10 【浪士組発起と松平忠敏辞任に関する私論】

1 清河八郎大赦の建白
出羽国田川郡清川村(山形県庄内町清川・括弧内は以後も筆者の注記)の郷士清河八郎(本名・斎藤元治)は、醇乎たる尊王攘夷論者であった。文久元年(1861)春には、尊王攘夷党「虎尾の会」を結成し、横浜の異人街を焼き討ち、幕府を攘夷の実行に追い込もうとした。しかし、同年5月、清河自身が町人を斬殺したこともあって、この画策は頓挫した。その後の清河は、その年の冬には京都に上って田中河内介(綏猷)と謀議し、九州を遊説して再度の攘夷挙兵を企てたが、これも翌年4月の寺田屋事件で水疱に帰することとなった。

 関西での攘夷挙兵を断念した清河八郎は、今度は水戸の浪士を奮起させて横浜を焼き討つため、再び京都から関東に下った。このときの経緯については、清河が郷里の父斉藤治兵衛に宛てた文久2年9月21日付けの書中に、「拙者も元来今度東下の子細は(中略)薩摩士に相談、とても此儘にては埒明不申故、水戸の浪士を引出し、横浜を攘ひ候て早速事に可及申とて」東下した、と記されている。

薩摩の同志たちから200両ばかりを贈られた清河八郎は、同年8月24日に江戸に入り、「虎尾の会」の同志だった幕臣山岡鉄太郎らと密談。その3日後には江戸を発ち、翌閏8月9日に水戸に入った。ここで住谷寅之介(信順)や下野隼次郎(遠明)らと横浜焼き討ちを謀議したのである。その様子が、先の父宛ての清河の書簡に、「(横浜焼き討ちに)余程同意も御座候得共、そのうち公辺にて殊の外正方におもむき自然攘夷の風に相成、獄中のものも大赦の由故、その矢先に又々横浜騒動引起しては」却って「大赦の事もなるまじきと水戸にて論ありて」、正方に向かいつつある幕政を暫く見守ることとなった、と記されている。
清河八郎は、水戸藩士たちの意見に従って、横浜焼き討ち等の実力行使は当面見合わせることとしたのである。

水戸の住谷寅之介や下野隼次郎たちは、清河八郎のよき理解者であった。翌文久3年の春、浪士組に参加するために上府した根岸友山(武州甲山村の豪農)が、郷里の息子伴七に送った書簡に、「(2月)二日夜山岡、清川、水戸の角屋虎之助、久保田屋(根岸らの宿泊先)迄訪呉候。此人は桜田一件之元〆也。英雄ニ御座候、大愉快云々」等と記されている。住谷は清河らの浪士徴募にも深く関わっていたのである。

清河の父宛て書中に、「公辺にて殊の外正方におもむき」とあるのは、この年2月に行われた将軍家茂と皇女和宮の婚儀の決定に際し、幕府は朝廷に対して、武備の充実により、「七、八年乃至十年以内」の破約攘夷を約束し、将軍の上洛も発表されていた。また、5月には兵制改革と武備充実についての将軍自らの諭告があり、7月には朝廷の意向もあって松平春嶽が政治総裁職に、一橋慶喜将軍後見職に就任、8月には井伊政権を引き継いだ前老中安藤正信らが処罰されていた。

さらに、この年閏8月5日には、「徳川斉昭への贈官と大獄以来の殉難志士たちの復権」に関する朝旨により、故徳川斉昭正一位大納言が追贈されていた。清河八郎が水戸に入った当時は、水戸藩内は喜びに沸き立っていたことだろう。この大赦のことは、清河にとっても他人事ではなかった。前年の横浜焼き討ち計画と町人斬殺事件に関連して、愛妾蓮女と実弟、それに同志ら6人が投獄され、既に3人の盟友が獄死していたのである。もちろん、指名手配中の自らの大赦も重大事であった。

清河が文久2年3月3日付けで山岡鉄太郎に宛てた書簡に、「貴兄に相托候事は只々連座の人々也。何卒御周旋奉希候」と記し、その翌日付けで山岡が清河に宛てた書簡には、「獄中の者の儀、色々工夫を運し候得共、右者前の振合故策誠に六ツケ敷、出牢成兼苦心致し居候」、などと記されている。指名手配中で身動きの取れない清河に代わって、山岡鉄太郎が獄中の同志救解のために苦心していたのである。

