14の5 【埼玉県域の浪士組参加者たち(1)】

(あ行~か行)  22

  ※当該名簿をご覧の際の注意事項は、ⅩⅣの1の冒頭に記してあります。

姓 名

年齢

所属等

家族・出身地・その他参考

新井清六郎

51

3番組

母妻子5人  ●埼玉郡菖蒲町住居(加須市)

「目録」に名なく去就不明。

神道無念流加藤善次郎(3番組平士)の菖蒲神社の奉額に「世話人 新井清六」とある人か。 ・菖蒲の吉祥院の墓域に「施主新井清六」の墓石と共に、嘉永6年1224日死去の「全明童女」と刻された墓石に、「施主中町柏屋清六」とある、「柏屋」は屋号だろう。

新井荘司

 名・年信

32

1番組

両親妻子6人 ・文政12年上横田村の同姓新井家に生まれる。甲源一刀流松本半平(松本為三郎父)に師事し、嘉永4年同村新井家の入婿となる。翌5年長男仲助出生す。   ●比企郡上横田村住居(小川町)

新井家文書に「正月二八日甲山根岸友山方より御咄し免志出し候相成将軍様御上洛御供相成申候目出度御上洛相済申候国元に引取稽古相立御願建御聞済候相成難有仕合奉存候 文久三亥九月」とあり。

新徴組入り ・「柚原鑑五郎日記」に95日脱退とあり。※松本為三郎、山岸金十郎等も同日脱退。

元治元年現寄居町今市の某家長屋門を買い講武館道場を開設、農業の傍ら教授、後小川町講道館の師範となる。明治17年宗家逸見愛作から目代印可を伝授さる。

箭弓神社(東松山市)大塚□恵八の奉額の目代席、鎌形神社(嵐山町)瀬山鉄五郎の奉額の師範席に名あり。 ・「皇国武術英名録」に名あり。

師の松本半平が6尺豊かな偉丈夫なのに対し、荘司は1m60cm足らずの矮小な身体だったが、剣技は門弟中で群を抜いていたという。(『埼玉武芸帳』)・又同著に庄司の孫が庄司から聞いた話として、「(新徴組時代)夏の夜など蚊帳の中で議論をしはじめると、それがやがて格闘となるのがつねであったので、危なくて寝ていられず蚊に食われながら廊下で寝た」との逸話あり。

明治45327日没 ・享年83歳。 ・墓は上横田輪禅寺近くの新井家墓地 ・新井家南西前に「新井荘司君碑」あり。

「埼玉県人物誌』・『埼玉県剣客列伝』・『埼玉武芸帳』・『小川町の歴史』・『埼玉県武道家資料採集事業資料』・『甲斐源氏甲源一刀流辺見家』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号・『埼玉大学紀要』

飯野清三郎

 名・秀武ヵ

40

4番組

不明   ●榛沢郡寄居村住(寄居町)

新徴組入り ・文久395日依願永暇

甲源一刀流強矢良輔門人、4番小頭松沢良作と同門

忍藩大宮郷加藤平太郎良党の修行帳に「飯野清三郎 武州鉢形・飯野熊太郎 武州鉢形・市野瀬熊太良 武州 飯野清三郎門人」とあり。 ・聖天院貴惣門の松沢良作の奉額の師範席に名あり。 ・町内極楽寺に慶応3年献額(長大で2頭の龍の彫刻見事(彫工、川原明戸村飯田岩次郎義棟)・門人名が多数記されるも風化で判読不能) ・近くの宗像神社社殿裏にも奉額(風化で全く判読不可)あり。

静岡県史資料編15』に「甲源一刀流 中山誠一郎家来 飯野清三郎秀武」とある人か。

寄居町正龍寺の過去帳に「清安良久信士 明治3年8月19日没」とある人か。飯野家は現在正龍寺の檀家ではないとのこと。(2002115御住職より聴取)

『埼玉武芸帳』・『埼玉県剣客列伝』・「武術英名録」

内田柳松

 名・年房

30

6番組

妻子3人 ・百姓金十郎長男

比企郡広野村住居(嵐山町)

甲源一刀流水野倭一郎年次門人

・慶応3年12月薩邸焼き討ち事件の際、佐土原藩邸で抵抗する1人を内田が即座に斬り捨てたと。(明治275月の史談会俣野時中談話)

慶応4年庄内入り(家族2) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」1番隊平士に名あり。 ・『戊辰庄内戦争録』に、慶応4511日官軍越後長岡を攻めるの報に接し、「左ノ勢ヲ越後ニ出ス」として主将石原多門の一隊中に探索方として内田柳松の名あり。

