16の3 村上俊五郎について (明治2年8月―同12年)

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小松崎古登女が村上家を去って間もなくのことだろうか、明治2(1869)8月、俊五郎は市中取締りを免じられ、新たに金谷原開墾方を命じられた。ちなみに、この前月には新番組(前年224日に精鋭隊として発足し同年929日新番組と改称)頭の中條金之助ら250名に対して牧ヶ原(金谷原)1425町歩の開墾が命じられ(榛原郡茶業史』)、新番組から金谷開墾方と改名されていた。

 

『海舟座談』(勝海舟全集』11)によれば、新番組頭の中條金之助や頭並大草多喜次郎が勝海舟に、隊士たちの処遇について相談したことから、牧之原開墾のことが実現したとされる。これが事実なら、俊五郎に対する開墾方任命もこのことと深く関わっていた可能性がある。もっとも、この年の「海舟日記」に俊五郎の名は記されていない。また、俊五郎への開墾方の任命は中條金之助らのそれとは別のものであった。

 

この金谷開墾方に関して、825日付けで藩庁から俊五郎に対して「右開墾御用被命候、依之市中取締被御免候、尤開墾場所之儀ハ追テ可相達候間、其段可被申渡候事」(静岡県史』資料編)、という任命書が出ている。さらに、その3日後の同月28日付けで、俊五郎に対して、具体的な開墾地を指示する次のような示達があった。

 

「別紙(なし)絵図面遠州城東郡佐倉村地先朱星之内一番空地凡反別二十町歩余之場所開墾被命候間、附属之者之内人選致し召連可申候、尤元領主用達所家屋幷右持場之分、林地共御渡相成候間、可被得其意候、右之通可被申渡候、尤相良勤番組之頭附属ニ被命候間、其も可被申渡候」(静岡県史』資料編)

 

俊五郎に藩庁から下げ渡された開墾地は、遠州城東郡佐倉村(静岡県御前崎市佐倉)24町歩余の荒蕪地であった。中條金之助ら旧新番組士250人が入植した金谷原(牧之原)大地のほぼ最南端に位置し、遠州灘に面した現在の浜岡原子力発電所近くの土地である。俊五郎は60人余の付属の内から20人を人選し、佐倉村地内の旧領主旗本宮城氏の陣屋を拠点として共に開墾に当るよう命じられたのである。相良勤番組頭の附属という立場であった。

 

翌月6日には横須賀勤番組頭(相良勤番組頭ではない)を介し、俊五郎とその付属20人に対して、「御扶持方三人扶持、同付属之者共当分之内年々金九百両御扶持方弐拾人扶持被下候間、其段可被申渡候云々」、と示達された。俊五郎は3人扶持、附属の者20人は各1人扶持で、900百両は開墾のための諸費用ということだろうか。1人扶持は1日玄米約5合、1年間にすると玄米5俵となる。一般の牧之原開墾方には1年間で50両から60両の手当金が支給されたというから(三枝康高著『静岡藩始末』)、俊五郎はこの藩命にも扶持米にも不満があったのかも知れない。もっとも、この扶持米の支給も長くは続かなかったらしい。

 

『浜岡町史』によると、この年124日に池田新田町の最寄総代丸尾文六が島田郡政役所に呼び出され、俊五郎に引き渡すべき佐倉村の空地24町歩の検分の立ち合いと、引き渡しの請書に奥印したとあるから、俊五郎一行の佐倉村移住はこれ以後のことであったと思われる。『広報おまえさき』に、静岡藩中老浅野八次郎が詳細な開墾地の内容を俊五郎に宛てて示した1216日付けの示達書が掲載されている。なお、俊五郎の妻瑞枝が佐倉村へ同行したか否かは定かでない。あるいは、この時瑞枝は勝家へ戻り、俊五郎はこのことにも不満があったのかも知れない。

 

俊五郎たちによる開墾事業の実態は、『白羽町史』に「(俊五郎たちは)村民ヲ強制使役シ或ハ村役人等ニ対シ金穀ヲ強要シ、応ゼザルハ乱暴狼藉ヲ逞フシ人民ヲ威嚇シ民心恟然タリ」、と記されている。自らが鋤や鍬を手にしたのではなく、周辺農民を使役(労賃の有無は不明)して開墾に当らせたのである。俊五郎たちは、騎馬で督促して廻るのが常であったという。もっとも、『島田市史』に収載される「榛葉元三郎手記」に、中條金之助配下の開墾方の中にも、「何兵衛今日は百姓仕事に来いと命じ、若し之に応じない時は投げ飛ばし云々」とあるほか、戸羽山澣の「彰義隊残党遺聞」には、元彰義隊大谷内龍五郎らの金谷開墾方(明治3年に80戸が入植)の中にも「良民を蟲けら同然に見下し」、不満があると「直ぐ大刀を抜いて狼藉を極め」たなどと記されている。

