16の1 村上俊五郎について (天保3年―文久2年)

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明治になってからの村上俊五郎は、虎尾の会や浪士組で共に活躍した石坂周造のような華々しい活躍とは真逆に、自らを「棄物」と自虐するほど堕落した半生を送った。しかし、そうした俊五郎の頽廃には、それなりの理由があったはずである。また、維新後の俊五郎は、元妻瑞枝の兄勝海舟宅へ度々無心に訪れたとされている。しかし、勝海舟の日記(「海舟日記」)をみると、むしろ勝海舟や徳川宗家が俊五郎の生活を支えていたらしい一面も見受けられる。それはなぜなのか。そうした事実の真相に僅かでも近づくため、本稿の後半では、「海舟日記」(勝海舟全集』192021)の中の俊五郎に関する記事をほぼすべて転載するなど、非常に煩雑で冗長なものとなっています。ご了承ください。

 

村上俊五郎については、その出自も、その人となりについてもほとんど明らかにされていない。その生年や通称でさえ異説があるのが実態である。また、『人名事典』等の中には、上州境町(群馬県伊勢崎市・括弧内は「原注」とない限り筆者の注記)出身の村上俊平(蘭方医村上随憲の子・浪士組士)と村上俊五郎を混同しているものさえある。

 

村上俊五郎は諱を政忠といった。通称の俊五郎については、「信五郎あるいは新五郎」ともいったとするものがあるが、管見にして史料上ではそうした事実は確認できない。ただし、『史談会速記録』に収録される石坂周造の明治33(1900)10月の談話には、「村上新五郎」と記されている。しかし、これは速記者が「俊(シュン)」と「新(シン)」を聞き違えたための誤りではないかと思われる。なお、谷中の全生庵の記録に「信吾郎」とあることについては後述する。

 

俊五郎の生年についても、天保3(1832)、同5年、同9年と記すものがある。しかし、文久3(1863)に幕府徴募の浪士組に参加した時の年齢が32(東京大学法学部図書館所蔵の取締役所持と思われる『浪士姓名簿』に)とあるので、逆算すると石坂周造と同じ天保3年の生まれであったこととなる。これは、俊五郎が明治34年に没した時の年齢が68歳であったことからも立証される。

 

その生地は、徳島藩領の阿波国美馬郡貞光村(徳島県美馬郡つるぎ町貞光)である。この貞光村は『日本歴史地名体系』37によれば、吉野川の右岸(南岸)に位置し、その吉野川に貞光川が合流した貞光川左岸に町場が形成された谷口集落である。『蜂須賀治世記』に「少し江町有り、然とも百姓町也」と記され、地内西浦には徳島藩代官所(貞光代官所)が置かれていたという。

 

また、『角川日本地名大事典』36によれば、美馬郡貞光村は「幕末期と推定される美馬郡村高其地控帳(新編美馬郡郷土誌)では家数587、人数2684。米、麦、藍、煙草などが主作物で、特産物に養蜂による蜂蜜があり、近郷山村の産物等や生活必需品を商う在郷町として発展した地であるという。俊五郎はこの地の農民の子(後出資料)として生まれている。なお、浪士組で俊五郎の6番組に属した剣客柏尾右馬之助もこの地の出身者であった。

 

俊五郎の同胞についても定かでないが、後出する資料で弟と甥の存在(いずれも名は不明)が確認できる。実家の農業は兄が継いでいたのではないかと思われる。俊五郎の前職については、徳島新聞に連載された「笑いのふくろ」(横山春陽文)に、「もとは徳島の大工だった」とあるという。俊五郎は指物(板を組み立てて作る家具や器具)を作るのが上手で、彼の作った掛幅を蔵する桐箱などは神品で、清河八郎の実家の斉藤家には、その俊五郎が贈った炯火鉢があったと、清河八郎記念館発行の『むすび』第109号にある。維新後には徳川宗家等へもその製作品を納めている事実が認められる。

 

俊五郎は体重が20(75kg)余りあって、大柄の人だったという。『石坂翁小伝』に、「是れ(俊五郎)は身体も大きく如何にも豪勇らしい」人物であったとある。また、同じ石坂周造が明治3310月の史談会で、「(俊五郎は)骨相といへ人物といへ随分面白い男でございました。それを宿に泊めて置きまして段々試しますると尋常一様の剣客ではございます(いませんヵ)」と語っている。文久元年に虎尾の会の事件で幕府が出した手配書には、「阿波出生の由、村上俊五郎、歳三十余、太り候方、顔丸く、色赤く、眼長く、眉毛濃く」とある。

 

また、俊五郎は阿波の人形浄瑠璃の三味線(太棹)が上手だったが、直情径行の粗暴漢であったとされている。しかし、先の『むすび』第109号に、清川斉藤家に残る清河八郎贈位のための俊五郎自筆の建言書(写し)見るに、その「筆跡は清潔であってしかも遒勁神経がゆきとどいていて実に巧者である云々」とある。晩年は酒に溺れ、身を持ち崩してしまったが、その性格には、外貌やその態度とは異なる繊細なものがあったのかも知れない。

 

俊五郎は剣術が得意で、自ら「文は清河、武は村上」と自賛し、特に居合を得意としたともいう。なお、後出の明治期の資料で、俊五郎が心形刀流伊庭軍兵衛に師事していたことが明らかである。しかし、伊庭家第8代秀業(安政5=1858年死去)の代からの門人だったのか、第9代秀俊の代に入門したのかは不明である。また、俊五郎は長沼流の槍術にも傑出していたという資料もある。

 

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俊五郎がいつ頃江戸に出て、清河八郎と出会ったのかも詳らかではない。清河八郎に対する贈位のため、明治16年に俊五郎が有栖川熾仁親王に上申した建言書に、「政忠不肖ナルモ癸丑、甲寅ノ年ヨリ天下ノ形勢ヲ嘆慨シ、尊攘ノ大義ヲ任トシテ東西ニ奔走縦横シ、東都ニ来ツテ偶山岡鉄太郎、清川八郎(中略)ト相会シ云々」とあるので、ペリー来航による条約調印問題が生じた嘉永6(1853)頃から尊王攘夷活動を行なうようになったらしい。嘉永6年は俊五郎22歳の年である。

 

この建言書の内容からすると、俊五郎は剣術修行ではなく、尊王攘夷活動のために江戸に上って山岡鉄太郎や清河八郎に出会ったらしい。清河八郎との出会いの時期は不明だが、俊五郎が江戸から漫遊の旅に出るに際し、万延元年(10月ヵ)に俊五郎に贈った次のような七言律詩があるから、それ以前に出会ったのである。ちなみに、清河八郎尊王攘夷活動の有効性に目覚めたのは、万延元年3月の桜田門外の変であったというが、俊五郎は武術修行のために清河の文武道場か、お玉が池の玄武館道場に出入りして清河や山岡に出会ったのかも知れない。

 

七尺丈夫三尺剣(七尺の丈夫、三尺の剣)  漫遊到処智勇張(漫遊到る処、智勇を張る)

天下已知日多事(天下已知る、日に多事なるを)  腥膻容易触疆場(腥膻容易に疆場に触る)

多年精神一朝貫(多年の精神一朝に貫く) 殉国英雄須棟梁(殉国の英雄、須く棟梁たるべし)

屈指竊数靖献策(指を屈して竊に数う、靖献の策)  功名誰能伴鷹揚(功名誰か能く鷹揚を伴わん)

 

 この詩からすると、俊五郎の遊歴は武者修行だけでなく尊攘の同志糾合を兼ねたものだったのかも知れない。なお、俊五郎は「下総佐原においてよき後援者を得て道場を開いていた」(小山松勝一郎『清河八郎』等)とするものがあるが、清河八郎の『潜中始末』に「佐原の近きに同志なる村上俊五郎の剣術修行に在らるるを訪う」とある。

 

また、前稿「石坂周造について」でもふれたが、俊五郎が下総神崎の石坂周造家を訪ねて、そこに23カ月(文久元年1月時点で)も滞在していたとあることからも、佐原に道場を開いたいうのは、誤りではないかと思われる。なお、俊五郎が一介の医師石坂周造家をなぜ訪ね、長くそこに留まっていたのかは不明である。

 

 石坂周造が俊五郎を介して、清河八郎と同志となった経緯も前稿で詳記した。なお、石坂の明治3311月の史談会での談話には、「(自分は潜伏中で出府出来ないので)八郎から此方へ来るならば何時でも面会しようと期う云う約束をしまして、それから村上新五郎は江戸へ帰りまして日を約して清河八郎を同道して下総神崎へ参りまして面会」したとある。

 

しかし、清河八郎の『潜中始末』や『潜中紀事』には、清河は水府の天狗連の動静を探るべく正月27日に一僕を伴って江戸を立ち、「幸佐原の近きに」同志の俊五郎が滞在しているので(『潜中始末』)、「神崎村に至り村上政忠に会ふ。我れを見て悦ぶこと甚し」(『潜中紀事』)と記されていて、これからすると清河と石坂の出会いは、石坂の史談会での証言とは異なっていたのである。

 

 清河と俊五郎、それに清河と一夜にして意気投合した石坂の3人は翌日、水府浪士の動静を探るべく潮来に至ったが、その取るに足らざる実態に失望し、その後清河は江戸に戻り、横浜異人街の焼き討ちを画策した。前稿にも記したが、薩摩の同志伊牟田尚平の清河宛て3月晦日付け書簡に、「総州之二豪傑之宜様御致希候」とあるので、俊五郎と石坂の2人は、当時江戸に出ていたのである。

 

 その年の5月、俊五郎たちは、清河を盟主として尊王攘夷党「虎尾の会」を結成し、89月の間に挙兵して、横浜の異人街を焼き打つことを決定した。しかし、清河たちの動静を探索していた幕府は、同月19日に虎尾の会同志たちの捕縛を命じたのであった(東京都千代田区発行『原胤昭旧蔵資料報告書』)。万八楼での書画会の帰路、酩酊した清河が町人を斬殺したのはその翌日のことであった。この日、俊五郎も清河一行の中にいたのである。

 

 事件翌日の夜、俊五郎は清河、安積五郎、伊牟田尚平と共に江戸を脱出し、武州富村の広福寺に潜伏しようとしたものの、捕吏の執拗な追跡にあい、24日夜4人は奥富村を脱出して再び江戸に潜入した。その後4人は在府同志の様子を探るため、昌平橋河畔の大阪屋(同志笠井伊蔵の叔母の家)で落ち合うことを約して二手に分かれた。

 

しかし、江戸市中の思いの外の厳戒状態に身の危険を感じた俊五郎と伊牟田の2人は、大阪屋で清河たちを待つことなく江戸を脱出した。後に俊五郎と行動を共にした伊牟田尚平は清河に対して、江戸脱出後の行動を次のように語っている(『潜中始末』)

 

  「東都にて我等(清河と安積)と別れしより、処々相尋ね、夫より山岡(鉄太郎)に到り、(大阪屋に立ち寄った後)終に水戸に走る。中川関も恙なくして、神崎村に到るに昨日頃、石坂宗順は召捕へらると云ふ。夫より直ちに水府に入るに、あと付けし者ありしと云ふ。彼書状を以て磯浜古渡理兵衛に到る。折悪しく類焼にて近所の茶店に宿せしむ。()、寛三郎方(安積艮斎塾で清河と同門菊池寛三郎)に到るに、よく受込み、夫より(水戸藩)有志連頭取住谷寅之助方に到るに、始めは疑ひしに説弁の上、大いに相信じ、然らば御世話すべし()、夫より住谷の世話にて、所々にて潜伏いたし云々」

 

住谷寅之助の日記(「住谷信順日記」・東京大学史料編纂所所蔵)文久元年6月朔日の条に、「両人初テ来訪、サツ伊牟田尚平・阿人村上俊五郎」とあって、さらに「右両人ゟ所聞」として、清河ら虎尾の会同志たちの事件後の様子が聞き書きされている。また、最後に「下野呼寄セ相談ノ上磯浜ヘ遣ス」とある。「下野」とは藩校弘道館教授(彰考館編修兼務)で、元治甲子の擾乱に関係して慶応元年(1865)に斬罪となった下野隼次郎である。住谷とは同志であった。

 

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この年(文久元年)8月末、清河八郎が仙台に潜伏していることを知った伊牟田は、1人で仙台に潜行し、清河、安積と共に、関西で挙兵するために京都に上った。清河たちが仙台に潜伏していることを知った俊五郎も、すぐさま駆け付けたが、3人は既に京都に向けて出発した後であった。以後、俊五郎は桜田良佐・敬助父子の世話になっていたが、その後清河たちが京都で挙兵の準備中であることを知り、急ぎ京都へ向け仙台を出立した。

 

その俊五郎が東海道関宿に到った時、寺田屋事件で挙兵に失敗して東帰途中の清河と出会ったのである。この出会いには、清河が伊勢山田の山田大路親彦家に立ち寄った際、俊五郎が清河を追って上洛途上にあることを聞き、清河がすぐさま引き返して関宿で俊五郎に追い付くことができたという経緯があった。

 

清河の『潜中紀事』に、清河が俊五郎に邂逅した時の心境が、「関駅に至るころおい、忽ち俊五郎に遇いて、喜び天外に出づ」とある。また同書には、清河を追って俊五郎が上洛するに至るまでの経緯が、俊五郎の言葉として次のように記されている。

 

「去秋(文久元年秋)、子(清河)の仙台に在るを聞き、忽ち跡を追い至る。既に至れども、子と尚平、五郎と既に已に洛に上るに、三日後る。故を以って遂に仙府の桜田氏に潜むに、頗る慇懃を忝くす。春来、子の書牘至りて、仙府大いに振へり、(中略)将に勤王を以って師を起こさんとす。更に宗之進(戸津氏)、敬助の両士をして啓行して京師の動静を伺はしめんと欲す。僕は則ち挺進先づ至るのみ云々」

 

そのため、俊五郎と清河は京都に入り、仙台藩邸を訪ねたが、戸津、桜田両士は未だ上洛していなかった。その後、俊五郎は大阪で清河から、「足下既に期会に後れ、以て名を為すべからず、足下若し心有らば、倶に與に奸賊島田氏を屠り、以て東行の贐(はなむけ)と為せん」と勧められて、清河と共に再び京都に引き返したのであった。

 

2人は619日夕方、九条家の諸太夫島田左近宅を襲ったものの、島田はいち早く逃走して暗殺は未遂に終わったが、襲撃の証拠とするため島田左近の刀を奪って出京した。2人は同月22日和歌山に出て高野山に上り、吉野を巡って、29日伊勢山田大路親彦家を訪ね(俊五郎も清河も上洛時にも立ち寄っている)、ここに10日間留まっている。

 

翌月10日船で吉田に到り、駿府に留まること4日、同月20日に2人は富士山に登って3合目に宿泊し、翌早朝山頂に至って鮮麗な御来光を仰いでいる。その後の2人の足取りは『潜中紀事』等に詳しいので紙幅の関係で省略する。

 

824日江戸に潜入したものの、指名手配中の2人はそこに長く留まることはできず、27日に水戸を目指した。結城から野田を経て、まず那珂郡上小瀬村の庄屋井樋政之允を訪ねている。『潜中紀事』に、「里正井樋政之允を訪ぬ、村上政忠嘗って潜みし所なり、厚く政忠を潜ましめ、相去ると雖ども猶ほ能く之を思慕す」とある。俊五郎を思慕したというからには、俊五郎には人に好感を与える何かがあったのである。2人は漁猟をするなどして井樋家には7日間滞在している。

 

この井樋家滞在中、清河は俊五郎に、仙台の有志と結んで横浜の夷虜を打ち払い、天下の義気を激動する策を提案したところ、俊五郎は奮い立って、「固より願ふ所なるのみ、唯だ夫れ府下の有志、屡禍変に困しむ、外に奮ふと雖ども、内に猶ほ姑息を抱き、相応ずる所以に非ざるなり。若かし、此の間義民を募るに更に金孫(金子孫二郎)の遺子勇次郎なる者を勧め、則ち義民に足すのみ」、と応じたと『潜中紀事』にある。

 

俊五郎は無学な粗暴漢のように扱われているが、現状に対する情勢判断とその打開方針も抱懐していたらしい。この後、清河は幕府に浪士徴募の献策を決意し、同月末には「幕府の執事に上る書」を作成して幕閣に上申している。その後の浪士徴募に際しても、主に義民の募集が中心となっている事実を考えると、浪士組の結成過程で、俊五郎の構想が清河八郎に何ほどかの影響を与えていたのかも知れない。

 

814日、水戸城下を発足する2人を住谷寅之助が送って共に祝町の相模屋彦兵衛方に泊まっている。その翌日早朝に、江口忠八という人物が2人を訪ねて来たことが、『潜中紀事』に次のように記されている。

 

 「寅の刻(午前4時頃)、江口忠八忽ち来たる。尋ぬる者小野村の義民にて、嘗つて佐野竹之助を潜せし者なり。眞風(伊牟田尚平)、政忠等、皆な之れ潜ましめ、頗る我が党の者を欽慕す。故に夜を犯して来訪するなり。夫れ誠実の気言面に見はれ、覚えず感涙を促す云々」

 

この江口忠八と清河は初対面で、俊五郎がかつて世話になった人である。先の井樋政之允といい、この江口忠八といい、俊五郎に対する欽慕の念には相当なものがあったのだろう。『水戸藩死事録』に、江口忠八に関して「茨城郡下大野村農、慶応元年正月二日死ス、年四十二。一ニ飯野ニ病死ス」とのみ記されている。まさに、江口忠八は俊五郎がいう「義民」の1人だったのである。

 

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俊五郎と清河八郎820日仙台に向けて水戸を出発し、河原村の潮湯で清河は幕閣への上書を書き上げ、同月24日田尻浜の空窪寺に至ってこれを住谷寅之助に送った。

なお、『潜中紀事』に、空窪寺について「伊牟田眞風、来たり潜む所なり」とあり、伊牟田が1人で仙台の清河を訪ねている事実からも(前記)、水戸に潜伏当時の俊五郎と伊牟田は、別行動をとっていて、お互いの所在は知らなかったらしい。俊五郎はこの空窪寺滞在中に、清河八郎の父斉藤治兵衛に宛てて、次のような書簡を送っている。

 

「一翰呈上仕候。秋冷相増候得共、先以其御地御家様、益々御勇健被為入、恐悦至極奉存候。先年は罷出種々御馳走相成、千萬忝奉多謝候。近頃御心配之儀奉察入候、且御賢息様此度之儀者、天下之大功相勤、諸国え高名発、実にお手柄之御事に候。御身上者野拙守護仕、何方迄も同道致、一死を共に可仕心底に而御座候。此段御安意可被下候。将又此度処々徘徊仕、同志之輩にも会合致、実否承候処、御府内之運(連ヵ)中、近々赦免之風説有之候。御安堵被下御待可被成候。且此廉品御笑納可被下候得者忝奉存候。先者差急大略失敬、平に御緩免可被下候、恐惶謹言。

 閏八月廿四日出        村上俊五郎政忠   斎藤治兵衛様

 

 この書簡は、短い文章の中に必要事項を簡明に記していて、俊五郎が決して無学目盲の徒でなかったことが明らかである。また、子を気遣う親の心に共感して安心させようとする配慮もあり、意外に繊細な心の持主だったのかも知れない。なお、この書簡で、俊五郎は仙台に潜伏中に、清河八郎の生家を訪ねていたことも確認できる。

 

 また、手紙を添えて送った「廉品」は、恐らく俊五郎製作の品と思われる。ちなみに、翌月10日に清河が父斎藤治兵衛に宛てた書中にも、「爐壹ツ差上候、此は村上のこしらへ候品、誠に上手也」とある。その品は清河も絶賛するほどの出来栄えだったのである。この清河の書簡にはさらに、「村上は京師より始終同道に及び候間、猶更丈夫也」とも記されている。

 

 俊五郎たちは閏826日に空窪寺を出立し、相馬中村等を経て97日仙台に入った。

桜田家を訪ねた後、2人は清河の郷里の様子を探るため、大友某を伴って同月10日に陸奥と出羽の国境に近い川渡温泉に至って、ここで様子を探りに出た大友某の帰るのを待つこととなったのである。

 

しかし、『潜中紀事』に、「川渡に在ること五日、村上先づ仙城に反る。蓋し彼れ俗了にして、無聊に堪へざるならん」とあって、俗化して風流を解さない俊五郎は退屈に耐えられず、清河を1人残して仙台に帰ってしまったのである。

 

 その後、清河八郎は同月27日に仙台に戻ったと『潜中紀事』にある。その記事に「廿七日、敬助漸く至り、相伴はれ仙城に至る。此の時に至り、山岡氏もまた至る。稍東都の情勢を詳らかにし云々」とあって、清河が仙台に戻った前後に山岡鉄太郎が仙台を訪れ、江戸表の情勢を清河に伝えたというのである。

 

 余談になるが、この山岡鉄太郎が仙台を訪れたという『潜中紀事』の記述には疑問がある。というのも、『住谷信順日記』の925日条に、「間埼(哲馬)ゟ所聞」として「昨廿四日山岡来り話のよし云々」とあり、また翌26日にも「過刻山岡来ル云々」とあること。ちなみに、当時の住谷寅之助は江戸に滞在中であった。

 

そしてなによりも、104日付け山岡鉄太郎の清河宛て書中に、「先月下旬熊池石とも出獄云々」とあるほか、「此の書状、仙水に一通づつ差し出し候」と記されていることである。山岡は104日時点で清河の所在が確定できないため、この手紙を仙台と水戸の両方に送っているのである。

 

清河は107日仙台を後にした。『潜中紀事』に「仙城を辞す。更に俊五郎をして我が書を携へ、遠野の江田大之進に至り、姑らく之に潜み、以て動静を待たしむ」とある。なぜか俊五郎は清河と同道しなかったのである。俊五郎が世話になった江田大之進とは、名を重威といい、南部盛岡藩支藩である遠野藩の藩校信威堂教授で、清河とは安積艮斎塾の同門であった。

 

清河八郎は、1人水戸に入り、その後江戸に上っている。この清河と山岡鉄太郎の大赦(同志の出獄)と浪士組の結成に至るまでの努力は、「浪士組発起と松平忠敏辞任に関する私論」等でふれているので、ここでは省略する。

 

  • 以下は次回とします。なお、この稿は次回を含め、以後3回に分けての掲載となる予定です。

 

15の2 石坂周造について(2)

 

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石坂周造は、下獄後5年近くを経た慶応4(1868)315日に出獄し、かつての同志山岡鉄舟(鉄太郎)に預けられたという。その出獄は、山岡が徳川家軍事取扱勝海舟に交渉して実現したらしい。山岡鉄舟は石坂放免の前月、精鋭隊頭歩兵頭挌に任ぜられ、前将軍徳川慶喜の内命を受けて、静岡の東征大総督府参謀西郷隆盛と会見し、この月13日の勝海舟西郷隆盛の会談を実現させていた。翌14日の2人の2度目の会談で、同日に予定されていた官軍による江戸城総攻撃が回避されことは周知の事実である。山岡はこの後作事奉行挌大目付、さらに若年寄挌幹事役、翌明治2年には静岡県権大参事と栄進している。

