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東京府に出仕して以後の松岡萬に関しても、筆者の怠惰のためもあって、管見にしてごく僅かな資料にしか出会えていない。明治6年に関しては、先の『学海日録』に、東京府職員としての松岡の様子の一端が垣間見えるので次に引用しておくこととする。
3月3日、「会議所に煉火石(煉瓦ヵ)をもって上水の樋を作らんと請ふものあり。仏国人の伝習をうけしものといふ。此議一定然るべしといふもの多ければ、松岡典事本所に来りしときそのことをいひて、その案を示せしに、説よろしかるべし、我まづ知事に申て試みに工を興さばやといひて持ち去りぬ」。3月5日、「松岡典事、謐所に来りていわく、きのふ本所より奉りし煉火石に戯謔のことをしるしたり、こは何人の為せし所ぞ、和殿会議所に雇はれて事を決するときく、かゝる戯謔は世にあるまじき事なるべしといふ。余大に驚、いかなるべき事候べきとてきくに、何人かしたりけん(中略)、よって其人より松岡に事のよしを告げて深く怠状を奉らしむ」
煉瓦石にどの様な戯れの言葉が書かれていたのだろか、また、煉瓦石での樋がどうなったかも不明である。その翌々月2日の条には、「市人松本孝八その家を作るに溝板を石にせしとて例に違いよしを官吏いひしかば服せず。よしを会議所に訴ふ。余之を松岡典事に告げしに、寺田典事その人を詰り、再び孝八を招きて尋ね問はるゝに、申す所前と異なる事多し、此日両典事本所に来りて余に実なき事を以て告げらるゝの責あり。云々」。そして同月31日条には、「日本橋造営落成す。京府諸官員松岡典事、杉本典事、川上大属等也。此橋は極て良材なるものから、資金足らざるよし云々」とある。『史話明治初年』によれば、日本橋は明治5年12月に着工して翌年5月31日に落成したとある。そして同書にも、「橋の材料たる木材は精良な欅の如鱗木質であったそうで」、明治44年に新橋が落成するまでの30年余も使用されたという。松岡は日本橋の建設に携わっていらしい。
松岡は神田川の万世橋の架橋にも携わっていた。『おれの師匠』に、「神田の萬世橋は松岡が当時架けたので自分の名を冠したのである」とある。新潮社編『江戸東京物語』によると、この橋は現在の万世橋と昌平橋の間に東京で初めて架設された石橋で、2つのアーチが眼鏡のように水面に映るところから「めがね橋」とも呼ばれたという。石材は筋違見附を取り壊した石が使われ、現在の万世橋が完成した後の明治39年まで使用されたという。
『江戸東京物語』によれば、橋の命名は府知事の大久保一翁(『おれの師匠』とは異なる)で、万世橋の読み方は初め「よろずよ」だったが、いつの間にか「まんせい」と呼ばれるようになったという。日本初の石橋であり、知事の命名だったと思われるが、石橋で頑丈なことと架設に尽力した松岡の名も知事の念頭にあったのかも知れない。松岡神社の宝物の中に万世橋の版図があるという(『牧之原残照』)。なお、この万世橋に関して、『学海日録』明治7年4月17日条に次のような記事がある。
「萬世橋の石工等申さく、東京府に於て萬世橋を作らる、工等その役に使はれて公用に供せしに、事役、初めに構じられしより過ぐるもの少からず。その価まして弐千余金に至る。請ふ、会議所に詮議せられて事由ヲ京府に申し給らんと。此こと打すてをくべきにあらずと衆議し、即ち東京府大属松岡萬・権少属山城祐之はその事をあづかれるをもて、その申文を草す。松岡・山城両官員、この日会議所に至り、石工の長及橋匠の代理人等を召して、その事を問ひしに、その申すところ、即尽く初め構ぜし事の外を出でず。更に過役を課せしにあらざるよしにて、請ふ所を用ひず」