 

『浜岡人物誌』によると、俊五郎たちは豊五郎という博徒上りの男を使い、農民の監督に当らせたり、金策に応じない富家の打ち毀しを行わせたという。静岡藩の旧幕臣たちの動向探索を任とした密偵の記した「密員某派出中日誌之抜萃」(静岡県史』資料編・以下『密員日誌』という)に、豊五郎と思われる人物に関して次のような記事がある。

 

「村上氏ノ付属ニ小嶌周蔵ト云ル者アリ(原注・小島周蔵ハ鬼小島万五郎ト名乗リ、諸所ニ於テ強盗ノ働キニ及ヒタル者ナリ、然ルニ壬申初春頃東京府ヨリ浜松県へ捕亡吏ヲ出張致サセシ時、佐久良邑村上俊五郎宅ニ右周蔵潜伏ノヨシニテ、捕亡吏罷越候得共、村上俊五郎ニ恐レ暫シ猶予ノ内、周蔵ハ脱逃セリ云々)

 

東京府の捕亡吏さえ近付けなかったというのだから、当時の俊五郎が人々からいかに恐れられていたかが明らかである。後述するが、東京府から捕亡吏が派遣された「壬申」は明治5年で、その前年には俊五郎は佐倉村の地を去っている。もっとも、開墾地の地主の地位はそのままだったので、時々監視に戻っていたのだろうか。なお、佐倉村は明治411月以後(静岡県が浜松県と静岡県に分割される)は浜松県の管轄下に置かれていた。

 

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俊五郎の傍若無人な行動は開墾に関してだけではなかった。『静岡県水産誌』には、「明治二年徳川家康()公家臣村上俊五郎仝家開墾方ノ名義ヲ以テ移住シ旧慣ヲ破リ漁業ヲ創始セシモ仝四年解散ス」と記されている。その実態は不明だが、俊五郎たちは地域の掟を無視して漁業まで始めたというのである。

 

この俊五郎の横暴には静岡藩庁も手を焼いていた。「海舟日記」明治31225日条に、「織田(泉之・郡政掛権大参事)。村上俊五郎、金子押貸し妄行の旨、申し聞る」とあり、翌4413日条には「浅野(次郎八・藩庁掛権大参事)、村上乱暴の事内話。切腹或いは入牢然るべしと云う」とある。藩庁上層部では、俊五郎の切腹の話まで出ていたのである。なお、浅野八次郎の職名は明治33月末の「静岡藩職員録」で、前記中老の職は明治22月調べの「静岡藩職員録」による。

 

浜松県庁が俊五郎の乱暴狼藉に手を焼いていた事実に関して、先の「密員日誌」に次のような記事がある。長くなるが次に転載する。なお、文中の「伊庭軍平」とは、心形刀流伊庭家第九代を継いだ秀俊で、当時横須賀勤番組之頭並の職にあった人である。前記のごとく俊五郎の剣術の師でもあった。

 

(明治510)廿一日、密員某浜松県下ニ至リ、貫属伊庭軍平ヲ訪フ(原注・軍平ハ剣術師ニシテ、村上俊五郎ハ軍平ノ門人ナル由)密員某伊庭ニ問テ日、村上俊五郎事ハ先生ノ御預リノヨシ、如何ナル事ニ候ヤ、伊庭ノ日ク、村上ハ暴行無頼ニシテ静岡・浜松両県ニ於テモ彼ヲ制スル者無ク、依テ浜松県ヨリ吾輩ニ村上俊五郎ヲ預リ候様トノ沙汰有之、其節屡辞退致スト雖トモ県庁是ヲ免シ給ハス、然ルニ吾輩既ニ横須賀貫属三四百名ノ取締ヲ致シ居、尚又村上ト我ト住所ノ距離殆五里計モ有之、旁不行届出来候モ難計ニ付、再三相断リ候、然ルニ県庁ヨリ我ト村上トハ師弟ノ事ニ付、是非共支配ノ儀心得呉候様書翰モ来候ニ付、不得止我支配ヲ致居候形ナリ云々」

