28の(2) 幕臣となった水戸郷士小室謙吉の半生

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宇都宮藩はその年(元治元年)1111日に至って、懸信緝らに対して正式な罪科の申し渡しを行っている。信緝に対する申渡書には、「其方儀当四月以来大平山へ集候水藩之由浮浪之者共盡忠正議之者ト見込重立取計候自事起衆心及動揺候儀ニモ至」り不埒であるとして、「御番頭末席遠慮被付者也」とある(『史料宇都宮藩史』)。そして、『懸六石の研究』には、この時処分された者の中に「小室登の名が記されていない所から、彼等はまだ罪科保留と見」るべきであると記されている。しかし、小室謙吉の6月以降の行動から推察すると、これ以前に幽閉は解かれていた可能性もある。それを証する資料の一つが、一橋家の野州高根沢陣屋役人横井鐐之助の日記(「横井氏日記控」・『渋沢栄一傳記資料』中)である。これも既に本ブログ22で、元治元年7月に渋沢喜作と同苗栄一が人選御用で陣屋を訪れた際の出来事として引用しているが、ここに再度転載することとする。

 

「八月七日、宇津鐘吉罷出、鹿沼宿本陣ニ居候医師鈴木鍵益と申モノ江戸表渋沢之族()宿迄来リ、此度組立之者共之内江組入之儀願出候由ニ而、宇津権右衛門厄介ニ致シ、請書差出候様致度段、渋沢并右鈴木両人より飛脚ヲ以権右衛門方江申越、前鈴木鍵益ハ水戸産ニ而慥成者兼而権右衛門モ存意之モノノ由ニハ得共(候脱ヵ)、先頃浪士大平山ニ籠リ居候節ハ、仲ケ間ニ相成、当時浪士之方破門致し候赴ニ付相断候様可旨申聞候事」

 

宇津権右衛門は救命丸で知られた宇津家の当主である。鐘吉は宇津家の者と思われる。87日当時、渋沢両人は関東の一橋領の廻村を終えて江戸に戻っていたので、小室謙吉も江戸に滞在中だったことになる。その経緯は不明だが、小室謙吉は一橋家に出仕しようとしていたのである。しかし、謙吉は一橋家領外の人であったため、宇津家の厄介(居候)という名目を得るために渋沢両人と謙吉が依頼の書簡を送ったものの、後難を恐れた権右衛門に断られたのである。もっとも、いかなる方法を取ったのか、謙吉はこの年一橋家に士官しているので、京都に戻る渋沢両人と共に上洛したものと思われる。

 

渋沢栄一の回顧談『雨夜譚』に、「九月の初めに右の五十人ばかりの人数を連れて中山道を京都へ」登ったとあるから、謙吉もこの一行の中にいたのだろう。一橋家家臣(この時穂積亮之助と改名・以後本稿ではこの名を用いる)としての穂積亮之介の活躍を見る前に、ある事件に触れておきたい。それは穂積が渋沢たちと上洛したと思われる翌月(10)22日、相州鎌倉の若宮小路近くの路上で起きた英国士官殺害事件である。この日、鎌倉の名所を馬に乗って遊歩中の2人の英国士官が、暴漢2人によって無惨に惨殺されたのである。その後、犯人の1清水清次は江戸深川の仮宅で捕縛され、1130日に横浜戸部の刑場で斬首の上梟首された。そして、もう1人の間宮一も翌年9月に捕らえられて清水と同じ運命を辿ったが、先に処刑された清水清次という人物が穂積亮之助の関係者だったのである。

 

この事実は、『原胤昭旧蔵資料調査報告書』(東京都千代田区教育委員会発行・以後『調査報告書』という)の中の「殺害英人之件」に関する北町奉行所同心山本啓の在方出役の際の記録(「廻り方手控」)で知ることができる。この中で、清水清次在牢中の風聞取調等により、「細川越中家来医師田中春岱、并疑敷廉有之」として田中春岱の妻ふみ(20歳・川越の出)を尋問した結果、「(田中家で)水府浪人之由、横田藤四郎并小栗徳三郎、小室健()吉同人へ随身いたし候清水清次、北里常助、其外名前不知浪人体之もの多人数集会いたし候義有之云々」等の供述があった外、夫春岱は先年病死した父の墓参と称して1122日に江戸を出立し、国元(桑名)到着後は「小室健吉義一橋殿付ニて京地ニ罷在、中林紋蔵も右を便リ罷在候間」、これに会うために上洛したらしいことが判明したのである。

