組』に「石坂(周造)は藤本昇をこちらから出向かせて、(高崎藩士に対して)何ゆえにかかる包囲をなすのであるかを問わせた。付き添いは稲熊力之助、小山僖一郎である」と。

新徴組入り ・「目録」に4番山田官司組平士、「組別名簿」に中沢良之助組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族4) 「庄内戊辰戦争出張姓名」に1番隊平士で名あり。 ・「公私日記」慶応47月新庄表出張者名に「稲熊力之助弟稲熊小次郎」とあり。 ・「開墾士氏名」に名なし。

・『戊辰庄内戦争録』に「此日(913)稲熊若林ヲ大代ニ遣シヌルニ昨日ヨリ敵大代ニ陣屋ヲ設テ居ルト農夫共ニ聞シト報スト」と。

明治64月司法省酒田裁判所呈出の稲田隼雄、尾崎恭蔵事件に関する奥秋実昌、猪熊繁樹、中村貞成連名の口上書あり。(中沢貞祇記録) ・同年725日付、椿佐一郎事件に関する酒田臨時裁判所での佐々木正健と連名の「再御調御手続書写」あり。()

明治76東京府へ貫属替 ・明治18年当時本郷区元町住

小沢義光等と清河八郎顕彰のため「旧新徴士会」を結成。明治422清河八郎贈位報告追悼祭を開催、同445月浅草伝法院で清河八郎50年祭を挙行した。

『上毛剣術史』・『日野市立歴史館叢書』第15輯・吉野式『新徴組研究』第7

佐々木周作

 名・正勝ヵ

35

5番組

不明  ●内藤金一郎元家来 当時大島一学同居

・「麁調」に、生国三河、元挙母藩内藤金一郎家来、設楽郡津奥村佐々木喜三郎子とある。

新徴組入り ・「目録」に35番中川一組平士、「組別名簿」に中川一組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族3人)

・「庄内戊辰戦争出張姓名」に2番隊平士で名あり。・「開墾士氏名」に名あり。

明治7年7月貫属替

小山僖一郎妻の墓誌に「()清高清重及□□□□□文之助成重佐々木周作正勝皆武州□□之参也云々」と。

原田儀助

23

五番組

不明   ●三州吉田浪人 当時浅草三軒町西村次一郎同居 ・「明細書麁調」に「生国三州渥美郡村上村、百姓久治郎子」とあり。

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士、「組別名簿」に小頭瀬尾与一郎組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「田川温泉場寄宿帳」に「四番組小頭渡辺平作後任」とあり。因みに渡辺平作については「四番組小頭より柏尾の後任として二番組肝煎」とあり。 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に1番隊伍長で原田儀助の名あり。 ・「開墾士氏名」に名なし。

福井県域からの浪士組参加者たち(4)

坂井友次郎

29

四番組

不明   ●越前福井浪人 当時大島一学方ニ住居

『歴史のなかの新選組』に「帰府後離脱し、下野国江川村の斉藤源十郎方に厄介になっていた。113日勝野保三郎とともに上京、それ以降不明」と。

「勝野正満手記」に「仝年(文久3)十月(原注・日ヲ失ス)野州足利在江川村ニ寄寓セル新徴組ニテ同隊ニ在リシ越前人坂井友次郎ナル者ヲ誘ヒ帰リテ十一月三日江戸ヲ発シテ上京ス()(元治元年五月)ヨリ先キ、坂井ハ大野氏(水戸藩士大野謙介)寄食シ」と。

青木彦三郎の坂井友次郎勝野保三郎宛書簡中(日不明)に「両兄御道中無御障去霜月十二日御到着之旨大悦々々猶同月二十二日御認之貴翰去臘月二十九日相達拝読委細敬承御厚意之條々感激ニ不堪令拝読候、螻蟻の微身国恩の万一を報し度砕身周旋、尚己きる決心にて勉強罷在候、扨御書中有志一人も無之旦模様大変等の件々血涙の至りに御座候云々」と。

「勤皇志士青木彦三郎傳」

瀬尾与一郎

 後に権三郎

 名・直重

28

7番組

不明  ●越前福井浪人(松平越前守臣瀬尾権八)

新徴組入り ・「目録」に26番組々頭、「組別名簿」に小頭で瀬尾与一郎の名あり。 ・「明細書麁調」に小頭兼槍術世話方として瀬尾権三郎の名あり(千葉「維新前後の荘内藩」にも槍術世話方とあり)。 ・「田川温泉場寄宿帳」には4番小頭で名あり。

慶応4年庄内入り(「麁調」に「家族なし」と) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に2番隊伍長、「開墾士氏名」に瀬尾権三郎の名あり。

・明治57月、稲田隼雄割腹事件に関係し、締役長屋玄蔵による稲田糾問の際列席した5人の新徴組士の中に瀬尾権十郎あり。 ・明治65月酒田臨時裁判所の召喚命令で東京を出立した者達の中に瀬尾直重あり。

・酒田裁判所出頭者「一同日記」同年718日条に、この日酒田に到着した一行中に瀬尾直重あり。「日記」では大野嘉右衛門事件(詳細不明)を主に尋問されたらしい。

明治76東京府へ貫属替

・吉野式『新徴組研究』第5号に、明治214月の陸軍省の記録に「故2等巡査瀬尾直重」等とあると。

『上毛剣術史』

中川一

40

狼藉者取抑役

妻子4人 ・福井藩士中川清閑2男 ・文政6724日生

越州福井浪人 当時江戸京橋松川町ニ住居

天保9年武術修行のため出府、揚心流柔術を戸塚彦右衛門に学び、免許皆伝を許される。又新陰流剣法を修めて江戸京橋松川町に道場を開き、門人を育成する。

文久3215日廻状に「右乱妨人取押役申付候云々」として中川一の名あり。それ以前は不明。 ・「高木潜一郎日記」同年226日条に「目付、中川一、見廻取締」とあり。

新徴組入り ・「目録」に35番組々頭、「組別名簿」に小頭で名あり。 ・「明細書麁調」に「六番組肝煎」とあり。又、柔術教授方を勤める。

・元治元年68日の池田屋事件3日後、近藤勇は中川一宛に事件の顛末を報告する書簡を送ったと。

・慶応353日「四月廿三日忍廻り之節於猿若町金子強談之注進有之早速駈着云々」として、金150疋を賞与される。

慶応4年庄内入り(家族4) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」、「開墾士氏名」に名なし。 ・同年7月荘内藩家中組に編入され村山郡の代官となり、百石を給される。

明治64月奥秋実昌等(2人略)が酒田裁判所に呈出した「訴訟仕候六ケ条御調手続口上書」中に「中川一(4人略)稲田尾崎追付候由ニ付追打加募トシテ罷越候」等とあり、中川が尾崎恭蔵割腹事件に深く関わっていたことが記されている。 ・同年同月24日若林守信等が裁判所呈出の「訴訟仕候六ケ条御調手続」中に「(桂田寛吾が)割腹ト覚悟いたし候ニ付()助命為然致度奉存候、尤長屋玄蔵宅ニ中川一(5人略)扣居候ニ付中山四郎幷私共罷越助命之義申立候処、中川申聞候ニハ血盟幷同志申合之切磋素意ニ背候大胆成者故割腹申付候様赤澤源弥ゟモ内意有之()助命之義不相成候、此旨当人江申含割腹相進可」と指示したと。 ・椿佐一郎割腹事件に関する佐々木正健等の「酒田ニおいて酉七月廿五日再御調手続書写」中に「和田東蔵宅酒を調ひ種々佐一郎越饗応いたし深く酔居候処荒井縫右衛門萩谷手早く首縄掛〆縊候処中川一金玉蹴殺し候哉区々風聞有之候」と。

旧新徴組士達の訴えにより、明治7年禁獄90日の刑に処される。

千葉弥一郎『維新前後の荘内藩』に「廃藩置県飽海郡菅里村に移住し、同村の戸長となり、同村で没した」と。 ・菅里村の自邸内に道場を設け、公務の傍ら近隣子弟に剣術や薙刀を教授したという。

・『新編庄内人名事典』に「飽海郡北目区務所戸長にあげられて市条村の戸長を兼ね、同17(1874)7月遊佐村戸長に転ずる。70歳で病没、長男寅蔵は高瀬村の4代目村長となり、長女福は点字楽譜創始者として知られる遊佐の佐藤国蔵に嫁した」とある。

明治25811日歿 享年70歳 墓は菅野中学校(廃校)の裏山(吉野式『幕末諸隊研究・五周年記念号』)

『上毛剣術史』・小山松『新徴組』・『新選組大人名辞典』・『日野市立歴史館叢書』第1011

吉田五郎

25

四番組

兄弟5人   ●越前国敦賀郡敦賀新田筑屋敷村住(郷士) ※他の名簿に「敦賀郡笹屋敷村」、又「敦賀築山の郷士」、「敦賀郡笹屋村」出身とあり。

「目録」に名なし。在京中か江戸帰還前後に離脱か。

・村上俊平「潜匿日記」文久3511日条に「芳原の金瓶大黒楼に逗ず、翌夜吾党を伺(窺ヵ)うを告ぐる者ありしにより、吉田五郎、五島万帰一、武井十郎と郭を去る、吉田主税送て郭外に至る()小梅の常泉寺前嶺松寺に潜匿す」。 ・同書同610日条に「此日正岡、松岡、吉田、武井等へ書状を差出す」。 ・同書同月15日条に「鯖江を発し福井の家来本多氏の居城府中に至る、市中妓楼多く甚だ繁華なり、其医生を訪ふ、吉田令弟並其旧友に逢う、吉田の弟は嘗て崎陽に遊び、蘭英の学を墨美フルベッキに学ぶ、帰時二人送て町末に至る」 ・同書同月16日条に「暁に今城を発し木芽嶺を越ゆ。この途上北に高山を望む、これを吉田に問う、サニイが嶺という、此夜疋田に泊す、夜半五郎兄帰来、兄は昼別れて角屋に至りしなり」と。(この他日記に吉田五郎の名なし) ※『長崎遊学者事典』に吉田五郎の弟らしき名確認できず。又『福井市史』資料編9近世編に吉田姓の医師の名複数あるも、それらしき人物確認できず。

『歴史のなかの新撰組』に「(文久3)10月生野一挙に加わり捕えられる。元治元年720日京都六角獄舎で斬首された」とあるが、前嶋雅光『幕末生野挙兵の研究』中の「生野挙兵関係者一覧」や『平野國臣伝記及遺稿』等生野挙兵関係者中に吉田五郎の名を確認できず。なお『平野國臣伝記及遺稿』中に「是日(720)國臣と同じく(六角獄舎で)難に殉ずるもの」として、村上俊平、南雲平馬と共に「池田屋事件連累の嫌疑、越前敦賀の人」として吉田五郎の名あり。

墓は京都上京区行衛町竹林寺

   静岡県域からの浪士組参加者たち(2)

岡田林兵衛

25

7番組

不明   ●沼津浪人 駿州駿東郡下香貫村出生

当時江戸外神田御成道京屋伊平方同居 ※志田源四郎、小林登之助、川崎渡も同様。

新徴組入り ・「目録」に1番山口三郎組平士、「組別名簿」に小頭手塚要人組平士で、又「黐木坂屋敷絵図」に岡田林兵衛の名あり。

・『人名移動詳細』に「黐坂下より脱走」とあり。小山松『新徴組』に「今さら奥州下りでもあるまいと()川崎渡、岡田林兵衛の脱走もこの時である」と。『歴史のなかの新選組』に「慶応312禁錮のところ、明治元年中に組除」とあり。

志田源四郎

36

7番組

妻子3人   ●豆州賀茂郡下田町浪人 当時外神田御成道京屋伊兵衛方同居(小林登之助、柚原鑑五郎、川崎渡も同断)

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」に名なし。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久3823日条に「人選にて黐木坂へ被召出候」として片山庄左エ門以下19人中に志田の名あり。同日記抄翌96日条に「御仕法替に付御暇金五両宛被下」として4人中志田源四郎の名あり。・文久3916日達文に「御仕法替に付御暇金五両宛日下云々」として志田源四郎の名あり。

「人名移動詳細」に「小林登之助と共に大砲組に入、暗殺せらる」とある。 ・『淀稲葉家文書』所収の慶応25月、新整組士一同が幕府への付属を嘆願した内願書の「姓名書」に志田現四郎の名あり。

慶応4年庄内入り 戊辰庄内戦争『出張姓名』に新整隊取扱頭取朝比奈長十、石原数右衛門配下に嚮導として志田現四郎の名あり。 ・『戊辰庄内戦争録』818日条に、秋田攻めの際「綱木ニ向フ途中()樹木茂レル小山有、数右衛門隊志田現四郎、池田主税、本田謙三郎ヲ先トシテ七八人駆登リ、敵ヲ眼下ニ打下シヌ、味方ノ諸隊モ之ヲ見テ大ニ勇テ烈戦スレハ、敵叶ハサルヲ知レルヤ砲撃少シク止ム云々」と。翌910日の糠場山の激戦で負傷する。負傷者名簿に「石原数右衛門隊分隊長」とあり。

明治6年当時鶴岡在住。

   石川県域からの浪士組参加者たち(2)

杉本安道

46

7番組

妻厄介2人   ●加州浪人 ・当時江戸池之端七軒町徳兵衛店寓居

新徴組入り ・「目録」に33番玉城織衛組平士、「組別名簿」に小頭玉城織衛組平士で名あり。 ・「柚原鑑五郎日記抄」文久38月条に「砲術心得実名前」として杉本安道の名あり。

・「黐木坂屋敷絵図」に名なく去就不明。

中追太助

40

5番組

妻子6人  ●越前浪人 当時斉藤熊三郎方ニ同居

・「明細書麁調」には「生国加賀国上倉掛組中追田村、百姓仁右衛門子」とあり。

『石坂周造研究』に「浅吉(後の中追太助)は馬喰町のはたごや大松屋の男衆(原注・下男)だったのだが、大松屋では清川斉藤家の平素の恩義にむくいるために、牢奉行の石出帯刀に願って獄丁として雇ってもらい、牢中の人との連絡にあたらせた()内実にはどのような肉体的苦痛にも耐えることができたという剛気の所有者で、これが牢内の池田徳太郎の人となりに心服し、その見識といい、胆力といい、衆にすぐれた人物であるこの池田が牢にとらえられるような人ではないということを見抜き、よくその命に服して忠勤したのだという」と。(出典不明・小山松『清河八郎』にも類似の記事あり)

新徴組入り ・「目録」に次席満岡元司組平士、「組別名簿」に小頭永島甲一郎組平士で名あり。

・俣野時中明治27512日の史談会談話に「(薩摩藩邸に)荘内藩からして探偵を入れた事がある、其探偵に這入った者は新徴組の()永矢源蔵、中追多内という両人であります、()中追と云う男は探偵と云う嫌疑を受けて、非常に拷問を受け、梁の上に釣るし上げられた、けれども容貌を見ますと馬鹿な風の奴で、都て挙動の愚昧なる体裁を為すのみならず、其性質大分強情な男ですから拷問に掛けられて梁に釣上けられいも、一向平気で、約り拷問甲斐もないのみならず、容貌も馬鹿やうな男であったもの故終に免された」とある。この談話については小山松『新徴組』で「(薩邸内には)新徴組から脱走して、薩邸浪士となった横山明平その他がいるのである。長屋、中追がそう容易に薩邸に入ることなどできるものではない」と疑問を呈している。

・「公私日記」慶応428日条に「小倉宗次郎、中追太助、右両人北新堀ニ而歩兵と間違致し、歩兵四五人江手負セ、両人も手疵ヲ得罷在候趣云々」 ・同書同月18日条に「小倉宗次郎、中追太助慎御免」とあり。

慶応4年庄内入り(家族6) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士で名あり。 ・「開墾士氏名」に中追太助の名なく、悴錦次郎の名あり。

中沢貞祇の記録中「小山清高事件」に「小山清忠中追胤親申上候、去四月中十五日学向執向仕度存念ニ而取扱共之不得許所彼地発足仕候処、小国□与申処ニ而翌十六日昼飯致居候所、長沢松弥(2人略)其余若輩之者十余名程同宿ニ而追付引戻サレ候、大罪人是非共然ル処此度之義ハ再血盟モ有之、皆議定誓詞ヲ破候事言語ニ絶タル大罪人是非共割腹致候様赤澤源弥中川一(2人略)相進候事」等とあり。その後両人は「()血盟ニ背キ候義ハ絶タル事ニ候へ共凡若輩之者共故追而改心致候迄両人之者我等(玉城織衛等の取扱役)方ニ預ルト申出候、依之右取扱共之預ニ相成候」とある。ここに「若輩」とあるので、中追胤親の通称が錦次郎で、太助の名が胤正だと思われる。

・明治65月司法省酒田臨時裁判所の召喚命令により東京を出立した一行の中に中追胤正あり。召喚者「一同日記」の718日酒田に到着した一行中に中追胤正あり。・『歴史のなかの新撰組』に「明治74月馬喰町3丁目小山清兵衛方寄留の中追胤正は関係者か」とあり。

明治7年11月貫属替

『史談会速記録』・『庄内史料・明治維新史料』・『上毛剣術史』・『相楽総三とその同志』・小山松『新徴組』

   富山県域からの浪士組参加者たち(1)

清水準之助

37

1番組

不明   ●越州富山浪人 ・当時千葉道三郎内弟子

「目録」に名なし。「組別名簿」に小頭玉城織衛組平士で名あり。 ・「柚原鑑五郎日記抄」文久3912条に「玉城織衛組合へ清水準之助他四人」とあり。 ・元治元年12月依願永暇。

「早川文太郎修行日記」文久3229日条に「(入京後)直ニ前川庄司と申郷主宅鵜殿鳩翁様御本陣ニ相成、鵜殿様方之顧入、御用人指図有之ニ衣て雀森更雀寺於山田官司様へ相尋、并清水順之介様詰有有之、座敷上り浪士取扱方願出、廿九日其内山田官司様へ被預ケ候云々」とあり。

名簿により清水準之助の出身地を越前、又武州比企郡広尾(野ヵ)村とするものがある。筆者は以前『埼玉の浪士たち』の中で、比企郡広野村に清水を姓とする家は存在しないと断定した。しかし、その後の調査により、同地権田家墓地に「清水家累代精霊供養塔」が確認され、過去この地に清水姓の家が存在したことが確認された。

 なお、その上で清水準之助を富山出身と推定したのは、先の供養塔や権田家に伝わる位牌から、文政44月に亡くなった人物以後、清水を姓とする人物は確認できないこと(絶家か)、又北辰一刀流玄武館道場の内弟子で、山田官司同様に根岸友山家に出入りしていたことから、甲山組として友山らと共に参加した可能性が高いことからで、越前説も否定できない。。

 

ⅩⅥの9 【中部地方の浪士組参加者たち(1)】

(山梨・長野県域)

山梨県域からの浪士組参加者たち (19)

姓 名

年齢

所属等

家族・出身地・その他参考

雨宮仁一郎

38

7番組

親妻子4人   ●八代郡東原村住居

「目録」に名なく去就不明。

石原新作

  新蔵

(「麁調」に「新蔵即ち新作」とある)

23

5番組

親両人 ・石原六左衛門子

八代郡藤井村住居

祐天由松(山本仙之助)子分(『黒駒勝蔵』等)

新徴組入り ・「目録」に7番吉田庄助組平士石原新作、「組別名簿」に小頭中村錦三郎組平士石原新蔵あり。

文久3年6月26日付廻状に「御門限相更候ニ付慎被仰付候」として「山本仙之助組合鈴木長蔵、石原新助」の名あり。組士に新助の名がないため、新作の誤りか。

・元治元年2月の石原新作への申渡書に「其方儀、小塚原町旅籠屋林蔵方ニて小松弾六郎外三人酒宴()立入間敷場所え立入、被召捕候次第ニ至り不束ニ付、組合小頭手塚要人え預ケ之上、急度慎申渡之」と。

・慶応2年103日私用外出の帰路市ヶ谷無縁坂自証院前で襲われ、翌4日死去(小山松『新徴組』) ・「御用日記」に「寅十月三日横死、同十二月十八日跡断被仰候」 ・「人名移動詳細」に「黐坂下邸にて切腹、断絶」、「和田弥助自筆横折帳」にも「黐坂下邸で自殺、断絶、石原新作」とあり。 ・「新徴組御用記」に、慶応33月の「覚」として「金六両二分、石原新作、()右は寅十月三日横死、同十二月十八日跡断被仰達候間、高弐拾六両之月割書面之通被下置候様宜御沙汰被下度奉存候云々」とあり。 ※『日野市歴史館叢書』第6輯の遭難事件の詳述あり。

『日野市歴史館叢書』第10輯・小山松『新徴組』・吉野式『新選組研究』第5号・子母澤寛『幕末奇談』

内田佐太郎

 

32

5番組

親両人 ・百姓国五郎長男 ・文政9年生

山梨郡菱山村住居

博徒菱山の佐太郎 祐天(山本)仙之助の兄弟分。

新徴組入り ・「目録」に23番村上常右衛門組平士、「組別名簿」に小頭中村定右衛門組平士に名あり。

文久3年4月29日付け中村定右衛門の父伊右衛門宛て書中に「組合ニおゐても不都合無之御安心可被候、内田佐太郎殿も廿八日出立致候、是も十日之積り遣し候間、間違もある間敷候云々」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」2番隊平士で名あり。

「開墾士氏名」に名あり。

・桂田寛吾割腹事件の際、桂田が「割腹之覚悟至極相見え候迄宅番として内田佐太郎(2人略)附置云々」とあり。(大島定靖等の裁判所への供述書) 

