29 羽倉鋼三郎とその周辺

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実父(林鶴梁・括弧内は原註とない限り筆者註)と養父(羽倉簡堂)が共に高名な幕臣儒者で、慶応が明治と変わる直前、前橋藩兵等によって殺害された羽倉鋼三郎については資料も乏しく、これまでその生涯を追うことを断念していた。しかしその後、実父林鶴梁の日記(保田晴男『林鶴梁日記』・以後『鶴梁日記』という)に見える青少年期の鋼三郎と出会ったことから、ごく僅かな資料ながら、筆者の知る限りでその生涯を明らかにしておくこととした。なお、羽倉鋼三郎に関しては、會谷誠の「羽倉鋼三郎傅」と羽倉杉庵撰「羽倉鋼三郎傅」があるというが、筆者の怠慢からその何れも未見であることをお断りしておきます。

 

羽倉鋼三郎は、字を叔練といい、雨窓(迂窓)と号した。鋼三郎は通称である。後年官軍への反抗に尽瘁した際には、赤羽甲一の変名を用いている。その鋼三郎は林鶴梁と、旗本岡田将監の家来川島多久間(達馬)の次女久(雅号小香)の子として、天保11(1840)82日に生まれている。同腹の同胞は、後に昌平坂学問所の教授となった8歳違いの兄邦太郎(名は鈞・天保3年生)と、3歳年上の姉鈴(天保8年生)、それに異腹の弟卓四郎(夭折)と妹の琴がいた。

 

鋼三郎の父林鶴梁について、その心友藤森弘庵(天山)は、「長孺は気健にして胆大なり」と評している。鶴梁は死ぬまで髷を結い、洋品様物を家にいれることを禁じて、「拙者一代は攘夷で押し通す」と、常に枕元に大小を置いて寝たという(『伝記』収載望月紫峯「藤森天山の交友範囲」)。鋼三郎はこの父の気性を最もよく伝えていて、磊落で小節に拘らず、酔うといつも剣を抜き、王郎斫地の歌をうたうのが常だったと伝わる(望月茂著『藤森天山)。「羽倉鋼三郎傅」には鋼三郎の人となりについて、「幼ニシテ、鋭敏、稍々長ジテ、読書ニ従事ス、然レドモ章句ヲ治メズ、大義ヲ領スル耳、人ト為リ気ヲ負ヒ、苟も小節ニ拘ラズ」とか、「酒ヲ被リ無頼ナリ」とあるという。父鶴梁もまた酒豪であった。

 

父林鶴梁の通称は鉄蔵、後に伊太郎と改名している。鶴梁は号で、他に鶴橋・酔亭・蒼鹿等々の別号があった。鶴梁は武家の生まれではなく、上野国群馬郡荻原村(群馬県高崎市)の西川力蔵(西川家は「長者屋敷」と呼ばれた富家であったという)の子であった。生年は文化3(1806)813日である。鶴梁が後年(鶴梁33歳当時)旧師に贈った長詩の中に、「我生レテ六年始メテ書を読ム。十五ニシテ志君子ノ儒ニ在リ、不才不学中道ニシテ廃ス。般楽怠敖我吾ヲ忘ル。二十四歳始メテ節ヲ折リ、焦心苦学スルコト幾蛍雪云々」とある。この長詩を贈った旧師とは井田蘇南のことで、鶴梁はこの家に預けられて学問に励んだという。井田蘇南は上野国佐波郡玉村宿(群馬県玉村町)の人で、通称は金平、蘇南は号で、芹坪の別号があった。亀田鵬斎・綾瀬に学んで玉村宿で家塾存古堂を開き、近隣子弟の教導にあたっていた人である。

 

鶴梁はその後江戸に出たというが、それは先の長詩にある「十五ニシテ志君子ノ儒ニアリ」とある15の年(13歳とも)であったかどうかは定かでない。江戸に出た鶴梁は幕臣中山孫左衛門(御先手組頭)の家に寄寓して、高知平山(人物不詳)に師事する傍ら、推橋という人物に武芸を学んだという。その後間もなく中山孫左衛門の手引で林家の同心株を買い、「幕府武庫吏林佐十郎家」を嗣いだ。同心株は凡そ200両したというが、一説にその金を旧師井田蘇南が出したというが、これも定かではない。

 

先の長詩にあった「般楽怠敖我吾ヲ忘」れた時期はその前後のことだろうか。『鶴梁文鈔』にも「昔余少時遊蕩」と記している。このことに関して鶴梁の娘婿村田清昌が史談会(明治3112)で、「(鶴梁は)侠客の群に這入って十七、八歳よりは世に跋扈して害をなすものがあれば、面責いたし或いは打倒したと云うことで、麻布辺で林鉄と云うと人が恐れたと云うことでございます」、と語っている。鶴梁は一時期、学問の道から外れて遊侠無頼の生活を送ったというのだ。もっともそれは、「世の中段々と道徳の頽廃しますことを」嘆いてのことであって、文化の爛熟した文化文政期の頽廃した世相と武士の堕落に義憤を覚えてのことだったらしい。

 

鶴梁は24歳で心機一転「焦心苦学」するようになったと長詩にあったが、鶴梁は17歳の文政5年には友人山崎苞(如山)の『釣詩亭百絶』の序文を藤森弘庵と共に草している。鶴梁は7歳年上の弘庵や弘庵より年長らしい山崎苞等とも、それ以前から親交を結んでいたのである。なお、鶴梁は佐藤一斎にも師事したというから、藤森弘庵との親交などを考慮すると、17歳の当時は既に相当の学識を備え、詩文にも通じていたものと思われる。    

