ⅩⅥの8 【東京都・千葉県域の浪士組参加者たち】

 

東京都域からの浪士組参加者たち (14)

 姓 名

年令

 

所属等

 

  家族・出身地・その他参考

岡戸小平太

43

道中世話役

親妻子5人  ・山角四郎兵衛元家来当時浪人

江戸牛込御門矢部栄之烝長屋住居

新徴組入り ・「目録」に35番中川一組平士、「組別名簿」に中川一組平士として名あり。・「柚原日記抄」文久3年912日条に「中川一組合へ岡戸小平太他四人」とあり。その後の去就不明。

沖田総司

 称・惣次郎

 名・春政

   (房良)

22

6番組

なし ・奥州白河藩阿部家江戸詰家臣沖田勝次郎(222人扶持・弘化212月没)子 ・天保15年江戸麻布白河藩下屋敷で出生

当時牛込加賀屋敷近藤勇方同居

9歳で江戸牛込の近藤周助野試衛館道場に入門、内弟子修行10年で免許皆伝、塾頭となる。 ・安政59月近藤周助の日野八坂神社の奉額の世話人席に沖田惣次郎藤原春政とあり。

浪士組上洛後近藤勇らと新選組を結成、第一次編成で副長助勤、剣術師範頭、第二次編成で一番隊隊長

慶応4年正月の鳥羽伏見での敗戦後肺患重病の身で富士山艦に乗り江戸に戻るも、療養甲斐なく同年530日死去す。享年25歳。墓は港区麻布専称寺

近藤勇の佐藤彦五郎ら宛て慶応元年11月付け書簡に「剣流沖田へ相譲り申度、この段宜しくお心添え下され度、この辺も当時御他言お断り申し上げ候」と。

総司2歳で父勝次郎と死別。同胞は姉2人、11歳年長の姉光は日野の井上総蔵の弟林太郎(後新徴組士)を婿養子に迎えて沖田家を相続。他の姉は江戸詰の館林藩士中野由秀の妻となると。

沖田林太郎

 名・房政

   元常

38

3番組

妻子4人 ・武州日野宿在住井上総蔵(井上松五郎家の分家)弟 ・文政9222日生 ・近藤周助に天然理心流剣術を学ぶ。近藤勇4代目襲名披露の野試合で軍奉行を務める。

奥州白河藩阿部家江戸詰家臣(222扶持、足軽小頭)沖田勝次郎(弘化2年没)の長女ミツ(沖田総司)に入婿(弘化4年頃)沖田家を相続。 嘉永6年長男房次郎出生。 後に脱藩浪人となる。

江戸四谷伝馬町一丁目住居 ・「浪士姓名簿」には「阿部播磨守浪人、当時近藤勇方厄介ニ罷在候」とあり。

「沖田林太郎御用留」文久3223日条に「京地江朝四時一同無滞参着、四條大宮西へ入雀森更雀江壱番弐番三番迄一と先落着申候」と、翌日には「雀森更雀寺より二月廿四日中村小藤太方へ引移申候」と。

・京都残留の近藤勇や義弟沖田総司と別れ江戸帰還。

新徴組入り ・「目録」に34番三村伊賀右衛門組平士、「組別名簿」に小頭三村伊賀右衛門組平士で名あり。

新徴組入り(家族6) ・「庄内戊辰戦争出張姓名簿」に林茂助隊伍長で名あり。矢島の攻略戦や関川の戦いに参戦。長男芳次郎も菅野正助隊平士で出征する。

「開墾士氏名」には芳次郎の名のみあり。

明治710月酒田県に寄留替提出。・東京に戻った後は墨田区向島の梅屋敷に住居、後日野に戻り生糸の仲買商を営んだとも。

明治16213日病没。享年58歳。墓は東京港専称寺

井上源三郎

 名・一重

35

3番組

不明 ・八王子千人同心井上藤左衛門3男、井上松五郎の弟 ・文政1231日生。

武州多摩郡八王子村

佐藤彦五郎、後に近藤周助に天然理心流剣法を学ぶ。

安政5年日野八坂神社奉額に近藤周助藤原邦武門人として井上源三郎一重の名あり。万延元年5月免許を伝授さる。

浪士組上洛後近藤勇らと新選組結成 ・第一次編成で副長助勤、第二次編成で六番隊長

慶応4年Ⅰ月淀千本松の戦いで戦死 ・埋葬地不明、碑は日野市宝泉寺 

源三郎の甥井上泰助の遺談に「おじさん(源三郎)は、ふだん無口で温和しい人だったが、一度こうと思いこんだらテコでも動かないようなところがあった。伏見の戦いの時も、味方が不利になり大阪へ引き揚げるため引けという命令が出たが、少しも引かず戦いを続けついに弾丸にあたってたおれてしまった云々」と。 ・近藤芳助の「新撰組往時実戦譚書」に「文武とも劣等の人なり」とあるという。

