Ⅴ 【南部藩儒官山崎士謙(鯢山)について】 (北有馬太郎関係)

その一
 北有馬太郎(本名中村貞太郎)の日記に山崎士謙を見るのは、弘化3年(1846)11月9日、「東白乃ち発す。(中略)独り山崎士謙送って品川に至る。途赤羽邸を過ぎる。山本君山、船曳環、津留崎銀蔵、亦送って高輪に至って別れを告げる」、とあるただ一度だけである。北有馬太郎が学半ばで、失意のうちに江戸を去る日のことであった。
 この日、山本君山ら久留米藩士たちと高輪で別れた後も、山崎士謙は北有馬太郎を送って1人品川まで至ったのである。この日の朝は、昨夜の降雪が溶け、路は泥濘が深かったという。
この山崎士謙は、通称は謙蔵、名は吉謙、士謙は字で、鯢山と号した人である。文政5年(1822)に山崎治右衛門吉興の次男として、陸中下閉伊郡津軽石村(岩手県宮古市)に生まれている。北有馬太郎より5歳の年長であった。

 山崎士謙の兄友仙は、医を業とした。『上閉伊郡志・巌手懸下閉伊郡志』に、この兄友仙について、「(医業の)傍ら盛合光恕等と謀り近郷の子弟を集め孔孟の教を講ず。門弟数百名。詩書を善くし米年と号し、遺墨の世に傳ふるもの尠からず。當時、文道和尚、盛合う魯斎と名を等ふし、時人、閉伊の三傑と称せり。」とある。儒医として私塾も開いていたのである。友仙と士謙の父吉興の人物像については定かでない。

 山崎士謙は、17歳の天保9年(1838)に、江戸に遊学して佐藤一斎、安積艮斎に学び、林大学頭述斎にも師事して経史を修め、次いで尾藤水竹にも従学したという。北有馬太郎は、弘化3年の7月から尾藤水竹の家に寄寓しているので、2人の出会いはこの時のことであったと思われる。とすれば、2人の交友は3ヶ月余りに過ぎなかったことになる。
 この時、山崎士謙の江戸での学問修行は既に8年に及んでいた。その山崎士謙の号鯢山は、学問を志して郷里を発足する際、立志家郷を後にするからには、鯨山(上閉伊郡下閉伊郡の境界に聳える標高600メートル余の山)のような衆目を集める人になろう、と決意したことに因んで付けられたという。

 山崎士謙は江戸で学んだ後、京都に上り、梁川星巌に師事して詩文を学んだとされる。しかし、梁川星巖は天保5年から弘化2年の6月まで、江戸のお玉ヶ池に玉池吟社を開いていたので、士謙は在府当時から梁川星巖の門に出入りしていたのではないだろうか。その梁川星巖は、山崎士謙の詩を評して、常に「天籟の響きあり」と賛嘆している。士謙は後に、横山(小野)湖山、大沼枕山と共に「梁門の三山」と呼ばれている。その山崎士謙の門人で、書家の山口剛介の手録「鯢山遺稿」のなかに、「送中村太郎帰久留米」と題する次のような詩がある。
   送到城南離別地 潜然堪灑無言涙 五年離合泣窮塗 三月同窓論宿志
   逆浪暁収明石船 疎鐘暮響高砂寺 何時更把数行杯 聞爾騒壇建一幟
 この他に七言絶句が2首あるが、弘化3年11月、帰郷する北有馬太郎を送って品川宿で詠んだものだろう。

 また、「鯢山遺稿」のなかに、「與西川桂輔同賦原十首」と題した次の3首の七言絶句が収載されている。西川桂輔とは、北有馬の畏友西川練造である。
   風雪僅収夕日低 抄冬景色転凄凄 倚欄自愧吾漂泊 已似寒鴉未得栖
   聖人之道鳥衰夫 多見官途事佞諂 若問読書実用事 世間何物是真儒
   豪懐何嘆歳将除 大任吾曹感有余 喚起西窓酔易直 分燈通暁読兵書
 易直とは、西川練造の名である。この次に「谷口課題春未夏初限麻韻」と題する七言絶句が掲載されているので、「與西川桂輔同賦原十首」は、先の「送中村太郎帰久留米」と然程時を経ずに詠まれたものと思われる。山崎士謙は、北有馬太郎と西川練造の共通の友だったのである。
山崎士謙が江戸に遊学した天保9年は、西川練造が遊歴の旅に出たとされる年と一致する。2人は、佐藤一斎か尾藤水竹の塾で出会っていたのかも知れない。なお、以上の事実以外には、山崎士謙と西川練造との関係を示す資料は確認できていない。