 

出牢後の石坂はその山岡家に寄留し、後に市在取締頭取に任ぜられたという。勝海舟の日記(『海舟日記』)の慶応4425日の条に、「山岡来る。市中取り締り、石坂、村上の事相談」とあり、翌閏43日の条に「石坂云う、明日より市中廻り致すべしと云う。此事は田安へ罷り出て、惣督府へ伺い然るべくと答う」とあるから、その就任はこの頃のことだったのだろう。

 

石坂は明治3311月の史談会で、「関東の取締を命ずると云う、斯う云う御沙汰であった」と語っており、職務の実質は専ら脱走旧幕兵の鎮撫であったらしい。また、石坂は同じ史談会で、「(幕臣)徳川の兵器を盗んで官軍に抵抗して歩くと云うのは、決して慶喜が謹慎しても謹慎が立たぬ、これを鎮撫せぬければ道理が立たぬと云って勝や山岡に云ったけれども、それは如何にも尤もだけれども、如何せん是丈け人数があってそういうことの遣り手がないということ」だったので、自分がそれを引き受けて、西郷隆盛の了解を得て鎮撫に奔走した、と語っている。脱走兵士の鎮撫は石坂自身の提案だったというのである。

 

『海舟日記』の46日の条に、「石坂周造来る。西郷へ行く趣申し聞る」とあるので、石坂はこの日西郷の同意を得るため、自ら総督府の西郷を訪ねたらしい。なお『海舟日記』の同月8日の条には、「河内武彦へ村上、石坂已下生活料百両渡す」とあるので、当時の石坂たちの生活は、勝海舟に支えられていたのである。「村上」とあるのは村上俊五郎のことである。

 

石坂の脱走旧幕臣鎮撫の手始めは、下総国下妻に屯集する純義、貫義、誠忠隊等諸隊の説得であった。『会津戊辰戦史』に、石坂の下妻での脱兵説得の事実が次のように記されている。

 

「幕人石坂周蔵は勝安房の使命を帯び江戸より下妻に来り。兵を収めて江戸に帰らんこ

とを勧む。将士多くは之に応ずる者あらず。単り誠忠隊長山中孝司及び其の敗残の兵士意

気沮喪し遂に之に応ず。周蔵使命を全うすること能はざるを遺憾とし、別るゝに臨み詩を

賦して懐を述べ、之を朗吟し扇を執って舞ひ而して去る。純義隊等の諸隊は其の後宇都宮

に行き大鳥軍に投ず」

 

石坂は先の史談会で、「常野では随分骨を折りました、そうして鎮静致しました云々」と語っているが、石坂の説得で帰府したのは誠忠隊のみだったのである。なお『会津戊辰戦史』によれば、420日、関宿の東南2里半の岩井駅に在った純義、誠忠等の諸隊は、関宿滞陣中の西軍と岩井から1里ばかりの所で衝突したが、破れて東北4里ばかりの下妻に退却したという。石坂が下妻陣中を訪れたのはこの頃のことだったのだろう。それにしても、陣中を去るに際し、詩を賦して舞い踊ったといのだから、芝居がかっている。

 

この際のことと思われるが、館林藩士塩谷良翰の回顧録(『塩谷良翰懐古録』)に、石坂に関する次のような逸話が記されている。下妻への往路か帰路のことだったのだろう。

 

「戊辰四月日不覚二本松藩士の荷物を石坂周蔵(原注・長人ヵ)栗橋にて差押へ問屋へ預け置たる物品悉皆焼却取計方を参謀祖式金八郎より館林藩へ命せられ、藩は右焼却方を甲介(塩谷良翰)へ命したれは、栗橋へ出張荷物問屋取調候処、右は全く二本松藩士国元へ引移りの勝手道具にて兵器には無之、箪笥等は官軍大方打破り目星しき衣類は皆持去りたり云々」

 

戦時とはいえ、二本松藩はまだ官軍に反旗を翻していない時期である。その二本松藩士の家財道具や衣類まで、理不尽に差し押さえてしまったというのである。

 

次いで石坂が活躍したのは、上総請西藩主林昌之助主従や旧幕臣伊庭八郎、人見勝太郎(後に総称して「遊撃隊」といった)らの説得であった。『海舟日記』閏416日条に、「山岡鉄太郎、石坂周造、小田原へ遊撃隊その他屯集説得として行きしと云う」とあり、葛生能久著『高士山岡鉄太郎』に載る山岡の官歴に「大総督宮参謀より内命有之、相州箱根の脱兵鎮撫に罷越候事」とある。

 

林昌之助たちは箱根の関門を占拠し、大鳥圭介軍等と江戸の官軍を包囲殲滅しようと、去る閏43日に請西藩真武根陣屋を出陣し、当時は御殿場に滞陣中であった。林昌之助の日記『一夢林翁戊辰出陣日記』の閏418日条に、「田安中納言ノ命ヲ以大監察山岡鉄太郎来リテ兵ヲ収メン事ヲ説諭ス。種々議論ノ上左ノ上表(中略)ヲ託シ総督府ニ差出サン事ヲ以来シ全軍甲府ニ到十日ヲ限リテ再命ヲ待ツ事ヲ約ス」とある。

 

ここに石坂の名はないが、明治343月の史談会で、石坂が「最初は山岡鉄太郎が正使となり自分は副使となって沼津表に出て参りました」といっているから、交渉中山岡の隣には石坂が同座していたのだろう。

 

その後山岡から遊撃隊側への連絡がなかったらしく、林昌之助の日記によれば、参謀吉田柳助(請西藩士)が決死江戸の山岡鉄舟宅を訪ねたが、要領を得ないまま戻って来たとある。遊撃隊側の上表の内容に、受け容れることの出来ない事項があったのかも知れない。

 

                  七

 

山岡鉄舟が御殿場の遊撃隊陣営を去ってから暫くして、今度は石坂と水沢主水が黒駒の遊撃隊(ここで全軍を遊撃隊と命名)陣営を訪れている。明治343月の史談会で石坂は、「自分と山岡が一度帰えりまして、夫れから大総督府へ伺ました所が兎に角も水野出羽守へ皆預けるようにせい、斯くいう御沙汰を蒙って再び今度は自分が正使となって参りました」と証言している。

 

このことについては、請西藩軍事掛檜山省吾の日記(「慶応戊辰戦争日記」)の閏426

日条に、「田安殿御使水沢文蔵来る。参謀以下密事を不知」とあり、翌27日条には次のような記述がある。長くなるが左に転載する。

 

(慶応4年閏427)田安殿御使石坂周蔵金百両を携へ来たり、兵士結髪の料と云て進めんと云ふ。大野友弥か対面して日く、田安殿より給ふ所に候か、又は何れの御人より送り給ふやと問ふ。石坂日、田安殿よりの給物なり頂戴ありて苦しかるまじと。大野辞して日く、主人昌之助御届不仕、国元出立にて彼是御配意恐縮の至り、其上斯く御送物にて猶更恐入る処なり、国元出立の節、聊かの用意もあり、其余の金幣貯ふるの倉庫なしと、断然として言い放つ、懸河の弁者と聞きたる石坂周蔵少しく赤面の体にて退出なせり。省吾側にて是を聞き思うに、田安殿は旧幕府の天下後見職として世に聞へし十万石の太守たり、何ぞ三軍に恵むに百両金を送るべきや、石坂は素奸者故途中にて窃取せしを大野知りて受けざるかと後に聞く、果たして田安侯より一千金御下げありしと。右取扱いの御徒士目付、省吾へ物語りせし者あり」

 

石坂は「素奸者」(浅学にして正確な意味は不明だが、邪とか悪賢い人の意か)で、田安家から遊撃隊に下賜された1,000両の内900両を横取りしたというのである。事実の真偽は不明だが、石坂は従前から遊撃隊士側に快く思われていなかったらしい。なお、田安家の下賜金の話とは異なるが、金銭に絡んだ話は石坂自身が明治343月の史談会で、次のように語っている(一部要約)

 

黒駒で石坂の説諭に服した遊撃隊士350(実際は270)を沼津まで連れて行くのに金がない。そこで甲府郡代の中山誠之進に交渉した結果、「中山郡代より金を受け取りまして、そうして沼津に三百五十人を引張って参りました」。そしてさらに、沼津藩は小藩なので350

人を預かるのは難儀であるため、江川代官所の柏木總蔵と交渉したところ、「私の方では費用はどのようにでも才覚しましょう」、と了解を得られたという。

 

甲府郡代や江川代官所から金を出させた時期が、石坂の話の通りだとすると、この事実についても疑問がある。それは、林昌之助の日記の5月朔日の条に、「水沢文助、石坂周蔵等会議之上沼津ニ引取猶十日ヲ期シテ後命ヲ待ツニ決ス、夜ニ入再下黒駒ニ帰ス」とあり、人見寧(勝太郎)が明治344月の史談会で、自分たちは「韮崎を経て信州三州地から尾州へ参る考えでござりましたが、其際石坂君の陳述致しました如く不日徳川氏の御処分も定まる少し待って居ては如何と云う事で」、種々議論の末に香貫村に宿営することになった、と語っている。

 

遊撃隊が甲府への進軍を断念したのは51日で、一行が沼津香貫村へ向かったのは翌2日である。石坂が甲府郡代と遊撃隊の行軍費用を交渉する時間があったとは考えにくい。また、林昌之助や檜山省吾の日記等に、先の田安家からの結髪料(これ以前の話だが)以外の行軍費用等に関する記述も見当たらない。満を持して出陣した遊撃隊に行軍費用がないという話も眉唾である。あるいは、石坂は行軍費用以外の理由で甲府郡代から金を引き出していたのかも知れない。

 

なお、遊撃隊はこの後、人見勝太郎の抜け駆けにより、箱根の関門を守衛する小田原藩兵と同月19日に開戦。これに官軍も加わったために遊撃隊は26日の戦いに大敗を喫し、その後は奥羽列藩軍に加わり、その一部は函館に渡って戦い続けることになる。

 

これは全くの余談だが、箱根関門の戦いで重傷を負い、函館の戦いで戦死した伊庭八郎について、先の檜山省吾の『慶応戊辰戦争日記』閏427日条に、「黒駒宿、陣中は毎夜伊庭八郎の策にて、一小隊を出し、間道を巡り、甲府城外を巡邏し、鯨波の声を上げては帰る。城中にては夜襲来れりとて其用意あるに斯様なこと已に十夜、甲府城にては昼夜眠らざるよし」とある。また、翌月26日の箱根関門の敗戦時の日記には、「先鋒隊長伊庭八郎能く戦ふと雖も、身金石にあらず数ヶ所の深手を負い、兵士のために助けられ本営へ引上げ云々」、と記されている。

 

                 八

 

石坂周造の次の任務は関東各地の暴徒の鎮圧が主な仕事であったらしい。もっとも、この任務の決定以前に、石坂は会津藩の帰服のため自分を遣わすよう、総督府に嘆願したことがあったと先の史談会(明治3311)で語っている。

 

それによれば石坂は、「飽まで正義を以て彼を服従させます。若し聞かぬ時には近寄って私が差違えて死にます。一人差違えたなら之で平定する見込みですから、どうぞやって呉れと請願したところ、肥後藩の津田三三郎を同道することで許されたが、「其沙汰が変更しまして今常野の間に博徒が蜂起して如何とも事情を知らぬと過を出来すから其許は関東の様子のことは分って居るから会津の方は止めて関東の取り締まりを」命ぜられたのだという。

 

なお、石坂の会津藩()謀殺計画が中止された理由は、弾正台で「石坂を会津に遣ると云うのは甚だ訝しい話で、既に彼の手下の者(新徴組をいう)が今庄内にあるではないか、彼が為に苦しめられて居る彼を遣れば即ち薪を添えて火を盛んにする様なものである」とのことであったとう。(明治3311月の史談会での石坂談話)

 

石坂の関東取締りに関連して、旧前橋藩士大藤彬編輯の「橋藩私史」(『上毛及上毛人』収載)に次のような逸話が記されている。

 

(慶応48)二十九日判事横川源蔵巡察として前橋に来り本庁に宿す、翌日登城して公に面謁し、維新の主意を陳述し余雑談に及ぶ、此の時附属兵の隊長石坂周造、其の他監察山本一郎、勘定方菊名仙太郎等数人共に本城に入る、退城の砌、門衛の卒之を誰何す、答ふるなし、本陣に還り之を咎め云ふ、門衛の無禮畢竟勤王の心疎なるに因る、兵馬を向て其の罪を糺さんと、馬淵又六其間に居て慰諭し事漸く治る」

 

虎の威を借る狐よろしく、尊王に名を借りた勝者の横暴といえよう。門衛の態度に怒りを発したのが石坂だとは特定できないが、この時、石坂は巡察吏の附属隊の隊長であった。

 

この関東各地の巡察に関して、石坂は先の史談会で「其節は二週間にして百五十名ばかりの博徒を其中の頭になった者十一人というものを所成敗に行いました」と語っている。一説に斬殺した人数は13人ともいう。

 

ちなみに、真下菊五郎著『明治戊辰梁田戦蹟史』に収められた、維新当時の体験談を語った羽生町(現埼玉県羽生市)の松本保太郎という人の話に、「官軍のこの宿へ乗り込みは三月十日でしたが、(中略)この時字和泉村付近の者が放火を始めた。(中略)困って巡邏中の官軍さんに頼んだ、(中略)羽生の宿は静まったが、近在は放火するものが、あちらこちらにも出来て、夜通しやっていたが、幸手の方へ行ってしまった。其の後石坂周三といふ方が後に廻って来て、この打壊しの仲間へ入ったもの五六人を殺した」とある。

 

この事件は、310日の官軍による羽生陣屋の焼き払い事件を契機に、陣屋建設の御用金等で苦しめられた農民たちの蜂起に端を発し、その後周辺各地に広がった打壊し騒動であった(百姓一揆事典』等)。この暴動は忍藩や官軍によって315日には鎮圧されていた。石坂は、事件から半年近く後に羽生宿を訪れて、事件に関わった者を探し出して処断したのだろうか。

 

石坂はこの暴徒鎮圧後に再び投獄されている。このことに関して石坂は、やはり先の史談会の席上で「常野では随分骨を折りました、そうして鎮静致しましたが豈計らんや関処金科料金を同国の窮民に施したというのが私用したというので妙な嫌疑を受けまして(中略)丁度一年半復た獄に繋がれました」(一部重複)、と語っている。没収品を売却して窮民に施したのが越権とされたというのである。

 

                 九

 

石坂周造は明治3(1870)に出獄した。『海舟日記』同年424日条に「石坂周三」と、名のみ記されているので、石坂はこの頃出牢したらしい。この年、石坂は高橋泥舟の妹桂子(山岡鉄舟の妻の妹)と再婚し、山岡家に同居したという。石坂の前妻の去就は不明だが、前妻との子の宗之助は後に鉄舟の長女松子の婿養子になっている。

 

出獄後の石坂は事業家としての道を選んだが、その理由について明治3311月の史談会で、「遂に青天白日になりまして、到底自分の様な単才な者が当路にあって政務を預かるべきものではない。是より一つ民間に落ちて国産を開いて富国強兵の策を取るのが宜いと云う決心で石油を始めた」と語っている。ここには石油とあるが、まず石坂が始めたのは捕鯨であった。これには「平時は産業で国家に貢献し、有事には捕鯨船を軍事に役立てる』との構想があったという。

 

しかし、翌明治4年には捕鯨事業は断念し、石坂がその後の半生を賭けることとなった石油採掘事業を起業している。これ以後に関しては、手持ち資料も少なく、また『石坂周造研究』等に詳しく記されているので、若干の事実の紹介と概略のみを記すに止めたい。

 

明治4年、石坂は長野県真光村(善光寺近く)で始めた採掘事業を皮切りに、翌年には静岡県相良に進出する等、各地で掘削を試みたが、いずれも成功には至らなかった。同7年には米国の油業視察中に、相良油田が薩摩の海江田信義の手に渡ってしまったり(後に取り戻した)、同11年には破産宣告を受けるなど、幾多の試練に打ちのめされている。しかし、石坂の不屈の精神は怯むことがなかった。同33年に新潟県の西山(鎌田油田)で噴油に成功し、石油王とまで呼ばれた。石坂は「石油」の名付け親ともいう。

 

なお石坂は石油採掘事業以外にも様々な事業に関わったらしい。先に触れた『海舟日記』に石坂の名を見るのは僅かだが、明治7年に限っては比較的その動向が窺えるので、一瞥してみよう。その611日条に、「石坂周造、遠州秋葉山材木の事申聞く」とあり、同月19日条には「石坂周造、遠州の山御買上げのこと申し聞く」とある。また、翌々月4日には「石坂周造、英商同道、逢断申し聞る」とある。英国商人が関与する商売のことだったのだろうが、勝は警戒して逢わなかったらしい。

 

更に翌99日条には、「石坂頼みにつき後藤へ金子の事に付き一封認め遣わす」とあ。この件に関係するのだろうか、勝の「戊辰以来会計荒増」(勝海舟全集』)の同月19日条に、「三百円、水野全。是は、田安殿、石坂周造ニ欺かれ、蓬莱社より三万円御借の事、大困難ニ至り、同人御暇、難渋ニ付」と記されている。詳細は不明だが、石坂が田安家を騙して蓬莱社から大金を借りたというのだから、忌々しき事実である。

 

しかし、勝海舟の日記の同月24日条に、「石坂より証書返却の旨申し聞く」とある。これ以後、勝海舟の日記から石坂の名は長く姿を消す。

 

佐倉藩士依田学海の日記(『学海日録』)の明治33918日条に、「光岳寺の住持勇海かへり来りて、(中略)この頃石坂周造と議し、上野国吾妻郡の大湯という温泉をこの地まで引く(鉄管で7)べき計画あり云々」と。これ以外にも、管見ながら千葉県手賀沼の埋め立ての目論見や、伊勢神宮の参詣路に当る宮川に鉄橋を架ける事業計画などが確認できる。

 

なお、石坂の事業による借財の多くは、山岡鉄太郎が負ったらしい。そのため山岡は死ぬまでこの借財に苦しめられたという。このことが先の澤田謙著『山岡鐵舟』にも詳述されている。

 

それによれば、石坂の石油採掘事業で山岡は25万円の借財を負い、宮内省の月給350円のうち250円を10数年間差し押さえられたという。これとは別に、石坂は再び事業に失敗し、この時の高利貸しからの1万円の借金を山岡が背負うこととなったため、これを見兼ねた勝海舟が、固辞する山岡を説得して徳川家から恩借金を受けさせ(毎月25円づつ返納)、高利貸しからの借金の返済に当てたという。

 

山岡家にそうした甚大な迷惑をかけながらも、石坂は大きな顔をして山岡家に出入りしていたらしい。山岡の門人たちはその図々しさに憤慨し、石坂と義絶するよう懇請したが、山岡は「石坂というのは、おれを倒さなきゃ、誰かを代わりに倒す男だよ。まあ、俺だったからよかったのさ。おかげで、誰かほかの人が助かっている。若し俺が石坂を突っ放したら、あいつそれこそ何をしでかすかわからん。一家のことは、お互いに我慢すればすむことだ。云々」と言ったという。義妹の夫とはいえ、常人には理解しがたい心事である。

 

石坂は明治365月、その波乱に富んだ生涯を閉じた。享年72。その墓は、谷中全生庵山岡鉄舟の墓の傍らにある。

 

追記

 清河八郎記念館発行の『むすび第107号』に、昭和59日発行の朝日新聞に掲載された志士石坂周造(文久3年上洛時の撮影とある)の写真が載っている。これは石坂の息子完之助が養子となった山岡鉄舟の長女松子が所蔵していたものだという。単座した左手に大刀を垂直に立てて持ったその写真の石坂は、よく知られる恰幅のいい姿とは全くの別人で、痩身にして、総髪を後ろで束ねた(或は丸刈り)面長の相貌は、額が広く、写真のせいか眼孔がやや窪み頬もこけている。ちなみに、身長は57寸あったという。

 

15の1 石坂周造について(1)

 

 

              一

 

石坂周造に関しては、手元でも前川周治氏の『石坂周造研究』、真島節朗著『浪士石油を掘る』と松本健一著『「高級な日本人」の生き方』の中の一編「明治の石油王」が確認でき、その人物像は比較的広く知られている。そこで本稿では、主にこれらに記されていないと思われる事実を中心に、手元の若干の資料でこの人物の一端を明らかにしておきたい。

 

石坂周造の幼名は源蔵、名は信則、周造は通称で、霞山と号した。後年は石油斎の別号を用いている。その出自については、清河八郎の「鹿島の道行」に「医生(石坂周造・括弧内は筆者の注記。以下も原注とない限り同様)は、もと彦根藩士なりしに15歳のとき故ありて朋友一両輩を切害いたし、みずからも切腹せしに、そのほどに至らめとて、医療を加え給わるに、平癒ののち国を立ち退き、医と身を化し、諸国遊歴せしに云々」と記されていて、清河八郎と初対面の当時(文久元年=1861)は、彦根藩の浪人と名乗っていたらしい。

 

このことは、水戸藩住谷寅之助(信順)の日記(『住谷信順日記』)文久元年6月朔日の条にも、この日来訪した薩摩の伊牟田尚平と阿波の村上俊五郎から聞いたらしく、「五月廿四日方就囚、彦根、石坂宗順」と記されていることでも明らかである。

 

 しかし、その翌々年(文久3)、幕府徴募の浪士組の名簿(東京大学法学部図書室所蔵の「浪士姓名簿」)には、その出身地が「府内産」とあり、毛利家文庫所蔵の「新徴組人名移動詳細」等の浪士組士の名簿にも「府内浪人」と記されている。

 

明治31(1898)発行の石坂自身の経歴講演筆記である「石坂翁小伝」には、「私は天保三年辰の正月元日に両国山伏井戸石坂宗哲の屋敷に生まれましたので、私が母(妾であったか召使女であったかは不明とある)は分娩後死亡致しました。(中略)分娩後立川宗達といふ則石坂の門人の所へ養子同様に先づ引取って世話を致しました。其中に今日では苗字が御座いますが渡辺彦右衛門と云ふ所の里へやられまして、夫から十一歳の時に又石坂に帰りまして、サウして其石坂の塾に育ちました」とある。文久3年以降は、前言を翻して自らの出自をそう語っていたのだろう。

 

 もっとも、この「彦根浪人」も『府内浪人』も石坂の詐称であったことは、『下水内郡誌』や前川周治氏の調査研究(『石坂周造研究』)で明らかにされている。それらによれば、石坂周造は天保3(1832)信濃国下水内郡岡山村字桑名川(長野県飯山市)の組頭渡辺彦右衛門の次男として生まれている。先の史談会で石坂が、11歳まで渡辺彦右衛門に預けられていた、との談話は偽証に対する潜在的呵責によるものだったのかもしれない。

 

