1 京都守護職による過激派浪士対策
幕府召募の浪士組が、将軍家茂上洛の先駆けとして、鵜殿鳩翁に率いられて京都に入ったのは文久3年(1863)2月23日であった。浪士組入京当時の京都市中は、長州や土佐を中心とする尊攘過激派浪士たちの跳梁する、尊攘一色の殺伐たる巷で、過激派浪士たちは競って公家の門に出入りし、時事を横議して急進的な攘夷論を揚言、「浪士一夕ノ談或ハ漂然天下ノ勅トナルアリ」(『鞅掌記』・括弧内は以後も筆者の注記)というありさまであった。
京都守護職松平容保の旧臣北原雅長は、その当時の京都市中の様子を、その著『七年史』のなかに、「京師の状たるや、殺伐風を成して切害にあふもの空日なきが如く、或は其の首級を梟し、或は其罪過を張紙し、金銭を掠奪し、浪士等殆んど天誅を公言して憚からず。所司代町奉行の与力等追捕制馭する威力あらぬは人心淘々として安眠を得ざるが如し」、と記している。尊攘過激派浪士たちによる天誅という名の殺戮は、前年の秋以降激しさを増していたのである。
浪士組より2ヶ月前に入京していた京都守護職の会津藩主松平容保は、こうした浪士たちの跳梁跋扈は、「言語壅塞下情通ぜざるの致す所なり」として、2月8日に、町奉行所に言路洞開に関する町触を出させ(『鞅掌録』)、3日後の11日には、会津藩士による市中巡羅を開始していた(『徳川慶喜公伝』)。
また、これより以前の同月5日、当時兵庫港に外国船が渡来するという噂があったため、容保は、この機に乗じて浪士たちを「武田耕雲斎に付属せしめ攘夷の先鋒に宛らるべし、尤自分にも其地に出張して指揮する積り云々」(『続再夢紀事』)と幕閣に提案したが、「今外国と事を構える時に非ず」、と否決されていた。
容保の志向した浪士対策は、極めて穏健であった。『会津松平家譜』によれば、「(一橋慶喜は)彼(浪士)等を除き去るに非ざれば不可なりと、慶永(松平春嶽)も亦大に怒り、浪士数十人の名を記して将に逮捕せしめんと」したが、容保はこれに強く反対したとある。
同月15日には、幕閣らと協議して、過激派浪士たちを「諭シテ其主ニ帰ラシメ、主ナキ者ハ幕府ニ於テ養ウ」ことを朝廷に相談したが、これも「攘夷之儀ニ付而は、一身自在ニ可致周旋存込之輩も可有之哉、却而被挫忠魂候様ニ相聞云々」(松平春嶽宛て鷹司関白の書簡)と、否決されていた。
さらに、『七年史』のなかに、浪士組入京2日前の2月21日にも、容保が、「在京之有志者共、主人無之族は、予め部伍を定め其長を立置、攘夷之先鋒に差加へ、尊攘之素懐を為達遣度候間、私得指図尽力致候様仕度」、と朝廷に伺をたてたことが記されている(『会津松平家譜』では2月22日)。これは、後にふれる近藤勇や芹沢鴨たちの会津藩による差配に直結していく対策の提案であった。
こうした京都守護職や幕閣たちの努力も空しく、浪士組入京の前夜には、尊攘過激派浪士たちが洛西の等持院から足利将軍3代の木造の首を持出し、翌朝三条河原に梟首して、その捨文で暗に徳川将軍家を脅迫するという事件が発生していた。
将軍入洛を間近に控えた松平容保や幕閣たちにとって、恣に跳梁する尊攘過激派浪士対策が喫緊の課題となっていたのである。
2 浪士組の関西浪士徴募の建白
『官武通記』に、「鵜殿鳩翁殿爰許へ浪士被召連候儀は、全御警衛而巳には無御座、爰許之浪士共をも不残帰服為致、関東へ被召連度と之御計策と相見得申候云々」と、当時の京都で噂があったことが記されている。
浪士組入京7日目の2月30日、浪士一同が幕閣に呈出した建白書のなかに、「私共儀乍微賤尽忠報国之為罷出候へ者、斯外国御拒絶候難計候間、速ニ東下攘夷之御固差向被下度、関西志士御募り之儀者其筋へ号令を御下し被遊候ハバ尽忠報国之者自然出可申候」とあって、『官武通記』に記された先の風聞と附合するものがある。浪士組はこれ以前から、関西浪士の徴募の意向を幕閣に示していたらしい。
