4 【旗本久貝因幡守正典について】 (北有馬太郎関係)

(本稿以下Ⅵ稿迄は、『漂白の志士-北有馬太郎の生涯』上梓に際して調べた人物の一部です。参考までに掲載しておきます。)
その一
 下総佐倉藩士の倉田施報(幽谷・後安中藩儒官)が記した「北有馬百之略傳」に、「久貝氏賓師を以て君(北有馬太郎・本名中村貞太郎)を侍し、其子弟及び家中諸子の教育を託し、公務のいとまおのれもまた諮詢する所あり。君も亦其志を感じ、教導に心を盡し、大に啓沃する所あり。」と記された一節がある。
 北有馬太郎が京都を去り、再び江戸に至って、旗本久貝因幡守正典の屋敷に招かれたのは、嘉永3年(1850)6月29日のことであった。恩師安井息軒の紹介であったと思われる。

 久貝因幡守正典は、5,500百石取りの大身旗本で、北有馬太郎の寄寓当時は大番頭の職にあった。大番は大御番とよばれ、戦時の先鋒の精兵で、平時は両番(書院番小姓組)と共に営中を守ったほか、1年交代で大阪城と二条城の警備に任じていた。12組あって、大番頭12人、大番組頭48人、大番衆600人の総勢であった。大番頭や大番組頭の屋敷は、江戸城西北の番町に集中し、城の守りとなっていて、その知行地も、江戸から20里以内に配置されていた。有事の際の食料補給の役割があったという。『寛政譜以降旗本家百科辞典』によれば、因幡守正典の屋敷は牛込加賀屋敷3,000坪のほか、拝領下屋敷が、小石川大塚9,000坪余と市谷新本町120坪等があった

 久貝因幡守は、名は甚三郎、後に仙と改めた。字は宗之、諱は正典、諏善堂と号し、養翠等の別号があった。和学者で、歌人としても広く知られた人である。木村芥舟の「幕府名士小傳」(『旧幕府』合本二)に、「(久貝正典は)身躯偉大にして才識衆に過絶す」とある。
 久貝因幡守正典は、大番士小林歌城に和歌を学び、詩学にも造詣が深かった。また、当時の文人たちを庇護したことでも知られている。萩原広道の「源氏物語評解」が出版行悩みの状態にあったのを、佐々木春夫に資を出させて刊行させるなど、文學界にも大きな業績を残したといわれる。(久貝正典とその詩については、『跡見学園国語科紀要』収載の伊藤嘉夫「久貝正典の歌と人」に詳しい。)

寛政重修諸家譜』によれば、久貝氏の祖は正勝といい、徳川家康の旗下本多平八郎に属して数々の戦陣に供奉した。三方原の役では敵の首2級を得る軍功をあげ、後に大番の組頭となった。天正15年(1587)に没し、近江国周知郡田中村の白泉寺(正勝の開基)に葬られたが、この白泉寺は、久貝氏2代正俊の時、江戸の下谷に移されている(現在は巣鴨に移転)。
 正勝の子正俊も、大阪の役で敵の首3級を挙げる等の戦功があり、元和5年(1619)には大阪町奉行に任ぜられて、采地1,500石を加増され、旧領1,500石と併せて河内国交野郡の内に3,000を領した。寛永5年(1628)には、従五位下因幡守に叙任され、所領も河内国讃良郡内に2,000石を加増されて都合5,000石を給せられるようになった。正俊を継いだ3代正世の時から甚三郎を名乗るようになったらしい。4代正方は、元禄12年(1699)に御勘定奉行となり、宝永7年(1710)には武蔵国の入間・比企両郡の内の500石を加増され、併せて5,500石を知行するようになっていた。

 久貝因幡守正典は、久貝家の11代目を継いだ人である。文化4年(1807)の生まれで、文政10年(1827)8月に寄合から火事場見廻に出仕したのを初役に、火消役(文政13年)、小普請組支配(天保6年)、小姓組番頭(同7年)、書院番頭(同9年)を経て、天保12年(1841)8月から大御番十一番の頭の任に就いていた。正典が従五位下因幡守に叙任されたのは、書院番頭となった天保9年であった。

