14の12 【中国地方以西の浪士組参加者たち】

 

熊本県域からの浪士組参加者たち(5名)

  姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

大内志津馬

37

7番組小頭

不明 ・細川越中守家来土門宇右衛門5男

肥後熊本産 当時播州姫路浪人

文久3年4月20日付池田徳太郎宛て岳父後藤亥之助の書簡中「兎角当地(江戸)も惑乱之折柄故、御帰府は暫時御見合之方可然、尤大内志津馬殿被参候て、貴所様御滞留之方可然旨同人も申候、右はいつれ大内よりも委細申上候積申置候、且御帰府之事も同人より揚合見計ひ申上候、其節御帰府相成候様奉存候云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に11番小頭、「組別名簿」に小頭で名あり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に2番隊伍長で名あり。 ・511日石原多門隊、越後長岡方面応援に鶴岡出陣、陣中に探索方として大内志津馬の名あり。 ・915越後国境関川へ進軍する一隊の中に「病気或ハ手負等全癒ノ由ニテ出張」する者として大内志津馬あり。 ・916日関川奪回戦に山上の胸壁からの激しい銃撃に「大内志津馬(原注・頭上)打レテ死ス」と。(何れも『戊辰庄内戦争録』)

・小山松『新徴組』に「慶応四年九月十五日病気療養中であった大内志津馬等が原隊に復帰した。九月十六日関川部落奪回戦が続いて、昨日原隊に復帰したばかりの大内志津馬が頭部に銃丸を受けて戦死」とある。

田川温泉場寄宿帳に「先代志津馬養子大内魁一郎」とあり。 ・「開墾士氏名」に魁一郎の名あり。 ・明治65月司法省酒田臨時裁判所の召喚により東京を出立した旧新徴組士の中に大内義春あり、魁一郎か。 ・大内義春は明治75置賜県へ貫属替

関口三千之助

22

5番組

不明   ●肥後熊本細川玄蕃頭浪人

新徴組入り ・「目録」に21番組小頭として名あるも「組別名簿」に名なし。

・『藤岡屋日記』元治元年19日条に、村上常右衛門、関口小千之助(4人略)に付「右之者ども兼而私家来江御預被仰付居候ニ付、浅草向柳原下屋敷江差し置、家来共附置候処、追々永く相成御府内廻り方ニも差し響き、甚以不都合ニ御座候間、可相成は何方成とも早速御預替え被仰付被下度云々」と庄内藩主から幕府への請願書り。 ・同書同年同月15日条に、三宅備後守家来に対し「右之者共(関口三千之助、鯉渕太郎)、酒井左衛門尉家来江御預被仰付置候処、三宅備後守家来江御預替被仰付候間、受取方手当向之儀は左衛門尉并阿部越前守へ可被談候」との達文あり。 ・『続徳川実記』元治元年326日付封廻状に「右於阿部越前守御役宅、御目付小出五郎左衛門立会、越前守申渡之」として村上常右衛門、関口三千之助(23才とあり)、鯉渕太郎他1人に対し「一と通尋之上召連人江預け」とあり、以後の去就不明。

本多新八郎

35

3番組

不明   ●肥後熊本浪人

「井上松五郎日記」文久336日条に「()夫より浪士面々ニ三壬寺ニ罷至候由承り、逢ニ参り候処へ沖田、本多、佐藤、井上右四人ニ而たつね参り、夫より佐藤東太郎、下拙同道ニ而高瀬川生亀と申処ニ而酒宴いたし、夫より沖田、本多両ニわかれ云々」とある。本多は3新見錦組で井上源三郎沖田総司等と同組の本多新八郎と思われる。

新徴組入り ・「目録」16番飯塚謙輔組平士に名あり、「組別名簿」小頭飯塚謙輔組平士に本多学之助とある人か。その後の去就不明。

柚原鑑五郎

28

7番組

1人 ・肥後熊本細川越中守家来柚原伴十郎子

当時江戸外神田御成道京屋伊兵衛方同居

新徴組入り ・「目録」に34番三村伊賀右衛門組平士、「組別名簿」に小頭三村伊賀右衛門組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族2) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に1番隊平士として名あり。石原多門隊附属として越後地方探索方として出陣。

・「開墾士氏名」に柚原伴三郎とある人か。

明治7年2月東京府へ貫属替の柚原伴十郎か。

「柚原鑑五郎日記抄」(清河八郎記念館所蔵)

