19の(2) 神に祀られた旧幕士松岡萬(文久2年11月~文久3年)

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水戸藩尊王攘夷派の領袖住谷寅之助(信順)の日記(「住谷信順日記」・東京大学史料編纂所所蔵)文久21117日の条に、「青川来る、一同間埼へ行く。夕刻高橋謙三郎(泥舟)へ行き一泊、松岡、山岡在。いつ刀被贈候事。幕府有志奸物名前取調事」と記されている。ここに「青川」とあるのは出羽庄内清川村郷士清河八郎で、「間崎」とあるのは土佐藩士の間崎哲馬(滄浪)である。なお、これより以前の同月朔日の条には、「此夜、下野(隼次郎)、山口(徳之進)、青川同行酒家ヲ訪。明日出立の筈也」とあり、翌2日の条には「青川ハ別盃傾ケ、夫ゟ同行二丁めへ行下野へ立寄談論、(中略)台町迄送候事」とある。水戸と江戸間の行程は通常3日であるから、清河は114日か5日には江戸に入ったのだろう。住谷寅之助も清河の後を追うように7日に江戸に到着し、木挽町の松川屋に入っていた。

 

ちなみに、住谷寅之助の翌8日の日記には、「(間崎を同行し)中橋釟菊楼へ行談論ヲ始ル処へ坂本龍馬来ル、無拠松川やへ行キ談ス。田辺居ル」とある。さらに14日の条にも「山岡、田辺同行翁庵へ行、龍馬来ル痛飲云々」記されている。なお、ここに「田辺」とあるのは、この年9月に間崎哲馬清河八郎へ送った書簡の宛名に「田辺盟台」とあるので、清河八郎のことと思われる。当時清河八郎は田辺吉郎の変名を用いていたのである。

 

先の1117日の住谷の日記で注目すべきは、住谷寅之助(間崎哲馬清河八郎も同行カ)がその日の夕刻高橋謙三郎の屋敷を訪ねると、そこに松岡萬と山岡鉄太郎がいて、高橋謙三郎たちが取調べている「幕府有志奸物姓名」が示されたという事実である。このことは、住谷の翌月14日の日記にも、「山岡、高崎(猪太郎・薩摩藩)来ル」とあって、この日「山岡ゟ所聞」とある数項目の中に「過日外転ノ小笠原ハ久貝ノ弟ニ而害ヲナス奴也トソ」とか、「若年寄稲葉兵部少輔蘭癖(安房館山藩主)。伊東玄朴(蘭医・奥医師)同断且大害アリ。吉野龍蔵儒者ニ而大槻ヘ縁ヲ組、安井(息軒ヵ)同断」、と山岡鉄太郎から幕臣中の奸物の名前が具体的に示されたことが記されている。

 

ここに吉野龍蔵とあるのは芳野立蔵(金陵)のことと思われる。芳野立蔵と安井息軒はこの翌月幕府の儒官に登用されている。高橋謙三郎たちが攘夷思想の持主だったこの2人をなぜ奸物と目していたのか定かでない。住谷の日記には、さらに同1217日の条にも、「高橋謙三郎へ行一泊。一刀被贈候事。麾下正奸姓名取調候事」とある。高橋謙三郎や山岡鉄太郎が、これまでも死士を多数輩出している水戸藩尊攘派の領袖である住谷寅之助に、再び幕臣中の奸物(開国派)の姓名を示し、刀を送っている事実に、ある意図を見て取ることに無理はないと思われる。

 

先に記した、松岡萬が中村敬宇を暗殺しようとしたとする件も、この「麾下正奸姓名取調」の結果だったのではないのか。将軍徳川慶喜の寵臣原市之進の暗殺に山岡たちが関わっていたという事実はよく知られている。『徳川慶喜公伝』にも、「或は云ふ、旗本の山岡鉄太郎(原注・高歩、鉄舟)、中条金之助、榊原采女、小()草滝二郎、松岡万、関口艮輔(原注・隆吉)等江戸にあり。市之進を目して公の英名を覆ふの奸物となし、誓って之を除かんとす。乃ち兵庫開港の件を以て其主罪に挙げ、依田雄太郎等三人の壮士を誘ひて刺客の任に当らしむ云々」と明記している。

