14の1 【東北地方の浪士組参加者たち】

ⅩⅣ 【浪士組への参加者たち(浪士組名簿)

当「浪士組名簿」は、『埼玉の浪士たち-「浪士組」始末記』上梓の際に調べた断片情報に、若干の補充をしたものです。資料の渉猟や現地調査もごく一部に限られた、不完全なものですが、わずかでも参考になればと思い掲載しました。ご覧の際は以下の点にご留意ください。なお、この注記は、今回掲載する「ⅩⅣの1」以外の名簿にも適用し、以後の名簿への表記は省略します。また、表中の括弧内の記述は筆者の注記です。

 

1 家族、年令、出身地は、東京大学法学部図書室所蔵の「浪士姓名簿」(『幕末史研究』第44号収載)がほぼ正確と思われるため、これを参考に、一部修正しています。なお、浪人で江戸出生が明確(江戸詰の子等)な場合は、江戸を出身地としています。

 

2 「新徴組目録」(文久3年6月以後に作成カ)、「新徴組組別名簿」(同年11)、「黐木坂新徴組屋敷絵図」(慶応元年6月)、「新徴組明細書麁調」(慶応元年11)、「新徴組人名移動詳細』、「新徴組御用記」、「新徴組田川温泉場寄宿帳」(慶応4年カ)、「戊辰庄内戦争新徴組出張姓名」(慶応4年4月)、「新徴組開墾士姓名」(明治5年8月)等の表中表記は、すべて「新徴組」の文字を省略します。また、「日野市新選組のふるさと歴史館叢書』は『日野市歴史館叢書』と、小山松勝一郎著『新徴組』についての表記は、著者の姓のみとしています。

 

3 「新徴組目録」所収の『未刊随筆百種』に、「四月廿八日浪士取扱を新徴組支配と改む。此の連名は新徴組と改称せし当時のものと思われる」、と編者の注記がありますが、連名中にこの年6月に配置された剣術教授方等の人名が記載されていますので、以下の表中では6月以降「新徴組組別名簿」作成以前に作成したものと推定して取り扱っています。

 

4 清河八郎、池田徳太郎、石坂周造、村上俊五郎は表中からは除き、新選組関係者に関する情報は、入手が容易なため最低限としました。また、表中は原則出身浪士の多い県から順に作成しています。

 

ⅩⅣ1 【東北地方の浪士組参加者たち】

 

福島県域からの浪士組参加者たち (5名)

姓 名

年齢

所属等

家族・出身地・その他参考

岡田助右衛門

29

道中世話役

不明   ●奥州三春浪人 当時浅草鳥越岡田十兵衛方ニ同居

文久3年213日廻状で5番世話役に選任と。

「目録」に名なく以後の去就不明。。

清河八郎の父宛て安政元年1230日付書簡に「三春家中留守居の子少し仔細有り浪人致し候処今度罷り出で度、私方にて不慮の難にあい、弥私を慕い居り、憐み事あらずに候間、召し連れ罷り降り申すべく存じ候」とある人は。

鎌田昌琢

39

3番組

母子4人 ・鎌田盛為子 ・文政8年2月25日生

奥州中村浪人(相馬藩医)

杉浦正一郎「浪士一件」文久21222日条、松平主税助提出の赦免申請人中に鎌田昌琢の名あり。

新徴組入り ・「目録」に33番玉城織衛組平士、「組別名簿」に玉城織衛組平士で名あり。

文久3年9月医局長受命 ・元治元年11月依願永暇

・離隊後は江戸、小田原に居住、維新後(明治3)は郷里に帰り医を業とする。

13歳で相馬藩医鈴木巴に師事し、その後仙台、会津で修行した後、陸前柴田で志賀氏に学んで外科術の解明を得る。又江戸や長崎に遊学して蘭法を学び、嘉永6年相馬藩医(侍医格)となる。安政元年我が国初の子宮外妊娠手術に成功し、安政2年藩主の侍医となる。

