幕末維新

29 羽倉鋼三郎とその周辺

1 実父(林鶴梁・括弧内は原註とない限り筆者註)と養父(羽倉簡堂)が共に高名な幕臣の儒者で、慶応が明治と変わる直前、前橋藩兵等によって殺害された羽倉鋼三郎については資料も乏しく、これまでその生涯を追うことを断念していた。しかしその後、実父林鶴梁…

28の(2) 幕臣となった水戸郷士小室謙吉の半生

7 宇都宮藩はその年(元治元年)の11月11日に至って、懸信緝らに対して正式な罪科の申し渡しを行っている。信緝に対する申渡書には、「其方儀当四月以来大平山へ集候水藩之由浮浪之者共盡忠正議之者ト見込重立取計候自事起衆心及動揺候儀ニモ至」り不埒である…

28 幕臣となった水戸藩郷士小室謙吉の半生

1 小室謙吉という人物については、本ブログ中の「若き日の渋沢栄一の転身」や「玄武館千葉道場塾頭真田範之助」等の中でふれているが、本稿では重複をお許しいただき、筆者がこの人物について確認できた事実を記しておきたい。もっとも、小室謙吉に関する手…

27 水戸天狗党の将山田一郎敏久

[付録] 水戸天狗党の騒乱に関係した南部盛岡藩士たち 1 「誓て東照宮の遺訓を奉じ、奸邪誤国の罪を正し、醜虜外窺の侮を禦ぎ、天朝幕府の鴻恩を奉ぜんと欲す」。これは、幕府に奉勅攘夷を迫り、その先鋒たらんと常陸の名峰筑波山に挙兵した水戸天狗党の檄文…

26 玄武館千葉道場塾頭真田範之助

1 はじめに 戯曲『沓掛時次郎』や『一本刀土俵入』など、数多くの股旅物の名作を世に残した作家長谷川伸は、また一方で『日本捕虜志』や「相楽総三とその同志』など、自らが「紙の香華」、或いは「紙碑」と称した数々の史伝を残している。その史伝作品の一つ…

25 の(2) 撃剣家東寧尾高長七郎小伝

7 菊池教中に宛てた大橋訥庵の文久元年(1861)11月1日付け書中に、輪王寺宮擁立策への参加人数について訥庵が多賀谷勇を問い詰めたところ、「(多賀谷は)最初三十人位即刻相弁様」と豪語していたが、詳しく問いただしたところ「十人ハ無之」状態で、「此方ゟ強…

25 撃剣家東寧尾高長七郎小伝

1 渋沢栄一は、昭和3年(1928・括弧内は原注とない限り筆者注)11月に寛永寺で行われた尾高長七郎とその兄尾高惇忠の謝恩追悼会の席上、「お二人に対しては、私は普通の親戚以上に感じている」とか、「尾高兄弟と私とは殆ど同じ境遇で育てられた」と語っている…

24 一橋家用人中根長十郎暗殺事件について 

1 はじめに 本稿は、本ブログ前稿23に掲載の拙稿「一橋慶喜の寵臣平岡円四郎」の補足である。したがって、中根長十郎の暗殺事件に関係するとされる平岡円四郎その人を知るためにも、前稿とあわせてご高覧いただければ幸甚です。なお、本稿は『歴史研究』第69…

23 一橋慶喜の寵臣平岡円四郎

1 はじめに 武州血洗島村(埼玉県深谷市)の一介の農民に過ぎなかった渋沢栄一が、世に出る転機となったのは一橋家への仕官であった。そして、『雨夜譚』等の渋沢栄一の回顧談によれば、一橋家勤仕の際の恩人が一橋慶喜の寵臣平岡円四郎であったという。しかし…

22 渋沢栄一の関東人選御用について 

1 はじめに 本稿は、本ブログの20「若き日の渋沢栄一の転身」の続編である。 渋沢栄一と渋沢喜作が関東人選御用のために京都を出立したのは、2人の一橋家勤仕後3ヶ月も経たない元治元年(1864)5月4日のことであった。この関東人選御用については、渋沢栄一の…

