2 【北有馬太郎と西川練造】

その一
 中村貞太郎(北有馬太郎の本名)の漢詩集「廣茅中村太郎先生詩稿」の嘉永3年(1849)の項に、「寄懐川越西川景輔」と題する次のような七言絶句(2首の中の1)がある。
   一別茫々已五年 江城重到夢相牽 旧交雲散消息 満腹心懐誰與傳
 この年の春、貞太郎は父寛平や次弟重義(主計)と過ごした京都を離れ、再び江戸に上っていた。その年の6月には、旗本久貝因幡守正典邸で、家臣やその子弟たちへの教育を託されていたが、この詩はこの年の秋の頃に詠まれたらしい。 

 そして、同じ漢詩集の嘉永5年の項にも、「西川景輔自川越来訪酔後賦贈」と題した次の七言絶句が記されている。
   相別相逢歓又瑳 回首雲樹七年奢 酔来好発曩時態 談到芳堤枝花
 貞太郎がこれらの詩を呈した西川景輔とは、以後貞太郎と深い関わりを持つこととなる儒医で、志士名の西川練造の名で知られる。川越城下近くの入間郡小仙波村(埼玉県川越市)の人である。字は子涼、全斎と号した。文化14年(1817)の生まれであるから、貞太郎より10歳の年長であった。 

先の詩の承句から推測すると、この時の2人は弘化2年(1645)以来の再会だったのである。貞太郎は弘化2年正月、安井息軒の三計塾に入り、翌年7月からは尾藤水竹の谷口荘に寄寓していた。しかし、同年11月、「家の艱みに遇って姑らく游学を止め」(倉田施報著「北有馬百之略傳」)、郷里に帰っている。郷里の中村家一族間での確執の再燃だったらしい(前稿「北有馬太郎と二人の尊王家」参照)。

一方、西川練造の生家近くにある焔魔堂墓地の練造の墓石に、「従佐藤一斎尾藤二洲修学」(尾藤二洲は文政10年に没している。二洲の子尾藤水竹の誤り。)とあるので、二人の初対面は尾藤水竹の谷口荘であったと推定される。貞太郎は谷口荘に寄寓する以前から、尾藤水竹のもとに出入りしていて、西川練造と知り合ったのだろう。

西川練造の年譜によれば、練造は嘉永5年には豊前小倉藩士井関五助方に同居し、小野派一刀流剣法を学んだというから、江戸に出ていた練造は、この時久貝邸の貞太郎を訪ねたのだろう。なお、練造は、同藩の鈴木彦之進から長沼流軍学を学び、翌年11月に免許を得たという。ちなみに、練造は川越藩大川平兵衛からも神道無念流剣法を学んだといわれる。また、西多摩地方(東京都)に、練造に皇典や漢学を学んだ人が複数人確認できるので、練造は皇典にも造詣が深かったらしい。

貞太郎は、練造と再会した嘉永5年の閏2月、旧交を温める間もなく北越地方に旅立っている。この北越遊歴には、高田城下で私塾(文武済美堂)を開いていた倉石典太(成憲)の仲介があったらしく、請われるままに田村、筒石村、地本村の好学の徒の教導にあたった。貞太郎には、この遊歴中に蝦夷地探訪の計画があったらしいが、翌年の仲冬、米国艦隊来航の報に接して急遽会津を経て江戸に戻り、再び久貝因幡守邸に寄寓することとなった。

貞太郎の日記の翌嘉永7年正月12日の条に、「西川兄と浦賀に赴く。果たせず。途杉田に宿る。」とある。この日2人は、日米修好条約の締結を求めて再度渡来したペリー艦隊見学のため、浦賀に赴こうとしたのである。おそらく警戒中の幕吏によって遮られ、断念せざるをえなかったのだろう。

西川練造の娘婿の記した練造の履歴に、「安政元年より翌二年迄市ヶ谷御旗本久貝因幡守様屋敷に練造北有馬太郎と申人同居随身いたし居り候」とあるという。練造が貞太郎と同居を始めたのが安政元年(1854)のいつ頃かは不明だが、貞太郎はその年6月には久貝邸を去っている。その理由は、幕閣に対して行った対外政策等の建白が受け容れられなかったことなどによるらしい。