 『下水内郡誌』等によれば、石坂は6歳のときに飯山町の英岩寺の徒弟となって天海と命名され、11歳のとき師僧と共に五荷(太田村)の高源寺に移った。しかし、天海少年は「一を聴いて十を悟るの聰明さの半面、腕白を以て知られ、そんなことから村民から逐われ(17歳の時という)、江戸に出て町医立川宗達に雇われ、石坂氏の養子」になったという。また、村()を追放された理由は、悪ふざけから覆面抜刀して師僧を驚かせたことによるという。

 

 石坂周造が「石坂氏」の養子となったという点について、前川周治氏は『石坂周造研究』の中で、「天保末年ごろ致仕して七十歳で死亡したといわれる宗哲は、(中略)源蔵出府の嘉永元年には在世していなかったと考えられる」として、当時宗哲の実子宗徑(その子は宗琇)があったので、「源蔵の入籍を事実としても」、宗哲の嫡出外の女性との縁組で分家したのではないかと推定され、宗哲は既に死亡していたと断定されている。

 

しかし、文久元年、石坂が虎尾の会の事件に関係して下獄した際、下総神崎の宿屋真壁屋彦兵衛がその筋に届け出た書付(文久25晦日付・『神埼町史史料編』)に、以前、彦兵衛が石坂に医術の師匠は誰かと聞いたところ、「江戸両国山伏井戸石坂宗哲と申者之由申之私父藤蔵も去三ヶ年前未八月宗順認候書面持参、出府相尋、宗哲申聞候ニ者、厚()せ話いたし呉候様頼ニ付、一先安心仕云々」と記されている。これによれば、石坂は安政68月、出府する真壁屋彦兵衛の父藤蔵に石坂宗哲宛ての手紙を託しているのである。

 

 ちなみに、『続徳川実紀』の嘉永6(1853)616日の条に、「寄合医石坂宗哲奥詰となる」とあり、明治33月作成の「静岡藩職員録」にも、「無級看病頭」として石坂宗哲の名が確認できる。また、鹿島萬兵衛の『江戸の夕栄』に、幕末の幕府御抱え医師を列記した中に「奥御鍼治、御番料百俵」として石坂宗哲の名が記されている。前川氏が想定された石坂宗哲は、シーボルトに乞われて鍼の実技を披露した法眼石坂宗哲(永教・幕府奥医師天保1211月没)で、石坂周造の師の宗哲はこの石坂永教の跡を嗣いだ人ではないかと思われる。

 

なお、先の真壁屋彦兵衛の届出書に、「聢と(石坂宗順の)生国も不相糺世話いたし置候段重々奉恐入候」とあるので、石坂は真壁屋にも生国は話さず、彦兵衛の父藤蔵が石坂宗哲を訪ねた際もその話は出なかったらしい。しかし宗哲が藤蔵に、石坂を「厚く世話」してくれるよう依頼している事実や、石坂が「石坂姓」と「宗哲」の1字を取って「宗順」(宗哲の許しを得てのことだったとすれば)と名乗っているからには、前川氏が推定するように、石坂の妻女は宗哲に関係ある人だったか、或いは宗哲が門弟としての石坂に対して特別な思いをもっていたのだろう。

 

              二

 

前後するが、そもそも石坂と真壁屋彦兵衛との関わりについては、同じ届書に「私儀高弐石余家内八人暮ニ而農間旅籠屋渡世罷在候所、去四ヶ年前午年十月中、宗順村方江通掛り立寄一泊仕、同人申聞候ニ者、当時同国同郡佐原村ニ借家罷在医業仕居候得共、当村江通ひ二七三八ニ出張治療仕度趣達而相頼候ニ付、佐原村ニ一両年も罷居候儀風聞承り居り、殊ニ妻子四人暮而仔細も有之間敷と(中略)村内真言宗高照寺儀病身ニ而同村師匠永真寺と申江子弟之間柄故同居いたし、明寺同様ニ相成候間、留守居ニ請状差出借院仕罷在云々」、と記されている。

 

 これによれば、石坂は安政3(1856)頃佐原村に借家して医を業とし、安政45年頃神崎村の高照寺に居を移していたらしい。また石坂の「妻子四人」については、先の真壁屋彦兵衛の届出書と同日付けで、神埼本宿の役人惣代三右衛門が関東取締出役に提出した「請書」(神埼町史史料編』)に、石坂には当時「女房べん、男子弐人、書生人壱人」の家族があったと記されている。書生とは内弟子らしい。ちなみに、文久元年5月に虎尾の会の事件に関連して捕縛された佐々木道太郎について、「当分御預所下総国香取郡神崎本宿、高照寺ニ罷在候由申立候」(『藤岡屋日記』)とあるので、書生とあるのはこの人だろうか。

 

なお、石坂の長男宗之助は嘉永53月の生まれだというから、石坂22歳の年である。石坂が寺を放逐(『石坂翁小伝』)されて4年目であり、少なくともその前年の嘉永4(石坂20)には妻帯したと思われる。伝えられる石坂の身の上からすれば余りにも早婚だが、特に寺から放逐されて僅かな年月である。こうした事実を勘案すると、『下水内郡誌』の内容と矛盾するようにも思われるが、これを反証する資料には出会えていない。

 

 『石坂翁小伝』によれば、石坂宗哲に医術を学んでいた石坂は、宗哲の門人で慷慨家の北条玄昌と「此君側の奸(誰かは不明)を除いて、徳川をして朝意を奉載して真の征夷大将軍職掌を為して、ソウして一ツ日本の国威を張ろうじゃないか」と「禁令を忍んで登城先きを要して、身は縦令寸々に斬らるゝとも必ず此君側の奸を除くという決心で」斬奸書を草したが、これが発覚したため、江戸を逃れて京都に上ったとある。

 

米国使節ペリー来航の年(嘉永6)のこととされるので、これが事実なら石坂は長男誕生の翌年妻子を捨てて出奔したことになる。また、安政5年の日米修好通商条約の締結後ならいざ知らず、この時期の要人(幕閣)暗殺計画など寡聞にしてまったくの初耳である。

 

 上京後の石坂は木野古黨の家に潜んだが、数か月後、その家を捕吏に囲まれ、そこを脱出の途中で窮地に陥って腹を切ったが木野古黨に救われ、比叡山で療養後に関東に下ったという。この腹を切ったという事実は、明治3311月の史談会でも石坂はほぼ同様の内容の話をしていて、その場で傷痕を見せたという。切腹のことは、先の清河八郎の『鹿島の道行』にもあり、その時期や経緯はともかく、石坂が腹を切るような窮地に陥った事実はあったのだろう。なお、この話の疑問点等については、『石坂周造研究』に詳しく記されているので、本稿ではこれ以上ふれないこととする。

 

              三

 

 『石坂翁小伝』によれば、叡山で傷を癒した石坂は、その後易者となって中仙道を関東に下ったという。そして途中深谷宿(埼玉県深谷市)で、飴市という宿屋の主人に請われるまま、そこに足を留めていたところ、主人の勧めで飴市の親戚の修験宮本院の養子になることになったとある。深谷宿の飴市という宿屋については未確認だが、石坂が修験宮本院の養子になった話は現熊谷市内の旧村太田村の郷土史(『太田村郷誌』)に次のようにある。

 

 「(石坂周造は)萬延年間ノ人ニシテ出生地詳ナラズ、或ハ云フ長野県ナラント。大字永井太田、当時山伏示現宮本院(原注・現二千二百拾番地萩原げん家)ノ養子トナル。性剛毅ニシテ機智アリ。当時太田明戸両村ノ境界築堤問題ノ紛擾アリシ際、身ヲ挺シ奇策を廻ラシ、村民ヲ率イテ堤防ヲ築キタリシガ、己ムヲ得サル事情起リ遂ニ其ノ目的ヲ達スルコト能ハズ。後年石油製造ヲ発明シ、之ニ関スル著書アリ、是等氏ガ公共事業ニ盡クシテ世人ヲ益シタル功大ナリ」

 

 これが如何なる史料を根拠にしたのかは不明だが、『石坂翁小伝』と附合するものがある。冒頭の「萬延元年ノ人」とあるのが気になるが、この築堤事件に関係するのだろうか、『妻沼町誌』(妻沼町は現熊谷市)に次のような事件の記述(前段要約)がある。

 

  大里郡内葛和田地内から下江原の西北隅まで伸びた善ケ島堤に接続する江原堤は、利根川の川除堤として太田・男沼・間々田・下江波四村の下郷地帯の田畑を守る重要な堤であった。しかし上郷地帯では、この堤によって水はけが悪くなって作物に被害が及ぶため、寛政8(1796)以来、度々訴訟事件となっていた。……安政24月、太田村村内の名主忠八は、予て出訴していた善ケ島堤と江原堤の築立について奉行所の許しがあったため、この旨を石塚村(上郷)役人に通告した。

 

しかし、石塚村では堤高は予ての取決めで定杭が打ってあるので、「一方的に不法築立ては致すまいと楽観していた。ところが、断り通り二三日後に、忠八、(3名略)更には太田村宮本院の修験見順などが先頭になり、小前の者大勢を引連れて置土を始めた。見順は、諸役家向に自由に出入する者であると権威を誇り、長脇差を携帯しており、作業を邪魔だてする者は用捨なく切り捨てると威嚇するので、村方役人では手の付けようがなかった。かくするうちに上置された土は踏みかためられ、堤高になってしまった云々」

 

ここに石坂周造の名は認められないが、この事件の顛末も「石坂翁小伝」の記述と附合するものがある。この話は、妻子ある石坂が宮本院の養子となったなど、どこまで信じてよいのか。『太田郷村誌』は『石坂翁小伝』を鵜呑みにして記された可能性も否定できない。もっとも、話が具体的であるため、石坂と宮本院に何らかの関わりのあったことは事実だったのかもしれない。しかし、この記事から見る限り、修験宮本院見順は余り芳しい人物ではなかったらしい。

 

この事件後の同年6月、石塚村組頭が惣代となって太田村名主忠八らを相手取って訴訟を起こしたが、文久211月になって、忠八はじめ多くの下郷村々の村役人等が罰せられている。先の「志士石坂周造の転身」に「深谷時代に土堤新築の工事のおり八カ月入牢のことがあった、ともいわれる云々」とあるが、罰せられた者の中に石坂の名はない。身に危険の及ぶことを察知した石坂は、早々に太田村から姿を消したのだろうか。

 

               四

 

 先の真壁屋彦兵衛の届出書によれば、石坂周造は築堤事件のあった翌年である安政三年頃佐原に借家して医を業としていたことが明らかである。その後の石坂は、佐原を拠点に神埼や潮来地方にも出張診療を行い、佐原から神埼の高照寺に居を移してからは、佐原に出張所を設けていたのである。

 

また同書には、「其時分即ち漢方医をやって居りましたなれども私は大層流行した。何ぜ流行すると云ふに薬礼を取るの何んのと云ふことはない。貧乏人なら自から施してやると云やうな仕事をヤりましたから大いに流行しまして既に弟子も四人まで持ちました」とある。伝えられる石坂の経歴からすると、佐原と神崎時代に四人の弟子を取ったことになり、その年齢や医療実績等から、この話も疑いたくなる。しかし、神崎で1人の書生が同居していたことは先に記したとおりであり、これが門人なら、その技量はあったのである。

 

 『石坂翁小伝に、万延元年(1860)の或る日、その神崎の石坂の家を村上俊五郎(政忠)が訪ねてきたことが次のように記されている。「村上俊五郎と云ふ者が武者修行で私の所に訪ねて来ました。(中略)段々長くなって二月三月と居るやうに成りました。其節彼の曰く貴所は尋常のお医者ではない、就いては我の友に清川八郎と云ふ者があるが、面会して呉れぬかと斯う云ふ話であったから、己れは当時江戸に出られぬ、此方に来るならば面会してやろと」言ったとある。

 

ここには「己れは当時江戸に出られぬ」とあり、明治3311月の史談会(『史談会速記録』)でも石坂は、当時神崎に潜伏中であったと証言している。しかし当時、石坂には妻と長男宗之助、次男熊蔵の家族(書生も)があったことや、広範囲で堂々と医療行為を行っていること、また偽名を使っていたらしい形跡もない。さらに真壁屋彦兵衛の先の「届出書」にも、当時の石坂の家族の暮らしは「仔細も有之間敷」様子だったとあることなどから、この捕吏に追われていたという話も疑わしいといわざるをえない。

 

『石坂翁小伝』は前記に続き、「清川八郎を村上俊五郎が同道した。()所が彼(清川)と段々話して見まするに丹心是れ許すべきの丈夫でありますから遂に一面識にして刎頸の約を結んだ。夫れから段々種々の談から偖て江戸へ是非出て貰いたい、四月は事を決行する精神であるから江戸に出て呉れと云ふに付いて江戸に出ました」とある。

 

清河八郎の「潜中始末』には、攘夷決行を目論む清河は、攘夷を高言して佐原方面で横行する水戸の天狗連の真意を探るべく、「幸佐原の近きに、同志なる村上俊五郎の剣術修行に在らるゝを訪ふといたし、正月廿七日に」一僕を誘って東都を出立したとある。そしてその日の「日暮過ぎて神埼町に到り、医生石坂宗順の宅を尋ぬ。村上の居住せし故なり。村上他行故、石坂婦人の案内にて、真壁屋なるに宿る」とある。この時石坂も不在だったらしい。

 

清河は翌日石坂と会った際のことを、「石坂と共に相話の頃、幸なれば潮来に御同道仕らんと云ふ。此夜石坂参会、大に喜び共に同志の友となる。終夜強談にて明しぬ。」こうして三人は、翌21日揃って鹿島参詣と称して佐原へ出掛けたのである。なお、『潜中始末』に、「此地(潮来)の事は専ら石坂に委任し、彼又専ら此に任じ、舌頭に説諭せんと、今や(水戸天狗連)来るを待ある」とか、「石坂は勇み喜び(天狗連の来るのを)待在る」等とあって、石坂が潮来地域に通暁していたことや、石坂が血気盛んで気概のあったことを知ることが出来る。

 

伊牟田尚平の清河八郎宛て文久元年3晦日付け書中に、「尚々総州之二豪傑之宜様御致意奉り希候」とあるので、石坂と村上は翌月には江戸に出ていたのである。石坂たちが清河八郎を盟主とする「虎尾の会」を結成し、攘夷の決行(横浜や東禅寺の焼き討ち)を決定したのは5月中旬頃であった(詳細はⅦ「尊王攘夷党『虎尾の会』始末」参照)

 

              五

 

清河八郎や石坂たちが画策した攘夷挙兵計画は、早くから幕吏に探知されてしまっていた。文久元年五519(清河八郎の町人殺傷事件前日)には、清河一党に対して「御吟味筋有之召捕候様三廻一同へ」沙汰されていたのだ(千代田区史料Ⅲ』)。その捕縛対象者の中には、当然だが「医師、石坂某」の名もあった。このため、520日の清河八郎の町人殺傷事件は、清河一党を捕縛しようとその機を窺っていた捕吏の面前で行われることとなったが、この事件当時、石坂は清河や村上と別れて一人神崎へ戻っていた。

 

その石坂については、『千代田区史料』に「医師石坂宗順は八州廻へも御沙汰有之、南北八州方打込にて下総召捕」とあって、先の「住谷信順日記」にあった如く、石坂は524日に捕縛されて伝馬町の獄舎に投じられたのである。石坂は、この時の様子を『石坂翁小伝』や明治3311月の史談会で詳しく語っている。

 

伝馬町獄舎の中での石坂については、清河八郎が郷里の父親に宛てた文久2820日付けの書簡に、「獄中にて池田(徳太郎)石坂両人は名主と可申に相成、至て不自由もなきよし云々」と記されている。獄中での石坂の役柄は清河の認識とは少し異なっていて、石坂自身が先の史談会の席上で、獄内では「隅の隠居」という「らくな身分に昇進することが出来た。隅の隠居というのは、牢内では次官くらいにあたるのだ」と証言している。

 

坂下門事件(文久2115日・老中安藤正信暗殺未遂事件)連座して下獄した菊池教中(澹庵・大橋訥庵義弟)の母宛て書中(「幽囚日記」)に、獄中の石坂の名が見える。その同年413日の書中には、「持病少々も気さし候節ハ石坂宗順と申清川八郎一件ニ而参り居候医者ニ針とあん腹(按摩ヵ)を致し貰候間、至極宜敷塩梅ニ御座候」と記されている。石坂は同獄の菊池教中の持病の治療にあたったのである。このことは、同じ坂下事件に関連して投獄された小山春山(朝弘・下野真岡荒町の人)が後年、「此牢に石坂宗順と云ふ医人ありて菊池病中なと大に介抱を受けたり」(『野史台維新史料叢書』39中「小山春山の話」)と語っている。

 

さらに、菊池教中が母と妻に宛てた同年627日付け獄中書簡には、「私方ニ石坂宗循と申医者有之、是も矢張強介なとゝ同様之罪にて罷り居候人故、別ニ骨折度趣ニ付、薬ハ当方より毎日差送り日々容体書を取り而加減いたし余程心配仕候得共天命無拠一同力を落申候」とある。「強介」とは、やはり坂下門事件の連累者として菊池らと共に投獄されていた宇都宮の志士児島強介(草臣)である。児島は投獄される以前から病身であったために事件に参加できなかった人で、獄中で病状はさらに悪化していたのである。石坂はこのことを知り、別房の強介の様態書を日々取り、薬を調合して送っていたのだ。しかし、石坂や菊池の努力も空しく、児島強介は625日に獄死してしまった。

 

石坂はその年(文久2)11月中に出獄したらしい。江戸馬喰町の大松屋がその筋に呈出した石坂の身上調書に、「右(石坂)は北御奉行浅野備前守様お係にて、去る十一月中私方へお預け相成り候、(中略)去る十二月二十六日お呼び出し、右備前守様、おいおいお預け御免勝手次第徘徊致すべき旨仰渡され候儀に御座候」とある。石坂は11月中に出牢して馬喰町の大松屋に預けられ、翌月26日に無罪放免となったのである。

 

              六

 

石坂の出獄は、清河八郎や同志山岡鉄太郎、そして幕臣松平主税之助が、幕閣に対して政治犯大赦や浪士の徴募の献策活動を行なった結果であることは言うまでもない。出獄後の石坂は、浪士徴募のために、その地に伝の多い常州総州、房州方面を巡回したという。

 

しかし、正月20日付けで山岡鉄太郎と清河八郎が池田徳太郎に宛てた書中に、「石宗事少々不束之事有之」とあり、その詳細は不明だが、石坂は巡回先で問題を起こしていたのである。このこともあってか、池田徳太郎が徴募に巡回した地方からの浪士組参加者の数に比べて、石坂が巡回したとされる地方からの参加者は大幅に少なくなっている。(「浪士組に参加した人たち」参照)

 

同年2月の浪士組の上洛に当って、石坂は道中目付兼3番組小頭(柚原鑑五郎筆写の名簿では6番組小頭)であった。上洛途上の近藤勇(6番小頭)の隊と石坂の隊を入れ替えた逸話等については、紙幅上ここでは触れない。

 

浪士組内で、石坂は清河八郎に次いで幅を利かせていたらしい。取締役が所持していたと思われる先の「浪士組姓名簿」にも、その筆頭に「府内産、亥三十二、石坂宗循、妻子四人」と記されている。また、中村維隆(草野剛蔵)は、明治32年の史談会で「石坂周造という者は一種特別な男ですから、吾々よりも権利のある取締りと云う職を持たせた。そして監察を兼ねていた」と証言している。

 

浪士組の江戸帰還後の横浜焼き討ち計画にも、石坂は清河八郎と共に浪士たちの牛耳を執っていた。特に挙兵のための軍資金調達は石坂が中心だったらしく、『嘉永明治年間録』にも、「此月(3)、浅草平右衛門町、名主平右衛門宅へ浪士石坂周造外三十人以上も罷り越し云々」とあり、『東西紀聞』等に収録される浪士たちによる強談事件に関する史料には、浪士の筆頭に石坂周造の名が記されている。この事件で石坂は、文久3414日に再び捕縛され、以後何等の吟味を受けることなく、堀長門守から新発田藩溝口家、秋田藩佐竹家へと預け替えられて維新に至っている。

 

この石坂が捕縛された前日の清河八郎暗殺事件当日、石坂が暗殺現場に駆けつけ、仇討ちを装って清河の首級と連判状を奪った武勇伝等についても、紙幅の関係上ここではふれないこととする。

 

なお、石坂と剣術に関して若干記しておきたい。というのも、医を業としながらも石坂には武術の心得があったらしいからである。その根拠は薄弱だが、浪士組が伝通院を出立する際の様子を某氏に伝えた鈴木半平の書簡(『東西紀聞』)に、「浪士姓名覚」として浪士たちの名が列記され、その名の上に❍印のある者があって、注記に「❍印之分達人之趣ニ御座候」と記されている。そしてその❍印が石坂の名の上に付されているのである。

 

また、石坂が浪人朽葉新吉の首を刎ねたことは『埼玉の浪士たち』に記したが、自負心の強い石坂が、その斬首を浪士組士たちの面前で行ったからには、石坂にその首を一刀で切り落とす自信があってのことだろう。鈴木半平の書簡に記される(聞き書きだが)ように、石坂は剣術も相応に学んでいたのかもしれない。

 

都合により「七」以降は次回とさせていただきます。

14の12 【中国地方以西の浪士組参加者たち】

 

熊本県域からの浪士組参加者たち(5名)

  姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

大内志津馬

37

7番組小頭

不明 ・細川越中守家来土門宇右衛門5男

肥後熊本産 当時播州姫路浪人

文久3年4月20日付池田徳太郎宛て岳父後藤亥之助の書簡中「兎角当地(江戸)も惑乱之折柄故、御帰府は暫時御見合之方可然、尤大内志津馬殿被参候て、貴所様御滞留之方可然旨同人も申候、右はいつれ大内よりも委細申上候積申置候、且御帰府之事も同人より揚合見計ひ申上候、其節御帰府相成候様奉存候云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に11番小頭、「組別名簿」に小頭で名あり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に2番隊伍長で名あり。 ・511日石原多門隊、越後長岡方面応援に鶴岡出陣、陣中に探索方として大内志津馬の名あり。 ・915越後国境関川へ進軍する一隊の中に「病気或ハ手負等全癒ノ由ニテ出張」する者として大内志津馬あり。 ・916日関川奪回戦に山上の胸壁からの激しい銃撃に「大内志津馬(原注・頭上)打レテ死ス」と。(何れも『戊辰庄内戦争録』)

・小山松『新徴組』に「慶応四年九月十五日病気療養中であった大内志津馬等が原隊に復帰した。九月十六日関川部落奪回戦が続いて、昨日原隊に復帰したばかりの大内志津馬が頭部に銃丸を受けて戦死」とある。

田川温泉場寄宿帳に「先代志津馬養子大内魁一郎」とあり。 ・「開墾士氏名」に魁一郎の名あり。 ・明治65月司法省酒田臨時裁判所の召喚により東京を出立した旧新徴組士の中に大内義春あり、魁一郎か。 ・大内義春は明治75置賜県へ貫属替

