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「誓て東照宮の遺訓を奉じ、奸邪誤国の罪を正し、醜虜外窺の侮を禦ぎ、天朝幕府の鴻恩を奉ぜんと欲す」。これは、幕府に奉勅攘夷を迫り、その先鋒たらんと常陸の名峰筑波山に挙兵した水戸天狗党の檄文の一節である。
元治元年(1864)の3月、水戸天狗党は筑波山に挙兵したものの、幕軍と諸藩兵や領民までも巻き込んでの水戸藩内の抗争に終始し、常総野の地を戦乱の坩堝と化すこととなった。あげく、京都を目指した200余里の行軍の末、その年の12月には加賀藩の軍門に降り、翌年2月には、敦賀の地で350余人もの浪士たちが無惨に斬首されることとなったのである。
本稿で取り上げる山田一郎は、藤田小四郎(藤田東湖4子)と共に挙兵の主軸となりながら、旗揚げ後わずか40日余りでこれを離脱し、幕府に自訴した人物である。特に山田一郎は、挙兵に不可欠な軍資調達を担当したことから、栃木宿を灰燼に帰して悪名を轟かせた田中愿蔵(水戸藩医猿田玄碩次男)と同類視され、歴史にその汚名のみを残している。
筑波挙兵に共に参加した薄井竜之(信州飯田の尊攘家・天狗党の上洛途中で離脱)さえ、その回想談である『筑波騒動実歴談』のなかで、「(山田は)性来残忍な者ゆえ、(軍費調達のため)その召喚したる者に対してよほど厳酷なる談判」に及んだと語っている。また、幕府の儒官安井息軒の飫肥藩士宛て書簡にも、「山田は新徴組を出奔し、人も四五人位は殺し(中略)至極の悪党に御座候」(黒木盛幸編『安井息軒書簡集』)と、山田を極悪人のごとく記している。
こうした資料が元になってか、徳富蘇峰は『近世日本国民史』(第54巻「筑波山一挙の始末」)のなかで、「田中愿蔵、山田一郎の如きは、尤も甚だしき札付きであった」と断定している。山本秋広著『維新前後の水戸藩』にも、「山田や田中の一味のやった無謀な行動のために、筑波勢はいまや全く世間の好意と同情を失い(中略)致命的な損失となってしまった」と記されている。その他の水戸天狗党関係の著書も大同小異で、山田一郎を全く無視するか、田中愿蔵と同類視するかの何れかであり、なかには山田を田中愿蔵の手下とするものさえある。
その山田一郎は、本名を横田博、名は嘉郁、また敏久といった。山田一郎の名は、生地の名を取っての変名である。その生地とは、平成23年の三陸沖大津波で未曾有の被害を被った、岩手県下閉伊郡山田町川向の地である。その山田湾に面した川向の地は、周囲の緑の山並みと、紺碧の海の景色以外のすべてが溟海に呑み込まれ、山田一郎が生まれ、生きた痕跡を今は微塵も留めていない。
山田一郎は、天保8年(1837)に質業を営む横田宇右衛門の3男として生まれた。横田家の菩提寺虎洞山龍昌寺の塋域に、山田一郎の父母の墓と思われる夫婦墓がある。法名を「緑山妙□禅信女」と刻まれたその側面には、「横田宇右衛門妻、名於連阿部留五郎女也、天保十四年癸卯冬十月十四日没春秋三十六」とあるが、山田一郎の父と思われる法名「松岳道嶂信士」とある墓石の側面には、なぜか墓誌が刻まれていない。山田の兄等の墓も見当たらず、何か深い事情のあったらしいことを窺わせている。墓石によれば、母於連は山田一郎が7歳の時に没しており、山田はその後母方の祖父阿部留五郎に養育されたという。
山田一郎の姪横田ハヨ女の談(山田町の郷土史家川瀬一郎編輯『筑波義挙の志士山田一郎畧伝』・以後『畧伝』という)に、「博伯父は、ナンス色が白くて背の高い立派な人でござんした。何時も私の家の室に寝起きして、昼は本ばかり読んでおり、何か一生懸命勉強していた」云々とあり、『南部維新記』の著者故大田俊穂(元岩手放送社長)が、山田一郎を知るその祖母万亀女から、山田一郎は「家の仕事は見向きもせず、昼は一日、部屋に閉じこもって読書をし、夜は木剣を提げて、海岸で独り素振りに専念していた」、と聞いたという。
先の『筑波騒動実歴談』に、山田一郎は「文学もあり」等とあり、また、『波山記事』(日本史籍協会叢書)所載の「探索書」に、「(山田の)持流は二刀流ニ而、一刀流仕方モ上手ニ而、拾人懸り為致候由唱ニ有之候ニ付、事実見聞仕候得ハ五六人位迄ハ惣掛り為致、日々稽古致居」とあり、早くから文武の道に励んでいただろうことが窺える。それにしても5、6人を相手に(総掛かりで)稽古をしていたというのだから、山田一郎の剣技には抜群のものがあったのだろう。
山田一郎19歳の安政2年(1855)、山田地方の領主漆戸茂幹(南部藩家老加判・1000石)にその才能を認められ、側用人として仕えることとなった。盛岡城下に出た山田は、漆戸茂幹に仕える傍ら文武の師を得たらしいが、その詳細は不明である。この頃の逸話として、先の万亀女の談に、万亀女の祖父毛馬内伊織家を、漆戸茂幹がしばしば訪れ、2人の用談中、主人に随従してきた山田一郎が、よく石つぶてで小鳥を取ってくれたという。3度に1度は必ず命中するほどの腕前だったらしい。
『南部維新記』に、ある時「母の病気でしばらくぶりで山田へ帰った博は、(中略)白石藩で攘夷論者として忌避され、漂然と山田へやって来た矢田義一に会い」、その攘夷論に魅せられ、また剣客でもあった矢田に剣技を伝授されたとある。病の母とは義母であろうか。母親のことは記されていないが、『畧伝』にも、安政3年のこととして、白石藩の勤王の志士矢田義一が山田村に亡命してきて、小武助屋に仮泊していた際、山田一郎は矢田から勤王思想を鼓吹されたとある。矢田義一がいかなる人物なのか、白石市生涯学習課に問い合わせたが、「白石藩系譜書」や「白石藩役人帳」等にも、矢田姓の家臣は見当たらないとのことであった。
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『畧伝』によれば、その後、山田一郎は盛岡に戻ったものの、安政5年には、脱藩して涌谷藩の剣術指南役鈴木直之進(諱は明光・天辰一刀流剣術開祖)に入門、剣技を磨いた。山田はさらにその後、仙台藩の剣術指南役桜田良佐(藩内尊攘派の重鎮)に師事して文武を修行し、文久2年(1862)に、清河八郎が仙台に潜行した際には、「桜田良佐、遠藤文七郎、山田一郎等と謀り攘夷の決行を約」したという。遠藤文七郎とは、仙台藩尊攘派の領袖、清河八郎は出羽庄内清川村出身の尊攘家、その清河八郎記述の『潜中始末』や『潜中記事』の仙台潜行中の記事等に、山田一郎らしき姿は確認できない。
清河八郎は文久2年末、朝廷に攘夷実行を約した幕府に協力して浪士募集を献策、これが容れられて、翌年2月の浪士組の上洛となった。『畧伝』等には、山田は清河八郎の浪士募集に協力し、共に上洛したとあるが、これは誤りである。各種浪士組名簿にその名のないことは勿論、浪士組3番小頭大館謙三郎作成と推定される「上洛先供有志浪士掛役人并浪士姓名」(『太田市史資料編』)中の「上京浪士帰府前加入」者46名のなかに、山田一郎の名が明記されている。山田は浪士組上洛後に、遅れて浪士組に参加したのである。
『甲子雑録』(日本史籍協会叢書52)に、山田一郎の宛名不明の書簡文が収載されている。その文久4年2月4日(2月20日元治と改元)付の書簡には、「去歳幕府に於いて不肖野生を召出され、新徴組世話役仰付られ」云々とある。山田は、浪士組から新徴組に改編後間もない文久3年5月19日、世話役に抜擢されたのである。このことを以てしても、山田の実力のほどが察せられる。加入後間もない新徴組内でも一目置かれていたのである。
なお、『畧伝』等では、山田の上府は文久3年のごとく読み取れるが、『波山記事』に「此者(山田)南部出生にて、所々徘徊、商人の風体ニ手流浪致し、新徴組に入り其後不首尾にて水浪に入り候由、多才の者にて都て懸合等の重立候事を取扱」とある。また、『下野勤皇烈士傅』には、安政6年11月、昌木晴雄(下総結城の人・天狗党参加後磔刑)が結城藩に捕えられた際、当時牢屋奉行の家に滞在していた山田一郎が、昌木を救った逸話や、山田が長倉(茨城県城里町)で水戸藩士の田中愿蔵や鯉淵要人と相識り、同道して安政7年2月に、長岡(水戸藩に降った密勅返納反対の激派が屯集)に相会したことが記されている。出典は示されていないが、これらが事実なら、山田は早くから関東で活動していたことになるが、真偽は不明である。