 

田中春岱は前記した『宮和田光胤一代記』に、「(宮和田が)兼テ田中春岱方已来懇意人ハ鈴木鎌吉」とあった人である。小栗徳三郎は尾張の人で宮和田と同門千葉周作の門人であった。穂積を頼って上洛した中林紋蔵については、『調査報告書』の「牢内風聞」に「紋蔵ハ清次元主人一橋付三上良之助え随身いたし、京都え御供いたし、同所ニ罷在候由」とある。三上良之助は穂積亮之助の誤り(或いは変名)と思われるが、中林紋蔵も穂積亮之助の従者として上京したというのである。また、これらにより、前述した、この年54日に水戸藩下目付と称して栗橋関所を通過した「小室献吉僕壱人」(『栗橋関所資料』)の「僕」とは、清水清次だったのではないかと思われる。

 

『調査報告書』によると、清水清次は下獄後の厳しい尋問にも口から出任せの自供を繰り返すだけで、決して共犯者の名は明かさなかったという。清水清次が剛直な人であったことは、清次の処刑に立ち会った英国公使アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』にも、清次が刑場に引き出された際、「その男(清次)の口からの最初の言葉は、酒をくれというのであった」とか、斬首の際も「清水は、日本の役人に目隠しないでくれというのであった」とある。こうした清次の態度にアーネスト・サトウは、暗殺者を憎まずにはいられないが、「この明らかに英雄的な気質をもった男が、祖国をこんな手段で救うことができると信ずるまでに誤った信念をいだくようになったのを遺憾とせずにはいられなかった」、と記している。

 

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この鎌倉の英国士官殺害事件に関する清水清次の共犯者については、当時奉行所役人の得た情報も錯綜していたらしい。『調査報告書』中の「牢内風聞密々探索仕候赴」として、「大畑外記、水府浪人三野歓次、原庄作、中林文蔵、清次五人ニて殺候由、右歓次、庄作ハ清次被捕候迄は、春岱方ニ罷在候由、外記ハ当時水府浪人武田伊賀之介ニ付居由」、とある。こうした情報から、奉行所では「京都類役共へ春岱并中林紋蔵行衛探索方申遣」わすと共に、南北両奉行所の三廻り役人を京都へ派遣した。元治元年125日付けで南北両奉行所役人が京都町奉行所役人に対して、「中林紋蔵と申もの、一橋殿付穂積亮之介え随身いたし、同人を相便罷在候付、御地ニ立廻可申赴、(中略)是非春岱并中林紋蔵とも召捕候様」にと要請している。こうした結果、田中春岱は12月中に京都市中で捕縛されている。

 

下獄した田中春岱が奉行所役人に自白したところによると、春岱は桑名藩馬廻役渡辺勝左衛門の4男で、23歳のときに細川越中守の定府医師田中立庵の養子となった人で、当時42歳だったとある。また、春岱の供述によれば、自分は亡父の墓参の後、「一橋殿御家来穂積亮之助ハ知己ニ有之、同人伜より届物も被相頼候付」、懇意の桑名藩士が上京するのに同行して入京し、「亮之助を相尋候処、当節北国筋へ出張罷在候赴ニ付、頃日ニも帰京いたし候ハゝ面会可致と存候内」に就縄の身となったとある。これが事実なら穂積亮之介には息子がいたことになるが、この事実は管見にして知らない。さらに春岱は、「先年右亮之助義江府ニ住居之節、家僕ニ罷在候懇意ニいたし候駿府御蔵番伜清次と申もの、当十月初頃出府、芝口弐町目ニ旅宿此者方へ度々雑居罷越し候」等と自供している。通説では清水清次は遠州金谷の浪人清水健次郎の子とされるが、この田中春岱の供述によれば幕臣の子だったのであったのである。

 

この英国士官暗殺犯人については異説がある。まったくの余談になってしまうが、押し込み強盗の頭目で旗本の青木弥太郎の懺悔談(「青木弥太郎懺悔談」)がそれである。この懺悔談によると、青木弥太郎の仲間である「井田(進之助・姫路の人とある)(平尾)桃巌斎の息子は」、入牢した仲間古田主税の家から千両もする貞宗の刀を盗み出し、「逃げて行く途中、鎌倉で西洋人を斬りました。それはまったく井田と桃巌斎の息子が斬ったのです。けれども、水戸浪士の清水清次というものが、私が西洋人を斬りましたと言って訴え出て」横浜で処刑された。そのわけは、「清水は何か賊を働いて江戸におられないで、逃げて行く途中、井田に出会って西洋人を斬ったということを聞いて、どうせ無い生命だから自分が西洋人を斬ったことにして、自訴に及んだ」のだというのである。