・「開墾士氏名」に名あり。明治14年の「松ヶ丘開墾社員名簿」に名あり。

中沢貞祇の記録に、天野静一郎割腹事件に関し「右七人之者静一郎宅ヘ参於東京表不都合之次第有之趣ニ而我々付添仰付候間大小取揚」天野に切腹を迫った7人の中に内田柳松あり。

・上記記録に、明治62月元新徴組士黒田正友の司法省裁判所提出への訴状に「私儀貫属之侭加奈川県横浜野毛町江寄留仕度旨内田柳枩以内談仕候処、然者願書之義者此方ニ而認遣候間移住所幷印形共名代ヲ差出シ候様申聞候ニ付則同人江印形相渡候処()其許不都合之次第有之隠居申付候旨内田柳枩ゟ書付ヲ以被達候云々」と

・上記記録に、明治7年酒田県庁に召喚された者の「一同日記」731日条に「内田柳枩御呼出しニ付御調之上腰縄ニ而下り大小取揚ニ相成禁錮之由奥秋見届候」と。又「内田柳枩娘江婿養子長沢顕蔵与申者見合引移らせ新徴組並方之通御宛行被下置候云々」等とあり。

・明治73月内田柳松に対し懲役2年の判決が下る。

・明治91114比企郡広野村戸長宛内田柳松の除籍届あり(嵐山町所蔵) ・庄内土着(御子孫庄内住)

墓は鶴岡市宗傳寺。なお嵐山町の父内田金十郎(明治10年没)の墓は嶌五郎(柳松兄弟ヵ)建立

小山松『新徴組』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号・『上毛剣術史』・『埼玉武芸帳』

遠藤丈庵

25

1番組

養父母2人 ・忍浪人とも   ●忍住居(行田市)

浪士組の江戸帰還時根岸友山、清水吾一と共に京都に残留する。

文久3315会津藩庁出頭20人の中に名あり。

・同月22日老中板倉勝静へ「(将軍)今暫御滞留被遊候儀可然」と建白した18人の中に名あり。

近藤勇等による殿内義雄暗殺前後に京都を脱すと。

「目録」等に名は無いが、根岸友山「御用留」文久3911日廻状に「別紙之名前之者明十二日朝五ツ時神田橋内酒井繁之丞屋敷え罷出候様可致候云々」として遠藤丈庵の名が筆頭にあり。 ・脱退時期等去就不明。

藩医遠藤執庵の関係者か。※執庵は陸中盛岡の人、諸国遊歴で医術を習得、後忍城下で医を業とし、傍ら河津省庵と共に芳川波山に師事、明治860歳で没。墓は市内蓮華寺

大川藤吉郎

27

1番組

両親妻子5人 ・百姓幸吉子

比企郡金谷村住居(東松山市)※「新徴組之内武蔵・上野・甲斐三箇国より罷出候者之内土着願上候ニ付心得之件々大概」に「丸毛佐九郎知行所、武州比企郡金谷村、大川藤吉郎」とあるが『旧旗下相知行調』に記載なし。又比企郡内で金谷の地名は東松山市岩殿と同市上野本の2カ所だが、大野姓確認できず。

新徴組入り  ●慶応4年庄内入り(家族3人)

・「庄内戊辰戦争出張姓名」1番隊平士に名あり。

・「開墾士氏名」に名なし。

明治76月貫属替

宝登山神社(長瀞町)の甲源一刀流宗家逸見愛作の明治144月の奉額師範席に大川藤吉郎の名あり。

『日野市立歴史館叢書』第10輯・『埼玉県史調査報告書』

大木九左衛門

47

1番組

妻子8人 ・百姓要八子

大里郡甲山村住(熊谷市)

新徴組入り ・文久3年9月5日依願永暇

父要八の代根岸友山家の雇人だったか。根岸家墓地に根岸家建立の要八の墓(「俗名大木要八亭年四十九天保十歳在己亥冬十一月初二日没)あり。大木家が根岸家の雇人であった事は根岸家の伝えにもあり。

「甲山防戦記」の「根岸の蚶夫大木礼助宗矩」は関係者か。  ●明治101010日没。墓は根岸家墓地隣接の共同墓地

大島百太郎

22

3番組

親両人 ・百姓和十郎子

足立郡宮内村住(北本市)

新徴組入り  ●慶応4年庄内下りに際し新徴組を離脱。・「明細書麁調」に「庄内入り 家族四人」とあるが、庄内藩士和田助弥の記録に「大島百太郎 庄内へ引移の際出奔」とあり。

「慶応四年征東之役名古屋藩帰順正気隊(総括暮地義信)人名録」に、大島百太郎の名あり。

慶応4年1222日夜新徴組6番組が市中巡邏の途中で鉄砲を撃ち掛けられ際、「大島百太郎と云ふ気早の男が刀を提げて洗足掛けで追駈け云々」と、明治27512日の史談会での俣野時中の談話あり。

