14の2 【茨城・栃木県域の浪士組参加者たち】

 

  ※当該名簿をご覧の際の注意事項は、ⅩⅣの1の冒頭に記してあります。

    茨城県域からの浪士組参加者たち (9名)

 姓 名

年齢

所属等

   家族・出身地・その他参考

小倉宗伯

 称・宗次郎

  (宗治郎)

  (宗二郎)

21

3番組

両親 ・百姓権右衛門子 ・「人名移動詳細」に「石坂宗順義子」とあり。

常州河内郡太田村出生(「明細書麁調」には吉田村) 下総国香取郡拾三間戸村住居

文久3415評定所召喚22人の中に名あり。

新徴組入り ・「目録」に次席和田堯造組平士小倉宗伯(宗二郎事)とあり。 ・「組別名簿」に小頭清水小文治組平士小倉宗次郎あり。

文久3年6月9日廻状に「小倉宗伯、古渡彦一郎此者昨八日御蔵前へ金策ニ相出候より酒井殿より申来候」と。 ・田辺儀兵衛「公私日記」慶応4年2月8日条に「小倉宗次郎、中追太助右両人北新堀ニ而歩兵と間違致し、歩兵四五人江手負セ両人も手疵ヲ得罷在候趣御上屋敷江注進有之候云々」、又同月18日条に「小倉宗次郎、中追太助慎御免」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士で名あり。 ・「開墾士氏名」に名あり。

・「天野静一郎割腹事件手続御尋ニ付萩原忠義申上候口上記」に、明治4年正月13日「()右七人之者(小倉宗次郎の名あり)静一郎宅へ参於東京表不都合之次第有之趣ニ而我々附添被仰付候間大小取揚」自裁に至らせたとの記述あり。(中澤貞祇の記録)

明治8年現在鶴岡居住。 ・小山松『新徴組』に「小倉宗次郎は後田山開墾後警察官となり、明治156年ごろ南村上郡上山警察署長になっている」と。

『上毛剣術史』・『庄内史料集16-2 明治維新史料』

糟屋新五郎

 幼・辰五郎

 名・宗伯

変・谷野半平

松延積之衛門

40

道中目付

不明 ・糟屋忠兵衛長男 ・文政3816日生

那珂郡野口平村住

水戸藩死事録』に「糟谷宗伯、新五郎ト称ス、押役、戊午巳未ノ際奉勅雪冤ノ事ヲ謀リ、又林以徳等ト鹿児島藩ニ投シ、後本藩邸ニ錮セラレ、赦ニ遇ヒ家ニ帰ル、甲子ノ変下総流山ニ匿ル、慶応元年六月(原注・失日)病死ス、年四十五」と。 ・「庚申八月廿七日薩州家へ致出訴候族左ノ通」として薩邸駆込37士中「元押ノ者、糟屋新五郎」あり。(茨城県史料』幕末編Ⅱ) ・新五郎等は文久元年7駒込水戸藩邸に移され、翌年1216大赦により放免された。

浪士組上洛後の文久338日廻状に「芹沢鴨、糟屋新五郎、岡田盟右三人者取締役並出役附属申渡候云々」と。 ※江戸出立時は「柚原鑑五郎日記」に道中目付とあり。

・同月10近藤勇らと共に会津藩に将軍滞京中の市中警備を願い出る。 ・同月15日京都残留浪士(24)会津藩庁に出頭(20)するも糟屋新五郎等4人は「病気ニ而不参之由」と。 ・同月25会津藩士本多四郎と壬生狂言を見物した者の中に糟屋新五郎の名あるも、以後翌元治元年までの去就不明。

『水戸天狗党栃木宿焼打事件』に「栗田(源左衛門)の配下には黒沢新三郎、糟谷新五郎、宇都宮左衛門()栗田、黒沢、糟谷等は上州太田宿周辺で挑発云々」と。

・「都賀郡山田村記録」元治元年5月大平山へ屯集浪士中「茶屋共へ旅宿」として「軍師田中愿蔵、山田一郎、糟谷新五郎()」とあり。 ・「水戸浪士田中愿蔵看聞録」512日条に「(太田宿を)昼頃ゟ何れも引払、八木宿へ罷越申候」として大将栗田源左衛門配下に粕谷信五郎の名あり。 ・「同書」同月20日条に「右之もの(氏名略)木崎ゟ帰り、御用金被申付候旨申聞候ニ付、粕谷殿江猶又伺候処、太田町之義者是迄種々世話ニ相成候義ニ付、金談之義此方江御任せ可被成旨書付御渡被成候云々」として栗田、黒沢新三郎、粕谷連名の「命有之、太田町之義者我等引受申候」とする文書あり。 ・「同書」翌21日条に、「()水藩粕谷信五郎、金井国之丞より二ツ小屋村船頭源次申ニ、古久三迄罷出候儀、呼状差遣し申候云々」とあり。

