7 【尊王攘夷党「虎尾の会」始末】

1 尊王攘夷党「虎尾の会」の結成

出羽庄内清川村山形県庄内町)の郷士清河八郎が、尊王攘夷の実践活動を決意したのは、万延元年(1860)3月の桜田門外の変であったという。その年の冬、大津彦五郎ら水戸天狗党激派の一部が霞ヶ浦北岸の玉造(茨城県行方市)に屯集し、横浜の夷狄を打払うなどの噂がもっぱらであった。これを知った清河は、翌年の正月、下総にその様子を探ったが、その実態に失望し、独自での攘夷断行を決意したのである。

清河八郎は、下総から戻った直後の2月11日、郷里の叔父に宛てた手紙で、「どうしても近き中に争動始り可申、其時は天晴の働き致可申と楽罷在候。それに付ても、只今のうちに私共に存分力を助け呉候得ば云々」と軍資金の無心をしている。そして、さらにその書中には、「此元にて名高き本の勇士の面々余程手に付け置候間、急度の働き相成可申」とも記されている。一介の草莽に過ぎない清河にとって、尊攘の大義を貫徹するためには、志を同じくする義勇の士と結ぶ以外にはなかったのである。

清河が集めた同志は、清河の記した「潜中記事」のなかに、「薩藩邸に居る者七名、幕下に居る者三名、処士に居る者十余名、此れ皆な卓犖不群」とあり、「自叙録」には「諸義士凡十七八人を結び、いづれも皆当時に名高き文武忠勇の士のみなり、その外従随するもの甚だ多く」と記されている。これらの手記には、同志たちの個々の名は記されていないが、「虎尾の会」の同志の一人村上俊五郎が、清河への贈位申請のため、明治16年(1883)に有栖川宮に提出した建言書のなかに、その名が列記されている。そこには自らを除いて、山岡鉄太郎、石坂周造、伊牟田尚平、益満休之助、安積五郎、池田徳太郎、北有馬太郎、神田橋直介、樋渡八兵衛、西川練造、笠井伊蔵、松岡万、斎藤熊三郎の面々13人の名がある。なお、小山松勝一郎著『清河八郎』には、上記の人びとに加えて、美玉三平、白井佐一郎、村上俊平の三名の名が挙げられている。

清河たちは、この集まりを「虎尾の会」或は「英雄の会」と呼んだ。紙幅の関係上、著名な人物以外の何人かの関係について紹介したい。伊牟田尚平は薩摩藩老肝付家の臣、安政元年(1854)に出府して医術を学ぶ傍ら安井息軒等に師事し、また長沼道場で直心影流剣法を学んだ。清河八郎との出会いは、この長沼道場であったといわれる。息軒塾の同門北有馬太郎とは、安政元年当時からの知己であったらしい。

その北有馬太郎は、肥前島原の人。久留米の木村士遠に学び、真木和泉らと親交があった。後に江戸に出て安井息軒に師事し、塩谷宕陰の媒酌で息軒の長女と結婚。当時は武州川越在下奥富村(埼玉県狭山市)で私塾を開いていた。江戸にあった安政2年頃、西川練造と共に旗本久貝因幡守の屋敷に寄寓していたことがあった。

その西川練造は、武州川越在小仙波村(埼玉県川越市)の儒医。医術の傍ら漢学、兵学、剣術なども学び、当時は北有馬太郎と同じ武州下奥富村で医を業としていた。北有馬との出会いは、弘化3年(1846)、北有馬が尾藤水竹の塾に寄寓した際のことだったらしい。大川平兵衛道場の同門笠井伊蔵を、清河八郎に紹介した人だといわれる。

その笠井伊蔵は、武州石井村(埼玉県坂戸市)の富農小谷野半平の子。大川平兵衛から神道無念流剣法を学び、同心株を買って武士となった。通説では清河塾の内弟子とされているが、東京都千代田区発行の「原胤昭旧蔵資料報告書」(以下「原胤昭資料」という。)に収載される資料に、「右八郎方同居、御先手金田式部組同心七之助弟笠井伊蔵」、「神奈川御船勤番」とある。さらに、『藤岡屋日記』に載る組頭金田式部の届出書に、笠井の身分は講武所の剣術教授方世話心得とある。清河塾の内弟子ではなく、食客だったのではないかと思われる。