 天保14年(32歳)には、京城守護のために初めて上洛した。翌年任満ちて江戸に戻ったが、その年の夏に愛児を喪い、翌弘化2年(1845)の秋には、最愛の妻と死別するという悲運に見舞われている。正典は悲嘆のなかで数々の歌を残しているが、「妻のみまかりける頃」と題する歌のなかに、次のようなものがある。
   在りし世のありのことごと夢にみえ現に浮ぶ昨日今日かな
   独寝の閨のひさしの妻梨にのこる果よいかになれとか

 愛する妻子に先立たれた正典の悲しみは、長く癒えることがなかったらしい。妻と愛児を喪った翌年初秋には、正典は大阪在番として再び江戸を後にしたが、この大阪在番中、正典は妻子との死別の傷心からか、生死の境をさ迷う大病に倒れてしまった。病床にあってまどろむ正典の夢に現れたのは、亡き児や亡き妻の姿ばかりで、ここでも妻子を偲ぶ数々の歌を残して、現在にその悲しみを伝えている。その内の二首を記す。
   なきがらに櫁手向けしその時の悲しかりしぞけふは恋しき
   忘れめやいまわになでし黒髪の長きわかれといひし一言
 妻子への情愛の人一倍深い正典は、独り残された悲しみと、亡き妻子たちへの愛惜の念を断ち切れずにいたらしい。歌人として名の残るほどの人なので、豊かな感性の持ち主だったのだろう。

病も癒え、大阪在番の任も満ちて江戸に戻った弘化4年秋から、再び上京する嘉永2年の間に、正典は後添えを娶り、子も生まれたが、その後添えにも先立たれ、生まれたばかりの幼い子と、3歳になる娘にも再び死に別れるという過酷な運命に翻弄されている。その亡き妻子の面影を偲んで詠んだ歌に、次のようなものがある。
   小夜ふけて燈火くらき壁しろに吾が影一つなにうつるらむ
   ちぎりおきて又も親子になるべきを生まれ来む世に面変りすな

その二
 北有馬太郎(30歳)が久貝邸に寄寓を始めたのは、嘉永3年6月29日である。この時、正典(39歳)は大阪から戻っていたのだろうか。久貝邸での貞太郎の動向を伝えるものは何もないが、唯一その日記に、「十月三日、(中略)此日午後孝経を講ず。夜韓非子を講ず。」と見えるのみである。なお、「廣茅中村太郎先生詩稿」のなかに、「歳晩賦呈久貝因州」と題した次のような七絶がある。
   何須長鋏嘆車魚 読盡主人萬巻書 代舎半年無一事 愧吾才比馮生疎
 久貝正典、膨大な蔵書を有する読書人だったのである。これより4年後の、北有馬の安政元年11月28日付け安井息軒宛て書簡に、「久貝氏之蔵書引出度思案仕候。乍去遠地(当時北有馬は武州下奥富村滞在中)へ離れ居候得は不安心ト存」じ、貸し渋るかも知れないので、「何卒先生より之御口入ヲ以引出候様ニ相願申上度候云々」とある。この書中にはさらに、「久貝氏之へは私より相談仕候心得ニ有之候。実ハ久貝氏蔵書虫ニくわせ置候事は惜敷事ニ候」、とも記されている。その結末はどうなったのだろう。

なお、当時3,000石以上の旗本であれば、家老(重役)、給人、中小姓、側用人、奥用人、納戸役、近習役、勘定方から、武芸師範役、徒士足軽、中間まで、100人以上の家来がいたというから、5,500石取りの久貝邸には、相当数の家臣がいたと思われる。これらの家来やその子弟たちへの教授の傍ら、貞太郎は自らの研鑽にも励んでいたのである。

 北有馬太郎は翌々年の閏2月、久貝邸を去り、北越の地に旅立っている。先の北有馬の漢詩集に、正典との別れに際して詠んだ、「臨別呈久貝因州」と題する次の七絶がある。
   三年奇食在君門 疎懶誤遭禮意温 微力敢能贏亥事 有心不負信陵恩
 また、翌嘉永6年の正月、貞太郎が新年の挨拶状と共に送ったと思われる「北中新年寄呈久貝因州」と題する次の詩がある。
   風光節物入新年 孤客猶留北海辺 君在浪華吾在越 両心共至武城天
 当時正典は大阪在番中だったのである。『続徳川実紀』によれば、正典はこの年9月に江戸に戻っている。それから2ヶ月後の11月中旬、北有馬太郎もまた江戸へ帰った。この年6月の米国のペリー艦隊や、ロシア艦隊の来航の報に接してのことであった。