・青木彦三郎の青木九祐宛522日付書簡に「粕谷之儀を帰り相尋候処外にも談事之上などと申はいつはりにて全だしぬけに左様之次第いかにいかに不埒至極太田へ参り今に帰り不申帰候はば屹度談事可申候」と。 ・同月26日付青木彦三郎の青木九祐宛書簡に「炮砲貳挺粕谷江御遣し下され候趣慥落手いたし候」とあり。

・「結城町騒動之由来」527日条に「佐野在寺岡村旅館引払、富田宿旅宿」として「軍隊長糟谷新五郎、宇都宮左衛門、昌木晴雄」の名あり。

塩沢吉光寺秀一家文書「堅帳」6月6日条に「昨夜小山宿泊之浪人之中粕谷新五郎と申もの夫婦持宝寺境内ニおゐて首ヲ刎候よし、其ゟ栗田組は小山出立云々」と。

・「六月七日栗橋宿ゟ御届」に「水戸浪人粕谷新五郎と申もの、小山宿逗留中女房尋参り候ニ付、去ル五日夜同処を欠落致し候処、浪人共追欠ケ城町ニ而取押、小山宿江引取帰、同前慈法寺境内ニ於而翌六日死罪ニ致し、右慈法寺江右之者共葬式云々」と。又同書に「下総国豊田郡鎌倉台村百姓善五郎後家之由、粕屋、  死罪人、同人妻つね、 右浪人は昨六日間々田宿出立、横道諸川町へ間々田宿ゟ人馬継立致し候得共、夫ゟ先々は何方江罷越候哉相分り不申候」とあり。 ・「水戸浪士追討出陣記録」に「惣堂近辺之出生女子ハ粕谷新五郎妻ニ相成候、小山宿地法寺ニ而首打落し候由」とあり。

墓は野口平の粕谷家墓地(明治39年建立)

『藤岡屋日記』、『常野集』、『太田市史史料編』、『小山市史史料編』、『栃木市史史料編』、『勤皇志士青木彦三郎傳』、『小山郷土文化研究』・『高崎市史史料編』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号等

神代仁之助

(上城順之助)

25

7番組

不明   ●水戸浪人

浪士組江戸帰還に際して同行せず京都に残留する。

文久3313日付浪士取締鵜殿鳩翁等が目付杉浦正一郎宛書簡に「今暫京地ニ相残旨昨十二日申出()今朝同人(松平肥後守)家来へ引渡京地へ相残申候云々」として記された残留希望者16人の中に神代仁之助の名なし。 ・同月15近藤勇会津藩庁出頭者氏名中に「右四人之者ハ病気ニ而不参之由」として神代の名あり。同月10会津藩に京都残留嘆願書呈出17人の中に名なし。 ・同月22日将軍の江戸下向に反対して老中板倉勝静に直訴建白した芹沢等18人の中に神代の名なし。 ・同月25壬生狂言見物者17人中にも名なく近藤勇等と行動を共にしようとしたとする通説は疑問。(拙稿ⅩⅡ「京都守護職の浪人対策と浪士組」参照)

新徴組入り ・「目録」に名なし。

文久3617日廻状に「退身 辺見米三郎組合神代仁之助」とあり(根岸友山「御用留)。中村正行「文久三年忠士日記」に退身は616日とあり。

『歴史のなかの新選組』に「文久3年6月16日永暇を得る、その後上京している」とあり。 ・加藤桜老「近光日記」文久3年721日条に「()朝神代仁之助来訪(原注・五六年前幕府へ幽囚の人物也)物語りに、当年上州筋より潮来辺迄游歴、頗る義挙の士を語らひ帰れる由、各々正義党ありて、往々棋峙の勢ありと云ふ」とあり。(桜老は当時在京) ※浦出卓郎氏のご教示による。

加藤桜老『榊陰年譜』

古渡喜一郎

 幼・利四郎

 後に弥荘治

 