村上俊平は、上州境町(群馬県伊勢崎市)の蘭法医村上随憲の子で、北有馬太郎や伊牟田尚平と同じ安井息軒に学んだ。池田徳太郎とは、池田が上州伊勢崎方面に遊歴していた安政3年頃からの知己であった。村上が西川練造を訪ねた折りの、「五月十一日(年不明)、奥富村訪西川景甫、適不在家、待帰至夜半、時月色清明頗感旅情」と詩書した七言律詩も遺されているので、西川とも親交のあったことが明らかである。

 清河八郎たちの攘夷実行計画は、5月中頃に決定した。「潜中記事」などに、風寒く気の立ちたる8、9月の頃、火攻めによって「醜虜の内地に在る者」を悉く打払い、檄を遠近に飛ばして尊王攘夷の士を募り、敵対する者は王公・相将といえどもこれを斬る。その後、天皇に奏上し、錦旗を奉じて攘夷を天下に号令する。そして、これが成らなかった時には、関八州に広く義民を募って、尊攘の大義を実現する計画であったとある。
 具体的な攻撃目標は、「潜中始末」に「横浜東部の夷人館」とあるが、村上俊平の記した「睡餘録」に、「北有馬東禅寺へ乱入の計策など予に語られしが、事緻密にして云々」とあるから、芝高輪東禅寺のイギリス仮公使館を焼き払う計画もあったのだろう。

2 清河らの捕縛命令と書画会参加

 石坂周造の史談会での談話によれば、石坂は文久元年(1861)4月に下総の神埼から上府したという。その後の「虎尾の会」の集まりは、清河八郎塾の土蔵のなかで行われたが、「(清河塾の)隣家に湊川と云う力士がありまして、(中略)其の力士の方へ徳川の探偵吏が這入って、床下に隧道を造り潜って吾々の密談を床下で聴取ったのです」、と語っている。そしてそれは、「(清河の下総行で)三人(清河、石坂、村上)は既に天狗組を結合したものと期う云う看做を受け」たが故だったろうとしている。このことは、清河の「潜中記事」にも、「官吏、これ(下総行)より終に心を我が動静に用ひると云ふ」などと記されている。

 幕吏による清河塾の監視は、前年12月のヒュースケン暗殺事件も関係していたのかも知れない。ヒュースケンを殺害したのは、伊牟田尚平、益満休之助、樋渡八平衛、神田橋直助らの薩摩藩士たちであった。事件直後に幕吏が暗殺犯人を探知していなかったとしても、この事件後には不逞浪士への監視の目が一層強化されていたはずである。

「原胤昭資料」によれば、後述する清河八郎による町人斬殺事件の前日である文久元年5月19日には、清河たちに対する捕縛命令が出ていたのである。この資料は、南北両奉行所の廻り方同心の在方出役が、清河八郎一味の捕縛のため、文久元年7月1日付で庄内藩の掛役人に送った依頼状の一部で、そこには「文久元酉五月十九日別紙名前之もの御吟味筋有之、召捕候様三廻一同へ御沙汰有之候処、其以前池田播磨守殿ニても御沙汰有之、取調罷在候付、双方三廻打合之儀申上候処御懸合有之、其通被仰渡」とあり、別紙として、「神奈川御勤番笠井伊蔵、庄内藩清川八郎、薩摩藩いむ田庄平、下総浪人村上某、医師西川練造・北有馬太郎、浪人池田徳太郎、出羽儒者水野広蔵」の8名の名が列記されている。

なお、最後に名のある水野広(行)蔵は庄内藩脱藩の士で、北有馬太郎らの師安井息軒とも親交のあった人である。その息軒が小笠原壱岐守に宛てた手紙に、「(水野は)忠実にして才気も有之、本気に天下之事を憂候者」とし、「百人に勝候才略」者として水野行蔵、金子与三郎、三浦五助、田口文蔵の名をあげて、「中ニも水野は勝候様見請申候」と記している。水野は尊王攘夷論者ではあったが、過激な清河八郎攘夷論とは一線を画するものがあったという。その水野に捕縛命令が出ていた理由は不明である。後に水野は獄中の池田徳太郎と連絡をとって、清河の愛妾蓮女や弟斎藤熊三郎に、金品を送って手厚く援助しているから、この時は入牢することはなかったのだろう。

