28 幕臣となった水戸藩郷士小室謙吉の半生

                 1

 

小室謙吉という人物については、本ブログ中の「若き日の渋沢栄一の転身」や「玄武館千葉道場塾頭真田範之助」等の中でふれているが、本稿では重複をお許しいただき、筆者がこの人物について確認できた事実を記しておきたい。もっとも、小室謙吉に関する手元資料もごく僅かであり、特に謙吉が幕臣となって以後、特に慶応元年(1865・括弧内は原注とない限り筆者注)以後については一切確認出来ていないことを予めお断りしておきます。なお、小室謙吉については各種資料に、小室昇()、小室献()吉、鈴木献吉、鈴木俊益、鈴木賢蔵、そして幕臣になってからは穂積亮之助、維新後は一時期鈴木鉞太郎(号・月彦)、神官として穂積耕雲等の名が認められる。本稿では便宜的に小室謙吉の名を基本に、幕臣となって以後は穂積亮之助の名を用いることとします。

 

小室謙吉の「謙吉」の名は通称と思われるが、その幼名や諱等については定かでない。謙吉は文政7(1824・月日不明)に小室藤次衛門(小室家当主の通し名)の子として、水戸藩常陸国那珂郡下檜沢村(茨城県常陸大宮市)に生まれている。小室家は水戸藩献金郷士で、農を業としていた。謙吉は次男で、兄は藤次衛門(吉満)と言った。兄藤次衛門の長男左門(吉久)は、慶応4年に滋野井公寿に従った赤報隊士として刑死した人である。なお、小室家近くの山腹に小室家歴代の葬地があるが、その墓石の多くが後年合葬整理されたらしく、某日小室家々人のご案内を頂いて確認したが、最上段に祀られる小室左門の碑以外、謙吉の父母や兄の墓石を見出すことはできなかった。

 

小室家のある下桧沢村は、茨城と栃木の県境に近い現在の県道常陸太田・那須烏山線沿いの山狭にあり、小室家は下桧沢の集落からやや離れた県道沿いにある。現在も4メートルにも及ぶ漆喰塗りの土塀と広大な屋敷が残されている。「壬申年生産高取調書上」(『美和町史』)によると、明治5(1868)の下桧沢村の米・麦以外の主要生産物は楮700両、煙草673両、蒟蒻225両の3品となっている。明和5(1766)の「紙問屋講中一覧」(『美和町史』)に「問屋並、小室藤次衛門」とあって、小室家が当時紙問屋を営んでいたことが確認できる。しかし、寛政7(1795)に「問屋」として藤次衛門(謙吉の父ヵ)の名があるものの、弘化4(1847)には名がなく、おそらく幕府の寛政の改革で紙の需要が激減したために廃業したのだろうという。

 

小室家では煙草や蒟蒻の生産も手掛けていたと思われるが、蒟蒻の仲買商も営んでいた。元治元年(1864)の「御国産物粉蒟蒻改仕出覚帳」(『美和町史』)によると、小室家ではこの年粉蒟蒻100俵を出荷し、その前年の文久3(1863)には藤次衛門が「粉蒟蒻改人」に任命されている。言うまでもなく、この藤次衛門が小室謙吉の兄である。

 

小室謙吉がどのような幼少年期を過ごし、後に郷里を離れて鹿沼宿に出るまでの間文武を誰に師事したのかも一切不明である。『美和町史』に「野口の時雍館からは斉藤監物、田尻新介、鯉淵伊織、下桧沢村の小室藤次衛門を排出した云々」とあるから、謙吉もここに学んだのかも知れない。しかし、時雍館は謙吉が27歳の年の嘉永3(1850)に開設されたというから、この当時謙吉は既に下桧沢村を離れていた可能性がある。

 

                 2

 

