18の(3) 知られざる水戸藩郷士大野謙介

8 謙介京に上る

 

 文久25月以降で、大野謙介の姿を確認できる史料は、管見にして「住谷日記」のみである。僅かな断片記事ではあるが、その記述を追ってみよう。まず、511日の条に「大謙下り願不済事、圭木も下リハ六ケ敷様子也」とある。謙介の水戸下向の願いが実現していないということか。「圭木」の誰かは不明である。それから4カ月近くを経った92日の条にも、「大謙ゟ之状届不申此後之便ヲ待候外ナシトゾ」と記されている。そして同月26日には「此夜池田(旅籠池田屋)へ飯村(俊蔵)、川又(才助)、大野等尋来候よし也」、とある。住谷は、920日水戸を出立し、当時は江戸に滞在中であった。

 

 翌113日の条には、「山国へ大野ゟ之答書返ス」とある。「山国」とは山国兵部(喜八郎・この年目付に復職)だろうか。同月16日には「大謙来ル」、2日後の18日には「此夜大野来ル、御国状頼候事」、21日には「此夜高崎、大野、川又来ル」と記されている。「高崎」とは薩摩藩士高崎猪太郎(五六)と思われる。

 

12月は、16日条に「大野ゟ昨日筒抔大赦ノ事京ゟ来ルト言、秋月ゟ分ルトソ、但真偽突留かたし、高崎抔ハ不知」とあるが、同月19日条には「大赦ノ事も世古格太郎持参也トソ」とあるから、謙介の伝えた情報は正しかったのである。勅旨により、幕府が、「国事の為罪禍に罹りし輩、一人も洩れなく赦免すべきよう」列藩に達したのは、この月の1日のことである。なお、大赦の件を謙介に話したという「秋月」とは、会津藩秋月悌次郎(胤永)ではないかと思われる。また、世古格太郎(延世)は伊勢松坂(酒造業を営む豪商)の尊攘の志士である。「筒」の誰かは不明。「住谷日記」は翌年まで記されているが、以後そこに大野謙介の名を見ることはない。

 

文久2125日、将軍後見職徳川慶喜は将軍徳川家茂上洛の先発として江戸を発駕した。同月24日には、水戸藩用達武田耕雲斎(正生)も梅澤孫太郎、梶清次衛門らを従えて上京の途についている。この水戸藩尊攘派の領袖と目された耕雲斎の上洛は、慶喜の強い要請によるものであったが、この耕雲斎の一行の中に大野謙介がいたと推定される。なお、水戸藩徳川慶篤1000余の藩士を従えて、翌年216日江戸を発して翌月5日に入京し、西本願寺北の本圀寺に入ってここを屯所とした。

 

 謙介が武田耕雲斎の上洛に従っていたと推定したのは、文久3127日、諸藩の尊攘運動の領袖ら50余人が京都東山の翆紅館に集会した際、その参加者の中に大野謙介の名が認められるからである(『水戸学と維新の風雲』等)。この翠紅館の会合の牛耳を取ったのは、謙介とも旧知の長州藩久坂玄瑞であった。この集会には、謙介以外に山口徳之進、住谷寅之助、下野隼次郎、金子勇次郎、梶清次衛門、林五郎三郎、川又才助らの水戸藩士が参加していた。また、長州藩の世子も臨席していたという。なお、この翠紅館会議は同年6月にも行われているが、この際は長州の桂小五郎の主催であったという。

 

