1 【北有馬太郎と二人の尊王家】

1 はじめに

 『漂泊の志士―北有馬太郎の生涯』は、筆者の幕末維新に関する人物探訪のすべての始まりであった。上梓の経緯は、この本の中で披瀝したが、ほかにも上梓を決意させるに至った忘れ難い二つの出来事があった。その一つは、回向院の北有馬太郎の墓所を訪ねた際のことであった。墓石の前に佇んでいた筆者の背後から突然、「その墓の子孫の方が、昨年島原から50年ぶりに墓参に見え、その際に資料を頂いたので、宜しければ差し上げましょう」、と声を掛けられたのである。それは、塋域を金色に染めた銀杏の葉を掃き集めていた寺の方であった。喜んで頂戴したその資料の中で、福岡県の久留米市立図書館に、北有馬太郎の日記が所蔵されているという事実を知ったのである。

 そして、取り寄せたその日記の写しで、北有馬太郎の父の墓が千葉県成田市飯岡の永福寺にあるらしいことを知り、そこを訪れた際のことであった。無住の寺の塋域を探し回ったものの、墓は確認できず、諦めて帰ろうとした時、ふと目に止まったのが、高く積み上げられた無縁墓群であった。コンクリートで固められ、戒名しか見えないため、無駄とは思いながら近づいて見ると、その最上層に2基の小さな墓石が置かれていたのである。そして、実にその一つが北有馬太郎の父の墓石であった。

後に檀家総代の方にお聞きすると、数年前、寺の裏山が崩れて多くの墓石が土砂に埋まったため、昨年これを掘り出し、無縁の墓を積み上げて塔にしたが、後から出てきた二つの墓石は塔の上に置いたとのことであった。
 この二つの不思議な偶然が、北有馬太郎という人物の生涯を、私個人の記憶の中に留めておくべきではない、との思いに拍車を掛けたのであった。

 余談が長くなったが、『漂泊の志士―北有馬太郎の生涯』は余りにも冗長なため、本稿以下の数稿で、北有馬太郎と、北有馬に関係した人物の何人かを新たな事実も踏まえて紹介することとした。なお、次稿以下Ⅲ稿までは、表題以外は北有馬太郎の本名中村貞太郎(中村太郎の名も使用しているが、母の実家の「八木家系図」には貞太郎とある。)の名を使用する。また、本文中、原注とない限り括弧内は筆者の注記である。

2 若き日の中村貞太郎

幕末の久留米藩内には、水戸学を信奉する天保学連と称する一派があった。忠孝節義を基本に、学問即士道の観点から事実実行を重んじ、内外情勢への高い識見を以て天下国家に裨益することこそ、真の学問であると主張する木村士遠、村上士誠、真木和泉守を中心とする人たちである。

天保15年(1844)7月、この天保学連の同志たちは、江戸滞在中の藩主に藩政の改革を直訴するため、秘かに建白書を呈出することとなり、その使者に選ばれたのが、弱冠18歳の中村貞太郎であった。この一事を以ってして、天保学連同志たちの、貞太郎に対する信望の厚かったことが窺える。その貞太郎の風采について、安井息軒塾の同門佐倉藩士倉田施報は、「北有馬百之略傳」(以下「百之略傳」という)に、「君身体雄偉、眉ふとく眼すすやかにして色浅黒く膚澤やかなり。常に義経袴と称する短□袴をはき、長刀を横たへ、気宇皓々一見して其非凡なるを知るべし云々」、と記している。

中村貞太郎、名は百之。字は誠之。誠所、儲古斎、心外等の号がある。文政10年(1827)に、肥前国髙来郡北有馬村(長崎県南島原市)に生まれた。母の実家八木家の系図に、父の名は寛平義正とある。一説に父は久留米藩の御用商人、或いは質屋であったという。『百之略傳』には、「中村氏は州の望族にして家世富あり」とあるのみで、その事実は不明である。