 

この話の真偽は不明だが、清水清次が横浜で事件を起こす前に2人の無宿人(蒲池源八、稲葉丑次郎)と押込み強盗を働いていたことは事実であった。1118日に戸部の刑場で清水清次と共に処刑された2人の罪科申渡書(栗原隆一著『斬奸状』)に、「清水清次共々相州鳥羽村農家へ罷越、清水儀横浜表外国人退治に罷越に付、軍用金可差出」不承知なら斬り殺すと脅して多額の金を奪い、清水から配分金を貰ったとある。また、清水清次の罪科申渡書には、押借りの後に2人と別れ「住所不知高橋藤次郎と申合、相州鎌倉八幡前におゐて外国人切害致云々」とあるから、もし青木の話が事実なら、清水が横浜へ赴く途中で井田進之助と桃巌斎の息子に会ったということになる。しかし、押借りの罪と外国人殺害の罪ではその量刑の差は明らかなので、清水清次が敢えて井田らの罪を被ったという青木の話は信じ難いと言わざるを得ない。

 

なお、井田進之助と平尾桃巌斎の息子は、「青木弥太郎懺悔談」によれば、その後鎌倉の某寺に逃げ込んで匿ってもらっていたという。しかし、このことを住職の妾が訴えでたため、井田は姫路へ逃げて行く途中で捕らえられ、桃巌斎の息子は江戸牛込の本田某の士となっていたところを捕らえられ、両人とも殺されたと記されている。平尾桃巌斎信種とその養子間宮一(杉本右近)については、本ブログ19(3)「神に祀られた旧幕臣松岡萬」でふれている。なお、鎌倉の外国人殺害事件については、更に事件の事実を混迷させる史料が存在する。それは『旧事諮問録』に載る、事件当時の江戸町奉行山口直毅(泉処)の次のような話である。

 

町奉行の時に清水清(原注・常陸谷田部郡細川家浪人)が両人できたことがありました。あの英人(中略)を斬った奴です。あのとき捕まえて、全くこうこうで、こういう風に斬ったと申して爪印までした。それが二、三年経って、また清水清次というのが出て、つまらぬ罪で捕らえて見ると、英人を斬ったことを白状するので、それが言うことも前の清次と暗合し、年齢そのほかも似ている、どうして斬ったとか、どこで昼飯を食べてなぞと、暗合しているから不思議まのです。そのままにして置きまして、私は転役しました。どういたしましたか、牢死でもしたそうです云々」

 

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穂積亮之助が一橋家に勤仕した正確な日付や職位は定かではない。穂積と共に上洛したと思われる須永伝蔵(於菟之輔・渋沢栄一従兄弟)の一橋家への出仕が元治元年11(山崎有信著『彰義隊戦史』)なので、穂積も須永と同じ11月だったと思われる。その11月の中旬頃から京都市中に、水戸の天狗党が京都を目指して中山道を西上中であるとの噂が流れるようになっていた。藤田小四郎ら水戸天狗党筑波山再登山後、諸生党や幕府軍・近隣諸藩兵との抗争を繰り返していたが、衆寡敵せず10月下旬には武田耕雲斎率いる一隊や潮来勢と共に那珂湊を脱出していたのである。武田耕雲斎を主将とした1000余人の天狗勢は、禁裏守衛総督として在京中の一橋慶喜公に伏奏して尊攘の素志を貫徹しようと、京都を目指していたのである。

 

1128日には、いよいよ天狗勢が京都に近づいたとの風聞が伝わり、洛中は不安の空気に包まれたが、この時幕府は既に目付由比図書を関ケ原方面に遣わして迎撃体制を整えつつあった。そうした中の同月29日、一橋慶喜は自ら出馬して天狗党を追討することを朝廷に願い出たのである。『徳川慶喜公傳』によると、これは本国寺詰めの水戸藩(本圀寺党・天狗派)たちが、同志たちを「他藩の手に討取らせては藩の面目にも係るべければ、水藩の一手にて討取り、且死罪を宥めて大名預となさんと」働き掛けた結果であったという。おそらく慶喜自身の心底も同じ思いだったのだろう。