・天野静一郎割腹事件に関し「右七人之者静一郎宅へ参於東京表不都合之次第有之趣ニ而我々附添被仰附候間大小取揚云々」(萩原忠義口上書)とある7人の中に内田佐太郎の名あり。(萩原忠義口上書) 

・明治7年酒田県庁に召喚された旧新徴組士「一同日記」730日条に「天の清一郎割腹砌誥合人名内田佐太郎古渡名前相違いたし則佐太郎立会者無相違趣此段認替御届ケ出ス」と。(「中村貞祇の記録」)

明治8年現在鶴岡住 ・貫属替時期等不明 ・後東京下谷で煙草屋を営業、その看板「諸国烟草秋」は山岡鉄舟に書いて貰ったという。後神金村の妹(小田原橋の田中家)を頼って甲州に戻り、百姓仕事を手伝っていたが、明治2526年頃息子を頼って神戸に移住。明治3934日病没したという。享年81歳 ・墓は神戸にあると。

子母沢寛『露宿洞雑筆』『新選組始末記』に、大村達尾の父桑原来助を殺害したのは内田佐太郎であったとある。 ・『歴史読本』昭和551月号等に、内田佐太郎が山本仙之助の仇を討ったとある。しかし子母沢寛はこれを先きの著で否定している。

『日野市歴史館叢書』第11輯・小山松『新徴組』・『日本侠客100選』・『上毛剣術史』

大森浜

 名・光信

23

5番組

親両人 ・百姓安右衛門子

巨摩郡大蔵村

新徴組入り ・「目録」に11番大内志津馬組平士、「組別名簿」に小頭黒井卓一郎組平士で名あり。

・『甲子雑録』に元治元年正月9日付けで「右之者共兼而私家来え御預被仰付居候()追々永々相成御府内廻り方ニ茂差響甚以不都合御座候間可相成は何方え成共早速御預替被仰付下度云々」として村上常右衛門他5名の中に大森浜次の名あり。※同月15日村上等4人は預け替えされているが、この中に大森浜次の名なし。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」3番隊平士に名あり。 ・『戊辰庄内戦争録』826日温出の戦いで「敵一人茅ノ透間ヨリ現ハレ出タリ名乗レト声ヲ掛ヌルニ備中足守ト答フ馬場玄助大森浜治千葉弥一郎一斉ニ発射シテ打斃シ云々」と。

「開墾士氏名」に名あり。

明治6917日酒田県へ寄留願提出。翌明治72東京府へ貫属替

加川英一『黒駒勝蔵』、子母澤寛『露宿洞雑筆』等に大森浜次は祐天由松子分とあり。

小山松「新徴組」・子母澤『幕末奇談』・『藤岡屋日記』

久保坂岩太

44

7番組

1人  ・甲斐国浪人

都留郡駒橋村、また西後屋敷村とも。

「目録」に名なく去就不明。

角田五郎

30

道中世話役

妻子3人   ●八代郡白井河原村産、当時浪人上州行方郡大洲村に住す。

上京後目付 ・高木潜一郎「御上洛御供先手日記」2月27日条に「出役並見廻広瀬六兵衛、取締松岡万、附西村泰翁、御目付角田五郎外三人」とあり。

・「目録」に名なく去就不明

高尾文助

  文吾ヵ

 名・啓明ヵ

33

7番組

母弟3人 ・百姓庄右衛門子

都留郡小沼村住居

新徴組入り ・「目録」に名なし。「組別名簿」に小頭富田忠右衛門組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族3)

・「庄内戊辰戦争出張姓名」「開墾士氏名」に名なし。

・明治55月の高尾・楽岸寺事件の当事者高尾文吾は文助のことか。当事件は高尾文吾と楽岸寺業輝が病気治療の帰路「尼寺江立寄酒食等いたし候言語同断」と、同志から「其許割腹可致若致し兼候ハハ自分共差殺呉候」、もし切腹しなければ「高尾江毒呉候」とまで追求されたが、結局謹慎処分となった。・諸田政治著「上毛剣術史」に、高尾文吾は「後に二人は悶死したとも伝えられている。」とあり、『歴史読本20043月号小佐野淳氏論稿には「両名は大小を取り上げられた上に座敷牢に閉じ込められ、悶死したと伝えられている」とある。

・明治6年7月27日付け中追胤正等3名の司法省提出の「奉願候口上書」中に「高尾文吾申聞候ニ者当月廿四日夜十一時此嶌田利太郎留守宅江夜盗忍入候ニ付近隣之者共打寄云々」とあり。

明治6917日酒田県へ寄留願を出した高尾啓明は高尾文助か。 ・明治76月高尾文吾山梨県へ貫属替。(『日野市歴史館叢書』第15p88)

田辺富之助

  

31

道中世話役

1人 ・武田浪人(山梨県史』通史編に)

山梨郡下於曽村住居

「廻状留」文久3年2月13日条に「二番世話役、田辺富之助、右之通申渡候間云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に18番仁科五郎組平士、「組別名簿」に一色次郎組平士で名あり。 ・文久42月「昨年中剣術出精ニ付」賞せられる。

・同年同月23日「嘆願書」提出(元一色次郎組合、当時中村定右衛門預り組、田辺富之祐とあり)、その大略左に、「()勤役中武州新港え英国軍艦渡来、()自然応接破壊ニ相成候節は、速ニ戦争ニ可相成候間、江戸表おゐて指揮ヲ請ケ可抽忠誠ヲ之段、()鵜殿鳩翁殿より御達有之、右は基より懇願之儀ニ御座候得は、難有御請ケ奉申上、期一死下向仕候、以来年月押移候迄御沙汰中絶ニ相成、()時ニ惣代ヲ以推参も不顧、種々建白仕候得共、未タ差当御用筋も不被仰付、()依ては近時之内御用筋も無御座義ニ候ハハ、恩給奉返上御暇相願、一ト先帰国仕度決心罷在候()、何卒以御仁慈速ニ御暇被仰付候、後来愚臣相応之御奉公筋有之候歟、攘夷之期限到来急務被仰出候儀も有之候ハハ、譬え不被微候共同郷同志之者撰択参府可仕心得、基より報国之徹意忘却不仕候間、前条申立候嘆願之趣意即刻御挙容被下置、御聞済被成下候様伏て奉願上候()」。(「中村定弘氏所蔵文書」)  

・小山松『新徴組』中に「文久3年11庄内藩による圧迫がいよいよ強くなることを予想して脱退、脱走した者」の中に田辺富之助の名があるが、田辺は文久4年2月に依願永暇。

結城禮一郎『旧幕新選組結城無二三』中に「隆造さん(無二三の姉の子)の奥様すなわち竜雄さんたちのお母様は、同郡七里村字下於曾の田辺家から来た方で、()田辺叔父ちゃんの胤違いの兄さんが大阪の小林一三さんだ。()於曾の田辺の一族で田中()富之助というのも(浪士組に)加入しました云々」とあり。

千野栄太郎

22

5番組

親両人   ●巨摩郡西井出村住居

「目録」に名なく去就不明

辻隆介

19

取締役手付

不明 ・武田浪人(山梨県史』通史編)

山梨郡国府村住居

「目録」に名なく去就不明

土橋鉞四郎

 後、瀬兵衛

 更に今福真

明と改む

浪士組参加に際し、土橋と森花の姓から森土と称したか。

 

40

5番組小頭

2人 ・武田浪人(山梨県史』通史編)・長百姓森本瀬兵衛苗茂4男

巨摩郡今福村住、当時森下()瀬兵衛方寄寓

文久3324学習院へ建白書持参6人中の1

新徴組入り ・文久3519日取締付 翌6月剣術教授方、9番小頭兼務 ・同年11月肝煎兼剣術教授方 ・元治元年812日依願永暇

文政6年今福村に生まれ、21歳で遠光寺村の土橋家(母の実家)の養子となり、鉞四郎と改名。安政元年実弟に養家の家督を譲って出府し 剣術修行に励む。北辰一刀流井上八郎門下。清河八郎玄武館出席大概」に名あり。 ・嘉永4年12月井上八郎の飛騨高山陣屋出張教授に従った3人の門弟の1人。(出典失念、参考までに)

安房先賢偉人伝』中「烏山家譜考」に、烏山確斎が「弘化丙午夏四月甲州ニ遊ビ遠光寺邑ニ抵リ土橋氏ニ宿リ云々」と。

清河八郎「潜中始末」文久元年条に「甲州中に我等の同志に比したる山岡鉄太郎の組とも云ふべき勤皇攘夷連頗る多し、()中に剣術同門なる土橋鉞四郎と云ふあり、今福村に住宅せる由故、明早天甲府を発し、雨を凌ぎて今福村の森花瀬兵衛方に到る。鉞四郎此家の後見なり云々」、また鉞四郎に関し「よき気節の士なり」等とあり。 ・同書文久元年11月京都挙兵画策時の記事に「甲州の鉞四郎方にも書状を外事に託し認め、東都の山岡方迄も書帖遣す、皆外事に相託し、他人見ては一向相分らぬ様相認めぬる。何れも京師の首尾能近きに義兵を揚ぐべき故云々」とあり。同書別項に「我等は東都及び甲州の同志を引率し、京師に参会、三千年已来の大功業を樹て申すべしとて云々」とあり。 

文久2年4月11付清河と安積五郎の山岡鉄太郎宛書中に「回天の一番乗可仕心底に御座候、折角御周旋甲土(甲州の土橋)に早々御手配可被成候云々」とあり。又同年720清河八郎は富士山に登って3合目に宿泊し、甲州に下って土橋鉞四郎に会う。

浪士組脱退の後(時期不明)、兄病死により兄嫁を娶って生家を嗣ぐ。市川代官所陣屋の剣術教授。維新後は遠州金谷で剣術道場を開く。のち甲府の剣法館の創設や大日本武術会山梨県支部の創設に尽力し、明治29年第2回武徳祭で剣道精錬證を授与さる。

・『歴史読本20043月号小佐野淳氏論稿に「維新後は今福真明と名乗り、大日本武徳会で最初に精錬証を授与された15名中の一人である。日本一流の剣士で、当時「今福の突き」といって他の追随を許さなかった」と。

明治33年病没、享年77歳、墓は甲府市内長禅寺

・今福毛宅地内に「今福真明頌徳碑」(榎本武陽篆額并撰文)ある。

加川英一著『黒駒勝蔵』に祐天吉松の身内として森土鉞四郎の名があるが。

『田富町誌』・「中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部会臨地研究資料」・『清河八郎遺著』・「むすび」第105

内藤弥三郎

45

7番組

妻子6人 ・武田浪人(山梨県史』通史編)

山梨郡下於曽村住

江戸帰還途中の下諏訪宿で有志召募を受命。

新徴組入り ・「目録」に30番中村又太郎組平士、「組別名簿」に中村又太郎組平士で名あり。

・中村定右衛門「御暇申請候一条之事」に、文久36月新徴組が荘内藩に全面委任されて飯田町屋敷の棒杭が書き換えられた事件に関連し「()棒杭之事、門札之事、番之事右三ケ条書付ニ致し、肝煎仁科五郎ニ内藤弥三郎認相渡し相頼ミ候処、右三人(仁科及山口三郎分部宗右衛門)之者被頼候趣ならず、跡形も無之讒言ヲ致し候と相見え、()小頭一同ニ役所え可罷出旨申ニ付一同罷出候処、中村定右衛門、常見一郎、内藤弥三郎右三人之者ニは控可居旨被申候ニ付、差控罷居り候処(略・その後酒井家家来3人と立会の山口三郎ら肝煎4人による尋問の際)誰か公辺之地面ニ居り度旨申候者有は致さぬ哉と尋ニ付、()其節内藤弥三郎肝煎ヲ相頼候、三ケ条之儀書付ニ致し肝煎り仁科五郎へ相渡し置候間、此書付と引合、即相違も有之候ハハ何れニも恐入申と相答申候云々」 ※中村定右衛門は親族等の嘆願により翌年許されたが、常見一郎、内藤弥三郎のその後は不明。

・元治元年9月病乱につき親類鈴木道四郎へ引き渡し。(『歴史のなかの新選組)

『日野市立歴史館叢書』第11

早川文太郎

(早川太郎)

幼・慶次郎

名・義信

改・暮地義信

28

2番組

親妻3人 ・百姓代早川伝兵衛次男(兄夭折) ・天保7714日生   ●都留郡上暮地村住居

文久3229日京都で入隊 ・文太郎の「修行日記帳」に「同(文久31)廿九日大津ニて昼弁当、此時雨風ニて難儀有之候間、八ツ時京都壬生四条通西ニ相成、直ニ前川庄司と申郷主()宅鵜殿鳩翁様御本陣ニ相成、鵜殿様方え願入、御用人差図有之ニ依て雀森更雀寺於山田宦司様へ相尋、幷清水順之介様詰合有之、座敷上リ浪士取扱方願出、廿九日其内山田宦司様へ被預ケ候、是ニて三月二日御手当金五両被下云々」とあり。

・江戸帰還途中の下諏訪宿甲州有志の徴募を受命。

新徴組入り ・「目録」に27番分部再輔組平士、「組別名簿」に分部再輔組平士で名あり。 ・文久42月、「昨年中剣術出精ニ付」賞せらる。 ・慶応42月庄内引き移りの際脱退。(和田助弥自筆横紙帳に「庄内へ引き移りの際出奔、早川太郎」と)

伊東甲子太郎と親交があり、慶応3年伊東の新撰組入隊に際し、門人高山平蔵(次郎)随行させたという。また、藤堂平助とも千葉道場以来の知己であったという。

嘉永元年江戸の商家に奉公、翌年武家奉公に出て旗本石原平十郎に弓術及び馬術を学ぶ。安政3北辰一刀流千葉栄次郎の玄武館に入門。同6長州藩士平野隼人に柔術を学ぶ。後文久元年迄諸国を武者修行。

新徴組離脱後尾張藩附属の有志隊「帰順生気隊」を組織し、各地に転戦して武勲を挙げる。※大島百太郎も行動を共にする。

明治43月愛知県に移住し巡査となる。同10西南戦争に朝廷義勇軍新撰旅団中隊長として軍功をたて、警部補心得に昇進し、翌年愛知県から士族の称号授与。

42歳で退官後は郷里上暮地に帰り、富士山麗の開墾に従事し、傍ら尚武館を創建して剣道と柔術の指導にあたる。 ・日露戦争の際、陸軍参謀本部に「奇兵剣隊必要論」を上申する。

明治天皇崩御後の大正元年1130日追腹を切って殉死した。享77歳 ・墓は上暮地の福昌寺

・千葉弥一郎「新徴組」に「因に云ふ、早川太郎は乃木将軍殉死の後、彼も殉死として自刃せり。或は精神の異状なりしならんとの説あり。尤も彼は質朴にして慷慨家であった」と。

「相州大山寺剣術奉納額」に「甲(甲州流) 暮地義信の名あり。

著「新徴組略記」・「明倫義信歌集」・「天性剣術日本武基」・「修行日記帳(表紙裏に「攘夷」と墨書あり)

小佐野淳『富士山麗幕末偉人伝』・「日野市歴史館叢書」第10輯、15輯・『英風記-分部実行の生涯』・「富士吉田市史研究」・『日本歴史』第622号・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号

依田熊弥太

 名・道長

 

20

7番組

親両人 ・百姓依田長賢長男(11人兄弟)天保15年生  ●山梨郡下井尻村住居

「目録」に名なく江戸帰還後早期脱退か。 ・加川英一『黒駒勝蔵』に「依田熊弥太は同郷の旗本真下晩菘の紹介で浪人取締役山岡鉄太郎と清川八郎に会って浪士隊に加わり京に上った云々」とあり。

山梨県史』通史編に「下井尻村(山梨市)で最初に浪人身分を獲得したのは依田家である。亨保9年、石和代官小宮山杢之進の浪人改に、依田家の当主与右衛門が応じたのである。まず与右衛門は同年11月、仮名を民部、実名を長安と変えて、長百姓役と与右衛門の名前を息子に譲った。翌10年、父惣兵衛長継のとき浪人となり下井尻村に居住した云々」と。

一説に戊辰の役に護国隊に関係したという。しかし隊士名簿には住所年齢等で該当する人物はなし。

明治5年下井尻村戸長、後に山梨県議会議員を経て衆議院議員となると。

吉野式『新徴組研究第7号』

山本仙之助

幼・由松

称・祐天由松

 祐天仙之助

35

5番組小頭

1人 ・山伏の子 ・『庄内人名辞典』に文政7年生とあり、文久3年には40歳となるが、「浪士姓名簿」には浪士組参加時35歳とある。

甲府元柳町住 ・出生地は駿州と甲州2説あり。『明治維新人名辞典』では甲斐国山梨郡相川村生と。

江戸帰還途中の中山道下諏訪宿甲州の有志徴募を受命する。

新徴組入り ・文久34月世話役、同5月取締役付 ・同1016日大村達尾に親の仇と誤認され、助太刀藤林鬼一郎のもと千住の路上で殺害される。墓は墨田区大平町の法報恩寺内陽運院

甲州古府中の行蔵院の行者祐敬の弟子祐天。後に博徒(三井の卯吉子分)となる。津村の文吉と兄弟分。島抜けの竹居の吃安の捕縛に代官所に協力後、子分を連れて江戸に出ると。

山梨県史通編』に「文久元年6月8日朝、上小田原村の百姓周兵衛方へ年齢40歳くらいと30歳くらいの男2人がやって来て、かねて名前は聞き及んでいるはずの勇天(祐天)主従であることを告げ、食事を要求したうえに、大菩薩峠越えの荷持人足の差出を強要した。()追手の組合村の者たちが立ち会って荷物を取り調べた(内に剣道用具等29点あり・略)甲州を離れ活動の場を替えるために用意された物品であることを右の29点は物語っている。大菩薩峠越えで江戸へ向かおうとする途中で、組合村の者たちの追補に遭い、遁れたのちの彼の行動はしばらくわからない」、又「(浪士組への参加は)

甲州出身で、当時洋書調所調役組頭であった真下専之丞の勧めによったものだといい」とあり。

・『幕末の武家』中旧幕臣飯島半十郎の談話に「或るとき(祐天仙之助が)駿府甲府博徒と喧嘩を致し、その博徒を殺し、本人は死する覚悟で寺社奉行の手に廻りました。そのころ私の叔父に飯島辰五郎と申す者がございましたが、評定所留役を勤めており、山本の裁判に関係し、その終りに無罪放免を申し渡しまして、辰五郎が厚く説諭いたした事がござりました。その後は山本が叔父の恩に服しましたので、私も懇意になった次第です。この山本が瓦壊の頃に()叔父のところに来まして、江戸市中の護衛をさせてくれと願いました。併し採り用いる筋ではございませぬゆえ、その志は嘉して帰国せよと申しましても、決心して江戸に出しゆえ帰ることは出来ぬ、当分幕府には御厄介はかけぬと言い、私を当てにして新徴組へ参りました」とあり。 談話中に・仇討事件に関しても話あり。

子母澤寛は『新選組始末記』『幕末奇談』で、仙之助の子分内田佐太郎が大村達尾の父桑原来助を殺害したとしているが、千葉弥一郎は「維新前後庄内物語」等でこれを否定している。

『東西紀聞』・『藤岡屋日記』・『日本侠客100選』・高橋敏「博徒の幕末維新」・『日野市歴史館叢書』第6 輯・小山松『新徴組』・吉野式『新徴組み研究』第6号・加川英一『黒駒勝蔵』・『歴史読本』昭和55年新年号等多数有り

若林宗兵衛

 名・守信

28

5番組

母妻子3人 ・百姓勘助子 ・祐天仙之助子分

八代郡藤井村居住

新徴組入り・「目録」に8番山本仙之助組平士、「組別名簿」に大熊領兵衛組平士で名あり。

・慶応4年庄内入り(家族4) ・「田川温泉寄宿帳」に6番小頭とあり。 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」の3番隊平士に名あり。 ・慶応48月越後領界熊田の戦いに功名あり。(『戊辰庄内戦争録』)

・「開墾士氏名」に名あり。

明治6年424日付若林守信と大島定靖の桂田寛吾割腹事件に関する司法省酒田臨時裁判所への上申書あり。(中沢貞祇の記録)

明治75山梨県へ貫属替

『上毛剣術史』・千葉「新徴組と庄内藩」・小山松「新徴組」

分部再輔

 幼・七弥

 称・才助

32

1番組

妻子2人 ・分部惣右衛門実親3男、惣()右衛門実啓弟、早川文太郎の姉の夫、弟に奥秋助司右衛門あり。

都留郡上暮地村住居

文久3328日付分部宗右衛門の届出書中に「(宗右衛門が浪士組組入り上京後)跡より宗右衛門弟才助幷百姓代伝兵衛伜久太郎も上京、同様御組入ニ相成云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に27番組頭、「組別名簿」に小頭で名あり ・元治元年8月依願永暇

叔母分部民弥(甲州に於ける女医の嚆矢)の家を嗣ぎ、玄徴と名乗り医師となる。・『英風記-分部実行の生涯』に、「再輔は、彼が二歳の赤子のときから叔母民弥の後嗣の名義で一家創立が予定されていたのである」と。

分部宗右衛門

 名・実啓

39

7番組

親妻子8人 ・上暮地の名家分部惣右衛門実親嫡男 ・弟に分部再輔(3)、奥秋助司右衛門(4男、新徴組士)・妻は都留郡河口村富士浅間神社宮司高橋豊前次女   ●都留郡上暮地村住居