なお、貞太郎の子安井小太郎が後年、「祖父は(中略)久留米の御用商人となりました。」(『大東文化』第17号)と語っているが、貞太郎の日記に記される父寬平からは、それらしい様子は窺えない。この安井小太郎の談話には、ほかにも「父が十五才のとき久留米に移住した」等、事実と異なる話がある。ちなみに、父貞太郎横死の際、小太郎は4歳の幼児で、父の死後は母方の安井家で養育されている。

「八木家系図」によれば、貞太郎には4人の弟と、早世を含めて6人の妹があった。次弟の重義(主計)は、後年貞太郎と同様に非業の最期を遂げている。なお、貞太郎の4人の弟については、「北有馬太郎の四人の弟たち」に詳述する。

天保4年(1833)、貞太郎7歳の時、家族と共に筑後国久留米に移住した。その理由について『百之略傳』には、「祖君没して後幾許あらずして伯父某亦没し、遺孤早太君後を承け尚幼なり。(中略)父君叔父なるを以て族人相謀り、代りて其家を幹らしむ。(中略)早太君漸く長じ、族中猜忌の徒、父君を早太君に讒する有りて、遂に宗を奪ふの意ありと、早太君之を信じ、嫌隙これより深く、各相党援して争訟やまず」、そのために一家を挙げて久留米に移住したとある。この重い事実は、後年に至るまで貞太郎とその一家に暗い影を落とすこととなった。なお、母と一部の弟妹たちは、後に母の実家である矢櫃村(長崎県南島原市)の八木家に引き取られている。

 久留米移住後の貞太郎は、12歳で重富縄山に、15歳で広瀬淡窓の咸宜園に学び、17歳の時、父の命により藩校明善堂の教官木村士遠の私塾日新社に入った。貞太郎が天保学連同志たちの悲願達成のため、江戸の藩主への藩政改革意見書を託されたのは、その翌年7月のことであった。国禁を犯す決死の行であったが、無事任を果たした貞太郎は、帰郷4日後、藩の奥詰石野陸三郎や木村士遠と共に長崎へ出張した。藩主の内命によるものであった。当時長崎には、オランダ軍艦パレンバンが入港中で、その見聞探索が目的であったらしい。

 貞太郎は長崎から戻って3日後、江戸へ戻る石野陸三郎と共に、学問修行のために上府し、後に幕府の儒官となった安井息軒に師事した。在府中は横山湖山、尾藤水竹家等に寄寓し、小国致遠、西川練造、月足元輔、山崎士謙、山本君山等多くの有志たちと交誼を結んだ。しかし、『百之略傳』によれば、翌弘化3年11月、「父君の意を体して」学半ばで帰省を余儀なくされたのであった。その理由は、「弘化二年に至り、余燼またもえ(一族との)嫌隙さらに深く」なったことによるらしい。「(帰省後は)家の艱みに遇て(中略)、東奔西走為めに盡瘁せられた」のであった。貞太郎が姓名を北有馬太郎と改め、心外と号したのも、この頃のことだったようだ。
帰省後の貞太郎は北有馬の地に赴き、親族等の間を奔走しているが、その詳細は不明である。貞太郎はまたこの間、木村士遠の日新社に寄寓し、学問の研鑽にも励んでいる。

3 真木和泉守保臣

 貞太郎は、江戸から戻った後の翌弘化4年4月、天保学連の重鎮真木和泉守と熊本に遊んだ。この時貞太郎21歳、真木和泉守は35歳であった。和泉守は、名は保臣、紫灘と号した。文化10年(1813)、久留米城外瀬下町の水天宮祠官の家に生まれ、11歳の時、父の急死により家を継いだ。20歳で上京し、神祗管領吉田家から大宮司を許され、従五位下和泉守の官位を授けられている。和泉守は学問にも熱心で、宮原国綸に崎門学を、宮崎信教に国学を学び、また藩校明善堂にも席を置いた。

和泉守は、幼少時から尊王の志が篤かった。文久元年(1861)3月の妻宛ての書中に、「きんり様の事には、いとけなきときより身をすてて御なげき申し候もの云々」、と記されている。天皇の直臣であるという意識のもと、王政復古を生涯の念願とした。南朝の忠臣楠正成への崇敬の念深く、その純忠の精神を継承体現すべく、正成戦死の5月25日には毎年楠公祭を怠らなかったという。