吉村魁一

29

4番組

妻子2人   ●肥後熊本浪人 当時江戸表六番町山中又兵衛家来太田庄一郎方同居

新徴組入り ・「目録」に名なし。 「村上俊平潜匿日記」文久3513日条に「夜風体を変じ、角中に至り出塚次郎を訪ひ、夫より芳原に至らんとす。既にして吉田主税、芳邨魁一来る。芳邨此夜断髪、髪形を変し師横山光蔵の仇を報せんとて涕如雨。光蔵なる者、流行流(柳剛流ヵ)の剣客にて正義党の士なり。奸者の為に四日の夜、青山にて切害せらる。此夜吾党の計企顕わるを告るものあり。因て党を会し、舟に乗じ小梅に至る。此にて談合離散を計る。主人飯を焚き吾等に饗す。吉田、芳邨の両人は当寺に残り、別に臨んで芳邨滲然泣下、僕等亦愴然に堪えず云々」とあり。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久3518日条に「武井十郎、吉村魁一、吉田主税外五人の者致金策候得共、失非後悔致し、此三人は豊前守殿へ欠込願仕候に付、吟味中河津殿へ御預に相成候に付、局中へ預り可申も、河津殿より御内意之趣なれ共諸組小頭より不承知申立候」とあり。

・『歴史のなかの新選組』に「文久三年5月新徴組から放逐せらる」とあり。小山松『新徴組』も同。

蘭方医村上随憲』

   愛媛県域からの浪士組参加者たち (2)

原田左之助

24

6番組

不明 ・伊予松山藩足軽原田長次の長男

伊予国温泉郡矢矧村

安政3年頃江戸三田の松山藩邸で中間をしていたと。又翌4年頃藩地へ帰り若党をしていたが、出奔して大阪で谷三十郎(弟万太郎とも)に種田宝蔵院流の槍術を学んだ後、江戸に出て近藤勇の試衛館道場に出入りするようになったという。

浪士組上洛後、近藤勇らと新選組を結成し、副長助勤、後に10番隊長となる。

鳥羽伏見戦に敗れて江戸へ引揚げ、甲陽鎮撫隊に加わり惨敗を喫す。後近藤勇らと決別し、永倉新八らと別軍(靖兵隊)を組織して会津へ向かう途中、一人引き返して彰義隊に参加し、上野の山の戦いで銃創を負い、本所猿江町の旗本神保山城守邸まで落ち延びたが518日落命したと。

享年29歳。墓所不明。なお、原田は生き延びて満州へ渡って馬賊頭目になったとの異説あり。

吉田庄助

36

5番組

1人 ・伊予新谷藩加藤大蔵少輔家中吉田幸衛門子   ●伊予浪人 ・当時江戸下谷山伏町寓居

「高木潜一郎浪士組従軍日記」文久333日条に「今日番手ニ而、御見廻役人松岡万、吉田庄助、西村泰翁、新井式部云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に7番組小頭、「組別名簿」に肝煎として名あり。・文久3519日廻状に小頭として吉田庄助の名あり。 ・元治元年2月付申渡書に「右(山田官司、吉田庄助、草野剛蔵)今般文学御開業ニ付、局中世話心得申渡間相掛申談、諸事引請入念可相勤候」と。 ・慶応元年6月、5番6番組持肝煎締役となる。

『峠越え』中伊東瀧三郎「市中見廻日諸留」に肝煎締役で吉田庄助の名あり。 ・「御用記」(慶応2年ヵ)「右(吉田庄助)は当五月廿九日小筒打方取調掛被仰付候付、当御地盤金之内利一ケ年弐両之御割合を以被下置候」とあり。

慶応4年庄内入り(家族5) ・小山松『新徴組』に「(慶応4年3月朔日)五番組、組士吉田庄助以下二十三人、その家族五十一人、計七十四人」が本藩士赤澤源弥等の付添で庄内へ向けて江戸を出立したとあり。

・「田川温泉場寄宿帳」に「五六番肝煎締役、吉田庄助」とあるも、「戊辰庄内戦争出張姓名」、「開墾士氏名」に吉田庄助の名なし。

明治6年寄留替

子母沢寛『露宿洞雑筆』に「吉田庄助ははじめ肝煎取締で、飛ぶ鳥を落としたが、どうも品行が悪いというので平組に落とされた」とあるが。

   長崎県域からの浪士組参加者たち (2)

