15の2 石坂周造について(2)

 

                 六

 

石坂周造は、下獄後5年近くを経た慶応4(1868)315日に出獄し、かつての同志山岡鉄舟(鉄太郎)に預けられたという。その出獄は、山岡が徳川家軍事取扱勝海舟に交渉して実現したらしい。山岡鉄舟は石坂放免の前月、精鋭隊頭歩兵頭挌に任ぜられ、前将軍徳川慶喜の内命を受けて、静岡の東征大総督府参謀西郷隆盛と会見し、この月13日の勝海舟西郷隆盛の会談を実現させていた。翌14日の2人の2度目の会談で、同日に予定されていた官軍による江戸城総攻撃が回避されことは周知の事実である。山岡はこの後作事奉行挌大目付、さらに若年寄挌幹事役、翌明治2年には静岡県権大参事と栄進している。

 

出牢後の石坂はその山岡家に寄留し、後に市在取締頭取に任ぜられたという。勝海舟の日記(『海舟日記』)の慶応4425日の条に、「山岡来る。市中取り締り、石坂、村上の事相談」とあり、翌閏43日の条に「石坂云う、明日より市中廻り致すべしと云う。此事は田安へ罷り出て、惣督府へ伺い然るべくと答う」とあるから、その就任はこの頃のことだったのだろう。

 

石坂は明治3311月の史談会で、「関東の取締を命ずると云う、斯う云う御沙汰であった」と語っており、職務の実質は専ら脱走旧幕兵の鎮撫であったらしい。また、石坂は同じ史談会で、「(幕臣)徳川の兵器を盗んで官軍に抵抗して歩くと云うのは、決して慶喜が謹慎しても謹慎が立たぬ、これを鎮撫せぬければ道理が立たぬと云って勝や山岡に云ったけれども、それは如何にも尤もだけれども、如何せん是丈け人数があってそういうことの遣り手がないということ」だったので、自分がそれを引き受けて、西郷隆盛の了解を得て鎮撫に奔走した、と語っている。脱走兵士の鎮撫は石坂自身の提案だったというのである。

 

『海舟日記』の46日の条に、「石坂周造来る。西郷へ行く趣申し聞る」とあるので、石坂はこの日西郷の同意を得るため、自ら総督府の西郷を訪ねたらしい。なお『海舟日記』の同月8日の条には、「河内武彦へ村上、石坂已下生活料百両渡す」とあるので、当時の石坂たちの生活は、勝海舟に支えられていたのである。「村上」とあるのは村上俊五郎のことである。

 

石坂の脱走旧幕臣鎮撫の手始めは、下総国下妻に屯集する純義、貫義、誠忠隊等諸隊の説得であった。『会津戊辰戦史』に、石坂の下妻での脱兵説得の事実が次のように記されている。

 

「幕人石坂周蔵は勝安房の使命を帯び江戸より下妻に来り。兵を収めて江戸に帰らんこ

とを勧む。将士多くは之に応ずる者あらず。単り誠忠隊長山中孝司及び其の敗残の兵士意

気沮喪し遂に之に応ず。周蔵使命を全うすること能はざるを遺憾とし、別るゝに臨み詩を

賦して懐を述べ、之を朗吟し扇を執って舞ひ而して去る。純義隊等の諸隊は其の後宇都宮

に行き大鳥軍に投ず」

 

石坂は先の史談会で、「常野では随分骨を折りました、そうして鎮静致しました云々」と語っているが、石坂の説得で帰府したのは誠忠隊のみだったのである。なお『会津戊辰戦史』によれば、420日、関宿の東南2里半の岩井駅に在った純義、誠忠等の諸隊は、関宿滞陣中の西軍と岩井から1里ばかりの所で衝突したが、破れて東北4里ばかりの下妻に退却したという。石坂が下妻陣中を訪れたのはこの頃のことだったのだろう。それにしても、陣中を去るに際し、詩を賦して舞い踊ったといのだから、芝居がかっている。

 

この際のことと思われるが、館林藩士塩谷良翰の回顧録(『塩谷良翰懐古録』)に、石坂に関する次のような逸話が記されている。下妻への往路か帰路のことだったのだろう。

 