和泉守と貞太郎の関係が資料に残る最初は、貞太郎が天保学連同志の建白書を託されて上府した際のことである。その同じ天保15年の4月、和泉守は水戸遊学を名として江戸に上り、7月20日に念願の水戸に入った。貞太郎が江戸に着いたのは、その翌21日のことであった。貞太郎の日記に、「始めて赤羽邸に達す。講学所に造く。真木泉州在ず云々」とある。貞太郎は、和泉守を介して藩主に上書するよう指示されていたらしい。止むを得ず、貞太郎は直ちに在府の同志野崎平八に建白書を託したのである。

一方、水戸で会沢正志斎に教えを受け、日下部伊三次等と親交を結んでいた和泉守のもとに、7月26日、在府の同志佐田修平から至急江戸に戻るよう、書通があったのである。和泉守は翌日水戸を発ち、28日の夜半に江戸に帰った。翌29日の和泉守の「天保甲辰日記」には、「佐田、野崎、佐藤来る。中村、八重津両生有り。」とある。「八重津」とは、貞太郎に同行した八重津伊三郎である。

翌8月1日の貞太郎の日記には、「平日尾張屋を発つ。不破(孫市)、野崎、真木送って高輪に至る。店に投じて飲みて別る。独り真木又送って品川に至り別る。」と記されている。久留米に戻る貞太郎たちを、和泉守は1人品川宿まで送ってくれたのである。その後の2人の日記には、弘化4年4月の熊本遊歴に至るまで、互いの名は見出せない。
その4月24日、和泉守と貞太郎の2人は久留米を発し、熊本の木下梅里や阿蘇神社大宮司阿蘇惟冶等を訪ね、阿蘇山に登って翌月2日に久留米に帰っている。

 熊本から戻って3ヶ月後の8月6日の貞太郎の日記に、「真木和泉と約し東上、この日予先に大宰府に至り云々」とある。翌7日の真木和泉の「弘化丁未日記」には、「中村孟行先に在り、孟行故在りて大坂に奔る。予其議に預かる云々」と記されている。「其議」が如何なることかは不明だが、当時、貞太郎の伯父八木天山(士禮)が、大坂で藤沢泊園の留守中の塾を預かっていた。その伯父天山に宗家との嫌隔融和への助力を請うための上坂だったと思われる。ちなみに、この八木天山は、貞太郎の母の弟で、藤澤泊園の撰になる「天山先生墓碑銘」に、天山は筑前の亀井昭陽に学んだ後に泊園に師事したとある。貞太郎の良き理解者で、この人から受けた学問上の裨益も大きかったらしい。

一方、真木和泉の上京には、孝明天皇即位式典の拝観という目的があった。入京する和泉守一行とは途中で別れたが、同月28日には、和泉守は貞太郎が滞在する藤沢塾(泊園書院)を訪ねている。同日の貞太郎の日記に、「真木紫灘及び小野(加賀)、藤原二生予を藤沢氏に訪ねくる。乃ち同に堂島に之宿る云々」とあり、翌日の和泉守の日記にも、「昨夜社中と共に藤沢塾中に中村用之を訪ねる云々」、と記されている。2人の日記に互いの名を見るのは、これが最後である。翌年貞太郎は久留米の地を離れていることもあって、その後の2人の関係を知ることはできない。

 嘉永5年(1852)5月、和泉守は久留米藩内の政争事件から蟄居を命じられ、久留米から南に4里離れた水田で幽囚の日々を送ることとなった。安政5年(1858)には、和泉守は「大夢紀」を書いて、親征倒幕の理念を明らかにする。文久2年には、脱藩して京都挙兵計画に参加したが、寺田屋事件で挫折し、再び幽因の身となったが、翌年6月に許されて上洛。同志たちから「今楠公」と呼ばれ、大和行幸策等を立案したが、8月18日の政変で再び挫折し、七卿と共に長州に下った。翌元治元年(1864)6月、久坂玄瑞らと共に、浪士隊の総管として卒兵上洛したが、禁門の変に敗れて天王山で自刃した。享年51。 