江戸の難波町で北辰一刀流の剣術道場を開いていた宮和田又左衛門光胤の自伝『宮和田光胤一代記』に、「鈴木(小室)謙吉此謙吉ハ水戸野州境領分郷士之次男ニテ例幣使街道鹿沼宿へ聟養子ニ被参候人ノ由」とある。また、薄井龍之(督太郎)の「江東夜話」(頼山陽の家族』収載)にも、「此鈴木と云ものは下檜山郷士小室藤次衛門といふものゝ弟で鈴木方の養子に参ったもので云々」と記されている。このことについて、水戸市郷土史会発行の『郷土文化』第54号に載る小林義忠氏の「幕末・明治維新を駆け抜けた男()―勤王志士・梅村速水の生涯と思想―」の中に、小室謙吉は「後に野州鹿沼宿で医を開業する。鈴木文平の塾麗沢舎に入門し、儒学や医術を学び、文平の娘かい子の婿養子となり、名を鈴木俊益と改めた」とある。謙吉は儒医鈴木文平に儒学と医学を学び、後に鹿沼宿で医を開業して師文平の娘の婿養子になったというのである。

 

小林義忠氏の論稿では、謙吉は結婚と同時に鈴木俊益と名を改めたかの如くにとれる。しかし、鹿沼市教育委員会発行の『鈴木石橋と麗澤之舎―鹿沼の知の文化の潮流』には、「文久三年(1863)の冬、前年息子泰三を亡くした水雲は、娘かいの夫である小室献吉を旧鈴木俊益家に住まわせ、鈴木家の家政を任せることにした。泰三に代わる跡継ぎを考えていたのだろう」とある。「水雲」とは鈴木文平の号である。「鈴木俊益」とは鈴木文平の兄で、文平の生家(本家)の跡を継いだ人である。その鈴木俊益の死後文平の息子泰三が継いだものの、泰三も亡くなったため、謙吉がその家に入って鈴木俊益を名乗ったらしい。なお、薄井龍之の「江東夜話」に次のような逸話が記されている。

 

「私は日光に在勤して居りましたが、近国の志士と結託して不及ながら国事に尽力して居りました。就中深密に交りを共にしたのは宇都宮の菊池介之助(原注・さの屋主人なり)、小島強介、岡田新吾、懸勇記、真岡の小山春山、横田藤四郎、栃木の国府義胤、鹿沼の鈴木俊益、足利の鈴木千里等でした」。また、「薄井龍之君傳」(『史談会速記録』第285輯収載)には、「嘉永六年春擢ンテラレ日光准后王府ノ侍講トナリ、曾テ尹府ノ教授ヲ掌ル」とある。これらに間違いなければ、小室謙吉は嘉永年間には鈴木俊益を名乗っていたことになる。もっとも、薄井の「江東夜話」等は明治になって記したものなので、姓氏を厳密に使い分けていたかどうかは疑問である。おそらく、この当時は鈴木俊益ではなく鈴木謙吉()を名乗っていたのだろう。

 

話は前後するが、謙吉は天保か弘化年間には鹿沼宿に出て、鈴木文平に師事していたのではないかと思われる。そして、謙吉が師の鈴木文平に見込まれて、文平の娘の婿になった事実や謙吉の後年の様子から推測すると、謙吉の儒学や医学に対する素養は相当深かったのだろう。また、謙吉は兄小室藤次衛門の影響もあったのだろう、薄井龍之の話の如く早くから尊王攘夷思想を懐抱していたらしい。「東江夜話」には、謙吉に関する次のような逸話も記されている。

 

「日を遂て外事は切迫し幕府の処置は益々失着のみ多く公武の折合甚悪敷天下の形勢容易ならぬ場合に立至」ったため、「小島、小山、横田、鈴木等と密かに鹿沼に会し(小室謙吉の家と思われる)まして種々商議した。その結果、頼三樹三郎(頼山陽3)に学んで京都に知人の多い薄井が上洛して、京都の形勢を探索した後に「鹿沼まで帰り鈴木方へ泊まりまして」、菊池たち一同に連絡してその結果を報告したとある。そしてさらに次のような逸話も記されている。

 

安政の大獄頼三樹三郎が捕縛されると、その連累として薄井も日光で逮捕されたものの、門人某某等のために助けられ、「逃亡して鹿沼の鈴木俊益方へ参ッて一分一什を話した所鈴木は大に驚き夫れは大変だ今此処らにまごまごして居ては必ず追手の為に捕へられるに相違ない、早く何ちらへか逃げるがよい、シタが他の所へ行ッては迚も免かれる訳にはいくまい先づ兎に角水戸へ行ッて諸友に相談するがよかろうとのことで鈴木より同氏の兄の所へ手紙を呉れた、(中略)ソコで其の手紙を以て水戸へ参りました、下檜山と云ふ所は水戸の城下より五六里も距ツ所でしたからその翌日下檜山へ云々」

