16の4 村上俊五郎について(明治13年~同34年)

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再び『海舟日記』の中の俊五郎の姿を追うこととする。明治13年は11日に「滝村小太郎。村上俊の火鉢五ツ出来につき二十五円遣わす」とのみある。滝村小太郎は、徳川宗家の家夫溝口勝如の配下である。火鉢は徳川宗家からの注文だったのだろうか。火鉢一つ5円。俊五郎は火鉢の製作で糊口をしのいでいたのか、それとも徳川家からの特別の依頼だったのだろうか。この後も徳川宗家へ俊五郎作成の火鉢や家具を納めている事実がある。翌明治14年も「五円、村上へ遣わす」とあるだけであり、明治15年の海舟の日記には俊五郎の名を見ることはない。当時の俊五郎は比較的安定した生活を送っていたのかも知れない。もっとも、海舟と俊五郎の接触が、すべて海舟の日記に記されている分けではないと思われるが。

 

明治16516日になって、「千駄ヶ谷より永井へ拝借の金子、其他三百円差し越す。村上へ遣わし候分入る」とある。徳川宗家から海舟のもとに永井尚志への拝借金等300円が届き、その中には俊五郎に遣わされる金も含まれているというのである。814日には「山岡鉄太郎。村上俊五郎、大久保へ乱行の旨」とある。俊五郎が大久保一翁宅で乱行に及んだことを山岡が海舟に伝えたのである。大久保忠寛は当時元老院議官の職にあった。事件の顛末は一切不明である。なお、日記にはないものの、海舟の「戊辰以来会計荒増」のこの年56日条に「二十円、村上へ遣わす」と記されている。

 

この年、俊五郎と石坂周造は、清河八郎贈位実現のため尽力している。その石坂が右大臣岩倉具視に提出した建言書の文中に、「村上政忠松岡萬ノ如キハ八郎等ト大ニ辛苦ヲ共ニシ天下ノ為メニ身命ヲ抛テ尽力セシモ今ヤ世上ノ一棄物トナリ鬱々トシテ惟性命ヲ存スルノミ」とあって、石坂は当時の俊五郎を「世上の一棄物」と記している。なお、このことは俊五郎自身も左大臣有栖川宮親王に提出した建言書に、「政忠爾来世上ノ一棄物ナリ僅カニ生命ヲ全存シ天下ノ情勢アズカリ知ラザル云々」と自ら記している。特に石坂の活躍を見ているだけに、心中忸怩たる思いがあったのかも知れない(清河八郎記念館で建言書の写所蔵)

 

この年の俊五郎に関しては、山岡鉄太郎の無刀流の門人香川善治郎の「覚書」(森川竜一『無刀流秘録香川善治郎伝』収載)の中に、次のような記事がある。

 

(立切試合を)当日午前六時より開始する事とし、対手は十人にして立替り入代り息の有る限りに攻め懸るなり。甲が労るれば乙懸り、乙の労るれば丙となり、則ち車輪の如く交代に攻め懸るなり。(中略)正午に至って昼飯をなし、暫時休憩して亦以前の如くに始む。互攻の中に午後五時半頃となり定数二百面を仕済ましぬ。(中略)春の日長に十一時間のべつ立切るは難儀にありしなり。適々村上政忠と云ふ人あり。始終傍観し居たり、此人は先生配下の人なり。余が寓所へ帰り休息中へ来りて日く、『本日の数試合は充分ならず、先生の不満とする処なり、明日は一層激励あるべし』と嗾ける。余日く、『宜し明日は充分に奮発すべし』と約したり。然るに亦対手へも右の如く励ましありしなり。(原注・此言は則ち先生より余等を試めさんがためなり)

 

香川善治郎は十人を相手に連日激烈な立切試合を続けたが、香川の決死の覚悟を見届けた山岡からその4日目に成就を告げられたという。俊五郎は春風館道場で香川の立切の一部始終を検証していたらしい。ここには自ら「棄物」と自虐するような姿は見受けられない。道場に立つと人が変わったように精気を取り戻したのかも知れない。

 

香川善治郎の高弟石川龍三の話の中に、香川から聞いたらしく「(俊五郎は)立ち切りの時には何時でもすさまじい勢いで鉄扇で板の間を叩き、<ヤッケロ、殺シテシマへ>と励ましたそうで、それが又立ち切り稽古をするものゝ非常な助けになったそうです」(前著)とある。

なお、村上康正編『山岡鉄太郎先生遺存剣法著』に、香川善治郎の立切試合を証明する「終日立切弐百面試合記録」の検証者として、村上政忠と中村正行の名が記されているという。中村正行(定右衛門)は、浪士組の乱暴人取押役等を勤め、後に山岡の門人になった人である。

