13 【浪士組の京都における建白活動について】

1 清河八郎ら上洛浪士たちの真意

文久3年(1863)の春、幕府召募の浪士組に参加し、道中目付として上洛した中村維隆(旧名草野剛蔵・括弧内は以後も筆者の注記)の自叙伝に、「今日吾人が枉けて徳川氏に属し、其供給を受くる所の所以は徳川氏にして攘夷鎖国の勅旨を奉じ、之を断行し、挺身之を援け、又進んで其先鋒に当らんとする為なり」とある。また、浪士頭取扱清河八郎が同志安積五郎に宛てた文久3年2月28日付けの書簡にも、「於幕府攘夷之雄断相決候為、此方始別紙之通り罷出今度山岡及池田其外旧同志トモ上京壬生寺ニ罷在候」、と記されている。

幕府は万延元年(1860)10月、皇女和宮の将軍家茂への降嫁決定に際し、「当節より七八年乃至十カ年」以内の攘夷鎖港を朝廷に約束していた。また、浪士組上洛の前年12月には、攘夷督促の勅使三条実美に対して、幕府は「勅諚の趣畏り奉りぬ、策略等の儀は(中略)上京の上委細奉聞し奉るべし」と奉答し、その「(攘夷の)策略の儀」を奏上するため、将軍自らが上洛することとなったのである。

しかしその実は、福地源一郎が『幕府衰亡論』に、「幕府は驚愕狼狽して措置の出づる所を知らず、唯々京都の命ずる所は実行し得べきと否とを問わず、これを領承して、以て一時の安を偸み、この急場さえ凌げば後はまたどうか成るであろうと云う、その日送りの工夫に過ぎざるなり」と記すように、海外情勢を認知する幕閣たちに、攘夷鎖港の意思などはなく、朝廷に対して方便を以て奉答したのであった。

だが、清河八郎ら浪士たちは、勅使に対して、将軍自らが上洛して攘夷の策略を奏上すると誓った幕府を信じ、その浪士の召募に協力し、挙って参加上洛したのである。
東久世通禮の『竹亭回顧録維新前後』に、在京の浪士たちは「一橋(慶喜・将軍上洛の事前調整のため文久3年1月5日入京)越前(松平春嶽・2月4日入京)が登らば即座に攘夷の期限も極り、実行の出来るものと思い込み、其時は何れも先鋒の任に当らふと一日千秋の思ひをして待って居った」とあり、清河八郎たちと同様、幕府の鎖港攘夷の勅旨遵奉を信じ、期待した在京の浪士たちもいたのだ。しかし一方で、多くの在京浪士たちは、「幕府の重職相継いで上京し、やがて上洛せば、或は形勢一変して公武合体派勢を得んも測られず」(『徳川慶喜公伝』)と危惧していた。これは正に、幕府が将軍上洛に託する真意であった。

1月11日には、長州の久坂玄瑞ら7~8人が、上洛した一橋慶喜の舘に押しかけ、「速に攘夷の期限を一定すべし」と迫ったが受け容れられなかったため、「此人にして尚此の如くんば、たとひ将軍上洛すとも攘夷実行の意なきや知るべきのみ」(『徳川慶喜公伝』)と、久坂たちは幕閣たちの心底を見抜き、以後尊攘過激派志士たちの跳梁は一層激しさを増すこととなったのである。

上洛以前の清河八郎たちにも、在京の同志等から、こうした京都の情況は伝えられていて、浪士組の立場が微妙になっていることを承知していたのだろう。しかし、清河が父親に宛てた4月14日付けの書簡に、「関西の浪士此方共の御召出に相成候事しかと存不存為、議論沸騰云々」とあり、在京浪士たちの幕府とそれに従う清河たちへの不審は、清河たちの予想を遙かに上回っていたのである。

2 浪士組の学習院への上書

清河八郎ら浪士たちが行った、上洛翌日(2月24日)の学習院への上書は、朝廷や在京の志士たちに対し、自らの立場を釈明するためのものであった。中村維隆は明治36年(1903)3月の史談会で、「どうも主意書を出さなければ、浪士一体の決心が朝廷にわからない。朝廷のみならず各藩の者も大きに疑っておる。幕府のために上ってきたものか、あるいは王城を保護するために来たものか何かわからぬという疑いを受けておる。ついては吾々の素志をまっとうするには十分の建議をしなければならぬ」、という清河八郎の主張により、「みな集まって、そうして清河があの文書を認めた。誰あって異議を言う者はなかった」、と語っている。