維新後相馬神社の造営(明治12年創建)に尽力する。

中村又太郎の姪(殿山義雄元妻)と再々婚。

明治13811日病没 享年55歳 ・墓は市内慶景徳寺

『鎌田昌琢・富士子の生涯』・『福島県医師会史』・『長崎遊学者事典』・吉野式『幕末諸隊研究・五周年記念号』

・『福島県史』第22巻・『日本医学史』

草野剛蔵

 後中村維隆

22

道中目付

不明 ・宇多郷西山村愛宕神社の神官草野吉照長男 ・天保1325日生 ・勤王の志厚く弟留造に家を譲って出府した。   ●相馬中村(相馬市)

中村維隆(草野剛蔵)の明治363月の史談会談話に「かねて尊王攘夷に関係した輩は至急江戸へ出て呉ぬかといふ伝へが(水戸の山口徳之進、住谷寅之助から)ありまして()それで私の(相馬中村を)出たのは文久三年の一月下旬であります。()私は文久三年の二月二日かに山岡の所へ行った」と。

文久3年2月24学習院へ上書持参6名中の1人。

新徴組入り ・「目録」に2番小頭で名あり。 ・文久3年5月19日世話役 ・「柚原鑑五郎日記抄」同年912日条に「右御仕法替ニ付世話役御免云々」として草野剛蔵の名あり。 ・「組別名簿」に肝煎とあり。

・元治元年2月山田官司、吉田庄助と共に文学世話心得を命ぜらる。

元治元年2月新徴組を脱走して水戸天狗党の筑波挙兵に参加、後に田中愿蔵隊に加わるも9月末那珂湊で離脱、同志と海路北進中に難船、相馬中村藩領行方郡小浜に上陸し、宇多郷成田村の高野丹吾家に潜伏した。

維新前後黒羽藩士中村半右衛門の養子となって中村と改姓。 ・明治2年官途につき、弾正台巡察属となり、西南戦争には斬込隊新選旅団に参加し各地に転戦した。 ・後北海道開拓使に転じて開拓事業に専従。退官後も札幌に留まり、二宮尊親らが尊徳の遺志を継ぎ、十勝で開拓事業を起こしたのを援助する。

大正6年2月9日没 享年76歳 ・墓は札幌市外豊平墓地、又相馬市河原町円応寺

明治363月中村維隆の史談会談話(前記)に「(清河八郎)見識は尊い男でした、私も随分種々の人と交際して知って居るが、其中で清河は私が年を取らない中かしらないが、えらい男でしたな、のみならず仁心の有る人で、私が病中の時などは、私は木綿物を着て居たが、其時に自分の着て居たものを脱いて、之を着て早く病気を良くして呉れろと言って置いていった云々」と。

・同談話中「近藤()などいまだ未熟の人間で、幕府の旗本の用人か何かして居たので気節というものが無かった、唯剣術だけは能く出来た、東京生まれですから俗に云うおベッかものです云々」等と。

福島県史』・『元治元年』中巻・『新選組証言録』・小山松『新徴組』・『史談会速記録』

西恭助

 名・重敬

21

取締役付属

不明 ・相馬藩士西仁左衛門重庸(20)子 ・天保13年生   ●相馬中村藩脱藩(当時御徒士)

清河八郎「潜中紀事」文久2年10月、清河が相馬中村を訪れた際の記事に「西氏雖弱()有胆気」とあり。

中村維隆明治363月の史談会談話に「西恭助は(中村維隆の文久31月下旬相馬出立より)先に上って居りました、即ち相馬因幡守に従って上って居たから、其の方と折重なって住谷(寅之助)の方から(上府するよう)伝へ」があって、浪士組参加のため上府したと。

文久21230日松平主税介の牛込二合半坂の屋敷に招かれた清河八郎ら浪士の中に西恭助の名あり。

文久3年2月13日廻状に「道中目付隊長兼」とあり、同月19日廻状に「芹沢鴨跡隊長申付 六番組ニ入る候」

・更に同月28日廻状に「六番小頭西恭助御用有之此方ニ引取置候跡小頭之儀近藤勇え申付候云々」とある。 

・同月24学習院へ上書持参6人中の1人。

新徴組入り 。 ・関八州取締出役の同年626日付達文に「新徴組之内()西恭介右三人者郷里え立戻居未タ印鑑所持不致候云々」とある。西は清河八郎横死後、弟斎藤熊三郎が郷里清川村へ帰るのを送ったという。