また、『畧伝』等には、仙台で山田が清河八郎と攘夷の決行を約した、とあるが、清河八郎が横浜焼き討ちを策して、幕府の手で殺害された後、清河に同調して捕えられた主要浪士組浪士のなかに山田一郎の名はなく、攘夷決行を約したとする記述は疑わしい。さらに、小山松勝一郎著『新徴組』に、清河八郎の死後「山田一郎は有志と相談し、金五十両を京の池田徳太郎に贈り、東下して一同を統括してくれるよう」使者を送った、と記されているが、これも疑わしい。沢井常四郎著『維新志士池田徳太郎』収載の、浪士たちが池田徳太郎の上府を切望して、「金五拾両差贈り申候」等と記された書簡の送り主は、「上京仕有志一統」とあって、池田と共に上洛した人たちである。そもそも、山田の浪士組加入時期からみて、山田と池田徳太郎とは面識がなかったのではないだろうか。
なお、浪士組で道中目付を勤めた中村維隆(草野剛蔵)の自伝に、「国分新太郎、南部藩山田一郎其他手兵百六十人を率いて横浜の先鋒たらんことを請う。鵜殿、山岡之を諾し」云々と記されている。国分新太郎は、後に水戸天狗党に参加して敦賀で斬首された水戸藩士で、攘夷決行を期待して新徴組に参加していた。鵜殿は鵜殿鳩翁(浪士組取扱)、山岡は山岡鉄太郎(浪士組取締役)である。その時期からみて、山岡の免職蟄居後のことで、詳細は不明である。
山田の新徴組在籍期間は短かった、先の山田の書簡には前記に続いて「(新徴組世話役として)及ばずながら七月まで勤仕罷在候処、いささか斬奸の嫌疑にて酒井繁之丞殿の邸中に禁固申付けられ、同志十一人共々囚人に相成、(中略)十九日に及び御免に相成候得共」云々と記されている。酒井繁之丞とは、新徴組預かりとなった庄内藩主である。このことに関係するのだろう、新徴組剣術教授方中村定右衛門筆記の「御用留」に記された、7月25日付の廻状に、木村久之丞、山田一郎、岩城喜一の3人に対して、「願之通世話役差免尤局中不都合之義も可聞候間当分之内酒井繁之丞屋敷へ相越理非分明いたし候以上慎罷在帰り候」という申渡書が筆写されている。この文中にはさらに、石井鉄之丞、田島哉弥等5人の小頭役に対しても、「其方共山田一郎其外世話役共同志の毛の深存込(中略)願之通小頭役差免」とある。
この事件に関係すると思われる「新徴組山田岩城木村出奔一件」なる史料が、小山松勝一郎著『新徴組』の巻末に、「清河八郎記念館所蔵」とあるため、同館に問い合わせたが、現在所蔵されていないとの回答であった。山田の書簡内容等とやや異なるが、『新徴組』に、この史料を参考にしたと思われる事件の顛末が記されている。それによると、新徴組士佐久間権蔵を親の敵とする水戸藩士の13歳の遺児が、新徴組屋敷を訪れ、佐久間の門前払いを求めたという。これに同情した山田たちが、藩当局に佐久間の門前払いを求め、それが容れられなければ世話役や小頭を辞任する、と主張したというのである。山田たち世話役3人は、それが原因で7月24日に庄内藩中屋敷に預けられたが、翌月4日の夕刻3人は脱走し、小頭5人も同月11日、願の通り永の暇を賜ったとある。
山田の書簡に、「いささか斬奸の嫌疑にて」禁固されたとあったが、書簡の別の箇所にも、「野生なども昨年交易人斬殺かたがた幕府の嫌疑に立行きがたきところ」云々とある。「嫌疑」とあり、事実の詳細は不明だが、安井息軒の書簡にも「(山田は)人も五六人位は殺し」とあることから、当時そうした風聞も流布していたのである。もっとも、そのことが謹慎処分の原因でなかったらしいことは、既記のとおりである。なお、山田の書簡には、「幕府に於いて赤心相つらぬき候義も及びかね」云々ともあり、攘夷を素志とする山田にとって、幕府が朝廷に攘夷断行を約しながら、生麦事件に対する多額の賠償金を英国に支払うなど、攘夷の意志のないことが露呈したことへの不満が、この事件の根底にあったと推定される。
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新徴組脱走後について、先の山田の書簡に、「水国御軍師山国喜八郎今兵部先生相談の上、同志之者廿人引纏メ罷下(中略)水国厄介ヲ得」云々とある。山国喜八郎(兵部)は水戸藩の軍学の大家で、当時江戸詰の目付役であった。これによれば、山田は山国兵部の同意のもとに同志と共に水戸入りすることになったのである。山田は山国兵部と既知の仲であったのか、それとも、共に新徴組を脱した水戸浪士を介して山国と相談したのかは定かでない。
水戸街道府中宿(茨城県石岡市)の妓楼紀州屋の娘(当時18歳)の回想談等を纏めた、山口誠太郎著『筑波義軍旗揚の前後』(以後「府中古老談」という)に、山田一郎一行が府中に乗り込んできたのは、文久3年10月半ば頃、一行は18人であったとある。その時の服装は片肌脱いで、襦袢には異人の首を斬る絵が描かれていて、腰には長い刀を差していたという。また、その後間もなくこの地を訪れた藤田小四郎に会ったともある。
この点について『筑波騒動実歴談』には、「江戸の攘夷家の中山安太郎、山田一郎の両人が、同志の士六、七人とともに水戸へ参る途中、藤田の同処(府中)に滞在するを伝聞し訪ねて」来たとあり、同じ薄井竜之の「江東夜話」には、その時期を「慥か十二月初旬と記憶」していると記されている。そしてさらに、『筑波騒動実歴談』には、「中山らの一行は江戸へ引き返し(中略)二月にいたり江戸より山田一郎が前約を履み、同志十余名を引連れて府中へ参って加盟した」とある。『故老実歴水戸史談』にある岩谷信成(薄井竜之)の口話にも、ほぼ同様の話がある。後に記された天狗党関係の著書は、すべてこの薄井の話を前提にしているが、前記山田の書簡の内容とも矛盾し、薄井の話には種々納得し難いものがある。また、薄井の話に出てくる中山安太郎についても、その人物像を明らかにしえない。
山田の書簡には、「野生小川駅天聖寺寓居ニ而外有志七拾人ニ及候(中略)正月元旦水戸野生寓居出発両野州へ有故徘徊(中略)同月十九日水戸へ相戻」とあり、藤田小四郎等二十一人の名が記されている。水戸入り後の山田は、小川郷校(茨城県小美玉市)近くの天聖寺を本拠とし、正月早々同志糾合のため野州や上州の地へ、手分けして出掛けたのである。山田はこの頃、阿部震斎と名乗っていたという。ちなみに、「住谷信順日記」の1月6日の条に、「藤田小四郎、三橋金四郎、山口庄次郎等上州辺江出張トゾ」とある。
「壬生藩天狗党応接関係吟味書」(『栃木県史資料編』・以下「壬生藩吟味書」という)の、壬生藩士増田鋳太郎の供述に、「去(文久四年)正月上旬、川連虎一郎より寸四郎方へ手紙参候ニ付、同人一人綿屋錦之助方へ罷越、出会仕候処、山田一郎、藤田小四郎も罷越居面会仕候云々」とある。川連虎一郎とは、関宿藩領真弓村の大庄屋で、天狗党に参加後、関宿藩佐幕派によって斬殺された人である。寸四郎とは、壬生藩の尊王攘夷派鎌田寸四郎基豊で、探索方として水戸浪士に接触していた。綿屋とは壬生城下の旅宿。この「壬生藩吟味書」には、山田と藤田を「只今は浪人中ニても頭分之者故云々」とあり、山田は元治元年の1月には藤田小四郎と共に、頭分として挙兵のための準備に奔走していたのである。
山田が水戸へ戻った1月9日以後について、山田の書簡に、「山口正二郎、猿田愿蔵、野生三人ニ而水戸城下江出発、山口猿田両氏者直々東都山国先生へ秘密有之出発、野生は於武田耕雲斎先生其外同志中相談ニ而五六日滞留」云々とある。山田は武田耕雲斎(水戸藩執政)とも面識があったらしい。武田と面会の結果は、「幕府江奉勧攘夷候様可被成若シ幕府応シ不申候ハハ水国一手ヲ以夷虜洒攘可被成様申談」じたところ、「武田太夫モ不得止事」と述べたと記されている。なお、「住谷信順日記」によれば、2月5日に田中(猿田)愿蔵が、またその翌日に山口正二郎が在府中の住谷を訪ねており、山田の書簡内容の事実であることの一端が傍証できる。
