15の1 石坂周造について(1)

 

 

              一

 

石坂周造に関しては、手元でも前川周治氏の『石坂周造研究』、真島節朗著『浪士石油を掘る』と松本健一著『「高級な日本人」の生き方』の中の一編「明治の石油王」が確認でき、その人物像は比較的広く知られている。そこで本稿では、主にこれらに記されていないと思われる事実を中心に、手元の若干の資料でこの人物の一端を明らかにしておきたい。

 

石坂周造の幼名は源蔵、名は信則、周造は通称で、霞山と号した。後年は石油斎の別号を用いている。その出自については、清河八郎の「鹿島の道行」に「医生(石坂周造・括弧内は筆者の注記。以下も原注とない限り同様)は、もと彦根藩士なりしに15歳のとき故ありて朋友一両輩を切害いたし、みずからも切腹せしに、そのほどに至らめとて、医療を加え給わるに、平癒ののち国を立ち退き、医と身を化し、諸国遊歴せしに云々」と記されていて、清河八郎と初対面の当時(文久元年=1861)は、彦根藩の浪人と名乗っていたらしい。

 

このことは、水戸藩住谷寅之助(信順)の日記(『住谷信順日記』)文久元年6月朔日の条にも、この日来訪した薩摩の伊牟田尚平と阿波の村上俊五郎から聞いたらしく、「五月廿四日方就囚、彦根、石坂宗順」と記されていることでも明らかである。

 

 しかし、その翌々年(文久3)、幕府徴募の浪士組の名簿(東京大学法学部図書室所蔵の「浪士姓名簿」)には、その出身地が「府内産」とあり、毛利家文庫所蔵の「新徴組人名移動詳細」等の浪士組士の名簿にも「府内浪人」と記されている。

 

明治31(1898)発行の石坂自身の経歴講演筆記である「石坂翁小伝」には、「私は天保三年辰の正月元日に両国山伏井戸石坂宗哲の屋敷に生まれましたので、私が母(妾であったか召使女であったかは不明とある)は分娩後死亡致しました。(中略)分娩後立川宗達といふ則石坂の門人の所へ養子同様に先づ引取って世話を致しました。其中に今日では苗字が御座いますが渡辺彦右衛門と云ふ所の里へやられまして、夫から十一歳の時に又石坂に帰りまして、サウして其石坂の塾に育ちました」とある。文久3年以降は、前言を翻して自らの出自をそう語っていたのだろう。

 

 もっとも、この「彦根浪人」も『府内浪人』も石坂の詐称であったことは、『下水内郡誌』や前川周治氏の調査研究(『石坂周造研究』)で明らかにされている。それらによれば、石坂周造は天保3(1832)信濃国下水内郡岡山村字桑名川(長野県飯山市)の組頭渡辺彦右衛門の次男として生まれている。先の史談会で石坂が、11歳まで渡辺彦右衛門に預けられていた、との談話は偽証に対する潜在的呵責によるものだったのかもしれない。

 

 『下水内郡誌』等によれば、石坂は6歳のときに飯山町の英岩寺の徒弟となって天海と命名され、11歳のとき師僧と共に五荷(太田村)の高源寺に移った。しかし、天海少年は「一を聴いて十を悟るの聰明さの半面、腕白を以て知られ、そんなことから村民から逐われ(17歳の時という)、江戸に出て町医立川宗達に雇われ、石坂氏の養子」になったという。また、村()を追放された理由は、悪ふざけから覆面抜刀して師僧を驚かせたことによるという。

 

 石坂周造が「石坂氏」の養子となったという点について、前川周治氏は『石坂周造研究』の中で、「天保末年ごろ致仕して七十歳で死亡したといわれる宗哲は、(中略)源蔵出府の嘉永元年には在世していなかったと考えられる」として、当時宗哲の実子宗徑(その子は宗琇)があったので、「源蔵の入籍を事実としても」、宗哲の嫡出外の女性との縁組で分家したのではないかと推定され、宗哲は既に死亡していたと断定されている。

 