関口三千之助

22

5番組

不明   ●肥後熊本細川玄蕃頭浪人

新徴組入り ・「目録」に21番組小頭として名あるも「組別名簿」に名なし。

・『藤岡屋日記』元治元年19日条に、村上常右衛門、関口小千之助(4人略)に付「右之者ども兼而私家来江御預被仰付居候ニ付、浅草向柳原下屋敷江差し置、家来共附置候処、追々永く相成御府内廻り方ニも差し響き、甚以不都合ニ御座候間、可相成は何方成とも早速御預替え被仰付被下度云々」と庄内藩主から幕府への請願書り。 ・同書同年同月15日条に、三宅備後守家来に対し「右之者共(関口三千之助、鯉渕太郎)、酒井左衛門尉家来江御預被仰付置候処、三宅備後守家来江御預替被仰付候間、受取方手当向之儀は左衛門尉并阿部越前守へ可被談候」との達文あり。 ・『続徳川実記』元治元年326日付封廻状に「右於阿部越前守御役宅、御目付小出五郎左衛門立会、越前守申渡之」として村上常右衛門、関口三千之助(23才とあり)、鯉渕太郎他1人に対し「一と通尋之上召連人江預け」とあり、以後の去就不明。

本多新八郎

35

3番組

不明   ●肥後熊本浪人

「井上松五郎日記」文久336日条に「()夫より浪士面々ニ三壬寺ニ罷至候由承り、逢ニ参り候処へ沖田、本多、佐藤、井上右四人ニ而たつね参り、夫より佐藤東太郎、下拙同道ニ而高瀬川生亀と申処ニ而酒宴いたし、夫より沖田、本多両ニわかれ云々」とある。本多は3新見錦組で井上源三郎沖田総司等と同組の本多新八郎と思われる。

新徴組入り ・「目録」16番飯塚謙輔組平士に名あり、「組別名簿」小頭飯塚謙輔組平士に本多学之助とある人か。その後の去就不明。

柚原鑑五郎

28

7番組

1人 ・肥後熊本細川越中守家来柚原伴十郎子

当時江戸外神田御成道京屋伊兵衛方同居

新徴組入り ・「目録」に34番三村伊賀右衛門組平士、「組別名簿」に小頭三村伊賀右衛門組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族2) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に1番隊平士として名あり。石原多門隊附属として越後地方探索方として出陣。

・「開墾士氏名」に柚原伴三郎とある人か。

明治7年2月東京府へ貫属替の柚原伴十郎か。

「柚原鑑五郎日記抄」(清河八郎記念館所蔵)

吉村魁一

29

4番組

妻子2人   ●肥後熊本浪人 当時江戸表六番町山中又兵衛家来太田庄一郎方同居

新徴組入り ・「目録」に名なし。 「村上俊平潜匿日記」文久3513日条に「夜風体を変じ、角中に至り出塚次郎を訪ひ、夫より芳原に至らんとす。既にして吉田主税、芳邨魁一来る。芳邨此夜断髪、髪形を変し師横山光蔵の仇を報せんとて涕如雨。光蔵なる者、流行流(柳剛流ヵ)の剣客にて正義党の士なり。奸者の為に四日の夜、青山にて切害せらる。此夜吾党の計企顕わるを告るものあり。因て党を会し、舟に乗じ小梅に至る。此にて談合離散を計る。主人飯を焚き吾等に饗す。吉田、芳邨の両人は当寺に残り、別に臨んで芳邨滲然泣下、僕等亦愴然に堪えず云々」とあり。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久3518日条に「武井十郎、吉村魁一、吉田主税外五人の者致金策候得共、失非後悔致し、此三人は豊前守殿へ欠込願仕候に付、吟味中河津殿へ御預に相成候に付、局中へ預り可申も、河津殿より御内意之趣なれ共諸組小頭より不承知申立候」とあり。

・『歴史のなかの新選組』に「文久三年5月新徴組から放逐せらる」とあり。小山松『新徴組』も同。

蘭方医村上随憲』

   愛媛県域からの浪士組参加者たち (2)

原田左之助

24

6番組

不明 ・伊予松山藩足軽原田長次の長男

伊予国温泉郡矢矧村

安政3年頃江戸三田の松山藩邸で中間をしていたと。又翌4年頃藩地へ帰り若党をしていたが、出奔して大阪で谷三十郎(弟万太郎とも)に種田宝蔵院流の槍術を学んだ後、江戸に出て近藤勇の試衛館道場に出入りするようになったという。

浪士組上洛後、近藤勇らと新選組を結成し、副長助勤、後に10番隊長となる。

鳥羽伏見戦に敗れて江戸へ引揚げ、甲陽鎮撫隊に加わり惨敗を喫す。後近藤勇らと決別し、永倉新八らと別軍(靖兵隊)を組織して会津へ向かう途中、一人引き返して彰義隊に参加し、上野の山の戦いで銃創を負い、本所猿江町の旗本神保山城守邸まで落ち延びたが518日落命したと。

享年29歳。墓所不明。なお、原田は生き延びて満州へ渡って馬賊頭目になったとの異説あり。

吉田庄助

36

5番組

1人 ・伊予新谷藩加藤大蔵少輔家中吉田幸衛門子   ●伊予浪人 ・当時江戸下谷山伏町寓居

「高木潜一郎浪士組従軍日記」文久333日条に「今日番手ニ而、御見廻役人松岡万、吉田庄助、西村泰翁、新井式部云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に7番組小頭、「組別名簿」に肝煎として名あり。・文久3519日廻状に小頭として吉田庄助の名あり。 ・元治元年2月付申渡書に「右(山田官司、吉田庄助、草野剛蔵)今般文学御開業ニ付、局中世話心得申渡間相掛申談、諸事引請入念可相勤候」と。 ・慶応元年6月、5番6番組持肝煎締役となる。

『峠越え』中伊東瀧三郎「市中見廻日諸留」に肝煎締役で吉田庄助の名あり。 ・「御用記」(慶応2年ヵ)「右(吉田庄助)は当五月廿九日小筒打方取調掛被仰付候付、当御地盤金之内利一ケ年弐両之御割合を以被下置候」とあり。

慶応4年庄内入り(家族5) ・小山松『新徴組』に「(慶応4年3月朔日)五番組、組士吉田庄助以下二十三人、その家族五十一人、計七十四人」が本藩士赤澤源弥等の付添で庄内へ向けて江戸を出立したとあり。

・「田川温泉場寄宿帳」に「五六番肝煎締役、吉田庄助」とあるも、「戊辰庄内戦争出張姓名」、「開墾士氏名」に吉田庄助の名なし。

明治6年寄留替

子母沢寛『露宿洞雑筆』に「吉田庄助ははじめ肝煎取締で、飛ぶ鳥を落としたが、どうも品行が悪いというので平組に落とされた」とあるが。

   長崎県域からの浪士組参加者たち (2)

阿比留鋭三郎

22

3番組

不明   ●対馬藩浪人 当時江戸麻布市兵衛町丹波谷組屋敷高久安二郎同居

北辰一刀流千葉道場門人 ・清河八郎の「玄武館出席大概」に対州藩阿比留鋭三郎の名あり。

文久3310会津藩主に対して京都残留(会津藩の差配)を嘆願した17人の浪士の中に阿比留の名あり。 ・浪士組江戸帰還途中の同月14日鵜殿鳩翁ら浪士取扱が目付杉浦正一郎に宛てた書簡に記される「今朝同人(松平肥後守)家来へ引渡京地へ相残申候」者(芹沢鴨16)の中に阿比留の名なし。 ・同月15日京都残留浪士24人中20会津藩庁に出頭するが、残りの「四人之者ハ病気ニ而不参候」とある中に阿比留の名あり。 ・同月22日老中板倉勝静に将軍の滞京を直訴建白した18人の中に阿比留の名なし。 

・同月25会津藩士本多四郎が壬生を訪れ壬生狂言を見物した際の「世話集聞記」の記事に「此阿比留ハ大病ニ付、江戸表ニ両親有之候ニ付、近々江戸表江罷下ル由ニ咄有之」とあり。 ・翌46日病没。 ・墓は京都壬生寺境内と東京都北区滝野川の寿徳寺。

藤本 昇

45

3番組

妻子2人   ●肥前長崎産 上州館林浪人 当時江戸南本所深川六間堀代地住居

浪士組江戸帰還後清河八郎らと横浜焼き打ちを画策。

・『東西紀聞』に「此節当地浪人共夥敷当月(文久34)二日ゟ五日比迄浅草御蔵前家持大家并大傳馬町日本橋辺大家を見込押借申出市中騒動云々」、この騒動は「右五人頭立」として石坂周造、村上俊五郎らと共に藤本昇の名あり。 ・『藤岡屋日記』同年同月10日条に「()石坂周造、藤本昇右両人之者、回向料并為塔婆料金百五十疋持参、御橋下水上ニ首無死骸二ツ(神戸六郎と朽葉新吉)有之候処、見受候ニ付晒候も不便ニ存候間、何卒右死骸畑沖江引出可然回向致呉候様云々」と(回向院から奉行所への届)。 

・暮地義信「新徴組略記」に「(同月)十五日松平上総介町奉行より浪士の内村上俊五郎、石坂周造()、藤本登()等六人御用有之旨被申渡()町奉行へ処一応尋問の上国事犯に付、夫々諸侯へ御預けに相成たり」と。・『東西紀聞』に「六人大名ニ御預ケ云々」として「一ト通り尋上松平出雲守に預遣ス、藤本昇」とあり。 ・千葉弥一郎「新徴組史料」に「和田理一郎、白井庄兵衛、藤本昇三名の終は未詳」と。 ・石坂周造「清河正明贈位建言書」中に「此六名ノ志士ハ執レモ()皇政維新ノ大赦ニ遭ヒテ放免セラレタリ」とあり。

かすみがうら市郷土資料館発行『新徴組と古渡喜一郎』に「(藤本昇は)晩年まで喜一郎と交流を深めた人物で、喜一郎が遺した資料の中には藤本との交流を示す手紙が3通みられています。()手紙には、喜一郎の小頭昇進を喜んだり、藤本昇の子息への心遣いに感謝したり、二人の関係には子弟を想像させるやり取りが記されています」とあり。

   岡山県域からの浪士組参加者たち (1)

村田新蔵

35

1番組

父母弟4人 ・百姓利兵衛倅

備中国上房郡上村住居

新徴組入り ・「目録」に5番水野倭一郎組平士、「組別名簿」に小頭水野倭一郎組平士で名あり。 ・伊東瀧三郎「市中見廻日諸留」(慶応元年6月1日~同年9月8日)に、ほぼ連日「病気村田新蔵」、「病気引村田新蔵」と記されている。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」及び「開墾士氏名」に名なし。

明治8年現在鶴岡居住

村田新蔵は、根岸友山の甲山組(埼玉県小川町「新井家文書」)に属して浪士組に参加していること、「柚原鑑五郎日記抄」「上京有志姓名録」に武州比企郡平村(東松山市都幾川村に村名あり)とあるが、これ等の地で存在が確認できないこと、また「浪士姓名簿」(当時取締役所持)に父親の名も明記されていることから、岡山県域出身で間違いないと思われる。

   広島県域からの浪士組参加者たち (1)

山口三郎

 名・高賢

31

道中目付

不明 ・郷士山口常兵衛3男   ●備後国御調郡綾目村出生、当時川越辺ニ住

千葉弥一郎「新徴組と荘内藩雑話」に「山口三郎は備後の浪人で、浪士募集の前年川越に来て長屋玄平の家に暫く世話になって居たのである。浪士募集の令を耳にして、両人手を携えて募集に応じたのである。三郎は始終玄平を恩人として居った」と。

新徴組入り ・「目録」に1番組小頭、「組別名簿」に肝煎で名あり。 ・文久3419日世話役 ・「柚原鑑五郎日記抄」同年519日条に「山口三郎、草野剛蔵、西恭助、石倉久七、右御仕法替に付世話役御免小頭役云々」と。 ・同年12月肝煎役(明細書麁調) ・慶応元年6月肝煎締役 ・慶応2年百石を給う(「田川温泉場寄宿帳」)

『新編庄内人名辞典』に「慶応3藩士田辺儀兵衛に随従して江戸開成館での幕府列藩代表会議に出席する」と。 ・田辺儀兵衛「公私日記」慶応4115日条に「開成処()ゟ集議有之候ニ付、有志之者罷出候様申来候間、山口三郎差出様御沙汰有之差出候、翌十六日ニも西ノ丸江差出候」 ・同日記翌27日条に「於公儀所諸藩士公儀御開候相成候間、差出候相御目付様御沙汰、来る九日ニ罷出候との事ニ御座候、戸田惣十郎、山口三郎」とあり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・同年226日江戸出立 ・『田川温泉場寄宿帳』に「戊辰役奥羽の各藩へ使命を帯び、後ち最上農兵の頭となり、六十里越の守衛として官軍と戦ひ云々」と。 ・『庄内沿革誌』に、410日「辻庄一郎白井吉郎を米沢藩に使はし清川及天童の戦は何れも先方より挑むを以て止を得す応戦したるにありて元より王師に抗するの意にあらさるの事情を奥羽鎮撫の九條殿に執奏あり度しと依頼す同十四日加藤半蔵上野專右衛門山口三郎を仙台藩に使いし米沢藩に依頼したると同一の事を依頼し云々」とあり。

・先の「公私日記」78日条に「昨夜天童領成生林と申処江百姓共多人数打寄、同領羽入村打壊候よし、御領分も横行難計候ニ付、山口三郎新銃隊召連神町江出張云々」等の記事あり。

『新編庄内人名辞典』に「戦後は大泉藩大属に任ぜられ、藩の東京昌平橋邸に在勤、藩知事酒井忠宝に従って諸官衙との折衝に当り、その後引続き東京に在住した」と。 ・千葉「維新前後荘内物語」に「明治五年廃藩置県後藩と方針を異にして移住した」と。 ・明治85東京府へ貫属替

山口三郎の人となりについて、上記『人名辞典』に「体躯矮小ながら眼光炯々、すこぶる意思強く、機略に富んだという」と。 ・千葉「新徴組と荘内藩雑話」に「(長屋)玄平の直話に依ると、三郎は玄平の宅にぶらぶらして居る時分から総ての言行が非凡であった。人世零落しても何とか人の上坐にありたいと思うが、夫れには坊主か医者より外にない。坊主は葬式の時は誰よりも上席する。医者も病家へ招かれると誰よりも上席する。()三郎日医学は少しも知らぬが、医者になるのは六ツ敷事はない。病人と云ふものは十中の九までは医薬で癒るのでない。寿命があれば薬を用ひずとも癒るものだ。医者として腹の下るのを止るのを覚えて居れば沢山だ。明日からやつて見よふと思ふと云て、翌日医者の看板を掲げた云々」と。又「浪士の募集を機会に廃業して出京した。両刀は勿論衣服も買求めて中々立派な風をして浪士組へ加入した。奇才に長じて居って浪士組でも頭角を顕し云々」等とあり。

・同書にはその外に、「(山口は)池田徳太郎とは互に信頼した中であった。()三郎は清川八郎とは大に意見を異にした。()浪士が攘夷説を唱ふる中で、(三郎は開国論者で)窃かに蘭学をやった。砲術を学んだ。危険だから公然口には出さぬが、玄平抔に対しては隔意なく物語った。攘夷だの、鎖国だの、阿呆者の寝言だと罵倒して居った」、「三郎は井伊直弼を日本の救世主と仰いで居った。井伊がなければ、日本もどうなったか分らん云々」と。同書に山口三郎の逸話多し。

明治維新史料、明治期』庄内史料集126-2・小山松『新徴組』・『日野市立歴史館叢書』第10輯・子母沢寛『幕末奇談』

   徳島県域からの浪士組参加者たち (1)

柏尾馬之助

26

6番組

不明 ・「明細書麁調」に松平阿波守元家来柏尾嘉蔵子(次男ヵ)とあり。父の名は嘉平次とも称した。  ●阿波国美馬郡貞光村浪人(村上俊五郎と同郷) ・江戸豊島町三丁目柏ヤ方ニ同居

北辰一刀流千葉十太郎門人樋口伝左衛門正隣の「英名録」に「北進一刀流千葉十太郎門人柏尾馬之介 同虎之介 万延元年八月十六日ゟ廿五日迄」とあり。・下総佐原で剣術道場を開いていたとも。 ※『上毛剣術史』に「柏尾馬之助はその剣技鬼神の如しと鶴岡地方では現代でも語り伝えられているとあるが。

新徴組入り ・「目録」に14番組々頭兼剣術教授方、「組別名簿」に肝煎兼剣術教授方で名あり。

・田辺儀兵衛「公私日記」慶応4223日条に「柏尾馬之助病気ニ付、庄内江難罷下候間、親類共江暫罷在申度旨申聞候ニ付、永の御暇被下置候」とあり。

「人名移動詳細」に「柏尾馬之助は千葉周作の門人にして剣道は天下の名人なりと称せらる。()二番組肝煎役となり剣術教授方たり。常に撃剣の稽古を欠席せし事なく、市中見廻りも欠勤した事なきも、戊辰の一月の末肺患に罹り回復の見込みなく、止むなく願の上暇を賜り、江戸に残りたるも幾ならず病死せり。余弟伊東乕太も剣客たり。庄内に下り戊辰戦争には奮闘せり。稲田隼之助が脱走せし時、追跡して最上山寺で稲田と戦ひ手疵を負ひしも一ヶ月許にて全癒す云々」とあり。

柏尾馬之助は慶応448日病没。 ・墓は柏尾家墓地に在ったのを後に徳島市内に移されたと。

千葉弥一郎『新徴組史料』に「「櫛淵先生(一橋家剣術師範役櫛淵太左衛門、弥一郎の師)が新徴組の柏尾右馬之助ハ天下の名人だ、流義なんかは何でも構はんから、同人より教示を受けろと云はれた」と。

蔵敷村(東大和市)名主内野氏の日記(『里正日誌』)に「辰(慶応4)閏四月十九日頃城憲隊ト唱ひ十四五人所澤河原宿新光寺へ参滞留いたし、追々人数相増凡三十人余ニ相成所澤村薬王院へ引移り、賊徒鎮防方撫育隊ト改称シ、五月ニ至り五十余人ニ相成官軍阿州稲田之附属精勇隊ト改号シ、惣隊長江戸住居柏尾嘉平次、所澤出張屯所隊長小野民之丞・鈴木織之助、調役市村郡司外役々十人余云々」と。又柏尾嘉平次については「外神田三嶋町材木店ニ而家主加賀屋長三郎()阿州稲田藩精勇隊之隊長柏尾嘉平次同居ニ而、御同人と長三郎とは伯父・姪ニ而」と。又同書中「()掛川()御人数御調御手控」に、「精勇隊隊長 柏尾直之助二十六七才・剣術師範柏尾嘉平次六十才・死去 同人倅同姓馬之助」と。更に精勇隊士53人中、柏尾嘉平次(剣術)門弟が23人、柏尾馬之輔門弟が2人、千葉十次郎(馬之助の師)門弟が4人と記されている。なお、精勇隊士たちは同年618掛川藩兵によって捕縛され、江戸へ連行された。その後は未確認。

『荘内史料集16-2 /明治維新史料 明治期』・『静岡県史』資料編15・『日野市立歴史館叢書』第10輯・『大和市史通史編』・東大和市立郷土博物館刊『里正日誌』・吉野式『幕末諸隊研究』五周年記念号・(小説)子母沢寛『にげ水』『幕末奇談』『小説のネタ』

   福岡県域からの浪士組参加者たち (1名)

中村又太郎

25

1番組

不明 ・「明細書麁調」に「生国武蔵、久留米藩有馬中務大輔元家来中村主仙子」と。 ・田辺儀兵衛「公私日記」に「中村又太郎実父中村玄道」とあり。※元久留米藩士中村中村主仙(玄道)の子として江戸で出生か。

筑後国久留米浪人(「浪士姓名簿」)

久留米藩剣道師範役津田左衛門正之創始の津田一伝流剣法を学んだという。

新徴組入り・「目録」に30番組小頭、「組別名簿」に小頭で名あり。 ・後小頭に剣術世話心得兼任。

・田辺儀兵衛「公私日記」慶応427日条に「中村又太郎儀被申渡儀有之候付、麻上下着用罷出候、町奉行ゟ申趣候趣、御上屋敷ゟ御沙汰ニ罷出ル、御委任以前ニ付、御構無之趣被申渡候段申出ル」と。同書翌8日に「中村又太郎差扣伺差出候間、其儘相返候」とあり。

慶応4年庄内入り(家族5人、内13歳以下)

・「戊辰庄内戦争出張姓名」に1番隊肝煎役で名あり。

・『戊辰庄内戦争録』に、慶応4年5月11日越後長岡応援人数中に探索方として中村又太郎の名あり。※新徴隊取扱頭取林茂助隊の肝煎訳役として出征。

「開墾士氏名」に名あり。 ・千葉弥一郎「維新前後荘内物語」に「明治二年の秋であった。上ノ山藩の家老松平清之進と云ふ人が剣客二名を鶴ケ岡に同伴して来られ、撃剣の仕合を申込まれた。其の時新徴組から中村又太郎、小堀大太郎、山田精策と老生の四人が選抜され云々」と。

・明治511月「長屋玄蔵宅ニ中川一仁科理右衛門玉城織衛中村又太郎()扣居候ニ付」大島定靖等が割腹を覚悟した桂田寛吾の助命を申し立てたが、助命は叶わなかったと。(中澤貞祇の記録)

小山松『新徴組』に、明治6227日新徴組最後の脱走が実行され、その26人の脱走に中心となって活躍したのが中村又太郎であったと。又、同年3月庄内脱走の旧新徴組と新整組士80人が酒田県の非道私曲を司法省に告訴した事件で、中村又太郎も捕縛され鍛冶橋監獄に収監されたと。 ・明治73月禁獄90日の刑に処せられる。

明治710東京府へ貫属替 、後警視庁入庁と。

「新徴組之内武蔵・上野・甲斐三箇国より罷出候者之中、土着願上候ニ付、心得之件々、大概左ニ」とする人名列挙中に「浪人 中村又太郎」あり、「生国武蔵」が正しいと思われる。

尾崎恭蔵の妻は元久留米藩士中村玄道娘という。田辺儀兵衛「公私日記」慶応47月条に「中村又太郎実父中村玄道」とあることは前記した。 ・同日記翌月の条に「笹森村江、山本荘馬、中村玄道、鈴木弥平太外農兵四人、其模様ハ村々相廻取締致候事」と。 ・同日記同月25日条に「昨日中村玄道笹森ゟ罷帰ル云々」と。

中村又太郎の妹富士子は殿山義雄の妻で、殿山死後鎌田昌琢と再婚。

『日野市立歴史館叢書』第10輯・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号及び『新徴組研究』第8号・『上毛剣術史』・『庄内史料集16-2 明治維新史料、明治期』

   大分県域からの浪士組参加者たち (1名)

玉城織衛

45

5番組

妻及び厄介1人 ・(「明細書麁調」)生国豊後国、中川修理大夫家老中川平右衛門家来代々頭役勤大橋藤左衛門子。  ●豊後岡藩浪人 当時江戸二葉町道場所持

直心影流島田虎之助(嘉永59月病没)を慕って上府、男谷精一郎友信の道場で修行したという。

新徴組入り ・「目録」33番組々頭兼剣術教授方、「組別名簿」に小頭兼剣術教授方で名あり。 ・慶応元年65番組肝煎に選任さる。 ・慶応元年1212日の旗本石川又四郎を斬殺し3人の新徴組士が引責自刃した事件当日の見廻隊統率者は玉城織衛であった。(千葉弥一郎『新徴組と荘内藩』等)

