19の(3) 神に祀られた旧幕士松岡萬(元治元年~慶応4年8月)

 

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翌元治元年(1864)中の松岡萬に関して筆者の把握している資料は、水戸天狗党史料『波山始末』に記される一事だけである。そこには、「筑波勢の大平山を引揚ぐるに当り田中源()蔵は一隊を率ゐ最初旧幕人松岡萬(原注・百俵小普請組)同大草瀧三郎(多喜二郎)は応援すべしと約したるを以て大草の家に伝わりし朝鮮分捕の品なりとて陣太鼓一個甲冑一領を田中に贈りたり之を所持して上州桐生に在りたるが云々」と記されている。

 

水戸の郷校時擁館々長田中愿蔵は、筑波挙兵に参加したものの、後に一隊を率いて離脱し、各地で幕兵等と戦ったが、その軍費調達は暴虐を極め、特に栃木宿を灰燼に帰して悪名を轟かせた人である。「水戸藩党争始末」(『史籍雑纂』第四収載)には、「蓋し筑波軍の展望を失いしもの、田中の罪多々居ると云ふ」とある。この田中愿蔵は原市之進に師事した後、江戸で安井息軒に学んだというから、松岡や大草とはその頃親交を深めたのかも知れない。

 

なお、この水戸天狗党筑波山挙兵に参加した人物の中に、松岡と懇意な人がもう一人確認できる。それは平尾桃岩斎(諸書に桃巌斎とあるが自署には桃岩斎とある)という人物である。もっともそれを証する資料も、蒲生重章の「松岡萬傳」の中の次の一節のみである。

 

「処士桃巌斎は嘗て稠人中に於て、世を憤って云う、吁天下に人無しと。萬、傍らに在り、目を嗔らせ叱して日う。汝、何ぞ妄言を吐くか、萬此に在りと。廼ち其項を朴んで之を仆す。巌斎謝して日く、君ここに在り、某過てり、当路に人無しと謂へるのみ、幸いに怒らせよと。巌斎も亦慷慨の士なり。歳の甲子、筑波之義挙に與かり、戦い敗れて獄に下って死せり」

 

これは松岡萬の自負心の強さを語る逸話だが、桃岩斎は筑波挙兵に参加当時は50代半ばで、当時としては高齢の人であった。国難に殉じた知られざる志士の1人であり、今後研究される方の一助として、筆者の手元にある僅かな資料を記しておくこととする。その出生地(?)等については、『横浜市史』資料編5に収載の「鎌倉ニ於テ英国士官遭害一件」の中に次のような記事がある。なお、書中「間宮一」とは、元治元年1022日相州鎌倉八幡宮境内で英国士官2人を殺傷したとして清水清次が処刑された後に、自ら真犯人だと名乗り出て斬刑となった人物である。綿谷雪編『幕末明治実歴談』にも、同じ話が載っている。

 

(間宮一は)兼々文武を好み士官之望有之候間還俗致し去々亥十一月中相州鎌倉郡上野村浪人医師平尾桃巌斎養子相成平尾又は杉本右近と名乗其後養父桃巌斎倶当地へ出府致し剣道修行罷在候処同人儀者何方へ罷越候哉行衛不相知候に付無致方去子年七月中一旦実家へ立戻掛居候処云々」

 

これによれば桃岩斎は、相州鎌倉郡上野村で医師をしていたのである。なお、桃岩斎は国学を学び、剣術や弓術も嗜んでいて、村では寺子屋「耕堂学舎」を開いていたともいう。間宮は文久311月に桃岩斎の養子となり、その後養父と共に江戸に出たというのだろうか。とすれば、松岡との交際も僅かだったと思われるが、元治元年11月に桃岩斎が老中水野和泉守に差し出した自訴状写(「筑波戦争記」・『野史台維新史料叢書』29)に、「拙者事二十ヶ年ノ間諸国経回仕候云々」とあるので、これ以前に江戸に滞在していた時期があったのだろう。桃岩斎が養子の間宮を置いて江戸を去ったのは、筑波挙兵に参加するためであったと思われる。