天保10年大平真鏡流勝俣与五左衛門、同13年に北辰一刀流千葉周作に師事し、弘化元年12月免許皆伝を伝授さる。清河八郎玄武館出席大概」に名あり。

嘉永2家督を嗣ぎ名主役となる。

文久3328日付届出書に「上暮地村宗右衛門義幼年之頃より剣道執心ニ付、江戸神田玉ケ池千葉周作弟子ニ入修行罷在候ニ付、門人数多知り人有之、尤近年村方え引込名主役罷在候、然ル処、参州岡崎宿在豊川稲荷え心願有之、当二月中参詣として中仙道筋罷越候処、此度国々より(尽忠報国)勇気志有之もの相集、御用ニも可相立心得之ものハ、浪士取扱掛御役人方御召連ニ相成候由、千葉周作門人より途中ニて承候ニ付、素より執心之道未熟之小子ニ候得共、芸古仕候故、此節柄御用ニも相立候ハゝ丹誠を可抽と心付、鵜殿鳩翁様え申立候処、国所、親妻子有無幷身分御糺ニ付、倶ニ申立候処、浪人人数え御組入ニ付、道中入用被下置、則上京云々」と。 

・江戸帰還途中の中山道下諏訪宿甲州の有志募集を受命する。

新徴組入り ・文久34月世話役、同5月取締役付、同113番組肝煎となる。

慶応212月縁者上暮地村年寄高山安兵衛3男彦五郎(17歳、実行)を娘の婿養子とする。彦五郎は「田川温泉場寄宿帳」「庄内戊辰戦争出張姓名」「開墾士氏名」に名あり。後陸軍士官学校を卒業し、西南戦争で戦死。

・宗右衛門の山口三郎宛て届出書に「私儀当寅四十二歳ニ罷成候処、男子無御座娘年頃にも相成候ニ付、縁者甲州都留郡上暮地村年寄安兵衛三男彦五郎儀十七歳ニ罷成候、右之者私重縁血脈正統之者に御座候間娘婿養子奉願度、此段御内意申上度奉頼入候」とあり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・同年4月新徴組3~6番組を率いて川上、清川に出陣。 ・同年7月御家中組を仰付けられ村上郡御領地代官を受命、100石を賜る。 ・明治36月酒田家御物成収納酒田御蔵方役となる。(明治63月迄)

明治6年惣右衛門殺害計画の噂を聞き庄内を脱出し翌年郷里上暮地に帰り、暮地学校世話掛、地租改正評議掛、南都留郡第7学区学務委員、桂村戸町等を歴任し、明治24年郷社生玉大神祠官となる。

『富士北麗幕末偉人伝』・「富士吉田市史研究』・『英風記=分部実行の生涯』・『上毛剣術史』・千葉弥一郎『新徴組と庄内藩』・『日野市歴史館叢書』第6輯、10輯、15輯・小山松『新徴組』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号

渡辺彦三郎

21

1番組

親両人   ●都留郡小沼村居住

新徴組入り ・「目録」に名なし、「組別名簿」に清水小文治組平士で名あり  ・元治元年6月依願永暇

   長野県域からの浪士組参加者たち (6)

姓 名

年齢

所属

家族・出身地・その他参考

上林藤平

26

3番組

不明   ●小県郡矢沢村出生浪人

文久3年4月15日評定所呼出、同日鵜殿、中條家来預け。(この件に関する「封廻状」には24歳とあり)

・慶応31017日最上駿河守へ預け替え(『藤岡屋日記』) ・以後の去就不明。

「目録」の17番組加藤為右衛門組平士に名あり。

五嶋万帰一

26

7番組

不明   ●小諸藩牧野兵部太夫元家来当時浪人、当時牛込七軒寺町仙寿院止宿

「柚原鑑五郎日記抄」に「(3)廿日須原出立の日福島関所ゟ此方ニ来ル五嶋萬帰一と吉羽三郎と争論の由にて、同士の内三四人参り、五嶋は酒狂の体にて内々に相済候得共道中除列日々先に遣候」と。 ・「目録」に名なく江戸帰還直後に脱退か。 

・「贈従五位村上(俊平)君墓碑銘」に「五月、越前の人吉田五郎、上野の人南雲平馬、常陸の人後藤(五島ヵ)萬鬼一等与に謀りて日はく、今や幕府大いに吾儕を索むれば以て事を成し難し、乃ち路を北陸に取り再び京師に至らん云々」とあり。※村上俊平「家言録」には「下野ノ人後藤萬鬼一」とあり。 ・村上俊平「潜匿日記」511日条に「芳原の金瓶大黒楼に逗ず。翌夜吾党を窺うを告ぐる者ありしにより、吉田五郎、五嶋万帰一、武井十郎と郭を去る。吉田送て郭外に至る。」と。

・加藤桜老「近光日記」627日条に「前夜五島萬帰一、手塚次郎両人、三條河原にて打取らる。佛生寺(彌助ヵ)等と同敷、表裡の大賊なれば也」とあり。

蘭方医村上随憲』・小山松『新徴組』・加藤桜老『榊陰年譜』

佐々木如水

 名・盛信

45

(64)

 

 

道中先番宿割

妻子4人 ・小諸藩御持筒役小竹半太夫長男

「浪士姓名簿」「人名移動詳細」には亥45歳とあるが、「麁調」には丑64歳とあり。

佐久郡小諸住

文久3年2月14日回状に「近藤勇佐々木如水右両人道中宿割池田徳太郎手入相付申候事」と、出発時の所属不明、道中目付か。

新徴組入り ・「目録」に35番中川一組平士、「組別名簿」に中川一組平士で名あり。

文久3年4月23日根岸友山の池田徳太郎宛書中に「岡田盟佐々木如水君より書状にても可差出処甚多忙に付拙老より宜敷申上呉候様申出候云々」と。又同日付金子正玄の池田宛書翰に「根岸友山君佐々木如水外一同にも松平上総介殿に援兵願候処云々」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」の2番隊平士に如水長男貞三郎と共に如水の名あり。 ・湯田川新徴組墓地の長男貞三郎盛聖の墓誌に「明治元年九月十二日関川戦争ニ於テ鉛丸ニ当リ銃創癒エズ明治二己年六月二日卒」と。 ・「田川温泉寄宿帳」に「佐々木茂 先代如水二男 如水長男悌次郎は父と共に庄内口に至り関川戦争にて打死、舎弟茂相続」とあり。 ・「公私日記」に「(慶応4年Ⅰ月16)佐々木如水次男貞次郎、銃隊方広瀬滝三郎処江養子ニ遣候所、不縁ニ付双方熟談之上離縁仕候旨届出る」とあり。又同書同年7月の新庄表出張者名の中に如水の名あり。 

・「人名移動詳細」に「如水疾後男茂が相続して庄内へ下り戊辰の役関川口にて戦死した」とあるのは誤り。「開墾士氏名」に佐々木茂(如水の名なし)の名あり。

明治6418日付で旧酒田県の横暴を司法省に訴え出た庄内脱走旧新徴組士25名中の佐々木正健について、諸田政治氏の説明に「信濃国牧野家佐々木半太夫の子とあり。これが事実なら如水の兄弟となるが。「目録」「組別名簿」「麁調」「移動詳細」「庄内戦争出張姓名」「開墾士氏名」等に、他の佐々木姓は佐々木周作のみ。この周作については「麁調」に「丑37歳、生国三河、元内藤金一郎家来、設楽郡津奥村百姓佐々木喜三郎子」とあり。明治6年以降の記録に周作の名は見えず、周作と正健は同一人物か。

明治6年65日酒田県庁の召喚により東京を出立した旧新徴組士中に佐々木如水の名あり。・翌月酒田県から司法省酒田臨時裁判所への口上書に「墓参登之佐々木如水も昨日(7月19日酒田へ)着県致し候旨相届候云々」とあり、召喚者「一同日記」19日条に「佐々木如水十字頃三浦屋重助ニ着ス」と。同日記88日条に「右□宿より之書付(「稲田隼雄所持之品書写」)佐々木如水所持ニ而御省江御届申上候云々」とあり。

・明治77月貫属替

小諸城址内に如水の筆塚

『庄内史料集・明治維新史料』・『維新志士池田徳太郎』・『上毛剣術史』

島田利太郎

 名・行武

26

5番組

両親妻3人 ・真田信濃守元家来島田利藤治子

埴科郡森村住

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士、「組別名簿」に瀬尾権三郎組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「庄内戦争出張姓名」の2番隊平士に名あり。「開墾士氏名」に名あり。

・明治6727日付で中追正胤他2名が酒田県に提出した「奉願候口上記」中に「高尾文吾申聞候ニ者当月廿四日夜十一時嶌田利太郎留守宅江夜盗忍入候ニ付近隣之者共打寄霊験()□□脇差取落シ有之候ヲ若井壮蔵(以下10人略)見請有之候処、其脇差ヲ古屋常三郎与申者隠シ置候江共、其節不相分然処常三郎隠シ候ニ紛無之趣云々」とあり。この件については酒田県庁召喚者「一同日記」にも記述あり。

明治7年8月長野県へ貫属替

『上毛剣術史』

庄野伊左衛門

 名・義則

32

7番組

不明 ・松本藩松平丹波守家来望月深蔵子

江戸帰還途中の322日信州の有志徴募を受命。

新徴組入り ・「目録」に31番鯉渕大三郎組平士、「組別名簿」に小頭で名あり。しかし、「中村定右衛門御用留」中の文久3年5月5日付廻状に、『小頭壱番ゟ姓名』とある14番目に庄野伊左衛門殿とあり。

文久3年7(日不明)付け達しに「其方義高石鎌吉募方中村八郎左衛門与同意いたし不束之始末其余風分も有之小頭勤候者ニハ不相応之儀ニ付屹度も可申付之処出格之訳ヲ以小頭役取上平組申付け候 六番小頭庄野伊左衛門」とあり。 ・同7月27日廻状に「以廻状得御意候然者西恭助者御役申渡、椿佐一郎組柏尾右馬之助庄野伊左衛門組小頭申渡候間此段御達ニ及び云々」とあり。 ・「御用記」慶応2年中達しに「(前略)庄野伊右衛門、右六月廿五日、小筒打方世話役被付候付、当御地盤金之内利一ケ年弐両之御割合を以被下置候」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「田川温泉場寄宿帳」に5番組小頭で名あり。

・「庄内戦争出張名簿」に3番隊伍長 ・矢島城城下入口の敵砲隊陣地へ隊長林茂助に従い突貫奮戦す。(千葉「新徴組と庄内藩」・『戊辰庄内戦争録』)

「開墾士氏名」に名あり。 ・小佐野淳氏論稿に「明治五年七月二十四日稲田隼雄と尾崎恭蔵は脱走() 尾崎は庄野伊右衛門に無抵抗で捕らえられ、嬲り殺しにされた」と。 ・司法省酒田臨時裁判所に召喚され、明治6年65日に東京を出立した旧新徴組士中に庄野義則あり。・召喚者「一同日記」同年84日条に「(前略)私共儀無拠用向出来候ニ付本月四日鶴ヶ岡江罷越来ル七日帰省御届可申上段奉伺候也」として庄野等四人の名あり。

明治7年4月寄留替、麻布西町11番地に寄留

『上毛剣術史』・『日野市立歴史館叢書』第10輯・小山松『新徴組』・『歴史読本20043月号

立花()常一郎

22

2番組

不明 ・信州中村百姓亀治郎

信州中村 ・上州新田郡本町村住 岡田盟厄介

新徴組入り ・「目録」に12番須永宗司平士(立花恒一郎)、「組別名簿」に須永宗司組平士で名あり。

・千葉弥一郎「維新前後の庄内物語」に「慶応三年の十月、吉原方面へ廻る途次、浅草の猿若町で夜半の弁当を食する為め、自身番に休憩して居ると、酒屋から強盗の届があった。其時の組は、小頭中澤良之助、立花常一郎、大島百太郎、中島健次郎、千葉弥一郎()五人の者に賞与があった」と。

・慶応4年庄内入り(家族3) ・「庄内戦争出張姓名」の1番隊平士に名あり。 ・「開墾士氏名」に名あり。

・明治710月貫属替

 

ⅩⅥの8 【東京都・千葉県域の浪士組参加者たち】

 

東京都域からの浪士組参加者たち (14)

 姓 名

年令

 

所属等

 

  家族・出身地・その他参考

岡戸小平太

43

道中世話役

親妻子5人  ・山角四郎兵衛元家来当時浪人

江戸牛込御門矢部栄之烝長屋住居

新徴組入り ・「目録」に35番中川一組平士、「組別名簿」に中川一組平士として名あり。・「柚原日記抄」文久3年912日条に「中川一組合へ岡戸小平太他四人」とあり。その後の去就不明。

沖田総司

 称・惣次郎

 名・春政

   (房良)

22

6番組

なし ・奥州白河藩阿部家江戸詰家臣沖田勝次郎(222人扶持・弘化212月没)子 ・天保15年江戸麻布白河藩下屋敷で出生

当時牛込加賀屋敷近藤勇方同居

9歳で江戸牛込の近藤周助野試衛館道場に入門、内弟子修行10年で免許皆伝、塾頭となる。 ・安政59月近藤周助の日野八坂神社の奉額の世話人席に沖田惣次郎藤原春政とあり。

浪士組上洛後近藤勇らと新選組を結成、第一次編成で副長助勤、剣術師範頭、第二次編成で一番隊隊長

慶応4年正月の鳥羽伏見での敗戦後肺患重病の身で富士山艦に乗り江戸に戻るも、療養甲斐なく同年530日死去す。享年25歳。墓は港区麻布専称寺

近藤勇の佐藤彦五郎ら宛て慶応元年11月付け書簡に「剣流沖田へ相譲り申度、この段宜しくお心添え下され度、この辺も当時御他言お断り申し上げ候」と。

総司2歳で父勝次郎と死別。同胞は姉2人、11歳年長の姉光は日野の井上総蔵の弟林太郎(後新徴組士)を婿養子に迎えて沖田家を相続。他の姉は江戸詰の館林藩士中野由秀の妻となると。

沖田林太郎

 名・房政

   元常

38

3番組

妻子4人 ・武州日野宿在住井上総蔵(井上松五郎家の分家)弟 ・文政9222日生 ・近藤周助に天然理心流剣術を学ぶ。近藤勇4代目襲名披露の野試合で軍奉行を務める。

奥州白河藩阿部家江戸詰家臣(222扶持、足軽小頭)沖田勝次郎(弘化2年没)の長女ミツ(沖田総司)に入婿(弘化4年頃)沖田家を相続。 嘉永6年長男房次郎出生。 後に脱藩浪人となる。

江戸四谷伝馬町一丁目住居 ・「浪士姓名簿」には「阿部播磨守浪人、当時近藤勇方厄介ニ罷在候」とあり。

「沖田林太郎御用留」文久3223日条に「京地江朝四時一同無滞参着、四條大宮西へ入雀森更雀江壱番弐番三番迄一と先落着申候」と、翌日には「雀森更雀寺より二月廿四日中村小藤太方へ引移申候」と。

・京都残留の近藤勇や義弟沖田総司と別れ江戸帰還。

新徴組入り ・「目録」に34番三村伊賀右衛門組平士、「組別名簿」に小頭三村伊賀右衛門組平士で名あり。

新徴組入り(家族6) ・「庄内戊辰戦争出張姓名簿」に林茂助隊伍長で名あり。矢島の攻略戦や関川の戦いに参戦。長男芳次郎も菅野正助隊平士で出征する。

「開墾士氏名」には芳次郎の名のみあり。

明治710月酒田県に寄留替提出。・東京に戻った後は墨田区向島の梅屋敷に住居、後日野に戻り生糸の仲買商を営んだとも。

明治16213日病没。享年58歳。墓は東京港専称寺

井上源三郎

 名・一重

35

3番組

不明 ・八王子千人同心井上藤左衛門3男、井上松五郎の弟 ・文政1231日生。

武州多摩郡八王子村

佐藤彦五郎、後に近藤周助に天然理心流剣法を学ぶ。

安政5年日野八坂神社奉額に近藤周助藤原邦武門人として井上源三郎一重の名あり。万延元年5月免許を伝授さる。

浪士組上洛後近藤勇らと新選組結成 ・第一次編成で副長助勤、第二次編成で六番隊長

慶応4年Ⅰ月淀千本松の戦いで戦死 ・埋葬地不明、碑は日野市宝泉寺 

源三郎の甥井上泰助の遺談に「おじさん(源三郎)は、ふだん無口で温和しい人だったが、一度こうと思いこんだらテコでも動かないようなところがあった。伏見の戦いの時も、味方が不利になり大阪へ引き揚げるため引けという命令が出たが、少しも引かず戦いを続けついに弾丸にあたってたおれてしまった云々」と。 ・近藤芳助の「新撰組往時実戦譚書」に「文武とも劣等の人なり」とあるという。

勝野保三郎

 称・保之助

 名・正光

  後に正満

変・乙葉大輔

25

4番組

1人 ・旗本阿部四郎五郎賓客勝野正道(豊作)季子、天保9926日生。

本所根来前通南割下丸毛恒次郎内清水謙蔵同居

安政5水戸藩への密勅降下運動のため父に従って上洛。安政の大獄に母姉兄と共に下獄し、兄森之助は三宅島流罪文久2年許されるも死去。保三郎は翌610月出獄。父正道は潜伏先で安政610月病没。

徳富蘇峰文久大勢一変』に「大橋訥庵先生義兵を挙ぐ。有志の面々来り投ぜよと昌道しながら、下野の河野通桓、小山朝弘、()丹後の宇野東桜、江戸の乙葉大介、薩摩の鮫島雲城、()など三十余人の壮士来り集り云々」と。大橋訥庵の義挙計画への参加の事は「勝野正満手記」にも記述あり。

「目録」に名なし。「勝野正満手記」に「(文久3)十月(原注・日ヲ失ス)越前人坂井友次郎ナル者ヲ誘匕帰リテ同行113日江戸ヲ発シテ上京ス、途中水戸藩美濃部又五郎家来原大輔ト名乗土浦藩士大久保親彦ヨリノ書面ヲ携ヘ京柳馬場錦小路上ル所井筒屋久兵衛方ニ投シ其の儘此家ニ遇ス云々」とあり。 ・翌元治元年(月不明)青木春方が勝野と坂井に宛てた書簡に「両兄御道中無御障去年霜月十二日御到着之旨大悦々々猶同月二十二日御認之貴翰去臘二十九日相達拝読委細敬承御厚意之條々感激ニ不堪令拝読候、()扨御書中有志一人も無之但模様大変等の件々血涙の至りに御座候云々」とあり。

元治元年5水戸藩より「一橋様御守衛被仰候條酒泉彦太郎朝倉五郎右衛門得指図相勤候様云々」の達しあり、弐番床几隊に編入される(本圀寺党)。・慶応4年1月朝命により水戸の奸徒掃除のため執政鈴木縫殿に従って東下、長年の労を賞され与力を仰せ付けられて物代50石を賜る。3月江戸を発して水戸に入る。12月東京勤務を命じられ、翌年公用人試補となる。

吉田松陰の「留魂録」に「越前の橋本左内二十二歳にして誅せらる、実に十月七日なり、左内(伝馬町牢内)東奥に座する五六日のみ、勝保(勝野保三郎)同居せり、後勝保西奥に来り、予と同居す、予、勝保の談を聞きて益々左内と半面なきを嘆す云々」等とあり。

久坂玄瑞入江九一文久元年48日付書簡に「乙葉も不相替盛に御座候、僕同寓仕居申候云々」と。又『久坂玄瑞全集』に久坂の勝野宛書簡等複数あり。又文久元年48日付勝野の尾寺新之丞、高杉晋作宛書簡あり。(高杉晋作史料』)

久坂玄瑞の「御襄滿録」、「江月斎日録」に勝野保三郎(乙葉大助)に関する記事あり。

「勝野正満手記」(東京大学史料編纂所所蔵)

吉田松陰全集』・『久坂玄瑞全集』・『贈従四位土浦藩士大久保要』・「勤皇志士青木彦三郎傳」・「酒泉直滞京日記」・『続再夢紀事』

父勝野豊作に関しては「水戸藩死事録」、「義烈傳纂稿」、「志のぶ草」、『勤王実記水戸烈士傳』、『遠近橋』、『林鶴梁日記』、『水戸幕末風雲録』,『補修殉難録稿』等多数あり。

川崎渡

 

23

7番組

不明 ・府内浪人

当時外神田御成道京屋伊兵衛方同居

「浪士姓名簿」で京屋伊兵衛方同居者は川崎渡以外に小林登之助、柚原鑑五郎、志田源四郎、岡田林兵衛。

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士、「組別名簿」に瀬尾権三郎組平士で名あり。 ・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に川崎渡の名なし。 ・「人名移動詳細」に「黐木坂邸より脱走」とあり。 ・『歴史のなかの新選組』に「元治元年1月新宿において松平近江守廻り先にて捕縛・明治元年2月脱走」と。 ・小山松『新徴組』には慶応42月庄内下りの際に脱走(この時岡田林兵衛も)とあり。

近藤勇

 幼・勝五郎

 称・勝太

 名・昌宜

変・大久保剛

 近田勇平

 大久保大和

(広島出張時)

近藤内蔵之助

 

30

取締役付属

或は道中目付

 

後道中先番宿割

更に

6番組小頭

父妻子3人 ・天保5109多摩郡上石原村の農民宮川久次郎の3男として出生。嘉永210月天然理心流宗家近藤周助の生家島崎家の養子となり島崎勝太を名乗る。後島崎勇と改め、更に近藤勇となる。