 水戸藩徳川慶篤は、上洛後1ヶ月にも満たない325日、本圀寺を発駕して江戸へ戻ることとなった。前年8月の生麦事件の賠償を求めて来航した英国艦隊に対処するため、将軍の目代として急遽帰府することとなったのである。慶篤は東下に際し、弟余四麿(昭訓・徳川斉昭14)に京都警衛の任を託し、その補佐として松平頼位(前宍戸藩主)武田耕雲斎と共に、総勢120人ほどの精兵を滞京させていた。この一隊は本圀寺勢()呼ばれた。慶篤に随従して上洛していた床井親徳(庄川・晩緑斎)の日記(水戸藩関係文書』収載「晩緑斎秘笈」)324日の条に、慶篤の東下の随従を除外された藩士の名が列記されている。そこには、「余四麿様御滞京ニ付御指留ニ相成候名」として、「御家老御用達武田耕雲斎」の「付属与力」、大野謙介、西宮和三郎、斉藤佐次衛門の3人の姓名が記されている。

 

 その翌月、幕府は朝廷の強要により、来る510日を攘夷期限と定め、江戸に戻ってこれを指揮するため、将軍後見職徳川慶喜422日に京都を発した。武田耕雲斎もこれに従ったが、その付属与力である大野謙介は何故か本圀寺に留まることとなった。因みに、同僚の付属与力西宮和三郎と斎藤佐次衛門の2人は、耕雲斉に従い帰府したらしい。

 

本圀寺勢(朝廷の御守衛兵)の隊長酒泉彦太郎()の日記(「酒泉直滞京日記」)の、この年826日の条に、「此度監察御警衛被免凝花洞前御固メ場ノ儀ハ以来見張番被仰付云々」として、3名ずつ7隊の名が記され、1隊ごとに「御先手同心五人下両役ノ内壹人御中間小遣貳人」が配置されている。その4番隊3名の中に大野謙介の名が認められる。なお、謙介たちが守衛した凝花洞は、御所の南側至近にあった。

 

 「酒泉直滞京日記」によれば、この年917日、謙介は凝花洞警衛を免じられている。その後の謙介が、どの様な職席に在ったのかは不明である。翌10月、因州鳥取藩用人安達清風(清一郎)の日記(「安達清風日記」)13日の条に、「晩與水戸、原、大野、梅澤、会飲于三樹月波樓極愉快、遂乗輿再飲于万樓酔臥」とある。この日謙介と共にあった原市之進は、当時水戸藩奥御右筆頭取、梅澤孫太郎は小十人目付の職にあった人である。なお、安達清風は安政2年から4年にかけて水戸に遊学し、相澤正志斎らに学んでいた。謙介は、その当時安達と知り合ったのかも知れない。当時の謙介は、鳥取藩の重職安達清風や原、梅沢と職位を越えた交流があったのである。

 

9 京都に於ける謙介

 

 越前福井藩士中根靱負(雪江)の『続再夢紀事』元治元年47日条に、「水戸藩勝野大助来る。大野謙介の書翰を出して中根靱負に面会を申し入れたり云々」、と記されている。勝野大助とは勝野保三郎のことで、保三郎はこの日、京都守護職松平春嶽の唱える開国論を攘夷論に改めさせるため、その側用人中根靱負を尋ねたのである。これによれば、大野謙介は中根靱負とも面識があったらしい。『続再夢紀事』に、保三郎が中根に主張した言説が記されている。恐らく、当時の謙介の認識内容でもあったと思われるので、左に転載する。

 

  「目下天下の人心甚た切迫に及ひ到底攘夷にあらされハ鎮定しかたし、故に此際術策を

用ゐてなりとも幕府をして攘夷の方向を執らしめんと欲し、已に因備水尾の四藩ハ心を協はせて其挙に及ふに決せり。然るに薩は其挙に同意せさるのミならす、専ら奸謀を運し、現に長州の件の如き悪ミを幕府と守護職に帰せしめ、自藩ハ傍観の位置に立てり。是豈堂々たる大藩の宜しく為すへき所ならんや。故に今日ハ天下挙て薩の為る所を悪めり。会津の如き昨年来共に謀る所ありしに拘はらす、今日は大に其欺を受たる事を悟り却てこれを憤り、水戸の議を賛するに至れり云々。扨春嶽公にハ戊午此の御意見に反し、今日ハ専ら開港説を唱へらるるよし、誠に残念なり。されハ篤と御考察ありて更に旧時の御意見に復せられ、攘夷説を賛せられん事を冀望す云々。」