清河たちは、5月中旬に攘夷計画の方針が決まると、多人数の会合は人目につくこと、また、攘夷決行の準備や広く同志を募るためもあって、しばらくの間四散することとなった。その直前の5月の20日、手配中の身であることを知らない清河たちは、柳橋の万八楼で開かれた書画会に参加した。「潜中始末」に、「五月二十日に及び或る処の書画会に無理に請誘はれ、同志七人ばかりにて参る云々。」とある。また、「潜中記事」には、「余、固より書画会なるものを屑しとせず。自から帷を東都に垂れて、未だ嘗て一度も其の乞ひに応ぜず。偶吉良某なる者ありて、会を万八楼に催し□ひて余及び同志に請ひて曰く、『水府の志士、幾たびか会に因りて子に見えんことを請ひ、再応之を強ふ』と、是に於いて遂に諸士を伴ひて至る」とある。

「水府の志士」の誰であるかは不明だが、書画会の会主「吉良某」とは、高槻藩脱藩の吉良七郎である。変名を宇野東桜といった。宇野と旧知だった旧上山藩士増戸武平は史談会で、「両人(宇野と多賀谷勇)共貧乏書生でありまして書画会を催して銭を儲けとして居りました」と語っている。また、やはり宇野と旧知の旧会津藩士柴秀冶は、同じ史談会で、「宇野は清川が前に書画会の帰り掛け人を殺害して立退きましたが、其時の会主をした人でございます。」と証言している。

この宇野東桜は、文久2年正月の坂下門事件に関連して大橋訥庵が捕縛された際の密告者として、長州の高杉晋作伊藤俊輔らによって、翌年の正月に殺害さてれている。宇野は、訥庵らによる日光山挙兵計画にもその名を連ね、訥庵の思誠塾には頻繁に出入りしていた。北町奉行黒川備中守手付の密偵だったともいわれている。或は、清河たちの捕縛に一役買っていたのかも知れない。この人物については、次稿Ⅷに関連資料を掲載してあります。

この日の書画会に参加した虎尾の会の同志は、清河八郎以外に、山岡鉄太郎、伊牟田尚平、益満休之助、神田橋直助、樋渡八兵衛、村上俊五郎、安積五郎の7人だったという。

3 清河の町人斬殺事件とその後

事件は書画会の帰路で発生した。「潜中始末」には、その事件について、「帰路何れも或店に立寄る。最早夕暮に及ぶ。路途に一無礼の者ありて、已むを得ず斬棄つる。」とあり、「潜中記事」には、「帰路黄昏一の暴漢に遇ひ、之を斬る」と記されているだけである。

この事件について、小山松勝一郎著『清河八郎』には、「(一行が)甚左衛門町にかかった(中略)ここに捕吏の練りに練った罠がしかけてあった。職人風に変装した手先が酒くさい息をふきかけながら(中略)棒を手にして八郎の前をさえぎった。(中略)無礼人の首は飛んで云々」とあり、それを合図のように、今まで物陰にに潜んでいた捕り手が立ちあがった、などと記されている。しかし、幕府から前日の19日に捕縛命令が出ているなかで、捕吏がそのような姑息な罠を仕掛ける必要などなかったはずである。

この事件に直接関係すると思われる資料が、『藤岡屋日記』に載っているのでやや長文になるが、ここに転載したい。これは、甚右衛門町で料理茶屋を営んでいた豊田屋が、その筋に届け出た事件で、その届出書の表書には、「(文久元年)五月廿日夕七ツ時頃、狼藉者一件』と記されている。

右は留守居寄合参会茶屋ニ而、振り之客ハ不致候処、今日侍六人来り候処、様子悪敷候間、今日ハ魚切ニ付、相休申候由、相断候処、侍共立腹致し、刀抜はなし、二階の柱障子畳其外切散し、其上ニ而万久ニ而吞直し候間、案内致せと申ニ付、若者半天を着、案内ニ出候処、余り気味悪敷候ニ付、道ニ而はづし路次へ隠れ候処、其節往来通り懸り候半天を着候男を捕へ、案内致せと云、私ハ不存と云、侍立腹致、刀引抜候故、迯出し候処、近辺不残右騒ニ付、戸を締候処、木具や一軒戸明居候故、迯込候処ニ追込て、腕を切落候由、然ル処、誰有而捕押候者壱人も無之、近辺ハ皆々戸締有之候ニ付、侍共ハ迯も不致、六人一所ニゆうゆうと両国之方へ参り有之候由、跡より見物人、切た切たと大勢附行候得共、跡を振返ルと迯出し候由、然ル処、右六人も日中之事故、六人一所ニてハ迯ル事不能と分れ候而、壱人ハ浅草見附普請場へ迯込、被召捕也、二人ハお玉ケ池千葉周作へ欠込候処、跡より手先共附行、右之趣、千葉へ知らせ候故、千葉ニて二人捕へ差出し候由、跡三人ハ未ダ行衛知れ不申由。