 

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明治17年以降の俊五郎については、『海舟日記』以外の資料にはほとんど出会えていないため、以後は「海舟日記」からの抜出に終始することとなる。なお、紙幅上の関係や不明な事実も多いため、説明は最低限とします。

 

明治171229日「村上俊五郎、深夜無心ニ来る。五十円遣わす」。同月30日「滝村小太郎、村上の事、其他相話し置く。(中略)村上より三印(藤三郎)差し越す。一昨夜、暴行。山岡聞込み怒り居り、出入り留めの旨につき手紙差し越す。誤()まり入り候旨申し越す」。

 

明治1811日「溝口勝如、村上の事、金子六十円下され度く、家内へ賞遣わし候旨、内話」。同月26日「村上俊五郎、二十円頂き度く申し出す」。同月28日「永井尚志方にて、村上の事、其他相談」。126日「村上俊五郎、大困難、家、引取られ候に付、今一度救い候様、多五郎其他押込み来る。右の段、溝口、千駄谷へ申し遣わす」。同月7日「溝口勝如、村上一件所置の此段、忠二郎ヲ頼む。同人宅引受けの談判へ遣わす」。同月8日「忠二郎、再び村上の宅引受の談判に遣わす。百五十円代価渡し、談判済む。滝村小太郎、村上宅引取りの金子共三百円持参、預け置く」。

 

この事件は、先に記した俊五郎の妻サワの軽率な行為から、俊五郎の南伊賀町の土地建物が借金の抵当にされたことに関係するのだろう。俊五郎の苦境に対して、徳川宗家が金を出してくれたため、家屋は他人の手に渡らずに済んだのである。そのお礼のためだろうか、「海舟日記」のこの月31日条に、「山岡鉄太郎。村上俊、火鉢、千駄ヶ谷へ差し上げ候につき、二十円遣わす」と記されている。

 

明治19年以後しばらくの間、『海舟日記』中に俊五郎の名をやや多く見るようになる。まず218日「村上俊五郎、第()病死につき、金子の事申し越す、二十円遣わす」。弟は俊五郎と同居していたのだろうか、この人についても一切が不明である。713日「溝口勝如、相原瓦解、幷びに村上へ金子下されの事等、山岡へ談これあり候旨」。同月23日「滝村小太郎、村上借財へ百五十円遣わす儀、談じ置く」。同月25日「昨夕、村上藤井□□(2字不明)へ百五十円遣わす。是、借財嵩み、進退出来難き旨ニ因る」。

 

87日「滝村、千駄ヶ谷へ村上乱入につき呼び候。来り、同道。所分相談」。翌8日「山岡第(原注・弟)子仲田、村上の所分申し附け百円遣わす。仲田へ酒代十円」。同月9日「仲田、村上恐れ入り候旨申し聞く」。翌10日「千駄ケ谷、村上一件、幷びに木下川流行病の事申し遣わし置く。同月12日「千駄ケ谷より村上へ下され候百円、仲田へ十円、且、木下川虎病(コレラ)これあるにつき惣計二百円差し越す」。同月15日「滝村小太郎、村上件落着の顛末、仲田頼みの事」。この月海舟もコレラに感染している。30日の日記に、「夕刻、暴潟、難渋云々」とある。しかし、翌月17日には「遊歩を試む」と記されている。

 

128日「村上、中気の旨、水戸在より申し越し候段、三印藤三郎申し越す」。同月10日「山岡、村上秋田にて中症相発し候につき迎え指し遣わし、金子持たせ遣わし候段、取敢えず同氏へ五十円渡し置く」。同月15日「溝口勝如、村上より千駄ヶ谷へ百円拝借の事(申し)出す。溝口、千駄ヶ谷、山岡へ申し遣わす」。長年の飲酒や不摂生も原因したのだろう、俊五郎が秋田(水戸ヵ)脳出血でたのである。何様あって秋田へ出掛けたのだろうか。俊五郎の症状は幸い軽く済んだらしい。

 

明治20627日「溝口勝如、村上へ十円遣わす」。77日「村上暴行」。同月8日「滝村小太郎、五百円、村上手当、酬恩雑費、木下川普請手当等持参」。同月11日「溝口、村上、昨夜大久保へ話談罷り越し候旨」。同月23日「村上俊、困究につき二十五円遣わす」。99日「溝口勝如、村上へ百五十円下され金持参。右の内、百円、渡し候積り」。1130日「滝村小太郎、村上俊五郎手紙、十円遣わす」。124日「村上俊五郎、身代限りにつき云々申し越す」。同月5日「村上、割腹、生前香奠として百円、別に五十円遣わす」。俊五郎は割腹をちらつかせて(或は割腹したのか)まで金を無心したのである。

