Ⅷ 【宇野東桜(吉良七郎)関係資料について】

ここに掲げる宇野東桜に関する資料は、前稿Ⅶ「尊王攘夷党『虎尾の会』始末」をまとめるに際して確認したものです。宇野東桜は、文久3年正月13日に幕府の密偵として、長州藩士たちによって慘殺された人物です。その郷里高槻市には確認していないため、ごく限られた資料ですが、ここに掲載します。なお、括弧内は原注とない限り筆者の注記です。
●『野史台維新史料叢書』36 (日本史籍協会編)中「野史一班」に
・東桜惨死 宇野東桜通称ハ八郎武州高槻藩士ナリ、性放逸嘗テ人ノ妻ニ姦シテ罪ヲ得タリ、是レヨリ痛ク自ラ悔匕樹立スル所アラントス。然レトモ書ヲ読ミ画ヲ好ミ兵法ヲ習ヒ皆成ラス。曾テ清川八郎ト親善ニシテ其家ニ寓ス。尊王攘夷ノ論ヲ唱ヘ長州人ト交ル。井伊掃部頭変死シテ後長州人ノ為メニ往テ藩情ヲ探リ為メニ捕ヘラレ幾クモナク赦サレ帰テ又変心スル所アリ、長州人之ヲ悪ミ夜ル邸ニ招キテ其刀ヲ奪ヒ遂ニ之ヲ殺ス事ハ八郎ガ死ニ先ツ事僅ヵニ両月ニ有リ、復某ヨリ江幡五郎ニ寄スル書翰ヲ記スルアリ
  去る十二日の夜中虎御門外へ侍体の死骸を筵に包み捨置き其上へ横二尺五寸竪一尺四五寸程の板に左之通認有之                   宇野 八郎
   右之者儀東桜と号し年来有志の徒に交り事実探索致奸吏共に内通せしめ数多忠誠之士を害したる段譎詐反覆天地不可容之大罪依之如此加天誅者也   亥正月
 右年三十二歳元永井飛騨守殿家来にて先年国許御暇に相成、此者画名東桜と号し画書兵学相応に出来、江戸表等巡行昨年夏頃より松平山城守(上ノ山藩ナリ)家来金子与三郎方に多分止宿世話に相成候由。右父宇野剛右衛門と申者死骸引取申候。総身切疵突疵等浅深十四ケ所也
●『東西紀聞』一(日本史籍協会叢書)
・正月十二日之夜新橋外御用屋敷裏堀際に侍体之死骸筵ニ包捨有之其上ニ横三尺位竪壹尺程之板ニ左之通書し有之候
 此者儀東桜ト号シ年来有志之徒ニ交り事実探索致し姦吏共ニ内通せしめ多数誠忠之士を害ひたる段譎詐反覆天地不可容之大罪依之如斯加天誅者也
   正月
   右八郎相応之大小帯罷在候由身分未承候
久坂玄瑞「江月斎日乗」(『久坂玄瑞全集』)
文久元年4月5日、晴、午後千葉英二郎塾へ行。多賀生及房州人山田官司(原注・剣客)、摂津高槻処士宇野東桜(源三郎)と八辻(原注・四谷)に飲す。夫より礫川に到。片岡及酒泉彦太郎同道にて上野無極庵に飲す。夜四時帰邸。
・同年4月11日、(中略)是日宇野東桜来る。
・同年4月12日、早朝より宇野来る。大野又七郎亦来話。
・同年4月13日、午後片岡為之允、樺山三圓、町田直五郎、益満新八郎(原注・薩藩)来話、益満初面会なり、暮時東桜去る、東桜昨夜宿せしなり。
・同年4月20日、(中略)宇野東桜来る、宇野浅草へ入居せしよし(後略)。
・同年4月27日、直八、大輔、吉田翁同道にて骨原廻向院に来る、路に東桜を訪(下略)。
清河八郎「潜中記事」(万延元年5月20日)
・余、固より書画会なるものを屑しとせず。自づから帷を東都に垂れて、未だ嘗つて一たびも其の乞に応ぜず。偶吉良某なる者有りて、会を萬八楼に催し、強ひて余及び同社に請ひて日はく、「水府の志士、幾たびか会に因りて子に見えんことを請ひ、再応之れを強ふ」と。是に於いて、遂に諸士を伴ひて至る。帰路、一無礼人有りて、遂に之れを斬る。
●根岸仁輔(友山)の「出府日記」文久元年3月17日の条
・宇野(東桜ヵ)同行ニ而清川(清河八郎)ヲ尋ル、大雪ニ付七ツ頃迄清川ニ居ル
●「住谷寅之助日記」文久元年3月21日条(国立国会図書館所蔵)
・過日他邦人来訪応接ノ所、彼同志高槻藩今ハ遊歴人宇野東桜と申もの原任(原市之進)へも以前参候もの、此度ハ不参候よし(下略)
