14の11 【近畿地方の浪士組参加者たち】

 

兵庫県域からの浪士組参加者たち (6)

  姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

大島一学

 後に学

 名・正照

38

5番組

後乱暴者取押役

妻1人 ・松平修理大夫高近家臣大島一学子

摂州西成郡三ツ谷村出生 ・当時江戸鎌倉町住居(鎌倉岸荒木堂)

柳生心眼流柔術(大月興左衛門高弟)

文久3215日順達に「右者乱妨人取押方申付候」として大島一学の名あり。

新徴組入り ・「目録」に33番玉城織衛組平士大島一学の名(この後改名か)あり、「組別名簿」に小頭玉城織衛組平士で大島学の名あり。後に小頭兼柔術教授方。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に3番隊伍長で名あり。

・「田川温泉場寄宿帳」に「五番組小頭大島学、長男久吉」とあり。 ・「開墾士氏名」に長男大島久吉の名あるも大島学なし。

明治77東京府へ貫属替 

山岡鉄舟の援助で東京小伝馬町付近で柔術道場を開き、傍ら明治女学校等で教授したという。又一時期加納治五郎も大島に学んだともいわれる。

吉野式『新徴組研究』第9

木村久之丞

 名・重治

36

道中目付

不明   ●播磨国姫路浪人 当時斉藤熊三郎同居

『水戸史談』中岩谷信成の談に「姫路の木村久之丞」、「於筑波山尊攘奮起之義士分職姓名」に「姫路新段()組より出物微部(ママ)木村久之丞」とあり。

全生庵「尊攘遺墨連名者名簿」の虎尾の会支援者中に木村久之丞の名あり。

文久3215日廻状で乱妨人取押役に選任さる。

・同年5近藤勇の書簡に「右清河八郎、村上俊五郎、石坂周造、木村久之丞()右六人ハ洛陽におゐて梟首可致と周旋仕候処云々」とあり。

浪士組江戸帰還後の清河八郎らによる横浜焼打ち計画には関与しなかったらしい。(415評定所召喚者等の中に名なし)

新徴組入り ・「目録」に名なし。文久3519日世話役に選任される。 ・小山松『新徴組』に、7月組士佐久間権蔵を仇とする西山祐之助の13歳の遺児に同情した世話役山田一郎、岩城太熊、木村久之丞は、佐久間を門前払いするよう支配神津に意見書を提出してが、結果は返って厳重慎みの処分を受けることとなったと記されている。

・中村正行「忠士日記」には、7月上記3人に対する申渡書」に「其方共世話役御免申立直ニ三笠町屋敷立去り、其後追々所存之趣承り候処、同志之義深存込廉々申立候ケ條之内、連月御手当金之義ハ既ニ御指図も相済候事故難相整候、其伺之義も不容易筋ニ有之候得共、存込候義無謂筋無之候間、成否者難計候共、様々尽力致し申立候様、就而者一己之覚悟をも致し候程之義、且ハ数々無断外宅致候段、子細有之儀とハ乍申、規則ニも拘り候間、願之通世話役御免、尤局中不打合候儀も相間候間、当分之内酒井左衛門丞屋敷江相越、理非分明致し候まで慎ミ可罷在候」とある。(『柚原鑑五郎日記抄』に同じ記事あり) ・86日付廻状に、3人及び「外壱人」に関し「右之者先達て中、酒井繁之丞屋敷ニおゐて為取慎置候処、去ル五日夜六ツ時頃門出いたし、行衛不相知候間云々」とあり。

長谷川伸「よこはま白話」に「元治から文久かのことだろう、山田一郎、岩城詫摩、木村久之丞などという浪士と称えるものがよこはまに潜入して、欧米人と商取引する商人に天誅を加えるといって呼び出しをかけた。この奇禍に罹ったものが幾人かあった」とあるが。(長谷川伸全集』第12)

・新徴組脱走後は山田一郎らと水戸の文武館に寄寓。※『水戸史談』中の岩谷信成の談話に「(小川・潮来郷校に)其れから新徴組で異論を唱えて立退いた姫路の木村久之丞、水戸の長谷川庄一郎など七八も居った」と。