4 田中河内介綏猷

 弘化4年8月、貞太郎は伯父八木天山と共に大坂を発ち、久留米を経て島原に渡った。しかし、藤沢泊園塾の代講を勤めるほどの伯父天山が仲裁に入っても、その結果は芳しいものではなかった。そのためだろうか、翌嘉永元年5月、貞太郎は父寛平と共に久留米を去り、京都に上っている。なお、これ以前の3月中旬、弟重義と従弟八木次郎の2人が大坂に向かっていた。この時、母と弟妹たちは、母の実家八木家に身を寄せたらしい。

 上洛後の貞太郎と父寬平は、仏光寺東洞院西街の権田家に寄寓した。「百之略傳」には、入京後の貞太郎について、「星巌梁川氏、宇多野凌雲及び諸公卿の家司一時有名の人々と交わり、又聘に応じて日野公の講筵に侍し、遂に野宮、中山、清水谷の諸公に謁し、因て時事を中山、日野二公に建議し云々」とある。貞太郎が日野資宗、野宮定功、中山忠能、清水谷実揖等の公家に接したことは、貞太郎の日記でも確認できる。野宮卿は、真木和泉孝明天皇即位式典拝観の際、その随身という便宜を得た人である。

 入京後の貞太郎と父は、寄寓先を転々と変えている。その年8月には、貞太郎は父と別かれて田中河内介の家に寄寓。翌月20日には権大納言清水谷実揖の屋敷に移り、12月には座田氏、翌年4月には再び田中河内介家に転居している。そして翌嘉永2年5月、貞太郎は父と共に梨木町に移って、初めて私塾を開いたのである。時に貞太郎23歳であった。しかし、この塾経営は、塾舎の床が抜けるなどのこともあって、芳しいものではなかったらしい。6月末には、父寛平が田中河内介の家に移り、以後長く寄寓することとなったようだ。

 貞太郎が京都で最も親交を深めたのは、この田中河内介で、義兄弟の契りを結ぶほどの仲であった。河内介について、岡藩士小河一敏は『王政復古義挙録』に、「志操胆略ある人」と記し、出羽庄内の郷士清河八郎は『潜中始末』に、「其人となり沈毅にして団り。而して能く衆を容る。実に聞く所に背かざる所なり」、と記している。また、西郷隆盛の某氏への書簡にも、「京都に於て有名之人」とある。丈高く、髷長く、長刀を腰にしていたため、「三長さん」と渾名されていたという。名は綏猷、字は士徳、恭堂また臥龍と号した。文化12年、但馬国香住村の医師小森正造の次男に生まれた。1兄2弟とも医師となったが、河内介は儒者となることを志し、出石藩儒井上静軒に学んだ。天保6年に上京して摩島松南や山本亡羊に師事し、後に家塾を開いたが、天保14年には大納言中山忠能に召されてその侍講となった。その後、中山家の侍田中近江介の養子となり、弘化2年には従六位下、河内介の官位を授けられている。その歌、「大君の御旗のもとに死してこそ人とうまれし甲斐はありけれ」が示す如く、熱心な尊王論者であった。

 貞太郎らが上京した当時、河内介は中山家の庶務一切を担当するほか、忠能の長男忠愛(17歳)、7男忠光(4歳)や慶子姫(14歳)の教育係として獅子奮迅の日々を送っている時期であった。当時の貞太郎と河内介との交友の幾つかをその日記で拾ってみると、上京翌年正月11日には、「士徳と東山に遊ぶ」とあり、8月19日には、「士徳詩を寄せ、出遊を促す云々」とあって、その4日後に黒谷真如堂から吉田山を経て大津に吟遊している。翌年2月某日には、「田中士徳と山田両兄、井上文太、但馬医生山脇生、士徳妻の弟栄三郎を伴い詩仙堂に遊ぶ。(中略)酔うて溝中に墜ち数日起き得ず」などとの記事もある。また、貞太郎の漢詩集(「廣茅中村太郎先生詩稿」)には、「松崎に遊び帰途百花を摘んで士徳に送る」と題する優雅な詩等、2人の親交の深さを思わせる多くの詩が認められる。