この24日に学習院へ行った上書は、その冒頭で、「今般私共上京仕候儀者大樹公上洛之上、皇命を尊載夷狄を攘斥する之大義御雄断被遊候事に付、草莽中此迄国事周旋之面々は不及申、尽忠報国之志有之者(中略)則其召に応じ罷出候」と、朝旨を遵奉して、夷狄攘斥を決意した幕府の召募に応じて上洛したことを強調している。

しかし、上書にはさらに、万一幕府が因循姑息にして攘夷の朝命に従わないようであれば、幕府に対して「私共幾重にも挽回之周旋」をした上で、それでも幕府が朝命に従わなければ、寒微の私たちで誠に恐れ入ることではあるが、「尽忠報国抛身命勤王仕候旨意に付(中略)何方成共尊壌之赤心相達候様」に、朝廷が直接指示していただければ有り難き幸せである、と記している。勅命に従い攘夷断行を約束した幕府が、因循姑息にその約束を破るようであれば、朝廷の直接の命によって浪士組が攘夷の先鋒になるというのだ。

そして上書文にはさらに、「右に付幕府之御世話にて上京仕候共、一点之祿相受不申候間、万一皇国を妨げ私意を企候輩於有之者たとへ有司之人たり共聊無用捨遣責仕度、一統之赤心に御座候」、とまで記されていた。その主張は、洛中に暗躍する尊壌過激派浪士のそれと変わりないもので、清河ら浪士たちの朝廷への誠忠と、覚悟の程を表明するものであった。浪士たちの意中は尊攘の一点にあったのである。

なお、近藤勇が郷里の小島鹿之助に宛てた2月26日付けの書簡に、「浪士一同之趣意之趣去ル廿六日小皇帝学構江奉差上、朝廷ニも尽忠報国奇特之趣被仰下候云々」とあり、浪士組士柚原鑑五郎の同日の日記にも、「河野音次郎、和田理一郎、宇都宮左衛門、草野剛蔵、西恭助、組方一同連名之上書学習院天子御学問所江指出候」とある。しかし、これはこの日朝廷に推参した中村維隆自身が、先の明治36年3月の史談会で、「(上書は)二十四日に差出して二十六日に催促に行ったのです」、と証言している。恐らく、24日の上書嘉納の旨を確認に推参し、再度同じ上書文を呈出したのではないかと思われる。

また、元庄内藩士股野時中が明治28年12月の史談会で、24日の上書に対して同月29日に、朝廷から浪士組に勅諚が下されたとして、その席上で勅諚と関白の達文を示している。しかし、これは『孝明天皇紀』の同月18日の条に、「今日上京諸大名小御所御対面被仰渡し演舌書二通交名一通入覧云々」としてある2通と同文である。先の近藤勇の書簡にも「朝廷ニも尽忠報国奇特之趣被仰下候」とあるので、日付けは異なるが、朝廷から上書嘉納の示達があり、その際併せて、先の諸大名への演舌書が下げ渡されたのだろう。

3 浪士組の学習院への上書(2)

 2月29日、浪士組は再び学習院へ上書している。この上書文でも、まずその冒頭に、「謹で草莽微臣上言奉候趣旨は方今国家有為之時、幕府御上洛被遊候大義御英断は全く尊王攘夷之儀と奉存候」と、幕府が大義(皇命を尊載夷狄攘斥)を英断したことを強調している。浪士組自らの立場の正当性の強調に他ならない。

 上書は続いて,「抑尊王之道は四海をして普天之下王土に非るは無く、率土浜王臣に非る無しとの趣旨を広く御示し遊ばされ」と、尊王弘通を説き、さらに(1)幕府、諸藩、庶民に至るまで朝廷に貢物すること。(2)幕府は国事周旋、刑政得失の議論に至るまでその都度叡覧に達すること。(3)御親兵設置のこと。(4)攘夷断行之事。(5)攘夷のため非常の人材を募ること、などのことが記されている。

これらの主張は、在京の尊攘過激派浪士たちの主張そのままであるが、御親兵の設置に関しては、この上書では、「御親兵の儀は、一橋卿幷に会津侯以御両君天朝御真実に御尊奉の御事体を奉顕征夷府の御職掌御主張被遊候ハハ、天下の人心奉感服云々」と記されていて、在京浪士たちの主張とは異なっている。この御親兵のことは、前年勅使三条実美が下向の際、攘夷奉勅と共に幕府に求めた事項であった。三条ら過激派公家と尊攘派浪士たちは、御親兵を設置し、皇権恢復のための兵権を朝廷に帰そうとしていたのである。

