16の1 村上俊五郎について (天保3年―文久2年)

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明治になってからの村上俊五郎は、虎尾の会や浪士組で共に活躍した石坂周造のような華々しい活躍とは真逆に、自らを「棄物」と自虐するほど堕落した半生を送った。しかし、そうした俊五郎の頽廃には、それなりの理由があったはずである。また、維新後の俊五郎は、元妻瑞枝の兄勝海舟宅へ度々無心に訪れたとされている。しかし、勝海舟の日記(「海舟日記」)をみると、むしろ勝海舟や徳川宗家が俊五郎の生活を支えていたらしい一面も見受けられる。それはなぜなのか。そうした事実の真相に僅かでも近づくため、本稿の後半では、「海舟日記」(勝海舟全集』192021)の中の俊五郎に関する記事をほぼすべて転載するなど、非常に煩雑で冗長なものとなっています。ご了承ください。

 

村上俊五郎については、その出自も、その人となりについてもほとんど明らかにされていない。その生年や通称でさえ異説があるのが実態である。また、『人名事典』等の中には、上州境町(群馬県伊勢崎市・括弧内は「原注」とない限り筆者の注記)出身の村上俊平(蘭方医村上随憲の子・浪士組士)と村上俊五郎を混同しているものさえある。

 

村上俊五郎は諱を政忠といった。通称の俊五郎については、「信五郎あるいは新五郎」ともいったとするものがあるが、管見にして史料上ではそうした事実は確認できない。ただし、『史談会速記録』に収録される石坂周造の明治33(1900)10月の談話には、「村上新五郎」と記されている。しかし、これは速記者が「俊(シュン)」と「新(シン)」を聞き違えたための誤りではないかと思われる。なお、谷中の全生庵の記録に「信吾郎」とあることについては後述する。

 

俊五郎の生年についても、天保3(1832)、同5年、同9年と記すものがある。しかし、文久3(1863)に幕府徴募の浪士組に参加した時の年齢が32(東京大学法学部図書館所蔵の取締役所持と思われる『浪士姓名簿』に)とあるので、逆算すると石坂周造と同じ天保3年の生まれであったこととなる。これは、俊五郎が明治34年に没した時の年齢が68歳であったことからも立証される。

 

その生地は、徳島藩領の阿波国美馬郡貞光村(徳島県美馬郡つるぎ町貞光)である。この貞光村は『日本歴史地名体系』37によれば、吉野川の右岸(南岸)に位置し、その吉野川に貞光川が合流した貞光川左岸に町場が形成された谷口集落である。『蜂須賀治世記』に「少し江町有り、然とも百姓町也」と記され、地内西浦には徳島藩代官所(貞光代官所)が置かれていたという。

 

また、『角川日本地名大事典』36によれば、美馬郡貞光村は「幕末期と推定される美馬郡村高其地控帳(新編美馬郡郷土誌)では家数587、人数2684。米、麦、藍、煙草などが主作物で、特産物に養蜂による蜂蜜があり、近郷山村の産物等や生活必需品を商う在郷町として発展した地であるという。俊五郎はこの地の農民の子(後出資料)として生まれている。なお、浪士組で俊五郎の6番組に属した剣客柏尾右馬之助もこの地の出身者であった。

 

俊五郎の同胞についても定かでないが、後出する資料で弟と甥の存在(いずれも名は不明)が確認できる。実家の農業は兄が継いでいたのではないかと思われる。俊五郎の前職については、徳島新聞に連載された「笑いのふくろ」(横山春陽文)に、「もとは徳島の大工だった」とあるという。俊五郎は指物(板を組み立てて作る家具や器具)を作るのが上手で、彼の作った掛幅を蔵する桐箱などは神品で、清河八郎の実家の斉藤家には、その俊五郎が贈った炯火鉢があったと、清河八郎記念館発行の『むすび』第109号にある。維新後には徳川宗家等へもその製作品を納めている事実が認められる。

 

俊五郎は体重が20(75kg)余りあって、大柄の人だったという。『石坂翁小伝』に、「是れ(俊五郎)は身体も大きく如何にも豪勇らしい」人物であったとある。また、同じ石坂周造が明治3310月の史談会で、「(俊五郎は)骨相といへ人物といへ随分面白い男でございました。それを宿に泊めて置きまして段々試しますると尋常一様の剣客ではございます(いませんヵ)」と語っている。文久元年に虎尾の会の事件で幕府が出した手配書には、「阿波出生の由、村上俊五郎、歳三十余、太り候方、顔丸く、色赤く、眼長く、眉毛濃く」とある。

 

