11 【文久3年の浪士召募活動の一側面】

1 池田徳太郎と農兵(義民)の募集

幕府による前代未聞の浪士の召募は、文久2年(1862)12月末に決定し、その徴募活動は翌年正月早々から始まった。そして、それがさらに古今未聞の出来事だったのは、浪士の徴募が出羽庄内清川村郷士清河八郎とその同志たち(浪士取締役となった山岡鉄太郎と松岡万の「虎尾の会」旧同志含む)に一任されていたことであった。

これは、浪士召募の端緒となった政治総裁職松平春嶽への松平主税助の建白書(文久2年9月)に、「其党之近きに在者二三人を探出して幕府の難有を知らしめは、一封ニても(浪士たちが)相集まり可申候」とあったことや、清河八郎が同年11月に行った同じ松平春嶽への上書に、「先挙天下馳名之傑士両三輩、使此輩広募忠義節烈英偉倜儻之士」とあったことが、幕閣たちにそのまま受け容れられたのである。

浪士の徴募を幕府から一任されたことを、清河八郎仙台藩桜田敬助らに宛てた翌年正月10日付の書簡に、「浪士共撰擢致し候も専らこの方共より取立て候御頼みに付き、曾て他事これ無く候」、と記している。

浪士の徴募活動は、清河八郎の同志池田徳太郎と石坂周造が関東各地を遊説し、清河や山岡鉄太郎が、各地の同志たちに書簡や人を送るなどして行われた。しかし、池田徳太郎が行った遊説の主旨は、従来いわれている不逞浪士の募集、すなわち松平主税助の建言の一つである「幕政に不満の流浪の有志者を幕府に引き付ける」、ということとも、清河八郎の上書の「忠義節烈、英偉倜儻の士」を募る、ということともいささか異なっていた。池田は武州、上州、野州の農兵(義民)を募ろうとしていたのである。

 これは、「浪士取扱方被仰付候に付、農兵募り方の義奉申上候」として、池田徳太郎が浪士募集を命ぜられた際に提出した幕閣への意見書に、「武州甲州、上野は別て土俗雄壮、其間に生長仕候義民、日頃文武を嗜み剣馬を相貯へ、如何にも尽忠報国の志厚き者多く有之兼て見留置、古へ農兵の例に従ひ今般出格の御儀を以、右之義民御募被成候はば、一際の御用に相立可申と奉存候」とか、「(これら義民を)今般御募浪士共の内へ御差加へ、一隊の遊軍にも御備立、御供被仰付候」などとあるので、この池田の意見が容れられて、関八州の義民の徴募に至ったものと思われる。

なお、この意見書には、武州甲州、上野の地の名が挙げられているが、池田徳太郎も石坂周造も甲州を遊説した形跡はない。恐らく甲州は、山岡鉄太郎や清河八郎の同志森土鉞四郎(浪士組五番小頭・現山梨県田富町出身)等に、その徴募を託していたのではないかと思われる。

 池田徳太郎の意見書に、「(これら義民は)日頃文武を嗜み云々」とあったように、幕末のこの時期、天領地の多い関八州の農村部では治安が乱れるなどしていたため、富農層の間で武術を学ぶ者が多かった。現在の埼玉県域から浪士組に参加した人たちも、武術の習得に励んでいた人たちが多く、浪士組参加時前後に剣術道場を経営していた事実が確認できる人物だけでも16人に及んでいる。
 ちなみに、この16人の剣術流派は、甲源一刀流9人、神道無念流4人のほか、馬庭念流、北辰一刀流、甲源北辰流各1人となっている。

池田徳太郎の意見書にはさらに、「右之内郷士体の者共、其村里において日頃思意を以て結び置候強壮の義民も有之候へば、此の魁首御募り被成候上は、右強壮の義民共も後之に進退可仕候事」と、松平主税助や清河八郎の上書と同じ趣旨の記述があった。
もっとも、こうした池田徳太郎の発想は、先の文中に「兼ねて見留置云々」とあった通り、池田自身が以前に上州伊勢崎方面を遊歴していたこともあり、身を以て村里の実態を知悉していたことによるものであった。

