9 【庄内藩脱藩士水野行蔵小伝】

1 その人となりと生い立ち

 元館林藩士で、青森県参事などを勤めた塩谷良翰の『回顧録』に、「安藤閣老其(大老井伊直弼・括弧内は以後も筆者の注記)の跡を承け志士皆其為す所を怒り、人心恟々たり。塩谷宕陰、水野行蔵、其外慷慨憂国の名士屡々来りて時事を論じ、謀議する所あり。」と記されている。ここに名のある塩谷宕陰とは、老中水野忠邦の顧門を勤め、後に幕府の儒官となった碩学である。

その宕陰と共に慷慨憂国の名士として名のある水野行蔵については、文久2年(1862)に塩谷宕陰と共に幕府の儒官に抜擢された安井息軒が、老中格小笠原長行の諮問に答えた「明山公に答ふる書」に、「忠実にして才気も有之本気に天下之事を憂候者」として、「藩中ニ而者は水野行蔵、金子与三郎、三浦五助、草莽ニ而者田口文蔵等」と名前を挙げた上で、さらに、「此者共各長短得失御座候得共、執れも忠実にして百人に勝候才略御座候、中ニも水野は勝候様見請申候」と記している。

 安井息軒が、「忠実にして百人に勝候才略」のある金子与三郎、三浦五助、田口文蔵たちより更に「勝候様身請」られるとした水野行蔵とは、庄内藩脱藩の士である。本姓は上野、幼名は重助、通称は禎蔵。字は図南、諱は曲直、鵬と号した。水野行蔵は脱藩後の変名である。

 水野行蔵は文政2年(1819)5月5日を以て、鶴岡上下最上町に、足軽組外上野猪蔵の長男として生まれた。文武修行の詳細は不明だが、元庄内藩士股野時中が明治28年(1895)2月の史談会で、「上野禎蔵の家は、金には不自由のない頗る贅沢を極めて居った様子でございます。家は余裕がございましたから、上野も当時藩に於いては普通以上の教育を受け、漢学にも通じて居ったと云う事でございます。」と語っている。

さらに股野は水野の学問について、「漢学の一点に就いて申せば、上野禎蔵は経書その他古書を読むに注解を見ずして、只本文を見まして、仮令間違うとも自分の意見を以て解釈」し、友人が誰々の解釈にはドウあると言っても、それは更に聞かずに、「彼は一己の解釈であるから、自分の意見も一己の解釈である」、と言って譲らなかったと語っている。学問に対する自信以上のものを感じさせる逸話だが、世人の毀誉褒貶に頓着しない剛直さがあったらしい。

 水野の甥上野友三郎が記した「上野家勤書」によれば、水野は天保6年(1835)、17歳で御役所見習役となり、同12年御帳番として5石2合扶持を給された。同14年御帳付代として辻順冶に従い下総国印旛沼御普請御手伝場に出張、翌年3月帰郷し、弘化2年(1837)6月には郷方改役、その翌3年正月には大津方役に就いた。しかし、それから7年後の嘉永6年(1853)正月、水野は隠居禁足を申し渡されたのである。

2 脱藩上府

 水野行蔵に対する隠居禁足の申渡書には、「放蕩亡頼其上身分不相応之品等相奢風説不宜敷趣ヲ以」とあった。この隠居謹慎処分に関して、後年水野と深い親交のあった幕臣澤簡徳(勘七郎)の記した「水野行蔵事績」(以下「事績」という)に、「当時有志輩評セリ、之猜疑ノ為ナラント、本人モ亦斯ノ如キ辞ヲ以テ罰セラルルノ所為有ルヲ覚エスト心底自若タリ」とある。

その猜疑の内容について、旧庄内藩加藤正之の談話として、水野は「経世の才を抱き、論策する所多きも、藩庁一人の之を理解するなく、却って徴賤の身を以て徒らに政治を是非するものとなし、軽侮圧迫を加うるに至れるを以て、韜晦して其難を避くるに如かずとし、故さらに品行を乱し、驕奢を装い」、敢えて藩庁の処分を招くよう、花柳の巷に出入りし、楼上に朱塗りの据風呂を焚かせたり、節分には黄金の豆撒きをするなどの放蕩を行ったとある。

水野は藩政刷新のため、様々な献策を藩当局に呈出したのではないかと思われる。佐幕一辺倒の保守的な庄内藩では、軽輩微賤の分際で藩政に容喙するなど思いもよらない。周囲からも白眼視され、藩政の刷新に絶望したのだろう。翌安政元年(1854)12月、水野は妻子を国に残し、温海温泉に湯治に行くと偽って脱藩、江戸に上った。