 

薄井龍之の話を聞いた謙吉の兄藤次衛門は、「御辛労御察し申す、宜しい緩るりと御逗留なさい、どこまでも御世話申しましょう」、と快く小室家での潜居を引き受けてくれたという。その後、龍之はしばらく小室家に滞在していたが、追々幕府の探索も緩やかになったため、藤次衛門は水戸城下に赴き、武田耕雲斎に龍之の身の振り方を相談した結果、龍之は武田家の食客として匿われることになった、と記されている。

 

遅きに失したが、小室謙吉の養父となった鈴木文平について少々説明しておく必要があるだろう。鈴木文平は通称で、諱は之彝、字は文龍(後に文秉と改める)、水雲と号した。寛政8(1796)鹿沼宿仲町の鈴木俊益の子として生まれ、後に父俊益の弟鈴木石橋の養子に入った儒医鈴木松亭(通称重蔵、諱之綱、字紀仲)の養子に迎えられた。昌平坂学問所に学び、また画を谷文晁に師事し、帰郷後は義父の後を継いで「麗澤之舎」で儒と医の教導に当たったという。天保7年には鹿沼宿の本陣役に、また同9年からは押原東内町の名主も勤めていた。なお、水雲の祖父に当たる鈴木石橋(通称四郎兵衛、諱之徳、字沢民)は、林家塾(後の昌平坂学問所)に学んだ儒者で、私塾「麗澤之舎」を開いて近郷各地の若者の教導に当たった人である。寛政の3奇人の1蒲生君平は石橋の門下であった。鈴木石橋は宇都宮藩から五人扶持を給され、藩校「潔進館」の設立にも携わり、藩士の講釈にも当たったという。

 

                  3

 

万延元(1860)と翌文久元年(1861)については、小室謙吉に関する資料は一切確認できていないが、文久2年になって、宇都宮藩士懸信緝(称勇記・号六石)の日記(『栃木県史』資料編七・「縣信緝日記」)に僅かにその名が認められる。懸信緝は清水赤城や大橋訥庵に学び、蒲生君平を敬慕する尊王攘夷論者であった。小林友雄著『懸六石の研究』によると、信緝はこの年正月の坂下門事件に関係して家禄を没収の上謹慎処分を受けたが、4月末には謹慎を解かれ、翌月には「当分御雇格五人扶持」を給されて三河の郡奉行兼正親町三条家御用を命ぜられていた。そして、この月江戸に出て獄中の師友の赦免運動や山陵修補事業の発議と、その計画遂行に奔走していた。

 

この山陵補修事業とは、当時坂下門事件で大橋訥庵ら多くの関係者を出して「戸田家(宇都宮藩)ノ湮滅衰亡」の危機にあったことから、「勤王翼幕ノ事業ヲ奉シ、主家安全の基礎ヲ立ルノ一策」(懸信緝筆「山陵修理始末略記」)として懸信緝が発案した事業である。これは信緝が敬慕する蒲生君平の遺志を継ぎ、荒廃著しい山陵(天皇墓所)を補修しようとするもので、当時公武合体の政策を推進していた幕府の意向にも沿うものであった。信緝はこの案を胸中に江戸に上り、江戸家老間瀬和三郎(忠至)の同意を得たらしい。出府当日(514)の信緝の日記に、「江戸ニ着ス、間瀬太夫ノ家ニ宿ス」とあり、翌日宿所は移したものゝ18日以後は同月末に江戸を去るまで連日「間瀬君ニ行ク」と記されている。

 