 

これに対して中根靱負が、「万国互ニ好ミを通して(物資の)有無を貿易するハ天理の自然に基くものなり。故に吾藩に於てハ去る丙辰(安政3)の頃より已に其意見を更め彼の長を採りて我短を補ひ専ら国を開らき国威を世界に輝かすに一決せり云々」、と福井藩の立場を説明したものの、勝野は一向理解せずに怏々として立ち去った、と記されている。

 

 この翌月、勝野保三郎が水戸藩士として採用されている。「勝野正満手記」に、「元治元年甲子五月(原注・日を失セリ)大野謙介氏ヲ以テ水戸藩ヨリ達アリ(一橋様御守衛被仰付の達文有り)、是ヨリ三条通神原苑町名ル一橋邸ニ移リ月俸七圓ヲ賜ヒ、貳番床几隊ニ編入セラル」と記されている。亡父豊作の水戸藩への多大な貢献もあったろうが、大野謙介の推薦や力添えがあったのかも知れない。また、同手記に「是ヨリ先キ、坂井ハ大野氏寄食シ、予ハ肥後ノ脱藩士川上玄斎、高木藤五右衛門外一名、大野氏ヨリノ依頼ニテ井筒屋方ニ潜居シ予ト同居云々」とある。

 

大野謙介方に寄宿していた坂井とは、前年1月、幕府徴募の浪士組に保三郎と共に参加し、江戸帰還後に脱退して保三郎と共に上京した越前福井の坂井友次郎である。さらに、謙介の依頼で、旅宿井筒屋方に保三郎と共に潜居した肥後脱藩士川上玄斎とは、名を玄明といい、「人斬り玄斎」として名の知られた人物である。また、高木藤五右衛門とは、高木元右衛門(直久)ではないかと思われる。「酒泉直滞京日誌」の中に、前年の818の政変で肥後熊本藩も藩論が一変したため、京摂間に潜居先を失った尊攘派の高木元右衛門が本圀寺に保護を求めて来たことが記されている。しかし、本圀寺には「会藩人ノ出入モ有之嫌疑モ不少ニ付、他ニ転住スル社穏ナラントテ友人大野謙介ニ議リ、蛸薬師某ヘ託シ同所ニ水戸下宿表札掲ケ暫時是ニ潜伏」させたとある。高木元右衛門や川上玄斎の井筒屋への潜居は、蛸薬師某へ移るまでの間だったのだろう。

 

なお、御守衛隊長の酒泉直が、その日誌に「友人大野健介ニ議リ云々」と記していることは注目に値する。2人の間には、上下の関係を越えた深い親交のあったことが窺える。「酒泉直滞京日誌」には、さらに、そのことを示す左の如き逸話も記されている。

 

 「武田正生以下加賀金沢藩ノ陣営ニ降ル、我藩ニ帰陣ヲ命ス、依テ兵ヲ督シテ駄田駅ヲ発ス、茲ニ督府ノ臣穂積亮之介神保ヨリ来リ会シ、武田始メ面会ノ情況ヲ聞ク、穂積ハ総督府内命ヲ以テ神保ニ出張シ、武田藤田()面会セシト云、(中略)穂積密ニ武田ヘ内意ヲ漏シ、武田源五郎を誘引シテ京師入リ、大野鎌()介ノ尽力ヲ以テ因州邸ニ潜伏シ、嫌疑アルヲ以テ後備前岡山ニ移云々」、また、当該日誌の欄外に、「大野謙介尽力シテ鳥取藩安達精一郎同行シテ上京シ、同藩松田正人等周旋ニ因リ、岡山藩老伊木長門ノ采地備前国蟲明ニ潜居」と、武田源五郎が最終的に岡山藩の家老伊木長門に預けられた顛末が、具体的に記されている。

 