また、俊五郎は阿波の人形浄瑠璃の三味線(太棹)が上手だったが、直情径行の粗暴漢であったとされている。しかし、先の『むすび』第109号に、清川斉藤家に残る清河八郎贈位のための俊五郎自筆の建言書(写し)見るに、その「筆跡は清潔であってしかも遒勁神経がゆきとどいていて実に巧者である云々」とある。晩年は酒に溺れ、身を持ち崩してしまったが、その性格には、外貌やその態度とは異なる繊細なものがあったのかも知れない。

 

俊五郎は剣術が得意で、自ら「文は清河、武は村上」と自賛し、特に居合を得意としたともいう。なお、後出の明治期の資料で、俊五郎が心形刀流伊庭軍兵衛に師事していたことが明らかである。しかし、伊庭家第8代秀業(安政5=1858年死去)の代からの門人だったのか、第9代秀俊の代に入門したのかは不明である。また、俊五郎は長沼流の槍術にも傑出していたという資料もある。

 

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俊五郎がいつ頃江戸に出て、清河八郎と出会ったのかも詳らかではない。清河八郎に対する贈位のため、明治16年に俊五郎が有栖川熾仁親王に上申した建言書に、「政忠不肖ナルモ癸丑、甲寅ノ年ヨリ天下ノ形勢ヲ嘆慨シ、尊攘ノ大義ヲ任トシテ東西ニ奔走縦横シ、東都ニ来ツテ偶山岡鉄太郎、清川八郎(中略)ト相会シ云々」とあるので、ペリー来航による条約調印問題が生じた嘉永6(1853)頃から尊王攘夷活動を行なうようになったらしい。嘉永6年は俊五郎22歳の年である。

 

この建言書の内容からすると、俊五郎は剣術修行ではなく、尊王攘夷活動のために江戸に上って山岡鉄太郎や清河八郎に出会ったらしい。清河八郎との出会いの時期は不明だが、俊五郎が江戸から漫遊の旅に出るに際し、万延元年(10月ヵ)に俊五郎に贈った次のような七言律詩があるから、それ以前に出会ったのである。ちなみに、清河八郎尊王攘夷活動の有効性に目覚めたのは、万延元年3月の桜田門外の変であったというが、俊五郎は武術修行のために清河の文武道場か、お玉が池の玄武館道場に出入りして清河や山岡に出会ったのかも知れない。

 

七尺丈夫三尺剣(七尺の丈夫、三尺の剣)  漫遊到処智勇張(漫遊到る処、智勇を張る)

天下已知日多事(天下已知る、日に多事なるを)  腥膻容易触疆場(腥膻容易に疆場に触る)

多年精神一朝貫(多年の精神一朝に貫く) 殉国英雄須棟梁(殉国の英雄、須く棟梁たるべし)

屈指竊数靖献策(指を屈して竊に数う、靖献の策)  功名誰能伴鷹揚(功名誰か能く鷹揚を伴わん)

 

 この詩からすると、俊五郎の遊歴は武者修行だけでなく尊攘の同志糾合を兼ねたものだったのかも知れない。なお、俊五郎は「下総佐原においてよき後援者を得て道場を開いていた」(小山松勝一郎『清河八郎』等)とするものがあるが、清河八郎の『潜中始末』に「佐原の近きに同志なる村上俊五郎の剣術修行に在らるるを訪う」とある。

 

また、前稿「石坂周造について」でもふれたが、俊五郎が下総神崎の石坂周造家を訪ねて、そこに23カ月(文久元年1月時点で)も滞在していたとあることからも、佐原に道場を開いたいうのは、誤りではないかと思われる。なお、俊五郎が一介の医師石坂周造家をなぜ訪ね、長くそこに留まっていたのかは不明である。

 

 石坂周造が俊五郎を介して、清河八郎と同志となった経緯も前稿で詳記した。なお、石坂の明治3311月の史談会での談話には、「(自分は潜伏中で出府出来ないので)八郎から此方へ来るならば何時でも面会しようと期う云う約束をしまして、それから村上新五郎は江戸へ帰りまして日を約して清河八郎を同道して下総神崎へ参りまして面会」したとある。

 

しかし、清河八郎の『潜中始末』や『潜中紀事』には、清河は水府の天狗連の動静を探るべく正月27日に一僕を伴って江戸を立ち、「幸佐原の近きに」同志の俊五郎が滞在しているので(『潜中始末』)、「神崎村に至り村上政忠に会ふ。我れを見て悦ぶこと甚し」(『潜中紀事』)と記されていて、これからすると清河と石坂の出会いは、石坂の史談会での証言とは異なっていたのである。

 