 この田中河内介は、貞太郎の次弟重義とも義兄弟の契りを結んでいる。その重義について、貞太郎の在京中の日記には、嘉永元年8月1日の条に、「先月中二子(重義及び八木次郎)前後浪蘤り来る。権田氏に同寓」とあり、翌月10日には「弟重義寓を野黄門家に移る」とある。重義の野宮定祥卿家への寄寓の理由等は定かでない。

 貞太郎と河内介の京都での交友は、2年に満たなかった。嘉永3年3月下旬、貞太郎は父や弟を残して1人江戸へ旅立ったのである。上府後の貞太郎は、旧師安井息軒塾等に寄寓した後、その年6月下旬から、5千5百石取りの旗本久貝因幡守正典に招かれ、その屋敷に寄寓した。「百之略傳」に、「久貝氏賓師を以て君を侍し、其子弟及び家中諸子の教育を託し、公務のいとまおのれもまた諮詢する所あり云々」、とある。

 翌々年2月、貞太郎は久貝氏を去って北越の田村(新潟県上越市)に赴き、12月にはそこを去って筒石村(同県糸魚川市)に滞在。さらにその後地本村(同県胎内市)に留まったが、翌嘉永6年11月に江戸に戻った。いずれの地も、豪農たちの招きによる出張教授であった。帰府後の貞太郎は、再び久貝氏に寄寓している。。

 前後するが、貞太郎は嘉永3年中、「秋日寄懐田中河州」、「歳除寄士徳」等の詩を詠んで、江戸から田中河内介に贈っている。その後も2人の書通は続いたらしく、嘉永5年7月21日の貞太郎の日記に、「書を重義及び田中士徳、寺田政美に寄せる。四、五月の間亦嘗て書を士徳に贈る。未だ能く達したか否かを知らず」とある。

 河内介の主家中山家では前年の3月、慶子姫が典侍天皇の側室)となり、この年9月には中山家で皇子(後の明治天皇)を出産していた。この慶子姫の懐妊に際して、河内介は産殿の造営等一切の御用掛を命ぜられ、多忙な日々を送っていた。この頃、偶々郷里の母危篤の悲報に接した河内介は、「拙者一身、日夜奔走寸暇無く、拙家の家事も相捨て候位の折柄に付」、とても帰郷は覚束ない旨を、兄宛てに記して送っている。貞太郎への返書も思いに任せなかったのかも知れない。

5 田中河内介綏猷(2)

 貞太郎が江戸に戻った嘉永6年は、米国使節ペリー提督が黒船を率いて来航し、日本の開国を迫った年である。貞太郎は、山崎暗斎の流れをくむ木村士遠に学び、強固な尊王攘夷論者である真木和泉守や田中河内介と肝胆相照らしている。その歌、「敷島の我日の本の太刀あるを見せはや四方のあたし国人」や、「黒金の心しもてる人ならば我大君の御楯な李計梨」を見れば、その思念は明らかである。翌嘉永7年3月には、老中松平伊賀守に対して、外夷への対処策と人材登用に関する建白書を、上州安中藩儒臣山田三山と共に提出したが、受け容れられなかった。

 その年8月、失意のうちに江戸を去り、武州下奥富村(埼玉県狭山市)に私塾を開いた。翌安政2年春には、塩谷宕陰の媒酌で恩師安井息軒の長女須磨子と結婚。翌年春には、下総飯岡村(千葉県成田市)の豪農大河家の招きにより、その地で講筵を開くために奥富の地を去った。そして、その年7月には、病父を飯岡村に迎えるために上京し、弟重義や田中河内介との再開を果たしたのであった。

