1 はじめに
水戸藩の郷士大野謙介の名を知る人は、おそらく皆無に近いだろう。その大野謙介について、水戸藩主徳川斉昭の股肱の臣藤田東湖が茅根伊予之助(為宜)に宛てた、弘化3年(1846)9月7日付け書中に次の詩詞と2首の七言絶句が記されている(高橋多一郎著『遠近橋』・筆者注、以後も括弧内は原注とない限り同じ)。
予友関生(原注・大野謙介)博愛、嘗欲申理国冤、決然辞家、流離間関、百折不撓、皇々竭力者四年于茲、而我有司探索甚、頃者聞、潜匿於浦賀鎮台、窃賦二絶以寄云
五秋未遇黯雲晴、憐子潜居浦賀営、儻逢外虜窺辺日、莫辱雄藩神武名
東道咽吭天一隅 負山枕海壮規模 海山形勢未親覧 為寄相房要害図
藤田東湖と大野謙介の関係は、管見にしてこの書簡の記事以外に知らない。しかし、ここに「予の友関生」とあるからには、藤田東湖と大野謙介の間に、身分を越えた親交のあったことは疑いないだろう。なお、この2年前の弘化元年5月、徳川斉昭が幕譴を被り、致仕謹慎処分を受けた際(甲辰の国難)、側用人藤田東湖も免職・蟄居に処されていた。その後、水戸藩の士民あげての雪冤運動により、同年11月には斉昭の謹慎が解かれたものの、藩政への関与は許されず、東湖ら側近の蟄居処分もそのままであった。そのため、弘化2年以後、水戸士民による斉昭の復権運動が激しさを増していたのである。
大野謙介もこの運動の中心人物高橋多一郎(愛諸・元奥右筆)のもと、復権運動に奔走していたことが、先の『遠近橋』の記述で明らかである。その弘化2年7月17日の条に、『夜大野健介(原注・元郡同心、亡命嘆願に出候者)江南へ微行云々』とある。郡奉行配下の同心だった謙介は、藩主斉昭が幕譴を被った年に脱藩し、以来江戸に在って同志と共に、その雪冤のために幕臣や諸藩の有志に周旋し、また江戸での情報を水戸の同志に伝達していたのである。ちなみに、水戸藩で同心とは足軽のことだったらしい(『水戸市史』中巻三)。
筆者が大野謙介の名を知ったのは、「忘れられた傑士勝野豊作」(『歴史研究』第633号掲載)を纏めるに際してのことであった。当時、その出身地と推定された茨城県茨城町役場に問い合わせたところ、町内大戸の大野千里氏が何かご存知かも知れないとのことであった。直ちに大野氏に問い合わせたところ、「謙介について詳しいことは解らないが、先祖のことでもあり直接話がしたい」とのことであった。しかし、当時大野謙介に関する知識がほとんどなかったことや、その他諸々の事情もあって長くお伺いすることができずにいた。
その後7年を経た令和4年5月某日、思い立って茨城町の大野家をお訪ねしたところ、千里氏はすでに2年前にご逝去されたとのことであった。しかし、ご在宅の奥様が、千里氏が書き残された大野家の略系図や明治2年(1869)に撮影された謙介の写真など、貴重な資料をお見せ下さり、大野謙介の人物像の一端を知ることができたのである。ちなみに、その写真の謙介は、両足を広げて身を乗り出すように椅子に座り、右手に握った大刀を太腿上に横たえ、眼光鋭く正面を見つめた顔貌は厳つく、意思の強さと不屈の精神を窺わせるものであった。
千里氏作成の「大野家略系図」によれば、謙介は大野家(豪農、水戸まで他人の土地を踏まずに行けたとの口承がある)第29代政幹の次男として文化6年(1809・月日不明)に生まれている。同胞は第30代を継いだ雄幹、3男長四郎、4男郡之丞の3人である。なお、『水戸藩死事録』によれば、謙介の甥で大野本家第31代内蔵太は、慶応2年(1866)8月3日に44歳で没している。『水戸幕末風雲録』には、「水戸の獄舎にて死亡したるもの」と記されている。謙介同様に国事に奔走し、非命に斃れた人だったのである。
