19の(4)神に祀られた旧幕士松岡萬 (明治元年9月~明治3年)

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松岡萬の養子である運九郎の名の出た機会に、松岡の妻や子についてふれておきたい。松岡が妻を娶った経緯については、北村柳下の「松岡萬のことども」(『伝記』)に次のような逸話が記されている。なお、その時期やこの事実の典拠は明らかにされていない。

 

「萬は有名な女嫌いであった。妻帯を勧めるものがあっても毫も肯ぜなかった。門弟達は川辺の現今金光教会のある前の小店に子守娘のいるのを見出した。非常な美人でしかも悧巧そうである。そこで親達の名やところをきいて松岡方へあげたらばと親達を説き勧めた。はじめ親達も辞退したが、余りに望まれるので、それでは当分小間使として御邸へあげようということとなった。或る夜の事である。萬は明晃々たる大刀を提げて突立ち、これをば拭へ、紙を持って来いと命じた。小間使は少しも驚かず、騒がず、顔色自若、しとやかに両の袂で刀身を押へて血糊を拭い取った。それから萬も心動き遂に妻と定めたとのことである」

 

この妻の名は「しげ」と言ったという。川本武史著『生祠と崇められた松岡万』によると、この人は大石という家の出で、3人姉妹の次女であった。松岡はこの妻との間に3人の子を儲けたが、いずれも早逝してしまったらしい。そのため運九郎を養子に迎えたものの、どうした訳か後になって廃嫡し、妻の実家大石家の「けい」を養女として、松岡の書生赤木九一郎を婿入りさせたという。なお、松岡の同胞については、先に丙九郎という弟がいたらしいことを明らかにしたが、『生祠と崇められた松岡万』によれば松岡には「静子」という妹がいたという。静子は兄の萬から常日頃「静岡の人々の役に立つような職業につけ」と教導され、静岡女子師範を卒業後は生涯幼児教育の道を歩んだという。

 

話をもとに戻そう。慶応4年2月24日以来東叡山で蟄居謹慎していた徳川慶喜は、新政府軍が江戸城へ入った4月11日、東叡山を出て水戸の弘道館へ移ることとなり、精鋭隊と遊撃隊も護衛のため、これに従った。『徳川慶喜公伝』に、「精鋭隊頭中條金之助・大草滝次郎、遊撃隊頭高橋伊勢守(原注・精一、泥舟と号す)駒井馬等、隊士(原注・両隊百人許)を率いて、彰義隊と共に護衛せり」とある。松岡が慶喜に従って水戸に赴いたのか、残りの隊士たちの統率に当っていたのかは定かでない。

 

慶喜が東叡山を去って1カ月後の5月15日、新政府軍と彰義隊との戦争が勃発した。この時、精鋭隊士たち中にもこの戦争に参加した者があっのだろう。そのためかどうかは不明だが、後に駿府に移住した精鋭隊士の人数は半減していた。

 

新政府軍の彰義隊討伐が終わった9日後の同月24日、徳川(田安)亀之助(家達)に対して、駿河国一円と近江・陸奥両国の内において70万石(9月になり陸奥三河に変更)が下賜されることが示達された。駿府府中藩主徳川家達(6歳)は8月9日に江戸を発ち、陸路同月15日駿府に入った。総督府の許しを得た徳川慶喜は、その前月19日水戸を出立し、海路駿河の清水港に上陸し、同月23日駿府の宝台院に入っていた。『徳川慶喜公伝』には、銚子の波崎から蟠龍丸に乗船して清水港に着いた慶喜を「目付中台信太郎港に出迎へ、精鋭隊の松岡万、隊士五十人ばかり率いて宝台院まで警衛しまいらせたり」、と記されている。

 

この『徳川慶喜公伝』の記述では、松岡が水戸から慶喜随行したのか、或は中台と共に清水港に出迎えて、その後宝台院までの道を護衛したのかが判然としない。しかし、当時まだ精鋭隊は駿府城下に入っていないことや、『徳川慶喜公伝』には「中台、松岡が港に出迎え云々」とは記されていないことから、松岡は水戸から慶喜警衛して来たものと推測される。とすれば、松岡は江戸から慶喜に従っていたか、或はその後に遅れて水戸に入っていたのかも知れない。