失意の内に江戸を去った貞太郎は、川越城下近郊の下奥富村(埼玉県狭山市)の広福寺東隣りに私塾を開き、近隣子弟の教導にあたることとなった。同年8月27日付け貞太郎の恩師安井息軒宛て書中に、「当月四日彼下奥富村へ移寓仕候。追々連中も相増、只今ニてハ五六輩ニ候得共、十月ニ相成候ハハ農隙ニ相成、入門可致旨只今より申込候者も四五輩有之候。来春ニも相成候ハハ三十人位ニハ相成可申見込ニ有之候。」、と記されている。

しかし、その後、塾生は貞太郎の予想ほど集まらなかった。同年11月28日付け息軒宛て書中には、「先ごろ児童輩も年内ニ両三輩は相増可申赴ニ申上置候得共、今以相増不申候、尤私寓居も落着不申、不遠此地引払候儀も難測抔存候て之見合之由、世話人共申候云々。」とある。この後、貞太郎は周辺地域への出張教授に力を入れたらしい。なお、これ以前の8月15日付けの息軒宛て書簡には、「細川様へ釈褐之儀被仰聞、御厚情奉感荷候云々」等とある。しかし貞太郎はこれらを断って、「明春ニ相成候ハハ小野勘左衛門(木曽福島の人)へ相談仕、彼地罷越申度と存候。」と記していた。貞太郎は尊王攘夷活動の自由と、謝礼の多く得られる遠地での出張教授を考えていたのかも知れない。

生活も安定しない翌年の春、貞太郎は塩谷宕陰の媒酌で、恩師安井息軒の長女須摩子と結婚したのである。妻となった須摩子は、再婚であった。前夫は秋元家の御勝手掛用人田中四郎兵衛の倅鉄之介であったが、半年余りで婚家を離縁されていたらしい。貞太郎29歳、須磨子は28歳であった。

貞太郎と須摩子の結婚した年の9月、安井息軒が須摩子に宛てた書簡に、その前月息軒が奥富村の2人の新居を訪れたことが記されている。その文中に、「太郎殿もそもじ兼而申候通り、真実なる人柄候得共、器量ある人ゆへ、心のおき処はそもじ抔の分候ニハなく候云々。」とあって、息軒や妻須磨子が貞太郎を高く評価していたことが明らかである。

その二
貞太郎たちの奥富村での新婚生活は1年間に過ぎなかった。翌安政3年の春、夫婦は下総国飯岡村(千葉県成田市)の豪農大河平兵衛家に招かれ、この地で開塾したのである。月日は不明だが、この年2人の間に長女が生まれている。「糸」と名付けられたこの長女は後年、飫肥藩高橋圭三郎を迎えて安井家を継いだ。貞太郎はその年の秋、自ら京都に赴いて病弱な老父を飯岡の地に招いている。親族間の争いで労苦の多かった父に、孫娘との心温まる生活を味あわせたかったのかも知れない。しかし、その父は翌年4月には病没、その遺骸を大河家近くの永福寺に手厚く葬り、その後1年間の喪に服したのであった。

亡父の喪の明けた翌安政5年4月、貞太郎は飯岡村を去り、再び下奥富村に戻った。その下奥富村に戻る途中、貞太郎は媒酌人塩谷宕陰の強い反対を押し切って、妻須摩子を離縁している。尊王攘夷活動で、恩師安井息軒に類の及ぶことを恐れてのことだったとてう。「百之略伝」に、幕府の対外政策に絶望して自ら立ち上がることを決意した貞太郎は、「一身犠牲に供するの時に至らは必す先身舅氏を係累し、自愛父母にひとしき多年薫陶の師恩を害さん事を恐れ、且先師も君のなすところ或は過激に渉り、禍機に触れむ事を慮り屡箴規の旨りしを以て彼を思ひ此を顧み断然意を決し」、須摩子の離縁に至ったとある。貞太郎の日記からは、息軒から度々戒められるほどの貞太郎の過激な尊攘活動の様子は窺えないが、三計塾の同門で、貞太郎と親交のあった倉田施報の記すところである。無視することは出来ないだろう。