 なお、田中河内介は、前年(安政2年)の冬から島原や久留米を遊歴し、この年6月上旬に帰京したばかりであった。この九州旅行には、貞太郎の弟重義も同行していたのである。これは、翌安政4年9月、貞太郎が安井息軒に宛てた書中に、「両人(河内介と重義)昨年西下仕、彼方(中村宗家)へ申向候言葉有之候故、俄ニ和平ヲ乞候様相成候而ハ、両人之顔無之故之儀云々」とあることで明らかである。河内介と重義は、中村宗家に乗り込み、確執問題を解決しようと強硬な懸け合いに出たらしい。しかし、貞太郎はあくまで穏便な解決を望んでいたのである。

先の書簡にはさらに、「直人(貞太郎の弟)儀京師表ニ而和平之儀、河内、主計抔不同意之趣申聞候」とか、「(河内介と重義の)僅之顔ヲ立てんとて一家之沈淪ヲ差置候わけニは参申間敷く存候」等とある。これは、貞太郎の弟直人が宗家との和解のため、この年兄の代理で島原を訪れようとして、京都で2人に遇った際、2人が前年強行に対応した経緯から、直人の島原行きに反対したのである。貞太郎は息軒への書中で、「(総領の)私一身ニ受取懸リ申候而は何時迄も一家之落着出来不申候様被存候」と記している。これが亡父の遺言だったのである(「北有馬太郎の4人の弟たち」に詳記)。

 河内介と重義の2人は、島原から久留米を訪れていた。真木和泉守の「南僊日録」のこの年5月11日の条に、「陰、午前兵馬来報日、田中河州至自島原、主人説大事、河(州)能領意(下略)」とあり、また同月14日の条には「河州今日上途去」と記されている。真木和泉守は藩命により、嘉永5年以来弟大鳥居啓太方に蟄居中であったため、2人は会うことができなかったのである。

 河内介が、九州旅行から帰った翌月記した「鉄丸記」なる一文によれば、河内介と重義は貞太郎の生地北有馬村の隣村にある島原の古城跡を訪れていた。その際、田地から出土した島原の乱の大小の砲丸を郷人から譲り受け、その内の「大を友人寺田子へ贈る」と記されている。この「寺田子」については、さらに文末に「吾友寺田政美慷慨悲憤之人也。因りて此物を分つ」とある。寺田政美は京都の冨商だったらしい。安政元年8月に、河内介が寺田に宛てた書中に、「僕、常に足下を以て天下第一の知己者と為す」等と記されている。
 貞太郎も在京中にこの寺田政美と親交を深めたらしく、その日記や漢詩集にその名を見ることができる。

6 田中河内介綏猷(3)

 文久元年、田中河内介は長年勤仕した中山家を致仕した。村井正禮の日記の文久2年4月6日の条に、「元中山家侍、昨年位記返上、当時何と名乗居候や不知」(井野辺茂雄著『幕末史の研究』)とあるという。河内介が、致仕3年前の安政5年8月に小河一敏に宛てた書中に、「僕も昨年来不快之事共有之、勤仕相断引籠在候へども、此節は又々出頭云々」とあり、再び勤仕することとなった理由については、翌年9月に河内介が郷里の実兄に宛てた書簡に、「御殿出入之儀も、先年より彼是有之候得共、何分私立去候ては不相叶儀も被為在候に付、実は大納言殿御閉口之儀有之、何分長□主従、無拠何事も思留り、不相替勤仕罷在候」、と記されている。

これらによれば、河内介が中山家勤仕に一方的に不満を抱いたととれるが、安政6年6月に中山忠能が長男正親町公菫に宛てて記した遺書に、「田中河内介はどうも大山気の物ゆへ、下官存命せず候はば、早々永の暇宜しく候。何事を起こすも測り難く候」(『日本文化』第17号)とあるというから、忠能も扱い兼ねていたのである。