ここに記された顛末が事実なら、実に理不尽極まりない事件である。銘酊していたとはいえ、料理茶屋豊田屋での乱暴狼藉といい、見ず知らずの通行人に無理難題を吹きかけて切り付けるなど、心ある武士の所業とはとても思えない。しかし、事件に関わった浪人の数や、事件の顛末などに大きな違いがあるものの、同じ甚右衛門町で5月20日の夕方4時頃に発生した事件であったからには、清河の町人斬殺事件のことであることは間違いないだろう。書画会の終了後に、同志の内の1人は、別れて先に帰ったのかも知れない。

この事件に関して安井息軒が小野勘左衛門に宛てた手紙にも、「両国万八楼之書画会有之、会散候後、清川八郎と申者外三四人、前楼之会之酒興之上、散々乱防候、其後於途中路人を致切害云々」とある。また、庄内藩留守居役黒川一郎が本藩に送った報告書に、「廿日茶屋にて酒を飲み、ふんざけ帰り候途中ゆえ、境町裏通りなる甚右衛門町にて人を殺し、これは職人体、よろしく切れ候。(中略)この節五六人連れにつき、うかとは取方の者かかられ申さざる由云々」とあり、「酒興之上、散々乱防候」とか「酒を飲み、ふんざけ帰り候途中」とか、豊田屋の届出書と附合するところがある。

この事件の後、大がかりな逮捕劇が始まった。「潜中始末」によれば、「夜に入り何れも立帰る」とあるから、先の豊田屋の届出書とはことなり、全員が清河塾に帰ったらしい。清河たちは、そこで今後の身の振り方を相談した結果、奥富村の広福寺にしばらく潜伏して様子を窺うことに決定。翌21日の夕方、清河、安積、村上、伊牟田の4人は秘かに江戸を出立、翌22日に広福寺に着いたとある。

小山松勝一郎著『清河八郎』には、清河たちが逃げ込んだ広福寺の住職は、元水戸藩士で清河と玄武館の同門の「意章」という人であると記されているが、同氏は月刊誌「むすび」(153号)のなかでは、「広福寺の和尚は、かって練造の紹介によって八郎と知り合った仲である」としている。なお、川越の郷土史家故岸伝平氏の論稿には、広福寺の住職は、旗本の次男で、西川練造が江戸遊学中に知己となり、思想上の共鳴者であったため、その縁故で(練造が)広福寺近くに居を構えた、とある。北有馬太郎の漢詩集には、住職の名は、「無染」とある。北有馬は広福寺の東側に学塾を開いていた。清河たち4人が広福寺に到着した日、早速西川練造が寺を訪れたが、北有馬太郎は出張教授に出ていたらしく、翌23日に広福寺を訪れている。

小山松勝一郎著『清河八郎』によれば、その同じ23日、江戸では池田徳太郎、笠井伊蔵、斎藤熊三郎の3人が、清河塾から奉行所に引き立てられ、同日、清河の愛妾蓮も預けられていた水野行蔵宅から伝馬町の獄舎に投じられたとある。
しかし、『藤岡屋日記』に載る笠井伊蔵の組頭金田式部の届出書には、笠井の捕縛について、「五月廿一日四ッ谷組屋敷ニ於而、笠井甲(伊)蔵被召捕候」とある。また、斎藤熊三郎と愛妾蓮女に関して、同じ届出書に、「右(清河八郎)は酒井左衛門尉元家来故、屋敷より手勢を以、討手差し向候処ニ、八郎ハ逃去、行衛不知、妻・弟ハ廿三日召取、町奉行ヘ引渡し、同夜仮炉(牢)入有、翌廿四日揚屋入」とあるので、2人とも庄内藩によって捕縛されたのである。池田徳太郎については、沢井常四郎著『維新志士池田徳太郎』に、5月21日に神田お玉が池の清河塾で捕えられたとある。

