18の(2) 知られざる水戸藩郷士大野謙介

4 勝野豊作との親交

 

嘉永23月には、謙介の長年の艱難辛苦も報われ、徳川斉昭の藩政関与が許されることとなった。幕臣儒者の林鶴梁(伊太郎)の日記の同年99日の条に、「児島恭介と有之手紙来ニ付、開封、一過之処、国元ゟ鮭一尾呈上仕度、野村ゟ申来云々」とある。「野村」とは野村彝之介(鼎実)と思われる。国元の野村から鶴梁に贈られた鮭を謙介が届けたものと思われる。当時も謙介は江戸にいたらしい。なお、林鶴梁は藤田東湖とも親交があり、幽閉中の生活に窮する東湖に、同志9人と共に救援金を贈っていた経緯もあった(『林鶴梁日記』)。なお、これ以後嘉永6年に至るまでの大野謙介の去就は定かでない。

 

『井伊家史料・井伊家幕末風聞探索書』の安政22月の条に、「老公(斉昭)御慎御免の儀に付出奔致し、品々心遣ひを尽し候者共、去寅年(安政元年)一同召返しに相成候ては、去る丑年(嘉永6)松前表へ探索として罷越候関幸右衛門、萩信之助并右復太郎儀(原注・宮崎)も夫々旧職へ再勤仕候に付云々」とある。関幸右衛門とあるのが大野謙介と思われる。これによれば、謙介は嘉永6年に萩信之助(忠厚)や宮崎復太郎(日下部伊三次の変名)らと北海道松前を探索し、翌安政元年に旧職(郡奉行配下同心ヵ)に復したのである。

 

蝦夷地開拓は徳川斉昭の宿願であり、既に天保9年にその必要を老中大久保忠真らに建言する一方、窃かに那珂湊の豪商大内某に蝦夷地を調査させたという(山川菊栄著『幕末の水戸藩)。また、大野謙介たちを派遣したとされる年に、斉昭が幕府に提出した「海防愚存」の中に、「蝦夷地之儀ハ御開拓無之候ヘハ不遠魯夷等の有と相成儀差見候云々」、と早急な開拓の必要性を説いた上で、「此儀愚老年来の見込ニ候処、老境に入候ゆへ自身雪中へわけ入御用相勤候事も出来不申と残念千万ニ候、志かし仰付候ハハ開拓いたし云々」と記している。謙介たちの蝦夷地に関する探索報告書もあったのだろう。

 

 それから4年を経た安政5年、大野謙介と親交のあった勝野豊作の次男勝野保三郎(正満)の記した「勝野正満手記」のその年710日の条に、謙介の名が認められる。そこには、「夜中厳君(勝野豊作)江戸ヲ発シテ潜ニ上京セラレ、予随従ス。(中略)道ヲ中仙道ニトリ駒込先ナル庚申堂ニ至レハ水戸藩士大野謙介氏来居、同行蕨駅ニ至テ密談数剋爰ニテ大野氏ニ別レ」て上京したと記されている。この年6月、大老井伊直弼の違勅条約調印等に異議を唱えて不時登城した徳川斉昭らが処罰されていた。勝野豊作は日下部伊三次と共に(別行動)朝廷の力を借りて井伊直弼を幕政から除き、斉昭らの復権を図るため、この日密かに江戸を発したのである。

 

 「勝野正満手記」にはさらに、勝野親子が京都から戻った翌826日の条に、「戸塚駅ニテ大野氏ニ出会、同道品川駅ナル京平方ニ宿シ、翌日厳父は安藤伝蔵氏ニ、予ハ大野氏ト同道同氏之宅ニ行、二宿之後帰宅ス(原注・是大野氏後事ヲ慮ルカ故ナリ)」とある。大野謙介は、勝野親子が密かに江戸を発する際には蕨宿(埼玉県蕨市)まで同行し、父子の帰府に際しては戸塚宿(神奈川県横浜市)に出迎えたというのだ。謙介が勝野豊作といかに深く関係し、その素志宿願を同じくしていたかが歴然である。

 