 

明治2133日「村上俊五、小言申し聞く、五円遣わす。詫入れ」。714日「村上俊五郎へ三十円遣わす」。そしてこの月19日、長年にわたって俊五郎を庇護してくれた山岡鉄太郎が胃癌のため53歳で死去したのである。この日の「海舟日記」には、「山岡病死ニつき訪う。且、溝口同道、話、葬式の事、徳川家より始末させべしとして千円、幷びに病中見舞い五百円賜わる」とのみ記されている。

 

山岡鉄太郎の葬儀は同月22日に行われた。小倉鉄樹の『おれの師匠』に、「師匠が死ぬと村上は殉死しようとしたが、人に見つかって止められた。然しあぶなくて仕様がないので、師匠の葬儀の日は四谷警察に預けられた」とある。俊五郎は両四肢を捥ぎ取られたような喪失感に襲われていたのかも知れない。

 

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山岡鉄太郎の死後、失意の俊五郎は何処へ行くともなく東京から姿を消した、と諸著に記されている。これは『おれの師匠』に、「山岡があってこそ村上の面目も保たれたが、山岡と離れちゃ、木から落ちた猿同様どうにもならなかった。それで彼は三味線一挺抱へて漂然と一人東京を去った。どこという目的もなく放浪の旅を送りつづけ、人の話では奥州の方へ行ったということだが、どうなったか」、とあることによると思われる。しかし、この『おれの師匠』の記述とは異なり、俊五郎は山岡の死が原因で東京から出奔したという事実はなかったらしい。引き続き『海舟日記』で俊五郎の姿を追って行くこととする。

 

山岡鉄太郎の死去した翌817日には、「村上俊五郎、印たんす代十五円遣わす」とある。96日「村上俊五郎、夜中あバれ込む」。同月17日「十円、村上」。同月28日「中山信安。村上へ月々五円宛増手当の事、其他談」。金額は不明だが、徳川宗家から俊五郎に手当が出ていたのである。ここに出てくる中山信安(修輔)茨城県権令当時の明治912月、地租改正に絡む暴動を鎮圧したが、それが越権であるとして辞職した人である。当時徳川宗家に仕えていたのだろうか。105日「夜中、村上俊五郎荒ハれす(るヵ)」。同月11日「滝村小太郎、村上手当二百円預り置く」。117日「村上俊五郎、救解申し諭し、三百円遣わす」。1231日「村上俊五郎、火鉢十差し越す、金子無心」。海舟は自立支援のために、俊五郎に指物の制作をさせていたのだろうか。

 

明治2236日「村上、三十円」。同月31日「二十五円、村上」。429日「村上、二十円」。83日「溝口勝如、村上俊五の事ニ付き三百円預り。(中略)村上俊五郎、散々不埒、申し聞かせ百円遣わす」」。同月4日「溝口、村上へ今百円遣わし候様申し聞く。村上へ百円渡す」。同月26日「溝口勝如、村上俊五郎、昨朝同家へ参り候旨云々」。同月28日「玉忠。村上俊、大場へ頼み談じ呉れ」。同月31日「富田鉄之助、大場知栄、村上の事ニ付き三十円渡す」。96日「三村一、村上、千駄ヶ谷ニて強情申し聞け候旨」。同月10日「上総武射郡松尾村、今村俵蔵より来翰、村上俊五郎、(上ヵ)総方へ参り候云々申し越す。返書遣わす」。以前にもあったが、こうした来簡がなぜ海舟の元に届くのか。これもまた疑問である。同月25日「村上俊五郎。戸塚文海、釜、水指し遣わす」。同月27日「村上俊へ、大場を介し百円御恵み」。1230日「村上俊五郎、五十円」。

 

明治23114日「大庭、村上、月々の下され物、五円増願い」。226日「村上、五円、その他三円」。同月27日「大庭、村上歎願ニ付き二十円遣わす」。48日「大庭知栄、村上へ二十五円救助渡す」。620日「村上、二十円遣わす」。712日「大庭知栄、村上へ同人より二十円、金子にて此方より渡す」。同月15日「大庭、村上の事件」。817日「大庭知栄、村上の一件、佐藤宇吉の事ニ付き談、頼み」。同月18日「村上へ、大庭より金百円遣す」。

 