加藤善次郎の菖蒲神社の奉額に「宮内 大嶋義人 大嶋源吾 大嶋義久」と記される人たちは。大嶋義人の墓は宮内の阿弥陀堂墓地にあり。

相楽総三とその同志』・『史談会速記録』・鈴木克久『峠越え』

大野嘉右衛門

35

4番組

親両人 ・百姓佐吉子  ●秩父郡蒔田村住(秩父市)

新徴組入り ・慶応4年庄内入り(家族4人) ・「庄内戦争出張姓名」に2番隊平士として名あり。 ・「開墾士氏名」に大野嘉右衛門の名あり。

・「中沢貞祇の記録」、明治7年旧新徴組士が酒田県庁に召喚された際の「一同日記」81日条に、「瀬尾萩原郵便開封いたし候事取糺書面差上候、但又大野嘉右衛門事件書面差上云々」とあり、同月3日条に「萩原忠義御省へ罷出是者嘉右衛門事件書面持参上り置候郵便開封一条之願書者新徴組之事ニ付行先宿所も相分り不申ニ付夫等之た免開封致候得共其而手紙同封致候事ニ者無之旨申立候得共()別段取調候迄も無之云々」等とあり。

明治710東京府へ貫属替

『埼玉史談』収載大野鴻風「武州秩父雑話(その十一)-伊勢平氏の系譜・秩父大野原大野氏-」に、「大野氏は江戸時代より数代に渡り医師を輩出した家系で云々」とあり、その菩提寺源蔵寺の大野家永代供養碑等によると、文政912月に没した七代秀種が嘉右衛門と称したとあるが。

『上毛剣術史』

小沢勇作

 名・義光

21

4番組

不明 ・百姓幸之助(幸内)3

幡羅郡蛭川村(本庄市)

新徴組入り ・元治元年228日廻状「昨年中剣術出精ニ付為御賞誉左衛門殿より小菊紙被下候」中に小沢勇作あり。

慶応4年庄内入り(家族2) ・「田川温泉寄宿帳」に剣術世話役と。 ・「戊辰庄内戦争出張姓名」に2番隊平士で名あり。 ・「開墾士氏名」に名あり。

明治6年5月熊谷県へ貫属替 ・一時高野佐三郎らと警視庁の剣術師範に従事と(小沢猛博氏談)。後郷里に戻り家業の傍ら剣術道場を開く。

・明治1411月蛭川駒形神社に奉額 ・中村定右衛門「遠近劒額出名簿」に「明治十七年十一月廿五日、本庄在蛭川村小澤義光、本庄驛内金鑚神社江献額仕度旨申出候付出名左ニ」として「願主 小澤義光()」とあり。

・明治37東京市浅草区浅草田島町に転籍。

・明治4226日旧新徴組士会総代(3)として猪熊繁樹らと発起人となり、清河八郎の追悼会を挙行す。

・同45年には浅草公園伝法院境内で清河八郎没後50年祭を開催する。

松沢良作(4番組小頭)に甲源一刀流を学ぶ。勇作の孫弟子古川一郎の免許皆伝起請文に「公命ニ依テ隊中諸士之流ヲ集合シ北辰流ト改称シ一部隊ノ剣法教授ヲ奉職ス」とある。北辰流は甲源北辰流とも称す。

「皇国武術英名録」、「上武武術英名録」、「剣柔諸君連名記」(門人で目代4人と目録3人の名もあり)に名あり。 ・黒沢久夫家所蔵(上里町嘉美)「木村政右衛門五十回忌追膳招人名扣」(明治20)に「蛭川村 小沢義光 甲源北辰流」とあり。 ・瀬山鉄五郎(嵐山町千手堂)の「英名録」に甲源北辰流(北辰流)小沢義光門人として「秩父郡国神村野巻 小杉篤義」と「児玉郡共和村 久保田小三郎」の名あり。

武州風土記』 ・小山松『新徴組』 ・『日野市立歴史館叢書』第6輯、10輯 ・『埼玉県剣客伝』・『埼玉大学紀要』・『幕末維新埼玉人物列伝』

小野沢平兵衛

安田平兵衛

本名

 赤田啓助

43

2番組

母子4人  ●川越浪人、当時比企郡増尾村住居(小川町) ※「文久3年頃土着願提出の者の心得を記した書類に「比企郡増尾村百姓弥右衛門同所川越浪人赤田啓助事 小野(沢欠ヵ)平兵衛」とあり(『日野市立歴史館叢書』第10)、又「明細書麁調」に、「生国武州入斯()郡川越安田三平子」とあり。