「こわたり」と読む。

21

3番組

親妻子4人 ・水戸藩士古渡利兵衛子 ・天保1359日生。   ●新治郡宍倉村住

「新徴組掛御役人石附姓名并新徴組明細調帳」に「古渡喜一郎 右は元水戸筧助太夫家来云々」とあると。

新徴組入り ・「目録」に7番吉田庄助組平士、「組別名簿」に小頭中村錦三郎組平士で名あり。

文久369日廻状に「小倉宗伯、古渡彦()一郎 此者昨八日御蔵前へ金策ニ相出候より酒井殿より申来候」と。 ・同年84日廻状に「小倉太平組合古渡喜一郎、小倉宗伯両人先頃中浅草一条ニ付是迄慎申付置候処今四日より慎御免申渡候間云々」とあり。

慶応4年庄内入り(家族3) ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に3番隊伍長で名あり。 ・『戊辰庄内戦争録』に、同年85日矢島本庄境吉沢村の戦いで「古渡喜一郎大島久吉小山猷之助等各銃殺シテ首ヲ得タリ」と。

・「開墾士氏名」に古渡弥荘治で名あり。

明治710月新治県へ貫属替 ・明治8年新治県の大和田警察臨時出張所へ勤務、同10年の西南戦争には鹿児島に赴く、警察退職後は農業(特に桑茶)に従事、同19年3月には宍戸村等6ケ村の連合戸長に就任する。

『日野市立歴史館叢書』第15輯収載今野章論稿に、古渡喜一郎は庄内藩田宮流剣術指南役沢井水之助(甚十郎)の娘と結婚したとある。

かすみがうら市郷土資料館発行「新徴組と古渡喜一郎」に「(藤本昇は)晩年まで喜一郎と交流を深めた人物で、喜一郎が遺した資料の中には藤本との交流を示す手紙が3通みられています。()手紙には、喜一郎の小頭昇進を喜んだり、藤本昇の子息への心遣いに感謝したり、2人の関係には子弟を想像させるやり取りが記されています」とある。

明治21731日病没、享年45歳、墓は宍倉の萩平共同墓地

吉野式『幕末諸隊研究・十周年記念号』

芹沢鴨

 名・光幹

下村継次

幼名龍壽は系図によって否定されていると。

31

6番組小頭

不明 ・郷士芹沢貞幹3男 ・文政10年生 ・戸ケ崎熊太郎に神道無念流を学び、又元心流居合術も極めたという。 ・松岡領松井村(北茨城市)の神官下村家の養子となり下村継次と名乗る。(『郷土文化』中菊池健晴「水戸藩町田郷校と新撰組芹沢鴨について」等)

行方郡芹沢村住

『茨城勤皇志士略伝』に「下村継次 松岡領松井村神官、大津元綱等と尊攘の議を唱へ、長岡に屯集し後ち捕はれて獄に投ぜられ斬罪に処せられる」と。 ・近藤勇の書簡に「水府脱藩士下村嗣治司事改芹沢鴨」とあり。

『常野集』中「(玉造村文武館)江屯罷候天狗派士農神職玉造組と唱候ものとも常順を極等(万延2年)正月廿八日血判致し為祝儀二月朔日朝五ツ頃潮来村遊女屋江押参り云々」とあり、又「文武館党のもの名前」として大津彦五郎以下中に「水戸在名主下村嗣治」あり。

・「天狗党浪士佐原騒動一件留書」に「(万延2年正月)廿日四ツ頃村役人参り申候者、浪士共昨日ゟ市中ニ而犬を切、或者往来のものを鉄扇ニ而打倒血を流シ、或者宿之戸障子を打壊散々之体、()下村継次与申もの理不尽ニ庄左衛門江、其方我等共を今日迄為待置、今更弐百両位之金子ニ而相断候者他方江無心いたし候栓も無之其侭ニ難捨置、此上者佐原村を焼払、我等も此地之土ニ相成候覚悟之旨申聞、鉄扇ニ而打懸り候処差押候もの有」等とあり。

・同年正月佐原村組頭庄左衛門らへの借用証文(押借り)に「金八百両也 右は国事之儀ニ付村役人之周旋ヲ以借用申所実正也云々」として川俣左一郎以下7人の署名者中に「下村嗣次」の名あり。

