2021-01-01から1年間の記事一覧

12 【京都守護職の浪人対策と浪士組】

1 京都守護職による過激派浪士対策 幕府召募の浪士組が、将軍家茂上洛の先駆けとして、鵜殿鳩翁に率いられて京都に入ったのは文久3年(1863)2月23日であった。浪士組入京当時の京都市中は、長州や土佐を中心とする尊攘過激派浪士たちの跳梁する、尊攘一色の…

11 【文久3年の浪士召募活動の一側面】

1 池田徳太郎と農兵(義民)の募集 幕府による前代未聞の浪士の召募は、文久2年(1862)12月末に決定し、その徴募活動は翌年正月早々から始まった。そして、それがさらに古今未聞の出来事だったのは、浪士の徴募が出羽庄内清川村の郷士清河八郎とその同志た…

10 【浪士組発起と松平忠敏辞任に関する私論】

1 清河八郎の大赦の建白出羽国田川郡清川村(山形県庄内町清川・括弧内は以後も筆者の注記)の郷士清河八郎(本名・斎藤元治)は、醇乎たる尊王攘夷論者であった。文久元年(1861)春には、尊王攘夷党「虎尾の会」を結成し、横浜の異人街を焼き討ち、幕府を攘夷の…

9 【庄内藩脱藩士水野行蔵小伝】

1 その人となりと生い立ち 元館林藩士で、青森県参事などを勤めた塩谷良翰の『回顧録』に、「安藤閣老其(大老井伊直弼・括弧内は以後も筆者の注記)の跡を承け志士皆其為す所を怒り、人心恟々たり。塩谷宕陰、水野行蔵、其外慷慨憂国の名士屡々来りて時事を…

8 【宇野東桜(吉良七郎)関係資料について】

ここに掲げる宇野東桜に関する資料は、前稿Ⅶ「尊王攘夷党『虎尾の会』始末」をまとめるに際して確認したものです。宇野東桜は、文久3年正月13日に幕府の密偵として、長州藩士たちによって慘殺された人物です。その郷里高槻市には確認していないため、ごく限…

7 【尊王攘夷党「虎尾の会」始末】

1 尊王攘夷党「虎尾の会」の結成 出羽庄内清川村(山形県庄内町)の郷士清河八郎が、尊王攘夷の実践活動を決意したのは、万延元年(1860)3月の桜田門外の変であったという。その年の冬、大津彦五郎ら水戸天狗党激派の一部が霞ヶ浦北岸の玉造(茨城県行方市…

6 【志士伊牟田尚平について】(北有馬太郎関係)

その一 伊牟田尚平の幼名は伊勢吉、長じて茂時、また永頼といい、真風と号した。尚平は通称である。志士活動に際しては、相良武振や善積慶介の変名を用いている。天保3年(1832)5月25日に、薩摩国揖宿群喜入(鹿児島市)領主肝付兼善の家臣伊牟田倉左衛門と、…

5 【南部藩儒官山崎士謙(鯢山)について】 (北有馬太郎関係)

その一 北有馬太郎(本名中村貞太郎)の日記に山崎士謙を見るのは、弘化3年(1846)11月9日、「東白乃ち発す。(中略)独り山崎士謙送って品川に至る。途赤羽邸を過ぎる。山本君山、船曳環、津留崎銀蔵、亦送って高輪に至って別れを告げる」、とあるただ一度だけで…

4 【旗本久貝因幡守正典について】 (北有馬太郎関係)

(本稿以下Ⅵ稿迄は、『漂白の志士-北有馬太郎の生涯』上梓に際して調べた人物の一部です。参考までに掲載しておきます。)その一 下総佐倉藩士の倉田施報(幽谷・後安中藩儒官)が記した「北有馬百之略傳」に、「久貝氏賓師を以て君(北有馬太郎・本名中村貞太郎)…

3 【北有馬太郎の四人の弟たち】

1 「八木家系図」に見る弟たち 中村貞太郎(北有馬太郎の本名・括弧内は以後も筆者の注記)の家族に関しては、「喜多谷中村家系図」と、貞太郎の母の実家八木家の「八木家系図」で知ることができる。しかし、2つの系図には若干の相違があり、「喜多谷中村家系…

2 【北有馬太郎と西川練造】

その一 中村貞太郎(北有馬太郎の本名)の漢詩集「廣茅中村太郎先生詩稿」の嘉永3年(1849)の項に、「寄懐川越西川景輔」と題する次のような七言絶句(2首の中の1)がある。 一別茫々已五年 江城重到夢相牽 旧交雲散消息 満腹心懐誰與傳 この年の春、貞太郎は父…

1 【北有馬太郎と二人の尊王家】

1 はじめに 『漂泊の志士―北有馬太郎の生涯』は、筆者の幕末維新に関する人物探訪のすべての始まりであった。上梓の経緯は、この本の中で披瀝したが、ほかにも上梓を決意させるに至った忘れ難い二つの出来事があった。その一つは、回向院の北有馬太郎の墓所…