水野は攘夷論者であった。それは晩年になっても変わらず、慶応3年(1867)7月に水野が甥清水増之助に宛てた書簡にも、「江都兵庫開港抔之噂有之候、西洋好き姦吏之念中可悪事に御座候」と見える。水野が脱藩した年、米国等との間に和親条約が結ばれている。脱藩はそのことにも関係していたのではないかと推測される。

上府後の水野は、旗本佐野日向守(2,000石)の家臣で叔父の高橋清助の家に寄寓した。翌年10月6日付で、その4日前に発生した安政の大地震の惨状と、自らの無事を郷里の妻に伝えた水野の書簡に、「(2日)夕方過林図書殿より帰り食事仕舞、塾中少年の文章など添削致候得ども」とか、「翌三日(中略)林図書之助え参る(中略)上書の相談もと存参見候処、図書殿実母八代洲河岸林大学頭殿妻地震にて殿屋長屋とも潰れ圧死外家来十四五人同様と申に付相談にも居りかね一寸逢候て引取」とあるほか、この日その後「筒井殿屋敷え入候得者痛は佐野殿より少々増候位潰れ候」とか、「夫より相馬候の邸え見舞」などと記されている。

ここに記される林図書之助とは、第二林家の家督を継いで幕府儒官となった林鶯渓である。その父八代洲河岸林大学頭とは、第11代大学頭林復齋であり、アメリカのペリー提督と主席全権委員として和親条約の締結交渉を行った人である。筒井殿とは、この当時ロシアのプチャーチンと和親条約の締結交渉に当たっていた筒井肥前守政憲と思われる。また、相馬候とは、当時寺社奉行を勤めていた相馬中村藩主の安藤信正である。

水野は上府後1年にも満たないこの時、錚々たる幕臣たちの屋敷に出入りし、さらに、林図書助を介して幕閣に建白書を提出しょうとしていたのである。これらの様子からも、志を抱いての脱藩上府だったことは疑いない。後年水野が庄内藩の捕吏に縛せられた際の口上書(以下「口上書」という)には、「私儀天下ノ御為ニ相成候様致度ト心懸候モノニモ自力ニテ出来候事ニモ無御座候間、其人ヲ得候テ私申処採用ニ相成候者直ニ御為ニモ可有之ト相心得候云々」とある。また後年、澤簡徳が水野の甥清水敬典にあてた書簡にも、水野が国事に尽力したことは自分も熟知しているが、水野も自分も特に「幕府末路万一大乱ニモ立至ナハ国家安危ノ岐ルル時ト」苦慮したと記されている。

3 堀織部正に陪従する

 佐藤三郎著『庄内藩酒井家』等には、水野が林図書之助の塾に入ったとある。しかし、明治28年2月の史談会で、旧久留米藩士佐田白茅が、「私はその(林図書之助)塾に入りましたが、その時水野行蔵君が毎日来られて、時に塾生を連れて旨味い物を喰はせることで、余程大胆な人の様でありました。」とか、「林図書之助或る夜水野行蔵の話しがあったが、あれは庄内藩の探偵であるまいかと云う事でありました。」と語っていることなどから、水野の林家への出入りは、図書助に贄を執ったのではなく、幕政改革の手段を得るためだったと思われる。

 安政3年正月2日付で、水野が郷里の長男寛に宛てた書簡に、「当年(堀織部正に)陪従函館エ罷候積、右ニ付同屋敷受取候而旧臘廿八日引移申候(中略)勤方ハ在府年ハ堀侯ノ嫡庶並家中ノ子弟教授外鎮台手元用取扱候テ斥ハ用人席誠に客分同様御坐候云々」とあり、二月下旬には箱館へ渡る心算であることなどが記されている。また、同年5月2日付の清水増之助宛て書簡には、「小生モ貳月貳拾七日江戸出立、参月貳拾五日箱館着、称名寺ト申ニ四月五日迄旅館其後御役所引移至テ無事罷在候」とある。

 水野が陪従することとなった堀侯とは、函館奉行堀織部正利煕である。海防掛目付であった嘉永7年6月から7月にかけ、北蝦夷地(樺太)を巡見して幕閣に詳細な報告書を呈出、7月には函館奉行に任命されていた。

安井息軒が平部良介に宛てた安政2年4月28日付書簡に、「(堀織部正が)公儀にも為差人物も無御座候故、当其器候者御座候はば、陪臣浪人中よりも被召出候様被申立御聞済成候由、堀は余程之人物と相見候」とある。堀は函館着任に際して、優秀な人材を在野からも登用しようとしていたのである。水野の堀織部正陪従の経緯はこの辺にあったのだろう。