 勝野親子が江戸に戻った翌97日、梅田雲浜の捕縛を皮切りに、過酷な安政の大獄が始まり、同月27日には日下部伊三次が投獄された。この時、偶々日下部家に在った勝野豊作は、捕吏がその顔を知らなかったため、辛くもその場を逃れたという(「勝野正満手記」)。だが、同日の夕刻に勝野家を襲った幕吏は、豊作の妻、長男森之助(正倫)、次男保之助と娘の家族全員を捕縛投獄したのである。その後、妻と娘、それに保之助は百日間の押込めとなり、長男森之助は三宅島に流罪となった後、文久2(1862)に許されて江戸に戻ったものの、その年の末に病没した。前途有為な若者だったという。

 

 一方、勝野豊作のその後は、『水戸藩死事録』に「(豊作は)潜ニ脱シテ本藩邸ニ投シ、大野謙介ノ家ニ匿ル、(中略)明年十月十九日、正道病テ謙介ノ家ニ死ス、年五十一、謙介密ニ屍ヲ水戸大戸村ノ人大野内藏太ニ托シ、之ヲ其地ニ葬ラシム云々」、と記されている。ちなみに、筆者は『歴史研究』第633号掲載の「忘れられた傑士勝野豊作」で、勝野は水戸領内に潜んでいたかのごとく記したが(本ブログ前稿では修正)、これは誤りであった。このことは、勝野豊作の孫陸軍中将勝野正魚の記した「安政大獄と勝野家」に、次のような事実が記されている。

 

まず、勝野豊作の江戸潜伏に関して、「年余江戸に於て能く其寄寓を秘し潜居しありしは、大野謙介夫妻の献身的義侠の発露に非れば不可能の事にして」、夫妻の勝野隠匿は徹底し、近くに住む大金氏に嫁した長女でさえ、その事実を識らなかったという。謙介は、「正道の死(安政61019日・脚気)するや、他に妙案なく屍体を大戸村山中に埋葬するに決したるも、当時江戸出入に対する警戒尤も厳なりしかば屍体の輸送に苦心し、先づ水路によらんとし、極めて堅固なる長持内に入れて謙介自ら義幹(謙介の子)と共に之に従ひ小網町に至れば、凡ての荷物の開梱取り調べあるを知り」、陸路を取ることに改め、幾多の苦難を経て「大戸村着後謙介の甥内蔵太には姓名を告げず唯自己の尤も大切なる武士の屍体なる旨を含め、紋付上下を着せしめ大小等を添へ厚き布団に包みて其山中に埋葬し、何時掘開あるも武士たることを明瞭ならしめたるものなりき」として、これは「大野氏の正道に対する義挙の一端此の如く、尋常情義の能く為し能わざる美事」である、と謙介の義侠を称賛している。

 

 明治4(1871)に豊作の遺体を改葬した際、埋葬当時の姿のままで掘り出されたという。謙介と勝野正道の親交の深さと、謙介が信義に厚い人であったことを示す逸話である。なお、これらにより、安政5年当時謙介の妻子も江戸に住居していたことが明らかである。

 

5 久坂玄瑞との親交

 

 長州藩久坂玄瑞が記した「骨菫録」に、万延元年(1860)正月から7月までの各月ごとに人名とその出身地が列記されていて、その3月の条に「大野謙介 水戸、浅川寿太郎 平戸、三島貞次郎 備中松山、樺山三圓 薩摩」とある。この当時久坂玄瑞は長州に在り、5月になって英学を学ぶために江戸へ出ている。この記事が何を意味するのか、また、この当時玄瑞が大野謙介と面識があったのかどうかは不明だが、この頃大野謙介の存在が久坂玄瑞にも知られていたことだけは確かである。

 

 なお、この年33日には、水戸浪士らによる大老井伊直弼襲撃事件(桜田門外の変)があり、同月22日には、この事件の首謀者高橋多一郎が、大阪でその子庄左衛門と共に幕吏の包囲下で自刃して果てていた。大野謙介のこの事件への関与等は一切不明である。

 

水戸藩住谷寅之助(信順)の日記(「住谷信順日記」)のこの年104日の条に、「大野謙介下着来話」として、「来る十五日方一橋公御登城の響云々」とか「「姫宮様御下向春迄御挨拶御延引云々」等、謙介が住谷に伝えた内容が記されている。謙介は引き続き江戸に在住していたらしい。住谷は、再度の藩難に連座して前年軍用掛見習の職を免ぜられ、この年俸禄も奪われて、閉居の身の上であった。

