ⅩⅥの6 【埼玉県域の浪士組参加者たち(2)】

(さ行~な行)   17

 姓 名

年令

所属等

   家族・出身地・その他参考

島野喜之助

42

3番組

母妻子7人  ●埼玉郡志多見村住(加須市) ・島野家は志多見村の旧家で豪農(島野家分家で聴取・本家島野家は大地主で日枝神社まで他人の土地をふまず行けた富農だったが、現在は子孫が桶川市に在住と)

「目録」等に名なく、江戸帰還後帰村したらしい。

神道無念流宗家3代戸賀崎熊太郎栄芳に学ぶ。神道無念流「起請盟文入門帳」に名あり。小林助松晴村入門の翌天保9722日に入門。金子蔵之丞も同門。 ・万延版「武術英名録」に「神道無念流武州別処、嶋野喜之助」とあり、又「神道無念流免許皆伝系譜」に名あり。 ・加藤善次郎の菖蒲神社奉額(明治9)に名あり。 ・戸賀崎道場の門人帳弘化4年条に「武州埼玉郡志多見村 嶋野喜之介取立 松村熊吉」とあり。

喜之助の嫡男定三郎は弘化2年の生まれ。神道無念流大木伍兵衛柳眠に学び、維新後は志多見村議会議員や初代志多見村村長を勤める。義侠心に富む慈父のような人柄で、多くの村民に敬愛されたという。

島野家墓地は志多見の共同墓地、喜之助の墓は不明。

『加須の剣客小林丈助』・『加須市史』人物編

清水五()

 幼・森蔵

 名・誓()

30

1番組

母兄弟6人 ・酒造業清水弥右衛門誓一5男 ・母は根岸友山の妹(後妻、姉が友山の前妻) ・兄は安政6年横浜に出店し、パリ万博にも出品した実業家清水卯三郎。 ・天保5年生。兄卯三郎は文政12年生。

埼玉郡羽生町住(羽生市)

浪士組離京後も根岸友山らと京都残留。 ・『会津藩庁記録』文久3315日条「爰許江廿四人相残()此度私とも御差配ニ可随旨被仰付候」者の中に名あり。

・同月22日老中板倉勝静に将軍京都滞留を直訴建白した近藤勇18人の中に根岸友山と共に名あり。

・同月24近藤勇らによる殿山義雄謀殺前後に根岸友山らと京都を離脱、翌月23日以前に帰府。

新徴組入 ・文久3719日付「清水五一 親看病ニ付武州埼玉郡羽生町え差遣候間道中往返共人馬遣・休泊等相対賃銭相払、帰郷中其所之法度堅可相守もの也」、裏書に「()日限七月十九日より同月廿九日迄()右日限外れ候ハハ組除之積りたるへき事」の達文あり。

慶応四年庄内入り(家族3) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士で名あり。

明治5527日痔疾のため庄内で死去。享年39歳。家族は「わがよのき」に「(吾一は)□□□□□の家来芹沢の妹しもを妻とし、二人の女子をもうけたれどもみな失せたり。やもめのしもは山形より帰りわが家にしばらく居り、手狭なれば羽生の兄の方へ送りやり云々」とあり。2人の女児は庄内で死去。

吾一の墓は鶴岡総穏寺、及び羽生市正光寺

兄卯三郎の自伝『わがよのき』・『焔の人しみづうさぶろうの生涯」・『郷土羽生の先覚者しみづうさぶろう』・『新選組大人名事典』・『幕末諸隊研究』十周年記念号

清水小文治

恵造

48

1番組

妻子2人 ・百姓小文治子(明細書麁調)

大里郡小八ツ林村住(熊谷市)

新徴組入り ・「目録」に12番須永宗司組平士清水小文治、「組別名簿」に小頭清水小文治、「黐木坂屋敷絵図」に清水恵造で名あり。

慶応4年庄内入り ・「田川温泉場寄宿帳」に清水恵三と共に養子清水三郎とあり。 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士で名あり。 ・田辺儀兵衛「公私日記」慶応4811日条に「小文司手之者弐人此方江居候者、今度庄内表ゟ御人数参候ニ付相帰し、壱分ツツ手当為取申候」とあり。

・「開墾士氏名」に清水三郎の名あるも恵造の名なし。

・清水三郎は尾崎恭蔵と稲田隼雄の庄内脱走時、追手の1人として戦い負傷する。

明治72月貫属替(埼玉県へ貫属替の清水親威ヵ)