 

浜松県庁や静岡県庁の職員の中で、俊五郎の暴行無頼を制止出来る者がなかったというのだから、想像を絶する凄まじさである。そのため浜松県庁では、かつての剣術の師であった伊庭軍平に俊五郎の「お預かり」を無理やり押し付けたのである。しかし伊庭は変貌著しい俊五郎への対応には手の施しようがなく、困り果てていたらしい。伊庭軍平の話は更に続いている。

 

「彼者(鬼小島周蔵)何乎悪行有之、既ニ捕縛相成可キ筈ノ処、村上氏ノ宅ニ潜伏中脱走致シ候故、其責村上氏ニ掛リ候、其末県庁ヨリ我等ニ屡御尋有之候ニ付、大ニ心痛致シ候得共、五里モ隔リ居候事故、万事取締不行届ハ勿論ナリ、況ヤ同人付属トカ食客トカ申者ノ儀故、尚更行届不申、然レトモ県庁ヨリ頻リニ迫リ来リ候故、甚困却致シ候、実ニ村上氏ハ暴行無頼言語ニ絶ヘ候者ニ付、如何ナル不都合可有之哉モ難計、元来我等事モ以前ノ通リ剣術師範致シ居候ハゝ、彼レ出入オモ可差留者ニ候得共、当時ハ左モ不相成、無拠預リノ名ニ相成居候江共、実ニ彼レハ虎狼ノ如キ人物ナリト云云」

 

俊五郎たちの暴虐無道に県庁も伊庭軍平も手が出せず、いわば佐倉村は治外法権の地のごとき状態だったらしい。伊庭に「暴行無頼言語ニ絶へ候者」とか「虎狼ノ如キ人物ナリ」と謂わしめるのだから、駿府在住当時以前の俊五郎とは別人となっていたのである。しかし人の評価は様々で、そんな俊五郎を高く評価する者もいたらしい。同じ「密員日誌」の106日の条に次のような記事がある。

 

「密員日、今金谷ケ原ニ天下ノ為メニ身ヲ棄テ忿発スル者有ルヤ如何、西野日、尽ク皆然リ、最モ其内大草滝二郎・今井信郎、此両人抔ハ則チ其人ニ当ル可シ、又佐久良邑住村上俊五郎ハ一層盛ナル人ナリ、密員日、徳川士ノ盛ナルハ多ク登楼ナリ、彼モ亦如斯ノ人ニアラスヤ、西野色ヲ起テ日、何ソ先年ノ幕府人ト今日ノ人トハ大ニ異ナリ、就中村上・今井両人ハ誠ニ万夫不当ノ英雄ナリト云可シ、密員ノ日、然ラハ村上氏ハ此迄何事ヲ成シタルソ、西野日、此迄ノ功山ノ如ク枚挙ニ遑アラス、其内一ヲ挙テ云ンニ、村上氏曾テ浜松県庁ヘ行キ卓権令ヲ挫キ、他ノ官吏ヲ叱唾セシ事抔ハ常人ノ能ハサル所ナリ」

 

西野とは西野三郎といい、「(前略)西野強盗ヲ働キ候御嫌疑相掛リ候節、山岡哲太郎方ヘ行キ依頼セシニ、一議ニモ及ハス中条へ托シ入隊サセテ危急ヲ救ヒタルヨシ」と文中にある。今井信郎は説明するまでもなく、直心影流の免許皆伝で、坂本竜馬の暗殺に関与したとされる人物である。俊五郎が浜松県庁で「卓権令ヲ挫き(中略)官吏を叱唾」した事件については定かでない。なお、西野三郎は密員との話の中で、「我等中条隊ト村上徒トハ規則甚違ヘリ、我隊ハ節倹ヲ守リ時ヲ待ツナリ、村上徒ハ金銀ヲ散スルコト湯水ノ如シ、又一事心ニ適セサルハ直ニ手ヲ下スナリ、然レトモ徳川家ニ尽ス所ハ皆一ナリ」、とも語っている。

 

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「密員日誌」の中に、俊五郎を説諭するためだろうか、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助外67人が佐倉村の俊五郎のもとを訪れたことが次のように記されている。

 