 

話は再び主題から離れるが、清水港で有名な侠客清水次郎長と松岡萬に関する逸話についてふれておきたい。『東海遊侠伝・一名次郎長物語』を基本とした記された曾田範治著『東海の大侠次郎長』に、次のような一節がある。

 

「徳川氏の宗家を家達が継ぎ、静岡藩が設けられ、山岡鉄太郎もその藩政を助け、松岡万もこれに従って藩吏となっていた。この男、大の熱血漢で、嘗ては山岡を殺さんとしたこともあったが、山岡の人格の高潔なるに感じ、大の山岡崇拝党となった。この松岡万が、次郎長の傲強を聞き、その属山本田中の二氏を率いて、次郎長の府庁で会見した。四人楼上にありて談合した。次郎長の子分らは、親分が或は逮捕されるのではないかと心配し、皆刀を執ってその様子を窺っていた。その中、松岡は次郎長を導いて山岡公に謁見せしめた。山岡公次郎長の侠客骨を愛し、云々」

 

松岡と次郎長の会見内容について、田口英爾著『清水次郎長明治維新』では、新政府軍に協力した元赤心隊神主の暗殺事件に関してであろうと推測している。これは、明治元年12月に起きた2つの事件で、18日に三保村三保神社神主の太田健太郎が暗殺され、22日には草薙村草薙明神神主の養子森斎宮が襲われて重傷を負っていた。その犯人は久能村に屯する複数の新番組の関係者だとされ、根拠は示されていないが、同著では犯人は「松岡萬の率いる新番組士であることはほぼ間違いない」、としている。

 

なお、『東海遊侠伝』では松岡萬が山岡鉄太郎に次郎長を紹介したとあるが、山岡と次郎長の邂逅については異説がある。その一つは、明治元年9月18日の咸臨丸事件である。新政府軍兵士に殺され、海に漂う複数の咸臨丸乗組員の遺体を埋葬した次郎長の義侠の話は有名だが、当時事件の収拾に当たっていた山岡鉄太郎と次郎長の交流はこの時から始まったとする。高橋敏著『清水次郎長』では、「鉄舟が次郎長に頼んで旧幕臣を葬ったとも考えられないことはない」としている。ちなみに、清水市清水築地町にある清見寺の咸臨丸乗組員7人の墓碑「壮士墓」は、松岡萬が山岡に揮毫を依頼して建てられたものだという(今川徳三著『考証幕末侠客伝』)。

 

山岡鉄太郎と次郎長の出会いに関しては、もう一つの説がある。それは山岡鉄太郎が慶応4年3月、前将軍徳川慶喜の救解のために駿府の大総督府へ赴く際、途中山岡を案内したのが次郎長であったとするものである(『歴史と人物』収載の江崎惇「『次郎長伝』の虚構と山岡鉄舟」等)。筆者が知る山岡と次郎長の邂逅に関する説は以上である。なお、『東海遊侠伝』は、一時期次郎長の養子だった天田愚庵(天田五郎・元二本松藩士の子)が、当時賭博犯として獄中にあった次郎長の救解のため、山岡鉄太郎の協力を得て上梓したものだという。その出版の目的から、内容に潤色のあることは間違いないだろう。しかし、上梓に際しては山岡もその内容に目を通していたいただろうことを考えると、松岡と次郎長の楼上での会見の話もあながち無視することはできないのかも知れない。

 

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松岡萬は徳川慶喜を清水港から宝台院まで護衛した後、そのまま慶喜の警護に当っていたのだろうか。『静岡県史』資料編によると、精鋭隊100人が藩主亀之助と同日の8月19日に駿府に入っている。また、その7日後の同月26日に残りの精鋭隊士100人が到着している。松岡の率いる50人を併せれば総勢250人となるので、その後に牧之原開墾に入植した精鋭隊士(金谷開墾方)約250人(推計)と一致する。松岡は駿府入りの後は、そのまま慶喜の身辺警護に従事していたのだろう。駿府に入った精鋭隊士一行は、安立寺と感応寺を頓営とした(三枝康高著『静岡藩始末』)。