元治元年水戸天狗党の筑波挙兵当初からこれに参加する。 ・「日光山義挙姓名並紀聞祿」中に龍勇隊(軍将沼田準次郎)隊長の一人として名あり。 ・元治元年44日石橋宿宿陣に年寄伴蔵方宿泊者に「山田一郎上下十三人、木村久之丞上下十人」と。 ・石橋宿役人の届出に「()下宿之内山田市郎様、木村久之丞様白地無地幕を張、御着之砌御行列真先ニ切火縄鉄砲左右江弐壱拾挺云々」、又「山田市郎様、木村久之丞様其外何れも白胴着ニて袴を懸割羽織袴着用云々」とあり。(『皇国形勢聞書』) ・『前橋藩松平家記録』中「宇都宮江屯致人数百五十人程之内重立候もの」に木村の名あり。 ・「行軍録」に「左軍龍勇隊伍長」として名あり。 ・「都賀郡山田村記録」に「四月十三日より追々水府家浪徒大平山へ屯集有之云々」として「小松屋旅宿、小荷駄奉行、室町稲太郎、木村久之丞」等々あり。 

・「甲子年七月筑波山楯籠居候浪士性()名、但し重立つ候者計」に木村久之丞の名あり。 ・8月筑波勢の分裂に際して鹿島に赴いたか。青木邦之介の獄中血書中に「木村久之丞、剣客」とあので、9月初旬鹿島に集結した青木邦之介らと行動を共にしていたらしが、詳細は不明。※山田一郎の筑波勢脱退後は、資料上木村久之丞の名を見ることは少なくなる。

『歴史のなかの新選組』に「(筑波挙兵の)敗北後姿をくらまして京に上る。慶応3年原市之進暗殺とのかかわりにより投獄され獄死する」と。 ・全生庵墓地の山岡鉄舟墓石左脇に依田雄太郎、鈴木常太郎、同豊次郎、笠原八雲、木村久之丞、清水武二郎の合葬墓あり。※管見ながら木村久之丞(笠原八雲、清水武二郎を含め)が原市之進暗殺に関与したとする史料には出会えていない。

『史談会速記録』広瀬重武の明治25715日の談話に「28番長屋に、諸藩の有志と共に居ましたが、其重たつ者は田中河内介親子()浪士清河八郎、安積五郎、木村忠之助、藤本鉄石等」とある木村忠之助とは。

『甲子雑録』・『常野集』・『下野史談』・『栃木県市資料編』・『下妻町史料』・『筑波町史料』・小山松『新徴組』・『波山紀事』・『南梁年録』・『水戸幕末風雲録』・『下野勤皇烈傅』・『筑波戦争録』・「勤王志士青木彦三郎傅」等

小林登之助

36

7番組

不明   ●播州佐用郡森伊豆守(三日月藩)家臣小林官之進弟 ・当時江戸外神田御成道京屋ニ罷在候

安政年間、神田お玉ヶ池に砲術道場を開く。 ・『丁卯雑拾録』に「小林登之介と申希世之豪傑有之、当時桃井俊蔵缺小林登之介缺と申候神田於玉池ニ住し寄宿之門人も多く有之候」とあり。

小山松『新徴組』に「小林登之助はお玉ヶ池の砲術塾を門人の師範代に預け、浪士組に応募した。登之助は門弟たちの将来を考え、まず自分が参加してその内情を探り、もし適当であれば、門弟をもこれに入れようと計画を立て、門弟たちともいろいろ相談しこれに応募したと思われる』と。

「慶応二年五月酒井左衛門尉附属大砲組内願書』中に「去文久戌年中上洛之刻浪士御取扱之御方々於京地被仰渡候有志之もの共猶召募可申趣承私共一同九拾有餘人赤心報国之為一命を奉幕朝必死之御奉公相勤度段同三亥年中同志之内小林登之助ヲ以申上云々」とあり。

「柚原鑑五郎日記抄」文久3415日条に「小林登之助御老中松平豊前守殿へ罷出私共七番組の者は何れも赤心の者にて別心なく、勿論金策等に携はり候事無之、御疑を受候ては迷惑之趣申立候処、豊州尤の儀なれば若し町奉行より沙汰有之共豊前守声懸りの者と相□候て可然と被申候、又候登之助豊前殿へ罷出候処、尚被仰□は此方一人心得居候ても外にも多きもの故、何等申来候て却て面倒に可成候へは評定所()其後登之助外三人鵜殿へ参り候処病気にて逢兼候趣云々」と。