勝野保三郎

 称・保之助

 名・正光

  後に正満

変・乙葉大輔

25

4番組

1人 ・旗本阿部四郎五郎賓客勝野正道(豊作)季子、天保9926日生。

本所根来前通南割下丸毛恒次郎内清水謙蔵同居

安政5水戸藩への密勅降下運動のため父に従って上洛。安政の大獄に母姉兄と共に下獄し、兄森之助は三宅島流罪文久2年許されるも死去。保三郎は翌610月出獄。父正道は潜伏先で安政610月病没。

徳富蘇峰文久大勢一変』に「大橋訥庵先生義兵を挙ぐ。有志の面々来り投ぜよと昌道しながら、下野の河野通桓、小山朝弘、()丹後の宇野東桜、江戸の乙葉大介、薩摩の鮫島雲城、()など三十余人の壮士来り集り云々」と。大橋訥庵の義挙計画への参加の事は「勝野正満手記」にも記述あり。

「目録」に名なし。「勝野正満手記」に「(文久3)十月(原注・日ヲ失ス)越前人坂井友次郎ナル者ヲ誘匕帰リテ同行113日江戸ヲ発シテ上京ス、途中水戸藩美濃部又五郎家来原大輔ト名乗土浦藩士大久保親彦ヨリノ書面ヲ携ヘ京柳馬場錦小路上ル所井筒屋久兵衛方ニ投シ其の儘此家ニ遇ス云々」とあり。 ・翌元治元年(月不明)青木春方が勝野と坂井に宛てた書簡に「両兄御道中無御障去年霜月十二日御到着之旨大悦々々猶同月二十二日御認之貴翰去臘二十九日相達拝読委細敬承御厚意之條々感激ニ不堪令拝読候、()扨御書中有志一人も無之但模様大変等の件々血涙の至りに御座候云々」とあり。

元治元年5水戸藩より「一橋様御守衛被仰候條酒泉彦太郎朝倉五郎右衛門得指図相勤候様云々」の達しあり、弐番床几隊に編入される(本圀寺党)。・慶応4年1月朝命により水戸の奸徒掃除のため執政鈴木縫殿に従って東下、長年の労を賞され与力を仰せ付けられて物代50石を賜る。3月江戸を発して水戸に入る。12月東京勤務を命じられ、翌年公用人試補となる。

吉田松陰の「留魂録」に「越前の橋本左内二十二歳にして誅せらる、実に十月七日なり、左内(伝馬町牢内)東奥に座する五六日のみ、勝保(勝野保三郎)同居せり、後勝保西奥に来り、予と同居す、予、勝保の談を聞きて益々左内と半面なきを嘆す云々」等とあり。

久坂玄瑞入江九一文久元年48日付書簡に「乙葉も不相替盛に御座候、僕同寓仕居申候云々」と。又『久坂玄瑞全集』に久坂の勝野宛書簡等複数あり。又文久元年48日付勝野の尾寺新之丞、高杉晋作宛書簡あり。(高杉晋作史料』)

久坂玄瑞の「御襄滿録」、「江月斎日録」に勝野保三郎(乙葉大助)に関する記事あり。

「勝野正満手記」(東京大学史料編纂所所蔵)

吉田松陰全集』・『久坂玄瑞全集』・『贈従四位土浦藩士大久保要』・「勤皇志士青木彦三郎傳」・「酒泉直滞京日記」・『続再夢紀事』

父勝野豊作に関しては「水戸藩死事録」、「義烈傳纂稿」、「志のぶ草」、『勤王実記水戸烈士傳』、『遠近橋』、『林鶴梁日記』、『水戸幕末風雲録』,『補修殉難録稿』等多数あり。

川崎渡

 