しかし、文久元年、石坂が虎尾の会の事件に関係して下獄した際、下総神崎の宿屋真壁屋彦兵衛がその筋に届け出た書付(文久25晦日付・『神埼町史史料編』)に、以前、彦兵衛が石坂に医術の師匠は誰かと聞いたところ、「江戸両国山伏井戸石坂宗哲と申者之由申之私父藤蔵も去三ヶ年前未八月宗順認候書面持参、出府相尋、宗哲申聞候ニ者、厚()せ話いたし呉候様頼ニ付、一先安心仕云々」と記されている。これによれば、石坂は安政68月、出府する真壁屋彦兵衛の父藤蔵に石坂宗哲宛ての手紙を託しているのである。

 

 ちなみに、『続徳川実紀』の嘉永6(1853)616日の条に、「寄合医石坂宗哲奥詰となる」とあり、明治33月作成の「静岡藩職員録」にも、「無級看病頭」として石坂宗哲の名が確認できる。また、鹿島萬兵衛の『江戸の夕栄』に、幕末の幕府御抱え医師を列記した中に「奥御鍼治、御番料百俵」として石坂宗哲の名が記されている。前川氏が想定された石坂宗哲は、シーボルトに乞われて鍼の実技を披露した法眼石坂宗哲(永教・幕府奥医師天保1211月没)で、石坂周造の師の宗哲はこの石坂永教の跡を嗣いだ人ではないかと思われる。

 

なお、先の真壁屋彦兵衛の届出書に、「聢と(石坂宗順の)生国も不相糺世話いたし置候段重々奉恐入候」とあるので、石坂は真壁屋にも生国は話さず、彦兵衛の父藤蔵が石坂宗哲を訪ねた際もその話は出なかったらしい。しかし宗哲が藤蔵に、石坂を「厚く世話」してくれるよう依頼している事実や、石坂が「石坂姓」と「宗哲」の1字を取って「宗順」(宗哲の許しを得てのことだったとすれば)と名乗っているからには、前川氏が推定するように、石坂の妻女は宗哲に関係ある人だったか、或いは宗哲が門弟としての石坂に対して特別な思いをもっていたのだろう。

 

              二

 

前後するが、そもそも石坂と真壁屋彦兵衛との関わりについては、同じ届書に「私儀高弐石余家内八人暮ニ而農間旅籠屋渡世罷在候所、去四ヶ年前午年十月中、宗順村方江通掛り立寄一泊仕、同人申聞候ニ者、当時同国同郡佐原村ニ借家罷在医業仕居候得共、当村江通ひ二七三八ニ出張治療仕度趣達而相頼候ニ付、佐原村ニ一両年も罷居候儀風聞承り居り、殊ニ妻子四人暮而仔細も有之間敷と(中略)村内真言宗高照寺儀病身ニ而同村師匠永真寺と申江子弟之間柄故同居いたし、明寺同様ニ相成候間、留守居ニ請状差出借院仕罷在云々」、と記されている。

 

 これによれば、石坂は安政3(1856)頃佐原村に借家して医を業とし、安政45年頃神崎村の高照寺に居を移していたらしい。また石坂の「妻子四人」については、先の真壁屋彦兵衛の届出書と同日付けで、神埼本宿の役人惣代三右衛門が関東取締出役に提出した「請書」(神埼町史史料編』)に、石坂には当時「女房べん、男子弐人、書生人壱人」の家族があったと記されている。書生とは内弟子らしい。ちなみに、文久元年5月に虎尾の会の事件に関連して捕縛された佐々木道太郎について、「当分御預所下総国香取郡神崎本宿、高照寺ニ罷在候由申立候」(『藤岡屋日記』)とあるので、書生とあるのはこの人だろうか。

 

なお、石坂の長男宗之助は嘉永53月の生まれだというから、石坂22歳の年である。石坂が寺を放逐(『石坂翁小伝』)されて4年目であり、少なくともその前年の嘉永4(石坂20)には妻帯したと思われる。伝えられる石坂の身の上からすれば余りにも早婚だが、特に寺から放逐されて僅かな年月である。こうした事実を勘案すると、『下水内郡誌』の内容と矛盾するようにも思われるが、これを反証する資料には出会えていない。

 