「十一月朔日、密員某遠州西山寺邑ヘ至リ、松岡万付属小林龍蔵・安田友三郎ニ面会ス(原注略)小林龍蔵ノ日、昨年山岡・松岡・中条外六七名、卒然村上俊五郎宅ニ至ル、其節村上ノ日、今日迄空敷年月ヲ送リ候各々ハ何トカ被思召候ヤト、腕ヲ張リ衆人ニ向ツテ大ニ憤激ス、中条答日、胸中然ルカ如シ、乍併暫ク時ヲ待ニ不如ト云、村上又日、然リト雖トモ今日主従共ニ如斯ノ大恥辱ヲ請ケンヲ如何セント遂ニ声高ヲ発シ泣涕止マス云々」

 

中條や山岡を前にして、憤激した俊五郎が「今日迄空敷年月ヲ送リ」とか、現在の境遇を「大恥辱」と訴え、人前を憚らず涙を流して泣き続けたというのである。その大恥辱を耐え忍んできた中條金之助も共有する「暫ク時ヲ待ツ」、その「待ツ」とは何を待つのか。前記の西野三郎の言葉の中にも、「我隊ハ節倹シテ時ヲ待ツナリ」とあった、とすれば、それは金谷原開墾方の旧幕臣たちも共有していたものだったに違いない。

 

勝海舟の「解難録」(勝海舟全集』11)の中の、明治1111月、海舟が金谷開墾方の隊中へ寄せた書に、このことと関係すると思われる事実が記されている。この書は、「慶応四年、官軍、我が江戸に逼る。ついに城地を致して去る。この時、君等予に告げて日く」で始まっている。『海舟座談』によれば、ここにいう「君等」とは精鋭隊幹部の「大草、中條ほか三人の隊長」だったとある。大草多喜次郎や中條金之助たちは、海舟に対して「泣血襟を沾」して次のように訴えたとある。

 

「時世ここに到る、今は何おか述べん。しかりといえども我輩、同志五百名、主家の令を守り、遁走暴挙せず。今日に到りて故国を去る。その心中、いうに忍びざるものあり。同志中、その純を撰抜し、一百名、従容義に就き、西城に入り、屠腹一死をもつて、主家百年の恩に報ぜん。先生、これを許可せよ」

 

その大草や中條の訴えに感動した海舟は、「(前略)今、天下新たに定まり、人心の不測知るべからず。この時にして空死す、何の益かあらん。予、君等をもって駿河久能山に拠らしむべし。もって精を養い、約を守り、一朝不測の変あらば、死をもって時に報ぜば如何。君等よろしく熟慮してもってその去就を決せよ」と告げたところ、「後、君等この事を可とし、ついに去って久能に入る。云々」と記されている。

 

前記のごとく俊五郎の心中には、60人余の配下を擁した市中取締方の解任と、金谷原開墾方の任命に対する強い不満はあったことだろう。しかし、佐倉村への移住と共に人が変わったように兇暴になったのは、「不測の変」の生じる可能性が失われていく現実への絶望感もあったのかも知れない。なお、「密員日誌」の10晦日の次の記事も、或いはこの「一朝不測の変」への備えに関係している可能性がある。

 

「密員某、相良湊ニ至る、当所ニ石屋十蔵ト云ル者アリ、彼者ハ博奕徒ノ頭ニシテ、子

 分凡三百人計モ有之ヨシ、然ルニ村上俊五郎ヨリ右十蔵ヘ扶持米幷子分ノ者へ多分ノ武器ヲモ渡シ有之ヨシ、是村上ノ意中ニ事アル時ハ、必ス彼等ヲ鼓舞スヘキノ手配ト相見へ候ヨシ、最モ十蔵へノ扶持米ハ当時遣ハサザルヨシナリ」

 

話は元に戻り、山岡鉄太郎や中條金之助が佐倉村に俊五郎を訪ねた話の続きになるが、失意で泣涕し続ける俊五郎を山岡鉄太郎が説諭したらしい。先に続けて「密員日誌」に、「時ニ席ヲ改メ奥ノ座敷ニ至リ、門人ヲ退ケ良久敷閑談ニ及ヒ、而テ後チ以前ノ席ニ出テ衆ト共ニ酒宴ス、衆其閑談ノ意ヲ知ラスト云々」、と記されている。俊五郎と山岡の間でどの様な話合いがあったのか、この後の俊五郎の言動を見る限り、俊五郎が山岡の説諭に承服することはなかったと思われる。

 