新徴組入り ・「目録」に9番森土鉞四郎組平士、「組別名簿」に森土鉞四郎組平士で名あり。 ・文久382日廻状に「小野沢平兵衛義門限相外シ候ニ付慎申付候」と。

慶応4年庄内入り(家族7人内3歳以下2)

・「田川温泉場寄宿帳」に安田平兵衛と共に長男圓次郎の名あり。 ・「庄内戦争出張姓名」1番隊平士の安田円吉郎は長男圓次郎か、父平兵衛の名なし。 ・「開墾士氏名」に安田平兵衛、長男圓次郎の名なし。

尾崎恭蔵謀殺事件に関し「中沢貞祇の記録」に、明治57月庄内脱走途中捕らえられた尾崎恭蔵の処分問題で「仁科理右衛門舌代ヲ以黒井卓一郎、奥秋実昌(2人略)、安田安兵衛役所江罷出候」て、尾崎の処分に関し「奥秋義王政御法合之通ニ而可然我等共一己之所存ニ不及義」と主張したとある。 ・明治8年に鶴岡在住が認められるも、その後の去就不明。

『上毛剣術史』・『日野市立歴史館叢書』第15

勝田宗達

 名・清明

27

3番組

1人  ●比企郡大谷村住(東松山市)

新徴組入り ・「目録」に名なし。 ・文久395日依願永暇、以後の去就不明。

田川温泉はやと旅館提出の「新徴組残留品引渡書」中に「木薙刀三本但シ内一本ハ<文久三亥夏下四日勝田宗達清明>と記シアルモノ」とあり。

勝田芳蔵

23

1番組

父母兄弟8人 ・百姓皆吉次男

比企郡大谷村(東松山市)

新徴組入り ・「目録」に11番大内志津馬組平士、「組別名簿」に大内志津馬組平士で名あり。慶応元年6月の「黐木坂屋敷絵図」に「勝田』とのみあり。

『藤岡屋日記』に、元治元年4月細川越中守屋敷での勝田芳蔵に関する事件の顛末が記されているが、詳細は横山明平の項に紹介する。

・『南梁年録』に「子六月初旬ニ何レも(強盗団青木弥太郎一味として)召取一ト通尋候上入牢追々所々江押込候事」として青木弥太郎以下11人中勝田芳蔵の名あり。

・「青木弥太郎懺悔談」に「新徴組の勝田芳蔵、時田倉之助などは、いったん白状に及び、口書、爪印まで済んだのに、銘々口を変え、遁辞を構えて呼び出しを願い、種々不当の申立て(悪事を病死人に塗りつけて罪を逃れんと計る)をなして、いずれも拷問」に掛けられたとある。

・田辺儀兵衛「御用記」慶応元年11晦日の条に「右四人(勝田芳蔵の名あり)下谷御屋敷え禁錮入相成候処今度公辺御沙汰ニ付揚屋入仰付候間云々」とあり。

『幕末維新実歴譚』・青木弥太郎事件は『旧幕府』合本3・『連城紀聞』・篠田鉱造『明治開化奇談』・『三田村鳶魚全集』13子母沢寛『よろず覚え帖』等

加藤善次郎

名・正宜

 

45

3番組

不明   ●埼玉郡菖蒲村住居(加須市)

神道無念流宗家4代戸賀崎熊太郎芳武門人(小山僖一郎、野上勘兵衛同門) ・刀鍛冶、剣術道場経営

安政212晦日、領主内藤外記へ善次郎正宜作の刀(2尺5寸)脇差(1尺5寸)を献上した旨の木札及びその際加藤家から拝領の蓬莱絵の掛物が伝わる。

内藤外記(甲斐守)は江戸本郷御弓町に屋敷のあった5,700石取りの旗本で、菖蒲町近隣の下柏間村(久喜市菖蒲町下柏間)に敷地1万余坪に及ぶ陣屋があった。「本郷湯島絵図」に「定火消御屋鋪 内藤外記」とあり。

「目録」に名なく去就不明。

安政32月常見源之助真倫が会主の「摩利支天講連名帳」に「菖蒲町 加藤善次郎様」とあり。 ・「皇国八州武術姓名記」に「神道無念流 加藤善次郎 武州菖蒲」とあり。 ・明治10年菖蒲神社に奉額。その世話役中に諏訪山熊次郎、荒井清六、又「男加藤延次郎、加藤鬼之助」の名あり。更に師範席に東京士族小山清高・小山清昭、群馬県士族今井兼保(今井左太夫)、野上勘兵衛等の名と、門人席()に金子忠義、大嶋義久(宮内)、河野恵助(糠田)、河野栄蔵(糠田)等の名あり。

