20 若き日の渋沢栄一の転身

1 はじめに

 

「日本資本主義の父」と呼ばれる偉大な渋沢栄一に、『雨夜譚』や『青淵百話』等の懐旧談がある。筆者は四半世紀以前にこれを読み、以来、過激な攘夷倒幕論者の渋沢栄一が一転将軍後見職一橋慶喜に臣従することとなった経緯に、違和感を持ち続けてきた。最近、偶々目にした幸田露伴著『渋澤栄一傅』や山本七平著『渋沢栄一近代の創造』にも、そうした疑問が呈せられていることを知った。そこで、『雨夜譚』等渋沢栄一の懐旧談と幾つかの関係資料とを対比しながら、改めていくつかの点を検証してみることとした。なお、本稿は『歴史研究』第680号に特別研究として掲載されたものに、補筆修正を加えています。

 

2 文久元年(1861)渋沢栄一

 

渋沢栄一(幼名市三郎後英治郎、青淵と号す・括弧内は「原注」とない限り筆者の注記である)は、天保11(1841)武蔵国榛沢郡血洗島(埼玉県深谷市)の富農渋沢市郎右衛門(晩香)の長男として生まれた。7歳で隣村手計村(深谷市)の従兄尾高惇忠(初新五郎・号藍香・栄一の伯母の子)に師事し、この塾で惇忠の弟長七郎(諱弘忠・号東寧)や、栄一の叔父の子渋沢喜作(誠一郎・号盧陰)と刎頸の交わりを結ぶこととなった。師の惇忠は栄一より10(天保元年生)、長七郎は4(天保8年生)、喜作は2(天保9年生)の年長であった。

 

栄一17歳の年、父の名代で出頭した岡部藩の陣屋代官から嘲弄侮蔑を受けたことが、栄一の人生の転機となった。『青淵回顧録』によれば、栄一は心中憤懣に絶えず、以来「田舎の百姓で一生を終わるよりも、武士となって世に立ちたいといふ希望は瞬時も忘るる事が出来なかった」、そして「十五六歳の頃からウロ覚えながら大義名分を論じ、尊王攘夷に賛成してゐたものであるが、代官事件のあって以来、感情的に倒幕の念が一層熾烈になった」という。栄一が17歳の安政3(1856)は、米国総領事ハリスが下田に着任した年で、日米修好通商条約の締結はこの2年後のことであり、当時は倒幕論者の跋扈は勿論のこと、尊王攘夷論者の跳梁前夜のことである。

 

文久元年の春、栄一は「十七歳の時に発した念慮が増長し」、「到底百姓をして居る時節ではない」と考えて、当時海保漁村の塾に寄宿し、伊庭軍兵衛の道場に通っていた尾高長七郎を頼りに江戸に上った。文武の上達が目的ではなく、「只天下の有志と交際して、才能芸術のあるものを己の味方に引き入れようという考えで、早く云って見れば、かの由比正雪の謀反を起こす時に能く似て居た」。そしてその年の5月頃まで海保の塾から「お玉ヶ池の千葉といふ撃剣家の塾」へ通った(以上は『雨夜譚』)

 

従兄尾高長七郎の在府は文武修行のみでなく、「他日為すことあるの日来らんとの考えが、尾高惇忠を首領として余等同士の間にあったから、彼を専任者として江戸と郷里の間を往来せしめ」(『青淵百話』)ていたのである。その長七郎がこの年10月、長州の多賀谷勇と共に、輪王寺宮公現法親王を擁しての攘夷挙兵を画策した。長七郎たちは同月21日大橋訥庵を訪ねて協力を要請(『阪下義挙録』)2人は訥庵の指示で同士糾合のために各地を奔走したが、一向に人を集めることができなかった。

 

大橋訥庵の義弟菊池教中宛て翌111日付け書中に、多賀谷勇を「段々問詰候処最初より三十人位即刻相弁候様申居候得共委敷吟味し詰て見候得は十人は無之候」という有り様で、訥庵門下の児島強介や河野顕三らを人数に加えてもようやく10人位のため、とても兵を挙げるには覚束ない、と記されている。そして、訥庵の教中宛て同月10日付けの書中には、「再三熟思之上昨日拙生ゟ異論を発し、先々当分見合候而同業人離散致候様致候様申談候処」、「多賀谷之外頭分は不残鄙説ニ服し候而ャメと相成申候」とある(何れも『大橋訥庵全集』)

 

血盟の友ともいうべき長七郎が死士の糾合に窮していたのに、渋沢栄一がこの挙兵計画に関与した形跡はない。この春、「由井正雪の謀反を起こす目的で江戸に上った栄一(『雨夜譚』)であったにも関わらずである。なお、長七郎の兄惇忠に関しては、先の訥庵の111日付け書中に、「昨日は尾高之兄新五郎と申者出府致来候故段々談候処、長七郎ゟは沈着致居候而少々略も有之頼敷人物ニ御坐候、乍去当時一家之主人にして祖父母と老母など有之長七郎とㇵ違候故只今即刻駆付候人数ニㇵ加わり兼申候云々」とある。この当時は栄一にもそうした家庭の事情があったのだろうか。

 

3 文久2年の渋沢栄一

 

下総宮和田村(茨城県取手市)の名主宮和田又左衛門光胤は平田篤胤没後門人で、かつ北辰一刀流剣法を修めた人である。その長男勇太郎は足利三代木造梟首事件に関与し、養子進は大村益次郎の暗殺事件に与して斬死している。父子揃っての尊王攘夷家であった。その宮和田光胤の自伝『宮和田光胤一代記』(私家本・『共同研究明治維新』に一部収載・以後『一代記』という)文久2年の条に、次のような記事がある。

 

「同人(千葉周作門人塾頭致居候真田範之助)結合之友ㇵ渋沢栄一渋沢誠一郎両人、又田中春岱方巳来懇意ㇵ鈴木謙吉(中略)此渋沢両人を同伴ニテ真田範之助鈴木謙吉光胤宅被参、範之助より依頼ニㇵ、此渋沢両人儀一橋公へ附属し上京致度候得共手続無之、別テ御附人ㇵ武田君故是非共附属して上京致度、夫ニ付テも一度千葉先生へ入門之上右門人を名として手続き仕度、範之助自分より申込ミ候テㇵ又如何之場合も有之候ニ付、先生同道ニテ入門御申込被下度旨(中略)依テ光胤渋沢両人を同伴師家ニ行入門為致候云々」

 

将軍後見職一橋慶喜に、将軍上洛(来春予定)に先立って上京するよう達せられたのは文久2824日である。そして水戸藩家老武田耕雲斎に水藩有志を率いて慶喜に随従するよう、幕命があったのはその年の1211日で、耕雲斎が江戸を発ったのは同月の24日であった。したがって、『一代記』のこの話は1211日以後、耕雲斎の江戸出立までのごく僅かな期間の出来事だったことになる。ちなみに、宮和田光胤は耕雲斎とは旧知で、当時は江戸難波町俚俗竃河岸(中央区日本橋)北辰一刀流の剣術道場を開いていた。

 

先の文中、真田範之助と共に渋沢両人を伴ってきた光胤旧知の鈴木謙吉は、『一代記』に「水戸野州境ひの領分郷士之次男ニテ例幣使街道鹿沼宿へ婿養子ニ被参候人の由、何れもの友人横田藤四郎の物語ニテ知ル、後に一橋附已来穂積良之助又神官となりテ耕雲ト云」とある。この鈴木謙吉は水戸郷士小室藤次右衛門の弟で、鹿沼宿本陣鈴木水雲の婿養子となった儒医である。元治元年(1864)の水戸天狗党の筑波挙兵時には小室登(献吉)の名で宇都宮藩重臣縣信緝の探索方などを勤め(『縣六石の研究』)、後に渋沢栄一を介して穂積亮()之助の名で一橋家に仕えることになる。

 

この『一代記』は、宮和田光胤が自らの日記をもとに纏めたものだという。内容が詳細で具体的であり、信頼できるのではないかと思われる。しかし、前記の事実は、『雨夜譚』等の渋沢栄一の回顧談には一切触れられてない上に、その内容とも大きな矛盾がある。その一つは、前記のごとく『雨夜譚』には、栄一の玄武館千葉道場入門は、この前年の春であったとあること。また、栄一と真田範之助との出会いは、「千葉道場で懇意になった真田範之助」とあり、『一代記』の内容とは明らかに異なっている。

 

なお、青淵渋沢栄一記念事業協賛会等が発刊した『新藍香翁』(塚原蓼州著『藍香翁』の現代文訳)に、真田範之助が手計村を訪れて尾高新五郎(惇忠・藍香)と長七郎の兄弟と試合をしたことが記されている。真田は江戸川主殿輔と共に、万延元年(1860)に尾高兄弟等の剣術家を収録した『武術英名録』を上木しているので、この話は安政年間(1854~ 1859)のことと思われる。『新藍香翁』にはさらに、「真田はその後たびたび手計に来て翁と長七郎に兄事して、翁等の横浜焼討事件にも参加したのである」と記されている。真田が「その後たびたび手計に」来たことが事実なら、惇忠に師事して尾高家に頻繁に出入りしていた栄一が、この間真田と顔を合わせなかったとは考えにくく、『宮和田光胤一代記』の記述内容当を考え合わせると、『雨夜譚』の栄一の先の懐旧談は記憶違いだったのではないかと思われる。

 

さらに、栄一の玄武館千葉道場への入門についても、『一代記』の記述に間違いなければ、栄一の記憶とは異なり、栄一は文久2年暮か翌3年の春、宮和田光胤の紹介で始めて千葉道場に入門したことになる。これを前提とすれば、『雨夜譚』に記される栄一が22歳の春、「其頃、長七郎が下谷練塀小路の海保(漁村)の塾に居て、サウシテ剣術遣ひ(伊庭軍兵衛)のところへ通って居たから、夫を便りに」江戸に上り、「海保の塾に居て、(中略)お玉が池の千葉といふ撃剣家の塾に」通ったという事実も記憶違いであったことになる。

 

なお、栄一の千葉道場への入門に関して、塾頭の真田範之助がなぜ直接同道できなかったのかは疑問だが、この年の2月に館主の千葉栄次郎が病死しており、その相続問題(長谷川伸著『真田範之助』参照)等が背景にあったのかも知れない。また、『一代記』の栄一たちの様子から、千葉道場入門は名目を得るためのものだったように思えるが、その理由も定かではない。いずれにしても、栄一たちの武田耕雲斎への随従は実現しなかったのである。

 

4 文久3年の渋沢栄一

 

武州小仏関所の関所番見習いで、後に渋沢栄一と前後して一橋家々臣に取り立てられた川村恵十郎(正平)は、栄一の一橋家への仕官に並々ならぬ尽力をした人である。その経緯は、彼が残した日記(渋沢栄一傅記資料』に一部収載)に詳しく記されている。しかし、この日記と『雨夜譚』の栄一の懐旧談の内容には相異なるものがある。そこで、この両者を対比しながら、文久3年における栄一の足跡を追ってみることとする。

 

この年の春、栄一は「また江戸へ出て海保の塾と千葉の塾に入って」4ヶ月ばかり在塾し、「そのうちだんだん思考して、ついに一の暴挙を企てることを工夫」した。尾高惇忠や渋沢喜作と密議をこらした結果、その年の8月頃には1112日を以て蜂起して高崎城を乗っ取り、次いで横浜の異人街を焼き打つことを決定。重立つ仲間は、3人のほか尾高長七郎と「千葉の塾で懇意になった真田範之助(中略)海保の塾生で中村三平」など、合わせて69人であった。

 

913日に父の許しを得た栄一は、翌14日「江戸へ出て、およそ1ヶ月ばかり逗留して居て10月の末に」家に帰った。「十月二十五、六日になって尾高長七郎が京都から帰って来た」ので、29日の夜に惇忠の家に集まって挙兵に関して評議したが、西国の情勢(818の政変や天誅組の壊滅等)をつぶさに見聞した長七郎がこれに強く反対したため、「自分(栄一)は長七郎を刺しても挙行するというので、ついに両人で殺すなら殺せ、刺違えて死ぬというまで」の激論となった。しかし、結局一同は長七郎の論に服して計画は中止となり、翌118日には、栄一と喜作は関八州取締役の嫌疑を避けるために郷里を発ち、江戸を経て京都に上った。

 

一方、川村恵十郎はこの年の5月、小仏関所支配の伊豆韮山代官所手代柏木惣蔵を介して一橋家用人平岡円四郎に面会し、「有志之農民兵募兵之儀」等を献策した。これを採用した平岡円四郎は、川村に対して有志の徴募を依頼したのである。前年7月には主君慶喜将軍後見職に就いたため、当時の一橋家では即戦力となる有為な人材の採用が喫緊の急務だったのだ。このことが栄一や喜作が一橋家に採用される端緒となったのである。なお、川村が正式に一橋家に採用されたのは、この年の1216日である。余談だが、この川村恵十郎と真田範之助は、同じ嘉永5(1852)に天然理心流松崎多四郎の道場に入門した仲であった。

 

川村の日記に、栄一と喜作の名が初めて認められるのは99日で、そこには唐突に2人の出身地と氏名が記されている。『龍門雑誌』第498号に載る栄一の懐旧談に、「其の前に口上を以て(川村に)紹介して呉れたのは柏木惣蔵と云ふ人であった」とあるから、推測するにこの日柏木から川村に2人の推薦があったのではないかと思われる。なお、『御口授青淵先生諸傅記正誤控』(渋沢栄一傳記資料』中)に、「私を平岡の処へつれて行ったのは柏木総蔵(原注・之は江川太郎右衛門の手付の人)河村恵十郎(原注・甲州の駒木野の関守役の一人)の両人であった。どうした訳合で此両人と知合になったかははっきりしない」、とあるが、川村の日記では、栄一と喜作を最初に平岡のところにと伴ったのは川村一人である(後出)。なお、柏木総蔵と最初に知り合ったのは渋沢喜作であったともいう。

 

川村恵十郎の日記の916日の条には、「松浦作十郎榎本幸蔵来(中略)渋沢喜作同英一郎之話致し候事、尤聊此等之身分其外之儀申述」とある。文中の松浦作十郎は一橋家物頭助、榎本幸三蔵(享造ヵ)は同家物頭である。この日、喜作と栄一の一橋家採用後の身分その他のことまで話し合われていたのである。914日に郷里を出た(『雨夜譚』)栄一たちは16日には江戸についていたと思われる。川村の日記の中に、この日2人と会ったとは記されていないが、2人の一橋家への紹介は当然事前の了解を得ていたと思われる。川村か柏木の手紙により、2人が江戸へ出て来たと見るほうが自然ではないだろうか。

 

川村の日記の918日の条には、「朝渋沢喜作同英一郎来四ツ半頃まで相話ス(中略)今日ニも明晩ニも()浦方え行呉候様談判候事。(中略)夜半平岡行(中略)渋沢喜作同栄一郎云々之儀申述候事、尤同人ニ於ても殊外感激之様子相見候事」とあって、この日初めて川村から平岡円四郎に栄一たちのことが報告されたらしい。その2日後の同月20日には、川村が栄一たちの宿泊先を訪ねて、2人が一昨夜松浦作十郎に会ったことを確認し、川村はその足で再び平岡家を訪れ、「両人之儀談判夜迄掛」と川村の日記にある。翌21日にも、川村が松浦作十郎と栄一たちのことを談じたと記されている。

 

それから2日後の23日の日記には、川村は松浦、平岡、榎本、猪飼(勝三郎)らと「寄合万々談判渋沢両人ㇵ断之積ニ候、尚又評議改リ是計ㇵ何れニ缺致し候積ニ治定大酔。渋沢両人松浦え来夫々え面会」、とある。この日の評議で一時「断之積」に至った理由は、おそらく、栄一と喜作が岡部藩(安倍家)領の百姓だったからではないかと推測される。それでも松浦や平岡たちは再考の結果、「是計(2人の採用)ㇵ何れニ缺致し候」ことに決定したのである。そして、この日栄一と喜作は初めて平岡円四郎の面識を得たのである。ちなみに、『雨夜譚』には、「自分と喜作とは(平岡とは)その前からたびたび訪問してよほど懇意になっていました」とか、「拙者(平岡)も心配してやろうから直ちに(一橋家へ)仕官してはどうだという勧めがあった云々」とあり、川村恵十郎の日記に記される経緯とは異なっている。

 

その後の安倍家への交渉は難航したらしい。川村の日記同月26日条に、「朝平岡行今日出勤之由、渋沢両人模様大ニ宜敷もはや今日明日之内安倍摂津守殿え懸合ニ相成候由」とあるものの、その結果は思わしくなかったのである。29日条には「一橋家稽古場に比留間相尋面会之処、血洗島渋沢両人之儀小林清三郎致心配居候様子云々」とあって、小林清三郎も「今明之内安倍家え可罷出」て交渉すると約束したと記されている。なお、「比留間」とは甲源一刀流の遣い手比留間良八で、この年一橋家に155人扶持で召し抱えられ、稽古場の剣術世話心得となっていた。小林清三郎(清五郎ヵ)については、残念ながら寡聞にして知らない。これによれば、喜作と栄一に関する安倍家との交渉が難航している事実は他の一橋家々臣たちにも伝わっていたのである。

 

その後も栄一たちの安倍家への譲渡し交渉は難行したらしい。紙幅上その詳細は記しかねるが、川村恵十郎の日記の101日の条には、「未タ安倍家より挨拶無之、乍去仮假令何様之挨拶有之候共此儀ㇵ何れニ缺致し候由、尤品ニ寄候ㇵゝ用達之風ニも可致哉之由なり」とあり、平岡や榎本は安倍家の了承が得られなくても、2人を一橋家の「用達の風」にでもして上京させる心算だったのである。なお、翌元治元年(1864)227(栄一たちの一橋家仕官後)の川村の日記に、川村恵十郎草案の安倍家に対する栄一たちの譲受交渉文が筆写されている。その文中に、「昨年中薄々及御懸合云々」「此度右両人共、御用談所調役江抱入候様中納言殿被存候間、此段及御断候云々」等とある。結局、安倍家の了解を得られないまま、一橋家では栄一と喜作を採用することに決定していたのである。こうした経緯は、『雨夜譚』等の渋沢栄一の懐旧談には一切記されていない。

 

5 渋沢栄一の一橋家仕官

 

在府中の栄一たちが1019日付けで郷里の尾高惇忠に宛てた書簡(渋沢栄一傅記資料』)に、「一橋公も必々登京に相成候様子、付而は是非両生(栄一と喜作)には御供被仕度、平岡榎本抔被申候、(中略)実に千歳之一機会、呉々も不可疑と決心一段大奮起、独歩都下を圧倒いたし候」と記されている。栄一たちは川村恵十郎の指示に従い、前夜松浦作十郎に面会していたのである。その際、松浦から2人に対して、一橋家採用と上洛についての具体的な話があったのだろう。先年来の宿願であった一橋家への仕官と、岡部陣屋事件以来の悲願(武士になる)が実現することについて、栄一たちは欣喜躍如していたのだ。

 

しかし、この同じ書簡に、「武器も梅田(慎之助・武具問屋)に而好機会に而余程相調申候、革具足に而手堅物十人前外着込二十人位は調立て相成候云々」とあるなど、挙兵の準備を着々と進めている事実も記されている。翌年の726(栄一の一橋家仕官後)付けで栄一が惇忠に宛てた書中に、恩人平岡円四郎(616日暗殺さる)の横死に関連して、「去冬御同様一死報国最早かかる濁世に安居も義士之恥する処と深く決心之至、只々東寧(尾高長七郎)之所論生気鼓舞致兼、殊ニ流賊之名可恐との場合、無拠先小()見合(挙兵を)迄之事(中略)遂に西上□く場合に相成候云々」、と記されている。『雨夜譚』等栄一の懐旧談によれば、長七郎との激論の末に挙兵の中止(「少々見合迄之事」)を決断したのは1029日夜である。

 

栄一たちが挙兵中止を決定した7日前の同月22日の川村の日記には、「両人一條彌跡より登京決定、渋沢両人ㇵ跡より平岡榎本両人為家来為登候積」とあり、24日には「渋沢両人も来居、先触一條万々談判」と記されている。そして、27日条には「朝渋沢喜作来、(中略)平岡江之書面も相認為見出府候ハゝ早々平岡江罷越其上ニ而万々可致処置候段申聞相別候事」とあり、さらに「平岡行。渋沢両人来候節一橋江書状(先触れ)差出遣之旨万々おやすとの(円四郎の妻)へ談判」、と記されている。挙兵中止の2日前には、川村恵十郎によって2人の上洛準備は万端整えられ、そのことは渋沢喜作にも伝えられていたのである。『雨夜譚』等には、先触れの発行は平岡とその妻の好意によるとあるのみで、川村恵十郎が事前手続きをしていたことなど一切触れられていない。その川村はこの翌日(1028)、自身の上洛の準備のために駒木野村に帰郷している。

 

その後の栄一と喜作については『雨夜譚』に、「この企て(挙兵)を止めることになるとすこぶる危険と思われたから」栄一と喜作は118日に血洗島村を発ち、江戸を経て同月25日に入京したとある。そして上京の理由については、「一橋家へ仕官する望みではなく、唯々京都の形勢を察しやうという目的」であり、「眼目とする幕府を覆さうといふ一條に付ては其端緒にだも出来ない(中略)是といふ機会を見付けることが出来ずに居ました」とあって、一橋家への仕官など念頭になく、相変わらず倒幕の念慮を懐抱していたとある。

 

上洛後の栄一たちは在京の諸有志を訪ねたり、伊勢神宮を参詣したりして日を送っていたが、翌元治元年2月初旬に「何か事の間違いから捕縛せられて入牢」した尾高長七郎から手紙が届いたという。その書中には、捕縛された際に幕府を「転覆せんければ御国の衰微を増長させる云々」と書いて栄一たちが長七郎に宛てた手紙を懐中していた、とある(『雨夜譚』)。この長七郎の下獄のことは、川村の日記の214日条に「正月二十三日夕刻、安藤森川人数板橋宿固罷在、(長七郎等を)召捕候由」、と記されている。長七郎が戸田の原で通行人を斬り、この日捕縛されていたのである。

 

『雨夜譚』にはさらに、長七郎からの手紙を手にして思案に窮していた栄一たちの許へ、平岡円四郎から「ちょっと相談したい事があるから直ちに来てくれ」という手紙が来た、とある。そして、(経緯の説明は縷々あるが)進退に窮していた2人は、平岡円四郎の強い勧めによって「節を屈して」一橋家の家来になることになった、とある。なお、川村恵十郎の日記には、正月28日の条に「渋沢来、同人共之儀平岡相談」とあり、川村はこの日栄一たちを平岡のもとに伴い、2人の出仕の手続き等に関して相談したらしい。長七郎の下獄5日後のことであり、『雨夜譚』にある長七郎の獄中からの手紙云々の話は、下獄直後の獄中からの書通や当時の通信事情を考えると疑問がある。