104日「村上へ月々渡金差引四十円、大場()知栄持参、預り置く。内五円、同人宅へ渡す」。同月14日「大庭、村上へ百丗円遣わす儀、談決」。同月18日「溝口、村上金子の事談ず」。同月23日「大庭知栄、村上俊五郎へ遣わす百円渡し、取斗り方依頼」。112日「大庭知栄、村上引き、金二十円持参」。同月23日「大庭知栄、村上へ遣わし候百円の受け取り取らさす」。1230日「村上留守宅、十円」。

 

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明治24年と翌25年の勝海舟の日記にも、引き続き俊五郎に関する記事が見える。その明治2427日には、「大庭知栄、村上おか可へ三十円遣わす」とある。「おか可」とは俊五郎の妻(サワヵ)と思われる。同月22日には「大庭、村上俊五郎宅へ月々五円宛、二十円の内にて先借りの事願い出」。328日「大庭、村上へ繰り替え金百五十円渡す」。同月31日「溝口、種々内話、諏訪の事、村上の事其他」。

 

48日「大庭、村上受取り書持参」。712日「大庭、村上へ二十円。大庭へ二十五円下され金相渡す」。916日「大庭知栄、村上、来月の取越し三百円頂き度き旨」。同月18日「大庭知栄、村上俊五郎、来年五月より取越し、百円遣わす」。同月20日「滝村小太郎。村上へ遣わす百円、伜へ百円、二百円持参」。俊五郎には息子がいたのである。『おれの師匠』にも、俊五郎が両国橋上で巡査と乱闘事件を起こした際、俊五郎が「昨夜は妻子に未練があったから心ならずも謝ったが云々」と啖呵を切ったとある。1014日「滝村小太郎。蒔絵箱代二百円受け取る。村上の買揚()物代、酬恩其他の手当二百円預る」。1229日「大庭知栄、村上へ遣わす三十円渡す」。徳川宗家から俊五郎に渡されていたのは、この「酬恩其他の手当」という名目だったらしい。

 

明治2532日「村上俊五郎、三百円御渡し願い」。同月25日「大庭、村上金子の事云々」。同月27日「大庭知栄、村上繰替え願い金、三百円渡す」。87日「溝口勝如、村上、金子の事、山岡直記の事話す」。山岡直記はいうまでもなく山岡鉄太郎の子息である。同月8日「湯浅より村上、火鉢代二百円受け取り、大庭へ渡す」と記されている。

 

これ以後、勝海舟の日記には、翌26719日条に、「村上、三位殿へ献品、大庭ヲ以て歎願ニ付き、金子二百円御遣わし、直ニ大庭ヲ以テ渡し方相頼む。此金子、廿一日、大庭ヲ以て同人へ渡す」、と記されたのを最後に、俊五郎の名は姿を消す。『海舟日記』は、明治31年まで続くが、明治26年以降は月や日の欠落が多く、明治27年の日記の冒頭に「一月より丹毒ニ罹り、臥病数月、人事に惰く筆を執る能わず」、と記されている。海舟が77歳で急逝したのは、それから5年後の明治321月のことであった。

 

俊五郎が東京を出奔したのは明治26年頃だったのではないかと思われる。出奔の理由は定かでない。その出奔先については、『おれの師匠』には、「人の話では奥州の方へ行ったということだが、どうなったか。奥州は彼が清川八郎などと共に尊王攘夷に骨を折った時分の知己もあるので、或いはそれなどを頼って行ったのかも知れない」とある。

 

なお、これ以後の俊五郎に関しては、清河八郎記念館発行の『むすび』の記事以外には確認できていないため、これを引用させていただくこととする。その第109号に、俊五郎は「めぐりめぐって奥州仙台郊外宮城野の根白石の桜田敬助宅に身を寄せた。明治27年、日清戦争が始まると、もともと熱血男児の村上は、村々を馬で駆けめぐり、軍夫募集をやった。勿論酒を飲んでどなり散らすのだから、村上のところにはさっぱり人が集まって来なぃ。そして挙句の果ては落馬して脚を折った」とある。小倉鉄樹の予想は当たっていたのである。

 

明治28年の6月初旬、清河八郎の研究家須田古竜が桜田家を訪ねた際、桜田家に俊五郎が滞在していることを聞き、早速会おうとしたところ敬助から、「アルコール中毒によって廃人同様であるから会っても無駄である」といわれ、会わずに帰ったという。その後、俊五郎は体調が回復したのだろうか、明治31~32年の頃に、酒田の本間家を訪ねたという。『むすび』第109号に次のようにある。

 