 

「焦心苦学」発心の動機となったのか、鶴梁はこの文政1224歳で川島達馬の次女久(小香)17(16とも)と結婚している。鋼三郎の母となる人である。妻久の雅号小香は、馥郁と香る梅花をこよなく愛した鶴梁が自ら名付けたという。この愛妻久は夫に先立って死去しているが(後述)、後年鶴梁は「亡妻川島氏墓表」(『鶴梁文鈔』)を書している。鶴梁の妻への深い想いが忍ばれるので以下に転載しておくこととする。

 

(前略)年十六、余ニ嫁ス、性婉順、詩書ヲ習ヒ、女工ニ善ㇱ、物ト□然抵ルコトナㇱ、舅姑事ニ事ヘテ克ク孝、内ヲ治メテ克ク勤ム、昔余少時遊蕩、年二十四、節ヲ折リテ書ヲ読ム、氏暁毎ニ余ニ先チテ起キ、洒掃畢リテ雅乃チ啼ク、一日風雪寒甚ㇱ、余臥ㇱテ褥中ニ在リ、枕ヲ欹テ仰ヒデ火盆ヲ案側ニ置キ、単座ㇱテ余ノ起ルヲ待ツヲ見ル、其ノ勤苦率ネ此ノ類ナリ、嗚呼、余ノ疎懶ヲ以テ尚能ク今ニ至リ、一、二名流ノ檳棄スル所トナラザルヲ得ル者、氏ノ劭助アルヲ以テナリ、二男一女ヲ産ム、(中略)晩更一女ヲ産ム、夭ス、氏亦タ是ノ日ヲ以テ卒ス、悲ㇱイカ(下略)

 

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父鶴梁は結婚の翌年長野豊山の私塾「積陰書屋」に入門した。佐藤雲外の「藤森弘庵と交渉をもつ人々」(『上毛及上毛人』)によれば、鶴梁を豊山の私塾に誘ったのは友人の藤森弘庵であったという。その弘庵が長野豊山の門を叩いたのは文政8(1825)であった(藤森天山)。弘庵の門人依田学海(百川・佐倉藩儒)の日記(『学海日録』)安政4(1857)116日条に、「林与先生同長野豊山、為高足弟子。(中略)林俊才多幹略云々」とある。鶴梁の心友で、後に鋼三郎の学問の師となった藤森弘庵は、播州小野藩一柳家(1万石)の家臣藤森義正の子として寛政11(1799)に生まれた。通称は恭助、名は大雅、字は淳風、弘庵は号で、安政の大獄後は天山と号した。柴野碧海、長野豊山古賀穀堂、古賀小太郎、古賀茶渓等に学び、父の跡を継いで天保2年に祐筆兼世子の侍読となった。しかし、天保52月に故あって致仕したという(藤森天山)。なお、藤森弘庵については友人世古格太郎(延世・神職国学者)の「唱義見聞録」(『野史台維新史料叢書』)に、「為人沈実果断大胆にして智略あり経学詩文共に長したるは世の知る所にしてまた書を能し方今の儒士にしては如斯兼備せるはなし故に儒家にて泰山北斗の称あり其志尊王攘夷にありて始終不変其学風は実用を尊ひ国家の弊風を正整せん事に力を尽しけり」とある。

 

鶴梁と弘庵が師事した長野豊山(名は確、通称友太郎)は伊予川之江の人で、中井竹山に学び、その後昌平校で修学した。伊勢神戸藩校教倫堂の教授や川越藩校博喩堂教授を勤めたが、文政8川越藩を辞し、江戸の麻布森本町に開塾していた。門人には鶴梁や弘庵のほか、尾藤水竹、保岡嶺南、久永松陵、大橋訥庵、遠山雲如等がいる。豊山天保5年夏に病に倒れ、以後は寝たり起きたりの状態だったらしい。同88月に55歳で没した。

 

鶴梁は27歳の天保3年に松崎慊堂に入門した。『慊堂日歴』同年227日条に、「須臾にして大槻士広・前野東庵・林鉄蔵・広沢権平また来る云々」と記されている。なお、静嘉堂文庫蔵の「日歴」原本の同日の末尾に、「林鉄蔵、井田定七門人、(中略)谷町同心、廿七歳、頗解書、始謁、士広(大槻磐渓)為介」とあるという。鶴梁を松崎慊堂に紹介したのは大槻盤渓(蘭学者大槻玄沢次男)だったのである。松崎慊堂は佐藤一斎同様高名な儒者なので、ここでは触れない。ただ一点、『松崎慊堂』の著者鈴木瑞枝氏は、その著の「まえがき」冒頭で、「松崎慊堂の人間的魅力の第一は、他人を思う暖かな心にあると言って差し支えないであろう」と記していることを紹介しておきたい。蛮社の獄で罪を得た門人渡辺崋山の救援の話はよく知られている。鶴梁の松崎慊堂との師弟関係は慊堂が没する天保15年まで続いていたという。

 

鶴梁が松崎慊堂に師事した年の2月、鋼三郎の兄(長男)邦太郎が誕生している。その翌年鶴梁は藤森弘庵との共編で『温飛卿詩集』を上梓した。長野豊山が保岡嶺南に宛てた同年1110日付け書中に、「此度藤森ト林ト両人温飛明ノ詩集ヲ刻シ申候、両人貧生ニ而糊口之助ト仕候為ニ刻シ申候也、御地ニ而少モ御売リ捌キ被成被遣候得ハ両人之窮乏ヲ救可被下候云々」と記されている。202人扶持の林家は家族も増えて生活に窮していたのである。既記のごとく藤森弘庵安政52月に小野藩を致仕したが、その年の9月には秋田藩士確井左中(大窪詩仏の姪)の紹介で土浦藩藩士子弟の読書指南として採用された。弘庵の才能を認めた大久保要(当時土浦藩御者頭火之番役)は、翌年6月藩学改革建白書草案を記して、弘庵を藩学指導の適任者として強く推挙している。