 

川村の日記の翌28日の条には、「水戸住谷七之丞、横山良之助(2人共水戸藩)来、猪飼、喜作出会」とあり、喜作はこの日早くも御用談所で他藩士との応接に同席している。そして翌9日には、『渋沢喜八()、同栄一郎今日奥口番被仰付、尤ゟ御用談所調方下役被仰付云々』とあって、この日栄一たちは正式に一橋家家臣となり、ここに栄光の人生の大きな第一歩を踏み出すこととなったのである。

 

6 おわりに

 

明石照男編『青淵渋沢栄―思想と言行―』に、栄一の挙兵画策当時の回相談がある。そこに、「自分の最初の理想は(中略)日本の封建制度、世官世祿の積弊が幕府を腐敗させているから、これを打破して国力を挽回したいということにあった」、その実現のための「第一の目的(倒幕)が頓挫した後、私は偶然の機会から一橋家に仕へることになった。当時一橋慶喜公は賢明の誉があったので、この君に仕へ、この君を有為の人とすれば、時勢の変化に伴ふて、この公によりて自分の理想を実現することが出来るであろう。自分が最初に立てた目的を直接することを止め、その代わりに実力のある一橋公により之を達したいと思った。即ちだいいちの目的を全く変えたのではなく、同じ方面に向かいながら、執る所の手段を異にしたに過ぎなかった」、と語っている。

 

また、倒幕云々の話はともかく、渋沢栄一の元治元年88日付け藍香宛て書中にも、「只々攘夷之儀、今一度もり返し、公(一橋慶喜)をして死地に入り周旋被遊候云々」とあり、一橋家への出仕後も栄一たちの攘夷の志願に変わりはなかったのである。川村恵十郎の日記に、「此者共(喜作と栄一)真之攘夷家ニ候」(文久3918日条)とあることも頷ける。栄一たちは水戸烈公徳川斉昭の子である一橋慶喜に攘夷断行を託していたのである。しかし、その一橋家への出仕の過程には、見て来た通り『雨夜譚』等渋沢栄一の回想談の内容とは異なる経緯があったのである。

 

『雨夜譚』は、「先生(渋沢栄一)子弟ノ請ニヨリ、明治二十年(1882)、深川福住町ノ邸ニ於テ、(中略)談話セラレタル筆記」したもの(『青淵先生六十年史』)であり、永い年月が聡明卓抜な栄一の記憶に変容を生じさせたとしても不思議はないだろう。特に、討幕によって明治維新を成し遂げた薩長閥の全盛と、世に旧幕政蔑視の風潮の横溢していた明治20年である。評論家故小林秀雄も、「記憶とは、過去を刻々に変えて行く策略めいたある能力である」、と断じている。

 

<主な参考文献>

◯『雨夜譚』 渋沢栄一述 長幸男校注 岩波文庫

◯『青淵回顧録』 渋沢栄一述 小貫修一郎編著 青淵回顧録刊行会

◯『青淵百話』 渋沢栄一著 同文館

◯『青淵先生六十年史』 龍門会編 博文社

◯『渋澤栄一伝記資料』 龍門社編纂 岩波書店

◯「川村恵十郎日記より見たる青淵先生」 藤井喜久麿稿

  龍門社刊『龍門雑誌』第621~623号収載 国立国会図書館所蔵

◯『青淵渋澤栄一、思想と言行』 明石照男編 渋澤青淵記念財団龍門社

◯『新藍香翁』 青淵渋澤栄一記念事業協賛会

◯「八王子出身の幕末志士川村恵十郎についての一考察」 藤田英照稿

  (松尾正人編著『近代日本の形成と地域社会』収載 岩田書院)

◯「旧幕臣川村正平(恵十郎)の生涯」 川村文吾稿 (『大日光』第64)

◯「足利将軍木像梟首事件」浅井昭治稿 (『共同研究明治維新』収載)

◯『宮和田光胤一代記』 宮和田光胤稿 宮和田保編 私家本

◯『大橋訥庵全集』 至文堂

◯『新稿一橋徳川家記』 辻達也編 續群書類従完成会

 

19の(6) 神に祀られた旧幕士松岡萬  (明治6年~同24年)

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東京府に出仕して以後の松岡萬に関しても、筆者の怠惰のためもあって、管見にしてごく僅かな資料にしか出会えていない。明治6年に関しては、先の『学海日録』に、東京府職員としての松岡の様子の一端が垣間見えるので次に引用しておくこととする。

 

33日、「会議所に煉火石(煉瓦ヵ)をもって上水の樋を作らんと請ふものあり。仏国人の伝習をうけしものといふ。此議一定然るべしといふもの多ければ、松岡典事本所に来りしときそのことをいひて、その案を示せしに、説よろしかるべし、我まづ知事に申て試みに工を興さばやといひて持ち去りぬ」。35日、「松岡典事、謐所に来りていわく、きのふ本所より奉りし煉火石に戯謔のことをしるしたり、こは何人の為せし所ぞ、和殿会議所に雇はれて事を決するときく、かゝる戯謔は世にあるまじき事なるべしといふ。余大に驚、いかなるべき事候べきとてきくに、何人かしたりけん(中略)、よって其人より松岡に事のよしを告げて深く怠状を奉らしむ」

 

煉瓦石にどの様な戯れの言葉が書かれていたのだろか、また、煉瓦石での樋がどうなったかも不明である。その翌々月2日の条には、「市人松本孝八その家を作るに溝板を石にせしとて例に違いよしを官吏いひしかば服せず。よしを会議所に訴ふ。余之を松岡典事に告げしに、寺田典事その人を詰り、再び孝八を招きて尋ね問はるゝに、申す所前と異なる事多し、此日両典事本所に来りて余に実なき事を以て告げらるゝの責あり。云々」。そして同月31日条には、「日本橋造営落成す。京府諸官員松岡典事、杉本典事、川上大属等也。此橋は極て良材なるものから、資金足らざるよし云々」とある。『史話明治初年』によれば、日本橋は明治512月に着工して翌年531日に落成したとある。そして同書にも、「橋の材料たる木材は精良な欅の如鱗木質であったそうで」、明治44年に新橋が落成するまでの30年余も使用されたという。松岡は日本橋の建設に携わっていらしい。

 

松岡は神田川万世橋の架橋にも携わっていた。『おれの師匠』に、「神田の萬世橋は松岡が当時架けたので自分の名を冠したのである」とある。新潮社編『江戸東京物語』によると、この橋は現在の万世橋昌平橋の間に東京で初めて架設された石橋で、2つのアーチが眼鏡のように水面に映るところから「めがね橋」とも呼ばれたという。石材は筋違見附を取り壊した石が使われ、現在の万世橋が完成した後の明治39年まで使用されたという。

 

『江戸東京物語』によれば、橋の命名は府知事の大久保一翁(『おれの師匠』とは異なる)で、万世橋の読み方は初め「よろずよ」だったが、いつの間にか「まんせい」と呼ばれるようになったという。日本初の石橋であり、知事の命名だったと思われるが、石橋で頑丈なことと架設に尽力した松岡の名も知事の念頭にあったのかも知れない。松岡神社の宝物の中に万世橋の版図があるという(『牧之原残照』)。なお、この万世橋に関して、『学海日録』明治7417日条に次のような記事がある。

 

「萬世橋の石工等申さく、東京府に於て萬世橋を作らる、工等その役に使はれて公用に供せしに、事役、初めに構じられしより過ぐるもの少からず。その価まして弐千余金に至る。請ふ、会議所に詮議せられて事由ヲ京府に申し給らんと。此こと打すてをくべきにあらずと衆議し、即ち東京府大属松岡萬・権少属山城祐之はその事をあづかれるをもて、その申文を草す。松岡・山城両官員、この日会議所に至り、石工の長及橋匠の代理人等を召して、その事を問ひしに、その申すところ、即尽く初め構ぜし事の外を出でず。更に過役を課せしにあらざるよしにて、請ふ所を用ひず」

 

『おれの師匠』収載の「松岡萬氏日記備忘雑記」424日条の中に、「今日は京橋へ行き山城氏へ面会・同道にて会議所へ参り石橋請負人を説諭す。依田氏尤も懇々被諭たり」とある。『学海日録』にはこの日の記載はないが、17日の事態に関して問題のあった架橋の請負人をこの日説諭したということだろうか。『学海日録』に記される事態とやや異なるようだが、詳細は不明である。

 

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松岡の日記に話が及んだため、このことに触れておきたい。松岡が詳細な日記を記していたことは、『おれの師匠』の中に「松岡はあんな無茶な男のようで、丹念に日記を認めたもので、何でも若い時から身辺のことを巨細ともに書いて置いた。おれが師匠に、師匠の昔のことを尋ねると、よく<そのことなら松岡の日記に詳しく書いてある筈だ。松岡に日記を貸して貰うといい>と云ってゐたところを見ると、余程詳細に渉って書いたものに違いない云々」とある。もっとも、松岡は決して小倉鉄樹に日記をみせることはなかったという。

 

松岡の若い時からの詳細な日記については、『おれの師匠』に更に「松岡が自刃した時(後に記す)この日記も手紙などと一纏めにして火鉢の中で燃してあった。師匠が来てこれを見て、『その日記は惜しいものだ、焼け残りだけでも取り出して置け』と言われたので、おれは直ぐ火を揉み消して火鉢から日記を取り出して置いたが、今はどうしたかしら」、と記されている。若い頃からの膨大な日記が、火鉢程度で燃やし尽くせるものかどうかはやや疑問ではあるが。

 

なお、松岡の日記に関して北村柳下の「駿府と松岡萬」(『ふる里を語る』中)に、「加藤玄智氏が帝大文学部で松岡万の伝記を編むといふので、維新当時の日記おば、松岡方から借覧したのは昭和27月中のことである」とある。その後、加藤玄智教授による松岡の伝記が上梓された形跡も、松岡の日記がその後どうなったかも全く不明である。加藤玄智教授が松岡家から借り受けた日記は「維新当時」のものとあるから、松岡は自殺未遂事件以後も日記を書き続けていたのである。几帳面な松岡の人間性が窺える。『おれの師匠』の中に燃え残りだろうか、松岡の日記(「松岡萬氏日記備忘雑記」)の断片が若干掲載されているので、その一部を転載する。

 

「四月二十四日朝(原注・明治七年)三度斗山岡先生を明け方の夢に見る。初の時は予に鉄にて唐草を象眼したる柄の曲りたる刀を賜はりたり。中身は何れ取替へざればいかぬと申され候。奥方も居られたり。二度目は八百坪の地所御所持の由薩州の人申され候を夢に見たり。今日は(中略・前記)。九段上にておけいさん(原注・鉄舟室英子夫人の妹、石坂周造室)に逢ふ。帰宅後先生より御書翰来る。奥方は御出産の由、御知らせ有之直ち出向拝謁の上薩州の事態夫々種々御話有之面白き事多かり。奥方御女子を産まれ少し御血の気故お目にかかり不申候」

 

(同年)四月二十七日退庁後直に府の門前より、人力車に打乗て四谷の大通に参り、砂糖並葛の粉共々購之相携へて淀橋なる山岡先生へ参上致す。孺人御出産の御見舞に二品を呈す。大先生薩州表より御持越の薩摩焼土瓶、カナダラヒの形に焼きたる陶器を賜はる。殊に西郷大先生の御筆二枚賜之、是れは御出艦前に希望の趣御承知の故也。御自作の詩なり。云々」

 

牛山栄治著『定本山岡鉄舟』によると、山岡鉄舟の妻英子が3女を出産したのはこの年の48日である。同月24日それを山岡からの手紙で知った松岡は、直ちに山岡家を訪ねたのだ。出産から16日も過ぎてのことだが、これには訳がある。それは日記中に「(山岡から)薩州の事態夫々種々御話有之」、とあることに関係している。これより以前の327日付けで政府より山岡に対して、「御用コレアリ、九州ヘ差シツカハサレ候」という辞令(『定本山岡鉄舟)が出ていて、3月末か4月初めに山岡は東京を出艦していたのである。これは前年の10月、征韓論に敗れて薩摩に帰った西郷隆盛の出京を促すためであった。山岡が東京に戻った日も定かではないが、おそらく松岡が手紙を受け取った424日か、その数日前のことだったのだろう。

 

先の日記によれば、松岡は山岡が九州へ出発(出艦)する際に、西郷隆盛の真筆を貰ってくるように頼み、松岡の願い通り山岡は西郷の直筆二枚を貰って来てくれたのである。しかし、帰京に関しては山岡の熱心な説得にも、西郷は首を縦に振ることのなかったことは歴史の示す通りである。

 

なお、松岡の日記を見ると、松岡と山岡の関係性が歴然とする。当時の山岡は明治天皇の侍従として宮内少丞(5)に任ぜられていたが、松岡にとって山岡はそうした身分上の問題以前の人格的な畏敬の対象だったらしい。松岡と村上俊五郎、それに中野信成の3人を「鉄門の三狂」と称し、これに石坂周造を加えて「鉄門の四天王」と呼んだ(『おれの師匠』)というが、松岡の日記を見ると腑に落ちるものがある。これも『おれの師匠』に記される話だが、山岡は自分の収入の内から松岡、村上、中野の3人に毎月20円づつ与えていたとある。松岡が東京府職員を辞任したのは明治10年であり、山岡が宮内省を辞したのは明治15年であるから、この間のことだろうか。判然としない。

 

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明治8年以後の松岡に関して確認できる僅かな資料によると、『清見潟20号に明治8年の6月、松岡は東京府八等出仕の東京府大属となり、同年12月には警視庁中警部に任ぜられたとある。しかし、川村恒喜の先の論稿では、「其後警視庁に職を奉じ、明治9年に権少警視に任ぜられ、裁断頗る公平で『明治の大岡越前守』の異名をとったと云ふ」とあり、『静岡県大百科事典』には「1875(明治8)東京に帰り府の大属となり警視庁に出仕。1877年一等大警部に昇進」と一定しないが、明治8年に東京警視庁に勤務するようになったとする事実はその他の著書も一致している。

 

松岡がなぜ警視庁の職員になったのか、その経緯も不明である。ちなみに、この年12月に大久保一翁東京府知事を退任している。後任は元肥大村藩士の楠本正隆であった。松岡の警視庁での身分も諸書で一定しないが、明治71月制定の警視庁の職制は、長官の大警視以下、権大警視、正権の少警視、正権の大中少警部と1等から4等までの巡査からなっていた。松岡は明治10219日付けの「任一等大警部」の辞令書の写真があるから(清見潟20)、警視庁出仕当初は中警部か権大警部だったのではないかと推定される。

 

警視庁奉職当時の松岡については、「名判官の誉れがあり、明治の大岡越前」と称されたと諸著にあるものの、その具体的な事績は一切明らかにできていない。また、松岡は在職2年足らずの明治10(一等大警部に昇進した年)に警視庁を退任したという。その理由も、その月日も定かではない。この年2月には西南戦争が勃発し、東京警視本署の警察官総員9,500名が2月に戦地の九州へ派遣されている。前述のように松岡は、山岡が鹿児島に派遣された際、山岡に西郷の書を貰って来るよう頼んでいる。また、松岡の「備忘雑記」(『おれの師匠』収載)には、「右は戌(原注・明治七年)三月二十九日の夜山岡大先生へ参堂の節〇紙(原注・一字虫食にて不明)に認め有之たるを先生に乞ひ直に写之帰り又此に記置もの也」と後記して、「西郷参議辞表写」や島津久光が九州に赴いて西郷と会見した内容等が克明に記されている。こうした点から、西郷を敬慕する松岡が警察官(自身も含めて)の九州派兵に反対して辞職した、と推測するのは考え過ぎだろうか。

 

退職後の松岡に関しては、その後明治14年に至るまで「海舟日記」を除く資料は一切確認できていない。なお前後するが、勝海舟の日記の明治9年に松岡の名が散見されるので、参考までに転記しておく。これによれば、松岡は地所を購入するため、明治9年に徳川宗家から600円を借り入れたらしい。

 

75日、「伊集院兼寛、松岡萬、梶金八、織田信徳」。924日、「松岡萬」。118日、「溝口、松岡萬、地所の事につき談」。123日、「松岡萬、六百円、御向より拝借仰せつけらる」。128日、「松岡萬、六百円拝借、繰り廻し方の事、申し聞く」。129日、「松岡萬、薩州より大挙の内風聞これおる旨」。以後、勝海舟の日記には明治15年に至るまで松岡の名は認められない。

 

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明治14、15年当時の松岡萬に関する逸話が『鉄舟居士言行一班』に記されている。その一つは、山岡鉄舟関係のほとんどの著書にも載っている宮内省の勲功調査に関する話である。要約すると、明治14年に宮内省が維新の功労者に賞勲を付与するため、勲功調査を行った。山岡も勲功調査局の招請で出頭したところ、勝海舟が提出した江戸開城に至る経緯を述べた筆記の正否を問われたが、そこには勝が己一身で難関を解決した旨が記されていた。それを見た山岡は不審に思ったが、「之を否認せば勝の面目を潰す。イヤ功は人に譲れ」と咄嗟に判断し、「その通りだ」と言ってそのまま帰邸してしまった。しかし、当時の事情をほぼ知っていた係官にその顛末を聞いた右大臣岩倉具視は、山岡を私邸に招いて当時のことを詳記して差し出すよう要望した。この岩倉の要請で山岡が提出した筆記が、後に岩倉が記した「正宗鍛刀記」の材料になったという。

 

『鉄舟居士言行一班』によると、山岡が岩倉邸に出頭した2、3日後にこの話を聞き込んだ松岡萬が、大いに憤り、「勝の如き卑劣漢を活かし置いては、我等旧幕臣の恥辱であるから、速に成敗して呉れん」と息まき、これを聞いた石坂周造や村上俊五郎らも同調して大騒動になる事態に至ったものの、山岡がこれを知って制止したために事なく済んだという。ちなみに、前段の話はやや内容は異なるが『泥舟遺稿』や『おれの師匠』にも記されているが、松岡に関する話は載っていない。もう一つの松岡に関する逸話については、『鉄舟居士言行一班』に記される事実を以下に転載する。

 

「松岡氏其後又政府が居士(山岡鉄舟)を勲三等に叙したとて大に憤り、今度は独密に岩倉右大臣を刺すべく匕首を呑んで右大臣を訪ふた。右右大臣一見してその気勢を察し、貴公の如きは元亀天正の頃に出たらば立派な大将であったらうと卓上一番し、頓(やが)て茶菓を饗して鄭重に待遇されたので、松岡氏拍子抜けして空しく帰った。而して其夜熟(つくづ)く無謀の行動を悔い、居士に申訳なしとて咽喉を刺貫いて自殺を企てたが幸に脈管を外れて一命は取留めた。後日右大臣が居士に、先達て松岡がやって来て実にスゴイ様であったと語られた」

 

松岡の自刃の話は『おれの師匠』にも出ているが、そこには「山岡が宮内省を退いた時、松岡は要路の人の不明を慨し、山岡如き誠忠無二の男を君側から離すといふのは不都合だといふので」決死岩倉を刺そうとしたとあって、叙勲の話ではなくなっている。山岡は宮内省に出仕する際に「10年を限りに」との条件を付していて、それを松岡が知らないはずはなく、『おれの師匠』の記述は疑問である。山岡が宮内省を辞職したのは明治156月であって、特旨を以て正二位を贈られたのは同年1022日のことである。勝海舟の日記の同年617日の条に、「山岡氏、勲章拝受の事御断る旨、他種々内話」とあり、119日の条には「山岡氏、五、六日前、松岡萬、同人賞牌其他の事につき、岩倉へ申し立て、其後自害ニ及び、半死の旨、内話」と記されている。「鉄舟居士言行一班」の話と一致する。

 

松岡の自刃未遂事件のあった翌明治162月と3月の勝海舟の日記に、松岡に関する記事がある。その211月の条に、「山岡氏、松岡出奔云々の内情、且、関口隆吉、右につき大困、心痛の旨、云々」とある。松岡の疵は癒えていたのだろうか。関口隆吉が心を痛めていた松岡の出奔の内情とは何だったのか。3日後の同月15日の「海舟日記」に、「滝村小太郎(徳川宗家執事)、松岡出奔、暗殺企ての事、関口一件、(中略)内話」と記されている。「暗殺企ての事」とは岩倉暗殺未遂事件のことだろうか、それとも松岡の出奔は新たな暗殺を企ててのことだったのか、定かでない。

 

勝海舟の日記の同月20日条には、さらに「溝口勝如、山岡、松岡等のことにつき困究(原注・窮)致すべく、何とか取斗り呉れ候様申し聞く」とある。松岡は家に戻ったのだろうか。当時、山岡も松岡も生活に窮していたのである。そして、31日の条には「山岡、松岡発狂、家出捜索等、物入りにつき、二百円、玉柱り返納の金子繰替之相渡す」と記されている。「発狂」とは「常軌を逸した」という意味だと思われるが、松岡の捜索費用等として徳川宗家から山岡に200円が恵与されたのである。

 

この明治16年に、石坂周造が亡き旧同志清河八郎への贈位申請のため、右大臣岩倉具視に建言書を提出したことは「石坂周造について」等で記したが、その建言書の中には「村上政忠松岡萬等ノ如キハ八郎等ト大ニ辛苦ヲ共ニシ身命ヲ抛テ尽力セシモ今ヤ世上ノ一棄物トナリ鬱々トシテ惟性命ヲ存スルノミ」とあった。当時の松岡は、石坂から見ると「ただ生きてるだけの棄物」と見えていたのである。どのように生計を立てていたのか。こうした事実からも、松岡の東京府職員の退職は深く思慮した上ではなかったことが推測される。

 

そんな松岡に追い打ちをかけるように、この年9月には長男が病死した。『ふる里を語る』に、「秋月連光童子 長男鉾太郎 明治16922日ヂフテリヤにて馬淵大石方にて病死」との記事が載っている。当時の松岡の妻子は大石家(妻の実家)に住んでいたのだろうか。松岡の「備忘雑記」に、「出さぬ間に、子にあてらるゝ蜜柑かな」の句がある(『おれの師匠』)、明治16年頃の作だという。松岡は貧窮や愛息の死という不運の中にあったこの年、「茸狩や村雨しのぐ松のかげ」や「蜻蛉や飛ではまたももとのとこ」の句を作っている。なお、翌明治17年の作には「飛こんで月影くだく蛙かな」の句がある(「備忘雑記」)

 