新徴組入り ・「目録」に練兵教授方として名あり。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久38月条に「砲術心得実名前」4名中小林登之助の名あり。 ・小山松『新整組』に「文久38月頃、登之助は、新徴組支配川津三郎太郎に対して、大砲組志願について、老中板倉勝静に周旋してくれるよう頼んだ。()小林組は9月から10月にかけて、閣老板倉勝静の「格別の思召しを以て内御用の儀」の仰せを受けて江戸市中取締りに当った。()小林組の江戸取締りは、死中のみならず近在近郷までも探索し、法を無視する乱暴者を捕縛したことがあり、十一月には小林組全員、一人あて白銀五枚ずつの賞与があった。同じ十一月、板倉閣僚より庄内藩に対し、小林組を預かるようにとの命が伝えられた。小林組は庄内藩預りの新徴組と並んで府内警備の先頭に立つのである」と。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久3912日条に「小林登之助被仰渡同断新徴組練兵教授方小頭過人被仰付候」とあり。

・『官武通紀』に「同(文久310)廿六日朝五ツ時頃、新徴組調役大澤源次郎、小頭小林登之助、外に三十六七人に而、手前浅草茅町初五郎と申者に案内為致、一同品川へ参り()、右(旅籠坂本屋)に休息致し、今日一橋殿御発駕に付、御供之内に目懸け候者有之、相待居候と申候趣、然処俄に御舟に而御出立相成候に付、右を承り一同引取申候由云々」とあり。(「探索書」)

・『藤岡屋日記』文久3111日条に「侍体之男弐人、右は於榎坂辺ニ抜刀を以駆廻り候ニ付、新徴組小頭小林登之助門弟共取押候ニ付云々」と。

文久31128日、小林登之助は深川越中島で、門弟小林組90余人を指揮して、林流(林流)練兵の真髄を披露した。(小山松『新整組』等)

・登之助は新徴組の荘内藩預けの際、門人90余人を引き連れて幕府への仕官を画策した。幕府はこれを認めず文久311月新徴組同様荘内藩預けとし、翌年9月には大砲組と命名、正式に荘内藩付属の隊となった。なお、大砲組士達はその後も幕府直臣を希求、慶応25月隊士80余人が提出した内願書が『淀稲葉家文書』の中にある。その書中に「幕朝江御奉申上奉微躯賤名を子孫ニ遺候宿願ニ御座候故、亥年子年共貮ケ年活計ヲ廃し、妻子を棄勉励罷在()、右二ケ年之間不給無祿ニ而瑣細之家財を典却し又売払取続罷在候儀故、必死と困究至極仕云々」、「私共尽忠報国之儀申立候は、彼等(新徴組)と同志ニは御座候得共偽名を報国ニ託し暴行之所業相働候儀を忌嫌専奉御内命、且は正誼之次第判然と相立度存念より、彼等と暫時敵仇之間と相成云々」、「幕朝江御奉公仕候上ハ扶持祿等ニ付多少之望聊無御座襌偏ニ身命を抛、貳百五十年来之御恩澤ニ奉報度一同之宿願ニ御座候」等と記されている。

・『歴史のなかの新選組』に「元治元年10月依願永暇」と。小山松『新整組』に<慶応元年六月の「新徴組組別名前帳」に「小頭過人、小林登之助」とあり、さらに「病気永暇」とある。これは元治元年11月に新徴組を脱退したことを正式に届け出せず、病気といって休み、大砲組に入ったのであろう>とあり。又同書に「小頭過人というのは、結局余計者である。余り者の扱いである。それで登之助は新徴組には病気として永の暇をとってそのまま脱退したのであろう」と。

・「御用私記」元治元年12月条に「昨十四日御老中御連名之御奉書御到来()、新徴組者勿論、小林登之助始門弟共迄御家来同様御取扱、拾七万石之御軍役被成御勤候様云々」とあり。

「慶応三年十一月江戸風聞書」に「(月不明)十五六日ニハ御旗本納金中井新右衛門ニ集り候事を存同家江押入候事」、「押込之夜ハ必薩人重立候者品川ニ遊居候由云々」等として「小林登之助者元ゟ同意云々」とあり。(『淀稲葉家文書』)

・『丁卯雑拾録』同年10月から12月までの風説に「()浅草御蔵前坂清と申蔵宿へ欠矢を以表の戸を打砕四五十人ニ而押入古金二三萬両()奪取し由其外()大小盗多く探索方も不行届よし()然る処右之者(酒井侯附属小林組)之所為成よし探索ニ及といへとも容易ニ難召捕、町方役人より内々酒井家へ御頼ニ相成、酒井家ゟ深夜数十人押懸彼小林宅を取巻寝所へ踏込家内残らす斬殺し、家内を展検仕候処彼坂清にて奪取し古金初其餘数千両有之候由、巷説ニは御座候へ共専風聞仕候云々」と。