 

当時の土浦藩学は崎門学派が席巻し、弘庵(朱子学)の推挙問題は藩内の内訌にまで発展した(望月茂著『大久保要』)。弘庵の身を案じた鶴梁は、この年7月弘庵に親身な手紙を送って早々に土浦を退去して江戸に戻るよう勧めている(『鶴梁文鈔』)。しかし、弘庵は江戸に帰ることはなかった。大久保要の支援もあったのだろう翌天保77月には、その出精を賞されて金300疋を賜り、翌年9月には土浦藩学の引立方を委任され、扶持米も6人扶持から20人扶持に改められている。

 

天保88月長く病んでいた長野豊山が死去した。広岳禅院(芝区日本榎町)に葬られたが、その墓碑の撰文は鶴梁である。師豊山死去4ヶ月後の同年12月には鋼三郎の姉(長女)鈴が誕生した。その翌年鶴梁は鉄砲箪笥同心の組頭に任ぜられている。そして、その3年後の天保1182日に鋼三郎がこの世に生を受けたのである。時に父鶴梁は35歳、母は30歳で、兄邦太郎は9歳、姉鈴は4歳であった。この当時の林家の家族は、鋼三郎の父母兄姉以外に、鋼三郎には祖母に当たる父鶴梁の義母(62歳・妻小香の母という)が同居していた。

 

鋼三郎が生まれた翌12年、父鶴梁は奥火之番、次いで御徒目付に任ぜられた。翌13年には勘定方、その年の6月には評定所留役助となっている。この栄転には鶴梁の友人で、水戸藩徳川斉昭の股肱の臣藤田東湖の尽力が大きかった。天保128月末に東湖が鶴梁に宛てた書翰に、東湖が勘定奉行川路聖謨に対して「何卒林おば此上当路へ御推挙被致度旨述候へば、いやさか勘定所は、当路小普請方辺は横道の様に候へ共、横道の中、又当路へ出身の捷径も有之、いづれ林へ逢候而承度との事云々」と記されている。それから12年後のことと思われるが、東湖はまた鶴梁を昌平校儒官の佐藤一斎に対して鶴梁を儒官に取り立てるよう要請した。その一斎あて書翰に、「林が為人を称道し、卒伍に居らしむべき人にあらず、願くは是を祭酒にすすめよ」と推挙したが、「一斎も兼て其人を知れり、然れども当今の事情、容易に書生の推挙なしがたし」、と断られてしまったとある(藤田東湖全集』中「見聞偶記」)藤田東湖は鶴梁の才能を高く評価していたのである。

 

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鋼三郎が4歳となった天保14年の9月、父鶴梁は突然評定所留目役助(役高20010人扶持)の職を解かれて元の御勘定所帳面方掛(役高150)に任ぜられた。何があったのか左遷である。これより以前のこの年316日、林家に予期せぬ不幸が襲っていた。鋼三郎の母が産褥熱が原因で突然逝去してしまったのだ。前日15日の父鶴梁の日記に「夕分頃帰宅之処、拙荊()虫気(産気)ニ而、唯今臥り候趣、夫ゟ苦痛、晩九時過男子出産後尚又苦痛、死去いたし候云々」とあり、翌16日には「暁子下刻、細君産後死去云々」と記されている。生まれた男児もまた生後間もなく死去してしまった。最愛の妻を喪った鶴梁の悲嘆は激しく、日記に「誠に慟哭不堪」とか「鬱悶困苦云々」等と書き付けている。

 

父鶴梁の亡き糟糠の妻に対する哀惜の念は相当に深かったらしく、日記中に亡妻の夢を見た事実が度々記されている。鋼三郎も関係する亡妻の夢も多い。その年1011日条には、「此夜小香、自外遽入室来(中略)、小香抱剛児而臥焉云々」とある(日記はこの年末から弘化3年まで欠落)。また、妻小香との死別後4年近くを経た弘化4(1847)611(鋼三郎8)には、以下のように夢の内容を克明に記している。

 

「今朝夢玄麟(中略)、又小香来将帰、投指南器於吾枕上、吾送之数十歩与小香倶行(中略)、路上剛三郎在焉、吾指之謂小香日、是鋼児也、近日児髪位置不佳、乃剃髪、髪存者両鬢与領上爾、於是携児、又与小香倶出辰門(甲府辰町門)而右行数歩、小香云、此別甚惜然、奚須向蕎麦店頭、乃叙離情哉、吾携児涕泣嗚咽、夢乃覚、別時余伏行携児、小香直立」

 

父鶴梁は亡妻への強い哀惜の念と、幼くして母を失った鋼三郎に対する憐憫の情がそうした夢を見させたのだろう。「児啼泣嗚咽」とあるが、母が亡くなった時4(27ヶ月)で死の何たるかを知らない鋼三郎も、動かぬ母の骸に取りすがって嘆き悲しんだのだろうか。その時の有り様が鶴梁の脳裏に深く刻み込まれていたからこそ、そうした夢を見たのだと思われる。鶴梁は年を経ても亡妻小香への愛惜の想いは消えず、「鶴梁翁十日録」に「半生汝ト辛苦ヲ同ジウシ。白首期ヲ為シテ忽チ折催ス。旧ヲ想ヘバ今ノ如ク声涙迸シリ。黃昏ノ墓道ヲ独リ徘徊ス」、とあるという。鶴梁は、妻小香の死去した年の5月には鉄蔵の名を伊太郎と改めているが、愛妻の死が関係していたのかも知れない。