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明治21719日、この日松岡萬がもっとも敬愛する山岡鉄太郎が病没した。『鉄舟居士言行一班』に、山岡死去の数日前に松岡が見舞いに訪れた際の様子が記されている。見舞いに訪れた松岡に対して、「夫人(が、)鉄舟も彼の通りの衰弱ですから。最早長くはありますまいと云はれると。松岡氏ソハ大変だといって慌しく去って了った。が其夜深更何処より忍込んだものか。窃に居士の病室に至り。唐突にムンズと居士に組付く。時に居士は縟上に安座して居られたが、組付き掛かる松岡氏を其儘ヒョイト抱上げ、松岡さん如何したんだツと云はれる。松岡氏は抱上げられながら。大声でヤア大丈夫大丈夫と叫び。それより夫人に向ひ。先生は大丈夫ですから御安心めされよといって。独り大に安心して帰った」という。

 

内容的にはやや疑問もあるが、これが事実なら当時の松岡は正常な心理状態ではなかったのだろう。山岡の葬儀は同月22日に行われたが、その際の松岡の様子を伝える資料はない。なお、その出典は不明だが、『ふる里を語る』の中に鉄舟没後の山岡家と松岡について次のような記述がある。

 

「鉄舟没後、親族会議が開かれた。松岡万も親戚格としてその席に連なった。それは鉄舟の奥様の兄に、天下の山師と綽名された石坂周造といふのがあった。この人は鉄舟にも生前随分迷惑をかけた。(中略)鉄舟の奥様は夫の没後、鉄舟の印章其他をば石坂に預けて置いた。石坂はそれをば悪用して借金をした。その額三万円にも上っている。この債務の返済方法につき債権者は遺族に迫った。そこで親戚会議となったのである。遺族はこれが解決の方法に迷ふた。その結果万に委任することゝなった。万は喜んで引受けたのである。一たん引き受けたものゝ大金の事故、これが返済は容易なことではない。各方面に馳せて金策に懸命したけれども思ふように纏りがつかなかった。責任感の強い万は死を以てお詫びせんとした。人々はこれを制し止めた。貴公が死んでもその借金は棒引にはならぬぞ、山岡家にその借金はついて廻るぞと、寄ってたかって諫め、漸くにして自殺を思ひ止まらせたといふ事である」

 

石坂周造が、山岡の死後も山岡名義で借金をした話は寡聞にして知らないが、『おれの師匠』の中に山岡が石坂の借金に苦しめられたことは載っている。そこには、「ひとが石坂を山師扱ひにして信用が段々薄くなってしまった。それでも山岡が陰になり、日向になり面倒見てやったのでひどいぼろも出さずにしまったが、山岡自身はそれが為に三十万円の借財を背負はされた。この借財は山岡が死ぬまで祟って山岡を苦しめたが、山岡の死後徳川さんと勝さんとが整理してくれたのであった」とある。ここに松岡の名は出てこないが、「海舟日記」明治2379日の条に、「松岡へ、山岡へ(徳川宗家からの)下され金二百円渡し遣わす」と記されているので、『ふる里を語る』に記される事実も全面的に疑問視することはできないのではないだろうか。

 

山岡鉄太郎が死去した同じ7月の31日、松岡と関係の深い大久保一翁が病死した。享年72歳であった。そして、その翌年517日には畏友関口隆吉(当時静岡県知事)列車事故による負傷が原因で逝去したのである。関口は松岡より2歳年長で、当時54歳であった。山岡、大久保に次ぐ関口の死という親しい人たちとの死別に、松岡の悲嘆と寂寥感はいかばかりだったろうか。その松岡の悲しみを伝える次のような逸話が、北村柳下の「松岡萬のことども」(『伝記』)に記されている。

 

「鉄舟と関口隆吉と萬とは義兄弟の縁を結んでいた。隆吉不慮の逝去にあひ葬儀が臨済(静岡市大岩)に執行された。萬はそれに参列した。端座、面を上げず、読経の間、嗚咽を禁じ得なかったという。式は終わった。遺骨は埋葬された。だが、萬は帰らぬ。大石氏(妻の妹の夫)は余りに帰りがおそいので迎えに行くと、前墓に淋しくたっていたとの事である」

 

関口隆吉死後の松岡の様子を伝えるものは、何も見い出せていない。なお、『明治初期の静岡』に松岡に関する逸話が載っている(『生祠と崇められた松岡万』)という。これは関口隆吉が静岡県知事(明治197静岡県令から知事になる)の頃の話であるというが、松岡という人物の一端を知る上で貴重な話なので転載しておくこととする。

 

(松岡は当時静岡市呉服町にあった雍万堂書店を訪れて)健康改善のために延寿帯を腹鳩尾の上にしめ、常に息を臍下気海丹田に落附けるときは、腹の形は鳩尾の偏り下腹部に膨満して心気落附き、健康が改善するを認め、此延寿帯使用を知人に勧めている。清水の次郎長にもこの効能を教えたるに、次郎長最も熱心に之を修め、今は立派なる肝腹ともなり。子若し閑暇らば一度次郎長を尋ねよ」と勧めたという。

 

この延寿帯は白隠禅師の『夜船閑話』にある健康法に由来するという。この逸話によれば、松岡は当時も次郎長と懇意にしていたらしい。なお、この話には後日談があって、松岡と山本長五郎(次郎長)、それに雍万堂書店の店主の甥三浦次郎吉の3人は、「東海暁鐘新報」にこの気息調整健康増進の方法を無料で伝習する旨の広告まで出して、広く普及させようとしたという。

 

話が横道に逸れてしまったが、山岡鉄太郎の死から3年、関口隆吉の死から2年後の明治24317日、松岡は2人を追うようにしてこの世を去った。享年は関口と同じ54歳であった。松岡は死去の2カ月近く前から病床にあったらしい。『海舟日記』同年17日の条に、「溝口勝如、云う、松岡(原注・万)大病ニ付き見舞遣わし呉れ候様申し聞く」と記されている。徳川宗家から勝海舟に対して、松岡へ見舞金を遣わすよう指示があったのである。翌8日の『海舟日記』は、「疋田、松岡へ見舞、十五円遣わす」とある。

 

松岡死去6日前の311日の『海舟日記』に、「松岡勇妻、高橋借財いたし候ニ付き、千円拝借の事申し聞く」とある。『海舟日記』で「松岡勇」の名を見るのはこれが初めてであり、これは松岡萬の誤記ではないかと思われる。この推測に誤りがなければ、松岡は自分の死の近いことを覚り、高橋という人物への借財返済金1000円を、徳川宗家から借りるために海舟のもとへ妻を走らせたのだろう。勝海舟が徳川宗家の資金を管理していたことは、以前「村上俊五郎について」でふれた。その後の顛末は不明である。なお、『海舟日記』には松岡の死に関しては、317日当日の条に「雨、(中略)松岡万、病死、知らせ来る」とあり、翌18日に「松岡へ香奠五円」とのみ記されている。

 

松岡萬の遺骸は松岡自身の遺言により、谷中全生庵の山岡鉄太郎の墓近くに葬られた。その墓石には「孤松院安息養気不隣居士」の法名が刻まれている。さらに、松岡家の菩提寺である市ヶ谷左内坂上の曹洞宗長泰寺に、後年遺族によって建てられたらしい(現地未確認)松岡萬(分骨ヵ)とその妻(法名・安息院梅室妙養大姉)の夫婦墓がある(『生祠と崇められた松岡万』に写真あり)。松岡の妻は明治31616日に、46歳で実家の大石家で病没したという。

 

大橋微笑の「幕士松岡萬の傳」に、「其(松岡萬の)嗣子古武(原注・ひさたけ)と云も、亦撃剣家にて、今猶下谷にて道場を持ち居れり」と記されている。「古武」は運九郎の廃嫡後に、新たに松岡の養子となった九一郎(旧姓赤木)のことと思われる。物溢れて心を喪ってしまった我々に、当時の人たちの幸不幸感を軽々に云々することは憚られるものの、山岡や松岡に先立たれた後の松岡萬の晩年は決して心満たされたものではなかったのだろう。

19の(5) 神に祀られた旧幕士松岡萬  (明治3年~同5年)

                  19

 

静岡藩士としての松岡萬に関しては、製塩事業の外に3つの顕著な逸話が伝えられている。その一つは、蓮華寺(静岡県藤枝市)の所在する若王子村(藤枝市若王子)と池の水に農業用水を依存していた市部村と五十海村(何れも現藤枝市)干拓事業をめぐる争論に関するものであった。そもそも、この若王子村と市部村・五十海村の両村とは、慶長18(1613)蓮華寺池が完成して以来、池とその灌漑用水の管理や用益権をめぐって幾度となく争論が繰り返されていたという。

 

そうした中の明治2年の冬、突然新たな湧水が出たとして若王子村の村民が水路を堀り始め、掘削は蓮華寺池用水の水門や池の堤際にまで到ったのである。驚いた市部村と五十海村の村民は蓮華寺池に影響が出ないよう申し入れたところ、若王子村側では村一存で手を付けることは決してしないとの返答であった。しかし、翌明治33月若王子村が池の水門を開け放ったため、市部村と五十海村の人達が抗議すると、これは藩の水利路程掛松岡萬の指示であると言い放ち、堤上には「水利路程掛り松岡萬開墾所」と書した棒杭まで立てられていたのである。

 

市部と五十海の村役人たちは、ただちに島田郡政役所に干拓の中止を嘆願したが、開墾事業は水利路程掛松岡萬の管轄であるとして受理されなかった。そこで村役人たちは転々とする出張先に松岡を追って、312日にようやく遠州大日村(袋井市宇刈)の旅宿で松岡に会い、村民の死活に関わる蓮華寺干拓の中止を懇願した。それを聞いて松岡が言うには、「蓮華寺池は日照りが続くと水が干上がり、非常用の溜池としては役に立たないこと、また、新たな湧水で近在田地の用水に不足する心配はないとの若王子村の申し出であり、干拓に問題はないはずである」、と工事の中断には難色を示したという。

 

しかし、市部と五十海の村役人たちの必死の歎願に松岡も折れ、工事を一年間中断して農業用水が湧水等からの新たな水路だけで不足しないかどうか様子を見ることとなった。ところが翌月には、2ヵ村の田植えのための用水が不足する始末となり、また、その後1ヵ月余りの日照りで新水路の水が底をついたため、2ヵ村の村役人は松岡に対して池の水の使用の許可と松岡の検分を願い出たのであった。松岡はその嘆願により、現地をつぶさに視察した結果、若王子村の村役人を呼び付け、干拓の即時中止を申し付けたという。

 

以上は、『藤枝市史』通史編、『牧之原残照』、『生祠と崇められた松岡萬』、『清見潟20号』等を参考にした。干拓事業の発起者は若王子村ではないかと推測されるが、いずれの著書もそれを特定していない。開拓が静岡藩や松岡自身の発案でないとすれば、結果として、松岡は若王子村の人たちに翻弄された感が否めず、松岡の心中が察せられる。当時藩の収入増加のための開墾事業は喫緊の課題であり、そこに付け込んだ若王子村が積年の念願であった蓮華寺池の干拓を実現しようとしたのではないかと思われる。

 

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静岡藩水利路程掛松岡万に関する逸話の2つ目は、磐田郡二宮村(磐田市福田)に所在する大池(周囲1.5キロ)の半分を埋め立てて耕地とするという、藩の勧業殖産政策に関する事件に関するものであった。その計画が中泉郡政役所から関係村々に通達されたのは、明治34月のことであった。当時、南田村等4ヵ村(井組4ヵ村)の人々は水田300町歩をこの大池の灌漑用水に頼っていたため、この通達に驚き、これは村民の死活問題であるとして、埋め立ての中止を求めて必死の歎願活動を行うこととなった。しかし、一度示達された藩の計画を撤回することは容易ではなく、翌月には村役人たちが郡政役所に呼び出され、月余にわたって宿預けの処罰を受ける始末であった。その後も村民たちは悲壮な覚悟で郡政役所や静岡藩庁へ愁訴歎願を試みたものの、一向に埒が明かなかった。

 

そんな中の同年10月、水利路程掛の松岡萬が製塩方として湊村(袋井市)に滞在していることを耳にした村役人たちは、松岡を訪ねて窮状を訴え、問題の解決を懇願した。松岡は翌4223日に現地をつぶさに検分した後、村役人たちに対して、「大池の儀は開墾には不相成蓮池の御年貢上納」の願書を差し出すよう指示し、松岡はこれを持って静岡に帰った。その後しばらく連絡がなかったため、村民の代表が416日静岡に松岡を訪ねると、松岡から「上様に願うて大池開墾の儀は沙汰止みと相成りたるを以て右書状を中泉郡政役所藤沼方(原注・藤沼牧夫)へ差し廻し置くに依り安堵いたせ」、との言葉があったという。これを聞いた村民たちは皆感極まって涙に咽んだと伝えられる。大池の埋め立て取り止めが正式に伝えられたのは、その年12月のことであった。

 

それから5年を経た明治98月、南田村等4ヵ村の村民たちは松岡への報恩の念から、大池近くの水神社境内(磐田市大原)に「池主霊社」(「松岡霊社」・「池主神社」とも言う)を創建して松岡を生祠として祭った。川村恒喜の「奇士松岡萬氏に就いて」によれば、松岡の日記の中に「表ノ方 松岡萬藤原古道幸魂、裏ノ方 天朝明治三年閏十月鎮于此処社、 右の如く相認め廻澤村ノ民ニ与フ、執筆者久保先生ニ相願申」とあり、これを池主霊社建立のためとして、松岡が神に祀られたのは「此れ(明治9)より数年前にあった事は彼の日記に明瞭に残っている」と記している。しかし、これは後述する廻沢飛龍神社との混同ではないかと思われる。もっとも、『清見潟』第20号によれば、神社の境内に立つ蒲生重章撰、高橋龍影の「義膽剛直碑」は明治3年に建てられたものだという。理解に苦しむが、現地調査をしていないためその顛末等は定かでない。

 

松岡霊社の境内には、山岡鉄太郎題額の「天造地設碑」(明治19年建立)や蒲生重章撰文の「義膽剛直碑」等が立つほか、宝物館には松岡家寄贈の松岡の佩刀(朱鞘で刀身101センチ、柄は40センチ)脇差、松岡の油絵額入り肖像、松岡使用の鉄扇・十手・柄鏡・菊葵紋付湯呑、東京市在職中の辞令書(6)平山行蔵肖像画等のほか、徳川家達徳川慶喜山岡鉄舟高橋泥舟大久保利通藤田東湖頼三樹三郎等々の墨跡などが収蔵(非公開)されているという。なお、「義膽剛直碑」には、「為人慷慨激烈英風欒欒人望而畏之而性仁慈温厚」と刻まれているという。

 

以上については、『磐田市史』通史編、『磐田市誌』、『福田町史』、『大池事件と松岡霊社』、『牧之原残照』、『生祠と崇められて松岡万』、その他を参考にした。

 

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静岡における松岡のもう1つの逸話は、東海道の宿駅岡部宿(戸数約300)とその隣村廻沢村(戸数20)との間の入会地をめぐる争いに関するものである。この事件も、『藤枝市史』通史編、『岡部町誌』、『牧之原残照』、『清見潟20号』、『生祠と崇められた松岡万』等を参考に事件の顛末を以下に記すこととする。

 

『岡部町誌』に載る「山論記―廻沢郷中」によると、既に慶応元年当時「当村廻沢所持字小廻沢山」について岡部宿側から訴訟が起こされていたという。その後明治元年に徳川家が駿府城主となった際、宿々村々に「御代替りニ付新之絵図面」を差し出すよう示達されると、岡部宿の宿役人は廻沢村を隠村として絵図面に書き込まなかったため、廻沢村では宿役人に強硬に掛け合ってやっと書き込ませた顛末があった。さらに翌明治2年には、村の入会地に岡部宿側が勝手に毒荏(油桐)を植付けたり、宿内川原町の人々が宿役人の後ろ盾を得て押し入ってきたことから掛け合いとなり、廻沢村では多額の「出張出入手間費」を要することとなったという。

 

こうした岡部宿側の横暴は、宿駅の経営に苦しむ余り、政権交代期の混乱に乗じて、弱小寒村廻沢村の入会地の土地利用に活路を見いだそうとしたことによるという。岡部宿側はさらに明治310月、廻沢村持ちの字小廻沢山を岡部山と偽り称し、宿の所有地にしようと目論み、村の境界を犯すという事態が生じた。この事件については、その解決に当たった松岡萬に感謝して廻沢村の人たちが建てた「松岡神社」の由緒(『生祠と崇められた松岡万』)に次のようにある。

 

「廻沢部落所有の入会地に、明治二年隣接の岡部村で桐油をとる毒荏を植え、翌年には小廻沢山を所有しようとした。戸数二十戸の村人は、死活問題として訴訟を起こした。当時静岡伝馬町に滞留していた勧農係官、水利係官であった松岡萬は、即時実地検証し、全面的にその主張の正当性を認め、廻沢地帯の件については、金六十両の示談金を相手方に支払って解決した。村人達はその恩誼に感じ、徳を称え、生きながらの部落の守護神即ち生祠として、明治三年飛龍神社の地に神社を創建し祀った」

 

『岡部町誌』によると、廻沢村の人たちに松岡を紹介したのは、当時偶々村に止宿していた藩の勧農係役人の小沢喜左衛門で、この人は以前松岡に付属していた人だともいう。「松岡神社」に納められた木札に「明治参年閏十月鎮牛此社」とあるというから、廻沢村の人たちの松岡に対する感謝の念は相当のものだったのだろう。当時歌われたという松岡を称える次のような御詠歌が伝えられている。

 

  まつのみどりの もろともに そせんのおしえ まもりつつ

  かみのおしえに したがいて まつおかさまの ごおんけい

こころにちかい わするまじ ひりゅうじんじゃと もろともに

 

また、『生祠と崇められた松岡万』に、当時の廻沢村の住人渡辺角左衛門という人の次のような懐旧談が載っている。

 

「えらいもんでした。廻沢で横添橋までこっちのものだと言い、岡部では川辺の地蔵まで岡部のものだと言っていたのですが、松岡萬の神がどっちにも不服が無いように公平に裁いて下さったので納まりました。あの人はほんとに神様でしたよ。その頃、私の家に小澤才蔵という萬の神の家来がいて、いろいろ岡部の人たちと掛け合いをしたのですが、こまかいことは覚えていません」

 

話の中の「小澤才蔵」は「小沢喜左衛門」のことと思われる。『牧之原残照』によると、松岡神社には松岡家寄贈の松岡萬の遺物のほか123点に及ぶ松岡に関する宝物が納められているという。その中には、生前愛用の麻上下・鉄扇・十手・柄鏡・菊葵紋付湯呑や書物、剣術の目録、新陰流の兵法書、山岡鉄太郎・徳川斉昭高橋泥舟榎本武揚大久保一翁藤田東湖等の墨跡や書状、そして松岡の銅板像(上半身)等がある(非公開)という。

 

松岡萬は生前に神様として崇め奉られ、2ヵ所に神社まで建てられていたのである。史上、高徳の偉人が生祠として祭られた例は全くないわけではない。しかし、別の地域で別の理由で生き神様として2ヵ所に祀られた例を知らない。

 

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静岡藩()職員時代の松岡の足跡で明らかな事実は、以上記した以外にもいくつか確認できる。その1つは、安部川への架橋(安水橋・現在の安倍川橋)に関するものである。『生祠と崇められた松岡万』等によると、ある時、同志の相原安次郎(明治33月末の『静岡藩職員録』では郡政掛の少参事)が松岡に「外国では川に大橋が架けられている、安倍川にも架橋したらどうか」と設計図を示した。松岡は即座にこれに賛同し、早速自分名義で県に架橋の願書を提出して許可を得、併せて材木確保のための洞慶寺裏山(檜林)の払い下げの手はずも整った。その時、この計画を耳にした宮崎総五(静岡市彌勒の人、初代安部郡長、後貴族院議員)が地元でもあり、失業した川越人足の救済にも役立てたいとして、架橋計画の委譲を松岡に懇願したという。これに対して松岡は、宮崎家の財力や川越人足救済の義侠心等を見込んで、こころよくこれを了承したという。

 

「渡船架橋の許可を与える太政官布告」が出たのが明治4年であるから、この話は松岡が静岡の地を去る翌59月までの間ことだったのだろう。しかし、当時藩の水利路程掛という官職にあった松岡が、個人的に架橋を計画したという点については疑問がある。或いは、東海道筋の安倍川への架橋の必要性を痛感していた水利路程掛の松岡が、財力も人望もあり、藩から川越人足救済対策を委託されていた宮崎総五に話を持ち掛けたのではないだろうか。松岡がそのための手続き一切を引き受け、架橋計画のお膳立てをしたか、逆に宮崎総五が松岡に提案して始まった計画だった可能性もある。

 

安倍川への架橋は、宮崎総五らによって明治69月に着工し、翌年3月には完成した。安水橋と命名されたこの橋は、明治29年に管理が県に移管されるまで、維持管理等のための料金を徴収していたため、別名を賃取橋と呼ばれたという。この架橋工事に関して『生祠と崇められた松岡万』に、「(松岡が)現場での人夫の督励等に総五を助けて尽力した話は、今でも古老達によって語り伝えられている」として、「(松岡は)人夫の休憩時間を儲けたり、焼き芋を配ったり、わらじを支給したり、休日には大鍋に川魚や、野菜のごった煮の味噌汁を作ったり、飯は大釜に芋と大根の干葉を入れた菜飯を炊いて与えたり」したことから、人夫たちは松岡に心服し、橋は予定よりも早く完成した、とある。当時東京府の職員だった松岡が、どうしてこうした対応が取れたのかは不明だが、責任感の強い松岡は、休暇を利用して進捗状況の確認がてら東京から通っていたのかも知れない。

 

松岡の妻の実家大石家にも橋の見取図が伝えられていたという。また、松岡の身内の人が、昭和初期のころまで宮崎家の屋敷内で借家住まいをしていた事実があったという。

 

松岡の静岡におけるもう1つの事績には、『駿河記』の発見がある。下記の書簡文は松岡が出張中、たまたま止宿した東海道嶋田宿の素封家桑原家の主人との夜話の中で、桑原家の先代(桑原黙斎)が編纂した「駿河記」が所蔵されていることを知り、その重要性を認識した松岡が「大老君閣下」に取扱いの伺いを立てたものである。

 