大野千里氏作成の「大野謙介家略系図」によれば、謙介は宮田氏の女えいと結婚(年月不明)し、友謙と義幹(同じ天保13年8月27日生まれ)の2人の子があったとある。しかし、2人共没年も同じ明治38年の同月同日と記されているため、2人は同一人物で、通称が友謙で、義幹は諱だったのではないかと思われる。なお、勝野豊作の曾孫陸軍中将勝野正魚の記した「安政大獄と勝野家」に、安政6年(1859)当時大野謙介には、19歳(天保12年生れとなる)の嗣子義幹及び5歳の次男、それに水戸藩士大金氏に嫁した長女の3人の子があったとある。
この稿では、これまで筆者が確認した大野謙介に関する史料に従い、紙幅の許す限り、年代順にその足跡を紹介することとしたい。なお、前稿「忘れられた傑士勝野豊作」と重複する部分の多くあることをご了承ください。
2 甲辰の藩難と謙介(1)
筆者が大野謙介の名を史料上で確認できたのは、『遠近橋』が初見である。これは、高橋多一郎が主君斉昭の雪冤運動の顛末を詳記(弘化2年から嘉永元年迄)したもので、主に弘化4年と翌嘉永元年(1848)に、大野謙介が関興(幸)左衛門、関興衛門、奥興衛門、児島恭助の隠名で頻出している。いくつかの事実を紹介し、謙介の活躍の様子を追ってみよう。まず、謙介の人柄の一端を窺わせる次のようなエピソードから記そう。
弘化2年当時、謙介ら復権活動に携わる水戸脱藩士の江戸の潜伏場所は、小路町裏隼人町の和泉屋という後家持ちの屋敷であった。その家には、主人の妹が子ども1人と共に同居していたが、「或時大謙(原注・大野謙介)越かたの事共互に話合候処、彼婦人頻りに落涙に沈ぬ」、そこで謙介が事情を問い正すと、私の夫は「鍋島内匠頭殿養兄法暁庵と申て庵人と相成り、手習指南致し隠居仕候処、当鍋島家の役人共不心得にて、座敷(牢カ)住居に致され候まま、此子供一人預り姉の所へ下り」暮らすこととなったが、主人の艱難を見るに忍びず、窃かに牢内へ鋸を持ち込んで破牢させ、その後共に隠れ住んでいた。しかし、暫くして主人は探し出されて再び厳重に幽閉され、間もなく牢死してしまい、「今日が四十九日めに御坐候とて、菓子抔備へ回向致し涙に被咽故」謙介も共々貰い泣きした、とある。先の藤田東湖の詩にも「予友関生博愛」とあった通り、謙介は情味豊かな人だったらしい。
『遠近橋』翌弘化3年6月の条に、「原田兄弟悲嘆に不堪、当有司へ指出申候嘆願書、関(原注・大野謙介)南上に付、福山(原注・阿部正弘)迄為廻申控へ」として、その嘆願書の文面が記されている。この原田兄弟とは、斉昭の天保改革に尽力し、今回の藩難で町奉行職から留守居物頭の閑職に左遷され、この年更に蟄居押込となった原田兵助(成裕)の子である。謙介は兄弟の父宥免のための嘆願書を老中阿部正弘邸に持参したのである。ちなみに、兄弟の兄原田八兵衛成徳は当時18歳、弟次郎成之は16歳であった。
この弘化3年中における大野謙介に関し、木崎好尚著『頼三樹傳』に掲載の頼三樹三郎の年譜に、「水戸藩士大野謙介へ手紙、退寮につき、昨日、門田の手より金壹両を借受けたれど、今壹両借用を頼む事」とあり、本文中に、頼三樹三郎から謙介に宛てた書簡文が記されている。ちなみに、三樹三郎に1両を貸した「門田」とは、福山藩主阿部正弘の侍読門田堯佐(朴斎)である。
「扨昨日罷出で申し候処、御留守故空しく帰り残念、唯御案じ申し上げ候は、一昨日朝、本所へ御越しなされ候故、若し先日敵薬(意味不明)に、御病気に障り申し候様なる儀にはこれなく候や、生儀、廿日夜遂に退寮命ぜられ、誠に当分之物事に困窮仕り候、居所は谷中善光寺坂、尾藤方へ罷り越し申し候筈也。唯最も憂ふる所のものは金。此間頼み置き奉り候儀は如何に候うや、先生の窮も固より存じ居りナガラ、甚だ以て厚面皮と思召され候はんなれども、誠に以て、両圓(原注・二両)バカリ、これなくては、寮中及び諸拂、月俸(原注・月謝)等に相困り申し候、右故、昨日丸山屋敷(原注・門田朴斎方)にて、壹圓借取り申し候。今壹圓之処、何卒御救ひ下され候義相成らず候や、然らずんば頼三木三郎退寮といひ、諸拂致し兼ね候はば、天下の醜体極る。何卒々々宜敷御酌取、御返事待入申し候、頓首不乙」