市内吉祥院の加藤家墓地に、加藤善次郎正宜が施主の墓はあるが当人の墓は確認できず。なお、宝暦5年や文化5年の墓石にも「施主加藤善次郎正宜」とあり、また、加藤家の戸籍簿に天保14年生れの加藤喜之助(菖蒲神社の奉額の加藤鬼之助と思われる)の欄に「亡祖父善次郎」とあり。善次郎正宜の名乗りは2代続いたか。

加藤家の位牌に明治181012日没と、享年72

鴻巣市史史料編』・『幕末関東剣術英名録の研究』

金子蔵之丞

(蔵治郎ヵ)

 名・忠義

 

42

3番組

父妻子3人 ・百姓林右衛門子

足立郡原馬室村住居(鴻巣市)

新徴組入り ・剣術世話方

慶応4年庄内入り(家族4) ・「田川温泉場寄宿帳」に「剣術世話役金子蔵治郎、楽隊長男金子桂治郎」、(明治65月藤井光親の司法省への訴状に「金子忠義悴同氏孝次郎云々」とある) ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番隊平士金子蔵治郎の名あり。 ・「開墾士氏名」に名なし。 ・明治64月司法省へ出訴25名中に金子蔵治郎あり。 ・先の藤井光親の訴状に、庄内に家族を残して脱出した金子忠義と住谷為安の妻子に対し「日中ハ何様之用事有之候共外出入り指留置」等「両人之妻子共難渋至極之由云々」とあり。 ・同年同月寄留替

安政32月常見源之助会主の「摩利支天連講名帳」に「馬室村、金子内□尉様」とあり。 ・「武術英名録」に「神道無念流武州鴻巣宿原馬室、金子倉之丞」あり。 ・明治105月の菖蒲神社加藤善次郎の奉額に金子忠義の名あり。 ・坂戸市横沼の神道無念流大川平兵衛の碑石に金子忠義の名あり。

鴻巣市史史料編』・『幕末関東剣術英名録の研究』

吉羽三郎

36

1番組

兄弟5人   ●忍浪人(行田市)

高木潜一郎「御上洛御供先手日記」文久3年3月2日条に「昨日新徳寺江御呼出之上山田官司組之内吉羽三郎吉羽陽四郎両人共道中ニ而不埒之義有之候得共御勘弁致置候所、猶亦京都逼留中不埒之義有之、浪士三百人一統右寺江呼出其上右両人大小取上ケ門前ゟ追払ニ相成候」と。2人への申渡状には「其方共儀有志の列に召抱えの処身持宜しからず、予て申渡し候禁酒を破り、道中に於て如何の振舞も有之候共、御宥免の上は急度改心も有之べき筈の処、京着以後小頭の命に背き度々申し聞け等相用いず、礼儀廉恥を弁へざる次第に相聞え、頗る尽忠報国の虚名を飾り、有志の名列に加り浪士一統の名聞を汚し候儀不埒の至りに付、腰刀取上げ放逐せしむるもの也」と。

・同日この件に関し、吉羽三郎と同陽四郎の組頭山田官司は「私組御預吉羽三郎、同陽四郎儀、御咎被仰付候ニ付、於私モ恐入候、依之差扣之義奉伺候」との差控伺が提出されている。

・小山松『新徴組』に「(三郎と陽四郎は)一度は放逐されたが、後に詫びを入れて許された。ところが東下の途中福島の宿で五島万帰一と争いを起こし、お互い刀の柄に手をかける起こした。江戸に帰っても不都合な振舞多く、五月二十日、とうとう永の暇を申し渡された」と。

新徴組入り ・文久3519日廻状に「昨十八日左之通被仰渡候 銭五貫文ツツ 吉羽三郎同陽四郎 右之者心得違之儀有之候間今度永之暇可申渡、就ては帰郷為手当書面之通下候」と。後の去就不明。

太田市史資料編』・『新選組史料集』・吉野式『幕末諸隊研究』特別版・小山松「浪士組上京日記」

吉羽陽四郎

27

1番組

不明   ●忍浪人(行田市)

浪士組入り後は吉羽三郎と同。

 