この建白書では、去る2月19日、英国軍艦多数が、生麦事件(前年8月発生)の賠償を求めて横浜に来航したことを知り、戦いに備えて至急の江戸帰還を求めたのである。「関西の浪士御募り之議云々」とあるのは、自分たちが計画していた関西浪士の徴募は、浪士組の東帰後は「其筋(京都守護職ヵ)へ」指示するよう求めたのだろう。
『伊達宗城在京日記』の3月1日の条には、「関東浪士存意書みる」として前日の浪士組の建白書の大略を記し、さらに「右浪士共東下申付相成候事」と記されている。浪士たちの強い東帰要請により、幕閣は浪士組の江戸帰還を早くも決断していたのである。しかし、当時の在京の幕閣たちには、朝廷の意向を伺うことなくして重要事項の最終結論は出せなかった。それが結局3月3日の鷹司関白から浪士組幹部への、「今般横浜港へ英吉利軍艦渡来(中略)三ケ条申立何れも難聞届筋に付、其旨及び応接候間既に兵端を開くやも難計、仍て其方召連候浪人共速に東下し、粉骨最新可励忠誠候也」、の達文となったと思われる。
会津藩公用方を勤めた柴太一郎が、明治34年(1901)6月の史談会で、「(浪士組の浪士たちが)一群々々市中を徘徊するに、結髪服装始め、異壮区々にして往々粗暴は、総栽、後見職始め幕府の役々もあるに拘はらず、朝廷の向へ直ちに建白抔し、又其際は勤王攘夷を主唱する過激が京都にある。それと募集浪士の衝突を惹起せんとする事情が見ゆる」ため、将軍上洛前に不都合が生じてはならぬと、英国軍艦の来航を名目に江戸に戻されたと語っている。これも事実の一面であろう。しかし、そうした事情を知らない近藤ら一部の浪士を除くものたちは、東下命令に雀躍したのである。
浪士組は3月5日にも、幕閣に対して建白書を呈出している。そこにも「浪士御召募之儀は東西之風気も有之に付、各其最寄近に御集め、大阪鎮海に罷出者又東府に罷出者等何れも不都合無之様号令御下し可然奉存候」、と浪士召募のことを訴え、更に別に「(英夷との戦いには)旧来の御人数而巳にては防御等頗る不安堵之至に付、猶壮健強勇之者広く相募り、折衝之場に相向申度候間、是又御勇断被下度候」と、今度は兵力増強のため、浪士組自らが広く浪士を募りたいと申し出ている。
清河八郎ら東帰を急ぐ浪士たちだが、ここでは共に横浜の「折衝之場に相向」う壮健強勇の浪士と共に、「大阪鎮海に罷出」る浪士についても触れている。清河たちが、上京後に京都の情勢や外国船兵庫港来航の風聞を知り、敢えて記すこととなったのだろう。
なお、ここでは広く有志を募集することを請願しているが、浪士組は入京後も個々には浪士を受け入れていた。浪士組士分部宗右衛門の浪士組入隊届出書には、早川文太郎や分部再輔が京都で入隊したことが記されている。また、浪士組士高木潜一郎の日記の2月25日の条には、浪士組12組123人の名が記されていて、その中に大馬佐太郎、今井定大夫、富六郎、宇津帯刀等、他の浪士組名簿にその名が確認できない浪士名が7人記されている。京都で入隊し、京都で脱退した人たちではないかと思われる。
また通説では、後に新選組の結成に係わった斎藤一と佐伯又三郎については、浪士組には参加していなかっとされている。しかし、浪士組目付杉浦正一郎の日記(『杉浦梅潭目付日記』)の3月14日の条に、「高橋、鵜殿ヨリ書状来ル、浪士之内京地江相残候儀申上候書付差越云々」とあって、ここに芹沢鴨や近藤勇と共に2人の名も記されている。「浪士之内」とあるからには、斎藤一も佐伯又三郎も浪士組士の一員の扱いを受けていたのである。
3 鵜殿鳩翁の滞京問題