 

これは以前にも何かに引用しているが、「水戸浪士動向等看聞録」(群馬県太田市史』資料編)518日の条に、「江戸表ゟ宇都宮左衛門ヲ尋参候平尾東巌斎五十五六位、熊谷四郎三十五六位八木宿へ行、栗田源左衛門殿義酒肴差出し、夕刻右両人宿駕籠ニ而八木へ行」とある。この日桃岩斎は筑波義軍に参加したのである。『波山始末』に「平尾信種桃岩斎と号す。田丸直允に属して筑波山に在り、輜重方を分担す云々」とあり、「常野集」(茨城県史料』幕末編Ⅲ)813日条には、「小川館、書記、平尾桃岩斎」と記されている。

 

『波山始末』に「(桃岩斎は)後去て自ら潜み偽りて歌客と称し武蔵逆井関を度る既にして陰かに江戸に入り老中水野和泉守の邸に詣義挙の顛末と方今の急務とを上書し遂に縛に就き12月に至り獄中に死すと云う」とある。その桃岩斎の上書(『筑波戦争記』)中に、「五月中旬江戸ヲ忍ヒ上毛野州出行彼浪士静謐セシメント存、横浜攘夷ノ歎願ノ為江戸ェ発向ノ趣意ヲ申談候得共何分多人数集会ノ事故議論区々ニテ最早筑波山籠居トイフ事ニ一定仕、其後神州同志討ノ不可ナル事ヲ諫シカトモ拙者ノ愚策一トシテ用ラレス剰嫌疑ニ値テ刺殺サレシタル事度度ノ事故虎口ヲ脱シ云々」と記されている。「平尾桃岩斎信種先生墓」と刻まれた墓石が小塚原回向院に建てられているという。この上書文は先に、山岡と松岡が幕府当局者に提出した書面と似かよった弁明理由であることは前述した。

 

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慶応元年(1865)から明治維新に至る3年間の松岡萬に関する資料も、管見にしてごく僅かである。慶応元年に関しては、松浦武四郎の日記(松浦武四郎全集』上巻)61日の条に、「関口良助、松岡蕃、来訪する」とあるのを認めるだけである。これは明らかに関口艮助と松岡萬のことだろう。松浦武四郎は、蝦夷地の探検家として当時天下に遍く知られた人で、北方領土へのロシアの侵攻を危惧する憂国の士にして、この人を知らない人はなかったろう。松岡や関口も、蝦夷地の情勢を聞くため、この日松浦武四郎を訪ねたのではないかと思われる。ちなみに、武四郎は北海道の道名の立案者としても知られている。

 

翌慶応2年は、この春、久保田藩士桂禮助が「松岡萬傳」(木崎好尚筆)を写して松岡に示し、これを見た松岡が痛く感激したこという逸話は前述した。また、この年12月に鷹匠制度が廃止されたが、松岡はそれ以前から講武所に出役になっていたらしいことも既に記した(東京市史外編・講武所)。ちなみに、小説家子母澤寛の『よろず覚え帖』には、鷹匠制度が廃止された際に「鷹匠たちはそれぞれお役替えになり、小日向三ノ橋に住んで組頭だった松岡も一度御祐筆になり、一刀流の剣術遣いであったから講武所編入された」とある。典拠も不明で、『講武所』の記述とも矛盾している。また、組頭とある根拠も不明である。

 

慶応3814日の原市之進の暗殺事件に関しても先にふれているが、この事件に関しては『伍軒先生遭難始末』に、事件から5日後の819日、中條金之助方に御徒士目付井上彦八郎(水戸の奸党と懇意)が来訪し、今回の暗殺一件をいたく喜び、下手人の3人のほかに同志40名ほどおり、中には山岡鉄太郎、松岡萬、大草瀧次郎、関口艮輔、榊原采女も含まれていた、と言ったとあるという。原本は未確認である。

 