 『石坂翁小伝』によれば、石坂宗哲に医術を学んでいた石坂は、宗哲の門人で慷慨家の北条玄昌と「此君側の奸(誰かは不明)を除いて、徳川をして朝意を奉載して真の征夷大将軍職掌を為して、ソウして一ツ日本の国威を張ろうじゃないか」と「禁令を忍んで登城先きを要して、身は縦令寸々に斬らるゝとも必ず此君側の奸を除くという決心で」斬奸書を草したが、これが発覚したため、江戸を逃れて京都に上ったとある。

 

米国使節ペリー来航の年(嘉永6)のこととされるので、これが事実なら石坂は長男誕生の翌年妻子を捨てて出奔したことになる。また、安政5年の日米修好通商条約の締結後ならいざ知らず、この時期の要人(幕閣)暗殺計画など寡聞にしてまったくの初耳である。

 

 上京後の石坂は木野古黨の家に潜んだが、数か月後、その家を捕吏に囲まれ、そこを脱出の途中で窮地に陥って腹を切ったが木野古黨に救われ、比叡山で療養後に関東に下ったという。この腹を切ったという事実は、明治3311月の史談会でも石坂はほぼ同様の内容の話をしていて、その場で傷痕を見せたという。切腹のことは、先の清河八郎の『鹿島の道行』にもあり、その時期や経緯はともかく、石坂が腹を切るような窮地に陥った事実はあったのだろう。なお、この話の疑問点等については、『石坂周造研究』に詳しく記されているので、本稿ではこれ以上ふれないこととする。

 

              三

 

 『石坂翁小伝』によれば、叡山で傷を癒した石坂は、その後易者となって中仙道を関東に下ったという。そして途中深谷宿(埼玉県深谷市)で、飴市という宿屋の主人に請われるまま、そこに足を留めていたところ、主人の勧めで飴市の親戚の修験宮本院の養子になることになったとある。深谷宿の飴市という宿屋については未確認だが、石坂が修験宮本院の養子になった話は現熊谷市内の旧村太田村の郷土史(『太田村郷誌』)に次のようにある。

 

 「(石坂周造は)萬延年間ノ人ニシテ出生地詳ナラズ、或ハ云フ長野県ナラント。大字永井太田、当時山伏示現宮本院(原注・現二千二百拾番地萩原げん家)ノ養子トナル。性剛毅ニシテ機智アリ。当時太田明戸両村ノ境界築堤問題ノ紛擾アリシ際、身ヲ挺シ奇策を廻ラシ、村民ヲ率イテ堤防ヲ築キタリシガ、己ムヲ得サル事情起リ遂ニ其ノ目的ヲ達スルコト能ハズ。後年石油製造ヲ発明シ、之ニ関スル著書アリ、是等氏ガ公共事業ニ盡クシテ世人ヲ益シタル功大ナリ」

 

 これが如何なる史料を根拠にしたのかは不明だが、『石坂翁小伝』と附合するものがある。冒頭の「萬延元年ノ人」とあるのが気になるが、この築堤事件に関係するのだろうか、『妻沼町誌』(妻沼町は現熊谷市)に次のような事件の記述(前段要約)がある。

 

  大里郡内葛和田地内から下江原の西北隅まで伸びた善ケ島堤に接続する江原堤は、利根川の川除堤として太田・男沼・間々田・下江波四村の下郷地帯の田畑を守る重要な堤であった。しかし上郷地帯では、この堤によって水はけが悪くなって作物に被害が及ぶため、寛政8(1796)以来、度々訴訟事件となっていた。……安政24月、太田村村内の名主忠八は、予て出訴していた善ケ島堤と江原堤の築立について奉行所の許しがあったため、この旨を石塚村(上郷)役人に通告した。

 

しかし、石塚村では堤高は予ての取決めで定杭が打ってあるので、「一方的に不法築立ては致すまいと楽観していた。ところが、断り通り二三日後に、忠八、(3名略)更には太田村宮本院の修験見順などが先頭になり、小前の者大勢を引連れて置土を始めた。見順は、諸役家向に自由に出入する者であると権威を誇り、長脇差を携帯しており、作業を邪魔だてする者は用捨なく切り捨てると威嚇するので、村方役人では手の付けようがなかった。かくするうちに上置された土は踏みかためられ、堤高になってしまった云々」