「戊辰四月日不覚二本松藩士の荷物を石坂周蔵(原注・長人ヵ)栗橋にて差押へ問屋へ預け置たる物品悉皆焼却取計方を参謀祖式金八郎より館林藩へ命せられ、藩は右焼却方を甲介(塩谷良翰)へ命したれは、栗橋へ出張荷物問屋取調候処、右は全く二本松藩士国元へ引移りの勝手道具にて兵器には無之、箪笥等は官軍大方打破り目星しき衣類は皆持去りたり云々」

 

戦時とはいえ、二本松藩はまだ官軍に反旗を翻していない時期である。その二本松藩士の家財道具や衣類まで、理不尽に差し押さえてしまったというのである。

 

次いで石坂が活躍したのは、上総請西藩主林昌之助主従や旧幕臣伊庭八郎、人見勝太郎(後に総称して「遊撃隊」といった)らの説得であった。『海舟日記』閏416日条に、「山岡鉄太郎、石坂周造、小田原へ遊撃隊その他屯集説得として行きしと云う」とあり、葛生能久著『高士山岡鉄太郎』に載る山岡の官歴に「大総督宮参謀より内命有之、相州箱根の脱兵鎮撫に罷越候事」とある。

 

林昌之助たちは箱根の関門を占拠し、大鳥圭介軍等と江戸の官軍を包囲殲滅しようと、去る閏43日に請西藩真武根陣屋を出陣し、当時は御殿場に滞陣中であった。林昌之助の日記『一夢林翁戊辰出陣日記』の閏418日条に、「田安中納言ノ命ヲ以大監察山岡鉄太郎来リテ兵ヲ収メン事ヲ説諭ス。種々議論ノ上左ノ上表(中略)ヲ託シ総督府ニ差出サン事ヲ以来シ全軍甲府ニ到十日ヲ限リテ再命ヲ待ツ事ヲ約ス」とある。

 

ここに石坂の名はないが、明治343月の史談会で、石坂が「最初は山岡鉄太郎が正使となり自分は副使となって沼津表に出て参りました」といっているから、交渉中山岡の隣には石坂が同座していたのだろう。

 

その後山岡から遊撃隊側への連絡がなかったらしく、林昌之助の日記によれば、参謀吉田柳助(請西藩士)が決死江戸の山岡鉄舟宅を訪ねたが、要領を得ないまま戻って来たとある。遊撃隊側の上表の内容に、受け容れることの出来ない事項があったのかも知れない。

 

                  七

 

山岡鉄舟が御殿場の遊撃隊陣営を去ってから暫くして、今度は石坂と水沢主水が黒駒の遊撃隊(ここで全軍を遊撃隊と命名)陣営を訪れている。明治343月の史談会で石坂は、「自分と山岡が一度帰えりまして、夫れから大総督府へ伺ました所が兎に角も水野出羽守へ皆預けるようにせい、斯くいう御沙汰を蒙って再び今度は自分が正使となって参りました」と証言している。

 

このことについては、請西藩軍事掛檜山省吾の日記(「慶応戊辰戦争日記」)の閏426

日条に、「田安殿御使水沢文蔵来る。参謀以下密事を不知」とあり、翌27日条には次のような記述がある。長くなるが左に転載する。

 

(慶応4年閏427)田安殿御使石坂周蔵金百両を携へ来たり、兵士結髪の料と云て進めんと云ふ。大野友弥か対面して日く、田安殿より給ふ所に候か、又は何れの御人より送り給ふやと問ふ。石坂日、田安殿よりの給物なり頂戴ありて苦しかるまじと。大野辞して日く、主人昌之助御届不仕、国元出立にて彼是御配意恐縮の至り、其上斯く御送物にて猶更恐入る処なり、国元出立の節、聊かの用意もあり、其余の金幣貯ふるの倉庫なしと、断然として言い放つ、懸河の弁者と聞きたる石坂周蔵少しく赤面の体にて退出なせり。省吾側にて是を聞き思うに、田安殿は旧幕府の天下後見職として世に聞へし十万石の太守たり、何ぞ三軍に恵むに百両金を送るべきや、石坂は素奸者故途中にて窃取せしを大野知りて受けざるかと後に聞く、果たして田安侯より一千金御下げありしと。右取扱いの御徒士目付、省吾へ物語りせし者あり」

 