当時市ヶ谷加賀屋敷山川磯太郎地借住居

『浪士文久報国記事』に「此時(浪士募集)市ヶ谷加賀屋敷柳町ニ罷在ル近藤勇剣術道場ヲ開キ日々稽古盛り、稽古終テ稽古人集リ各々議論国事ヲ愁ル云々」とあり。

近藤の佐藤彦五郎宛文久3118日付書簡中に「拙者儀昨日帰府仕候処、下調山岡鉄太郎殿廻状十九日拙者御呼出に相成候、何れ有無廿日迄可申上候、僕儀殊之外風邪難儀罷在候、何れ近々全快可相成哉云々」と。

文久3214日廻状に「近藤勇佐々木如水右両人道中宿割池田徳太郎手入相付申候事」と。 同月17廻状に「芹沢鴨隊長相止跡へ近藤勇跡役申渡候、右近藤勇組一隊石坂宗順一隊より繰替致し候間云々」と。 ・同月17日廻状に「六番西恭助御用ノ儀有之此方ニ引置候跡小頭ノ儀近藤勇エ申付候云々」と。 同月23日着京宿割に、「八木源之丞 六番近藤勇組十人」とあり。

・高木潜一郎の日記226日条に「高久安二郎広瀬六兵衛松岡万(2人略)野音次郎、右ノ御方浪士頭取扱清川八郎近藤勇外二人附添、御寄場へ上書致御聞置相成其断御目付方へ御達ニ被参候」とあり。

京都残留浪士16人で新選組を結成し局長となる。

慶応3年12高台寺党残党の狙撃を受け右肩を重傷、翌年鳥羽伏見敗戦後富士山丸で江戸に帰り、甲陽鎮撫隊を結成し隊長(若年寄)となるも甲州勝沼の戦いに破れ敗走。後下総流山に屯集するも官軍に包囲されて投降、同年4月25日板橋宿で斬首され、京都三条河原に梟首された。享年35歳。墓は国電板橋駅前、南千住円通寺三鷹市竜源寺、岡崎市法蔵寺、会津若松天寧寺に、又京都壬生寺に遺髪塔、その他あり。

佐藤房次郎

 名・延和

28

2番組

妻子3人 ・八王子千人同心佐藤惣兵衛弟

青柳村佐藤家八代総兵衛の時代に同村奥泉庄三郎から同心株を買う。房次郎は九代東太郎(総兵衛)の弟。

多摩郡日野村住居

「目録」に名なく、帰府直後に脱退帰村か。

慶応42近藤勇甲陽鎮撫隊に春日隊士として参加。・佐藤昱『聞きがき新選組』に、官軍が日野宿進駐の際は「井上松五郎と佐藤房次郎の両剣士は逸早く姿を消して云々」と。又、「(房次郎は)駿府に隠退した。その一子英次郎氏の長女貞子は、(土方)歳三の甥孫土方忠に嫁している」と。

藤堂平助

 名・宜虎

20

6番組

不明 ・藤堂平助に関し永倉新八の筆記に「関東浪士、藤堂和泉守落胤、文武研究所剣術千葉周作門人目録云々」と。※藤堂和泉守落胤説も、千葉周作門人説(周作死去の安政2年当時平助は12)も疑問視あり。・加納通広の史談会談話に「藤堂は伊東(甲子太郎)の寄弟子なれば云々」とあり。・阿部隆明(十郎)の史談会談話に「藤堂平助は小兵でございますけれども、なかなか剣術はよく使いまして、また文字もございます」と。

当時近藤勇方同居

上洛後近藤勇らと新選組結成、第一次編成で副長助勤、第二次編成で八番隊組長。

元治元年11月帰府の際伊東甲子太郎新選組に勧誘。伊東は門人を引き連れて入隊。 ・慶応3310伊東甲子太郎新選組を脱隊、禁裏御陵衛士となる。同年1118近藤勇らの奸計で京都七条小路で斬死。遺体は満月山光縁寺に葬られるも翌年3泉涌寺塔頭戒光寺に改葬。享年24歳。

永倉新八

 幼・栄次

 名・

後杉村義衛

25

6番隊

なし ・松前藩浪人・天保10411松前藩邸内長屋で生まれる。江戸定府取次役(150)永倉勘次子

神道無念流宗家2代岡田十松に学び、18歳で本目録を受ける。翌年藩邸を出奔し同流百合本升三に就き修行。文久元年同門松前藩浪人市川宇八郎(後の芳賀宜道)と近国を武者修行。後に心形刀流堀内主馬道場の師範代になる。

牛込加賀屋敷近藤勇方同居

上洛後近藤勇らと新選組を結成、第一次編成で副長助勤、第二次編成で2番隊組長、撃剣師範

・慶応4甲陽鎮撫隊甲府城攻略戦後近藤勇らと離間し、芳賀宜道の靖兵隊に参加、副隊長格となる。後松前藩に帰参、杉村松柏の養子となり杉村義衛と改名。松前樺戸監獄の剣術師範を務める。

大正415日老衰死。享年77歳、墓は小樽市中央墓地、札幌市里塚霊園、東京滝野川の寿徳寺境外墓地の新撰組供養碑等

『浪士文久報国記事』・『新選組顛末記』等

中村太吉

 幼・太郎吉

 名・満通

 号・祐翁

 多吉郎

  後半兵衛

24

3番隊

母妻子3人 ・日野宿旅宿業中村半兵衛3

多摩郡日野宿住居

「「目録」に名な江戸帰還後脱退

幼少時江戸麹町の呉服商に丁稚奉公に出る。俳句や狂歌を好み、狂歌の絵馬屋四世を継ぐもこれを譲って帰郷、佐藤彦五郎門脇の長屋で小料理屋を営む。傍ら同長屋の天然理心流道場で彦五郎や近藤周助に学ぶ。 ・日野八坂神社の奉額に発起人として中村多吉助藤原満通の名あり。

日野農兵隊に参加し、慶応2武州一揆の打ち払い、慶応3年八王子宿壺伊勢屋での薩邸浪士召捕り、慶応4甲陽鎮撫隊に春日隊士として参加する。

維新後店を日野駅前に移して妻に任せ、玉川屋祐翁と号して俳句三昧に余生を送ったという。

明治37年没 ・墓は日野大昌寺

仁科五郎

後に理右衛門

29

4番隊

不明  ・曲渕安芸守家来仁科理右衛門子

当時大島一學方に同居

新徴組入り ・「目録」に「18番仁科五郎組」 ・「組別名簿」に「肝煎」 ・中村正行「忠士日記」文久3616日条に「訳有候ニ付慎仁科五郎、芳賀忠次」と。

慶応4年庄内入り(家族8) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に「2番隊肝煎役」 ・『庄内沿革誌』に、728日秋田矢島城攻略戦の際「寺内の官軍を望む此所数尺の断崖にして降る能はす茂助(新徴組頭林茂助)意を決して飛び降る茂助か隊士之れを見て続て降るもの五六人進て寺内に至る官軍貳人之れを見て逃けんとす茂助か隊士仁科五郎之を斬る」と。・916日の関川部落奪回戦で仁科五郎股を撃ち抜かれる。(『戊辰庄内戦争録』)

「開墾士氏名」の筆頭に仁科理右衛門の名あり。

・明治33月椿佐一郎は「新徴組を一括して新徴組募集当時の趣旨に復し尊王の途を講じ」るため「仁科天野の二人を党与にせんと欲せしに()仁科の密告に依り」、仁科と執政部が謀り椿佐一郎を刺殺した。(千葉「新徴組史料」)

・明治55月高尾文吾楽岸寺業輝が病気治療の帰路、懇意の尼寺で酒食の饗応を受けた事件で2人に切腹を迫った際、「仁科理右衛門井上政右衛門板木持参直に禁錮ニ取掛り云々」と。(中澤貞祇記録)

・明治5724日庄内脱走後連れ戻された尾崎恭蔵に対して、公正な「新王政御法りの処置」をとの新徴組士らの主張の中「理右衛門義御家ヲ背キ其上同士之誓ヲ破候故割腹申付然与強而申聞候」と。(前書)

・明治63月分部宗右衛門の酒田県権大属戸田次作への談に「先の椿事件に際し仁科五郎が源弥、東蔵、為右衛門等の若者を扇動して余輩を斬らんと計画したことあり。それ以来仁科等に対し警戒致しおりしに今又このことを聞く、余輩の忿激その極に達す」(『分部実行の生涯』)

・明治65月下旬、庄内脱走旧新徴組士の訴えにより赤澤、仁科()等執政部と親しい一派が司法省から「御不審之義有之候条捕縛之上当省へ可差出候事」と召喚を受け東京へ護送収監される。(千葉「新徴組と庄内藩) ・明治73月、禁獄90日の判決あり。

明治8年鶴岡に居住事実あり。 ・明治147月の松ヶ丘開墾場社員名簿に仁科欽治とあるが。

『上毛剣術史』・小山松『新徴組』

馬場兵助

 後市右衛門

 名・武忠

24

3番組

父母妻3人 ・日野宿荒物商扇屋の馬場市兵衛長男

天保12715日生

多摩郡日野宿住居

新徴組入り ・「目録」に33番玉城織衛組平士、「組別名簿」に小頭玉城織衛組平士として名あり。

慶応4年庄内入り(家族3)

明治初年に市右衛門と改名、鶴岡城下東屋敷に居住。明治77月神奈川県へ貫属替をし、日野宿の馬場市兵衛方に一時同居(家族5人) ・同年還禄資金354円を得て、12月神奈川県程久保(日野市)の官有林五町七反余の払い下げを申請する。

明治19110日歿、享年46歳。

佐藤彦五郎道場で近藤周助に天然理心流を学ぶ。日野八坂神社近藤周助の奉額に馬場兵助藤原武忠の名あり。

『日野市歴史館叢書』第6輯 ・鈴木克久『峠越え』

土方歳三

29

6番組

不明 ・土方義諄4男 ・天保655日生   

多摩郡石田村住居

出生前に父を失い、6歳で母と死別。後兄喜六夫婦に養育され、11歳で江戸の伊藤松坂屋へ丁稚奉公に出たが長続きせず。17歳で江戸大伝馬町の呉服屋に奉公に出るも女中と関係を生じて帰郷、後家伝の石田散薬の行商の傍ら、義兄佐藤彦五郎道場で近藤周助に天然理心流剣術を学ぶ。ここで近藤勇と義兄弟の義を結び、江戸の試衛館道場に寄食して修行する。

上洛後近藤勇らと新選組を結成、副長となる。

慶応4年近藤らと甲陽鎮撫隊を結成、甲州勝沼の戦いに破れ、近藤の官軍本営出頭後は幕府脱走軍の一方の将として野州から会津に転戦、仙台から榎本武陽らと北海道へ渡る。明治元年11月函館五稜郭を占拠、函館政府の陸軍奉行並に選任される。翌年3宮古湾の甲鉄艦奪取に失敗後、二股峠の戦い等に奮戦したが、同年511日一本気関門の異国橋付近で銃弾に斃れた。享年35歳。

日野石田寺に墓碑と顕彰碑、函館の称名寺に供養碑等

千葉県域からの浪士組参加者たち(7)

伊藤滝三郎

37

5番組

妻子2人 ・長百姓又右衛門2男 ・奥医師杉枝仙庵浪人 ※妻は大御番加納備中守組同心和田善右衛門娘

山辺川場村 ・当時芝口露月町に稽古場所持(「江戸芝口二葉町で奥医師杉枝仙庵方に勤め柳剛流の道場を経営」・嘉永74月以来)

新徴組入り・「目録」に34番三村伊賀右衛門組平士、「組別名簿」に三村伊賀右衛門組平士で名あり。「柚原日記抄」に「文久3912日三村伊賀右衛門組合へ」として瀧三郎他4人の名あり。 ・元治元年2月小頭 ・「公私日記」慶応4年1月24日条に「伊藤滝三郎養育伊藤新之助儀文武稽古処江差出申度旨願出ル」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「田川温泉場寄宿帳」に「宿又右衛門、先代瀧三郎養子、伊東民三郎」とあって瀧三郎の名なし。

「庄内戊辰戦争出張姓名」に名なし。慶応4113日死去、養子民三郎(川場村石川源右衛門2)跡目相続。 ・「開墾士氏名」に伊藤民三郎の名あり。 

・明治147月の松ヶ丘開墾社員名簿に民三郎の名あり。民三郎は以後も庄内に居住。

「市中見廻日諸留」(慶応元年6月1日~98)

『幕末新徴組始末―峠越え』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号

酒井寿作

22

7番組

親妻子3人   ●香取郡並木村住居

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士に名あるも「組別名簿」に名なし。 ・『歴史のなかの新選組』には「元治元年2月出奔」とあり。 ・以後の去就不明。

寺田忠左衛門

34

3番組

妻子3人   ●香取郡神埼本宿住居

文久3415評定所に呼び出された22人中名あり。 ●新徴組入り ・中村正行「忠士日記」に「病気ニ付難相勤御暇候ニ付聞済ニ相成候、小倉平太組寺内()忠左衛門、(文久3)六月十六日」とあり。小山松「新徴組」によれば、この時共に脱退したのは朝比奈儀三郎、神代仁之助、中沢造酒之丞、河野和蔵の4人。

・以後の去就不明。

椿佐一郎

 名・則忠

30

6番組

親妻子4人 ・百姓椿佐七(甚兵衛)2

香取郡植房村住居

新徴組入り ・「目録」24番大津彦太郎組、 「組別名簿」に共に大津彦太郎組平士に名あり。 ・中村正行「御用留」文久355日条に記される小頭19名中に椿の名あり。 ・同年同月19日取締付任命の18名中に椿の名あり。 ・同年727日付廻状に「()椿佐一郎組柏尾馬之助庄野伊左衛門組小頭申渡候間此段御達ニ及候云々」とあり。 ・柚原勘五郎「柚原日記抄」同年8月条に「椿佐一郎組合へ桜井彦太郎、天野静一郎、堀越金吾、関根一作」とあり。 

・中村正行「御用留」元治元年2月条に「昨年中剣術出精ニ付為御賞誉左衛門尉殿より小菊紙被下候」として椿佐一郎の名あり。 ・同年6月中村定右衛門宛申渡書に「椿佐一郎、右は今度黐木坂下屋敷え引移之上、直ニ中村定右衛門組合え割入申渡候間、諸事小頭得差図、念入可相勤候」と。(「中村定弘氏所蔵文書」)

慶応4年庄内入り(病弱の妻子は遅れて庄内入りと) ・「田川温泉場寄宿帳」、「戊辰庄内戦争出張姓名」、「開墾士氏名」に椿の名なし。 ・「人名移動詳細」に「湯田川温泉より脱走暗殺せられたるとの説あり」と。

・千葉弥一郎「新徴組史料」に「椿佐一郎は千葉県の産にして、清川八郎と進退を共にせし村上俊五郎の義子にして、文武の修養相当にあり。気節あるの士なり。尊王は彼が常に唱ふる所、戊辰の役清川戦争と同時に彼は町奉行の檻倉に繋がれ、九月の始放免せられ湯田川の宿所に帰る。入檻せらるる当時、敢て官軍に通じたにはあらざるも、彼が平素に依り警戒せられしものならん。老生とは無二の友にて、()老生が鶴岡より妻を娶りたるを悦ばず、尚早を説きたる事あり。椿が不軌の目的とする所は、庄内の藩情を政府に申告し、新徴組を一括して新徴組募集当時の趣旨に復し、尊王の途を講じ成すあらんとの計画にして、仁科・天野の二人を党与にせんと欲せして云々」とあり。

・中沢貞祇の記録に「椿佐一郎事明治三年三月中仁科理右衛門椿佐一郎両人従弁事御用ニ付急速出立候様向役人共ゟ達有之依之同月廿日椿義出立仁科義ハ追而出立之旨沙汰有之則椿義廿日昼頃出立尤松平権十郎宅江立寄候様沙汰ニ付立寄候処其侭ニ而出候事見候者無之与申或ハ闇殺いたし候抔ト区々之風聞之候」と。(司法省へ出訴の旧新徴組士らの御調御尋談口上書)

・上記記録に「(椿が松平権十郎邸に立寄り)其ニ而出不申候由之風聞も有之候或ハ於和田東蔵宅酒を調ひ種々佐一郎越饗応いたし深く酔居る候処新井縫右衛門萩谷弥太郎手早く首縄掛〆縊候処中川一金玉(原注・カ)蹴殺候哉之区々之風聞有之候」等の記事あり。(佐々木正健稲熊繁樹の証言)

・田辺儀兵衛「公私日記」明治341日条に「鈴木弥平太、庄内ゟ昼早ニ而罷登、新徴組椿等為申合致し云々ニ付、同組取頭ゟ来状、但庄内三月廿四日出立之趣」とあり。

・明治28月椿佐一郎の妻長男(万次郎)を産むも、同年1210日死去。翌311日妻も死去する。湯田川長福寺の妻子の墓石に「私ハ死セル子ヲ嘆キ悲シム妻ヲ哀レミ放心ノ体ナリ、妻ハ明治3年元旦逝去、妻ト子ハ別々ノ地ニ生マレ同ジ家ニ死去ス、私ハ椿トイウ姓ニテ、椿ニハ生命ノ長ク目出タイ故事ガアルガ、シカシ死ハ誰ニモ襲イクル、ソウトハ思イナガラモ妻ト子ヲ思匕続ケテタダ泣哭スルバカリデアル」と。(小山松『新徴組』)

・中沢貞祇の記録に「椿慶一郎 右父佐一郎東京へ登候道中ニ於て出奔ニ付御大法之通家断絶被仰付候得共御構無之候間親類共引取候尤生涯壱人扶持被下候 (明治4年カ)五月十五日」とあり。

『日野市歴史館叢書』第10輯・小山松『新徴組』・『上毛剣術史』・子母沢寛『露宿洞雑筆』・吉野式『幕末諸隊研究』第8号・鈴木克久『峠越え』

殿内義雄

 称・大二郎

34

道中目付 後1番組

1人ヵ ・名主土屋忠右衛門季子 ・元結城藩水野日向守家来  ※土屋家屋号「殿内」

武射郡森村殿内(結城藩領) ※土屋家の屋号「殿内」

安政3年昌平黌入寮、翌4年退寮。文久2年昌平黌再入寮、翌3年退寮。

中村又太郎(久留米浪士・1番組平士)の妹を妻とする。殿内の死後妻は鎌田昌琢(奥州中村・3番組平士)と結婚。

文久3219日廻状に「殿内義雄、右は目付役差免根岸友山組ニ入候云々」と。 ・翌3(日不明・10日ヵ)浪士取扱鵜殿鳩翁より殿内、家里次郎に対し「有志之者相募候ハハ京都江戸之内江罷出候義ハ其者之心次第可致候、京都ニ罷在度申聞候者ハ会津家々中江引渡、同家差配ニ可随旨可被談候」との指示書が出る。

通説では浪士組内での京都残留者の募集とされているが、広く組外有士の募集を託されたものであることは、ⅩⅡ「京都守護職の浪人対策と浪士組」に詳述。

京都四条橋で、近藤勇らに殺害される。近藤勇の郷里宛て書簡に「同志殿山義雄と申す仁、去る四月(3)中四条橋上ニ而打果シ候」とあり。

・「世話集聞書」に「昨夜(25日夜)四条橋之上ニ大小差、切殺され居ル由承リ候ニ付、高橋癸亀一同参リ見物致し候処、藩中者と覚敷者ニて頭上を切られ、袈裟ニ切られ、左手首より小ゆひの処迄手に掛て疵有り、嶋之縞高袴、羽織ハ鼡地ニて紋付、衣類ハ唐木綿を着用こん足袋着ス、脇ニ茶屋提灯有之、大小柄袋有、大小と懐中ハ闇討ちニ御役場有之候付()後よりやみ打ニ被致候と申説も有之、又弐人ニて被殺候と申説も有之候得共不明」と。

・「前書」に「廿四日ニ四条橋爾て被切殺候者ハ壬生浪士之内ニて殿山義雄ト申者之由ニて、兼而浪士仲ケ間ニても如何之儀共有之、仁良満礼居候よしニテ、右殺候者ハ仲ケ間之内ニて殺候と申説なり」と。

新選組人名大事典』等各種新選組関係事典・吉野式『幕末諸隊研究』特別版

山田官司

 名・文次

 号・鏡浦

39

 

1番組小頭

母妻子5人 ・百姓千右衛門2男 ・文政8年生

平郡亀ケ原村住居

北辰一刀流千葉周作に学び、書を藤森弘庵、絵を菊池容斎に学ぶ。「武術英名録」、清河八郎玄武館出席大概」に山田官司の名あり。

久留米藩士佐田白茅の「根岸友山小伝」に「白茅滞留中(安政2年根岸家に)剣師千葉門人某来、数週間伝剣術、此時友山築振武所」とあり、この門人某が山田官司らしい。 ・新井庄司の覚書(『小川町史』)に浪士組参加のために組織した「甲山組」30人の隊長3人中山官司(他は根岸友山と徳永大和)の名あり。 ・文久323日付で根岸友山が江戸から郷里の息子伴七に宛てた書簡に「山岡宅へ被招隊長三十人御選に相成候、武州にては我等豊洲被仰付、常見一郎被仰付候、山田官司此方へ被仰付云々」とあり。

久坂玄瑞「江月斎日乗」万延元年45日条に「午後千葉栄二郎塾へ行、多賀生(勇ヵ)及房州人山田官司(原注・剣客)津高槻処士宇野東桜(原注・源三郎)と八辻(原注・四谷)に飲す」とあり。