 

慶喜の願いは2日後の30日、朝廷内で一部の異論はあったものの「若し降伏せば相当の取扱致すべし」との条件付きで許され、翌月3慶喜は出陣し、大津に本陣を置いた。この出陣に際し、「御出陣ニ付思召を以御手当被下左之通」として、金八両づつが御用談所調役渋沢成一郎と渋沢篤太夫(栄一)、並びに御徒目付組頭穂積寛()之輔の3人に支給されている(渋沢栄一伝記資料』中「御出陣中御書留」)。これによれば、穂積は当初から御徒目付組頭として採用されていたらしい。

 

なお、この穂積の役職については異なる資料がある。それは渋沢栄一編『昔夢会筆記』中の薄井龍之の話で、「その頃京都の一橋家には御用談所というのがあって、その主任が原(市之進)、梅澤(孫太郎)、黒川(嘉兵衛)、川村(恵十郎)、それから渋澤篤太夫、渋澤成一郎、穂積亮之助というような顔ぶれ云々」とある。なお、薄井は天狗党筑波山に挙兵当時から参加し、西上途中の故郷飯山付近で一隊から離脱した人である。薄井は大正37月の史談会の席上で、「京都へ上って、慶喜公に其建白書(藤田小四郎から内々に頼まれた天狗党の素志を認めた書)を上る積りで、京都の若狭屋敷に行きました。所が私の目的の人、御用談所調役穂積良之助という者が慶喜公の内名を受けて越前に出て」いたので、渋澤栄一に頼んだが取り合ってくれなかった、との逸話を語っている。また、これとは別に、金沢藩士の記した「葉役日録」(『水戸浪士西上録』収載)の元治213(47日慶応と改元)の条に、「一橋様御目付木村幾太郎、同御用談所懸り渋澤誠一郎、同儒官穂積亮之助云々」とある。いずれが事実なのか定かでない。

 

さて、武田勢(水戸天狗党)中山道を一路京都を目指し、121日には谷汲川を渡って揖斐に宿泊した。この時、武田勢が草津方面へ向かうことを阻止するため、畿内への入口である関ケ原彦根と大垣の藩兵が布陣していた。この日、武田耕雲斎の元へ「先鋒総督」とのみ記された書状が届けられている。そこには「(前略)脆弱な兵で貴殿の鋭鋒に当たるのは、火に飛び込む蛾の如きものである。それを知りながらここまで出陣して来たのは、誠に武士たる者の止むを得ざる処である。故に勝負を度外視し、敢えて次のように請うものである。私の首を以て入京の土産とせよ」(原漢文・要約)とあった。こうしたこともあって、武田勢は中山道を断念して美濃から越前・若狭を経て京都に至る道を選ぶこととなったという。後にこの差出人不明の書状を見た穂積亮之助が、「斯る文書を書き得るものは由比図書の外あらざるべしと云ひしとぞ」、と『筑波始末』に記されている。由比図書はその日大垣の陣中にいて、穂積の推測は当たっていたという。

 

同月2日に揖斐を発した武田勢が、その後蝿帽子、笹又、木ノ芽等の言語を絶する雪中の険路を経て、越前新保に至ったのは同月11日のことであった。しかし、その行く手の葉原には、永原勘七郎(孝知)、赤井傳右衛門(直喜)、不破亮三郎(真順)率いる2000加賀藩兵が満を持して待ち構えていたのである。以後の、永原勘七郎らの武士道の真髄をみるような武田勢への対応は、残念ながら紙幅上割愛せざるを得ない。永原らは武田勢に同情して、西上の真意等を書した耕雲斎の嘆願書を大津の本営に差し出したが、その仲介の努力も虚しく、幕吏や一橋慶喜の指示によって武田勢への総攻撃は17日と決定された。その総攻撃の前日、不破亮三郎が武田勢にその旨を通告するため、葉原へ赴いたことが『徳川慶喜公傳』に記されている。そこには次のようにある。

 