そして清河八郎は、同年閏8月20日付けの父宛て書簡で、「江戸に於て(山岡たちが)大赦令の事も大に力を尽し罷在候云々」と記し、さらに「京師より右の通り御書付(7月勅使大原重徳が松平春嶽らに求めた十一ヵ条か)関東に罷下り、関東にても以前と大違ひ、有志の人は私に限らず大赦の事に及可申間云々」と記して、近く大赦が行われることになるだろうと伝えている。

清河八郎が時流に便乗して「幕府の執事に上がる書」を記し、住谷寅之介を介して江戸の山岡鉄太郎と土佐藩士馬崎哲馬(滄浪)に送り、政治総裁職松平春嶽に上書したのは、その数日後のことであった。その翌月21日付けで、清河が父親に宛てた書簡に、「(山岡鉄太郎が上書に関して)越前侯の方に手寄りもあるよし」とあり、10月28日付けの父宛て書簡には、「右上書を山岡氏自身持参、越前老侯春嶽公に差上候処、殊の外御受よろしく、いさい尤の至故、不遠大赦可致必す心配不致様との慥に御返答」があったとある。

上書は長文だが、そこには「夫れ草莽有志の感奮する所以は、未だ必ずや在上或は有志の感奮に由らずんばあらず。而して在上有志の感奮する所以も、亦未だ必ずや草莽有志の感奮に由らがんばあらざるなり。此れ乃ち上下相待ちて而して并び行わるるもの。今は大赦独り在上に行われ在下に達せざるは、亦豈無偏無党の道ならんや、故に方今の時天下の人心を安んぜんと欲せば疾く大赦を行うに若くはなし」などと、草莽有志たちの大赦が今日の急務である、と記されていた。

この年9月24日付けで間崎哲馬が清河に送った書簡には、「御上書の大赦一條御丈千万、今日第一の急務に候。早速山岡君と謀り春嶽公へ呈し、此書板倉、水野、小笠原諸閣老へ伝覧に相成候へば、近日大赦も相発し候様子云々」、と記されている。

この年の8月に、「諸大名幷に諸藩士、浪人等正義の徒の幕譴を蒙れる者を大赦せよ」、との朝命が既に幕府に達せられていた。翌月には幕府の命によって、水戸の大場一心斎、武田耕雲斎、山国兵部等々の謹慎が免ぜられていた。こうした状況のなかでの清河八郎の上書は、大赦を一般の浪士等へも徹底させようとしたもので、11月には広く大赦令が発せられた。

2 清河八郎の浪士召募の上書
松平春嶽周辺の動向を記した『枢密備忘』の文久2年9月8日の条に、「松平主税介殿罷出御相願清河八郎呼寄浪士鎮定之策を施すに付、犯罪之者へ逢対忌諱被触候故、何度趣之其上ニ而、周防殿も相伺度趣故御取次ニ而伺済、周防殿も御咄置可被成御答え」、とある。

清河八郎のその前月閏8月20日付け父宛て書中に、「殊に講武場教授方の輩五六人別て此方の事を心配、夫々手を尽くし呉誠に人情の厚き感入候」、とあるので、この5~6人の講武場教授方のなかの1人が松平主税助(忠敏)で、自ら進んで清河たちの救解に奔走していた可能性も否定できない。

しかし、複数残る清河の文久2年12月以前の書簡等に松平主税助の名は一切見い出だせず、清河と主税助との交際の事実は確認できない。おそらく、山岡鉄太郎が主税助に働きかけて、政治総裁職松平春嶽に、清河八郎呼寄せのことを願い出ていたと考えられる。春嶽と主税助は同じ徳川家康を祖として、周知の仲であった。また当時、主税助は講武所剣術教授方、山岡は剣術世話心得の職にあった。

『枢密備忘』によれば、松平主税助はその後も頻繁に松平春嶽を訪ねている。その9月18日の条には、「松平主税介殿被罷出隠状の徒党鎮定不容易趣内訴有云々」、翌月2日には、「松平主税介殿被罷出浪士扶助の件の事」、その4日後の6日には、「松平主税介来り浪士手当の儀嘆達」などとある。そして同月の18日、主税助は幕閣に対して「浪士付属の見込み」の建白を行ったのである。

