3 【北有馬太郎の四人の弟たち】

1 「八木家系図」に見る弟たち
 中村貞太郎(北有馬太郎の本名・括弧内は以後も筆者の注記)の家族に関しては、「喜多谷中村家系図」と、貞太郎の母の実家八木家の「八木家系図」で知ることができる。しかし、2つの系図には若干の相違があり、「喜多谷中村家系図」は明治の後年に整理されたらしいため、ここでは「八木家系図」を主に見ることとする。なお、「八木家系図」に貞太郎の家族が記された理由は、当該系図に、「是は中村の血統なれども寬平(貞太郎の父)家跡、当時□□断絶し、故あってその妻の親里にあるを以てしばらくその成行きを記す」、と注記されている。

 この「八木家系図」には、貞太郎の父は中村寬平義正、母は八木家五代八木與一兵衛正明と、その妻湯口村庄屋菅嘉惣治娘の子と記されている。ちなみに、「中村家系図」を見ると、貞太郎の父は中村家八代中村源平重孝、母は山崎八六3女とある。なお、千葉県成田市飯岡の永福寺にある貞太郎の父の墓には、俗名が「中村寬平正行」と刻まれている。

 「八木家系図」によれば、中村寬平義正夫婦には子供が11人あり、長男が「貞太郎、江戸に赴き遊学安井先生の聟と成り声名高かりし云々」とある。次いで、次男「意次、京師に在り」、長女「女、伊福村医小田少進妻」、3男「直人、京師に赴く」、次女「女、右同断(京師に赴く)云々」、3女「女、右同断(京師に赴く)、4女「女、原口貫之妻」、4男「四郎、京師に赴く」(貞太郎の日記にある重威と推定される)、5男「五郎、江戸に赴く」(貞太郎の日記の重蔵と推定される)、5女「女、早世」、6女「女」、と記されている。貞太郎には、意次以下4人の弟があったのである。

 参考までに「喜多谷中村家系図」に記される貞太郎の弟妹を見ると、右側より順に、「長女(一字名あるも不明)、夫小田少進、伊福村」、「次女ミツ、夫原口貫之、島原城下」、「三女マキセ、夫八木新一郎」、「四郎、京都にき消息を断つ」、「五郎、江戸に行き消息を断つ」、「貞太郎、江戸に行き消息を断つ」、「国次、京都に行き消息を断つ」とある。総計7名で、「八木家系図」にあった3男直人は記されていない。なお、これらの記述内容から、「八木家系図」に貞太郎家族が挿入されてのは、貞太郎の横死以前であったと推定される。

2 次弟中村主計重義(1)
中村貞太郎の次弟重義は、「八木家系図」に「意次」とあった人である。『修補殉難録稿』に、「中村重義は、通称を主計といい」とある。兄貞太郎の日記にも、「重義」という名で出てくる。「中村主計小傳」(『野史台維新史料叢書13』)や『補修殉難録稿』に記述はないものの、『幕末維新人名事典』は、重義の生年を弘化2年(1845)としている。これでは、文政10年(1827)生まれの兄貞太郎とは、20年近い齢の開きがあったことになる。他の弟妹たちの人数を勘案すれば、その誤りであることは言うまでもない。

 重義の年齢については、兄貞太郎の日記の弘化4年11月15日の条に、「直人加元服」とあるので、この時3男直人が15歳であったと推定すれば、直人は天保4年(1833)の生まれだったことになる(若干の相違はあっても、ほぼこの頃の生まれと思われる)。とすれば、直人の兄主計の生まれは、弘化2年ではなく、天保2年(頃)の誤りではないかと思われる。この推測が正しければ、長兄貞太郎とは、4歳の年の差があったことになる。