「此日(16)加州藩は不破亮三郎を武田伊賀の陣に遣して手切の談判に及びしに伊賀守遂に降伏の意を表せしかば、乃ち本営に報じて進撃の猶予を請ふ。次で伊賀等再び嘆願書始末書といへるを呈出したれども、是れ亦陳情に過ぎずと却下せらる。黒川嘉兵衛、梅沢孫太郎、原市之進、穂積亮之介等相謀り加州藩士をして密に伊賀に就いて「呈書いつも陳情に止まらば、一橋殿には天朝、幕府に執成の道なくして、焼き捨てらるゝの外なし」と言わしめたれば、二十日伊賀等遂に降伏状を加州の軍門に送れり」

 

このことについて、金沢藩士の記した先の「葉役日録」には、「手切之談判として、亮之助彼陣江罷向。且穂積亮之助子細有之鈴木賢蔵与称ル同伴いたし、則及談判候処、(中略)弥降伏いたし候段小野斌男(藤田小四郎)段々之申聞無拠次第に而、重而降伏可差出与申聞候付引取云々」とあって、『徳川慶喜公傳』と異なり、穂積が不破に同行して藤田小四郎との談判をしたとある。「南越陣記」(『若狭路文化叢書』第12集「水戸天狗党敦賀関係史料」)には、「一橋公御内意ヲ含穂積亮之介罷越降伏状認方幕府ェ奉対恐入候趣相調有之候得者御取揚可有之段黒川嘉兵衛殿原市之進殿ヨリ申来候ニ付」、あらましの草稿を作成して武田陣営へ届けたと記されている。20日に耕雲斎が修正した降伏状が正式に受理される21日までの間、穂積は武田耕雲斎らの加賀藩への投降に大きく関わっていたのである。なお、徳川昭徳(後の昭武)に寄合隊長として従軍していた酒泉彦太郎(正元)の日記(「酒泉直滞京日記」)に、穂積に関して次のような記事がある。

 

武田正生以下加賀金沢藩の陣営ニ降ル。我藩ニ帰陣ヲ命ス。依テ兵ヲ督シテ駄田駅ヲ発ス。茲ニ督府ノ臣穂積亮之介神保ヨリ来リ会シ、武田始メ面会ノ情況ヲ聞ク。穂積ハ総督府内命ヲ以テ神保ニ出張シ、武田、藤田面会セント云。其際藤田信ハ平袴ヲ穿チ陣羽織ヲ被イ、太刀帯テ応接ニ出居シト云。穂積密ニ武田ヘ内意ヲ漏シ、武田源五郎ヲ誘引シテ京都ニ入リ大野鎌介ノ尽力ヲ以テ因州邸ニ潜伏シ嫌疑アルヲ以テ後備前岡山ニ移ル」

 

水戸天狗党の降伏が正式に認められたのは1221日で、水戸藩兵が駄田を引き払ったのが同月24日、そして京都に帰還したのは翌年13日である。ということは、穂積が帰京中の水戸藩陣営を訪れたのは24日以後のことになるので、この酒泉彦太郎の日記の内容からすると、穂積はこの間も慶喜の本陣と新保の間を往復していたらしい。なお、文中、穂積が天狗党の陣中から密かに連れ出し、大野鎌()介を介して因州藩邸に潜伏させた武田源五郎とは、武田耕雲斎4男である。この武田源五郎救出のことは、本ブログ18「知られざる水戸郷士大野謙介」でふれている。しかし、穂積亮之助が大きく関わっている事件であるため、ここでも屋上屋を重ねることとする。

 

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穂積亮之助から武田源五郎を引き受け、因州藩邸へ伴った水戸郷士大野謙介は前年9月、凝花洞の守衛の職を解かれ、当時は京都市中に滞在していた。なお、「酒泉直滞京日記」に記される、大野謙介が穂積から武田源五郎を預かり、さらにその潜匿を依頼した因州鳥取藩の用人安達清一郎(清風)の日記(「安達清風日記」)の元治212日条に、「水戸武田源五郎、原幸三郎両人原市ゟ□被託」と記されている。「原市」とは一橋家用人原市之進で、原幸三郎はその弟である。これによれば、穂積が新保から連れ出したのは武田源五郎だけではなかったのである。ちなみに、同じ「安達清風日記」文久3913条に、「晩與水戸、原、大野、梅澤会飲、于三樹月波楼極愉快云々」とある。「原」は原市之進、「大野」は大野謙介、「梅澤」は小十人目付の梅澤孫太郎である。武田源五郎らの救出に係わった大野謙介、原市之進、安達清一郎は皆旧知だったのである。穂積と大野の交際の実態は不明だが、尊攘の志を同じくする水戸郷士同士であるため、早くから交際があったのだろう。なお、武田源五郎らの件については渋沢栄一編『昔夢会筆記』に上記とは異なる事実が記されているので、長くなるが以下に引用する。