 

なお、勝海舟の「解難録」(『勝海舟全集』第11巻)の中にある、明治11年勝海舟が金谷開墾方の人たちに宛てた書のことは「村上俊五郎について」で詳記した。そこには、「慶応四年、官軍、我が江戸に逼る。ついに城地を致して去る。この時、君等(「海舟座談」に「大草、中條ほか3人の隊長」)予に告げて日く」とあるから、この話は精鋭隊の駿府入りに際してのことだったと思われる。この時中條や大草たち(松岡が同席したかは不明)は、海舟に対して、「(前略)我輩、同志五百名、(中略)今日に到りて故国を去る。その心中、いうに忍びざるものあり。同志中、その純を選抜し、一百名、従容義に就き、西城に入り、屠腹一死を以て、主家百年の恩に報ぜん」、とその許可を得ようとしたのである。この時、勝海舟は「今天下新たに定まり、人心の不測知るべからず。この時にして空死す。何んの益あらん」「一朝不測の変あらば、死をもって時に報ぜば如何」、と説諭したのであった。しかし、その後精鋭隊士がこの時切望した不測の事態が生ずることはなかったのである。

 

明治と改元(慶応4年9月8日)された月の29日、精鋭隊が新番組と改称された。これは250人余の精鋭隊士を駿府市中に置くことは、新政府に対して憚りがあると考えた藩庁が、幕府職制の払拭の一環として行ったもので、これ以後新番組隊士たちは東照宮のある久能村に住居することとなった。なお『静岡県史』通史編によれば、その職務は、御殿向、御内勤、久能山取締であっとあるから、一部の新番組隊士は引き続き市中に留まっていたものらしい。

 

明治2年1月新刻「駿府藩官員録」に、新番組の頭並として松岡萬と大草多起次郎の名が見える。新番組頭は引き続き中條金之助であることに変わりはない。同志の山岡鉄太郎は勝海舟と共に幹事役、高橋謙三郎は御用人、関口艮輔は前島来輔等と共に公用人として名がある。なお、『明治維新人名辞典』に、「(松岡は)最初庵原郡小島の小島奉行添役として民生に当ったがのち水利路程掛に登用され云々」と記されている。同様の事実は『幕末維新大人名事典』にもあり、また『岡部町誌』(静岡県藤枝市)、『生祠と崇められた松岡万』、塚本昭一著『牧之原残照』等にも、同様のことが記されている。

 

静岡県史』通史編に小島奉行に関連して、「明治2年1月(13日)、駿府藩は全支配領域を11区分し、各地に奉行所を設け、行政および勤番組(旧幕臣の無禄移住者)の管理をともに行おうとする。各奉行の役金は600両、添奉行(目付の上席)の役金は450両と定められた」とある。同著にれば、小島奉行は勤番組之頭林又三郎、添奉行は幹事役附属水沢主水であって、添奉行として松岡萬の名は記されていない。なお、この奉行制度は同じ年の8月26日には廃止されている。これらのことから、松岡が小島奉行添役(添奉行)に就任したという事実はなかったのでないかと思われる。その松岡は、奉行所が設置された翌月には水利路程掛に任ぜられている。『静岡県史』資料編に、2月5日付けで松岡萬等水利路程掛6名の連名で示達(「四大河川見分に付水利路程掛達」)した、次のような文書が載っている。

 

「拙者共儀、今般水利路程掛り被命候ニ付、明六日当地出立、富士川、安べ川、大井川、天龍川通、当春御普請見分目論見トして罷越候付、場所之詰合之地方役えも談判いたし候義も可有之、且村々ニおゐて諸事差支無之様兼テ御申置有之候様存候、依之此段及達候」とあり、「猶以富士川通りゟ追々見分いたし候儀有之候」と追記されている。

 