 

この年の1222日付けで、長州藩桂小五郎(後の木戸孝允)た宛てた水戸藩士尼子長三郎(久恒)と美濃部又五郎(新蔵)の書簡(木戸孝允関係文書』)に、謙介の名が認められる。そこには、「尊藩御論之趣、大謙へ御示教之趣逐一承知仕候、何れ其内当地之情実も得、貴意候事御坐候得共年内日取も無之候間、公務繁雑不得寸隙、後便に申上候事御坐候云々」とある。桂小五郎はこの年、従兄の松島剛蔵(久敬)と共に水戸の西丸帯刀()や岩間金平(誠一)らと、水長が連合して幕府を匡正することを議し、8月はに水戸が破(現状破壊)を、長州は成(破壊後の建設)を実行する「成破の盟約」(丙辰丸盟約)を結んでいた。

 

しかし、この盟約は水長有志の私的盟約であったことから、これを藩同士の関係に深めるため、翌年3月には、水戸藩側頭役美濃部新蔵らと長州藩用役宍戸九郎兵衛らとの会談を成立させることになる。先の書簡はそのことに関係するものと思われる。謙介は桂小五郎から長州の藩論を伝えられ、それを水藩の要人美濃部や尼子に伝達したらしい。

 

なお、この12月に作成された分限帳「水戸藩御規式帳」の、「御中間頭、徒列加藤五左衛門」配下に大野謙介の名が認められる。謙介の右隣4人には「郡列」とあり、左隣の人物には「御広間勤格」とある。謙介に関しては何も記されていないが、郡列ということであろうか。

 

文久元年になると、久坂玄瑞住谷寅之助の日記(以下「久坂日記」、「住谷日記」と記す)に謙介の名がしばしば認められるので、この日記の記述を中心にこの年の謙介を追ってみよう。まず「久坂日記」28日条に「水藩大野謙介、乙葉(乙葉大助・勝野保三郎の隠名)の転書を持来る。夜五時迄談候事」とあり、同月17日条には「大野謙介、乙葉大助、日下部伊三次翁の妻に会す。八ツ半時帰邸」とある。日下部伊三次は安政6年閏3月に牢死していた。日下部と関係の深かった謙介は、久坂や勝野とその妻を訪ねたのだろう。さらに同月29日には、「大野謙介来る。暮に至り去る」、翌晦日には「子遠(長州藩入江九一)此日を以て国許に帰る。我等送りて品川に至り別飲す。此日大野謙介来る」とある。

 

そして316日に、久坂玄瑞が国元の同志入江子遠(九一)に宛てた書中に、「大謙と老兄発足前重々申置候事も御座候得は、同志中に謀被成候て最早手を御下可被下候」とある。これによれば、謙介と玄瑞が、入江の帰国に際して、国元の同志に謀るべき何事かを託したらしい。翌48日付けで玄瑞が入江に宛てた書中には、「此節在府有志の士も沢山に有之候」として、飯井銀八郎、大野謙介、川又才助、岩間金平他九人の名が記され、その中には藤田東湖の子大三郎や小四郎の名も認められる。

 

「住谷日記」514日条には、「大野謙介ゟ」として、謙介から伝えられた情報が記されている。翌61日の「久坂日記」には、「樺、大野来る」とある。「樺」とは薩摩藩士樺山三圓(資之)である。翌73日の条に、「無逸来薩の三十八人の事を報ず。暮時彼邸に往。大野、町田(直五郎・薩摩藩)先在云々」とある。「無逸」とは長州藩士吉田栄太郎(稔麿)の字で、その無逸が伝えた「薩の三十八人の事」とは、前年の8月、攘夷の先鋒たらんと薩摩藩邸に駆け込んだ水戸の竹内百太郎ら38人のことで、この月5日には薩摩藩邸から水戸藩小梅別邸に引き渡されている。事前にその事実を吉田栄太郎から聞いた玄瑞が薩摩藩邸に赴くと、そこに大野謙介と町田直五郎(薩摩藩)がいたというのである。

 

