ⅩⅥの7 【埼玉県域の浪士組参加者たち(3)】

(は行~ )   16

 姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

蓮見源次郎

32

3番組

1人   ●埼玉郡戸ヶ崎村居住(三郷市)

「目録」に名なく、江戸帰還直後に加藤善次郎らと帰郷か。以後の去就不明。

神道無念流加藤善次郎の明治10年5月菖蒲神社奉額に門人名及び「建具師蓮見源次郎」とあり。

福永正蔵

40

道中世話役

母妻子4人 ・修験福永山正蔵

・文政7年生ヵ ・北有馬太郎門人

高麗郡赤工村住(飯能市)

「目録」に名なく、帰府直後に帰郷か。

福永山正蔵院に関し、『新編武蔵風土記稿』に「下赤工村、福山院と号す、本山修験郡中篠井村観音堂配下なり」と。現在廃院。

「北有馬太郎日記」安政51021日条に「正蔵院来行束修」、翌6310日条に「与(山川)達蔵正蔵院詣子権現社」、同年626日条に「正造院来」等とあり。※『漂白の志士・北有馬太郎の生涯』で当福永山正蔵院と長岡山正蔵(飯能市南川)とを混同したため、『埼玉の浪士たち』も福永正蔵を埼玉県域出身者から除外する誤りを犯しました。

武蔵国入間郡森戸村本山修験大徳院日記」弘化3119日条に「詩発会是ゟ一月三日位宛致ス人数者()赤工正蔵院玄有云々」と。又「赤工村正蔵泊』、「赤工正蔵院良山来泊云々(天保1512)」等の記事あり。

高麗神社祠掌高麗大記『桜陰筆記』元治元年611条に「大徳院正蔵院来る。五月廿二日寄合之模様、且正蔵院義先達江無届此度宗門武学館取立之願入ニ加リ候段大久保表ニ而詫済候由通達之事」、同月16日条に「正蔵院ニ逢、英士之約束申置候事(渋沢栄一の関東人選御用廻村に関し)」、翌年101日条に「正蔵院山川達蔵来る、帰る」等の記事あり。後の去就不明。

堀内大輔

 名・義信

36

一番組

不明 ・堀内庄右衛門政信子

秩父郡野上町(長瀞町)

「目録」に名なし。 ・「菅谷村報道」(嵐山町の広報紙)中「新徴組(9)」に文久3515日「水野倭一郎書出、堀内大輔、右の者は自分病気に付願済みの上帰国仕り、快方次第罷り出で御用相勤めべく申上ます」との記事あり。

野上光洞寺廃寺跡の墓地に、文政484日死没の堀内庄右衛門源政信(行年60)の墓石に「嫡子堀内大輔義信建之」とあり。大輔自身の墓石は確認できず。

堀内家は房州里見一族で甲斐の堀内城の城主だったが、里見一族滅亡後当地に土着して堀内と改姓し、維新後再び里見姓に復したという。(野上・里見某氏話)

細田市蔵

24

6番組

不明  ●入間郡黒須村(入間市)

「目録」に名なく去就不明。

甲源一刀流比留間家第2代半蔵利充の神文帖元治元年3月の項に「黒須村、細田一三」とあるという。(入間市の剣士たち』)

市内蓮華院の墓地に、「清巌壽□信士、浄月壽栄信女」と刻まれた夫婦墓の施主が細田市造」とあるが、墓誌は風化で判読できず。 ・細田家は屋号が「大屋」と称する酒屋(酒造業ヵ)で、維新後入間川の渡船場の管理をしていたと。

細田精一郎氏談「父から、曾祖父は新徴組に参加した人で、子供の頃、泣くとよく父から<泣くな、お前のひいお爺さんは二本差しで歩いた人なんだぞ>と言われたが、曾祖父は若くして亡くなったと聞いている」と。

吉野式『新徴組研究』第3号

松沢良作

 名・正景

41

四番組小頭

母妻子4人  ●大里郡富田村(寄居町)