この武田源五郎とは、武田耕雲斎(正生)4男である。水戸天狗党勢を率いた父耕雲斎に兄たちと共に従って西上し、元治元年1220日に加賀新保駅で、父兄と共に金沢藩の軍門に降って虜囚の身となっていたのである。

 

これらによれば、大野謙介は武田源五郎の潜匿を穂積亮之介から依頼され、これを安達精一郎に託したらしい。穂積は常州下檜沢村(常陸大宮市)郷士小室藤次衛門の弟で、この年11月に一橋家に仕官したばかりであった。謙介とは尊攘活動等を通じて懇意であったのかも知れない。武田源五郎に関して「安達清風日記」元治212日の条に、「水戸武田源五郎、原孝三郎両人原市ゟ○ニ被託」とある。原孝三郎は原市之進の弟で、源五郎と共に救出された人である。原市之進は私事に関することでもあり、密に穂積亮之介と大野謙介に託し、安達精一郎に2人の保護を依頼したのかも知れない。

 

なお、西上した水戸天狗勢の内350余人が、越前敦賀で無惨に殺害され、その中に源五郎の父耕雲斎と2人の兄の在ったことは改めて記すまでもないだろう。この事件の当時、勝野保三郎は病のために温泉療養中であった。「勝野正満手記」に、「予ハ大野義幹ト病ニヨッテ摂州一庫ノ温泉場ニアリ云々」とある。ここに記される大野義幹は謙介の嫡男だと思われる。なお、「酒泉直滞京日記」文久3823日条に、「大野虎之進当地へ御留御警衛御附被仰付候事」とあるが、この大野虎之進と大野義幹は同一人物と思われる。「思われる」としたのは、翌元治元年41日条には「謙介倅、大野寅之進、右ハ与力雇申付凝花洞前御守衛申付」とあるものの、慶応元年六月九日条に「朝倉謙介倅大野虎之進云々」とあるからである。しかし、「酒泉直滞京日記」中の他の個所に「朝倉謙介」の名は認められないので、これは大野謙介の誤りではないかと思われる。

 

 これ以後、大野謙介の名は明治維新に至るまで、管見にして「安達清風日記」に僅かに確認できるだけである。その慶応元年128日条には、「此夜地震、宮寺某(原注・福山の人)、大野謙介等来訪」とあり、910日には「晩ニ歩帰逢水戸、野村、川又、大野諸人、遂相携飲于井筒樓投広初樓」とある。「野村」とは水戸藩士野村彝之助(鼎実)、「川又」は川又才助である。そして、翌慶応2619日条に「晩大野謙介来訪小酌」とあるのを最後に、以後「安達清風日記」に大野謙介の名を見ることはない

 

10 明治維新後の謙介(1)

 

 「徳川昭武家記」(茨城県史料・維新編』)の中に、慶応4(98日明治と改元)413日付けで、「水戸中納言家来大野謙介」が新政府の太政官代に差し出した届出書が記載されている。そこには、「鈴木岩見、朝比奈彌太郎、市川三左衛門、佐藤図書、以下都合三百人程、右者、去月十日頃国許脱藩仕候趣申来候間、此段御届申上候云々」とある。また同月16日にも、大野謙介が太政官代に鈴木岩見、朝比奈彌太郎の動静に関する風聞を報告した届出書が記されている。

 

 いうまでもなく、この届出書は、いずれも謙介が水戸藩を代表して新政府に提出したものである。当時の謙介がどのような職席にあったのか明らかではないが、佐倉藩の依田学海(百川)の『学海日録』に、謙介の当時の職席を窺わせる記事がある。この年929日の条で、そこには「常陸、下総両国は例の組合にて朝より被仰下る事を伝らる。公事しげければ一会をはじめ、懇親を結ぶべしとて、此日、木屋丁の松下てふ店に会す。此日会するもの水府の大野謙介、土浦大久保要、笠間の吉田義右衛門を始にて十人あり。常、総を合せなば一藩一人を出して十九人に及ぶとなり」、と記されている。