原市之進が暗殺された2カ月後の1014日、将軍徳川慶喜は政権を奉還し、徳川幕府はここに260余年の歴史の幕を閉じた。その4日後の同月18日、伝通院内処静院の住職細谷琳瑞が暗殺されるという事件が発生した。この事件について蒲生絅亭の「松岡萬傳」に、「田村翆巌日」として「萬弟某亦慷慨士、嘗憤傳通院某和尚姦謀乗暗殺に斬殺之、己亦負重傷死、其持論忠孝亦以乃兄、叶、兄弟倶足振起衰世士気矣」、と記されている。これによれば、琳瑞の暗殺犯人の1人は松岡の弟だったのである。この事件については高橋謙三郎の『泥舟遺稿』に、次のような具体的な顛末が記されている。

 

「彼(琳瑞)が慶応三年丁卯十月十八日、態々私の宅を訪問されて、熱心に国事を談じて、将に帰らんとするに当たって、私は篤く其厚意を謝し、特に門人斎藤貢なる者に命じて、処静院()へ見送らせました。帰途和尚が三百坂(小石川に在り)にかゝると、突然刺客松岡丙九郎、広井求馬の為に暗殺され、可憐悲惨の最期を遂げられました、(原注・時に年三十八)其処で斎藤貢憤然として、直に刀抜いて二人に迫り、終に彼等を斫斃して、其讐を報ひ、其足を以て血刀を提げながら、私に急報してきました、云々」

 

ここには、松岡丙九郎が萬の弟であるとは一切記されていないが、田村翆巌の話に間違いなければ、その弟は丙九郎といったのである。琳瑞和尚は松岡も接触のあった人だろうから、この事件に関しては松岡の心事も複雑だったろう。高橋謙三郎は『泥舟遺稿』の中で、多くの稿を割いて琳瑞和尚について記している。その中で謙三郎は、「彼は正しく私の師匠でござります」として、「琳瑞和尚は中々の非凡にして、学問の如きも、当時の人には希有なもので、克く内外に通じ、宗門に於ては、持律正厳、俗僧の真似だも出来ない人でござんした、加ふるに勤王憂国の俊傑で、真に惜しむ可き人でしたよ」と語っている。細谷琳瑞については、東條卯作刊『東條一堂傳』にも、東門逸材群像としてその伝が記されている。清河八郎とも昵懇で、清河が暗殺された際に、山岡からその首の埋葬を托された人でもあるという。

 

なお、この琳瑞暗殺事件については、『丁卯雑拾録』に『泥舟遺稿』とはやや異なる事実が記されている。これは西光院の尼僧が伝通院で聞いた話を書簡で伝えたもので、そこには琳瑞の暗殺と殺害犯の2人が殺害される様子も記されているが、その原因となったらしい事実だけを以下に転載する

 

(前略)十月下旬小石川傳通院学頭清浄院と申老僧近辺之屋敷剣士(原注・幕士)は年来之知己なれハ仏事ニ付招請被致供養後説法等いたし、夜ニ入饗応の席にて(中略)夫ゟ夷人之話と成しニ門人の中両人許西洋家之者同席し、暫可否を争論せしが院主ㇵ博学老練の人故終ニ両人之侍ハ閉口し甚不興之体にて帰りぬ、彼是なすうち九ツの鐘を報す」、夜の遅くなったことに気付いて帰ろうとする琳瑞を、剣士某が近頃は甚だ物騒なので泊っていくよう勧めたが、琳瑞は明早朝用事があるのでと強いて帰宅することになり、その帰途2人に襲われたという。「西洋家」とあるのは誤りと思われるが、これによれば松岡丙九郎は高橋謙三郎の槍術の門人だったのである。

 

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翌慶応4年正月早々の鳥羽伏見での徳川勢の敗戦は、松岡にとっても青天の霹靂の出来事だったことだろう。松岡は正月12日主君慶喜が大阪から江戸に逃げ帰ったことをその日に知ったらしい。塚原渋柿園の「五十年前」(『幕末の江戸風俗』収載)に、次のような事実が記されている。なお、渋柿園の父は講武所槍術世話心得取締の職にあった人で、渋柿園は嘉永(1848)年生まれの当時21歳の青年であった。