 

ここに石坂周造の名は認められないが、この事件の顛末も「石坂翁小伝」の記述と附合するものがある。この話は、妻子ある石坂が宮本院の養子となったなど、どこまで信じてよいのか。『太田郷村誌』は『石坂翁小伝』を鵜呑みにして記された可能性も否定できない。もっとも、話が具体的であるため、石坂と宮本院に何らかの関わりのあったことは事実だったのかもしれない。しかし、この記事から見る限り、修験宮本院見順は余り芳しい人物ではなかったらしい。

 

この事件後の同年6月、石塚村組頭が惣代となって太田村名主忠八らを相手取って訴訟を起こしたが、文久211月になって、忠八はじめ多くの下郷村々の村役人等が罰せられている。先の「志士石坂周造の転身」に「深谷時代に土堤新築の工事のおり八カ月入牢のことがあった、ともいわれる云々」とあるが、罰せられた者の中に石坂の名はない。身に危険の及ぶことを察知した石坂は、早々に太田村から姿を消したのだろうか。

 

               四

 

 先の真壁屋彦兵衛の届出書によれば、石坂周造は築堤事件のあった翌年である安政三年頃佐原に借家して医を業としていたことが明らかである。その後の石坂は、佐原を拠点に神埼や潮来地方にも出張診療を行い、佐原から神埼の高照寺に居を移してからは、佐原に出張所を設けていたのである。

 

また同書には、「其時分即ち漢方医をやって居りましたなれども私は大層流行した。何ぜ流行すると云ふに薬礼を取るの何んのと云ふことはない。貧乏人なら自から施してやると云やうな仕事をヤりましたから大いに流行しまして既に弟子も四人まで持ちました」とある。伝えられる石坂の経歴からすると、佐原と神崎時代に四人の弟子を取ったことになり、その年齢や医療実績等から、この話も疑いたくなる。しかし、神崎で1人の書生が同居していたことは先に記したとおりであり、これが門人なら、その技量はあったのである。

 

 『石坂翁小伝に、万延元年(1860)の或る日、その神崎の石坂の家を村上俊五郎(政忠)が訪ねてきたことが次のように記されている。「村上俊五郎と云ふ者が武者修行で私の所に訪ねて来ました。(中略)段々長くなって二月三月と居るやうに成りました。其節彼の曰く貴所は尋常のお医者ではない、就いては我の友に清川八郎と云ふ者があるが、面会して呉れぬかと斯う云ふ話であったから、己れは当時江戸に出られぬ、此方に来るならば面会してやろと」言ったとある。

 

ここには「己れは当時江戸に出られぬ」とあり、明治3311月の史談会(『史談会速記録』)でも石坂は、当時神崎に潜伏中であったと証言している。しかし当時、石坂には妻と長男宗之助、次男熊蔵の家族(書生も)があったことや、広範囲で堂々と医療行為を行っていること、また偽名を使っていたらしい形跡もない。さらに真壁屋彦兵衛の先の「届出書」にも、当時の石坂の家族の暮らしは「仔細も有之間敷」様子だったとあることなどから、この捕吏に追われていたという話も疑わしいといわざるをえない。

 

『石坂翁小伝』は前記に続き、「清川八郎を村上俊五郎が同道した。()所が彼(清川)と段々話して見まするに丹心是れ許すべきの丈夫でありますから遂に一面識にして刎頸の約を結んだ。夫れから段々種々の談から偖て江戸へ是非出て貰いたい、四月は事を決行する精神であるから江戸に出て呉れと云ふに付いて江戸に出ました」とある。

 

清河八郎の「潜中始末』には、攘夷決行を目論む清河は、攘夷を高言して佐原方面で横行する水戸の天狗連の真意を探るべく、「幸佐原の近きに、同志なる村上俊五郎の剣術修行に在らるゝを訪ふといたし、正月廿七日に」一僕を誘って東都を出立したとある。そしてその日の「日暮過ぎて神埼町に到り、医生石坂宗順の宅を尋ぬ。村上の居住せし故なり。村上他行故、石坂婦人の案内にて、真壁屋なるに宿る」とある。この時石坂も不在だったらしい。