『枢密備忘』の3月2日の条に、富山藩士中根靱負が中川宮に招かれ、中川宮から「此頃江州八幡へ浪人多人数より集まり、京都に乱入すべきやの風説」があるため、鷹司関白と相談し、浪士らを鵜殿鳩翁に説得、鎮静させようとしたが、議奏等が「鳩翁は信を置がたき人間だ」と申し立てて、結論が出ずに当惑している、との話があったとある。
翌3月3日の『伊達宗城在京日記』には、「(鵜殿の江州八幡の浪士鎮静のことは)至極之思召付、之旨申上候処、自朝廷御沙汰之上申付候積り、御沙汰にて今朝伝奉より書面差越候処、行違ト相見え、昨夜宮之御沙汰とは文面相違云々」と記されている。そして、伝奏から幕閣への沙汰書には、「江州八幡辺へ浮浪のもの共会集之処、取押人数指出候風聞も有之候、右之者共ハ元有志之輩にも有之由ニ付、穏便之処置之様云々」、とあった。
この同じ日に、鷹司関白から、浪士組東帰の達文が下ったことは前記した。その翌4日、将軍家茂入洛の日に、浪士組掛目付から鵜殿鳩翁に対して、「浪士共早々帰府致シ、江戸表に於テ差図ヲ受、尽粉骨相勤候様」に、との指示書が出ている。
そして、その翌5日の杉浦正一郎の日記に、「鳩翁御暇御書付出る」とあり、その3日後の8日には「鵜殿鳩翁浪士三四拾人引連退(「滞」の誤りか)京、町奉行江申談、市中廻り方御達」、さらに同日の日記に、「高橋謙三郎浪士取扱被仰付、浪士引連早々帰府之儀御達し」とある。
鵜殿は江州八幡の話も聞き、狂乱の京都に将軍を残して江戸に戻ることに、幕臣として忍び難いものがあったため、浪士取扱の職を辞して、30~40人の浪士たちと京都市中の巡羅守衛に当たろうとしたのではないかと思われる。しかし、その翌9日の杉浦正一郎の日記には、「鳩翁京地見廻り之儀沙汰止み」と記されている。
なお、先の高橋謙三郎の浪士取扱就任について、安倍正人編纂『泥舟遺稿』の「逸事」のなかに、「諸浪士又(鵜殿鳩翁に)服せず、同月(文久3年3月)浪士上書して、翁(高橋謙三郎)に属せん事を請ふ、閣老板倉伊賀守、台名を傳へて、翁に命ずるに浪士取扱兼師範役を持ってす」、とある。
『鞅掌録』にも、「浪士ノ間相合ハス議論派ヲナシ英吉利ノ迫リ来ルヲ以テ関東ニ帰リ攘夷ニ向ハントイフアリ、留テ将軍ヲ守護シ奉ント願フアリ、孰レニ於テモ規則ニ入ル無キヲ以テ鵜殿ノ力之ヲ制御スル能ハス、其東帰ヲ願フモノ山岡松岡等ハ鵜殿自ラ卒テ東下シ去リ云々」、とある。
しかし、高橋謙三郎の浪士取扱就任は、あくまで鵜殿の京都残留のための辞任による後任人事であったと思われる。『鞅掌録』に「鳩翁ノ力之ヲ制御スル能ハス」とあるのは、おそらく京都残留を主張する鵜殿と、東帰を急ぐ清河や浪士取締役山岡鉄太郎らとの意見が合わなかったことを指すのだろう。鵜殿は関白から浪士組東帰の達文が出たため、止む無く辞職を決意したものと思われる。
後任に高橋謙三郎まで決定し、町奉行所とも調整していたのに、朝令暮改も甚だしく急遽鵜殿の辞任が撤回されたのである。この間にどの様な事情があったかは不明だが、その9日、高橋謙三郎と鵜殿鳩翁の名で、浪士取締役山岡鉄太郎と松岡万に宛てた書簡に、「昨夜鳩翁より御達申候浪士の向京地滞留之儀、今日事実申上候処、御引戻し相成候間、御手元え御差置之向へ御達被成間敷候云々」とあり、また「多分鳩翁儀も一緒に帰東相成候様之模様に御座候」、と記されている。鵜殿の辞職のことは、幕閣たちに説得されて断念したらしい。
その誰であるかは不明だが、京都に残留する予定だった浪士に関して、先の書翰には「御手元え御差置浪士之向へ御達被成間敷候」、とある。鵜殿鳩翁と共に京都に残る予定の浪士たちは、8日夜の段階で、山岡と松岡には伝えられていたのである。