明治6917日酒田県へ寄留願いを提出した清水親盛は養子三郎ヵ。

現在小八ツ林地区に清水姓の家なし。共同墓地に清水姓の墓(天保年間迄)が確認できるも、清水家は甲山へ転居したとのこと。(村民談)

伊東滝三郎「市中見廻日諸留」(鈴木克久『峠越え』)

・千葉弥一郎「維新前後荘内物語」・小山松『新徴組』

杉山弁吉

  弁蔵

50

2番組

父子2人 ・百姓勘助次男

横見郡一ツ木新田村住(吉見町)

新徴組入り ・文久42月廻状に「右之者昨年中剣術出精ニ付為賞誉左衛門尉殿より小菊紙被下候」として杉山弁吉の名あり。

・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に弁吉の名なく杉山音五郎あり。「明細書麁調」に「杉山音五郎、亡父杉山弁吉云々」とあり。 ・音五郎は慶応4年庄内入り(家族2) ・「田川温泉場寄宿帳」に「先代弁蔵長男、杉山音五郎」とあり。

「庄内戊辰戦争出張姓名」3番隊平士に杉山音次郎、「開墾士氏名」に杉山音次郎の名あり。

明治77月杉山音五郎東京府へ貫属替。

一ツ木長泉寺跡墓地の杉山某墓石に「杉山家始祖は横見郡の当地を担当した原大隅の守の長女に杉山玄馬之守(滑川町出身)が婿入し、元禄年間本家大隅の守長屋敷富士先門前に第一分家として別居」し、以後繁栄して分家等十数軒に至るとある。原大隅守は武田信玄の家臣原美濃守虎胤の後裔で、虎胤の孫原勘解由良房が文録年間にこの地に土着したと。13第当主原照胤は馬庭念流の剣術家という。杉山家は明治7年の荒川の河川改修で1軒を残し総て他に移転した。

須永宗司

 名・武義

須永家系図には宗司照武

31

7番組小頭

親妻子4人 ・百姓与兵衛子(「明細書麁調」)・須永家系図の父の名は須永新五郎照国 ・天保3年生。

幡羅郡飯塚村住(熊谷市)

甲源一刀流を学ぶ(師不明)安政4年松澤良作の聖天院貴惣門の奉額に、代師範席に須永宗司の名あり。 ・「武術英名録」に「甲源一刀流 深谷在 須永宗司」とあり。 ・邸内に剣術道場があったと伝わる。又宗司は「甲源流の剣術を好くせし人、小兵なれど気概あり」と。

新徴組入り ・「目録」12番組小頭、『組別名簿』小頭 

文久3521日廻状に「()壱番組小頭山田官司五番組須永宗司両人親病気ニ付立帰帰国願候ニ付承届ケ出立申渡候間云々」とあり。

「須永家系図」に「元治元()六月五日卒ス江戸牛込法泉寺薨年三十三歳」と。『太田村誌』に「慶応の年遂に新徴組の邸に悶死す」又「痔疾手術が真ならん」と。

「明細書麁調」に「須永宗太郎、亡父宗司()庄内入、(家族)二」、「田川温泉場寄宿帳」に「楽隊、先代宗司長男、須永宗次郎」とあり、「須永家系図」に「須永宗太郎義武()太田村大字飯塚黒沢作次郎ノ長男ニ生レ五歳ノ時父ヲ失ヒ十一歳ノ時母ノ再婚先ノ須永宗司ノ死後其養子トナル養父ノ跡ヲ継ギ新徴組ニ入隊ス」とある。

・「黐木坂新徴組御用屋敷絵図」に須永宗太郎の名あり。

・「庄内戊辰戦争出張姓名」、「開墾士氏名」共に宗太郎の名なし。 ・明治79月熊谷県に貫属替。

妻沼町誌』に「須永宗司は、大阪方の残党須田弾正親義が武者修行中発起してこの地に土着、姓を須永と改めて百姓になった人から十代目の新五郎照国の長男として天保三年に出生した」と。

『埼玉人物事典』須永武義(宗太郎)条に「明治7年陸軍兵学寮に入り、西南戦争に少尉で従軍、日清・日露戦争にも出征した。近衛歩兵第2連隊長、第9師団参謀長、歩兵72236師団長を経て同43憲兵司令官に就任、44年中将に昇進、452月予備役編入となった。(大正14年没)享年71歳」とあり。