山田の書簡はさらに、その後「日光野州周旋探索、小川駅迄藤田小四郎同行、同人者直々東都行、何レモ来ル中に十二日、十三日筑波エ集会」云々と記されている。当初は、2月12、3日の決起を予定していたのだろうか。なお、宇都宮藩尊攘派の重臣懸信緝(通称は勇記・中老職)の手記(『栃木県史資料編』)に、2月中に藩士から聞いたとして、「水戸表正義家弥発奮、公儀ニて攘夷御決断無之候ハハ、水戸ニて手初いたし、神祖之御恩召并前中納言様之御恩召を貫き、徳川家之恥辱を雪可申と決心之者多人数出来、右ニ付てハ日光山へ依関八州御譜代大名へ正義を以説得いたし、公辺之御為合力攘夷之儀申勧候方ニ弥内決」云々とある。これを知ったのは、多分2月初旬と思われるが、当時の浪士たちの様子が的確に把握されている。また、山田の書簡にあった、山田が武田耕雲斎に掛け合った話の内容とも一致している。
天狗党は筑波、日光、大平山と転々とし、当初から明確な戦略に欠けていたとされる。先の岩谷信成の口話にも、筑波挙兵直後のこととして、「もし幕府がせめて来たなら、此の小勢では六ツかしい、日光へ立こもって居れば幕府も攻る事が出来ないから、日光へ移ろう」ということになったとある。しかし、これは明らかに誤っている。先の『懸信緝手記』でも明らかだが、3月28日付、水戸藩奥右筆照沼平三郎の報告書(『波山記事』)にも、「前日の説に(中略)日光山へ楯籠候との事の由」と記されている。幕府の手の出せない日光山占拠は、早くから決まっていたのである。
山田の書簡に、「日光野州探索周旋」に出掛けたとあったが、「府中古老談」にも、山田一郎一派は府中と「小川の天聖寺との間を往復する外、一週間、十日と留守にするのが常であった。多くは野州地方の遊説らしかった。筑波へ立籠る前も二十日間ばかり宿を留守にして日光方面を遊説し」云々とある。また、『下野勤皇烈士傅』には、「日光並びに大平山を調べることに決し、尾州の人山田一郎は僧侶に変装し、信義(壬生藩尊攘派太田源三郎)は其従者に擬して出発、詳細な地図を製して帰った」とある。日光山占拠は山田の発案だったのかも知れない。なお、山田を「尾州の人」としているが、『波山記事』にも「喜連川出生にも唱相馬より相出候浪人とも唱山田一郎と名乗」とあるから、時によりその生地を偽っていのかも知れない。
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先の「府中古老談」には、さらに続きがある。それは、山田一派は府中で「相当手荒いことをやった」が、その一つは文久3年12月の高橋友泰殺害事件であったという。直接手を下したのは山田配下の天野準次や田島哉弥等であったとある。この真偽はともかく、これには裏話があって、事件の前日の夜、紀州屋の2階で浪士たちが揮毫などをやっていた際、「山田一郎はなかなか書が上手で、特に彼は口に筆をくわえて豪放な字をかく芸当を得意とした」が、これを高橋が「大道でやって見せたら金儲けになる」等と冷笑したため、これも原因の一つだったのではないかとしている。もっともこの事件はついては、坂井四郎兵衛著『水戸見聞実記』に、「府中古老談」とは異なる次のような事実が記されている。
「十二月新治郡府中(原注・今の石岡)に於いて水戸医師高橋友泰殺害に遭へり。這は同人
義一旦激派へ組せしに何缺秘密の事を泄したりとて、口留の為小川館の者にて切り殺し
、捨札の面へは此者儀久木直次郎へ同意し、金作を働き人民を驚かし候に付天誅を加ふ
と記したる由」
もう一つの逸話は、挙兵直前の3月15日の元穀屋伝七殺害事件である。この事件については「元治元年甲子記録」(『石岡市史資料編』)にも、「伝七成者糸綿ヲ売買スルヲ以テ(中略)小川村天聖寺ニ宿居スル新徴組之浪士山田一郎、此徒三、四人伝七宅ヘ乱入シ彼ガ首ヲ刎(中略)是頗ル糸綿ヲ横浜送リ諸人之困苦ヲ知ラルヲ以テ如是と云」とある。この後に始まる、軍資調達を円滑にするための見せしめ的な蛮行であったらしい。なお、「府中古老談」に、2つの事件には「勿論山田自身は手を下さなかったが、こうした手荒い仕事は彼一派の手で引き受けるのであった」とある。
山田一郎たちは3月27日、水戸藩町奉行田丸稲之右衛門を総帥として筑波山に挙兵した。「元治元年甲子記録」には、これより前の23日「山田一郎其後之者三十余波山に登る」とある。挙兵準備のためだったのだろうか。「南梁年録」(『茨城県史料』幕末編Ⅲ)収載の「日光勢存意書取」にある名簿には、山田の役職について、遊軍総括、使番、さらに調練奉行ともあり、藤田小四郎作成とされる「行軍録」には使番とあって一定しない。資料により軍師使番兼、使番兼調練奉行等ともある。また、『波山記事』収載の「探索書」には、「山田一郎(原注・年齢三十才余サンギリ髪)藤田小四郎等は瀬尾伴右衛門方へ止宿」云々とあり、「南梁年録」にも「右(山田)は大平山の浪士頭取の由也」とある。先の安井息軒の書簡にも、「頭取は山田一郎、猪俣小六」と記されている。猪俣小六は藤田小四郎の変名だが、当時山田一郎がどのような立場にあったかが明瞭である。
この後、山田一郎による軍資の調達が本格化する。このことに関して『筑波騒動実歴談』に、「軍資が乏しくては何もせぬから、その金作掛りというのを設けて、山田一郎があたることになった。これより山田は筑波近傍にて富豪の聞こえある家々へ召喚状を発し、日を期して筑波へ喚びあつめた云々」とある。
山田の軍資調達に関しては、「筑波山騒擾大略調」(『波山始末』)に、「筑波山江集り、七八里四方へ山田一郎名印之差紙(中略)殊之外大金策立候」とある。また『続徳川実紀』に記される旗本日下数馬の届出書には、「隊長山田一郎と申者近郷所々目撰之上呼出し、日々軍用金之由申付」とか、真壁郡酒寄村の百姓が筑波山へ呼び付けられ、山田一郎から、軍用金が不足なので、「是ヨリ(村方へ)出向借用可致筈に候得共右ニテハ女童共恐惑可致察入候間是迄差控候」と脅して、「各方力之可及丈借用」したいとの要請があり、即刻金子を取り揃えて持参したところ、山田から「意趣厚挨拶イタシ久兵衛、吉兵衛ハ少々酒代呉候」云々とある。
また、「甲子見聞録」(『下妻市史料』)に記された事実を要約すると、筑波町役人から下妻町の物持ち3人に即刻筑波へ罷越すよう差紙があり、翌朝代理人3人と差添役人が出頭すると、山田一郎から「其方共遠方大義」と労いの言葉があった。そして、筑波へ呼び出したのは、その方たちの家々へ押掛けたのでは迷惑が掛かること、横浜開港以来「追々穀物ハ高値ニ相成既ニ凶年ニ而も有之候ハバ、渇命ニも相成事眼前」である、ついては我々が身命を掛けて横浜征伐の先駆けをするので、「其替リ其方共弐枚着る着物も壱枚着て情々金子用立呉様申」、それが迷惑なら、「其方共存意可申出候」ようにと言うので、一度村へ戻って相談したいと言うと、山田は声を荒げて「(村方へ)人数拾人も差向候抔ト申威」すので、結局1人100両ずつ払うことになったという。そして、うち1人が「色々なげき弐拾金差戻し」て貰ったとある。
こうした際の強要は必要悪であろうが、山田のそれは、決して非情な強奪とばかりはいえないものがあった。この点について、井坂敦著『常陸小川稽医館と天狗党』では、「山田一郎が軍用金徴収に用いた要領は、相手の弱点をよくとらえ、おだやかな交渉のなかにきついものをもっていた」と指摘している。
なお、懸信緝は軍資調達に関して、その筆記「愁思録」に、田中愿蔵等の所業は別であるとの前提で、「世俗ハ大平筑波ノ士ヲシテ逆賊悪徒トナス者多シ、我ハ逆悪ノ賊トハ思ハザルナリ、仁ヲ成シ、国難ニ殉シテ皇国ノ生気ヲ挽回シ、大恥辱ヲ一洗セント志之者ナレバナリ、此大義ニ立テバ有徳ノ者ニ金銀ヲ出サスルコトナド極メテ小罪」であると記している。尊王攘夷の志を同じくする縣信緝らしい思念である。