 

「十二日の夜であった。私はその頃大久保の十騎組(原注・今の富久町)の内藤という人に英学の句読を授かって、その夜もそこで稽古を終って、恰ど宵の戌刻過ごろ、谷町から念仏坂、三軒屋という所まで来ると、薄月夜に手丸(原注・提灯)を点けて、『直さんか?』と慌てた声で呼留めた人がある(原注・私はその頃直次郎と称った)。『誰 ?』と見ると、それは松岡万(原注・前略。私の父の旧同僚内海氏の甥。この人は平山行蔵子の風を慕って奇行に富んだ人)という人、声も容子も非常に何か迫立っている。如何したのかと訊くと、『いや実に大変です。京都は大戦争。敵は薩長で、御味方大敗走! (原注・慶喜)にも昨夜蒸気船で御帰城です。内海の伯父なども討死したかどうか知れません(原注・内海氏は当時京都の見廻組)。私は今其事を知らせて来ました。貴方も最う御覚悟なさい!』と真に血眼でいる。聞かされた私も、実に仰天した。何が何やら夢のように、身ばから戦慄えた。『貴方はどう為さる?』『私はこれから隊中を集めて御沙汰次第に出張します!』と云って、一寸黙って、『これから高橋勢州の家へ行く』と云ったかのように記憶ているが、そのままで氏は駆ける如くに去って了った」

 

松岡も上方での幕軍の敗報と将軍慶喜の突然の帰還に、驚天動地の心境ったのだろう。松岡が「これから隊中を集めて云々」と言ったことが事実なら、当時山岡ら同志たちと一隊を編成して危急の事態に備えていたのかも知れない。精鋭隊の正式な発足は暫く後のことになるが、前年暮の薩邸焼打ち事件等を考えれば、それは十分ありえることと思われる。

 

話は変わるが、慶応4年春の幕府の瓦解以後、山岡や松岡の言動から突然「攘夷」の二字が消えたように思われる。正月15日に新政府が反幕諸藩の攘夷の方針を一転し、外国との和親を国内に布告したことに、松岡たちが反発した様子も窺えない。明治維新以前の攘夷への挺身は何だったのか。当時の松岡たちの心事を窺わせるものが、前島密の『鴻爪痕』の中にある「自叙伝」と「逸事録」にある逸話である。そこには概略次のような事実が記されている。

 

前将軍の徳川慶喜が、大阪から逃げ帰って江戸城に入った慶応4112日以後、江戸城内は徹底抗戦か絶対恭順かの大評定が連日白熱していた。そうした中、「開成所(蕃書調所の後身で東京大学の前身)集議院を開き大いに論議すべしと云ふ議が、神田孝平(開成所教授職並)加藤弘之(同前)、津田仙等の間に起り、自分(前島密)も其の交渉を受けたが」、これを断った旨を病床の関口隆吉に話した。すると関口は、「内心衆議若し恭順に反する説に決しでもすれば大変である」として、病を冒して着衣の下に白衣をまとい(決死の覚悟で)開成所へ駆け付けた。この日、前島密と共に関口隆吉に同道して開成所に乗り込んだ中の1人が松岡萬であった。「自叙傳」に次のようにある。

 

「此日開成所に於ける紹介者は余(前島)にして、関口に同伴せる者は精鋭隊員なる松岡萬等数名の決死者なれば、同所の教職員は彼等に接待するを欲せず、且本会は停止せられて、一老臣の出席するもの無ければ、余等は空しく退散するの已むなきに至れり」

 