甲源一刀流強矢良輔武行の高弟 ・邸内に道場開設

・門人帖(「神文帳」)219(信濃、越後、下野、上州等多岐に渡る)列記。中に浪士組士小沢勇作、中島政之進、町田政治郎の名あり。

安政48月妻沼の聖天山の貴惣門に奉額。額面に講武所頭取森川久右衛門の名あり。又、飯野清三郎、須永宗司の浪士組士や天然理心流横田馬之助行勝等と共に神文帳の人数を遥かに越える門人名が記されている。又願主松澤良作源正景の下に松澤主計源正信とあり、良作の子か。 

・小沢義光蛭川駒形神社の奉額の師匠席に松沢良作の名あり。

山岡鉄舟筆記「尊王攘夷党発起」中に「幹事、嵩春斎、桜田良助、松沢良作()」とあり。

広報誌「菅谷村(嵐山町)報道」に「富田の松澤、甲山の根岸より要請がありましたので水野倭一郎取計らい、内田、新井、松本その他の面々により相談の結果(浪士組に)参加したのであります」とあり。

中村維隆(『史談会速記録』合本19)の談話「(偽浪士朽葉新吉らを取抑えて)松沢良作といふ男に預けて置いた」と。 ・『東西紀聞』に「当地浪人共夥敷当月(文久34)二日ゟ五日此迄浅草御蔵前家持大家幷大伝馬町日本橋辺大家を見込押借()右五人頭立候而押込候由云々」として石坂周造らと共に松沢の名あり。 ・同月23日付浪士組有志一統の池田徳太郎宛書簡に「松沢良作事十四日夜出奔仕候へ共十五日へ欠込」とあり。

・松沢良作は和田理一郎と共に大関肥後守預となる。

奥平栄宜「明治戊辰變見聞録」に「明治元年三月二十八日出京松澤良作に会し石坂周造、村上俊五郎と共に勝安房、山岡鉄太郎両氏の命を受け、徳川幕臣誠忠隊三百余名下総流山に引集合せしめ彼等の徒を鎮撫云々」と。

墓は富田の大日堂墓地、「明治十二己卯年八月十八日行季六拾有一」とあり。

『藤岡屋日記』・『埼玉叢書』・『埼玉剣客列伝』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号・『幕末維新埼玉人物列伝』

松本為三郎

 名・年一

 通・半兵衛

21

1番組

父母妹3人 ・甲源一刀流道場主百姓松本半平(新井庄司師匠)長男 ・天保131115日生

比企郡上横田村住居(小川町)

新徴組入り ・「目録」に名なし ・小山松『新徴組』及び『歴史のなかの新選組』に95日脱退(依願永暇)と。

父松本半平は水野倭一郎の父年賀から甲源一刀流刀法を学ぶ。為三郎は水野倭一郎年次に学んだ。

甲源一刀流宗家逸見愛作の明治14年の宝登山神社奉額師範代席、同じ逸見愛作の靖国神社の奉額目代席、瀬山鉄五郎の明治45年の鎌形神社の奉額師範席の松本半兵衛の名あり。

為三郎の墓誌に「()弱冠劒法ヲ学ヒ兼テ算術ヲ□ム造詣スル所アリ、文久三年将軍家茂天下ノ壮士ヲ募ルニ応シ新徴組ニ入ル、幾許モ無ク父疾ニ會シ帰田、明治九年地租改正ノ事ニ當リ大ニ勉、晩年書翰墨ノ間ニ遊ヒ□花盆景ヲ娯ム、本田氏ニ配シ三男一女ヲ生ム、昭和4年十二月二日歿享年八十七長子為太郎家ヲ嗣ク云々」と。

・墓は上横田の曹洞宗輪禅寺

水野倭一郎

44

1番組

妻子孫6人 ・名主水野清吾年賀長男 ・文政5年生

比企郡志賀村(嵐山町)

父年賀は甲源一刀宗家逸見多四郎義年の高弟。根岸友山も年賀の門人。宗家5代多四郎長英の三峰神社の奉額(天保13)に「初目録、水野清吾年賀、男和一年次、属弟一千五百人」とある。 ・邸内の道場を「試関演武場」(『埼玉県教育史』に開設文政5年と)と称し、倭一郎も此処で修行し、父年賀死(嘉永2)後経営を引き継いだ。