水利路程掛は、府中藩の明治2年の機構改革で設置された職制で、水利治水や街道管理、それに絡む農民間の紛争解決等にも当たったらしい。特に富士川や大井川等の4大河川の治水対策は、田租の増収と洪水に悩まされてきた農民の慰撫のためにも、藩にとっては喫緊の課題で、重要な職掌であったと思われる。この職に選任された者は松岡以外に、目付川上服二郎、運送方頭取佐々倉桐太郎と福岡久右衛門、陸軍方高山湧之助、赤松大三郎であった。なお、この当時山岡鉄太郎は大久保一翁と共に藩政補翼の重職に就いていた。

 

明治2年12月に松岡萬たちが藩庁に提出した「明治二年分駿遠二州治水費調書」(正式には「諸書付留」・『静岡県史』資料編)に、「(前略)合金八万七百三拾五両三分永拾文、右ハ駿遠州御管轄地四大川幷内郷小川堤除用水樋類其外御普請所、当一ヶ年分惣御入用金取調候処、書面之通御座候、尤当時仕立中之分且元各奉行所手限ニテ相伺御下知相済候分等有之候間、右増減之儀ハ云々」とある。この金額の大きさをみても、松岡たちの職責の重さが窺える。

 

なお、この調書を提出した水利路程掛の面々からは、高山湧之助と赤松大三郎の名が消えて、代わって根立芦水という人物の名が記されている。ちなみに、赤松大三郎は後に海軍中将となった赤松則良だと思われる。『赤松則良半生談』によると、大三郎は通称(幼名)で、明治元年11月に沼津兵学校の設立と共に陸軍一等教授方に就任し、翌年10月には頭取兼勤を命ぜられている。その赤松大三郎が、一時とはいえなぜ松岡と同役の水利路程掛に名があるのか不明である。

 

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この年の6月から7月にかけて版籍奉還が行われた。府中藩は新政府への配慮から、府中は不忠に通じるとして静岡藩と改称した。その翌月、新番組は藩庁から大井川の西岸に広がる金谷原(牧之原)に1425町歩(約1400ヘクタール)の荒蕪地を下賜され、この地の開墾に従事することとなった。これによって、隊名も新番組から金谷開墾方と改称されている。金谷開墾方が久能村から牧之原に移住を開始したのは7月26日のことで、その翌々月に作成され政府の密偵尾崎弾正小巡察の静岡藩政に関する探索書(『静岡県史』資料編)に、次のような記述がある。

 

「新番組二百廿人余、久能山・宝台院警衛致し居候処、今般王臣ニ相成、事を残懐ニ思日、帰農を願ひ出候処、勝安房等段々説得致し、遠州金谷之原を右之輩に開墾地ニ被下、七月下旬より家族引連移住仕候得共、未タ開墾ニ相成不申候、云々」

 

静岡藩始末』によると、この牧之原開墾の発端は『榛原郡史』に、松岡萬が大井川の治水に関する沿岸踏査の際に大地の開墾を思いつき進言した、とある。また、関口隆吉(艮輔)の提案だったともいい、開墾方頭並服部一徳の遺稿に、「明治二年藩籍奉還の議起る。人心悩たり。中條・大草氏見る所ありて、帰農の志あり、偶々(関口隆吉が)江戸より来て日く、遠州牧之原の南に金谷原あり洪荒以来民棄てて顧みず。公等之を開拓して何ぞ国家無窮の鴻益を計らざるやと。二氏大いに喜び、山岡氏と議し、遂に墾発力食の意を陳ず。勝安房および大久保一翁公等大いに参画し、是挙ありと謂う」(『牧之原残照』収載)とある。

 

牧之原開墾は松岡と関口両者の発案だったのかも知れない。なお、開墾事業には水利は重要で、松岡が水利路程掛と金谷開墾方を兼任していたのも、開墾事業を円滑に進めるためだったのではないかと思われる。また、『牧之原残照』によれば、開墾方の入植直後のある日、牧之原に松岡がやってきて、「勝(海舟)さんが、畑作には茶がよいと言っている。話し合いたいから来てくれ」ということで、話し合いの結果茶の栽培をすることに決まったという(出典不明)。

 