 北有馬は北越遊歴から戻った後、再び久貝邸に寄寓することとなった。翌嘉永7年の正月5日には、川越の畏友西川練造が北有馬のもとを訪れ、その12日には、2人揃って浦賀の視察に出かけている。西川練造の娘婿の口上書に、「安政元年より同二年迄市ケ谷御旗本久貝因幡守様屋敷に、練造、北有馬太郎と申人同居随身いたし居候」、とあるというから、西川練造は、この時から北有馬と同居するようになったのかも知れない。

 なお、西川練造の久貝邸への寄寓に関して、岸伝平氏の論稿「明治維新の志士西川練造」に、「細田家は練造の実母の生家でもあり、かつて江戸遊学のとき滞在した名主役である細田家の手引で練造は久貝邸にいたものと考察される。」と記されている。しかし、練造の妻の実家でもある細田家が名主役を勤めた高麗郡下川崎村(埼玉県日高市)の領主は、久貝金八郎である(『旧旗下相知行調』)。久貝金八郎の家(900石)は、正典の祖先久貝氏2代正俊の三男正信が分家し、寛文10年(1670)に高麗郡の内に采地を賜っていた。

 西川練造の久貝邸への寄寓は、北有馬の推薦があってのことで、練造も久貝氏の家中に兵学等の教授をしたのかも知れない。北有馬はそれから半年後の6月、久貝邸を去り、武州下奥富村(埼玉県狭山市)へ移住している。憂国の至情から行った、幕閣への献策が受け入れられなかった落胆などから、地方での尊王攘夷活動を志してのことだったらしい。なお、「北有馬百之略傳」に、貞太郎は幕閣への建白と共に、「久貝氏の為に其家士に警むるの約束を草し、不慮に応ずるの策を勧む。鑿々皆條理あり、頗る採用さるると云。」とある。

これ以後、北有馬の日記に久貝正典の名を見ることはないが、安政4年5月12日付け北有馬の安井息軒宛て書中に、「直人事、久貝氏引取、又々御厄介ニ相成罷在候云々」とある。この頃、弟(三男)直人は久貝正典邸に寄寓していたのである。息軒の計らいだったのだろう。なお、直人の久貝邸への寄寓は、左程長くはなかったらしい。(「北有馬太郎と四人の弟たち」)

その三
 『続徳川実紀嘉永6年12月23日の条の、家督相続の御禮に登城した者のなかに、「大御番頭因幡守養子久貝数馬」の名がある。継嗣のなかった正典は、旗本遠山美濃守の子数馬を養子を迎えたのである。翌々年の2月には、数馬は久貝氏の通名である甚三郎を名乗り、中奥小姓に任じられている。

安政2年(1855)2月、講武所の開設に当たって、正典は総裁(定員10人)に任じられた。大番頭は兼任であった。『続徳川実紀安政3年1月の条に、御役替として「御留守過人 大御番頭久貝因幡守」とあるから、大番頭の職は免じられて留守居講武所総裁の兼帯となったのである。東京市史外篇『講武所』によれば、同年2月に講武所の職制改革があって、正典と書院番頭池田甲斐守長顕の2人が講武所用向主役と心得て勤務すべき旨を命ぜられた。同年4月には講武所の開場(4月25日)を直前にして、正典は「講武所御創建之御用相勤候拝領物」として、時服4を賜っている。

なお、『寛政譜以降旗本家百科事典』では、安政3年2月留守居安政4年10月講武所総裁兼帯とあって、講武所総裁職は一時離れ、再び復職した如く記されている。『講武所』には、正典は翌安政5年10月9日に大目付講武所総裁兼帯、2日後の同月11日留守居上席、同月16日には日記懸・鉄砲改を命ぜられたとある。『続徳川実紀』によれば、同じ10月に神奈川開港尽力の命が下っている。