 清河と俊五郎、それに清河と一夜にして意気投合した石坂の3人は翌日、水府浪士の動静を探るべく潮来に至ったが、その取るに足らざる実態に失望し、その後清河は江戸に戻り、横浜異人街の焼き討ちを画策した。前稿にも記したが、薩摩の同志伊牟田尚平の清河宛て3月晦日付け書簡に、「総州之二豪傑之宜様御致希候」とあるので、俊五郎と石坂の2人は、当時江戸に出ていたのである。

 

 その年の5月、俊五郎たちは、清河を盟主として尊王攘夷党「虎尾の会」を結成し、89月の間に挙兵して、横浜の異人街を焼き打つことを決定した。しかし、清河たちの動静を探索していた幕府は、同月19日に虎尾の会同志たちの捕縛を命じたのであった(東京都千代田区発行『原胤昭旧蔵資料報告書』)。万八楼での書画会の帰路、酩酊した清河が町人を斬殺したのはその翌日のことであった。この日、俊五郎も清河一行の中にいたのである。

 

 事件翌日の夜、俊五郎は清河、安積五郎、伊牟田尚平と共に江戸を脱出し、武州富村の広福寺に潜伏しようとしたものの、捕吏の執拗な追跡にあい、24日夜4人は奥富村を脱出して再び江戸に潜入した。その後4人は在府同志の様子を探るため、昌平橋河畔の大阪屋(同志笠井伊蔵の叔母の家)で落ち合うことを約して二手に分かれた。

 

しかし、江戸市中の思いの外の厳戒状態に身の危険を感じた俊五郎と伊牟田の2人は、大阪屋で清河たちを待つことなく江戸を脱出した。後に俊五郎と行動を共にした伊牟田尚平は清河に対して、江戸脱出後の行動を次のように語っている(『潜中始末』)

 

  「東都にて我等(清河と安積)と別れしより、処々相尋ね、夫より山岡(鉄太郎)に到り、(大阪屋に立ち寄った後)終に水戸に走る。中川関も恙なくして、神崎村に到るに昨日頃、石坂宗順は召捕へらると云ふ。夫より直ちに水府に入るに、あと付けし者ありしと云ふ。彼書状を以て磯浜古渡理兵衛に到る。折悪しく類焼にて近所の茶店に宿せしむ。()、寛三郎方(安積艮斎塾で清河と同門菊池寛三郎)に到るに、よく受込み、夫より(水戸藩)有志連頭取住谷寅之助方に到るに、始めは疑ひしに説弁の上、大いに相信じ、然らば御世話すべし()、夫より住谷の世話にて、所々にて潜伏いたし云々」

 

住谷寅之助の日記(「住谷信順日記」・東京大学史料編纂所所蔵)文久元年6月朔日の条に、「両人初テ来訪、サツ伊牟田尚平・阿人村上俊五郎」とあって、さらに「右両人ゟ所聞」として、清河ら虎尾の会同志たちの事件後の様子が聞き書きされている。また、最後に「下野呼寄セ相談ノ上磯浜ヘ遣ス」とある。「下野」とは藩校弘道館教授(彰考館編修兼務)で、元治甲子の擾乱に関係して慶応元年(1865)に斬罪となった下野隼次郎である。住谷とは同志であった。

 

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この年(文久元年)8月末、清河八郎が仙台に潜伏していることを知った伊牟田は、1人で仙台に潜行し、清河、安積と共に、関西で挙兵するために京都に上った。清河たちが仙台に潜伏していることを知った俊五郎も、すぐさま駆け付けたが、3人は既に京都に向けて出発した後であった。以後、俊五郎は桜田良佐・敬助父子の世話になっていたが、その後清河たちが京都で挙兵の準備中であることを知り、急ぎ京都へ向け仙台を出立した。

 

その俊五郎が東海道関宿に到った時、寺田屋事件で挙兵に失敗して東帰途中の清河と出会ったのである。この出会いには、清河が伊勢山田の山田大路親彦家に立ち寄った際、俊五郎が清河を追って上洛途上にあることを聞き、清河がすぐさま引き返して関宿で俊五郎に追い付くことができたという経緯があった。

 

清河の『潜中紀事』に、清河が俊五郎に邂逅した時の心境が、「関駅に至るころおい、忽ち俊五郎に遇いて、喜び天外に出づ」とある。また同書には、清河を追って俊五郎が上洛するに至るまでの経緯が、俊五郎の言葉として次のように記されている。

 

