17 忘れられた傑士勝野豊作

1 出自と人となり

 

薩摩藩尊王攘夷派の志士有馬新七(正義・括弧内は原注とない限り筆者注記、以下同様)の「都日記」の中に、「此は秋の半過(安政5年)八月廿九日の夜になむありける。竊に日下部氏が(中略)家に至りて宿り、水戸の殿人鮎澤伊太夫、征夷府の家人勝野豊作等の人々も集来て、夜もすがら酒飲みかはし、天下の形勢を深切に物語りしつ、寅の刻比宿を立出でぬ。都に疾く行かまほしく云々」、という一節がある。

 

 ここに名のある日下部氏とは、薩摩藩士日下部伊三治(信政)である。日下部の父連(訥斎)は、もと海江田と称した薩摩藩士で、故あって脱藩して諸国を遊歴の後に水戸領内に住し、郷校益習館の館守を勤めた。伊三冶はここで生まれ、郷校益習館の監事に抜擢されて槍術・学問の教授となり、父没後はその跡を継いで館守となった(瀬谷義彦著『水戸藩郷校の史的研究』)。弘化元年(1844)藩主徳川斉昭が幕譴を蒙ると、伊三治はその雪寃に奔走した。後に幕臣川路聖謨の知遇を得、安政2年(1855)には薩摩藩への復帰を許され、江戸藩邸糾合所の訓導に挙げられていた。

 

また、鮎澤伊太夫(国維)は、大老井伊直弼暗殺の中心人物水戸藩士高橋多一郎(愛諸)実弟で、天保の末年に鮎澤正行の養子となり、藩校弘道館の舎長となった。日下部伊三冶同様に兄と共に烈公斉昭の雪寃運動に奔走し、一時は罰せられたが、この当時は勘定奉行の職にあった。

 

 そして、もう1人の勝野豊作は、祿高2100石余の旗本阿倍四郎五郎家の家臣で、名は正道、字は仁卿、台山と号した。文化5年(1808)、勝野六太夫正弘の子として江戸神田橋外小川町で生まれている。「尾張屋版・江戸切絵図」によれば、阿倍四郎五郎の屋敷が小川町にあるので、勝野家は阿倍家の屋敷の一角にあったと思われる。

 

東京大学史料編纂所所蔵の「勝野正満手記」(正満は豊作次男・以下「手記」という)によれば、勝野家は清和源氏嫡流源頼信の子乙葉三郎頼秀の後裔で、仁科氏を称して信濃で栄えたが、武田晴信によって滅ぼされ、その(仁科盛政か)遺児2人が家臣勝野角左衛門に育てられたという。2人は以後「勝野」を姓として、兄五太夫は井伊家に仕えた。しかし、弟六太夫(正清か)は仕官を好まず、後に阿倍四郎五郎にその武勇を愛されて、その賓客となったという。

 

「手記」には、勝野家は「表面ハ(阿部氏の)家来ト唱ルモ客分ニテ宴席ナト常ニ阿部氏ニ同席シ」、「阿倍氏ノ家政取締向等総テ顧門」であったとある。『井伊家資料幕末風聞探索書』に収載される安政5年中の井伊家徒目付等の探索報告書にも、「豊作先祖と十次郎先祖とは儀契の交り致し候者にて、十次郎先祖被召出候以来客分の扱ひにて家来に相成り、累代弐百石余宛行置」」とか、「阿倍家の事は豊作存意次第之由」と記されている。ここに「十次郎」とあるのは、先代阿倍四郎五郎政成が弘化4年に死去し、継子十次郎がまだ幼かったことによる。また、「手記」によれば、勝野家の祿高は表向き200石のところ、阿倍家知行所中の不毛の地を拓き、実質は300石余りもあったという。

 

勝野豊作の人物風采については、安政の大獄の際の手配書に、「歳五十位、丈高く太ク、形角顔、色白く、赤身有之、眉毛濃く、前髪之跡細く明居候、髪いてふ、江戸言葉、静成方」とある。その人となりについては、茨城県教育会刊行の『勤王実記水戸烈士傳』(以下「水戸烈士傳」という)に、「俊爽にして気慨あり。好んで書を読み、文雅を嗜み、又武技を善くし、最も槍剣に長じ、古侠者の風あり、然れども謙挹にして圭角を露はさず(中略)屡人の困厄を救う」とある。文武二道に長じた人であったのだ。

 

2 その交友

 