・「目録」に3番組小頭で名あり。 ・同年727日廻状に「西恭助者御役申渡()小頭申渡し候間此段御達し云々」とあり。 ・「柚原鑑五郎日記抄」同年912日条に「右御仕法替ニ付世話役御免小頭役云々」として西恭助の名あり。 ・「組別名簿」に小頭西恭助あり。 ・元治元年2月出奔。

水戸天狗党の筑波挙兵に加わり転戦、8月那珂湊で天狗勢の分裂後は田中愿蔵隊に加わるも翌月離隊し、同志らと那珂湊から船で脱出、北進中暴風雨に遭い磐城領楢葉郡仏浜に漂着した所を捕らえられ、同月20日中村藩に引き渡された。

元治元年115日幕命により斬刑に処される。その申渡書に「御徒士勤召放され、御扶持切米召上の上格式を外し、斬罪仰付られ候云々」と。 ・享年23 ・墓は相馬市中村町西山の天陽山洞雲寺

『元治元年』・小山松『新徴組』・「むすび第111号」

吉田小八郎

23

5番組

親両人  ●会津浪人

「目録」に名なく去就不明。。

山形県域からの浪士組参加者たち (4名)

斎藤熊三郎

 名・誠明

27

道中目付

不明 ・田川郡清川村(立川町)の富豪斎藤治兵衛3男 ・天保8年生 ・清河八郎

当時神田於玉ヶ池

文久3年2月15日廻状で狼藉者取抑役 ・上京後取締役附属 ・兄清河八郎暗殺後脱隊

「むすび第103号」に熊三郎は「八郎より七才年下である。熊次郎(嘉永元年13歳で早逝)に代って家業を継ぐのはこの熊三郎であるが、凡庸の才でその器ではない。それで妹辰代に婿を迎え、熊三郎をば十五才の嘉永五年に鶴岡の某家の養子とした。しかし()十八才頃神経衰弱になり、養家先から追われて帰家云々」と。

安政34月兄八郎に伴われて仙台の桜田良佐・敬助父子の道場に入門、翌年大成流砲術の目録を伝授され、同年江戸に上り北辰一刀流玄武館道場に入門、万延元年初目録を伝授される。

清河八郎の父親宛安政51029日付書簡中に「(八郎の帰郷に際し)熊も留守に素読にても致させ申すべくと存じ、千万五郎(安積)に教え為り居り候得共、何分愚弱の事故()中々以て、この方の代りなど勤まり申さず()去り乍ら近頃剣術だけはやかましく申し候故()寒稽古過ぎ候はば熊に目録を相渡し申すべく事、千葉より申し来たり云々」と。

清河八郎の伯父宛文久元年311日付書簡に「熊三郎を遣候得共、何分当人も更に気のきかぬ男故あんじられ申候()、ものいわぬ男故云々」と。

・熊三郎(伝馬町獄舎入獄中)の父親宛文久元年中書簡に「幾人も兄様故に入牢に相成居候、なんのつみなきに兄様故に右様のさいなんをこふむられ候段、御気の毒の至りに御座候云々」と。

清河八郎の父親宛文久3412日付書簡中に「愚弟も殊の外盛に相成、諸人に甚被用候様子故、此上は不能是非此方にととまり申事に御座候、兄弟共に国事に身命を献候はは先祖の美は不及申、国家之誉にも云々」と。

兄八郎の横死後脱退帰郷したが、荘内藩によって再び投獄され、維新後の明治27月に放免された。

明治23年病没 享年52歳 ・墓は清川の歓喜院

『新編庄内人名辞典』・『清河八郎遺著』・「庄内町史資料・清河八郎関係書簡」・小山松『清河八郎

白井庄兵衛

 名・良意

30

道中目付

不明  ●庄内藩士白井弥五郎弟

文久24月江戸に上って石川桜所に医術を学び、また安藤玄昌の塾に学ぶ。

上京後取締役付属  ・文久3年5月付近藤勇の佐藤彦五郎宛書簡に「清河八郎村上俊五郎()白井庄兵衛右六人ハ烙陽おゐて梟首ヵ致と周旋仕候云々」とあり。

清河八郎らの横浜焼討計画に連座し、馬喰町宿舎で捕われ、文久3年5月15日松平出雲守預け、同年9月木下備中守に預け替え。以後不明。

千葉「新徴組」に「和田理一郎、白井庄兵衛、藤本昇三名の終は未詳」と。

『新編庄内人名辞典』・『藤岡屋日記』

鈴木栄之助

  栄三郎

 