・「住谷寅之助日記」文久2329日条に「下村継次昨夜入牢、其外も追捕有之よしニ承候事」とあり。

・『常野集』同年8月玉造党大津彦五郎らの処分(大津は斬罪梟首)中に「松岡領松井村神官下村継次 引廻之所大赦に付於牢屋敷斬罪梟首之事」とあり。

永倉新八『浪士文久報国記事』に「(浪士組上洛に当り)組々相立ルニ依テ各方組頭ヲ人撰可被致様御達シ有之、近藤勇相募ル仁丈ハ水戸芹沢村浪人芹沢鴨実者天狗隊ノ隊長木村継次申ニハ、此仁ヲ組頭ニ人撰イタス云々」と。 ・文久3217日廻状に「芹沢鴨隊長相止候跡へ近藤勇跡役申渡候、右近藤勇一隊、石坂宗順一隊より繰替致し候間さ様御心得可被成候」と。 ・同月19日廻状中に「芹沢鴨 取締役付申渡候」とあり。

・同年38日廻状に「芹沢鴨、糟谷新五郎、岡田盟右三人者取締役並出役附属申渡候間云々」とあり。

中村維隆明治363月の史談会談話に「(浪士組江戸帰還に際し)芹沢は瘡が大変出来て其当時悩んで居りました、且また水戸の連中が本国に残って居るから、自分は少し京都に残って居たいものだと云う、それから山口(徳之進)なども芹沢は病人だから残していったら宜かろうと云うので、そう云うことにした」とある。 ・近藤勇らと新選組を結成し局長となる。

西村兼文『新撰組始末記』に「(文久三年)九月十八日夜()芹澤ハ四條堀河辺ノ呉服商某ノ妻ムメト云ヘル者ト姦通ニ及ビ威力ヲ以テ強奪シ己ガ妾トナシテ閨房ヲ倶ニシテ臥居タリ()沖田総司ハ芹澤ノ寝所ニ忍ビ入言葉モカケズ芹澤ヲ斬ル芹澤驚キナガラ心得タリト起直リ脇差ヲ抜テ討テ掛ル沖田ノ鼻下ニ軽傷ヲ負セタレ共土方歳三ノ二ノ太刀ヲ受ケ損シ切倒サレテ遂ニ命ヲ殞ス奸婦ムメモ即座ニ切殺サレタリ」と。 ・永倉新八『浪士文久報国記事』にも暗殺の詳述あり。 ・墓は京都壬生寺

幼名及び諱(光朝)は手近な書籍から安易に転記しましたが、浦出卓郎氏のご指摘により修正しました。なお、浦出氏によると、芹沢鴨の出自は長く論争があり、同氏も協力した箱根紀千氏の『新選組局長芹沢鴨』・『新選組水府派の史実捜査―芹沢鴨新見錦・平間重助』・『玉造史叢』に詳記されているとのことです。

野口健

 健治・健二

 とも

21

6番組

不明 ・天保14年生   ●水府浪人

神道無念流百合本弁三門人、目録者。

上洛後芹沢鴨近藤勇らと新選組結成。副長助勤。

・西村兼文『新撰組始末記』に「(文久3)十二月廿八日野口健司ヲモ同ジク結髪シタル所ヲ欺テ原田左之助ニ命シテ背後ヨリ不意ニ刺殺セシム」と。又「同志連名記」には前川邸にて切腹と。 ・京都満月山光縁寺の過去帳に野口の埋葬に関し「生国常州水府産、野口健司殿、文久三年十二月二十七日、地面借用右地料金子二百疋、同経料金子百疋、葬穴代金二朱、頼越姓名、新選組内馬越大太良」とあると。

京都壬生寺に連名墓 ・北区滝野川寿徳寺の供養碑

新見錦

 名・錦山

田中伊織ヵ

28

3番組小頭

不明   ●水府浪人

神道無念流岡田助左衛門門下の免許皆伝者と。

中村維隆明治363月の史談会談話に「(浪士組参加のため自分が一月下旬水戸に入った時)既に新見錦芹沢鴨などと云ふ者は東漸寺の事件に関係して首を斬られる位の場合の所を、今度大赦の令で是も許された。既に是等は行って伝通院の有志の者と謀って居る()

と宮本辰之助(住谷寅之助)から聞いたと。

上京後芹沢鴨近藤勇らと新撰組結成、局長となる。

文久3913()近藤勇らに非行の故を以て祇園新地貸座敷渡世山緖で詰腹を切らされる。

永倉新八『浪士文久報国記事』に「新撰組新見錦ト申者是アリ、此仁法令ヲ犯シ殊ニ乱暴甚敷芹沢、近藤説得イタスト雖モ更ニ不聞入()水府浪人吉成常郎方江新見錦参矢張暴ヲイタシ対ニ無余儀水府浪人梅津某介錯ニテ新見錦切腹イタス」と。 ・西村兼文『新撰組始末記』に「同(9)二十三日田中伊織ハ近藤ノ意ニ応ゼザル事ノアルヲ悪クミ闇殺ス」とあるのは。