 

この原市之進の暗殺(慶応38)を山岡鉄太郎が使嗾した話は、薄井龍之の回顧談がよく知られている。また、水戸藩本国寺党の酒泉直の日記(「酒泉直滞京日記」)のその年1月の条に、「(京都から江戸へ)道を東海道ニ取リ昼夜兼行ス(中略)二昼夜ニシテ江戸ニ達ス(中略)昼ニ至テ山岡氏ニ達スルヲ得タリ。此日山岡在宅面接ヲ得テ水戸ノ国情ヲ聞キ、(中略)幕府奸臣ヲ除クヘシ、則チ貴藩出進ノ原市之進ノ如キハ慶喜公之帷幕ニ有テ事ヲ為ス尤モ罪魁ト確信ス、兄等何故ニ彼ヲ不斬ト言云々」と記されている。山岡鉄太郎は生涯自ら人を斬ったことはないといわれる。しかし、「住谷正順日記」を見る限りでも、自ら手を下さずとも奸物と目する人たちの暗殺を使嗾していた可能性は否定できないと思われる。なお、前島密(来輔・鴻爪子と号す)の伝記集『鴻爪痕』の中の「逸事録」に、松岡萬が前島を暗殺しようとした次のような逸話が記されているが、これも松岡単独の行動だったのかは疑わしい。

 

「其頃幕府旗下の士に松岡萬と云ふ奇抜の人があった、此人は学問もあり剣術にも長じて、骨格魁偉膂力衆に勝れ、且つ正義の士であった、(中略)(前島密)が此人を知られたのは慶応元年とあるが、翁が開国論者で洋学などを修めてゐるのを、松岡は面白からず思うて、嘗て暗殺を企てたことがある。翁は危い場合幸いに関口氏に救われ全きを得た云々」

 

前島密を松岡の暗殺から救った「関口氏」とは、「村上俊五郎について」でもふれた松岡や山岡とは同志の関口艮助(隆吉)である。後年静岡県知事となったが、明治22年に列車事故での負傷が原因で非業の死を遂げた人である。大橋訥庵の門人で、松岡同様に攘夷論者であった。文久21月師の訥庵が投獄された後は、御持弓与力の職を辞して家督を義弟に譲り、家塾を開いていた。『大橋訥菴先生傳』中の「門人録」に、関口隆吉について「先生の長兄清水正巡の子隆正の養父」とある。清水正(子遠)の子孫に、関口泰、関口鯉吉の名が認められる。

 

「逸事録」の中に関口隆吉に関して気になる記事がある。「一体関口は血を嗜む男で、彼が殺させた者は決して少なくない。併し自分の覚悟も亦斯くの通り立派な者であった」とある部分で、詳細は記されていないが、関口も高橋謙三郎や山岡鉄太郎ら同様に他人を嗾けて暗殺をさせたというのである。その関口隆吉がなぜ松岡の前島竊暗殺を阻止したのか、その理由は記されていない。

 

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文久2128日、幕府は将軍の上洛を控えて前代未聞の浪士の召募を決定した。同月19日には浪士取締松平主税助(忠敏)に浪士召募の沙汰書が下され、同月24日には鵜殿鳩翁が主税助の相役の取締役に任命された。山岡鉄太郎が浪士取締役に任ぜられたのは、その前日の23日のことであった。『藤岡屋日記』のこの日の条に「浪士取締役 山岡鉄蔵(鉄太郎の誤り) 右被仰附旨 於躑躅之間 老中列座周防守申渡之」とあるが、松岡がその相役に任じられた日は定かでない。山岡と同日か、その後間もなくのことだったのだろう。取締役の役料は10人扶持であったという。

 

安藤直方著『東京市史外編・講武所』に、松岡が浪士取締役に任用された当時「講武所奉行支配」の職にあったとあることは前述した。なお、松岡家の世襲であった鷹匠は、幕政改革によって慶応212月に廃止されている。『続徳川実紀』の同年1029(鷹匠制度廃止の2月前)に、「右ハ此処度諸向銃隊御編成相成候ニ付てハ、右之内より役々御撰挙之為。於講武所若年寄。陸軍奉行吟味致し候筈ニ候間、願之者名前取締。早々可被申聞候事」とあって、「右」として挙げられている中に御鷹匠頭や鷹匠がある。松岡はこの鷹匠制度の廃止より以前に講武所へ出仕ていたのである。