23

7番組

不明 ・府内浪人

当時外神田御成道京屋伊兵衛方同居

「浪士姓名簿」で京屋伊兵衛方同居者は川崎渡以外に小林登之助、柚原鑑五郎、志田源四郎、岡田林兵衛。

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士、「組別名簿」に瀬尾権三郎組平士で名あり。 ・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に川崎渡の名なし。 ・「人名移動詳細」に「黐木坂邸より脱走」とあり。 ・『歴史のなかの新選組』に「元治元年1月新宿において松平近江守廻り先にて捕縛・明治元年2月脱走」と。 ・小山松『新徴組』には慶応42月庄内下りの際に脱走(この時岡田林兵衛も)とあり。

近藤勇

 幼・勝五郎

 称・勝太

 名・昌宜

変・大久保剛

 近田勇平

 大久保大和

(広島出張時)

近藤内蔵之助

 

30

取締役付属

或は道中目付

 

後道中先番宿割

更に

6番組小頭

父妻子3人 ・天保5109多摩郡上石原村の農民宮川久次郎の3男として出生。嘉永210月天然理心流宗家近藤周助の生家島崎家の養子となり島崎勝太を名乗る。後島崎勇と改め、更に近藤勇となる。

当時市ヶ谷加賀屋敷山川磯太郎地借住居

『浪士文久報国記事』に「此時(浪士募集)市ヶ谷加賀屋敷柳町ニ罷在ル近藤勇剣術道場ヲ開キ日々稽古盛り、稽古終テ稽古人集リ各々議論国事ヲ愁ル云々」とあり。

近藤の佐藤彦五郎宛文久3118日付書簡中に「拙者儀昨日帰府仕候処、下調山岡鉄太郎殿廻状十九日拙者御呼出に相成候、何れ有無廿日迄可申上候、僕儀殊之外風邪難儀罷在候、何れ近々全快可相成哉云々」と。

文久3214日廻状に「近藤勇佐々木如水右両人道中宿割池田徳太郎手入相付申候事」と。 同月17廻状に「芹沢鴨隊長相止跡へ近藤勇跡役申渡候、右近藤勇組一隊石坂宗順一隊より繰替致し候間云々」と。 ・同月17日廻状に「六番西恭助御用ノ儀有之此方ニ引置候跡小頭ノ儀近藤勇エ申付候云々」と。 同月23日着京宿割に、「八木源之丞 六番近藤勇組十人」とあり。

・高木潜一郎の日記226日条に「高久安二郎広瀬六兵衛松岡万(2人略)野音次郎、右ノ御方浪士頭取扱清川八郎近藤勇外二人附添、御寄場へ上書致御聞置相成其断御目付方へ御達ニ被参候」とあり。

京都残留浪士16人で新選組を結成し局長となる。

慶応3年12高台寺党残党の狙撃を受け右肩を重傷、翌年鳥羽伏見敗戦後富士山丸で江戸に帰り、甲陽鎮撫隊を結成し隊長(若年寄)となるも甲州勝沼の戦いに破れ敗走。後下総流山に屯集するも官軍に包囲されて投降、同年4月25日板橋宿で斬首され、京都三条河原に梟首された。享年35歳。墓は国電板橋駅前、南千住円通寺三鷹市竜源寺、岡崎市法蔵寺、会津若松天寧寺に、又京都壬生寺に遺髪塔、その他あり。

佐藤房次郎

 名・延和

28

2番組

妻子3人 ・八王子千人同心佐藤惣兵衛弟

青柳村佐藤家八代総兵衛の時代に同村奥泉庄三郎から同心株を買う。房次郎は九代東太郎(総兵衛)の弟。

多摩郡日野村住居

「目録」に名なく、帰府直後に脱退帰村か。

慶応42近藤勇甲陽鎮撫隊に春日隊士として参加。・佐藤昱『聞きがき新選組』に、官軍が日野宿進駐の際は「井上松五郎と佐藤房次郎の両剣士は逸早く姿を消して云々」と。又、「(房次郎は)駿府に隠退した。その一子英次郎氏の長女貞子は、(土方)歳三の甥孫土方忠に嫁している」と。

藤堂平助

 名・宜虎

20

6番組

不明 ・藤堂平助に関し永倉新八の筆記に「関東浪士、藤堂和泉守落胤、文武研究所剣術千葉周作門人目録云々」と。※藤堂和泉守落胤説も、千葉周作門人説(周作死去の安政2年当時平助は12)も疑問視あり。・加納通広の史談会談話に「藤堂は伊東(甲子太郎)の寄弟子なれば云々」とあり。・阿部隆明(十郎)の史談会談話に「藤堂平助は小兵でございますけれども、なかなか剣術はよく使いまして、また文字もございます」と。