新徴組入り ・「目録」に5番小頭、「組別名簿」に小頭として名あり。 ・元治元年229日達文に「右は昨年中剣術稽古出精上達ニ付、為御賞誉左衛門尉殿より小菊紙二束被下之、右は昨日達落ニ付、今日為心得及達候」として3名中水野倭一郎の名あり。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊伍長で名あり。 ・「戊辰庄内戦争録』に、8月5日山田(由利郡由利町)の庄内兵を攻撃してきた官兵に対して交戦、「(官兵)坂ヲ下リ畔ヲ渉リテ引退ク処ヲ二番半隊山田官司ヲ先トシテ山ヲ駆下シ二番三番隊一手ニ成テ追撃ス山田官司水野倭一郎太刀打撃ニテ敵一人ヲ相討ス」と。

・この戦役には倭一郎の3男令三郎も2番隊平士として出陣し9月19日負傷(『庄内戊辰戦争録』)113日死去した。湯田川新徴組墓地の令三郎の墓誌に「()父ト共ニ新徴隊士トシテ庄内ニ来リ、明治元年七月ヨリ各方面ニ勇戦セリ、或ハ北境鳥海山ノ頂上ヨリ八嶋城ヲ焼打シ転ジテ南越後境ノ関川ニ於テ官軍ト戦匕、終ニ銃丸ニ膝ヲ打抜ヵレ病創ノ為明治元年十一月永眠セリ」とあり。 ・志賀の水野家墓地にも令三郎の碑あり。

「開墾士氏名」に名なし。明治77月熊谷県に貫属替(倭一郎の墓誌や『嵐山町史』には明治8年とある)

宝登山神社逸見愛作の奉額に名あり、

倭一郎の墓誌に「新徴隊剣之師範及小頭兼務」とあり、『嵐山町史』に「倭一郎は五番組小頭、剣術師範となり」とあるが、根拠不明。

明治36年歿 ・享年81歳 ・墓は志賀の水野家墓地

『埼玉県人物事典』・『埼玉剣客列伝』・小山松『新徴組』・「埼玉県武道家資料蒐集事業資料」・『埼玉大学紀要』・吉野式『幕末諸隊研究』第四号・『幕末維新埼玉人物列伝』

村田新作

36

1番組

妻子2人   ●比企郡平村住(東松山市)

小山松「浪士組上京日記」に「二月二十四日、脱退者、池田徳太郎、村田新作、町田政次郎」とあり。

「目録」に名なし ・去就不明

薮田幾馬

37

5番組

不明  ●武州忍浪人、当時小川町与力尾崎三蔵地借田中良吉同居。

脱退時期、その後の去就等一切不明。

嘉永6年忍藩松平忠国家中分限帳に薮田姓の藩士名あり。

山川竹蔵

28

道中世話役

不明 ・山川文次郎子 ・天保7年生 ・山川達造弟

高麗郡下赤工村住居(飯能市)

北有馬太郎門人。安政56月頃入門、「北有馬太郎日記」翌726日条に「晩万福寺と山川氏を訪ねる()赤工に達す(名栗川の)対岸乃山川氏宅の後也。達造竹蔵水を渡って迎えに来る。夜宿る」と、以後日記中に兄弟の名頻出。なお山川家は屋号「質屋」と呼ばれたと。又同日記翌61128日条に「与山川竹蔵其弟春之輔来」、翌月26日条に「山川竹蔵山川春之輔去」と。

兄達蔵及び弟春之輔も北有馬太郎の門人であった。

新徴組入り ・「目録」32番三上七良平士 ・「組別名簿」桜井彦太郎組平士 ・文久311月脱退(小山松『新徴組』) ・『相楽総三とその同志』に「山川竹蔵は新徴組にいるとき小頭桜井万之助と争って斬られたという経歴がある云々」と。

文久312晦日付竹蔵の池田徳太郎宛書翰に「高橋君は当二十八日二の丸御留格にて講武所槍術師範役に被為成候、山岡君は未其儘に有之、此儀御周旋の程奉願候」とか「夷狄之蟲日本の地を喰ひ人民塗炭の苦九死一生も難斗、君之良薬を以て天下に施し彼蟲一時に云々」等とあるが新徴組脱退の記述なし。