なお、この山岡や中條、それに松岡萬らの俊五郎の説得に関係するのだろうか、山岡たちが佐倉村を訪れた約1ヵ月後の明治31210日付けと思われる静岡県権大参事大久保一翁の松岡萬宛書簡(静岡県の「ふる里を語る会」発行の『ふる里を語る』)の中に、次のような記載がある。

 

遠州へ大参事殿不日可為相越由に付而者、老婆心聊心配は村上氏には何様の賢者為来而も村上氏の存通には不為行事と存候。兎角世の中はめいめいの思様に不成所に面白みも有之もの故、只々応時自分可致当然之業計に能々安し外之事には口出手出不致方却而皇国之御為と存候。此段御通置何分御頼申候」

 

「村上氏」とは俊五郎のことと思われる。この書簡の末尾には、前文に続いて「忘れめと思う心は迷いにてわすられぬこそまことなりけり」、との歌が記されている。俊五郎の心の一途さを詠んでいるようにも思われるが、筆者の思い過ごしだろうか。この書簡によれば、静岡藩の大参事平岡丹治(丹波)が態々俊五郎に関して、遠州に出張することになっていたらしい。しかし、大久保一翁は、俊五郎の存念は誰にも変えることは出来ないと見越していたのだ。その一方で、世の中は思い通りにならないのだから、外事に関わらず自らの業計に安んじることが国のためであることを、松岡から俊五郎に伝えておくよう依頼したのである。

 

平岡大参事の遠州出張(実現したかどうかは不明)も、大久保一翁の松岡を通しての説諭も効果はなかったのだろう。以後も俊五郎の様子に変化は認められない。なお、話は更に錯綜することとなるが、「密員日誌」に、山岡鉄太郎が当時俊五郎をどう見ていたか等興味ある記事があるので、再び次に転載しておくこととする。

 

「同(10)十日ヨリ十七日迄、密員小野駒方へ滞留、小野駒ハ山岡哲太郎ノ弟ナリ、小野日、兄哲太郎平生云ルニ、村上俊五郎ハ非常有用ノ人ナリ、最刺客抔ニハ奇妙ナリト云云、又日、兄哲太郎宅ニハ先年来嫌疑ヲ請ケ候潜伏人一日モ絶へス、先般村上俊五郎儀ニ付テハ身ニ引請尽力致シ候、此儀ハ紺屋町様(原注・慶喜ノ事ナリ)・勝・大久保モ同様尽力致サレ候ト云云」

 

文中の山岡鉄太郎が「身ニ引請尽力」した先般の「村上俊五郎儀」とは、小島周蔵潜匿の件だろうか。これには前将軍徳川慶喜勝海舟、それに大久保一翁までがその解決(俊五郎の救解か)に力を尽くしたというのだ。驚くほかはない。そうした俊五郎への手厚い保護救済は以後も続くことになる。

 

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俊五郎らによる佐倉村24町歩の開墾は、明治4年初頭には終了したらしい。俊五郎たちはその後、引き続き佐倉村と地続きの白羽村内の海岸砂地の開墾に当った。後出する資料(『広報おまえさき』中)に、「白羽村西浜田開墾地去ル明治二年開墾ノタメ政忠拝借地下附相成、同三年土居新築及、同四年中開墾人曽根弥十郎、朝平豊吉始メ外数名江割下シ永久進退作付可致確約ヲ以テ切開キ云々」と記されている。これによれば、この土地は明治2年には俊五郎に下付されていたのである。

 

この開墾に関しては従来と異なり、地主俊五郎と開墾に当った村民が永久耕作約定を結び、田1反につき米2升、畑1反につき米1升を地主俊五郎に納めるというものであった。しかし、その年の46日には、地元で「村上騒動」とか「蓑冠事件」と呼ばれる事件が発生した。佐倉、白羽両村の村民が島田郡政所に俊五郎一党の横暴を訴え出ようとしたのである。

 

『広報おまえさき』収載の「丸尾家譜」に、「明治四年四月六日、白羽両村ミノカブリ平田村マデ行ク、差シ留メル。村上氏開墾ノ儀ニ付紛糾アリ、予説論ニテ一時鎮マル」と記されている。丸尾文六が村民たちを平田村まで追いかけ、村民たちを引き返させたというのである。だが、同月15日に事件は再び起こった。「丸尾家譜」には「(俊五郎一党の)乱暴入レ通知コレアリ()前川賢三、予同道島田ヨリ白羽ヘ来ル。頭男谷氏外捕亡方、山岡鉄太郎君来ル」とあって、文六たちは今回は島田郡政役所に援けを求めたらしい。