先の5月2日付の清水増之助宛書簡に、水野は函館着任直後の日々の様子を「鎮台手元取調べ懸諸向取締ノ命ニテ(中略)鉄砲馬打調練ノ稽古シキリニ致シ身体ノタメ別ニ宜、文事ハ勿論間断ナク致シ居候」、「鎮台巡見有之、小子ハ右等ノ度毎定式付添候付、所々一見致候」などと記している。水野は蝦夷地開拓に関する献策も積極的に行ったらしい。

この年12月付の建言書の草稿には、人材(「浪人百姓町人たりとも卓見卓識の者」)の登用のこと、コモカムリ等浮遊の者に衣食を給し、「厳刑ヲ以コラシ厚賞ヲ以勧メ」て良民に化すべきこと、蝦夷人の離反を防ぐためにも「蝦夷人取扱候吏温厚ニシテ事情ニ通達仕候モノ」を当てるべきこと、蝦夷地に金銀銅山を拓き、開拓の費用に充てるべきである等々、多方面にわたる献策が記されている。

北方防御の要である蝦夷地の開拓に、水野は熱意をもって取組んでいたのである。しかし翌年4月、水野はその箱館を去り江戸に戻っている。『旧幕府』の中に澤簡徳の談話として、その理由が「織部と説が合わなかったので半途にして」帰ったと記されている。水野は剛直であり、堀は燗癖の強い人であったといわれる。疎隔の原因はその辺にもあったのだろうか。

 「事績」によれば、水野は江戸に戻った後、旗本野間釜之助の長屋に借宅。安政5年4月からは、旗本深尾繁三郎の長屋に移っている。

4 虎尾の会の同志と水野行蔵

 安井息軒の娘婿であつた北有馬太郎の日記の安政5年12月9日の条に、「水野行蔵、上田専太郎、雄吉来る」と記されている。水野と同行していた上田専太郎とは、後に和歌山藩明教館の寮長となった人で、この当時は安井息軒塾の塾頭であった。雄吉は、北有馬太郎の塾舎のあった武州富村(埼玉県狭山市)の村役人である。この3人が訪れたのは、北有馬太郎の出張教授先である武州豆戸村(埼玉県鳩山町)の鋳物師宮崎家であった。

 水野たちが遥々北有馬太郎を訪ねたのは、前年北有馬が離別した息軒の長女須磨子の出産等に関することであったと推定される。北有馬は前年5月、尊攘活動で師家に禍の及ぶことを恐れて懐妊中の須磨子を離別していた。北有馬の日記の翌年3月1日の条に、「(小児を)携え山川達三及び曲竹乳婆奥富に抵る。」とある。この後北有馬は、幕吏に捕縛されるまでの間2人の幼い子を養育している。

 なお、北有馬太郎の翌安政6年2月11日の条にも、「午後奥富に到り西川兄を訪ねる。水野行在り、云う昨日来る。」等の記述がある。西川兄とは、北有馬の盟友で、水野と同じ庄内出身の清河八郎尊王攘夷党「虎尾之会」に共に参加し、文久元年に共に伝馬町の獄舎で非業の死を遂げた西川練造である。西川も北有馬の塾舎の近くで医を業としていた。
 水野が西川練造を訪ねた同じ2月、清河八郎が郷里へ旅立ったその留守中に、清河の淡路坂の塾舎が類焼した。水野は、清河の愛妾蓮女や食客の笠井伊蔵等の身を案じ、笠井たちに水野家への一時避難を呼び掛けている。その笠井への書簡には、「御賄方等は小子御引受申候上は、何一つ御持参は堅く御断申上候、粗食之処は何分御忍恕を相願ひ候、其余者少しも御懸念不被下候様、皆々様へも宜敷御周旋下度奉願候」等とあり、水野の人柄を偲ばせる文面である。

 水野も攘夷論者ではあったが、清河八郎の過激な尊攘論とは一線を画するものがあった。清河は攘夷の扉を外から力によってこじ開けようとしたが、水野は内側に入って幕吏に扉を開けさせようとしたのである。したがって、清河が文久元年に結成した「虎尾之会」には水野は参加していない。しかし、東京都千代田区発行の『原胤昭旧蔵資料報告書』によれば、清河が町人を斬殺した前日5月19日付の手配書に、清河たちと共に「出羽儒者水野行蔵」、とその名が列記されている。清河やその同志たちとの親交は、幕吏に同類と疑わせるに十分だったのだろう。