金谷開墾方の組織は、明治3年3月末作成の「静岡藩職員録」を見ると、「開墾掛」の頭として「御剣術御相手、中條潜蔵(金之助)」、次いで頭並として「水路路程掛、製塩方頭兼、松岡萬」、と「御剣術御相手、大草太起次郎(多喜次郎)」の名がある。なお、先に示した『同方会誌』に載る「精鋭隊惣名前」の備考には、「山岡、松岡両先生は牧之原へ移住されず」とある。もっとも、当時の心事を詠んだ松岡の歌を見ると、当初は同志と運命を共にする覚悟だったのかも知れない。他の歌も含めて、この頃読んだと思われるものを次に掲げる。(『おれの師匠』収載)

 

身はたとへ金谷ヶ原に埋むともなとかいとはん武士の道

かねてより盟ひし友ともろともに金谷ヶ原に身をや果さん

憂きことも悲しきわざも盟ひてし友と同じく為すぞ楽しき

身のはてはいかなるとも武士の立てし心はかわらざりけり

身はたとへ餓えて死すとも武士の操はかへじ日本魂

水は谷薪は林汲み拾ひ賤が手業もともになしてん

 

松岡には誠実で繊細な一面もあり、決して武骨一方の人ではなかったことが窺える。このほか、水路路程掛の職務の傍ら詠んだのだろう、「大井川なる御堤の上に常夏の花うるわしく咲き出でたるを見て読める」として、「世の憂さを忘れよとてかやさしくも堤に咲けるなでしこの花」とか、「庭に雀のおどり居るを見てよめる」と詩書して、「庭もせに餌拾ふ雀なにわざぞわがうき心知らず□なる」と詠んでいる。松岡の「憂い」とは、先の「密員某派出日誌」の中で、松岡の塾生鈴木勇蔵と岩下幸房が政府の密偵(2人は密偵とは知らない)に対して、「我師松岡先生抔ハ(中略)曾テ聴ク、君辱カシメラルレハ臣死スト謂リ云々」、と発言していることに関係しているのではないだろうか。すなわち、旧主徳川慶喜が未だ宝台院に謹慎中である事実に対しての憂いだったのではないだろか。

 

なお、「牧之原開拓記念碑」には松岡萬の名が記されているが、金谷郷土史研究会編「牧之原開拓士族名簿」の中には松岡の名はない。前記のごとくこの名簿には、松岡の養子運九郎と従弟松岡貫七郎の名があり、いずれも「巳年七月廿五日新番組御廃止、金谷原開墾御用被命候」と記されている。

 

金谷開墾方の牧之原入植開始から2カ月後の9月28日、松岡の憂いの種であったと思われる徳川慶喜の謹慎が解かれて、宝台院から市内紺屋町に住居することとなった。このことを詠んだと思われる歌がある。この頃詠んだと思われる歌と合わせて次に掲げる。なお、前記の歌と同様この歌は『おれの師匠』からの引用である。

 

我が君のまごころここにあらわれて雲よりはるる臣が思ぞ

一筋に御つゝしみましし真心の御功こゝに立ちし嬉しさ

神代よりためしだになき世となりてあけくれ心安き間もなし

いと明き学びの道の力もてよしあしわけん我心かな

 

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明治2年12月23日、藩庁から松岡萬に対して「右(運送方)製塩方ト唱替候様可被致候事」との達しがあり、同時に藩の会計掛に対しても「右(運送方)松岡万ェ引渡候様可被致候、尤委細之儀ハ同人可被談候事」と示達された(何れも『静岡県史』資料編)。松岡はこの同日かその前日に製塩方の頭に任ぜられていたのだろう。松岡は開墾方と水利路程掛に製塩方頭まで兼務することになったのである。松岡に配属された運送方とは、榎本武揚たちが北地へ脱走の後、海軍局の残留組が駿河に移住して勘定所(勘定掛)付運送方として活動していたが、その運送方付属の元浅草米廩小揚約130人が松岡の下に配属されたのである。

 