阿比留鋭三郎

22

3番組

不明   ●対馬藩浪人 当時江戸麻布市兵衛町丹波谷組屋敷高久安二郎同居

北辰一刀流千葉道場門人 ・清河八郎の「玄武館出席大概」に対州藩阿比留鋭三郎の名あり。

文久3310会津藩主に対して京都残留(会津藩の差配)を嘆願した17人の浪士の中に阿比留の名あり。 ・浪士組江戸帰還途中の同月14日鵜殿鳩翁ら浪士取扱が目付杉浦正一郎に宛てた書簡に記される「今朝同人(松平肥後守)家来へ引渡京地へ相残申候」者(芹沢鴨16)の中に阿比留の名なし。 ・同月15日京都残留浪士24人中20会津藩庁に出頭するが、残りの「四人之者ハ病気ニ而不参候」とある中に阿比留の名あり。 ・同月22日老中板倉勝静に将軍の滞京を直訴建白した18人の中に阿比留の名なし。 

・同月25会津藩士本多四郎が壬生を訪れ壬生狂言を見物した際の「世話集聞記」の記事に「此阿比留ハ大病ニ付、江戸表ニ両親有之候ニ付、近々江戸表江罷下ル由ニ咄有之」とあり。 ・翌46日病没。 ・墓は京都壬生寺境内と東京都北区滝野川の寿徳寺。

藤本 昇

45

3番組

妻子2人   ●肥前長崎産 上州館林浪人 当時江戸南本所深川六間堀代地住居

浪士組江戸帰還後清河八郎らと横浜焼き打ちを画策。

・『東西紀聞』に「此節当地浪人共夥敷当月(文久34)二日ゟ五日比迄浅草御蔵前家持大家并大傳馬町日本橋辺大家を見込押借申出市中騒動云々」、この騒動は「右五人頭立」として石坂周造、村上俊五郎らと共に藤本昇の名あり。 ・『藤岡屋日記』同年同月10日条に「()石坂周造、藤本昇右両人之者、回向料并為塔婆料金百五十疋持参、御橋下水上ニ首無死骸二ツ(神戸六郎と朽葉新吉)有之候処、見受候ニ付晒候も不便ニ存候間、何卒右死骸畑沖江引出可然回向致呉候様云々」と(回向院から奉行所への届)。 

・暮地義信「新徴組略記」に「(同月)十五日松平上総介町奉行より浪士の内村上俊五郎、石坂周造()、藤本登()等六人御用有之旨被申渡()町奉行へ処一応尋問の上国事犯に付、夫々諸侯へ御預けに相成たり」と。・『東西紀聞』に「六人大名ニ御預ケ云々」として「一ト通り尋上松平出雲守に預遣ス、藤本昇」とあり。 ・千葉弥一郎「新徴組史料」に「和田理一郎、白井庄兵衛、藤本昇三名の終は未詳」と。 ・石坂周造「清河正明贈位建言書」中に「此六名ノ志士ハ執レモ()皇政維新ノ大赦ニ遭ヒテ放免セラレタリ」とあり。

かすみがうら市郷土資料館発行『新徴組と古渡喜一郎』に「(藤本昇は)晩年まで喜一郎と交流を深めた人物で、喜一郎が遺した資料の中には藤本との交流を示す手紙が3通みられています。()手紙には、喜一郎の小頭昇進を喜んだり、藤本昇の子息への心遣いに感謝したり、二人の関係には子弟を想像させるやり取りが記されています」とあり。

   岡山県域からの浪士組参加者たち (1)

村田新蔵

35

1番組

父母弟4人 ・百姓利兵衛倅

備中国上房郡上村住居

新徴組入り ・「目録」に5番水野倭一郎組平士、「組別名簿」に小頭水野倭一郎組平士で名あり。 ・伊東瀧三郎「市中見廻日諸留」(慶応元年6月1日~同年9月8日)に、ほぼ連日「病気村田新蔵」、「病気引村田新蔵」と記されている。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」及び「開墾士氏名」に名なし。

明治8年現在鶴岡居住

村田新蔵は、根岸友山の甲山組(埼玉県小川町「新井家文書」)に属して浪士組に参加していること、「柚原鑑五郎日記抄」「上京有志姓名録」に武州比企郡平村(東松山市都幾川村に村名あり)とあるが、これ等の地で存在が確認できないこと、また「浪士姓名簿」(当時取締役所持)に父親の名も明記されていることから、岡山県域出身で間違いないと思われる。

   広島県域からの浪士組参加者たち (1)