断るまでもないが、頼三樹三郎(鴨涯)は高名な儒者頼山陽(襄)の季子である。三樹三郎は、天保14年(1843)江戸に出て昌平黌に入ったが、激烈な尊王思想に加え、豪放な性格と酔狂から、上野寛永寺の石灯籠を蹴倒すなどして、この年の3月昌平黌を逐われたのである。書中「尾藤方」とあるのは、儒者尾藤水竹(髙蔵・寛政三博士の一人尾藤二洲子)で、水竹の母は三樹三郎の祖母(祖父頼春水の妻)の妹であった。当時謙介は尾藤水竹の家に出入りしていたので、三樹三郎とはここで懇意になったと思われる。2人の関係については、これ以外に知るところはない。
『遠近橋』弘化4年3月13日の条に、この夜、江戸から水戸へ戻った大野謙介が、高橋多一郎に江戸の情況を諸事報告した中に、「先達而、御書面(多一郎の)、御贈もの等、早速勝野へ差出申候処、大悦に御座候。別て冑は錆も落着、恰好と申(中略)、安伝へも罷越候処(原注・安藤傳蔵、当時御徒目付、少々学問も有之有志也)、(中略)久振故一杯と申、酒杯を被振廻云々」とある。また、同年9月4日に謙介が水戸に帰着の際の記事には、「鮭魚十八本、玉造村郷医柴田易簡迄付送り、彼より大健舟路にて、8日江戸へ上着、諸藩并聖堂衆、同監の有志へ贈る」、と記されている。
同月15日に、謙介が遠藤勝介の伝書を携えて水戸に下った際の報告には、先の鮭魚は「勝野不快の所へ持込候へは大悦にて、早速裁割酒宴を催し、主人(旗本阿部四郎五郎)へも遣申候由、其外遠藤、会津の水野、佐賀の古賀、細川の福田、小川町の大久保、阿部の石川、原弥十郎、安藤傳蔵等」へ即日持参したところ、殊の外の喜びだったとある。斉昭の復権のため、謙介はこうした人たちの間を周旋していたのである。
ちなみに、幕府御徒目付安藤伝蔵(龍淵)は、書家としても高名な人である。遠藤勝介(鶴洲)は紀州藩儒官、「会津の水野」は会津藩用人水野清兵衛、「佐賀の古賀」は佐賀藩用人古賀太一郎、「細川の福田」は熊本藩江戸留守居役福田源兵衛、「小川町の大久保」は西ノ丸御側衆大久保駿河守忠誨と思われる。また、「阿部の石川」は福山藩儒官石川和助(関藤藤陰)で、原弥十郎は幕臣で勤士並寄合から新砲兵頭、奥祐筆組頭となった人である。
3 甲辰の藩難と健介(2)
前後するが、『遠近橋』の弘化4年5月18日の記事には、「夜四更、関興左衛門来る。直様模様承り候処」、謙介から次の様な報告があったとある。なお、この記事によれば、謙介は水戸藩を亡命後に、雪冤活動の便宜を得るため、幕臣で高島流砲術家の下曽根金三郎(信敦)の門下となっていたのである。
その下曽根金三郎に対して謙介が、「私共は仙台者之由申上置候所、一体は水戸のものに御座候所、中納言様(斉昭)乍恐御冤罪被為蒙候付、難願に罷出、四年この方御当地に落魄いたし、可然しるへも有之様はゝ嘆願もいたし、万分之一も老大君御免御解の御はしにも可相成哉と、辛苦を厭ひ不申斯の体にて世を過し、先生御門下に罷成、段々赤心をも御打明申上嘆願仕、御手蔓をも相願候積りにて是迄御随身申上、御流儀相学ひ候事に御座候」、と一生懸命になってこれまでの事情を打ち明けたところ、「先生(下曽根金三郎)も流石感激の様子にて、吾子の御心ざし感入申候、我等も仙台のものには無之、水府の方と最初より見受、口には不出罷過候処、今日の御赤心相伺候上は此上共無御心置御相談可申候」と、総て承知の上で、今後の協力を約束してくれたと報告している。
下曽根金三郎は、嘉永6年露国使節プチャーチン来航の際、川路聖謨と共に応接にあたった筒井政憲の子で、幕府から高島流砲術指南を許され、後に講武所砲術師範(後に歩兵奉行兼帯)となった人である。松代藩士佐久間象山もその門下で、象山もその人物を高く評価しているが、謙介への配慮を見ても高邁な人であったことが窺える。