安井息軒や塩谷宕陰の強い怒りが原因だったのだろうか、貞太郎はこの時、1歳にも満たない乳児の糸女を引き取ったのである。もっとも養育は人の手を借りてのことであった。また、離縁当時須摩子は身ごもっていて、この6月には長男小太郎が生まれたが、その小太郎も翌年3月には貞太郎のもとに送り届けられ、乳母に託して育てることとなった。幼くして実母から引き離された2人の乳児もまた哀れであった。この2人の愛児は、後年貞太郎が非業の死を遂げた後は、再び安井家に引き取られ、息軒の跡を継いでいる。

飯岡村滞在当時、貞太郎は上洛して国事に尽瘁する志願があったという。その強い思いを抑えて、貞太郎に下奥富村への再訪を決意させたのは、この地に貞太郎の帰村を切望する人たちがいたらしい。貞太郎の胸中に、その地の若者たちへの尊攘思想の鼓吹と扶植という目論見があったのかも知れない。

富村に戻った翌9月17日の貞太郎の日記に、「西川兄を過る云々」とあり、翌日にも「西川兄を尋ねる云々」と記されている。峯岸登僊著『勤皇家贈従五位西川練造傳』に、「練造は、安政三年以来他を憚って郷里小仙波村を離れ、入間郡富村西方なる森蔵の借家に住ひ、表面は医を行として云々」とある。これに相違なければ、練造は貞太郎が去った翌年には久貝邸を去り、奥富村に移り住んでいたことになる。同書にはさらに、「当時比企郡今宿村大豆戸通称鍋屋隠居所に居た、年来の知己、北有馬太郎と会して国家を論じ、折々江戸お玉ヶ池の八郎宅の会合にも参加して、悲憤慷慨云々。」と記されている。

西川練造が医業を営んだ家は、貞太郎の塾舎の南西至近にあった。この地で2人が、どのような尊王攘夷活動を行ったかは不明だが、貞太郎は奥富村を起点に、大豆戸村(紙幅上現市町村名は省く。以下同じ。)の鋳物師宮崎柳七家、扇町谷の栗原家、黒須村の繁田武兵衛家・諸井与八家・増田勘右衛門家・繁田裕仙家、小島一斎家、小谷田村の増田勘兵衛家、牛沢村の松井五平家、西戸村の修験山本坊、下赤工村の山川家、小瀬戸村の薬王院等々、各地で講筵を開き、また招かれて出張教授をしていたことが、その日記から確認できる。

貞太郎に薫陶を受けた人たちも、藤倉村の内田信之・正信兄弟、下赤工村の山川達造・竹造・春之輔兄弟、福永正蔵、西戸村の相馬辰丸・修徳兄弟、下奥富村の渡辺彦次郎、山下忠次郎・理四郎兄弟、飯能の小能八郎、黒須村の繁田満義、当摩森太郎等々、数多くの人たちの名が確認できる。

余談だが、下赤工村の山川達造・竹造兄弟や福永正蔵は、後に清河八郎の浪士組に参加して上洛している。また、「百之略傳」に、「(貞太郎の)遭難の際、門人山川達蔵急に家中の書を集め、四方交通の文の如きは挙て之を火に投じ、以其證左を滅し、其他は皆擢取して己れの家に秘し、令子の年やや長ずるを待て之を傳える。故を以て今尚幸に存せり云々。」とある。さらに、貞太郎の子小太郎は後年、「(父貞太郎の横死後)私達は、赤工村に父の門人の山川達蔵といふ人がいたので、ここに厄介になった。私はまだ生れて一年も立たない。ここで私は乳の代わりに甘酒ばかりを飲まされました。」(『大東文化』第17号)、と語っている。
なお、藤倉村の内田豊吉は、貞太郎の漢詩集(「廣茅中村太郎先生詩稿」)を筆写して後世に残してくれた人である。また、貞太郎の死後、回向院にその墓石を建てた人でもある。