当時近藤勇方同居

上洛後近藤勇らと新選組結成、第一次編成で副長助勤、第二次編成で八番隊組長。

元治元年11月帰府の際伊東甲子太郎新選組に勧誘。伊東は門人を引き連れて入隊。 ・慶応3310伊東甲子太郎新選組を脱隊、禁裏御陵衛士となる。同年1118近藤勇らの奸計で京都七条小路で斬死。遺体は満月山光縁寺に葬られるも翌年3泉涌寺塔頭戒光寺に改葬。享年24歳。

永倉新八

 幼・栄次

 名・

後杉村義衛

25

6番隊

なし ・松前藩浪人・天保10411松前藩邸内長屋で生まれる。江戸定府取次役(150)永倉勘次子

神道無念流宗家2代岡田十松に学び、18歳で本目録を受ける。翌年藩邸を出奔し同流百合本升三に就き修行。文久元年同門松前藩浪人市川宇八郎(後の芳賀宜道)と近国を武者修行。後に心形刀流堀内主馬道場の師範代になる。

牛込加賀屋敷近藤勇方同居

上洛後近藤勇らと新選組を結成、第一次編成で副長助勤、第二次編成で2番隊組長、撃剣師範

・慶応4甲陽鎮撫隊甲府城攻略戦後近藤勇らと離間し、芳賀宜道の靖兵隊に参加、副隊長格となる。後松前藩に帰参、杉村松柏の養子となり杉村義衛と改名。松前樺戸監獄の剣術師範を務める。

大正415日老衰死。享年77歳、墓は小樽市中央墓地、札幌市里塚霊園、東京滝野川の寿徳寺境外墓地の新撰組供養碑等

『浪士文久報国記事』・『新選組顛末記』等

中村太吉

 幼・太郎吉

 名・満通

 号・祐翁

 多吉郎

  後半兵衛

24

3番隊

母妻子3人 ・日野宿旅宿業中村半兵衛3

多摩郡日野宿住居

「「目録」に名な江戸帰還後脱退

幼少時江戸麹町の呉服商に丁稚奉公に出る。俳句や狂歌を好み、狂歌の絵馬屋四世を継ぐもこれを譲って帰郷、佐藤彦五郎門脇の長屋で小料理屋を営む。傍ら同長屋の天然理心流道場で彦五郎や近藤周助に学ぶ。 ・日野八坂神社の奉額に発起人として中村多吉助藤原満通の名あり。

日野農兵隊に参加し、慶応2武州一揆の打ち払い、慶応3年八王子宿壺伊勢屋での薩邸浪士召捕り、慶応4甲陽鎮撫隊に春日隊士として参加する。

維新後店を日野駅前に移して妻に任せ、玉川屋祐翁と号して俳句三昧に余生を送ったという。

明治37年没 ・墓は日野大昌寺

仁科五郎

後に理右衛門

29

4番隊

不明  ・曲渕安芸守家来仁科理右衛門子

当時大島一學方に同居

新徴組入り ・「目録」に「18番仁科五郎組」 ・「組別名簿」に「肝煎」 ・中村正行「忠士日記」文久3616日条に「訳有候ニ付慎仁科五郎、芳賀忠次」と。

慶応4年庄内入り(家族8) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に「2番隊肝煎役」 ・『庄内沿革誌』に、728日秋田矢島城攻略戦の際「寺内の官軍を望む此所数尺の断崖にして降る能はす茂助(新徴組頭林茂助)意を決して飛び降る茂助か隊士之れを見て続て降るもの五六人進て寺内に至る官軍貳人之れを見て逃けんとす茂助か隊士仁科五郎之を斬る」と。・916日の関川部落奪回戦で仁科五郎股を撃ち抜かれる。(『戊辰庄内戦争録』)

「開墾士氏名」の筆頭に仁科理右衛門の名あり。

・明治33月椿佐一郎は「新徴組を一括して新徴組募集当時の趣旨に復し尊王の途を講じ」るため「仁科天野の二人を党与にせんと欲せしに()仁科の密告に依り」、仁科と執政部が謀り椿佐一郎を刺殺した。(千葉「新徴組史料」)