野音次郎

32

道中取締役手付

1人  ・小倉内蔵之允元家来

武州岩槻産(岩槻市)、当時江戸飯田町住居

文久21222日松平主税助が浪士掛目付に「右之者差置申候」と呈出した3名の筆頭に河野の名あり。

・同年同月30日夜松平上総介が清河八郎らを牛込二合半坂の屋敷に招いた13名の中に名あり。

「大府輯録」文久32月8日に「清川八郎池田徳太郎山岡鉄太郎河野音次郎石坂宗順 右五人は世話役之内ニて、清川八郎は万端壱人ニて支配云々」とあり。

・同年2月24学習院へ上書呈出6人中の1人。

・小山松「浪士組上京日記」(清川八郎記念館蔵)に、2月27日の足利将軍木像梟首事件に関し、「(捕縛された三輪田らを)罰してはならぬとの論が起こり、有志よりより相談し、()この度は清河八郎の手を煩わすことなく、河野音次郎の筆で次のような文を作り、学習院に提出した」として、「先般等持院足利氏木像梟首仕り候者ども、御召し捕りの上入牢仰せ付けられ候処、右忠憤激烈の至情より相発し候儀にて、悪少無頼の所為とは相違い仕り候儀、右様厳重御取計に相成り候より、諸藩人心甚だ沸騰種々巷説も相聞え、御上洛の前異変出来の模様に付き、私どもに於て深く心痛仕り候、右に付きては急速御決議在らせられ、彼等の心事能く御諒察の上、御入洛前に出格の恩旨を以て出獄仰せ付けられ、長州、土州両家の内へ御渡しに相成り、其の邸内に愛養致し置き、他日尊攘の用に供し候様、御沙汰し下されたく願い上げ候」、との上書文あり。

新徴組入り ・同年419日世話役

川路聖謨「座右日記」同年527日条に「窪田治部右衛門ゟ之書状に而浪人河野音次郎、谷右京来る。面謁両人共大砲之事申来る。音次郎は岩槻在、右京は丹波之もの也と云」とあり。又同書同年727日条に「河野某来る。其外逢候もの三人」とあるが。

・同年625日付河野の池田徳太郎宛て書簡に「僕儀は近頃病身に相成り、京地出立旅中半ばより兎角出来不出来にて相勝れ申さず、永々引籠り養生も仕居候へ共、近々中全快の程も覚束なきことに医師申聞候間、先ず永の暇願差出候ことに御座候、併未だ何等の御下知も無御座候云々」とあり。後の去就不明。

中村維隆の史談会談話「(朝廷への建白に関し)河野は文章もできるし、東京生まれで弁者です。河野が弁者になるがよい、吾々は腕力家になろうという相談で、()すなわち腹を切るだけのことである。それでそのところへ艶をつけてやるのは河野という男で、それは巧みにやりました」とあり。

・俣野時中の史談会談話「(同上)代人として河野音次郎という者を出した。この人はすこぶる能弁家であって、浪士の中で議論家であるのみならず、胆力のある人であったそうであります」と。又「この時河野が橋本宰相中将を泣かしたという評判であった」と。又「(浪士組東帰に関し清河と近藤らが)相互極論激争して、その結局ついに刃をもって決するという場合になったそうでございます。当時河野音次郎がなかに入って調停しました」等とあり。

『維新の志士池田徳太郎』 ・『史談会速記録』・『日野市立歴史館叢書』第11輯・『川路聖謨文書』

河野和蔵

 名・道午ヵ

 

44

3番組

妻子2人   ●足立郡糠田村住(鴻巣市)

「武術英名録」に「神道無念流 河野和蔵」あり。

新徴組入り ・中村正行「文久三年忠士日記」616日条に「病身ニ付難相勤御暇願候ニ付御聞済ニ相成」として河野和蔵の名あり。

安政32月義集館々主常見源之助主催の「摩利支天講連名簿」に世話人として河野和蔵道午の名あり。

河野兵衛『糠田と河野権兵衛』に「河野六左衛門(河野権兵衛長子)の分家(河野)市郎兵衛家は()安政のころから絶家となり、河野栄蔵通章の弟和蔵養子に入り七十歳位まで長命した。子なく栄蔵(通明)の弟浅吉を養子に入れ、三十四~五歳で肺を病み死亡云々」とある。 ・河野権兵衛家は『新編武蔵風土記稿』にも名の載る旧家。 ・河野家菩提寺は市内聖泉寺にあるが、和蔵の墓石は不明。

・加藤善次郎の菖蒲神社の奉額に河野栄蔵、河野恵助、河野一郎、河野捨蔵、河野朝之助、河野関太郎(全員糠田住)の名あるも、河野和蔵の名なし。。

・『鴻巣市史資料編』・河野家に関しては『新編武蔵風土記稿」他、野崎源三郎『鴻巣の昔」・『埼玉県人物誌』

小島寛太郎

 

 

21

6番組

祖父父母3人  ●入間郡黒須村(入間市)