 先の河内介の書簡によれば、安政4年から中山家致仕の意思があったとあるが、前記のごとく、安政2年の冬から翌3年の6月まで、河内介は中村重義と共に遠く九州に赴いているのである。この時はまだ祐宮が中山家で養育されており(安政3年9月に宮中に帰る)、「骨を粉にくだきてのみか命さへかねてぞ君にゆだねつる身は」と詠んで、祐宮の養育に身命を賭した河内介である。その河内介が、長期間京都を離れたということは、祐宮養育等に関して、忠能との間にこの頃から疎隔が生じていた可能性も想像される。

 なお、貞太郎が安井息軒に宛てた、安政4年2月27日付けの書中に、「田中河内介より書状到来、三月中ニ是非東下仕候決意之旨、如何様之口ニ而も宜敷候間、御探索被成被下候、尤家族〆四人候」とあって、河内介が江戸移住を決意したため、その勤め口の紹介を息軒に依頼しているのである。この書簡にはさらに、「河内事も愈々東行相決、最早家宅道具抔不残売払夫々始末相付、正月式日中も病気申立、他之往来も不仕位之身之上に相成居候趣」とまで記されている。また、文中に「実以不省違約仕候より難渋相掛ケ痛敷存候」とあるから、前年の貞太郎の上京の際に、既に河内介東下の話は出ていたらしい。

 この年6月13日付けで、河内介が安井息軒に宛てた書中にも、「僕儀も太郎より御承知被下候通、東下之心組ニ候得共少々不都合之事有之趄趑罷在候。乍併当秋ニも相成候得ハ是非々々下向仕候。万端御厄介宜敷奉願候」とあるが、その後東下は断念して中山家に復職したのである。
 貞太郎と河内介の関係を示す資料は、先に中村宗家に対する対応をめぐる、河内介と弟主計との対立に関する、この年9月13日付け貞太郎の息軒宛て書簡以後は確認することができない。

 田中河内介は、この後再び中山家を辞し、文久2年に出羽庄内の郷士清河八郎真木和泉守らと京都で挙兵を謀ったが、寺田屋事件で挫折。鹿児島に護送される途中の船中で、その子瑳摩介と共に薩摩藩士によって慘殺され、48年の生涯を閉じた。北有馬太郎の弟中村重義もまた、河内介と行動を共にして同じ運命を辿っている。

7 おわりに

 中村貞太郎とは異なり、真木和泉守や田中河内介は、当時も今日においても、広く名の知られた人物である。その真木和泉守と貞太郎との年の差は14歳、田中河内介とは12歳の年の開きがあった。特に田中河内介は、梅田雲浜を「尋常有志之人」といい、頼三樹三郎に対しては「不足論人物、僕等僻之」と評したほか、伊丹蔵人は「尋常之愚人」、森寺若狭守は「愚人」と切り捨てるほど人物眼の厳しい人である。北有馬太郎はその河内介と義兄弟の契りを結んでいるのである。貞太郎が確かな人物であったことは明らかであろう。
また、尊王家の真木和泉守と田中河内介が、貞太郎の思想形成に与えた影響の大きかっただろうことも想像に難くない。
  
【主な参考文献等】
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』所収・久留米郷土研究会) 
○「北有馬百之略傳」(倉田施報・東京大学史料編纂所所蔵) 
○「廣茅中村太郎先生詩稿」(内田豊吉筆写・内田清氏所蔵) 
○「八木家系図」(長崎県南島原市矢櫃・八木家蔵)
○「喜多谷中村家系図」(長崎県南島原市・中村家蔵)
○『安井息軒書簡集』(黒木盛幸監修・安井息軒顕彰会) 
○『安井息軒先生』(若山甲蔵・蔵六書房) 
○『真木和泉遺文』(真木保臣先生顕彰会・伯爵有馬家修史会) 
○『真木和泉』(山口宗之吉川弘文館) 
○『田中河内介』(豊田小八郎・臥龍会) 
○『幕末史の研究』(井野辺茂雄・雄山閣) 
○「大東文化」第17号(昭和12年12月28日発行、大東文化学院編集部)
 ○『漂泊の志士―北有馬太郎の生涯』(拙著・文芸社)

この稿は、次稿「北有馬太郎と西川練造」に続きます。