大里郡郷土誌」・『妻沼村郷土誌』・『埼玉剣客列伝』・吉野式『幕末諸隊研究特別版』

諏訪山熊次郎

 名・家継ヵ

63

3番組

妻子2人  ●足立郡鴻巣宿住居(鴻巣市)

神道無念流を学ぶ(師不明)。 ・安政32月常見源之助主宰「摩利支天講連名簿」に「鴻巣宿、諏訪山熊次郎様」と。「武術英名録」に「中山道鴻巣宿神道無念流、諏訪山熊次郎」と。明治9年加藤善次郎の菖蒲神社の奉額に「世話掛、鴻巣、諏訪山熊次郎」とあり。

「目録」に名なく江戸帰還後の去就不明。

御子孫の話に「家は江戸時代末期か明治初年に原市場から勝願寺の門前に越してきた。初代が熊次郎家継といった。神道無念流の達人だったと伝わる。数回の火災に遭い資料は何も残っていないし、位牌も字が読めなくなっている。赤鞘の刀もあったが」と。

菩提寺市内法養寺に、熊次郎が天保734日施主として建立した墓と、諏訪山庄八建立の熊次郎夫婦の墓が確認できる。熊次郎の没年は明治15116日、妻きの元治210月□(4)日。

吉野式『幕末諸隊研究十周年特別記念号』

高橋菊之丞

22

1番組

父母兄弟10人  ●横見郡柚沢村住居(吉見町)

新徴組入り ・文久39月6日脱隊 ・「柚原鑑五郎日記」文久39月条に「六日御仕法替ニ付御暇金五両宛被下」として高橋菊之丞の名あり。以後の去就不明。

滝川熊之進

20

4番組

1人 ・百姓吉五郎子

男衾郡本田村住居(川本町)

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」共に小頭須永宗司組平士に名あり。 ・根岸友山「御用留」文久368日条に「右之者昨夜御門限御規則相省キ候依之慎被仰付候間云々」として3人中水野倭一郎組滝川熊之進の名あり。 ・慶応211月岩間清四郎の乱心事件の際、清四郎の身柄監視に当たった者の中に名あり。

「明細書麁調」に「庄内入り」家族3人「内一人3歳以下」とあり。 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に1番隊平士で名あり。「開墾士氏名」に名なく以後の去就不明。

田口徳次郎

33

1番組

妻子兄弟3人  ●比企郡大塚村(小川町)

新徴組入り ・「目録」、「組別名簿」共に飯塚謙輔組平士として名あり。 ・文久312()中村定右衛門宛徳次郎書簡(舌代)に「()小子義先日申上候山岡君之一条ニ付、昨七ツ頃友山君より是非迄追々右御頼之一条御出張願上候、何卒御繰合セ御供可仕候云々」と。・同年1218日付根岸友山の中村定右衛門宛書簡中に「過日田口を以願置候山岡公へ御執成之義、御手透次第御周旋奉願上候云々」と。 翌文久428日付根岸の中村宛書簡中に「兼て奉願上候山岡様一条、此程委細御申上被下候処、山岡様より御懇情之御定見等之段委細被仰聞難有奉存候、先便森土様より一向不沙汰之趣ニて御状被下何共恐入候間、此度田口公へ委細申遣し候、田口公と御両所様ニて何とかよろしく御申上云々」とあり。

・慶応元年6月の黐木坂新徴組屋敷絵図に田口徳次郎の名なく、以後の去就不明。

『日野市立歴史館叢書』第11

千野卯之助

48

1番組

母妻子孫8人 ・百姓惣八子

比企郡下小川町住居(小川町)

新徴組入り ・元治元年2月「昨年中剣術出精ニ付為賞誉左衛門尉殿より小菊紙被下候」として千野卯之助の名あり。 ・「明細書麁調」に「庄内入り、(家族)四」とあるが、「黐木坂新徴組屋敷絵図」や「田川温泉場寄宿帳」等に千野卯之助の名なく、慶応元年6月以前に脱退したものと思われる。以後の去就不明。

「明細書麁調」に卯之助に関し「生国武蔵、元信濃諏訪浪人、武比企郡小川村代々住、先祖より三代目迄郷士、四代目より代々百姓、惣八子」とあり。

「千野家由緒書」に「信濃国諏訪郡茅野村茅野信武□(茅野備後)茅野一統年代不知武州比企郡奈良梨村に引越住居仕り候事其籟大沢氏と備後両人彼之地に罷越諏訪御社奉守護候由然庵大沢氏者当所之神職に相成茅野氏は郷士にて罷在候」とあり。