浦出卓郎氏のご教示に、「水戸藩士吉成勇太郎が壬生浪人が手を焼く新家粂太郎を引き取ったとする文書があることから、新見錦は新家粂太郎として長州で死亡したとする説がある」と。浦出氏は京都府立総合資料館所蔵文書中に、文久35三条通河原町東入ルの旅宿万屋から金八両を借用した吉成勇太郎、新家粂太郎、今泉与一太郎連署の借用証文を発見されたという。なお、新家は文久36月、攘夷実行を促す勅使正親町公菫の親兵として長州に下向したが、同年915日暴飲を理由に自決させられたという。 ・「白石正一郎日記」同年719日条に「今夜御親兵内水戸人二人正親町様へ出議論小倉一条也其末奇兵隊より三十人計来一挙可及之処今夜ハ相止各退散云々」とあるのは。

北区滝野川寿徳寺の新選組供養碑に新見錦の名あり。京都中京区の壬生寺の共同墓には田中伊織の名あり。

平間重助

40

6番組

妻子3人 ・平間勘右衛門子 ・文久3年時40歳では生年は文政9年となる。

行方郡芹沢村

「同志連名記」に「芹沢鴨取立ての門人で目録を受く。純然たる芹沢の配下」と。 天保15322日水戸郊外千波原の水戸藩による軍事調練に、平間重助は芹沢貞幹(鴨実父)の指揮の下輜重役を勤めたという。

浪士組上洛後芹沢鴨近藤勇らと新選組を結成。副長助勤。

・永倉『浪士文久報国記事』に文久3918日「()芹沢平山平間土方四人ニテ壬生ニテ八木源之丞宅ヲ借リ酒宴ヲ相催ス()平山()重助ハ島原輪違屋抱糸里何レモ呼一座ニテ大愉快()酒宴モ引テ下間エ平山伏セル別間エ平間重助伏ル、各々婦人ヲ抱キ不残寝入()平間重助屏風ゴト刀ヲ通ス、五六本通ス()平間重助婦人両人トモ疵ナク驚キ平間重助局ヲ脱ス」と。

一説に平間は諏訪部重助と名乗り、岩手県で養蚕教師に従事し、明治23年に同地で没したという。(太田俊穂『血の維新史の影に』、『南部維新記』 ・流泉小史『新撰組剣豪秘話』・『歴史と旅』昭和5511月号中鈴木康夫「芹沢一派の平間重助」)

『幕末諸隊研究・十周年記念号』

三村伊賀右衛門

42

5番組

子1人   ●常州笠間浪人 ・京橋弓町道場所持

新徴組入り ・「目録」に34番組小頭、「組別名簿」に小頭で名あり。

・「柚原鑑五郎日記抄」文久38月条に「砲術心得実名前」として小林登之助らと共に三村の名あり。

・同日記翌月12日条に「玉城織衛、三村伊賀右衛門、中川一小普請方伊賀者次席に被召抱新規御宛行被下三人扶持廿五両小頭被仰付云々」とあり。

・中村正行「御用留」元治元年229日条に「三村伊賀右衛門(2人略) 右は昨年中剣術稽古出精上達ニ付為御賞誉左衛門殿より小菊紙二束被下之云々」と。

・慶応元年8月過酒の上三村が組士馬場熊蔵と口論し刃傷に及ぶ。翌月9日両人共切腹、家は一旦断絶となったが、同年11月朔日先非を悔い覚悟の切腹は、局中廉恥の風を失わざるは殊勝の致し方として、嗣子三村将之助(後将太郎)と馬場啓次郎は共に父同様の宛行を以て新徴組に召抱えられた。

・小山松『新徴組』に「(三村の)介錯は部下の沖田林太郎の子芳次郎14歳、林太郎の妹おくまを伊賀右衛門の一子将之助にめあわせ、行く末長く面倒を見ようと申し出た」と、又「(将太郎に)嫁した沖田林太郎の妹おくまは、大正1512月芝神明町で死亡した。将太郎は晩年南千住三河島にあって中風を病んでいたという」とある。 ・「田川温泉場寄宿帳」に「楽隊、三村将之助、先代伊賀右エ門長男、後ち将太郎と改む」と。又先の『新徴組』に「(明治3)六月から七月に湯田川を離れた者」の中に三村将太郎がいたとある。