慶応4年庄内入り(家族3) ・「戊辰庄内戦争出張姓名』に新徴隊取扱頭取菅野正助隊肝煎役で名あり。

「開墾士氏名」に名なし。 ・桂田寛吾割腹事件に関する若林守信等の酒田臨時裁判所への申立書に、明治511月割腹を覚悟した桂田を救うため、若林等が長屋玄平宅に居た「中川一仁科理右衛門玉城織衛(他3人略)」等に桂田の助命を求めたが、中川等は「(桂田の脱走は)血盟并同士申合之切磋素意ニ背候大胆成者故申付候様赤澤源弥ゟモ内意有之且七人役席()揃上ニ而者助命之義不相成」と受け入れなれなかった、とあり。稲田隼雄事件及び小山清照、中追胤親脱走事件に関しても玉城織衛関与の記録あり。(何れも中沢貞祇の記録)

小山松『新徴組』に「明治5722日の夜、新徴組60人、新整組20人ほどの大脱走が成功した。この世話をしたのは、玉城織衛等三名といわれている」と。

・明治6年新徴組の一連の事件で鍛冶橋監獄に収監され、翌明治7年3月禁獄90日の判決を申し渡される。

・明治7年7月東京府へ貫属替

『上毛剣術史』・鈴木克久『峠越え』

   佐賀県域からの浪士組参加者たち (1名)

宇都宮左衛門

40

7番組小頭

姑妻子3人   ●肥前佐賀鍋島浪人 当時上州伊勢崎住居   ●『群馬文化』百号所収橋田友治論稿に「宇都宮左衛門が伊勢崎町に借家して、軍学指南の看板をあげていた云々」とあり。

文久3213日廻状中に「宇都宮左衛門代番武井三郎」とあり。 ・翌14日廻状に「宇都宮左衛門儀病気も追々快方ニ趣申候間、右隊長之儀は是迄之通可被相心得候云々」とあり。 ・同月24学習院へ建白書を持参提出した6人の浪士の中に名あり。

・「目録」に名なく、江戸帰還後早期に脱退。

「村上秋水日記」文久4111日条に「伊勢崎へ賀年行く。順庵、栗原恭輔、細野万助、栗原幹、宇都宮左衛門を訪う」とあり。

薄井竜之『筑波騒動実歴談』に「(野州大平山へ)上州より西岡邦之助、昌木晴雄、宇都宮左衛門ら百五十人の志士をひきいて前約を履んで出会云々」と。 ・「水戸浪士田中愿蔵看聞記」元治元年5月1日条に「肥州浪士宇都宮左衛門ゟ古久屋三郎次方江書状を以、近日之内我等尋罷越候仁有之候間、心配無之旅宿頼入候()野州足利郡大前村ゟ使ヲ以申越候云々」と。 ・同書同月12日条に「早朝浪人大平山江出立()大将分三人白麻ニ自分紋付羽織()宇都宮左衛門頭取与相見、弓矢ヲ携へ罷在云々」と。 ・同書同月18日条に「江戸表ゟ宇都宮左衛門ヲ尋参候平尾東巌斉()、熊谷四郎()八十宿へ行云々」と。

・『筑波戦争記』に「此領分(野州寺岡村)栗田源兵衛()、黒村(原注・新次郎)二十位、宇都宮(原注・左衛門)ト申者等」70~80人が513日から同月27日まで宿陣したと(阿蘇地方で金策)。 ・『甲子太平記』に「(5)廿八日(一団は)同勢栃木止りニて翌廿九日昼前之内小山宿へ出立云々」と。

・『筑波町史』に「六月二日再び筑波山へ帰還した筑波勢は、沼田村明蔵院に須藤敬之進、宇都宮左衛門の天勇隊が大筒を道路に向って配置して警備した」と。 ・『常野集』に、昌木晴雄と宇都宮左衛門が栃木宿の山本屋藤吉宅に616日「馬五疋鉄砲四挺鑓等を持込」宿陣したと。 ・宇都宮左衛門らが宗道河岸等で金銭等の徴発活動を行う。(「中山氏聞記」) ・『常野集』にも「廿八日水戸様浪人宇都宮左衛門と申もの上下拾九人、鎗鉄砲長刀其外鑓弐本押立、佐衛門儀騎馬ニ而相模守領分常州真壁郡久下村徳右衛門方江押込金弐千両可差出旨厳敷申懸云々」と。

・翌76日追討軍の来襲に備え宇都宮左衛門等は龍勇隊を率いて下館口沼田村に陣を敷く。(「波山始末」等)

・『波山記事』に同月9日の下妻合戦に際し「右四人之者指揮致(下妻城下へ)忍入候由」として飯田軍蔵、宇都宮左衛門の名あり。 ・同月21日の藤田小四郎らの水戸城攻めに反対して府中へ立ち退いた者の中に宇都宮左衛門あり。(『常野集』等)

7月末から8月初旬藤田小四郎らは府中に、滝平主殿らは玉里村円妙寺に布陣した際、滝平らが藤田に宛てた88日付書簡に「円妙寺警固は宇都宮、昌木、高橋等五日六日の二日二晩の約で参っている。()その後七日夜九ツ頃宇都宮、昌木、高橋らが円妙寺警固御免を云う。()宇都宮(前記2人略)ら昨晩は旅仕度致し居り、又々府中へ出向いたようす云々」と。(玉里村史』)

・『常野集』813日条に「府中出張、宇都宮左衛門、人数五十人程」と。 ・「伊東榮太郎日記」同月22日条に「府中止宿仕候宇都宮左衛門昌木春雄両人ヨリ林五郎三郎方へ書状ヲ以テ相頼越候儀ハ()今宵松平播磨守城下可焼払旨風聞有之ニ付、早速御立帰城下元固メ可被下趣云々」と。 ・「旭桜雑志」に「鮎沢公より既急使参り、神勢館大炊頭持張がたく候故、急御加勢願度由申来候故、其夜(825日カ)即刻仕度、明朝七ツ立つと定め、其節須藤啓之進()昌木、宇津宮等も同意に而云々」と。 ・後宇都宮等は小川、玉造へ移動したが、幕軍の攻撃を受け鹿島に集結した。

92日から3日に掛けて大平組と称する600人余の浪士が鹿島神宮に集結。この中に宇都宮左衛門あり。 ・「飛鳥川附録」に「五番隊長、西岡邦之助、宇都宮左衛門、人数九十人余、甲冑の騎馬七、八人何れも花やかなる陣羽織を着け、重藤の弓を持ち、甲冑にて矢を負へるもの二人、是は歩行武者なり云々」と。しかし、同月6日の幕軍の総攻撃で四散した。 ・『波山始末』に「鹿島の陥るや西岡邦之介等五、六十人遁れ去りて府中に到り、市店一百六十戸を焼き、藩兵と戦って之に勝ち、十数人を殺傷す。()土浦藩兵と田部井に合戦す。利あらずして衆徒退却し桜川を渡る。藩兵追撃する急なり。()宇都宮左衛門、林庄七郎、石橋民右衛門は走りて酒丸村安楽寺に入りて自殺す」とあり。

・「甲子見聞録」に「(9)九日朝酒丸村安楽寺と申寺へ散乱の浪人隠居候趣注進有之候間、早速繰出右寺へ打入候処五人隠居、五人の内四人は直様馬捨場にて首打申候、一人は角力取に候間小田村へ引連吟味の上令十日打首云々」と。 ・「家の記」に「筑波天王院聟之咄、同人事安楽寺隣山中と申油屋に細工致居候処、安楽寺境内裏の笹山にて緋毛氈敷二人自害、一人は宇都宮左衛門云々」と、又「宇都宮左衛門紫縅の鎧革の陣羽織を着、其上ござ着て打たれ申候」とあり。

宇都宮左衛門に関し、『波山記事』に「戸田采女正様元家来石田弾正、新徴組入一色次郎ト申候由」(『天狗騒ぎ』も同内容)、が、これは全くの別人。『史料宇都宮藩史』に、戸田二郎(光形、変名戸田弾正、老職戸田七兵衛光利ノ二男)は「五月浪士に応シ大平山ニ入り、後筑波山ニ入り、又那珂湊ニ転シテ同所ニ戦死ス」とある。 ・「都賀郡山田村記録」元治元年413日条に「四月十三日より追々水府浪徒大平山へ集屯有之云々」として「戸田弾正、宇都宮左衛門、昌木晴雄」と列記あり。

太田市史史料編』・『蘭方医村上随憲』・『水戸史学』中水代勲「昌木晴雄小伝」・『水戸藩史料』・『元治元年』・『下妻市史料』・『筑波町史料』・『水戸浪士西上録』・『天狗騒ぎ』・『栃木県史史料編』・『野史台維新史料叢書』29・『水戸幕末風雲録』・『天狗党鹿島落ち』・『筑波戦争記』・『鹿島史叢』・『麻生町史』・『武田耕雲斎詳伝』等

 

●以上浪士組士総人員は222人。これに石坂周造、村上俊五郎を加えて224人。

 なお、石坂周造と村上俊五郎についても、次回以降で取り上げたいと考えています。

14の11 【近畿地方の浪士組参加者たち】

 

兵庫県域からの浪士組参加者たち (6)

  姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

大島一学

 後に学

 名・正照

38

5番組

後乱暴者取押役

妻1人 ・松平修理大夫高近家臣大島一学子

摂州西成郡三ツ谷村出生 ・当時江戸鎌倉町住居(鎌倉岸荒木堂)

柳生心眼流柔術(大月興左衛門高弟)

文久3215日順達に「右者乱妨人取押方申付候」として大島一学の名あり。

新徴組入り ・「目録」に33番玉城織衛組平士大島一学の名(この後改名か)あり、「組別名簿」に小頭玉城織衛組平士で大島学の名あり。後に小頭兼柔術教授方。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に3番隊伍長で名あり。

・「田川温泉場寄宿帳」に「五番組小頭大島学、長男久吉」とあり。 ・「開墾士氏名」に長男大島久吉の名あるも大島学なし。

明治77東京府へ貫属替 

山岡鉄舟の援助で東京小伝馬町付近で柔術道場を開き、傍ら明治女学校等で教授したという。又一時期加納治五郎も大島に学んだともいわれる。

吉野式『新徴組研究』第9

木村久之丞

 名・重治

36

道中目付

不明   ●播磨国姫路浪人 当時斉藤熊三郎同居

『水戸史談』中岩谷信成の談に「姫路の木村久之丞」、「於筑波山尊攘奮起之義士分職姓名」に「姫路新段()組より出物微部(ママ)木村久之丞」とあり。

全生庵「尊攘遺墨連名者名簿」の虎尾の会支援者中に木村久之丞の名あり。

文久3215日廻状で乱妨人取押役に選任さる。

・同年5近藤勇の書簡に「右清河八郎、村上俊五郎、石坂周造、木村久之丞()右六人ハ洛陽におゐて梟首可致と周旋仕候処云々」とあり。

浪士組江戸帰還後の清河八郎らによる横浜焼打ち計画には関与しなかったらしい。(415評定所召喚者等の中に名なし)

新徴組入り ・「目録」に名なし。文久3519日世話役に選任される。 ・小山松『新徴組』に、7月組士佐久間権蔵を仇とする西山祐之助の13歳の遺児に同情した世話役山田一郎、岩城太熊、木村久之丞は、佐久間を門前払いするよう支配神津に意見書を提出してが、結果は返って厳重慎みの処分を受けることとなったと記されている。

・中村正行「忠士日記」には、7月上記3人に対する申渡書」に「其方共世話役御免申立直ニ三笠町屋敷立去り、其後追々所存之趣承り候処、同志之義深存込廉々申立候ケ條之内、連月御手当金之義ハ既ニ御指図も相済候事故難相整候、其伺之義も不容易筋ニ有之候得共、存込候義無謂筋無之候間、成否者難計候共、様々尽力致し申立候様、就而者一己之覚悟をも致し候程之義、且ハ数々無断外宅致候段、子細有之儀とハ乍申、規則ニも拘り候間、願之通世話役御免、尤局中不打合候儀も相間候間、当分之内酒井左衛門丞屋敷江相越、理非分明致し候まで慎ミ可罷在候」とある。(『柚原鑑五郎日記抄』に同じ記事あり) ・86日付廻状に、3人及び「外壱人」に関し「右之者先達て中、酒井繁之丞屋敷ニおゐて為取慎置候処、去ル五日夜六ツ時頃門出いたし、行衛不相知候間云々」とあり。

長谷川伸「よこはま白話」に「元治から文久かのことだろう、山田一郎、岩城詫摩、木村久之丞などという浪士と称えるものがよこはまに潜入して、欧米人と商取引する商人に天誅を加えるといって呼び出しをかけた。この奇禍に罹ったものが幾人かあった」とあるが。(長谷川伸全集』第12)

・新徴組脱走後は山田一郎らと水戸の文武館に寄寓。※『水戸史談』中の岩谷信成の談話に「(小川・潮来郷校に)其れから新徴組で異論を唱えて立退いた姫路の木村久之丞、水戸の長谷川庄一郎など七八も居った」と。

元治元年水戸天狗党の筑波挙兵当初からこれに参加する。 ・「日光山義挙姓名並紀聞祿」中に龍勇隊(軍将沼田準次郎)隊長の一人として名あり。 ・元治元年44日石橋宿宿陣に年寄伴蔵方宿泊者に「山田一郎上下十三人、木村久之丞上下十人」と。 ・石橋宿役人の届出に「()下宿之内山田市郎様、木村久之丞様白地無地幕を張、御着之砌御行列真先ニ切火縄鉄砲左右江弐壱拾挺云々」、又「山田市郎様、木村久之丞様其外何れも白胴着ニて袴を懸割羽織袴着用云々」とあり。(『皇国形勢聞書』) ・『前橋藩松平家記録』中「宇都宮江屯致人数百五十人程之内重立候もの」に木村の名あり。 ・「行軍録」に「左軍龍勇隊伍長」として名あり。 ・「都賀郡山田村記録」に「四月十三日より追々水府家浪徒大平山へ屯集有之云々」として「小松屋旅宿、小荷駄奉行、室町稲太郎、木村久之丞」等々あり。 

・「甲子年七月筑波山楯籠居候浪士性()名、但し重立つ候者計」に木村久之丞の名あり。 ・8月筑波勢の分裂に際して鹿島に赴いたか。青木邦之介の獄中血書中に「木村久之丞、剣客」とあので、9月初旬鹿島に集結した青木邦之介らと行動を共にしていたらしが、詳細は不明。※山田一郎の筑波勢脱退後は、資料上木村久之丞の名を見ることは少なくなる。

『歴史のなかの新選組』に「(筑波挙兵の)敗北後姿をくらまして京に上る。慶応3年原市之進暗殺とのかかわりにより投獄され獄死する」と。 ・全生庵墓地の山岡鉄舟墓石左脇に依田雄太郎、鈴木常太郎、同豊次郎、笠原八雲、木村久之丞、清水武二郎の合葬墓あり。※管見ながら木村久之丞(笠原八雲、清水武二郎を含め)が原市之進暗殺に関与したとする史料には出会えていない。

『史談会速記録』広瀬重武の明治25715日の談話に「28番長屋に、諸藩の有志と共に居ましたが、其重たつ者は田中河内介親子()浪士清河八郎、安積五郎、木村忠之助、藤本鉄石等」とある木村忠之助とは。

『甲子雑録』・『常野集』・『下野史談』・『栃木県市資料編』・『下妻町史料』・『筑波町史料』・小山松『新徴組』・『波山紀事』・『南梁年録』・『水戸幕末風雲録』・『下野勤皇烈傅』・『筑波戦争録』・「勤王志士青木彦三郎傅」等

小林登之助

36

7番組

不明   ●播州佐用郡森伊豆守(三日月藩)家臣小林官之進弟 ・当時江戸外神田御成道京屋ニ罷在候

安政年間、神田お玉ヶ池に砲術道場を開く。 ・『丁卯雑拾録』に「小林登之介と申希世之豪傑有之、当時桃井俊蔵缺小林登之介缺と申候神田於玉池ニ住し寄宿之門人も多く有之候」とあり。

小山松『新徴組』に「小林登之助はお玉ヶ池の砲術塾を門人の師範代に預け、浪士組に応募した。登之助は門弟たちの将来を考え、まず自分が参加してその内情を探り、もし適当であれば、門弟をもこれに入れようと計画を立て、門弟たちともいろいろ相談しこれに応募したと思われる』と。

「慶応二年五月酒井左衛門尉附属大砲組内願書』中に「去文久戌年中上洛之刻浪士御取扱之御方々於京地被仰渡候有志之もの共猶召募可申趣承私共一同九拾有餘人赤心報国之為一命を奉幕朝必死之御奉公相勤度段同三亥年中同志之内小林登之助ヲ以申上云々」とあり。

「柚原鑑五郎日記抄」文久3415日条に「小林登之助御老中松平豊前守殿へ罷出私共七番組の者は何れも赤心の者にて別心なく、勿論金策等に携はり候事無之、御疑を受候ては迷惑之趣申立候処、豊州尤の儀なれば若し町奉行より沙汰有之共豊前守声懸りの者と相□候て可然と被申候、又候登之助豊前殿へ罷出候処、尚被仰□は此方一人心得居候ても外にも多きもの故、何等申来候て却て面倒に可成候へは評定所()其後登之助外三人鵜殿へ参り候処病気にて逢兼候趣云々」と。

新徴組入り ・「目録」に練兵教授方として名あり。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久38月条に「砲術心得実名前」4名中小林登之助の名あり。 ・小山松『新整組』に「文久38月頃、登之助は、新徴組支配川津三郎太郎に対して、大砲組志願について、老中板倉勝静に周旋してくれるよう頼んだ。()小林組は9月から10月にかけて、閣老板倉勝静の「格別の思召しを以て内御用の儀」の仰せを受けて江戸市中取締りに当った。()小林組の江戸取締りは、死中のみならず近在近郷までも探索し、法を無視する乱暴者を捕縛したことがあり、十一月には小林組全員、一人あて白銀五枚ずつの賞与があった。同じ十一月、板倉閣僚より庄内藩に対し、小林組を預かるようにとの命が伝えられた。小林組は庄内藩預りの新徴組と並んで府内警備の先頭に立つのである」と。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久3912日条に「小林登之助被仰渡同断新徴組練兵教授方小頭過人被仰付候」とあり。

・『官武通紀』に「同(文久310)廿六日朝五ツ時頃、新徴組調役大澤源次郎、小頭小林登之助、外に三十六七人に而、手前浅草茅町初五郎と申者に案内為致、一同品川へ参り()、右(旅籠坂本屋)に休息致し、今日一橋殿御発駕に付、御供之内に目懸け候者有之、相待居候と申候趣、然処俄に御舟に而御出立相成候に付、右を承り一同引取申候由云々」とあり。(「探索書」)

・『藤岡屋日記』文久3111日条に「侍体之男弐人、右は於榎坂辺ニ抜刀を以駆廻り候ニ付、新徴組小頭小林登之助門弟共取押候ニ付云々」と。

文久31128日、小林登之助は深川越中島で、門弟小林組90余人を指揮して、林流(林流)練兵の真髄を披露した。(小山松『新整組』等)

・登之助は新徴組の荘内藩預けの際、門人90余人を引き連れて幕府への仕官を画策した。幕府はこれを認めず文久311月新徴組同様荘内藩預けとし、翌年9月には大砲組と命名、正式に荘内藩付属の隊となった。なお、大砲組士達はその後も幕府直臣を希求、慶応25月隊士80余人が提出した内願書が『淀稲葉家文書』の中にある。その書中に「幕朝江御奉申上奉微躯賤名を子孫ニ遺候宿願ニ御座候故、亥年子年共貮ケ年活計ヲ廃し、妻子を棄勉励罷在()、右二ケ年之間不給無祿ニ而瑣細之家財を典却し又売払取続罷在候儀故、必死と困究至極仕云々」、「私共尽忠報国之儀申立候は、彼等(新徴組)と同志ニは御座候得共偽名を報国ニ託し暴行之所業相働候儀を忌嫌専奉御内命、且は正誼之次第判然と相立度存念より、彼等と暫時敵仇之間と相成云々」、「幕朝江御奉公仕候上ハ扶持祿等ニ付多少之望聊無御座襌偏ニ身命を抛、貳百五十年来之御恩澤ニ奉報度一同之宿願ニ御座候」等と記されている。

・『歴史のなかの新選組』に「元治元年10月依願永暇」と。小山松『新整組』に<慶応元年六月の「新徴組組別名前帳」に「小頭過人、小林登之助」とあり、さらに「病気永暇」とある。これは元治元年11月に新徴組を脱退したことを正式に届け出せず、病気といって休み、大砲組に入ったのであろう>とあり。又同書に「小頭過人というのは、結局余計者である。余り者の扱いである。それで登之助は新徴組には病気として永の暇をとってそのまま脱退したのであろう」と。

・「御用私記」元治元年12月条に「昨十四日御老中御連名之御奉書御到来()、新徴組者勿論、小林登之助始門弟共迄御家来同様御取扱、拾七万石之御軍役被成御勤候様云々」とあり。

「慶応三年十一月江戸風聞書」に「(月不明)十五六日ニハ御旗本納金中井新右衛門ニ集り候事を存同家江押入候事」、「押込之夜ハ必薩人重立候者品川ニ遊居候由云々」等として「小林登之助者元ゟ同意云々」とあり。(『淀稲葉家文書』)

・『丁卯雑拾録』同年10月から12月までの風説に「()浅草御蔵前坂清と申蔵宿へ欠矢を以表の戸を打砕四五十人ニ而押入古金二三萬両()奪取し由其外()大小盗多く探索方も不行届よし()然る処右之者(酒井侯附属小林組)之所為成よし探索ニ及といへとも容易ニ難召捕、町方役人より内々酒井家へ御頼ニ相成、酒井家ゟ深夜数十人押懸彼小林宅を取巻寝所へ踏込家内残らす斬殺し、家内を展検仕候処彼坂清にて奪取し古金初其餘数千両有之候由、巷説ニは御座候へ共専風聞仕候云々」と。

・小山松『新徴組』には「小林登之助は、慶応三年十月、長州藩に内通しているという嫌疑により、神田の居宅を新徴組に襲撃されて生命をおとした。闇の中の襲撃だから、小林の子まで斬られたという」と。

・高麗神社第56代社掌高麗大記の『桜陰筆記』に「謀叛人小林昇之介当月初酒井左衛門尉殿之手へ被召捕候由、妻子廿五人、是ハ関東の頭の由、展しり諸大名御召ニ而上京也、留守ニ乱ヲ起し八州諸城ヲ乗取、江戸ヲ焼払い云々」と。