●大橋訥庵の菊池教中宛て文久元年11月1日付け書翰(『大橋訥庵全集』)
・廿八日ニ一封差出し愚見申述候間最早披展相成候事と存候其後未タ申入候程之事も無之柴田山城ゟ昨日今朝とも未タ相見不申昨日は宇野東桜と申者参候て奪之一條柴田と力を合せ是非仕遂候様ニ申候間能々盡力候様申聞置候(後略)
一橋慶喜擁立の件及び老中安藤正信暗殺に関する件
●大橋訥庵の菊池教中宛て文久元年11月13日付け書翰(同前)
・(前略)役者ハ十七八人にても奪之方が大丈夫ニ候得は随分芝居ニ相成可申候得共それも甚だ危き体にて必得と申場迄参り不参無理ニ致せバ必敗無疑候故ヤメ申候咎め候ニ付彼もそれをセツナガリて役者を説き集候手段を東桜へ相談して桜を連てあるき候故それだけ奪之手続後れ候而旨き場迄参り不申候故旁以ヤメと致申候(後略)
●大橋訥庵(獄中)の清水昌蔵等宛て文久2年3付き19日付(同前)
・東生(宇野東桜)之事愈怪シクシテ間諜ニ相違ナキ事ヲ慥ニ御見トメ被成候ハバ書簡(同前)捨テテ置べキ者ニ非ズ捨置テハ大害ヲ仕出シ可申候故早ク御斬殺可被下候但廣精(広田精一)ハ渠奴ト同意シテ間諜スべキ男ニハ毛頭無之候故東ガ愈怪しシク候ハバ其子細ヲ明細ニ廣ヘ談シテ熟議之上活カストモ御決断可被下候渠奴ヲ斬殺スルニハ拙ニ一説有之候故殺ト御説ガキマリ候ハバ早々御申越可被下候但シ此時節ニハ激ナル事ヲ仕出シテ内変ヲ招クハ拙キ者之ワザ故其加減ハ御精慮ナクテハナラヌ也兎ニモ角ニモ拙之身如風前燈云々
●「住谷寅之助日記」(国立国会図書館所蔵)
文久2年4月3日 (前略)丹雲二月四日入牢、勢州高槻浪人宇野東桜今梅信ト云、返心幕ヘ訴出ルニ付丹召取ニ成候ト云、壹人ハ幕ノ間者トナリ水戸ヘ廿一日出立、原市ヘ探索ニ来ル由、大謙ゟ廿九日仕出ニ而申来ト云。
  ※丹雲とは、得能淡雲(大洲藩藩士)・原市は原市之進・大謙は大野謙介(水戸藩士)
・同年4月6日 下野来ル。同道義新原任雙松ヘ行。但宇野東桜昨夜原任ヘ不図も訪匕来ルニ付、早速来候様申来行。此夜九鼓迄いろいろ相談ノ所言語同断可悪奴ナレ共致方無之天運ニ任セ候事。    ※下野は下野隼之介、原任は原任蔵即ち原市之進
・同年4月27日 勝野悴十八日方来ル。東桜云々ニ付来ル。
  ※勝野とは、旗本阿部四郎五郎の臣勝野豊作次男勝野保之助正満
●「勝野正満手記」(東京大学史料編纂所所蔵)
文久二年壬戊正月坂下ノ事アリ、去歳ノ故トテ併テ嫌疑尤甚シ、且モト同志ニテ変心セシ宇野東桜ナル者、水戸ニ行テ衆ヲ欺クノ説アリ、因テ笠間在ナル庄屋茂右衛門ナル者ノ僕トナリ、笠間ナル稲荷ニ詣スルヲ名トシテ一小刀ヲ帯シ小包を背負テ同行、四月十五日ヲ以テ江戸ヲ発シ、十八日水戸上町五軒町ナル美濃部又五郎方ニ潜メリ、此行途中東桜ニ出会セハ一刀ノモトニ倒サン覚悟成ニ何レニテカ行違ヘリ、然シテ聞ク処ニヨレハ東桜ノ毒ハ格別流シ得サリシモ、此頃水戸ノ国情甚タ多端故ニ予等一ヶ所ニ長ク居リ難ク、備前町ナル岡部藤助、八幡町ナル片岡為ノ允ヨリ下国井村ナル渡辺長左エ門方ニ移ル、六月ニ至リ幕府ノ大政大ニ変シ(下略)
●『史談会速記録』増戸武平(元上山藩士)の明治37年5月21日の談話
・(前略)私の藩内に宇野東桜と云ふ浪人が居りましたが、屋敷の都合により私の所に同居をさして居ました。此者は本名吉良七郎と申すもので漢学もあり弁才もあり、且つ交際の広い男であったゆへ、国事に奔走させて居りました所が、君の屋敷に居る宇野東桜と云ふものは坂下で安藤閣老を刺した時現場には望まぬが、其ことに関係し盡力した一人であると云ふことを聞て居る、彼事たるや正当の事ではあるまいが、兎も角生命を抛って国家の奸物を刺すと云ふのであるから国に対して忠義の者に相違ない。