 

「穂積亮之助、あれが一番あすこ(武田源五郎の救出)を斡旋しましたので、猛(武田源五郎)を引き出したのも穂積らしゅうございます。(中略)穂積が御前(一橋慶喜)の御内意をもって、耕雲斎は誠に罪はあるけれども、その事情を察してみると甚だ愍然の情もあるによって、とにかく名家であったものを、この一挙で祀を絶やしてしまうというのは甚だ不憫に思う。それでこれはあるまじきことだが、誰か一人子供でも具しているならば、それをひとつその方が行って秘密に救い出せという御沙汰を蒙って、そこで有難いことだというので、すぐにかの地へ参りまして、そうしてかの原、梅澤などとだんだん相談をしましたところが、これも誠に喜びまして、幸いに穂積が、これまで武田勢から趣意書、嘆願書などを出しましたことについて、かの陣へたびたび往来しておりますところから、その伝手で穂積が耕雲斎に会いまして、何か秘密話を致したのでございましょう。もとより穂積が明言しているのではありません。またほかに確証も見出しませんが、何が動機となったものでございますか、すぐに一行の中から武田猛、梶又左衛門、原幸三郎、この三人を連れ出して、京都へ参りまして云々」

 

これは元桑名藩士江間政発(蘇洞・漢学者)の推測を含めた話であるが、この話について、渋沢栄一を初め当時の事情を知る人たちの異論がなかったらしいから、ほぼ事実に近いのだろう。もっとも、同じ『昔夢会筆記』の中の武田金次郎(源五郎)の談話に、穂積に連れ出された源五郎と原幸三郎以外の人物は、梶又左衛門ではなく三木左太夫()であったとあり、他の資料上からもこれが事実らしい。また、『昔夢会筆記』には江間が後日武田金次郎(源五郎)から聞いた父子別離の当時の話が載っている。それによると、源五郎が耕雲斎に呼ばれて「父の前へ出たところが、これから藤田小四郎を加賀の陣屋に遣わすから、貴様もついて行け、しかしこういう場合だから、どんな間違いができぬものでもないから、万一のことに際会したならば、潔くやれ、卑怯なことをしては相成らぬ、そこは厳重に申し渡すからと言って、懐中から黄金を三枚、それに新しい下帯を三筋添えまして云々」と、父耕雲斎と別れたという。なお、耕雲斎には源五郎以外に、長男彦衛門と次男の魁介、それに3男藤太の4人が従っていたが、藤太は鹿島郡飯田村で敵軍包囲の中屠腹、彦衛門と魁介は父と共に敦賀で斬首された。ちなみに、耕雲斎の妻、13歳と10歳の息子、それに孫の男子3人も、耕雲斎らが斬首された翌月諸生党によって無惨に殺害されている。武田家で唯一生き残った源五郎は大正5(1916)まで生存した。

 

余談が長くなったが、江間政発の談話と先の「安達清風日記」の記述を考え合わせると、穂積が武田陣営から密かに連れ出したのは3人で、このうち因州鳥取藩に託したのは源五郎と幸三郎の2人だったのである。なお、江間は別のか所で源五郎たちの救出に関して先の話とはやや異なり、原幸三郎も合わせて助け出したことから想像すると、「やはり原、梅澤、穂積あたりの極の機密上から、君公へは恐れ入りったことだけれども、御名を矯め奉って、そんな挙動に及んだのだろうと見込みをつけても、大差ないだろう」と推定している。もっとも、これに対して阪谷芳郎は「原市之進の専断でやったことになりますな、一橋公の御沙汰だということもできず、御沙汰がなくてはできぬことであるし云々」と発言している。慶喜や原市之進たちは当然耕雲斎ら天狗党の人たちの投降後の過酷な運命を予想できたろうから、思う所は同じだったのだろう。          

 