この安政5年は、いわゆる安政の大獄の始まった年で、この9月以来江戸や京都で多くの尊攘派の志士等が逮捕投獄されていた。12月には、寺社奉行板倉静勝、町奉行石谷穆清、勘定奉行佐々木顕、目付松平康正と共に大目付の正典がこの尋問に当たることとなった。五手掛という。正典の尊攘派の浪士たちに対する見方を知るため、正典の歌を次に掲げる。
  ほこらかに長太刀はけるしれ者はいたちなき世の鼠なりけり

大老井伊直弼は、講武所の小川町開場の際等に臨場している。総裁久貝正典の人物識見を知悉した上での大目付への登用だったと思われる。大獄の最中、寛大な処分を主張した五手掛の一部が更迭された際も、正典は吟味役として残り、井伊直弼の意向のままに、志士たちへの峻厳な処分にあたったのである。幕府創建以来累代の恩顧の念と、幕政参与者としての立場が、幕府の苦衷に乗じた過激派への憎しみとなっていたのかも知れない。
 だが、こと西欧列強諸国に対する正典の攘夷の一念は、攘夷派の志士たちと変わるところはなかった。その正典の胸中は、次の歌によって知ることができる。
   吾はもよ良き太刀得たり西の洋の夷が輩を撃ちてしやまむ 

 また、福地源一郎著『幕府衰亡論』のなかに、嘉永6年のペリー艦隊来航の際、幕府がその対応策に関して幕臣たちに意見を求めたのに対し、正典が同役(大番頭)加納遠江守と連署で提出した意見書の一部が載っている。そこには、「御諭しの趣承伏仕らず候節は、速かに打払い仰せ出さるべし。もし危安の御処置に成行き候わば、御為め宜しからず存じ奉り候。」などとあって、当時の正典が攘夷論者であったことが明らかである。

その四
 桜田門外の変大老井伊直弼が斃れた年(1860)の8月、正典は御側衆御用御取次となり、河内守(後更に遠江守)と改称している。文久2年(1862)11月には一転、安政の大獄の際のの裁きの不当を問われて、禄高2,000石を召し上げられ、隠居差控えとなった。『続徳川実紀』の11月15日の条には、「御側御留守居兼帯久貝遠江守 病気ニ付、願之通御役御免、隠居被仰付。家督無相違、養子相模守江被下之。」とある。そして、それから8日後の同月23日の条には、家督を継いだ中奥御小姓久貝相模守(数馬)に対して、次のような処断が下された。
  「其方養父遠江守[正典]大目付勤役中。飯泉喜内初筆一件吟味之節。立会被仰付候処。不束之次第有之段達御聴。勤柄別而不似合之事ニ候。依之其方高之内。貳千石被召上。遠江守儀差控被仰付之。」

 父祖伝来の2,000石を削られ、隠居差控となった正典の心中はいかばかりだったろう。なお、『続徳川実紀』は、元治元年6月以降の記述が欠落しているので確認できないが、先の『講武所』の「講武所の職制」に、次のように記されている。
「久貝養翠正典。 元治元子六月二十三日中奥御小姓相模守養父。隠居元御側御用取次
元慶応元丑五月十一日先達被召上高之内千石、別段之譯ニて其方江被下之。同年六月十四日卒。」 

前年には、禁門の変に続く第一次長州征伐の発令や各地での挙兵騒乱、この年4月には第二次長州征伐が発令され、江戸はその準備に騒然としていた。幕府瓦解寸前の混乱のなかでの正典の死であった。
   せまり来る冥路の使待てしばし公のこといまだ成しはいず。
 臨終に際しての正典の歌だといわれる。正典は、落日迫る幕府の行く末に心を残しながら逝ったのだろうか。享年は60。東京西巣鴨の白泉寺に葬られた。