2 浪士徴募の協力者たち

池田徳太郎が最初に上州の地を訪れたのは、安政3年(1856)の頃、旧友大舘謙三郎(浪士組二番小頭)の紹介で、伊勢崎藩の侍医頭栗原順庵の家族や周辺子弟に儒学を教授するためであった。この時、栗原順庵が謙三郎へ宛てた礼状には、「(池田氏は)至而好人物また教道念入懇切ニ被致、家属共も一同相悦居候、此段御礼申上候、何卒打続滞留願度心組ニ罷在候」、と記されている。

 池田は、安政5年には連取村(群馬県伊勢崎市)の領主駒井左京(幕府目付)の北国沿岸の巡察に従った後、房州方面を遊歴していたが、栗原順庵の要請によって再び伊勢崎に戻っている。このことは、上毛文苑の玄関番と称された深町北窓に宛てた池田の書簡に、「栗原翁より再遊之親書到来いたし、当月二日此地へ再遊いたし候。(略)尚又今度も不相替宜敷御周旋奉願上候、(中略)末文乍憚御家内御一統様宜敷御声可被下候」とあることで明らかである。池田は、伊勢崎とその周辺地域の人びとから深く信頼され、村人から名付け親を頼まれるほどであった。

 栗原順庵に池田を紹介した大館謙三郎は、池田の浪士徴募の大きな力となった。その大館は、伊勢崎近村上田中村(群馬県太田市)の人で、尊攘憂国の志士でもあった。文政7年(1824)の生まれであるから池田より7歳の年長であった。昌平校に入り、傍ら古賀侗庵に経史を学んで、詩を善くした。その大館が尊王攘夷思想を抱懐するにいたったのは、境町(伊勢崎市)の村上随憲(シーボルトに師事した蘭法医・尊王攘夷論者)が主催する傷寒論倫講会に参加したことによるといわれる。
ちなみに、この傷寒論倫講会の参加者には、斎藤文泰、黒田桃民、粟田口辰五郎、深町矢柄、高橋亘、石原伊之助等、浪士組に参加した人たちが多かった。随憲の3男俊平(菅俊平と変名)も参加者の1人であった。

 なお、池田徳太郎は大館謙三郎以外にも、上野の名門新田岩松氏第21代当主新田満次郎や、日光例幣使街道太田宿本陣橋本金左衛門等の、この地の魁主(有力者)にも協力を要請している。しかし、これらの人たちから如何なる協力が得られたかは不明である。
 池田徳太郎の頼りとする村里の魁主は、武州にも野州にも存在した。武州では、根岸友山と府川甚右衛門である。根岸友山は、武州甲山村(埼玉県熊谷市)の豪農で、尊王攘夷論者であった。その邸内には学問所や剣術道場もあり、常に食客10余人を有していたという。

浪士組一番小頭となった山田官司は、玄武館千葉道場の同門で、浪士組参加時には根岸家に逗留中であったと推定される。また、一番根岸友山組の家里次郎も、安政5年(1858)頃から根岸家に出入りしていたといわれる。この根岸友山は池田と旧知ではなかったが、清河八郎玄武館道場の同門として親交があった。池田が農兵徴募のため、1月上旬に根岸家を訪れた際は、「公命を以て広く天下之有志のもの不拘貴賎御召寄之事に相成則同志池田某を以て廻国周旋為致申候間いさひ当人より可申入」、などと記された清河の書簡を携えていたのである。 

 武州で浪士徴募に尽力したもう1人の府川甚右衛門は、中山道桶川宿本陣の12代目の当主で、根岸友山の妹の子であった。当時29歳で、文武を好み、昌平校書生寮の舎長だった松本圭堂や岡鹿門を招いて、学問に打込むほどの人であったが、この年の3月晦日に病没している。甚右衛門は、池田徳太郎や山岡鉄太郎とも旧知の仲であった。1月14日付けで池田徳太郎が甚右衛門に宛てた書簡に、「何分其地辺の豪傑も御集メ置可被下候、学問剣術には不及唯勇猛義気盛ナル者にて宜敷、年齢は二十三十の者をも宜敷御座候、御精力可被下候」、と記されている。