石坂は「素奸者」(浅学にして正確な意味は不明だが、邪とか悪賢い人の意か)で、田安家から遊撃隊に下賜された1,000両の内900両を横取りしたというのである。事実の真偽は不明だが、石坂は従前から遊撃隊士側に快く思われていなかったらしい。なお、田安家の下賜金の話とは異なるが、金銭に絡んだ話は石坂自身が明治343月の史談会で、次のように語っている(一部要約)

 

黒駒で石坂の説諭に服した遊撃隊士350(実際は270)を沼津まで連れて行くのに金がない。そこで甲府郡代の中山誠之進に交渉した結果、「中山郡代より金を受け取りまして、そうして沼津に三百五十人を引張って参りました」。そしてさらに、沼津藩は小藩なので350

人を預かるのは難儀であるため、江川代官所の柏木總蔵と交渉したところ、「私の方では費用はどのようにでも才覚しましょう」、と了解を得られたという。

 

甲府郡代や江川代官所から金を出させた時期が、石坂の話の通りだとすると、この事実についても疑問がある。それは、林昌之助の日記の5月朔日の条に、「水沢文助、石坂周蔵等会議之上沼津ニ引取猶十日ヲ期シテ後命ヲ待ツニ決ス、夜ニ入再下黒駒ニ帰ス」とあり、人見寧(勝太郎)が明治344月の史談会で、自分たちは「韮崎を経て信州三州地から尾州へ参る考えでござりましたが、其際石坂君の陳述致しました如く不日徳川氏の御処分も定まる少し待って居ては如何と云う事で」、種々議論の末に香貫村に宿営することになった、と語っている。

 

遊撃隊が甲府への進軍を断念したのは51日で、一行が沼津香貫村へ向かったのは翌2日である。石坂が甲府郡代と遊撃隊の行軍費用を交渉する時間があったとは考えにくい。また、林昌之助や檜山省吾の日記等に、先の田安家からの結髪料(これ以前の話だが)以外の行軍費用等に関する記述も見当たらない。満を持して出陣した遊撃隊に行軍費用がないという話も眉唾である。あるいは、石坂は行軍費用以外の理由で甲府郡代から金を引き出していたのかも知れない。

 

なお、遊撃隊はこの後、人見勝太郎の抜け駆けにより、箱根の関門を守衛する小田原藩兵と同月19日に開戦。これに官軍も加わったために遊撃隊は26日の戦いに大敗を喫し、その後は奥羽列藩軍に加わり、その一部は函館に渡って戦い続けることになる。

 

これは全くの余談だが、箱根関門の戦いで重傷を負い、函館の戦いで戦死した伊庭八郎について、先の檜山省吾の『慶応戊辰戦争日記』閏427日条に、「黒駒宿、陣中は毎夜伊庭八郎の策にて、一小隊を出し、間道を巡り、甲府城外を巡邏し、鯨波の声を上げては帰る。城中にては夜襲来れりとて其用意あるに斯様なこと已に十夜、甲府城にては昼夜眠らざるよし」とある。また、翌月26日の箱根関門の敗戦時の日記には、「先鋒隊長伊庭八郎能く戦ふと雖も、身金石にあらず数ヶ所の深手を負い、兵士のために助けられ本営へ引上げ云々」、と記されている。

 

                 八

 

石坂周造の次の任務は関東各地の暴徒の鎮圧が主な仕事であったらしい。もっとも、この任務の決定以前に、石坂は会津藩の帰服のため自分を遣わすよう、総督府に嘆願したことがあったと先の史談会(明治3311)で語っている。

 

それによれば石坂は、「飽まで正義を以て彼を服従させます。若し聞かぬ時には近寄って私が差違えて死にます。一人差違えたなら之で平定する見込みですから、どうぞやって呉れと請願したところ、肥後藩の津田三三郎を同道することで許されたが、「其沙汰が変更しまして今常野の間に博徒が蜂起して如何とも事情を知らぬと過を出来すから其許は関東の様子のことは分って居るから会津の方は止めて関東の取り締まりを」命ぜられたのだという。

 

なお、石坂の会津藩()謀殺計画が中止された理由は、弾正台で「石坂を会津に遣ると云うのは甚だ訝しい話で、既に彼の手下の者(新徴組をいう)が今庄内にあるではないか、彼が為に苦しめられて居る彼を遣れば即ち薪を添えて火を盛んにする様なものである」とのことであったとう。(明治3311月の史談会での石坂談話)