『埼玉史談』第9巻「奈良梨と諏訪千野両氏」

塚田源三郎

 名・秀保

28

6番組

親妻子6人 ・富農塚田勇蔵長男 ・天保7725日生。   ●幡羅郡蓮沼村(深谷市)

甲源一刀流蛭川一忠康に学び、後邸内に剣術道場を開設。瀬川太郎右衛門信綱は源三郎の門人。嫡子啓太郎建立の源三郎の墓石に「父少壮而儒教剣術」とある。

「目録」に名なく江戸帰還後脱退か。

高橋三五郎一之明治3年の滑川町成安寺奉額師範席

・甲源一刀流宗家辺見愛作明治14年の宝登山神社の奉額の師範席 ・大塚○恵八明治21年の箭弓神社の奉額師範席筆頭 ・辺見愛作明治28年の小鹿野神社の奉額の師範席 ・辺見愛作明治28年の靖国神社の奉額師範席に名あり。 ・瀬山鉄五郎の「英名録」明治31年条に名あり。 ・「皇国武術英名録』に名あり。

明治17年の秩父事件の際、門人数十人を塚田家に集合待機させたため、これを知った困民党の一隊が進路を変えて難を免れたという。

明治7蓮沼村戸長、翌8年学務委員となり、蓮沼学校の建設時にはその用地を提供したという。明戸村々長を歴任し、明治38524日没。享年70歳。墓は深谷市蓮沼の総持寺。 ・安政6年生れの長男塚田啓太郎は実業家で衆議院議員(『埼玉県人物事典』)

『埼玉剣客列伝』・酒井塩太『甲源一刀流』・『甲斐源氏甲源一刀流逸見家』・吉野式『新徴組研究第9号』

土屋竹蔵

25

2番組

不明   ●武州忍浪人(行田市)

新徴組入り ・「目録」16番組平士、「組別名簿」小頭飯塚謙輔組平士 ・文久368日付廻状に「右之者(3名)昨夜御門限御規則相省キ候候依之慎仰付候云々」として土屋竹蔵の名あり。

文久4年2月10日本郷竹町の質屋源助方で石原富蔵(新徴組士)、佐野芳之助(酒井順之助家来)と共に強談し捕縛される。(『藤岡屋日記』) 以後の去就不明。

常見一郎

 通・源之助

 名・真倫

43

3番組小頭

親妻子10人 ・百姓吉之助真成子(推定)

埼玉郡安養寺村(鴻巣市)

神道無念流宗家3代戸賀崎熊太郎栄芳高弟、小松助松、島野喜之助は兄弟弟子。義集館道場経営。

新徴組入り ・「目録」6番組小頭、「組別名簿」小頭で名あり。・「黐木坂新徴組屋敷絵図」に名なし。・小山松『新整組』2慶応元年6月役宅新築時「小頭過人、常見一郎(前小頭)」とあると。

・中村定右衛門「御用留」元治22月付常見一郎親類鴻巣宿在原馬室村要右衛門等の嘆願書に「右之者(中村定右衛門と常見一郎)共去子六月中心得違之儀御座候て、於酒井左衛門尉様禁固被仰付奉恐入候、永々幽閉ニ罷在自然発病仕候も難計、旁々歎々敷奉存候間何卒以御慈悲御赦免ニ相成様云々」とある。他に芝増上寺内瑞成、清水家臣塚田東作等の常見一郎宥免の嘆願書あり。又松平権十郎の返書等もあり。同年36日付権十郎増上寺内瑞成への書簡中に「市()郎義ハ迚も難差免者ニ有之候間、何廉嘆願致し候ても已来御取扱無之様致し度、無余儀及御断候云々」とある。※中村定右衛門は許されたが、常見について詳細不明。

国立公文書館所蔵文書「明治以後の新徴組隊士らの行方」に、常見一郎に関し「慶応元年三月不埒ノ儀有之永牢中病死」とあると(吉野式『新徴組研究』第5号)。 ・御子孫常見家の口承に「先祖に剣術の腕の立った人がいたが、妬まれて東北地方の某所で闇討ちに遭って殺されたとも、戊辰戦争に従軍して戦死したとも」と。

常見家菩提寺安龍寺に明治1712月常見新助直良建立の夫婦墓があり、そこに「明治二己巳年八月二日()、俗名常見一郎真倫、行年四十九歳」とある。

鴻巣市箕田の寺子屋師匠増田俊輔の碑石門人名に常見源之助の名あり。 ・安政3年三月会主常見源之助真倫が近隣武術家70余人を集めた剣術大会の招待者を列記した「摩利支天講連名帳」あり。(鴻巣市史』資料編)