「目録」に名なく去就不明

入間市の剣士たち』に「(浪士組の)隊員中に、市内黒須出身者小島寛太郎(二十一才)細田市蔵(二十四才)の名が見える。どうい人物か今後の研究に待ちたいが、高麗梅原の甲源一刀流第三代比留間半蔵利充の神文帖元治元年三月のところに黒須村小島桓太郎、細田一三と同一人物かと思われる云々」とある。しかし「赤報記」江門著到士名に「小島源十郎 桓太郎次男 武黒ス 薩邸浪士」とあり、これによれば、年齢的に浪士組に参加した小島寛太郎と小島桓太郎は別人である。なお『赤報記』には「小島桓太郎 薩邸浪士 黒須村扇町屋 卯十二月 薩邸焼打事件後帰郷」とあり、桓太郎と源十郎は親子で薩邸に投じていたらしい。なお『相楽総三とその同志』に「小島(源十郎)武州入間郡黒須村桓次郎の子で、薩摩邸に投じた。()小島源十郎の身の落着きについては『赤報記』は何とも註記していない。『落合手記』には<脱上野にて暗殺>とある。<>とは脱走と落伍とを一ツにしたものであることは、他々のものの事で判定がつくが、<上野にて暗殺>は風説の誤りだ。大正年間、相楽の孫木村亀太郎が、晩年の小島源十郎に会っているからである」、とある。亀太郎が会った当時の源十郎は、江戸雑司ヶ谷鬼子母神の武蔵屋という店の主人で、背の高くない頑丈な、70歳くらいの人だったという。

相楽総三関係史料集』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号

小林助松

 通・丈助

 名・晴村

 俗・油丈

43

3番組

不明 ・油商与市長男 ・嘉永53月の加須村人別帳に、家族は父与市、妻みつ、娘ふみ、悴猷之助、弟勘太郎と。   ●埼玉郡加須村住(加須市)

初め棒術を学び、天保812月神道無念流宗家3代戸賀崎熊太郎栄芳に入門し、嘉永3年免許皆伝を伝授。後邸内に道場を開く。野上勘兵衛は門人。 ・「武術英名録」、「皇国武術英名録」に名あり。 ・安政3年常見源之助会主の「摩利支天講連名帳」に「加須村 小林助松様」とあり。 ・助松は小太刀の使い手として定評あり。

桃井宣三(赤城山挙兵首謀者桃井儀八子)の小田熊太郎(水戸天狗党の乱で刑死)文久3824日付書簡に「油丈越(越後)ヘ御上セ被下候様老父ヨリモ御願申上候間、能々御相談被下候様奉希上候云々」とあり。

新徴組入り ・「目録」に名なし。・文久355日廻状に記される小頭連名中に小松助松あり。 ・同月27日廻状に「小松助松 代大館謙三郎 右小頭申渡候ニ付為念御心得迄御達申候」とあり。

加須市史』別編に「(助松は浪士組の)江戸帰着後は藤田小四郎()らの密命をうけて開国論者中村正直を暗殺しようと狙ったこともあるが、未遂に終わっている」とある。(加須市の剣客小林丈助』にも)

『皇国武術英名録』に「(助松の)友人金子健四郎水戸家ニ奉仕ス、依テ屡同藩ニ遊フ、故ニ藤田東湖ニ親ミ好シ而テ同藩士宮本左一郎ナル者讃岐ノ浪士河西祐之助ニ斬殺セラル、其子宮本鹿之助及ヒ武藤道之助()等来語ルニ復習ノ情ヲ以テス、晴村□テ奮起扼腕祐之助ノ所在挙動ヲ探索シ()共ニ中山道足立郡針ケ谷村ニ()其本懐ヲ遂ルニ()終始晴村周旋力メタリト云」とあり。

当仇討ち事件は元治元年123日のこと。

『常野集』に、元治元年水戸天狗党蜂起時の「子五六月頃野州浮浪之風聞」中に天狗党員として「小松助六 此者加須町油屋之倅之由」とあり。

『加須の郷土史』に、年月不明の助松らの召喚状「加須町組頭与市悴丈助()同勘助悴伝太郎() 右之者共ニ相尋儀之アリ候間明十一日出達、翌十二日着致スヘク候、若丈助伝太郎等病気ニ候ワハ加コニテモマヵリ出ヘク候、不参ニ於テハ急度申付ヘク候云々」と。小松助松はこの呼出(嫌疑内容不明)を拒否し続けたため、町場役人に捕縛され、その時の負傷が原因で明治43月病没という。享年50歳。墓は市内龍造寺

『皇国武術英名録』・『埼玉県剣客列伝』・『鴻巣市史』資料編・『加須の剣客小松助松』・『埼玉史談』第8巻第4号・『加須市史』別巻・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号・『幕末維新埼玉人物列伝』

小山僖一郎

 名・清高

32

3番組

不明 ・百姓栄造子  ●埼玉郡芋茎村住(騎西町)