 

国太郎(12)・鈴(7)・鋼三郎(4)3人の幼児と年老いた義母(67)を抱え、自らの生活の前途を思い鶴梁は途方に暮れたことだろう。乳離の遅かったらしい鋼三郎には乳母を雇い、幼い鈴は知人に預けて急場を凌いでいる。そんな鶴梁の身を案じ、その後再婚の話が幾つもあったが、その年の12月鶴梁は門人中井虎之助(忠蔵)の姉庫子(30)と再婚した。鋼三郎の母となった庫子は、当時長府藩毛利右京亮の上屋敷で奥向の右筆を勤めていたという(鈴木常光著『幕末の奇士桜任蔵伝・貧侠桜花散』)。なお、「贈正五位林伊太郎傅」(『江戸』第5巻収載)等には、鶴梁の友人の桜任蔵(真金・村越芳太郎)が媒酌の労をとったとあるが、『鶴梁日記』を見る限りこれには疑問がある。結婚に至る経緯は、その年627日の条に「虎生ゟ姉之咄有之間、可然旨答候事」とあり、翌々月8日には「夜、与虎生姉之事、細々談事」と、また、その6日後の14日には「虎生夜来、云如左、姉方江一昨日母参候処、(中略)互ニ熟話いたし、姉も得と勘弁いたし候、(中略)然ル上は、早々に上り度候得共、十月下旬ニ無之而は幼主之母帰府不致」ため、奥家老から幼主の母が戻るまで待つよう頼まれているので、「何卒其節ニ参度旨姉申候由云々」と記されている。

 

鋼三郎の継母庫子が実際に林家に入ったのは、その年121日であった。婚儀はごく内々で、至って簡素に行われたらしい。この日の『鶴梁日記』中に、「此夜無客、数右衛門・虎生并同人母・家母・国児・鶴梁・庫子・竹栖夫婦、九人也」とある。仲人役は桜任蔵ではなく「竹栖夫妻」だったのである。「竹栖」とは渋谷碧(酒候)の号である。讃州高松の医師の子で、水戸に学ぶこと10年余、この間原南陽や藤田幽谷に学ぶ傍ら広く水戸の有志と交遊した。後に江戸に出て松代藩侍医渋谷養説を嗣いで同藩の侍医となった。蘇東坡に私淑してその書風を習い、自ら東坡坊と称してその書室を惟有蘇斎と名付けていたという。医業の傍ら書法を教授していた鶴梁と昵懇の儒医である。

 

なお、鶴梁と桜任蔵も別懇の仲であった。『鶴梁日記』に頻繁にその名が出ている。望月茂著『佐久良東雄』に、2人に関する逸話が記されている。それによると桜任蔵は「高山彦九郎を崇拝し、(中略)林鶴が彦九郎の日記全部を所持していると聞いて、泣いてこれを強求した。鶴梁も、その熱意にうごかされて、これを譲渡した」という。今もなお常陸地方に彦九郎の遺物や遺墨の多いのは、任蔵が蒐集に熱心であったことによるらしい。

 

桜任蔵は常陸国新治郡真壁町の医師の子で、藤田東湖や宮本茶村(任蔵は塾頭であった)に学び、東湖を介して川路聖謨の知遇を得て小禄ながら幕臣となった。後年のことになるが、水戸藩の弘化の難に際し、職を辞して徳川斉昭や東湖の雪冤運動に奔走した。その後の任蔵の尊王攘夷活動等については紙幅上割愛するが、鋼三郎もその謦咳に接しただろうこの人の人となりを知る資料を記しておきたい。それは、『学海日録』安政5824日条に記される新津圭斎の話で、「任蔵は義侠の名有り。甲寅の歳(安政元年)、都下に大震ありて、士民饑渇せり。任蔵は書を鬻ぎ剣を売り、全治せし所の者数千人あり。又節に死せし者に於て一書を著作し、以て不朽に伝えんとせり。嗚呼、当今若の如きの人幾何ぞ、余之が為に赧然たり」とあり、同じ依田学海の「先師(藤森弘庵)が友人桜任蔵の逸事」には、「先師も任蔵は奇人というより奇書だ、世間の奇事が残らず頭に入っておる。お前たち、若し文章の材料が無かったら、任蔵の話を聞くがかろうと云った。そこで私が尋ねると、一間きりの草屋に住み、書物に埋もれて転寝をしている。訳を言うと大いに喜び、古人の奇事、逸聞を語ったが、一つとして拠り所のない話はせぬ。必ず本を引き出して証明する。正確で尾鰭をつけぬ云々」、とあるという。

 

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ここで鋼三郎の継母の実家である中井家の人びとについても触れておきたい。野口勝一「野史一班」(『野史臺維新史料叢書』36)に、「中井丈右衛門鎗術ヲ以テ久留米藩ニ仕フ、故アリ藩ヲ脱シテ江戸ニ遊フ、子三人アリ、長ヲ数馬、次ヲ長観、三ヲ忠蔵(虎之助)ト日フ」とあるが、ここでは女子の庫子が除かれている。庫子は次男長観の妹で末子忠蔵の姉である。庫子の父中井(本姓は三井)丈右衛門については、『鶴梁日記』天保14913日条に「中井丈右衛門(原注・七十八歳病死、去る戍ノ七月十二日)、称三井氏、久留米藩士、出仕于深津主水(原注・監察御史)、ダルマ門前(中略)、又追々勤仕いたし、遂仕于勝田将監云々」とある、母については「卯六十一」、旗本大久保甚四郎の家来久我新右衛門の妹で、「三井氏深津ニ居候節、嫁来ル由」とある。また、『鶴梁日記』に父丈右衛門が勝田将監に仕えた時、「虎生二歳、庫子六歳」とある。