 重義の幼少期等については、一切伝えられていない。そこで、兄貞太郎の日記等から、重義に関する幾つかの事実を拾ってみる。天保4年(月日の記載なし)の貞太郎の日記に、「甫七歳。従父移南久留米。」とある。親族間との確執がその原因で、貞太郎は父と共に郷里を離れ、久留米に移住したのである(拙稿「北有馬太郎と二人の尊王家」参照)。この時、母と幼い弟妹は北有馬の地か、母の実家八木家に留まっていたらしいので、幼い重義は父と行動を共にすることはなかったろう。その後、貞太郎が久留米天保学連同志の期待を背負い、天保15年7月、在府の藩主に藩政改革の建白書を託されて久留米を発足した際、父母共に久留米にいたことが確認できる。この頃は家族全員が、久留米で暮らしていたらしい。

 弘化4年5月2日の日記には、「此日家父挈家(族欠ヵ)泛筑江南行。留者独森三郎君及重義・重威而已。」とある。この日以後、母と妹及び五郎たちは、母の実家の八木家で暮らすことになったのだろう。そして、その翌年(嘉永元年)3月18日の日記に、「雨中八木次郎及弟重義(直人)東赴浪華。」とある。八木次郎は従兄で、名を貞郷といった人である。なお、『久留米同郷会誌』収載の貞太郎の日記には、「重義」に(直人)と括弧書きがあるが、これは久留米郷土研究会の注記の誤りである。

同年5月には、父寬平と貞太郎も上京のために久留米を去っている。2人が京都に至った日(6月1日)の日記に、「黃昏前重義及米次郎(八木次郎ヵ)至。乃携二子造藤澤翁(泊園)家宿焉。」とある。重義たちは当時大阪(藤澤家ヵ)に寄宿していたのかも知れない。
 以下、貞太郎の日記の重義に関する記事を記すと、同年9月19日「弟重義移寓野黄門家(野宮定祥)。」、翌嘉永2年2月17日「次郎発京。家父送至大仏。予及重義送至伏見。」、従兄八木次郎が、脚疾のため郷里に帰ったのである。同年8月28日、「申刻送舎弟到四条小橋。」、そして翌9月1日には、「昧爽舎弟帰自浪華。此夜到野宮到。」とある。重義は大阪に野宮卿の使いをしたのだろうか。この当時、兄貞太郎は梨木町で家塾を開き、父寬平は田中河内介の家に寄寓していた。

 翌嘉永3年3月、貞太郎は京都に父と重義を残し、独り江戸に向かった。後に旗本久貝因幡守の屋敷に招かれ、家臣やその子弟たちの教導に当たることとなる。貞太郎の漢詩集の「別弟重義帰京師」と題す詩の詞書に、「重義以十月廿一日同楠本正容東下来寓予僑舎留三十七日附士逸西帰」とある。士逸とは福田士逸で大村藩士、楠本正容については不詳。
貞太郎の日記には、この年10月21日「弟重義来。日暮楠本正容来。」とあり、翌月18日「與衣笠及重義見。琉球謝恩使見。過八洲林氏(林大学頭)。」、同月27日「福田士逸及重義西帰。送者数人。至品川飲武州楼。未牌去二子云々。」、と記されている。愛弟重義との別離に際して詠んだ「別弟重義帰京師」と題する詩もある。
   阿弟遠来辛苦同 夜寒共被四句中 吾家多難何時定 泣別山川西与東
兄貞太郎の日記や漢詩集に、これ以後重義の名は見いだせない。

3 次弟中村主計重義(2)
 『修補殉難録稿』の中村主計の条に、兄貞太郎が「幕吏に捕えられ、獄中に殺されぬ。重義此頃筑後に在りてこれを聞き大に憤り、慨然としてなす所あらんと、京都に上り、田中綏猷方にたよりて諸藩の志士に交を結ぶ」、と記されている。『日本人名大事典』や『明治維新人名辞典』等にも同様の記事がある。しかし、その誤りであることは言うまでもない。なお、兄貞太郎の獄死は、文久元年(1861)のことである。