神道無念流宗家4代戸賀崎熊太郎芳武に学び免許皆伝。・加藤善次郎、野上勘兵衛は同門。 ・安政32月常見源之助会主の「摩利支天講連名帳」に「芋茎村 小山鬼一郎様」とあり。

新徴組入り ・「組別名簿」に小頭吉岡卓雄組平士で、「明細書麁調」に小頭で名あり。

慶応4年庄内入り(家族4) ・「田川温泉場寄宿帳」に6番組小頭で名あり。 ・「庄内戊辰戦争出張姓名」に3番組伍長で、また甥猷之助清房も平士で名あり。

・「田川温泉場寄宿帳」に「戊辰戦争の際越後地探索として出陣(石原多門附属)」とあり。

湯田川長福寺墓地の僖一郎妻の墓誌銘に「新徴組小山僖一郎清高妻之墓也、清高娶山崎喜三郎清重女、甥小山猷之助清房、清高清重及□□□□□文之助成重佐々木周作正勝皆武州□□之産也、今年之春清高以乱之故三月廿一日羽庄内湯田川村以旗亭与惣右衛門為寄宿、其閏四月廿一日出陣最上村山郡、其妻六月廿九日□□於旗亭、葬於同村長福寺境内、卒之三月清高死生不得再会。噫乎哀哉() 慶応四年戊辰十月廿九日 小山猷之助清房」とあり。

・同寺清高娘の墓に「浄心童女位、小山清高娘、明治二己巳年九月十有九日」とあり。

明治665日酒田臨時裁判所へ出頭のため東京を出立した旧新徴組士の一団中に小山清高の名あり。

・「酒田県鶴岡出張所庶務局日々用誌」同年720日条に「分部宗右衛門始元新徴組之面々名前書之通追々着県之旨相届候()小山清高始十二人之面々家元為取締帰宅いたし度旨司法省へ内意申し立候上云々」とあり。

・桂田寛吾割腹事件の若林守信の裁判所尋問への供述に、事件の発端である桂田の旧藩主酒井忠発の発言に対する批判は「小山僖一郎宅江参会酒吸合」の席上であったと。また「十一月一日中山四郎小山僖一郎古屋常三郎幷私寛吾宅江罷越()割腹致さねハ不相成ト申候ヘハ左様ニ候ハハ以来右様之義不申出急度慎可申与申候ニ付右之由萩谷江申聞候処左様手ぬるキ事ニ而ハ参り不申是非とも割腹致し候覚悟云々」と割腹に到ったとある。

・裁判所出頭元新徴組『一同日記』明治688日条に「小山清高御呼出し小堀重住付添是者溜()迄清高御呼出ニ而桂田寛吾割腹一条御調ニ相成候」とあり。

拙著『埼玉の浪士たち』等で、小山清高が庄内脱出途中で追手に捕らえ連れ戻されたと記したのは誤りであった。先に庄内を脱走していた小山清高等の明治66月付供述書類(小山清高事件」)中に、「小山清(文中清照ともあり)中追胤親申上候去4月中十五日学向執向仕度存念ニ而取扱共之不得許所彼地発足仕候処小国□与申処ニ而翌十六日昼飯致居候所長沢松弥喜瀬英士高田錦一郎其余若輩之者十余名同宿ニ而追付引戻サレ候大罪人是非共然ル処此度之義ハ再血盟モ有之皆議定誓詞ヲ破候事言語ニ絶タル大罪人是非共割腹致候様」と決定したが、取扱竹内右善等が「若輩之者共故追而改心致候迄両人之者我等方ニ預ルト申出」たため、取扱預かりになった、とある。(中沢貞祇の記録)

なお、小山清照は清昭の誤りか。明治105月加藤善次郎の菖蒲神社の奉額に「東京士族小山清高」「東京士族小山清昭」と並記されている。清昭は清高の子か。

明治77東京府へ貫属替

明治1379日芋茎村医王寺境内で榊原健吉等60余名参加の撃剣会の発起人として小山清高の名あり。 ・「皇国武術英名録」中、神道無念流佐藤徳太郎(菖蒲町住)の条に「遂ニ小山清高氏ヲ師トシ其技ヲ練修ス云々」と、又同書同流平澤治三郎の条に「本流祖家三世喜道軒ノ高弟故庄内ノ藩士小山清高幕府大政ヲ奉還スルニ際シ帰閭余ヵ地(菖蒲町)ニ遊ビ子弟ヲ教授ス、余モ其ノ群中ニ入リ云々」とあり。

騎西町史』通史編・小山松『新徴組』・『上毛剣術史』・石垣安造『撃剣会始末』・吉野式『幕末諸隊研究』十周年記念号・『幕末関東剣術英名録の研究』