相楽総三とその同志』に「薩邸焼討のとき鮫洲へ行かずに四散したものが多い。その中で判明しているものは」として「山川竹蔵、武州飯能、新徴組」とある。しかし「赤報記」中「江門著到人名」に「山川竹蔵、卯十一月帰郷元新徴組武州五郡飯能産」とある。

「町会議員当選の廻文と諸役員占拠の通知」に「下赤工邨、村総代(3)中に山川竹蔵の名あり。明治17年原市場村連合会議員下赤工村連合会議員に名あり。

大正5217日歿、享年82歳・墓は山川家墓地

「維新志士池田徳太郎」・『飯能市史』資料編・「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』)・『幕末維新埼玉人物列伝』

山川達造

32

道中世話役

両親妻子4人 ・山川文次郎長男 ・天保3711日生 ・山川竹蔵の兄

高麗郡下赤工村居住(飯能市)

北有馬太郎門人。「北有馬太郎日記」安政631日条に「携山川達蔵及曲竹乳婆抵奥富」、翌2日条に「遣達蔵乳婆及阿綱于江戸」、同月7日に「留乳婆于奥富、独与達蔵帰小瀬戸」とある(安井息軒の娘と離縁し嫡子小太郎を引き取ったのであ。)又、同月10日には「与達蔵、正蔵院詣子権現社」、826日条に「与達蔵出遊経原市場、芦久保、武甲山云々」等あり。

山岡鉄太郎清河八郎連名の池田徳太郎宛文久3120日付書簡に「()達氏にも口演仕候得共御恕察之上(浪士組士として)引集候人々には疑慮相生不申様御工夫、早々御誘引御出可被成()出府迄の処は御苦心有之度彼是多雑意外之苦心不能委細達氏より御聞取可被下候云々」とある達氏は達蔵と思われる。なお、池田徳太郎が武州上州等の浪士徴募に際し懐中にしたメモ書きに山川達蔵の名あり(『維新志士池田徳太郎』)

新徴組入り ・文久3519日世話役に選出されるも、その後の去就不明。

・達造の池田徳太郎宛同年418日付東帰要請の書翰中に「今以て御帰府にも不相成、将又御文通も御贈り無之甚以御案事申上候、何れにも御安否早々被仰聞被下様奉願候云々」とあり。

高麗神社祠掌高麗大記『桜陰筆記』慶応元年1020日条に「正蔵院、山川達蔵来る云々」とあり。

倉田施報「北有馬百之略傳」に「(文久元年5月師北有馬太郎捕縛に際し)門人山川達蔵急に家中の書を集め四方交通の文の如きは挙て之を火に投じ、以て其證左を滅し、其他は皆擢取して己れの家に秘し、令子の年やや長ずるを待て之を傳□、故を以て今尚幸に存せり云々」とあり。

・北有馬太郎嫡男安井小太郎略傳に「父は間もなく傳馬町の牢で病死した。時に文久元年九月三日。この間、私達(姉あり)は、赤工村に父の門人の山川達蔵といふ人がゐたので、ここに厄介になった。私はまだ生れて一年も立たない、ここで私は乳の代わりに甘酒ばかりをのまされました。この山川達蔵といふ人は、工科大学の教授となった山川義太郎の父であります云々」(『大東文化』第17)とある。

 ※達蔵の長男義太郎は工学博士、2男信次郎は文学士、3男弘毅は理学士。

『飯能人物誌』山川義太郎の条に「その父辰蔵は県令として自治に尽くし云々」と。 ・明治127月下赤工村戸長となる。他は未確認。

明治23221日歿、 墓は赤工の山川家墓地

『維新志士池田徳太郎』・『幕末維新埼玉人物列伝』

山岸金十郎

28

1番組

親妻子4人  ●比企郡高谷村住(小川町)

新徴組入り ・文久395日脱退、以後の去就不明。 ・「菅谷村報道」(嵐山町菅谷)に「五月十五日水野倭一郎書出、山岸金十郎、右者は親病気に付願済の上帰国仰せ付られ候、両三日の内出府云々」と。