・小山松『新徴組』には「小林登之助は、慶応三年十月、長州藩に内通しているという嫌疑により、神田の居宅を新徴組に襲撃されて生命をおとした。闇の中の襲撃だから、小林の子まで斬られたという」と。

・高麗神社第56代社掌高麗大記の『桜陰筆記』に「謀叛人小林昇之介当月初酒井左衛門尉殿之手へ被召捕候由、妻子廿五人、是ハ関東の頭の由、展しり諸大名御召ニ而上京也、留守ニ乱ヲ起し八州諸城ヲ乗取、江戸ヲ焼払い云々」と。

『日野市立歴史館叢書』第15輯・『庄内史料集16-1明治維新史料 幕末期』・吉野式『新徴組研究』第5号・(小説)子母沢寛『幕末奇談』、『小説のタネ』

平山五郎

35

六番組

不明   ●播州姫路浪人

神道無念流斉藤弥九郎篤信に師事、免許者と。

鏡新明智流桃井春蔵門人樋口孫三郎(出石藩)の「撃釼英名録」に「鏡新明智流桃井春蔵門人、()当山兵部少輔家来、平山五郎」と、又松山藩士柴田鉄平清貞安政521日の日記に「此度播州姫路御中雅樂守御藩中、鈴木流無念流一ツ宮方、門人平山五郎修行として罷越、追て手合有之候積り」と、同日記同月9日には「酒井雅樂守様藩中、鈴木流無念流一ノ宮隊方門人平山五郎、今日手合有之候とあり。又神道無念流岡田助右衛門利貞門人佐藤万次郎(八戸藩)の「釼術修行帳」に「播州姫路藩、鈴木流神道無念流釼術、一ノ宮録蔵門人、平山五郎、右は安政五年三月十日試合」と、又直心流萩原連之助(相模国鎌倉村)の試合記録「剣客名」翌安政6

524日に「姫路藩神道無念流、堀川福太郎門人、平山五郎宅、未五月廿四日面会」とあり。

(以上は『歴史研究』第697号掲載、浦出卓郎氏「壬生浪人たちの修行時代」より)

浪士組上洛後、芹沢鴨近藤勇らと新選組を結成、副長助勤となるが、同年918日八木源之丞邸で近藤勇一派により暗殺される。

・西村兼文『新撰組始末記』に「平山五郎ハ三南敬助原田左之助之二士ノ為ニ殺害セラレタルハ事共也、娼婦ハ此紛乱ニ逃失タリ云々」と。

花火を製作中の事故により左目を失明したという。

壬生寺芹沢鴨と連名の墓・東京北区滝野川の寿徳寺境外墓地の新選組供養碑に名あり。

山本左右馬

  莊馬

38

5番組

不明   ●播州林田藩建部内匠頭元家来山本鶴司養子 当時江戸神田二番町筒井武左衛門同居山川安左衛門家来高島源蔵同居

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」に小頭兼槍術教授方で名あり。※「柚原鑑五郎日記抄」文久3年9月7日条に「山本左右馬、富田忠右衛門、手塚要人槍術教授方組中取立方は勿論稽古場取締専務に相心得一同申合可相勤御手当金月々一両宛被下置候」とあるので、槍術教授方選任はこの時か。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に1番隊伍長で名あり(新徴隊取扱頭取林茂隊)

「開墾士氏名」中に名なし。山本達馬とある人は。

明治6年10月寄留替 ・『歴史のなかの新選組』に「明治610月より神田五軒町建部従五位邸内寄留の山本莊司は同一人と思われる」と。

吉沢徳之進

 後小源太と改名ヵ

31

7番組

不明   ●播磨国明石藩松平左兵衛督元家来 当時江戸牛込山伏町石尾寅之助家来田中武右衛門方同居

新徴組入り ・「目録」に7番吉田庄助組平士、「組別名簿」に小頭中村錦三郎組平士で名あり。 ・元治元年2月28日「昨年中剣術出精ニ付、為御賞誉左衛門尉殿より小菊紙」を下された者の中に名あり。 ・慶応3423日夜忍廻りの節猿若町で強盗を捕らえた事件で、組士一統に金百疋づつの骨折料を賜る。