それから2ヶ月後の97日、玄瑞は江戸を発して帰郷の途に就いている。その前日の久坂の日記に、「與樺町至大塚又至大子、日下部及美片大三氏会、入夜而帰」と記されている。玄瑞の送別の会が開かれたのだろう。日下部伊三次の妻も参加したらしい。「華」と「町」は薩摩の樺山三圓と町田直五郎、「片」は、水戸藩士の片岡為之允(常道)、「大」は大野謙介と思われる。玄瑞は片岡為之介とも親交があった。なお、「美」については、久坂の「卸襄漫録」のこの年8月の条に「美濃部に会ふ事」とあるので、美濃部新蔵ではないかと思われる。長州に戻った玄瑞の1127日の日記に、「水大謙、及町人来るを夢む、町人は面貌を忘る」とある。謙介の印象は、久坂玄瑞の脳裏に深く銘記されていたらしい。

 

6 「住谷成順日記」の中の健介

 

 「住谷日記」に記される大野謙介については、これまでも紹介してきたが、その文久元年125日の条に、「清次衛門ゟ来ル。去ル月廿九日大野ゟ之状共来ル」として、「悌之介去月四日死去、()依而ハ金六両取片付謝禮等外弐両壹分指越牢中へ入候分云々」とあり、同月24日条には、「大謙ゟノ状持参、去ル十七日悌之介回向院裏□而地改葬済候旨申来ル云々」と記されている。文中「清次衛門」とあるのは水戸藩士梶清次衛門(信基)で、「悌之介」は住谷寅之助実弟である。悌之介はこの年2月、脱藩して上京途中の堺で捕らえられ、この114日に伝馬町の牢内で非業の死を遂げていたのである。その遺骸の処置から埋葬(改葬)にいたるまで、謙介と川又才介(時亮・水戸藩)が取り仕切ったのである。

 

 なお、「住谷日記」のこの月の条に、「大謙三十日ニ而長州□微行ノ処、大謙セキ入早々立去候様申、イカニも臆病物()也トソ云々」とある。この謙介の長州微行の顛末は不明だが、「臆病者」とある点については、水野哲太郎が高橋多一郎に宛てた嘉永元年中の書中にも、「(謙介は)危急迫切之時に至りては、指支候事も可有之と存、再復轍を踏不申様と、大におぎけつき(怖気づきヵ)、むしろ慎重に失候も、軽忽に失し申間敷と相控へ申候云々」、と記されている。謙介は嘉永元年当時は既に40歳、文久元年当時は53歳であり、血気に逸る年齢ではない。本来の性格もあったろうが、その任務上数々の危難を潜り抜けて来た経験からも、慎重に事を運ぶ人だったらしい。性急な人やそれが意に沿わない人たちには、臆病と見えたのかも知れない。

 

 翌文久243日の「住谷日記」に、「丹雲(得能淡雲)二月四日入牢、勢州高槻の浪人宇野東桜、今梅信と云ふ、返心幕へ訴出るに付、丹召取に成候と云ふ、一人は幕の間者となり、水戸へ廿一日出立、原市(原市之進)へ探索に来る由、大謙より廿九日仕出にて申来と云ふ」とあり、3日後の同月6日条には、「宇野東桜昨夜原任(原市之進)へ不図も訪来るに付き、早速来候様申来行、此依る九鼓迄いろいろ相談の所、言語同断、可悪奴なれども致方無之天運に任せ候事」と記されている。謙介が報知した通り、宇野東桜が水戸を訪れたのである。言語同断の憎むべき奴としながらも、住谷たちは何故か「致し方なし」として反覆者の宇野に危害を加えることはなかったのである。

 

 前年112日に大橋訥庵が捕縛され、その3日後の坂下門外の事変後には連累者が次々に捕縛投獄されていたが、これは訥庵の門人で一橋慶喜の近侍山本繁三郎や宇野東桜の裏切りによるものであったという。そのため、尊攘派有志たちの宇野東桜に対する憎悪の念は強く、「勝野正満手記」にも、「同志ニテ変心セシ宇野東桜ナル者、水戸ニ行テ衆ヲ欺クノ説アリ、因テ(中略)四月十五日ヲ以テ江戸ヲ発シ水戸上町五軒町ナル美濃部又五郎方ニ潜メリ、此途中東桜ニ出会セハ一刀ノモトニ倒サン覚悟云々」とある。この勝野保三郎のことは「住谷日記」にも、「勝野倅(四月)十八日方来ル、東桜云々ニ付来ル」と出ている。勝野保三郎は、大橋訥庵の輪王寺宮公現親王を擁した日光での挙兵計画(未遂)に加わっていたのである(「勝野正満手記」)。なお、宇野東桜は翌年1月に長州藩伊藤俊輔(博文)らによって謀殺されている。