 伊勢松坂の国学者世古格太郎の『唱義聞見録』に、「勝野は文学を好み且武備あり、慷慨の士にして、交わり広く有名の士なり。常に水府へ出入し、藤森弘庵日下部等も友たり」とある。また、『水戸烈士傳』にも、「(勝野は)凡そ都下に在り文武を以て名ある者は其の面を知らざる者なく、力士俳優雑技の徒に至るまで相往来して交際頗る広し。鴻儒尾藤髙蔵の如き又能く交誼を厚うす云々」と記されている。

 

ここに名のある藤森弘庵は、当時高名な漢学者である。弘庵は、安政の大獄で拘引された際の幕吏の尋問に対して、「是(勝野)ハ随分心安く仕候云々」と答えている。また尾藤髙蔵とは、寛政三博士の1人尾藤二洲の子である。『義烈傳纂稿』に、「正道又尾藤水竹ト善シ(中略)憂時慨世ノ意ヲ寓シ論甚タ正道ト合ヘリ」とある。『水戸烈士傳』には、「正道春花秋月の賞遊に尾藤を伴ふ、尾藤は赤貧洗うが如く常に衣物を典売し、外出に障碍あるを以て、正道之を償復し相携へて遊ぶを例とす」と、2人の親交の深かったことが記されている。

 

幕臣儒者の乙骨耐軒(彦四郎)の日記の嘉永2年(1849323日の条に、「水竹宅観梅、会者、牧、臺、余、石州、淵、諸木雄」とあり、勝野と尾藤髙蔵との交友の一端が窺える。この日の、尾藤家の観梅客中、「臺」は勝野豊作。日記の主乙骨耐軒は、天保14年(1843)に昌平校助教から甲府徽典館の初代学頭となった人で、弘化2年以来江戸にあった。嘉永6年には再び徽典館の学頭に挙げられている。

 

また「牧」とあるのは、高松藩江戸藩邸学問所の文学兼侍講牧野黙庵(唯助)である。ちなみに、黙庵はこの年7月に54歳で没している。「石州」は石川和助で、後に関藤藤陰と称した福山藩の儒者。「淵」とは幕府の徒目付安藤伝蔵で、龍淵と号し、市河米庵等に学んで隷書を善くした。この安藤伝蔵については、高橋多一郎の『遠近橋』に、「伝蔵は四拾余の人にて、兄の跡を継順養子に仕候。兄の子有之に付、自分は妻を嫁り候得は子供も出来、甥の難儀に相成候事気の毒に存、独りにて被居候処、勝野抔有志の者打寄相進、此頃妻を取り申候との由、一体潔白なる人にて清貧に有之、万事勝野助力を受申候との事」、との逸話が記されている。後に勘定奉行格寄場奉行から信濃国中之条代官、甲斐国市川代官をへて関東代官となった人である。

 

乙骨耐軒の日記にあるもう1人「諸木雄」とは、諸木雄介で、後年勝野の次男保三郎(正満)の烏帽子親となった人である。「手記」には、「福山藩士」と明記されているが、その人物像は管見にして定かではない。なお、乙骨耐軒日記の翌年112日の条に、耐軒がこの日「贈諸木」と題する2詩を詠んだことが記され、そこに「余屡与君及野臺山、西拙脩会飲于湖楼」と詩書されている。「野臺山」は勝野豊作であり、「湖楼」とあるのは、横山湖山の家である。

 

横山湖山は後に姓を小野と改めた。梁川星巌の玉池吟社で塾頭を勤めた人で、詩人として名高く、後に吉田藩の儒官となった。湖山が梁川星巌に宛てた安政5710日付けの書中に、「此の人(勝野)小生には無二の旧心者にて、当時国家の御為心思を焦がし候事、恐らく府下には比類なき忠実の士に御座候」とある。勝野の死後、湖山は「臺山勝野君碣銘」を撰している。しばしば耐軒や勝野と湖山邸を訪れて会飲したもう1人の「西拙脩」とは、幕臣中西忠蔵である。諸木雄介と共に古賀侗庵に学んで詩文を善くした。

 

 勝野豊作は、幕臣で漢学者の林鶴梁(伊太郎)とも昵懇であった。林鶴梁の日記(『鶴梁日記』)に、勝野の名が散見されるが、嘉永3217日の条に、「赴浅野中務少輔招飲、別延也。(中略)水竹不快断り。相客、添川、石川、大要、勝野(下略)」と記されている。浅野中務少輔は、3500石の旗本浅野梅堂で、当時浦賀奉行の任にあった。「添川」は会津人の添川寛平で、安中藩邸学問所の講師であった。「石川」は石川和助、「大要」とは土浦藩主の信任厚い大久保要(親春)である。