山口三郎

 名・高賢

31

道中目付

不明 ・郷士山口常兵衛3男   ●備後国御調郡綾目村出生、当時川越辺ニ住

千葉弥一郎「新徴組と荘内藩雑話」に「山口三郎は備後の浪人で、浪士募集の前年川越に来て長屋玄平の家に暫く世話になって居たのである。浪士募集の令を耳にして、両人手を携えて募集に応じたのである。三郎は始終玄平を恩人として居った」と。

新徴組入り ・「目録」に1番組小頭、「組別名簿」に肝煎で名あり。 ・文久3419日世話役 ・「柚原鑑五郎日記抄」同年519日条に「山口三郎、草野剛蔵、西恭助、石倉久七、右御仕法替に付世話役御免小頭役云々」と。 ・同年12月肝煎役(明細書麁調) ・慶応元年6月肝煎締役 ・慶応2年百石を給う(「田川温泉場寄宿帳」)

『新編庄内人名辞典』に「慶応3藩士田辺儀兵衛に随従して江戸開成館での幕府列藩代表会議に出席する」と。 ・田辺儀兵衛「公私日記」慶応4115日条に「開成処()ゟ集議有之候ニ付、有志之者罷出候様申来候間、山口三郎差出様御沙汰有之差出候、翌十六日ニも西ノ丸江差出候」 ・同日記翌27日条に「於公儀所諸藩士公儀御開候相成候間、差出候相御目付様御沙汰、来る九日ニ罷出候との事ニ御座候、戸田惣十郎、山口三郎」とあり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・同年226日江戸出立 ・『田川温泉場寄宿帳』に「戊辰役奥羽の各藩へ使命を帯び、後ち最上農兵の頭となり、六十里越の守衛として官軍と戦ひ云々」と。 ・『庄内沿革誌』に、410日「辻庄一郎白井吉郎を米沢藩に使はし清川及天童の戦は何れも先方より挑むを以て止を得す応戦したるにありて元より王師に抗するの意にあらさるの事情を奥羽鎮撫の九條殿に執奏あり度しと依頼す同十四日加藤半蔵上野專右衛門山口三郎を仙台藩に使いし米沢藩に依頼したると同一の事を依頼し云々」とあり。

・先の「公私日記」78日条に「昨夜天童領成生林と申処江百姓共多人数打寄、同領羽入村打壊候よし、御領分も横行難計候ニ付、山口三郎新銃隊召連神町江出張云々」等の記事あり。

『新編庄内人名辞典』に「戦後は大泉藩大属に任ぜられ、藩の東京昌平橋邸に在勤、藩知事酒井忠宝に従って諸官衙との折衝に当り、その後引続き東京に在住した」と。 ・千葉「維新前後荘内物語」に「明治五年廃藩置県後藩と方針を異にして移住した」と。 ・明治85東京府へ貫属替

山口三郎の人となりについて、上記『人名辞典』に「体躯矮小ながら眼光炯々、すこぶる意思強く、機略に富んだという」と。 ・千葉「新徴組と荘内藩雑話」に「(長屋)玄平の直話に依ると、三郎は玄平の宅にぶらぶらして居る時分から総ての言行が非凡であった。人世零落しても何とか人の上坐にありたいと思うが、夫れには坊主か医者より外にない。坊主は葬式の時は誰よりも上席する。医者も病家へ招かれると誰よりも上席する。()三郎日医学は少しも知らぬが、医者になるのは六ツ敷事はない。病人と云ふものは十中の九までは医薬で癒るのでない。寿命があれば薬を用ひずとも癒るものだ。医者として腹の下るのを止るのを覚えて居れば沢山だ。明日からやつて見よふと思ふと云て、翌日医者の看板を掲げた云々」と。又「浪士の募集を機会に廃業して出京した。両刀は勿論衣服も買求めて中々立派な風をして浪士組へ加入した。奇才に長じて居って浪士組でも頭角を顕し云々」等とあり。

・同書にはその外に、「(山口は)池田徳太郎とは互に信頼した中であった。()三郎は清川八郎とは大に意見を異にした。()浪士が攘夷説を唱ふる中で、(三郎は開国論者で)窃かに蘭学をやった。砲術を学んだ。危険だから公然口には出さぬが、玄平抔に対しては隔意なく物語った。攘夷だの、鎖国だの、阿呆者の寝言だと罵倒して居った」、「三郎は井伊直弼を日本の救世主と仰いで居った。井伊がなければ、日本もどうなったか分らん云々」と。同書に山口三郎の逸話多し。