一方、清河たちの潜む奥富村では、5月24日、捕吏100人余が入間川村の名主宅に集まっていると知らされたため、西川練造が様子を窺いに出かけて捕縛されてしまった。捕吏追尾のことは、先の金田式部の届出書に、「(清河は)酔狂之上切殺逃去候、但、川越辺え逃去候由ニ付、公儀より討手被差向候よし」と記されている。

24日の広福寺では、西川練造が捕縛されたと察知し、協議の結果、一先ず江戸の様子を探るため、その夜清河ら4人は奥富村を脱出していった。翌日、北有馬太郎が捕縛された。広福寺住職も就縛され、入牢となったが、『藤岡屋日記』には、6月15日、「改村役人江戸宿え預ケ遣ス」とある。村人たちの必死の嘆願があったという。

西川や北有馬同様5月20日の事件現場にいなかった石坂周造は、「原胤昭資料」に「石坂宗順義ハ下総国香取郡神埼宿高照寺ニ罷在候由申立候、医師右宗順義ハ八州廻へも御沙汰有之、南北八州方打込にて、下総ニて召捕」と記されている。その日は、前川周冶著『石坂周造研究』に、6月23日とある。

これ以外に、虎尾の会の同志ではなかったが、医師で篆刻師の嵩春齊が投獄された。清河は江戸に戻った後、5月25日から28日にかけてこの嵩春齊宅に潜んでいた。また、6月12日に越後新潟から春齊に宛てた清河の手紙が、幕吏の手に落ちている。この間の一連の事実は、「原胤昭資料」に記されている。こうしたこともあって、同志或いは協力者と見なされたのだろう。

清河の町人斬殺事件に関連し、捕縛された者で明らかになっているのは、以上の9人である。このうち、笠井伊蔵は、小塚原回向院の墓石には、文久元年10月16日に獄死とあるが、笠井家の位牌には、11月15日死去とある。享年35歳。西川練造は同年12月14日に獄死、享年45歳。北有馬太郎は師家に類の及ぶのを恐れて身分を明かさなかったため、無宿牢に入れられて同年9月3日獄死(異説あり)、享年35歳。清河の愛妾蓮女は、文久3年9月5日死去。庄内藩による毒殺説もある。享年24歳。嵩春齊の入牢後の消息は不明である。老齢であったため、間もなく牢死したと推定されている。

清河八郎はその後、京都での挙兵を画策したものの、文久2年4月の寺田屋事件で頓挫。さらに、幕府が勅旨に従って破約攘夷を表明したことなどから、浪士徴募を幕府に献策。その実現をみたが、その後幕府に攘夷断行の意思のないことを察知し、横浜異人街の焼き打ちを計画したものの、その直前の文久3年4月13日、幕吏によって暗殺されてしまった。享年34。


【主な参考文献】 
○『清河八郎遺書』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会) 
○『清河八郎著「潜中紀事」訓註』(石島勇・『日野市立新選組のふるさと歴史館叢書』第12輯・日野市) 
○『原胤昭旧蔵資料調査報告書-江戸町奉行所与力・同心関係史料-』3(千代田区教育委員会) 
○『藤岡屋日記』(須藤由蔵著・鈴木 三、小池章太郎編・三一書房)
○『史談会速記録』(史談会・原書房) 
○『蘭方医村上随憲』(篠木弘明・境町地方史研究会) 
○『大橋訥庵伝』(寺田剛・慧文社) 
○『斬奸状』(栗原隆一著・井出孫六監修・學藝書林) 
○『安井息軒書翰集』(黒木盛幸監修・安井息軒顕彰会) 
○『石坂周造研究』(前川周治・三秀社) 
○『清河八郎』(小山松勝一郎・岩波書店)
○『清河八郎』(大川周明・文禄社)
○『勤皇家贈従五位西川練造傳』(峯岸登僊著・川越市役所) 
○『むすび』第153号(清河八郎記念館)

※本稿は『歴史研究』第614号(2013年9月号)に「特別研究」として掲載されたものに、若干の訂正を加えています。