 水野への誤解は早くに解けたらしい。この時投獄された清河の実弟斎藤熊三郎が郷里に宛てた書簡に、「上野禎蔵様、当時水野行蔵様と申居られ候、私入牢之始めより、通路にも六ケ敷処へ度々御心附金子御送被下、御影にて命をひろい申候。誠に難有次第、此上もなきしんせつの御方に御座候云々」とある。

 斎藤熊三郎と同時に入獄した蓮女や池田徳太郎等に対しても、水野は援助を惜しまなかった。池田徳太郎の出獄後、その父元琳が徳太郎に宛てた書簡には、「水野公ノ御仁恕厚恩如泰山紅海、其不知所謝、真ニ所謂君子之人乎君子之人也」と記されている。

5 盟友幕臣澤勘七郎

 水野行蔵の交際は広かったが、後年水野が庄内藩に就縛された際の口上書には、特に懇意な人として、老中板倉周防守家臣川田剛、田口文蔵、駒込龍光寺、安井息軒等の名が挙げられている。しかし、もっとも懇意にしたのは幕臣澤勘七郎(左近将監・簡徳)であった。この澤については、安井息軒の「明山公に答ふる書」に、文久3年2月、前年の生麦事件の賠償を求めて来航した英国艦隊との応接に派遣すべき人材として、幕臣では澤勘七郎を第一番にあげ、「澤左近儀者忠義才略兼備り、事変を見通候儀燭を執而暗夜を照候如く、実に天下不易得之才と存候」と記されている。

 水野と澤との出会いは、先の水野の口上書に、「深尾繁三郎殿簡徳殿懇意ニテ折々罷越云々」とあり、「事績」には、「水野行蔵氏ハ、安政五年冬頃ヨリ相往来シ、当時ノ形勢ニ就キ互ニ論議スル所アリ、其意見大同小異ナレトモ要領ニ至リテハ殆ント一致シケレハ意気相投シ頗ル懇親ノ交際ヲ為シタリ、氏ハ性行直実方正ナル人ナリキ」とある。澤もまた攘夷論者であった。

 「事績」には、安政の大獄で中追放の処分をうけた藤森弘庵の救解のため、「拙者建言シテ其赦免ヲ乞ヒシニ方リ、氏(水野行蔵)ハ閣老ノ家臣ヲ初メ其下僕等ノ門ニ奔走」したり、謹慎中の水戸藩国老武田耕雲斎の宥免や、同藩士長谷川作十郎の遁走に2人で尽力したことなどが記されている。

 文久2年10月、澤は講武所頭取から目付役に進んだ。「事績」に、「拙者目付ニ転役ノ節氏ハ拙者ノ家来ニナランコトヲ請フニ因リ」、家来にしたとある。志を遂げるための方便だったのだろう。その年12月、澤は将軍後見職徳川慶喜に従って上京したが、「事績」に「氏ヲ従ヘテ行ク」とあり、また「氏カ在京中窃ニ国事ヲ憂ヘ尽力スル所アリシカハ、文久三年ノ春閣老板倉周防守、小笠原壱岐守ヨリ氏ニ面会スヘキ旨の通達アリ云々」とあり、水野は両閣老に対して、「今ニ於テ日本国家ヲ永遠不朽ニ保続シ以テ泰山ノ安キニ措ント欲セハ、憚リ多キ鄙見ナルモ幕府政権ヲ奉還シ衆諸侯ト協心勠力シ、一意朝廷ヲ奉載シテ以テ人心ヲ安ンシ」、以て海外諸国に対応すべきである、と主張したとある。驚くべきことに水野は文久3年の時点で、幕閣に対して政権の朝廷への返還を直詞したのである。
 水野が閣老に意見を開陳した際、その隣室で、京都町奉行永井主水正尚志がこれを聞いていて、後に澤に対し、「彼(水野)カ議論ハ実ニ激烈ニシテ手ニ汗ヲ握リタリ」と語ったという。

 また、股野時中の先の史談会での談話に、「(水野を)武田耕雲斎等も重んじて兄として待遇した」とある。『古老実歴水戸史談』に収載される「きのふの夢」に、藩内抗争の絶えない水戸藩を憂慮し、武田耕雲斎に対して、「庄内藩の水野幸三いたく心配して、公平の政治をなされずば、水戸家の御為にならざるのみならず、閣下の声望も地に堕るに至らん。閣下は水戸有志の泰山北斗なり。宜しく御反省なさるべし」と直諫したとある。