 野州での池田徳太郎への協力者は、青木彦三郎(春方)であった。野州大前村(栃木県足利市)の豪農で、尊王攘夷を唱え、屋敷近くに弘道館を建て、村民たちに文武を奨励した。会沢正志斎、小野湖山、山岡鉄太郎等その交友は広く、池田徳太郎とも旧知であった。元治元年の水戸天狗党の挙兵の際、上州隊と称する同志の一隊を率いて参戦したが、古河藩兵に捕えられて斬首されている。

池田徳太郎は自らの上書の通り、不逞浪士ではなく、義民(農兵)を募るため、根岸友山、府川甚右衛門、大館謙三郎、青木彦三郎等といった村里の魁主たちに徴募を託したのである。

3 義民の一隊での浪士組参加

 浪士の召募を一任された清河八郎や池田徳太郎たちは、その浪士選抜を各地の魁主たちに依頼するに際し、一隊(一隊三十人乃至一組十人)での参加を要請していた。
 こうした浪士召募の地方の魁主への要請と一隊での参加のことは、正月5日付で清河が大館謙三郎に宛てた書簡に、「人数割方之義大信寮ニ而相定候間、其迄内々御しらへ、名前付目安ニ必ず御持参可被下候」とあり、また同月25日付の清河の根岸友山宛ての書簡に、「御調達次第一衆ニ無之とも御遣可被下候」とあるほか、同月26日付で池田徳太郎が青木彦三郎に宛てた書簡にも、「御召連れの人々姓名明細書き為持御越可被下候」と記されていることなどで明らかである。

『小川町史』(埼玉県小川町)資料編に収録される、浪士組士新井庄司の書付に、根岸友山の居住地の地名を取った「甲山組」と称する30人の名が記されている。池田徳太郎や清河八郎の要請によって、根岸友山自らが組織した30人である。この名簿に名のある人たちは、2名の人物(途中で帰村か)を除き、浪士組名簿の一番組に名のある人たちとほぼ一致している。もっとも、甲山組に名のある中村定右衛門や片山庄左衛門は、浪士組の上洛途上で狼藉者取押役に選任されるなど一部入れ替えが行われている。浪士組はこれ以外にも、江戸出立後に頻繁な組織変更が行われている事実がある。

武州からの参加者のうち、甲山組28人以外に、3番常見一郎組も、阿比留鋭三郎(清河や根岸友山と玄武館千葉道場の同門)1人を除く人たちは、神道無念流の剣術仲間か、常見の経営する神道無念流「義集館」道場の門弟たちで、10人一組で参加したらしい。府川甚右衛門の呼び掛けに応じた人たちだったと思われる。

武州では他に近藤勇等の試衛館道場関係者11人が、水戸の芹沢鴨一党5人(全員神道無念流の剣客)と連合して2組を編成し、芹沢鴨新見錦が小頭となっている。なお、芹沢鴨組(後に小頭は西恭助、更に近藤勇に変更)の組士9人は、山南敬助等6人の試衛館関係者と平山五郎等3人の神道無念流関係者で構成されている。また、新見錦組9人のうち、熊本浪人の1人と井上源三郎等5人の試衛館関係者以外の3人(小林助松、加藤善次郎、小山憘一郎)は、いずれも神道無念流の剣客たちである。前述のように、常見一郎組の10人も神道無念流の剣術家と推定されるので、3番組の30人はほぼ全員が試衛館道場関係者と神道無念流剣術関係者で編成されていたのである。

ちなみに、芹沢鴨は戸賀崎熊太郎、或いは岡田十松吉利の門人といわれるが、十松吉利は文政3年(1820)に病没している。もし芹沢が神道無念流宗家3代戸賀崎熊太郎芳栄に学んだとすれば、芹沢と同じ3番組の常見一郎、小山憘一郎、加藤善次郎、金子蔵之丞、小松助松、島野喜之丞等は、みな芹沢の兄弟弟子だったことになる。

甲山組の1番組や芹沢鴨等の3番組と同様に、2番組の30人も殆どが上州人で占められている、小頭の大館謙三郎、黒田桃民、岡田盟(後に伊勢崎藩藩士武田本記と交代)の3人も何れも上州人である。大館謙三郎等の奔走によって編成された、「上州組」とも称すべき一隊30人での参加だったことは明らかである。