 

 「類を以て集まる」という。当時の知名人と勝野との交友を記せば枚挙にいとまがない。「手記」によれば、小笠原敬次郎(後の唐津藩壱岐守長行)が勝野家に出入りしていたことや、勝野が禁獄された高島秋帆の宥免に尽力したことなども確認できる。

 

3 水戸人士との交友

 

 勝野豊作の交友については、『水戸烈士傳』の中に、さらに「藤田虎之介(後誠之進・彪)、安島弥次郎(後帯刀・信立)、高橋多一郎(愛諸)、大野謙介等と親み、就中、大野と刎頸の交をなせり」と記されている。この4人は、いずれも水戸藩士である。

 

 藤田虎之介(東湖)と勝野の関係について、横山湖山が草した「東湖詩鈔」の序文に、「勝仁卿ハ、先生ト交ルコト兄弟ノ如シ」とある。同文中にはまた、「嘗テ仁卿ト先生ヲ礫川ノ邸舎ニ訪フ云々」と、正道と湖山の2人で、小梅の水戸藩邸に藤田虎之介を訪ねた際の逸話が記されている。

 

安島弥次郎は、藩主斉昭の信任厚い家老。その安島が安政5年春、藩主慶篤の継室(広幡基豊の娘)を迎えるために上洛した際、勝野が梁川星巌に安島を紹介した書簡(316日付け)がある。そこには、「此度水戸重臣安島弥太郎姫君御迎として上京披致候に付、老先生拝顔願敷き御座候間、委細横山氏に内話仕り、同人より別封差上申候云々」とある。この安島の上洛に関し、星巌が佐久間象山に宛てた同年45日付け書中に、「安島彌次郎上京、此の人は藤田の跡。彼は戸田の直弟、忠直の人物の由にて、勝野豊作方より老拙に逢ひ候様、書面にて申し越し候。昨日入京」と記されている。これによれば、勝野は佐久間象山とも交友があったらしい。

 

高橋多一郎は、天保12年以来奥右筆の職にあったが、弘化元年、藩主斉昭が藩政改革に関連して幕譴を蒙ると、その寃を雪ぐために奔走した。藤田東湖は「こころのあと」の中で、「雪寃の首功は多一郎に推すべし」と記している。『遠近橋』は、その多一郎が雪寃運動の顛末を記した編著である。その『遠近橋』に、弘化4518関興衛門が勝野の伝言として高橋に話した中に、「不得拝顔して、書通のみ恐入候事候間、近々常陸の地行所へ廻りに出申候間、其節参堂得拝顔候迄、御無沙汰候段云々」とある。この後、勝野が常陸の地行所(筑波山麗)を訪れ、高橋多一郎を訪ねたのだろう。同年11月に高橋が実弟鮎澤伊太夫に宛てた書簡には、「安傳へも勝宅にて対面、酒宴長座」とある。今度は、高橋多一郎が勝野家を訪ねたのである。「安傳」は、安藤傳蔵である。

 

勝野の伝言を高橋多一郎に伝えた関興衛門は、大野健介の変名である。『遠近橋』には、「水戸郷士」或いは「元郡同心」とあり、また、「大野健と云者、嘆願に出て落魄す。旗下の士阿部四郎五郎家長勝野豊作(文武の士也)の家に寓す」とも記されている。さらに、斉昭の雪寃に奔走していた鮎澤伊太夫等の、嘉永元年7月の高橋多一郎宛て報告書に、「神田橋勝豊へ参り(中略)興之儀に付、兼々厚く預御世話、謝言之申様も無之所相述申候」とある。「興」は関興衛門、即ち大野健介である。大野は勝野家を足場に、江戸で斉昭の雪寃運動に奔走していたのである。なお、この人物については、次稿以降で詳述する予定です。

 

 これより以前、弘化33月に頼山陽の子頼三樹三郎が昌平校を退寮となった際、三樹三郎が大野健介に宛てた書簡に、「先生の窮も固より存じ居りナガラ、甚だ以て厚面皮と思し召され候はんなれども、誠に以て両圓バカリ、これなくては寮中及び諸払、月俸等に相困り申し候。(略)今壹圓之処、何卒御救ひ下され候義相成らず候や、何卒何卒宜敷御酌取御返事待入り候」等と記されている。