4月3日、準備の整った浪士たち(以下「筑波勢」という)は、この日下山した。小山朝弘(春山)著『常野戦争誌略』に、「筑波ニハ山田一郎等数人ヲ留守セシメ」とある。しかし、『波山記事』収載の「水戸様家中書簡抄」には、「山田一郎之手并小川潮来之内猪俣ト山田ヘ属シ候モノ共出立、山田江緋羅紗之陣羽織着用為致」とあり、『小山市史資料編』収載の「天狗騒動につき魚継問屋廻状」(以下「魚継問屋廻状」という)には、「右大将たるものは山田市郎、田丸稲(之)右衛門其外四五人も大将分もの共出立、人数凡そ百四、五拾人」とある。この日一行は小栗宿に宿営した。
翌4日は石橋宿泊り。「水戸藩一件写し」(『皇国形勢聞書』)に、この日年寄半蔵方に宿を取った山田について、「山田市郎様、木村久之丞様其外何れも白胴着ニて袴を懸割羽織野袴着用」云々とある。木村久之丞とは、山田と共に新徴組を脱走した人で、浪士組では乱暴者取抑役を勤めた。姫路浪人という。
この日の石橋宿本陣問屋の届出書(『筑波記事』)に、「山田一郎者茶代其外左ニ」として、「金貳百匹宿主人エ一同壹歩勝手遣之者、年寄多左衛門、善左衛門両人機嫌聞ニ参候処、人馬配り方談有之金壹歩山田一郎殿ヨリ直々呉遣申候」とある。山田のこうした配慮は、その人柄もさることながら、ある意図があったのではないかと推定される。これは後にふれたい。
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「壬生藩吟味書」によれば、筑波勢は石橋から壬生通りを日光へ進む予定であったが、鎌田寸四郎が山田一郎に嘆願して進路を変更してもらったという。鎌田は同志に、「其節山田一郎と申者之世話に相成候間、馬具を貸し不遣候ては不相成候」ため、至急馬具を石橋宿に届けるよう要請、その晩遅く同志が馬具を届けると、「総髪之男罷出候、此者は山田一郎と申者之由、同人より寸四郎へ申聞面会仕品物」を渡したという。なお、この鎌田寸四郎は、この後、藩内の政変により脱藩の罪で藩当局に拘束され、獄中獄吏の刀を奪って自刃したという。鎌田は、同志増田鋳太郎に、「死するまでハ城を捨不申」(「壬生藩吟味書」)と語るほどの誠忠の士であった。
5日、筑波勢は宇都宮に入った。『波山記事』に、「山田一郎主頭ニ而拾三人同所宿屋手塚屋五郎兵衛宅ニ罷在」とある。筑波勢は、勤王藩として知られる宇都宮藩に挙兵への協力を要請したが、談判は不調に終わった。この時応接に出たのが懸信緝であった。得ることなく宇都宮で丸2日を費やした筑波勢は、7日に日光へ向けて出発、翌8日に今市宿に到着した。しかし、この時すでに、日光奉行は領内猟師等約800人(『日光市史』)を動員すると共に、日光守衛役の宇都宮、館林両藩に警備強化を指示し、8日には幕府が近隣諸藩に対して、日光警備のための動員令を発していた。
筑波勢は日光山の占拠を断念し、懸信緝の仲介により、10人1組での日光廟参拝にとどまった。「懸信緝日記」(『栃木県史』資料編)の9日の条に、「藤田小四郎、山田一郎等弐十人登山、此日危難を免る」とある。「危難」云々について「懸信緝手記」(『栃木県史』資料編)には、「水戸人本陣へ勇記殿御出之節、戸田次郎外五六人申合、勇記殿を刺候謀策有之、右を山田一郎と申者察し、常に勇記殿側を不離罷在候故、不能発して止候よし」とある。戸田次郎(弾正・村樫易王丸)は、斉藤弥九郎等に剣を学んだ宇都宮藩天狗党の首領で、過激な言動から藩を追放され、懸信緝に含むところがあったのである。その戸田次郎等から、山田がなぜ懸信緝を守ったのかは定かでない。戸田は、後に礒浜の戦いで戦死した。
筑波勢は、11日今市を発し、鹿沼を経て翌日金崎宿に入り、ここに14日まで留まった。日光廟へ参詣する例幣使一行の通行をやり過ごすためであった。『波山記事』に、例幣使一行が、栃木宿本陣で休息中、割羽織小袴着用の6人の浪士が旅宿清蔵方に入り、「壹人ハ山田一郎ト申者ニ而本陣ヘ相出多ニ人数最寄ヘ参集致居り候ニ付、一同日光表ヘ御供致度旨相願候、断ニ相成候」ため、山田一郎は浪士たちの待つ旅宿へ引き上げたとある。山田には、例幣使一行に随従して日光山に入り、そのまま占拠しようとする意図があったらしい。
稲葉誠太郎著『天狗党栃木宿焼打事件』に収載の「波多野日記」に、例幣使一行が合戦場宿に宿泊の夜、「浪士方大将ハ山田市郎甲冑ヲ着同勢鉄砲ニテ御本陣前御固ノ前ヲブラリブラリと夜中ニ通行様子伺ケル」云々とある。著者は、文中に「白木ノ長持紋は二ツ巴目ハ有之由、古宿ゟ継来リ候、山田市郎の紋也ト云」とあることに着目し、これは山田ではなく、田中愿蔵であると断じてよいであろう、としている。指摘通りで、山田家の墓石によれば、その家紋は五三桐である。山田一郎に関する風聞の頼りなさの一例である。
14日、筑波勢は滞陣のため大平山に登った。大平山宿営を大平山連祥院に交渉したのは、山田一郎と小林幸八(水戸藩属吏・後に横浜で斬首)であった。連祥院から幕府寺社奉行への届出書(『続徳川実紀』)に、「十四日水戸様御家中山田一郎殿、木村(小林)幸八殿と申仁」が来て、「拙者共重役義当山江志願有之祈祷相願度段申付候罷出候、夫に付迷惑ながら一泊相願候」とのことで、断ったが断れきれなかったとある。なお、「浪人大平山権現参拝之節宿割」(『波山記事』)には、「軍師使番兼山田一郎外拾五人余、右之者栃木町止宿当時水戸表へ罷越居候」とあるが、「甲子見聞録」には、「四月十四日山田一郎義は又々筑波山戻リ金策仕候」とある。山田は連祥院に宿営を折衝した後、直ちに山を降りたのである。その後の様子からも、山田が大平山に滞在した様子はない。
6
山田一郎は筑波には赴かなかったのだろうか、同じ14日の「懸信緝日記」に、「今宿へ宿す、此夜山田一郎願彦根差留之事承知候事」とある。「彦根差留之事」が何を意味するかは定かでない。当時彦根藩井伊家は、野州安蘇郡に佐野等15村の所領があり、佐野陣屋から例幣使一行への護衛兵も出ていた。これまで、筑波勢(山田一郎)が彦根藩領の村々で軍資の強談をした形跡はない。これは、水戸浪士による井伊大老襲殺の過去の経緯もあって、無用な摩擦を避けようとしたのではないかと思われる。
なお別件だが、後に懸信緝が藩当局に提出した「御届出書」(小林友雄著『勤皇烈士懸六石の研究』)に、「山田一郎嘆願之義ニ付、美濃部、山国エ書面差遣候処、平山之徒憤之、騒立候故(中略)美濃部外壹人取鎮候為」云々とある。この件について、『史料宇都宮藩史』に、「山田一郎ハ大平山之幹部之一人ナリ(中略)頗ル才物ナレバ専ラ四方ニ出テテ軍資ノ募集ヲ担当シタリ、今同人嘆願ノ儀ト云フハ即本藩ニ向テ資金ノ寄贈ヲ請求シタルナルべシ」とあるが、これは誤りである。
このことは、「懸信緝手記」に、「十四日例幣使御用人田中内匠ニ面会之節館士嘆願之様子有之、此後帰路心配之由ニ付」、当時江戸の小石川藩邸から派遣されていた鎮撫使の美濃部又五郎等へ、この旨の書簡を送ったところ、「館士一同で勅使へ御無礼不申段盟置候処、猶狐疑を抱候条武士道有之間敷儀」と憤ったというのである。なお、山田一郎が例幣使への随従を嘆願した13日夜、輔翼の斉藤佐治右衛門と藤田小四郎が合戦場宿の例幣使の宿所を訪れ、同行を求めていた(『茨城県史料』幕末編Ⅲ収載「常野集」)。こうした度重なる浪士たちの動きに、例幣使一行は戦々恐々としていたのである。
4月16日付けで、山田一郎、小林幸八等3人の名で栃木宿で出した人馬継立書(「常野集」)に、16日小山泊り、17日下館泊り、18日筑波着と記されている。先の「魚継問屋廻状」にも、「山田一郎其外馬三疋、結城町江戸屋中飯にて下館町へ継立」等とある。日程が一日遅れたのだろうか、『波山記事』収載の「風説写」に、「松平大炊頭家来之由、小幡友七郎、大高忠兵衛外三人、是者去十七日江戸方ヨリ早駕籠ニ而相越、小山宿山田一郎旅宿ヘ落合、直ニ栃木宿ヘ立越候」云々とある。石川若狭守家来の届出書(「常野集」)にも、17日のこととして「駕籠貳挺参着一郎旅宿相尋候」等とある。なお、栃木宿には、当時鎮撫使の美濃部や山国一行が滞在していた。