・明治55月高尾文吾楽岸寺業輝が病気治療の帰路、懇意の尼寺で酒食の饗応を受けた事件で2人に切腹を迫った際、「仁科理右衛門井上政右衛門板木持参直に禁錮ニ取掛り云々」と。(中澤貞祇記録)

・明治5724日庄内脱走後連れ戻された尾崎恭蔵に対して、公正な「新王政御法りの処置」をとの新徴組士らの主張の中「理右衛門義御家ヲ背キ其上同士之誓ヲ破候故割腹申付然与強而申聞候」と。(前書)

・明治63月分部宗右衛門の酒田県権大属戸田次作への談に「先の椿事件に際し仁科五郎が源弥、東蔵、為右衛門等の若者を扇動して余輩を斬らんと計画したことあり。それ以来仁科等に対し警戒致しおりしに今又このことを聞く、余輩の忿激その極に達す」(『分部実行の生涯』)

・明治65月下旬、庄内脱走旧新徴組士の訴えにより赤澤、仁科()等執政部と親しい一派が司法省から「御不審之義有之候条捕縛之上当省へ可差出候事」と召喚を受け東京へ護送収監される。(千葉「新徴組と庄内藩) ・明治73月、禁獄90日の判決あり。

明治8年鶴岡に居住事実あり。 ・明治147月の松ヶ丘開墾場社員名簿に仁科欽治とあるが。

『上毛剣術史』・小山松『新徴組』

馬場兵助

 後市右衛門

 名・武忠

24

3番組

父母妻3人 ・日野宿荒物商扇屋の馬場市兵衛長男

天保12715日生

多摩郡日野宿住居

新徴組入り ・「目録」に33番玉城織衛組平士、「組別名簿」に小頭玉城織衛組平士として名あり。

慶応4年庄内入り(家族3)

明治初年に市右衛門と改名、鶴岡城下東屋敷に居住。明治77月神奈川県へ貫属替をし、日野宿の馬場市兵衛方に一時同居(家族5人) ・同年還禄資金354円を得て、12月神奈川県程久保(日野市)の官有林五町七反余の払い下げを申請する。

明治19110日歿、享年46歳。

佐藤彦五郎道場で近藤周助に天然理心流を学ぶ。日野八坂神社近藤周助の奉額に馬場兵助藤原武忠の名あり。

『日野市歴史館叢書』第6輯 ・鈴木克久『峠越え』

土方歳三

29

6番組

不明 ・土方義諄4男 ・天保655日生   

多摩郡石田村住居

出生前に父を失い、6歳で母と死別。後兄喜六夫婦に養育され、11歳で江戸の伊藤松坂屋へ丁稚奉公に出たが長続きせず。17歳で江戸大伝馬町の呉服屋に奉公に出るも女中と関係を生じて帰郷、後家伝の石田散薬の行商の傍ら、義兄佐藤彦五郎道場で近藤周助に天然理心流剣術を学ぶ。ここで近藤勇と義兄弟の義を結び、江戸の試衛館道場に寄食して修行する。

上洛後近藤勇らと新選組を結成、副長となる。

慶応4年近藤らと甲陽鎮撫隊を結成、甲州勝沼の戦いに破れ、近藤の官軍本営出頭後は幕府脱走軍の一方の将として野州から会津に転戦、仙台から榎本武陽らと北海道へ渡る。明治元年11月函館五稜郭を占拠、函館政府の陸軍奉行並に選任される。翌年3宮古湾の甲鉄艦奪取に失敗後、二股峠の戦い等に奮戦したが、同年511日一本気関門の異国橋付近で銃弾に斃れた。享年35歳。

日野石田寺に墓碑と顕彰碑、函館の称名寺に供養碑等

千葉県域からの浪士組参加者たち(7)

伊藤滝三郎

37

5番組

妻子2人 ・長百姓又右衛門2男 ・奥医師杉枝仙庵浪人 ※妻は大御番加納備中守組同心和田善右衛門娘

山辺川場村 ・当時芝口露月町に稽古場所持(「江戸芝口二葉町で奥医師杉枝仙庵方に勤め柳剛流の道場を経営」・嘉永74月以来)

新徴組入り・「目録」に34番三村伊賀右衛門組平士、「組別名簿」に三村伊賀右衛門組平士で名あり。「柚原日記抄」に「文久3912日三村伊賀右衛門組合へ」として瀧三郎他4人の名あり。 ・元治元年2月小頭 ・「公私日記」慶応4年1月24日条に「伊藤滝三郎養育伊藤新之助儀文武稽古処江差出申度旨願出ル」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「田川温泉場寄宿帳」に「宿又右衛門、先代瀧三郎養子、伊東民三郎」とあって瀧三郎の名なし。