一翰拝呈候 然者小生止宿罷在候嶋田宿村桑原小作 先代発志自身国中を経歴致し見聞に及び 多年之勤労にて編集に相成候駿河記と題名有之書物 十八巻に二十二巻何も同物の由 併駿河国事績之図と表名有之大絵図一枚 相添所蔵仕居候趣 世話の序及其事則ち採出し相見候 初冊を一見仕候処 極而明細に探知行届候と存候 依之旧幕府之御時代に奉献本候事も有之候乎と相尋候処 更に無之候 只自家に収蔵致居候而己と相答申候 今般従朝廷御沙汰有之 御家に被為置候而茂 御版籍御取調御差出に相成候御折柄 右様古人丹誠之品書籙中に埋れ有之候は真に可惜之至故 御内意奉相伺候上 任御指図取計度 此段心付候間 無包蔵奉申上候       以上

  四月十一日 燈火認之               古道(花押)再拝

  大老君閣下

 

この書簡文については、『清見潟』第22号の中に、当時、県政の最高責任者であった、大久保一翁に宛てた書翰の翻刻が、また、昭和812月発刊の『駿河叢書九篇・駿河思出草』の中に北村三郎の「松岡萬に関しての断簡・逸話」として載っている、とある。松岡が発見した『駿河記』は、桑原黙斎が駿河国全郡をくまなく踏査して、文政3年(1820)に『駿河雑志』や『駿河志料』に先立って完成された地誌だという。もっとも、大正10年に県所蔵の「葵文庫」の中にこの書のあることが発見され、刊行されたのが昭和74月であったというから、松岡がこの書を発見した後、永く県庁に死蔵されたままになっていたのである。

 

松岡の静岡での主な足跡で確認できるのは以上であるが、これ以外に『牧之原残照』に載る牧之原開拓史の「略年表」明治34月の条に、「藩水利方松岡萬は、川根山内へ通船を命じ、向谷に通船役所を設置」とあるが、詳細は未確認である。この「略年表」によれば、この年4月に新政府により大井川等の川越制度が廃止され、翌月には静岡県に対して大井川・安部川は渡船か架橋にするよう通達がでたという。先の安倍川への架橋の話もこのためだったのだろう。通船役所が置かれた「向谷」とは、現在の島田市向谷である。

 

なお、『浅羽町史』通史編に「松岡運九郎子供墓」と万福寺所蔵()の「過去帳」の写真が掲載されている。それによると、運九郎の子(幻夢童子)は明治464日に亡くなっている。松岡の傷心はいかばかりだったろうか。その運九郎の愛児が夭折した同じ月の14日の勝海舟の日記に、「松岡万外附属三人、金谷宿困究()、歎願の事談ず」と記されている。金谷原(牧之原)に入植した同志たちのことともとれるが、「金谷宿」とあるから、前年廃止された大井川の川越人足の生計対策に関する相談だったのではないだろうか。ちなみに、この2ヵ月後、金谷川越人足33戸が開墾のため牧之原に入植している。

 

勝海舟の日記に関連して、参考までに明治4年中の松岡と養子運九郎に関する記事を抽出しておこう。『海舟日記』に見える松岡の名はごく僅かで、この明治4年のみが突出してその名が確認できる。24日「立田政吉郎、松岡萬、山本恭斉」。314日「松岡萬、確堂幷びに弟」。414日「(既記)」。518日「塚本恒輔、松岡萬、同運九郎、田中」。521日「松岡萬、下村同道、掘割の事話す」。71日「松岡萬」。82日「関口鉄三郎、松岡萬、同人方へ行く」。89日「片山雄八郎、松岡運九郎、疋田強蔵」。また、「密員某派出中日誌之抜萃」(静岡県史』資料編)中のこの年(月日不明)に関して、「山岡、松岡、中條外六七名、卒然村上俊五郎宅ニ」至って、暴行無頼言語に絶する俊五郎の説諭にあたったことは「村上俊五郎について」で詳述した。

 

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明治5年、この年松岡萬は静岡県職員を辞職して東京府の職員となっている。小倉鉄樹の『おれの師匠』に、「(松岡は)明治五年九月十八日八等出仕被仰付、水利官として出仕した」と記されている。勝海舟の日記の同月16日の条に、「松岡萬、中島理八、越中へ赴き候旨、暇乞」とある。「越中」とあるので、現在の富山県へ赴くようにも取れるが、大久保一翁が旧幕時代に越中守を名乗っていたので、これは当時東京府知事となっていた大久保一翁のことで、東京府を意味していると思われる。大久保はこの年5月に東京府知事に就任していたのである。おそらく大久保は、静岡での松岡の水利路程掛等の実績とその人物を高く評価して、難題の山積する東京府政の円滑な推進のために招聘したのだろう。牧之原の開拓に苦心惨憺する同志たちを残して静岡を去ることは、松岡にとっては苦渋の選択だったのかも知れない。

 

松岡が東京府へ出仕した翌月15日の依田学海(百川)の日記(『学海日録』)に、「雨、会議所に至る。東京八等出仕松岡万、大属川上某に会す。三井、小野等の主管をはじめ、東京の豪商等皆あつまれり。窮民救済のこと、東京巡羅卒等のことを論ず。福沢諭吉も来会云々」と記されている。これにより、松岡の東京府職員の等級は8等級であったことが明らかである。明治47月制定の「太政官制Ⅲ」によると、等級は1(太政大臣・月給800)から15(12)まであり、さらに「等外」として1等から4(月給6)まであって、松岡の8等級は月給70円であった。ちなみに、この年1月の新政府の行った大赦以後、旧幕臣たちが続々と政府に出仕しているが、榎本武揚4等、大鳥圭介・松平太郎・荒井郁之助は5等、矢田堀鴻は6等、沼間守一は7等での出仕であった。松岡の8等級は、現代の組織では主任クラスであるという。

 

この日記の主の依田学海は旧幕時代は下総佐倉藩の漢学者で、幕末に江戸留守居役を勤め、この年10月に東京会議所の書記官に就任していた。日記に「会議所」とあるのは東京会議所のことで、『東京市史稿市街編』第52の同年1028日の条に、「東京営繕所会議所ヲ会議所ト改ム。治水修路事務ハ、府ニ管ス」として、関係する示達文が記されている。この治水修路事務移管の経緯については、長い引用になるが同好史談会編『史話明治初年』に次のような記事が載っている。

 

「明治五年五月頃、政府は日本橋坂本町に東京営繕会議所を新設して市内の道路や水道の営繕を管理する機関とした。ところがその営繕の財源は、安永年間に松平定信が江戸の町費を節約して、四年間に金四万円を貯蓄し、(中略)その十分の七を町会所に積み立て救貧の資と、さらに官金一万円を加えてその増殖を計った。(中略)この金は明治初年には正金六十万円、不動産四十万円、合計百万円に達した。この積立金は市民の共有財産で政府の管理すべきものではないので、時の大蔵大輔井上馨氏の発案で、この積立金を財源として東京営繕会議所を設立し、三井八郎衛門、小野善右衛門氏らの富豪を頭取として、別に二十名の会議員を指名した」。

 

福沢諭吉もその東京会議所の議員の1人だったのである。余談だが、先の『学海日録』の同年1014日条に「諭吉英学に通じ、識見衆に抜けり。されども学生習気うせず、論大にして疎なり。おそらくは実用の才にあらざるべし」と、依田の諭吉評が記されている。『史話明治初年』には、東京営繕会議所から東京会議所への変更の経緯が更に続く。

 

「私の父西村勝三もまたその会議員に指名された一人であった。しかるに父は会議所で古書を調査中に、この七分金(100万円)は前記のごとくむしろ貧民救済の用に備えるのが主で、他の方面に使用すべきでないことを発見し、これを道路、橋梁等の営繕用に全部使消し終わったら、今後貧民救育上に非常な故障を生ずるから、ぜひとも相当の救育基金を残しておかねばならないと宣しく主張した云々」

 

この西村勝三らの主張の結果、創設間もない東京営繕会議所はその事業の一部(営繕事業)東京府に移管し、その名も東京会議所としたのである。松岡が東京府職員となった4日後の923日の『学海日録』に、「西村勝三、岡田平蔵等議すらく、営繕の事は大なりといえども未だ都下一般の事に至らず。営繕の二字をやめて市民会議と名づくべきもの也と。因て余をやとひてその草を作らしむ」とある。松岡が府職員となった当時、松岡の職務となる営繕の事業が会議所内で喧々諤々たる議論の最中だったのである。あるいは、大久保一翁が営繕事業が府の事業となることを見越して、松岡を招聘したのかも知れない。

(6)に続きます。

19の(4)神に祀られた旧幕士松岡萬 (明治元年9月~明治3年)

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松岡萬の養子である運九郎の名の出た機会に、松岡の妻や子についてふれておきたい。松岡が妻を娶った経緯については、北村柳下の「松岡萬のことども」(『伝記』)に次のような逸話が記されている。なお、その時期やこの事実の典拠は明らかにされていない。

 

「萬は有名な女嫌いであった。妻帯を勧めるものがあっても毫も肯ぜなかった。門弟達は川辺の現今金光教会のある前の小店に子守娘のいるのを見出した。非常な美人でしかも悧巧そうである。そこで親達の名やところをきいて松岡方へあげたらばと親達を説き勧めた。はじめ親達も辞退したが、余りに望まれるので、それでは当分小間使として御邸へあげようということとなった。或る夜の事である。萬は明晃々たる大刀を提げて突立ち、これをば拭へ、紙を持って来いと命じた。小間使は少しも驚かず、騒がず、顔色自若、しとやかに両の袂で刀身を押へて血糊を拭い取った。それから萬も心動き遂に妻と定めたとのことである」

 

この妻の名は「しげ」と言ったという。川本武史著『生祠と崇められた松岡万』によると、この人は大石という家の出で、3人姉妹の次女であった。松岡はこの妻との間に3人の子を儲けたが、いずれも早逝してしまったらしい。そのため運九郎を養子に迎えたものの、どうした訳か後になって廃嫡し、妻の実家大石家の「けい」を養女として、松岡の書生赤木九一郎を婿入りさせたという。なお、松岡の同胞については、先に丙九郎という弟がいたらしいことを明らかにしたが、『生祠と崇められた松岡万』によれば松岡には「静子」という妹がいたという。静子は兄の萬から常日頃「静岡の人々の役に立つような職業につけ」と教導され、静岡女子師範を卒業後は生涯幼児教育の道を歩んだという。

 

話をもとに戻そう。慶応4年2月24日以来東叡山で蟄居謹慎していた徳川慶喜は、新政府軍が江戸城へ入った4月11日、東叡山を出て水戸の弘道館へ移ることとなり、精鋭隊と遊撃隊も護衛のため、これに従った。『徳川慶喜公伝』に、「精鋭隊頭中條金之助・大草滝次郎、遊撃隊頭高橋伊勢守(原注・精一、泥舟と号す)駒井馬等、隊士(原注・両隊百人許)を率いて、彰義隊と共に護衛せり」とある。松岡が慶喜に従って水戸に赴いたのか、残りの隊士たちの統率に当っていたのかは定かでない。

 

慶喜が東叡山を去って1カ月後の5月15日、新政府軍と彰義隊との戦争が勃発した。この時、精鋭隊士たち中にもこの戦争に参加した者があっのだろう。そのためかどうかは不明だが、後に駿府に移住した精鋭隊士の人数は半減していた。

 

新政府軍の彰義隊討伐が終わった9日後の同月24日、徳川(田安)亀之助(家達)に対して、駿河国一円と近江・陸奥両国の内において70万石(9月になり陸奥三河に変更)が下賜されることが示達された。駿府府中藩主徳川家達(6歳)は8月9日に江戸を発ち、陸路同月15日駿府に入った。総督府の許しを得た徳川慶喜は、その前月19日水戸を出立し、海路駿河の清水港に上陸し、同月23日駿府の宝台院に入っていた。『徳川慶喜公伝』には、銚子の波崎から蟠龍丸に乗船して清水港に着いた慶喜を「目付中台信太郎港に出迎へ、精鋭隊の松岡万、隊士五十人ばかり率いて宝台院まで警衛しまいらせたり」、と記されている。

 

この『徳川慶喜公伝』の記述では、松岡が水戸から慶喜随行したのか、或は中台と共に清水港に出迎えて、その後宝台院までの道を護衛したのかが判然としない。しかし、当時まだ精鋭隊は駿府城下に入っていないことや、『徳川慶喜公伝』には「中台、松岡が港に出迎え云々」とは記されていないことから、松岡は水戸から慶喜警衛して来たものと推測される。とすれば、松岡は江戸から慶喜に従っていたか、或はその後に遅れて水戸に入っていたのかも知れない。

 

話は再び主題から離れるが、清水港で有名な侠客清水次郎長と松岡萬に関する逸話についてふれておきたい。『東海遊侠伝・一名次郎長物語』を基本とした記された曾田範治著『東海の大侠次郎長』に、次のような一節がある。

 

「徳川氏の宗家を家達が継ぎ、静岡藩が設けられ、山岡鉄太郎もその藩政を助け、松岡万もこれに従って藩吏となっていた。この男、大の熱血漢で、嘗ては山岡を殺さんとしたこともあったが、山岡の人格の高潔なるに感じ、大の山岡崇拝党となった。この松岡万が、次郎長の傲強を聞き、その属山本田中の二氏を率いて、次郎長の府庁で会見した。四人楼上にありて談合した。次郎長の子分らは、親分が或は逮捕されるのではないかと心配し、皆刀を執ってその様子を窺っていた。その中、松岡は次郎長を導いて山岡公に謁見せしめた。山岡公次郎長の侠客骨を愛し、云々」

 

松岡と次郎長の会見内容について、田口英爾著『清水次郎長明治維新』では、新政府軍に協力した元赤心隊神主の暗殺事件に関してであろうと推測している。これは、明治元年12月に起きた2つの事件で、18日に三保村三保神社神主の太田健太郎が暗殺され、22日には草薙村草薙明神神主の養子森斎宮が襲われて重傷を負っていた。その犯人は久能村に屯する複数の新番組の関係者だとされ、根拠は示されていないが、同著では犯人は「松岡萬の率いる新番組士であることはほぼ間違いない」、としている。

 

なお、『東海遊侠伝』では松岡萬が山岡鉄太郎に次郎長を紹介したとあるが、山岡と次郎長の邂逅については異説がある。その一つは、明治元年9月18日の咸臨丸事件である。新政府軍兵士に殺され、海に漂う複数の咸臨丸乗組員の遺体を埋葬した次郎長の義侠の話は有名だが、当時事件の収拾に当たっていた山岡鉄太郎と次郎長の交流はこの時から始まったとする。高橋敏著『清水次郎長』では、「鉄舟が次郎長に頼んで旧幕臣を葬ったとも考えられないことはない」としている。ちなみに、清水市清水築地町にある清見寺の咸臨丸乗組員7人の墓碑「壮士墓」は、松岡萬が山岡に揮毫を依頼して建てられたものだという(今川徳三著『考証幕末侠客伝』)。

 

山岡鉄太郎と次郎長の出会いに関しては、もう一つの説がある。それは山岡鉄太郎が慶応4年3月、前将軍徳川慶喜の救解のために駿府の大総督府へ赴く際、途中山岡を案内したのが次郎長であったとするものである(『歴史と人物』収載の江崎惇「『次郎長伝』の虚構と山岡鉄舟」等)。筆者が知る山岡と次郎長の邂逅に関する説は以上である。なお、『東海遊侠伝』は、一時期次郎長の養子だった天田愚庵(天田五郎・元二本松藩士の子)が、当時賭博犯として獄中にあった次郎長の救解のため、山岡鉄太郎の協力を得て上梓したものだという。その出版の目的から、内容に潤色のあることは間違いないだろう。しかし、上梓に際しては山岡もその内容に目を通していたいただろうことを考えると、松岡と次郎長の楼上での会見の話もあながち無視することはできないのかも知れない。

 

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松岡萬は徳川慶喜を清水港から宝台院まで護衛した後、そのまま慶喜の警護に当っていたのだろうか。『静岡県史』資料編によると、精鋭隊100人が藩主亀之助と同日の8月19日に駿府に入っている。また、その7日後の同月26日に残りの精鋭隊士100人が到着している。松岡の率いる50人を併せれば総勢250人となるので、その後に牧之原開墾に入植した精鋭隊士(金谷開墾方)約250人(推計)と一致する。松岡は駿府入りの後は、そのまま慶喜の身辺警護に従事していたのだろう。駿府に入った精鋭隊士一行は、安立寺と感応寺を頓営とした(三枝康高著『静岡藩始末』)。

 

なお、勝海舟の「解難録」(『勝海舟全集』第11巻)の中にある、明治11年勝海舟が金谷開墾方の人たちに宛てた書のことは「村上俊五郎について」で詳記した。そこには、「慶応四年、官軍、我が江戸に逼る。ついに城地を致して去る。この時、君等(「海舟座談」に「大草、中條ほか3人の隊長」)予に告げて日く」とあるから、この話は精鋭隊の駿府入りに際してのことだったと思われる。この時中條や大草たち(松岡が同席したかは不明)は、海舟に対して、「(前略)我輩、同志五百名、(中略)今日に到りて故国を去る。その心中、いうに忍びざるものあり。同志中、その純を選抜し、一百名、従容義に就き、西城に入り、屠腹一死を以て、主家百年の恩に報ぜん」、とその許可を得ようとしたのである。この時、勝海舟は「今天下新たに定まり、人心の不測知るべからず。この時にして空死す。何んの益あらん」「一朝不測の変あらば、死をもって時に報ぜば如何」、と説諭したのであった。しかし、その後精鋭隊士がこの時切望した不測の事態が生ずることはなかったのである。

 

明治と改元(慶応4年9月8日)された月の29日、精鋭隊が新番組と改称された。これは250人余の精鋭隊士を駿府市中に置くことは、新政府に対して憚りがあると考えた藩庁が、幕府職制の払拭の一環として行ったもので、これ以後新番組隊士たちは東照宮のある久能村に住居することとなった。なお『静岡県史』通史編によれば、その職務は、御殿向、御内勤、久能山取締であっとあるから、一部の新番組隊士は引き続き市中に留まっていたものらしい。

 

明治2年1月新刻「駿府藩官員録」に、新番組の頭並として松岡萬と大草多起次郎の名が見える。新番組頭は引き続き中條金之助であることに変わりはない。同志の山岡鉄太郎は勝海舟と共に幹事役、高橋謙三郎は御用人、関口艮輔は前島来輔等と共に公用人として名がある。なお、『明治維新人名辞典』に、「(松岡は)最初庵原郡小島の小島奉行添役として民生に当ったがのち水利路程掛に登用され云々」と記されている。同様の事実は『幕末維新大人名事典』にもあり、また『岡部町誌』(静岡県藤枝市)、『生祠と崇められた松岡万』、塚本昭一著『牧之原残照』等にも、同様のことが記されている。

 

静岡県史』通史編に小島奉行に関連して、「明治2年1月(13日)、駿府藩は全支配領域を11区分し、各地に奉行所を設け、行政および勤番組(旧幕臣の無禄移住者)の管理をともに行おうとする。各奉行の役金は600両、添奉行(目付の上席)の役金は450両と定められた」とある。同著にれば、小島奉行は勤番組之頭林又三郎、添奉行は幹事役附属水沢主水であって、添奉行として松岡萬の名は記されていない。なお、この奉行制度は同じ年の8月26日には廃止されている。これらのことから、松岡が小島奉行添役(添奉行)に就任したという事実はなかったのでないかと思われる。その松岡は、奉行所が設置された翌月には水利路程掛に任ぜられている。『静岡県史』資料編に、2月5日付けで松岡萬等水利路程掛6名の連名で示達(「四大河川見分に付水利路程掛達」)した、次のような文書が載っている。

 

「拙者共儀、今般水利路程掛り被命候ニ付、明六日当地出立、富士川、安べ川、大井川、天龍川通、当春御普請見分目論見トして罷越候付、場所之詰合之地方役えも談判いたし候義も可有之、且村々ニおゐて諸事差支無之様兼テ御申置有之候様存候、依之此段及達候」とあり、「猶以富士川通りゟ追々見分いたし候儀有之候」と追記されている。

 

水利路程掛は、府中藩の明治2年の機構改革で設置された職制で、水利治水や街道管理、それに絡む農民間の紛争解決等にも当たったらしい。特に富士川や大井川等の4大河川の治水対策は、田租の増収と洪水に悩まされてきた農民の慰撫のためにも、藩にとっては喫緊の課題で、重要な職掌であったと思われる。この職に選任された者は松岡以外に、目付川上服二郎、運送方頭取佐々倉桐太郎と福岡久右衛門、陸軍方高山湧之助、赤松大三郎であった。なお、この当時山岡鉄太郎は大久保一翁と共に藩政補翼の重職に就いていた。

 

明治2年12月に松岡萬たちが藩庁に提出した「明治二年分駿遠二州治水費調書」(正式には「諸書付留」・『静岡県史』資料編)に、「(前略)合金八万七百三拾五両三分永拾文、右ハ駿遠州御管轄地四大川幷内郷小川堤除用水樋類其外御普請所、当一ヶ年分惣御入用金取調候処、書面之通御座候、尤当時仕立中之分且元各奉行所手限ニテ相伺御下知相済候分等有之候間、右増減之儀ハ云々」とある。この金額の大きさをみても、松岡たちの職責の重さが窺える。

 

なお、この調書を提出した水利路程掛の面々からは、高山湧之助と赤松大三郎の名が消えて、代わって根立芦水という人物の名が記されている。ちなみに、赤松大三郎は後に海軍中将となった赤松則良だと思われる。『赤松則良半生談』によると、大三郎は通称(幼名)で、明治元年11月に沼津兵学校の設立と共に陸軍一等教授方に就任し、翌年10月には頭取兼勤を命ぜられている。その赤松大三郎が、一時とはいえなぜ松岡と同役の水利路程掛に名があるのか不明である。

 

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この年の6月から7月にかけて版籍奉還が行われた。府中藩は新政府への配慮から、府中は不忠に通じるとして静岡藩と改称した。その翌月、新番組は藩庁から大井川の西岸に広がる金谷原(牧之原)に1425町歩(約1400ヘクタール)の荒蕪地を下賜され、この地の開墾に従事することとなった。これによって、隊名も新番組から金谷開墾方と改称されている。金谷開墾方が久能村から牧之原に移住を開始したのは7月26日のことで、その翌々月に作成され政府の密偵尾崎弾正小巡察の静岡藩政に関する探索書(『静岡県史』資料編)に、次のような記述がある。

 

「新番組二百廿人余、久能山・宝台院警衛致し居候処、今般王臣ニ相成、事を残懐ニ思日、帰農を願ひ出候処、勝安房等段々説得致し、遠州金谷之原を右之輩に開墾地ニ被下、七月下旬より家族引連移住仕候得共、未タ開墾ニ相成不申候、云々」

 