 

村方の主だった人達が、前後策を検討するために白羽村の斉藤家に集まっていたところへ、これを聞き付けた俊五郎が、槍を片手に付属の者たちと共に騎馬で乱入したのである。俊五郎たちはまず村の酒屋へ押し込み、槍で酒樽を突き破る等の狼藉を働いた後、槍を振るって斉藤家に突入したものの、村民たちは逸早く逃げ去って事なきを得たらしい。

 

この事件を聞いて駆け付けた「頭男谷氏」とは、島田最寄の職にあった権小参事男谷勝三郎(剣聖男谷精一郎の孫)と思われる。山岡鉄太郎は当時権大参事で藩政補翼を勤めていた。この事件の話は、小倉鉄樹の『おれの師匠』に面白おかしく記されていて、「この騒ぎは山岡の計らいで村上も無罪で済んだ」とある。なお、この『おれの師匠』に出てくる村民たちを扇動したという儒者については、管見にして地元資料等で確認できていない。また同著には男谷精一郎の名も出てこない。

 

『浜岡町史』には、事件は「関口(隆吉)、佐倉信武(宮ノ池神社神主)の説諭により」一応修まったと記されている。関口隆吉は明治37月に金谷開墾方頭取並となり、その11月には城東郡月岡村に開墾地を賜わっていた。関口隆吉の父隆船は、月岡村に近い佐倉村の池ノ宮神社祠官佐倉氏の生まれで、後に幕臣の関口家を嗣いだ人である。関口隆吉は翌4年冬には新政府から召喚されて出京し、翌年正月には三猪県(現福岡県内)の権参事に任じられ、明治22静岡県知事の時、列車事故による負傷が原因で亡くなっている。佐倉信武は関口隆吉の従弟だろうか。俊五郎はこの人からも多額の借金をしている。

 

俊五郎はこの「村上騒動」の後に佐倉村の地を去り、東京に出ている。山岡鉄太郎らの説得があったのだろう。開墾地の地主という俊五郎の立場はそのままだったので、解任ではなく、開墾地の管理等は、地主の俊五郎に代わって附属の阿部泰一郎らが行ったらしい。なお、この頃には藩からの給付金も途絶え、小作料も微々たるものであったと思われので、附属の者たちの生活費となり、俊五郎の手元には入らなかったのかも知れない。

 

なお、前記伊庭軍平の話(明治510)に、「当節彼ノ者(俊五郎)帰籍、山岡哲太郎方へ行候間、厄介相除候云々」とあり、「海舟日記」のこの年829日条に、「山岡、村上水戸辺脱()中、発狂の議なりと」、また翌月4日の条には「村上悔悟の旨、同人処置相談」と記されているので、俊五郎は8月以前には離村していたらしい。しかし、それも俊五郎にとっては不本意なことだったのかも知れない。前後するが、『浜岡町史』に「村上は佐倉村陣屋に付属する場所に道場を開き、地域の若者に撃剣と柔術、そして学問などを教えた」とある。現にこの道場で学んだという人もあり、俊五郎は迷惑一方の人でもなかったらしい。

 

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東京へ転居した後の俊五郎は、当初は山岡家に厄介になっていたが、その後山岡家の近くの四ッ谷南伊賀町41番地に居を構えている。俊五郎の生活費については小倉鉄樹の『おれの師匠』に、「師匠は村上に月々二十円づつやってゐた云々」とある。これがいつ頃のことだったのかは不明だが、しばらくは山岡の厄介になっていたのだろう。ちなみに、山岡はこの年6月に請われて明治天皇の侍従という職に就いていた。

 

遊興に慣れ、また心中に鬱屈したものを抱える俊五郎は、山岡から貰う金では不足だったのだろうか。『おれの師匠』には、「村上と勝(とは・中略)義兄弟になる訳で、村上が困ると金の無心に勝のところへ絶えず行ったものだ。金をくれぬと、刀を抜いて威かすので、勝も手古摺ってしまった。村上は剣術はうまかったからね、云々」、と記されている。

 

勝海舟が俊五郎に金を与えていたのは事実だが、「海舟日記」を見るとそれは俊五郎に脅迫されて、というような単純な話ではないように思える。その真相に近づくためにも、また俊五郎の荒廃してゆく生の軌跡を知るためにも、以後も「海舟日記」に記される俊五郎に関する記事を見てゆきたい。