 当時、在京の尊攘派志士たちの御親兵への感心は高く、土佐の間崎哲馬が、3月1日付で清河に宛てた書簡にも、「親兵其の外急務建白の委曲、拝聴仕りたきものに御座候」とある。また、長州藩毛利家の記録『世子奉勅東下記』の3月1日の条には、「伊藤俊輔、吉村虎太郎、江戸浪士党清川八郎へ往き談す。御親兵の設置の周旋を依頼す。八郎諾之、一橋卿へ建白して成否を報道すべしと約之」とある。

清河たちの29日の建白の後のことであるが、後述する3月5日に清河たちが幕府に呈出した建白書に、「去秋己以来親兵差上候様自朝廷御下地之処、於幕府未だ御裁判無之以云々」などと種々述べた後に、御親兵は急務のことであるので、「列藩に御命じ被遊候とも、又は於幕府御人数被差上候とも、又は会津侯より御人数差上候とも」朝廷が安堵するよう早急に手配すべきである、と記されている。このことは、尊王攘夷一辺倒の清河たち浪士たちに、在京過激派浪士たちのような反幕的考えのなかった証左でもあろう。

また、清河ら浪士たちは上書中に、攘夷断行の具体的方法論として、条約締結各国に「醜夷拒絶の大意断然利害の二つを御諭し被遊」、それでも我が国の主張を拒むのであれば、五カ国公使の面前で前老中安藤対馬守と久世大和守に切腹させれば、いかなる不厭の性質の夷狄といえども、我が国の交易拒絶の主張を拒むことはできないだろう、と記している。その是非や実現可能性はともかく、清河ら浪士たちは、武力による一方的な夷狄攘斥が目的でなかったことが明らかである。

4 浪士組の幕閣への建白(1)

 浪士組が朝廷に再度の上書をした29日の浪士組士高木潜一郎の日記、及び中沢良之助の覚書に、「御攘夷之儀切迫に及び候間、存じ寄り申立度、人々新徳寺本堂へ集会為有之度云々」との廻状が書写されている。この日の柚原鑑五郎の日記には、「廿九日松平春嶽殿より御渡之書付(中略)同日一橋卿重役より□心得もて左の通申来る(中略)此日又連名之上書左之通」、と記されている。

 松平春嶽一橋慶喜と老中連名で浪士組に届いた書付とは、前日幕閣から在京諸侯に下された、横浜港にイギリス軍艦が入港し、生麦事件の賠償を求めているが、何れも許容し難く、直ちに戦端を開かんも期し難いので、藩屏の任にある者は自国に於いて戒厳すべし、というものであった。

この2月の19日以降、前年8月の生麦事件の賠償等を求めて、12隻の英国軍艦が横浜に集結し、応じなければ横浜、長崎、函館の3港を封鎖して江戸を焼き払うと通告していたのである。江戸は大混乱に陥り、京都でも開戦に備えて諸侯に帰国命令が出されたのである。その諸侯への書付と共に、幕閣たちから、この日浪士組に意見が求められていたのである。

 29日夜の新徳寺本堂では、浪士たちの間で激しい議論があったらしく、1番小頭根岸友山の「御用留」のこの日の条に、「各異見も之有、大評定、今日大風雨」とある。清河八郎一派と近藤勇芹沢鴨たちの間の論争だったらしいが、幕閣への浪士組の意見書は翌日呈出されている。浪士掛目付杉浦兵庫頭の日記に、「二月三十日、浪士上書岳公ヘ上ル」とある。この意見書の冒頭には、「(英国が)申立の三カ条共一切御許容これ無く直ぐ様拒絶遊ばされ候廟議の由、御雄断の程天下人民雀踏感喜奉り候云々」とあって、清河ら浪士たちは事実誤認をしていた。幕閣たちは、この時まだ対応を決しかねていたのである。

 清河たちの意見は、攘夷は「我が全国一統の大義」であるので、「正々堂々の御議論にて拒絶の応接仕度」とした上で、「(英国の賠償要求が原因で)拒絶之姿に相成候ては、万国之議にも相成我全国之本意相徹申間敷候間、生麦は生麦の事、攘夷之事は自ら御占別被遊度」と、わが国の世論である攘夷と小事の生麦事件とは別に考えるべきであるとしている。生麦事件のことは、幕府が攘夷断行と決すれば、例えその事で英国が戦端を開いても何等問題にならず、また薩摩藩への処分は国内問題であり、将軍家で処断するのでなければ、将軍の任職が立たなくなるとしている。