【主な参考文献】
○「久貝正典の歌と人」(伊藤嘉夫 『跡見学園国語科紀要』昭和33年3月) 
○『旧幕府』第一巻一号(浅華戸川安宅編 原書房) 
○『東京市外篇講武所』(安藤直方 聚海書林) 
○『続徳川実紀』(黒板勝美国史体系編修会 吉川弘文館) 
○『幕府衰亡論」(福地源一郎 平凡社東洋文庫) 
○『新訂寛政重修諸家譜』(續群書類聚完成會) 
○『寛政譜以降旗本家百科辞典』(小川恭一 東洋書林)
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』収載 久留米郷土研究会) 
○「廣茅中村太郎先生詩稿」(内田豊吉筆写 内田清氏所蔵) 
○「北有馬百之略傳」(倉田施報 東京大学史料編纂所所蔵) 
○『安井息軒書簡集』(黒木盛幸監修 安井息軒顕彰会) 
○『埼玉県史調査報告書 旧旗下相知行調』(埼玉県県民部市史編さん室編集) 
○『三百藩家臣人名事典』(家臣人名事典編纂委員会 新人物往来社)
○『江戸時代の制度事典』(大槇紫山・歴史図書社) 
○『川越叢書』(川越叢書刊行会編集部編・国書刊行会)

3 【北有馬太郎の四人の弟たち】

1 「八木家系図」に見る弟たち
 中村貞太郎(北有馬太郎の本名・括弧内は以後も筆者の注記)の家族に関しては、「喜多谷中村家系図」と、貞太郎の母の実家八木家の「八木家系図」で知ることができる。しかし、2つの系図には若干の相違があり、「喜多谷中村家系図」は明治の後年に整理されたらしいため、ここでは「八木家系図」を主に見ることとする。なお、「八木家系図」に貞太郎の家族が記された理由は、当該系図に、「是は中村の血統なれども寬平(貞太郎の父)家跡、当時□□断絶し、故あってその妻の親里にあるを以てしばらくその成行きを記す」、と注記されている。

 この「八木家系図」には、貞太郎の父は中村寬平義正、母は八木家五代八木與一兵衛正明と、その妻湯口村庄屋菅嘉惣治娘の子と記されている。ちなみに、「中村家系図」を見ると、貞太郎の父は中村家八代中村源平重孝、母は山崎八六3女とある。なお、千葉県成田市飯岡の永福寺にある貞太郎の父の墓には、俗名が「中村寬平正行」と刻まれている。

 「八木家系図」によれば、中村寬平義正夫婦には子供が11人あり、長男が「貞太郎、江戸に赴き遊学安井先生の聟と成り声名高かりし云々」とある。次いで、次男「意次、京師に在り」、長女「女、伊福村医小田少進妻」、3男「直人、京師に赴く」、次女「女、右同断(京師に赴く)云々」、3女「女、右同断(京師に赴く)、4女「女、原口貫之妻」、4男「四郎、京師に赴く」(貞太郎の日記にある重威と推定される)、5男「五郎、江戸に赴く」(貞太郎の日記の重蔵と推定される)、5女「女、早世」、6女「女」、と記されている。貞太郎には、意次以下4人の弟があったのである。

 参考までに「喜多谷中村家系図」に記される貞太郎の弟妹を見ると、右側より順に、「長女(一字名あるも不明)、夫小田少進、伊福村」、「次女ミツ、夫原口貫之、島原城下」、「三女マキセ、夫八木新一郎」、「四郎、京都にき消息を断つ」、「五郎、江戸に行き消息を断つ」、「貞太郎、江戸に行き消息を断つ」、「国次、京都に行き消息を断つ」とある。総計7名で、「八木家系図」にあった3男直人は記されていない。なお、これらの記述内容から、「八木家系図」に貞太郎家族が挿入されてのは、貞太郎の横死以前であったと推定される。

2 次弟中村主計重義(1)
中村貞太郎の次弟重義は、「八木家系図」に「意次」とあった人である。『修補殉難録稿』に、「中村重義は、通称を主計といい」とある。兄貞太郎の日記にも、「重義」という名で出てくる。「中村主計小傳」(『野史台維新史料叢書13』)や『補修殉難録稿』に記述はないものの、『幕末維新人名事典』は、重義の生年を弘化2年(1845)としている。これでは、文政10年(1827)生まれの兄貞太郎とは、20年近い齢の開きがあったことになる。他の弟妹たちの人数を勘案すれば、その誤りであることは言うまでもない。

 重義の年齢については、兄貞太郎の日記の弘化4年11月15日の条に、「直人加元服」とあるので、この時3男直人が15歳であったと推定すれば、直人は天保4年(1833)の生まれだったことになる(若干の相違はあっても、ほぼこの頃の生まれと思われる)。とすれば、直人の兄主計の生まれは、弘化2年ではなく、天保2年(頃)の誤りではないかと思われる。この推測が正しければ、長兄貞太郎とは、4歳の年の差があったことになる。