6 下獄と終焉

 元治元年(1864)6月23日、澤勘七郎は外国奉行を御役御免となり、閉門蟄居の身となった。この月、横浜鎖港や常野屯集浪士への派兵問題で、老中板倉周防守や小笠原壱岐守等も職を免ぜられていた。先の鈴木信右衛門の上野友三郎宛て書簡に、「小笠原図書様板倉抔は勿論、澤様も専ら鎖港第一の方と相聞申候、然るに右御役人方不残お役御免に相成候」とある。攘夷論者の澤も幕政から遠避けられたのである。

 水野が庄内藩の捕吏によって就縛されたのは、その翌月5日のことであった。澤の屋敷から微酔して帰る途中のことであったという。「事績」に、「氏ノ捕縛セラルルヤ罪状ノ証徴アルナシ、唯当時ノ閣老牧野備前守、氏カ国事ヲ憂ヘ四方ニ奔走スルヲ探知シ、彼レハ澤左近将監等ト私カニ共議シ(中略)其持論ヲ貫徹セントノモノノ如シ」として、庄内藩に命じて捕縛させたのだとある。

 獄中での水野は、牢番に対して学問を勧め、『左伝』等の講義をしたりしていたらしいが、翌年5月に鶴岡へ檻送されたのである。その年9月に、獄中の水野が清水増之助に宛てた書簡には、「返ス々々モ御一統エ面目ヲ為失候事、慙愧無此上候、未タ聊存念有之候間、性命相保居候心得ニ御座候」とあり、旧友たちの救解活動に一縷の望みを賭けていたのだろう。この年の池田徳太郎の宛名不明の書簡には、「水野行蔵幽囚一條、右等内々周旋仕候、日夜血誠罷在候云々」とある。

また、この年11月に安井息軒が娘須磨子に宛てた書簡には、「水野行蔵も庄内にて未御免にはならず候得共、大に相緩み酒なども飲まれ候よし、牢舎にては寒中如何有之心配致候処、右の様にては心遣ひは無御座致安心候、大方遠からず御免にも相成可申候」と記されている。

 しかし、安井息軒の見込みに反して、その後も水野に対する出牢の沙汰はなかった。慶応2年(1866)9月23日付の清水増之助宛て書簡には、「如此(入牢)恥辱を取り候上は養生も無益と存候事、折に触れ思出候得共、未だ尽力致見込も有之、夫が為御迷惑相懸実に恥入候次第に御座候」とあり、さらに「近来は毎朝水にて半身位をふき気血をめぐらし、加之掃除の者手伝ひ(中略)運動の為か別而宜様に御座候」とある。また、翌年7月の同人宛て書簡にも、「小生無障消光、友三郎周旋にて通鑑綱目借呉候故日々読書楽居候」などとあって、出牢への望みを断つことはなかったのである。

 なお、この慶応3年、庄内藩内では藩政改革派の人々に対する大弾圧事件があった。1月に首領株の酒井左京、松平舎人(後に自刃)が自宅謹慎となり、その他総勢28名の藩士に対して斬罪、永牢、禁固等の断罪が行われていた。改革派の中心人物大山庄大夫は、前年11月に危難を察知して自刃していたが、この年9月、その遺骸を墓地から掘り出し、腰斬の刑に処すという酷薄なものであった。

 この事件の余波か否か、その3カ月後の慶応4年、明治と変わる年の正月4日の夜、憂国の志士水野弘蔵は、揚り屋内で還らぬ人となったのである。毒殺されたとの噂がもっぱらであったという。享年50。その遺骸は、上野家の菩提寺である本鏡寺に葬られいる。

【主な参考文献】
○「水野行蔵」』(清水安義・山形県鶴岡市立図書館所蔵)
○「隠れたる英雄水野行蔵先生」(山形県鶴岡市立図書館所蔵)
○「庄内脱藩勤王志士資料」(阿部正巳資料所収・鶴岡市立図書館所蔵)
○『維新前後に於ける庄内藩秘史』(石井親俊・壹誠社)
○『明治維新史料、幕末期』(『鶴岡市史資料編、庄内史料集16-1・鶴岡市)
○『庄内藩酒井家』(佐藤三郎・東洋書院)
○『やまがた幕末史話』(黒田傳四郎・東北出版企画)
○『旧幕府』(残花戸川安宅編・原書房)
○「安井息軒書簡集」(黒木盛幸監修・安井息軒顕彰会)
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』収載・久留米郷土研究会)
○『清河八郎遺書』(日本史籍協会叢書・東京大学出版会)
○『史談会速記録』(史談会・原書房)
○『古老実歴水戸史談』(高瀬真卿・合同出版)
○『原胤昭旧蔵資料調査報告書(3)』(東京都千代田区教育委員会)
○『清河八郎』(小山松勝一郎・国書刊行会)