「栗橋関所御用留」(『埼玉県史料叢書』)で、17日小幡友七郎一行が早駕籠で関所を通過し、同月21日一行上下5人が「日光より江戸屋敷迄早駕籠ニ而」通ったことが確認できる。山田を訪ねた小幡友七郎とは、宍戸藩主松平大炊頭頼徳の近習頭で、後に主君頼徳の死を悲憤して自刃した人である。小幡友七郎は、恐らく主君頼徳の命を受け、筑波勢の領内引き上げの説得に奔走していたのではないかと思われる。
瀬谷義彦著『水戸藩郷校の史的研究』によれば、水戸藩校弘道館助教石河明善の日記の文久4年1月27日の条に、「水戸藩の支封宍戸藩当局が小川郷校に拠るいわゆる小川勢に籾を贈ったこと、それは南部藩浪人で天狗党に加わった山田一郎の斡旋らしいこと、を記している」とあるから、山田は宍戸藩主の知遇を得ると共に、尊攘派の小幡とも知己の仲だったのかも知れない。小幡は目的達成のため、まず最初に山田一郎を訪ねた可能性がある。
19日、山田は筑波の町役人を介して近郷の物持ちを呼び付け、軍資金提供を要請している。井上伊予守家来の届出書(「常野集」)にも、やはり山田が金を届けた者に、「別金を以金五両紙ニ包利兵衛、孫左衛門江酒代として遣候」云々とあり、また別の届出書にも、即刻金子を取揃えて山田一郎に届けると、山田は「忝旨丁寧ニ挨拶被及(中略)少々ツツの酒代呉候間貰受引取候」と記されている。山田が態々筑波に赴いて軍資調達を行っていることに注目する必要がある。
その同じ19日、館林藩士塩谷良翰が、探索方々藤田小四郎に会うために大平山に登っている。『塩谷良翰懐古録』に、大平山登山の際、「山田一郎は人物の由に付、承り候処筑波表へ越し居候」との返答があったと記されている。山田一郎の人物であることは、周辺諸藩の有志たちにも聞こえていたのである。
7
大平山籠山後20日余りを経た5月6日、筑波勢の補翼斉藤佐治右衛門が大平山を脱走した。「水輜重府室町氏筆記」(『維新史料編纂』)に、「斉藤左次衛門甫翼之処、法列を乱し、一同より議論大に有、脱走す」とある。この頃、大平山内で内紛が起きていたらしく、5月9日付の井上伊予守家来の届出書(「常野集」)に、「大平山内悉く仲間割れ致し候哉、大揺之由」云々とある。斉藤佐治右衛門脱走の翌7日には、鎮撫使の山国兵部等も、「夕刻より俄ニ支度、昨八日出達致し」江戸へ帰ったとある。下妻藩主井上伊予守は大平山内に間諜でも入れていたのか、情報把握が迅速で、詳細である。筆者の推測だが、鎮撫吏山国兵部は、筑波勢に水戸領内への撤退を求めていたというから、山田一郎はこれと同意見で、山田に同調する人たちも加わり大平山内で諤々の論争があったのではないだろうか。あるいは、斎藤佐治右衛門も山田と同じ意見だったのかも知れない。
井上伊予守家来の先の幕府への届出書には、さらに、「山田一郎儀は此程小山宿ニ罷り居、何歟謀合之義有之候哉、江戸表ヘ自訴致し候趣之由ニ付、当方より薩摩藩林藤蔵練兵方ニ駕籠ニ而罷越候由、不相用候哉最早出立之由承知仕候」とある。この届出書により、山田の筑波勢からの脱隊は、5月9日以前であったこと、また通説のように、山田はこそこそと逃げ出したのではなく、藤田等に事前に周知の上(薩摩脱藩士林藤蔵の説得にも応ぜず)、堂々と筑波勢から離脱したことが明らかである。その筑波勢離脱の理由は、藤田小四郎たちとの上記水戸領内引き上(他領内での軍資調達に反対も含め)げに対する意見の相違であったと思われるが、このことは後に再びふれる。
「波山等騒擾大略調」には、「金策ヲ相立候内山田一郎ト申者は自分組之者七八人引連五月十日筑波を出立、御府内江罷出自訴致シ候風聞」云々とある。山田等は小山宿から筑波を経て府中に赴いたらしい。なお、山田と共に脱隊した者は10人余とする資料もある。
「府中古老談」に、「山田が隊を離れるときには府中の紀州屋へ行くと言って出たのであるが、その通り彼は紀州屋に来たのであった。(中略) 彼等は何処へともなく姿を消してしまった」とある。そして、それから10日程して筑波(勢ヵ)から尋ねの使いが来たが、筑波では鎧櫃の中の軍資金が不足していたことから山田等の脱走に気付いたとある。しかし、この話は一部先の井上伊予守家来の届出書等とも矛盾している。
「府中古老談」には、山田の筑波勢離脱に絡んだ逸話がもう一つ載っている。それは、脱走者の1人川野健之助は、行方郡延方村(茨城県潮来市)の人で、父親を志筑藩の者に殺され、親の敵を討つため紀州屋おかみの仲介で山田一郎の養子分になっていたという。「山田は義理堅いので脱走のとき川野を連れて行き、江戸に行ってからは川野の後事を中山信安に依頼し、川野の手当金として金千両を渡したのである」とある。山田が川野の後事を託したという中山信安とは、後の茨城県権令で、緒方洪庵に蘭学を学んだ開明的な幕臣である。当時は新徴組支配定役を勤めていた。その中山信安が、千両もの不浄な金を受け取ったというのは果たしてどうか。中山が気節の士であったことを示す逸話が、長谷川伸の『私眼抄』にあるが、それを読む限り「府中古老談」の話は信じがたい。
山田一郎は4人の配下(剣法の弟子とも)と共に、5月14日、勘定奉行木村甲斐守の役宅に自訴した。『水戸藩史料』中の「槙野紀聞」に、「願書持参自訴致候」とあるが、残念ながらこの願書は確認できていない。定めてそこには、幕府による奉勅攘夷に関する訴願の一項目があったことだろう。
『波山記事』によれば、取調役の勘定奉行所留役斉藤辰吉等に対し山田は、「私儀皇国之御為攘夷先鋒相勤度(中略)武備用意之為金子才覚仕儀等も有之候、私欲之御取調にて、御討手被差向候哉ニ奉伺候而者、何共恐入微志も貫兼候、不及是非候間御大法に被所度」と述べたという。「私欲之御取調にて云々」とあるから、いうまでもなく、これは取調役斉藤辰吉の尋問に対する山田の陳述内容である。
山田はさらに吟味役の斉藤辰吉等に対して、「外ニ同志之者も御座候得共、右者私壹人之罪に帰し候間、外之者共は寛大之御吟味に被成下度」と訴えたが、他の四人もまた、「一郎壹人にて御咎被仰付候ては無拠、畢竟私共同罪之事に御座候間、御刑法奉仰候」と申し立てたというのである。揃いも揃ってなんと道義に厚い、士道の鑑とさえいえる態度である。
山田一郎と固い信頼関係で結ばれていた4人のうち、田島哉弥は山田と同じ浪士組帰府前参加の新徴組士(小頭兼剣術教授方)で、山田に同調して脱隊した上州浪人、この時山田より1歳年上の29歳。天野準次は旗本松平鷹吉元家来で、この時27歳。佐藤継助は南部藩領野田村(岩手県野田町)の人で、父は鉄山を経営する素封家。玄武館千葉道場で北辰一刀流を学び、渋沢栄一等の横浜焼打ち計画に関与後に水戸に入った。当時24歳。渡辺欽吾は、常陸国行方郡若海村(茨城県行方市)の修験三光院の子で、文久3年藩主徳川慶篤上洛の後を追って上府し、攘夷実行のため新徴組に入った。当時19歳であった。
山田一郎等の脱隊と自訴の理由については、「水戸道中筋探索書写」(『波山記事』)に、「南部浪人山田一郎ト申者党類江加ハリ居、一体利発之者ニ付、筑波山ニ籠居候浪人之頭分ト相成居候処、逐々変心之気顕レ中間之者共ニ可被及殺害様子ニ付、雑用之タメ貯置候金子ヲ持脱シ、剣法之弟子之由ニテ、外ニ四人一郎供ニ密に出立、公儀御役所江自訴ニ被及」とあるが、この探索書には種々疑問がある。まず、殺害を恐れて自訴するなど、士道に悖ること甚だしく、自訴後の山田たちの出処進退からもあり得ないだろう。また、殺害を恐れての脱走なら、死を覚悟で幕府に自訴する必要などなく、逃亡すればすむことである。さらに、文中「密に」とあるが、先の井上伊予守家来の届出書とも明らかに矛盾する。