関口や松岡が開成所を訪れたのは、会議が行われた翌日のことだったらしい。佐倉藩士依田学海の日記(『学海日録』)114日の条に、「雪。開成所より、国家存亡の秋、尽力せんとするものは速やかに、来会し尽力すべしと。余即、之におもむく。攻守の二議を発す云々」とあり、翌15日の条には、「開成所教授方より使来りて、弥紀州藩之公論に従ひ、出戦の議決して之を朝に講ふべし云々」とある。関口や松岡は、この115日に開成所に赴いたらしい。

 

慶喜公御実紀」(『続徳川実紀)112日条(慶喜帰城の日)に、「此後之動静ニ寄。速ニ御上坂被遊候思召候。右之趣、向々江早々可被触候」とあり、この時慶喜は再戦の意志を内外に明らかにしていたのである。もっとも、「此後之動静ニ寄」とあるから、狡知な慶喜は予め家臣たちへの逃げ口上も示していたのかも知れない。

 

なお、石井孝著『明治維新の国際的環境』によれば、慶喜1192629日と仏国公使ロッシュと会見しているが、26日には自分は退隠して後継の紀州藩徳川茂承の後見となること、そして、天皇に対して戦争をするのは、ただ祖先伝来の領地を防衛のためだけであると告げたという。また、29日の会見でも、内乱の災禍を避けるために個人的犠牲は惜しまないが忍耐には限度がある、と述べたとある。1月末時点では、慶喜にはまだ戦う意志があったらしい。

 

25日になって、慶喜福井藩主徳川慶永に対して「近日之事端奉驚宸襟候次第に立至り深奉恐入候に付、謹慎罷在、伏而奉仰朝裁候」という嘆願書を送って奏聞を依頼し、恭順の態度を明らかにした。これは、新政府による東征が決定し、ロッシュによる仲介工作も望みがなくなったためだという。なお、先の行動から、松岡や関口にとって尊王と主君慶喜への忠誠こそが至上命題であり、これまでの攘夷の主張もその結果であったことが推定される。

 

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慶喜は慶応4212日に江戸城を出て、上野東叡山寛永寺大慈院に入って蟄居謹慎すると共に、寛永寺座主の輪王寺宮公現親王による朝廷への救解の訴願に期待を寄せた。この前日には若年寄大久保一翁を使者として、輪王寺宮に謁して助命嘆願を懇請させ、慶喜自身も大慈院に入った日に輪王寺宮に直接助命嘆願の周旋を依頼した。『徳川慶喜公伝』に、「精鋭隊頭関口艮輔、中條金之助、山岡鉄太郎等は、此宮(輪王寺宮)よりも周旋せしめんと、執当職覚王院(原注・義観)に就きて再三出願すれども、嘗て聴入れず」とある。この時、松岡萬も関口や中條たちと行動を共にしていたことが、関口艮助の「黙斎随筆」(『旧幕府』)の中に記されている。

 

「是(慶喜大慈院蟄居謹慎)より先田安家に於ては輪王寺宮に詣り、歎願の事、御周旋ありたき由を願ひ奉りしかども、宮には御聞届なしとの趣を傳承したりければ、其事の実否を質さんとて中條金之助と共に大久保一翁の家に至り」、そのことの事実であることを確認し、大久保の賛同を得て「其翌日、中條金之助、山岡鉄太郎、松岡萬、相原安次郎を伴ひ上野の寺方に由緒ある小島銀之丞といふ者を案内として先づ覚王院に至り、住僧に面会して宮に歎願仕度との一事に申出たり云々」(原漢文)

 

「黙斎随筆」は長文のため、ここにすべてを記すことはできないが、関口たちは決死の覚悟で請願したところ、歎願のことは書面を以て申し出るべし、とのことであった。そこで、山岡鉄太郎がその場で書面を認めて覚王院義観に差し出したところ、「田安殿を初めとして、御連枝御譜代大名より、更らに御出願相成候様、周旋致す可し」との内話があっため、これを大久保一翁に復命し、翌日諸大名に通告したことから、輪王寺宮が「来る廿日を以て、御発駕あるべきにつき、精鋭隊中より、両人供奉致す可しとの命令なれば、川井玖太郎外独りを随従せしめたり云々」とある。