『おれの師匠』収載の「松岡萬氏日記備忘雑記」4月24日条の中に、「今日は京橋へ行き山城氏へ面会・同道にて会議所へ参り石橋請負人を説諭す。依田氏尤も懇々被諭たり」とある。『学海日録』にはこの日の記載はないが、17日の事態に関して問題のあった架橋の請負人をこの日説諭したということだろうか。『学海日録』に記される事態とやや異なるようだが、詳細は不明である。
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松岡の日記に話が及んだため、このことに触れておきたい。松岡が詳細な日記を記していたことは、『おれの師匠』の中に「松岡はあんな無茶な男のようで、丹念に日記を認めたもので、何でも若い時から身辺のことを巨細ともに書いて置いた。おれが師匠に、師匠の昔のことを尋ねると、よく<そのことなら松岡の日記に詳しく書いてある筈だ。松岡に日記を貸して貰うといい>と云ってゐたところを見ると、余程詳細に渉って書いたものに違いない云々」とある。もっとも、松岡は決して小倉鉄樹に日記をみせることはなかったという。
松岡の若い時からの詳細な日記については、『おれの師匠』に更に「松岡が自刃した時(後に記す)この日記も手紙などと一纏めにして火鉢の中で燃してあった。師匠が来てこれを見て、『その日記は惜しいものだ、焼け残りだけでも取り出して置け』と言われたので、おれは直ぐ火を揉み消して火鉢から日記を取り出して置いたが、今はどうしたかしら」、と記されている。若い頃からの膨大な日記が、火鉢程度で燃やし尽くせるものかどうかはやや疑問ではあるが。
なお、松岡の日記に関して北村柳下の「駿府と松岡萬」(『ふる里を語る』中)に、「加藤玄智氏が帝大文学部で松岡万の伝記を編むといふので、維新当時の日記おば、松岡方から借覧したのは昭和2年7月中のことである」とある。その後、加藤玄智教授による松岡の伝記が上梓された形跡も、松岡の日記がその後どうなったかも全く不明である。加藤玄智教授が松岡家から借り受けた日記は「維新当時」のものとあるから、松岡は自殺未遂事件以後も日記を書き続けていたのである。几帳面な松岡の人間性が窺える。『おれの師匠』の中に燃え残りだろうか、松岡の日記(「松岡萬氏日記備忘雑記」)の断片が若干掲載されているので、その一部を転載する。
「四月二十四日朝(原注・明治七年)三度斗山岡先生を明け方の夢に見る。初の時は予に鉄にて唐草を象眼したる柄の曲りたる刀を賜はりたり。中身は何れ取替へざればいかぬと申され候。奥方も居られたり。二度目は八百坪の地所御所持の由薩州の人申され候を夢に見たり。今日は(中略・前記)。九段上にておけいさん(原注・鉄舟室英子夫人の妹、石坂周造室)に逢ふ。帰宅後先生より御書翰来る。奥方は御出産の由、御知らせ有之直ち出向拝謁の上薩州の事態夫々種々御話有之面白き事多かり。奥方御女子を産まれ少し御血の気故お目にかかり不申候」
「(同年)四月二十七日退庁後直に府の門前より、人力車に打乗て四谷の大通に参り、砂糖並葛の粉共々購之相携へて淀橋なる山岡先生へ参上致す。孺人御出産の御見舞に二品を呈す。大先生薩州表より御持越の薩摩焼土瓶、カナダラヒの形に焼きたる陶器を賜はる。殊に西郷大先生の御筆二枚賜之、是れは御出艦前に希望の趣御承知の故也。御自作の詩なり。云々」