また、「金子ヲ持脱シ」とある点については、『甲子雑録』収載の「五月廿二日出東都来簡」に、「(山田は)四人召具し、金四千両を持て出奔し」とあり、「塚本勇範日記」(『筑波町史料』)にも、「山田一郎(中略)金千両余持て筑波ヲ立」云々とある。また、『真岡市史近世資料編』収載の「天狗討伐につき真岡陣屋鉄炮方出兵手控」なる資料には、「右之者(山田)金計壱万両所持いたし居り候よし、御噂有之」とある。しかし、いずれも風聞である。
多くの同志が共に脱隊した以上、逃走費用等も必要であり、山田たちが、何がしかの金を持ち出したことは疑いないだろう。しかし、筑波騒動で厳戒体制下にあった街道筋を、多額の金を無事に江戸まで持ち込むことができたとも思えない。また、筑波勢にとって重大事であるにも関わらず、薄井竜之(岩谷信成)が、このことに一切言及していない。なお、後に山田の身柄を預かった白河藩阿部越前守家来の報告書(「常野集」)には、山田の所持金は、「金貳百三拾四両貳歩」と記されている。
ちなみに、山田等の脱隊自訴の理由について、『近世日本国民史』は、「彼が筑波義徒の同志より、其の態度を疑われた為めであったかも知れない」としているが、金沢春友著『藤田小四郎』にいたっては、「山田一郎の場合は、集めた義軍の金を、何万両となく、自ら之を懐中にして(中略)糾弾の声が内外から起こって、遂にかういふ、哀れな結論になった」ようである、と記している。また横瀬夜雨著『天狗騒ぎ』では、「(幕府へ)一万両を献じて罪をあがなをうとしたといわれる」とまで書いている。いずれも言葉を濁しているが、吉村昭の『天狗争乱』では、「(軍資金を)着服しているのではないか、と疑われているのに気づき、身の危険を感じて抜け出たのである」と断定している。いずれも「山田一郎は許されざる悪人である」という強い思い込みが前提にあると思われる。
引用が長くなるが、関山豊正著『元治元年』では「幕府追討軍が怖くなったらしい、山田は開戦以前に脱走したのである」等とある。幕府が筑波勢追討を決定するのは翌月のことであるが、いずれも、山田一郎の人物像からはとても想像し難いことである。なお、この『元治元年』では、「田中愿蔵、山田一郎らは、その過激派(攘夷倒幕)の代表的存在である」と断定しているが、筆者は、山田一郎には倒幕の思念など一切なかったと推測している。
8
山田等の自訴の理由で注目されるのは、幕府の目付杉浦兵庫頭梅潭の日記(『杉浦梅潭目付日記』)である。その5月16日の条に、「大平山屯集浪士之内、山田一郎初拾人程、新宿江止宿、右始末内密御聞糺し之処、大平山屯集之内、近郷ニ而金子掠取候抔、如何之所業致し、右は水戸殿江対し恐入候儀ニ付、山田一郎初銘々一身に引受其筋江自訴致候由」とある。これこそ先の井上伊予守家来の届出書と共に、山田たちの自訴の真相を伝えるものではないかと思われる。
山田にとって、尊王攘夷の聖地と敬慕する水戸藩の名誉失墜は、あってはならないことだったのだろう。そのため、水戸藩士でない山田が、庶民から最も厭われる軍資調達を一手に引受けたのではないか。その上で、私欲のためでないことを明らかにするため筑波町役人を介し、資金提供者には相応の配慮をする等、庶民からの反発を最小限に止めようとしたのだろう。『杉浦梅潭目付日記』に、「水戸殿江対し恐入候儀」とあったこと。また、壬生藩士鎌田寸四郎が同志増田鋳太郎に語った、「山田一郎も水戸藩と名乗申候、如何ニモ自家主為ニは徹心仕居候」(「壬生藩吟味書」)の言葉でも、山田一郎の水戸家への思いが窺える。
また、「杉浦梅譚目付日記」に記される山田一郎の供述に、「大平山屯集之内、近郷ニ而金子掠取抔」云々とあったが、山田たち一派が常陸、下総の地以外で軍資金の調達を行った形跡はないことは前にも述べた。従ってこれは、山田一郎一派以外の行った軍資調達のことを言っていると思われる。
大平山登山後の筑波勢は、「有志が沢山集まり来って七百人ばかりにもなって、金がまたまた入用」(「岩谷信成口話」)になり、山田の意に反して軍資の調達手段の方針転換があったと推定される。事実、5月以降、上州伊勢崎や太田方面に浪士を派遣しての軍資調達が行われており、山田等の脱隊後の5月10日頃からは、さらに大規模で強硬な軍資調達が開始されている。なお、『波山記事』収載の「宇都宮書翰抄」には、「(筑波勢が宇都宮出立後も)田中愿蔵其外当所ニ残居り金銭懸合』云々とあり、田中や千葉小太郎等の一派は早くから強談を始めていたのである。また、人数の増加と共に無頼の徒も増加し、「少々人馬(の手配に)差支候ても鉄扇并鞭ヲ以打擲、又は斬殺抔と刀ヲ抜振廻」(『小山市史資料編』収載「石ノ上村願書」)等の狼藉も頻発するようになっていた。
前にも記したが、山田はこうした事態を憂慮し、藤田等に、水戸家を貶める軍資調達方針の撤回を求めたが受け容れられなかったのではないか。已む無く、山田は身を挺してこれを留まらせるため、これまでの凡ての罪を「一身に引受其筋江自訴」することを藤田等に周知の上で脱隊、自訴したものと推測される。山田や藤田たちが身命を賭して事に当たっていたことは、彼等が大平山から老中板倉勝静に呈上した願書に、「攘夷ノ令ヲ布キ叡慮御奉シ被遊候御事業天下ニ相顕レ候ハハ、我々共如何ナル重科被仰付候共聊御恨不申上候」、とあることでも明らかである。現代文明に毒されてしまった我々には、理解しえない心事であると思われるが。
なお、挙兵直前での日光の探索や、例幣使に随従しての日光入山交渉など、山田が日光占拠に拘っていたことは明らかである。それゆえ山田は、日光占拠断念の時点で挙兵の失敗を判断した可能性がある。そのまま他領に留まれば、幕府追討軍との戦いは必定であり、そうなっては水戸家に対しても恐れ入ることである。山田は山国兵部等鎮撫使の説諭どおり、常陸国内へ引き上げての再起を主張していたのではないかと思われる。
自訴後の山田たちについては、『藤岡屋日記』に、「同日(十四日)江戸宿伏見屋重兵衛宅江御預ケ、翌十五日御呼出、一ト通吟味之上、山田一郎ハ阿部越前守江御預ケ、其余揚屋入被仰付候処、十八日尚御呼出上、何れも元主人江御預ケ被仰付候」とある。4人が預けられた元主人とは、田島哉弥が旗本加藤寅之助、佐藤継助が南部藩主南部美濃守、天野準次が旗本松平鷹吉、渡辺欽吾が水戸藩主徳川慶篤である。その後、渡辺欽吾が同年9月15日、佐藤継助が同年12月11日に処刑されている。他の2人の末路は不明だが、当時の状況から処刑されたことは間違いないと思われる。
山田一郎を引き取りに出向いた白河藩主阿部越前守家臣の報告書(白河藩阿部家史料『公余録』)に、「右御預人(山田一郎)ザンギリ美男ニ而当子廿七之由、衣類等絹布、人体宜敷弁舌等至而静ニ而取廻し落付、通例之人々ニは無之様子也、但出生南部之ものとの事」とある。いかにも、山田一郎の人品人柄を彷彿とさせるものがある。
白河藩阿部家史料『公余録』によれば、6月23日、山田一郎は上州小幡藩松平摂津守家来へ預け替えとなっている。その後、山田一郎は小塚原の刑場で斬首されたのである。小塚原回向院の過去帳に、「死罪者、十二月六日亡、覚心信士、山田一郎、市郎」とあるという。すでに自訴の際、泰然自若として「通例之人々ニは無之様子」だった山田一郎である。「覚心信士」の法名からも、心静かに刑に服したことが察せられる。
藤田小四郎等のように贈位の恩典もなく、汚名を一身に引き受けて死んだ山田一郎の墓石は、郷里山田町龍昌寺の暗い樹林のなかにある。法名を「俊然義貫清居士」と刻まれた墓誌には、なぜか、「元治甲子年十一月十日没、俗名横田嘉郁、行年二十八歳」とある。
※本稿は『歴史研究』第660号「特別招待席」に掲載したものに一部補筆修正を加えています。