その残留予定の浪士の中には、その後の経緯等から、後に新選組を結成する近藤勇たちも含まれていたのではないかと思われる。もっとも、芹沢鴨と糟谷新五郎は、同じ8日に行われた浪士組の組織改正で、取締役出役付属を申し渡されているので、その中に名はなかったのかも知れない。
4 京都残留の浪士たち(1)
鵜殿の京地見廻りが沙汰止みとなった日の翌10日、松平容保に対し、「当所に罷在候浪士共之内尽忠報国有志之輩有之趣に相聞、右等之者は一方之御固も可被仰付候間、其方一手へ引纏差配可被致候事」と、容保にとって念願だった在京浪士を召募し、一手に差配すべしとの老中の栽可が下りたのである。
これは、鵜殿鳩翁の京都残留(在京浪士の募集を含めた)の中止と、浪士組の東帰決定による在京の過激派浪人対策の一つの帰結であった。前述した2月21日に、容保が朝廷に対して、在京の主人なき浪士を会津藩で一手に差配したいと申し出ていた結果でもあった。
同じ3月10日、芹沢鴨や近藤勇ら17人の浪士たちから、京都守護職に対して、京地滞留の嘆願書が呈出されている。8日から9日の急転直下の状況変化のなかで、鵜殿鳩翁と守護職の協議の上で行われた手続だったのだろう。浪士組士永倉新八の『文久報国記事』の中にも、「私共身体如何様ニ相成トモ京師ニ留リ度趣申上ルト、鵜殿旭(鳩)翁殿関心有之、速ニ松平肥後守殿ニ進達ス」、と記されている。
近藤勇たちが守護職に呈出した嘆願書には、「(将軍が)御下向の後勅に基き攘夷仕度同志一同の宿願」であるが、将軍の下向もないのに、浪士組に江戸帰還が申し付けられました。「併し東帰の上直様攘夷致儀に候はば、大悦至極に御座候得共、漫然と退京の儀は一統の不忍処に候、何卒大樹公御下向迄御警衛仕度志願に候」、と述べられている。
ここにも、英国軍艦との開戦に備えて東帰を急ぐ清河八郎たちとの違いがあった。清河たちは3月5日の建白書に、「将軍御帰城之上、攘夷可被遊之処、英夷之條、其前拒絶にも相成候はば、何時戦争相始候も難計、征夷府、尤第一之儀に付、於私共右之條々建白候上は、速に東下仕、夫々攘夷之儀に差向申度云々」、と記している。清河はこの当時既に、もし幕府が攘夷実行を逡巡するようであれば、独自での断行を覚悟していたのではないかと思われる。
清河八郎の強硬な攘夷断行の意志については、上山藩士増戸武兵衛が明治37年9月29日の史談会で、同藩士で清河八郎と親交のあった金子与三郎から聞いた事実を、次のように証言している。
「(清河八郎と金子与三郎は)旧来の親友であって、大抵のことは互に打明けて相談する間であるが、先達て以来(清河が金子家を)度々訪ね来り、さして同人の申し出るには、曾て幕府を助けて尊王攘夷をするつもりであったけれども、段々経験して考へて見ると幕府ハ何分にも因循姑息であって、何時まで経っても目途がない。迚も助けるに足らないものと決心した。依って我輩はこれから後ハ幕府に便らず独立独行で尊王攘夷をする積りである云々」
ちなみに、清河八郎は浪士組の江戸到着の3月28日当日に、上山藩邸に金子与三郎を訪ねている。(金子与三郎の清河八郎宛て4月1日付け書簡)
上記のごとく、清河八郎が尊王攘夷一辺倒であったのに対し、近藤たち京都残留者たちは敬幕尊王攘夷論者であった。3月10日に近藤らが守護職に呈出した嘆願書にも、「天朝を奉御守護候は勿論、並に大樹公警衛を以て神州の機を清浄せんが為」に攘夷をしたいと言い、滞京が認められなければ、「退身浪々致しても天朝大樹公の御守護攘夷可仕決心に御座候」と、その心事が述べられている。
5 京都残留の浪士たち(2)