 

鋼三郎の継母庫子の長兄数馬(数右衛門・卯37)については、先の「野史一班」に、「数馬曾テ江戸与力トナリ、麻布我善坊町ニ住ス、薩州藩日下()伊三次ト隣ル、意気相投シ往来時事ヲ談ス、一日町奉行吏三四十人伊三次ノ家ヲ囲ム、伊三次、数馬ノ家ニ逃ル、数馬己レノ衣ヲ脱シ之ヲ着セ、窃カニ屋後竹林ヨリ脱セシム、吏数馬ヲ捕テ伊三次ノ所在ヲ問フ、数馬実ヲ吐カス、遂ニ之カ為ニ獄ニ下サル、拷問甚タ厳ナリ、既ニシテ伊三次ヲ捕ヒ数馬ヲ免ス、一日ヲ隔テ死シ、家為メニ絶ス」とある。言うまでもなく安政の大獄時の話である。「贈正五位林伊太郎傅」に、日下部伊三次は「名を宮崎又太郎と変じ(鶴梁が)妻の兄中井数馬(原注・御先手与力)に寄て麻布我善坊に潜むましむ」とある。なお、高松藩の尊攘家長谷川宗右衛門が日下部伊三次に宛てた安政5年正月18月付け書簡中に、「中泉林(鶴梁・当時駿州中泉代官)へ面会候処学問文章実に感心仕候深夜迄寛話候云々」とある。これは「贈正五位林伊太郎傅」に載る書簡で、そこには「編者日」として、以下のようなことが記されている。

 

「日下部伊三次は(中略)安政戊午密勅東下の事に坐して囚はる贈正五位長谷川宗右衛門は峻阜と号す高松藩の勤王家なり水戸藩の事に関し奔走中幕府の逮捕急なりと聞き鶴梁翁の義弟幕府鉄砲方与力藤田忠蔵の家に潜匿し後遂に投獄せらる宗右衛門是より先安政四年十月十一月国勝手を命せられ帰国途中に鶴梁翁を訪問したるなり帰国に先ち其次男(原注・誠一郎後に豊田郡長となる)を日下部中井両人へ預けたり云々」

 

先の書簡中にも、宗右衛門は「豚児儀嘸々御世話何分御総容様へ宜敷相願候云々」と記されている。中井数馬の死は安政6514日、享年53歳。また、日下部伊三次は同じ年の1217日に獄死した。享年は45歳であった。なお、先の「贈正五位林伊太郎傅」の記述によって、当時虎之助は鉄砲方与力の職に就いていたことが明らかである。『鶴梁日記』天保14810日の条に、「虎生、黒鍬被仰付候礼ニ来ル、右為祝、鉄槍遣し候事」とあり、この年幕臣となったのである。ちなみに、虎之助の長兄数馬について、『井伊家史料幕末風雲探索書』に収載の安政511月の「江戸風分」に、「伊三次より右近将監(忠寛・伊勢守・当時禁裏付)に相頼、中井経蔵黒鍬(45年前黒鍬の明株を求めたという)より御台所番に成り、其後火之番、引続き御徒目付にて、直に海防掛を勤め、纔に弐ケ年を不満身分も進み、海防懸の局へ入候は伊三次姦計道具いたし候もののよし、経蔵は伊三次へ公辺の機密相洩し候儀に有之よし云々」とある。事実の真偽はともかく、中井兄弟は皆実力のある人たちだったらしい。

 

中井数馬が非業の死を遂げた際、数馬には妻と当時25歳の長男房次郎、22歳になる次女朝子の2の子があった。「野史一班」によると、数馬の死後「弟長観(三井国蔵)数馬ノ妻子ヲ護り、浅草に寓ㇱ、機ヲ見テ兄ノ志ヲ続カントㇱ、広ク天下ノ志士ト交ル、(中略)維新ノ時、長観横浜ニ趣キ商事ヲ営ミ下総屋ト称ス」とあるが、中井房次郎のその後については寡聞にして知らない。なお、「昭徳院殿御実記」(『続徳川実紀』第四巻)の元治元年525日条に、「御目見持恪富士見御宝蔵番、中井経蔵」に対して「外国奉行支配調役並」が仰せ付けられた記事がある。

 

中井数馬の次女朝子に関しては、石橋絢彦著『回天艦長甲賀源吾傅』(編者甲賀宜政の父は三井長観)収載の「杉浦梅譚小傅」に、「(杉浦梅譚の)後妻中井氏先ちて没す。中井氏、父を数馬と云ふ。(中略)戊午一件にて数馬の家名断絶したるを以て、鶴梁の幼女となりて杉浦氏に嫁せしなり。今其孫法学博士儉一、梅譚翁の祀を守る」と記されている。杉浦梅譚本人の『杉浦梅譚目付日記』中の「経年記略」文久3717日条に、「細君(原注・阿喜美)自家江嫁ス、(原注・林)猪太郎鶴梁養女、実家中井数馬死娘」とあり、さらにそこには「此縁組友人羽倉鋼三郎ノ周旋ニテ成ル」と記されている。実に鋼三郎が友人の杉浦梅譚と朝子(喜美と改名)の間を取り持ち、父鶴梁の養女として梅譚に嫁がせたというのである。梅譚自身が鋼三郎を「友人」と記しているが、当時の鋼三郎は24歳、それに対して梅譚は一回り以上も年上の38歳である。残念ながら2人の交友の実態は定かでないが、杉浦梅譚の人となりについて触れておきたい。