福井藩橋本左内の「備忘録」(安政3)に「武州鴻巣在安養寺村恒見源之介、往来共日光道中栗橋宿云々」とあり。

『笠原村史」・『鴻巣市史』・『橋本景岳全集』・『日野市立歴史館叢書』第11輯・『幕末維新埼玉人物列伝』

徳永大和

 号・豊洲

40

1番組小頭

妻1人 ・横見郡長谷村生まれ。

大里郡高本村住居(吉見町)

文久3年1月16日付根岸友山の府川甚右衛門宛書簡に「池田(徳太郎)君同行の加藤健次郎君又々当方へ御出に付隣村神主福()永大和と申者案内者として差上候云々」と。 ・同年23日在府の根岸友山から郷里の伴七宛書簡に「武州二而は(小頭は)我等豊州被仰付山田官司此方へ仰付候」、追伸に「豊洲公平安着の趣旨右宅へ御伝言被下候」とあり。

豊洲妻は高本村名主鈴木七兵衛娘。

・「目録」に名なく江戸帰還後早期に脱退か。

天保3年甲山村人別帳に「大和、山王社掃除人、出生横見郡長谷村、九歳、引受人小八林村春日社神主河内」と。後に根岸友山の知遇を得て吉見領総鎮守吉見大神宮での神職修行を経て同神社と高本村高城神社神主を兼ねる。又根岸家の高本村所有地の管理を託される。

慶応2年の武州一揆の際は安藤野雁と共に暴徒対策に当たり根岸家の危急を救った。(『冑山防戦記』)

慶応4年根岸友山武香親子が官軍に捕縛投獄(冤罪)された際、吉見大神宮の須永宮司と共にその赦免救解に奮闘した。その際の「大総督府宮様御役所」への嘆願書

の署名に「大神宮神官並医徳永豊州」とあり。

明治4年6月大宮氷川神社主典となる。大宮氷川神社神主角井駿河守の日記に、「(同年12月7日)徳永豊州儀ハ出京留守ニテ云々」、「(明治7年9月15)赤飯一重徳永より到来、但同人へ娘出来云々』等の記事あり。明治7大宮氷川神社神社主典の職を辞し(病ヵ)高本村へ帰る。翌年8818日病没。享年52歳。墓は高本の共同墓地。

妻沼歓喜院所蔵の画幅「妻沼八景」は豊州の作。

『大里村史』・『大宮市史』資料編・『根岸友山・武香の軌跡』・『幕末諸隊研究十周年記念号』・『幕末維新埼玉人物列伝』

戸谷浦次郎

26

1番組

妻子3人  ●児玉郡本庄宿住居(本庄市)

新徴組入ヵ。「菅谷報道」(嵐山町)中に、「515日水野倭一郎書出」として「戸谷浦次郎、右の者は親病気に付願済みの上帰国仕ります」と。(出典不明)

根岸友山家系図の、友山の末弟桂(雲外)の条に「本庄駅戸谷氏ヲ嗣ク、後離縁」とあるので、この戸谷家の関係者か。 ※本庄宿で高名な戸谷家は、根岸鎮衛の「耳袋」に載る戸谷三右衛門家や、松崎慊堂『慊堂日暦』に載る戸谷半兵衛家があるが。・戸谷双鳥(通称半兵衛は俳人として高名)

中村定右衛門

 名・正行

33

江戸出立時不明、215日より乱暴人取押役

両親妻子7人 ・百姓伊右衛門子 ・天保元年414日生   ●幡羅郡新堀村住(熊谷市)

馬庭念流四分一兵右衛門光重門人、四天王の1人。安政31目代印可を受け、邸内道場(兵武館)で門人を育成。押花、謡曲、算術等にも秀でる。・新井朝定編纂「皇国武術英名録」に中村定右衛門正行の名あり。

定右衛門自筆書に「登り之節より組内乱妨人取締方被仰付、下府之節ハ取締付と唱候て高橋伊勢守ニ付添」とある。 ・上洛途上の215日付廻状に「右乱妨人取抑方申付候間左様可心得候」として7人中筆頭に中村定右衛門の名あり。 ・「甲山組」の根岸友山組に名があるので、江戸出立時は1番組平士だったか。