慶応4年庄内入り(家族3) ・以後「戊辰庄内戦争出張姓名」、「開墾士氏名」、「田川温泉場寄宿帳」、「明細書麁調」、又貫属関係資料等に吉沢徳之進の名はなく、代わって全て吉沢小源太の名が記されている。改名か。

吉沢小源太は明治64月寄留替

   京都府域からの浪士組参加者たち (3)

新井式部

18

五番組

不明   ●城州京地浪人

「高木潜一郎浪士組従軍日記」文久333日条に「今日番手ニ而御見廻り役人松岡万、吉田庄助、西村泰翁、新井式部云々」とあり。

上山藩士金子与三郎の清河八郎文久341日付書簡に「書中を以申上候、然は新井式部親病死に付、在所へ引戻し申度由、尤同人帰府前拙寓の右在所より追々迎ひの人参り申候、右に付山岡君え御相談被下、明朝にも帰郷致候様取計被下候、委細は当人り御聞取可被下候云々」とあり。

谷右京

63

5番組

妻子2人 ・丹波国柏原藩士生駒彦左衛門子

丹波柏原浪人 谷中新堀村酒井五左衛門地面に住居。

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」に砲術教授方として名あり。 ・「人名移動詳細」には、五番山本仙之助組平士として谷右京の名あり。

・小山松『新徴組』に文久36月末日松平上総介から谷右京への申渡書に「病気脱退の儀聞き届け難く、心長く養生致すべし」とあり、根岸友山の「御用留」に文久3713日付で「谷京、右病気ニ付、永之暇相願候処、願之通難相成、心永養生可被致旨、御支配より被仰渡候、此段御心得御達申候」との廻状文あり。

・「柚原鑑五郎日記抄」同年912日条に「谷右京()従来防禦之術致鍛錬居候趣に付、攻守の利害火砲の得失等佐野三郎申合新徴組兵勢相立候様可致依之過人被仰付云々」とある。 ・元治元年7月脱退。

川路聖謨「座右日記」文久3527日条に「窪田治部右衛ゟ之書状に而浪人河野音次郎、谷右京来る。面謁、両人共大砲之事を申来る。音次郎は岩槻在、右京は丹波之もの也と云」と。

『林鶴梁日記』の「嘉永三年覚書」に「谷右京ヵ左京ヵ、丹波ノ織田(原注・柏原織田出雲守二万石)ノ浪人、浅草辺住居、砲術家、奇術、五十歳計」と。

明治1025日没。墓は東京荒川区の南泉寺

吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号(詳細あり)・「大工手中明王太郎の江戸時代の日記」に谷右京の名頻出。

辺見米三郎

35

6番組

親妻子4人  ●城州葛野郡洛西桂浪人 当時江戸相生町4丁目住居

新徴組入り ・「目録」に31番鯉淵大三郎組平士に名あるも「組別名簿」に名なし。・柚原鑑五郎の「日記抄」文久38月条に「今日組入、辺見米三郎組合へ稲田隼之助」とあり。・根岸友山の「御用留」に同年9月中の組中廻状に小頭として辺見米三郎の名が確認できるが以後不明。

   和歌山県域からの浪士組参加者たち (2)

井上忠太郎

  (丑太郎)

 名・道明ヵ

29

4番組

不明 ・加藤出羽守元家来井上政之助子

伊予大洲浪人 ・当時牛込拂方町翁や常三郎方住居

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士井上忠太郎、「組別名簿」に小頭瀬尾権三郎組平士井上丑太郎の名あり(改名ヵ)。「黐木坂屋敷絵図」にも井上丑太郎で名あり。・後に槍術世話心得(槍術世話方)

慶応4年庄内入り(家族2) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に2番隊平士で名あり。 ・「開墾士氏名」に名あり。

明治55月高尾文吾と楽岸寺業輝が病気治療の帰路知人宅(尼寺)で饗応を受けたことで「高尾申合之規則破り病気に加こ徒希(つけヵ)尼寺江立酒食等いたし候言語同断之義割腹為致可然□存候、尤強而進メ候而も不致候ハハ大小取上揚家内之者江渡置禁錮拵発狂致し候与申立長く入置其内ニ□□慮も可有之各罷越右之件取計候様ニト申聞候、依之右両人外ニ組合ニ而井上道明高尾宅江罷越右之件今申聞候得共割腹ハ不致申候間大小取揚家内之ものへ渡シ候云々」とある井上道明は井上丑太郎か。(中沢貞祇の記録)