牛山栄治著『定本山岡鉄舟』によると、山岡鉄舟の妻英子が3女を出産したのはこの年の4月8日である。同月24日それを山岡からの手紙で知った松岡は、直ちに山岡家を訪ねたのだ。出産から16日も過ぎてのことだが、これには訳がある。それは日記中に「(山岡から)薩州の事態夫々種々御話有之」、とあることに関係している。これより以前の3月27日付けで政府より山岡に対して、「御用コレアリ、九州ヘ差シツカハサレ候」という辞令(『定本山岡鉄舟』)が出ていて、3月末か4月初めに山岡は東京を出艦していたのである。これは前年の10月、征韓論に敗れて薩摩に帰った西郷隆盛の出京を促すためであった。山岡が東京に戻った日も定かではないが、おそらく松岡が手紙を受け取った4月24日か、その数日前のことだったのだろう。
先の日記によれば、松岡は山岡が九州へ出発(出艦)する際に、西郷隆盛の真筆を貰ってくるように頼み、松岡の願い通り山岡は西郷の直筆二枚を貰って来てくれたのである。しかし、帰京に関しては山岡の熱心な説得にも、西郷は首を縦に振ることのなかったことは歴史の示す通りである。
なお、松岡の日記を見ると、松岡と山岡の関係性が歴然とする。当時の山岡は明治天皇の侍従として宮内少丞(5等)に任ぜられていたが、松岡にとって山岡はそうした身分上の問題以前の人格的な畏敬の対象だったらしい。松岡と村上俊五郎、それに中野信成の3人を「鉄門の三狂」と称し、これに石坂周造を加えて「鉄門の四天王」と呼んだ(『おれの師匠』)というが、松岡の日記を見ると腑に落ちるものがある。これも『おれの師匠』に記される話だが、山岡は自分の収入の内から松岡、村上、中野の3人に毎月20円づつ与えていたとある。松岡が東京府職員を辞任したのは明治10年であり、山岡が宮内省を辞したのは明治15年であるから、この間のことだろうか。判然としない。
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明治8年以後の松岡に関して確認できる僅かな資料によると、『清見潟』20号に明治8年の6月、松岡は東京府八等出仕の東京府大属となり、同年12月には警視庁中警部に任ぜられたとある。しかし、川村恒喜の先の論稿では、「其後警視庁に職を奉じ、明治9年に権少警視に任ぜられ、裁断頗る公平で『明治の大岡越前守』の異名をとったと云ふ」とあり、『静岡県大百科事典』には「1875年(明治8)東京に帰り府の大属となり警視庁に出仕。1877年一等大警部に昇進」と一定しないが、明治8年に東京警視庁に勤務するようになったとする事実はその他の著書も一致している。
松岡がなぜ警視庁の職員になったのか、その経緯も不明である。ちなみに、この年12月に大久保一翁が東京府知事を退任している。後任は元肥前大村藩士の楠本正隆であった。松岡の警視庁での身分も諸書で一定しないが、明治7年1月制定の警視庁の職制は、長官の大警視以下、権大警視、正権の少警視、正権の大中少警部と1等から4等までの巡査からなっていた。松岡は明治10年2月19日付けの「任一等大警部」の辞令書の写真があるから(『清見潟』20号)、警視庁出仕当初は中警部か権大警部だったのではないかと推定される。