「庄内戊辰戦争出張姓名」に名なし。慶応4113日死去、養子民三郎(川場村石川源右衛門2)跡目相続。 ・「開墾士氏名」に伊藤民三郎の名あり。 

・明治147月の松ヶ丘開墾社員名簿に民三郎の名あり。民三郎は以後も庄内に居住。

「市中見廻日諸留」(慶応元年6月1日~98)

『幕末新徴組始末―峠越え』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号

酒井寿作

22

7番組

親妻子3人   ●香取郡並木村住居

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士に名あるも「組別名簿」に名なし。 ・『歴史のなかの新選組』には「元治元年2月出奔」とあり。 ・以後の去就不明。

寺田忠左衛門

34

3番組

妻子3人   ●香取郡神埼本宿住居

文久3415評定所に呼び出された22人中名あり。 ●新徴組入り ・中村正行「忠士日記」に「病気ニ付難相勤御暇候ニ付聞済ニ相成候、小倉平太組寺内()忠左衛門、(文久3)六月十六日」とあり。小山松「新徴組」によれば、この時共に脱退したのは朝比奈儀三郎、神代仁之助、中沢造酒之丞、河野和蔵の4人。

・以後の去就不明。

椿佐一郎

 名・則忠

30

6番組

親妻子4人 ・百姓椿佐七(甚兵衛)2

香取郡植房村住居

新徴組入り ・「目録」24番大津彦太郎組、 「組別名簿」に共に大津彦太郎組平士に名あり。 ・中村正行「御用留」文久355日条に記される小頭19名中に椿の名あり。 ・同年同月19日取締付任命の18名中に椿の名あり。 ・同年727日付廻状に「()椿佐一郎組柏尾馬之助庄野伊左衛門組小頭申渡候間此段御達ニ及候云々」とあり。 ・柚原勘五郎「柚原日記抄」同年8月条に「椿佐一郎組合へ桜井彦太郎、天野静一郎、堀越金吾、関根一作」とあり。 

・中村正行「御用留」元治元年2月条に「昨年中剣術出精ニ付為御賞誉左衛門尉殿より小菊紙被下候」として椿佐一郎の名あり。 ・同年6月中村定右衛門宛申渡書に「椿佐一郎、右は今度黐木坂下屋敷え引移之上、直ニ中村定右衛門組合え割入申渡候間、諸事小頭得差図、念入可相勤候」と。(「中村定弘氏所蔵文書」)

慶応4年庄内入り(病弱の妻子は遅れて庄内入りと) ・「田川温泉場寄宿帳」、「戊辰庄内戦争出張姓名」、「開墾士氏名」に椿の名なし。 ・「人名移動詳細」に「湯田川温泉より脱走暗殺せられたるとの説あり」と。

・千葉弥一郎「新徴組史料」に「椿佐一郎は千葉県の産にして、清川八郎と進退を共にせし村上俊五郎の義子にして、文武の修養相当にあり。気節あるの士なり。尊王は彼が常に唱ふる所、戊辰の役清川戦争と同時に彼は町奉行の檻倉に繋がれ、九月の始放免せられ湯田川の宿所に帰る。入檻せらるる当時、敢て官軍に通じたにはあらざるも、彼が平素に依り警戒せられしものならん。老生とは無二の友にて、()老生が鶴岡より妻を娶りたるを悦ばず、尚早を説きたる事あり。椿が不軌の目的とする所は、庄内の藩情を政府に申告し、新徴組を一括して新徴組募集当時の趣旨に復し、尊王の途を講じ成すあらんとの計画にして、仁科・天野の二人を党与にせんと欲せして云々」とあり。

・中沢貞祇の記録に「椿佐一郎事明治三年三月中仁科理右衛門椿佐一郎両人従弁事御用ニ付急速出立候様向役人共ゟ達有之依之同月廿日椿義出立仁科義ハ追而出立之旨沙汰有之則椿義廿日昼頃出立尤松平権十郎宅江立寄候様沙汰ニ付立寄候処其侭ニ而出候事見候者無之与申或ハ闇殺いたし候抔ト区々之風聞之候」と。(司法省へ出訴の旧新徴組士らの御調御尋談口上書)