「去秋(文久元年秋)、子(清河)の仙台に在るを聞き、忽ち跡を追い至る。既に至れども、子と尚平、五郎と既に已に洛に上るに、三日後る。故を以って遂に仙府の桜田氏に潜むに、頗る慇懃を忝くす。春来、子の書牘至りて、仙府大いに振へり、(中略)将に勤王を以って師を起こさんとす。更に宗之進(戸津氏)、敬助の両士をして啓行して京師の動静を伺はしめんと欲す。僕は則ち挺進先づ至るのみ云々」

 

そのため、俊五郎と清河は京都に入り、仙台藩邸を訪ねたが、戸津、桜田両士は未だ上洛していなかった。その後、俊五郎は大阪で清河から、「足下既に期会に後れ、以て名を為すべからず、足下若し心有らば、倶に與に奸賊島田氏を屠り、以て東行の贐(はなむけ)と為せん」と勧められて、清河と共に再び京都に引き返したのであった。

 

2人は619日夕方、九条家の諸太夫島田左近宅を襲ったものの、島田はいち早く逃走して暗殺は未遂に終わったが、襲撃の証拠とするため島田左近の刀を奪って出京した。2人は同月22日和歌山に出て高野山に上り、吉野を巡って、29日伊勢山田大路親彦家を訪ね(俊五郎も清河も上洛時にも立ち寄っている)、ここに10日間留まっている。

 

翌月10日船で吉田に到り、駿府に留まること4日、同月20日に2人は富士山に登って3合目に宿泊し、翌早朝山頂に至って鮮麗な御来光を仰いでいる。その後の2人の足取りは『潜中紀事』等に詳しいので紙幅の関係で省略する。

 

824日江戸に潜入したものの、指名手配中の2人はそこに長く留まることはできず、27日に水戸を目指した。結城から野田を経て、まず那珂郡上小瀬村の庄屋井樋政之允を訪ねている。『潜中紀事』に、「里正井樋政之允を訪ぬ、村上政忠嘗って潜みし所なり、厚く政忠を潜ましめ、相去ると雖ども猶ほ能く之を思慕す」とある。俊五郎を思慕したというからには、俊五郎には人に好感を与える何かがあったのである。2人は漁猟をするなどして井樋家には7日間滞在している。

 

この井樋家滞在中、清河は俊五郎に、仙台の有志と結んで横浜の夷虜を打ち払い、天下の義気を激動する策を提案したところ、俊五郎は奮い立って、「固より願ふ所なるのみ、唯だ夫れ府下の有志、屡禍変に困しむ、外に奮ふと雖ども、内に猶ほ姑息を抱き、相応ずる所以に非ざるなり。若かし、此の間義民を募るに更に金孫(金子孫二郎)の遺子勇次郎なる者を勧め、則ち義民に足すのみ」、と応じたと『潜中紀事』にある。

 

俊五郎は無学な粗暴漢のように扱われているが、現状に対する情勢判断とその打開方針も抱懐していたらしい。この後、清河は幕府に浪士徴募の献策を決意し、同月末には「幕府の執事に上る書」を作成して幕閣に上申している。その後の浪士徴募に際しても、主に義民の募集が中心となっている事実を考えると、浪士組の結成過程で、俊五郎の構想が清河八郎に何ほどかの影響を与えていたのかも知れない。

 

814日、水戸城下を発足する2人を住谷寅之助が送って共に祝町の相模屋彦兵衛方に泊まっている。その翌日早朝に、江口忠八という人物が2人を訪ねて来たことが、『潜中紀事』に次のように記されている。

 

 「寅の刻(午前4時頃)、江口忠八忽ち来たる。尋ぬる者小野村の義民にて、嘗つて佐野竹之助を潜せし者なり。眞風(伊牟田尚平)、政忠等、皆な之れ潜ましめ、頗る我が党の者を欽慕す。故に夜を犯して来訪するなり。夫れ誠実の気言面に見はれ、覚えず感涙を促す云々」

 

この江口忠八と清河は初対面で、俊五郎がかつて世話になった人である。先の井樋政之允といい、この江口忠八といい、俊五郎に対する欽慕の念には相当なものがあったのだろう。『水戸藩死事録』に、江口忠八に関して「茨城郡下大野村農、慶応元年正月二日死ス、年四十二。一ニ飯野ニ病死ス」とのみ記されている。まさに、江口忠八は俊五郎がいう「義民」の1人だったのである。

 

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俊五郎と清河八郎820日仙台に向けて水戸を出発し、河原村の潮湯で清河は幕閣への上書を書き上げ、同月24日田尻浜の空窪寺に至ってこれを住谷寅之助に送った。