警視庁奉職当時の松岡については、「名判官の誉れがあり、明治の大岡越前」と称されたと諸著にあるものの、その具体的な事績は一切明らかにできていない。また、松岡は在職2年足らずの明治10年(一等大警部に昇進した年)に警視庁を退任したという。その理由も、その月日も定かではない。この年2月には西南戦争が勃発し、東京警視本署の警察官総員9,500名が2月に戦地の九州へ派遣されている。前述のように松岡は、山岡が鹿児島に派遣された際、山岡に西郷の書を貰って来るよう頼んでいる。また、松岡の「備忘雑記」(『おれの師匠』収載)には、「右は戌(原注・明治七年)三月二十九日の夜山岡大先生へ参堂の節〇紙(原注・一字虫食にて不明)に認め有之たるを先生に乞ひ直に写之帰り又此に記置もの也」と後記して、「西郷参議辞表写」や島津久光が九州に赴いて西郷と会見した内容等が克明に記されている。こうした点から、西郷を敬慕する松岡が警察官(自身も含めて)の九州派兵に反対して辞職した、と推測するのは考え過ぎだろうか。
退職後の松岡に関しては、その後明治14年に至るまで「海舟日記」を除く資料は一切確認できていない。なお前後するが、勝海舟の日記の明治9年に松岡の名が散見されるので、参考までに転記しておく。これによれば、松岡は地所を購入するため、明治9年に徳川宗家から600円を借り入れたらしい。
7月5日、「伊集院兼寛、松岡萬、梶金八、織田信徳」。9月24日、「松岡萬」。11月8日、「溝口、松岡萬、地所の事につき談」。12月3日、「松岡萬、六百円、御向より拝借仰せつけらる」。12月8日、「松岡萬、六百円拝借、繰り廻し方の事、申し聞く」。12月9日、「松岡萬、薩州より大挙の内風聞これおる旨」。以後、勝海舟の日記には明治15年に至るまで松岡の名は認められない。
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明治14、15年当時の松岡萬に関する逸話が『鉄舟居士言行一班』に記されている。その一つは、山岡鉄舟関係のほとんどの著書にも載っている宮内省の勲功調査に関する話である。要約すると、明治14年に宮内省が維新の功労者に賞勲を付与するため、勲功調査を行った。山岡も勲功調査局の招請で出頭したところ、勝海舟が提出した江戸開城に至る経緯を述べた筆記の正否を問われたが、そこには勝が己一身で難関を解決した旨が記されていた。それを見た山岡は不審に思ったが、「之を否認せば勝の面目を潰す。イヤ功は人に譲れ」と咄嗟に判断し、「その通りだ」と言ってそのまま帰邸してしまった。しかし、当時の事情をほぼ知っていた係官にその顛末を聞いた右大臣岩倉具視は、山岡を私邸に招いて当時のことを詳記して差し出すよう要望した。この岩倉の要請で山岡が提出した筆記が、後に岩倉が記した「正宗鍛刀記」の材料になったという。
『鉄舟居士言行一班』によると、山岡が岩倉邸に出頭した2、3日後にこの話を聞き込んだ松岡萬が、大いに憤り、「勝の如き卑劣漢を活かし置いては、我等旧幕臣の恥辱であるから、速に成敗して呉れん」と息まき、これを聞いた石坂周造や村上俊五郎らも同調して大騒動になる事態に至ったものの、山岡がこれを知って制止したために事なく済んだという。ちなみに、前段の話はやや内容は異なるが『泥舟遺稿』や『おれの師匠』にも記されているが、松岡に関する話は載っていない。もう一つの松岡に関する逸話については、『鉄舟居士言行一班』に記される事実を以下に転載する。
「松岡氏其後又政府が居士(山岡鉄舟)を勲三等に叙したとて大に憤り、今度は独密に岩倉右大臣を刺すべく匕首を呑んで右大臣を訪ふた。右右大臣一見してその気勢を察し、貴公の如きは元亀天正の頃に出たらば立派な大将であったらうと卓上一番し、頓(やが)て茶菓を饗して鄭重に待遇されたので、松岡氏拍子抜けして空しく帰った。而して其夜熟(つくづ)く無謀の行動を悔い、居士に申訳なしとて咽喉を刺貫いて自殺を企てたが幸に脈管を外れて一命は取留めた。後日右大臣が居士に、先達て松岡がやって来て実にスゴイ様であったと語られた」