 

杉浦梅譚の通称は正一郎、諱は誠、梅譚は雅号である。文政91月に小林祐義(順三郎)の長男として生まれている。父祐義は久須見祐明(権兵衛)の次男で、前年旗本小林家の養子となったが、梅譚の生まれた翌年には離別し、一人実家の久須美家へ戻ってしまった。なお、父祐義は一生出仕せず、久須見邸の道場等で剣槍を教授するなどして一生を終わった人であった。梅譚は7歳の時に久須美家に引き取られた。久須美家の当主祐明は当時勘定組頭格の職にあったが武芸百般に通じ、詩文学芸にも長じた温厚で思慮深い人だったという。梅譚はこの祖父祐明に愛され、天保14大阪町奉行就任の際にも、梅譚を大阪に伴い諸事見聞を広めさせている。翌年勘定奉行として江戸に戻ると、その年、大金を払って旗本杉浦家(500)の相続権を買い取り、梅譚にこの家を継がせたのである。そして同年、梅譚は叔父豊田友直(父祐義の実弟・当時二の丸留守番ヵ)の長女登志子と結婚した。梅譚23歳の年であった。

 

梅譚は文武両道の士であった。学問は大橋訥庵に経史を、詩を横山湖山・大沼枕山に学んでいる。維新後、詩人の大家となり、晩年には晩翠社を創設してその盟主となった。ちなみに、勝海舟の『氷川清話』に、「詩は壮年の時に、杉浦梅譚に習った」とある。また、武術は、剣を直新影流の男谷精一郎に、弓術は本田庄太夫に学んだという。安政64月に槍・剣・居合の三術を将軍の覧に入れて賞賜を受け、門人も相応にあったという。大阪時代も祖父祐明の居合の相手を勤めたというから(祐明は田宮流の居合を上覧に供している)、剣は勿論槍や居合術は祖父や父の相伝だったのかも知れない。さらに梅譚は、砲術を坂本鉉之助や藤川太郎、安政28月からは下曽根金三郎に師事している。梅譚の官歴は、万延元年6月鉄砲玉薬奉行、文久25月洋書調所頭取、同8月目付、同37長崎奉行(辞退ヵ)、同月目付再任、同年10月諸太夫に任ぜられ兵庫頭を名乗る、慶応21箱館奉行となり、維新に至るまで在職した(明治以後は略)。この間、嘉永41月妻喜多が死去、安政2年喜多の妹多嘉と再婚、文久32日その多嘉も死去、そしてその年7月に鋼三郎の周旋で喜美と結婚したのであるが、これらを見る限りでは、鋼三郎と杉浦梅譚との接点の見当のつけようもない。なお、以上は元田脩三「久須見蘭林節及びその一門」(『歴史地理』第50巻第1号収載)等を参考にしています。

 

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話を元に戻そう。『鶴梁日記』は弘化元年から同2年が欠けているので、この間の鋼三郎とその周辺の詳細は定かでない。鋼三郎が7歳になった翌弘化3年の3月、父鶴梁が甲府徽典館学頭を命ぜられ、その月6日に江戸を出立して任地甲府に赴いている。家族を江戸に残しての単身就任であった。なお、それより先の28日の鶴梁の日記に、「鋼三郎儀、依田氏江入門いたす」とある。依田氏の誰であるかは不明だが、鶴梁は自身の出張に際し、鋼三郎への四書五経素読と書法の学習を依田氏に託したのである。日記の同月22日条には「国太郎儀元吉方江入門云々」とあるから、長期不在を機に、兄国太郎も信頼できる長井豊山塾の同門保岡嶺南(元吉は通称)の塾に通わせることにしたのだろう。嶺南はその師長野豊山の推薦で、文政10年に川越藩校博喩堂創建以来教授となって藩侯の侍講も勤め、『川越版校刻日本外史22巻の刊行にも尽力した人である。なお、日記の嘉永元年104日の条に「国太郎儀、此間中ゟ保岡代稽古致遣候ニ付、同人ゟ白紙□枚被相送候云々」とあるから、兄国太郎は入門2年後には師の保岡嶺南の代稽古をするほど学問が進んでいたのだ。

 

翌弘化43月、父鶴梁が甲府徽典館学頭の1年間の任期を終えて、その月11日に江戸へ帰り、小十人組(役高100)に戻った。なお、この年11月には鶴梁は新番(役高250)に番替となっている。鶴梁が江戸に戻った同じ3月、鶴梁の心友藤森弘庵14年間に及んだ土浦藩を致仕して、江戸日本橋南槇町に居を構えた。弘庵は天保14年には藩校郁文館督学を兼ねて郡奉行(弘化3年辞職)となっている。辞職の動機については諸説あり定かでないが、藩主はこれまでの功績により、弘庵に3人扶持を与えた。弘庵はその年12月には「嚶々社」という詩社を創め、また講筵を開いて門人を取っている。『鶴梁日記』313日条に「藤森恭助来る」とだけある。

 

鋼三郎はこの年8月になって依田某の塾を止め、木村良治の塾に通うこととなった。鶴梁の日記820日の条に、「依田某江鋼三郎相連レ、国太郎罷越、糊入百枚送ル、ツクヱ・硯具等下ゲル。木村良治江國太郎罷越シ、入門申入ル、承知、明日鋼三郎参ル積リ」と記されている。前年の鋼三郎の依田塾への入門時もそうだったが、こうした手続は常に兄国太郎(当時16)が父の代理を勤めていて、頼りになる兄だったのだ。