 

「覚王院義観戊辰日記」(『維新日乗纂輯』第五)によれば、輪王寺宮の江戸発駕は、221日とある。なお、『徳川慶喜公伝』に、「精鋭隊頭関口艮輔云々」とあったが、同著の別の個所にも慶喜の屏居した東叡山を「山岡鉄太郎(高歩)関口艮輔(隆吉)等の精鋭隊七十余人、及見廻組の強壮者五十人づつ」が専ら警衛した、と記されている。もっとも、『続徳川実紀』には、224日の条に「御留守居支配組頭、中條金之助」と「御留守居支配、信吉養子、山岡鉄太郎」に、精鋭隊頭が命じられたことが記されている。輪王寺宮の江戸出立の3日後のことで、慶喜が東叡山に蟄居謹慎して12日後のことである。

 

新撰組島田魁の日記に、「十二日隊長(近藤勇)登城ス、大樹公東叡山ニテ恭順被遊候ニ付此御警固ヲ被仰付、十五日当局半隊ツゝ相勤ム、遊撃隊ト交代ニ相成、廿五日御免被仰付、廿八日甲府鎮撫ヲ被仰付」とあので、京都で暴虐を奮った新選組慶喜の近辺に置くのは得策でないとの判断があったらしい。精鋭隊結成の経緯については、精鋭隊内で隊士を誘って小田原の官軍を要撃しようとして切腹させられた和田三兵衛の碑文(全生庵境内)に次のような一節がある。

 

「戊辰正月、錦旗東征、徳川慶喜、屏居於東台大慈院、而恭順焉、当是時、麾下軽俊之士、欲挙兵以抗官軍、屯集甲相各所、其臣山岡鉄太郎、中條景昭、関口隆吉、大草高重、松岡萬等、深憂之、揀忠勇之士七十余人、号精鋭隊、護衛慶喜、云々」

 

『旧幕府』収載の「高橋泥舟居士小傳」に、「慶喜()居士を起して遊撃精鋭の総督たらしむ」とあるので、慶喜の近辺にあった高橋謙三郎が義弟山岡鉄太郎と相談の上で進言し、結成された可能性がある。もっとも、先の「塚原渋柿園の「五十年前」に、正月十二日夜には松岡萬が塚原に対して「私はこれから隊中を集めて云々」とか「これから高橋勢州の家へ行く」とか言っているから、不穏な情勢の中で、変事に即応するために既に一隊を組織していた可能性のあることは既記のとおりである。

 

なお、精鋭隊結成当初の隊士は総勢70余人とあったが、その後隊士は急増して2カ月後にはその7倍の500人近くになっていたらしい。『同方会誌』に載る慶応44月時点の「精鋭隊惣名前」では隊士の総勢は433名となっている。しかし、金谷郷土史研究会編『牧之原開拓士族名簿』に「明治元年辰年三月三日精鋭隊御雇」として「開墾方之頭並松岡万養子松岡運九郎(実父や養子入りの時期等不明)」とある(他にも複数人)ものの、「精鋭隊惣名前」にその名は記されていない。『牧之原開拓士族名簿』によれば、「精鋭隊惣名前」が作成された4月以降にも、複数の入隊者があったことが明らかである。精鋭隊が新番組と改称された後の参加者もあり、その中には、「(同年)十一月三日新番組御雇、()開墾方頭並松岡萬厄介従弟松岡貫七郎、未歳二十九」ともある。

 

「精鋭隊惣名前」に記される精鋭隊幹部の名は、「頭」に中條金之助と山岡鉄太郎、次いで「頭取」に榊原采女と松岡萬、「頭取並」に大草多喜次郎、関口艮助、以下「取締」に加藤捨三郎等14名、「記録掛」が「中條殿御類」6名、「山岡殿御類」6名等となっている。この名簿の中には「残り役」として西村泰翁の名があるほか、山岡鉄太郎の弟小野飛馬吉や小野駒之助()の名も確認できる。     ※9(4)に続きます。