新徴組入り ・文久3419日世話役 ・同年六月末剣術教授方兼務 ・元治元年2月文学世話心得() ・慶応2年六月肝煎取締役

・中村定右衛門「御暇申請候一条之事」に、元治元年黐木坂屋敷大棒杭事件に関し押込めとなった定右衛門の親族がその救済のため「山田官司ニ面会、種々相談ニ及

候処、同人申ニ迚も何度嘆願差出し候共役所え打込被置候事必定ニ候間、口上ニて申立候より外手段無之、右ニ付ては肝煎衆え夫々土産持相願ミ廻り、殊ニ同役教授方えも廻り、一先帰郷可致、いつれ共当暮之中之御免ニ相成候様、肝煎一同ニて精々致候由云々」とあり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・「田川温泉寄宿帳」に「先代官司長男幼少 山田文太郎、山田官司は三四番組肝煎取締剣術教授方百石 本高八十石 役扶持二十石」 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に2番隊取締役とあり。 ・明治元年912越後国境関川の戦いで左脇腹から背骨にかけて貫通銃創を負い、翌年51破傷風のため死去。享年45歳。 墓は鶴岡総穏寺、千葉県館山市の横峰堂に顕彰碑。

官司は勝海舟の妹や娘に薙刀を教授し、庄内入りの時には海舟から則長の名刀を贈られた。(小山松『新徴組』)

・継嗣文太郎(文明)は大泉藩過労松平権十郎から愛されて、藩校致道館で学び、後に庄内神社社掌になった。詩歌や篆刻の才があり、父官司の肖像画を残している。(同上) ・(官司は)身長六尺二寸の偉丈夫、眼光は鋭いが、性いたって温和、かって怒ったことがなかったという。(同上)

(官司は)漢学の素養もあり画は下手であったが常に楽しんで居った。撃剣は千葉周作に師事し、画は菊池容隣に師事した。刀の縁頭に孝經の一章を彫刻する抔、武士的堅固の人であった。先づ文武兼備と賞揚してよかろう。後ち山田三郎と共に百石を賜ふ。戊辰の戦役には各地に転戦し、後ち小名部口の激戦で敵の砲弾破裂し、脇腹と背に重傷を負う。陣中を退き、湯田川村に在って療養を加へ中途快方に赴きしも再発して終に没した。(千葉「維新前後の庄内藩)

千葉「新徴組と庄内藩」に「その男文明は後田林の開墾に従事し後ち小学校員の職に就けり」とあり。・「田川温泉場寄宿帳」に「先代官司長男、幼少、山田文太郎」とあり。・明治147月の「松ヶ岡開墾場社員名簿」に山田文太郎」の名あり。・『庄内人名辞典』に「長男文明はのちに庄内神社」社掌をつとめた」と。

著「千葉成政先生夜話聞書」

『戊辰庄内戦争録』・『庄内人名辞典』・小山松『新徴組』・『久坂玄瑞全集』・「むすび」105号・吉野式『幕末諸隊研究』5周年記念号・子母澤寛『逃げ水』

 

ⅩⅥの7 【埼玉県域の浪士組参加者たち(3)】

(は行~ )   16

 姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

蓮見源次郎

32

3番組

1人   ●埼玉郡戸ヶ崎村居住(三郷市)

「目録」に名なく、江戸帰還直後に加藤善次郎らと帰郷か。以後の去就不明。

神道無念流加藤善次郎の明治10年5月菖蒲神社奉額に門人名及び「建具師蓮見源次郎」とあり。

福永正蔵

40

道中世話役

母妻子4人 ・修験福永山正蔵

・文政7年生ヵ ・北有馬太郎門人

高麗郡赤工村住(飯能市)

「目録」に名なく、帰府直後に帰郷か。

福永山正蔵院に関し、『新編武蔵風土記稿』に「下赤工村、福山院と号す、本山修験郡中篠井村観音堂配下なり」と。現在廃院。

「北有馬太郎日記」安政51021日条に「正蔵院来行束修」、翌6310日条に「与(山川)達蔵正蔵院詣子権現社」、同年626日条に「正造院来」等とあり。※『漂白の志士・北有馬太郎の生涯』で当福永山正蔵院と長岡山正蔵(飯能市南川)とを混同したため、『埼玉の浪士たち』も福永正蔵を埼玉県域出身者から除外する誤りを犯しました。

武蔵国入間郡森戸村本山修験大徳院日記」弘化3119日条に「詩発会是ゟ一月三日位宛致ス人数者()赤工正蔵院玄有云々」と。又「赤工村正蔵泊』、「赤工正蔵院良山来泊云々(天保1512)」等の記事あり。

高麗神社祠掌高麗大記『桜陰筆記』元治元年611条に「大徳院正蔵院来る。五月廿二日寄合之模様、且正蔵院義先達江無届此度宗門武学館取立之願入ニ加リ候段大久保表ニ而詫済候由通達之事」、同月16日条に「正蔵院ニ逢、英士之約束申置候事(渋沢栄一の関東人選御用廻村に関し)」、翌年101日条に「正蔵院山川達蔵来る、帰る」等の記事あり。後の去就不明。

堀内大輔

 名・義信

36

一番組

不明 ・堀内庄右衛門政信子

秩父郡野上町(長瀞町)

「目録」に名なし。 ・「菅谷村報道」(嵐山町の広報紙)中「新徴組(9)」に文久3515日「水野倭一郎書出、堀内大輔、右の者は自分病気に付願済みの上帰国仕り、快方次第罷り出で御用相勤めべく申上ます」との記事あり。

野上光洞寺廃寺跡の墓地に、文政484日死没の堀内庄右衛門源政信(行年60)の墓石に「嫡子堀内大輔義信建之」とあり。大輔自身の墓石は確認できず。

堀内家は房州里見一族で甲斐の堀内城の城主だったが、里見一族滅亡後当地に土着して堀内と改姓し、維新後再び里見姓に復したという。(野上・里見某氏話)

細田市蔵

24

6番組

不明  ●入間郡黒須村(入間市)

「目録」に名なく去就不明。

甲源一刀流比留間家第2代半蔵利充の神文帖元治元年3月の項に「黒須村、細田一三」とあるという。(入間市の剣士たち』)

市内蓮華院の墓地に、「清巌壽□信士、浄月壽栄信女」と刻まれた夫婦墓の施主が細田市造」とあるが、墓誌は風化で判読できず。 ・細田家は屋号が「大屋」と称する酒屋(酒造業ヵ)で、維新後入間川の渡船場の管理をしていたと。

細田精一郎氏談「父から、曾祖父は新徴組に参加した人で、子供の頃、泣くとよく父から<泣くな、お前のひいお爺さんは二本差しで歩いた人なんだぞ>と言われたが、曾祖父は若くして亡くなったと聞いている」と。

吉野式『新徴組研究』第3号

松沢良作

 名・正景

41

四番組小頭

母妻子4人  ●大里郡富田村(寄居町)

甲源一刀流強矢良輔武行の高弟 ・邸内に道場開設

・門人帖(「神文帳」)219(信濃、越後、下野、上州等多岐に渡る)列記。中に浪士組士小沢勇作、中島政之進、町田政治郎の名あり。

安政48月妻沼の聖天山の貴惣門に奉額。額面に講武所頭取森川久右衛門の名あり。又、飯野清三郎、須永宗司の浪士組士や天然理心流横田馬之助行勝等と共に神文帳の人数を遥かに越える門人名が記されている。又願主松澤良作源正景の下に松澤主計源正信とあり、良作の子か。 

・小沢義光蛭川駒形神社の奉額の師匠席に松沢良作の名あり。

山岡鉄舟筆記「尊王攘夷党発起」中に「幹事、嵩春斎、桜田良助、松沢良作()」とあり。

広報誌「菅谷村(嵐山町)報道」に「富田の松澤、甲山の根岸より要請がありましたので水野倭一郎取計らい、内田、新井、松本その他の面々により相談の結果(浪士組に)参加したのであります」とあり。

中村維隆(『史談会速記録』合本19)の談話「(偽浪士朽葉新吉らを取抑えて)松沢良作といふ男に預けて置いた」と。 ・『東西紀聞』に「当地浪人共夥敷当月(文久34)二日ゟ五日此迄浅草御蔵前家持大家幷大伝馬町日本橋辺大家を見込押借()右五人頭立候而押込候由云々」として石坂周造らと共に松沢の名あり。 ・同月23日付浪士組有志一統の池田徳太郎宛書簡に「松沢良作事十四日夜出奔仕候へ共十五日へ欠込」とあり。

・松沢良作は和田理一郎と共に大関肥後守預となる。

奥平栄宜「明治戊辰變見聞録」に「明治元年三月二十八日出京松澤良作に会し石坂周造、村上俊五郎と共に勝安房、山岡鉄太郎両氏の命を受け、徳川幕臣誠忠隊三百余名下総流山に引集合せしめ彼等の徒を鎮撫云々」と。

墓は富田の大日堂墓地、「明治十二己卯年八月十八日行季六拾有一」とあり。

『藤岡屋日記』・『埼玉叢書』・『埼玉剣客列伝』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号・『幕末維新埼玉人物列伝』

松本為三郎

 名・年一

 通・半兵衛

21

1番組

父母妹3人 ・甲源一刀流道場主百姓松本半平(新井庄司師匠)長男 ・天保131115日生

比企郡上横田村住居(小川町)

新徴組入り ・「目録」に名なし ・小山松『新徴組』及び『歴史のなかの新選組』に95日脱退(依願永暇)と。

父松本半平は水野倭一郎の父年賀から甲源一刀流刀法を学ぶ。為三郎は水野倭一郎年次に学んだ。

甲源一刀流宗家逸見愛作の明治14年の宝登山神社奉額師範代席、同じ逸見愛作の靖国神社の奉額目代席、瀬山鉄五郎の明治45年の鎌形神社の奉額師範席の松本半兵衛の名あり。

為三郎の墓誌に「()弱冠劒法ヲ学ヒ兼テ算術ヲ□ム造詣スル所アリ、文久三年将軍家茂天下ノ壮士ヲ募ルニ応シ新徴組ニ入ル、幾許モ無ク父疾ニ會シ帰田、明治九年地租改正ノ事ニ當リ大ニ勉、晩年書翰墨ノ間ニ遊ヒ□花盆景ヲ娯ム、本田氏ニ配シ三男一女ヲ生ム、昭和4年十二月二日歿享年八十七長子為太郎家ヲ嗣ク云々」と。

・墓は上横田の曹洞宗輪禅寺

水野倭一郎

44

1番組

妻子孫6人 ・名主水野清吾年賀長男 ・文政5年生

比企郡志賀村(嵐山町)

父年賀は甲源一刀宗家逸見多四郎義年の高弟。根岸友山も年賀の門人。宗家5代多四郎長英の三峰神社の奉額(天保13)に「初目録、水野清吾年賀、男和一年次、属弟一千五百人」とある。 ・邸内の道場を「試関演武場」(『埼玉県教育史』に開設文政5年と)と称し、倭一郎も此処で修行し、父年賀死(嘉永2)後経営を引き継いだ。

新徴組入り ・「目録」に5番小頭、「組別名簿」に小頭として名あり。 ・元治元年229日達文に「右は昨年中剣術稽古出精上達ニ付、為御賞誉左衛門尉殿より小菊紙二束被下之、右は昨日達落ニ付、今日為心得及達候」として3名中水野倭一郎の名あり。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊伍長で名あり。 ・「戊辰庄内戦争録』に、8月5日山田(由利郡由利町)の庄内兵を攻撃してきた官兵に対して交戦、「(官兵)坂ヲ下リ畔ヲ渉リテ引退ク処ヲ二番半隊山田官司ヲ先トシテ山ヲ駆下シ二番三番隊一手ニ成テ追撃ス山田官司水野倭一郎太刀打撃ニテ敵一人ヲ相討ス」と。

・この戦役には倭一郎の3男令三郎も2番隊平士として出陣し9月19日負傷(『庄内戊辰戦争録』)113日死去した。湯田川新徴組墓地の令三郎の墓誌に「()父ト共ニ新徴隊士トシテ庄内ニ来リ、明治元年七月ヨリ各方面ニ勇戦セリ、或ハ北境鳥海山ノ頂上ヨリ八嶋城ヲ焼打シ転ジテ南越後境ノ関川ニ於テ官軍ト戦匕、終ニ銃丸ニ膝ヲ打抜ヵレ病創ノ為明治元年十一月永眠セリ」とあり。 ・志賀の水野家墓地にも令三郎の碑あり。

「開墾士氏名」に名なし。明治77月熊谷県に貫属替(倭一郎の墓誌や『嵐山町史』には明治8年とある)

宝登山神社逸見愛作の奉額に名あり、

倭一郎の墓誌に「新徴隊剣之師範及小頭兼務」とあり、『嵐山町史』に「倭一郎は五番組小頭、剣術師範となり」とあるが、根拠不明。

明治36年歿 ・享年81歳 ・墓は志賀の水野家墓地

『埼玉県人物事典』・『埼玉剣客列伝』・小山松『新徴組』・「埼玉県武道家資料蒐集事業資料」・『埼玉大学紀要』・吉野式『幕末諸隊研究』第四号・『幕末維新埼玉人物列伝』

村田新作

36

1番組

妻子2人   ●比企郡平村住(東松山市)

小山松「浪士組上京日記」に「二月二十四日、脱退者、池田徳太郎、村田新作、町田政次郎」とあり。

「目録」に名なし ・去就不明

薮田幾馬

37

5番組

不明  ●武州忍浪人、当時小川町与力尾崎三蔵地借田中良吉同居。

脱退時期、その後の去就等一切不明。

嘉永6年忍藩松平忠国家中分限帳に薮田姓の藩士名あり。

山川竹蔵

28

道中世話役

不明 ・山川文次郎子 ・天保7年生 ・山川達造弟

高麗郡下赤工村住居(飯能市)

北有馬太郎門人。安政56月頃入門、「北有馬太郎日記」翌726日条に「晩万福寺と山川氏を訪ねる()赤工に達す(名栗川の)対岸乃山川氏宅の後也。達造竹蔵水を渡って迎えに来る。夜宿る」と、以後日記中に兄弟の名頻出。なお山川家は屋号「質屋」と呼ばれたと。又同日記翌61128日条に「与山川竹蔵其弟春之輔来」、翌月26日条に「山川竹蔵山川春之輔去」と。

兄達蔵及び弟春之輔も北有馬太郎の門人であった。

新徴組入り ・「目録」32番三上七良平士 ・「組別名簿」桜井彦太郎組平士 ・文久311月脱退(小山松『新徴組』) ・『相楽総三とその同志』に「山川竹蔵は新徴組にいるとき小頭桜井万之助と争って斬られたという経歴がある云々」と。

文久312晦日付竹蔵の池田徳太郎宛書翰に「高橋君は当二十八日二の丸御留格にて講武所槍術師範役に被為成候、山岡君は未其儘に有之、此儀御周旋の程奉願候」とか「夷狄之蟲日本の地を喰ひ人民塗炭の苦九死一生も難斗、君之良薬を以て天下に施し彼蟲一時に云々」等とあるが新徴組脱退の記述なし。

相楽総三とその同志』に「薩邸焼討のとき鮫洲へ行かずに四散したものが多い。その中で判明しているものは」として「山川竹蔵、武州飯能、新徴組」とある。しかし「赤報記」中「江門著到人名」に「山川竹蔵、卯十一月帰郷元新徴組武州五郡飯能産」とある。

「町会議員当選の廻文と諸役員占拠の通知」に「下赤工邨、村総代(3)中に山川竹蔵の名あり。明治17年原市場村連合会議員下赤工村連合会議員に名あり。

大正5217日歿、享年82歳・墓は山川家墓地

「維新志士池田徳太郎」・『飯能市史』資料編・「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』)・『幕末維新埼玉人物列伝』

山川達造

32

道中世話役

両親妻子4人 ・山川文次郎長男 ・天保3711日生 ・山川竹蔵の兄

高麗郡下赤工村居住(飯能市)

北有馬太郎門人。「北有馬太郎日記」安政631日条に「携山川達蔵及曲竹乳婆抵奥富」、翌2日条に「遣達蔵乳婆及阿綱于江戸」、同月7日に「留乳婆于奥富、独与達蔵帰小瀬戸」とある(安井息軒の娘と離縁し嫡子小太郎を引き取ったのであ。)又、同月10日には「与達蔵、正蔵院詣子権現社」、826日条に「与達蔵出遊経原市場、芦久保、武甲山云々」等あり。

山岡鉄太郎清河八郎連名の池田徳太郎宛文久3120日付書簡に「()達氏にも口演仕候得共御恕察之上(浪士組士として)引集候人々には疑慮相生不申様御工夫、早々御誘引御出可被成()出府迄の処は御苦心有之度彼是多雑意外之苦心不能委細達氏より御聞取可被下候云々」とある達氏は達蔵と思われる。なお、池田徳太郎が武州上州等の浪士徴募に際し懐中にしたメモ書きに山川達蔵の名あり(『維新志士池田徳太郎』)

新徴組入り ・文久3519日世話役に選出されるも、その後の去就不明。

・達造の池田徳太郎宛同年418日付東帰要請の書翰中に「今以て御帰府にも不相成、将又御文通も御贈り無之甚以御案事申上候、何れにも御安否早々被仰聞被下様奉願候云々」とあり。

高麗神社祠掌高麗大記『桜陰筆記』慶応元年1020日条に「正蔵院、山川達蔵来る云々」とあり。

倉田施報「北有馬百之略傳」に「(文久元年5月師北有馬太郎捕縛に際し)門人山川達蔵急に家中の書を集め四方交通の文の如きは挙て之を火に投じ、以て其證左を滅し、其他は皆擢取して己れの家に秘し、令子の年やや長ずるを待て之を傳□、故を以て今尚幸に存せり云々」とあり。

・北有馬太郎嫡男安井小太郎略傳に「父は間もなく傳馬町の牢で病死した。時に文久元年九月三日。この間、私達(姉あり)は、赤工村に父の門人の山川達蔵といふ人がゐたので、ここに厄介になった。私はまだ生れて一年も立たない、ここで私は乳の代わりに甘酒ばかりをのまされました。この山川達蔵といふ人は、工科大学の教授となった山川義太郎の父であります云々」(『大東文化』第17)とある。

 ※達蔵の長男義太郎は工学博士、2男信次郎は文学士、3男弘毅は理学士。

『飯能人物誌』山川義太郎の条に「その父辰蔵は県令として自治に尽くし云々」と。 ・明治127月下赤工村戸長となる。他は未確認。

明治23221日歿、 墓は赤工の山川家墓地

『維新志士池田徳太郎』・『幕末維新埼玉人物列伝』

山岸金十郎

28

1番組

親妻子4人  ●比企郡高谷村住(小川町)

新徴組入り ・文久395日脱退、以後の去就不明。 ・「菅谷村報道」(嵐山町菅谷)に「五月十五日水野倭一郎書出、山岸金十郎、右者は親病気に付願済の上帰国仰せ付られ候、両三日の内出府云々」と。

湯本半蔵

29

 

母兄弟3人 ・勘五郎子

埼玉郡羽生村(羽生市)

新徴組入り ・「目録」に13番分部泉(宗ヵ)右衛門組平士湯本半蔵 ・「組別名簿」に小頭天野静一郎組平士湯本半蔵 ・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に湯本逸蔵、以後「明細書麁調」に湯本逸平とある以外逸蔵の名。

慶応4年庄内入り(家族2) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士に名あり 千葉「新徴組と庄内藩」に「(816越後国)高畑山の1番先に突出した場所には、大森浜は馬場兵介、長沢松弥、荒井荘蔵、小林守之助、湯本逸蔵、千葉弥一郎の七人であったが、午前十一時頃敵が進撃してきた」が防戦の結果不残逃げて戦は終わった、と。

・「開墾士氏名」に名なし。以後の去就不明。

・『歴史のなかの新選組』に「明治88月現在庄内在住の湯本安五郎は関係者か?」とあるが。

横山明

後・立山奇平

31

6番組

不明  ●川越浪人(川越在紺屋村とも) 当時斎藤熊三郎同居

新徴組入り ・「目録」に11番大内志津馬組平士

・「組別名簿」に小頭大内志津馬平士で名あり。・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に名なし。

・『藤岡屋日記』元治元年45日条に「右(大内志津馬組勝田芳蔵、横山明)は細川越中守瀧口居屋敷ニ罷在候留守居、渡辺善右衛門江戸抱六尺手廻り之者部屋ニ而、金銭勘定等之儀ニ付而は、右之両人目を付、其筋江懸ケ合、追々ニ最早五十両程も差出候由、然ル処又々此度五十両之無心申懸候ニ付、(大幅略)内々前文相話候処、以之外之儀、手前方(酒井左衛門尉留守居)ニ而組合志津馬呼出し、急度可申付旨、彼方ゟ返答有之、其後一度(もヵ)参り不申候由」と。

「赤報記」に「立山奇平、初名横山明平、小荷駄方、武川コヘ」、又薩邸脱出後「羽根田上陸」者の中に名あり。慶応43月下諏訪での追放者の中に名あり。

・『相楽総三とその同志』に「相楽総三の隊が、濃州柏原へ宿神したのは慶応四年正月二十七日で()二十八日大久手の宿で大谷総司(後の渋谷総司)、丸尾雄蔵(後の丸尾清)横山明平が三人づれで追いついて合流した」と、又「横山明(立山奇平)は道化たことのうまい男だったが、下諏訪で追放され、江戸へ出て官軍に斬り殺されたとも、会津人に斬られて死んだともいう」とあり。

高橋長信(雲州冬広)作刀の銘に「於江府雲州高橋長信作之、高木氏用刀山田官司横山明平試之裁鹿角、文久三年二月日」とあると。

相楽総三関係史料集』 ・「日野市歴史館叢書」第6輯、或は10

吉野唯五郎

29

1番組

祖母妻子6人 百姓助右衛門子

比企郡羽尾村住居(滑川町)