このことは、野州についてもその形跡が窺える。野州の参加者は15人と少ないが、4番組小頭の青木慎吉(野州大前村)と斎藤源十郎(野州江川村)は、青木彦三郎周辺の人たちである。青木慎吉は、池田徳太郎が青木彦三郎に宛てた1月26日付けの書簡に、「(前略)慎吉義君此書御同覧御一笑可被下候」とあるが、その人物像は判然としない。

野州の人たちも、青木彦三郎、青木慎吉、斎藤源三郎を小頭に、一隊での参加を予定していたらしいことが、『下野勤皇列伝』に記されている。そこには「池田徳太郎が来て相謀るや、志士の一隊を糾合し(中略)五十部の人広瀬定平等郷党の壮士数十名を率い約に赴かんとして、途中利根川を渡って足僅に武州の地を踏めば忽ち飛報があった。曰く、同志事を誤り企画中座して桶川の会合は画餅に帰したと云う。春方天を仰いで長嘆し慰喩して広瀬以下の壮士を郷里に還らせ云々」とある。この記述の出典も、同志が事を誤った事実の詳細等も不明だが、青木彦三郎参加のことは十分あり得ることである。

なお、清河八郎や池田徳太郎たちが、一隊での参加を要請していたことは明らかだが、単独で参加してくる人たちについては、主に石坂周造、村上俊五郎、森土鉞四郎、松沢良作といった清河八郎の同志たちが小頭となって組入りさせていたのである。

池田徳太郎が浪士徴募の遊説をした武州(埼玉県域のみ)、上州、野州からの参加者は124人に及んでいるが、石坂周造が遊説したとされる房州、総州(何れも千葉県)、常州茨城県)の浪士組参加者は17人ほどである。このなかには、芹沢鴨を始め水戸天狗党と呼ばれた人たちもいるので、遊説の結果は池田徳太郎のそれとは比較しようもない。この石坂の遊説結果は、1月20日付けで清河と山岡が池田徳太郎に宛てた書中に、「石宗(石坂周造)事少々不速之事有之」とあることに原因があったらしいが、その詳細は不明である。

4 浪士組名簿と浪士たちの実態

『下野勤皇列伝』に「桶川の会合は画餅に帰した」と記されていたが、池田が遊説した武州、上州、野州の義民は、2月29日に中山道桶川宿に集結した。この桶川宿集結のことは、1月21日付けで池田徳太郎が府川甚右衛門に宛てた書簡に、「上州表におゐて忠勇之義士如雲相集り申候間、当月二十九日其御本陣え相集り候事に手積仕置候」とあり、その2日後の同月23日付けで根岸友山が甚右衛門に宛てた書簡には、「今般池田氏出役義民選集の義、本月二十九日尊家へ相揃、二月朔日江戸着の積ニ申候」と記されている。

そして、池田徳太郎に率いられた義民たちが、予定通り1月29日に桶川宿に集結し、揃って2月1日に上府しただろうことは、根岸友山が上府後の2月3日付けで郷里の子息伴七に宛てた書簡に、「朔日江戸着之節ハ山岡之同役松岡万と申御方庚申塚迄御出迎下御酒披下候」とあることで推定される。浪士取締役の松岡万が、わざわざ板橋宿手前の庚申塚まで出迎えているのである。

池田徳太郎や石坂周造の関東各地への遊説と、清河八郎や山岡鉄太郎の徴募活動によって、230余人の浪士が集まり、2月8日に揃って江戸を出発したとされている。しかし、現在認められる浪士組名簿(組織編成や浪士の人数等)は、浪士組が江戸を出立する際の名簿ではなく、上洛途上等で加筆修正されたものではないかと思われる。

このことは、浪士組士分部宗右衛門の書簡や早川文太郎の「修行日記帳」で、早川文太郎や分部再輔は浪士組上洛後に組入りしたことが明らかであること。また、根岸友山の「御用留」に、2月15日付けで「右乱防人取押方申付候間左様可候心得」として中川一、片山庄左衛門ら4人の名が記されていること、さらに、分部宗右衛門の「新徴組記録外綴込もの」で近藤勇と佐々木如水が、2月14日付けで道中先番宿割を命ぜられていることでも明らかである。ちなみに、近藤勇は江戸出立つ時は目付役であったと思われる。