 

 この頼三樹三郎と勝野の関係について、三樹三郎の門人だった薄井龍之(督太郎・信濃国飯田の人)の著『頼三樹の人物』に、三樹三郎が乱酔して事件を起こし、古賀侗庵の塾を破門された際、勝野家で暫く世話になったことが記されている。また同人の「江東夜話」には、薄龍之が三樹三郎に江戸で兵学を学びたい旨を相談したところ、「身分は低いが学識もあり、交際も広い」勝野が「極懇意である」ので紹介してやろうということで、勝野家で1ヶ月程「大きに深切に世話をして」貰っていたことが記されている。

 

 斉昭の雪寃には、勝野自身も尽力した。『遠近橋』の弘化3313日の条に、「尾藤、阿閣(老中阿部正弘)への呈書有之由、近々廻し呉候様勝野申遣置候」とあるなど、勝野は尾藤髙蔵、安藤伝蔵等と共に雪寃に奔走している外、その縁者である小石川水戸藩邸の奥女中を通じて、藩邸内の事情を諜報していたことが、『遠近橋』に記されている。

 

高橋多一郎の江戸城大奥対策や、水戸士民挙げての激しい運動、そして勝野を始めとする諸有志の熱心な奔走もあって、嘉永23月、斉昭の藩政への復帰が許されている。勝野は後に斉昭から、「盡忠報国」の四字を大書して贈られたという。

 

4 水戸藩への密勅降下運動

 

安政56月、大老井伊直弼は、朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を締結し、同月、徳川慶福の将軍後継を発表、その翌月4日には、違勅条約締結に異議を唱えて不時登城した徳川斉昭尾張・越前・水戸の藩主等を処罰した。

 

違勅条約調印のあった620日付けで、長崎の篆刻師小曾根乾堂が、福井藩橋本左内に宛てた書中に、「仰ぎ願くば、明日七ツ時頃より御降駕被下度、勝野主人も頻りに渇想之様子、一同相楽居申候」(『橋本景岳全集』)と記されている。「勝野主人」とは勝野豊作である。翌月1日付けで勝野が左内に宛てた書中には、「昨朝は寛々得拝顔大慶仕候。其節今夕罷出候様申上置候所、無據差支出来御断申上候、明夕は必ず参上可仕候」とある。左内は勝野との関係について、後日奉行所役人の尋問の際、「当夏此印剋師遠方より豊作方へ来り居候故、夫者ニ印章相頼候ニ付、両度罷越候処、被印剋師より宅ノ主人豊作私へ面会相度趣申聞候由相咄候故」面会したと語っているが、面会の内容は分明でない。

 

安政5710日、勝野は日下部伊三治と共に、安島帯刀や鮎沢伊太夫等に送られて、夜陰に紛れて江戸を発った(『水戸藩史料』等)。朝廷の力を借りて、大老井伊直弼等の奸臣を幕政から除き、斉昭等の復権を図るためであった。「手記」に、「七月十日ノ夜半厳君(豊作)江戸ヲ発シテ潜ニ上京セラレ、予随従ス」とある。勝野は次子保三郎を伴っていたのだ。また「手記」には、その夜中山道の庚申塚に大野健介が待ち受けていて、蕨宿で密談数刻にして別れたとあり、『信濃人物誌』に、「一旦郷里切久保ニ帰リ、祖祖の墓ニ展墓したのち上京した」とある。『賜勅始末』には、「日下部は途に安中に泊し、其の藩の山田三郎に其の意を告げて去る」とあるので、2人は別行動をとったのである。

 

「手記」によれば勝野父子は、同月21日に大阪城代土屋寅直(土浦藩)の公用人大久保要の屋敷に投じ、勝野は「二日を経て」保三郎を大久保家に残して上京。その晩、日下部伊三治も大久保家に至り、即夜上京したとある。

 

上京後の勝野は梁川星巌頼三樹三郎、伊丹蔵人等の協力のもと、青連院宮尊融親王に、また日下部は近衛家や三条家に働き掛けたらしい。82日付けで勝野が青蓮院宮に奉った建言書がある。そこには「奸臣共右様夷狄を信じ、宗室(御三家)を倒し、幼主(慶福)を挟て権を壇にし、言語を塞ぎ上下隔絶徳川家の危難如此は未有之候」、このままでは「必ず内乱を引出し候様可相成」ため、「早々に勅を以被召呼、違勅の奸臣共相除、先づ国家の大害」を除き去るように等、と記されている。