 

俊五郎が東京に移住した翌明治594日の「海舟日記」に、勝海舟と山岡が俊五郎の処置について相談したとあることは、すでに記した。翌6417日の「海舟日記」には、「村上俊五郎へ、二百円遣わす」とあり、71日条には「村上、十両遣わす」とある。この年勝海舟は、豪商大黒屋六兵衛から徳川宗家に対して3万両余という大金を献金させている。海舟は以後、この徳川宗家の金を運用して困窮する旧幕臣とその家族の生活扶助を行なっているので、俊五郎への金銭の給付もこの一環だったのかも知れない。

 

大黒屋からの献金のことは「海舟日記」1231日の条に、「溝口へ三万六千両の事、幷に大六の金子猶予の事、幷に書籍館出金の事等談ず。大六より利金納む。一万五千五百両の利子百三十三両、徳川家へ納む云々」と記されている。溝口とは元勘定奉行の溝口勝如(元伊勢守)で、金銭の出納業務はこの溝口を筆頭に、複数の徳川宗家の家扶たちが行っていて、海舟は主に貸付や困窮者への扶助を行なっていたらしい。

 

翌明治715日の「海舟日記」には、「村上酔狂」とあり、同月20日には「参・岩倉殿へ村上其他の事申し上ぐ』とある。「参」は「参内」の意か。太政大臣代理の岩倉具視にまで、一介の俊五郎に関する(酔狂による事件ヵ)話を上げたというのだから、大きな問題だったのだろう。同年47日条には「村上へ十五円」とある。

 

明治8年には、62日条に「兵頭氏、村上書付残り書き。窮乏にて発狂の様察せらるる事」とあるが、金銭の援助の形跡(記事)はない。1229日になって「唯武連より、先年用立て候九十両返し遣わす。内二十両、村上へ遣わす」とある。この年、白羽村の開墾地(俊五郎が地主)が洪水で流出する惨事が発生した。8月早速俊五郎の留守委任代理阿部泰一郎が農民たちを集め、再び開墾に取り掛かることを決議させている。(『広報おまえさき』)

明治931日には「村上、飯代二十両」。1129日「村上へ二十円遣わす」と記された後、同10年、11年に関しては俊五郎に関する記事は全く見いだせない。

 

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明治12年の「海舟日記」は1220日になって、「村上俊五郎分百円」とのみ記されている。この年、俊五郎にとって寝耳に水の不本意この上な事件が発生した。白羽村西浜田の開墾地が他人に売却され、開墾人である農民たちが地主の俊五郎を裁判所に訴え出たのである。俊五郎の代理人阿部泰一郎が、明治1211月付けで静岡区裁判所に提出した「上申書」の中の次ぎの記事で、事件の内容を知ることが出来る。(『広報おまえさき』)

 

「明治六年地券発行之際政忠名義ニテ券証御下渡相成ニ付、開墾人之者江約定証ヲ相渡シ既ニ本年ニ至ル迄懇成冬カシテ為切開分米ヲ以進退作付罷有候処、鈴木廉次郎成者出京金談之末借用金ノ抵当ニ地券預ケ置候、豈図哉該ヲ本年六月中白羽村加藤豊平方江売渡セシ趣開墾人ヨリ出申出ルニ付、廉次郎出願先江出向同人取調候処、該開墾地者申ニ不及政忠ノ所有地不残偽証ヲ拵売地之契約ヲ結ビ有之候云々」

 

鈴木廉次郎が借金の抵当にした土地は、白羽村の開墾地と四ッ谷南伊賀町の俊五郎の宅地であった。この事件は翌13年になるとより複雑になる。奥田喬治なる者が、土地の買取人加藤豊平に有利な俊五郎名の偽証を裁判所に提出したのである。同年1114日、俊五郎自身が白羽村の開墾人曽根弥十郎らに宛てた「証明書」(弁明書)に次のようにある。

 

(前略)明治十二年十二月廿六日附ヲ以テ奥田喬治ナルモノ拙者ノ代理人トシテ白羽村加藤豊平へ当テ回答書ヲ遣シ今回上等裁判所へ一点ノ証ニ上ケ控訴ニ及候趣キ聞及右へ全ク拙者ヨリ奥田喬治ヲ以テ回答書ヲ差出候抔委諾候儀更ニ無之段聢ト証明書差出候処如件」

 