静岡藩始末』によると、この牧之原開墾の発端は『榛原郡史』に、松岡萬が大井川の治水に関する沿岸踏査の際に大地の開墾を思いつき進言した、とある。また、関口隆吉(艮輔)の提案だったともいい、開墾方頭並服部一徳の遺稿に、「明治二年藩籍奉還の議起る。人心悩たり。中條・大草氏見る所ありて、帰農の志あり、偶々(関口隆吉が)江戸より来て日く、遠州牧之原の南に金谷原あり洪荒以来民棄てて顧みず。公等之を開拓して何ぞ国家無窮の鴻益を計らざるやと。二氏大いに喜び、山岡氏と議し、遂に墾発力食の意を陳ず。勝安房および大久保一翁公等大いに参画し、是挙ありと謂う」(『牧之原残照』収載)とある。

 

牧之原開墾は松岡と関口両者の発案だったのかも知れない。なお、開墾事業には水利は重要で、松岡が水利路程掛と金谷開墾方を兼任していたのも、開墾事業を円滑に進めるためだったのではないかと思われる。また、『牧之原残照』によれば、開墾方の入植直後のある日、牧之原に松岡がやってきて、「勝(海舟)さんが、畑作には茶がよいと言っている。話し合いたいから来てくれ」ということで、話し合いの結果茶の栽培をすることに決まったという(出典不明)。

 

金谷開墾方の組織は、明治3年3月末作成の「静岡藩職員録」を見ると、「開墾掛」の頭として「御剣術御相手、中條潜蔵(金之助)」、次いで頭並として「水路路程掛、製塩方頭兼、松岡萬」、と「御剣術御相手、大草太起次郎(多喜次郎)」の名がある。なお、先に示した『同方会誌』に載る「精鋭隊惣名前」の備考には、「山岡、松岡両先生は牧之原へ移住されず」とある。もっとも、当時の心事を詠んだ松岡の歌を見ると、当初は同志と運命を共にする覚悟だったのかも知れない。他の歌も含めて、この頃読んだと思われるものを次に掲げる。(『おれの師匠』収載)

 

身はたとへ金谷ヶ原に埋むともなとかいとはん武士の道

かねてより盟ひし友ともろともに金谷ヶ原に身をや果さん

憂きことも悲しきわざも盟ひてし友と同じく為すぞ楽しき

身のはてはいかなるとも武士の立てし心はかわらざりけり

身はたとへ餓えて死すとも武士の操はかへじ日本魂

水は谷薪は林汲み拾ひ賤が手業もともになしてん

 

松岡には誠実で繊細な一面もあり、決して武骨一方の人ではなかったことが窺える。このほか、水路路程掛の職務の傍ら詠んだのだろう、「大井川なる御堤の上に常夏の花うるわしく咲き出でたるを見て読める」として、「世の憂さを忘れよとてかやさしくも堤に咲けるなでしこの花」とか、「庭に雀のおどり居るを見てよめる」と詩書して、「庭もせに餌拾ふ雀なにわざぞわがうき心知らず□なる」と詠んでいる。松岡の「憂い」とは、先の「密員某派出日誌」の中で、松岡の塾生鈴木勇蔵と岩下幸房が政府の密偵(2人は密偵とは知らない)に対して、「我師松岡先生抔ハ(中略)曾テ聴ク、君辱カシメラルレハ臣死スト謂リ云々」、と発言していることに関係しているのではないだろうか。すなわち、旧主徳川慶喜が未だ宝台院に謹慎中である事実に対しての憂いだったのではないだろか。

 

なお、「牧之原開拓記念碑」には松岡萬の名が記されているが、金谷郷土史研究会編「牧之原開拓士族名簿」の中には松岡の名はない。前記のごとくこの名簿には、松岡の養子運九郎と従弟松岡貫七郎の名があり、いずれも「巳年七月廿五日新番組御廃止、金谷原開墾御用被命候」と記されている。

 

金谷開墾方の牧之原入植開始から2カ月後の9月28日、松岡の憂いの種であったと思われる徳川慶喜の謹慎が解かれて、宝台院から市内紺屋町に住居することとなった。このことを詠んだと思われる歌がある。この頃詠んだと思われる歌と合わせて次に掲げる。なお、前記の歌と同様この歌は『おれの師匠』からの引用である。

 

我が君のまごころここにあらわれて雲よりはるる臣が思ぞ

一筋に御つゝしみましし真心の御功こゝに立ちし嬉しさ

神代よりためしだになき世となりてあけくれ心安き間もなし

いと明き学びの道の力もてよしあしわけん我心かな

 

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明治2年12月23日、藩庁から松岡萬に対して「右(運送方)製塩方ト唱替候様可被致候事」との達しがあり、同時に藩の会計掛に対しても「右(運送方)松岡万ェ引渡候様可被致候、尤委細之儀ハ同人可被談候事」と示達された(何れも『静岡県史』資料編)。松岡はこの同日かその前日に製塩方の頭に任ぜられていたのだろう。松岡は開墾方と水利路程掛に製塩方頭まで兼務することになったのである。松岡に配属された運送方とは、榎本武揚たちが北地へ脱走の後、海軍局の残留組が駿河に移住して勘定所(勘定掛)付運送方として活動していたが、その運送方付属の元浅草米廩小揚約130人が松岡の下に配属されたのである。

 

この同じ12月23日、藩庁から勤番組(無禄移住者の藩士)の頭に対して、「右(飯野庄作、細谷八十郎、秋山平記)松岡万附属出役可被申渡、尤同人可被談候事」と示達されている(『静岡県史』資料編)。この3人は、「製塩方人名録」(『浅羽町史』資料編)に「出納掛筆生」として名が見える。なお、この人名録には、頭の松岡萬を筆頭に「取締」の松岡運九郎、小野駒(山岡鉄太郎弟)等5人のほか、26人の名がその職名と共に列記されている。この31人のうち11人は金谷開墾方の人たちであった(『牧之原残照』)。ちなみに、「牧之原開墾士族名簿」の松岡運九郎と小野駒の項に、「十二月廿五日製塩方取締被命、右御手当壱ヶ年金拾八両被下置候」と記されている。

 

製塩方の職制は「伐薪掛取締助」、「記録肝煎」、「製塩世話掛」、「器械掛」、「剣術世話掛」等多岐にわたっている。その中には「漁業方取締」や「漁業指揮掛」の職名もあり、これに関係して同月25日藩庁から榛原郡地頭村枝郷御前崎の名主哲造に対して、「右製塩方松岡万附属可被申渡候、尤其身一代苗字帯刀差免候云々」と達せられている。14人の漁民が移住させられて漁業に従事したという。

 

静岡県史』通史編によれば、製塩方の事業は、東は中新田村(浅羽町)の浜から西は太田川を境として大島地先までを漁塩所と定め、雁代村と大島村(ともに福田町)の地先に2町ほどの塩田を造り、これに縦横の堀を巡らし、太田川の河口から入って来る塩水を引き入れ、また下げ渡しを受けた三沢山の樹木を伐採して製塩の燃料としたという。製塩方の住居は、雁代村に隣接した湊村(袋井市)の松林中に14棟(1棟に6世帯)の瓦葺きの長屋を建て、その西側に酒、醤油、味噌などの日用品を商う商舎も建てられた。9月には長屋内に筆学所も設けられ、その翌月には鍛冶場が建立されて刃物の製造と販売を始め、希望者には製造技術を習得させたという。なお、13番長屋には新門辰五郎が居住して、運送方元浅草米廩小揚の人たちの統率に当ったという。辰五郎は徳川慶喜の東叡山入り以来、水戸にも付き添い、当時は駿府に在住していたのである。

 

『浅羽町史』資料編(静岡県磐田市)に、この製塩方に関する若干の資料が収載されている。それによると、製塩事業に関して地元農民との間に軋轢が生じていたのである。同年4月17日付けで、最寄り27ヶ村から中泉郡政役所に対して、製塩方の薪置き場のための築堤工事で広瀬川の川幅が狭まり、農業用水の廃出に支障が出る恐れがあるとして工事差し止めの歎願がなされている。その後両者の間で交渉があったらしく、「悪水吐方ニ御差障不相場所ノミ開発可致、若差障り之ケ所ハ可取払」ということで一応の決着が付いている。

 

これより以前の2月7日には、早くも幸浦役所(製塩方役所)から「村々是迄当持場沿海筋魚漁有之候節ハ貰ト唱男女共魚漁場所ヨリ出向ヨリ趣之処」、以後は魚漁の邪魔なので「相対貰い」以外は止めるようにとの通達が出されている。また、製塩方の仕事は製塩以外にも及んでいて、翌3月17日付けで、「村々堤通永世保方之タメ」に榛の木を植えたい希望者は申し出るよう示達している。

 

当時、松岡萬は湊村の名主太郎八方に寄宿していたというが、『牧之原残照』に載る「牧之原開拓史に関する略年表」のこの年4月の条に、「藩水利方松岡万は、川根山内へ通船を命じ、向谷に通船役所を設置」(典拠等不明)とあるので、製塩事業に専念していたわけではなく、併せて水利路程掛の職務にも従事していたのである。こうしたこともあってか、翌月12日付けで、藩庁から開墾方頭中條金之助と同並大草多起次郎に対して、「松岡萬取扱候製塩之場所、両人申合折々見廻候様可致候、尤萬江可談候」、と示達されている。

 

この製塩事業は松岡らの奮闘努力にもかかわらず、早くもこの年の末には中止となっている。その理由は定かではなく、遠州の空っ風による風害とも、多雨による水害がその原因であるなどと諸著にある。しかし、「郷里雑記」にこの地は「田地少クシテ戸口甚ダ多シ、塩ヲ焼キ捕魚シ水主梶取ヲ業トスルモノ多シ」(『日本歴史地名体系』22)とあるというし、『生祠と崇められた松岡万』にも、古文書(典拠の無記載)に「福田湊、塩浜、運上塩八石、横須賀主ヘ上ル」と記されているから、製塩事業中止の理由は他にもあったのではないかと思われる。

 

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製塩事業中止の後も、事業に携わった人たちの一部はこの地に留まっていたらしい。『浅羽町史』資料編中の明治4年9月付け「開墾掛り高幷漁業士共生育金取調以来開墾割方取極一札覚書」に、「身(漁業方)等拝領地之分ハ相持ニテ永々可進退極メ云々」とある。さらにこの漁業方一同(9名)と魚漁方頭下村哲造との間で明治9年2月に交わされた議定書には、「壱人ニ付凡金三拾円内外之金員ヲ以隣村ニテ母地御買入被成下云々」とか「第壱等ニ漁業専ニ、第二ニ各御任委被成下候田地大切ニ作立仕云々」とあって、この人たちはそのまま土着したのである。

 

また、明治4年7月の廃藩置県により、静岡県が分割されて浜松県が立県されると、旧製塩方は浜松県に引き継がれ、翌5年3月には浜松県から旧製塩方への扶持米納付に関する通達(『浅羽町史』資料編)が出ている。さらに同年7月の「旧製塩方処分方法の儀ニ付伺」(『明治初期静岡県史料』第1巻)によると、旧製塩方130人(他に家族195人)の内、127人には1人3人扶持(年凡そ5石4斗)が給されることになったらしい。元運送方の人たちは僅かな扶持米を貰ってこの地に留まっていたのである。なお、先の明治4年9月付けの覚書には、「金三百両也、右ハ塩新田前小野駒殿ヨリ買取地代金」とあるので、山岡鉄太郎の弟小野駒は早々にこの地を引き上げたらしい。

 

松岡萬の消息に関しては、勝海舟の日記の明治3年12月24日の条に「松岡萬養子運九郎、附属、高橋真吉、村越 堂、山岡鉄太郎、高橋弥吉、小林祐三、由利源十郎、御長座の事談済み」とある。また、その2日後の26日条には「一翁、松岡萬方へ行く」と記されている。「一翁」とは言うまでもなく当時山岡鉄太郎と共に静岡藩の藩政補翼(一翁は御家令兼務)の職にあった大久保一翁(忠寛)である。24日の山岡を交えての長談義と、その2日後の藩の重鎮大久保一翁が態々松岡の家を訪ねたことなどからすると、これらは製塩事業中止に関することだったのではないかと思われる。

 

話が前後するが、大久保一翁は製塩方の頭となって現地へ出立する松岡に対して、「丈夫のきそう網引の海幸にさちの浦々末栄ゆらし」、との餞別の歌を送っている。松岡はこの歌をもとに、湊村の浜を幸浦と名付けたといわれる。明治21年4月に湊村他3村が合併した際には幸浦村と命名されている(昭和30年福田町に合併まで)。余談ついでに、「村上俊五郎について」で既にふれた静岡市の「ふる里を語る会」発刊の「ふる里を語る」中に大久保一翁が松岡萬に宛てた書簡(北村柳下稿「駿府と松岡萬」中)のあることは紹介した。参考までに改めてここに全文を転載させていただく。

 

口章 略歴二十葉呈上候御一笑々々五葉一包は山岡先生御留守宅へ御序に御届け、外に弐百枚は中條先生へ御始御序に御廻可被下候              頓首

二白 遠州へ大参事殿不日可為相越由に付而者老婆心聊心配は村上氏には何様の賢者為来候而も村上氏の存通には不為行事と存候

兎角世の中はめいめいの思様に不成所に面白みも有之もの故只々応時自分可致当然之業計に能々安し外之事には口出手出不為致方却而皇国之御為と存候此段通置何分御頼申候

   十二月十日                    早々頓首

  万様親瞥                          一翁

 

※以下は19の(5)に続きます。



19の(3) 神に祀られた旧幕士松岡萬(元治元年~慶応4年8月)

 

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翌元治元年(1864)中の松岡萬に関して筆者の把握している資料は、水戸天狗党史料『波山始末』に記される一事だけである。そこには、「筑波勢の大平山を引揚ぐるに当り田中源()蔵は一隊を率ゐ最初旧幕人松岡萬(原注・百俵小普請組)同大草瀧三郎(多喜二郎)は応援すべしと約したるを以て大草の家に伝わりし朝鮮分捕の品なりとて陣太鼓一個甲冑一領を田中に贈りたり之を所持して上州桐生に在りたるが云々」と記されている。

 

水戸の郷校時擁館々長田中愿蔵は、筑波挙兵に参加したものの、後に一隊を率いて離脱し、各地で幕兵等と戦ったが、その軍費調達は暴虐を極め、特に栃木宿を灰燼に帰して悪名を轟かせた人である。「水戸藩党争始末」(『史籍雑纂』第四収載)には、「蓋し筑波軍の展望を失いしもの、田中の罪多々居ると云ふ」とある。この田中愿蔵は原市之進に師事した後、江戸で安井息軒に学んだというから、松岡や大草とはその頃親交を深めたのかも知れない。

 

なお、この水戸天狗党筑波山挙兵に参加した人物の中に、松岡と懇意な人がもう一人確認できる。それは平尾桃岩斎(諸書に桃巌斎とあるが自署には桃岩斎とある)という人物である。もっともそれを証する資料も、蒲生重章の「松岡萬傳」の中の次の一節のみである。

 

「処士桃巌斎は嘗て稠人中に於て、世を憤って云う、吁天下に人無しと。萬、傍らに在り、目を嗔らせ叱して日う。汝、何ぞ妄言を吐くか、萬此に在りと。廼ち其項を朴んで之を仆す。巌斎謝して日く、君ここに在り、某過てり、当路に人無しと謂へるのみ、幸いに怒らせよと。巌斎も亦慷慨の士なり。歳の甲子、筑波之義挙に與かり、戦い敗れて獄に下って死せり」

 

これは松岡萬の自負心の強さを語る逸話だが、桃岩斎は筑波挙兵に参加当時は50代半ばで、当時としては高齢の人であった。国難に殉じた知られざる志士の1人であり、今後研究される方の一助として、筆者の手元にある僅かな資料を記しておくこととする。その出生地(?)等については、『横浜市史』資料編5に収載の「鎌倉ニ於テ英国士官遭害一件」の中に次のような記事がある。なお、書中「間宮一」とは、元治元年1022日相州鎌倉八幡宮境内で英国士官2人を殺傷したとして清水清次が処刑された後に、自ら真犯人だと名乗り出て斬刑となった人物である。綿谷雪編『幕末明治実歴談』にも、同じ話が載っている。

 

(間宮一は)兼々文武を好み士官之望有之候間還俗致し去々亥十一月中相州鎌倉郡上野村浪人医師平尾桃巌斎養子相成平尾又は杉本右近と名乗其後養父桃巌斎倶当地へ出府致し剣道修行罷在候処同人儀者何方へ罷越候哉行衛不相知候に付無致方去子年七月中一旦実家へ立戻掛居候処云々」

 

これによれば桃岩斎は、相州鎌倉郡上野村で医師をしていたのである。なお、桃岩斎は国学を学び、剣術や弓術も嗜んでいて、村では寺子屋「耕堂学舎」を開いていたともいう。間宮は文久311月に桃岩斎の養子となり、その後養父と共に江戸に出たというのだろうか。とすれば、松岡との交際も僅かだったと思われるが、元治元年11月に桃岩斎が老中水野和泉守に差し出した自訴状写(「筑波戦争記」・『野史台維新史料叢書』29)に、「拙者事二十ヶ年ノ間諸国経回仕候云々」とあるので、これ以前に江戸に滞在していた時期があったのだろう。桃岩斎が養子の間宮を置いて江戸を去ったのは、筑波挙兵に参加するためであったと思われる。

 

これは以前にも何かに引用しているが、「水戸浪士動向等看聞録」(群馬県太田市史』資料編)518日の条に、「江戸表ゟ宇都宮左衛門ヲ尋参候平尾東巌斎五十五六位、熊谷四郎三十五六位八木宿へ行、栗田源左衛門殿義酒肴差出し、夕刻右両人宿駕籠ニ而八木へ行」とある。この日桃岩斎は筑波義軍に参加したのである。『波山始末』に「平尾信種桃岩斎と号す。田丸直允に属して筑波山に在り、輜重方を分担す云々」とあり、「常野集」(茨城県史料』幕末編Ⅲ)813日条には、「小川館、書記、平尾桃岩斎」と記されている。

 

『波山始末』に「(桃岩斎は)後去て自ら潜み偽りて歌客と称し武蔵逆井関を度る既にして陰かに江戸に入り老中水野和泉守の邸に詣義挙の顛末と方今の急務とを上書し遂に縛に就き12月に至り獄中に死すと云う」とある。その桃岩斎の上書(『筑波戦争記』)中に、「五月中旬江戸ヲ忍ヒ上毛野州出行彼浪士静謐セシメント存、横浜攘夷ノ歎願ノ為江戸ェ発向ノ趣意ヲ申談候得共何分多人数集会ノ事故議論区々ニテ最早筑波山籠居トイフ事ニ一定仕、其後神州同志討ノ不可ナル事ヲ諫シカトモ拙者ノ愚策一トシテ用ラレス剰嫌疑ニ値テ刺殺サレシタル事度度ノ事故虎口ヲ脱シ云々」と記されている。「平尾桃岩斎信種先生墓」と刻まれた墓石が小塚原回向院に建てられているという。この上書文は先に、山岡と松岡が幕府当局者に提出した書面と似かよった弁明理由であることは前述した。

 

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慶応元年(1865)から明治維新に至る3年間の松岡萬に関する資料も、管見にしてごく僅かである。慶応元年に関しては、松浦武四郎の日記(松浦武四郎全集』上巻)61日の条に、「関口良助、松岡蕃、来訪する」とあるのを認めるだけである。これは明らかに関口艮助と松岡萬のことだろう。松浦武四郎は、蝦夷地の探検家として当時天下に遍く知られた人で、北方領土へのロシアの侵攻を危惧する憂国の士にして、この人を知らない人はなかったろう。松岡や関口も、蝦夷地の情勢を聞くため、この日松浦武四郎を訪ねたのではないかと思われる。ちなみに、武四郎は北海道の道名の立案者としても知られている。

 

翌慶応2年は、この春、久保田藩士桂禮助が「松岡萬傳」(木崎好尚筆)を写して松岡に示し、これを見た松岡が痛く感激したこという逸話は前述した。また、この年12月に鷹匠制度が廃止されたが、松岡はそれ以前から講武所に出役になっていたらしいことも既に記した(東京市史外編・講武所)。ちなみに、小説家子母澤寛の『よろず覚え帖』には、鷹匠制度が廃止された際に「鷹匠たちはそれぞれお役替えになり、小日向三ノ橋に住んで組頭だった松岡も一度御祐筆になり、一刀流の剣術遣いであったから講武所編入された」とある。典拠も不明で、『講武所』の記述とも矛盾している。また、組頭とある根拠も不明である。

 

慶応3814日の原市之進の暗殺事件に関しても先にふれているが、この事件に関しては『伍軒先生遭難始末』に、事件から5日後の819日、中條金之助方に御徒士目付井上彦八郎(水戸の奸党と懇意)が来訪し、今回の暗殺一件をいたく喜び、下手人の3人のほかに同志40名ほどおり、中には山岡鉄太郎、松岡萬、大草瀧次郎、関口艮輔、榊原采女も含まれていた、と言ったとあるという。原本は未確認である。

 

原市之進が暗殺された2カ月後の1014日、将軍徳川慶喜は政権を奉還し、徳川幕府はここに260余年の歴史の幕を閉じた。その4日後の同月18日、伝通院内処静院の住職細谷琳瑞が暗殺されるという事件が発生した。この事件について蒲生絅亭の「松岡萬傳」に、「田村翆巌日」として「萬弟某亦慷慨士、嘗憤傳通院某和尚姦謀乗暗殺に斬殺之、己亦負重傷死、其持論忠孝亦以乃兄、叶、兄弟倶足振起衰世士気矣」、と記されている。これによれば、琳瑞の暗殺犯人の1人は松岡の弟だったのである。この事件については高橋謙三郎の『泥舟遺稿』に、次のような具体的な顛末が記されている。

 

「彼(琳瑞)が慶応三年丁卯十月十八日、態々私の宅を訪問されて、熱心に国事を談じて、将に帰らんとするに当たって、私は篤く其厚意を謝し、特に門人斎藤貢なる者に命じて、処静院()へ見送らせました。帰途和尚が三百坂(小石川に在り)にかゝると、突然刺客松岡丙九郎、広井求馬の為に暗殺され、可憐悲惨の最期を遂げられました、(原注・時に年三十八)其処で斎藤貢憤然として、直に刀抜いて二人に迫り、終に彼等を斫斃して、其讐を報ひ、其足を以て血刀を提げながら、私に急報してきました、云々」

 