斯る忠義の者の事迹を湮滅に帰せしむるは惜むべき事であるから、長州藩に於て事実を調べて記録に遺して置きたい、依て宇野に面会して委はしく聞きたいから私の屋敷に寄越して呉れまいかと云ふ事で、これは私に直接の話ではありません、同藩の士に中村平介と云って塩谷(宕陰)の門人でありましたか其同門に徳山藩藤井何某と云ふがあり、長州の上屋敷に居て此事を申ししたそうです。其事を宇野に傳えるや同人は喜んで行ったと申す事で、私は役所より帰って初めて聞きました。

然るに何日経っても還って来ぬ、不思議なることと思ふて居りますと、三日ばかり後に殺されて仕舞まして、新らし橋外の堀端に捨られ札をたててりまして、此者義は陽に勤王を唱へ陰に佐幕なすものである、依て天誅を加へると云ふことが出てありましたそふで驚きましたが、其儘になったと云ふ様なことでござりました。(後略)

・談話後の応答
外崎覚―宇野さんは陽に勤王を唱へて陰に佐幕と云ふことを聞きましたがそうではありませぬか。
増戸武平―初めは如何か存じませぬが幕府に尊王をさせると云ふ主意から同意して来ましたのであると思ひます。
小野保―私も宇野は知って居りますが弁舌も能し役にたちさうな人で、遂に長州の手でああいうことになったが、貴方の手で御養ひになったさうでござりますが、最初の御考へでは奸物でもなかったのでござりますか。
増戸武平―私共は奸物とは思ひませぬ、甚だ惜んで居りました。同人の殺されましたのが即ち旧藩の疑はれて居りました証拠の一ツであると思ふのであります。
小野保―宇野は絵も画きました。
増戸武平―殺された時は私の所に柳行李が一ツあって書いたもの抔がありましたが、絵の事は気が付きません。屋敷に居る時は刀も差さず本の町人的客分の様にしてありました。屋敷へ参らぬ前は両国ばしの上で売卜をして居たと云ふ事を聞きました。
小野保―宇都宮を(のヵ)広田(精一)が私に宇野を紹介したが、広田は彼は油断はならぬ、けれども世間の事を能く知って居る、それで使ふには宜いと言った事があります。
増戸武平―旧藩の金子(与三郎)の処に参って度々議論を闘はした末遂に信用した様であります。
小野保―金子さんに逢ひましたが、表は中々勤王家であると言って居られました。
●『史談会速記録』増戸武平の明治37年11月26日の談話
・(前略)私に於ては(宇野東桜が)斯様な反覆表裏の者であると云ふ事は少しも知らすに居りました。長州屋敷に参ってそれ切り帰りませんで、死体を新し橋に捨てられた時の建札に、此者儀陽に勤王を唱へ陰に幕吏に媚びたとございましたが、当時私どもの考へましたには、是は常に佐幕を唱ひて居る私どもの屋敷に居りました為めに陰に幕吏に媚びると云ふ嫌疑を受けたものと思ふて居ました。併し私の藩の佐幕は勤王の為めにする佐幕でありまして、普通の佐幕ではない。それを誤解して殺さるると云ふは如何にも冤罪である。