・明治65月司法省酒田臨時裁判所の召喚により東京を出立した旧新徴組士の中に井上道明あり。

明治76東京府へ貫属替(井上道明)

『上毛剣術史』

住山涛一郎

29

7番組

親妻子4人 ・浪人住山惣右衛門子

紀州和歌山浪人 当時江戸本郷菊坂町与七店寓居

新徴組入り ・「目録」に34番三村伊賀右衛門組平士、「組別名簿」に小頭三村伊賀右衛門組平士で名あり。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久三年8月条に「砲術心得名前」として住山涛一郎の名あり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に1番隊平士で名あり。・「開墾士氏名」には涛一郎の名なく、住山正一郎の名あり、子か。

・明治665日司法省酒田臨時裁判所の召喚命令により江戸を出立した旧新徴組士の中の住谷盛常は。

明治76月貫属替

「開墾士氏名」に載る住谷正一郎(守常ヵ)は涛一郎と共に明治76東京府へ貫属替。

『上毛剣術史』

   大阪府域からの浪士組参加者たち (1)

田中範也

36

4番組

不明   ●摂州麻田藩青木家浪人 当時斉藤熊三郎同居   ●「目録」に名なく去就不明

   三重県域からの浪士組参加者たち (1)

家里次郎

25

1番組

不明 ・富農小林清右衛門次男 ・天保10年生・幼名次郎  ●伊勢松坂大黒田新田 ・当時中山道桶川宿に寓居

小林次郎は母の実弟で儒医の家里悠然の養子となって家里次郎と名乗る。なお、それ以前に次郎の伯母(母の妹)の子新太郎(儒者)が悠然の養継子となり家里家を継いでいた。

新選組大人名事典』に「安政4年には京都の新太郎の家に厄介になっていたが、その行動は<無頼><風流男子>と評されるものであった。のち修学のため江戸へ出て、同五年武州大里郡甲山村の根岸友山を訪ねる」(出典不明)とある。

・浪士組参加当時の居所「中山道桶川宿」は恐らく桶川本陣府川甚右衛門家であったと思われる。当主甚右衛門は、昌平黌から松本奎堂や岡鹿門等を招いて講義を受ける程の好学の人であった。府川家は根岸友山の母の実家でもあり、友山の曽祖父の妻も府川家の人であった。甚右衛門は池田徳太郎とも旧知で、文久3114日付で浪士徴募途中の池田徳太郎が甚右衛門に宛てた書簡中に「いづれ当月廿五日頃は軍勢相そろひ、其御陣屋へ相をもむき申候、何分其御地辺の豪傑も御集メ置可被下候、学文剣術には不及唯勇猛義気盛ナル者にて宜敷、年令は二十三十のものをも宜敷御座候、御精力可被下候云々」とある。甚右衛門も浪士募集に深く関わっていたのである。家里次郎はこうした関係から根岸友山の組織した甲山組(1番組)に名を連ねたのだろう。なお、甚右衛門はこの年3晦日に病没している。

浪士組江戸帰還直前、1番組の家里次郎と殿山義雄に対し、鵜殿鳩翁から「有志の者相募候はば、京都江戸の内え罷出候儀は、其者の心次第可致候、京都に罷在度旨申候者は、会津家々中え引渡、同家差配に可随旨可被談候」命じられている。ⅩⅡ【京都守護職の浪人対策と浪士組】で記したが、これは通説とは異なり、浪士組内部の問題ではなく、広く京坂の浪士の募集指示書であったと思われる。 ・上記により、家里次郎たちは「芹沢、近藤らの京都残留に同意して京都守護職御預りの壬生浪士の一員として新選組発祥の礎となる」(新選組のすべて』)とする通説の誤りであることもⅩⅡで指摘した。

文久3424日大阪の土佐堀川に架かる常安橋脇の町会所で、芹沢鴨近藤勇らによって詰腹を切らされる。 ・「井上松五郎日記」同日条に「()淀川筋御城下其他参り、ざつこ沢山取酒宴。浪士芹沢、山南、平山壱人網ニ而取るざこ煮付、酒宴催、其後、近藤参り、夜ニ入近藤ヲ送り常安橋会所迄泊り。家里次郎殿少々切腹いたし、浅きつ。」とある。 ・ⅩⅡで家里の死を、浪士の召募に関係してと断定したが、殿山義雄のような斬殺でなくなぜ切腹だったのか。

新選組日誌』