この同じ12月23日、藩庁から勤番組(無禄移住者の藩士)の頭に対して、「右(飯野庄作、細谷八十郎、秋山平記)松岡万附属出役可被申渡、尤同人可被談候事」と示達されている(『静岡県史』資料編)。この3人は、「製塩方人名録」(『浅羽町史』資料編)に「出納掛筆生」として名が見える。なお、この人名録には、頭の松岡萬を筆頭に「取締」の松岡運九郎、小野駒(山岡鉄太郎弟)等5人のほか、26人の名がその職名と共に列記されている。この31人のうち11人は金谷開墾方の人たちであった(『牧之原残照』)。ちなみに、「牧之原開墾士族名簿」の松岡運九郎と小野駒の項に、「十二月廿五日製塩方取締被命、右御手当壱ヶ年金拾八両被下置候」と記されている。

 

製塩方の職制は「伐薪掛取締助」、「記録肝煎」、「製塩世話掛」、「器械掛」、「剣術世話掛」等多岐にわたっている。その中には「漁業方取締」や「漁業指揮掛」の職名もあり、これに関係して同月25日藩庁から榛原郡地頭村枝郷御前崎の名主哲造に対して、「右製塩方松岡万附属可被申渡候、尤其身一代苗字帯刀差免候云々」と達せられている。14人の漁民が移住させられて漁業に従事したという。

 

静岡県史』通史編によれば、製塩方の事業は、東は中新田村(浅羽町)の浜から西は太田川を境として大島地先までを漁塩所と定め、雁代村と大島村(ともに福田町)の地先に2町ほどの塩田を造り、これに縦横の堀を巡らし、太田川の河口から入って来る塩水を引き入れ、また下げ渡しを受けた三沢山の樹木を伐採して製塩の燃料としたという。製塩方の住居は、雁代村に隣接した湊村(袋井市)の松林中に14棟(1棟に6世帯)の瓦葺きの長屋を建て、その西側に酒、醤油、味噌などの日用品を商う商舎も建てられた。9月には長屋内に筆学所も設けられ、その翌月には鍛冶場が建立されて刃物の製造と販売を始め、希望者には製造技術を習得させたという。なお、13番長屋には新門辰五郎が居住して、運送方元浅草米廩小揚の人たちの統率に当ったという。辰五郎は徳川慶喜の東叡山入り以来、水戸にも付き添い、当時は駿府に在住していたのである。

 

『浅羽町史』資料編(静岡県磐田市)に、この製塩方に関する若干の資料が収載されている。それによると、製塩事業に関して地元農民との間に軋轢が生じていたのである。同年4月17日付けで、最寄り27ヶ村から中泉郡政役所に対して、製塩方の薪置き場のための築堤工事で広瀬川の川幅が狭まり、農業用水の廃出に支障が出る恐れがあるとして工事差し止めの歎願がなされている。その後両者の間で交渉があったらしく、「悪水吐方ニ御差障不相場所ノミ開発可致、若差障り之ケ所ハ可取払」ということで一応の決着が付いている。

 

これより以前の2月7日には、早くも幸浦役所(製塩方役所)から「村々是迄当持場沿海筋魚漁有之候節ハ貰ト唱男女共魚漁場所ヨリ出向ヨリ趣之処」、以後は魚漁の邪魔なので「相対貰い」以外は止めるようにとの通達が出されている。また、製塩方の仕事は製塩以外にも及んでいて、翌3月17日付けで、「村々堤通永世保方之タメ」に榛の木を植えたい希望者は申し出るよう示達している。

 

当時、松岡萬は湊村の名主太郎八方に寄宿していたというが、『牧之原残照』に載る「牧之原開拓史に関する略年表」のこの年4月の条に、「藩水利方松岡万は、川根山内へ通船を命じ、向谷に通船役所を設置」(典拠等不明)とあるので、製塩事業に専念していたわけではなく、併せて水利路程掛の職務にも従事していたのである。こうしたこともあってか、翌月12日付けで、藩庁から開墾方頭中條金之助と同並大草多起次郎に対して、「松岡萬取扱候製塩之場所、両人申合折々見廻候様可致候、尤萬江可談候」、と示達されている。

 