 

石坂の関東取締りに関連して、旧前橋藩士大藤彬編輯の「橋藩私史」(『上毛及上毛人』収載)に次のような逸話が記されている。

 

(慶応48)二十九日判事横川源蔵巡察として前橋に来り本庁に宿す、翌日登城して公に面謁し、維新の主意を陳述し余雑談に及ぶ、此の時附属兵の隊長石坂周造、其の他監察山本一郎、勘定方菊名仙太郎等数人共に本城に入る、退城の砌、門衛の卒之を誰何す、答ふるなし、本陣に還り之を咎め云ふ、門衛の無禮畢竟勤王の心疎なるに因る、兵馬を向て其の罪を糺さんと、馬淵又六其間に居て慰諭し事漸く治る」

 

虎の威を借る狐よろしく、尊王に名を借りた勝者の横暴といえよう。門衛の態度に怒りを発したのが石坂だとは特定できないが、この時、石坂は巡察吏の附属隊の隊長であった。

 

この関東各地の巡察に関して、石坂は先の史談会で「其節は二週間にして百五十名ばかりの博徒を其中の頭になった者十一人というものを所成敗に行いました」と語っている。一説に斬殺した人数は13人ともいう。

 

ちなみに、真下菊五郎著『明治戊辰梁田戦蹟史』に収められた、維新当時の体験談を語った羽生町(現埼玉県羽生市)の松本保太郎という人の話に、「官軍のこの宿へ乗り込みは三月十日でしたが、(中略)この時字和泉村付近の者が放火を始めた。(中略)困って巡邏中の官軍さんに頼んだ、(中略)羽生の宿は静まったが、近在は放火するものが、あちらこちらにも出来て、夜通しやっていたが、幸手の方へ行ってしまった。其の後石坂周三といふ方が後に廻って来て、この打壊しの仲間へ入ったもの五六人を殺した」とある。

 

この事件は、310日の官軍による羽生陣屋の焼き払い事件を契機に、陣屋建設の御用金等で苦しめられた農民たちの蜂起に端を発し、その後周辺各地に広がった打壊し騒動であった(百姓一揆事典』等)。この暴動は忍藩や官軍によって315日には鎮圧されていた。石坂は、事件から半年近く後に羽生宿を訪れて、事件に関わった者を探し出して処断したのだろうか。

 

石坂はこの暴徒鎮圧後に再び投獄されている。このことに関して石坂は、やはり先の史談会の席上で「常野では随分骨を折りました、そうして鎮静致しましたが豈計らんや関処金科料金を同国の窮民に施したというのが私用したというので妙な嫌疑を受けまして(中略)丁度一年半復た獄に繋がれました」(一部重複)、と語っている。没収品を売却して窮民に施したのが越権とされたというのである。

 

                 九

 

石坂周造は明治3(1870)に出獄した。『海舟日記』同年424日条に「石坂周三」と、名のみ記されているので、石坂はこの頃出牢したらしい。この年、石坂は高橋泥舟の妹桂子(山岡鉄舟の妻の妹)と再婚し、山岡家に同居したという。石坂の前妻の去就は不明だが、前妻との子の宗之助は後に鉄舟の長女松子の婿養子になっている。

 

出獄後の石坂は事業家としての道を選んだが、その理由について明治3311月の史談会で、「遂に青天白日になりまして、到底自分の様な単才な者が当路にあって政務を預かるべきものではない。是より一つ民間に落ちて国産を開いて富国強兵の策を取るのが宜いと云う決心で石油を始めた」と語っている。ここには石油とあるが、まず石坂が始めたのは捕鯨であった。これには「平時は産業で国家に貢献し、有事には捕鯨船を軍事に役立てる』との構想があったという。

 

しかし、翌明治4年には捕鯨事業は断念し、石坂がその後の半生を賭けることとなった石油採掘事業を起業している。これ以後に関しては、手持ち資料も少なく、また『石坂周造研究』等に詳しく記されているので、若干の事実の紹介と概略のみを記すに止めたい。

 