 重義が江戸の兄貞太郎を訪ね、京都に戻った後の様子は殆ど不明である。史料としては、『中山忠能履歴資料』に、嘉永5年9月1日付けの次のような一文が確認できるだけである。
   非常御立退之節は御輿脇御先共非常附御使番相勤候事輿丁は澤村方に而用意
申付置候事
                           吉川 文吾 
                           中村 主計
                           藤田  縫
    右は非常之節早々出勤可仕申渡す。
 中山忠能は、兄貞太郎と共に重義が義兄弟の契を結んだ田中河内介が仕えていた公家である。先の野宮定祥卿家への寄寓がいつまで続いたのかは不明だが、この頃、重義は田中河内介の家に起居していたのかも知れない。

 なお、兄貞太郎の子安井小太郎が後年、「祖父寬平は、かねて京都の中山大納言の家来の田中河内介といふ人と親しかった。その縁か、残る子供をつれて、祖父は京都の東山に住し、瀬戸物を子供達に焼かせていました。」(『大東文化』第17号)、と語っている。父寬平がかねて田中河内介と親しかったとする点については疑問だが、『王政復古義挙録』にも、「太郎、主計ともに河内介の義弟たるべき約を結びし人とぞ。主計は陶器の巧ありて五条坂あたりにて其事を営み世を渡利居て云々。」とあるので、陶業に従事していたことは事実らしい。真偽のほどは定かでないが、重義は清水焼の窯元の娘と良い仲になり、その娘との間に女児まで生まれたという逸話もある。

 余談だが、『宮和田光胤一代記』の中に、「大原御側御用人となり光胤知己人粟田口之陶器師ニテ岸本丹山此度ハ岸本丹後と名乗り云々」、と記した一節がある(『共同研究明治維新』)。
文久2年、勅使大原重徳に従って下向した岸本丹後も、陶器師だったのである。主計が陶芸で生計を立てていたとしても不思議はない。

 豊田小太郎はその著『田中河内介』に、安政3年の田中河内介の九州遊歴について、「彼が先づ島原にいった理由は明かでない。島原は北有馬の故郷ではあるが、ただその縁故ばかりで往ったものとは思われぬ。恐らく何か深い考へがあってのことであろう。」とある。この田中河内介の島原遊歴については、すでに拙稿「北有馬太郎と二人の勤王家」で、その理由と弟重義がこれに同行していたことを明らかにした。重複するが、2人の九州遊歴を次に略記すると。

 安政2年冬、島原に渡った河内介と重義は、中村家一族との確執問題について強硬な談判に及んだ(これは、穏便な解決を望んでいた貞太郎を困惑させた)。河内介と重義の2人はその後、島原の古城を探訪するなどした後、久留米に真木和泉守を尋ねて面会を求めたが、真木は謹慎中で会うことはできなかった。2人は、安政3年6月になって京都に戻った。

 帰京後の重義の動向は不明である。兄貞太郎が獄死した翌文久2年、重義は田中河内介や真木和泉守らが画策した京都挙兵計画に参加した。薩摩の島津久光の卒兵上洛に呼応しようとしたこの計画は、久光による有馬新七ら過激派薩摩藩士の上意討ち(寺田屋事件)で挫折した。田中河内介とその子差摩介らは、薩摩に護送される途中の船上で斬殺され、その遺骸は海に投棄されたという。別船で護送された中村重義と、その同志千葉郁太郎(河内介甥)、海門宮内(秋月藩藩士)の3人も、河内介父子同様、日向国細田島で慘殺されてしまったのである。

3人の無残な死について『王政復古義挙録』には、「宮門、郁太郎、主計の三人は細嶋にて殺されたる由にて細嶋に三人の死骸あり其内壱人は木綿にて腹巻し其木綿に筑前秋月藩海門直求と記しありて、大なる樹に縊り付けられ居たりしとぞ。」とある。時に主計重義は32歳(天保2年生れと推定で)であった。
長兄貞太郎と次兄重義の相次ぐ死を、残された母や弟妹たちはどのような思いで受け止めたことだろう。2人の不名誉(当時)な横死に、母や弟妹たちは、世間の厳しい目に晒されたに違いない。