京都残留浪士の人数については諸説あるが、3月10日に会津藩の差配を嘆願した浪士が17人、13日に鵜殿ら2人の浪士取扱が目付杉浦正一郎に宛てた書簡で、会津藩に差配を依頼したとする人数が16人。10日の17人から阿比留鋭三郎が抜け落ちている。阿比留は13日には既に病が重く、浪士取扱の2人は、会津藩差配下で活動することは困難と判断し、人数には入れなかったのだろうか。ちなみに、同月25日に会津藩士本多四郎が壬生村を訪れた際の記録(『世話集聞記』)には、阿比留について「阿比留は大病ニ付、(中略)近々江戸表江罷下ル由ニ咄有之」とあり、それから10日後の4月6日に死去している。
会津藩士広沢富次郎の『鞅掌録』に、「其留ルヲ願フモノ二十四人我公ノ附属ニ命ゼラル」とある。また、『盤錯録』にも「十日幕命新撰党二十人ヲ以テ我ニ隷ス」、と記されている。さらに、3月25日付けで、在京の会津藩重臣たちが藩地の重臣たちに宛てた報告書にも、「爰許え二十四人相残其余は江戸え立戻り、右残之者共当十五日御次に罷出云々」とある。
先の本多四郎の『世話集聞記』には、同じ3月25日、壬生の宿所には10日に嘆願書を提出した17人が滞在していたとある。そして、そこには「右之者共は、御家之御指図ニて万事相勤候者共也」、と記されている。近藤勇が郷里に宛てた同月26日の書簡にも、「小子共同意者十七人願之上相残り」とあり、近藤勇も会津藩に差配を受ける仲間は17名だと認識していたのである。
会津藩側が残留浪士とする24人のうち、右の17人以外の人物は、根岸友山、殿山義雄、家里次郎、清水吾一、遠藤丈庵、神代仁之助、鈴木長蔵の7人である。このなかの殿山義雄と家里次郎については、鵜殿鳩翁が2人に与えた日付け不明の、「有志之者相募候はば、京都江戸之内え罷出候儀は其者之心次第可致候、京都に罷在度旨申聞候者は会津家可中得引渡、同家差配に可随旨可被談候」、という文書が残されている。
文書の内容から、鵜殿鳩翁の京都残留が撤回され、会津藩に在京浪士の召募が許可された同じ3月10日に出されたものだろう。通説では、これは浪士組内部でのことと解されている。しかしそうであれば、浪士組内部の世話役や小頭を通して組織的に行えばよいことで、平士である殿山や家里に指示する筈がない。これは広く在京浪士を対象とした募集指示書であったことに間違いない。冒頭の「有志之者相募候はば」は、明らかにそのことを示している。
なぜ、2人にその様な役割が与えられたのかは不明だが、殿山義雄は昌平校の出身者(書生寮に2度在寮)であり、当時在京中の松本圭堂(刈谷藩士)や岡鹿門(仙台藩士)を始め、会津藩公用方の広沢富次郎や赤川又三郎(長州藩士)らとも同窓であった。また、家里次郎は伊勢松坂の出身で、在京の儒学者家里新太郎とは兄弟(共に家里悠然の養子)であった。兄家里新太郎は、梁川星厳や頼三樹三郎、藤森洪庵らとも交わりのあった、名の知られた尊攘論者である。そして殿山と家里の2人は、共に1番根岸友山組の平士であった。
根岸友山は、武州甲山村の豪農で、甲山組と称する27人を引連れて浪士組に参加した尊王攘夷家である。清河八郎とは旧知であり、家里次郎もその家に滞在していたという。共に京都に残留した清水吾一は友山の甥で、根岸家で文武を学んだ人である。遠藤丈庵も甲山組の1人で、友山との係わりの深い人だったらしいが、詳細は不明である。
浪士組に広く浪士召募が許されたことは、庄内藩付属の大砲組が慶応2年(1866)5月に呈出した「内願書」(『淀稲葉家文書』)に、「(文久3年の)御上洛之刻浪士御取扱之御方々於京地被仰渡候有志之もの共猶召募可申趣承私共一同九拾余人(中略)小林登之助ヲ以申上」現在に至った、と記されていること。また、浪士組が江戸へ帰還途中の3月22日、中山道下諏訪宿で森土鉞四郎や分部宗右衛門らが、甲州の有志召募を命じられていることでも明らかである。
6 京都残留浪士の確執問題