「新徴組順名」に「雉子橋ニテ馬場熊蔵ト喧嘩之ヲ切殺セシト思ヒ切腹ヲ願ヒ出シモ馬場ハ手甲ヲ切リ落サレタルマテニテ死セサルモ人ニ切ラレテ一分立タストテ切腹セシカヘ三村モ続テ切腹セリ」とあると。

墓は練馬区四丁目浄土宗田島山十ケ寺墓地

渡辺一郎『幕末関東剣術英名録の研究』に、萩原連之助の「剣客簿」に萩原稽古場に来遊した剣客148名中北辰一刀流では千葉周作千葉定吉、千葉栄次郎、海保帆平、稲垣定之介と並んで三村伊賀右衛門の名があると。

吉野式『幕末諸隊研究』特別版 ・『新田町誌』資料編 ・『日野市立歴史館叢書』第10輯 ・(小説)子母沢寛『剣客物語』・鈴木克久『幕末新徴組始末-峠越え』・釣洋一『新選組誠史』

栃木県域からの浪士組参加者たち (13)

姓 名

年齢

所属等

   家族・出身地・その他参考

青木慎吉

30

4番組小頭

父母2人 ・土井備前守元家来

足利郡大前村住

「目録」に名なく去就不明

『下野流派剣術の研究』に「青木信吉、堤宝山流、皆川城内浜野惟考門人、下野尚武館館員」とある人か。

・池田徳太郎の青木彦三郎宛て書簡に、「乍憚九佑義君と慎吾君と此書御同覧御一笑可被下候」とある人は。

・『桐生織物人物傳』に青木慎吉は「葉鹿村の青木儀平の六男で云々」とあるという。

『勤皇志士青木彦三郎傅』

石井新五右衛門

43

4番組

母妻子3人   ●足利郡小俣村

「目録」に名なく去就不明

『下野勤皇烈傳』に、水戸天狗党赤城隊隊長西岡邦之助が九池洞老兄に宛てた元治元年526日付書簡に「石井新五郎義者は今に帰り不申いかにも不埒之儀云々」とある人は。また、同月24日、西岡邦之助と昌木晴雄が安蘇郡田沼町戸奈良の石井五右衛門等に書簡を送っているが、同名異人か。

上杉岩吉

  (岩吉郎)

35

7番組

不明   ●足利郡小俣村住、藤本清右衛門厄介

新徴組入り ・「目録」29番萩原弥太郎組平士で上杉岩太郎の名あり。 ・「組別名簿」に小頭萩谷弥太郎配下に上杉岩吉郎とあり ・中村定右衛門「御用留」文久42月条に「右(萩谷弥太郎組合上杉岩吉郎)は如何之風聞も有之候ニ付、事実取調中急度慎ミ申渡之」とあり。

・翌月出奔、以後の去就不明。

大須賀友三郎

51

4番組

2人   ●足利郡小俣村住

「目録」に名なく去就不明

大村達尾

19

6番組

不明 ・父は喜連川左馬守家来大村源吾の養子、弘化2年桑原来助と改名し剣術修業の途上、同3年甲州鰍沢村で何者かに殺害さる。   ●喜連川浪人

新徴組入り ・「目録」に20番黒井卓一郎組平士で名あり。 ・文久3年1016日父の仇と誤り藤村鬼一郎の助太刀で8番組小頭山本仙之助を殺害。 ・庄内藩預けとなり、後松平因幡守家来、旗本山崎主税助に預け替えとなり、元治元年9月頃伝馬町の獄舎入り、その後の去就は不明。