御子孫宅に「雲州藩藤原長信作之、文久癸亥八(二ヵ)年二月上洛供奉中村定右衛門藤原正行試之鹿角鐵裁」と刻銘の長刀(83.2cm)(刃毀れあり)あり。

新徴組入り ・定右衛門自筆書に「(文久3)六月剣術教授方、同年九月小頭役被仰付」とあり。

千葉弥一郎『新徴組と庄内藩』に、新徴組が幕吏の手を離れて庄内藩に委任された際、「最初に中村定右衛門・

鯉淵太郎は邸の四隅に<酒井左衛門尉屋敷>と記せし標木を見るや、直ちに取除き溝中に投じた。藩吏其不法を詰問すれば、二人は答へて曰、此邸は酒井左衛門尉邸にあらず、新徴組に賜はりたるものなりと。然れども、暴状を以て獄に投ぜられた。翌日<新徴組御委任>の六字を加へて書き改めた云々」とある。小山松『新徴組』もこれをとったのだろう、文久31226日黐木坂邸の四隅に「酒井左衛門尉屋敷」と記した大標木が立てられたのに憤慨した2人がこれを引き抜いたとある。

・定右衛門が当該事件に付いて記した「中村定右衛門等赦免嘆願留」には「(元治元年)六月中新徴組之儀は酒井左衛門尉殿之一手ニ御委任被仰付、然ル処是迄飯田町屋敷ニ立置候棒杭ニは新徴組御委任酒井左衛門尉殿屋敷と、ケ様ニ書認メ建有之候を、六月廿六日ニ抜取、其跡え酒井左衛門尉屋敷と書建替ニ相成、右ニ付如何之訳ニて新徴組と申文面を除キ建替ニ相成候事哉、組一同之者承り申度旨小頭一同之申候ニ付、小頭より其日当番肝煎山口三郎(2人略)右三人を別間え招、右一同之存意之趣三人」に問い糾したことが事の発端(縷々詳細有)で、中村定右衛門、常見一郎、内藤弥三郎の三人が押込め処分となり、7月「十五日ニは常見一郎組合と野生(中村定右衛門)組合つぶし、外之組合え組込」になったとある。

・この後中村定右衛門の親族の再度の嘆願や、「新島村新照寺ヲ相願ミ出府致し酒井家菩提寺芝山内清光寺より嘆願」し、許されたのは慶応元年3(永暇)であった。

拙著『幕末維新埼玉人物列伝』等においても、小山松『新徴組』と同様の誤りを犯していました。

慶応2年、流派発展と家内繁栄を願い現熊谷市三ケ尻観音堂と同市新堀大正寺に奉額する。 ・「埼玉県武道家資料蒐集事業資料」に「中村定右衛門は馬庭念流の使い手で、同流を武蔵北部一帯に普及させるのに与って力があった人物である」とある。

明治9年新堀村戸長、同18年高柳村外四ケ村連合戸長就任。

山岡鉄舟に春風館道場に入門(時期不明)、明治133月無刀流開祖山岡鉄舟から中村正行への「無刀流剣法修行規則」及び6月付「剣道悟入覚書」等あり。

明治2027日没、享年58歳、墓は中村家墓地 ・庭前に山岡鉄舟撰文幷書による「中村正行碑」あり。

「明細書麁調」は旗本斬殺事件で自刃した中村常右衛門と中村定右衛門を混同している。

「遠近刃額出名簿」・「壬文久二年諸先生姓名簿」・「文久四子正月御用留」・「文久三年忠士日誌」等

「皇国武術英名録」・『埼玉剣客列伝』・『埼玉紀要』・『日野市立歴史館叢書』第11輯・『埼玉武芸帳』・『ふるさと新堀の歴史』・『熊谷市人物事典』・『歴史と旅』中山本邦夫稿「山岡鉄舟」・吉野式『幕末諸隊研究特別版』・『幕末維新埼玉人物列伝』

長屋源()

 「田川温泉場寄宿帳」に「初め元蔵、長屋玄平」と

29

6番組

不明   ●武州川越浪人、当時斎藤熊三郎方同居

新徴組入 ・「目録」25番吉岡卓雄組平士 ・「組別名簿」吉岡卓男組平士

・田辺儀兵衛「公私日記」慶応4122日条に「長屋玄蔵儀、旧臘廿五日薩州屋敷江相向、手疵ヲ得候ニ付為御手当金弐両被下置候」と。 ・長屋玄平がこれ以前に薩邸へ密偵として潜入したという逸話が、千葉弥一郎「わが新徴組の薩摩屋敷焼打」及「新徴組史料」、又俣野時中明治27512日史談会談話、『相楽総三とその同志』に記述あり。