明治維新史料、明治期』庄内史料集126-2・小山松『新徴組』・『日野市立歴史館叢書』第10輯・子母沢寛『幕末奇談』

   徳島県域からの浪士組参加者たち (1)

柏尾馬之助

26

6番組

不明 ・「明細書麁調」に松平阿波守元家来柏尾嘉蔵子(次男ヵ)とあり。父の名は嘉平次とも称した。  ●阿波国美馬郡貞光村浪人(村上俊五郎と同郷) ・江戸豊島町三丁目柏ヤ方ニ同居

北辰一刀流千葉十太郎門人樋口伝左衛門正隣の「英名録」に「北進一刀流千葉十太郎門人柏尾馬之介 同虎之介 万延元年八月十六日ゟ廿五日迄」とあり。・下総佐原で剣術道場を開いていたとも。 ※『上毛剣術史』に「柏尾馬之助はその剣技鬼神の如しと鶴岡地方では現代でも語り伝えられているとあるが。

新徴組入り ・「目録」に14番組々頭兼剣術教授方、「組別名簿」に肝煎兼剣術教授方で名あり。

・田辺儀兵衛「公私日記」慶応4223日条に「柏尾馬之助病気ニ付、庄内江難罷下候間、親類共江暫罷在申度旨申聞候ニ付、永の御暇被下置候」とあり。

「人名移動詳細」に「柏尾馬之助は千葉周作の門人にして剣道は天下の名人なりと称せらる。()二番組肝煎役となり剣術教授方たり。常に撃剣の稽古を欠席せし事なく、市中見廻りも欠勤した事なきも、戊辰の一月の末肺患に罹り回復の見込みなく、止むなく願の上暇を賜り、江戸に残りたるも幾ならず病死せり。余弟伊東乕太も剣客たり。庄内に下り戊辰戦争には奮闘せり。稲田隼之助が脱走せし時、追跡して最上山寺で稲田と戦ひ手疵を負ひしも一ヶ月許にて全癒す云々」とあり。

柏尾馬之助は慶応448日病没。 ・墓は柏尾家墓地に在ったのを後に徳島市内に移されたと。

千葉弥一郎『新徴組史料』に「「櫛淵先生(一橋家剣術師範役櫛淵太左衛門、弥一郎の師)が新徴組の柏尾右馬之助ハ天下の名人だ、流義なんかは何でも構はんから、同人より教示を受けろと云はれた」と。

蔵敷村(東大和市)名主内野氏の日記(『里正日誌』)に「辰(慶応4)閏四月十九日頃城憲隊ト唱ひ十四五人所澤河原宿新光寺へ参滞留いたし、追々人数相増凡三十人余ニ相成所澤村薬王院へ引移り、賊徒鎮防方撫育隊ト改称シ、五月ニ至り五十余人ニ相成官軍阿州稲田之附属精勇隊ト改号シ、惣隊長江戸住居柏尾嘉平次、所澤出張屯所隊長小野民之丞・鈴木織之助、調役市村郡司外役々十人余云々」と。又柏尾嘉平次については「外神田三嶋町材木店ニ而家主加賀屋長三郎()阿州稲田藩精勇隊之隊長柏尾嘉平次同居ニ而、御同人と長三郎とは伯父・姪ニ而」と。又同書中「()掛川()御人数御調御手控」に、「精勇隊隊長 柏尾直之助二十六七才・剣術師範柏尾嘉平次六十才・死去 同人倅同姓馬之助」と。更に精勇隊士53人中、柏尾嘉平次(剣術)門弟が23人、柏尾馬之輔門弟が2人、千葉十次郎(馬之助の師)門弟が4人と記されている。なお、精勇隊士たちは同年618掛川藩兵によって捕縛され、江戸へ連行された。その後は未確認。

『荘内史料集16-2 /明治維新史料 明治期』・『静岡県史』資料編15・『日野市立歴史館叢書』第10輯・『大和市史通史編』・東大和市立郷土博物館刊『里正日誌』・吉野式『幕末諸隊研究』五周年記念号・(小説)子母沢寛『にげ水』『幕末奇談』『小説のネタ』

   福岡県域からの浪士組参加者たち (1名)

中村又太郎

25

1番組

不明 ・「明細書麁調」に「生国武蔵、久留米藩有馬中務大輔元家来中村主仙子」と。 ・田辺儀兵衛「公私日記」に「中村又太郎実父中村玄道」とあり。※元久留米藩士中村中村主仙(玄道)の子として江戸で出生か。