『藤岡屋日記』・小山松『新徴組』・吉野式『新徴組研究』第6号・『日野市歴史館叢第6輯』・『幕末維新江戸東京史跡事典』・『日本侠客100選』

岡田権右衛門

40

4番組

妻子5人   ●足利郡大前村住居

「目録」に名なく去就不明

川上権十郎

20

4番組

親両人   ●那須郡成田村住居

「目録」に名なく去就不明

栗原新三郎

真三郎

真平

31

4番組

親妻3人・天保4年3月11日生

足利郡葉鹿村住居

「目録」に名なく去就不明

嘉永2年念流田部井源兵衛とその目代和田新三郎の門に入り、文久元年11月念流太刀組目録を受ける。

明治33427日没 享年67

「足利地方の剣客たち其の四」に、「大正10年刊行の『足利織物同業組合第一部案内・足利撚糸業名鑑』に、葉鹿の人として<新徴組隊士の血を受け継いだ栗原甲子君>という紹介文が収められている。<君の厳父は維新当時に於いて、()栗原新三郎(原注・真三郎、真平とも称す)天保4311日生まれである。新徴組の隊士となったのは数え年で30歳の時にあたる。彼は嘉永2914日、板倉の正田菊之丞、堀江勢治郎()らと共に念流の田部井源兵衛とその目代和田新三郎の門に入り剣術を修行をしている云々>」とある。

『足利文林』・『栃木県歴史人物事典』

斎藤源十郎

 源重郎とも

 名・長好

41

4番組小頭

母子2(妻は文久2916日没 享年37) ・名主根右衛門長義の長男 ・文政6年2月1日生 ・安政4家督相続、文久4年婿養子善造に家督を譲る。

足利郡江川村居住

「目録」に名なし ・「勝野正満手記」に「(文久3)十月(原注・日ヲ失ス)野州足利在江川村ニ寄寓セル新徴組ニテ同隊ニ在リシ越前人坂井友次郎ナル者ヲ誘ヒ云々」とあり。

江戸の強矢良輔に甲源一刀流を学び、安政4年4月師範代免許を伝授され、帰郷後道場を開く。2番組高橋亘は門人。 ・「武術英名録」に名あり。

水戸天狗党の乱に関与して閉門を命じられた鈴木敬哉の母と妹を引き取り救護した。 ・『上毛及上毛人』に「鈴木千里の長子敬哉は、足利の陣屋に拘禁された。其時母及妹等は別居することとなり、足利市中に其家を探したが、誰一人心配して呉れるものがなく、漸く足利領外江川村の剣客斉藤源十郎の好意で、敬哉の母妹は江川村に假寓することになったのである。其後敬哉は厳重な監視の隙を窺ひ、深夜其居宅を脱出しては江川村の母の假寓に赴き、志士の此処に潜み来るものと会合したのである。金井之恭、木島自柳、昌木晴雄、松本敬堂もこの江川村の假寓に出入りし云々」と。

鈴木千里娘峯岸その談「江川の名主に斉藤源十郎という者がある。此人は別に勤王家といふ程の人でもないが、男気の人であったので此人のおかげで江川に住む事になった。()私は羽生の代官所に召出されて吟味される時も私が毎日石ぜめをされたのです。すると江川村の斉藤源十郎氏が仁さん(そのの幼名)は可愛想だ、病気だからとて、自分が代わってやってやると、それから源十郎の事は少しもせめなかった云々」(郷土教授資料))

・斉藤徳雄氏(源十郎の曾孫カ)が祖母から聞いた話に「源十郎は背丈六尺位あり家に入る時、頭を下げて入ってきた」、「草餅が出来た時など(田崎)草雲先生に持っていけと言っていた」、「秩父へ剣術の稽古に行くのに夜中に家を出て行った」、「近藤勇のことは偉い人と褒めていた」、「粟谷の仇討(嘉永3年金井仙太郎の父の仇討ヵ)に手助けに行ったという」と。(佐藤徳雄「江川村名主斉藤源十郎と剣術」)

源十郎は江川村の名主を勤める傍ら、多くの門人に剣術を指南し、明治3131日没 享年76歳 ・村上家墓石は市内心通寺

『足利文林』・『足利の人脈』・『上毛及上毛人』

長伝次郎

24

4番組

1人   ●足利郡樺崎村住(『足利の人脈』に「長嶋吉、長伝次郎(樺崎村)」とある)

「目録」に名なく去就不明。

長島吉

23

4番組

親両人   ●足利郡樺崎村住居

「目録」に名なく去就不明。

藤本広助

  岩吉

28

7番組

不明   ●足利郡小俣村住 藤本清右衛門厄介

・「柚原鑑五郎日記抄」に「藤本廣輔(原注・岩吉)」とあり。

新徴組入り ・「目録」に14番柏尾馬之助組平士、「組別名簿」に小頭庄野伊右衛門組平士で名あり。 ・元治元年8月依願永暇。

村上常右衛門

35

5番組小頭

親子3人   ●都賀郡下福良村出生 当時塚田孔平方ニ罷在(「浪士姓名簿」) ※加川英一『黒駒勝蔵』に「祐天吉松の身内に村上常右衛門云々」とあるが。

「高木潜一郎御供先手日記」文久3年2月6日条に、「芝西久保塚田孔平殿江相尋引弁事兼猶又糀町本田巳之助ト申ジゥジツ之先生五丁目南側尋参り村上常右衛門同居」、又「亥二月六日夜村上常右衛門組入云々」と。