(俊五郎は)立派な刀をもって酒田の本間家に行き、御礼であるとか言うのだが、何分酒気をおびているので何のことか訳がわからず、酒田の警察署に通じた。その時須田古竜の弟子佐藤古夢は酒田新聞の記者であったので、このことを知って宿泊している伝馬町三浦旅館に行って面会を求めた。(中略)古夢が清川八郎のことをいうと感激して泣き、どうしてあの時八郎とともに死ななかったかと嘆き、そのまま酔って寝てしまい、話にならなかったという」

 

『むすび』を書いた小山松勝一郎は、俊五郎が刀を持って本間家を訪ねた理由ははっきり解らないとしながらも、「庄内藩に預けられた新徴組の椿佐一郎にでも会いにやって来たとき、本間家と何かあったのではないだろうか。椿佐一郎は村上の養子であった」、と推測されている。

 

その後の俊五郎の去就は不明である。なお、過日浦出卓郎氏から、都立公文書館に明治33年に俊五郎が扶助料(明治17年文官の恩給制度発足=官吏恩給令ヵ)の申請を行った史料が、また、国立公文書館つくば分館には「恩給裁定原書・明治33年文官扶助料」10巻が所蔵されている(恩給請求の際には戸籍の提出が必要)、との貴重な御教示をいただいたが、諸般の事情で未だ御好意に報いることができていない。俊五郎は公務(文官)に就いていたことがあるのだろうか。また、明治33年当時俊五郎は江戸に戻っていたのだろうか、これを確認すれば、新たな事実が明らかにできると思われる。

 

俊五郎がこの世を去ったのは、扶助料を申請したとされる年の翌年、明治34621日であった。享年は68歳。しかし、その死去した場所も、どのような死に方をしたのかも一切が不明である。俊五郎の墓は、東京都台東区谷中の全生庵の山岡鉄太郎の墓前に、石坂周造の墓と並んで立っている。

 

全生庵で俊五郎に関して調査した小山松勝一郎が、昭和3745日付けで須田古龍に宛てた手紙に、「村上俊五郎の墓は昭和129月、村上欣によって建てられた。『村上家之墓』とだけ刻まれてある。過去帳には『村上信吾郎政忠、明治三十四年六月二十一日没』となっていた。『信吾郎』は『俊五郎』の誤り、なお村上家の墓を現在守っている方は、渋谷区代々木西原町九六七光成社内、熊谷啓之という方だとのことでした」(『むすび』第99)、と記されている。また、『新選組大人名事典』に、全生庵の台帳に「村上信五郎政忠鉄舟門下、真光院實性克己大居士」、とあるとある。

 

なお、かつて俊五郎が開墾地主であった現在の御前崎市白羽の新神子地先の路傍に、「開拓総理村上政忠塔」と刻まれた石碑が立っている(写真で確認)。塔の左側面には「真光院実性克己大居士」と、また右側面には「明治三十四年六月に十一日寂、享年七十歳」、裏面には「三十七年祭執行、明治四十一年四月」とあり、その台座には「有志中」として白羽村神子曽根房吉外7人と御前崎村の住人1人、それに建碑発起人白羽村加藤又八と佐倉村塚本豊吉の名が刻まれている。この塔は白羽村西浜田の開墾開始後37年を記念して、村の有志たちが建てたものだが、なぜ俊五郎の墓のような仕様にしたのだろうか。当時はまだ俊五郎たちの乱暴狼藉を記憶している人たちも多く生存していたはずである。或いは、この地に俊五郎を慕う人たちもいたのだろうか。

 

俊五郎に関してはこの他にも多くの疑問が残る。俊五郎は、なぜある時から突然粗暴になり、身を持ち崩すことになったのか(本文で推測はしたが)。また、その俊五郎に対して勝海舟をはじめ、静岡藩(静岡県)の上層部や徳川宗家までが生活の扶助や身辺の面倒まで見たのか。これは、他の困窮する旧幕臣たちに対する支援をはるかに超えているように見える。そして、俊五郎が多くの事件を起こしながらも、見捨てる(勝海舟を含め)ことがなかったのはなぜなのか。残念ながら解明も、推測もできないままこの稿を終わります。

 

※追記・(1)『旧幕府』合本五(第三巻第八号)に載る「駿藩各所分配姓名録」に、府中奉行中台信太郎配下の「市中取締」として村上俊五郎の名が記されている。なお、静岡県史資料編の載る「静岡藩職員録」(明治33月末)に村上俊五郎の名はない。

(2)村上俊五郎が、井上馨邸の宴会で太棹を弾くよう呼ばれた際の事件や、両国橋上での巡査との乱闘事件等、俊五郎に関する乱暴事件等の具体的な記事は、『おれの師匠』に詳しいため本稿ではふれなかった。