 

話を元に戻そう。浪士組のことは、以前に度々ふれてきているので、ここでは松岡萬に関する若干の資料の紹介のみに止める。まず、松岡が浪士取締役に選任された月の30日、

清河八郎や山岡鉄太郎たち13人が牛込二合半坂の松平主税助(上総介)の屋敷に招かれて、浪士召募に関する基本方針が決定されたという。ここには当然松岡の姿もあったことだろう。また、その数日後、清河、山岡、松岡の3人が、土佐藩山内容堂に招かれて手厚い饗応を受けたという。

 

文久328日、浪士取締鵜殿鳩翁(松平上総介は辞任)のもと、松岡は山岡と共に220余人の浪士を率いて江戸を出立し、中仙道を経て同月23日京都に入った。入京後の松岡については、浪士の1人高木潜一郎(田龍)の日記(文久三年御上洛御供先手日記」・『太田市史資料編』)25日条に、「他出無用。松岡万蔵(誤り)殿、西村泰翁殿外弐人目付」とある。翌26日条にも、「見廻り取締、高久安二郎、広瀬六兵衛、松岡万、附西村泰翁」とある他、27日、28日条にもほぼ同様の記事があって、他出を禁じられた浪士たちの宿所を、松岡たちが連日巡回して監視していたことが記されている。

 

高木潜一郎の日記の同月晦日の条には、「他出御免ニ付三番、五番組六拾人、松岡万・西村泰翁先達ニ而御所拝見、南門日野門拝見。尤モ二城之城廻り通抜途中休ミなし。七ツ時帰る」と記されている。この日許された京都御所の見学は、3番組と6番組併せて60人の浪士たちであったが、その他の組の御所の見学にも、松岡はその責任者として引率に当ったものと思われる。

 

浪士組は、将軍の守衛という目的を果たすことなく、横浜に来航の英国艦隊との開戦に備えて313日に京都を発し、同月28日に江戸に帰還した。その後、幕府に奉勅攘夷の意思のないことを察知した清河八郎たちは、4月に入ると浪士組独自での攘夷断行を決意、軍用金調達のために蔵前の札差の家々に押借をして回った。そうした中の同月8日、松岡萬が、両国で報国の有志を騙って乱暴狼藉をする2人の浪人を捕らえる事件が発生した。このことが浪士組浪士柚原鑑五郎の日記(「柚原日記抄」)に、次のように記されている。

 

「報国の名義を唱へ乱防致し候浪人、去る八日両国橋詰料理屋にて乱防せし所へ松岡万通り掛り取調たる由にて、三笠町へ連れ来り一同へ被預候而吟味候処、増山河内守様家来朽葉新吉と申し廿三才の由、兄なる者も其御家に勤居候趣、此者所々にて乱防無相違趣也。鈴木長蔵大阪に廻り募り来る神戸六郎と申浪人未た組入無之、玄関に指置候者市中横行酒食貨財を貪り吉原にて乱防し、右新吉同様土蔵へ入れ置たるを同十二日役宅の庭にて両人共斬首す。神戸は村上俊五郎朽葉は石坂宗順きる。此二級両国に梟首す云々」

 

浪士組士中村維隆(当時草野剛蔵)が明治363月の史談会で語ったところによれば、2人の浪人を捕らえた際に中村維隆も松岡に同道していたという。そして中村は、その時松岡萬が、「イヤ草野さん斬って仕舞おうじゃあないか」と言うのを、草野が「イヤ此処で斬った所で仕様がない、何しろ改めて見ようと云って」、松岡を止めたと語っている。浪士取締役という立場にある松岡が鵜殿や山岡に話も通さず、まして捕縄された者を衆目の中で斬るなどと本当に言ったのだろうか、証言の真偽は定かでない。

 

幕府の目付杉浦正一郎(梅譚)の日記(『杉浦梅譚目付日記』)47日の条(両国橋での捕縛事件の前日)に、「松岡萬、高橋見込四ケ條申立」とある。「高橋」とは高橋謙三郎のことではないかと思われる。この「高橋見込四ケ條」については、同じ杉浦の日記の翌8日の条に、「山岡来ル。高橋見込之趣、昨日申聞候ケ條」として、「○破格、○爵録、○御用ヘヤ入、○屋敷」とあり、また「高橋其外暴論応接」、と記されている。