筑後国久留米浪人(「浪士姓名簿」)

久留米藩剣道師範役津田左衛門正之創始の津田一伝流剣法を学んだという。

新徴組入り・「目録」に30番組小頭、「組別名簿」に小頭で名あり。 ・後小頭に剣術世話心得兼任。

・田辺儀兵衛「公私日記」慶応427日条に「中村又太郎儀被申渡儀有之候付、麻上下着用罷出候、町奉行ゟ申趣候趣、御上屋敷ゟ御沙汰ニ罷出ル、御委任以前ニ付、御構無之趣被申渡候段申出ル」と。同書翌8日に「中村又太郎差扣伺差出候間、其儘相返候」とあり。

慶応4年庄内入り(家族5人、内13歳以下)

・「戊辰庄内戦争出張姓名」に1番隊肝煎役で名あり。

・『戊辰庄内戦争録』に、慶応4年5月11日越後長岡応援人数中に探索方として中村又太郎の名あり。※新徴隊取扱頭取林茂助隊の肝煎訳役として出征。

「開墾士氏名」に名あり。 ・千葉弥一郎「維新前後荘内物語」に「明治二年の秋であった。上ノ山藩の家老松平清之進と云ふ人が剣客二名を鶴ケ岡に同伴して来られ、撃剣の仕合を申込まれた。其の時新徴組から中村又太郎、小堀大太郎、山田精策と老生の四人が選抜され云々」と。

・明治511月「長屋玄蔵宅ニ中川一仁科理右衛門玉城織衛中村又太郎()扣居候ニ付」大島定靖等が割腹を覚悟した桂田寛吾の助命を申し立てたが、助命は叶わなかったと。(中澤貞祇の記録)

小山松『新徴組』に、明治6227日新徴組最後の脱走が実行され、その26人の脱走に中心となって活躍したのが中村又太郎であったと。又、同年3月庄内脱走の旧新徴組と新整組士80人が酒田県の非道私曲を司法省に告訴した事件で、中村又太郎も捕縛され鍛冶橋監獄に収監されたと。 ・明治73月禁獄90日の刑に処せられる。

明治710東京府へ貫属替 、後警視庁入庁と。

「新徴組之内武蔵・上野・甲斐三箇国より罷出候者之中、土着願上候ニ付、心得之件々、大概左ニ」とする人名列挙中に「浪人 中村又太郎」あり、「生国武蔵」が正しいと思われる。

尾崎恭蔵の妻は元久留米藩士中村玄道娘という。田辺儀兵衛「公私日記」慶応47月条に「中村又太郎実父中村玄道」とあることは前記した。 ・同日記翌月の条に「笹森村江、山本荘馬、中村玄道、鈴木弥平太外農兵四人、其模様ハ村々相廻取締致候事」と。 ・同日記同月25日条に「昨日中村玄道笹森ゟ罷帰ル云々」と。

中村又太郎の妹富士子は殿山義雄の妻で、殿山死後鎌田昌琢と再婚。

『日野市立歴史館叢書』第10輯・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号及び『新徴組研究』第8号・『上毛剣術史』・『庄内史料集16-2 明治維新史料、明治期』

   大分県域からの浪士組参加者たち (1名)

玉城織衛

45

5番組

妻及び厄介1人 ・(「明細書麁調」)生国豊後国、中川修理大夫家老中川平右衛門家来代々頭役勤大橋藤左衛門子。  ●豊後岡藩浪人 当時江戸二葉町道場所持

直心影流島田虎之助(嘉永59月病没)を慕って上府、男谷精一郎友信の道場で修行したという。

新徴組入り ・「目録」33番組々頭兼剣術教授方、「組別名簿」に小頭兼剣術教授方で名あり。 ・慶応元年65番組肝煎に選任さる。 ・慶応元年1212日の旗本石川又四郎を斬殺し3人の新徴組士が引責自刃した事件当日の見廻隊統率者は玉城織衛であった。(千葉弥一郎『新徴組と荘内藩』等)