『日野市立歴史館叢書』第15輯・『庄内史料集16-1明治維新史料 幕末期』・吉野式『新徴組研究』第5号・(小説)子母沢寛『幕末奇談』、『小説のタネ』

平山五郎

35

六番組

不明   ●播州姫路浪人

神道無念流斉藤弥九郎篤信に師事、免許者と。

鏡新明智流桃井春蔵門人樋口孫三郎(出石藩)の「撃釼英名録」に「鏡新明智流桃井春蔵門人、()当山兵部少輔家来、平山五郎」と、又松山藩士柴田鉄平清貞安政521日の日記に「此度播州姫路御中雅樂守御藩中、鈴木流無念流一ツ宮方、門人平山五郎修行として罷越、追て手合有之候積り」と、同日記同月9日には「酒井雅樂守様藩中、鈴木流無念流一ノ宮隊方門人平山五郎、今日手合有之候とあり。又神道無念流岡田助右衛門利貞門人佐藤万次郎(八戸藩)の「釼術修行帳」に「播州姫路藩、鈴木流神道無念流釼術、一ノ宮録蔵門人、平山五郎、右は安政五年三月十日試合」と、又直心流萩原連之助(相模国鎌倉村)の試合記録「剣客名」翌安政6

524日に「姫路藩神道無念流、堀川福太郎門人、平山五郎宅、未五月廿四日面会」とあり。

(以上は『歴史研究』第697号掲載、浦出卓郎氏「壬生浪人たちの修行時代」より)

浪士組上洛後、芹沢鴨近藤勇らと新選組を結成、副長助勤となるが、同年918日八木源之丞邸で近藤勇一派により暗殺される。

・西村兼文『新撰組始末記』に「平山五郎ハ三南敬助原田左之助之二士ノ為ニ殺害セラレタルハ事共也、娼婦ハ此紛乱ニ逃失タリ云々」と。

花火を製作中の事故により左目を失明したという。

壬生寺芹沢鴨と連名の墓・東京北区滝野川の寿徳寺境外墓地の新選組供養碑に名あり。

山本左右馬

  莊馬

38

5番組

不明   ●播州林田藩建部内匠頭元家来山本鶴司養子 当時江戸神田二番町筒井武左衛門同居山川安左衛門家来高島源蔵同居

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」に小頭兼槍術教授方で名あり。※「柚原鑑五郎日記抄」文久3年9月7日条に「山本左右馬、富田忠右衛門、手塚要人槍術教授方組中取立方は勿論稽古場取締専務に相心得一同申合可相勤御手当金月々一両宛被下置候」とあるので、槍術教授方選任はこの時か。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に1番隊伍長で名あり(新徴隊取扱頭取林茂隊)

「開墾士氏名」中に名なし。山本達馬とある人は。

明治6年10月寄留替 ・『歴史のなかの新選組』に「明治610月より神田五軒町建部従五位邸内寄留の山本莊司は同一人と思われる」と。

吉沢徳之進

 後小源太と改名ヵ

31

7番組

不明   ●播磨国明石藩松平左兵衛督元家来 当時江戸牛込山伏町石尾寅之助家来田中武右衛門方同居

新徴組入り ・「目録」に7番吉田庄助組平士、「組別名簿」に小頭中村錦三郎組平士で名あり。 ・元治元年2月28日「昨年中剣術出精ニ付、為御賞誉左衛門尉殿より小菊紙」を下された者の中に名あり。 ・慶応3423日夜忍廻りの節猿若町で強盗を捕らえた事件で、組士一統に金百疋づつの骨折料を賜る。

慶応4年庄内入り(家族3) ・以後「戊辰庄内戦争出張姓名」、「開墾士氏名」、「田川温泉場寄宿帳」、「明細書麁調」、又貫属関係資料等に吉沢徳之進の名はなく、代わって全て吉沢小源太の名が記されている。改名か。

吉沢小源太は明治64月寄留替

   京都府域からの浪士組参加者たち (3)

新井式部

18

五番組

不明   ●城州京地浪人

「高木潜一郎浪士組従軍日記」文久333日条に「今日番手ニ而御見廻り役人松岡万、吉田庄助、西村泰翁、新井式部云々」とあり。

上山藩士金子与三郎の清河八郎文久341日付書簡に「書中を以申上候、然は新井式部親病死に付、在所へ引戻し申度由、尤同人帰府前拙寓の右在所より追々迎ひの人参り申候、右に付山岡君え御相談被下、明朝にも帰郷致候様取計被下候、委細は当人り御聞取可被下候云々」とあり。

谷右京

63

5番組

妻子2人 ・丹波国柏原藩士生駒彦左衛門子

丹波柏原浪人 谷中新堀村酒井五左衛門地面に住居。

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」に砲術教授方として名あり。 ・「人名移動詳細」には、五番山本仙之助組平士として谷右京の名あり。

・小山松『新徴組』に文久36月末日松平上総介から谷右京への申渡書に「病気脱退の儀聞き届け難く、心長く養生致すべし」とあり、根岸友山の「御用留」に文久3713日付で「谷京、右病気ニ付、永之暇相願候処、願之通難相成、心永養生可被致旨、御支配より被仰渡候、此段御心得御達申候」との廻状文あり。

・「柚原鑑五郎日記抄」同年912日条に「谷右京()従来防禦之術致鍛錬居候趣に付、攻守の利害火砲の得失等佐野三郎申合新徴組兵勢相立候様可致依之過人被仰付云々」とある。 ・元治元年7月脱退。

川路聖謨「座右日記」文久3527日条に「窪田治部右衛ゟ之書状に而浪人河野音次郎、谷右京来る。面謁、両人共大砲之事を申来る。音次郎は岩槻在、右京は丹波之もの也と云」と。

『林鶴梁日記』の「嘉永三年覚書」に「谷右京ヵ左京ヵ、丹波ノ織田(原注・柏原織田出雲守二万石)ノ浪人、浅草辺住居、砲術家、奇術、五十歳計」と。

明治1025日没。墓は東京荒川区の南泉寺

吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号(詳細あり)・「大工手中明王太郎の江戸時代の日記」に谷右京の名頻出。

辺見米三郎

35

6番組

親妻子4人  ●城州葛野郡洛西桂浪人 当時江戸相生町4丁目住居

新徴組入り ・「目録」に31番鯉淵大三郎組平士に名あるも「組別名簿」に名なし。・柚原鑑五郎の「日記抄」文久38月条に「今日組入、辺見米三郎組合へ稲田隼之助」とあり。・根岸友山の「御用留」に同年9月中の組中廻状に小頭として辺見米三郎の名が確認できるが以後不明。

   和歌山県域からの浪士組参加者たち (2)

井上忠太郎

  (丑太郎)

 名・道明ヵ

29

4番組

不明 ・加藤出羽守元家来井上政之助子

伊予大洲浪人 ・当時牛込拂方町翁や常三郎方住居

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士井上忠太郎、「組別名簿」に小頭瀬尾権三郎組平士井上丑太郎の名あり(改名ヵ)。「黐木坂屋敷絵図」にも井上丑太郎で名あり。・後に槍術世話心得(槍術世話方)

慶応4年庄内入り(家族2) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に2番隊平士で名あり。 ・「開墾士氏名」に名あり。

明治55月高尾文吾と楽岸寺業輝が病気治療の帰路知人宅(尼寺)で饗応を受けたことで「高尾申合之規則破り病気に加こ徒希(つけヵ)尼寺江立酒食等いたし候言語同断之義割腹為致可然□存候、尤強而進メ候而も不致候ハハ大小取上揚家内之者江渡置禁錮拵発狂致し候与申立長く入置其内ニ□□慮も可有之各罷越右之件取計候様ニト申聞候、依之右両人外ニ組合ニ而井上道明高尾宅江罷越右之件今申聞候得共割腹ハ不致申候間大小取揚家内之ものへ渡シ候云々」とある井上道明は井上丑太郎か。(中沢貞祇の記録)

・明治65月司法省酒田臨時裁判所の召喚により東京を出立した旧新徴組士の中に井上道明あり。

明治76東京府へ貫属替(井上道明)

『上毛剣術史』

住山涛一郎

29

7番組

親妻子4人 ・浪人住山惣右衛門子

紀州和歌山浪人 当時江戸本郷菊坂町与七店寓居

新徴組入り ・「目録」に34番三村伊賀右衛門組平士、「組別名簿」に小頭三村伊賀右衛門組平士で名あり。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久三年8月条に「砲術心得名前」として住山涛一郎の名あり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に1番隊平士で名あり。・「開墾士氏名」には涛一郎の名なく、住山正一郎の名あり、子か。

・明治665日司法省酒田臨時裁判所の召喚命令により江戸を出立した旧新徴組士の中の住谷盛常は。

明治76月貫属替

「開墾士氏名」に載る住谷正一郎(守常ヵ)は涛一郎と共に明治76東京府へ貫属替。

『上毛剣術史』

   大阪府域からの浪士組参加者たち (1)

田中範也

36

4番組

不明   ●摂州麻田藩青木家浪人 当時斉藤熊三郎同居   ●「目録」に名なく去就不明

   三重県域からの浪士組参加者たち (1)

家里次郎

25

1番組

不明 ・富農小林清右衛門次男 ・天保10年生・幼名次郎  ●伊勢松坂大黒田新田 ・当時中山道桶川宿に寓居

小林次郎は母の実弟で儒医の家里悠然の養子となって家里次郎と名乗る。なお、それ以前に次郎の伯母(母の妹)の子新太郎(儒者)が悠然の養継子となり家里家を継いでいた。

新選組大人名事典』に「安政4年には京都の新太郎の家に厄介になっていたが、その行動は<無頼><風流男子>と評されるものであった。のち修学のため江戸へ出て、同五年武州大里郡甲山村の根岸友山を訪ねる」(出典不明)とある。

・浪士組参加当時の居所「中山道桶川宿」は恐らく桶川本陣府川甚右衛門家であったと思われる。当主甚右衛門は、昌平黌から松本奎堂や岡鹿門等を招いて講義を受ける程の好学の人であった。府川家は根岸友山の母の実家でもあり、友山の曽祖父の妻も府川家の人であった。甚右衛門は池田徳太郎とも旧知で、文久3114日付で浪士徴募途中の池田徳太郎が甚右衛門に宛てた書簡中に「いづれ当月廿五日頃は軍勢相そろひ、其御陣屋へ相をもむき申候、何分其御地辺の豪傑も御集メ置可被下候、学文剣術には不及唯勇猛義気盛ナル者にて宜敷、年令は二十三十のものをも宜敷御座候、御精力可被下候云々」とある。甚右衛門も浪士募集に深く関わっていたのである。家里次郎はこうした関係から根岸友山の組織した甲山組(1番組)に名を連ねたのだろう。なお、甚右衛門はこの年3晦日に病没している。

浪士組江戸帰還直前、1番組の家里次郎と殿山義雄に対し、鵜殿鳩翁から「有志の者相募候はば、京都江戸の内え罷出候儀は、其者の心次第可致候、京都に罷在度旨申候者は、会津家々中え引渡、同家差配に可随旨可被談候」命じられている。ⅩⅡ【京都守護職の浪人対策と浪士組】で記したが、これは通説とは異なり、浪士組内部の問題ではなく、広く京坂の浪士の募集指示書であったと思われる。 ・上記により、家里次郎たちは「芹沢、近藤らの京都残留に同意して京都守護職御預りの壬生浪士の一員として新選組発祥の礎となる」(新選組のすべて』)とする通説の誤りであることもⅩⅡで指摘した。

文久3424日大阪の土佐堀川に架かる常安橋脇の町会所で、芹沢鴨近藤勇らによって詰腹を切らされる。 ・「井上松五郎日記」同日条に「()淀川筋御城下其他参り、ざつこ沢山取酒宴。浪士芹沢、山南、平山壱人網ニ而取るざこ煮付、酒宴催、其後、近藤参り、夜ニ入近藤ヲ送り常安橋会所迄泊り。家里次郎殿少々切腹いたし、浅きつ。」とある。 ・ⅩⅡで家里の死を、浪士の召募に関係してと断定したが、殿山義雄のような斬殺でなくなぜ切腹だったのか。

新選組日誌』

 

14の10【中部地方の浪士組参加者たち(2)】

(愛知・福井・静岡・石川・富山県)

愛知県域からの浪士組参加者たち(5)

  姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

市岡重太郎

25

五番組

親両人  ●尾州浪人、当時麹町五丁目大横町本多巳之助(柔術)方寓居

新徴組入り 「目録」に18番仁科五郎組平士、「組別名簿」に一色次郎組平士で名あり。

・元治元年2月廻状に「市岡重太郎、右之者不正之筋有之候ニ付、尋中其方(中村定右衛門)組合え預ケ申渡云々」とあり。『歴史のなかの新選組』に「慶応元年三月不埒の儀有之、永牢病死」とある。

・中村定右衛門「御用留」に「子三月朔日、一五両也、内壱両壱分 定右衛門分外ハ壱人ニ付金三分ツゝ、関口・荒井・内田・秋山・市岡〆五人分」と。

・小山松『新徴組』に、文久31120日「いよいよ庄内藩の勢いが強くなり、圧迫もひどくなるだろうと考える者があり、いち速く次の八人が脱退・脱走した」とある8人の中に市岡重太郎の名あり。

『日野市立歴史館叢書』第11

伊藤亀之進

23

2番組

親両人 ・尾張藩士河野兵助8

尾州名古屋浪人 当時相生町四丁目住居

文久3415評定所召喚22名の中に名あり。(鵜殿・中条家来預け)

新徴組入り ・「目録」に24番大津彦太郎組平士とあるも「組別名簿」に名なく去就不明。

「麁調」に「伊東虎之助、亡父伊東十郎儀尾州殿家来河野兵助八男にて、文久亥年正月集会仕、同二月御上洛御先供仕、還御後御組入被仰付云々」とあり。

・虎之助は庄内入り(家族2) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」1番隊平士に伊藤()寅太、「開墾士氏名」に伊東寅太とある人か。 ・伊藤()虎之助は明治77月貫属替。

稲熊力之助

 名・繁樹

24

6番組

不明   ●尾州愛知郡戸部村浪人 当時大島一学方ニ同居 ・『東西紀聞』に「元御手筒同心当時浪人江戸住稲熊力之助ゟ之文通之内云々」とあるが。

文久3415評定所召喚者22人の中に名あり。

・小山松『新徴組』に「石坂(周造)は藤本昇をこちらから出向かせて、(高崎藩士に対して)何ゆえにかかる包囲をなすのであるかを問わせた。付き添いは稲熊力之助、小山僖一郎である」と。

新徴組入り ・「目録」に4番山田官司組平士、「組別名簿」に中沢良之助組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族4) 「庄内戊辰戦争出張姓名」に1番隊平士で名あり。 ・「公私日記」慶応47月新庄表出張者名に「稲熊力之助弟稲熊小次郎」とあり。 ・「開墾士氏名」に名なし。

・『戊辰庄内戦争録』に「此日(913)稲熊若林ヲ大代ニ遣シヌルニ昨日ヨリ敵大代ニ陣屋ヲ設テ居ルト農夫共ニ聞シト報スト」と。

明治64月司法省酒田裁判所呈出の稲田隼雄、尾崎恭蔵事件に関する奥秋実昌、猪熊繁樹、中村貞成連名の口上書あり。(中沢貞祇記録) ・同年725日付、椿佐一郎事件に関する酒田臨時裁判所での佐々木正健と連名の「再御調御手続書写」あり。()

明治76東京府へ貫属替 ・明治18年当時本郷区元町住

小沢義光等と清河八郎顕彰のため「旧新徴士会」を結成。明治422清河八郎贈位報告追悼祭を開催、同445月浅草伝法院で清河八郎50年祭を挙行した。

『上毛剣術史』・『日野市立歴史館叢書』第15輯・吉野式『新徴組研究』第7

佐々木周作

 名・正勝ヵ

35

5番組

不明  ●内藤金一郎元家来 当時大島一学同居

・「麁調」に、生国三河、元挙母藩内藤金一郎家来、設楽郡津奥村佐々木喜三郎子とある。

新徴組入り ・「目録」に35番中川一組平士、「組別名簿」に中川一組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族3人)

・「庄内戊辰戦争出張姓名」に2番隊平士で名あり。・「開墾士氏名」に名あり。

明治7年7月貫属替

小山僖一郎妻の墓誌に「()清高清重及□□□□□文之助成重佐々木周作正勝皆武州□□之参也云々」と。

原田儀助

23

五番組

不明   ●三州吉田浪人 当時浅草三軒町西村次一郎同居 ・「明細書麁調」に「生国三州渥美郡村上村、百姓久治郎子」とあり。

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士、「組別名簿」に小頭瀬尾与一郎組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「田川温泉場寄宿帳」に「四番組小頭渡辺平作後任」とあり。因みに渡辺平作については「四番組小頭より柏尾の後任として二番組肝煎」とあり。 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に1番隊伍長で原田儀助の名あり。 ・「開墾士氏名」に名なし。

福井県域からの浪士組参加者たち(4)

坂井友次郎

29

四番組

不明   ●越前福井浪人 当時大島一学方ニ住居

『歴史のなかの新選組』に「帰府後離脱し、下野国江川村の斉藤源十郎方に厄介になっていた。113日勝野保三郎とともに上京、それ以降不明」と。

「勝野正満手記」に「仝年(文久3)十月(原注・日ヲ失ス)野州足利在江川村ニ寄寓セル新徴組ニテ同隊ニ在リシ越前人坂井友次郎ナル者ヲ誘ヒ帰リテ十一月三日江戸ヲ発シテ上京ス()(元治元年五月)ヨリ先キ、坂井ハ大野氏(水戸藩士大野謙介)寄食シ」と。

青木彦三郎の坂井友次郎勝野保三郎宛書簡中(日不明)に「両兄御道中無御障去霜月十二日御到着之旨大悦々々猶同月二十二日御認之貴翰去臘月二十九日相達拝読委細敬承御厚意之條々感激ニ不堪令拝読候、螻蟻の微身国恩の万一を報し度砕身周旋、尚己きる決心にて勉強罷在候、扨御書中有志一人も無之旦模様大変等の件々血涙の至りに御座候云々」と。

「勤皇志士青木彦三郎傳」

瀬尾与一郎

 後に権三郎

 名・直重

28

7番組

不明  ●越前福井浪人(松平越前守臣瀬尾権八)

新徴組入り ・「目録」に26番組々頭、「組別名簿」に小頭で瀬尾与一郎の名あり。 ・「明細書麁調」に小頭兼槍術世話方として瀬尾権三郎の名あり(千葉「維新前後の荘内藩」にも槍術世話方とあり)。 ・「田川温泉場寄宿帳」には4番小頭で名あり。

慶応4年庄内入り(「麁調」に「家族なし」と) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に2番隊伍長、「開墾士氏名」に瀬尾権三郎の名あり。

・明治57月、稲田隼雄割腹事件に関係し、締役長屋玄蔵による稲田糾問の際列席した5人の新徴組士の中に瀬尾権十郎あり。 ・明治65月酒田臨時裁判所の召喚命令で東京を出立した者達の中に瀬尾直重あり。

・酒田裁判所出頭者「一同日記」同年718日条に、この日酒田に到着した一行中に瀬尾直重あり。「日記」では大野嘉右衛門事件(詳細不明)を主に尋問されたらしい。

明治76東京府へ貫属替

・吉野式『新徴組研究』第5号に、明治214月の陸軍省の記録に「故2等巡査瀬尾直重」等とあると。

『上毛剣術史』

中川一

40

狼藉者取抑役

妻子4人 ・福井藩士中川清閑2男 ・文政6724日生

越州福井浪人 当時江戸京橋松川町ニ住居

天保9年武術修行のため出府、揚心流柔術を戸塚彦右衛門に学び、免許皆伝を許される。又新陰流剣法を修めて江戸京橋松川町に道場を開き、門人を育成する。

文久3215日廻状に「右乱妨人取押役申付候云々」として中川一の名あり。それ以前は不明。 ・「高木潜一郎日記」同年226日条に「目付、中川一、見廻取締」とあり。

新徴組入り ・「目録」に35番組々頭、「組別名簿」に小頭で名あり。 ・「明細書麁調」に「六番組肝煎」とあり。又、柔術教授方を勤める。

・元治元年68日の池田屋事件3日後、近藤勇は中川一宛に事件の顛末を報告する書簡を送ったと。

・慶応353日「四月廿三日忍廻り之節於猿若町金子強談之注進有之早速駈着云々」として、金150疋を賞与される。

慶応4年庄内入り(家族4) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」、「開墾士氏名」に名なし。 ・同年7月荘内藩家中組に編入され村山郡の代官となり、百石を給される。

明治64月奥秋実昌等(2人略)が酒田裁判所に呈出した「訴訟仕候六ケ条御調手続口上書」中に「中川一(4人略)稲田尾崎追付候由ニ付追打加募トシテ罷越候」等とあり、中川が尾崎恭蔵割腹事件に深く関わっていたことが記されている。 ・同年同月24日若林守信等が裁判所呈出の「訴訟仕候六ケ条御調手続」中に「(桂田寛吾が)割腹ト覚悟いたし候ニ付()助命為然致度奉存候、尤長屋玄蔵宅ニ中川一(5人略)扣居候ニ付中山四郎幷私共罷越助命之義申立候処、中川申聞候ニハ血盟幷同志申合之切磋素意ニ背候大胆成者故割腹申付候様赤澤源弥ゟモ内意有之()助命之義不相成候、此旨当人江申含割腹相進可」と指示したと。 ・椿佐一郎割腹事件に関する佐々木正健等の「酒田ニおいて酉七月廿五日再御調手続書写」中に「和田東蔵宅酒を調ひ種々佐一郎越饗応いたし深く酔居候処荒井縫右衛門萩谷手早く首縄掛〆縊候処中川一金玉蹴殺し候哉区々風聞有之候」と。

旧新徴組士達の訴えにより、明治7年禁獄90日の刑に処される。

千葉弥一郎『維新前後の荘内藩』に「廃藩置県飽海郡菅里村に移住し、同村の戸長となり、同村で没した」と。 ・菅里村の自邸内に道場を設け、公務の傍ら近隣子弟に剣術や薙刀を教授したという。

・『新編庄内人名事典』に「飽海郡北目区務所戸長にあげられて市条村の戸長を兼ね、同17(1874)7月遊佐村戸長に転ずる。70歳で病没、長男寅蔵は高瀬村の4代目村長となり、長女福は点字楽譜創始者として知られる遊佐の佐藤国蔵に嫁した」とある。

明治25811日歿 享年70歳 墓は菅野中学校(廃校)の裏山(吉野式『幕末諸隊研究・五周年記念号』)