浪士組の名簿は複数残されているが、個々の浪士が夫々に作成したとは考えられず、恐らく浪士取締役等の人たちが作成したものが1、2冊(東京大学法学部図書室所蔵の「浪士姓名簿」はその一つと思われる。)あり、変更の都度これに修正加筆したのだろう。浪士たちはこれを書写し、書写後の変更はその浪士自身が加筆修正したものと推定される。なお、2月8日の江戸出立時点での浪士組名簿は、管見にして現在のところ確認できていない。

なお、『東西紀聞』に、「浪人三百人余当二月八日小石川伝通院に集会夫より発足致し候趣ニ候云々」として8組76名の浪士と、道中世話役10名の名が記されている。この名簿では、他の名簿では認められない浪士の名が数名散見される。例えば、他の浪士組名簿では7番小頭の1人は大内志津馬とあるが、この名簿では「西村河白組」と記されている。他の浪士組名簿に、小頭西村河白の名は確認できないが、陸奥白河藩阿部家の記録『公餘録』に載る「御掛役幷浪士連名控」のなかに、佐々木只三郎らと共に「御出役」として西村泰翁の名が認められる。同一人物と思われる。

西村泰翁(河白)については、7番組平士高木潜一郎の「御上洛御供先手日記」に、「(2月25日)他出無用、松岡万蔵殿、西村泰翁殿外弐人目付」とか、「(2月晦日)三番五番組六拾人松岡万・西村泰翁先達ニ而御所拝見」などとあり、西村泰翁が浪士組の一員として行動していたことは明らかである。浪士組上洛後の3月1日前後に西村敬蔵家で清河と山岡に会い、農兵募集の周旋方を頼んだ北垣晋太郎(国道)は、後年史談会で、「文久三年の春でございましたが、山岡鉄太郎、それから清河八郎、西村などといった連中が京都に来ました」と語っている。この西村が、西村泰翁だと思われる。

『東西紀聞』に載る名簿には、西村河白以外にも加藤健三、山本正道、河野弥熊太、熱田當吾等複数の他の浪士組名簿に名のない人物が記されている。単なる記載誤りなのか、それとも途中で脱退した人たちなのかは断定できない。なお、ここに名のある加藤健三は、根岸友山が府川甚右衛門に宛てた書翰(文久3年1月16日付)に、「(遊説中の)池田君同行の加藤鍵次郎君又々当方へ御出に付云々」等とある人かも知れない。

浪士組名簿に乗らない人物について、2番組菅俊平(本名、村上俊平)の「浪士組上京日記」2月11日の条に、気になる記述がある。この日は本庄宿を出立した日だが、日記には唐突に芹沢鴨新見錦、杉山弁吉(俊平と同じ2番黒田桃民組)の名が記され、さらに「吉見」と記された後に、「同(鴻巣在)大神宮社官須永土佐」、「同徳永大和」、「北有馬太郎門人山川立蔵」と、3名の名が列記されているのであ。

ここにある徳永大和は、根岸友山の組織した甲山組の2番組小頭だが、須永土佐は、徳永大和が神職修行をした吉見大神宮(現吉見神社)の大宮司で、根岸友山とは昵懇の仲であった。須永は後年、刀傷を負って逃亡中の薩邸浪士小島直次郎を匿った人でもある。浪士組に関わっていた可能性は十分あり得るだろう。なお、山川立蔵は、いうまでもなく道中世話役の山川達造である。

以上のような事実を見ても、途中脱退や何らかの事情で名簿に載らない浪士たちも複数存在していたと推測される。なお、本稿を『歴史研究』第626号に掲載の際、京都の医師西村泊翁(敬蔵)と幕臣西村泰翁を混同するという誤りを犯してしまいました。お恥ずかしい限りですが、この稿の最後に2人の人物像を補記しておきました。

浪士組参加者で確認できる人物は、筆者の調査では236人(池田徳太郎や石坂周造を除く)となる。現在の都道府県域別内訳では、推定も含めて群馬県56人、埼玉県55人、山梨県19人、栃木県13人、東京都15人、茨城県10人、千葉県7人、長野県6人、兵庫県6人、福島県、愛知県、熊本県が各5人、その他18府県34人となっている(後日浪士組士全員の県域名簿を載せる予定です)。