甲源一刀流刀法を学ぶ(師不明) ・中村清介の兵執神社の奉額(明治27)靖国神社逸見愛作の奉額(明治28)小鹿野神社の逸見愛作の奉額(明治28)、箭弓神社の大塚□八の奉額の師範席に吉野唯五郎の名あり。

「目録」に名なし、しかし「柚原鑑五郎日記」文久38月条に「今日組入、山田官司組合へ坂本周助、吉野唯五郎」とあり。

吉野唯五郎の養子吉野茂一も甲源一刀流の剣術家で、「上武武術英名録」等に名あり。

明治351119日歿 享年67歳 ・墓は吉野家裏山の吉野家墓地。

埼玉大学紀要』・吉野式『幕末諸隊研究』第四号

和田堯蔵

44

3番組

妻子五人  ●松平大和守浪人 ・当時信州更科郡真田信濃守領分住居

文久3415評定所に召喚され処分された者の中に和田堯蔵あり。 

新徴組入り ・「目録」に和田堯蔵組(配下4)あり

・「組別名簿」に名なく去就不明。

 

ⅩⅥの6 【埼玉県域の浪士組参加者たち(2)】

(さ行~な行)   17

 姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

島野喜之助

42

3番組

母妻子7人  ●埼玉郡志多見村住(加須市) ・島野家は志多見村の旧家で豪農(島野家分家で聴取・本家島野家は大地主で日枝神社まで他人の土地をふまず行けた富農だったが、現在は子孫が桶川市に在住と)

「目録」等に名なく、江戸帰還後帰村したらしい。

神道無念流宗家3代戸賀崎熊太郎栄芳に学ぶ。神道無念流「起請盟文入門帳」に名あり。小林助松晴村入門の翌天保9722日に入門。金子蔵之丞も同門。 ・万延版「武術英名録」に「神道無念流武州別処、嶋野喜之助」とあり、又「神道無念流免許皆伝系譜」に名あり。 ・加藤善次郎の菖蒲神社奉額(明治9)に名あり。 ・戸賀崎道場の門人帳弘化4年条に「武州埼玉郡志多見村 嶋野喜之介取立 松村熊吉」とあり。

喜之助の嫡男定三郎は弘化2年の生まれ。神道無念流大木伍兵衛柳眠に学び、維新後は志多見村議会議員や初代志多見村村長を勤める。義侠心に富む慈父のような人柄で、多くの村民に敬愛されたという。

島野家墓地は志多見の共同墓地、喜之助の墓は不明。

『加須の剣客小林丈助』・『加須市史』人物編

清水五()

 幼・森蔵

 名・誓()

30

1番組

母兄弟6人 ・酒造業清水弥右衛門誓一5男 ・母は根岸友山の妹(後妻、姉が友山の前妻) ・兄は安政6年横浜に出店し、パリ万博にも出品した実業家清水卯三郎。 ・天保5年生。兄卯三郎は文政12年生。

埼玉郡羽生町住(羽生市)

浪士組離京後も根岸友山らと京都残留。 ・『会津藩庁記録』文久3315日条「爰許江廿四人相残()此度私とも御差配ニ可随旨被仰付候」者の中に名あり。

・同月22日老中板倉勝静に将軍京都滞留を直訴建白した近藤勇18人の中に根岸友山と共に名あり。

・同月24近藤勇らによる殿山義雄謀殺前後に根岸友山らと京都を離脱、翌月23日以前に帰府。

新徴組入 ・文久3719日付「清水五一 親看病ニ付武州埼玉郡羽生町え差遣候間道中往返共人馬遣・休泊等相対賃銭相払、帰郷中其所之法度堅可相守もの也」、裏書に「()日限七月十九日より同月廿九日迄()右日限外れ候ハハ組除之積りたるへき事」の達文あり。

慶応四年庄内入り(家族3) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士で名あり。

明治5527日痔疾のため庄内で死去。享年39歳。家族は「わがよのき」に「(吾一は)□□□□□の家来芹沢の妹しもを妻とし、二人の女子をもうけたれどもみな失せたり。やもめのしもは山形より帰りわが家にしばらく居り、手狭なれば羽生の兄の方へ送りやり云々」とあり。2人の女児は庄内で死去。

吾一の墓は鶴岡総穏寺、及び羽生市正光寺

兄卯三郎の自伝『わがよのき』・『焔の人しみづうさぶろうの生涯」・『郷土羽生の先覚者しみづうさぶろう』・『新選組大人名事典』・『幕末諸隊研究』十周年記念号

清水小文治

恵造

48

1番組

妻子2人 ・百姓小文治子(明細書麁調)

大里郡小八ツ林村住(熊谷市)

新徴組入り ・「目録」に12番須永宗司組平士清水小文治、「組別名簿」に小頭清水小文治、「黐木坂屋敷絵図」に清水恵造で名あり。

慶応4年庄内入り ・「田川温泉場寄宿帳」に清水恵三と共に養子清水三郎とあり。 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士で名あり。 ・田辺儀兵衛「公私日記」慶応4811日条に「小文司手之者弐人此方江居候者、今度庄内表ゟ御人数参候ニ付相帰し、壱分ツツ手当為取申候」とあり。

・「開墾士氏名」に清水三郎の名あるも恵造の名なし。

・清水三郎は尾崎恭蔵と稲田隼雄の庄内脱走時、追手の1人として戦い負傷する。

明治72月貫属替(埼玉県へ貫属替の清水親威ヵ)

明治6917日酒田県へ寄留願いを提出した清水親盛は養子三郎ヵ。

現在小八ツ林地区に清水姓の家なし。共同墓地に清水姓の墓(天保年間迄)が確認できるも、清水家は甲山へ転居したとのこと。(村民談)

伊東滝三郎「市中見廻日諸留」(鈴木克久『峠越え』)

・千葉弥一郎「維新前後荘内物語」・小山松『新徴組』

杉山弁吉

  弁蔵

50

2番組

父子2人 ・百姓勘助次男

横見郡一ツ木新田村住(吉見町)

新徴組入り ・文久42月廻状に「右之者昨年中剣術出精ニ付為賞誉左衛門尉殿より小菊紙被下候」として杉山弁吉の名あり。

・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に弁吉の名なく杉山音五郎あり。「明細書麁調」に「杉山音五郎、亡父杉山弁吉云々」とあり。 ・音五郎は慶応4年庄内入り(家族2) ・「田川温泉場寄宿帳」に「先代弁蔵長男、杉山音五郎」とあり。

「庄内戊辰戦争出張姓名」3番隊平士に杉山音次郎、「開墾士氏名」に杉山音次郎の名あり。

明治77月杉山音五郎東京府へ貫属替。

一ツ木長泉寺跡墓地の杉山某墓石に「杉山家始祖は横見郡の当地を担当した原大隅の守の長女に杉山玄馬之守(滑川町出身)が婿入し、元禄年間本家大隅の守長屋敷富士先門前に第一分家として別居」し、以後繁栄して分家等十数軒に至るとある。原大隅守は武田信玄の家臣原美濃守虎胤の後裔で、虎胤の孫原勘解由良房が文録年間にこの地に土着したと。13第当主原照胤は馬庭念流の剣術家という。杉山家は明治7年の荒川の河川改修で1軒を残し総て他に移転した。

須永宗司

 名・武義

須永家系図には宗司照武

31

7番組小頭

親妻子4人 ・百姓与兵衛子(「明細書麁調」)・須永家系図の父の名は須永新五郎照国 ・天保3年生。

幡羅郡飯塚村住(熊谷市)

甲源一刀流を学ぶ(師不明)安政4年松澤良作の聖天院貴惣門の奉額に、代師範席に須永宗司の名あり。 ・「武術英名録」に「甲源一刀流 深谷在 須永宗司」とあり。 ・邸内に剣術道場があったと伝わる。又宗司は「甲源流の剣術を好くせし人、小兵なれど気概あり」と。

新徴組入り ・「目録」12番組小頭、『組別名簿』小頭 

文久3521日廻状に「()壱番組小頭山田官司五番組須永宗司両人親病気ニ付立帰帰国願候ニ付承届ケ出立申渡候間云々」とあり。

「須永家系図」に「元治元()六月五日卒ス江戸牛込法泉寺薨年三十三歳」と。『太田村誌』に「慶応の年遂に新徴組の邸に悶死す」又「痔疾手術が真ならん」と。

「明細書麁調」に「須永宗太郎、亡父宗司()庄内入、(家族)二」、「田川温泉場寄宿帳」に「楽隊、先代宗司長男、須永宗次郎」とあり、「須永家系図」に「須永宗太郎義武()太田村大字飯塚黒沢作次郎ノ長男ニ生レ五歳ノ時父ヲ失ヒ十一歳ノ時母ノ再婚先ノ須永宗司ノ死後其養子トナル養父ノ跡ヲ継ギ新徴組ニ入隊ス」とある。

・「黐木坂新徴組御用屋敷絵図」に須永宗太郎の名あり。

・「庄内戊辰戦争出張姓名」、「開墾士氏名」共に宗太郎の名なし。 ・明治79月熊谷県に貫属替。

妻沼町誌』に「須永宗司は、大阪方の残党須田弾正親義が武者修行中発起してこの地に土着、姓を須永と改めて百姓になった人から十代目の新五郎照国の長男として天保三年に出生した」と。

『埼玉人物事典』須永武義(宗太郎)条に「明治7年陸軍兵学寮に入り、西南戦争に少尉で従軍、日清・日露戦争にも出征した。近衛歩兵第2連隊長、第9師団参謀長、歩兵72236師団長を経て同43憲兵司令官に就任、44年中将に昇進、452月予備役編入となった。(大正14年没)享年71歳」とあり。

大里郡郷土誌」・『妻沼村郷土誌』・『埼玉剣客列伝』・吉野式『幕末諸隊研究特別版』

諏訪山熊次郎

 名・家継ヵ

63

3番組

妻子2人  ●足立郡鴻巣宿住居(鴻巣市)

神道無念流を学ぶ(師不明)。 ・安政32月常見源之助主宰「摩利支天講連名簿」に「鴻巣宿、諏訪山熊次郎様」と。「武術英名録」に「中山道鴻巣宿神道無念流、諏訪山熊次郎」と。明治9年加藤善次郎の菖蒲神社の奉額に「世話掛、鴻巣、諏訪山熊次郎」とあり。

「目録」に名なく江戸帰還後の去就不明。

御子孫の話に「家は江戸時代末期か明治初年に原市場から勝願寺の門前に越してきた。初代が熊次郎家継といった。神道無念流の達人だったと伝わる。数回の火災に遭い資料は何も残っていないし、位牌も字が読めなくなっている。赤鞘の刀もあったが」と。

菩提寺市内法養寺に、熊次郎が天保734日施主として建立した墓と、諏訪山庄八建立の熊次郎夫婦の墓が確認できる。熊次郎の没年は明治15116日、妻きの元治210月□(4)日。

吉野式『幕末諸隊研究十周年特別記念号』

高橋菊之丞

22

1番組

父母兄弟10人  ●横見郡柚沢村住居(吉見町)

新徴組入り ・文久39月6日脱隊 ・「柚原鑑五郎日記」文久39月条に「六日御仕法替ニ付御暇金五両宛被下」として高橋菊之丞の名あり。以後の去就不明。

滝川熊之進

20

4番組

1人 ・百姓吉五郎子

男衾郡本田村住居(川本町)

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」共に小頭須永宗司組平士に名あり。 ・根岸友山「御用留」文久368日条に「右之者昨夜御門限御規則相省キ候依之慎被仰付候間云々」として3人中水野倭一郎組滝川熊之進の名あり。 ・慶応211月岩間清四郎の乱心事件の際、清四郎の身柄監視に当たった者の中に名あり。

「明細書麁調」に「庄内入り」家族3人「内一人3歳以下」とあり。 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に1番隊平士で名あり。「開墾士氏名」に名なく以後の去就不明。

田口徳次郎

33

1番組

妻子兄弟3人  ●比企郡大塚村(小川町)

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」共に飯塚謙輔組平士として名あり。 ・文久312()中村定右衛門宛徳次郎書簡(舌代)に「()小子義先日申上候山岡君之一条ニ付、昨七ツ頃友山君より是非迄追々右御頼之一条御出張願上候、何卒御繰合セ御供可仕候云々」と。・同年1218日付根岸友山の中村定右衛門宛書簡中に「過日田口を以願置候山岡公へ御執成之義、御手透次第御周旋奉願上候云々」と。 翌文久428日付根岸の中村宛書簡中に「兼て奉願上候山岡様一条、此程委細御申上被下候処、山岡様より御懇情之御定見等之段委細被仰聞難有奉存候、先便森土様より一向不沙汰之趣ニて御状被下何共恐入候間、此度田口公へ委細申遣し候、田口公と御両所様ニて何とかよろしく御申上云々」とあり。

・慶応元年6月の黐木坂新徴組屋敷絵図に田口徳次郎の名なく、以後の去就不明。

『日野市立歴史館叢書』第11

千野卯之助

48

1番組

母妻子孫8人 ・百姓惣八子

比企郡下小川町住居(小川町)

新徴組入り ・元治元年2月「昨年中剣術出精ニ付為賞誉左衛門尉殿より小菊紙被下候」として千野卯之助の名あり。 ・「明細書麁調」に「庄内入り、(家族)四」とあるが、「黐木坂新徴組屋敷絵図」や「田川温泉場寄宿帳」等に千野卯之助の名なく、慶応元年6月以前に脱退したものと思われる。以後の去就不明。

「明細書麁調」に卯之助に関し「生国武蔵、元信濃諏訪浪人、武比企郡小川村代々住、先祖より三代目迄郷士、四代目より代々百姓、惣八子」とあり。

「千野家由緒書」に「信濃国諏訪郡茅野村茅野信武□(茅野備後)茅野一統年代不知武州比企郡奈良梨村に引越住居仕り候事其籟大沢氏と備後両人彼之地に罷越諏訪御社奉守護候由然庵大沢氏者当所之神職に相成茅野氏は郷士にて罷在候」とあり。

『埼玉史談』第9巻「奈良梨と諏訪千野両氏」

塚田源三郎

 名・秀保

28

6番組

親妻子6人 ・富農塚田勇蔵長男 ・天保7725日生。   ●幡羅郡蓮沼村(深谷市)

甲源一刀流蛭川一忠康に学び、後邸内に剣術道場を開設。瀬川太郎右衛門信綱は源三郎の門人。嫡子啓太郎建立の源三郎の墓石に「父少壮而儒教剣術」とある。

「目録」に名なく江戸帰還後脱退か。

高橋三五郎一之明治3年の滑川町成安寺奉額師範席

・甲源一刀流宗家辺見愛作明治14年の宝登山神社の奉額の師範席 ・大塚○恵八明治21年の箭弓神社の奉額師範席筆頭 ・辺見愛作明治28年の小鹿野神社の奉額の師範席 ・辺見愛作明治28年の靖国神社の奉額師範席に名あり。 ・瀬山鉄五郎の「英名録」明治31年条に名あり。 ・「皇国武術英名録』に名あり。

明治17年の秩父事件の際、門人数十人を塚田家に集合待機させたため、これを知った困民党の一隊が進路を変えて難を免れたという。

明治7蓮沼村戸長、翌8年学務委員となり、蓮沼学校の建設時にはその用地を提供したという。明戸村々長を歴任し、明治38524日没。享年70歳。墓は深谷市蓮沼の総持寺。 ・安政6年生れの長男塚田啓太郎は実業家で衆議院議員(『埼玉県人物事典』)

『埼玉剣客列伝』・酒井塩太『甲源一刀流』・『甲斐源氏甲源一刀流逸見家』・吉野式『新徴組研究第9号』

土屋竹蔵

25

2番組

不明   ●武州忍浪人(行田市)

新徴組入り ・「目録」16番組平士、「組別名簿」小頭飯塚謙輔組平士 ・文久368日付廻状に「右之者(3名)昨夜御門限御規則相省キ候候依之慎仰付候云々」として土屋竹蔵の名あり。

文久4年2月10日本郷竹町の質屋源助方で石原富蔵(新徴組士)、佐野芳之助(酒井順之助家来)と共に強談し捕縛される。(『藤岡屋日記』) 以後の去就不明。

常見一郎

 通・源之助

 名・真倫

43

3番組小頭

親妻子10人 ・百姓吉之助真成子(推定)

埼玉郡安養寺村(鴻巣市)

神道無念流宗家3代戸賀崎熊太郎栄芳高弟、小松助松、島野喜之助は兄弟弟子。義集館道場経営。

新徴組入り ・「目録」6番組小頭、「組別名簿」小頭で名あり。・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に名なし。・小山松『新整組』2慶応元年6月役宅新築時「小頭過人、常見一郎(前小頭)」とあると。

・中村定右衛門「御用留」元治22月付常見一郎親類鴻巣宿在原馬室村要右衛門等の嘆願書に「右之者(中村定右衛門と常見一郎)共去子六月中心得違之儀御座候て、於酒井左衛門尉様禁固被仰付奉恐入候、永々幽閉ニ罷在自然発病仕候も難計、旁々歎々敷奉存候間何卒以御慈悲御赦免ニ相成様云々」とある。他に芝増上寺内瑞成、清水家臣塚田東作等の常見一郎宥免の嘆願書あり。又松平権十郎の返書等もあり。同年36日付権十郎増上寺内瑞成への書簡中に「市()郎義ハ迚も難差免者ニ有之候間、何廉嘆願致し候ても已来御取扱無之様致し度、無余儀及御断候云々」とある。※中村定右衛門は許されたが、常見について詳細不明。

国立公文書館所蔵文書「明治以後の新徴組隊士らの行方」に、常見一郎に関し「慶応元年三月不埒ノ儀有之永牢中病死」とあると(吉野式『新徴組研究』第5号)。 ・御子孫常見家の口承に「先祖に剣術の腕の立った人がいたが、妬まれて東北地方の某所で闇討ちに遭って殺されたとも、戊辰戦争に従軍して戦死したとも」と。

常見家菩提寺安龍寺に明治1712月常見新助直良建立の夫婦墓があり、そこに「明治二己巳年八月二日()、俗名常見一郎真倫、行年四十九歳」とある。

鴻巣市箕田の寺子屋師匠増田俊輔の碑石門人名に常見源之助の名あり。 ・安政3年三月会主常見源之助真倫が近隣武術家70余人を集めた剣術大会の招待者を列記した「摩利支天講連名帳」あり。(鴻巣市史』資料編)

福井藩橋本左内の「備忘録」(安政3)に「武州鴻巣在安養寺村恒見源之介、往来共日光道中栗橋宿云々」とあり。

『笠原村史」・『鴻巣市史』・『橋本景岳全集』・『日野市立歴史館叢書』第11輯・『幕末維新埼玉人物列伝』

徳永大和

 号・豊洲

40

1番組小頭

妻1人 ・横見郡長谷村生まれ。

大里郡高本村住居(吉見町)

文久3年1月16日付根岸友山の府川甚右衛門宛書簡に「池田(徳太郎)君同行の加藤健次郎君又々当方へ御出に付隣村神主福()永大和と申者案内者として差上候云々」と。 ・同年23日在府の根岸友山から郷里の伴七宛書簡に「武州二而は(小頭は)我等豊州被仰付山田官司此方へ仰付候」、追伸に「豊洲公平安着の趣旨右宅へ御伝言被下候」とあり。

豊洲妻は高本村名主鈴木七兵衛娘。

・「目録」に名なく江戸帰還後早期に脱退か。

天保3年甲山村人別帳に「大和、山王社掃除人、出生横見郡長谷村、九歳、引受人小八林村春日社神主河内」と。後に根岸友山の知遇を得て吉見領総鎮守吉見大神宮での神職修行を経て同神社と高本村高城神社神主を兼ねる。又根岸家の高本村所有地の管理を託される。

慶応2年の武州一揆の際は安藤野雁と共に暴徒対策に当たり根岸家の危急を救った。(『冑山防戦記』)

慶応4年根岸友山武香親子が官軍に捕縛投獄(冤罪)された際、吉見大神宮の須永宮司と共にその赦免救解に奮闘した。その際の「大総督府宮様御役所」への嘆願書

の署名に「大神宮神官並医徳永豊州」とあり。

明治4年6月大宮氷川神社主典となる。大宮氷川神社神主角井駿河守の日記に、「(同年12月7日)徳永豊州儀ハ出京留守ニテ云々」、「(明治7年9月15)赤飯一重徳永より到来、但同人へ娘出来云々』等の記事あり。明治7大宮氷川神社神社主典の職を辞し(病ヵ)高本村へ帰る。翌年8818日病没。享年52歳。墓は高本の共同墓地。

妻沼歓喜院所蔵の画幅「妻沼八景」は豊州の作。

『大里村史』・『大宮市史』資料編・『根岸友山・武香の軌跡』・『幕末諸隊研究十周年記念号』・『幕末維新埼玉人物列伝』

戸谷浦次郎

26

1番組

妻子3人  ●児玉郡本庄宿住居(本庄市)

新徴組入ヵ。「菅谷報道」(嵐山町)中に、「515日水野倭一郎書出」として「戸谷浦次郎、右の者は親病気に付願済みの上帰国仕ります」と。(出典不明)

根岸友山家系図の、友山の末弟桂(雲外)の条に「本庄駅戸谷氏ヲ嗣ク、後離縁」とあるので、この戸谷家の関係者か。 ※本庄宿で高名な戸谷家は、根岸鎮衛の「耳袋」に載る戸谷三右衛門家や、松崎慊堂『慊堂日暦』に載る戸谷半兵衛家があるが。・戸谷双鳥(通称半兵衛は俳人として高名)