 

 大久保要は、謙介とも親交のあった大阪城代用人等を勤めた大久保要(親春・安政6年病没)の嗣子親正である。青木光行著『贈従四位土浦藩大久保要』によれば、親正は御馬廻役から公用人(就任月日不明)となっている。また、吉田義右衛門についても、笠間藩の「明治初年役高定並家中分限帳」に、公用人としてその名が認められる。しかし、依田学海に関する年譜には、この年714日付けで大目付から御用人に就任したとある。御用人とあるが、先の『学海日録』の記事から推定して公用人のことではないかと思われる。これらのことから、大野謙介が当時水戸藩の公用人の職席あったことに間違いないだろう。

 

『学海日録』にあった929日の会合は、その内容から公用人の集まりであったと思われる。公用人は旧幕時代の留守居役に相当する職だったという。留守居役は江戸常駐で、幕府や諸藩との連絡・折衝から情報収集等を行うことを職務とし、「留守居組合」を組織して各種の情報交換を行っていた。公用人たちも留守居役同様に組合を組織したのだと思われる。この日、常陸と下総各藩の公用人19人中10人が集まったのである。先の謙介名での太政官代への届出(413日付け)等からも、それ以前の謙介は江戸留守居役に相当する職にあったのかも知れない。

 

 ちなみに、『水戸市史・中巻五』に載る「明治2年8月の職制改革」表によれば、公用人は監察、典事、衝撃隊長、遊撃隊長等と同じ「第五等」級(「第十等」の上下・等外もあり)で、同年同月の「禄制改正」表によれば、公用人は「第四等」級に位置付けられていて、俸米籾75俵、職金350両が支給されたとある。

 

 前後するが、前記「徳川昭武家記」の謙介の太政官代への届出書に関連して、当時の水戸藩内の党争事情について簡単に触れておく必要があると思われる。幕末、全国諸藩で激しい保革の対立抗争があったが、水戸藩のそれ(革新派天狗党守旧派諸生党)は、他藩に比べても特に激烈かつ酷薄なものであった(詳細は略す)。元治元年の天狗党激派による筑波山挙兵以後は、幕閣と結託した諸生党が藩政を牛耳り、革新派への圧迫は甚だしいものがあった。そのため、大野謙介の属していた京都の本圀寺党(革新派)は、本国(守旧派政府)からの両米等の送致を一切断たれ、まったくの孤立状態に置かれていたのである。

 

 慶応417日、朝廷から前将軍徳川慶喜の追討令が発せられたのを機に、本圀寺勢は朝廷に対して、水戸藩政改革のための早急な東帰を請願した。同月20日、朝廷の許しを得た本圀寺勢は300人余は、鈴木縫殿(靱負)に従って京都を出立した。この一行の中に大野謙介、虎之進親子もいたと思われる。なお、本圀寺勢が江戸に帰着(210)する以前の28日、徳川慶喜の指示を得た革新派の長谷川作十郎(允迪)らが、朝比奈彌太郎らを免職・謹慎させ、江戸の小石川藩邸から守旧派勢力を一掃していた。

 

江戸に入った鈴木縫殿らの本圀寺勢は、藩主慶篤に対して五奸(鈴木重棟、市川三左衛門、朝比奈彌太郎、佐藤図書他)を厳罰に処すべき旨の勅書を提示した。こうした情勢に応じた水戸では310日、革新派800余人が城中に乱入して守旧派勢力を一掃し、政権を奪取していた。水戸城下を脱出した朝比奈、市川、佐藤らの守旧派首脳は、500余人を引き連れて会津方面に向かい、その6日後の同月16日には本圀寺勢等1500人が水戸城に入った。そして同月20日には会津方面に逃れた守旧派一党を討伐するため、鈴木縫殿を主将に約1000人の藩兵が水戸城下を出陣したのである。