『上毛剣術史』・小山松『新徴組』・『新選組大人名辞典』・『日野市立歴史館叢書』第1011

吉田五郎

25

四番組

兄弟5人   ●越前国敦賀郡敦賀新田筑屋敷村住(郷士) ※他の名簿に「敦賀郡笹屋敷村」、又「敦賀築山の郷士」、「敦賀郡笹屋村」出身とあり。

「目録」に名なし。在京中か江戸帰還前後に離脱か。

・村上俊平「潜匿日記」文久3511日条に「芳原の金瓶大黒楼に逗ず、翌夜吾党を伺(窺ヵ)うを告ぐる者ありしにより、吉田五郎、五島万帰一、武井十郎と郭を去る、吉田主税送て郭外に至る()小梅の常泉寺前嶺松寺に潜匿す」。 ・同書同610日条に「此日正岡、松岡、吉田、武井等へ書状を差出す」。 ・同書同月15日条に「鯖江を発し福井の家来本多氏の居城府中に至る、市中妓楼多く甚だ繁華なり、其医生を訪ふ、吉田令弟並其旧友に逢う、吉田の弟は嘗て崎陽に遊び、蘭英の学を墨美フルベッキに学ぶ、帰時二人送て町末に至る」 ・同書同月16日条に「暁に今城を発し木芽嶺を越ゆ。この途上北に高山を望む、これを吉田に問う、サニイが嶺という、此夜疋田に泊す、夜半五郎兄帰来、兄は昼別れて角屋に至りしなり」と。(この他日記に吉田五郎の名なし) ※『長崎遊学者事典』に吉田五郎の弟らしき名確認できず。又『福井市史』資料編9近世編に吉田姓の医師の名複数あるも、それらしき人物確認できず。

『歴史のなかの新撰組』に「(文久3)10月生野一挙に加わり捕えられる。元治元年720日京都六角獄舎で斬首された」とあるが、前嶋雅光『幕末生野挙兵の研究』中の「生野挙兵関係者一覧」や『平野國臣伝記及遺稿』等生野挙兵関係者中に吉田五郎の名を確認できず。なお『平野國臣伝記及遺稿』中に「是日(720)國臣と同じく(六角獄舎で)難に殉ずるもの」として、村上俊平、南雲平馬と共に「池田屋事件連累の嫌疑、越前敦賀の人」として吉田五郎の名あり。

墓は京都上京区行衛町竹林寺

   静岡県域からの浪士組参加者たち(2)

岡田林兵衛

25

7番組

不明   ●沼津浪人 駿州駿東郡下香貫村出生

当時江戸外神田御成道京屋伊平方同居 ※志田源四郎、小林登之助、川崎渡も同様。

新徴組入り ・「目録」に1番山口三郎組平士、「組別名簿」に小頭手塚要人組平士で、又「黐木坂屋敷絵図」に岡田林兵衛の名あり。

・『人名移動詳細』に「黐坂下より脱走」とあり。小山松『新徴組』に「今さら奥州下りでもあるまいと()川崎渡、岡田林兵衛の脱走もこの時である」と。『歴史のなかの新選組』に「慶応312禁錮のところ、明治元年中に組除」とあり。

志田源四郎

36

7番組

妻子3人   ●豆州賀茂郡下田町浪人 当時外神田御成道京屋伊兵衛方同居(小林登之助、柚原鑑五郎、川崎渡も同断)

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」に名なし。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久3823日条に「人選にて黐木坂へ被召出候」として片山庄左エ門以下19人中に志田の名あり。同日記抄翌96日条に「御仕法替に付御暇金五両宛被下」として4人中志田源四郎の名あり。・文久3916日達文に「御仕法替に付御暇金五両宛日下云々」として志田源四郎の名あり。

「人名移動詳細」に「小林登之助と共に大砲組に入、暗殺せらる」とある。 ・『淀稲葉家文書』所収の慶応25月、新整組士一同が幕府への付属を嘆願した内願書の「姓名書」に志田現四郎の名あり。

慶応4年庄内入り 戊辰庄内戦争『出張姓名』に新整隊取扱頭取朝比奈長十、石原数右衛門配下に嚮導として志田現四郎の名あり。 ・『戊辰庄内戦争録』818日条に、秋田攻めの際「綱木ニ向フ途中()樹木茂レル小山有、数右衛門隊志田現四郎、池田主税、本田謙三郎ヲ先トシテ七八人駆登リ、敵ヲ眼下ニ打下シヌ、味方ノ諸隊モ之ヲ見テ大ニ勇テ烈戦スレハ、敵叶ハサルヲ知レルヤ砲撃少シク止ム云々」と。翌910日の糠場山の激戦で負傷する。負傷者名簿に「石原数右衛門隊分隊長」とあり。

明治6年当時鶴岡在住。

   石川県域からの浪士組参加者たち(2)

杉本安道

46

7番組

妻厄介2人   ●加州浪人 ・当時江戸池之端七軒町徳兵衛店寓居

新徴組入り ・「目録」に33番玉城織衛組平士、「組別名簿」に小頭玉城織衛組平士で名あり。 ・「柚原鑑五郎日記抄」文久38月条に「砲術心得実名前」として杉本安道の名あり。

・「黐木坂屋敷絵図」に名なく去就不明。

中追太助

40

5番組

妻子6人  ●越前浪人 当時斉藤熊三郎方ニ同居

・「明細書麁調」には「生国加賀国上倉掛組中追田村、百姓仁右衛門子」とあり。

『石坂周造研究』に「浅吉(後の中追太助)は馬喰町のはたごや大松屋の男衆(原注・下男)だったのだが、大松屋では清川斉藤家の平素の恩義にむくいるために、牢奉行の石出帯刀に願って獄丁として雇ってもらい、牢中の人との連絡にあたらせた()内実にはどのような肉体的苦痛にも耐えることができたという剛気の所有者で、これが牢内の池田徳太郎の人となりに心服し、その見識といい、胆力といい、衆にすぐれた人物であるこの池田が牢にとらえられるような人ではないということを見抜き、よくその命に服して忠勤したのだという」と。(出典不明・小山松『清河八郎』にも類似の記事あり)

新徴組入り ・「目録」に次席満岡元司組平士、「組別名簿」に小頭永島甲一郎組平士で名あり。

・俣野時中明治27512日の史談会談話に「(薩摩藩邸に)荘内藩からして探偵を入れた事がある、其探偵に這入った者は新徴組の()永矢源蔵、中追多内という両人であります、()中追と云う男は探偵と云う嫌疑を受けて、非常に拷問を受け、梁の上に釣るし上げられた、けれども容貌を見ますと馬鹿な風の奴で、都て挙動の愚昧なる体裁を為すのみならず、其性質大分強情な男ですから拷問に掛けられて梁に釣上けられいも、一向平気で、約り拷問甲斐もないのみならず、容貌も馬鹿やうな男であったもの故終に免された」とある。この談話については小山松『新徴組』で「(薩邸内には)新徴組から脱走して、薩邸浪士となった横山明平その他がいるのである。長屋、中追がそう容易に薩邸に入ることなどできるものではない」と疑問を呈している。

・「公私日記」慶応428日条に「小倉宗次郎、中追太助、右両人北新堀ニ而歩兵と間違致し、歩兵四五人江手負セ、両人も手疵ヲ得罷在候趣云々」 ・同書同月18日条に「小倉宗次郎、中追太助慎御免」とあり。

慶応4年庄内入り(家族6) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士で名あり。 ・「開墾士氏名」に中追太助の名なく、悴錦次郎の名あり。

中沢貞祇の記録中「小山清高事件」に「小山清忠中追胤親申上候、去四月中十五日学向執向仕度存念ニ而取扱共之不得許所彼地発足仕候処、小国□与申処ニ而翌十六日昼飯致居候所、長沢松弥(2人略)其余若輩之者十余名程同宿ニ而追付引戻サレ候、大罪人是非共然ル処此度之義ハ再血盟モ有之、皆議定誓詞ヲ破候事言語ニ絶タル大罪人是非共割腹致候様赤澤源弥中川一(2人略)相進候事」等とあり。その後両人は「()血盟ニ背キ候義ハ絶タル事ニ候へ共凡若輩之者共故追而改心致候迄両人之者我等(玉城織衛等の取扱役)方ニ預ルト申出候、依之右取扱共之預ニ相成候」とある。ここに「若輩」とあるので、中追胤親の通称が錦次郎で、太助の名が胤正だと思われる。

・明治65月司法省酒田臨時裁判所の召喚命令により東京を出立した一行の中に中追胤正あり。召喚者「一同日記」の718日酒田に到着した一行中に中追胤正あり。・『歴史のなかの新撰組』に「明治74月馬喰町3丁目小山清兵衛方寄留の中追胤正は関係者か」とあり。

明治7年11月貫属替

『史談会速記録』・『庄内史料・明治維新史料』・『上毛剣術史』・『相楽総三とその同志』・小山松『新徴組』

   富山県域からの浪士組参加者たち(1)

清水準之助

37

1番組

不明   ●越州富山浪人 ・当時千葉道三郎内弟子

「目録」に名なし。「組別名簿」に小頭玉城織衛組平士で名あり。 ・「柚原鑑五郎日記抄」文久3912条に「玉城織衛組合へ清水準之助他四人」とあり。 ・元治元年12月依願永暇。

「早川文太郎修行日記」文久3229日条に「(入京後)直ニ前川庄司と申郷主宅鵜殿鳩翁様御本陣ニ相成、鵜殿様方之顧入、御用人指図有之ニ衣て雀森更雀寺於山田官司様へ相尋、并清水順之介様詰有有之、座敷上り浪士取扱方願出、廿九日其内山田官司様へ被預ケ候云々」とあり。

名簿により清水準之助の出身地を越前、又武州比企郡広尾(野ヵ)村とするものがある。筆者は以前『埼玉の浪士たち』の中で、比企郡広野村に清水を姓とする家は存在しないと断定した。しかし、その後の調査により、同地権田家墓地に「清水家累代精霊供養塔」が確認され、過去この地に清水姓の家が存在したことが確認された。

 なお、その上で清水準之助を富山出身と推定したのは、先の供養塔や権田家に伝わる位牌から、文政44月に亡くなった人物以後、清水を姓とする人物は確認できないこと(絶家か)、又北辰一刀流玄武館道場の内弟子で、山田官司同様に根岸友山家に出入りしていたことから、甲山組として友山らと共に参加した可能性が高いことからで、越前説も否定できない。。

 

14の9 【中部地方の浪士組参加者たち(1)】

(山梨・長野県域)

山梨県域からの浪士組参加者たち (19)

姓 名

年齢

所属等

家族・出身地・その他参考

雨宮仁一郎

38

7番組

親妻子4人   ●八代郡東原村住居

「目録」に名なく去就不明。

石原新作

  新蔵

(「麁調」に「新蔵即ち新作」とある)

23

5番組

親両人 ・石原六左衛門子

八代郡藤井村住居

祐天由松(山本仙之助)子分(『黒駒勝蔵』等)

新徴組入り ・「目録」に7番吉田庄助組平士石原新作、「組別名簿」に小頭中村錦三郎組平士石原新蔵あり。

文久3年6月26日付廻状に「御門限相更候ニ付慎被仰付候」として「山本仙之助組合鈴木長蔵、石原新助」の名あり。組士に新助の名がないため、新作の誤りか。

・元治元年2月の石原新作への申渡書に「其方儀、小塚原町旅籠屋林蔵方ニて小松弾六郎外三人酒宴()立入間敷場所え立入、被召捕候次第ニ至り不束ニ付、組合小頭手塚要人え預ケ之上、急度慎申渡之」と。

・慶応2年103日私用外出の帰路市ヶ谷無縁坂自証院前で襲われ、翌4日死去(小山松『新徴組』) ・「御用日記」に「寅十月三日横死、同十二月十八日跡断被仰候」 ・「人名移動詳細」に「黐坂下邸にて切腹、断絶」、「和田弥助自筆横折帳」にも「黐坂下邸で自殺、断絶、石原新作」とあり。 ・「新徴組御用記」に、慶応33月の「覚」として「金六両二分、石原新作、()右は寅十月三日横死、同十二月十八日跡断被仰達候間、高弐拾六両之月割書面之通被下置候様宜御沙汰被下度奉存候云々」とあり。 ※『日野市歴史館叢書』第6輯の遭難事件の詳述あり。

『日野市歴史館叢書』第10輯・小山松『新徴組』・吉野式『新選組研究』第5号・子母澤寛『幕末奇談』

内田佐太郎

 

32

5番組

親両人 ・百姓国五郎長男 ・文政9年生

山梨郡菱山村住居

博徒菱山の佐太郎 祐天(山本)仙之助の兄弟分。

新徴組入り ・「目録」に23番村上常右衛門組平士、「組別名簿」に小頭中村定右衛門組平士に名あり。

文久3年4月29日付け中村定右衛門の父伊右衛門宛て書中に「組合ニおゐても不都合無之御安心可被候、内田佐太郎殿も廿八日出立致候、是も十日之積り遣し候間、間違もある間敷候云々」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」2番隊平士で名あり。

「開墾士氏名」に名あり。

・桂田寛吾割腹事件の際、桂田が「割腹之覚悟至極相見え候迄宅番として内田佐太郎(2人略)附置云々」とあり。(大島定靖等の裁判所への供述書) 

・天野静一郎割腹事件に関し「右七人之者静一郎宅へ参於東京表不都合之次第有之趣ニ而我々附添被仰附候間大小取揚云々」(萩原忠義口上書)とある7人の中に内田佐太郎の名あり。(萩原忠義口上書) 

・明治7年酒田県庁に召喚された旧新徴組士「一同日記」730日条に「天の清一郎割腹砌誥合人名内田佐太郎古渡名前相違いたし則佐太郎立会者無相違趣此段認替御届ケ出ス」と。(「中村貞祇の記録」)

明治8年現在鶴岡住 ・貫属替時期等不明 ・後東京下谷で煙草屋を営業、その看板「諸国烟草秋」は山岡鉄舟に書いて貰ったという。後神金村の妹(小田原橋の田中家)を頼って甲州に戻り、百姓仕事を手伝っていたが、明治2526年頃息子を頼って神戸に移住。明治3934日病没したという。享年81歳 ・墓は神戸にあると。

子母沢寛『露宿洞雑筆』『新選組始末記』に、大村達尾の父桑原来助を殺害したのは内田佐太郎であったとある。 ・『歴史読本』昭和551月号等に、内田佐太郎が山本仙之助の仇を討ったとある。しかし子母沢寛はこれを先きの著で否定している。

『日野市歴史館叢書』第11輯・小山松『新徴組』・『日本侠客100選』・『上毛剣術史』

大森浜

 名・光信

23

5番組

親両人 ・百姓安右衛門子

巨摩郡大蔵村

新徴組入り ・「目録」に11番大内志津馬組平士、「組別名簿」に小頭黒井卓一郎組平士で名あり。

・『甲子雑録』に元治元年正月9日付けで「右之者共兼而私家来え御預被仰付居候()追々永々相成御府内廻り方ニ茂差響甚以不都合御座候間可相成は何方え成共早速御預替被仰付下度云々」として村上常右衛門他5名の中に大森浜次の名あり。※同月15日村上等4人は預け替えされているが、この中に大森浜次の名なし。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」3番隊平士に名あり。 ・『戊辰庄内戦争録』826日温出の戦いで「敵一人茅ノ透間ヨリ現ハレ出タリ名乗レト声ヲ掛ヌルニ備中足守ト答フ馬場玄助大森浜治千葉弥一郎一斉ニ発射シテ打斃シ云々」と。

「開墾士氏名」に名あり。

明治6917日酒田県へ寄留願提出。翌明治72東京府へ貫属替

加川英一『黒駒勝蔵』、子母澤寛『露宿洞雑筆』等に大森浜次は祐天由松子分とあり。

小山松「新徴組」・子母澤『幕末奇談』・『藤岡屋日記』

久保坂岩太

44

7番組

1人  ・甲斐国浪人

都留郡駒橋村、また西後屋敷村とも。

「目録」に名なく去就不明。

角田五郎

30

道中世話役

妻子3人   ●八代郡白井河原村産、当時浪人上州行方郡大洲村に住す。

上京後目付 ・高木潜一郎「御上洛御供先手日記」2月27日条に「出役並見廻広瀬六兵衛、取締松岡万、附西村泰翁、御目付角田五郎外三人」とあり。

・「目録」に名なく去就不明

高尾文助

  文吾ヵ

 名・啓明ヵ

33

7番組

母弟3人 ・百姓庄右衛門子

都留郡小沼村住居

新徴組入り ・「目録」に名なし。「組別名簿」に小頭富田忠右衛門組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族3)

・「庄内戊辰戦争出張姓名」「開墾士氏名」に名なし。

・明治55月の高尾・楽岸寺事件の当事者高尾文吾は文助のことか。当事件は高尾文吾と楽岸寺業輝が病気治療の帰路「尼寺江立寄酒食等いたし候言語同断」と、同志から「其許割腹可致若致し兼候ハハ自分共差殺呉候」、もし切腹しなければ「高尾江毒呉候」とまで追求されたが、結局謹慎処分となった。・諸田政治著「上毛剣術史」に、高尾文吾は「後に二人は悶死したとも伝えられている。」とあり、『歴史読本20043月号小佐野淳氏論稿には「両名は大小を取り上げられた上に座敷牢に閉じ込められ、悶死したと伝えられている」とある。

・明治6年7月27日付け中追胤正等3名の司法省提出の「奉願候口上書」中に「高尾文吾申聞候ニ者当月廿四日夜十一時此嶌田利太郎留守宅江夜盗忍入候ニ付近隣之者共打寄云々」とあり。

明治6917日酒田県へ寄留願を出した高尾啓明は高尾文助か。 ・明治76月高尾文吾山梨県へ貫属替。(『日野市歴史館叢書』第15p88)

田辺富之助

  

31

道中世話役

1人 ・武田浪人(山梨県史』通史編に)

山梨郡下於曽村住居

「廻状留」文久3年2月13日条に「二番世話役、田辺富之助、右之通申渡候間云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に18番仁科五郎組平士、「組別名簿」に一色次郎組平士で名あり。 ・文久42月「昨年中剣術出精ニ付」賞せられる。

・同年同月23日「嘆願書」提出(元一色次郎組合、当時中村定右衛門預り組、田辺富之祐とあり)、その大略左に、「()勤役中武州新港え英国軍艦渡来、()自然応接破壊ニ相成候節は、速ニ戦争ニ可相成候間、江戸表おゐて指揮ヲ請ケ可抽忠誠ヲ之段、()鵜殿鳩翁殿より御達有之、右は基より懇願之儀ニ御座候得は、難有御請ケ奉申上、期一死下向仕候、以来年月押移候迄御沙汰中絶ニ相成、()時ニ惣代ヲ以推参も不顧、種々建白仕候得共、未タ差当御用筋も不被仰付、()依ては近時之内御用筋も無御座義ニ候ハハ、恩給奉返上御暇相願、一ト先帰国仕度決心罷在候()、何卒以御仁慈速ニ御暇被仰付候、後来愚臣相応之御奉公筋有之候歟、攘夷之期限到来急務被仰出候儀も有之候ハハ、譬え不被微候共同郷同志之者撰択参府可仕心得、基より報国之徹意忘却不仕候間、前条申立候嘆願之趣意即刻御挙容被下置、御聞済被成下候様伏て奉願上候()」。(「中村定弘氏所蔵文書」)  

・小山松『新徴組』中に「文久3年11庄内藩による圧迫がいよいよ強くなることを予想して脱退、脱走した者」の中に田辺富之助の名があるが、田辺は文久4年2月に依願永暇。

結城禮一郎『旧幕新選組結城無二三』中に「隆造さん(無二三の姉の子)の奥様すなわち竜雄さんたちのお母様は、同郡七里村字下於曾の田辺家から来た方で、()田辺叔父ちゃんの胤違いの兄さんが大阪の小林一三さんだ。()於曾の田辺の一族で田中()富之助というのも(浪士組に)加入しました云々」とあり。

千野栄太郎

22

5番組

親両人   ●巨摩郡西井出村住居

「目録」に名なく去就不明

辻隆介

19

取締役手付

不明 ・武田浪人(山梨県史』通史編)

山梨郡国府村住居

「目録」に名なく去就不明

土橋鉞四郎

 後、瀬兵衛

 更に今福真

明と改む

浪士組参加に際し、土橋と森花の姓から森土と称したか。

 

40

5番組小頭

2人 ・武田浪人(山梨県史』通史編)・長百姓森本瀬兵衛苗茂4男

巨摩郡今福村住、当時森下()瀬兵衛方寄寓

文久3324学習院へ建白書持参6人中の1

新徴組入り ・文久3519日取締付 翌6月剣術教授方、9番小頭兼務 ・同年11月肝煎兼剣術教授方 ・元治元年812日依願永暇

文政6年今福村に生まれ、21歳で遠光寺村の土橋家(母の実家)の養子となり、鉞四郎と改名。安政元年実弟に養家の家督を譲って出府し 剣術修行に励む。北辰一刀流井上八郎門下。清河八郎玄武館出席大概」に名あり。 ・嘉永4年12月井上八郎の飛騨高山陣屋出張教授に従った3人の門弟の1人。(出典失念、参考までに)

安房先賢偉人伝』中「烏山家譜考」に、烏山確斎が「弘化丙午夏四月甲州ニ遊ビ遠光寺邑ニ抵リ土橋氏ニ宿リ云々」と。

清河八郎「潜中始末」文久元年条に「甲州中に我等の同志に比したる山岡鉄太郎の組とも云ふべき勤皇攘夷連頗る多し、()中に剣術同門なる土橋鉞四郎と云ふあり、今福村に住宅せる由故、明早天甲府を発し、雨を凌ぎて今福村の森花瀬兵衛方に到る。鉞四郎此家の後見なり云々」、また鉞四郎に関し「よき気節の士なり」等とあり。 ・同書文久元年11月京都挙兵画策時の記事に「甲州の鉞四郎方にも書状を外事に託し認め、東都の山岡方迄も書帖遣す、皆外事に相託し、他人見ては一向相分らぬ様相認めぬる。何れも京師の首尾能近きに義兵を揚ぐべき故云々」とあり。同書別項に「我等は東都及び甲州の同志を引率し、京師に参会、三千年已来の大功業を樹て申すべしとて云々」とあり。 

文久2年4月11付清河と安積五郎の山岡鉄太郎宛書中に「回天の一番乗可仕心底に御座候、折角御周旋甲土(甲州の土橋)に早々御手配可被成候云々」とあり。又同年720清河八郎は富士山に登って3合目に宿泊し、甲州に下って土橋鉞四郎に会う。

浪士組脱退の後(時期不明)、兄病死により兄嫁を娶って生家を嗣ぐ。市川代官所陣屋の剣術教授。維新後は遠州金谷で剣術道場を開く。のち甲府の剣法館の創設や大日本武術会山梨県支部の創設に尽力し、明治29年第2回武徳祭で剣道精錬證を授与さる。

・『歴史読本20043月号小佐野淳氏論稿に「維新後は今福真明と名乗り、大日本武徳会で最初に精錬証を授与された15名中の一人である。日本一流の剣士で、当時「今福の突き」といって他の追随を許さなかった」と。

明治33年病没、享年77歳、墓は甲府市内長禅寺

・今福毛宅地内に「今福真明頌徳碑」(榎本武陽篆額并撰文)ある。

加川英一著『黒駒勝蔵』に祐天吉松の身内として森土鉞四郎の名があるが。

『田富町誌』・「中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部会臨地研究資料」・『清河八郎遺著』・「むすび」第105

内藤弥三郎

45

7番組

妻子6人 ・武田浪人(山梨県史』通史編)