元岩手放送社長故大田俊穂氏の著書『南部維新記』に、水戸天狗党の乱に関係した南部藩士は山田一郎、佐藤継助、蛇口安太郎の3人であったと記されている。しかし、管見ながらこれまでに筆者が確認した南部藩士(元も含め)はこの3人を含めた5人である。参考までに、僅かながら山田一郎以外の4人に関する筆者が知る事実を以下に記しておくこととする。なお、手元の蔵書や資料で確認できた事実だけであることを付言しておきます。
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佐藤継助
山田一郎と共に筑波挙兵当初から天狗党に参加したと思われる佐藤継助については、太田俊穂氏の『南部維新記』以外に、同氏の『維新の血書』、『血の維新史の影に』、『最後の南部藩士』等で取り上げられている。それらによると、佐藤継助は天保12年(1841)、盛岡藩領九戸郡野田村で鉄山を経営する素封家佐藤儀助の長男として生まれた。父儀助は藩の鉄奉行をつとめ、士分に取り立てられていた。佐藤家は野田地方きっての名家で、継助の死後は弟がその家を継ぎ、維新後には村長などをつとめたという。ちなみに、太田俊穂氏は、この弟の孫謙次郎と中学の同級生で、この人から継助に関する資料も見せてもらったという。※『角川日本姓氏歴史人物大辞典』第3巻岩手県には、「父宇助は野田通宇部代官所(久慈市)の下役小田弓助の四男で、同村の屋号「酒屋」の当主となった。長兄継弥の長男はのちに国会議員となった小田為綱」とある。
継助は少年時代から俊敏の誉が高く、城下で剣と学問を学び、19歳の時に江戸藩邸詰を命じられ、千葉玄武館道場で北辰一刀流を修めた。継助は在府中志士たちと交わるうちに尊攘思想を懐抱するようになり、万延元年(1860)の夏脱藩して藩邸から姿を消したという。なお、『歴史読本』平成14年2月号に掲載された「史実のなかの吉村貫一郎」(筆者失念)に、後に新選組隊士となった南部藩士吉村貫一郎は、元治元年2月に玄武館道場に入ったが、「この時期、玄武館道場で前年6月から修行を積んでいた同藩の佐藤継助が、1月25日に聞き届けられた常州への修行を名目として出掛けたまま帰らないでいた」ため、入門早々の吉村が同門の蛇口安太郎と共に継助を連れ戻すよう藩命を受けた。しかし、吉村と蛇口の2人は目的を達することはできず、継助は5月11日付けで出奔とみなされたとある。
これは盛岡藩の武道名鑑「忌辰録」を根拠にしたというが、文中には、佐藤継助は「田中愿蔵の配下にいた、那珂湊の激戦後に江戸へ逃れた云々」とあるなど、事実とは異なることも記されている。また、同じ太田俊穂氏の『最後の南部藩士』等によると、継助は「坂下事件の関係者として追われることとなり、名を奥麟之介と変えていた」とある。しかし、これも何を典拠としたかは不明で、澤本猛虎著『阪下義挙録』や『大橋訥庵傅』、大橋訥庵の書簡類を調べたが、佐藤継助らしき人物の名を見出すことはできなかった。
文久3年(1863),渋沢栄一らによる横浜焼打ち計画に、継助は玄武館塾頭真田範之助らと共に参加している。渋沢栄一述『雨夜譚』に、「この徒党中の重立った人々は、(中略)千葉の塾で懇意になった真田範之助、佐藤継助、竹内練太郎、横川勇太郎、海保の塾生で中村三平などで云々」とある。この挙兵計画は栄一とその義兄尾高惇忠、渋沢喜作の3人で計画し、その年8月頃に11月23日を挙兵の日と決定したが、10月末には中止となっている。10月19日付けで江戸から栄一と喜作が郷里の尾高惇忠に宛てた手紙に、「真田外三四輩抔も、殊之外大奮然、期限迄之無事を苦居候様子、依而約し候通、前後不残発足に相成候、尤も真田は明廿一日に相成可申候、何れ下旬迄郷里辺迄参着相成候」と記されている。佐藤継助たちは10日19日以前に江戸を出立して、武州下手計村近辺へ向かったが、徒労に終わったのである。
佐藤継助はその後、「府内を点々としているうちに同じ南部出身の志士山田一郎と偶然合った。(中略)佐藤と山田は常州石岡へ向かい、藤田の誘いで筑波山の挙兵に参加した」(『維新の血書』)というが、山田と継助が「偶然合った」という点は、おそらく太田俊穂氏の推測だろう。2人の出会いついては特定できない、というのが事実と思われる。佐藤継助のその後については、山田一郎と行動を共にしているので省略する。なお、『歴史読本』昭和50年4月号「ずいひつ」欄に、太田俊穂氏の「『草莽志士』の原型」と題する一文があり、その中に文久2年秋とする、継助が郷里の父儀助に宛てた手紙文が紹介されているので、参考までにその一部を以下に転載させていただく。
「衆説には安藤対馬守御閉門にて文庫に封印相付し候由。多分半地改易申渡されるとの事。(中略)京都にても大分勢よく外異(夷)打払の公論相見え候間、遠からず、相い始め申す可く候。(中略)打払いに相成り候はば乱を好むものにては決して之無く、一日も太平を楽しみ度きものに候得ども外異(夷)渡来によっては上は一天万乗の君の御心を悩まし奉らず、下は万民のために患を払い候事に候。(中略)天下英雄の士、死を争いて朝恩に報ずべく候。腰折一言詠じ申候。
えみしらを払う時しも来つるかな、やがて皇国の花や咲くらん」
(2)蛇口安太郎
ア、蛇口安太郎(諱義明、通称安太郎、号無及庵)は、天保10年3月1日、盛岡城下花屋町の農民久保田弥七の長男として生まれた。太田俊穂著『南部維新記』に、安太郎の生まれた下花屋町は北郊の寺町に近く、安太郎の家は農業の副業として、墓参に訪れる人々のための花を栽培し、表通りに小さな花売の店を開いていたとある。また、安太郎は学問や剣法に熱心だったため、父弥七は安太郎を貧乏侍の蛇口家へ持参付きで養子に出したという。
下級侍ながら盛岡藩士となった安太郎は、経史を藩儒遠藤幹斎に、また剣法を新当流師範村上分右衛門に学び、18歳の年には村上道場の師範代をつとめるまでになった(『岩手県人名辞典』等)というから、剣技には天びんの才能があったのだろう。文久元年には江戸へ藩費留学を命ぜられ、千葉玄武館道場に入門した。『南部維新記』によると、その後1年ほどして帰国し、しばらく家庭教師などをして「蛇口先生」と慕われ、その頃には剣術も師の村上分右衛門を打ち負かすほどだったという。
安太郎はその後再び江戸へ出ている。元治元年2月に玄武館に入門した盛岡藩士吉村貫一郎と蛇口が、吉村の入門早々に出奔した佐藤継助を連れ戻しに常州に出向いた、と「歴史のなかの吉村貫一郎」(『歴史読本』)にあることは上記「佐藤継助」でふれた。また、既に前稿26に記したが(下記『栗橋関所史料』)、同年4月12日には筑波勢の鎮撫吏水戸藩士立原朴次郎一行に蛇口が真田範之助たちと共に従い、日光街道栗橋宿を通過して栃木宿に至っていること。また、その1ヶ月後の5月12日には再び立原一行の一員として栗橋宿を通過して江戸に戻っている。翌6月2日には、宇都宮藩重臣の縣信緝が玄武館道場を訪れると、そこに立原朴次郎や真田範之助たちと共に蛇口がいたことは、下記『縣信緝日記』で明らかだが、その後の蛇口がどのような行動を取ったのかは判然としない。
立原朴次郎はその後、水戸藩主の目代宍戸藩主松平頼徳の水戸領内鎮撫のための下向に従って8月4日江戸を出立している。頼徳邸に滞在していた真田範之助はその前日、同志50余名と鹿島、大船津方面に向けて松平邸を後にしている(筑波勢とは行動は共にしていない)が、一行の中に蛇口がいたか否かは不明である。「明志録」(下記 )に、水戸藩徒目付石川義路たちが上府途中の小幡宿(水戸街道を水戸を発して長岡の次の宿駅)で、8月23日に蛇口安太郎、海後差幾之助ら3人と出会ったと記されているが、なぜ安之助がそこにいたのかも不明である。