新選組関係の著書は、残留浪士24人は近藤勇、芹沢鴨、根岸友山の3派に別れ、派閥争いの最初に敗れたのが根岸友山派であったとしている。しかし、根岸友山は先に東下した甲山組25人の同志たちと、攘夷を行うことを宿願として浪士組に参加した者である。
根岸友山には、後に反幕・倒幕的行動さえあって、当時も近藤勇らとは異なり敬幕の念があったとは思えない。友山は、殿山と家里が召募した関西浪士を引連れ、共に江戸に戻ろうとしていたのではないかと思われる。清水吾一と遠藤丈庵は、友山の護衛役として行動を共にしたと思われる。根岸友山ら3人は、後に新徴組に復帰している。
では何故根岸友山たちは3月15日に会津藩庁に出頭したのか。また何故3月22日に芹沢や近藤らと共に将軍の「今暫御滞留」を老中板倉勝静に直訴建白したのか、との疑問が残る。おそらく15日の会津藩庁への出頭は、関西浪士の徴募に目処が付くまでの、会津藩への当面の付属である。単なる浪士組の浪士では徴募活動に差支えが出る可能性があるからで、このことは、鵜殿や高橋たち浪士取扱と会津藩との相談の結果であったと思われる。
ちなみに、先に見たとおり、会津藩の史料に「差配」とか「付属」とあったが、近藤勇たちの嘆願書には、「大樹公御下向迄御警衛仕度志願に候」とあり、当時の近藤たちには、長く京都に留まる意志はなかったのである。目的は違えど、根岸友山や殿山義雄・家里次郎たちが、当面の間会津藩の差配を受けようとしたことに何の不思議もない。京都市中の不逞浪士の徴募は、会津藩と利害も一致していたのである。
では何故根岸友山たちは、将軍滞京の建白に名を連ねたのか。それはおそらく、公武合体の立場から将軍東帰に反対する芹沢や近藤たちとは異なり、長州藩に近い根岸友山は、将軍の江戸帰還に猛反対する過激派長州藩士たちと軌を一にしていたのではないかと思われる。
根岸友山家は長州藩の物産御用を勤め、また江戸藩邸の世子や婦女子の騒乱時の避難所として密約されたこともあった家である。
文久元年には久坂玄瑞も根岸家を訪れている。その同じ年の11月、長州の多賀谷勇の父に宛てた久留米藩士松浦八郎の書簡にも、「孰れ根岸伴七(友山子)に面談可致(中略)伴七へ相謀り可申御住所等は御面談にて御相談云々」(『久留米同郷會誌』)と記されている。これは、多賀谷の父から息子勇に帰郷を促するよう依頼された松浦が、江戸から送った書簡で、頻繁に出入りのあった根岸家で多賀谷の行方を尋ねる旨を伝えている。こうした事情からも、上洛後の友山は、当然こうした人達とも接触していたことだろう。
なお、神代仁之助(水戸浪士・7番組平士)と鈴木長蔵(仙台浪士・7番組平士)が、残留浪士として名のあるのは、3月15日に20人の浪士が公用方に挨拶に出向いた際の記録に、「右四人之者ハ病気ニ而不参之由」(『会津藩庁記録』)とある4人の中に、その名があるだけである。2人は15日に近藤や芹沢ら17人とは別の理由で、壬生村の宿所に留まっていたと思われる。
神代も鈴木も、その後江戸に戻って新徴組に合流しているが、浪士組士柚原鑑五郎の日記4月11日の条に、「鈴木長蔵大阪ヘ廻り募り来る神戸六郎(偽浪士として清河らに斬殺梟首された人物)云々」とある。「募り来る」とあるから、2人も浪士徴募が目的で京都に残留していた可能性も否定できない。。
在京の過激派浪士の排除に腐心する会津藩は、当初は会津藩庁自らが浪士引き付けの努力をしていた。先の会津藩重臣が国元重臣に宛てた報告書にも、浪士組が京都を去った3月13日、清河八郎の同志藤本鉄石と飯居寛平の2人が会津藩を訪れたことが記されている。