4 その他の弟たち(1)
 3男直人は、「八木家系図」に「京都に赴く」とあった人である。兄貞太郎の日記の弘化4年11月15日の条に、「直人加元服」とあったことから、その生年を天保4年と推定したことは前記した。その日記には、元服云々の同月3日の条に、「朝直人(原注・弟也)来。齎深井伯父書云々」とある以外、直人の名を見ることは一切ない。この日記にある深井伯父とは、久留米藩槍術師範深井学之進で、直人はこの当時、深井家で暮らしていたのかも知れない。

 直人については、貞太郎が安井息軒に宛てた書簡で、僅かにその人物像の一端を知ることができる。まず、安政3年9月7日付書簡には、「愚弟直人事、東行後、是又便り無之如何致居候哉、江戸表迄無滞相達候事ニ候哉、尚生死之程も無覚束候云々」とある。貞太郎は前年の春、息軒の長女須磨子と結婚し、この年の春に夫婦揃って下総飯岡村の大河家に移居していた。そして、同年の秋、病身の父を迎えるために京都に赴いていたのである。病父を伴い飯岡村に戻ったのは10月中旬であった。したがって、この書簡は京都発信のもので、それ以前に京都にいた直人は、父や兄に先立って江戸に旅立っていたらしい。

 その後、直人は貞太郎夫婦と同居している。翌4年2月27日付け貞太郎の息軒宛て書中に、「飯岡之教授直人へ為相勤候云々。」とあり、自分の代わりに弟直人に大河家での教授を任せたいとの意向が、貞太郎にはあったのである。直人が相応の学問を積んだ人であったことが窺える。なお、翌月5日付息軒の須磨子宛て書簡に、「扨太郎どのより文さしこされ、品によりてはきそへ参られ候よしに候。いよいよ左様に成候はば、そもじは直人どのと老人看病され候かは道理に候。去りながら直人どの実の兄弟の事には候へ得共、若き者二人にて長々の留守致され候事いかがとぞんじ候云々」とある。息軒の心配は杞憂となり、貞太郎の木曽福島行きは実現しなかった。

 この兄貞太郎の木曽云々のことは、家計に窮してのことであった。貞太郎の先の安井息軒宛て書簡に、その窮状が記されている。それによれば、父寬平と五郎の同居の上に、「(病身の父の)薬代十金ニ而は足申間敷」、さらに当時田中河内介家族4人が江戸への移住の準備中で、その移住資金についても捻出送金する約束があったのである。先の書中に、「金十圓才覚仕、京都へ差登セ不申候而は相成不申、其十金之儀才覚仕候得は、薬代之方当無之様相成申候故、いつれとも游歴ニ而十四五金相かせき不申候而は都合出来不申候。」とある。病父の薬代に年間10両以上、さらに田中河内介家族の江戸移住費用に10両を要し、飯岡村大河家の講筵謝金10両では、「身上差迫候」ことは当然のことであった。貞太郎はより実入りのある木曽福島への出張教授を念慮していたのである。

 この貞太郎家族の窮状について、3月4日付けで安井息軒が友人吉野金陵に宛てた書簡に、「扨北有馬儀、病親引請、経用不足ニ付、余程狼狽之様子、気之毒存候。小生救候筈候得共、地震以来物入多、殊ニ去年病気(中略)手本必死と差支、乍心外周済之訳ニ不参、可憫次第ニ御座候云々」と記して、相応の仕官の口でもあれば周旋してくれと依頼している。
 貞太郎のこの苦難は、4月21日の父寬平の死と、田中河内介の江戸移住の中止により、図らずも解決したらしい。河内介の江戸移住中止の理由については、「北有馬太郎と二人の尊王家」に記している。