慶応4年庄内入り(家族無) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に2番隊伍長で名あり。 ・「公私日記」慶応4425日条に「長屋玄蔵、松根村磯吉両人、最上江差遣し候、源平江弐拾両磯吉江五両為持遣申候」、翌閏411日条に「長屋源平、磯吉最上ヨリ帰ル、御人数も追々御引揚ケニ相成候趣申聞候、如何成ル御趣意ヵ相分リ不申候甚心配ニ候、早速金剛殿江申上ル」、又同日条に「御城下之御趣意も相分リ不申候ニ付、長屋源平江書状為持、大夫江御模様相伺セ申候」、同月13日条に「長屋源平鶴ケ岡より参ル」とあり。

「開墾士氏名」に長屋玄蔵で名あり。

「天野静一郎割腹事件手続御尋ニ付萩原忠義申上候口上記」に「()右七人之者(長屋の名あり)静一郎宅へ参()長屋玄蔵申聞候ニ者西ケ原村鎌太郎之一条存じ有之哉ト相尋候所静一郎義答候ニ者一向存不申旨相(答ヵ)候、右玄蔵申候ニ者鎌太郎義知ぬ事者有間敷与申候者、静一郎不存旨申候得者、長屋玄蔵(2人略)右三人種々申聞候間、左様御不審ニ候得者表向之御吟味被下段相願候云々」、「(天野は)不及是非実々西ケ原村鎌太郎義曾而覚無之其侭咽へ突立カツキリ候越又々長屋玄蔵其脇差取咽江突通候義ニ而其侭相果申候云々」と。

稲田隼雄割腹事件に関する「奉訴訟口上記」に「()隼雄事□モ不取改心之心底モ無覚束付亭ハ割腹之事弥其場ニ及ひ候迄進メ候様厳重申出候、其根元者長屋源平より被申付候」と。

明治6415日庄内を脱走し、途中連れ戻された小山清忠と中追胤親について、「此度之義ハ再血盟モ有之皆議定誓詞ヲ破候事言語ニ絶タル大罪人是非割腹致候様赤澤源弥中川一萩谷弥太郎長屋玄蔵相進候事」と。

明治73月庄内脱走元新徴組士の司法省への訴えにより懲役2年の刑を課される。

千葉弥一郎「維新前後の荘内物語」に「山口三郎が恩人として居る新徴組の長屋玄平は老生の実父と同じく武州川越の藩であって、老生とは姻戚関係があった。玄平は三郎を信頼して居った為め玄平との関係より老生も三郎とは至って親しく交はった云々」等とあり。

『庄内史料集・明治維新史料』・『上毛剣術史』

根岸友山

 幼・房吉

 字・仁卿

 名・信輔

 通・伴七

55

1番組小頭

妻子5人 ・『新編武蔵風土記稿』に載る名家で豪農の根岸家11第伴七信保の長男。文化61127日生

大里郡甲山村居住(熊谷市)

文を山本北山(芳川波山ヵ)、寺門静軒等に師事、武を水野年賀、千葉周作等に学ぶ。邸内に武術道場「振武館」と私塾「三余堂」を設けて郷村子弟の教導の場とする。

天保4年大里23ケ村の普請惣代として荒川改修工事に尽力。 ・同12年蓑負騒動と呼ばれる農民騒動(天保10)に加担して江戸十里四方追放の処分を受け、安政2年許される。

万延元年長州藩の物産御用取扱及び江戸異変の際の藩邸内の世子や婦女子の避難所を根岸家に託される。又友山の履歴書に「天下有志ノ士ト交際シ来訪逗在スル人多ク就中長藩桂小五郎小松真辰三郎久坂玄瑞時山直八小田村文助薩藩鮫島雲城重野厚之丞肥前藩中野方蔵宇都宮藩広田精一刈谷藩松本謙三郎()王事ニ奔走シテ資力已ニ尽キ来リテ衣食旅費ヲ乞アリ伴七一々之ヲ容レ或ハ宅ニ隠匿シテ()常ニ宅ニ寄宿スル者十余人ニ下ラス」と。※安藤野雁、寺門静軒等も長く寄寓した。