松岡の自刃の話は『おれの師匠』にも出ているが、そこには「山岡が宮内省を退いた時、松岡は要路の人の不明を慨し、山岡如き誠忠無二の男を君側から離すといふのは不都合だといふので」決死岩倉を刺そうとしたとあって、叙勲の話ではなくなっている。山岡は宮内省に出仕する際に「10年を限りに」との条件を付していて、それを松岡が知らないはずはなく、『おれの師匠』の記述は疑問である。山岡が宮内省を辞職したのは明治15年6月であって、特旨を以て正二位を贈られたのは同年10月22日のことである。勝海舟の日記の同年6月17日の条に、「山岡氏、勲章拝受の事御断る旨、他種々内話」とあり、11月9日の条には「山岡氏、五、六日前、松岡萬、同人賞牌其他の事につき、岩倉へ申し立て、其後自害ニ及び、半死の旨、内話」と記されている。「鉄舟居士言行一班」の話と一致する。
松岡の自刃未遂事件のあった翌明治16年2月と3月の勝海舟の日記に、松岡に関する記事がある。その2月11月の条に、「山岡氏、松岡出奔云々の内情、且、関口隆吉、右につき大困、心痛の旨、云々」とある。松岡の疵は癒えていたのだろうか。関口隆吉が心を痛めていた松岡の出奔の内情とは何だったのか。3日後の同月15日の「海舟日記」に、「滝村小太郎(徳川宗家執事)、松岡出奔、暗殺企ての事、関口一件、(中略)内話」と記されている。「暗殺企ての事」とは岩倉暗殺未遂事件のことだろうか、それとも松岡の出奔は新たな暗殺を企ててのことだったのか、定かでない。
勝海舟の日記の同月20日条には、さらに「溝口勝如、山岡、松岡等のことにつき困究(原注・窮)致すべく、何とか取斗り呉れ候様申し聞く」とある。松岡は家に戻ったのだろうか。当時、山岡も松岡も生活に窮していたのである。そして、3月1日の条には「山岡、松岡発狂、家出捜索等、物入りにつき、二百円、玉柱り返納の金子繰替之相渡す」と記されている。「発狂」とは「常軌を逸した」という意味だと思われるが、松岡の捜索費用等として徳川宗家から山岡に200円が恵与されたのである。
この明治16年に、石坂周造が亡き旧同志清河八郎への贈位申請のため、右大臣岩倉具視に建言書を提出したことは「石坂周造について」等で記したが、その建言書の中には「村上政忠松岡萬等ノ如キハ八郎等ト大ニ辛苦ヲ共ニシ身命ヲ抛テ尽力セシモ今ヤ世上ノ一棄物トナリ鬱々トシテ惟性命ヲ存スルノミ」とあった。当時の松岡は、石坂から見ると「ただ生きてるだけの棄物」と見えていたのである。どのように生計を立てていたのか。こうした事実からも、松岡の東京府職員の退職は深く思慮した上ではなかったことが推測される。
そんな松岡に追い打ちをかけるように、この年9月には長男が病死した。『ふる里を語る』に、「秋月連光童子 長男鉾太郎 明治16年9月22日ヂフテリヤにて馬淵大石方にて病死」との記事が載っている。当時の松岡の妻子は大石家(妻の実家)に住んでいたのだろうか。松岡の「備忘雑記」に、「出さぬ間に、子にあてらるゝ蜜柑かな」の句がある(『おれの師匠』)、明治16年頃の作だという。松岡は貧窮や愛息の死という不運の中にあったこの年、「茸狩や村雨しのぐ松のかげ」や「蜻蛉や飛ではまたももとのとこ」の句を作っている。なお、翌明治17年の作には「飛こんで月影くだく蛙かな」の句がある(「備忘雑記」)。