21 儒者桃井可堂と慷慨組の挙兵計画について

――慷慨組と渋沢栄一らによる天朝組の挙兵計画―― 1 前稿20「若き日の渋沢栄一の転身」で、文久3年(1863・括弧内は「原注」とない限り筆者注)の渋沢栄一たちの挙兵計画については若干ふれた。しかし、同じ時期に隣村出身の儒者桃井可堂らによるもう一つの攘夷…

20 若き日の渋沢栄一の転身

1 はじめに 「日本資本主義の父」と呼ばれる偉大な渋沢栄一に、『雨夜譚』や『青淵百話』等の懐旧談がある。筆者は四半世紀以前にこれを読み、以来、過激な攘夷倒幕論者の渋沢栄一が一転将軍後見職一橋慶喜に臣従することとなった経緯に、違和感を持ち続けて…

19の(6) 神に祀られた旧幕士松岡萬  (明治6年~同24年)

24 東京府に出仕して以後の松岡萬に関しても、筆者の怠惰のためもあって、管見にしてごく僅かな資料にしか出会えていない。明治6年に関しては、先の『学海日録』に、東京府職員としての松岡の様子の一端が垣間見えるので次に引用しておくこととする。 3月3日…

19の(5) 神に祀られた旧幕士松岡萬  (明治3年~同5年)

19 静岡藩士としての松岡萬に関しては、製塩事業の外に3つの顕著な逸話が伝えられている。その一つは、蓮華寺池(静岡県藤枝市内)の所在する若王子村(藤枝市若王子)と池の水に農業用水を依存していた市部村と五十海村(何れも現藤枝市域)の干拓事業をめぐる争…

19の(4)神に祀られた旧幕士松岡萬 (明治元年9月~明治3年)

14 松岡萬の養子である運九郎の名の出た機会に、松岡の妻や子についてふれておきたい。松岡が妻を娶った経緯については、北村柳下の「松岡萬のことども」(『伝記』)に次のような逸話が記されている。なお、その時期やこの事実の典拠は明らかにされていない。…

19の(3) 神に祀られた旧幕士松岡萬(元治元年~慶応4年8月)

10 翌元治元年(1864)中の松岡萬に関して筆者の把握している資料は、水戸天狗党史料『波山始末』に記される一事だけである。そこには、「筑波勢の大平山を引揚ぐるに当り田中源(愿)蔵は一隊を率ゐ最初旧幕人松岡萬(原注・百俵小普請組)同大草瀧三郎(多喜二郎)…

19の(2) 神に祀られた旧幕士松岡萬(文久2年11月~文久3年)

6 水戸藩尊王攘夷派の領袖住谷寅之助(信順)の日記(「住谷信順日記」・東京大学史料編纂所所蔵)の文久2年11月17日の条に、「青川来る、一同間埼へ行く。夕刻高橋謙三郎(泥舟)へ行き一泊、松岡、山岡在。いつ刀被贈候事。幕府有志奸物名前取調事」と記されてい…

19の(1) 神に祀られた旧幕士松岡萬について (天保9年~文久2年7月)

1 松岡萬という人物は、静岡県内の2つの神社に神として祀られ、また、山岡鉄舟(鉄太郎)と共に浪士取締役として活躍しながらまとまった伝記もなく(幾つかの小伝はある)、その人物像も余り知られていない。そこで本稿では、筆者の把握している松岡萬に関する事…

18の(3) 知られざる水戸藩郷士大野謙介

8 謙介京に上る 文久2年5月以降で、大野謙介の姿を確認できる史料は、管見にして「住谷日記」のみである。僅かな断片記事ではあるが、その記述を追ってみよう。まず、5月11日の条に「大謙下り願不済事、圭木も下リハ六ケ敷様子也」とある。謙介の水戸下向の…

18の(2) 知られざる水戸藩郷士大野謙介

4 勝野豊作との親交 翌嘉永2年3月には、謙介の長年の艱難辛苦も報われ、徳川斉昭の藩政関与が許されることとなった。幕臣で儒者の林鶴梁(伊太郎)の日記の同年9月9日の条に、「児島恭介と有之手紙来ニ付、開封、一過之処、国元ゟ鮭一尾呈上仕度、野村ゟ申来云…