 そのため、「於将軍家攘夷之詔御奉載之上」、速やかに江戸に戻って条約5カ国の公使たちを集め、断然拒絶期日を限り、横浜及び諸夷館を引払うよう命じ、例えどの様に申し立てようとも、決して取り合うべきではないとし、これが「浪士一統之見込に御座候」と述べている。そして、さらに文末には、「御拒絶相成候上は、戦闘之覚悟は勿論之儀に付、全国防御之処置、臨時応変之策略等は、猶又工夫之上言上可仕云々」と記している。

5 浪士組の幕閣への建白(2)

 浪士組浪士高橋常吉郎の日記に、「三月五日浪士学習院江上書」とする上書文が筆写されている。また、山岡鉄太郎開基の全生庵発行『鉄舟居士乃真面目』にも、これと同文の文章が「幕府へ建白書草稿」として収載されている。ここには「己下清川八郎氏筆跡」とあって、日付けは記されていない。その内容から幕閣に宛てた3月5日付の建白書であることに間違いない。

 浪士組が朝廷に行った第1回目の上書に、「公武隔離之姿に相成候は、私共幾重にも挽回周旋可仕候」と記した通り、清河たちは公武一和のための建白を幕府に行ったのである。この建白書にも、その冒頭に24日の学習院への上書と同様、「此度於幕府尊攘之大盛事御決議被為在候為、天下諸浪士中尽忠報国之者広く御召募御採用被遊候趣意ニ付、私共儀乍不及其事周旋可有之との思召ニ拠リ上京仕候」と、奉勅攘夷を幕府が決断したからこそ、自分達は幕府の召募により上京したのであると、自らの心事と立場を強調している。

この建白書は、前日4日に記されたと思われるが、この日は将軍家茂が入京した日であり、同時に浪士組掛目付から浪士組に対して、「(イギリスと)速ニ戦争可相成事ニ候、浪士共早々帰府致シ江戸表ニ於テ指図ヲ受、尽粉骨相勤候様可被致候」と、江戸帰還命令が出た日である。清河ら浪士たちは、いよいよ攘夷の先鋒の時至れり、と欣喜していたのである。しかし、清河たちは同時に、朝廷や在京の尊攘派浪士たちに誤解されたまま江戸に戻ることを憂慮してもいたのである。

 建白書には、そのことが、「此地諸浪士共儀議論沸騰御趣意向未だ徹底無之、只々嫌疑之姿に相見え、於私共も当惑仕候」、と率直に記されている。幕府が勅命に従って早々に攘夷を布告しないため、幕府の立場は勿論、攘夷の先鋒を期して上洛した自分たちの真意が、在京の有志たちに理解されずに当惑している、とその苦衷を訴えているのである。

建白書にはさらに、「尊攘之事実片時も早く御遵奉被為在度、左も無御座候はは此迄御苦心被遊候事無益と相成(公武の間も)自然分拆離隔之基と奉存候云々」と、一時も早く攘夷を布告しなければ、これまでの幕府の苦心も水泡に帰し、公武離間となってしまうので、「速に(攘夷断行を)御雄断信義を天下に御示し、列藩一致候様仕度、(幕府の)眼前之御務左に條列仕候」と記し、攘夷の即時実行と共に幕府の当面の急務を列挙している。

長文のため項目のみ掲げると、第1に親兵設置の件、第2に伊勢神宮警護強化の件、第3に賀茂神社行幸伊勢神宮参宮の件、第4に洛中洛外及び御所の警備等は会津藩一手で行うべき件、第5に朝廷御賄料御増加等の件、第6に大阪城防御の件、第7に浪士御召募の件、第8に浪士組の速やかなる東帰と攘夷のための壮健強勇の者の徴募の件、の8項目にわたっている。そして、その文末は、「尚於関東臨時之策略士気鼓動之術は、東下之上其筋へ急速可申立、右在京中之急務而巳建言仕度云々」と結ばれている。

6 浪士組の幕閣への建白(3)

 浪士組が幕閣に提出した建白書は他にもある。一つは足利三代将軍木造梟首事件(2月22日発生)の犯人の寛宥に関するもので、日付けは定かでない。一説に河野音次郎が書いたともいう。