この松平主税介の建白書には、「浪士共其儘差置被遊候而は此上何様之変事相働候哉難計、少しも早く御引付天下人心惣而幕府へ帰嚮上下一致候様御処置」が現在の急務であり、「来春御上洛之節此者を供奉有司中何れの部下に共御附被遊候て御召連れに相成候はば」、諸藩を始め京都大阪の人心も改まって、将軍警護の一助ともなるだろう、などと記されていた。

この年の夏以来、京都では天誅の嵐が吹き荒れ、将軍上洛を翌年早々に控えた幕閣たちにとって、浪人問題は最大級の懸案事項であった。主税助はその浪人対策に関して献策したのであ。通説ではこの主税助の建白は、清河八郎が背後にあって、山岡鉄太郎を介して画策したものであるとされている。

しかし、現在残されている、水戸滞在中の清河が父親に宛てた10月28日付け、及び11月1日付けの書簡に、この主税助の建白のことも、主税助が自分を江戸に呼び寄せようとしていることも、一切記されていない。筆まめで、親思いの清河である。その事実を知っていれば、真っ先に記して知らせたはずである。

さらに、先の10月28日付けの書中には、「(清河自身が)たとひ東都追放にても、東都側に住居も相成、かつ当時の勢ひ故京師に住居致度」、と記されている。このことは、その前月21日付けの書簡にも、「夫より(大赦周旋の後は)上京、薩摩の様子京の様子を見候上、慥に落付処取極め可申」とあるので、これらの書簡を見る限り、この頃清河の心中には、浪士徴募のことなど一切なく、自らの赦免のことさえ確信がなかったと推測される。

その清河が、松平主税助の建白より2ヶ月近く後の11月12日になって突然、「幕府大執権松平春嶽公に上る書」を記して建白したのである。前後の状況から、この建白も山岡鉄太郎の清河への働きかけがあって行われたと推測される。

この清河八郎の建白書の内容は、第1に攘夷の即時実行、第2に国事犯に対する大赦の実施、第3に天下の英材を募るべきである、という3項目であった。その第3については、「天下非常の士を集め(中略)幕下の豪傑卓犖の士両三輩を選び、以て之が総宰となし、更に之が一館舎を設け、基材に因りて之に俸禄を施し、(中略)先ず天下馳名の傑士両三輩を挙げ、此輩をして広く忠義節烈、栄偉倜儻の士を募らしめ(中略)上下斉一以て敵愾の志を練らば、則ち何の虜か攘う可からざらむ」、とあった。

第1の攘夷の即時実行といい、第3の天下非常の士を募って上下斉一、敵愾心を練れば「何の虜をは掃う可からざらむ」といい、清河八郎にとって、大赦と共に攘夷が最大の関心事であったことが明らかである。

その清河の先の10月28日付け父宛ての書翰には、「当時の形勢彌夷狄打払之事と相成り可申」とか、「その内合戦と相成可申、万その御覚悟にて御油断なく御取計可然奉存候」、などとある。攘夷督促の勅使三条実美らが、10月28日に江戸に到着していた。清河はこうした形勢からも、幕府による攘夷の実行が間近にあると確信しつつあったのである。清河八郎が、幕府を欺き幕府を利用して浪士を集めさせ、討幕のためにこれを利用しようとしたなどという通説は論外である。

余談だが、松平主税助の建白活動については、管見にして講武所の練兵に関するもの(勝海舟『陸軍歴史』中)と、蝦夷開発に関するもの(『定本松浦武四郎』下巻)しか確認していないが、後者は松浦武四郎の代書である。「浪士附属の見込み」も山岡鉄太郎あたりの代書だったと見るのは穿ち過ぎだろうか。

ともかくこの間の山岡鉄太郎は、清河とその同志の救解のために、並々ならぬ努力をしていたのである。清河はそのことに感じ入り、10月28日付けの父親宛て書中に、「春以来山岡党の働き実に感服之至、平生久敷深交致候次第なから重々珍敷事に御座候」などと、山岡に対する心からの感謝の念を記している。