 

8歳の鋼三郎が木村良治の塾に入った翌月24日の鶴梁の日記に、「庫子義、客来中鋼児打擲いたし候間、差止候処、不取用候付、教諭及候処、相詫ニ付、差免」とある。来客の前で夫鶴梁の制止を無視して鋼三郎を打擲し続けたというのだから、継母庫子は相当強情で気の強い女性だったらしい。一方、父鶴梁はこの月3日に「今晩、夢小香来新居、叙情実、抱鋼児、歓笑如常云々」と記している。父鶴梁がこの年の6月にも、亡妻小香と鋼三郎の夢を見たことは前述した。こうした夢は、常に亡妻と鋼三郎であって、国太郎や鈴女でなかった。やはり亡妻への哀惜の念と共に、幼くして母を喪った鋼三郎への憐憫の情が鶴梁の心から消えてはいなかったのだろう。

 

幼少期の鋼三郎と継母との関係は鋼三郎の人格形成に何らかの影響を与えただろうと思われるので、もう一つのエピソードを記しておきたい。それはやや後年のことになるが、鋼三郎が14歳になった嘉永638日の林家内の事件である。『鶴梁日記』のこの日の条に、「庫、昨夜鋼児之儀ニ付立腹之処、今朝一人ニ而出宅ニ付、其趣数馬江文通及候処、他出之旨、乍去慥ニ手前江参候旨、老嫗被申聞候よし云々」、と記されている。継母庫子が林家に戻ったのは、それから3ヵ月近くを経た63日のことであった。その前月29日の日記に、「入夜中井老嫗来り、くら改心可致ニ付、詫云々被聞候事」とある。この間、兄の国太郎が連日のように中井家を訪れて継母の帰宅を促すなど、涙ぐましいほどの苦労をしている姿が日記に見える。

 

なお、これより前の弘化元年には異母弟の卓四郎が生まれている。『鶴梁日記』の嘉永2117日条に、「木村良治発会、鋼三郎拉卓四郎罷越す、鋼三郎二百文、卓四郎糊入米切二百枚持参」とあるので、10歳の鋼三郎は6歳の卓四郎を連れて木村良治の塾に通っていたのである。さらに、2年後の同4714日の条には、「鋼三郎、卓四郎両人ゟ岩田三蔵江素読世話ニ成候間、小杉紙一束遣ス」とあり、2人は木村塾に通う傍ら岩田三蔵にも素読を教授されていたのだ。しかし、その異母弟卓四郎がその年の12月に病死したのである。この日の鶴梁の日記に、「卓四郎儀、朝五半時過、死去致す云々」、と記されている。不幸は追い打ちをかけるように鋼三郎の家族を襲った。翌年326日の日記に、「暮六時過、於鈴死、渋谷脩軒、俵蘭海来、治療、不能救云々」とある。鋼三郎の3歳年上の姉鈴女は16歳であった。父鶴梁や鋼三郎の悲しみは如何ばかりだったろう。

 

嘉永47月から鋼三郎が素読の世話になった岩田三蔵は、この年3月から父鶴梁の門人となったばかりの人であった。その経緯が鶴梁の日記にある。34日の条に、「渋谷脩軒来迄入塾生之事云々、生名岩田三蔵、下総人、宮本水雲旧門生、手狭ニ付入塾相断ル」とあるものの、岩田の入塾の意志は固く、翌5日の日記には「岩田三蔵来、送松魚節一箱、喫午飯、去。又夕刻来ル積、夕刻来、喫酒飯、一宿、翌朝朝飯後去ル」とある。そしてその翌日の日記に、「渋谷生来、又々乞三蔵入塾云々ニ付、承諾す」と記されている。岩田三蔵(信卿)は後に幕臣となり、慶応210月に派遣された遣露使節(正使小出大和守)に徒目付として参加した人である。岩田の旧師宮本水雲とは宮本茶村のことである。既記のとおり茶村は鶴梁の友人桜任蔵の師でもある。ちなみに、筑波挙兵の将として敦賀で非業に死んだ竹内百太郎も、この人の門人である。その宮本茶村に学んでいた岩田三蔵は、入塾早々鶴梁から鋼三郎や卓四郎の素読の指導を託されたのだから、既に相応の学問を積んでいたのである。

 

父鶴梁は勿論、木村良治や岩田三蔵の指導のもと、鋼三郎の学問も進歩していたらしい。『鶴梁日記』の嘉永5323日条に、「国・鋼二児、堆橋輪講へ参候事、鋼三郎、今日初而也」とある。また、翌年39日条には「午後、詩会出席、高須鉄次郎(2人略)・三蔵・国太郎・鋼三郎、席上題、春雨」とある。嘉永5年は鋼三郎13歳の年である。この頃から、輪講や詩会に出席するようになっていたのである。なお、この年の4月に一家は麻布谷町の新居に移居している。この地(400)松代藩抱えの町家で、前年藩主真田幸貫(信濃守・天保12年から弘化元年迄幕府老中)の好意で鶴梁に贈与されたものであった。鶴梁は幸貫の信頼が深く、侍講も勤めたともこともあったという。また、水戸藩講道館を範として松代藩校を設立するため、幸貫は鶴梁から藤田東湖に問わしめたともいう。『鶴梁日記』には、真田幸貫との交流の事実が頻繁に記されている。

 