 

11 明治維新後の謙介(2)

 

 「徳川昭武家記」の慶応476日の項に、大野謙介が新政府の弁事役所に提出した、「早春近畿騒擾以来関東動揺不穏形勢ニ付、早速上京可仕之処以外之重病相脳()唯今以平癒之際難め許候間、不取敢今般家老尾崎豊後為差登天気奉伺土宜敷御指図奉願候」、とする伺書が収載されている。ここには、藩主慶篤が重病で今以って平癒せず、天気(天皇の機嫌)伺いのための上京も叶わないので、取り敢えず家老尾崎豊後を差し上らせたい、と記されているが、慶篤はこの年46日に既に死去していたのである。慶篤には子があったが、革新派の人たちは守旧派を信任して藩政を混乱させた慶篤の子を主君に奉じ難かったらしい。水戸藩11代を継いだのは斉昭の18男昭武で、その就任は昭武がヨーロッパから急遽帰国したこの年11月のことであった。

 

 『水戸藩史料』に、「然るに此時(慶篤死去の時)、藩治未だ回復の功を奏せず、且つ継嗣未だ定まらざるを以て、喪を秘して発せざりしが、征東大総督熾仁親王は水戸家の親姻なるを以て、殊に憂慮せられ、(中略)閏四月、大総督府より昭武に帰国を命ぜられ、同五月七日、本藩へも下達云々」、と記されている。したがって、慶篤の死去は公然の事実で、先の大野謙介の弁事役所への伺書の内容も形式的なものだったのだろう。

 

 同年同月23日には、「触頭、水戸中納言内、大野謙介」名で、「常陸国茨城郡水戸、高三拾五萬石、水戸中納言、但飛地下総国那須郡内云々」を筆頭に、常陸陸奥下総国19藩を書き出した報告書が記されている。謙介について「触頭」とあるのは、19藩中随一の大藩である水戸藩の大野謙介が諸藩の取り纏め役で、19藩を代表して弁事役所に差し出した報告書だったらしい。

 

 同年1023日には、大野謙介の名で弁事役所と軍務官へ宛て、「当春国許脱走之奸徒市川三左衛門、朝比奈彌太郎等其他会賊共去月廿八日頃領内江相迫云々」、と記された届出書が提出されている。この年922日、会津藩が新政府軍に降伏する直前、市川三左衛門ら守旧派会津を脱出し、同月28日には水戸領内に侵入していた。大野謙介の届出書によれば、市川勢は、29日未明に小野河岸(常陸大宮市)の守備兵を打ち破り、同日午刻には石塚(常北町)で城兵を撃破して城下に侵入し、「城下金町ニ於而家老山野辺主水正一手防戦之処、敵大勢味方小勢引返シ接戦之処、終ニ弘道館江押入必死奮戦、朔日(101)未明ヨリ双方互ニ接戦、翌二日烈敷及攻撃候処、敵難支故欤弘道館内幷南北郭中江放火致シ、同夜四方江散乱」したという。この激戦で、弘道館の諸施設は灰燼に帰してしまった。なお、大野謙介のこの報告書は、その一部が『水戸市史』中巻五に収録されている。

 

 明治初年の公文書をまとめた「公文録」(茨城県史料・維新編』)に、明治2822日付けで、謙介個人が明治新政府に提出した建白書が収載されている。この建白書には冒頭に、「水戸藩西京詰、大野虎之進」の名で弁事御伝達所へ宛てた、「士族大野謙介ヨリ別紙建白書差出候間、兼而御布令之趣モ有之ニ付東京ヘ可差出筈之処、泉涌寺ニは御当処之儀且右健介儀モ御当地詰合罷在、旁東京ヘ建言仕候モ甚迂延之至、其上自然御尋等有之節ハ巨細御請難出来候間、別紙当於御官御取納成下度奉願上候」との添状が付されている。

 