信緝は同月27日江戸を発ち、29日に宇都宮に帰ったが、翌612日再び江戸に上っている。そしてその翌月3日の日記には、「夕七ツ頃、伝奉屋敷ニ行キ、大原三位ニ拝謁、夜三更帰云々」と記されている。「伝奉邸」とは竜の口の伝奉屋敷(当時御馳走所と改められていた)のことで、将軍の上洛等「勅旨三策」を幕府に迫るため、そこに滞在していた勅使大原重徳に謁見したのである。大橋訥庵等同志の救解と山陵修補事業への力添えを得るためだったらしい。それから3日後の信緝の日記(76)に、「伝奏邸ニ行キ山科兵部ニ面語、小室献吉書至」とあり、さらに翌81(信緝は722日帰藩)の条には、「小室献吉ニ書ヲ贈ル、(中略)小室献吉書達ス」と記されている。山科兵部とは大原重徳に随従していた薩摩藩吉井友実(幸輔)である。信緝が山科兵部に会ったその日、信緝の元に小室謙吉からの書状が届いたのである。そして、翌月1日には懸信緝が謙吉に宛てて書状を発したその日に、謙吉から信緝に再び書状が届いたのである。

 

なお、この縣信緝の日記は、謙吉について鈴木ではなく小室の姓で(献吉或いは昇と)記されている。あるいは、万一の場合に婚家に類の及ぶことを恐れ、敢えて旧姓を用いていたのかも知れない。小室謙吉が懸信緝といつ頃から関係していたのか、またその関係性等についても定かではない。このことについて小林友雄の『懸六石の研究』には、「同藩(宇都宮藩)の小室登はこの後の活動から眺めて、六石の密偵格となり水戸浪士の行動を探っている人物と見られる」とある。小室を宇都宮藩士と特定しているが、「宇都宮藩士分限帳」(徳田浩淳著『宇都宮の歴史』)にその名が認められない。また密偵格という点についてはともかく、小室が信緝のために情報収集等に尽力していたことは事実はである。

 

懸信緝の日記の翌閏817日条には、「小室献吉、船越平作来ル、亀清ニテ酌ム、道中御手当金渡ル」とある。信緝は前月9日再び出府していたのである。或いは謙吉はこの日江戸に出て来たのかも知れない。この月の8日には、藩主の名で幕府へ山陵修補事業の建白が行われていた。信緝は幕府の許しが出た後の918日には入洛しているので、謙吉と舟越平作はこれに従ったらしい。間瀬和三郎は914日幕府から山陵修補事業専任を命じられ、藩主戸田氏の戸田姓(和三郎は藩主忠恕の従兄弟)を名乗って1021藩士30名を伴って入洛しているので、信緝たちはそれに先立って上洛したのだろう。なお、舟越平作については、「懸信緝日記」の1017日の条に、「柿沼斉宮、舟越平作、御陵営造御用中御雇ヲ命セラル、一ケ月一人扶持金二分ツゝ」とあるが、その人物像は定かでない。

 

「懸信緝日記」の921日条に、「三宅将曹、西洞院四條上ル久留米邸、松浦八郎、小室献吉、舟越平作来、夜夫人賜酒」とある。三宅将曹は久留米藩士だったらしいが、文久2年の「久留米藩分限帳」(「御手廻並嫡子分限帳」)にはその名が見あらない。松浦八郎は久留米藩郷士で、元治元年に真木和泉らと共に天王山で自刃して果てた人である。ちなみに、『久留米同郷会誌』に収載される松浦の書簡によれば、松浦は前年11月には江戸から、また、文久21023日には伊豆の三島から郷里の父宛てに手紙を送っている。諸国を遍歴して尊攘活動に挺身していたのである。この日、久留米藩邸でどのような話し合いがあったのかは不明である。

 

小室謙吉が懸信緝らと久留米藩邸を訪ねた3日後の信緝の日記に、「小室献吉、住丸屋与惣吉、将曹来ル、皆酒ヲ供ス」とあり、翌107日には「献吉来ル、福島屋ニ馬ノリヲ眺ル」、さらに2日後の同月9日には、「小室献吉、松浦八郎、渥見祖太郎来」と記されているが、その後この年の信緝の日記に小室謙吉の名は一切認められない(文久3年分の日記は不明)。なお、信緝の日記の109日条に名の認められる渥見祖太郎は、信緝の日記1024日条に「御用人格心得を以京都表御留守居兼帯被仰付之右之通、渥見祖太郎を以て御達有之」とあって、「宇都宮藩分限帳」に「御取次上席 高百五十石(内二十石増) 渥見祖太郎」と認められる。小室謙吉が舟越平作や柿沼斎宮(雅雄・平田門)のように宇都宮藩から御雇として御陵造営御用を命じられていたか否かは不明だが、舟越や柿沼以外にも御陵造営御用に任じられた人たちがいたらしく、前記宮和田光胤の『宮和田光胤一代記』に次のような一文がある。