中村定右衛門

 名・正行

33

江戸出立時不明、215日より乱暴人取押役

両親妻子7人 ・百姓伊右衛門子 ・天保元年414日生   ●幡羅郡新堀村住(熊谷市)

馬庭念流四分一兵右衛門光重門人、四天王の1人。安政31目代印可を受け、邸内道場(兵武館)で門人を育成。押花、謡曲、算術等にも秀でる。・新井朝定編纂「皇国武術英名録」に中村定右衛門正行の名あり。

定右衛門自筆書に「登り之節より組内乱妨人取締方被仰付、下府之節ハ取締付と唱候て高橋伊勢守ニ付添」とある。 ・上洛途上の215日付廻状に「右乱妨人取抑方申付候間左様可心得候」として7人中筆頭に中村定右衛門の名あり。 ・「甲山組」の根岸友山組に名があるので、江戸出立時は1番組平士だったか。

御子孫宅に「雲州藩藤原長信作之、文久癸亥八(二ヵ)年二月上洛供奉中村定右衛門藤原正行試之鹿角鐵裁」と刻銘の長刀(83.2cm)(刃毀れあり)あり。

新徴組入り ・定右衛門自筆書に「(文久3)六月剣術教授方、同年九月小頭役被仰付」とあり。

千葉弥一郎『新徴組と庄内藩』に、新徴組が幕吏の手を離れて庄内藩に委任された際、「最初に中村定右衛門・

鯉淵太郎は邸の四隅に<酒井左衛門尉屋敷>と記せし標木を見るや、直ちに取除き溝中に投じた。藩吏其不法を詰問すれば、二人は答へて曰、此邸は酒井左衛門尉邸にあらず、新徴組に賜はりたるものなりと。然れども、暴状を以て獄に投ぜられた。翌日<新徴組御委任>の六字を加へて書き改めた云々」とある。小山松『新徴組』もこれをとったのだろう、文久31226日黐木坂邸の四隅に「酒井左衛門尉屋敷」と記した大標木が立てられたのに憤慨した2人がこれを引き抜いたとある。

・定右衛門が当該事件に付いて記した「中村定右衛門等赦免嘆願留」には「(元治元年)六月中新徴組之儀は酒井左衛門尉殿之一手ニ御委任被仰付、然ル処是迄飯田町屋敷ニ立置候棒杭ニは新徴組御委任酒井左衛門尉殿屋敷と、ケ様ニ書認メ建有之候を、六月廿六日ニ抜取、其跡え酒井左衛門尉屋敷と書建替ニ相成、右ニ付如何之訳ニて新徴組と申文面を除キ建替ニ相成候事哉、組一同之者承り申度旨小頭一同之申候ニ付、小頭より其日当番肝煎山口三郎(2人略)右三人を別間え招、右一同之存意之趣三人」に問い糾したことが事の発端(縷々詳細有)で、中村定右衛門、常見一郎、内藤弥三郎の三人が押込め処分となり、7月「十五日ニは常見一郎組合と野生(中村定右衛門)組合つぶし、外之組合え組込」になったとある。

・この後中村定右衛門の親族の再度の嘆願や、「新島村新照寺ヲ相願ミ出府致し酒井家菩提寺芝山内清光寺より嘆願」し、許されたのは慶応元年3(永暇)であった。

拙著『幕末維新埼玉人物列伝』等においても、小山松『新徴組』と同様の誤りを犯していました。

慶応2年、流派発展と家内繁栄を願い現熊谷市三ケ尻観音堂と同市新堀大正寺に奉額する。 ・「埼玉県武道家資料蒐集事業資料」に「中村定右衛門は馬庭念流の使い手で、同流を武蔵北部一帯に普及させるのに与って力があった人物である」とある。

明治9年新堀村戸長、同18年高柳村外四ケ村連合戸長就任。

山岡鉄舟に春風館道場に入門(時期不明)、明治133月無刀流開祖山岡鉄舟から中村正行への「無刀流剣法修行規則」及び6月付「剣道悟入覚書」等あり。

明治2027日没、享年58歳、墓は中村家墓地 ・庭前に山岡鉄舟撰文幷書による「中村正行碑」あり。

「明細書麁調」は旗本斬殺事件で自刃した中村常右衛門と中村定右衛門を混同している。

「遠近刃額出名簿」・「壬文久二年諸先生姓名簿」・「文久四子正月御用留」・「文久三年忠士日誌」等

「皇国武術英名録」・『埼玉剣客列伝』・『埼玉紀要』・『日野市立歴史館叢書』第11輯・『埼玉武芸帳』・『ふるさと新堀の歴史』・『熊谷市人物事典』・『歴史と旅』中山本邦夫稿「山岡鉄舟」・吉野式『幕末諸隊研究特別版』・『幕末維新埼玉人物列伝』

長屋源()

 「田川温泉場寄宿帳」に「初め元蔵、長屋玄平」と

29

6番組

不明   ●武州川越浪人、当時斎藤熊三郎方同居

新徴組入 ・「目録」25番吉岡卓雄組平士 ・「組別名簿」吉岡卓男組平士

・田辺儀兵衛「公私日記」慶応4122日条に「長屋玄蔵儀、旧臘廿五日薩州屋敷江相向、手疵ヲ得候ニ付為御手当金弐両被下置候」と。 ・長屋玄平がこれ以前に薩邸へ密偵として潜入したという逸話が、千葉弥一郎「わが新徴組の薩摩屋敷焼打」及「新徴組史料」、又俣野時中明治27512日史談会談話、『相楽総三とその同志』に記述あり。

慶応4年庄内入り(家族無) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に2番隊伍長で名あり。 ・「公私日記」慶応4425日条に「長屋玄蔵、松根村磯吉両人、最上江差遣し候、源平江弐拾両磯吉江五両為持遣申候」、翌閏411日条に「長屋源平、磯吉最上ヨリ帰ル、御人数も追々御引揚ケニ相成候趣申聞候、如何成ル御趣意ヵ相分リ不申候甚心配ニ候、早速金剛殿江申上ル」、又同日条に「御城下之御趣意も相分リ不申候ニ付、長屋源平江書状為持、大夫江御模様相伺セ申候」、同月13日条に「長屋源平鶴ケ岡より参ル」とあり。

「開墾士氏名」に長屋玄蔵で名あり。

「天野静一郎割腹事件手続御尋ニ付萩原忠義申上候口上記」に「()右七人之者(長屋の名あり)静一郎宅へ参()長屋玄蔵申聞候ニ者西ケ原村鎌太郎之一条存じ有之哉ト相尋候所静一郎義答候ニ者一向存不申旨相(答ヵ)候、右玄蔵申候ニ者鎌太郎義知ぬ事者有間敷与申候者、静一郎不存旨申候得者、長屋玄蔵(2人略)右三人種々申聞候間、左様御不審ニ候得者表向之御吟味被下段相願候云々」、「(天野は)不及是非実々西ケ原村鎌太郎義曾而覚無之其侭咽へ突立カツキリ候越又々長屋玄蔵其脇差取咽江突通候義ニ而其侭相果申候云々」と。

稲田隼雄割腹事件に関する「奉訴訟口上記」に「()隼雄事□モ不取改心之心底モ無覚束付亭ハ割腹之事弥其場ニ及ひ候迄進メ候様厳重申出候、其根元者長屋源平より被申付候」と。

明治6415日庄内を脱走し、途中連れ戻された小山清忠と中追胤親について、「此度之義ハ再血盟モ有之皆議定誓詞ヲ破候事言語ニ絶タル大罪人是非割腹致候様赤澤源弥中川一萩谷弥太郎長屋玄蔵相進候事」と。

明治73月庄内脱走元新徴組士の司法省への訴えにより懲役2年の刑を課される。

千葉弥一郎「維新前後の荘内物語」に「山口三郎が恩人として居る新徴組の長屋玄平は老生の実父と同じく武州川越の藩であって、老生とは姻戚関係があった。玄平は三郎を信頼して居った為め玄平との関係より老生も三郎とは至って親しく交はった云々」等とあり。

『庄内史料集・明治維新史料』・『上毛剣術史』

根岸友山

 幼・房吉

 字・仁卿

 名・信輔

 通・伴七

55

1番組小頭

妻子5人 ・『新編武蔵風土記稿』に載る名家で豪農の根岸家11第伴七信保の長男。文化61127日生

大里郡甲山村居住(熊谷市)

文を山本北山(芳川波山ヵ)、寺門静軒等に師事、武を水野年賀、千葉周作等に学ぶ。邸内に武術道場「振武館」と私塾「三余堂」を設けて郷村子弟の教導の場とする。

天保4年大里23ケ村の普請惣代として荒川改修工事に尽力。 ・同12年蓑負騒動と呼ばれる農民騒動(天保10)に加担して江戸十里四方追放の処分を受け、安政2年許される。

万延元年長州藩の物産御用取扱及び江戸異変の際の藩邸内の世子や婦女子の避難所を根岸家に託される。又友山の履歴書に「天下有志ノ士ト交際シ来訪逗在スル人多ク就中長藩桂小五郎小松真辰三郎久坂玄瑞時山直八小田村文助薩藩鮫島雲城重野厚之丞肥前藩中野方蔵宇都宮藩広田精一刈谷藩松本謙三郎()王事ニ奔走シテ資力已ニ尽キ来リテ衣食旅費ヲ乞アリ伴七一々之ヲ容レ或ハ宅ニ隠匿シテ()常ニ宅ニ寄宿スル者十余人ニ下ラス」と。※安藤野雁、寺門静軒等も長く寄寓した。

文久元年125日付清河八郎の友山武香親子宛書簡中に「去月之比は毎々参堂永滞留仕、萬々御厚情ニ預千万忝奉存候、其上出立之節は御餞別迄御贈被下云々」と。

文久31月7日付清河八郎の友山宛書簡に「公辺を以て広く天下之有志のもの不拘貴賤御召寄之事に相成、即同志池田某を以て廻国周旋為致申候間、いさひ当人より可申入()尽忠報国之秋ニ候間御奮臨被成様致度云々」と。 ・同月25日付池田徳太郎の友山宛書簡中に「御調達次第一衆に無之とも御遣可被下候、尤山岡さして也云々」とある。 ・友山は甲山組と称する27人を纏めて桶川宿に集結し(129)、池田徳太郎らと21日江戸到着。

313日の浪士組江戸帰還に同行せず京都残留。 

・同月15会津藩公用方に出頭し近藤勇20人と共に「御差配ニ可随旨被仰付」。 ・同月22近藤勇17人と共に老中板倉勝静に将軍の京都残留を直訴建白する。 ・同月24日前後に京都を離脱し江戸に戻る。

新徴組入り ・「目録」に29番萩原弥太郎組平士に友山の名あり。しかし「御用留」関係には4月に小頭で友山の名がある。小山松『新徴組』に519日取締18人任命中に友山の名あり。

・同年423日付金子正玄の池田徳太郎宛東帰要請の書簡中に「根岸友山君、佐々木如水外一同にも松平上総介殿に援兵願候処、早速御聞済被下候間、黄金のよろひさし下に付御出馬可被下候」とあるので、友山は23日以前に帰府していたことが明らかである。

・同年912日病気を理由に永暇を得て帰郷。同年12月中村定右衛門に宛てた友山の書簡に「(江戸)発足前より引続湿疹ニて難儀致居()右湿疹増長之上()食禁ニて酒ハ猶更厳ニ禁申候間鬱悶ニ不堪云々」とある。

元治元年「第一回征長の挙あり。氏(友山)関東の虚なるに乗じ、権田直助等と兵を挙げ長州に応ぜんとす。幾ならずして幕長和議成りしを以て果さざりき」(徳育資料』) ・慶応2年「秩父多摩二郡暴徒為乱。掠奪金銭。一夕襲友山居宅、友山接戦捕其二人」(佐田白茅「根岸友山小傳」)。※安藤野雁「冑山防戦記」あり。

・慶応3年竹内啓ら野州出流山に挙兵「伴七育成ノ兵士の内五十人ヲ撰ミ率匕テ対手ニ向フベキ命ヲ受タリ、伴七陰ニハ竹内啓ト謀ヲ通ジ()機ヲ得テ大平ノ兵ト相挾ミテ幕兵ノ不意ニ起ラントス()熊谷本陣詰ノ隊将伴七ノ挙動ヲ怪シミ」帰村を命じられると。(『履歴』)

・慶応48月「旧幕府元関東取締出役渋谷鷲郎江同腹致し、同人所業を相助ケ、且金穀武器類を相預り、妻児共ヲ養ヒ候云々」との嫌疑で官軍に捕縛投獄される。なおこの際、友山の身代わりたらんとした息子武香も共に投獄される。徳永大和や村民の嘆願運動もあって翌月には冤罪も晴れ釈放される。

明治2年服部誠之助と「廃封建表」、同3年用日本字廃漢字事」等を政府に建白。同4年には神葬祭運動を展開し、甲山村全戸の神葬祭への改宗に奔走。又嗣子武香と「日本古印譜」や「皇朝泉貨志」等の編纂刊行を行い、傍ら吉見の百穴等古墳の保存や古器物古跡の研究保存等に尽力した。

明治23123日没、享年82歳。墓は根岸家西隣の根岸家墓地。当塋域に「寺門静軒先生之墓」あり。

「御用留」・「吐血論」・「治水考」・「田園雑興」等

『根岸友山・武香の軌跡』・『埼玉県人物誌』・『埼玉県人物事典』・『大里村史』・『北武八志』・『在臆話記』・『しみずうさぶろうの生涯』・『徳育史料』・『新編埼玉県史』資料編・『史談会速記録』・永井啓太『寺門静軒』・沼田哲「武蔵豪農と尊攘思想」(『季刊日本思想史』第13)、「幕末の武州豪農長州藩(井上勝生『幕末維新史の研究』中)、桜沢一昭「武蔵草莽の一典型」(『埼玉地方史』)、小野文雄「幕末の書翰」(『埼玉県史研究』)等論文多数・『幕末維新埼玉人物列伝』

 

ⅩⅥの5 【埼玉県域の浪士組参加者たち(1)】

(あ行~か行)  22

  ※当該名簿をご覧の際の注意事項は、ⅩⅣの1の冒頭に記してあります。

姓 名

年齢

所属等

家族・出身地・その他参考

新井清六郎

51

3番組

母妻子5人  ●埼玉郡菖蒲町住居(加須市)

「目録」に名なく去就不明。

神道無念流加藤善次郎(3番組平士)の菖蒲神社の奉額に「世話人 新井清六」とある人か。 ・菖蒲の吉祥院の墓域に「施主新井清六」の墓石と共に、嘉永6年1224日死去の「全明童女」と刻された墓石に、「施主中町柏屋清六」とある、「柏屋」は屋号だろう。

新井荘司

 名・年信

32

1番組

両親妻子6人 ・文政12年上横田村の同姓新井家に生まれる。甲源一刀流松本半平(松本為三郎父)に師事し、嘉永4年同村新井家の入婿となる。翌5年長男仲助出生す。   ●比企郡上横田村住居(小川町)

新井家文書に「正月二八日甲山根岸友山方より御咄し免志出し候相成将軍様御上洛御供相成申候目出度御上洛相済申候国元に引取稽古相立御願建御聞済候相成難有仕合奉存候 文久三亥九月」とあり。

新徴組入り ・「柚原鑑五郎日記」に95日脱退とあり。※松本為三郎、山岸金十郎等も同日脱退。

元治元年現寄居町今市の某家長屋門を買い講武館道場を開設、農業の傍ら教授、後小川町講道館の師範となる。明治17年宗家逸見愛作から目代印可を伝授さる。

箭弓神社(東松山市)大塚□恵八の奉額の目代席、鎌形神社(嵐山町)瀬山鉄五郎の奉額の師範席に名あり。 ・「皇国武術英名録」に名あり。

師の松本半平が6尺豊かな偉丈夫なのに対し、荘司は1m60cm足らずの矮小な身体だったが、剣技は門弟中で群を抜いていたという。(『埼玉武芸帳』)・又同著に庄司の孫が庄司から聞いた話として、「(新徴組時代)夏の夜など蚊帳の中で議論をしはじめると、それがやがて格闘となるのがつねであったので、危なくて寝ていられず蚊に食われながら廊下で寝た」との逸話あり。

明治45327日没 ・享年83歳。 ・墓は上横田輪禅寺近くの新井家墓地 ・新井家南西前に「新井荘司君碑」あり。

「埼玉県人物誌』・『埼玉県剣客列伝』・『埼玉武芸帳』・『小川町の歴史』・『埼玉県武道家資料採集事業資料』・『甲斐源氏甲源一刀流辺見家』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号・『埼玉大学紀要』

飯野清三郎

 名・秀武ヵ

40

4番組

不明   ●榛沢郡寄居村住(寄居町)

新徴組入り ・文久395日依願永暇

甲源一刀流強矢良輔門人、4番小頭松沢良作と同門

忍藩大宮郷加藤平太郎良党の修行帳に「飯野清三郎 武州鉢形・飯野熊太郎 武州鉢形・市野瀬熊太良 武州 飯野清三郎門人」とあり。 ・聖天院貴惣門の松沢良作の奉額の師範席に名あり。 ・町内極楽寺に慶応3年献額(長大で2頭の龍の彫刻見事(彫工、川原明戸村飯田岩次郎義棟)・門人名が多数記されるも風化で判読不能) ・近くの宗像神社社殿裏にも奉額(風化で全く判読不可)あり。

静岡県史資料編15』に「甲源一刀流 中山誠一郎家来 飯野清三郎秀武」とある人か。

寄居町正龍寺の過去帳に「清安良久信士 明治3年8月19日没」とある人か。飯野家は現在正龍寺の檀家ではないとのこと。(2002115御住職より聴取)

『埼玉武芸帳』・『埼玉県剣客列伝』・「武術英名録」

内田柳松

 名・年房

30

6番組

妻子3人 ・百姓金十郎長男

比企郡広野村住居(嵐山町)

甲源一刀流水野倭一郎年次門人

・慶応3年12月薩邸焼き討ち事件の際、佐土原藩邸で抵抗する1人を内田が即座に斬り捨てたと。(明治275月の史談会俣野時中談話)

慶応4年庄内入り(家族2) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」1番隊平士に名あり。 ・『戊辰庄内戦争録』に、慶応4511日官軍越後長岡を攻めるの報に接し、「左ノ勢ヲ越後ニ出ス」として主将石原多門の一隊中に探索方として内田柳松の名あり。

・「開墾士氏名」に名あり。明治14年の「松ヶ丘開墾社員名簿」に名あり。

中沢貞祇の記録に、天野静一郎割腹事件に関し「右七人之者静一郎宅ヘ参於東京表不都合之次第有之趣ニ而我々付添仰付候間大小取揚」天野に切腹を迫った7人の中に内田柳松あり。

・上記記録に、明治62月元新徴組士黒田正友の司法省裁判所提出への訴状に「私儀貫属之侭加奈川県横浜野毛町江寄留仕度旨内田柳枩以内談仕候処、然者願書之義者此方ニ而認遣候間移住所幷印形共名代ヲ差出シ候様申聞候ニ付則同人江印形相渡候処()其許不都合之次第有之隠居申付候旨内田柳枩ゟ書付ヲ以被達候云々」と

・上記記録に、明治7年酒田県庁に召喚された者の「一同日記」731日条に「内田柳枩御呼出しニ付御調之上腰縄ニ而下り大小取揚ニ相成禁錮之由奥秋見届候」と。又「内田柳枩娘江婿養子長沢顕蔵与申者見合引移らせ新徴組並方之通御宛行被下置候云々」等とあり。

・明治73月内田柳松に対し懲役2年の判決が下る。

・明治91114比企郡広野村戸長宛内田柳松の除籍届あり(嵐山町所蔵) ・庄内土着(御子孫庄内住)

墓は鶴岡市宗傳寺。なお嵐山町の父内田金十郎(明治10年没)の墓は嶌五郎(柳松兄弟ヵ)建立

小山松『新徴組』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号・『上毛剣術史』・『埼玉武芸帳』

遠藤丈庵

25

1番組

養父母2人 ・忍浪人とも   ●忍住居(行田市)

浪士組の江戸帰還時根岸友山、清水吾一と共に京都に残留する。

文久3315会津藩庁出頭20人の中に名あり。

・同月22日老中板倉勝静へ「(将軍)今暫御滞留被遊候儀可然」と建白した18人の中に名あり。

近藤勇等による殿内義雄暗殺前後に京都を脱すと。

「目録」等に名は無いが、根岸友山「御用留」文久3911日廻状に「別紙之名前之者明十二日朝五ツ時神田橋内酒井繁之丞屋敷え罷出候様可致候云々」として遠藤丈庵の名が筆頭にあり。 ・脱退時期等去就不明。

藩医遠藤執庵の関係者か。※執庵は陸中盛岡の人、諸国遊歴で医術を習得、後忍城下で医を業とし、傍ら河津省庵と共に芳川波山に師事、明治860歳で没。墓は市内蓮華寺

大川藤吉郎

27

1番組

両親妻子5人 ・百姓幸吉子

比企郡金谷村住居(東松山市)※「新徴組之内武蔵・上野・甲斐三箇国より罷出候者之内土着願上候ニ付心得之件々大概」に「丸毛佐九郎知行所、武州比企郡金谷村、大川藤吉郎」とあるが『旧旗下相知行調』に記載なし。又比企郡内で金谷の地名は東松山市岩殿と同市上野本の2カ所だが、大野姓確認できず。

新徴組入り  ●慶応4年庄内入り(家族3人)