なお、『潜中紀事』に、空窪寺について「伊牟田眞風、来たり潜む所なり」とあり、伊牟田が1人で仙台の清河を訪ねている事実からも(前記)、水戸に潜伏当時の俊五郎と伊牟田は、別行動をとっていて、お互いの所在は知らなかったらしい。俊五郎はこの空窪寺滞在中に、清河八郎の父斉藤治兵衛に宛てて、次のような書簡を送っている。

 

「一翰呈上仕候。秋冷相増候得共、先以其御地御家様、益々御勇健被為入、恐悦至極奉存候。先年は罷出種々御馳走相成、千萬忝奉多謝候。近頃御心配之儀奉察入候、且御賢息様此度之儀者、天下之大功相勤、諸国え高名発、実にお手柄之御事に候。御身上者野拙守護仕、何方迄も同道致、一死を共に可仕心底に而御座候。此段御安意可被下候。将又此度処々徘徊仕、同志之輩にも会合致、実否承候処、御府内之運(連ヵ)中、近々赦免之風説有之候。御安堵被下御待可被成候。且此廉品御笑納可被下候得者忝奉存候。先者差急大略失敬、平に御緩免可被下候、恐惶謹言。

 閏八月廿四日出        村上俊五郎政忠   斎藤治兵衛様

 

 この書簡は、短い文章の中に必要事項を簡明に記していて、俊五郎が決して無学目盲の徒でなかったことが明らかである。また、子を気遣う親の心に共感して安心させようとする配慮もあり、意外に繊細な心の持主だったのかも知れない。なお、この書簡で、俊五郎は仙台に潜伏中に、清河八郎の生家を訪ねていたことも確認できる。

 

 また、手紙を添えて送った「廉品」は、恐らく俊五郎製作の品と思われる。ちなみに、翌月10日に清河が父斎藤治兵衛に宛てた書中にも、「爐壹ツ差上候、此は村上のこしらへ候品、誠に上手也」とある。その品は清河も絶賛するほどの出来栄えだったのである。この清河の書簡にはさらに、「村上は京師より始終同道に及び候間、猶更丈夫也」とも記されている。

 

 俊五郎たちは閏826日に空窪寺を出立し、相馬中村等を経て97日仙台に入った。

桜田家を訪ねた後、2人は清河の郷里の様子を探るため、大友某を伴って同月10日に陸奥と出羽の国境に近い川渡温泉に至って、ここで様子を探りに出た大友某の帰るのを待つこととなったのである。

 

しかし、『潜中紀事』に、「川渡に在ること五日、村上先づ仙城に反る。蓋し彼れ俗了にして、無聊に堪へざるならん」とあって、俗化して風流を解さない俊五郎は退屈に耐えられず、清河を1人残して仙台に帰ってしまったのである。

 

 その後、清河八郎は同月27日に仙台に戻ったと『潜中紀事』にある。その記事に「廿七日、敬助漸く至り、相伴はれ仙城に至る。此の時に至り、山岡氏もまた至る。稍東都の情勢を詳らかにし云々」とあって、清河が仙台に戻った前後に山岡鉄太郎が仙台を訪れ、江戸表の情勢を清河に伝えたというのである。

 

 余談になるが、この山岡鉄太郎が仙台を訪れたという『潜中紀事』の記述には疑問がある。というのも、『住谷信順日記』の925日条に、「間埼(哲馬)ゟ所聞」として「昨廿四日山岡来り話のよし云々」とあり、また翌26日にも「過刻山岡来ル云々」とあること。ちなみに、当時の住谷寅之助は江戸に滞在中であった。

 

そしてなによりも、104日付け山岡鉄太郎の清河宛て書中に、「先月下旬熊池石とも出獄云々」とあるほか、「此の書状、仙水に一通づつ差し出し候」と記されていることである。山岡は104日時点で清河の所在が確定できないため、この手紙を仙台と水戸の両方に送っているのである。

 

清河は107日仙台を後にした。『潜中紀事』に「仙城を辞す。更に俊五郎をして我が書を携へ、遠野の江田大之進に至り、姑らく之に潜み、以て動静を待たしむ」とある。なぜか俊五郎は清河と同道しなかったのである。俊五郎が世話になった江田大之進とは、名を重威といい、南部盛岡藩支藩である遠野藩の藩校信威堂教授で、清河とは安積艮斎塾の同門であった。

 

清河八郎は、1人水戸に入り、その後江戸に上っている。この清河と山岡鉄太郎の大赦(同志の出獄)と浪士組の結成に至るまでの努力は、「浪士組発起と松平忠敏辞任に関する私論」等でふれているので、ここでは省略する。

 

  • 以下は次回とします。なお、この稿は次回を含め、以後3回に分けての掲載となる予定です。