 

 大野謙介は、翌文久2年も引き続き江戸に在住していたらしい。若干ながら、この年の「住谷日記」等に謙介の名が垣間見える。まず、正月7日の条に「去ル五日仕出し状坂場ゟ来ル、宿次ニ而去三日大野謙介方へ留置候付、来ル七日小子、寺門両人付添罷下候旨申来ル」とある。「板場」は水戸藩士板場源助(常裕)、「寺門」については不明。

 

同月24日条には、「此夕下野来ル、林長来ル、坂場明朝出立ニ付一泊、大野、川又等ヘ悌七ノ礼遣シ云々」とある。「下野」は下野隼次郎(遠明)、「林長」は林長左衛門(信義)である。翌24日条には「大野ゟ一書来ル云々」として、「対州療治中如何相成候や不相分、出勤之心配と申事ニ御座候」と、謙介から、坂下門外の事件で負傷した老中安藤対馬守正信の様子を伝えて来たことが記されている。

 

また、同日別項に、「大謙ゟ上町ヘ運ニも心組ト死去之説有之趣運有之よし也、之も難信候事」と、謙介から書通のあった安藤正信の様態に関する事実が筆記されている。「上町」とは、先に勝野保三郎が潜伏した美濃部又五郎(新蔵)のことだろうか。謙介が報知したのは、安藤正睦に関して生存説と死亡説があるが、「運有之よし」即ち生存している、という事実だったのだろう。住谷はこれを「難信候」と一蹴したのである。住谷は坂下門事件にも深くかかわっていただけに、安藤の生死には並々ならぬ関心があったのである。

 

7 菊池教中「幽囚日記」と謙介

 

 「住谷日記」には、先の43日条に「大謙ゟ廿九日仕出にて云々」とあった以外、以後2ヶ月間謙介の名は見えない。この間を埋めるのが、大橋訥庵の連累者として伝馬町の獄舎に収監されていた宇都宮の豪商佐野屋当主の菊池教中(澹如)の「幽因日記」である。その文久2329日の条に、「昌大野へ行キ玄ヨリノ頼ヲ談スルニ快ク諾シ、且日玄イヨイヨサンニデモナル時ハ少クモ百人差出スヘシト云ル由也、大野殊ノ外雀躍セントテ昌大悦ナリ、東ノコトモ大野ヘ頼置ト也」とある。

 

 獄中日記のため隠語が多く、正確な理解は困難だが、文中「昌」とは大橋訥庵の次兄清水一方(正則)の娘の夫清水昌蔵(正熾)で、「玄」は、日本橋元浜町の佐野屋の番頭大橋玄六と思われる。推測するに、獄中の大橋訥庵が玄六を介して清水昌蔵に依頼したことなのだろう。謙介は清水昌蔵と旧知だったらしい。謙介は清水昌蔵の依頼(内容不明)を快く承諾し、清水昌蔵が愈々「サンニデモナル時ハ少クモ百人差出スヘシ」と言ったところ、謙介が欣喜躍如したというのである。「サン」とは恐らく「斬」のことだろう。訥庵が斬刑になった時ということか。その際は少なくとも100人差し出すという、興味ある記事だがその真相は不明である。

 

 また、謙介が清水昌蔵に頼まれた「東ノコト」とは、宇野東桜の件ではないかと思われる。この月19日付けの訥庵の清水昌蔵宛て獄中書簡に、「東生之事愈怪シクシテ、間諜ニ相違ナキ事ヲ慥ニ御見トメ被成候ハハ棄テテ置べキ者ニ非ズ、捨置テハ大ガイヲ仕出シ可申候故、早々御斬殺可被下候」とある(『大橋訥庵全集』)。前記のように、勝野保三郎が東桜を斬るために江戸を出立したのは、415日のことである。保三郎が謙介の意を受けていたことも十分考えられる。

 