ここには、松岡丙九郎が萬の弟であるとは一切記されていないが、田村翆巌の話に間違いなければ、その弟は丙九郎といったのである。琳瑞和尚は松岡も接触のあった人だろうから、この事件に関しては松岡の心事も複雑だったろう。高橋謙三郎は『泥舟遺稿』の中で、多くの稿を割いて琳瑞和尚について記している。その中で謙三郎は、「彼は正しく私の師匠でござります」として、「琳瑞和尚は中々の非凡にして、学問の如きも、当時の人には希有なもので、克く内外に通じ、宗門に於ては、持律正厳、俗僧の真似だも出来ない人でござんした、加ふるに勤王憂国の俊傑で、真に惜しむ可き人でしたよ」と語っている。細谷琳瑞については、東條卯作刊『東條一堂傳』にも、東門逸材群像としてその伝が記されている。清河八郎とも昵懇で、清河が暗殺された際に、山岡からその首の埋葬を托された人でもあるという。

 

なお、この琳瑞暗殺事件については、『丁卯雑拾録』に『泥舟遺稿』とはやや異なる事実が記されている。これは西光院の尼僧が伝通院で聞いた話を書簡で伝えたもので、そこには琳瑞の暗殺と殺害犯の2人が殺害される様子も記されているが、その原因となったらしい事実だけを以下に転載する

 

(前略)十月下旬小石川傳通院学頭清浄院と申老僧近辺之屋敷剣士(原注・幕士)は年来之知己なれハ仏事ニ付招請被致供養後説法等いたし、夜ニ入饗応の席にて(中略)夫ゟ夷人之話と成しニ門人の中両人許西洋家之者同席し、暫可否を争論せしが院主ㇵ博学老練の人故終ニ両人之侍ハ閉口し甚不興之体にて帰りぬ、彼是なすうち九ツの鐘を報す」、夜の遅くなったことに気付いて帰ろうとする琳瑞を、剣士某が近頃は甚だ物騒なので泊っていくよう勧めたが、琳瑞は明早朝用事があるのでと強いて帰宅することになり、その帰途2人に襲われたという。「西洋家」とあるのは誤りと思われるが、これによれば松岡丙九郎は高橋謙三郎の槍術の門人だったのである。

 

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翌慶応4年正月早々の鳥羽伏見での徳川勢の敗戦は、松岡にとっても青天の霹靂の出来事だったことだろう。松岡は正月12日主君慶喜が大阪から江戸に逃げ帰ったことをその日に知ったらしい。塚原渋柿園の「五十年前」(『幕末の江戸風俗』収載)に、次のような事実が記されている。なお、渋柿園の父は講武所槍術世話心得取締の職にあった人で、渋柿園は嘉永(1848)年生まれの当時21歳の青年であった。

 

「十二日の夜であった。私はその頃大久保の十騎組(原注・今の富久町)の内藤という人に英学の句読を授かって、その夜もそこで稽古を終って、恰ど宵の戌刻過ごろ、谷町から念仏坂、三軒屋という所まで来ると、薄月夜に手丸(原注・提灯)を点けて、『直さんか?』と慌てた声で呼留めた人がある(原注・私はその頃直次郎と称った)。『誰 ?』と見ると、それは松岡万(原注・前略。私の父の旧同僚内海氏の甥。この人は平山行蔵子の風を慕って奇行に富んだ人)という人、声も容子も非常に何か迫立っている。如何したのかと訊くと、『いや実に大変です。京都は大戦争。敵は薩長で、御味方大敗走! (原注・慶喜)にも昨夜蒸気船で御帰城です。内海の伯父なども討死したかどうか知れません(原注・内海氏は当時京都の見廻組)。私は今其事を知らせて来ました。貴方も最う御覚悟なさい!』と真に血眼でいる。聞かされた私も、実に仰天した。何が何やら夢のように、身ばから戦慄えた。『貴方はどう為さる?』『私はこれから隊中を集めて御沙汰次第に出張します!』と云って、一寸黙って、『これから高橋勢州の家へ行く』と云ったかのように記憶ているが、そのままで氏は駆ける如くに去って了った」

 

松岡も上方での幕軍の敗報と将軍慶喜の突然の帰還に、驚天動地の心境ったのだろう。松岡が「これから隊中を集めて云々」と言ったことが事実なら、当時山岡ら同志たちと一隊を編成して危急の事態に備えていたのかも知れない。精鋭隊の正式な発足は暫く後のことになるが、前年暮の薩邸焼打ち事件等を考えれば、それは十分ありえることと思われる。

 

話は変わるが、慶応4年春の幕府の瓦解以後、山岡や松岡の言動から突然「攘夷」の二字が消えたように思われる。正月15日に新政府が反幕諸藩の攘夷の方針を一転し、外国との和親を国内に布告したことに、松岡たちが反発した様子も窺えない。明治維新以前の攘夷への挺身は何だったのか。当時の松岡たちの心事を窺わせるものが、前島密の『鴻爪痕』の中にある「自叙伝」と「逸事録」にある逸話である。そこには概略次のような事実が記されている。

 

前将軍の徳川慶喜が、大阪から逃げ帰って江戸城に入った慶応4112日以後、江戸城内は徹底抗戦か絶対恭順かの大評定が連日白熱していた。そうした中、「開成所(蕃書調所の後身で東京大学の前身)集議院を開き大いに論議すべしと云ふ議が、神田孝平(開成所教授職並)加藤弘之(同前)、津田仙等の間に起り、自分(前島密)も其の交渉を受けたが」、これを断った旨を病床の関口隆吉に話した。すると関口は、「内心衆議若し恭順に反する説に決しでもすれば大変である」として、病を冒して着衣の下に白衣をまとい(決死の覚悟で)開成所へ駆け付けた。この日、前島密と共に関口隆吉に同道して開成所に乗り込んだ中の1人が松岡萬であった。「自叙傳」に次のようにある。

 

「此日開成所に於ける紹介者は余(前島)にして、関口に同伴せる者は精鋭隊員なる松岡萬等数名の決死者なれば、同所の教職員は彼等に接待するを欲せず、且本会は停止せられて、一老臣の出席するもの無ければ、余等は空しく退散するの已むなきに至れり」

 

関口や松岡が開成所を訪れたのは、会議が行われた翌日のことだったらしい。佐倉藩士依田学海の日記(『学海日録』)114日の条に、「雪。開成所より、国家存亡の秋、尽力せんとするものは速やかに、来会し尽力すべしと。余即、之におもむく。攻守の二議を発す云々」とあり、翌15日の条には、「開成所教授方より使来りて、弥紀州藩之公論に従ひ、出戦の議決して之を朝に講ふべし云々」とある。関口や松岡は、この115日に開成所に赴いたらしい。

 

慶喜公御実紀」(『続徳川実紀)112日条(慶喜帰城の日)に、「此後之動静ニ寄。速ニ御上坂被遊候思召候。右之趣、向々江早々可被触候」とあり、この時慶喜は再戦の意志を内外に明らかにしていたのである。もっとも、「此後之動静ニ寄」とあるから、狡知な慶喜は予め家臣たちへの逃げ口上も示していたのかも知れない。

 

なお、石井孝著『明治維新の国際的環境』によれば、慶喜1192629日と仏国公使ロッシュと会見しているが、26日には自分は退隠して後継の紀州藩徳川茂承の後見となること、そして、天皇に対して戦争をするのは、ただ祖先伝来の領地を防衛のためだけであると告げたという。また、29日の会見でも、内乱の災禍を避けるために個人的犠牲は惜しまないが忍耐には限度がある、と述べたとある。1月末時点では、慶喜にはまだ戦う意志があったらしい。

 

25日になって、慶喜福井藩主徳川慶永に対して「近日之事端奉驚宸襟候次第に立至り深奉恐入候に付、謹慎罷在、伏而奉仰朝裁候」という嘆願書を送って奏聞を依頼し、恭順の態度を明らかにした。これは、新政府による東征が決定し、ロッシュによる仲介工作も望みがなくなったためだという。なお、先の行動から、松岡や関口にとって尊王と主君慶喜への忠誠こそが至上命題であり、これまでの攘夷の主張もその結果であったことが推定される。

 

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慶喜は慶応4212日に江戸城を出て、上野東叡山寛永寺大慈院に入って蟄居謹慎すると共に、寛永寺座主の輪王寺宮公現親王による朝廷への救解の訴願に期待を寄せた。この前日には若年寄大久保一翁を使者として、輪王寺宮に謁して助命嘆願を懇請させ、慶喜自身も大慈院に入った日に輪王寺宮に直接助命嘆願の周旋を依頼した。『徳川慶喜公伝』に、「精鋭隊頭関口艮輔、中條金之助、山岡鉄太郎等は、此宮(輪王寺宮)よりも周旋せしめんと、執当職覚王院(原注・義観)に就きて再三出願すれども、嘗て聴入れず」とある。この時、松岡萬も関口や中條たちと行動を共にしていたことが、関口艮助の「黙斎随筆」(『旧幕府』)の中に記されている。

 

「是(慶喜大慈院蟄居謹慎)より先田安家に於ては輪王寺宮に詣り、歎願の事、御周旋ありたき由を願ひ奉りしかども、宮には御聞届なしとの趣を傳承したりければ、其事の実否を質さんとて中條金之助と共に大久保一翁の家に至り」、そのことの事実であることを確認し、大久保の賛同を得て「其翌日、中條金之助、山岡鉄太郎、松岡萬、相原安次郎を伴ひ上野の寺方に由緒ある小島銀之丞といふ者を案内として先づ覚王院に至り、住僧に面会して宮に歎願仕度との一事に申出たり云々」(原漢文)

 

「黙斎随筆」は長文のため、ここにすべてを記すことはできないが、関口たちは決死の覚悟で請願したところ、歎願のことは書面を以て申し出るべし、とのことであった。そこで、山岡鉄太郎がその場で書面を認めて覚王院義観に差し出したところ、「田安殿を初めとして、御連枝御譜代大名より、更らに御出願相成候様、周旋致す可し」との内話があっため、これを大久保一翁に復命し、翌日諸大名に通告したことから、輪王寺宮が「来る廿日を以て、御発駕あるべきにつき、精鋭隊中より、両人供奉致す可しとの命令なれば、川井玖太郎外独りを随従せしめたり云々」とある。

 

「覚王院義観戊辰日記」(『維新日乗纂輯』第五)によれば、輪王寺宮の江戸発駕は、221日とある。なお、『徳川慶喜公伝』に、「精鋭隊頭関口艮輔云々」とあったが、同著の別の個所にも慶喜の屏居した東叡山を「山岡鉄太郎(高歩)関口艮輔(隆吉)等の精鋭隊七十余人、及見廻組の強壮者五十人づつ」が専ら警衛した、と記されている。もっとも、『続徳川実紀』には、224日の条に「御留守居支配組頭、中條金之助」と「御留守居支配、信吉養子、山岡鉄太郎」に、精鋭隊頭が命じられたことが記されている。輪王寺宮の江戸出立の3日後のことで、慶喜が東叡山に蟄居謹慎して12日後のことである。

 

新撰組島田魁の日記に、「十二日隊長(近藤勇)登城ス、大樹公東叡山ニテ恭順被遊候ニ付此御警固ヲ被仰付、十五日当局半隊ツゝ相勤ム、遊撃隊ト交代ニ相成、廿五日御免被仰付、廿八日甲府鎮撫ヲ被仰付」とあので、京都で暴虐を奮った新選組慶喜の近辺に置くのは得策でないとの判断があったらしい。精鋭隊結成の経緯については、精鋭隊内で隊士を誘って小田原の官軍を要撃しようとして切腹させられた和田三兵衛の碑文(全生庵境内)に次のような一節がある。

 

「戊辰正月、錦旗東征、徳川慶喜、屏居於東台大慈院、而恭順焉、当是時、麾下軽俊之士、欲挙兵以抗官軍、屯集甲相各所、其臣山岡鉄太郎、中條景昭、関口隆吉、大草高重、松岡萬等、深憂之、揀忠勇之士七十余人、号精鋭隊、護衛慶喜、云々」

 

『旧幕府』収載の「高橋泥舟居士小傳」に、「慶喜()居士を起して遊撃精鋭の総督たらしむ」とあるので、慶喜の近辺にあった高橋謙三郎が義弟山岡鉄太郎と相談の上で進言し、結成された可能性がある。もっとも、先の「塚原渋柿園の「五十年前」に、正月十二日夜には松岡萬が塚原に対して「私はこれから隊中を集めて云々」とか「これから高橋勢州の家へ行く」とか言っているから、不穏な情勢の中で、変事に即応するために既に一隊を組織していた可能性のあることは既記のとおりである。

 

なお、精鋭隊結成当初の隊士は総勢70余人とあったが、その後隊士は急増して2カ月後にはその7倍の500人近くになっていたらしい。『同方会誌』に載る慶応44月時点の「精鋭隊惣名前」では隊士の総勢は433名となっている。しかし、金谷郷土史研究会編『牧之原開拓士族名簿』に「明治元年辰年三月三日精鋭隊御雇」として「開墾方之頭並松岡万養子松岡運九郎(実父や養子入りの時期等不明)」とある(他にも複数人)ものの、「精鋭隊惣名前」にその名は記されていない。『牧之原開拓士族名簿』によれば、「精鋭隊惣名前」が作成された4月以降にも、複数の入隊者があったことが明らかである。精鋭隊が新番組と改称された後の参加者もあり、その中には、「(同年)十一月三日新番組御雇、()開墾方頭並松岡萬厄介従弟松岡貫七郎、未歳二十九」ともある。

 

「精鋭隊惣名前」に記される精鋭隊幹部の名は、「頭」に中條金之助と山岡鉄太郎、次いで「頭取」に榊原采女と松岡萬、「頭取並」に大草多喜次郎、関口艮助、以下「取締」に加藤捨三郎等14名、「記録掛」が「中條殿御類」6名、「山岡殿御類」6名等となっている。この名簿の中には「残り役」として西村泰翁の名があるほか、山岡鉄太郎の弟小野飛馬吉や小野駒之助()の名も確認できる。     ※9(4)に続きます。

19の(2) 神に祀られた旧幕士松岡萬(文久2年11月~文久3年)

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水戸藩尊王攘夷派の領袖住谷寅之助(信順)の日記(「住谷信順日記」・東京大学史料編纂所所蔵)文久21117日の条に、「青川来る、一同間埼へ行く。夕刻高橋謙三郎(泥舟)へ行き一泊、松岡、山岡在。いつ刀被贈候事。幕府有志奸物名前取調事」と記されている。ここに「青川」とあるのは出羽庄内清川村郷士清河八郎で、「間崎」とあるのは土佐藩士の間崎哲馬(滄浪)である。なお、これより以前の同月朔日の条には、「此夜、下野(隼次郎)、山口(徳之進)、青川同行酒家ヲ訪。明日出立の筈也」とあり、翌2日の条には「青川ハ別盃傾ケ、夫ゟ同行二丁めへ行下野へ立寄談論、(中略)台町迄送候事」とある。水戸と江戸間の行程は通常3日であるから、清河は114日か5日には江戸に入ったのだろう。住谷寅之助も清河の後を追うように7日に江戸に到着し、木挽町の松川屋に入っていた。

 

ちなみに、住谷寅之助の翌8日の日記には、「(間崎を同行し)中橋釟菊楼へ行談論ヲ始ル処へ坂本龍馬来ル、無拠松川やへ行キ談ス。田辺居ル」とある。さらに14日の条にも「山岡、田辺同行翁庵へ行、龍馬来ル痛飲云々」記されている。なお、ここに「田辺」とあるのは、この年9月に間崎哲馬清河八郎へ送った書簡の宛名に「田辺盟台」とあるので、清河八郎のことと思われる。当時清河八郎は田辺吉郎の変名を用いていたのである。

 

先の1117日の住谷の日記で注目すべきは、住谷寅之助(間崎哲馬清河八郎も同行カ)がその日の夕刻高橋謙三郎の屋敷を訪ねると、そこに松岡萬と山岡鉄太郎がいて、高橋謙三郎たちが取調べている「幕府有志奸物姓名」が示されたという事実である。このことは、住谷の翌月14日の日記にも、「山岡、高崎(猪太郎・薩摩藩)来ル」とあって、この日「山岡ゟ所聞」とある数項目の中に「過日外転ノ小笠原ハ久貝ノ弟ニ而害ヲナス奴也トソ」とか、「若年寄稲葉兵部少輔蘭癖(安房館山藩主)。伊東玄朴(蘭医・奥医師)同断且大害アリ。吉野龍蔵儒者ニ而大槻ヘ縁ヲ組、安井(息軒ヵ)同断」、と山岡鉄太郎から幕臣中の奸物の名前が具体的に示されたことが記されている。

 

ここに吉野龍蔵とあるのは芳野立蔵(金陵)のことと思われる。芳野立蔵と安井息軒はこの翌月幕府の儒官に登用されている。高橋謙三郎たちが攘夷思想の持主だったこの2人をなぜ奸物と目していたのか定かでない。住谷の日記には、さらに同1217日の条にも、「高橋謙三郎へ行一泊。一刀被贈候事。麾下正奸姓名取調候事」とある。高橋謙三郎や山岡鉄太郎が、これまでも死士を多数輩出している水戸藩尊攘派の領袖である住谷寅之助に、再び幕臣中の奸物(開国派)の姓名を示し、刀を送っている事実に、ある意図を見て取ることに無理はないと思われる。

 

先に記した、松岡萬が中村敬宇を暗殺しようとしたとする件も、この「麾下正奸姓名取調」の結果だったのではないのか。将軍徳川慶喜の寵臣原市之進の暗殺に山岡たちが関わっていたという事実はよく知られている。『徳川慶喜公伝』にも、「或は云ふ、旗本の山岡鉄太郎(原注・高歩、鉄舟)、中条金之助、榊原采女、小()草滝二郎、松岡万、関口艮輔(原注・隆吉)等江戸にあり。市之進を目して公の英名を覆ふの奸物となし、誓って之を除かんとす。乃ち兵庫開港の件を以て其主罪に挙げ、依田雄太郎等三人の壮士を誘ひて刺客の任に当らしむ云々」と明記している。

 

この原市之進の暗殺(慶応38)を山岡鉄太郎が使嗾した話は、薄井龍之の回顧談がよく知られている。また、水戸藩本国寺党の酒泉直の日記(「酒泉直滞京日記」)のその年1月の条に、「(京都から江戸へ)道を東海道ニ取リ昼夜兼行ス(中略)二昼夜ニシテ江戸ニ達ス(中略)昼ニ至テ山岡氏ニ達スルヲ得タリ。此日山岡在宅面接ヲ得テ水戸ノ国情ヲ聞キ、(中略)幕府奸臣ヲ除クヘシ、則チ貴藩出進ノ原市之進ノ如キハ慶喜公之帷幕ニ有テ事ヲ為ス尤モ罪魁ト確信ス、兄等何故ニ彼ヲ不斬ト言云々」と記されている。山岡鉄太郎は生涯自ら人を斬ったことはないといわれる。しかし、「住谷正順日記」を見る限りでも、自ら手を下さずとも奸物と目する人たちの暗殺を使嗾していた可能性は否定できないと思われる。なお、前島密(来輔・鴻爪子と号す)の伝記集『鴻爪痕』の中の「逸事録」に、松岡萬が前島を暗殺しようとした次のような逸話が記されているが、これも松岡単独の行動だったのかは疑わしい。

 

「其頃幕府旗下の士に松岡萬と云ふ奇抜の人があった、此人は学問もあり剣術にも長じて、骨格魁偉膂力衆に勝れ、且つ正義の士であった、(中略)(前島密)が此人を知られたのは慶応元年とあるが、翁が開国論者で洋学などを修めてゐるのを、松岡は面白からず思うて、嘗て暗殺を企てたことがある。翁は危い場合幸いに関口氏に救われ全きを得た云々」

 

前島密を松岡の暗殺から救った「関口氏」とは、「村上俊五郎について」でもふれた松岡や山岡とは同志の関口艮助(隆吉)である。後年静岡県知事となったが、明治22年に列車事故での負傷が原因で非業の死を遂げた人である。大橋訥庵の門人で、松岡同様に攘夷論者であった。文久21月師の訥庵が投獄された後は、御持弓与力の職を辞して家督を義弟に譲り、家塾を開いていた。『大橋訥菴先生傳』中の「門人録」に、関口隆吉について「先生の長兄清水正巡の子隆正の養父」とある。清水正(子遠)の子孫に、関口泰、関口鯉吉の名が認められる。

 

「逸事録」の中に関口隆吉に関して気になる記事がある。「一体関口は血を嗜む男で、彼が殺させた者は決して少なくない。併し自分の覚悟も亦斯くの通り立派な者であった」とある部分で、詳細は記されていないが、関口も高橋謙三郎や山岡鉄太郎ら同様に他人を嗾けて暗殺をさせたというのである。その関口隆吉がなぜ松岡の前島竊暗殺を阻止したのか、その理由は記されていない。

 

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文久2128日、幕府は将軍の上洛を控えて前代未聞の浪士の召募を決定した。同月19日には浪士取締松平主税助(忠敏)に浪士召募の沙汰書が下され、同月24日には鵜殿鳩翁が主税助の相役の取締役に任命された。山岡鉄太郎が浪士取締役に任ぜられたのは、その前日の23日のことであった。『藤岡屋日記』のこの日の条に「浪士取締役 山岡鉄蔵(鉄太郎の誤り) 右被仰附旨 於躑躅之間 老中列座周防守申渡之」とあるが、松岡がその相役に任じられた日は定かでない。山岡と同日か、その後間もなくのことだったのだろう。取締役の役料は10人扶持であったという。

 

安藤直方著『東京市史外編・講武所』に、松岡が浪士取締役に任用された当時「講武所奉行支配」の職にあったとあることは前述した。なお、松岡家の世襲であった鷹匠は、幕政改革によって慶応212月に廃止されている。『続徳川実紀』の同年1029(鷹匠制度廃止の2月前)に、「右ハ此処度諸向銃隊御編成相成候ニ付てハ、右之内より役々御撰挙之為。於講武所若年寄。陸軍奉行吟味致し候筈ニ候間、願之者名前取締。早々可被申聞候事」とあって、「右」として挙げられている中に御鷹匠頭や鷹匠がある。松岡はこの鷹匠制度の廃止より以前に講武所へ出仕ていたのである。

 

話を元に戻そう。浪士組のことは、以前に度々ふれてきているので、ここでは松岡萬に関する若干の資料の紹介のみに止める。まず、松岡が浪士取締役に選任された月の30日、

清河八郎や山岡鉄太郎たち13人が牛込二合半坂の松平主税助(上総介)の屋敷に招かれて、浪士召募に関する基本方針が決定されたという。ここには当然松岡の姿もあったことだろう。また、その数日後、清河、山岡、松岡の3人が、土佐藩山内容堂に招かれて手厚い饗応を受けたという。

 