文久元年125日付清河八郎の友山武香親子宛書簡中に「去月之比は毎々参堂永滞留仕、萬々御厚情ニ預千万忝奉存候、其上出立之節は御餞別迄御贈被下云々」と。

文久31月7日付清河八郎の友山宛書簡に「公辺を以て広く天下之有志のもの不拘貴賤御召寄之事に相成、即同志池田某を以て廻国周旋為致申候間、いさひ当人より可申入()尽忠報国之秋ニ候間御奮臨被成様致度云々」と。 ・同月25日付池田徳太郎の友山宛書簡中に「御調達次第一衆に無之とも御遣可被下候、尤山岡さして也云々」とある。 ・友山は甲山組と称する27人を纏めて桶川宿に集結し(129)、池田徳太郎らと21日江戸到着。

313日の浪士組江戸帰還に同行せず京都残留。 

・同月15会津藩公用方に出頭し近藤勇20人と共に「御差配ニ可随旨被仰付」。 ・同月22近藤勇17人と共に老中板倉勝静に将軍の京都残留を直訴建白する。 ・同月24日前後に京都を離脱し江戸に戻る。

新徴組入り ・「目録」に29番萩原弥太郎組平士に友山の名あり。しかし「御用留」関係には4月に小頭で友山の名がある。小山松『新徴組』に519日取締18人任命中に友山の名あり。

・同年423日付金子正玄の池田徳太郎宛東帰要請の書簡中に「根岸友山君、佐々木如水外一同にも松平上総介殿に援兵願候処、早速御聞済被下候間、黄金のよろひさし下に付御出馬可被下候」とあるので、友山は23日以前に帰府していたことが明らかである。

・同年912日病気を理由に永暇を得て帰郷。同年12月中村定右衛門に宛てた友山の書簡に「(江戸)発足前より引続湿疹ニて難儀致居()右湿疹増長之上()食禁ニて酒ハ猶更厳ニ禁申候間鬱悶ニ不堪云々」とある。

元治元年「第一回征長の挙あり。氏(友山)関東の虚なるに乗じ、権田直助等と兵を挙げ長州に応ぜんとす。幾ならずして幕長和議成りしを以て果さざりき」(徳育資料』) ・慶応2年「秩父多摩二郡暴徒為乱。掠奪金銭。一夕襲友山居宅、友山接戦捕其二人」(佐田白茅「根岸友山小傳」)。※安藤野雁「冑山防戦記」あり。

・慶応3年竹内啓ら野州出流山に挙兵「伴七育成ノ兵士の内五十人ヲ撰ミ率匕テ対手ニ向フベキ命ヲ受タリ、伴七陰ニハ竹内啓ト謀ヲ通ジ()機ヲ得テ大平ノ兵ト相挾ミテ幕兵ノ不意ニ起ラントス()熊谷本陣詰ノ隊将伴七ノ挙動ヲ怪シミ」帰村を命じられると。(『履歴』)

・慶応48月「旧幕府元関東取締出役渋谷鷲郎江同腹致し、同人所業を相助ケ、且金穀武器類を相預り、妻児共ヲ養ヒ候云々」との嫌疑で官軍に捕縛投獄される。なおこの際、友山の身代わりたらんとした息子武香も共に投獄される。徳永大和や村民の嘆願運動もあって翌月には冤罪も晴れ釈放される。

明治2年服部誠之助と「廃封建表」、同3年用日本字廃漢字事」等を政府に建白。同4年には神葬祭運動を展開し、甲山村全戸の神葬祭への改宗に奔走。又嗣子武香と「日本古印譜」や「皇朝泉貨志」等の編纂刊行を行い、傍ら吉見の百穴等古墳の保存や古器物古跡の研究保存等に尽力した。

明治23123日没、享年82歳。墓は根岸家西隣の根岸家墓地。当塋域に「寺門静軒先生之墓」あり。

「御用留」・「吐血論」・「治水考」・「田園雑興」等

『根岸友山・武香の軌跡』・『埼玉県人物誌』・『埼玉県人物事典』・『大里村史』・『北武八志』・『在臆話記』・『しみずうさぶろうの生涯』・『徳育史料』・『新編埼玉県史』資料編・『史談会速記録』・永井啓太『寺門静軒』・沼田哲「武蔵豪農と尊攘思想」(『季刊日本思想史』第13)、「幕末の武州豪農長州藩(井上勝生『幕末維新史の研究』中)、桜沢一昭「武蔵草莽の一典型」(『埼玉地方史』)、小野文雄「幕末の書翰」(『埼玉県史研究』)等論文多数・『幕末維新埼玉人物列伝』