・上記記録に「(椿が松平権十郎邸に立寄り)其ニ而出不申候由之風聞も有之候或ハ於和田東蔵宅酒を調ひ種々佐一郎越饗応いたし深く酔居る候処新井縫右衛門萩谷弥太郎手早く首縄掛〆縊候処中川一金玉(原注・カ)蹴殺候哉之区々之風聞有之候」等の記事あり。(佐々木正健稲熊繁樹の証言)

・田辺儀兵衛「公私日記」明治341日条に「鈴木弥平太、庄内ゟ昼早ニ而罷登、新徴組椿等為申合致し云々ニ付、同組取頭ゟ来状、但庄内三月廿四日出立之趣」とあり。

・明治28月椿佐一郎の妻長男(万次郎)を産むも、同年1210日死去。翌311日妻も死去する。湯田川長福寺の妻子の墓石に「私ハ死セル子ヲ嘆キ悲シム妻ヲ哀レミ放心ノ体ナリ、妻ハ明治3年元旦逝去、妻ト子ハ別々ノ地ニ生マレ同ジ家ニ死去ス、私ハ椿トイウ姓ニテ、椿ニハ生命ノ長ク目出タイ故事ガアルガ、シカシ死ハ誰ニモ襲イクル、ソウトハ思イナガラモ妻ト子ヲ思匕続ケテタダ泣哭スルバカリデアル」と。(小山松『新徴組』)

・中沢貞祇の記録に「椿慶一郎 右父佐一郎東京へ登候道中ニ於て出奔ニ付御大法之通家断絶被仰付候得共御構無之候間親類共引取候尤生涯壱人扶持被下候 (明治4年カ)五月十五日」とあり。

『日野市歴史館叢書』第10輯・小山松『新徴組』・『上毛剣術史』・子母沢寛『露宿洞雑筆』・吉野式『幕末諸隊研究』第8号・鈴木克久『峠越え』

殿内義雄

 称・大二郎

34

道中目付 後1番組

1人ヵ ・名主土屋忠右衛門季子 ・元結城藩水野日向守家来  ※土屋家屋号「殿内」

武射郡森村殿内(結城藩領) ※土屋家の屋号「殿内」

安政3年昌平黌入寮、翌4年退寮。文久2年昌平黌再入寮、翌3年退寮。

中村又太郎(久留米浪士・1番組平士)の妹を妻とする。殿内の死後妻は鎌田昌琢(奥州中村・3番組平士)と結婚。

文久3219日廻状に「殿内義雄、右は目付役差免根岸友山組ニ入候云々」と。 ・翌3(日不明・10日ヵ)浪士取扱鵜殿鳩翁より殿内、家里次郎に対し「有志之者相募候ハハ京都江戸之内江罷出候義ハ其者之心次第可致候、京都ニ罷在度申聞候者ハ会津家々中江引渡、同家差配ニ可随旨可被談候」との指示書が出る。

通説では浪士組内での京都残留者の募集とされているが、広く組外有士の募集を託されたものであることは、ⅩⅡ「京都守護職の浪人対策と浪士組」に詳述。

京都四条橋で、近藤勇らに殺害される。近藤勇の郷里宛て書簡に「同志殿山義雄と申す仁、去る四月(3)中四条橋上ニ而打果シ候」とあり。

・「世話集聞書」に「昨夜(25日夜)四条橋之上ニ大小差、切殺され居ル由承リ候ニ付、高橋癸亀一同参リ見物致し候処、藩中者と覚敷者ニて頭上を切られ、袈裟ニ切られ、左手首より小ゆひの処迄手に掛て疵有り、嶋之縞高袴、羽織ハ鼡地ニて紋付、衣類ハ唐木綿を着用こん足袋着ス、脇ニ茶屋提灯有之、大小柄袋有、大小と懐中ハ闇討ちニ御役場有之候付()後よりやみ打ニ被致候と申説も有之、又弐人ニて被殺候と申説も有之候得共不明」と。

・「前書」に「廿四日ニ四条橋爾て被切殺候者ハ壬生浪士之内ニて殿山義雄ト申者之由ニて、兼而浪士仲ケ間ニても如何之儀共有之、仁良満礼居候よしニテ、右殺候者ハ仲ケ間之内ニて殺候と申説なり」と。