この製塩事業は松岡らの奮闘努力にもかかわらず、早くもこの年の末には中止となっている。その理由は定かではなく、遠州の空っ風による風害とも、多雨による水害がその原因であるなどと諸著にある。しかし、「郷里雑記」にこの地は「田地少クシテ戸口甚ダ多シ、塩ヲ焼キ捕魚シ水主梶取ヲ業トスルモノ多シ」(『日本歴史地名体系』22)とあるというし、『生祠と崇められた松岡万』にも、古文書(典拠の無記載)に「福田湊、塩浜、運上塩八石、横須賀主ヘ上ル」と記されているから、製塩事業中止の理由は他にもあったのではないかと思われる。

 

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製塩事業中止の後も、事業に携わった人たちの一部はこの地に留まっていたらしい。『浅羽町史』資料編中の明治4年9月付け「開墾掛り高幷漁業士共生育金取調以来開墾割方取極一札覚書」に、「身(漁業方)等拝領地之分ハ相持ニテ永々可進退極メ云々」とある。さらにこの漁業方一同(9名)と魚漁方頭下村哲造との間で明治9年2月に交わされた議定書には、「壱人ニ付凡金三拾円内外之金員ヲ以隣村ニテ母地御買入被成下云々」とか「第壱等ニ漁業専ニ、第二ニ各御任委被成下候田地大切ニ作立仕云々」とあって、この人たちはそのまま土着したのである。

 

また、明治4年7月の廃藩置県により、静岡県が分割されて浜松県が立県されると、旧製塩方は浜松県に引き継がれ、翌5年3月には浜松県から旧製塩方への扶持米納付に関する通達(『浅羽町史』資料編)が出ている。さらに同年7月の「旧製塩方処分方法の儀ニ付伺」(『明治初期静岡県史料』第1巻)によると、旧製塩方130人(他に家族195人)の内、127人には1人3人扶持(年凡そ5石4斗)が給されることになったらしい。元運送方の人たちは僅かな扶持米を貰ってこの地に留まっていたのである。なお、先の明治4年9月付けの覚書には、「金三百両也、右ハ塩新田前小野駒殿ヨリ買取地代金」とあるので、山岡鉄太郎の弟小野駒は早々にこの地を引き上げたらしい。

 

松岡萬の消息に関しては、勝海舟の日記の明治3年12月24日の条に「松岡萬養子運九郎、附属、高橋真吉、村越 堂、山岡鉄太郎、高橋弥吉、小林祐三、由利源十郎、御長座の事談済み」とある。また、その2日後の26日条には「一翁、松岡萬方へ行く」と記されている。「一翁」とは言うまでもなく当時山岡鉄太郎と共に静岡藩の藩政補翼(一翁は御家令兼務)の職にあった大久保一翁(忠寛)である。24日の山岡を交えての長談義と、その2日後の藩の重鎮大久保一翁が態々松岡の家を訪ねたことなどからすると、これらは製塩事業中止に関することだったのではないかと思われる。

 

話が前後するが、大久保一翁は製塩方の頭となって現地へ出立する松岡に対して、「丈夫のきそう網引の海幸にさちの浦々末栄ゆらし」、との餞別の歌を送っている。松岡はこの歌をもとに、湊村の浜を幸浦と名付けたといわれる。明治21年4月に湊村他3村が合併した際には幸浦村と命名されている(昭和30年福田町に合併まで)。余談ついでに、「村上俊五郎について」で既にふれた静岡市の「ふる里を語る会」発刊の「ふる里を語る」中に大久保一翁が松岡萬に宛てた書簡(北村柳下稿「駿府と松岡萬」中)のあることは紹介した。参考までに改めてここに全文を転載させていただく。

 

口章 略歴二十葉呈上候御一笑々々五葉一包は山岡先生御留守宅へ御序に御届け、外に弐百枚は中條先生へ御始御序に御廻可被下候              頓首

二白 遠州へ大参事殿不日可為相越由に付而者老婆心聊心配は村上氏には何様の賢者為来候而も村上氏の存通には不為行事と存候

兎角世の中はめいめいの思様に不成所に面白みも有之もの故只々応時自分可致当然之業計に能々安し外之事には口出手出不為致方却而皇国之御為と存候此段通置何分御頼申候

   十二月十日                    早々頓首

  万様親瞥                          一翁

 

※以下は19の(5)に続きます。