その三
文久元年(1861)の春、出羽庄内清川村郷士清河八郎は、「深く義勇忠烈の士と盟ひ、秋高風寒に及び、虜をして懲創する所有らしめんと欲」(清河八郎「潜中紀事」)して、尊王攘夷党「虎尾の会」を結成した。その集まる義烈忠勇の士は、「薩邸に居る者七名、幕下に居る者三名、処士に居る者十余名」であった。この「処士十余名」の中に北有馬太郎と西川練造の名があった。

2人の清河八郎との出会いは、小山松勝一郎著『清河八郎』に、「(清河)八郎は広福寺の章意に会いにくるたびに北有馬・西川に会った。八郎は章意から、また伊牟田から両人を紹介された云々」とある。「章意」という人物は、元水戸藩の士であったという。「伊牟田」とは、薩摩喜入郡の領主肝付家の臣伊牟田尚平である。貞太郎とは安井息軒塾の同門であり、安政元年以来の知己で、伊牟田も「虎尾の会」の同志の1人であった。

その伊牟田尚平が清河八郎に宛てた文久元年3月晦日付けの書簡に、「北有馬等長々御邪魔罷成御礼申上候云々」とある。また、「虎尾の会」の同志の1人池田徳太郎が、清河八郎に宛てた同月26日付の書中に、「此内奇偉倜儻之人頻に星聚、又候今日川越山中より客被見候由云々」とあるから、貞太郎と練造は26日以来清河八郎の家に留まったいたのである。先の伊牟田の清河宛て書中に、「総州之二豪傑之宜様云々」とあるから、同志が集まって挙兵についての集議が行われたのかもしれない。「総州之二豪傑」とは、石坂周造と村上俊五郎である。

「虎尾の会」の攘夷挙兵の具体的計画は、5月中旬に決定されたという。その計画は、「秋に及び風寒く気の立ったる八月、九月の中頃を機会」(清河八郎『潜中始末』)として、横浜を焼き打つというものであった。(「虎尾の会」の顛末については、「歴史研究」第614号収載の拙稿「尊王攘夷党『虎尾の会』始末に詳述。後日ここに掲載予定。)

この頃、清河八郎たちの動向は、幕吏の厳しい監視下にあった。東京都千代田区発行の『原胤昭旧蔵資料報告書』によれば、幕府は5月19日には、清河八郎以下北有馬太郎、西川練造を含む8名の捕縛命令を出していたのである。奇しくもその翌日、酩酊した清河八郎が町人を斬殺するという事件が生じた。幕吏の見守る中での出来事だったと思われる。『藤岡屋日記』によれば、その場に居合わせたのは清河を含めて6人で、貞太郎や練造は帰村していて、そのなかにはいなかった。

辛くもその場を逃れた清河八郎、安積五郎、村上俊五郎、伊牟田尚平の4人は、奥富村の広福寺に潜伏するため、密かに江戸を脱出し、同月22日に広福寺に入った。「潜中始末」に、「二十二日奥富村広福寺に至る。西川練三来り会す。」とあるが、貞太郎は当時大豆戸村の宮崎家に滞在していたらしく、翌23日「北有馬太郎来り会す。終日快談時を過ぐ。」とある。誰1人、追捕の身の危機感はなかったらしい。しかし、追手はすぐ身近に迫っていたのである。

この日、川越の浪人某が西川家を訪れて、近くの入間川村(埼玉県狭山市)に関八州取締役他の捕吏百人余が集まってる、と知らせてくれた。練造は直ちにこれを清河らに報知するとともに、自ら様子を探りに出掛けたが、そのまま戻って来ることはなかった。

異変に気付いた清河たちは、一先ず江戸に戻って府内の様子を探ろうと、その夜闇に紛れて奥富村を脱出して行った。「潜中始末」によれば、この時貞太郎も清河たちと行動を共にしようとしたが、「未だ実否のきはまらぬ事故先づ残る事に」して、練造の帰りを待つこととしたという。貞太郎の胸中には、練造の安否とともに、残される子どもたちへの思いもあったのだろう。なお、「明治維新の志士西川練造傳」によると、清河たちの脱出に際して、練造の妻が、清河たちへ心尽くしの肌着の襦袢を贈ったという。