 

ちなみに、高橋謙三郎は前月京都で浪士取扱(奥詰槍術師範役兼務)を命ぜられ、従五位下伊勢守に任じられて作事奉行上席に進んでいた。爵録とは爵位(卿、大夫、士)と俸禄のことであり、御用部屋とは老中と若年寄が執務する部屋のことである。「破格」とか「暴論」が何を意味するのか。松岡萬や山岡鉄太郎は、高橋謙三郎に対する処遇が不満で、より「破格」な処遇を求める「暴論」を主張したということだろうか。残念ながら詳細は不明である。

 

なお、「幕浪之記」(出処を失念)の中に「山岡氏の同役松岡氏も献言の時にハ血涙を流して諫争なりし由。両人言葉を揃て、今に御覧被成よ下より起りて夷賊ハ誅戮すべし、然る時は上の御政治事ハ不相立、其時御後悔ハ御無用と云捨て座を立たる由云々」、とあるが、これはこの当時のことかと思われる。当時の松岡の心事を鮮明にしている逸話で、憂国の思念から山岡や松岡が幕府による攘夷の断行をいかに切望していたかが歴然である。

 

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『官武通紀』の中の「清川八郎逢切害候始末書写」に、「(四月)十二日本所屋敷之近所へ又四郎、寅之助出居候事」とある。又四郎は速水又四郎で、寅之助は永井寅之助か。いずれも浪士組取締並出役の職にあった人で、翌13日、清河八郎は幕閣の命によりこれらの人たちによって暗殺された。12日には清河暗殺の指示が出ていたのだろう。その12日の杉浦正一郎の日記に、「高橋、萬、金一條尤切迫」とあり、2日後の14日には「御役御免差控、高橋、山岡、松岡外出役七名」とある。また、『官武通紀』には「清川八郎へ心を寄候御旗本、御家人、御役御免、小普請入被仰附候事」と記されている。

 

松岡たちが御役御免差控の上、小普請入を命じられた同じ14日、庄内、白川、小田原等7藩の兵士が出動して、攘夷実行を画策した村上俊五郎や石坂周造ら6人の浪士が投獄された。白河藩阿部家資料『公余録』に、「五家被仰合左通」として「高橋へ三組庄内。山岡へ三組、此方様(白河藩)二手相馬様一手。松岡へ三組、小田原様相馬様外に御控一手。合言葉、御苗字相用候事。山岡鉄太郎牛込歟。松岡萬小日向新川町。高橋伊勢守小石川鷹町」とあって、小日向新川町の松岡家にも小田原や相馬の兵士が差し向けられたのである。

 

なお、同じ『公余録』の「町奉行備前守様御直書写」の中に、「松岡、是人四手見知人差遣可申候」とある。「四手」とは四手掛のことだろうか、四手掛とは寺社・町の2奉行に大目付と目付を指すが、その中に松岡の顔見知りがいて、松岡の説得のために兵士に同行したのではないかと思われる。

 

高橋謙三郎、山岡鉄太郎、松岡萬等はその年の12月には幽閉を免ぜられている。これはその前月15日の江戸城西の丸の火災の際、騒擾に乗じて事を起こそうとする者を防ぐため、禁を侵し、死を覚悟で城門警護に駆け付けた功を認められてのことだったらしい。蒲生絅亭の「松岡萬傳」(『近世偉人伝』)に、その際の松岡に関して次のような逸話が記されている(原漢文)

 

「癸亥大城火あり、萬その兵変有らんを謂い、即ち偃月刀を提げ走ってこれに赴く。至れば則ち煙焔天を蔽い已に灰せり。萬、見て号泣す。之を笑う者有り。萬怒て謂う、汝も亦幕府之士に非ずや、何ぞ悲しまずして反って我を笑うと、乃ち偃月刀を挙ぐ。笑う者走って之を避く。萬、追うて之を斬り、其の笠に中たり、笠断ちて墜つ。之を見れば髹金なり。髹金は権貴の笠なり。萬、其の断たれし笠に唾して罵って日う。咄、鼠輩、録を盗めるのみと」