当時謙介と虎之進親子は、揃って京都に在職していたのである。大野謙介という人物の一端を知るためにも、建白書の全文を左に転載することとする。

 

 「謹而奉奏讞候、広ク言語モ被為開万機御確定之折柄、不省微身不顧恇悚ニ左ニ奉申上候。泉山之儀ハ御歴代様御祖霊ヲ被為留候無此上御陵ニ被為在候儀ハ奉申上候迄モ無御坐候。昨年来神仏混交之地ハ御改正分地之被為在御趣意ニ往々神社向キ御清祥ニ相成、誠ニ以テ深ク難有拝戴仕候。右御陵ハ未御改清不被為在候間、御歴代様御院号ヲ御神号ニ御改復被為遊仏刹総テ御廃斥ニ相成、随テ僧侶蓄髪被仰付候様奉懇願候。近頃長僧始還俗奉守護度旨内意申居趣、是全ク厚キ御趣意遵奉服膺仕候儀ニ有之、感戴之至ニ不堪奉存上候。諸宗追年衰運之時ニ当リ、江海無量之御仁慈を以テ、泉山御改正ニ相成候時ハ、従テ諸宗之仏徒共自ラ還俗之意念ヲ可生儀ハ時運必然の勢ニ御坐候。何卒前件奉希望候。芻蕘之鄙言万ニ一御採用被下置候ハハ難有仕合奉存候。賤愚頑固奉冒瀆上聴死罪々々誠恐惶謹言。」

 

文中「昨年来神仏混交ノ地ハ御改正云々」とあるのは、慶応43月以降の新政府による神仏分離政策のことを言っている。「泉山」は東山泉湧寺の山号である。「泉山之儀ハ御歴代様御祖霊ヲ被為留候」とあるように、その寺域は仏式による歴代天皇や皇后・皇族の墓所となっていた。「右御陵ハ未御改清不被為或候間」、この歴代天皇等の院号を神号に改復して、泉湧寺の僧侶に蓄髪・還俗させれば、諸宗之仏徒共も自ら還俗の意念を生ずるのは時運の必然なので、是非採用を願いたい、というのがその大意だろう。水戸藩には、2代藩主光圀が神仏混交の風習を嫌って神社から仏教的要素を排除する等の社寺改革を行って以来の思想的伝統がある。謙介も、新政府の神仏分離政策と、その後の廃仏毀釈運動は大歓迎だったと思われる。

 

なお、勝野保三郎の手記の明治2年の条に、「(原注・月日ヲ失ス)藩政改革ニ付官名公用

人試補、等級十等上、家禄籾貮十六俵官給年百十円ニ被改」とある。そして、その際の公

用人は鹿島某で、後に村田長三郎という者に交代したと記されている。「勝野正満手記」の記述は明治3年を以て終わっているが、保三郎がその年3月公用で上京した際の記事に、「滞京中大野謙介ニ謀リテ金百円ヲ借入云々」とあるので、当時謙介は「京都留守官」の職にあったのかも知れない。

 

「公文録」にも、明治3217日付けで、「触頭水戸藩、大野謙介」が留守官傳達所宛てに提出した「右(水戸藩以下二十藩)当藩幷触下藩印御渡追テ知藩事ヨリ御請申上所迄先不取敢私共ヨリ一紙ヲ以御請奉申上候」、との届出書。また、同年529日付けで「水戸藩京詰、大野謙介」が、やはり藩印の改刻に関して留守居傳達所に差し出した届出書が収載されている。

 

 そして「公文録」には、同年622日付けで、水戸藩京詰の大野謙介が留守居傳達所に差し出した「京都御用弁差置ニ不及旨触下麻生藩ヘ御達ニ付願」、とする願書(内容省略)を最後に大野謙介の名を見ることはない。大野謙介が明治614日に64歳で没するまでの約3年間の去就は、残念ながら一切明らかにできていない。

 