 

清河は翌日石坂と会った際のことを、「石坂と共に相話の頃、幸なれば潮来に御同道仕らんと云ふ。此夜石坂参会、大に喜び共に同志の友となる。終夜強談にて明しぬ。」こうして三人は、翌21日揃って鹿島参詣と称して佐原へ出掛けたのである。なお、『潜中始末』に、「此地(潮来)の事は専ら石坂に委任し、彼又専ら此に任じ、舌頭に説諭せんと、今や(水戸天狗連)来るを待ある」とか、「石坂は勇み喜び(天狗連の来るのを)待在る」等とあって、石坂が潮来地域に通暁していたことや、石坂が血気盛んで気概のあったことを知ることが出来る。

 

伊牟田尚平の清河八郎宛て文久元年3晦日付け書中に、「尚々総州之二豪傑之宜様御致意奉り希候」とあるので、石坂と村上は翌月には江戸に出ていたのである。石坂たちが清河八郎を盟主とする「虎尾の会」を結成し、攘夷の決行(横浜や東禅寺の焼き討ち)を決定したのは5月中旬頃であった(詳細はⅦ「尊王攘夷党『虎尾の会』始末」参照)

 

              五

 

清河八郎や石坂たちが画策した攘夷挙兵計画は、早くから幕吏に探知されてしまっていた。文久元年五519(清河八郎の町人殺傷事件前日)には、清河一党に対して「御吟味筋有之召捕候様三廻一同へ」沙汰されていたのだ(千代田区史料Ⅲ』)。その捕縛対象者の中には、当然だが「医師、石坂某」の名もあった。このため、520日の清河八郎の町人殺傷事件は、清河一党を捕縛しようとその機を窺っていた捕吏の面前で行われることとなったが、この事件当時、石坂は清河や村上と別れて一人神崎へ戻っていた。

 

その石坂については、『千代田区史料』に「医師石坂宗順は八州廻へも御沙汰有之、南北八州方打込にて下総召捕」とあって、先の「住谷信順日記」にあった如く、石坂は524日に捕縛されて伝馬町の獄舎に投じられたのである。石坂は、この時の様子を『石坂翁小伝』や明治3311月の史談会で詳しく語っている。

 

伝馬町獄舎の中での石坂については、清河八郎が郷里の父親に宛てた文久2820日付けの書簡に、「獄中にて池田(徳太郎)石坂両人は名主と可申に相成、至て不自由もなきよし云々」と記されている。獄中での石坂の役柄は清河の認識とは少し異なっていて、石坂自身が先の史談会の席上で、獄内では「隅の隠居」という「らくな身分に昇進することが出来た。隅の隠居というのは、牢内では次官くらいにあたるのだ」と証言している。

 

坂下門事件(文久2115日・老中安藤正信暗殺未遂事件)連座して下獄した菊池教中(澹庵・大橋訥庵義弟)の母宛て書中(「幽囚日記」)に、獄中の石坂の名が見える。その同年413日の書中には、「持病少々も気さし候節ハ石坂宗順と申清川八郎一件ニ而参り居候医者ニ針とあん腹(按摩ヵ)を致し貰候間、至極宜敷塩梅ニ御座候」と記されている。石坂は同獄の菊池教中の持病の治療にあたったのである。このことは、同じ坂下事件に関連して投獄された小山春山(朝弘・下野真岡荒町の人)が後年、「此牢に石坂宗順と云ふ医人ありて菊池病中なと大に介抱を受けたり」(『野史台維新史料叢書』39中「小山春山の話」)と語っている。

 

さらに、菊池教中が母と妻に宛てた同年627日付け獄中書簡には、「私方ニ石坂宗循と申医者有之、是も矢張強介なとゝ同様之罪にて罷り居候人故、別ニ骨折度趣ニ付、薬ハ当方より毎日差送り日々容体書を取り而加減いたし余程心配仕候得共天命無拠一同力を落申候」とある。「強介」とは、やはり坂下門事件の連累者として菊池らと共に投獄されていた宇都宮の志士児島強介(草臣)である。児島は投獄される以前から病身であったために事件に参加できなかった人で、獄中で病状はさらに悪化していたのである。石坂はこのことを知り、別房の強介の様態書を日々取り、薬を調合して送っていたのだ。しかし、石坂や菊池の努力も空しく、児島強介は625日に獄死してしまった。