文久328日、浪士取締鵜殿鳩翁(松平上総介は辞任)のもと、松岡は山岡と共に220余人の浪士を率いて江戸を出立し、中仙道を経て同月23日京都に入った。入京後の松岡については、浪士の1人高木潜一郎(田龍)の日記(文久三年御上洛御供先手日記」・『太田市史資料編』)25日条に、「他出無用。松岡万蔵(誤り)殿、西村泰翁殿外弐人目付」とある。翌26日条にも、「見廻り取締、高久安二郎、広瀬六兵衛、松岡万、附西村泰翁」とある他、27日、28日条にもほぼ同様の記事があって、他出を禁じられた浪士たちの宿所を、松岡たちが連日巡回して監視していたことが記されている。

 

高木潜一郎の日記の同月晦日の条には、「他出御免ニ付三番、五番組六拾人、松岡万・西村泰翁先達ニ而御所拝見、南門日野門拝見。尤モ二城之城廻り通抜途中休ミなし。七ツ時帰る」と記されている。この日許された京都御所の見学は、3番組と6番組併せて60人の浪士たちであったが、その他の組の御所の見学にも、松岡はその責任者として引率に当ったものと思われる。

 

浪士組は、将軍の守衛という目的を果たすことなく、横浜に来航の英国艦隊との開戦に備えて313日に京都を発し、同月28日に江戸に帰還した。その後、幕府に奉勅攘夷の意思のないことを察知した清河八郎たちは、4月に入ると浪士組独自での攘夷断行を決意、軍用金調達のために蔵前の札差の家々に押借をして回った。そうした中の同月8日、松岡萬が、両国で報国の有志を騙って乱暴狼藉をする2人の浪人を捕らえる事件が発生した。このことが浪士組浪士柚原鑑五郎の日記(「柚原日記抄」)に、次のように記されている。

 

「報国の名義を唱へ乱防致し候浪人、去る八日両国橋詰料理屋にて乱防せし所へ松岡万通り掛り取調たる由にて、三笠町へ連れ来り一同へ被預候而吟味候処、増山河内守様家来朽葉新吉と申し廿三才の由、兄なる者も其御家に勤居候趣、此者所々にて乱防無相違趣也。鈴木長蔵大阪に廻り募り来る神戸六郎と申浪人未た組入無之、玄関に指置候者市中横行酒食貨財を貪り吉原にて乱防し、右新吉同様土蔵へ入れ置たるを同十二日役宅の庭にて両人共斬首す。神戸は村上俊五郎朽葉は石坂宗順きる。此二級両国に梟首す云々」

 

浪士組士中村維隆(当時草野剛蔵)が明治363月の史談会で語ったところによれば、2人の浪人を捕らえた際に中村維隆も松岡に同道していたという。そして中村は、その時松岡萬が、「イヤ草野さん斬って仕舞おうじゃあないか」と言うのを、草野が「イヤ此処で斬った所で仕様がない、何しろ改めて見ようと云って」、松岡を止めたと語っている。浪士取締役という立場にある松岡が鵜殿や山岡に話も通さず、まして捕縄された者を衆目の中で斬るなどと本当に言ったのだろうか、証言の真偽は定かでない。

 

幕府の目付杉浦正一郎(梅譚)の日記(『杉浦梅譚目付日記』)47日の条(両国橋での捕縛事件の前日)に、「松岡萬、高橋見込四ケ條申立」とある。「高橋」とは高橋謙三郎のことではないかと思われる。この「高橋見込四ケ條」については、同じ杉浦の日記の翌8日の条に、「山岡来ル。高橋見込之趣、昨日申聞候ケ條」として、「○破格、○爵録、○御用ヘヤ入、○屋敷」とあり、また「高橋其外暴論応接」、と記されている。

 

ちなみに、高橋謙三郎は前月京都で浪士取扱(奥詰槍術師範役兼務)を命ぜられ、従五位下伊勢守に任じられて作事奉行上席に進んでいた。爵録とは爵位(卿、大夫、士)と俸禄のことであり、御用部屋とは老中と若年寄が執務する部屋のことである。「破格」とか「暴論」が何を意味するのか。松岡萬や山岡鉄太郎は、高橋謙三郎に対する処遇が不満で、より「破格」な処遇を求める「暴論」を主張したということだろうか。残念ながら詳細は不明である。

 

なお、「幕浪之記」(出処を失念)の中に「山岡氏の同役松岡氏も献言の時にハ血涙を流して諫争なりし由。両人言葉を揃て、今に御覧被成よ下より起りて夷賊ハ誅戮すべし、然る時は上の御政治事ハ不相立、其時御後悔ハ御無用と云捨て座を立たる由云々」、とあるが、これはこの当時のことかと思われる。当時の松岡の心事を鮮明にしている逸話で、憂国の思念から山岡や松岡が幕府による攘夷の断行をいかに切望していたかが歴然である。

 

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『官武通紀』の中の「清川八郎逢切害候始末書写」に、「(四月)十二日本所屋敷之近所へ又四郎、寅之助出居候事」とある。又四郎は速水又四郎で、寅之助は永井寅之助か。いずれも浪士組取締並出役の職にあった人で、翌13日、清河八郎は幕閣の命によりこれらの人たちによって暗殺された。12日には清河暗殺の指示が出ていたのだろう。その12日の杉浦正一郎の日記に、「高橋、萬、金一條尤切迫」とあり、2日後の14日には「御役御免差控、高橋、山岡、松岡外出役七名」とある。また、『官武通紀』には「清川八郎へ心を寄候御旗本、御家人、御役御免、小普請入被仰附候事」と記されている。

 

松岡たちが御役御免差控の上、小普請入を命じられた同じ14日、庄内、白川、小田原等7藩の兵士が出動して、攘夷実行を画策した村上俊五郎や石坂周造ら6人の浪士が投獄された。白河藩阿部家資料『公余録』に、「五家被仰合左通」として「高橋へ三組庄内。山岡へ三組、此方様(白河藩)二手相馬様一手。松岡へ三組、小田原様相馬様外に御控一手。合言葉、御苗字相用候事。山岡鉄太郎牛込歟。松岡萬小日向新川町。高橋伊勢守小石川鷹町」とあって、小日向新川町の松岡家にも小田原や相馬の兵士が差し向けられたのである。

 

なお、同じ『公余録』の「町奉行備前守様御直書写」の中に、「松岡、是人四手見知人差遣可申候」とある。「四手」とは四手掛のことだろうか、四手掛とは寺社・町の2奉行に大目付と目付を指すが、その中に松岡の顔見知りがいて、松岡の説得のために兵士に同行したのではないかと思われる。

 

高橋謙三郎、山岡鉄太郎、松岡萬等はその年の12月には幽閉を免ぜられている。これはその前月15日の江戸城西の丸の火災の際、騒擾に乗じて事を起こそうとする者を防ぐため、禁を侵し、死を覚悟で城門警護に駆け付けた功を認められてのことだったらしい。蒲生絅亭の「松岡萬傳」(『近世偉人伝』)に、その際の松岡に関して次のような逸話が記されている(原漢文)

 

「癸亥大城火あり、萬その兵変有らんを謂い、即ち偃月刀を提げ走ってこれに赴く。至れば則ち煙焔天を蔽い已に灰せり。萬、見て号泣す。之を笑う者有り。萬怒て謂う、汝も亦幕府之士に非ずや、何ぞ悲しまずして反って我を笑うと、乃ち偃月刀を挙ぐ。笑う者走って之を避く。萬、追うて之を斬り、其の笠に中たり、笠断ちて墜つ。之を見れば髹金なり。髹金は権貴の笠なり。萬、其の断たれし笠に唾して罵って日う。咄、鼠輩、録を盗めるのみと」

 

これによれば、松岡の単独行動のようにとれるが、『泥舟遺稿』では、この時松岡は山岡鉄太郎らと高橋謙三郎に従っていたとある。即ち『泥舟遺稿』では、炎上する江戸城を望見した謙三郎は、「是れ必ず敵の間諜火を大城に放ち、其騒擾に乗じて大に為すことあらん」、と憂心禁じ得ず、いざ出馬しようとした時に山岡鉄太郎が駆けつけて来たとあり、さらに続けて次のように記されている。

 

「山岡をして松岡外同志中、屈強の者数十人を喚び来らしむ。何れも一騎当千の傑士なり。(中略)山岡は三尺の大刀を佩び鎗をとりて馬の左側に随へり、松岡は長巻をたづさへて馬の右側に附添へり。(中略)かくて各自余りに疲労を覚えたれば、大手前酒井雅樂頭の番所に到りて、暫時休息を願ふ(中略)、其(酒井家の)詰合の一人、大城の天主櫓の将に焼堕んとせし時(中略)アレアレ見玉へ、彼の面白く美しき事をと云ふや、翁に附添ふ松岡萬、勃然として怒気榛東り発し、其者の襟首を攫んで、大地にひきすえ、此白痴漢君家の御災難を見て、美しきの、面白しのとは何事ぞ、容赦はならじ、覚悟せよと、あはや一撃にせんと相見へけりし折しも、翁急に声を懸け、松岡はやまることなかれ、彼輩を手撃にすればとて、何の益かあると、松岡乃ち放ち去らしむ云々」

 

大橋微笑の「幕士松岡萬の傳」は、蒲生絅亭の「松岡萬傳」を参考にしたのかどうかは不明だが、「松岡萬傳」とほぼ同じ内容になっている。この『松岡萬傳』と「泥舟遺稿』の記述内容には、様々な相違があるが、当日松岡は高橋謙三郎らと行動を共にしていたと思われる。

 

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文久3年における松岡萬に関しては、よく知られる逸話がもう一つある。それは、この年の正月、松岡が、回向院の塋域で改葬中の頼三樹三郎(頼山陽)の遺骨の一部を盗み去り、自宅に祀って朝夕礼拝していたという話である。松岡の頼家崇敬については、市島春城の『随筆頼山陽』に「松岡はひどく頼家を崇拝したもので、常に神棚に山陽や三樹の名を署した木主を奉じ、日夕祀って怠らなかった」とある。なお、市島春城は同書の中で、松岡は「随分と奇行に富んだ人」で「学問もあり剣術にも長じ、骨格魁偉、膂力衆に勝れ、且つ正義の士であった」、と記しいる。

 

この事件については諸説あって、大橋微笑の「松岡萬の傳」などは慶応4年の出来事としている。また、事件当時松岡には同行者がいたとするものと、単独での行動であったとするものなど様々であるが、ここでは長い引用になるが、木崎好尚著『頼三樹』収載の依田学海(百川・佐倉藩の漢学者)の「頼三樹」を次に転載する。

 

「時勢変わり(文久211月の大赦)(三樹三郎の諱)が罪許されしかば、長州の山尾庸三等主の命を受け、吉田寅次郎が骨と共に(三樹三郎の骨を)若林村(東京世田谷区)なる、別邸の内に移し葬らしめんとて、正順(大橋訥庵)の子正燾と謀り、非人に命じてこれを掘出す折しも、西村退翁・松岡萬等、ここに来り、これ何事ぞと問ふ、非人小頭市兵衛といふもの、こは先年首刎られし吉田と頼とやらんの骨を改葬するにて候と答ふ。松岡その首はいかにと打見つゝ、密に左の腕と覚しきものを拾ひ取りて、袖の内にかくし入れければ、市兵衛驚き、(中略)唯一ひらの骨なりとも足らずと申されんには、やつがれが罪逃る可からず」と、市兵衛は肯んじなかった。

 

そのため松岡は、「おのれは幕府の士にて、松岡萬と呼ばるゝものなり、此人の義勇を慕ふのあまりに、遺骨を得て私に供養をせばやと思ふのみ、しらぬふりをしてゆるせかしといへども、頭をふりて受引かず。退翁、すなわち常行庵とて、小さき庵室の内に休らひゐたる山尾等に向ひ、子細を語り請ひければ、その侠気にや感じけん、そは某が計べきにはあらねども、事のまぎれに盗み去らんには力なしとありければ、退翁よろこび、松岡にかくと告げ、市兵衛に心得させて骨数片を得て立ち去りぬ」

 

松岡のために長州藩士山尾庸三等と掛け合った西村退翁は、上洛中の松岡が浪士の監視等で行動を共にした西村泰翁である。この人は維新後の精鋭隊や牧之原の開墾にも松岡と行動を共にしていたことが確認できる。この依田学海の「頼三樹」では事件の日時が不明だが、『吉田松陰全集』収載の「年譜」では、松陰の遺骨改葬の日とし、当日立ち会った長州藩士は高杉晋作、伊藤利輔、品川彌次郎、山尾庸三、白井小輔、赤根武人等としている。なお、頼三樹三郎の頼支峰の養子頼庫山(龍三)の日記抄(木崎好尚著『頼三樹傳』収載)は、その日松岡に同道していた者が複数人あったことが記されているので、屋上屋を重ねる感があるが、以下に転載する。

 

「癸亥の春、幕臣西村退翁、松岡万、速水某、牧野某、上田楠次(原注・上田は他藩か)五人にて、回向院別院常光庵の前を過ぎしとき、今日は改葬ありと聞き墓所に入りしに、非人ども両三士(吉田松陰、大橋訥庵、頼三樹三郎)の屍を、泥土の上より掘り出し点検せり。松岡氏、誰の骨なりやと問へば小屋頭市兵衛なる者、頼三樹八郎殿(三樹三郎は三木八、三樹三郎とも称した)なりと答へたり。松岡、兼ねてその義烈を欽慕の余り云々。市兵衛云ふ、請ふ長州の士にその意を告げ、その命あらば分つべしとて許さず。止むを得ず、同行の退翁に託して長州の士を説き、ひそかに一二片を持ち去れりとぞ、是実に正月十二日のことなり」

 

松岡が貰い受けた三樹三郎の骨については後日談がある。先の頼庫三の日記抄には、翌元治元年(1864)の冬10月に「((大橋陶庵・訥庵の養嗣子)、同志の幕臣関口退助(艮輔)と謀り、小塚原の烈士の墓を、近き空地に集め、且、頼、小林(良典・鷹司家太夫)の墳を建てたり。その時、松岡、訪ひ来って、袱に包める遺骨をその墓下に埋めんことを請ひ、清浄の布に包あり、乃ち諾して小石槨と桐箱を造り、茶にて骨を収め、葬れり」、とある。依田学海の「頼三樹」にも、ほぼこれと同じことが記されている。

 

この松岡が自ら三樹三郎の遺骨の埋葬を依頼したという点については、前島密の伝記集『鴻爪痕』に載る逸話は少し異なっている。それによれば、松岡が三樹三郎の遺骨を自宅に安置していることを耳にした関口艮輔が、松岡に対して、「死者の遺骨を私家に奉置するは実に禮にあらず、君の行為は己の情に厚くして、死者の霊に対しては不敬の嫌ひあれば、矢張り旧地に葬り云々」と説諭したところ、「松岡も其の理に服し」て小塚原に丁重に埋葬することになったとある。

 

なお、薄井龍之(督太郎)の「江東夜話」(頼山陽の家族』収載)に、薄井が江戸に出た際「関口氏の案内で松岡へ参ツて右(三樹三郎)の遺骨を拝しました。其祠は至って小さいものでありましたが香火は勿論種々時物等を備へて如何にも崇敬欽慕の意が見えまして私も思わず感涙にむせびました」とある。薄井龍之は信州飯田の人で、京都で頼三樹三郎に師事していたことがあった。

 

『鴻爪痕』によると、松岡が手厚く埋葬した三樹三郎の遺骨は、維新後に関口艮輔からこの話を聞いた前島密が、長州藩公用人某や勝海舟大久保一翁等に計って若林村の墓に合葬したという。

 

19(3)に続きます。

19の(1) 神に祀られた旧幕士松岡萬について (天保9年~文久2年7月)

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松岡萬という人物は、静岡県内の2つの神社に神として祀られ、また、山岡鉄舟(鉄太郎)と共に浪士取締役として活躍しながらまとまった伝記もなく(幾つかの小伝はある)、その人物像も余り知られていない。そこで本稿では、筆者の把握している松岡萬に関する事実を紹介しておくこととした。なお、本稿も本ブログ16の「村上俊五郎について」と同様に煩雑で冗長になること、また、現地調査等も一切行っていないことを予めお断りしておきます。

 

松岡萬の名については、「よろず」・「つもる」・「むつみ」・「ゆずる」、とその読み方が諸説ある。ちなみに、松岡が明治維新後に活躍した静岡県内の『藤沢市史』では「むつみ・よろず」、『磐田市誌』は「むつみ」、『浅羽町史』では「むつみ・つもる・よろず」と読ませている。また、『静岡大百科事典』や『三百藩家臣人名事典』では「つもる」とあるものの、『幕末維新大人名事典』や『明治維新人名事典』では「よろず」としている。

 

山岡鉄太郎の門人小倉鉄樹の『おれの師匠』には、「よろず」と振り仮名があり、また『同方会誌』に載る大橋微笑の「幕士松岡萬の傳」にも「よろず」とある。後にもふれるが、大橋微笑は幼少時に松岡萬と接したことのある人である。姓名の読み方が複数あるとは考え難いので、「よろず」が本来の読み方ではないだろうか。ちなみに、小説家子母沢寛の『よろずおぼえ帖』には、松岡の孫の村田政夫氏(松岡の養子九一郎の子・筆者注・括弧内は原注と無い限り以下も同じ)が「よろず」と読むと言った、と記されている。なお、松岡の通称は昌一郎といい、古道(ひさみち)と号している。

 

松岡萬は天保9(1838)12(磐田市誌』)鷹匠松岡大助(1003人扶持)の子として江戸の小日向中橋通(東京都文京区)に生まれたという。『寛政譜以降旗本百科事典』(以下『寛政譜以降』という)の父大助の項に、「拝領屋敷、小日向中橋通、百八七坪五合、右は御広敷添番柴山十太郎え貸置、当分市谷念仏坂上百人与力内海伊織方同居」とあるので、市谷念仏坂上(東京都新宿区市ヶ谷)の内海家内で生まれた可能性も否定できない。ちなみに、山岡鉄太郎は天保7年の生まれで、松岡より2歳の年長であった。

 

松岡家については、『寛政重修諸家譜』第千四百七十六に、「藤原氏支流松岡氏」として記載がある。そこには松岡九郎右衛門孝道という人物について、「九郎右衛門孝常、九郎右衛門孝登父子相継で紀州家につかふ。孝道実は紀伊家の臣吉田四郎右衛門某が男にして、孝登が婿養子となる」とある。紀州徳川家の臣吉田四郎右衛門某の子孝道が、同藩士松岡九郎右衛門孝登の婿養子となって松岡家を継いだのである。その松岡孝道について『寛政重修諸家譜』には、さらに次のように記されている。

 

紀伊家に仕へ、享保二年十月十五日めされて御家人に列し、御鷹匠となり、三年二月十八日班をすゝめられて小十人の格となる、七年十月二十四日組頭に進む、(中略)十九年五月十三日死す、年五十一、法名戒雲、市谷の長泰寺に葬る、のち代々葬地とす」

 

紀州藩士松岡孝道は享保2(1717)鷹匠として幕府に出仕し、後に小十人格(番士は10010人扶持)となったのである。『寛政重修家譜』によれば、孝道の後を継いだ幕臣松岡家2代孝弘(原注・萬之丞、九郎右衛門)は、父孝道の死去前月の享保194月から御鷹匠見習いとなり、同年8月御鷹匠に列した(時に16)が、寛保元年(1741)10月に23歳で没した。3代は古堅(原注・萬次郎、孝弘の弟)で、寛保元年12月御鷹匠となり、宝暦5(1755)10月組頭にすすんだ。天明5(1785)9月「加恩あって俸禄百俵三人扶持」を給されが、寛政2(1790)12月に没した。

 

古堅の子古鑛(萬蔵)と孝定(猪之助)は早世したため、幕臣松岡家4代は古堅の長女に館九八郎羽隆の2男を迎え、古敦(卯之助、萬之助)と名乗らせた。古敦は寛政3年御鷹匠となって俸禄1003人扶持を給されている。『寛政重修諸家譜』はここで終わっている。これ以後については『寛政譜以降』によるが、古敦の名は九郎作(鷹匠組頭)とある。松岡家5代は造酒五郎で、『天保五年武鑑』に「松岡造酒五郎鷹匠」とあり、6代は萬の父大助が継いでいる。大助については『嘉永七年武鑑』に鷹匠(組頭ではない)と記されている。

 

見て来たとおり幕臣松岡家は、2代孝弘以来、その通称や名に多く「萬」や「古」の字を充てていて、松岡家7代萬も祖先の例に習ってこの文字を用いたのだろう。大槇紫山著『江戸時代の制度事典』によれば、松岡家の家職である御鷹匠は将軍放鷹用の鷹に関する一切を掌り、若年寄支配の鷹匠(定員5人、1000石高、役扶持20人扶持)の下に組頭4(250俵高)鷹匠100俵高で見習いは50俵高、人員は44人で、鳥部屋は千駄木雑司ヶ谷にあったとある。松岡萬が父大助の後を継いで、鷹匠見習から鷹匠の職に就いたか否かは定かでない。

 

なお、蒲生絅亭の『近世偉人伝』の中にある「松岡萬傳」に、「幼にして父母を喪い、家甚だ貧しく、祖母の鞠()てる所と為る」(原本は漢文)とあって、『寛政譜以降』の記述(父大助は松岡萬17歳の嘉永7年には存命)と矛盾する。しかし、『近世偉人伝』の「松岡萬傳」には、「慶応二年(1866)丙寅の春、此の傳を撰せしが既にして久保田藩士柱禮助という者、此の傳を手写して萬に示せり。萬見て驚喜して云々」とあるので、これが事実なら、松岡が「幼にして父母を喪」ったことに間違いないのだろうが、判然としない。父大助は養父だったのだろうか。

 

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松岡萬の人となりや修得した文武についても、断定できる資料はなく、諸著に頼るほかはない。先の『近世偉人伝』中の「松岡萬傳」にはその人となりについて、「容貌魁偉なり。常に白欛朱鞘の大刀を佩び、剣法に精し。その忠孝、天性に出で、操履甚だ奇なり」とある。また、大橋微笑の「幕士松岡萬の傳」には、次のように記されている。

 

「其性勇壮頗る武芸に達し、常に白欛朱鞘の大刀を佩び、又刃渡り二尺の大長巻平生左右を離す事無し」、「萬が度々余が家に来りしは幼年ながらよく覚えあり、ある時のことなりし、坊様の御慰みに御覧に入れんと、例の白欛朱鞘の大刀を把り居合抜をして観せし事、今猶記して敢て忘れず」

 