明治4年、石坂は長野県真光村(善光寺近く)で始めた採掘事業を皮切りに、翌年には静岡県相良に進出する等、各地で掘削を試みたが、いずれも成功には至らなかった。同7年には米国の油業視察中に、相良油田が薩摩の海江田信義の手に渡ってしまったり(後に取り戻した)、同11年には破産宣告を受けるなど、幾多の試練に打ちのめされている。しかし、石坂の不屈の精神は怯むことがなかった。同33年に新潟県の西山(鎌田油田)で噴油に成功し、石油王とまで呼ばれた。石坂は「石油」の名付け親ともいう。

 

なお石坂は石油採掘事業以外にも様々な事業に関わったらしい。先に触れた『海舟日記』に石坂の名を見るのは僅かだが、明治7年に限っては比較的その動向が窺えるので、一瞥してみよう。その611日条に、「石坂周造、遠州秋葉山材木の事申聞く」とあり、同月19日条には「石坂周造、遠州の山御買上げのこと申し聞く」とある。また、翌々月4日には「石坂周造、英商同道、逢断申し聞る」とある。英国商人が関与する商売のことだったのだろうが、勝は警戒して逢わなかったらしい。

 

更に翌99日条には、「石坂頼みにつき後藤へ金子の事に付き一封認め遣わす」とあ。この件に関係するのだろうか、勝の「戊辰以来会計荒増」(勝海舟全集』)の同月19日条に、「三百円、水野全。是は、田安殿、石坂周造ニ欺かれ、蓬莱社より三万円御借の事、大困難ニ至り、同人御暇、難渋ニ付」と記されている。詳細は不明だが、石坂が田安家を騙して蓬莱社から大金を借りたというのだから、忌々しき事実である。

 

しかし、勝海舟の日記の同月24日条に、「石坂より証書返却の旨申し聞く」とある。これ以後、勝海舟の日記から石坂の名は長く姿を消す。

 

佐倉藩士依田学海の日記(『学海日録』)の明治33918日条に、「光岳寺の住持勇海かへり来りて、(中略)この頃石坂周造と議し、上野国吾妻郡の大湯という温泉をこの地まで引く(鉄管で7)べき計画あり云々」と。これ以外にも、管見ながら千葉県手賀沼の埋め立ての目論見や、伊勢神宮の参詣路に当る宮川に鉄橋を架ける事業計画などが確認できる。

 

なお、石坂の事業による借財の多くは、山岡鉄太郎が負ったらしい。そのため山岡は死ぬまでこの借財に苦しめられたという。このことが先の澤田謙著『山岡鐵舟』にも詳述されている。

 

それによれば、石坂の石油採掘事業で山岡は25万円の借財を負い、宮内省の月給350円のうち250円を10数年間差し押さえられたという。これとは別に、石坂は再び事業に失敗し、この時の高利貸しからの1万円の借金を山岡が背負うこととなったため、これを見兼ねた勝海舟が、固辞する山岡を説得して徳川家から恩借金を受けさせ(毎月25円づつ返納)、高利貸しからの借金の返済に当てたという。

 

山岡家にそうした甚大な迷惑をかけながらも、石坂は大きな顔をして山岡家に出入りしていたらしい。山岡の門人たちはその図々しさに憤慨し、石坂と義絶するよう懇請したが、山岡は「石坂というのは、おれを倒さなきゃ、誰かを代わりに倒す男だよ。まあ、俺だったからよかったのさ。おかげで、誰かほかの人が助かっている。若し俺が石坂を突っ放したら、あいつそれこそ何をしでかすかわからん。一家のことは、お互いに我慢すればすむことだ。云々」と言ったという。義妹の夫とはいえ、常人には理解しがたい心事である。

 

石坂は明治365月、その波乱に富んだ生涯を閉じた。享年72。その墓は、谷中全生庵山岡鉄舟の墓の傍らにある。

 

追記

 清河八郎記念館発行の『むすび第107号』に、昭和59日発行の朝日新聞に掲載された志士石坂周造(文久3年上洛時の撮影とある)の写真が載っている。これは石坂の息子完之助が養子となった山岡鉄舟の長女松子が所蔵していたものだという。単座した左手に大刀を垂直に立てて持ったその写真の石坂は、よく知られる恰幅のいい姿とは全くの別人で、痩身にして、総髪を後ろで束ねた(或は丸刈り)面長の相貌は、額が広く、写真のせいか眼孔がやや窪み頬もこけている。ちなみに、身長は57寸あったという。