 

「此節光胤方へ入門致し、食客稽古場頭取を致し居候ハ下野鹿沼宿の神官ニテ平田先生(篤胤)門人柿沼河内守也、此人宇都宮真()瀬和三郎後大和守ニ附属し、神武天皇御陵之儀ニ心掛け横田藤四郎等一同大和の国ニ至り、真瀬氏に附属中、真瀬氏之漸進論ニテ不折合心より帰府ニ候得共、攘夷其外幕吏違勅之廉多きをいきとほり居り、(中略)右柿沼氏ハ渋沢なども懇意故、光胤ニも依頼ヲ千葉師へ為連行候事なりける、是も武田伊賀守ニ依頼一度光胤江なりける」

 

鹿沼宿の神官柿沼河内守(広達)と共に間瀬和三郎に従って上洛した横田藤四郎(祈綱)下野国真岡(栃木県真岡市)の商人で尊王攘夷家である。この横田藤四郎は翌年の水戸天狗党による筑波挙兵に参加して敦賀で死んでいる。謙吉とも同志の人であったが、同じ鹿沼宿の神官である柿沼河内守とも交友のあったことだろう。この柿沼河内守は山陵修補事業の進め方に異論をもち、帰府してしまったというのである。なお、この後、懸信緝は10月中に御用人格となり京都御留守居兼務を命じられて山陵の修補に奔走していたが、翌年2月末に突然帰藩を命じられて宇都宮に帰っている。

 

                  4

 

先の「宮和田光胤一代記」の記述にあった、柿沼河内守と懇意の「渋沢」とは渋沢栄一のことである。さらに「千葉師へ為連行候事云々」とあるのは、本ブログ20「若き日の渋沢栄一の転身」等に転載して詳述した「宮和田光胤一代記」の記述である。屋上屋を重ねることになるが、小室謙吉が関係しているので本稿でも再度転載することとする。

 

「此度一橋公後見職ニテ上京先登と成りしより幸ひニ同志をつのり一橋公ニ付添ひ度志願のものニハ千葉周作門人塾頭致居候生国ハ八王子同心之伜真田範之助、同人結合之友ハ渋沢栄一、渋沢誠一郎両人又兼テ田中春岱方已来懇意人ハ鈴木謙吉、此謙吉ハ(中略・前述)、此渋沢両人を同伴ニテ真田範之助、鈴木謙吉、光胤宅被参、範之助より依頼ニハ此渋沢両人儀一橋公へ附属し上京致度候云々」

 

ここでの詳しい説明は省略するが、小室謙吉が真田範之助や渋沢栄一たちと宮和田光胤を訪ねた時期は、「若き日の渋沢栄一の転身」で、武田耕雲斎一橋慶喜の上洛に随従するよう幕命のあった文久21211日から、耕雲斎が江戸を発った同月24日の間であったろうと推定した。この推定が正しければ、小室謙吉は懸信緝に先んじて文久2年中に離京していことになる。もっとも、その理由は後日の信緝との関係からすると、柿沼河内守同様の事情ではなかったと思われる。なお、先の「宮和田光胤一代記」の記事によると、小室謙吉は宮和田光胤や玄武館千葉道場塾頭の真田範之助、渋沢栄一たちとも懇意だったのである。また、「兼テ田中春岱已来懇意ハ鈴木鎌吉」とある田中春岱は熊本藩の医師である。この人物については、後に詳述することになる。

 

翌元治元年(1864220改元)224日の懸信緝の日記に、再び小室謙吉の名が認められる。そこには「(前略)小室献吉、舟越平作来」とあり、欄外に「鉄函心史一冊、地ノ巻、小室ニ貸ス(後略)」と記されている。浅学にして「鉄函心史」については知らない。

25日の日記にも「小室献吉来」とだけあって、その後は4月に到るまで謙吉の名は記されていない。信緝はこの前年2月に突然帰藩を命ぜられて宇都宮に帰り、その年5月には御用人に任ぜられたことは前記したが、謙吉が信緝を訪ねた2月には中老職を命ぜられて会計総裁の要職に就いていた。