さらに、川村恒喜の「奇士松岡萬氏に就いて」(『武蔵野』)には、「性剛にして頗る剣道に達していた」とか、「松岡は実に忠厚朴訥な奇行家を以て終始し、而かも其の奇行たるや全く彼の天性に出で、其間些も誇衒の跡がない」、と記されている。また、松岡の風貌については、文久3(1863)の浪士組上洛時に京都で撮影した松岡萬とされる写真を見ると、細面ながら精悍、意思強固といった顔貌で、長身(58寸余)痩躯ながら、武術で鍛えた頑健な体躯を思わせる広い肩幅をしている。ちなみに、明治期に撮られた松岡の写真(藤沢市史』通史編・清水郷土史研究会編『清見潟20号にあり)は小太りで、風貌も前記写真とは全くの別人の如くである。なお、小倉鉄樹の『おれの師匠』には、松岡について次のようにある。

 

「松岡は旧幕臣で剣術は相当うまかった。(中略)性質のきれいな、血の気の多い男で」、「松岡の無茶は、村上(俊五郎)の無茶とは違ってひどく義理堅い一種の特色を持っていた。兎に角尋常一様の人ではなかったことは、水盤の水を一杯湛えておいて、その前に端座して深呼吸をして、暫らく息を調へてゐると、水盤の水が波を打って沸騰して来るのであった。松岡はいつもこれが自慢で、『おれの修行程度はまづちょつとこんなものだ、おまえ達も捨身で撃剣や座禅しろ、これ位の得力は朝飯前だ』など新入者の目を丸くさせたものである」

 

 松岡が白欛朱鞘刀を愛用したことはよく知られるが、中にはその長い刀に車を付けて闊歩したと記すものがある。『近代剣道名著大系』第12巻の中の「山岡先生鈔伝」にも、「松岡万もかつて鬼松岡の号あり。平素鉄履を穿ち、四尺余の長刀に車を付けて街上を横行し、もし嘲るものあらばただちにこれを殴撃し、自らもって世上に敵なしと思えり」とある。何を根拠にしたか不明だが、この類の記述は多く見受けられる。ちなみに、松岡の佩刀について、池田俊次編著『大池事件と池主霊社』に次のような記述があり、松岡が神社に納めた愛用の佩刀は「山岡先生鈔伝」のいうような刀ではないという。

 

 「公の佩刀については、義胆剛直の碑文には、誰の造りか審らかならず、としてあるが、悟道軒円玉の『江戸城開け渡し・松岡萬の巻』には次のように記されている。『愛用の佩刀は朱鞘でツバは南蛮鉄、それには仁義礼智信の文字がほってある。殊に刀は伊勢于吾の住人、喜左衛門村正の業物』とある。此の刀は現在、大原松岡神社の宝物庫に保存されており、公のいちばん貴重な遺品である」

 

「義胆剛直」碑とは、静岡県磐田市大原にある松岡萬を神と祀った松岡霊社(池主霊社、池主神社とも)境内に立つ、蒲生重章撰文による松岡萬を顕彰する碑石である。以上で見る限り、松岡は剣術や柔術以外にも薙刀居合道、禅道等にも心魂を傾けたらしい。しかし、それを誰に学び、剣は何流を得手としたのかは判然としない。松岡霊社の宝物庫に収蔵される松岡の遺品の中に、「新陰流の目録」があるというから、新陰流(心影流)を学んだのかも知れない。塚本昭一著『牧之原残照・最後の幕臣たち』(以下「牧之原残照」という)に、出典は不明だが「剣は、男谷精一郎の門弟(直心影流)」であったとある。松岡は武技の練達に熱心だったらしいので、これ以外の複数の流派を学んだことは十分考えられる。それに関して諸著からいくつかの記述を拾ってみよう。

 

江崎俊平著『日本剣豪列伝』には、「(松岡は)若いときから武芸を好み、諸流を学んだが特定の人に師事せず、自ら平山子竜の死後の門人と称し、すべて子竜の行動の真似をし、文武にわたって子竜の教えを忠実に守った」とある。松岡が平山子竜(行蔵・兵学者、武術家)を敬慕したことは事実らしいが、「特定の人に師事せず」とは信じがたい。藤島一虎著『幕末剣客物語』には、「剣術は近藤弥之助の弟子で免許に近い腕であった」とある。近藤弥之助は忠也派一刀流の剣客で、柔術の大家でもあったという。本所元割下水に道場があり、安政3(1856)3月には講武所の剣術教授方となっている。

 

『幕末維新大人名事典』や『明治維新人名事典』には、松岡は講武所で学んだとある。しかし、『東京市史外篇・講武所」の中に「(幕府が)新徴組を組織した時には、講武所から剣術教授方出役松平主税助忠敏、講武所奉行支配松岡昌一郎(中略)などが其取締に任ぜられた」とあるので、これが事実なら松岡は講武所の稽古人ではなく、講武所奉行支配組頭配下の吏員だったのではないかと思われる。なお、『おれの師匠』には、松岡が山岡と知り合って以来、山岡の道場に通って北辰一刀流を修業したと記されている(後出)

 

松岡は「剣術に練達していた」ことは諸著の一致するところだが、先の「村上俊五郎について」でも「密員某派出中日誌之抜粋」(静岡県史』資料編)に、「壬申(明治5年・1872)九月廿九日密員某、静岡県士族松岡万塾生鈴木勇蔵・岩下幸房・粟津清秀等ニ面会ス云々」とあることは紹介した。また、『同方会誌』第七巻の中の「沼津兵学校沿革()(石橋絢彦稿)には、「寄宿生田原琢磨(高雄)は眉目清秀挙止嫻雅一見夫人の如し、曾て松岡萬に就て剣を学ぶ、頗る得る所あり、其竹胴を着し竹刀を執り場に立つに至ては全く別人の如く進退軽捷一毫の欠落なく其技教師を凌ぐに足る云々」、と記されている。松岡には剣術の門人がいたのである。

 

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松岡の修めた学問については、『明治維新人名事典』等に「中村敬宇に学んだ」とあったが、『牧之原残照』にも、「白井佐一郎篤治や中村敬宇について詩書と経史筆法を学んでおり、(中略)また敬神家であり、神道本田親徳に学んだ」とある。しかし、中村敬宇(正直)については、『自叙于字文/中村正直傳』(『伝記叢書』第7)に次のような逸話が載っている。

 

「後年、先生(敬宇)静岡に隠棲す。時に、幕臣松岡萬なるもの、亦移りて静岡にあり、常に勝安房氏の邸に出入りす。一日、話次、前年の非違を懺悔して日ふ『疇昔、中村敬輔(敬宇の通称)氏を刺さんとせし者は予なり、如何にもして其の機を得んと勉めしが、中村夜間外出せし事なく、又、聖堂の内、墻塀巌にして手を下すに由なく、遂に機を逸したり。云々』」

 

中村敬宇天保3年の生まれで、儒学の他に蘭学を学んだ。安政2年に24歳で学問所教授に出役の後、甲府徽典館の学頭となったが2年後には江戸に帰り、御儒者見習いから御儒者となった。慶応2(1866)には遣英留学生取締として渡英し、帰国後は静岡学問所の一等教授となっている。松岡の懺悔談が事実なら、松岡が中村敬宇に師事したとする説は疑わしい。

 

また、白井佐一郎(北窓)は上州須賀川の人で、安積艮斎に学び、文久3年に湯島の学問所の教授になった攘夷論者である。『白井北窓翁詩集』に載る「白井北窓先生略傳」に、「先生洋夷ヲ悪ムコト蛇蝎ノ如シ、潜ニ攘夷ノ勅書ヲ拝シ、浪人組ノ臣頭清川八郎等ト謀リ、横浜停泊ノ外艦ヲ焼打チセント欲ス云々」とあり、文久元年に松岡萬らと横浜焼打ちを企てた同志の1人であった。なお、この事実は『須賀川市史』や『福島県史』にも記されている。本田親徳神道霊学中興の祖と言われた人である。古代に存在したとされる帰神(神や霊を人に降ろす)の復元を図り、鎮魂(帰神実現のための精神統一の修行法)帰神を中核とする本田霊学を日本に定着させたという。残念ながら、松岡が白井佐一郎や本田親徳に師事した確証も得られていない。

 

やや唐突だが、神と祀られたほどの松岡の人物像に大きな影を落としている松岡の「辻斬り」について触れておきたい。この松岡の辻斬りに関する逸話は小倉鉄樹の『おれの師匠』の中に、「(松岡は)若い頃盛んに辻斬りをしたらしく、師匠(山岡鉄太郎)に堅く之を封じられたが、それでも師匠に隠れて時々斬ったらしい」とか、「松岡の辻斬りは有名なもので、一つは習慣にもなっていた。大道を歩いていると、妙に斬りたくなるのだそうだ」等とあり、松岡がまるで血に飢えた殺人鬼であるかの如く記されている。そしてその具体的な逸話として、ある日の夕暮れ時、山岡と松岡が市ヶ谷の堀端を歩いていた折、松岡が突然武士に斬り掛かろうとするのに気付いた山岡が、とっさに松岡の襟首を掴んでこれを引き止めたという事件や、松岡と石坂周造、村上俊五郎の3人が、籤引きで辻斬りをしようとした話が記されている。またさらに、こうした行為が後年松岡を苦しめ、酩酊して前後不覚に陥ると幻覚が生じて、「それ、そこへ敵を討ちにおれを殺しに来た」、などと血相を変えて飛び起きることもあった、とある。

 

小倉鉄樹が春風館道場の内弟子となったのは明治1412(5年間在籍)のことである。こうした話を誰から聞いたのか、微に入り細に入り直接松岡や山岡が小倉鉄樹に語ったのだろうか。さらに『おれの師匠』は、小倉鉄樹の門人石津覚が小倉から聞いた話を書き留めたものを、石津の死後に牛島栄治が整理して昭和13(1938)に上梓したものだという(『おれの師匠』緒言)。なお、松岡の辻斬りに関して、池田俊次編著『大池事件と松岡霊社』に次のような話が載っている(参考までに)

 

「公(松岡)は腕の自信と刀の切れ味を試してみたくて、夜半に林町の邸を出て、両国回向院の付近へ行き、乞食を相手に試し切りの交渉をする。変りものの一乞食に、酒と肴を与え、さらに五両を与えた。いざ斬られる段になると件の乞食、「ただ斬られても面白くあるまい、戦って斬られよう」と乞食は徳利を持って勝負が始まったが、乞食の方が一段と腕が立つ。遂には公がねじ伏せられて降参してしまう。話す程に変わった乞食、ただならぬ者であり、邸へ連れ帰って食客にしておいたが、腕が立つので剣術の指南役とした。この乞食こそ、丹波福知山の名だたる池田治左衛門一徳斎で云々」

 

この逸話がどのような資料を元にして書かれたのかは不明だが、万一この話が事実なら、人命無視も甚だしい辻斬りを無暗に行ったとする『おれの師匠』の記事とは矛盾する。ちなみに、蒲生絅亭の「松岡萬傳」や大橋微笑の「幕士松岡萬の傳」、谷中全生庵上梓の「鉄舟居士言行一班」等には、松岡の辻斬りに関する事実は一切記されていない。清河八郎記念館の館長だった故小山松勝一郎氏は同館発行の『むすび』の中で、「山岡鉄太郎の伝を作る者、多くは松岡が山岡を暗殺しようとしたとか、若い頃盛んに辻斬りをやったと書いているが、松岡と同時代人の人蒲生重章の『近世偉人伝』中の「松岡萬傳」を読めば、そのような説がいかに誤りであるかがわかるであろう」、と松岡の辻斬りの逸話を全面的に否定されている。筆者も「見て来たような嘘」とまでは言わないまでも、『おれの師匠』に記される逸話(他の逸話も含め)針小棒大で、山岡礼讃のための「誇張」や「粉飾」の臭気が感じられてならない。

 

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松岡萬と山岡鉄太郎との出会いに関しては、谷中全生庵が大正11(1922)に上梓した『鉄舟居士の真面目』(圓山牧田編集)の中の「鐵舟居士言行一班」に、次のような逸話が記されている。

 

「居士尊皇攘夷党を率いて朝幕一致を主張されたので、幕府側の士は大いに居士を疑い屡ば暗殺を謀った。就中麾下に忠直の聞こえある松岡萬氏が憤慨し。一日泥酔を粧って居士の背部に戯れかゝり。柔術で其頸を砕かんとする一刹那。居士その手を捉へ反って松岡氏を捻伏せ。懇々其誤解を諭された。そこで松岡氏は初めて居士の心事を知り。直にその同士中へ加わった。云々」

 

「朝幕一致」(公武合体)は当時の幕府の方針であり、そのための活動が幕府の忌諱に触れたとは考えにくいが、これによれば、松岡は自らこれに憤慨して山岡鉄太郎の暗殺を企て、卑怯にも泥酔を装って謀殺しようとしたというのである。そしてその時以来、松岡は山岡に説諭されて尊王攘夷思想を抱懐することになり、尊王攘夷党の同士に加わったという。『おれの師匠』には、これとはやや異なる逸話が記されている。長くなるが要約すると次の如くである。

 

幕府では山岡鉄太郎が志士たちと結んで、尊王攘夷活動に奔走していることを危ぶみ、「松岡に旨を含めて山岡を暗殺させようと図った」。幕府の指示に従った松岡は、剣術の試合に事寄せて暗殺しようと、山岡に試合を挑んだが相手にならず負けてしまった。そのため松岡は、「真剣でないと本気になれない」と、今度は真剣勝負を挑んだものの、山岡の相手にならずに松岡は負けを認めて刀を引いた。その後、酒宴となったが、松岡は「此の態じゃ、みっともなくて帰って合わせる顔がない」と思い煩った末、得意の柔術で殺そうと「柔術の手を教えようと」言って背後から山岡の首を締めあげた。しかし、まさに山岡の首が折れようとした時、同席していた中條金之助(景昭)が激怒して松岡を斬ろうとしたため、松岡も諦めることになった。

 

その後の山岡は怒る様子もなく、「飲め」と酒杯を松岡にすすめたため「松岡は志を翻して山岡に従って国事に奔走する気になり」、また、山岡の道場に通って稽古するようになったというのである。幕府の誰が、なぜ松岡に暗殺を指示したのか。そもそもそれがいつ頃のことだったのか。山岡や松岡の同志清河八郎尊王攘夷活動を開始したのは、万延元年(1960)3月以後のことである。清河と玄武館道場の同門だった山岡鉄太郎が、それ以前に尊攘活動に奔走していたという形跡はない。とすれば、『おれの師匠』等の話は、清河たちが策動を始めたと思われる万延元年末から翌文久元年春(この年5月に攘夷計画を決定)までのごく僅かな期間ということになる。事件後の山岡や松岡に対する幕府の対応(支配による尋問と監視)からみても、当時山岡がそれ(暗殺される)ほど目立った活動をしていたとは考え難い。これらのことから、『おれの師匠』の松岡による山岡暗殺未遂の話には疑問がある。

 

なお、先の『講武所』の記事に間違いなければ、松岡は浪士組の取締役に任ぜられた文久2年末には講武所奉行支配下の職にあり、虎尾の会事件(文久元年5)からそれまでの間に、嫌疑者である松岡がその職に任ぜられたとは考えにくい。とすれば、松岡は文久元年以前にその職にあったことになる。この推測に間違いなければ、山岡が尊王攘夷活動を始めた当時は、松岡も山岡(剣術世話心得)も同じ講武所に出仕していたことになる。

 

清河八郎を盟主として尊王攘夷党「虎尾の会」が結成され、横浜異人街等の焼打ち計画を決定したのは文久元年5月のことである。全生庵所蔵の「尊皇攘夷党発起」にも、発起者として松岡萬の名が記されており、明治16年に清河八郎への贈位申請のため、村上俊五郎が有栖川親王に提出した建言書にも、同志として松岡萬の名が記されている。もっとも、清河八郎の『潜中始末』や「潜中記事」に、この事件に関して松岡の名は一切記されていない。また、松岡は事件後も講武所職員の職に留まっていたらしいから、山岡ほど積極的な活動はしていなかったのではないかと思われる。

 

虎尾の会による攘夷断行計画は、早くから幕吏の探知するところとなり、519日には「別紙名前(清河八郎8)之もの御吟味筋有之、召捕候様」にと、南北両奉行所から三廻一同へ指示されていた(千代田区教育委員会発行『原胤昭旧蔵資料調査報告書』)。それを知らない清河たちは、翌日万八楼での書画会に参加し、その帰路酩酊した清河が町人を斬殺する事件が発生。この日の一行中に山岡鉄太郎は加わっていたが、松岡は参加していなかった。幕吏の嫌疑も松岡より山岡に対してより深かったらしく、山岡鉄太郎が京都滞在中の清河八郎に宛てた、翌文久234日付けの書中にも次のように記されている。

 

「小子儀も去夏一條に付懸疑難退、支配呼出しに相成、小子之風説を以て清(清河)懇意の儀に付き、種々の儀策略を以相糺候得共、元より強兵の策其余兵事は日々談論致し候得共、別に廉立候儀は無之、前條は士の修行とも心得申候と答候処、種々禍福を以問糺候得共、、決心略を以て強て申立候。松岡儀も供に推参致し呉、小子義此上懸疑も有之候はゝ、倶々死可致と申出候、若し手込に致し候節は、不得止切死と覚悟いたし居候処、夫なりに相成居申候」

 

松岡自身も支配から尋問を受けていたかどうかは不明だが、松岡も山岡の尋問の場には自ら進んで同席し、山岡を弁護したというのである。「共々に死ぬ」と申し立てたのだから、支配も劈々したことだろう。書簡にはさらに続けて、「甚六ツケ敷次第、筆紙に尽兼候、尤日夜様子を伺、他行も難く相成候得共、此節者追々緩候間、先御安慮可被下候」と、この頃には幕府による山岡や松岡たちへの嫌疑も薄れてきていたらしい。

 

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葛生能久著『高士山岡鐵舟』の中に、文久元年7月に山岡と松岡が連名でその筋へ提出したと思われる弁明書が掲載されているので、極めて長くなるが参考のためここに転載させていただくこととする。

 

「謹て奉申上候。先頃御尋に付、不分明の事故、言上難仕段奉申上候得共、強て御尋に付、不分明には候得共、以書附奉言上候。一体彼等心底は、赫々たる皇国、夷狄の為に穢され、日に侵掠の勢を悲憤致し、妖夷を焼打致し、国体立直し候主意に候得共、当今 公辺の御趣意に適ひ、妖夷と争戦ひ、兵乱御膝元に発り候而者、甚以奉恐入候次第に付、事件少々たりつも見留候はば、兼而同志五人の者へ通じ置、両人及議論、止り候心底無御座候得者、首領を立処に切殺し、君忠相竭し候存念の処、如何の浮説御聞込に相成候や、両人へ御訪に付、乍不分明奉言上候処、清川人殺しの一條より事起り、同類悉く御召捕に相成候。

 

然る処、言上は小普請組にて、山岡鉄太郎と姓名御書附に相載り居、評定所に於て対決にも及ぶべきの趣に候。実以驚入の次第に候。堂々たる官府、取締りなき浮説を御信じに相成、身を捨て事実探索致居候三百年来 君恩に浴し、御旗本の士を軽蔑いたし、義を軽じ利を嗜むの穢れたる士と、世上に誹謗致され候而者、士の名節にも拘り、残念の至に候。聖教にも、罪疑惟軽。功疑惟重と相見へ申候。前條夷人焼打の事実取留り候を、臣士の身分として、主君の一大事、国家の動乱に及候義、不奉言上候事は無御座筈に候。

 

然るを両人へ何の御沙汰も無之、不分明の事を以て、御子民絶命にも相成候はば、官府の御失徳、両人忘義嗜利の汚名遁れがたく、若酷熱の時節故、於獄中落命等に相成候而者、可憐の至極に候間、一両日中にも、助命御預けに相成候御処置、是非、両人抛身命再為 公私奉願候。   説苑日。臣事 君猶子事父也。子為父死。無所恨。守節不移、雖有鉄鉞湯钁之誅。而不惧也。尊官顕位而不栄也。

   七月朔日                     山岡鉄太郎 松岡昌一郎

 

日付けは不明だが、その後その筋からの指示で、2人が差し出した弁明書がもう一通あるので、同様に以下に転載させていただく。なお、この文中に山岡が清河の暴挙を思い留まるよう説得し、万一それに従わない場合は直ちに訴え出る所存であった、とある点を根拠にしてか、山岡は幕府の間諜であったとする論稿を以前に読んだ記憶がある。しかし、この弁明書の記事は、言い逃れのための虚言であったことに疑う余地はないと思われる。ちなみに、この山岡や松岡の言い訳内容は、後出する松岡の同志平尾桃巌斎が幕府に提出した弁明書(本稿19の(2)に記載)の内容とも附合している。両者共に立場上これ以外の言い訳方法は思いつかなかったのだろう。

 

「先頃御尋の趣に付申上候儀、相認差上候様被仰聞候処、不分明の事故、書取には難申上段御断申上候処、不分明にても不苦候間、強て相認可差出御差図に付、此度右等を御証拠にて、御吟味にも相成候やの趣及承候。右は一体私共処存にては、異人焼払の事相決候得者、過日申上候同志五人の者へ申談置、私儀も年来清川懇意の者に付、如何様にも説解いたし、彼が処存為翻可申、若又不相止節は、忽言上可仕処存罷在候処、先頃清川儀、於途中下人を致殺害逃去候より事起り、同意の者近々御召捕に相成候段、右同人儀は人を殺し逃去候者故、御召捕の上御吟味有之候事当然の儀と奉存候。

 

外、清川懇意の者、事実不分明なるを御召捕、御重刑等に相成候而者、如何にも歎敷次第奉存。且、人命儀不用意大事。御国内の民何れ歟 将軍の子民ならざるはなしと乍恐奉存候。前條異人焼払儀相咄候に付、以偽策相断置候処、右にては向後先方の事実難相知候に付、私共両人為間者、假に同腹いたし探索可致被仰聞候に付、命を塵芥に比し相探候処、大事の儀は未決定とも不相成処、探索中如何様の事実聞込相成候哉、悉御召捕に相成、私共名前等も御申聞、可被及御対決段及承候。

 

左候而者一度同意致し、未事実相分不申内、右様成行候而者、何分士道、対面難仕、且は幕府の士、右様虚言申述、不分明の者をも召捕せ、己が栄利を相求候志と嘲を受候而者、何の有面目、諸藩屏の上に立居候事、相成可申哉。外に私共不存候悪行有之候得者不得止候得共、別段不分明の次第を以、御刑罰に相成候而者、私共に於ても士道如何にも不相立、且、公辺御徳澤を削候様乍恐奉存候。就ては彼等格別罪過無之候とも、此後如何様及企候も難計候間、御放逐は難被成候得共、一命御助御預けにも相成候はば、公辺には不分明の御処罰不被為在段、世上へも相顕れ、且、私共士道も相立候間、此段御深慮被成下、呉々も不失信義候様、御所置の程、奉願上候。以上。      山岡鉄太郎 松岡昌一郎