 なお、明治39月に、新政府は地方行政上の職制に関して、全国的な体系化(県令または知事―大参事―少参事―大属少属―史生―庁掌)を図ったが、同年11月の「水戸藩庁職制及び名簿」(水戸市史』中巻五)に、史生として大野虎之介の名が確認できる。

 

12 おわりに

 

 大野謙介は郡長になったという話もあるが、管見にして史料的には確認できていない。また、謙介の終焉の地が京都だったのか、或いは江戸か水戸だったのかも明らかではない。したがって、その墓所さえも確認できていない。故大野千里氏の奥様のお話では、大野家と同じ塋域に、以前もう1家の大野を称する家の墓所があったものの、いつの頃か絶家となって、その墓石もすべて取りかたずけられた、と聞いているとのことであった。また、大戸地区には現在もう1軒大野を姓とする家があるものの、縁戚関係にはないとのことであった。

 

 もっとも、大野謙介家の墓所が大戸にあったとは限らず、東京都内等にあった可能性もある。ちなみに、大野千里氏作成の大野謙介家の略系図によれば、友謙(義幹・虎之進ヵ・明治389月没)には、妻「はつ」(小林一介2)との間に「とら」と「りき」という2人の子があったが、明治262月に悦之介(明治17年生)を養子にし、その母「きく」(安政6年生・長沼茶斉女)も共に大野家に入ったらしい。これは系図の「きく」と「悦之介」の項に、共に「入、明治二十六年二月二十六日」とあることからの推定である。その後は定かではない。

 

 水戸の郷士大野謙介は、藤田東湖や酒泉直に「友」と言わしめた人物である。また、以上見てきた通り、当時の諸藩の有志たちにも広く知られた人物であったことは明らかである。しかし、郷士という身分上の制約もあり、維新に至るまで表舞台に立つことはなく、影の薄い脇役として歴史の闇に消え去ろうとしている。幕末の動乱を懸命に生きたこの人の生涯にいささかでも興味を持っていただき、さらにその生の軌跡に逼っていただく方がおられれば幸甚です。

 

●参考文献

〇『遠近橋』 早川純三郎編輯  国書刊行会 

〇「勝野正満手記」 東京大学史料編纂所所蔵

〇「住谷正順日記」 東京大学史料編纂所所蔵

〇『安達清風日記』 続日本史籍協会叢書 東京大学出版会

〇『維新日乗編輯』第三及第四巻 日本史籍協会 マツノ書店

〇『久坂玄瑞全集』 福本義亮編 マツノ書店

〇『茨城県史料』幕末編Ⅲ・維新編・近世政治編 茨城県歴史館編 茨城県

〇『井伊家史料・幕末風雲探索書』 井伊正弘編 雄山閣

〇『水戸藩関係文書』第一巻 日本史籍協会編輯発行

〇『続再夢紀事』 日本史籍協会編 東京大学出版会

〇『大橋訥庵全集』 平泉澄・寺田剛編 至文堂

〇「幽囚日記」菊池教中 静観堂

〇『木戸孝允関係文書』 木戸孝允関係文書研究会 東京大学出版会

〇『学海日録』 学海日録研究会 岩波書店

〇「水戸藩死事録・義烈傳纂稿」 佐々木克校訂解題 同朋舎出版

〇『林鶴梁日記』 保田晴男編 日本評論社

〇『吉田松陰全集』 山口県教育会 大和書房

〇『頼三樹傳』 木崎好尚 今日の問題社

〇『覚書幕末の水戸藩』 山川菊栄 岩波書店

〇『水戸市史』中巻三、四、五 水戸市史編さん委員会編集 水戸市

〇『水戸幕末風雲録』 常陽明治記念会 暁印書館

〇『水戸学と維新の風雲』 北條重直 東京修文館・大阪修文館

〇『贈従四位土浦藩士大久保要』 青木光行著及編集発行

〇『久坂玄瑞』 竹田勘治 マツノ書店

〇『木戸孝允』 田中惣五郎 千倉書房