 同年5月12日付け、貞太郎の息軒宛て書中には、「直人事、久貝氏引取、又々御厄介ニ相成罷在候、全不肖思案違より如此成行、後悔罷在候。いつもいつも御厄介而已相懸恐入候」とある。久貝氏とは、以前貞太郎自身が招かれた旗本久貝因幡守である。息軒の提案だったのだろうか、息軒の紹介で直人を久貝邸に寄寓させたらしい。この3男直人については後に再びふれたい。

 4男の四郎重威については、「八木家系図」に「京師に赴く」とあったが、兄貞太郎の日記には、僅かな記述しかない。弘化4年5月2日、貞太郎が真木和泉守と熊本の旅から久留米の家に帰った日のことで、「夜帰家。此日家父挈家(族欠ヵ)泛筑江南行。留者独森三郎君及重義、重威而已云々。」とある。父寬平が家族を連れて島原へ発った後の久留米に、重義と重威らが残されていたのである。翌月2日の日記には、「携弟重威登宝満山、四日帰家云々。」とある。なお、貞太郎の漢詩集の嘉永3年の項に、「中秋武城観月寄懐弟重義在京、重威在西海」と題する詩があるので、この当時、重威は島原の母のもとにいたのだろう。

 「八木家系図」に「江戸に赴く」とあった5男の五郎重蔵については、貞太郎の日記の弘化4年3月13日の条に、「携舎弟重蔵及僕磯右辞有馬薄暮達港。」とある。貞太郎は前月14日以来、島原の母や弟妹と共にあって、この日5男重蔵を伴って久留米に帰ったのである。貞太郎の日記等には、重蔵の名も、その後安政4年に至るまで確認できない。

5 その他の弟たち(2)
 安政4年正月6日付け、貞太郎の安井息軒宛て書簡に、「五郎事、実は困窮ながら責而当年一年ばかり不肖手許ニ而教育仕候心底ニ候得共、何分親元子供ぎらひに而、朝夕うるさがり申候間、相願候儀に候、行々は医ニ相仕立度由ニ候間、其辺之儀は兼而先方へ被仰通置可被下候。尚又何事も弁不申者ニ候間、別して先方之面倒相重り可申ト、夫のミ案じ罷在候。」とある。これによれば、当時重蔵は直人同様、下総飯岡の貞太郎家族のもとに同居していたらしい。貞太郎は義父息軒を介して、重蔵の教育を誰かに託そうとしていたのだ。

 重蔵の医師修行は僅かの間に過ぎなかった。同年5月27日付け貞太郎の息軒宛て書中に、「五郎事春相頼、今更引取候も余り得手勝手之相に相当り、対春桃院気之毒千万、奉対先生候而も恐入候得共、全く愚父病中邪魔ニ致候而其御地へ相願云々。」、と記されている。病父寬平は前月21日に死去していた。しかし、その父寬平の遺言で、再び重蔵を貞太郎の手許に引き取ることになったのである。その経緯は書中に、「(父寬平)死去前ニ至是非私手元ニ差置読書為致、十五歳ニ相成候ハハ医者ニ仕立呉候様申聞候間」、春桃院には誠に申し訳ないが、「愚父申候我侭ト不被思候様、御尊慮可被下候。」、と記されている。そして、更にこの同じ書中には、父寬平の死により、弟たちの運命が大きく転換しようとしている事実が記されている。その一部を左に転載する

  「今度任遺言、本家和熟之為直人事西国へ差下申候。三月頃迄は和談之儀、愚父一向ニ承引不仕候処、四月中ニ相成候而は漸ク怒りも相解、私より和談掛合候様申付候間、(中略)右ニ付直人儀彼表へ差下し、京都ニ罷在候四郎事同道下向仕、嶋原在住為致候心組ニ仕候。直人事ハ先年本家相続人ニ相立居候嫌も有之故、四郎事ニ相定申候。併未タ幼年ニ候間、直人儀後見ニ相立、一家取立候仕組ニ候。四郎事当年十四歳ニ候得は、いづれ三四年は直人後見不仕而は相叶申間敷、其上は直人事彼地永住仕とも、又は別ニ一身相立候とも、可任当人之心候。」