 

これによれば、松岡の単独行動のようにとれるが、『泥舟遺稿』では、この時松岡は山岡鉄太郎らと高橋謙三郎に従っていたとある。即ち『泥舟遺稿』では、炎上する江戸城を望見した謙三郎は、「是れ必ず敵の間諜火を大城に放ち、其騒擾に乗じて大に為すことあらん」、と憂心禁じ得ず、いざ出馬しようとした時に山岡鉄太郎が駆けつけて来たとあり、さらに続けて次のように記されている。

 

「山岡をして松岡外同志中、屈強の者数十人を喚び来らしむ。何れも一騎当千の傑士なり。(中略)山岡は三尺の大刀を佩び鎗をとりて馬の左側に随へり、松岡は長巻をたづさへて馬の右側に附添へり。(中略)かくて各自余りに疲労を覚えたれば、大手前酒井雅樂頭の番所に到りて、暫時休息を願ふ(中略)、其(酒井家の)詰合の一人、大城の天主櫓の将に焼堕んとせし時(中略)アレアレ見玉へ、彼の面白く美しき事をと云ふや、翁に附添ふ松岡萬、勃然として怒気榛東り発し、其者の襟首を攫んで、大地にひきすえ、此白痴漢君家の御災難を見て、美しきの、面白しのとは何事ぞ、容赦はならじ、覚悟せよと、あはや一撃にせんと相見へけりし折しも、翁急に声を懸け、松岡はやまることなかれ、彼輩を手撃にすればとて、何の益かあると、松岡乃ち放ち去らしむ云々」

 

大橋微笑の「幕士松岡萬の傳」は、蒲生絅亭の「松岡萬傳」を参考にしたのかどうかは不明だが、「松岡萬傳」とほぼ同じ内容になっている。この『松岡萬傳』と「泥舟遺稿』の記述内容には、様々な相違があるが、当日松岡は高橋謙三郎らと行動を共にしていたと思われる。

 

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文久3年における松岡萬に関しては、よく知られる逸話がもう一つある。それは、この年の正月、松岡が、回向院の塋域で改葬中の頼三樹三郎(頼山陽)の遺骨の一部を盗み去り、自宅に祀って朝夕礼拝していたという話である。松岡の頼家崇敬については、市島春城の『随筆頼山陽』に「松岡はひどく頼家を崇拝したもので、常に神棚に山陽や三樹の名を署した木主を奉じ、日夕祀って怠らなかった」とある。なお、市島春城は同書の中で、松岡は「随分と奇行に富んだ人」で「学問もあり剣術にも長じ、骨格魁偉、膂力衆に勝れ、且つ正義の士であった」、と記しいる。

 

この事件については諸説あって、大橋微笑の「松岡萬の傳」などは慶応4年の出来事としている。また、事件当時松岡には同行者がいたとするものと、単独での行動であったとするものなど様々であるが、ここでは長い引用になるが、木崎好尚著『頼三樹』収載の依田学海(百川・佐倉藩の漢学者)の「頼三樹」を次に転載する。

 

「時勢変わり(文久211月の大赦)(三樹三郎の諱)が罪許されしかば、長州の山尾庸三等主の命を受け、吉田寅次郎が骨と共に(三樹三郎の骨を)若林村(東京世田谷区)なる、別邸の内に移し葬らしめんとて、正順(大橋訥庵)の子正燾と謀り、非人に命じてこれを掘出す折しも、西村退翁・松岡萬等、ここに来り、これ何事ぞと問ふ、非人小頭市兵衛といふもの、こは先年首刎られし吉田と頼とやらんの骨を改葬するにて候と答ふ。松岡その首はいかにと打見つゝ、密に左の腕と覚しきものを拾ひ取りて、袖の内にかくし入れければ、市兵衛驚き、(中略)唯一ひらの骨なりとも足らずと申されんには、やつがれが罪逃る可からず」と、市兵衛は肯んじなかった。

 