再び『昔夢会筆記』中の武田金次郎の話に戻そう。耕雲斎との別離の際「他に同席の人はありましたか」との質問に対して金次郎は、「同時に会ったのが今の穂積亮之助、それが何用かで来ておった。その時父は烈公から拝領した小さな銀の時計を持っておった……、その時には結構なもので……それを腰から取って穂積にくれました。それですぐに小四郎も支度をして、さあ行こうというので、そんな連中四、五人して加賀の陣へ行って」、その後すぐに穂積が3人を連れて京都へ行った、と証言している。耕雲斎は穂積に銀製の時計を贈って感謝の意を表したのである。穂積は感激ひとしおだったと思われる。穂積が維新後に穂積耕雲と名を改めていて、これは穂積が武田耕雲斎に私淑していたためだという。なお、武田源五郎らの救出については、以上の事実とは異なる資料が「南梁年録」(茨城県史料』幕末編Ⅲ)及び『野史台維新資料叢書』36中の「野史一班」で確認できる。参考までに、最後に「南梁年録」に記される事実を引用しておくこととする。

 

       三木左太夫 武田源五郎 原幸三郎

右は加州ニて大目付役相勤候永原陣七郎同勤不破良()三郎と申者敦賀出張之節、永原事武田より倅源五郎を貰い請自分倅之槍持ニいたし、京都原一之進手元へ相送り候由之処、当節矢張永原倅方に可罷在由、三木と原とは不破永原の人数へ打交り京都へ入込候へ共、当節は多分備前之国へ参り居可申との由

 

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水戸天狗党の西上事件のあった年の翌年である慶応元年以後の穂積亮之助については、本稿冒頭でほとんど未確認であることをお断りした。ただし、手元の資料に僅かながらその名が認められるので、参考までにその事実だけを以下に書き留めておくこととする。

 

『安達清風日記』慶応2127日条の、「晩與長森穂積三国諸人飲于天萬亭云々」とある中の「穂積」は亮之助ではないかと思われる。翌212日には「晩秋田晴吉穂積良之助城井慎太郎酒焉」。520日には「晩與三国幽眠秋田稲人穂積亮之輔同六郎重春塘(等ヵ)ト川上村榎並氏之別荘ニ飲、夜間雨大至遂投宿云々」とある。「同六郎」とある人が誰であるかは気にかかるところである。また、この年については『渋澤栄一傳記資料』の中に、一橋慶喜の第二次長州征伐への出陣に関係する826日付けの「御出陣御供被仰付御留置ニ相成候姓名」にその名が認められる。具体的には、御用人(榎本亮造、佐久間小左衛門、原市之進、梅澤孫太郎)手付として、川村恵十郎、渋澤篤太夫、穂積亮之介の3名の名が記されている。

 

慶応3年に関しては、『淀稲葉家文書』(日本史跡協会叢書)に収載される、1215日付けで穂積と新井謙二が記した探索書が確認できる。これは、主君徳川慶喜が京都二条城を立ち退き大阪城に入った(同月13)後の慶喜に対する朝廷や諸侯の評判や、朝廷と諸侯の動静を記したものだが、ここでは内容の紹介は割愛する。慶喜の京都退去後も、穂積は京都に残留して精力的に諸藩の知人を訪ね、情報の収集に当たっていたらしいが、その後の穂積に関しては一切把握できていない。なお、維新後の穂積に関しては先の小林義忠氏の「幕末・明治維新を駆け抜けた男()―勤王志士・梅村速水の生涯と思想―」に簡明にふれられているので、参考までに引用させていただきます。

 

「穂積は一橋(徳川)慶喜と静岡に移ると、旧幕臣として仕え国文学教授となった。『教育勅語』・『中庸随神解』等書籍がある。明治六年東京府に転籍し教部省より俳諧教導職に任命され、鈴木鉞太郎(原注・号を月彦)と称した。また浅草鳥越神社の祠官を歴任。埼玉県大宮の氷川神社少宮司となり、同十五年千葉安房神社宮司に転じ、明治二十年四月九日正七位を贈られる。二十二、三年頃同社を辞して東京・神田三崎町の稲荷神社社司に転じたが、同二十五年三月二十九日、六十九歳で没した。穂積耕雲の墓は東京都染井霊園に埋葬されていたが、その後、明治三十三年栃木県鹿沼市寺町の雲龍寺に移葬されている。」

 

過日穂積耕雲の墓があるという鹿沼市雲龍寺を訪れ、ご住職の奥様の案内を頂いて鈴木家の塋域を確認したが、鈴木石橋以外の墓石はいずれも風化が進んでいて穂積耕雲(鈴木俊益)の墓石を確認することはできなかった。