しかし、尊攘過激派の藤本鉄石らと、攘夷断行の意思のない幕府や会津藩と意見の一致する筈もない。仙台藩士岡鹿門の『在臆話記』の中に、鹿門が藤本から聞いた話として、「其(藤本鉄石の)言ニ、会津守護職ニ召サレ、容保公謁見意見ヲ問ワル、攘夷ノ大義ヲ論ジタリト」、と記されている。
会津藩はその後、在京浪士の召募を近藤勇や芹沢鴨ら京都残留浪士たちに一任してしまったらしい。そのため、1人でも多くの同志が欲しい近藤や芹沢ら残留浪士と、攘夷戦に参戦を希望する浪士を募り、一刻でも早く清河たちに合流したい殿山や家里ら(根岸友山らも)との間に軋轢が生じたのだと思われる。
その結果、殿山義雄は3月24日に、江戸へ戻ろうとしていたらしい家里次郎は4月24日に、近藤たちによって謀殺されたのである。身の危険を察知した根岸友山は、殿山が殺害された前後に京都を脱出したらしい。根岸友山の履歴草稿には、「同志三人輩と伊勢大廟へ詣するを名として京都を出」、江戸に戻ったとあるものの、離京の日は定かでない。
先の『世話集聞記』に、3月25日に本田四郎が壬生村を訪れた際、17人の浪士が滞在していたとある。一方、前記のごとくその3日前の同月22日には、友山たちは老中への建白書に連署しているので、京都を離れたのは22日夜から24日のことだったのではないかと思われる。ちなみに、江戸帰還後に書き始めた友山の「御用留」は、4月23日から始まっている。
『世話集聞記』に、3月25日に本多が壬生浪士を訪ねた際、浪士たちは「御家(会津藩)より御手当金被下候金ニて、一同着物を拵候とて、皆同色之ひとい物を紋付ニ仕立着用致居」とある。残留決定から半月も経たない3月25日には、既に浪士全員が同色の紋付を仕立てて着用していたのである。こうした浪士たちに対する会津藩の手厚い待遇と期待が、将軍帰府後も、近藤たちが京都に留まる動機となったのだろう。
芹沢や近藤たちは、同志募集に奔走したらしく、それから2カ月後の5月25日には、浪士の人数が36人となっていたことが、壬生浪士一同が幕閣に対して行った鎖港に関する建白書で確認できる。
【主な参考文献】
○『七年史』(北原雅長・続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『会津松平家譜』(飯沼関弥・マツノ書店)
○『会津藩庁記録』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『伊達宗城在京日記』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『続再夢紀事』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『官武通紀』(玉蟲左太夫・確定幕末史資料大成・日本シェル社)
○『史談会速記録』(史談会・原書房)
○『杉浦梅潭目付日記』(小野正雄監修・みずうみ書房)
○『在臆話記』(岡鹿門・『随筆百花苑』収載・中央公論社)
○『淀稲葉家文書』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一・平凡社東洋文庫)
○『高橋泥舟』(安倍正人編纂・島津書房)
○『新選組戦場日記』(木村幸比古編著訳・PHP研究所)
○『上毛剣術史』(諸田政治・煥乎堂)
○『新田町史』史料編(群馬県新田町)
○「柚原鑑五郎日記」(清河八郎記念館蔵)
○『根岸友山・武香の軌跡』(根岸友憲監修・さきたま出版会)
○『近世日本国民史』(徳富猪一郎・明治書院)
○「浪士組上京日記」(小山松勝一郎・清河八郎記念館所蔵)
○『新選組資料集』(新人物往来社編)
○『新選組日誌』(菊池明、伊東成郎、山村竜也編・新人物往来社)
○『新選組史録』(平尾道雄・白竜社)
○『清河八郎』(小山松勝一郎・国書刊行会)