 

石坂はその年(文久2)11月中に出獄したらしい。江戸馬喰町の大松屋がその筋に呈出した石坂の身上調書に、「右(石坂)は北御奉行浅野備前守様お係にて、去る十一月中私方へお預け相成り候、(中略)去る十二月二十六日お呼び出し、右備前守様、おいおいお預け御免勝手次第徘徊致すべき旨仰渡され候儀に御座候」とある。石坂は11月中に出牢して馬喰町の大松屋に預けられ、翌月26日に無罪放免となったのである。

 

              六

 

石坂の出獄は、清河八郎や同志山岡鉄太郎、そして幕臣松平主税之助が、幕閣に対して政治犯大赦や浪士の徴募の献策活動を行なった結果であることは言うまでもない。出獄後の石坂は、浪士徴募のために、その地に伝の多い常州総州、房州方面を巡回したという。

 

しかし、正月20日付けで山岡鉄太郎と清河八郎が池田徳太郎に宛てた書中に、「石宗事少々不束之事有之」とあり、その詳細は不明だが、石坂は巡回先で問題を起こしていたのである。このこともあってか、池田徳太郎が徴募に巡回した地方からの浪士組参加者の数に比べて、石坂が巡回したとされる地方からの参加者は大幅に少なくなっている。(「浪士組に参加した人たち」参照)

 

同年2月の浪士組の上洛に当って、石坂は道中目付兼3番組小頭(柚原鑑五郎筆写の名簿では6番組小頭)であった。上洛途上の近藤勇(6番小頭)の隊と石坂の隊を入れ替えた逸話等については、紙幅上ここでは触れない。

 

浪士組内で、石坂は清河八郎に次いで幅を利かせていたらしい。取締役が所持していたと思われる先の「浪士組姓名簿」にも、その筆頭に「府内産、亥三十二、石坂宗循、妻子四人」と記されている。また、中村維隆(草野剛蔵)は、明治32年の史談会で「石坂周造という者は一種特別な男ですから、吾々よりも権利のある取締りと云う職を持たせた。そして監察を兼ねていた」と証言している。

 

浪士組の江戸帰還後の横浜焼き討ち計画にも、石坂は清河八郎と共に浪士たちの牛耳を執っていた。特に挙兵のための軍資金調達は石坂が中心だったらしく、『嘉永明治年間録』にも、「此月(3)、浅草平右衛門町、名主平右衛門宅へ浪士石坂周造外三十人以上も罷り越し云々」とあり、『東西紀聞』等に収録される浪士たちによる強談事件に関する史料には、浪士の筆頭に石坂周造の名が記されている。この事件で石坂は、文久3414日に再び捕縛され、以後何等の吟味を受けることなく、堀長門守から新発田藩溝口家、秋田藩佐竹家へと預け替えられて維新に至っている。

 

この石坂が捕縛された前日の清河八郎暗殺事件当日、石坂が暗殺現場に駆けつけ、仇討ちを装って清河の首級と連判状を奪った武勇伝等についても、紙幅の関係上ここではふれないこととする。

 

なお、石坂と剣術に関して若干記しておきたい。というのも、医を業としながらも石坂には武術の心得があったらしいからである。その根拠は薄弱だが、浪士組が伝通院を出立する際の様子を某氏に伝えた鈴木半平の書簡(『東西紀聞』)に、「浪士姓名覚」として浪士たちの名が列記され、その名の上に❍印のある者があって、注記に「❍印之分達人之趣ニ御座候」と記されている。そしてその❍印が石坂の名の上に付されているのである。

 

また、石坂が浪人朽葉新吉の首を刎ねたことは『埼玉の浪士たち』に記したが、自負心の強い石坂が、その斬首を浪士組士たちの面前で行ったからには、石坂にその首を一刀で切り落とす自信があってのことだろう。鈴木半平の書簡に記される(聞き書きだが)ように、石坂は剣術も相応に学んでいたのかもしれない。

 

都合により「七」以降は次回とさせていただきます。