新選組人名大事典』等各種新選組関係事典・吉野式『幕末諸隊研究』特別版

山田官司

 名・文次

 号・鏡浦

39

 

1番組小頭

母妻子5人 ・百姓千右衛門2男 ・文政8年生

平郡亀ケ原村住居

北辰一刀流千葉周作に学び、書を藤森弘庵、絵を菊池容斎に学ぶ。「武術英名録」、清河八郎玄武館出席大概」に山田官司の名あり。

久留米藩士佐田白茅の「根岸友山小伝」に「白茅滞留中(安政2年根岸家に)剣師千葉門人某来、数週間伝剣術、此時友山築振武所」とあり、この門人某が山田官司らしい。 ・新井庄司の覚書(『小川町史』)に浪士組参加のために組織した「甲山組」30人の隊長3人中山官司(他は根岸友山と徳永大和)の名あり。 ・文久323日付で根岸友山が江戸から郷里の息子伴七に宛てた書簡に「山岡宅へ被招隊長三十人御選に相成候、武州にては我等豊洲被仰付、常見一郎被仰付候、山田官司此方へ被仰付云々」とあり。

久坂玄瑞「江月斎日乗」万延元年45日条に「午後千葉栄二郎塾へ行、多賀生(勇ヵ)及房州人山田官司(原注・剣客)津高槻処士宇野東桜(原注・源三郎)と八辻(原注・四谷)に飲す」とあり。

新徴組入り ・文久3419日世話役 ・同年六月末剣術教授方兼務 ・元治元年2月文学世話心得() ・慶応2年六月肝煎取締役

・中村定右衛門「御暇申請候一条之事」に、元治元年黐木坂屋敷大棒杭事件に関し押込めとなった定右衛門の親族がその救済のため「山田官司ニ面会、種々相談ニ及

候処、同人申ニ迚も何度嘆願差出し候共役所え打込被置候事必定ニ候間、口上ニて申立候より外手段無之、右ニ付ては肝煎衆え夫々土産持相願ミ廻り、殊ニ同役教授方えも廻り、一先帰郷可致、いつれ共当暮之中之御免ニ相成候様、肝煎一同ニて精々致候由云々」とあり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・「田川温泉寄宿帳」に「先代官司長男幼少 山田文太郎、山田官司は三四番組肝煎取締剣術教授方百石 本高八十石 役扶持二十石」 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に2番隊取締役とあり。 ・明治元年912越後国境関川の戦いで左脇腹から背骨にかけて貫通銃創を負い、翌年51破傷風のため死去。享年45歳。 墓は鶴岡総穏寺、千葉県館山市の横峰堂に顕彰碑。

官司は勝海舟の妹や娘に薙刀を教授し、庄内入りの時には海舟から則長の名刀を贈られた。(小山松『新徴組』)

・継嗣文太郎(文明)は大泉藩過労松平権十郎から愛されて、藩校致道館で学び、後に庄内神社社掌になった。詩歌や篆刻の才があり、父官司の肖像画を残している。(同上) ・(官司は)身長六尺二寸の偉丈夫、眼光は鋭いが、性いたって温和、かって怒ったことがなかったという。(同上)

(官司は)漢学の素養もあり画は下手であったが常に楽しんで居った。撃剣は千葉周作に師事し、画は菊池容隣に師事した。刀の縁頭に孝經の一章を彫刻する抔、武士的堅固の人であった。先づ文武兼備と賞揚してよかろう。後ち山田三郎と共に百石を賜ふ。戊辰の戦役には各地に転戦し、後ち小名部口の激戦で敵の砲弾破裂し、脇腹と背に重傷を負う。陣中を退き、湯田川村に在って療養を加へ中途快方に赴きしも再発して終に没した。(千葉「維新前後の庄内藩)

千葉「新徴組と庄内藩」に「その男文明は後田林の開墾に従事し後ち小学校員の職に就けり」とあり。・「田川温泉場寄宿帳」に「先代官司長男、幼少、山田文太郎」とあり。・明治147月の「松ヶ岡開墾場社員名簿」に山田文太郎」の名あり。・『庄内人名辞典』に「長男文明はのちに庄内神社」社掌をつとめた」と。

著「千葉成政先生夜話聞書」

『戊辰庄内戦争録』・『庄内人名辞典』・小山松『新徴組』・『久坂玄瑞全集』・「むすび」105号・吉野式『幕末諸隊研究』5周年記念号・子母澤寛『逃げ水』