気の毒であると思ふて居りました。然る所右雑誌(『名家叢談』)に記載があるが如く私共の旧藩に関係せぬ以前に反覆表裏の行為を為した者であれば、其党派の人々に復讐せらるるは当たり前であって、気の毒でも何でもないわけになります。それを知らずに私方にかくまいましたは不明に帰する事で慚愧の外はありませぬ。

併し果して宇野東桜は斯様に反覆した物であれば、同人ハ幕吏の気に入る訳である。態々金子(松ノ山藩参政金子与三郎)に取入って私方に身を寄せるには及バぬ訳、又金銭にこう窮しては居ましたけれども、まさかそんな卑劣な人物でもなかろうように思われましたが、是にハ何か間違いでもなかろうかと云ふ疑念が私の胸中に今に離れぬのであります。御会に若し同人の反覆したる事実を御存じの方があらせらるるならば御聞を願ひたいと思ひます。

  文久二年の秋の末か冬の初め頃でありましたが、一日金子の処の書生が私方へ遊びに来まして、昨夜は奇妙な人が来て宅の先生と大激論を始め、終夜其議論が済まぬ為めに私ハ夜一夜眠る事も出来ぬでありました。此後彼の論はドゥ極まるかと云ひましたゆへ、それは何処の何と云ふ人であった歟と尋ねました所其処までは聞かぬから存ぜぬと云ひました。私は如何なる人かと思ふて其後金子を訪ふて聞きますと、其人物は宇野東桜でありまして、本名吉良七郎と云ふ者であります。

吉良ならばそれより三年前私が林家に居った時分折々遊びに来ましたので顔を知って居ります。彼れは其頃長州の多賀谷勇など云ふ人と頻りに尊王攘夷を唱へて居りましたけれ共、貧乏書生でありまして書画会を催ふし銭を儲けようとして居りました処、折節桜田の一件が起り其事ががらり外れたと云ふ様な事でありました。そ(さヵ)れば私は両人共格別の人物とも思へませなんだゆへ深く交際をしませぬで居りました。

然るに金子の処で数回議論の末金子は吉良を頗る事の判ったものと認めまして、爾来は同志の中に入れて互に助け合ふ積りであるが、家では都合が悪いから貴様の方に置いて呉れぬかと云ふ事でござりますから、私は金子の主義で尊王するものと思ふて置きました。尤金子に対しては安藤要撃の仲間であのしと云ふ事は打明けた様子でありますが、金子はそれを聞いて幕府に密告して他の党類を捕へさせる様な事は決して致しませぬ。

其訳は第一安藤要撃は壬戊の年の正月で、宇野が金子に来たハ其年の八月以後九月か十月頃でありまして、時日が十ヶ月も違ひますのみならず、其頃金子は佐幕を唱へてハ居ましたけれども、未だ幕府に密事を告ぐる程の知己ハありません。(中略)

  安藤ハ其頃の幕吏中第一等の人物であったと云ふ人もありますけれども、当時私や金子の考へには矢張り井伊大老の残党と思ふて居りました。故に其撃たれた事を聞いて頗る愉快に感じ、宇野が其要撃仲間でありしと云ふ事を聞いて却って同人の信用を厚くした位の事であります。して見れば金子が宇野の反覆を悦んで其党類を苦めん為め密告をする筈は萬々ありません。

(中略)宇野が裏切りをしたと云ふ事を(金子与三郎が)知って居りますれば、之を入れませんで斥ける所であったろうと思います。それ故に私の考えまするには、宇野が反覆したり或は間違であると云ふ事に付、尚ほ疑念ハありますけれども、実際反覆したに違ひないと云ふ事になれば金子にハ其事実を隠して置いて他の共謀者の攻撃を避ける為めに私方に隠れたものであったろうと考へて居るのであります。(後略)
●上記の史談会での村田直景の談話
・私ハ宇野の事は最初能く知って居る訳ですが、今日から考えればあれ等ハ勤王家荒しの壮士とでもいふので、勤王家を困らせた人物であると存じて居る。余程前から江戸中の方々の先生の処に書生に這入って其先生の挙動とか其先生はドゥ云ふ事をするとか云ふ事を見て歩いたものと存じます。