その四
広福寺に残った貞太郎と住職の章意は、翌朝捕縛されてしまった。一方の練造も、前日様子を探りに出掛けた先で就縛されていた。貞太郎と練造、そして広福寺住職(後日出牢)はその後江戸に送られて、伝馬町の獄舎に投獄されることとなった。『勤皇家贈従五位西川練造傳』によれば、八州取締役吉田僖平治の情ある計らいにより、護送途中の田無村(東京都田無市)で練造の妻と2人の愛児(澄女と清介)が、仮牢内の練造と涙の別れをしたという。おそらく、この時貞太郎も、2人の愛児(糸女と小太郎)と悲しい別れをしたことだろう。

岸伝平の「隠れたる志士笠井伊蔵」に、貞太郎の入獄時の様子について、練造の娘の澄女が後年語った次のような逸話がある。
「北有馬太郎さんの奥さんが番町の安井仲平先生の娘さんでした。なんでも妻子や師匠
に迷惑をかけては行けぬと思って、捕らえられたときに無宿の浪人だと申立てたので、
江戸の獄中では無宿牢に入れられ(原注・悪者らと合牢)牢中で大変に難渋したと人伝に
聞いて、その獄死には母と共に泣き伏したことがあります。」
 なお、澄女は貞太郎について、「北有馬さんは、立派でやさしい方でした。父は学者として尊敬していました。家では『太郎さん』と呼んでいました。」とも語り残している。

 過酷な獄舎の中から練造が、縁者に宛てた11月14日付の書中に次のようにある。
  「小生儀兎角肥立兼何共困入候次第、誠に骨と皮ばかりに相成、今以歩行も不叶、仍而
此寒に向ひ一命も甚無覚存候。(中略)引続き打臥大小便にも通い兼、人之手に而参り申候。其余飲食衣服着替等は勿論、寝返り迄も人之世話に相成申候。当方は恐敷寒さに御座候。(中略)又湿より此度は打薬を致、うみ沢山出候。」(『勤皇家贈従五位西川練造傳』)

 口述によって同獄者の手によって書かれた書簡なのだろう。揚り屋入りをした練造にして、かかる有様だったのである。牢死者は、年間1200人から2000人に及んだ(石井良助著『江戸の刑罰』)という伝馬町の獄舎である。練造とは異なり、より過酷な無宿牢に投獄された貞太郎は、練造がこの書簡を出した2ヶ月前に黄泉の人ととなっていた。享年は35歳であった。

 貞太郎の死去の日については、門弟内田豊吉たちが建てた回向院の墓石に9月3日とあるが、同志池田徳太郎の手記には「九月廿五日死去」とある。また、「北有馬百之略傳」には、「疾に罹り、竟に六月十四日とかやに悠然長逝し云々」とある。いずれが事実なのかは判然としない。その死因についても、貞太郎の弟中村主計の小伝(『野史台維新史料叢書』第13巻)には、「太郎ハ既ニ幕府ノ獄ニ下リ毒殺セラレタリ」とあが、これも真偽のほどは定かではない。時に貞太郎35歳であった。
 一方の練造も、12月14日の夜半、牢内で息を引き取った。生を享ること45年の生涯であった。

【主な参考文献】 
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』所収・久留米郷土研究会) 
○「北有馬百之略傳」(倉田施報・東京大学史料編纂所所蔵) 
○「廣茅中村太郎先生詩稿」(内田豊吉筆写・内田清氏所蔵) 
○『安井息軒書簡集』(黒木盛幸監修・安井息軒顕彰会) 
○『野史台維新史料叢書』第13巻(日本史籍協会編・東京大学出版会)
○「勤皇家贈従五位西川練造傳」(峯岸登僊・川越市役所) 
○『川越叢書』(川越叢書刊行会編集部編・国書刊行会)
○『清河八郎遺著』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会) 
○『原胤昭旧蔵資料調査報告書(3)―江戸町奉行所与力・同心関係史料―』(千代田区教育委員会) 
○『藤岡屋日記』(須藤由蔵偏・三一書房) 
○『清河八郎』(小山松勝一郎・新人物往来社) 
○『漂泊の志士―北有馬太郎の生涯』(拙著・文芸社) 
○「尊王攘夷党『虎尾の会』始末」(拙稿・歴史研究第六一四号収載)