 

その後、信緝の日記の45日の条に、「水戸小川館同盟士百二十人余、宇都宮ニ宿ス、物議沸騰」とあり、翌6日には「水戸斎藤佐次右衛門・藤田小四郎両人ニ、修道館ニ於テ、戸田公平・安形半兵衛・自分三人応接(中略)夜四ツ前、藤田小四郎外五人来訪、議論、暁ニ至ル云々」と記されている。そしてその翌7日には、「午後、斎藤左次右衛門・藤田小四郎来、戸田公平来、応接、小室登・小山弘来」とある。田丸稲之衛門を主将に、藤田小四郎ら水戸天狗党激派が常陸筑波山に挙兵したのは前月の27日のことであった。この筑波勢が翌43日、日光東照宮に拠って諸国に攘夷の決起を呼び掛けようと筑波山を下山し、宇都宮城下に宿陣したのは2日後の同月5日のことであった。

 

藤田安義手記「宇都宮藩変革禄」に「(筑波勢は藩主)忠恕公ニ面謁ヲ乞藩士之レヲ拒ムノ論紛々タリ、懸氏之レニ説ヒテ修道館ニ於テ謁セラル」とある(宇都宮市史』通史編)。筑波勢への対応に宇都宮城内は議論紛々騒然となったが、当時勢力のあった面会拒否派(佐幕派)を信緝が説得し、藩校進修館で自らが藤田小四郎らと折衝したのである。藤田たちは勤王藩として知られる宇都宮藩の全面的協力を要請したが、もしこれを受け入れれば藩の存亡に関わる。筑波勢に同情的な信緝には苦渋の応接だったが、日光東照宮への参詣を保証する条件(当時宇都宮藩は日光警衛を命じられていた)で滞陣2日目の7日夜(8日明け方ヵ)に筑波勢は城下を去り、日光へ向かうこととなったのである。

 

46日夜の信緝と藤田小四郎らとの会談に関して、「懸信緝手記(諸草按)(『栃木県史』資料編)に、「小四郎私別間に於て談し度よしニ付、直側之別間ニ於て小四郎と両人差向、談事候へとも、(中略)天明ニ至り候ニ付、随従之者帰を促、罷帰、其意更ニ不相分候に付、翌日小室登を以テ情実内索ニ遣し候て云々」とある。7日の信緝の日記に謙吉の名があったのはこのことだったのである。なお、徳富蘇峰著『近世日本国民史』第54巻「筑波山一挙の始末」に、「懸勇記は、鹿沼駅医鈴木俊益もて、金千両を軍資として(筑波勢に)寄贈したから、彼等も安心して云々」と記されている。これは謙吉が信緝の屋敷を訪れた47日で、この日のことは薄井龍之の「筑波騒動実歴談」に次のように記されている。なお、これによれば、謙吉は藤田小四郎を始めとして筑波勢中に多くの友人がいたらしい。また、この逸話からも、謙吉に対する縣信緝の信頼が深かったことが窺える。

 

「その夜(47)県勇記の使と称し、鈴木俊益という者が藤田(小四郎)の旅宿に参りました。この者はもと水戸の郷士小室藤次右衛門という者の弟で、これより先き鹿沼の鈴木某の養子となって医者を業としていた者で、かねて藤田らと知己でありますから、県が特にこの者を選んで使に遣わしたので、さて鈴木は藤田に面会して県の言を伝えて言うには、(中略)と申して金子七〇○両送ってよこしました。藤田はこれを受納して、その翌日、即ち四月八日に日光へ向けて発足した」

 

                  5

 

懸信緝の日記には、小室謙吉について記されていない事実が多くあるらしい。「懸信緝手記」の記述がそれを物語っている。その「縣信緝手記」の414日条に、「(前略)小室登一同、水人模様伺候ため、栃木宿迄罷越、御陣屋詰同人へも一応其段断置、滞留仕居候、此日一同大平山へ参籠仕、鎮静方、美濃部・山国等ハ栃木ニ止宿仕候」と記されている。当時、謙吉たちは、筑波勢の動静を知るために足利藩栃木陣屋のある栃木町に滞在していたのだ。そこには筑波勢鎮撫のために派遣された水戸藩士美濃部又五郎や山国兵部らが滞在していたのである。