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嘉永66月、父鶴梁が遠州中泉の代官に任ぜられた。高橋雄豺の「幕末の儒者林鶴梁」(長谷川才次監修『歴史残花』収載)に、「(鶴梁の代官就任は)その前年九月に、かねて藤田東湖が鶴梁を推挙していた川路聖謨が一色丹後守の公認として公事方勘定奉行に任命されたから、鶴梁の代官任命が川路の手で行われたことは疑いない」とある(郡代・代官は勘定奉行の支配であった)藤田東湖が鶴梁を高く評価して、川路聖謨佐藤一斎に鶴梁を推挽していたことは前述した。遅きに失したが、藤田東湖と鶴梁の出会いについて、東湖の「見聞偶筆」に「乙未(天保6)の夏、彪(東湖の諱)、始めて会津藩士林甚右衛門が許に相逢ふ。一見故の如く、共に知己と称す。齢亦相同じ云々」、と記されている。2人は意気投合したのである。そうしたことから、鶴梁は東湖を介して徳川斉昭の引き立ても受け、また多くの水戸藩士たちとの交際があった。

 

中泉代官所は、遠江三河205ヵ村、58,150石余を支配した。『江戸幕府代官史料』によると、附属の役人は手付手代合わせて8名、中泉詰8名、出張陣屋詰3名、その他合わせて22名であった。中泉に近い天竜川は災害が多く、付近の民心は荒廃し、遠州は難治の評が高かったという。鶴梁自身も福井藩橋本左内へ宛てた安政381日付け書簡(『橋本景岳全集』)に、「一体遠州人気不穏、兎角支配申付候ても違背に及び云々」、と記している。鶴梁は917日鋼三郎(14)を含む家族4人と使用人、それに同行を願い出た門人2人を伴い江戸を出発し、丸7日間の道中を経て同月23日の黃昏時中泉陣屋に入った。なお、一家が江戸を発つ前月の7日には異母妹の琴子が生まれていた。

 

『鶴梁日記』で鋼三郎の中泉での様子を幾つか拾ってみよう。15歳になった翌嘉永7(11安政改元)正月2日の条に、「午後、国太郎、鋼三郎、喜平、近村縦歩、見附古城跡、今之浦、并ニ御殿跡等罷越、黃昏帰陣」とあり、同月8日には「国太郎、鋼三郎、喜平召連レ、御飯後福田湊ゟ三鹿原江参リ、夕刻帰陣、二役所見回ル」、翌月11日条には「国太郎、鋼三郎、拉喜平、袋井辺へ朝ゟ参リ、夕帰ル」等とあって、鋼三郎が時々8歳年上の兄に伴われ、領内の巡回と名所旧跡等の見学をしている姿が記されている。

 

また、『鶴梁日記』の嘉永773日条に、「杉山東七郎ゟ国太郎ヘ一封、同竜太郎ゟ鋼三郎江一封」とあり、同月14日には「鋼三郎ゟ杉山竜太郎ヘ紙包壱、中井房次郎ヘ同断壱」、翌85日条には「房次郎・幸次郎ヘ鋼三郎ゟ手紙遣ス」等と、鋼三郎と江戸の友人たちとの書通の様子が記されている。ここにある中井房次郎は中井数馬の子であり、杉山竜太郎は杉山東七郎の子と思われるが、いずれも父鶴梁の門人でもあった。ちなみに、杉山竜太郎が鶴梁の門下となった嘉永4125日の『鶴梁日記』に、「杉山竜太郎入門、束脩扇子箱台共、并ニ目録百疋持参、東七郎も同断、麻上下着用、入門同様候旨申聞候事云々」とあり、杉山東七郎自身も鶴梁に師事していたのだ。杉山東七郎は鋼三郎の兄国太郎の剣術の師匠でもあり(嘉永24月入門)、鶴梁自身も時々杉山から剣術の手ほどきを受けてから、鋼三郎も指導を受けていたのかも知れない。

 

なお、杉山東七郎については『鶴梁日記』嘉永元年624日条に、「(前略)到杉山東七郎宅、(中略)糀町三宅屋敷裏出雲内蔵頭家来分、神道無念流元祖岡田十松門人」、と記されている。杉山東七郎政和は、旗本交代寄合本堂親道(8000)の家来の子で、初め松山直次郎(他に杉山直次郎、松山大助、杉山大助とも)といった。撃剣館岡田十松道場で修行し、文政10年に兄弟子斎藤弥九郎の推挙で韮山代官所江戸役所の雇侍となった。主に江川太郎左衛門英龍の子十五郎英毅の剣術の相手をつとめ、後に同門秋山要介らと韮山随行した。文政12年には韮山を辞して翌年3月に江戸の麹町で道場を開いたという。天保5年暮か翌6年早々に渡辺崋山の招きで田原に赴き、同年2月中旬まで滞在して田原藩士たちの指南に当たった。翌々年には3人扶持で田原藩の江戸における剣術指南として召し抱えられた(以上は主に木村紀八郎著『剣客斎藤弥九郎伝』による)

 

『茨城史林』第41号収載「剣客金子健次郎について」(あさくらゆう稿)によると、杉山東七郎は天保12年には田原藩を辞して交代寄合本堂親道(慶応47月加増されて志筑藩を立藩)の家来になったという。或いは父の跡を継いだのかも知れない。なお、「江川英龍直門名簿天保139月に入門者中に東七郎の名があるから、江川太郎左衛門英龍に砲術等の教えを受けてもいたのである。鋼三郎の兄国太郎が杉山東七郎道場に入門した嘉永2年当時は、麹町の本堂家の一角で道場を開いていたのである。ちなみに、鶴梁の「嘉永三年覚書」に、「本堂内蔵助、八千石、三十五六計、惣領好学云々」、と記されている。

  ※以下は次回29(2)に続きます。