41

5番組

1人  ・元庄内藩鈴木順太子

当時江戸浅草阿部川町家主専左衛門店住居

新徴組入り ・「目録」に35番組平士、「組別名簿」に平士で名あり。 ・「明細書麁調」に「小頭・剣術世話心得」とあり。後剣術世話役。

慶応4年庄内入り(家族4) ・「庄内戊辰戦争出張名簿」に2番隊伍長として名あり。 ・9月6日の関川奪回戦で脇腹負傷。(『庄内戊辰戦争録』)

明治5年の「開墾士氏名」に名あり。

天野静一郎割腹事件に関し、中沢貞祇の記録に「静一郎覚悟致脇差腹江突立付添人栄三郎ニ申候ニ者右様致候上者是非是非赤澤源弥江御引合被下度段頼入候処聞入云々」等とあり。 ・高尾文吾、楽岸寺業輝が病気治療の帰路、知人宅(尼寺)で酒食の饗応を受けた2人に切腹を迫った事件にも栄之助の関係あり(同記録)

明治6年新徴組屋敷のある大宝村の戸長となる。 

・同147月の松ヶ丘開墾場社員名簿に鈴木作弥の名あり、関係者か。

小山松『新徴組』・『上毛剣術史』

和田理一郎

 名・中彦

 

41

道中目付

不明   ●出羽国米沢浪人

文久3年2月24学習院への上書提出6人中の1人。 ・江戸帰還途中の須原宿泊の夜「一途な和田理一郎は宿屋の前で一晩中白刃をひらめかして」清河八郎の身辺を守った、と。(小山松『新徴組』)

・翌月15清河八郎等と横浜焼討を画策して捕縛、大関肥後守預けとなる。 ・明治16清河八郎贈位に関する石坂周造の岩倉具視への上申書に、清河の金子与三郎邸訪問に際し「和田理一郎即チ八郎ヲ戒テ日ク目下ノ人情表裏及両復予テ知ル可ラス假令親朋ノ許ト雖単身之ニ赴クハ大ニ不可ナリ若一朝不慮ノ変アレハ悔トモ及フ可ラス宜シク部下ノ為国家ノ為戒厳セサル可ラスト論争」したが、清河はこれを聞かなかったとあり。

・『郷土牛久の歴史』に、慶応元年当時和田理一郎と松澤良作は牛久藩邸に幽閉中と。 ・「むすび第111号」に「維新新政の世になって放免された」と。

落合直助の史談会(明治26317)談話に「(出流山挙兵隊隊長竹内啓は)若年より学を好み朝川善庵に従ひ昌平校に入学し、米沢藩和田理一郎中彦、糸魚川藩長谷川鉄之進正傑など学友無二の同志でありました」とあり。

中村維隆の史談会(明治36330)談話に「(学習院への上書提出者は)河野が宜かろうと云ふことになった。河野は文書も出来るし、東京生れで弁者です」「(上書を差出したのは)河野と云ふ男でそれは巧みにやりました」「(清河八郎が金子与三郎の家へ)行くと云ふ、それは行くのは悪いと云って止めた。殊に一人で行くのは悪いから止めろといって和田理一郎が遮って止めた。和田理一郎は君子的の男で何を見ても泣くといふやうな人で、総て少し感ずることがあると泣いて物を云ふやうな男であった。今にも異人でも斬るかといふやうな勢ひして居るので、其の時分に四尺ばかりの刀を担ぎ、さうして又大小を帯して鉄扇を持って威張って居る男である。其男が非常に止めた」が、清河八郎はそれを聞かずに結局暗殺されたと。

相楽総三とその同志』に、明治21月、京都の割烹店で判事坂田潔と騒動を起こした長谷川鉄之進に対し、居合わせた和田理一郎が自分の佩刀を長谷川に渡し、「謝罪するよりもこの場で割腹しろ」と勧めた。又「この和田が中山道方面で窮迫しているとき、たびたび毛呂本郷の権田直助に金の無心にきた。権田はいつも金を与えたが、和田は一度も礼をいったことがなかった。それでも権田は和田を可愛がっていた」と。