そのため松岡は、「おのれは幕府の士にて、松岡萬と呼ばるゝものなり、此人の義勇を慕ふのあまりに、遺骨を得て私に供養をせばやと思ふのみ、しらぬふりをしてゆるせかしといへども、頭をふりて受引かず。退翁、すなわち常行庵とて、小さき庵室の内に休らひゐたる山尾等に向ひ、子細を語り請ひければ、その侠気にや感じけん、そは某が計べきにはあらねども、事のまぎれに盗み去らんには力なしとありければ、退翁よろこび、松岡にかくと告げ、市兵衛に心得させて骨数片を得て立ち去りぬ」

 

松岡のために長州藩士山尾庸三等と掛け合った西村退翁は、上洛中の松岡が浪士の監視等で行動を共にした西村泰翁である。この人は維新後の精鋭隊や牧之原の開墾にも松岡と行動を共にしていたことが確認できる。この依田学海の「頼三樹」では事件の日時が不明だが、『吉田松陰全集』収載の「年譜」では、松陰の遺骨改葬の日とし、当日立ち会った長州藩士は高杉晋作、伊藤利輔、品川彌次郎、山尾庸三、白井小輔、赤根武人等としている。なお、頼三樹三郎の頼支峰の養子頼庫山(龍三)の日記抄(木崎好尚著『頼三樹傳』収載)は、その日松岡に同道していた者が複数人あったことが記されているので、屋上屋を重ねる感があるが、以下に転載する。

 

「癸亥の春、幕臣西村退翁、松岡万、速水某、牧野某、上田楠次(原注・上田は他藩か)五人にて、回向院別院常光庵の前を過ぎしとき、今日は改葬ありと聞き墓所に入りしに、非人ども両三士(吉田松陰、大橋訥庵、頼三樹三郎)の屍を、泥土の上より掘り出し点検せり。松岡氏、誰の骨なりやと問へば小屋頭市兵衛なる者、頼三樹八郎殿(三樹三郎は三木八、三樹三郎とも称した)なりと答へたり。松岡、兼ねてその義烈を欽慕の余り云々。市兵衛云ふ、請ふ長州の士にその意を告げ、その命あらば分つべしとて許さず。止むを得ず、同行の退翁に託して長州の士を説き、ひそかに一二片を持ち去れりとぞ、是実に正月十二日のことなり」

 

松岡が貰い受けた三樹三郎の骨については後日談がある。先の頼庫三の日記抄には、翌元治元年(1864)の冬10月に「((大橋陶庵・訥庵の養嗣子)、同志の幕臣関口退助(艮輔)と謀り、小塚原の烈士の墓を、近き空地に集め、且、頼、小林(良典・鷹司家太夫)の墳を建てたり。その時、松岡、訪ひ来って、袱に包める遺骨をその墓下に埋めんことを請ひ、清浄の布に包あり、乃ち諾して小石槨と桐箱を造り、茶にて骨を収め、葬れり」、とある。依田学海の「頼三樹」にも、ほぼこれと同じことが記されている。

 

この松岡が自ら三樹三郎の遺骨の埋葬を依頼したという点については、前島密の伝記集『鴻爪痕』に載る逸話は少し異なっている。それによれば、松岡が三樹三郎の遺骨を自宅に安置していることを耳にした関口艮輔が、松岡に対して、「死者の遺骨を私家に奉置するは実に禮にあらず、君の行為は己の情に厚くして、死者の霊に対しては不敬の嫌ひあれば、矢張り旧地に葬り云々」と説諭したところ、「松岡も其の理に服し」て小塚原に丁重に埋葬することになったとある。

 

なお、薄井龍之(督太郎)の「江東夜話」(頼山陽の家族』収載)に、薄井が江戸に出た際「関口氏の案内で松岡へ参ツて右(三樹三郎)の遺骨を拝しました。其祠は至って小さいものでありましたが香火は勿論種々時物等を備へて如何にも崇敬欽慕の意が見えまして私も思わず感涙にむせびました」とある。薄井龍之は信州飯田の人で、京都で頼三樹三郎に師事していたことがあった。

 

『鴻爪痕』によると、松岡が手厚く埋葬した三樹三郎の遺骨は、維新後に関口艮輔からこの話を聞いた前島密が、長州藩公用人某や勝海舟大久保一翁等に計って若林村の墓に合葬したという。

 

19(3)に続きます。