山梨郡下於曽村住

江戸帰還途中の下諏訪宿で有志召募を受命。

新徴組入り ・「目録」に30番中村又太郎組平士、「組別名簿」に中村又太郎組平士で名あり。

・中村定右衛門「御暇申請候一条之事」に、文久36月新徴組が荘内藩に全面委任されて飯田町屋敷の棒杭が書き換えられた事件に関連し「()棒杭之事、門札之事、番之事右三ケ条書付ニ致し、肝煎仁科五郎ニ内藤弥三郎認相渡し相頼ミ候処、右三人(仁科及山口三郎分部宗右衛門)之者被頼候趣ならず、跡形も無之讒言ヲ致し候と相見え、()小頭一同ニ役所え可罷出旨申ニ付一同罷出候処、中村定右衛門、常見一郎、内藤弥三郎右三人之者ニは控可居旨被申候ニ付、差控罷居り候処(略・その後酒井家家来3人と立会の山口三郎ら肝煎4人による尋問の際)誰か公辺之地面ニ居り度旨申候者有は致さぬ哉と尋ニ付、()其節内藤弥三郎肝煎ヲ相頼候、三ケ条之儀書付ニ致し肝煎り仁科五郎へ相渡し置候間、此書付と引合、即相違も有之候ハハ何れニも恐入申と相答申候云々」 ※中村定右衛門は親族等の嘆願により翌年許されたが、常見一郎、内藤弥三郎のその後は不明。

・元治元年9月病乱につき親類鈴木道四郎へ引き渡し。(『歴史のなかの新選組)

『日野市立歴史館叢書』第11

早川文太郎

(早川太郎)

幼・慶次郎

名・義信

改・暮地義信

28

2番組

親妻3人 ・百姓代早川伝兵衛次男(兄夭折) ・天保7714日生   ●都留郡上暮地村住居

文久3229日京都で入隊 ・文太郎の「修行日記帳」に「同(文久31)廿九日大津ニて昼弁当、此時雨風ニて難儀有之候間、八ツ時京都壬生四条通西ニ相成、直ニ前川庄司と申郷主()宅鵜殿鳩翁様御本陣ニ相成、鵜殿様方え願入、御用人差図有之ニ依て雀森更雀寺於山田宦司様へ相尋、幷清水順之介様詰合有之、座敷上リ浪士取扱方願出、廿九日其内山田宦司様へ被預ケ候、是ニて三月二日御手当金五両被下云々」とあり。

・江戸帰還途中の下諏訪宿甲州有志の徴募を受命。

新徴組入り ・「目録」に27番分部再輔組平士、「組別名簿」に分部再輔組平士で名あり。 ・文久42月、「昨年中剣術出精ニ付」賞せらる。 ・慶応42月庄内引き移りの際脱退。(和田助弥自筆横紙帳に「庄内へ引き移りの際出奔、早川太郎」と)

伊東甲子太郎と親交があり、慶応3年伊東の新撰組入隊に際し、門人高山平蔵(次郎)随行させたという。また、藤堂平助とも千葉道場以来の知己であったという。

嘉永元年江戸の商家に奉公、翌年武家奉公に出て旗本石原平十郎に弓術及び馬術を学ぶ。安政3北辰一刀流千葉栄次郎の玄武館に入門。同6長州藩士平野隼人に柔術を学ぶ。後文久元年迄諸国を武者修行。

新徴組離脱後尾張藩附属の有志隊「帰順生気隊」を組織し、各地に転戦して武勲を挙げる。※大島百太郎も行動を共にする。

明治43月愛知県に移住し巡査となる。同10西南戦争に朝廷義勇軍新撰旅団中隊長として軍功をたて、警部補心得に昇進し、翌年愛知県から士族の称号授与。

42歳で退官後は郷里上暮地に帰り、富士山麗の開墾に従事し、傍ら尚武館を創建して剣道と柔術の指導にあたる。 ・日露戦争の際、陸軍参謀本部に「奇兵剣隊必要論」を上申する。

明治天皇崩御後の大正元年1130日追腹を切って殉死した。享77歳 ・墓は上暮地の福昌寺

・千葉弥一郎「新徴組」に「因に云ふ、早川太郎は乃木将軍殉死の後、彼も殉死として自刃せり。或は精神の異状なりしならんとの説あり。尤も彼は質朴にして慷慨家であった」と。

「相州大山寺剣術奉納額」に「甲(甲州流) 暮地義信の名あり。

著「新徴組略記」・「明倫義信歌集」・「天性剣術日本武基」・「修行日記帳(表紙裏に「攘夷」と墨書あり)

小佐野淳『富士山麗幕末偉人伝』・「日野市歴史館叢書」第10輯、15輯・『英風記-分部実行の生涯』・「富士吉田市史研究」・『日本歴史』第622号・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号

依田熊弥太

 名・道長

 

20

7番組

親両人 ・百姓依田長賢長男(11人兄弟)天保15年生  ●山梨郡下井尻村住居

「目録」に名なく江戸帰還後早期脱退か。 ・加川英一『黒駒勝蔵』に「依田熊弥太は同郷の旗本真下晩菘の紹介で浪人取締役山岡鉄太郎と清川八郎に会って浪士隊に加わり京に上った云々」とあり。

山梨県史』通史編に「下井尻村(山梨市)で最初に浪人身分を獲得したのは依田家である。亨保9年、石和代官小宮山杢之進の浪人改に、依田家の当主与右衛門が応じたのである。まず与右衛門は同年11月、仮名を民部、実名を長安と変えて、長百姓役と与右衛門の名前を息子に譲った。翌10年、父惣兵衛長継のとき浪人となり下井尻村に居住した云々」と。

一説に戊辰の役に護国隊に関係したという。しかし隊士名簿には住所年齢等で該当する人物はなし。

明治5年下井尻村戸長、後に山梨県議会議員を経て衆議院議員となると。

吉野式『新徴組研究第7号』

山本仙之助

幼・由松

称・祐天由松

 祐天仙之助

35

5番組小頭

1人 ・山伏の子 ・『庄内人名辞典』に文政7年生とあり、文久3年には40歳となるが、「浪士姓名簿」には浪士組参加時35歳とある。

甲府元柳町住 ・出生地は駿州と甲州2説あり。『明治維新人名辞典』では甲斐国山梨郡相川村生と。

江戸帰還途中の中山道下諏訪宿甲州の有志徴募を受命する。

新徴組入り ・文久34月世話役、同5月取締役付 ・同1016日大村達尾に親の仇と誤認され、助太刀藤林鬼一郎のもと千住の路上で殺害される。墓は墨田区大平町の法報恩寺内陽運院

甲州古府中の行蔵院の行者祐敬の弟子祐天。後に博徒(三井の卯吉子分)となる。津村の文吉と兄弟分。島抜けの竹居の吃安の捕縛に代官所に協力後、子分を連れて江戸に出ると。

山梨県史通編』に「文久元年6月8日朝、上小田原村の百姓周兵衛方へ年齢40歳くらいと30歳くらいの男2人がやって来て、かねて名前は聞き及んでいるはずの勇天(祐天)主従であることを告げ、食事を要求したうえに、大菩薩峠越えの荷持人足の差出を強要した。()追手の組合村の者たちが立ち会って荷物を取り調べた(内に剣道用具等29点あり・略)甲州を離れ活動の場を替えるために用意された物品であることを右の29点は物語っている。大菩薩峠越えで江戸へ向かおうとする途中で、組合村の者たちの追補に遭い、遁れたのちの彼の行動はしばらくわからない」、又「(浪士組への参加は)

甲州出身で、当時洋書調所調役組頭であった真下専之丞の勧めによったものだといい」とあり。

・『幕末の武家』中旧幕臣飯島半十郎の談話に「或るとき(祐天仙之助が)駿府甲府博徒と喧嘩を致し、その博徒を殺し、本人は死する覚悟で寺社奉行の手に廻りました。そのころ私の叔父に飯島辰五郎と申す者がございましたが、評定所留役を勤めており、山本の裁判に関係し、その終りに無罪放免を申し渡しまして、辰五郎が厚く説諭いたした事がござりました。その後は山本が叔父の恩に服しましたので、私も懇意になった次第です。この山本が瓦壊の頃に()叔父のところに来まして、江戸市中の護衛をさせてくれと願いました。併し採り用いる筋ではございませぬゆえ、その志は嘉して帰国せよと申しましても、決心して江戸に出しゆえ帰ることは出来ぬ、当分幕府には御厄介はかけぬと言い、私を当てにして新徴組へ参りました」とあり。 談話中に・仇討事件に関しても話あり。

子母澤寛は『新選組始末記』『幕末奇談』で、仙之助の子分内田佐太郎が大村達尾の父桑原来助を殺害したとしているが、千葉弥一郎は「維新前後庄内物語」等でこれを否定している。

『東西紀聞』・『藤岡屋日記』・『日本侠客100選』・高橋敏「博徒の幕末維新」・『日野市歴史館叢書』第6 輯・小山松『新徴組』・吉野式『新徴組み研究』第6号・加川英一『黒駒勝蔵』・『歴史読本』昭和55年新年号等多数有り

若林宗兵衛

 名・守信

28

5番組

母妻子3人 ・百姓勘助子 ・祐天仙之助子分

八代郡藤井村居住

新徴組入り・「目録」に8番山本仙之助組平士、「組別名簿」に大熊領兵衛組平士で名あり。

・慶応4年庄内入り(家族4) ・「田川温泉寄宿帳」に6番小頭とあり。 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」の3番隊平士に名あり。 ・慶応48月越後領界熊田の戦いに功名あり。(『戊辰庄内戦争録』)

・「開墾士氏名」に名あり。

明治6年424日付若林守信と大島定靖の桂田寛吾割腹事件に関する司法省酒田臨時裁判所への上申書あり。(中沢貞祇の記録)

明治75山梨県へ貫属替

『上毛剣術史』・千葉「新徴組と庄内藩」・小山松「新徴組」

分部再輔

 幼・七弥

 称・才助

32

1番組

妻子2人 ・分部惣右衛門実親3男、惣()右衛門実啓弟、早川文太郎の姉の夫、弟に奥秋助司右衛門あり。

都留郡上暮地村住居

文久3328日付分部宗右衛門の届出書中に「(宗右衛門が浪士組組入り上京後)跡より宗右衛門弟才助幷百姓代伝兵衛伜久太郎も上京、同様御組入ニ相成云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に27番組頭、「組別名簿」に小頭で名あり ・元治元年8月依願永暇

叔母分部民弥(甲州に於ける女医の嚆矢)の家を嗣ぎ、玄徴と名乗り医師となる。・『英風記-分部実行の生涯』に、「再輔は、彼が二歳の赤子のときから叔母民弥の後嗣の名義で一家創立が予定されていたのである」と。

分部宗右衛門

 名・実啓

39

7番組

親妻子8人 ・上暮地の名家分部惣右衛門実親嫡男 ・弟に分部再輔(3)、奥秋助司右衛門(4男、新徴組士)・妻は都留郡河口村富士浅間神社宮司高橋豊前次女   ●都留郡上暮地村住居

天保10年大平真鏡流勝俣与五左衛門、同13年に北辰一刀流千葉周作に師事し、弘化元年12月免許皆伝を伝授さる。清河八郎玄武館出席大概」に名あり。

嘉永2家督を嗣ぎ名主役となる。

文久3328日付届出書に「上暮地村宗右衛門義幼年之頃より剣道執心ニ付、江戸神田玉ケ池千葉周作弟子ニ入修行罷在候ニ付、門人数多知り人有之、尤近年村方え引込名主役罷在候、然ル処、参州岡崎宿在豊川稲荷え心願有之、当二月中参詣として中仙道筋罷越候処、此度国々より(尽忠報国)勇気志有之もの相集、御用ニも可相立心得之ものハ、浪士取扱掛御役人方御召連ニ相成候由、千葉周作門人より途中ニて承候ニ付、素より執心之道未熟之小子ニ候得共、芸古仕候故、此節柄御用ニも相立候ハゝ丹誠を可抽と心付、鵜殿鳩翁様え申立候処、国所、親妻子有無幷身分御糺ニ付、倶ニ申立候処、浪人人数え御組入ニ付、道中入用被下置、則上京云々」と。 

・江戸帰還途中の中山道下諏訪宿甲州の有志募集を受命する。

新徴組入り ・文久34月世話役、同5月取締役付、同113番組肝煎となる。

慶応212月縁者上暮地村年寄高山安兵衛3男彦五郎(17歳、実行)を娘の婿養子とする。彦五郎は「田川温泉場寄宿帳」「庄内戊辰戦争出張姓名」「開墾士氏名」に名あり。後陸軍士官学校を卒業し、西南戦争で戦死。

・宗右衛門の山口三郎宛て届出書に「私儀当寅四十二歳ニ罷成候処、男子無御座娘年頃にも相成候ニ付、縁者甲州都留郡上暮地村年寄安兵衛三男彦五郎儀十七歳ニ罷成候、右之者私重縁血脈正統之者に御座候間娘婿養子奉願度、此段御内意申上度奉頼入候」とあり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・同年4月新徴組3~6番組を率いて川上、清川に出陣。 ・同年7月御家中組を仰付けられ村上郡御領地代官を受命、100石を賜る。 ・明治36月酒田家御物成収納酒田御蔵方役となる。(明治63月迄)

明治6年惣右衛門殺害計画の噂を聞き庄内を脱出し翌年郷里上暮地に帰り、暮地学校世話掛、地租改正評議掛、南都留郡第7学区学務委員、桂村戸町等を歴任し、明治24年郷社生玉大神祠官となる。

『富士北麗幕末偉人伝』・「富士吉田市史研究』・『英風記=分部実行の生涯』・『上毛剣術史』・千葉弥一郎『新徴組と庄内藩』・『日野市歴史館叢書』第6輯、10輯、15輯・小山松『新徴組』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号

渡辺彦三郎

21

1番組

親両人   ●都留郡小沼村居住

新徴組入り ・「目録」に名なし、「組別名簿」に清水小文治組平士で名あり  ・元治元年6月依願永暇

   長野県域からの浪士組参加者たち (6)

姓 名

年齢

所属

家族・出身地・その他参考

上林藤平

26

3番組

不明   ●小県郡矢沢村出生浪人

文久3年4月15日評定所呼出、同日鵜殿、中條家来預け。(この件に関する「封廻状」には24歳とあり)

・慶応31017日最上駿河守へ預け替え(『藤岡屋日記』) ・以後の去就不明。

「目録」の17番組加藤為右衛門組平士に名あり。

五嶋万帰一

26

7番組

不明   ●小諸藩牧野兵部太夫元家来当時浪人、当時牛込七軒寺町仙寿院止宿

「柚原鑑五郎日記抄」に「(3)廿日須原出立の日福島関所ゟ此方ニ来ル五嶋萬帰一と吉羽三郎と争論の由にて、同士の内三四人参り、五嶋は酒狂の体にて内々に相済候得共道中除列日々先に遣候」と。 ・「目録」に名なく江戸帰還直後に脱退か。 

・「贈従五位村上(俊平)君墓碑銘」に「五月、越前の人吉田五郎、上野の人南雲平馬、常陸の人後藤(五島ヵ)萬鬼一等与に謀りて日はく、今や幕府大いに吾儕を索むれば以て事を成し難し、乃ち路を北陸に取り再び京師に至らん云々」とあり。※村上俊平「家言録」には「下野ノ人後藤萬鬼一」とあり。 ・村上俊平「潜匿日記」511日条に「芳原の金瓶大黒楼に逗ず。翌夜吾党を窺うを告ぐる者ありしにより、吉田五郎、五嶋万帰一、武井十郎と郭を去る。吉田送て郭外に至る。」と。

・加藤桜老「近光日記」627日条に「前夜五島萬帰一、手塚次郎両人、三條河原にて打取らる。佛生寺(彌助ヵ)等と同敷、表裡の大賊なれば也」とあり。

蘭方医村上随憲』・小山松『新徴組』・加藤桜老『榊陰年譜』

佐々木如水

 名・盛信

45

(64)

 

 

道中先番宿割

妻子4人 ・小諸藩御持筒役小竹半太夫長男

「浪士姓名簿」「人名移動詳細」には亥45歳とあるが、「麁調」には丑64歳とあり。

佐久郡小諸住

文久3年2月14日回状に「近藤勇佐々木如水右両人道中宿割池田徳太郎手入相付申候事」と、出発時の所属不明、道中目付か。

新徴組入り ・「目録」に35番中川一組平士、「組別名簿」に中川一組平士で名あり。

文久3年4月23日根岸友山の池田徳太郎宛書中に「岡田盟佐々木如水君より書状にても可差出処甚多忙に付拙老より宜敷申上呉候様申出候云々」と。又同日付金子正玄の池田宛書翰に「根岸友山君佐々木如水外一同にも松平上総介殿に援兵願候処云々」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」の2番隊平士に如水長男貞三郎と共に如水の名あり。 ・湯田川新徴組墓地の長男貞三郎盛聖の墓誌に「明治元年九月十二日関川戦争ニ於テ鉛丸ニ当リ銃創癒エズ明治二己年六月二日卒」と。 ・「田川温泉寄宿帳」に「佐々木茂 先代如水二男 如水長男悌次郎は父と共に庄内口に至り関川戦争にて打死、舎弟茂相続」とあり。 ・「公私日記」に「(慶応4年Ⅰ月16)佐々木如水次男貞次郎、銃隊方広瀬滝三郎処江養子ニ遣候所、不縁ニ付双方熟談之上離縁仕候旨届出る」とあり。又同書同年7月の新庄表出張者名の中に如水の名あり。 

・「人名移動詳細」に「如水疾後男茂が相続して庄内へ下り戊辰の役関川口にて戦死した」とあるのは誤り。「開墾士氏名」に佐々木茂(如水の名なし)の名あり。

明治6418日付で旧酒田県の横暴を司法省に訴え出た庄内脱走旧新徴組士25名中の佐々木正健について、諸田政治氏の説明に「信濃国牧野家佐々木半太夫の子とあり。これが事実なら如水の兄弟となるが。「目録」「組別名簿」「麁調」「移動詳細」「庄内戦争出張姓名」「開墾士氏名」等に、他の佐々木姓は佐々木周作のみ。この周作については「麁調」に「丑37歳、生国三河、元内藤金一郎家来、設楽郡津奥村百姓佐々木喜三郎子」とあり。明治6年以降の記録に周作の名は見えず、周作と正健は同一人物か。

明治6年65日酒田県庁の召喚により東京を出立した旧新徴組士中に佐々木如水の名あり。・翌月酒田県から司法省酒田臨時裁判所への口上書に「墓参登之佐々木如水も昨日(7月19日酒田へ)着県致し候旨相届候云々」とあり、召喚者「一同日記」19日条に「佐々木如水十字頃三浦屋重助ニ着ス」と。同日記88日条に「右□宿より之書付(「稲田隼雄所持之品書写」)佐々木如水所持ニ而御省江御届申上候云々」とあり。

・明治77月貫属替

小諸城址内に如水の筆塚

『庄内史料集・明治維新史料』・『維新志士池田徳太郎』・『上毛剣術史』

島田利太郎

 名・行武

26

5番組

両親妻3人 ・真田信濃守元家来島田利藤治子

埴科郡森村住

新徴組入り ・「目録」に26番瀬尾与一郎組平士、「組別名簿」に瀬尾権三郎組平士で名あり。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「庄内戦争出張姓名」の2番隊平士に名あり。「開墾士氏名」に名あり。

・明治6727日付で中追正胤他2名が酒田県に提出した「奉願候口上記」中に「高尾文吾申聞候ニ者当月廿四日夜十一時嶌田利太郎留守宅江夜盗忍入候ニ付近隣之者共打寄霊験()□□脇差取落シ有之候ヲ若井壮蔵(以下10人略)見請有之候処、其脇差ヲ古屋常三郎与申者隠シ置候江共、其節不相分然処常三郎隠シ候ニ紛無之趣云々」とあり。この件については酒田県庁召喚者「一同日記」にも記述あり。

明治7年8月長野県へ貫属替

『上毛剣術史』

庄野伊左衛門

 名・義則

32

7番組

不明 ・松本藩松平丹波守家来望月深蔵子

江戸帰還途中の322日信州の有志徴募を受命。

新徴組入り ・「目録」に31番鯉渕大三郎組平士、「組別名簿」に小頭で名あり。しかし、「中村定右衛門御用留」中の文久3年5月5日付廻状に、『小頭壱番ゟ姓名』とある14番目に庄野伊左衛門殿とあり。

文久3年7(日不明)付け達しに「其方義高石鎌吉募方中村八郎左衛門与同意いたし不束之始末其余風分も有之小頭勤候者ニハ不相応之儀ニ付屹度も可申付之処出格之訳ヲ以小頭役取上平組申付け候 六番小頭庄野伊左衛門」とあり。 ・同7月27日廻状に「以廻状得御意候然者西恭助者御役申渡、椿佐一郎組柏尾右馬之助庄野伊左衛門組小頭申渡候間此段御達ニ及び云々」とあり。 ・「御用記」慶応2年中達しに「(前略)庄野伊右衛門、右六月廿五日、小筒打方世話役被付候付、当御地盤金之内利一ケ年弐両之御割合を以被下置候」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3人) ・「田川温泉場寄宿帳」に5番組小頭で名あり。

・「庄内戦争出張名簿」に3番隊伍長 ・矢島城城下入口の敵砲隊陣地へ隊長林茂助に従い突貫奮戦す。(千葉「新徴組と庄内藩」・『戊辰庄内戦争録』)

「開墾士氏名」に名あり。 ・小佐野淳氏論稿に「明治五年七月二十四日稲田隼雄と尾崎恭蔵は脱走() 尾崎は庄野伊右衛門に無抵抗で捕らえられ、嬲り殺しにされた」と。 ・司法省酒田臨時裁判所に召喚され、明治6年65日に東京を出立した旧新徴組士中に庄野義則あり。・召喚者「一同日記」同年84日条に「(前略)私共儀無拠用向出来候ニ付本月四日鶴ヶ岡江罷越来ル七日帰省御届可申上段奉伺候也」として庄野等四人の名あり。

明治7年4月寄留替、麻布西町11番地に寄留

『上毛剣術史』・『日野市立歴史館叢書』第10輯・小山松『新徴組』・『歴史読本20043月号

立花()常一郎

22

2番組

不明 ・信州中村百姓亀治郎

信州中村 ・上州新田郡本町村住 岡田盟厄介

新徴組入り ・「目録」に12番須永宗司平士(立花恒一郎)、「組別名簿」に須永宗司組平士で名あり。

・千葉弥一郎「維新前後の庄内物語」に「慶応三年の十月、吉原方面へ廻る途次、浅草の猿若町で夜半の弁当を食する為め、自身番に休憩して居ると、酒屋から強盗の届があった。其時の組は、小頭中澤良之助、立花常一郎、大島百太郎、中島健次郎、千葉弥一郎()五人の者に賞与があった」と。

・慶応4年庄内入り(家族3) ・「庄内戦争出張姓名」の1番隊平士に名あり。 ・「開墾士氏名」に名あり。

・明治710月貫属替