蛇口安之助と同道していた海後差幾之介とは、桜田門外で井伊大老を襲撃した18人の内の生き残り海後嵯磯之介宗親だと思われる。諸著には、海後は松平頼徳に従っていた水戸藩執政榊原新左衞門に属して那珂湊等で戦ったとある。松平頼徳や榊原新左衞門一行は、水戸城を占拠する諸生派(水戸藩俗論党)に入城を拒まれて戦いとなり、この8月12日には那珂湊に入って改めて入城を図ろうとしていた。「明志録」には、安太郎たちを「何レモ暴兵ナリ」とあるので、石川義路たちは安太郎たちを筑波勢の一党と見做していたらしい。それが事実かどうかは定かでないが、安太郎と海後嵯磯之介とはその後別行動を取ったのだろうか。その後海後は榊原新左衛門に従って幕軍に投降し(「南梁年録」収載の堀田相模守預けとなった榊原新左衛門以下464名の中に海後の名は見当たらない)、明治の世を生きたという。一方の安太郎は、翌月非業の最期を遂げている。そのことについては、下記関山豊山著『元治元年』に詳しいのでここでは省略する。
イ、上飯坂直美著『盛岡名人忌辰録』中の[龍谷寺]項目内に「蛇口義明、安太郎ト称ス、元治元年九月三十日、安眞見義居士、大正五年建碑」と。また[新当流師範、上村武右衛門]項目内に「新当流高弟嘉村権太郎、新当流高弟蛇口安太郎」と。
ウ、「栗橋関所史料・御用留」(『埼玉県史料叢書』15)に
・元治元年4月12日条、「水戸殿徒頭立原朴二郎・水戸殿士分、村上左馬介・真田範之助・高橋渡人・山本祐太郎・左良平助・石川熊武・蛇口安太郎・中村松太郎・鬼川三郎・大貫信三・竹内廉太郎・横川祐太郎・佐藤斎司・丹羽新蔵・以下三人(中略)右者御関所江断ハ為鎮静野州宇都宮宿迄罷越候由申立候(以下略)
・同年5月12日条、「水戸殿内立原朴次郎上下五人・其外真田範之助・蛇口安太郎・高橋渡人・佐藤才次郎・村松太郎宇都宮出立ニ而通行(以下略)
ヱ、宇都宮藩士縣信緝の日記(『栃木県史』資料編近世七)に
・元治元年5月17日条に千葉道三郎家ニ至リ、立原朴二郎へ面会、竹内廉太郎・真田半之助・蛇口安太郎へ面会」
・同年6月2日条「立原朴二郎・蛇口安太郎来、小栗徳三郎来、沢田五郎兵衛来」
オ、水戸藩徒目付石川義路(東之助)の体験記・見聞録である「明志録」(『茨城県立歴史館史料叢書16)に
・元治元年8月23日一行48名と水戸から上府の途次「小幡ノ松並ヘ懸レハ三人ノ兵出逢ケル、一人ハ蛇口某(原注・千葉道三郎門弟ニテ南部侯ノ藩ノヨシ、余モ玄武館(中略)ニテ屡面会セリ)、一人ハ海後差幾之介、一人ハそれがし、何レモ暴兵ナリ、大森出逢ヒ先ツ目白侯(松平頼徳)ハ如何ト問ヘハ、皆ナ西ノ(筑波勢の斥候西恒之介)言イシ如シ、(中略)民兵等諸方ヨリ鉄砲ヲ打チ候ヘハ御用心アレトテ、是モ別レテ行キ過キケル
カ、関山豊山著『元治元年-波山分離隊の最期-』に
「盛岡藩士蛇口安太郎は、水戸藩の内紛事情を調査に派遣されたというが、天狗党に共鳴し行動を共にしていた(出典不明)。たまたま馬場の徳蔵寺に身をひそめていた所を捕らえられ、農兵の首領に尋問されることになった。しばらく河岸の仁平氏に預けられていたが、最後は六万坂で処刑になった。こんな談話が残っている。身長六尺剣道は山岡鉄舟より一段と古老は語っている。又最初に蛇口の挙動に不信を抱き捕縛したのが、小川の山田屋太兵衛と玉川の二人と伝えられている。後天聖寺に葬られたが、今は無縁仏に等しい状態にある。墓碑に「盛岡藩士贈従五位蛇口安太郎君之墓」と刻まれてある。(以下略) 」 ※六万坂処刑場跡は現小美玉市小川の地にあり、蛇口安太郎の墓の位置と矛盾がない。しかし、安太郎の最期については次のような異説がある。
『角川日本姓氏歴史人物大辞典』には安太郎「の最期について、那珂湊で壮烈な戦死を遂げた」と。また、『贈位諸賢傅』には「(竹内)棟の弟哲次郎等数人と鹿島に赴く、途上幕軍の攻囲を脱し、那珂港に奔り筑波党に合す、九月晦日、奮戦傷を負ふて死す」とある。大日本国民中学会編『贈位功臣言行録』にも、蛇口の最後は那珂湊戦で、幕府の軍艦からの砲撃により戦死したとあるという。
キ、著者も著名も不明の手元コピーに
「9月の初小川館(水戸藩郷校)が棚倉藩に攻められた時、大部分の浪士は鉾田方面に逃亡したが、蛇口は徳蔵寺に残っていて農兵に逮捕された。しばらく河岸町の仁平神官宅に預けられていて、9月30日六万坂で斬首刑になった。首は水戸へ送られたというが、遺体は刑場付近の山に埋葬されていた。蛇口家文書に『明治3年庚午5月2日藩公の命を奉じ、上田茂善昭に蛇口安太郎の霊を告ぐ。汝方天下至難の際大義を唱え、身を以て之に殉ず。吾その忠節を善くして而して遺体の原野に留まるを憐れみ、有志をして常の東明山(天聖寺)の東南の地に葬せしむ』とある」云々と。
ク、『波山始末』に、「仝(9月)九日武州野田村平民熊太郎、仝城の内村新十郎、奥州南部盛岡平民蛇口安太郎、仝飯田村山之丞、常州那珂郡静村平民勝之助、(3人略)常州吉田原に於て斬罪梟首せらる」 ※常州吉田原の刑場(吉田村境橋行刑場跡)は、現水戸市元吉田の地にあり、小美玉市小川の天聖寺にある墓との関係から疑問がある。
ケ、小美玉市小川の天聖寺の墓石、及び盛岡市名須川町の碑石には、没年が「元治元年九月三十日」と刻まれている。『小川町史』上巻(茨城県小美玉市)によると、大正4年11月、安太郎に従五位の追贈があったのを機に、安太郎の縁戚久保田弥一郎が来町し、安太郎の墓碑建設と改葬を行ったという。明治3年にも改葬が行われたことは上記ケにあるが、その際に儒者加古治教撰文による次のような誌石が刻まれたという(原漢文)。なお、郷里盛岡の菩提寺曹洞宗虎嶽山竜谷寺(盛岡市名須川町)の参道にも安太郎の碑石が立っているという。
「君通称は安太郎、陸中盛岡藩也。心尊攘の大義に凝り、元治元年甲子九月三十日身を以て之に殉ず。年二十有五。旧君善く其れ忠節、故に今有司をして此の地に改葬せしむ。実に明治三年庚午五月二日也。(中略)常州小川村水戸城下より七里向天聖寺境内に儒葬祭也。」、末尾に「水戸より出役、宮本主馬之介、佐川辰五郎、川又堂之介」と。
(3)寺田末次
ア、『茨城県資料・維新編』所収「己巳公文録石岡藩之部<癸丑以来国事関係之事跡調>」中に
南部浪人 寺田末吉(次) 子二十三歳
下総栗橋 田原新八郎 子二十歳
常州小岩戸村百姓民次伜
勇崎泰助 子三十六歳
以上三人幕府関東取締出役木村□蔵口上書取之同九月十五日支配書常州石岡
泉町杉並木ニおいて打首ニ相成申候云々
イ、『殉難録稿』巻二十三の「駿州田中藩士中村一智(太郎)」の文中に
元治元年、松平頼徳水戸騒動鎮撫のため、かしこに出張する由を聞き、一智慨然として意を決し、正気消えて三綱滅す。是我輩の死ぬべき秋なりとて、其友寺田末次、下田武敏等と昼夜兼行してかけつけしに、頼徳は既に水戸領に入り、其道筋に新関を構へ、往来の武士を機察する事厳密なりければ、やがて姿を変へ、昼伏し夜行き、十余日を経て、漸く常陸小川に馳付き、藤田信等がむれに加はり、那珂湊辺にて合戦す。間もなく軍敗れ、鹿島まで落ち行き、幕兵并に棚倉の兵に取囲まれしを、(略)麻生の陣屋近辺にて、(略)遂に此にて捕られ云々。
(4)下田三次(武敏) ※上記(3)中『殉難録稿』に名あり
ア、『波山始末』に「(元治元年9月)十一日、聖堂教授方芳野秀一郎、奥州盛岡下田三次、筑後人池尻嶽五郎、常州小牧村小池星助、同石谷村周平、下総結城千抜佐助、同清吉、同岩吉、常州行方郡玉造にて捕獲せらる」
ウ、『水戸藩史料』に
「鉾田より西南行方地方に出でたる浪士は前後幕軍の為めに道路を遮断され芳野芳
六郎(略)下田三治(盛岡の人)池尻嶽五郎(久留米藩士)大貫信三、小牧星助、千抜佐助等は九月十一日玉造村に於て土兵の為めに捕われ云々」
ヱ、『小川町史・上巻』(現茨城県小美玉市)に、「九月十一日、盛岡浪人下田三次外六名玉造にて斬首」
(5)その他
ア、『筑波戦争記』(日本史籍協会叢書別編29)中「九月七日着水戸浪士征伐軍記」に「筑波山浪人」として、「小川館、百人頭、南部浪人、長谷川佐右衞門」とあるが。
イ、『波山始末』に「仝(9月)九日、武州野田村平民熊太郎、仝城の内村新十郎、奥州南部盛岡平民蛇口安太郎、仝飯田村山之丞、(中略)常州茨城郡吉田原に於て斬罪梟首せらる」とあるが、「仝飯田村山之丞」とある飯田村という村名は確認できない。