この白羽村開墾地の売却問題は、俊五郎にとって大きな痛手だったと思われる。というのも、この事件に深く関わっていのは、再婚した妻サワとその関係者鈴木廉次郎と奥田喬治だったからである。その事実は、明治14530日付けで、その妻サワが開墾人総代曽根弥十郎等に宛てた「実明書」の次の記事で明らかである。なお、この俊五郎の妻サワについては一切不明だが、年齢はそう若くはなかったらしい。

 

「自分手元ニ於テ幼年ヨリ丹精ヲ以養育ナシタル同県(静岡県)周智郡村松村鈴木廉次郎ナルモノ、明治十二年中カキカラ町示商会所ニ於テ仲買営業店設置致度見込ヲ以テ夫ニ手配シタルニ、今少ク資本金ニ不足スルヲ以テ一時金融ノタメ遠州羽村開墾地券状貸渡呉度段夫政忠ヘ懇談致シ貰度旨自分へ再三相嘆クニ付其情難黙止無余儀夫政忠へ程能ク申ナシ該地ノ券状金融ノタメ廉次郎ヘ貸渡サセ候処、故意の所為ヲ以テ同国白羽村加藤豊平ニ売渡シタルニ付同人ヲ被告トシテ上訴可致手配罷有候内他人ヲシテ軽々ニ相嘆クニ付政忠ニ於テモ容易ナラサル勘弁ヲ以テ其情ヲ斟酌シ前罪ヲ咎メス、(次に続く)

 

該地開墾人共前約ノ通リ永世進退スル処更ニ不都合無之趣ヲ以テ売地ノ承諾ナシタリ、其後明治十三年六月中自分ノ縁故アル静岡県士族奥田喬治罷越申聞ルニ開墾人共ヨリ預リアル処ノ議定書今般ノ買主加藤豊平ニ引渡シ被下度此義後日異論ノ生ズベキ事毫モ無之旨ヲ以テ頼談サルルニ因リ何心ナク夫政忠ヘ一応ノ相談モセス同人任依頼添書を付シ相渡候其添書ハ白紙ニ夫ノ印形アルヲ用ヒ喬治該書ノ日付ヲ明治十二年十二月ト記シタルモ同人取斗ク事故ニ不都合無之義与存居候処豈今回控訴ノ事件起リ夫政忠証明スルニ付尋問被及驚嘆ニ不堪云々」(『広報おまえさき』)

 

『広報おまえさき』には、この裁判の結審は明治17年だと思われるが、資料がないため正確なことは分からないとある。なお、同紙に白羽村開墾地の事件とは別に、俊五郎と曽根弥十郎、朝平豊吉との間で取り交わした年月不明の「約定書」が掲載されている。次にその約定事項の幾つかを記しておこう。

 

「一 四ツ谷四ツ谷伊賀町四十一番地村上政忠所有地静岡県下佐倉村ニ有之地所何

町歩ヲ同県下白羽村曽根弥十郎及同県下佐倉村朝平豊吉両人エ今般示談ノ上売渡スニ契約ス

一 所有主村上政忠於テ該北ヲ抵当トナシ静岡県下佐倉村佐倉信武氏ヨリ借入有之三百円及東京四ッ谷南伊賀町四十一番地此処ヲ抵当トシテ同人ヨリ金九十円三十銭計四百四十円三十銭借入有之負債ヲ買主朝平豊吉曽根弥十郎両人引受返済スルニ付テハ該負債両口ノ利子等悉皆引受債主佐倉信武エ皆返済可致約定ノ事

一 前項両口ノ負債引受償却為シタル外ニ明治八年発行鉄録公債□出額面千円買主朝平豊吉曽根弥十郎両人ヨリ売主村上政忠ニ相渡可申之事(以下略)

 

この「約定書」の別項に、「買主ニ於売主政忠ノ負債ヲ佐倉信武ニ明治十四年三月三十日マデニ返済ナシ売買ヲ決行為ス」とあるので、この「約定書」はこの年初めか、その前年に結ばれていたものと思われる。この文中から、俊五郎が宮ノ池神社神主(関口隆吉の従弟ヵ)から440円余の借金があったことが明らかである(前述)。付属の者たちの生活のためか、遊興のための借金だったかは不明である。いずれにしても、明治17年前後には、俊五郎は総ての開墾地の地主の地位を失ったのかも知れない。妻サワとのその後については定かでない。

 

※以後は次回に続きます。