 

水戸藩に密勅が降ったのは、それから6日後のことであった。「手記」によれば、大久保要は保三郎に対して、「厳父等ノ尽力」によって水戸家に密勅が下ったが、「其文意甚タ手ヌルシ、此ノ如クナランニハ勅意ノ貫徹覚束依テハ直ニ上京厳父ニ其旨ヲ伝フ可シト」命じたという。保三郎は直ちに上京したものの、既に勅諚を奉載した鵜飼幸吉と日下部伊三治は離京の後であった。その後勝野父子も京都を発ち、「廿六日戸塚駅ニテ大野氏に出会、同道品川駅(中略)ニ宿シ」、翌日勝野は安藤傳蔵家へ、保三郎は大野家に2泊して帰宅した。

 

5 安政の大獄とその死

 

 有馬新七の『都日記』に、「征夷府の事情を詳に朝廷辺に奏し奉り、彼奸賊を誅戮ひ、夷狄等を払ひ平げ、我中将君斉彬公の御遺志を継奉り、朝廷辺を鎮め奉らむ者ぞと云々」との一節がある。有馬は先の密勅が、水戸藩の因循によって功を奏さなかったため、朝廷に再度の勅諚降下を願うため、上京しようとしていたのである。本稿冒頭の『都日記』の日下部伊三治家での別宴の様子は、この時のことである。勝野父子が江戸に戻った3日後のことであった。有馬新七は上洛後、西郷隆盛や僧月照の支援を得て、先の密勅の写しと三條実万の直書を手に916日帰府した。

 

 有馬新七在京中の97日には、梅田雲浜が就縛された。大獄の始まりであった。有馬離京の前日10日には、難を避ける月照を送って西郷隆盛も京都を去った。有馬新七帰府翌日には、江戸で飯泉喜内が、その翌18日には、京都で鵜飼吉左衛門父子が捕縛された。「手記」に、「爾来(京都から戻って以来)厳父ハ戒心アリ、出入毎ニ必ス予ヲ供ニサレタリ」とある。勝野も身の危険を感じていたのである。

 

 そうした中の同月25日、高橋多一郎から勝野に招きがあった。「手記」によれば、行徳駅(千葉県市川市)で会いたいとのことで、勝野が保三郎を伴ってそこに赴くと、「都合アリテ舟橋ニ越シタレハ直ニ同所ニ来レ、尤帰路モ自ラ護衛ノアルアリ愁ル勿レト、爰ニテ予ハ去リ、厳父ハ舟橋駅ニ一宿シテ」帰ったとある。この時、二2人の間でどの様な会話が交わされたかは不明だが、高橋多一郎が関鉄之助に宛てた翌月2日付けの書中に、「臺山ハ過日同舟之通其後も相携念五予を舟橋駅舎へ逐来リ、一夜寝物語リ血涙紛々酌取の紅袗怪しみ去申候。御一笑〱翌朝をおしみ四時分手此真情御察可被下候、十五年水魚之知己故身ニ引受両三子之処ハ請負居申候」とある。

 

 勝野家に北町奉行所の取方が踏み込んだのは、勝野が舟橋から戻った翌日夕刻のことであった。その同じ27日(有馬新七の日記には23日とある)、日下部伊三治が捕縛された。『唱義聞見録』に、「此日(日下部捕縛の日)勝野豊作来り合せ時事を談じ居ける時なりけれど豊作は幕吏其人を知らざれば免れ、夫より家に帰らす直に出奔しけり。果して豊作の家にも同時に取方向ひけるなり」とある。しかし、「手記」には、捕吏が勝野家に踏み込んだ時勝野は家に在って、長男森之助と保三郎の機転によってその場から逃亡したとある。この時、勝野本人は危難を免れたものの、その後森之助が三宅島に流罪、妻、保三郎と娘の3人が50日間の押込めに処されることとなった。

 

渡辺盛衛著『有馬新七先生傳記及遺稿』に載る有馬の日記断片の、勝野出奔3日後の101日の条に、「越長の返答に依ては九日登城是非(井伊大老を)討取るべし。幸にして万一逃るる路あらば、京都に馳登るべし(中略)且勝野豊作に切手の事(後文散逸)」と記されている。有馬新七たちは、日下部伊三治等が就縛されるに及んで、井伊大老斬奸を決意したのである