なお、これも推計ではあるが、脱藩者等浪士・浪人と称する人たち(武田浪人や郷士を除く)とそれ以外の人たち(農工商層)で比較すると、池田徳太郎が遊説した埼玉県、群馬県、栃木県の3県域では、浪士・浪人19人に対して、それ以外が105人となっている。これに対して3県以外の27県域の合計(不明含む)では、浪士・浪人63人に対して、それ以外が49人となっている。

以上のように、池田徳太郎は主に武州、上野、下野の義民(農兵)を徴募したのである。その池田は、浪士組江戸帰還後に行った建白書に、「俄に御集に相成候事故、玉石混淆仕候義は勿論に候得共、要之義気憤発、家産も妻子も抛遣り来り候心情、亦深く可憐事共に御座候、名は浪士と相唱候へ共、其実義民に御座候」と記している。


【補記】西村泊翁(敬蔵)と西村泰翁(河白)について

 西村泊翁(敬蔵)は但馬国養父郡八鹿村の人で、名は温、字は仲恭、泊翁は号である。文化10年(1813)の生れで、池田草庵に陽明学を、また江馬静安に蘭方医学を学び、京都富小路で医を業とした。コレラの流行時には、その治療法を発見して名を馳せたという。梅田雲浜梁川星巌清河八郎らと交わり、特に田中河内介と昵懇で、この河内介の妹を娶っている。河内介に清河八郎を紹介したのも、この西村泊翁であった。
 寺田屋事件や大和挙兵、禁門の変等に関係した志士たちの多くを、潜匿させ救護したという。維新後の明治16年(1883)には宮内省用掛に任ぜられた。同24年2月5日病没。享年は79歳であった。

 西村泰翁については、本文に記したように、陸奥白河藩阿部家の記録『公餘録』に「御出役」として「西村泰翁」の名があるほか、浪士組7番組平士高木潜一郎の「御上洛御供先手日記」の上洛後の記事に「目付、西村泰翁」とある。また、『東西紀聞』には通常の名簿の「7番大内志津馬」に代わって「西村河泊組」とある。西村泊翁と西村河白とは同一人物で、「御出役」とあるので幕臣だったと思われるが、これ以外の事実は現在のところ明らかにできていない。

なお、木崎好尚著『頼三樹傳』に、文久3年(1863)の春、頼三樹三郎の遺骸を長州藩士たちが改葬中に、三樹三郎を深く敬慕する幕臣松岡万が、その遺骸の腕を奪った事件の際、松岡が「同行の退翁に託して長州の士を説き、ひそかに一、二片を持ち去れりとぞ」、とある。この西村泰翁こそ、山岡鉄太郎や松岡万らと共に浪士組に出役となった人ではないかと思われる。

※本稿は『歴史研究』第626号(2014年11号)の特別研究に掲載された「文久三年の浪士召募に関する一考察」に、一部加筆修正を加えています。また、本稿等の内容は、2004年上梓の拙著『埼玉の浪士たち-「浪士組」始末記』が基底となっています。

【主な参考文献】
○『清河八郎遺著』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『東西紀聞』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『維新志士池田徳太郎』(澤井常四郎・広島県三原図書館)
○『埼玉県剣客列伝』(山本邦夫・遊戯社)
○『近世文人書簡集』(篠木弘明・俳文亭文庫)
○『蘭方医村上随憲』(篠木弘明・境町地方史研究会)
○『近世上毛偉人伝』(高橋周槇・吾妻書館)
○『下野勤皇烈士傳』(栃木懸教育會・皇国青年教育教會)
○『杉浦梅潭目付日記』(小野正雄監修・みずうみ書房)
○『幕末生野義挙の研究』(前嶋雅光・明石書店)
○『埼玉史談』(埼玉県郷土文化会)
○『頼三樹傳』(木崎好尚・今日の問題社)
○『贈位諸賢伝』(田尻佐・近藤出版社)
○『群馬県大田市史資料編』(群馬県太田市)
○『埼玉県桶川市史資料編』(埼玉県桶川市)
○『埼玉県小川町史資料編』(埼玉県小川町)
○『新選組日記』(菊池明、伊東成郎、山村竜也編・新人物往来社)
○『埼玉の浪士たち―「浪士組」始末記』(小高旭之・埼玉新聞社)