3 浪士召募の決定と松平主税介の辞任
松平主税助の建白の内容に賛否はあったが、浪士の召募は12月8日の幕議で決定し、翌日主税助に「浪士の内有志の者取扱」が命じられた。同月19日には、主税助に尽忠報国に志厚き輩の召募の命が下った。そして、その5日後の同月24日には主税助の相役に、鵜殿鳩翁が就任している。しかし、翌年1月26日になって、突然主税助が浪士取扱の職を辞任し、同日付で中条金之助がその後任を命じられたのである。なおまた、その同じ26日付で、鵜殿鳩翁に対して、「京都え為御用被差遣候条可致意致」とする辞令が交付されている(『藤岡屋日記』)。

この松平主税助辞任のことについては、旧庄内藩士俣野時中が、明治28年(1895)12月の史談会で、「募った浪士は段々その人數を増やしてくる。石坂、池田両人は帰って松平主税介に復命するところによれば、少なくとも三百人、五百人はあろうかということで、主税介は驚愕してしもうた。(中略)石坂ら浪士を募集するには金がいるから、地方の豪家からよほど大金を出させました。また甲州土豪からも金を借用してきたから、これだけは返してくれ」と主税助に迫ったため、主税助は進退窮まって「浪士が集まるという2月4日に辞職してしもうた。」と証言している。

この俣野時中の話は、主税助の辞任の日も異なっているし、池田徳太郎や石坂周造が甲州を遊説したという事実も怪しく、相役の鵜殿鳩翁がありながら、主税助1人が進退極まって辞任するなど、矛盾が多い。さらに俣野はこの時の談話で、「最初募集の浪士は五十人であったから、是に給する費用が一人五十両づつ給付するという準備」で、総予算が2,500両であったと断言しているが、その根拠も不明である。

浪士掛目付杉浦正一郎(梅潭)の記した「浪士一件」の12月19日の条に、「其才知人柄により仕向之形色少も金銀も平均致し壱人拾人扶持之積先以弐拾人分も御渡金被下度候事」とあり、『続徳川実紀』の同月21日の条には、「浪士之内者引寄有之候ニ付而ハ、先百人扶持被下候積、可被取計候事」と、主税助に達したとある。しかし、これは当面の経費であり、主税助の建白書にある、「草莽有志之者共」を引き出すための「其党近きに在者」に要する経費だったと思われる。

だが、浪士組への応募者が幕閣や主税助の予想を大きく上回ったのは事実であった。それは清河八郎にとっても意想外のことであった。これは、清河が1月10日付けで仙台藩桜田良佐らに宛てた書簡に、「僕等は主税助を始め山岡及び松岡等を同伴、浪士のもの六七十人も相集め一隊に致し上洛致すべくとの事に相成り、彼これ多端申し難く計り候」とあり、それから9日後の同月19日付けの父宛て書簡には、「私儀当月下旬来月初旬迄諸有志引連百人計りも上京に御座候」、と記されていることでも明らかである。

俣野時中が先の史談会で、清河や石坂たちが「幕府にて五十人限りというても、三千人でもかまうことはなく募れ、(中略)かねての一挙をやる機会である」、といったとも証言しているが、そもそも50人限りという制約があったかも怪しい。なお、応募浪士の人数が清河八郎の想定を大きく上回った主な理由は、池田徳太郎による武州や上州等での義民(農兵)の募集にあった。その事実は、次稿「文久3年の浪士徴募活動の一側面」で詳述します。

浪士組への応募者が、幕府や清河の予想を遥かに上回ったため、幕府は上洛直前になって定員を300人と定めたらしい。浪士の1人高木潜一郎の「御上洛御供先手日記』文久3年2月の条に、「上京浪士三百人限り可為旨仰出候事」とある。浪士組が「三百人組」と呼ばれた所以である。

松平主税助(この当時は上総介)の辞任に関しては、後に浪士取扱に就任した高橋謙三郎(泥舟)の『泥舟遺稿』のなかに、「初め幕臣松平上総介に属す、諸浪士服せず」辞任したとある。また、石坂周造も明治33年11月の史談会で、「松平主税(助)という男が、(中略)浪士組の頭であった。然るに私共はそれを退けて鵜殿鳩翁を入れた云々」と語っている。俣野の談話内容とは異なる主税助の辞任理由である。

しかし、永倉新八の『新選組顛末記』のなかには、「上総介は当時上下に信望があつい器量人で浪人などから一種の崇拝をもってむかえられていた」、高橋や石坂の話とはと真逆のことが記されている。主税介は、後日清河たちの横浜焼き討ち計画を幕閣に密訴したともいうから、あるいは、高橋謙三郎や石坂周造は、主税助を快く思っていなかったのかも知れない。