慶応4年庄内入り(家族3) ・「戊辰庄内戦争出張姓名』に新徴隊取扱頭取菅野正助隊肝煎役で名あり。

「開墾士氏名」に名なし。 ・桂田寛吾割腹事件に関する若林守信等の酒田臨時裁判所への申立書に、明治511月割腹を覚悟した桂田を救うため、若林等が長屋玄平宅に居た「中川一仁科理右衛門玉城織衛(他3人略)」等に桂田の助命を求めたが、中川等は「(桂田の脱走は)血盟并同士申合之切磋素意ニ背候大胆成者故申付候様赤澤源弥ゟモ内意有之且七人役席()揃上ニ而者助命之義不相成」と受け入れなれなかった、とあり。稲田隼雄事件及び小山清照、中追胤親脱走事件に関しても玉城織衛関与の記録あり。(何れも中沢貞祇の記録)

小山松『新徴組』に「明治5722日の夜、新徴組60人、新整組20人ほどの大脱走が成功した。この世話をしたのは、玉城織衛等三名といわれている」と。

・明治6年新徴組の一連の事件で鍛冶橋監獄に収監され、翌明治7年3月禁獄90日の判決を申し渡される。

・明治7年7月東京府へ貫属替

『上毛剣術史』・鈴木克久『峠越え』

   佐賀県域からの浪士組参加者たち (1名)

宇都宮左衛門

40

7番組小頭

姑妻子3人   ●肥前佐賀鍋島浪人 当時上州伊勢崎住居   ●『群馬文化』百号所収橋田友治論稿に「宇都宮左衛門が伊勢崎町に借家して、軍学指南の看板をあげていた云々」とあり。

文久3213日廻状中に「宇都宮左衛門代番武井三郎」とあり。 ・翌14日廻状に「宇都宮左衛門儀病気も追々快方ニ趣申候間、右隊長之儀は是迄之通可被相心得候云々」とあり。 ・同月24学習院へ建白書を持参提出した6人の浪士の中に名あり。

・「目録」に名なく、江戸帰還後早期に脱退。

「村上秋水日記」文久4111日条に「伊勢崎へ賀年行く。順庵、栗原恭輔、細野万助、栗原幹、宇都宮左衛門を訪う」とあり。

薄井竜之『筑波騒動実歴談』に「(野州大平山へ)上州より西岡邦之助、昌木晴雄、宇都宮左衛門ら百五十人の志士をひきいて前約を履んで出会云々」と。 ・「水戸浪士田中愿蔵看聞記」元治元年5月1日条に「肥州浪士宇都宮左衛門ゟ古久屋三郎次方江書状を以、近日之内我等尋罷越候仁有之候間、心配無之旅宿頼入候()野州足利郡大前村ゟ使ヲ以申越候云々」と。 ・同書同月12日条に「早朝浪人大平山江出立()大将分三人白麻ニ自分紋付羽織()宇都宮左衛門頭取与相見、弓矢ヲ携へ罷在云々」と。 ・同書同月18日条に「江戸表ゟ宇都宮左衛門ヲ尋参候平尾東巌斉()、熊谷四郎()八十宿へ行云々」と。

・『筑波戦争記』に「此領分(野州寺岡村)栗田源兵衛()、黒村(原注・新次郎)二十位、宇都宮(原注・左衛門)ト申者等」70~80人が513日から同月27日まで宿陣したと(阿蘇地方で金策)。 ・『甲子太平記』に「(5)廿八日(一団は)同勢栃木止りニて翌廿九日昼前之内小山宿へ出立云々」と。

・『筑波町史』に「六月二日再び筑波山へ帰還した筑波勢は、沼田村明蔵院に須藤敬之進、宇都宮左衛門の天勇隊が大筒を道路に向って配置して警備した」と。 ・『常野集』に、昌木晴雄と宇都宮左衛門が栃木宿の山本屋藤吉宅に616日「馬五疋鉄砲四挺鑓等を持込」宿陣したと。 ・宇都宮左衛門らが宗道河岸等で金銭等の徴発活動を行う。(「中山氏聞記」) ・『常野集』にも「廿八日水戸様浪人宇都宮左衛門と申もの上下拾九人、鎗鉄砲長刀其外鑓弐本押立、佐衛門儀騎馬ニ而相模守領分常州真壁郡久下村徳右衛門方江押込金弐千両可差出旨厳敷申懸云々」と。

・翌76日追討軍の来襲に備え宇都宮左衛門等は龍勇隊を率いて下館口沼田村に陣を敷く。(「波山始末」等)

・『波山記事』に同月9日の下妻合戦に際し「右四人之者指揮致(下妻城下へ)忍入候由」として飯田軍蔵、宇都宮左衛門の名あり。 ・同月21日の藤田小四郎らの水戸城攻めに反対して府中へ立ち退いた者の中に宇都宮左衛門あり。(『常野集』等)