なお、「幽囚日記」329日の欄外に、「淵上郁太郎坂井傳次郎山本實(3人共大橋訥庵の門人)右ノ説ト大野ノ説ヲキキテハ死ストモ可也ト順申シ来レリ、大野トハ龍宮ノ士ニテ兼知ノ者ノ由也、礫邸也」と記されている。「順」とは順蔵、即ち大橋訥庵である。その訥庵に「死ストモ可也」と言わしめた謙介の「説」については不明だが、「兼知ノ者ノ由也」とあるから、謙介は菊池教中と既知の仲であったらしい。なお、ここに「大野トハ龍宮ノ士云々」とある「龍宮」とは水戸藩のことである(この部分は先の投稿後修正しました)。これは大橋訥庵の他の書簡に、「水戸」について「龍」或は「桜」の隠名で記されていることによる推定です。

 

「幽囚日記」412日の条には、「朝竹節え之返事認置、堀克ノ書ヲ水人大野え廻シ呉候様ニ頼遣ス」と記されている。「竹節」とは大橋訥庵の長兄清水礫洲(正直)の門人で、礫洲の3男清陰を養子とした人である。また「堀克」とは、初代米国総領事ハリス暗殺を企て、安政4年以来獄舎に在った人で、吉田松陰に「篤厚の奇士」と敬慕(留魂録」等)された現茨城県大子町佐貫出身の郷士堀江芳()之助である。余談だが、この人物については、『在野史論』第17集に拙稿「篤厚の奇士堀江芳之助伝」を掲載しています。

 

「幽囚日記」同月15日条には、「水浪ノ事ハ大野謙助ニ可承ト也」とあり、翌月7日の条には「水ノ大野健助より堀江蛮書ノ受取書来ル、大野健助事隠名吉田洋之助ト昌候間以来其積ニ而往来致度ト申来ノ事」とある。謙介から堀江芳之助へ蛮書(洋書ヵ)の受取書が届いたという。獄中、それも強硬な攘夷論者の堀江が何故蛮書を所持し、何故謙介へこれを渡したのか、これも一切が不明である。翌58日条には、以下のごとき謙介との問答が記されている。

 

「龍宮抔ヘ薩より申来リシハ廿八日也ト龍宮大野云ヘリ、(中略)大野ニ問フ、島津和泉陪臣ノ身トシテ勅命ヲ受テ伏見ニ在留トハ、和泉カ家名ニ取テ無比上規模也、此勢ニテ万一攘夷ノ命ヲ薩ヘ蒙ル時ハ龍宮何ノ面目アリテ世上ノ人ヲ見ンヤト難タル処、サレハ其事ナリ、先日モ申候通今般西州動揺ノ義ニ付テハ一手段アリト申タルコト也、薩ニ先シラレテハ何ノ面目カアラン、故ニ此節天狗党ノ者極密相談策略最中也、然トモ未定論セズ苦心最中也リシトナリ」

 

ここでも「龍宮大野」としている。「トナリ」とあるから、獄外の人物(清水昌蔵ヵ)が謙介との問答を獄中の菊池教中たちに伝えたのだと思われる。ここに「島津和泉」とあるのは、薩摩藩島津茂久の実父久光であることは言うまでもない。その島津久光が、朝廷に「公武合体、皇威振興、幕政変革」を建白するため、1000余の精兵を率いて鹿児島を発したのは文久2316日のことであった。翌月13日に京都伏見の薩摩藩邸に入った久光は、同月16日朝廷に対して幕政改革と、久光の挙兵に期待(誤解)して洛中に蝟集していた尊攘激派浪士たちの取り締まりを建白した。

 

当時の久光は公武合体論者であったが、謙介たちは、外藩の薩摩藩に朝廷から攘夷の勅命が降ることを恐れていたのである。そのために、水戸藩尊攘派の志士たちが極密に相談していた策略がいかなるものかは知る由もない。なお、久光の命により、薩摩藩士同士が血で血を洗う惨劇が繰り広げられたのは、423(寺田屋事変)のことであった。

 

菊池教中の「幽囚日記」に謙介の名が認められるのは、同月21日条の「水ノ大野云、九條防城(坊城)広橋幽閉ノよし」とあるのが最後である。なお、教中は同年7月出獄したが、その数日後に急死した。大橋訥庵もまた同月出獄した後に急死している。幕吏による毒殺だったといわれる。   以降は次稿18の(3)に続きます。