湯本半蔵

29

 

母兄弟3人 ・勘五郎子

埼玉郡羽生村(羽生市)

新徴組入り ・「目録」に13番分部泉(宗ヵ)右衛門組平士湯本半蔵 ・「組別名簿」に小頭天野静一郎組平士湯本半蔵 ・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に湯本逸蔵、以後「明細書麁調」に湯本逸平とある以外逸蔵の名。

慶応4年庄内入り(家族2) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士に名あり 千葉「新徴組と庄内藩」に「(816越後国)高畑山の1番先に突出した場所には、大森浜は馬場兵介、長沢松弥、荒井荘蔵、小林守之助、湯本逸蔵、千葉弥一郎の七人であったが、午前十一時頃敵が進撃してきた」が防戦の結果不残逃げて戦は終わった、と。

・「開墾士氏名」に名なし。以後の去就不明。

・『歴史のなかの新選組』に「明治88月現在庄内在住の湯本安五郎は関係者か?」とあるが。

横山明

後・立山奇平

31

6番組

不明  ●川越浪人(川越在紺屋村とも) 当時斎藤熊三郎同居

新徴組入り ・「目録」に11番大内志津馬組平士

・「組別名簿」に小頭大内志津馬平士で名あり。・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に名なし。

・『藤岡屋日記』元治元年45日条に「右(大内志津馬組勝田芳蔵、横山明)は細川越中守瀧口居屋敷ニ罷在候留守居、渡辺善右衛門江戸抱六尺手廻り之者部屋ニ而、金銭勘定等之儀ニ付而は、右之両人目を付、其筋江懸ケ合、追々ニ最早五十両程も差出候由、然ル処又々此度五十両之無心申懸候ニ付、(大幅略)内々前文相話候処、以之外之儀、手前方(酒井左衛門尉留守居)ニ而組合志津馬呼出し、急度可申付旨、彼方ゟ返答有之、其後一度(もヵ)参り不申候由」と。

「赤報記」に「立山奇平、初名横山明平、小荷駄方、武川コヘ」、又薩邸脱出後「羽根田上陸」者の中に名あり。慶応43月下諏訪での追放者の中に名あり。

・『相楽総三とその同志』に「相楽総三の隊が、濃州柏原へ宿神したのは慶応四年正月二十七日で()二十八日大久手の宿で大谷総司(後の渋谷総司)、丸尾雄蔵(後の丸尾清)横山明平が三人づれで追いついて合流した」と、又「横山明(立山奇平)は道化たことのうまい男だったが、下諏訪で追放され、江戸へ出て官軍に斬り殺されたとも、会津人に斬られて死んだともいう」とあり。

高橋長信(雲州冬広)作刀の銘に「於江府雲州高橋長信作之、高木氏用刀山田官司横山明平試之裁鹿角、文久三年二月日」とあると。

相楽総三関係史料集』 ・「日野市歴史館叢書」第6輯、或は10

吉野唯五郎

29

1番組

祖母妻子6人 百姓助右衛門子

比企郡羽尾村住居(滑川町)

甲源一刀流刀法を学ぶ(師不明) ・中村清介の兵執神社の奉額(明治27)靖国神社逸見愛作の奉額(明治28)小鹿野神社の逸見愛作の奉額(明治28)、箭弓神社の大塚□八の奉額の師範席に吉野唯五郎の名あり。

「目録」に名なし、しかし「柚原鑑五郎日記」文久38月条に「今日組入、山田官司組合へ坂本周助、吉野唯五郎」とあり。

吉野唯五郎の養子吉野茂一も甲源一刀流の剣術家で、「上武武術英名録」等に名あり。

明治351119日歿 享年67歳 ・墓は吉野家裏山の吉野家墓地。

埼玉大学紀要』・吉野式『幕末諸隊研究』第四号

和田堯蔵

44

3番組

妻子五人  ●松平大和守浪人 ・当時信州更科郡真田信濃守領分住居

文久3415評定所に召喚され処分された者の中に和田堯蔵あり。 

新徴組入り ・「目録」に和田堯蔵組(配下4)あり

・「組別名簿」に名なく去就不明。