 

「懸信緝手記」にある「小室登一同」について、『懸六石の研究』は「渥美清介、松沼勇三、小室献吉、松井一郎らを指す」としている。館林藩士塩谷甲介(良翰)の『塩谷良翰回顧録』に、「同藩(宇都宮藩)松井一郎探索の任にて(栃木に)罷在候」とあり、『懸六石の研究』の記述を裏付けている。もっとも、『縣六石の研究』に名のある松井一郎は、徳田浩淳著『宇都宮の歴史』に記される「宇都宮藩士分限帳」(文久~慶応年間)によると、百石高の郡奉行で、明治4年の宇都宮県職員に権大属として名のある人である。

 

塩谷良翰の回顧録に、塩谷が栃木陣屋役人の善野司から聞いた話として、「昨十九日鎮静方立原朴次郎、真田半之介(範之助)、小室謙吉右三人は金龍寺借り受罷在度懸合に付承知相答候由云々」、と記されている。立原朴二郎の一行は、栃木宿の旅宿押田屋に逗留していたが、都合により戸田家の菩提寺である金龍寺に宿所を移そうとしたのである。その金龍寺への交渉に小室謙吉も立ち会っていたのだ。立原に従っていた旧知の真田範之助の依頼があったのかも知れない。鎮撫使の立原朴二郎とは、水戸藩史館総裁立原翠軒の孫(父は立原杏所)で、当時は歩士頭の職にあった。これも余談になるが、この立原朴二郎も、また縣信緝も千葉玄武館道場で北辰一刀流を学んでいる。小室と真田範之助との関係(真田と共に渋沢栄一らを宮和田光胤家に伴った事実)や、宮和田光胤とも旧知だったこと等から推測すると、小室も北辰一刀流を学んでいたのかも知れない。

 

なお、水戸天狗党関係の多くの資料は、小室謙吉が筑波勢に加わっていたと取れるものが多い。いくつかの資料を見てみよう。まず、「常野集」(茨城県史料』幕末編Ⅲ収載)の「子五六月頃野州浮浪之風聞」に藤田小四郎殿内として千葉道三郎(千葉玄武館々主)らと共に小室献吉の名が記されている。また『栃木市史料叢書』第一集「岡田親之日記」の中の「元治元年大平山屯集名禄」には、公用方申諭し方兼小荷駄奉行として「鹿沼宿医師鈴木俊益事小室昇」とある。さらに、『波山記事』に記される「浪人大平山権現参拝之節宿割」に、「右同所(栃木町)押田屋彌次郎方ニ止宿、宇都宮藩、松井一郎、小室謙吉、上下三十人」とある。なお、この宿割には、鎮撫吏の美濃部又五郎や山国兵部、立原朴二郎一行の名も記されているので、当時栃木宿に滞在していた人たちを全て筑波勢と混同してしまったらしい。この宿割にある宇都宮藩の「上下三十人」については、『塩谷良翰回顧録』に、塩谷が栃木宿の角屋に投宿中の宇都宮藩士柳澤金十郎に会った際、柳澤から「拙者儀砲士二十七人を召連れ(中略)当駅へ罷在候子細は当藩重役戸田七兵衛次男次郎事弾正と改め浪士加連此者引取度掛合中」であると聞いたとある人達であった。戸田次郎(光形・宇都宮藩尊攘激派領袖)は戸田弾正(村樫易王丸とも)と変名して筑波勢に参加していたのである。

 

この戸田次郎に関連して「懸信緝手記」415日条に、「小室登咄ニハ、次郎義兎角懸氏を讒訴いたし、人心を動し候様子云々」とある。「次郎」とは戸田次郎のことで、懸信緝を憎んで暗殺を目論んでいたのである。それを耳にした謙吉が、その旨を信緝に知らせたのだ。戸田次郎は、宇都宮天狗党を結成してその領袖となるなど、その過激な行動を危ぶんだ藩老たちに、この年退藩を命じられていた。それを恨んで信緝誅殺を目論んでいたのだという。なお、『懸六石の研究』に、この15日「栃木宿に在った斎藤佐次衛門を訪れた小室謙吉が、更に戸田次郎の人物を論じて、加盟中より除名せられたき旨を極力論詰めたため」、佐次衛門が「明日登山の際は、次郎の登山は見合わせることを約した」と記されている。しかし、これは実現しなかったようだ。