 

先の日記はその後が散逸しているため、勝野の大老斬奸計画への係わりの詳細は不明だが、「切手」とは「斬り手」のことだろうか。もっとも、この計画は実行されるには至らなかった。前越前藩主松平慶永が、「自ら潜て都に馳上り、朝廷を奉衛護て奸賊を討つの策を決定」(『都日記』)したからである。有馬はこれに呼応するため、すぐさま旅立ったのである。

 

その後の勝野については、『水戸烈士傳』に「水戸藩邸に入り、大野又は尼子長三郎(恒久)の家に匿る」とある。しかし、勝野は翌安政61019日に病没した。享年は51歳であった。『水戸藩死事録』に、「大野密に屍を水戸大戸村の人大野内蔵太に託し、之を其地に葬らしむ」とある。大野内蔵太は健介の甥で、健介同様に国事に奔走した水戸郷士で、慶応2年(18668月獄死している。その大野家近くの山中に、勝野豊作は手厚く葬られた。後年従四位が追贈されている。

 

※本稿は、『歴史研究』第633号に掲載されたものに一部手を加えています。

 

※追記:勝野豊作の次男保三郎(正満)文久3年の浪士組の上洛時、4番組の平士として参加していたことは「東京都・千葉県域の浪士組参加者たち」で明らかにし、父豊作逃亡に関連して50日の押し込めとなったことも記しました。また、この稿でも、保三郎の母や妹も保三郎と同じ処分を受け、兄森之助(正倫)が三宅島へ流罪となったことは簡単に触れましたが、4人が投獄され尋問を受けた際の悲しい有様が、世古格太郎の「唱義聞見録」に記されているので、以下に転載します。なお、世古格太郎も安政の大獄で投獄された人であることは御承知のとおりです。

 

なお、保之助の兄勝野森之助については、残念ながらその名さえ知る人は皆無に近いと思います。この人については、「義烈傳纂稿」に「勝野森之助傳」があり、その中に「森之助長身白皙與人言語、性情温柔婦女子、而於弓馬鎗刀諸技皆極、其師傳之秘之秘、死時年未三十云々」とあります。鷲津毅堂や坂谷朗盧、小野湖山等とも親しく交際した傑出した人物だったようです。

 

〇「唱義聞見録」中、「勝野森之助」の項より(文中、句読点等を挿入してあります)

・豊作男なり。戊午十月十八日弟保三郎と倶に牢屋敷預となり、其後度々吟味あり。翌己未六月後、予が吟味に出たる時にもた度々其面を見たり。同十月十二日夜吟味の時は、留役浅野彌一郎と互に大声にて争ひけり。此時予も同時に吟味なりければ、目撃した事なりき。同月二十七日父の罪科によりて遠島申渡たり。其罪状は聞留む事を得さりき。此時年三十歳。

 

・弟保三郎同時押込申付られたり二十二歳なり。

 

・豊作妻ちか、娘ゆう、度々評定所にて予其面を見たり。午十月十八日囚につきたる時は、牢屋敷預けとなりけると聞きしに、未六月予と同日評定所に出たる時は、主人阿部十次郎預りなりといへり。十月二十七日両人とも押込申付られ、申渡文中に、夫の危難見捨かたく書付類不残火中致し候儀於人情左も可有筈なれとも云々申付るとあり。予同日の所置なりけれは、傍に有てこれを聞所なり。

 

・此時森之助既に遠島申付られ白洲に引落し腰縄に付て平伏したるを、母妻押込故、椽の上よりこれを見たる事なれは、是生涯の離別実に断腸の思ひなるへしと、予も竊に楸然たり。斯て母子表の間へ退き出て甚た涕泣せしに、殊に妻は誠に声を揚て悲慟し、懐中紙を顔に当てたるに涙にて瀝るはかりにしと。その号哭の声床に響き、頓ち両眼腫れ、明を失ひし如く流るゝ涙実に瀧の如くとなりしなり。是予か預り人辻某対座して見る処を後に語れり。此時母ちか四十九歳、娘ゆり二十四歳なり。

 

〇勝野森之助は文久3年の大赦により江戸に帰ったが、その年の928日に病没した。母ちかも、その前年12月に息子の姿を見ることなく逝去した。文中「母妻押込故」とあるが森之助の妻が押込となったとは聞かない。「妻」は「妹」の誤りか。森之助の妻については、保之助の「手記」中にも見当たらない。