18の(1) 知られざる水戸藩郷士大野謙介

1 はじめに 水戸藩の郷士大野謙介の名を知る人は、おそらく皆無に近いだろう。その大野謙介について、水戸藩主徳川斉昭の股肱の臣藤田東湖が茅根伊予之助(為宜)に宛てた、弘化3年(1846)9月7日付け書中に次の詩詞と2首の七言絶句が記されている(高橋多一郎著…

17 忘れられた傑士勝野豊作

1 出自と人となり 薩摩藩尊王攘夷派の志士有馬新七(正義・括弧内は原注とない限り筆者注記、以下同様)の「都日記」の中に、「此は秋の半過(安政5年)八月廿九日の夜になむありける。竊に日下部氏が(中略)家に至りて宿り、水戸の殿人鮎澤伊太夫、征夷府の…

16の4 村上俊五郎について(明治13年~同34年)

13 再び『海舟日記』の中の俊五郎の姿を追うこととする。明治13年は1月1日に「滝村小太郎。村上俊の火鉢五ツ出来につき二十五円遣わす」とのみある。滝村小太郎は、徳川宗家の家夫溝口勝如の配下である。火鉢は徳川宗家からの注文だったのだろうか。火鉢一つ…

16の3 村上俊五郎について (明治2年8月―同12年)

9 小松崎古登女が村上家を去って間もなくのことだろうか、明治2年(1869)の8月、俊五郎は市中取締りを免じられ、新たに金谷原開墾方を命じられた。ちなみに、この前月には新番組(前年2月24日に精鋭隊として発足し同年9月29日新番組と改称)頭の中條金之助ら250…

16の2 村上俊五郎について (文久3年―明治2年)

5 文久2年(1862)の11月末には、幕府による大赦が、その翌月の8日には浪士召募の方針が決定した。そして、同月29日には村上俊五郎ら「虎尾の会」の同志たちが正式に赦免されている。清河八郎が仙台の桜田敬助と戸津宗之進に宛てた翌文久3年正月10日付けの書簡…

16の1 村上俊五郎について (天保3年―文久2年)

1 明治になってからの村上俊五郎は、虎尾の会や浪士組で共に活躍した石坂周造のような華々しい活躍とは真逆に、自らを「棄物」と自虐するほど堕落した半生を送った。しかし、そうした俊五郎の頽廃には、それなりの理由があったはずである。また、維新後の俊…

15の2 石坂周造について(2)

六 石坂周造は、下獄後5年近くを経た慶応4年(1868)3月15日に出獄し、かつての同志山岡鉄舟(鉄太郎)に預けられたという。その出獄は、山岡が徳川家軍事取扱勝海舟に交渉して実現したらしい。山岡鉄舟は石坂放免の前月、精鋭隊頭歩兵頭挌に任ぜられ、前将軍徳…

15の1 石坂周造について(1)

一 石坂周造に関しては、手元でも前川周治氏の『石坂周造研究』、真島節朗著『浪士石油を掘る』と松本健一著『「高級な日本人」の生き方』の中の一編「明治の石油王」が確認でき、その人物像は比較的広く知られている。そこで本稿では、主にこれらに記されて…

14の12 【中国地方以西の浪士組参加者たち】

熊本県域からの浪士組参加者たち(5名) 姓 名 年令 所属等 家族・出身地・その他参考 大内志津馬 37 7番組小頭 ●不明 ・細川越中守家来土門宇右衛門5男 ●肥後熊本産 当時播州姫路浪人 ●文久3年4月20日付池田徳太郎宛て岳父後藤亥之助の書簡中「兎角当地(…

14の11 【近畿地方の浪士組参加者たち】

兵庫県域からの浪士組参加者たち (6名) 姓 名 年令 所属等 家族・出身地・その他参考 大島一学 後に学 名・正照 38 5番組 後乱暴者取押役 ●妻1人 ・松平修理大夫高近家臣大島一学子 ●摂州西成郡三ツ谷村出生 ・当時江戸鎌倉町住居(鎌倉岸荒木堂) ●柳生心眼…