新徴組入り ・「目録」に23番組小頭、及び剣術教授方として名あり。 ・文久3426日廻状に「村上常右衛門 右は是迄小頭相勤候処、今般取締附と相成候間、御承知可被下候」とあり。 ・同年519日世話役となるも、「柚原鑑五郎日記抄」同年819日条に「病気にて願の通世話役御免 村上常右衛門」とあり。この件に関し、小山松『新徴組』に、給金問題に関して村上が自身での解決を高言したが不調となって世話役を辞任したとある。

『藤岡屋日記』文久311月朔日酒井繁之丞家来届出文書に「新徴組小頭村上常右衛門 右之者儀去月下旬清水御門外往還ニ而一橋家用人中根長十郎を右常右衛門義及殺害逃去候処、追々探索之上酒井繁之丞方ニ而召捕一通り尋之処右及始末ニ候趣申立居候ニ付町奉行阿部越前守役宅江差出申候云々」とあり。

・『藤岡屋日記』文久419日付酒井繁之丞願書に「新徴組村上常右衛門(以下4名の名あり) 右之者ども兼而私家来江御預被仰付居候ニ付、浅草向柳原下屋敷江差置家来共附置候処追々永く相成御府内廻方ニも差し響き甚以不都合ニ御座候間、可相成は何方成とも早速御預替被仰付被下度云々」とあり。

・同書同年1月15日条に「()村上常右衛門、西野宗右衛門北条相模守家来へ預替え」とあり。 ・翌2月15日北条相模守家来の届出書に「()新徴組村上常右衛門儀昨日十四日酒井左衛門尉様より受取可申候云々」とあり。

・『続徳川實紀』元治元年3月26日封廻状に「一と通尋之上召連人江預け」として新徴組村上常衛門、関口三千之助、鯉渕太郎、西野宗右衛門の名あり。

明治16岩倉具視に対する石坂周造の清河八郎贈位上申書に「十月廿九日村上常右エ門外数名攘夷ノ措置荏苒決スル所ナリ国事ヲ誤ルヲリ私に党を脱シ上京シテ志ヲ伸ヘムトセシニ事中途ニ幕吏ノ探知スル所トナリ常右エ門外五名又諸藩ニ幽囚セラレ維新ノ際大赦ニ遭テ免セラル」とあり。

・史談会明治2812月の俣野時中談話「(文久3)1029日に到って村上常右衛門等14名脱走して上京した所が、品川で幕府の手に押へられ、諸藩に御預けに成りましてございます。是は幕府が束縛を怒り窃に一橋家に嘱託して上京を計るも成らず、遂に脱走したものであります」とあるが。

函館市史通史編』に「吉田復太郎、村上常右衛門、堀清之丞(原注・のち基と改名)の三名が先触れ事前調査役として箱館へ派遣され、蝦夷警衛を命ぜられた五藩から藩士が一人づつ付き従った云々」とあるが。

「旧静岡藩士探索密偵日誌」(静岡県史』)明治5

106日条に「西野三郎今般東京出府ノ議ハ、豆州敷根島ト申ス無人島アリ、右島ヲ開拓スヘキ周旋ノ為ナリ、右出願ノ者ハ四ッ谷於岩稲荷地内住居元新徴組村上恒右衛門ト申者ナリ、此者ト申合セ開拓ノコトヲ周旋スルト云フ云々」とあり。

「人名移動詳細」の村上常右衛門に関し「村上は断片録に記述したる黐木坂下邸標木の件に付入獄」とあり、又千葉弥一郎「新徴組史料」にも「鯉淵太郎、村上定(常ヵ)右衛門の二人、山田一郎脱走後牛耳を取りたるも、黐木邸標木の件に付投獄せられ、終を詳にせず」とあるが、これは誤り。※標木の件は中村定右衛門、常見一郎。

福良の地名は栃木県小山市にあるため、小山市役所等に確認を依頼するも、村上常右衛門に関しては不明。

『甲子雑録』 ・小山松『新徴組』