 

16日の信緝の日記に、「雷雨、小室献吉栃木ヨリ来、但在鹿沼」とあり、同日の「懸信緝手記」の一節に、「何分山中之者得心不致、日光表よりして彼ニ被欺候故、是非宇都宮へ押よせ、勇記を刺候なと申居候赴ニ付、小室登を以鹿沼迄差遣、云々」と記されている。東照宮参拝を機に日光占拠を目論んでいた筑波勢は、警備厳重でこれが実現しなかったため、これは参拝に付き添った信緝の策略だろうと疑う者が多かったのである。日光の占拠を断念して14日に太平山に登り、宿陣していた筑波勢の中にあった戸田次郎の讒訴が火に油を注いだのだ。当時鹿沼宿に出張していた信緝は、筑波勢が宇都宮へ押し寄せるとの情報を得たため、小室謙吉に大平山内の動静を探るよう指示したのである。そのことは、「懸信緝手記」に次のようにある。

 

「朝、小室登昨日太平山へ罷越候処、被差止、一宿被致、様子相伺候処、昨夜山中大動ニて、既ニ栃木へ押出し、宇都宮人数へ切込候なと申候を、田中愿蔵之手ニて種々申諭し、漸静り候へとも、此後とも甚以心配之旨、早朝下山之上咄し有云々」

 

謙吉は17鹿沼で用事を済ませた後に、太平山の筑波勢本陣を訪ねようとしたものの、浪士たちの信緝への怒りが頂点に達していたため、その関係者である謙吉の登山は拒まれたらしい。謙吉は混乱する山中の様子を知らせるため、翌日早朝に信緝を訪ねたのだ。謙吉には藤田小四郎を初め筑波勢の中には多くの知友がいたにもかかわらず入山を拒まれたのである。筑波勢の信緝に対する怒りは相当のものだったのだろう。だが、この騒動も鎮撫吏の立原朴二郎等の介入もあって、なんとか収拾がついたらしい。その後、筑波勢が再び筑波山に陣を移すために大平山を下りたのは翌5月末のことであった。

 

この17日以後は「懸信緝手記」に小室謙吉の名は認められない。その日記にも、同月23日と翌24日の2日にわたって「小室献吉来」とあるが、謙吉が信緝を訪ねた理由等は定かでない。そして翌25日には、「献吉鹿沼ニ帰ル」と記されている。信緝の日記に謙吉の名が認められるのは翌518日が最後である。そこには、「横田藤四郎、小室登、渥美清介来」と記されている。懸信緝はこの月15日に、幕府への攘夷建白等筑波勢後援のために江戸へ出ていた。したがって、当時小室謙吉も出府ていたのである。なお、「栗橋関所資料」(『埼玉県史料叢書』15)54日の条に、「水戸殿下目付小室献吉、僕壱人栃木町より江戸屋敷迄相通候事」とあるから、この日江戸に出るため水戸藩士と偽って栗橋の関所を通ったのだろうか。

 

懸信緝は翌67日宇都宮に帰ったが、その月の22日、筑波勢に対する処置が不適切であったとして御役御免の上厳重慎みの処分を受けている。『宇都宮藩史』に、「或ハ云フ幕府ノ命令ニ出ヅルトモ」とある。この時、信緝以外で罰せられた者に戸田三左衛門、岡田真吾らと共に「小室登」の名もある。信緝は「「愁思録」(『縣六石の研究』収載)の中で小室謙吉への処罰に関して、「御家ノ為メニハ功有リテ罪無キ小室登ヲ就縛幽因シ、兼テ尊王攘夷ヲ唱フル正義ノ士ヲ見ル事叛逆凶徒ニヒトシキハ何事ゾヤ、沙汰ノカギリト云ベシ」、と憤慨をあらわにしている。先の「幕末・明治維新を駆け抜けた男」なよると、この時小室謙吉の養父鈴木水雲も宇都宮藩から譴責を受けたという。

 

 ※以下は「26(2)」に続きます