松平主税助は、後に新徴組取扱に復職していることなどから考えると、辞職の理由は他にあったのではないかと思われる。それは、主税助が松平春嶽に提出した建白書の一節に関係しているのではないだろうか。主税助は建白書のなかで、召募した浪士を「御召連れに相成候はば、諸藩を始め京摂間の人心も之が為めに相革り御警衛の一助にも相成可申候」とか、「幕府に於て真実叡慮御遵奉被為在全く公武御一和光明正大の御処置にさへ相成候へば、薩長と云共為べき様無之」、と主張している。

また、この主税助の建白書に対する浪士掛目付杉浦正一郎が提出した意見書には、浪士の徴募は「世上之耳目ヲ一新仕、御政事変革尋常ニは無之段、京都は勿論諸藩江も自ら相響き、却而折合ニも可相成哉ト奉存候」、と記されている。

こうした松平主税助の建白書や杉浦正一郎の意見書の趣旨をより効果あらしめるため、幕府は主税助ではなく、鵜殿鳩翁に浪士を率いての上洛を命じたと思われる。鵜殿はペリー応接掛やハリス上府御用掛を勤め、安政の大獄の際には、一橋派吏員として井伊政権によって罷免・隠居の処分を受けた人であり、攘夷論者であったという。その一橋派吏員として井伊政権から処罰された経歴は、朝廷を始め攘夷派浪士たちから、好感を以て受け容れられるだろう、と幕閣たちは考えたのではないかと思われる。

浪士組を率いて堂々の上洛を期待していた主税助は、当然江戸に残って、遅れて駆けつけてくる浪士たちを収容する立場となる。主税助は不満だったに違いない。ちなみに、先の清河八郎桜田良佐ら宛て1月10日付け書簡に、「僕等は主税助(中略)等を同伴浪士のもの」を引連れて上洛することになったとあったが、清河もこの時点では主税助が上洛するという認識だったのである。

松平主税助の辞任の日と中条金之助の浪士取扱就任、それに鵜殿鳩翁への浪士を率いての上洛命令が同日となっているが、幕閣が鵜殿の上洛を検討中に、それを知った主税助が不満を表明したため、主税助に対する慰撫説得が行われたものの、主税助がこれを聞き入れずに辞任という結果になったと推測される。

鵜殿鳩翁は翌2月8日、浪士230余人を率いて堂々上洛した。『東西紀聞』に載る鈴木半内の書簡に、「世話役之内ニ而清川八郎儀万端一人ニ而差配致居候由」とある。清川八郎は、浪士の集団のなかにあって、形の上では浪士取締役山岡鉄太郎の付属だったが、実質は浪士頭取として行動していたのである。浪士の一人柚原鑑五郎の日記にも、「羽州浪人清川八郎山岡に付属す」とあり、高木潜一郎の日記には、「浪士頭取清川八郎」と明記されている。

【主な参考文献】
○『清河八郎遺著』(日本史籍協会編・東京大学出版会)
○『東西紀聞』(日本史籍協会編・東京大学出版会)
○『続徳川実記』(黒板勝美国史大系編修會編・吉川弘文館)
○『杉浦梅潭目付日記』(杉浦梅潭・杉浦梅潭日記刊行会)
○『史談会速記録』(史談会・原書房)
○「浪士一件」(杉浦梅潭文庫・国文学研究史料館蔵)
○『土佐維新史料』書翰編(平尾道雄編・高知市民図書館)
○「柚原勘五郎日記」(清河八郎記念館蔵)
○『新田町誌資料編』(群馬県新田町)
○『泥舟遺稿』(安倍正人編・国光書房)
○『維新史料綱要』(東京大学史料編纂所東京大学出版会)
○『埼玉県史研究』第8号(県民部県史編さん室・埼玉県)
○『近世日本国民史』(徳富猪一郎・明治書院)
○『新撰組顛末記』(永倉新八新人物往来社)
○『新選組史録』(平尾道雄・白竜社)
○『清河八郎』(大川周明・文録社)
○『清河八郎』(小山松勝一郎・国書刊行会)

 ※本稿は『歴史研究』第620号(平成26年4月号)に、特別研究「浪士組の発起者は清河八郎ではなかった」として掲載されたものの一部を加筆修正しています。