北越草莽維新史』中、二階堂良磧『風後餘草』に、糺問所の理事小栗篤三郎に図り、江戸への遷都反対を名分とした反政府運動で検挙された獄中勤王の諸士を救おうと運動し、「日ならずして柳下安太郎、富所国之助、和田理一郎等を放免」したとある。

俣野時中の史談会(明治281214)の談話に、「和田理一郎は昨年の11月ごろ没しました」とある。

・「むすび111号」に「和田の死去したのは明治2911月である」とある。

和田理一郎は江戸生れの元米沢藩士の可能性があるが、確証がないため山形県に掲載しました。

     宮城県域から浪士組参加者たち (2)

鈴木長蔵

30

7番組

不明 ・天保5年生  ●仙台浪人

文久3年3月13日江戸への帰還に同行せず京都残留。 ・同月10会津藩に残留嘆願書提出17人中に名なし。 ・同月15会津藩庁出頭の浪士中、鈴木長蔵に関しては「病気ニ而不参由」とある。 ・同月22日板倉老中への建白書提出者の中に名なし。 ・同月24日の殿内義雄暗殺事件前後に京都を離脱とされる。

拙稿ⅩⅠ「京都守護職の浪人対策と浪士組」にも記した通り、「浪士組帰東に際し芹沢や近藤に与して京都に残留し、新選組母胎の一員となった」、とする通説は疑問である。

新徴組入り ・「目録」に名なし。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久3411日条に「報国の名義を唱へ乱暴致し候浪人(朽葉新吉と神戸六郎)去る八日両国橋詰料理屋にて乱暴せし所へ松岡万通り掛り取調たる由にて、三笠町へ連れ来たり、()鈴木長蔵大阪へ廻り募り来る神戸六郎と申浪人未だ組入無之玄関に指置候は市中横行酒食貨財を貪り吉原にて乱暴し、右新吉同様土蔵へ入れ置をるを同十二日役宅の庭にて両人共斬首す云々」とあり。※この日記によれば、長蔵は48日以前に江戸に戻っていたことになる。

・「中村定右衛門届書」同年7月の廻状に6番山本仙之助組合鈴木長蔵と石原新助に対し「御門限相欠候ニ付慎被仰付候云々」とあり。 ・「柚原鑑五郎日記抄」同年8月の条に「過る十六日風と他出致実所出奔届出る 鈴木長蔵」とある。

新選組のすべて』に「維新後は秋田の市会議員になったという」とあり。

・余談ながら、越後国蒲原郡新潟町生まれ(弘化3年生)の実業家で新潟市長や衆議院議員を勤めた鈴木長蔵という同名異人あり。

新選組事典』に「池田屋事変の折、山崎烝らと密偵として暗躍したという話がひとつ残っている」と。

山南敬助

 名・知信

28

6番組

不明 ・陸奥仙台の剣術師範山南某の次男とも。生年は天保4年、6年、9年と諸説あるが、当時28歳とすれば天保7年生となる。因みに早川太郎「尽忠報国勇士姓名録」にも28歳とある。(没年令と矛盾するが)

仙台松平陸奥守浪人 ・当時江戸牛込廿騎町小谷陽之介地内住居

北辰一刀流玄武館千葉道場の免許取りという。小野派一刀流剣法を学んだとの異説あり。後玄武館道場で近藤勇と立会って敗れたため、近藤の弟子になったという。

文久元年827日府中六所宮で行われた近藤勇天然理心流四代目襲名野試合に赤軍東方で出場。

文久21沖田総司と共に多摩地方に代稽古で出張。(小野路の小島家への撃剣指南の訪問記録あり)

新選組結成に参与 ・第一次編成で副長、後に総長

伊東甲子太郎入隊後の土方歳三との思想的距離の鮮明化や、西本願寺への屯所移転に関する対立問題で、元治元年2月新選組を脱走したが、大津宿で追手の沖田総司に捕らえられ、同月23沖田総司介錯切腹 享年32(29歳ヵ) ・墓は京都綾小路大宮西入ル光縁寺