 親族との確執も、宗家乗っ取りという冤罪と、それに対する父寛平の怒りに起因していたらしい。なお、この件に関して、次弟重義と田中河内介が、島原に乗り込んで強硬に談判したことに、貞太郎が困惑したことは前記した。だが、その後貞太郎の意図した通りに事は運んだらしい(この事実は、拙稿「北有馬太郎と二人の勤王家」に記した)。倉田施報の「百之略傳」に、「早太君の世を早くして継嗣なく、君の弟重威君入りて其宗を継れしときけば云々」とあるから、後に四郎重威が宗家を相続したのである。なお、この書簡で、四郎重威は当時14歳(弘化4年生れ)で、京都に住んでいたことが明らかである。

 貞太郎のもとに残った五郎重蔵は、安政4年当時13歳以下であったことになる。2年後の安政6年9月、貞太郎の日記に、厳しい貞太郎の教導に耐えかねたのか、重蔵が家出をしたことが書き留められている。その事実だけを以下に転記しておこう。「三日、老婆云。五郎君以昨二日亡命。夜雨。」、「五日、之大豆戸(埼玉県鳩山町)、倩人以索五郎。午後之奥富、索五郎也。」、「六日、発使于江戸以索五郎。申後帰宿。」、「七日、索五郎者帰報云。昨日抵村岡渡及熊谷云々。」、「八日、竹翁寄書云。使江戸者帰報云、不見五郎君。」、「二十二日、有人来告五郎在岩殿(同県東松山市ヵ)。乃使久往迎。」
以後、五郎重蔵の名は確認できない。したがって、五郎重蔵がその後、亡父寬平の期待通りの医師になったかどうかは定かではない。

 父寛平と親族との確執問題に翻弄され、総領としての責任感から老父や幼い弟たちの面倒を一手に引受けた中村貞太郎であった。筆者の眼に映る中村貞太郎は、尊王攘夷の志士としての姿は朧気で、不条理な運命を背負って懸命に生きた誠実な男の姿でしかない。
なお、郷里で暮らす母や妹たちへの悲しい想いも、貞太郎の胸中を離れることはなかったらしい。漢詩集のなかにも、その想いを詠んだ詩が散見される。「対月憶郷」と題する五言律詩の詩句には、「帰心尋弟妹 愁夢属爺嬢 客意逢秋色 天涯獨断腸」とある。さらに、「憶郷」と題する安政元年に詠んだ次のような七言絶句がある。
   筑水肥山夢久空 蓬踪□跡七秋風 愧無面目帰郷里 涙落五更蛩韻中
 

【主な参考文献】
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』収載・久留米郷土研究会)
○「北有馬百之略傳」(倉田施報・東京大学史料編纂所所蔵) 
○「廣茅中村太郎先生詩稿」(内田豊吉筆写・内田清氏所蔵)
○『修補殉難録稿』(宮内省・マツノ書店) 
○『野史台維新史料叢書』(日本史籍協会編・東京大学出版会)
○『中山忠能履歴資料』(日本史籍協会編・東京大学出版会) 
○『王政復古義挙録』(小河一敏・『幕末維新史料叢書』5・新人物往来社)
○『共同研究明治維新』(思想の科学研究会・徳間書店) 
○『田中河内介』(豊田小太郎・臥龍会) 
○『安井息軒書簡集』(黒木盛幸監修・安井息軒顕彰会) 
○『[資料紹介]吉野金陵宛安井息軒書翰(芳野家所蔵)の解題と翻印』(町泉寿郎・『日本漢文学研究』第9号・二松学舎大学日本漢文教育研究推進室) 
○『大東文化』第17号(大東文化学院編輯部)