翌嘉永元年(1848・2月28日改元)になると、大野謙介の名は『遠近橋』に更に多出する。この年2月の条に「関幸衛門帰来事情之覚」として、「廿二日朝五ツ過武陽出発、翌廿三日夜五ツ時到着諸有志よりの来書左之通り」とあり、安藤傳蔵と大久保要(土浦藩寺社役、この4月用人に進む)、及び勝野豊作(正道・旗本阿部四郎五郎門客)の高橋多一郎宛て書簡文が記されている。謙介は朝8時過ぎに江戸を出立して、翌日の午後8時に水戸に到着しているが、通常江戸と水戸の間は3日を要したというから、その健脚ぶりが窺える。水野哲太郎(信順・水戸藩士)は、高橋多一郎へ宛てた書簡に「謙子健歩、勇力絶倫云々」と記している。また、『遠近橋』中の頭注に、「大謙身の丈六尺余、依而当時呼て大男又は鯨太といふ」とあって、その健脚も然も有りなんと思われる。
なお、謙介の水戸での逗留先については、前年9月4日の条に、「此節予宅奸目付置候由に相聞候間、(謙介は)天王町増子宅へ逗留さす」とあるので、謙介の妻子は妻の実家か、郷里の大戸村に住んでいたのかも知れない。文字通り妻子を捨てて復権活動に専心していたのである。
同年7月、尼子長三郎(久恒)と鮎沢伊太夫(國維・高橋愛諸弟)が記した「微行事情書」に、14日神田橋の勝野豊作を訪ねて、「興(原注・大野謙介)之儀に付兼々厚く預御世話、謝言之申様も無之所相述申候所、幸右衛門義も此節被探申候、礫川之間諜と思敷もの両人程、打続き拙宅へ罷越、ととけ物有之振に聞繕候よし、興衛門儀も折角是迄相凌、今更捕に就き候ては、是迄いろいろと心配仕候詮も無之候故」、兼ねて懇意の浦賀奉行浅野中務少輔(長祚)の所へ謙介を同道して、事情を話したところ、「浦賀之方も大に受も宜しく、(謙介を)浅野家来分に致し、家老一人呑込居り候約に御座候、幸に家中砲術剣術等未熟に付、ともとも修行為致申度よし云々」とある。
謙介はこの当時勝野豊作の屋敷に住居していたのである。その勝野家に、水戸藩邸の間諜らしき者が、謙介への届け物と称して打ち続いて訪れたというのだ。謙介の身柄の保護を引き受けた浅野長祚は、詩文や書画を愛した文人でもあり、勝野や尾藤水竹、藤田東湖とは懇親の仲であった。なお、本稿冒頭の藤田東湖の七絶は、東湖が謙介のこの浦賀への潜居の事実を知って詠んだものである。
しかし、9月29日付け高橋多一郎の大久保要宛て書中に、「興衛門儀、御厚情を以好き所へ潜居罷在候処、来月三旬位之暇に而罷出候由、然処当節用向段々御座候間、可相成者跡三十日計も、貴地へ指置申度奉存候云々」とあるものの、翌月四日付け大久保要の高橋多一郎と石川徳五郎(幹忠)に宛てた書中に、「昨夜は罷帰、関氏御出に而、病後始傾一盃、枕を置初而安眠、(略)関氏気種の気味云々」とあり、謙介はこの書簡を所持して同月8日には水戸を訪れている。謙介には気腫の持病があったのである。気腫は肺胞(酸素と炭酸ガスを交換する)の組織が壊れて、肺に溜まった空気を押し出せなくなる病気だという。
『遠近橋』には、8月3日付け大久保要の石川徳五郎宛て書中に、「関氏被促、燈火大略云々」とか「関氏之儀、逸々御丁寧蒙御仰却而恐入候」とあり、また、同日付けの謙介が尼子長三郎や高橋多一郎に宛てた書簡文が載っている。さらに、9月18日付け大久保要の野村彝之介(鼎実)宛て書中には、「浦賀へも急に及書通、関氏迅速御出、尚又微行に付云々」等とあるので、謙介が浦賀奉行浅野長祚に世話になった期間はごく僅かで、浦賀潜居中も従前同様の活動をしていたらしい。主君斉昭の雪冤を焦眉の急務とする謙介は、安閑と浦賀に留まっていることはできなかったのだろう。
浦賀潜居後の謙介は、隠名を児島恭介と変えている。『遠近橋』9月29日の条に、「夜児島恭介(原注・関興衛門事)発足」とあり、また「恭介不快にて、彼是延引之処、余程快く相成候に付、鮭魚松茸肉等為持、今夜三更発足云々」とある。「恭介不快」とあるから、気腫の症状が時々謙介を苦しめたらしい。翌月8日には、謙介は江戸の諸有志の書簡等を携えて水戸に戻り、同月12日未明には野村彝之介と共に水戸を発足し、江戸に戻っている。
以上、ここに紹介した『遠近橋』に見える大野謙介の活躍は、ごく一部に過ぎないが、紙幅の関係上これまでとし、以後は次回18の(2)に続きます。