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明治21年7月19日、この日松岡萬がもっとも敬愛する山岡鉄太郎が病没した。『鉄舟居士言行一班』に、山岡死去の数日前に松岡が見舞いに訪れた際の様子が記されている。見舞いに訪れた松岡に対して、「夫人(が、)鉄舟も彼の通りの衰弱ですから。最早長くはありますまいと云はれると。松岡氏ソハ大変だといって慌しく去って了った。が其夜深更何処より忍込んだものか。窃に居士の病室に至り。唐突にムンズと居士に組付く。時に居士は縟上に安座して居られたが、組付き掛かる松岡氏を其儘ヒョイト抱上げ、松岡さん如何したんだツと云はれる。松岡氏は抱上げられながら。大声でヤア大丈夫大丈夫と叫び。それより夫人に向ひ。先生は大丈夫ですから御安心めされよといって。独り大に安心して帰った」という。
内容的にはやや疑問もあるが、これが事実なら当時の松岡は正常な心理状態ではなかったのだろう。山岡の葬儀は同月22日に行われたが、その際の松岡の様子を伝える資料はない。なお、その出典は不明だが、『ふる里を語る』の中に鉄舟没後の山岡家と松岡について次のような記述がある。
「鉄舟没後、親族会議が開かれた。松岡万も親戚格としてその席に連なった。それは鉄舟の奥様の兄に、天下の山師と綽名された石坂周造といふのがあった。この人は鉄舟にも生前随分迷惑をかけた。(中略)鉄舟の奥様は夫の没後、鉄舟の印章其他をば石坂に預けて置いた。石坂はそれをば悪用して借金をした。その額三万円にも上っている。この債務の返済方法につき債権者は遺族に迫った。そこで親戚会議となったのである。遺族はこれが解決の方法に迷ふた。その結果万に委任することゝなった。万は喜んで引受けたのである。一たん引き受けたものゝ大金の事故、これが返済は容易なことではない。各方面に馳せて金策に懸命したけれども思ふように纏りがつかなかった。責任感の強い万は死を以てお詫びせんとした。人々はこれを制し止めた。貴公が死んでもその借金は棒引にはならぬぞ、山岡家にその借金はついて廻るぞと、寄ってたかって諫め、漸くにして自殺を思ひ止まらせたといふ事である」
石坂周造が、山岡の死後も山岡名義で借金をした話は寡聞にして知らないが、『おれの師匠』の中に山岡が石坂の借金に苦しめられたことは載っている。そこには、「ひとが石坂を山師扱ひにして信用が段々薄くなってしまった。それでも山岡が陰になり、日向になり面倒見てやったのでひどいぼろも出さずにしまったが、山岡自身はそれが為に三十万円の借財を背負はされた。この借財は山岡が死ぬまで祟って山岡を苦しめたが、山岡の死後徳川さんと勝さんとが整理してくれたのであった」とある。ここに松岡の名は出てこないが、「海舟日記」明治23年7月9日の条に、「松岡へ、山岡へ(徳川宗家からの)下され金二百円渡し遣わす」と記されているので、『ふる里を語る』に記される事実も全面的に疑問視することはできないのではないだろうか。
山岡鉄太郎が死去した同じ7月の31日、松岡と関係の深い大久保一翁が病死した。享年72歳であった。そして、その翌年5月17日には畏友関口隆吉(当時静岡県知事)が列車事故による負傷が原因で逝去したのである。関口は松岡より2歳年長で、当時54歳であった。山岡、大久保に次ぐ関口の死という親しい人たちとの死別に、松岡の悲嘆と寂寥感はいかばかりだったろうか。その松岡の悲しみを伝える次のような逸話が、北村柳下の「松岡萬のことども」(『伝記』)に記されている。
「鉄舟と関口隆吉と萬とは義兄弟の縁を結んでいた。隆吉不慮の逝去にあひ葬儀が臨済寺(静岡市大岩)に執行された。萬はそれに参列した。端座、面を上げず、読経の間、嗚咽を禁じ得なかったという。式は終わった。遺骨は埋葬された。だが、萬は帰らぬ。大石氏(妻の妹の夫)は余りに帰りがおそいので迎えに行くと、前墓に淋しくたっていたとの事である」