その二
山崎士謙、大沼枕山と共に「梁山の三山」と呼ばれた横山(後に小野と改姓)湖山は、文化11年に三河吉田藩領の医師の子として生まれている。名は巻、字は懐之といい、初め医を修めたが、後に江戸に遊学し、梁川星巌に詩を、尾藤水竹・藤森弘庵等に儒学を学んだという。永井荷風著『下谷叢話』に、湖山が始めて江戸に出たのは、天保3年5月であったとある。梁川星巌が江戸京橋八丁堀に玉池吟社を開いたのは、同じ年の10月であった。「星巌集」には、「横山懐之ハ(中略)来ッテ余ノ塾ニ遇ス。年僅ニ二十七。志気頗壮ナリ云々」とあるという。これが湖山の玉池吟社への入塾の時なのか、その後の寄寓の時なのかは不明である。

横山湖山の「湖山楼十種」に、「山崎鯢山来過談及帰計座間賦呈」と題する次の七絶がある。
  落托知君同我感 慚将敝褐向家山 慈親情本與人異 不問窮通只望還
この作詩のいつ頃かは不明だが、『山崎鯢山伝』等に言う通り、山崎士謙は京都で梁川星巌に詩を学んだのであれば、この詩は弘化2年6月に星巌が江戸を去り、その後士謙が上京して星巌に師事した後のものだったのだろう。なお、北有馬太郎の日記弘化2年9月5日の条に、「戸田氏を辞す。横山懐之家に遇す。」とあり、その2ヶ月後の1月10日の条に「横山懐之を辞す。依田氏に遇す。」と見える。当時貞太郎は、寄寓先を転々としていて、横山湖山の家にも世話になっていたことがあったのである。

『近世藩校に於ける学統学派の学風』にも、士謙は江戸で学んだ後、「また京都に遊んで梁川星巌に詩を学び、頼三樹三郎・小野湖山・鷲津毅堂・嶺田楓江・松岡毅軒等と交わって教養を広めた。」と記されている。また、鯢山は大阪に安政年中2年ほど留まった(『山崎鯢山伝』)という。
籾山衣洲の『明治史話』のなかに、上京後の士謙は、梅田雲浜頼三樹三郎らと共に国事に奔走したと記されているという。士謙は儒学や詩文以外に、兵学や洋学等も学び、佐久間象山の門にも出入りしていた。西欧列強諸国やロシアのアジア侵攻への危機感も強かったらしく、嘉永4年(1851)には、「英吉利新志」や「魯西亜史略」を著している。

また山崎士謙は遊歴を好み、その足跡は関東から関西、山陰、山陽等の諸国に及んだという。安政4年に士謙が上木した「鯢山詩稿」に、横山湖山が記した序文には、特に「毛武之間に鯢山を知る者多し」とある。その「鯢山詩稿」や士謙の門人山口剛介の手録「鯢山遺稿」に、その事実であることの証拠が数多く見いだせる。その幾つかを拾い出してみよう。

紙幅の関係上詩題だけの紹介になるが、上州に関しては「十一月念四同深町北荘大館霞城細谷為山飲於為山樓」、「木崎僑居示桑原吾樓田島栗斎二首」、「「三光石歌為藤岡湯浅石亭賦坡公仇池石韻」等々がある。ここに名のある深町北荘は、伊勢崎藩御用達を勤めた豪農で、寺門静軒に師事し、金井鳥洲に南画を学んだ。上毛に来遊の文人たちはまず北荘を訪ねたことから、「上毛文苑の玄関番」と呼ばれていた。大館霞城は古賀侗庵等に学んで、漢詩人として詩名が高く、また尊王攘夷家でもあった。細谷為山はこの地の豪農で、農間渡世としての糸絹商いで財を為した人である。なお、しの木弘明編著『深町北荘資料』に、安政2年11月付と推定される大館霞城の山崎士謙宛て書簡が収録されている。

 さらに、桑原吾樓とは金井之恭のことで、画家で勤王家の金井鳥洲の子であり、高山彦九郎に私淑した尊王攘夷家であった。田島栗斎については、管見にして特定できていない。藤岡の湯浅石亭は、元中山道本庄宿の人で、名石や珍石などの蒐集家として知られていた。なお、藤岡には山崎士謙門下の大戸五峰がおり、この人に関する詩も複数確認できる。

 武州に関しては、「訪問吉田久彌」、「妻沼客中空谷上人賦」、また詩題が長文なので省略するが根岸友山・雲外兄弟、尾高藍香等の名も見える。ここにある吉田久彌は、通称を六左衛門と称した豪農で、その家には来遊する文人墨客も多く、幕末には薩摩の寺島宗則五代友厚も潜匿した家である。空谷上人とは、妻沼の古刹歓喜院の院主で、法号を英雅といった人である。詩文を愛好し、寺域を寺門静軒に提供して私塾両宜塾を開かせている。ちなみに根岸友山は、田畑80町歩余を有する豪農で、文武を好んで邸内には学問所や剣術道場も備えていた。来遊した有志は枚挙に暇なく、食客は常に10人を降らなかったという。雲外は友山の末弟で、寺門静軒の娘を妻とし、詩を好み、椿椿山に師事して画を善くした。尾高藍香は渋沢栄一の義兄で、学問の師でもあった人である。
 以上は、山崎士謙が来遊した毛武の名家のほんの一例である。