  私の伯父ハ清水松蔵と申して其頃田安家の儒者で、そこへ宇野ハ吉良七郎と称して書生に来ました。私共ハ伯父に就て学問をして居りました。吉良と一所に輪講もすれば会読もしました。吉良ハ高慢な理屈を云ふけれども、其実勉強もせぬ変な男でありました。彼は高槻永井の藩であった。其頃その親ハ藩邸に居ったのが、なにか悪いことがあって藩を出さるやうになった事があって、私の兄がその邸へ行ってやって荷物などの奔走した事がありました。

  その内兎角不品行で伯父が放逐して仕舞ひましたるされど引違ひに程なく多賀谷勇が来ました。これも学問するでもなく僅かに居て直きに出ました。唯どれもいけない書生とばかり思ふて居った所が、其内に国事一件が起って見ると、同じ私の伯父の大橋訥庵の処へこれ等が入込んで居るのを知りました。私共は大変疑いました。アア云ふ者が這入って勤王などと騒ぐ様では、屹度禍ひの本であろうと思ひましたけれども、私共はその時分は若年であるからなんと申し様もありませぬでした。
●『史談会速記録』明治34年6月8日柴太一(元会津藩士)の談話
・(中略)幕府大改革旧会津藩にて京都守護職に任ぜられましたときに、私は摂津高槻浪人宇野東桜と云ふ者と同行し、先発視察の一人として参りました。此宇野は清川が前に書画会の帰り掛け人を殺害して立退きましたが、其時の会主をした人でございます。そうして伊勢の山田へ参り神職の御炊太夫氏は山田大路名は親彦に滞在して居りました。(中略)

其際に清川とは同卿一体とも称す可き安積五郎が同所に潜伏して居りました。宇野は同窓の親友、其話に伏見寺田屋事件の後清川共に当所に潜伏して居ったが、清川氏は近頃関東に参ったとの事であった。(後略)   ※斎藤治兵衛の史談会での談話中の発言
●『史談会速記録』第三百十輯 田尻稲里(元水戸郷士)の談話
・段々長州及び水戸藩の者の相談(老中安藤正信要撃の)が出来て、桜田の人數程は出来ませぬでも、十四人とかいふ決死隊が出来たさうであります。それは後に高槻藩の宇野東桜とかいふ者が矢張り有志の仲間であったけれとも、其当時の言葉でいふと返り忠であって、是が浪士の評議を幕府の役人に密告した。それから一層坂下に関係する有志の団体は大に崩れて参りまして、遂に危くなって来て、今度は長州の方も手を引いて参って、残る所は水戸の人數丈けになりました。

●『久坂玄瑞』(竹田勘治著・マツノ書店)に、「処士宇野東桜(源三郎)」と括弧書きがある。
●『大橋訥庵伝』(寺田剛著・至文堂)
・訥庵の捕縄に到ったのは、山本繁三郎の変心(中略)とともに宇野東桜なる者の密告によると伝えられている。宇野は幕府の隠密であったとの説がある。彼は日光宮擁立運動に関し、文久元年十月末日に先生を訪れて活動を約したことが見えている(11月1日書簡)から、隠密ならば発覚後もっと詳細に運動を告げるべきであろう。寧ろ変心説(『殉難録稿』)をとるべきであろう。

  先生の獄中からの書簡には、「東生之事愈々怪シクシテ間諜ニ相違ナキ事ヲ慥ニ御見トメ被成候ハハ捨テテ置べキ者ニ非ズ捨置テハ大害ヲ仕出シ可申候故早ク御斬殺被下候」と見え、住谷日記四月三日の條に、「丹雲(得能丹雲)二月四日入牢、丹召捕ニ成候ト云、一人は幕の間者となり水戸へ廿一日出立、原市ヘ探索ニ来る由、大謙より廿九日仕出に申来と云」とあり。