関口隆吉死後の松岡の様子を伝えるものは、何も見い出せていない。なお、『明治初期の静岡』に松岡に関する逸話が載っている(『生祠と崇められた松岡万』)という。これは関口隆吉が静岡県知事(明治19年7月静岡県令から知事になる)の頃の話であるというが、松岡という人物の一端を知る上で貴重な話なので転載しておくこととする。
「(松岡は当時静岡市呉服町にあった雍万堂書店を訪れて)健康改善のために延寿帯を腹鳩尾の上にしめ、常に息を臍下気海丹田に落附けるときは、腹の形は鳩尾の偏り下腹部に膨満して心気落附き、健康が改善するを認め、此延寿帯使用を知人に勧めている。清水の次郎長にもこの効能を教えたるに、次郎長最も熱心に之を修め、今は立派なる肝腹ともなり。子若し閑暇らば一度次郎長を尋ねよ」と勧めたという。
この延寿帯は白隠禅師の『夜船閑話』にある健康法に由来するという。この逸話によれば、松岡は当時も次郎長と懇意にしていたらしい。なお、この話には後日談があって、松岡と山本長五郎(次郎長)、それに雍万堂書店の店主の甥三浦次郎吉の3人は、「東海暁鐘新報」にこの気息調整健康増進の方法を無料で伝習する旨の広告まで出して、広く普及させようとしたという。
話が横道に逸れてしまったが、山岡鉄太郎の死から3年、関口隆吉の死から2年後の明治24年3月17日、松岡は2人を追うようにしてこの世を去った。享年は関口と同じ54歳であった。松岡は死去の2カ月近く前から病床にあったらしい。『海舟日記』同年1月7日の条に、「溝口勝如、云う、松岡(原注・万)大病ニ付き見舞遣わし呉れ候様申し聞く」と記されている。徳川宗家から勝海舟に対して、松岡へ見舞金を遣わすよう指示があったのである。翌8日の『海舟日記』は、「疋田、松岡へ見舞、十五円遣わす」とある。
松岡死去6日前の3月11日の『海舟日記』に、「松岡勇妻、高橋借財いたし候ニ付き、千円拝借の事申し聞く」とある。『海舟日記』で「松岡勇」の名を見るのはこれが初めてであり、これは松岡萬の誤記ではないかと思われる。この推測に誤りがなければ、松岡は自分の死の近いことを覚り、高橋という人物への借財返済金1000円を、徳川宗家から借りるために海舟のもとへ妻を走らせたのだろう。勝海舟が徳川宗家の資金を管理していたことは、以前「村上俊五郎について」でふれた。その後の顛末は不明である。なお、『海舟日記』には松岡の死に関しては、3月17日当日の条に「雨、(中略)松岡万、病死、知らせ来る」とあり、翌18日に「松岡へ香奠五円」とのみ記されている。
松岡萬の遺骸は松岡自身の遺言により、谷中全生庵の山岡鉄太郎の墓近くに葬られた。その墓石には「孤松院安息養気不隣居士」の法名が刻まれている。さらに、松岡家の菩提寺である市ヶ谷左内坂上の曹洞宗長泰寺に、後年遺族によって建てられたらしい(現地未確認)松岡萬(分骨ヵ)とその妻(法名・安息院梅室妙養大姉)の夫婦墓がある(『生祠と崇められた松岡万』に写真あり)。松岡の妻は明治31年6月16日に、46歳で実家の大石家で病没したという。
大橋微笑の「幕士松岡萬の傳」に、「其(松岡萬の)嗣子古武(原注・ひさたけ)と云も、亦撃剣家にて、今猶下谷にて道場を持ち居れり」と記されている。「古武」は運九郎の廃嫡後に、新たに松岡の養子となった九一郎(旧姓赤木)のことと思われる。物溢れて心を喪ってしまった我々に、当時の人たちの幸不幸感を軽々に云々することは憚られるものの、山岡や松岡に先立たれた後の松岡萬の晩年は決して心満たされたものではなかったのだろう。