・「庄内戊辰戦争出張姓名」1番隊平士に名あり。

・「開墾士氏名」に名なし。

明治76月貫属替

宝登山神社(長瀞町)の甲源一刀流宗家逸見愛作の明治144月の奉額師範席に大川藤吉郎の名あり。

『日野市立歴史館叢書』第10輯・『埼玉県史調査報告書』

大木九左衛門

47

1番組

妻子8人 ・百姓要八子

大里郡甲山村住(熊谷市)

新徴組入り ・文久3年9月5日依願永暇

父要八の代根岸友山家の雇人だったか。根岸家墓地に根岸家建立の要八の墓(「俗名大木要八亭年四十九天保十歳在己亥冬十一月初二日没)あり。大木家が根岸家の雇人であった事は根岸家の伝えにもあり。

「甲山防戦記」の「根岸の蚶夫大木礼助宗矩」は関係者か。  ●明治101010日没。墓は根岸家墓地隣接の共同墓地

大島百太郎

22

3番組

親両人 ・百姓和十郎子

足立郡宮内村住(北本市)

新徴組入り  ●慶応4年庄内下りに際し新徴組を離脱。・「明細書麁調」に「庄内入り 家族四人」とあるが、庄内藩士和田助弥の記録に「大島百太郎 庄内へ引移の際出奔」とあり。

「慶応四年征東之役名古屋藩帰順正気隊(総括暮地義信)人名録」に、大島百太郎の名あり。

慶応4年1222日夜新徴組6番組が市中巡邏の途中で鉄砲を撃ち掛けられ際、「大島百太郎と云ふ気早の男が刀を提げて洗足掛けで追駈け云々」と、明治27512日の史談会での俣野時中の談話あり。

加藤善次郎の菖蒲神社の奉額に「宮内 大嶋義人 大嶋源吾 大嶋義久」と記される人たちは。大嶋義人の墓は宮内の阿弥陀堂墓地にあり。

相楽総三とその同志』・『史談会速記録』・鈴木克久『峠越え』

大野嘉右衛門

35

4番組

親両人 ・百姓佐吉子  ●秩父郡蒔田村住(秩父市)

新徴組入り ・慶応4年庄内入り(家族4人) ・「庄内戦争出張姓名」に2番隊平士として名あり。 ・「開墾士氏名」に大野嘉右衛門の名あり。

・「中沢貞祇の記録」、明治7年旧新徴組士が酒田県庁に召喚された際の「一同日記」81日条に、「瀬尾萩原郵便開封いたし候事取糺書面差上候、但又大野嘉右衛門事件書面差上云々」とあり、同月3日条に「萩原忠義御省へ罷出是者嘉右衛門事件書面持参上り置候郵便開封一条之願書者新徴組之事ニ付行先宿所も相分り不申ニ付夫等之た免開封致候得共其而手紙同封致候事ニ者無之旨申立候得共()別段取調候迄も無之云々」等とあり。

明治710東京府へ貫属替

『埼玉史談』収載大野鴻風「武州秩父雑話(その十一)-伊勢平氏の系譜・秩父大野原大野氏-」に、「大野氏は江戸時代より数代に渡り医師を輩出した家系で云々」とあり、その菩提寺源蔵寺の大野家永代供養碑等によると、文政912月に没した七代秀種が嘉右衛門と称したとあるが。

『上毛剣術史』

小沢勇作

 名・義光

21

4番組

不明 ・百姓幸之助(幸内)3

幡羅郡蛭川村(本庄市)

新徴組入り ・元治元年228日廻状「昨年中剣術出精ニ付為御賞誉左衛門殿より小菊紙被下候」中に小沢勇作あり。

慶応4年庄内入り(家族2) ・「田川温泉寄宿帳」に剣術世話役と。 ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に2番隊平士で名あり。 ・「開墾士氏名」に名あり。

明治6年5月熊谷県へ貫属替 ・一時高野佐三郎らと警視庁の剣術師範に従事と(小沢猛博氏談)。後郷里に戻り家業の傍ら剣術道場を開く。

・明治1411月蛭川駒形神社に奉額 ・中村定右衛門「遠近劒額出名簿」に「明治十七年十一月廿五日、本庄在蛭川村小澤義光、本庄驛内金鑚神社江献額仕度旨申出候付出名左ニ」として「願主 小澤義光()」とあり。

・明治37東京市浅草区浅草田島町に転籍。

・明治4226日旧新徴組士会総代(3)として猪熊繁樹らと発起人となり、清河八郎の追悼会を挙行す。

・同45年には浅草公園伝法院境内で清河八郎没後50年祭を開催する。

松沢良作(4番組小頭)に甲源一刀流を学ぶ。勇作の孫弟子古川一郎の免許皆伝起請文に「公命ニ依テ隊中諸士之流ヲ集合シ北辰流ト改称シ一部隊ノ剣法教授ヲ奉職ス」とある。北辰流は甲源北辰流とも称す。

「皇国武術英名録」、「上武武術英名録」、「剣柔諸君連名記」(門人で目代4人と目録3人の名もあり)に名あり。 ・黒沢久夫家所蔵(上里町嘉美)「木村政右衛門五十回忌追膳招人名扣」(明治20)に「蛭川村 小沢義光 甲源北辰流」とあり。 ・瀬山鉄五郎(嵐山町千手堂)の「英名録」に甲源北辰流(北辰流)小沢義光門人として「秩父郡国神村野巻 小杉篤義」と「児玉郡共和村 久保田小三郎」の名あり。

武州風土記』 ・小山松『新徴組』 ・『日野市立歴史館叢書』第6輯、10輯 ・『埼玉県剣客伝』・『埼玉大学紀要』・『幕末維新埼玉人物列伝』

小野沢平兵衛

安田平兵衛

本名

 赤田啓助

43

2番組

母子4人  ●川越浪人、当時比企郡増尾村住居(小川町) ※「文久3年頃土着願提出の者の心得を記した書類に「比企郡増尾村百姓弥右衛門同所川越浪人赤田啓助事 小野(沢欠ヵ)平兵衛」とあり(『日野市立歴史館叢書』第10)、又「明細書麁調」に、「生国武州入斯()郡川越安田三平子」とあり。

新徴組入り ・「目録」に9番森土鉞四郎組平士、「組別名簿」に森土鉞四郎組平士で名あり。 ・文久382日廻状に「小野沢平兵衛義門限相外シ候ニ付慎申付候」と。

慶応4年庄内入り(家族7人内3歳以下2)

・「田川温泉場寄宿帳」に安田平兵衛と共に長男圓次郎の名あり。 ・「庄内戦争出張姓名」1番隊平士の安田円吉郎は長男圓次郎か、父平兵衛の名なし。 ・「開墾士氏名」に安田平兵衛、長男圓次郎の名なし。

尾崎恭蔵謀殺事件に関し「中沢貞祇の記録」に、明治57月庄内脱走途中捕らえられた尾崎恭蔵の処分問題で「仁科理右衛門舌代ヲ以黒井卓一郎、奥秋実昌(2人略)、安田安兵衛役所江罷出候」て、尾崎の処分に関し「奥秋義王政御法合之通ニ而可然我等共一己之所存ニ不及義」と主張したとある。 ・明治8年に鶴岡在住が認められるも、その後の去就不明。

『上毛剣術史』・『日野市立歴史館叢書』第15

勝田宗達

 名・清明

27

3番組

1人  ●比企郡大谷村住(東松山市)

新徴組入り ・「目録」に名なし。 ・文久395日依願永暇、以後の去就不明。

田川温泉はやと旅館提出の「新徴組残留品引渡書」中に「木薙刀三本但シ内一本ハ<文久三亥夏下四日勝田宗達清明>と記シアルモノ」とあり。

勝田芳蔵

23

1番組

父母兄弟8人 ・百姓皆吉次男

比企郡大谷村(東松山市)

新徴組入り ・「目録」に11番大内志津馬組平士、「組別名簿」に大内志津馬組平士で名あり。慶応元年6月の「黐木坂屋敷絵図」に「勝田』とのみあり。

『藤岡屋日記』に、元治元年4月細川越中守屋敷での勝田芳蔵に関する事件の顛末が記されているが、詳細は横山明平の項に紹介する。

・『南梁年録』に「子六月初旬ニ何レも(強盗団青木弥太郎一味として)召取一ト通尋候上入牢追々所々江押込候事」として青木弥太郎以下11人中勝田芳蔵の名あり。

・「青木弥太郎懺悔談」に「新徴組の勝田芳蔵、時田倉之助などは、いったん白状に及び、口書、爪印まで済んだのに、銘々口を変え、遁辞を構えて呼び出しを願い、種々不当の申立て(悪事を病死人に塗りつけて罪を逃れんと計る)をなして、いずれも拷問」に掛けられたとある。

・田辺儀兵衛「御用記」慶応元年11晦日の条に「右四人(勝田芳蔵の名あり)下谷御屋敷え禁錮入相成候処今度公辺御沙汰ニ付揚屋入仰付候間云々」とあり。

『幕末維新実歴譚』・青木弥太郎事件は『旧幕府』合本3・『連城紀聞』・篠田鉱造『明治開化奇談』・『三田村鳶魚全集』13子母沢寛『よろず覚え帖』等

加藤善次郎

名・正宜

 

45

3番組

不明   ●埼玉郡菖蒲村住居(加須市)

神道無念流宗家4代戸賀崎熊太郎芳武門人(小山僖一郎、野上勘兵衛同門) ・刀鍛冶、剣術道場経営

安政212晦日、領主内藤外記へ善次郎正宜作の刀(2尺5寸)脇差(1尺5寸)を献上した旨の木札及びその際加藤家から拝領の蓬莱絵の掛物が伝わる。

内藤外記(甲斐守)は江戸本郷御弓町に屋敷のあった5,700石取りの旗本で、菖蒲町近隣の下柏間村(久喜市菖蒲町下柏間)に敷地1万余坪に及ぶ陣屋があった。「本郷湯島絵図」に「定火消御屋鋪 内藤外記」とあり。

「目録」に名なく去就不明。

安政32月常見源之助真倫が会主の「摩利支天講連名帳」に「菖蒲町 加藤善次郎様」とあり。 ・「皇国八州武術姓名記」に「神道無念流 加藤善次郎 武州菖蒲」とあり。 ・明治10年菖蒲神社に奉額。その世話役中に諏訪山熊次郎、荒井清六、又「男加藤延次郎、加藤鬼之助」の名あり。更に師範席に東京士族小山清高・小山清昭、群馬県士族今井兼保(今井左太夫)、野上勘兵衛等の名と、門人席()に金子忠義、大嶋義久(宮内)、河野恵助(糠田)、河野栄蔵(糠田)等の名あり。

市内吉祥院の加藤家墓地に、加藤善次郎正宜が施主の墓はあるが当人の墓は確認できず。なお、宝暦5年や文化5年の墓石にも「施主加藤善次郎正宜」とあり、また、加藤家の戸籍簿に天保14年生れの加藤喜之助(菖蒲神社の奉額の加藤鬼之助と思われる)の欄に「亡祖父善次郎」とあり。善次郎正宜の名乗りは2代続いたか。

加藤家の位牌に明治181012日没と、享年72

鴻巣市史史料編』・『幕末関東剣術英名録の研究』

金子蔵之丞

(蔵治郎ヵ)

 名・忠義

 

42

3番組

父妻子3人 ・百姓林右衛門子

足立郡原馬室村住居(鴻巣市)

新徴組入り ・剣術世話方

慶応4年庄内入り(家族4) ・「田川温泉場寄宿帳」に「剣術世話役金子蔵治郎、楽隊長男金子桂治郎」、(明治65月藤井光親の司法省への訴状に「金子忠義悴同氏孝次郎云々」とある) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士金子蔵治郎の名あり。 ・「開墾士氏名」に名なし。 ・明治64月司法省へ出訴25名中に金子蔵治郎あり。 ・先の藤井光親の訴状に、庄内に家族を残して脱出した金子忠義と住谷為安の妻子に対し「日中ハ何様之用事有之候共外出入り指留置」等「両人之妻子共難渋至極之由云々」とあり。 ・同年同月寄留替

安政32月常見源之助会主の「摩利支天連講名帳」に「馬室村、金子内□尉様」とあり。 ・「武術英名録」に「神道無念流武州鴻巣宿原馬室、金子倉之丞」あり。 ・明治105月の菖蒲神社加藤善次郎の奉額に金子忠義の名あり。 ・坂戸市横沼の神道無念流大川平兵衛の碑石に金子忠義の名あり。

鴻巣市史史料編』・『幕末関東剣術英名録の研究』

吉羽三郎

36

1番組

兄弟5人   ●忍浪人(行田市)

高木潜一郎「御上洛御供先手日記」文久3年3月2日条に「昨日新徳寺江御呼出之上山田官司組之内吉羽三郎吉羽陽四郎両人共道中ニ而不埒之義有之候得共御勘弁致置候所、猶亦京都逼留中不埒之義有之、浪士三百人一統右寺江呼出其上右両人大小取上ケ門前ゟ追払ニ相成候」と。2人への申渡状には「其方共儀有志の列に召抱えの処身持宜しからず、予て申渡し候禁酒を破り、道中に於て如何の振舞も有之候共、御宥免の上は急度改心も有之べき筈の処、京着以後小頭の命に背き度々申し聞け等相用いず、礼儀廉恥を弁へざる次第に相聞え、頗る尽忠報国の虚名を飾り、有志の名列に加り浪士一統の名聞を汚し候儀不埒の至りに付、腰刀取上げ放逐せしむるもの也」と。

・同日この件に関し、吉羽三郎と同陽四郎の組頭山田官司は「私組御預吉羽三郎、同陽四郎儀、御咎被仰付候ニ付、於私モ恐入候、依之差扣之義奉伺候」との差控伺が提出されている。

・小山松『新徴組』に「(三郎と陽四郎は)一度は放逐されたが、後に詫びを入れて許された。ところが東下の途中福島の宿で五島万帰一と争いを起こし、お互い刀の柄に手をかける起こした。江戸に帰っても不都合な振舞多く、五月二十日、とうとう永の暇を申し渡された」と。

新徴組入り ・文久3519日廻状に「昨十八日左之通被仰渡候 銭五貫文ツツ 吉羽三郎同陽四郎 右之者心得違之儀有之候間今度永之暇可申渡、就ては帰郷為手当書面之通下候」と。後の去就不明。

太田市史資料編』・『新選組史料集』・吉野式『幕末諸隊研究』特別版・小山松「浪士組上京日記」

吉羽陽四郎

27

1番組

不明   ●忍浪人(行田市)

浪士組入り後は吉羽三郎と同。

 

野音次郎

32

道中取締役手付

1人  ・小倉内蔵之允元家来

武州岩槻産(岩槻市)、当時江戸飯田町住居

文久21222日松平主税助が浪士掛目付に「右之者差置申候」と呈出した3名の筆頭に河野の名あり。

・同年同月30日夜松平上総介が清河八郎らを牛込二合半坂の屋敷に招いた13名の中に名あり。

「大府輯録」文久32月8日に「清川八郎池田徳太郎山岡鉄太郎河野音次郎石坂宗順 右五人は世話役之内ニて、清川八郎は万端壱人ニて支配云々」とあり。

・同年2月24学習院へ上書呈出6人中の1人。

・小山松「浪士組上京日記」(清川八郎記念館蔵)に、2月27日の足利将軍木像梟首事件に関し、「(捕縛された三輪田らを)罰してはならぬとの論が起こり、有志よりより相談し、()この度は清河八郎の手を煩わすことなく、河野音次郎の筆で次のような文を作り、学習院に提出した」として、「先般等持院足利氏木像梟首仕り候者ども、御召し捕りの上入牢仰せ付けられ候処、右忠憤激烈の至情より相発し候儀にて、悪少無頼の所為とは相違い仕り候儀、右様厳重御取計に相成り候より、諸藩人心甚だ沸騰種々巷説も相聞え、御上洛の前異変出来の模様に付き、私どもに於て深く心痛仕り候、右に付きては急速御決議在らせられ、彼等の心事能く御諒察の上、御入洛前に出格の恩旨を以て出獄仰せ付けられ、長州、土州両家の内へ御渡しに相成り、其の邸内に愛養致し置き、他日尊攘の用に供し候様、御沙汰し下されたく願い上げ候」、との上書文あり。

新徴組入り ・同年419日世話役

川路聖謨「座右日記」同年527日条に「窪田治部右衛門ゟ之書状に而浪人河野音次郎、谷右京来る。面謁両人共大砲之事申来る。音次郎は岩槻在、右京は丹波之もの也と云」とあり。又同書同年727日条に「河野某来る。其外逢候もの三人」とあるが。

・同年625日付河野の池田徳太郎宛て書簡に「僕儀は近頃病身に相成り、京地出立旅中半ばより兎角出来不出来にて相勝れ申さず、永々引籠り養生も仕居候へ共、近々中全快の程も覚束なきことに医師申聞候間、先ず永の暇願差出候ことに御座候、併未だ何等の御下知も無御座候云々」とあり。後の去就不明。

中村維隆の史談会談話「(朝廷への建白に関し)河野は文章もできるし、東京生まれで弁者です。河野が弁者になるがよい、吾々は腕力家になろうという相談で、()すなわち腹を切るだけのことである。それでそのところへ艶をつけてやるのは河野という男で、それは巧みにやりました」とあり。

・俣野時中の史談会談話「(同上)代人として河野音次郎という者を出した。この人はすこぶる能弁家であって、浪士の中で議論家であるのみならず、胆力のある人であったそうであります」と。又「この時河野が橋本宰相中将を泣かしたという評判であった」と。又「(浪士組東帰に関し清河と近藤らが)相互極論激争して、その結局ついに刃をもって決するという場合になったそうでございます。当時河野音次郎がなかに入って調停しました」等とあり。

『維新の志士池田徳太郎』 ・『史談会速記録』・『日野市立歴史館叢書』第11輯・『川路聖謨文書』

河野和蔵

 名・道午ヵ

 

44

3番組

妻子2人   ●足立郡糠田村住(鴻巣市)

「武術英名録」に「神道無念流 河野和蔵」あり。

新徴組入り ・中村正行「文久三年忠士日記」616日条に「病身ニ付難相勤御暇願候ニ付御聞済ニ相成」として河野和蔵の名あり。

安政32月義集館々主常見源之助主催の「摩利支天講連名簿」に世話人として河野和蔵道午の名あり。

河野兵衛『糠田と河野権兵衛』に「河野六左衛門(河野権兵衛長子)の分家(河野)市郎兵衛家は()安政のころから絶家となり、河野栄蔵通章の弟和蔵養子に入り七十歳位まで長命した。子なく栄蔵(通明)の弟浅吉を養子に入れ、三十四~五歳で肺を病み死亡云々」とある。 ・河野権兵衛家は『新編武蔵風土記稿』にも名の載る旧家。 ・河野家菩提寺は市内聖泉寺にあるが、和蔵の墓石は不明。

・加藤善次郎の菖蒲神社の奉額に河野栄蔵、河野恵助、河野一郎、河野捨蔵、河野朝之助、河野関太郎(全員糠田住)の名あるも、河野和蔵の名なし。。

・『鴻巣市史資料編』・河野家に関しては『新編武蔵風土記稿」他、野崎源三郎『鴻巣の昔」・『埼玉県人物誌』

小島寛太郎

 

 

21

6番組

祖父父母3人  ●入間郡黒須村(入間市)

「目録」に名なく去就不明

入間市の剣士たち』に「(浪士組の)隊員中に、市内黒須出身者小島寛太郎(二十一才)細田市蔵(二十四才)の名が見える。どうい人物か今後の研究に待ちたいが、高麗梅原の甲源一刀流第三代比留間半蔵利充の神文帖元治元年三月のところに黒須村小島桓太郎、細田一三と同一人物かと思われる云々」とある。しかし「赤報記」江門著到士名に「小島源十郎 桓太郎次男 武黒ス 薩邸浪士」とあり、これによれば、年齢的に浪士組に参加した小島寛太郎と小島桓太郎は別人である。なお『赤報記』には「小島桓太郎 薩邸浪士 黒須村扇町屋 卯十二月 薩邸焼打事件後帰郷」とあり、桓太郎と源十郎は親子で薩邸に投じていたらしい。なお『相楽総三とその同志』に「小島(源十郎)武州入間郡黒須村桓次郎の子で、薩摩邸に投じた。()小島源十郎の身の落着きについては『赤報記』は何とも註記していない。『落合手記』には<脱上野にて暗殺>とある。<>とは脱走と落伍とを一ツにしたものであることは、他々のものの事で判定がつくが、<上野にて暗殺>は風説の誤りだ。大正年間、相楽の孫木村亀太郎が、晩年の小島源十郎に会っているからである」、とある。亀太郎が会った当時の源十郎は、江戸雑司ヶ谷鬼子母神の武蔵屋という店の主人で、背の高くない頑丈な、70歳くらいの人だったという。

相楽総三関係史料集』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号

小林助松

 通・丈助

 名・晴村

 俗・油丈

43

3番組

不明 ・油商与市長男 ・嘉永53月の加須村人別帳に、家族は父与市、妻みつ、娘ふみ、悴猷之助、弟勘太郎と。   ●埼玉郡加須村住(加須市)

初め棒術を学び、天保812月神道無念流宗家3代戸賀崎熊太郎栄芳に入門し、嘉永3年免許皆伝を伝授。後邸内に道場を開く。野上勘兵衛は門人。 ・「武術英名録」、「皇国武術英名録」に名あり。 ・安政3年常見源之助会主の「摩利支天講連名帳」に「加須村 小林助松様」とあり。 ・助松は小太刀の使い手として定評あり。

桃井宣三(赤城山挙兵首謀者桃井儀八子