六日の条には、「宇野東桜昨夜原任へ不図も訪来るニ付、早速来候様申来行、此夜九鼓迄いろいろ相談の所、言語同断、可悪奴なれども致方無之天運に任せ候事」とあり、変心して間諜となったものと見るべきであろう。
●『伊藤公實録』(中原邦平著・啓文社)
・公(伊藤博文)等同志は幕府の隠密宇野東桜を桜田藩邸内の有備館の二階で殺したことがある。是も公使館焼討後のことであろうと思はるる。此宇野と云ふ男は前にもチョット話した如く、奥右筆某の依頼を受けて、尊攘有志者の仮面を被って、公等同志の仲間に這入り込んで、其様子を幕府に密告した者であって、大橋順蔵が捕へられたのも、此宇野東桜の密告である。

それで高杉等が、彼は我々の行動を幕府に密告する奴であるから、活かして置かれぬ、是非殺してやろうと云ふことを決議に及んだ、そこで白井小助が好い加減のことを言ふて、宇野を有備館へ連れて来て、さうして有備館の二階で高杉と白井小助が応接して四方山の話の内に、高杉が自分の刀を出して、私は近頃斯う云ふ刀を贖ふたが、一つ御鑑定を願ひたいと言ふと、宇野が然らば拝見と言ふて、其刀を引抜いて暫く眺めて居たが、如何にも結構な御刀ですと言ふて返した。

  さうすると高杉が貴方の御佩刀も一つ拝見致したいものと、言ふたので、宇野が自分の刀を差出すと、高杉は其刀を抜いて切先を宇野の胸先の方へ向け熟視する風をして、不意にズツと突込んだ。さうすると白井が後で止めを刺したと云ふやうに私は聞いて居る。此白井小助と云ふ人は後に素行を改めて七十幾つまで生きて居ったので、私は曾て訪問して、此事を聞て見ると、あれは高杉が殺したのである。其時俺は唯だ高杉の刀で宇野の頬をブチ切った位であるが、彼を旨くだまして連れて来たのは、俺であるとの答であった。

  其時政府の役人麻田公輔(原注・周布政之助変名)有備館の塾長桂小五郎抔が此事を聞くや、現場へ望んで、ドゥも藩邸の内で人殺しをするやうな乱暴なことをしては困ると言ふて、叱り付て、さうして戸棚を捜して見ると、白井の刀が匿してある、それを引抜いて見るとマダ血が拭いてない、依て麻田が白井に向ひ、貴様狼狽へたたのではないか、人を殺したのならば、是非跡の血は立派に拭いて置くものだと言ったと云ふ話があるので、それで此事を白井に聞いて見ると、ナニあれは高杉の刀であるから、錆ひやうが錆まひが、こっちには関係がないので、其儘納て置いたとの話であった。

  後に天野御民の逸話記事を見ると、宇野は公が殺したやうに書てあるので、何時ぞや大磯に往って、公に聞き質した所、吾輩が殺したといふ訳でもないが、皆んな愚図々々して居るから、一つヤッテやろふと思ふて、短刀を彼の喉へ突付けやうとした所が、其短刀を遠藤多一が吾輩の手を執って、直に突込んで仕舞ふた、さうすると白井小助めが刀を抜いて横腹をブスブス刺して殺したのであると言はれた、其死骸は薦に包んで公等三四人が担いで、屋敷の門を出て、暫く隔った所へ棄てて仕舞った。
  ※『伊藤痴遊全集』第7巻にも伊藤博文らによる宇野東桜慘殺事件の詳述があります。

※その他宇野東桜に関して確認できた資料は、『斬奸状』(栗原隆一著、井手孫六監修・學藝書林) ○『野史台維新史料叢書七』(日本史籍協会編・東京大学出版会)※「友人某贈那珂通高書」 ○『小野権之丞日記』(『維新日乗編輯』4・日本史籍協会叢書・マツノ書店) ○『鈴木大雑集』3(日本史籍協会叢書・東京大学出版会) ○『坂下義挙録』(澤本江南編・小塚原回向院殉難烈士遺蹟保存会) ○『補修殉難録稿』(宮内省・マツノ書店) ○『近世日本国民史・文久大勢一変上編』(徳富猪一郎・明治書院)等