その三
 安政6年、山崎士謙は南部藩に儒官として招かれ、後に藩校明義堂(慶応元年に作人館と改称)の助教と侍講とを兼ねた。士謙が南部藩に仕えた年の翌年、長州の吉田松蔭とも親交のあった江幡梧楼(那珂通高)が明義堂の助教に任ぜられ、以後2人は親交を深めている。
 管見にして、士謙の維新に至るまでの去就は定かでない。友人の江幡梧楼は戊辰戦争の際、楢山佐渡の秋田討伐への従軍や、奥羽同盟の斡旋等の罪を問われている。江幡は東京に護送され、南部家の菩提所である芝の松林山金地院に幽閉されたが、その幽閉先の金地院を士謙が度々訪れていた様子を、江幡の記した『幽囚日録』で知ることができる。それによれば、士謙は当時、藩校作人館の漢学教授と御取次兼御勘定方を兼ねていたらしい。

 明治の初年には県庁に奉職し、『岩手県誌』の編纂に従ったが、幾許もなくして職を辞し、明治12年(1879)には、盛岡に私塾集義塾を開いて経史を講じた。従学する者数百人に及び、大倉誠之、山口剛介、谷本桜盧等の有為な人材を育て、同29年に没した。享年は79歳であった。

 門人大倉誠之の記した碑銘に、「先生人となり謙虚、恬淡、人に接するに和易・矜飾する所なし、常に故旧に厚く、零丁無倚の者を見れば、則ち之を救い一文無しとなるも、意に掛けざるなり。是を以て、人皆其の徳に服せざるはなきなり。」とある。山崎士謙が金銭に余り頓着しなかったらしい様子は『幽因日録』にも、「昨夜議論せしハ謙蔵と菊池稲蔵の二人にて、謙蔵、旧臘の内借、未だ返却せざるニ依てなりといへり。」とか、「謙蔵来る。楢山君、窃ニ金を賜ふ。此は、去る十五日の夜、内借の為ニ稲蔵ニ談ぜられたるを御聞ありしニ依て也。」、などという記述が見える。士謙に金を与えた「楢山」とは、南部藩家老楢山佐渡のことで、この後国元に送られて、自刃させられた悲劇の人である。戊辰の役の際、秋田に兵を進めて、一藩の順逆を誤った責を負わされたのである。

 再び長い引用になるが、『山崎鯢山伝』に士謙の学問と詩について次のようにある。
 「鯢山先生の場合は、漢学者と見るべきであり、そして、何れの漢学者も同時に詩人でもあったが、鯢山先生は、むしろ詩人として任じ、且つ其の天分が、詩に於て、十分発揮されたと見るのが妥当であろう。先生の詩に、<自分の本来は、兵法にある>と言うように力説されてはいるが、然し乍ら、先生の兵法は六韜であり三略である。(中略)当時の科学者を動員して、兵法の革新を図って居る時、鯢山先生の理念の兵法たる孫子呉子の兵法は、時代的に既に、古色蒼然たるものであり、従って現実とは程遠い物であった事が想像される。故に、折角研究された先生の兵術が明るみに出る事がなかったのであろう。此心が、詩となって生まれたものと思う。又、特に易経に精通され、当時の学究達も詩人としてより、経史に通じた人として、承認していたようであるが、然し、先生の真の面目は、詩人に於いて、遺憾なく発揮されて居ると見たいのである。(中略)鯢山先生の詩は、旧来の形式主義を捨てさり、心魂の叫びを、文字を駆使して、自由奔放、生彩陸離たるものがある。文字の叫びと言うより魂の叫びであり、天真の流露であった。」

 引用ついでに、山崎士謙その人に直接接したことのある『盛岡市史』の筆者は、士謙について、「筆者年少鯢山を見る、言、僕実にしてその風貌はさきに記した毅軒の文に彷彿としている。鯢山は実に為人の高逸を以て伝らるべきであろう。」と記している。文中にある「毅軒の文」とは、松岡毅軒が山崎士謙の風格について、「鬢の毛が乱れて痘瘢の顔で眼光が鋭く躍々として人に迫るものがある。」と評したことを指している。

【主な参考文献】 
○『盛岡市史・別編人物誌』(盛岡市史編纂委員会・盛岡市) 
○『上閉伊郡志・巖手懸下閉伊郡志』(巖手懸教育會・臨川書店) 
○「鯢山詩稿」(山崎鯢山・『南部叢書』第八冊・南部叢書刊行会・歴史図書社) 
○「鯢山遺稿」(山口剛介・『南部叢書』第八冊・南部叢書刊行会・歴史図書社) 
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷會誌』・久留米同協会) 
○『幽囚日録―那珂梧楼日記』(岩手古文書会編・国書刊行会) 
○『梁川星巌』(田村榮太郎・三元社) 
○『下谷叢話』(永井荷風岩波文庫) 
○『近世藩校に於ける学統学派の学風』(笠井助治・吉川弘文館) 
○『深町北窓資料』(しの木弘明編著、境町地方史研究会)