この建白書には、「右(捕縛された浪士)者忠憤激烈之至情より相発候義に而、悪少無頼之所為とは相違仕候義、右様厳重御取計に相成候より諸藩人心甚沸騰」との巷説もあり、将軍上洛前に異変が生じないよう、犯人たちを出獄させ、「長州、土州両家之内へ御渡に相成、其之邸内に愛育致置、他日尊攘之用に供」すべきである、などと記されていた。長州藩土佐藩の志士たちは京洛騒乱の元凶であり、明らかに幕府の立場に反する建白であった。

浪士組が幕閣に提出したらしいもう一つの建白書は、小池藤五郎編『政治総裁職松平春嶽幕末覚書』に収録されている。この建白書(意訳・原文未確認)にも、関西での人材登用のこと、一橋慶喜らの大阪城在城による天朝守護や然るべき諸侯による若狭の守衛、尊王の処置決議と会津公への取計らい一任のことなどの献策がなされている。

また、「私共鵜殿鳩翁組は、江戸に移りました上は、一方の御固めを仰せつけられ、尽忠報国の御奉公を勤めよとの仰せ、鳩翁組一同の面目」であるとし、「尊王攘夷のことは一時も猶予できず、これを行わなくては天下の人心が幕府に心服しない形勢」にあるので、第1に尊王の道を立て、第2に攘夷の実を行う廟議がなければならない。尊王の御英断を以て将軍家は御上洛されたのであるから、速やかに攘夷を御決断になり、天下に御布告を願いたい、と訴えている。

こうした浪士組の「挽回の周旋」にも拘わらず、幕府が攘夷断行を布告することはなかった。憂慮した浪士取締役山岡鉄太郎は3月9日、幕府が直ちに攘夷を布告するよう、浪士掛目付池田修理にその周旋方の願書を提出している。山岡は願書の中で、「予て願奉候醜夷拒絶期限之儀、諸藩未だ一向相信じ申さず候、断然(攘夷の)御布告之無き事と大いに疑惑申し居り候故、何事も説破に及び難く候間」、とその苦衷を述べている。

そして、一昨日将軍が参内したにも拘らず、今以て攘夷の大号令が布告されていない。そのため幕府に真の攘夷の決意がないのだと、長州や土州始め諸藩の有志たちも皆不平を鳴らしているので、直ちに(「今日中是非」ともある)全国に攘夷の大号令を布告するようにと、幕閣への周旋を強く要請している。

 2月7日、将軍が参内し、天皇から庶政委任を受け、関白からは「征夷将軍の儀是まで通り御委任遊ばされし上は、叡慮を遵奉し、君臣を正、闔国一致して攘夷云々」との沙汰を受けていた。山岡や清河たちは、すぐさま幕府から攘夷の大号令が発せられると期待していたのに、一向その気配がなかったため、業を煮やしての願書だったらしい。

 しかし、その後も幕府が攘夷の大号令を発することはなかった。そのため、清河たちは江戸帰還後に止むを得ず、独自での攘夷断行を決意することになるのである。
清河八郎が幕府を騙して浪士を召募させ、自らの用(攘夷或は倒幕)に充てようとしたとするのが通説である。しかし、実は清河八郎、特に幕府による攘夷の実行を期待して集まった浪士たちが、幕府に騙されたのである。


【主な参考文献】
○『清河八郎遺書』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『七年史』(北原雅長・続日本史籍教会叢書・東京大学出版会)
○『幕府衰亡論』(福地源一郎・平凡社東洋文庫)
○『徳川慶喜公伝』(渋沢栄一平凡社東洋文庫)
○「世子奉勅東下記」(兼重譲蔵・『史籍雑纂』第四収載・続群書類聚完成會)
○『竹亭回顧録維新前後』(東久世通禮・続日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『土佐維新史料』書翰編(平尾道雄編・高知市民図書館)
○『杉浦梅潭目付日記』(小野正雄監修・みずうみ書房)
○『公明天皇記』(宮内省先帝御事績取調掛編・平安神宮)
○『史談会速記録』(史談会・原書房)
○『鉄舟居士乃真面目』(全生庵)
○『政治総裁職松平春嶽幕末覚書』(小池藤五郎篇・人物往来社)
○『新選組資料集』(新人物往来社編)
○『新選組日誌』(菊池明、伊藤成郎、山本竜也編・新人物往来社)
○「高木潜一郎日記」(『新田町誌』資料編収載)
○「柚原鑑五郎日記」(清河八郎記念館蔵)
○「中沢貞祇覚書」(『上毛剣術史』所載・煥乎堂)
○「高橋常吉郎日記」(清河八郎記念館蔵)
○『新選組史録』(平尾道雄・白竜社)
○『清河八郎』(小山松勝一郎・国書刊行会)