7月末から8月初旬藤田小四郎らは府中に、滝平主殿らは玉里村円妙寺に布陣した際、滝平らが藤田に宛てた88日付書簡に「円妙寺警固は宇都宮、昌木、高橋等五日六日の二日二晩の約で参っている。()その後七日夜九ツ頃宇都宮、昌木、高橋らが円妙寺警固御免を云う。()宇都宮(前記2人略)ら昨晩は旅仕度致し居り、又々府中へ出向いたようす云々」と。(玉里村史』)

・『常野集』813日条に「府中出張、宇都宮左衛門、人数五十人程」と。 ・「伊東榮太郎日記」同月22日条に「府中止宿仕候宇都宮左衛門昌木春雄両人ヨリ林五郎三郎方へ書状ヲ以テ相頼越候儀ハ()今宵松平播磨守城下可焼払旨風聞有之ニ付、早速御立帰城下元固メ可被下趣云々」と。 ・「旭桜雑志」に「鮎沢公より既急使参り、神勢館大炊頭持張がたく候故、急御加勢願度由申来候故、其夜(825日カ)即刻仕度、明朝七ツ立つと定め、其節須藤啓之進()昌木、宇津宮等も同意に而云々」と。 ・後宇都宮等は小川、玉造へ移動したが、幕軍の攻撃を受け鹿島に集結した。

92日から3日に掛けて大平組と称する600人余の浪士が鹿島神宮に集結。この中に宇都宮左衛門あり。 ・「飛鳥川附録」に「五番隊長、西岡邦之助、宇都宮左衛門、人数九十人余、甲冑の騎馬七、八人何れも花やかなる陣羽織を着け、重藤の弓を持ち、甲冑にて矢を負へるもの二人、是は歩行武者なり云々」と。しかし、同月6日の幕軍の総攻撃で四散した。 ・『波山始末』に「鹿島の陥るや西岡邦之介等五、六十人遁れ去りて府中に到り、市店一百六十戸を焼き、藩兵と戦って之に勝ち、十数人を殺傷す。()土浦藩兵と田部井に合戦す。利あらずして衆徒退却し桜川を渡る。藩兵追撃する急なり。()宇都宮左衛門、林庄七郎、石橋民右衛門は走りて酒丸村安楽寺に入りて自殺す」とあり。

・「甲子見聞録」に「(9)九日朝酒丸村安楽寺と申寺へ散乱の浪人隠居候趣注進有之候間、早速繰出右寺へ打入候処五人隠居、五人の内四人は直様馬捨場にて首打申候、一人は角力取に候間小田村へ引連吟味の上令十日打首云々」と。 ・「家の記」に「筑波天王院聟之咄、同人事安楽寺隣山中と申油屋に細工致居候処、安楽寺境内裏の笹山にて緋毛氈敷二人自害、一人は宇都宮左衛門云々」と、又「宇都宮左衛門紫縅の鎧革の陣羽織を着、其上ござ着て打たれ申候」とあり。

宇都宮左衛門に関し、『波山記事』に「戸田采女正様元家来石田弾正、新徴組入一色次郎ト申候由」(『天狗騒ぎ』も同内容)、が、これは全くの別人。『史料宇都宮藩史』に、戸田二郎(光形、変名戸田弾正、老職戸田七兵衛光利ノ二男)は「五月浪士に応シ大平山ニ入り、後筑波山ニ入り、又那珂湊ニ転シテ同所ニ戦死ス」とある。 ・「都賀郡山田村記録」元治元年413日条に「四月十三日より追々水府浪徒大平山へ集屯有之云々」として「戸田弾正、宇都宮左衛門、昌木晴雄」と列記あり。

太田市史史料編』・『蘭方医村上随憲』・『水戸史学』中水代勲「昌木晴雄小伝」・『水戸藩史料』・『元治元年』・『下妻市史料』・『筑波町史料』・『水戸浪士西上録』・『天狗騒ぎ』・『栃木県史史料編』・『野史台維新史料叢書』29・『水戸幕末風雲録』・『天狗党鹿島落ち』・『筑波戦争記』・『鹿島史叢』・『麻生町史』・『武田耕雲斎詳伝』等

 

●以上浪士組士総人員は222人。これに石坂周造、村上俊五郎を加えて224人。

 なお、石坂周造と村上俊五郎についても、次回以降で取り上げたいと考えています。