 重義の幼少期等については、一切伝えられていない。そこで、兄貞太郎の日記等から、重義に関する幾つかの事実を拾ってみる。天保4年(月日の記載なし)の貞太郎の日記に、「甫七歳。従父移南久留米。」とある。親族間との確執がその原因で、貞太郎は父と共に郷里を離れ、久留米に移住したのである(拙稿「北有馬太郎と二人の尊王家」参照)。この時、母と幼い弟妹は北有馬の地か、母の実家八木家に留まっていたらしいので、幼い重義は父と行動を共にすることはなかったろう。その後、貞太郎が久留米天保学連同志の期待を背負い、天保15年7月、在府の藩主に藩政改革の建白書を託されて久留米を発足した際、父母共に久留米にいたことが確認できる。この頃は家族全員が、久留米で暮らしていたらしい。

 弘化4年5月2日の日記には、「此日家父挈家(族欠ヵ)泛筑江南行。留者独森三郎君及重義・重威而已。」とある。この日以後、母と妹及び五郎たちは、母の実家の八木家で暮らすことになったのだろう。そして、その翌年(嘉永元年)3月18日の日記に、「雨中八木次郎及弟重義(直人)東赴浪華。」とある。八木次郎は従兄で、名を貞郷といった人である。なお、『久留米同郷会誌』収載の貞太郎の日記には、「重義」に(直人)と括弧書きがあるが、これは久留米郷土研究会の注記の誤りである。

同年5月には、父寬平と貞太郎も上京のために久留米を去っている。2人が京都に至った日(6月1日)の日記に、「黃昏前重義及米次郎(八木次郎ヵ)至。乃携二子造藤澤翁(泊園)家宿焉。」とある。重義たちは当時大阪(藤澤家ヵ)に寄宿していたのかも知れない。
 以下、貞太郎の日記の重義に関する記事を記すと、同年9月19日「弟重義移寓野黄門家(野宮定祥)。」、翌嘉永2年2月17日「次郎発京。家父送至大仏。予及重義送至伏見。」、従兄八木次郎が、脚疾のため郷里に帰ったのである。同年8月28日、「申刻送舎弟到四条小橋。」、そして翌9月1日には、「昧爽舎弟帰自浪華。此夜到野宮到。」とある。重義は大阪に野宮卿の使いをしたのだろうか。この当時、兄貞太郎は梨木町で家塾を開き、父寬平は田中河内介の家に寄寓していた。

 翌嘉永3年3月、貞太郎は京都に父と重義を残し、独り江戸に向かった。後に旗本久貝因幡守の屋敷に招かれ、家臣やその子弟たちの教導に当たることとなる。貞太郎の漢詩集の「別弟重義帰京師」と題す詩の詞書に、「重義以十月廿一日同楠本正容東下来寓予僑舎留三十七日附士逸西帰」とある。士逸とは福田士逸で大村藩士、楠本正容については不詳。
貞太郎の日記には、この年10月21日「弟重義来。日暮楠本正容来。」とあり、翌月18日「與衣笠及重義見。琉球謝恩使見。過八洲林氏(林大学頭)。」、同月27日「福田士逸及重義西帰。送者数人。至品川飲武州楼。未牌去二子云々。」、と記されている。愛弟重義との別離に際して詠んだ「別弟重義帰京師」と題する詩もある。
   阿弟遠来辛苦同 夜寒共被四句中 吾家多難何時定 泣別山川西与東
兄貞太郎の日記や漢詩集に、これ以後重義の名は見いだせない。

3 次弟中村主計重義(2)
 『修補殉難録稿』の中村主計の条に、兄貞太郎が「幕吏に捕えられ、獄中に殺されぬ。重義此頃筑後に在りてこれを聞き大に憤り、慨然としてなす所あらんと、京都に上り、田中綏猷方にたよりて諸藩の志士に交を結ぶ」、と記されている。『日本人名大事典』や『明治維新人名辞典』等にも同様の記事がある。しかし、その誤りであることは言うまでもない。なお、兄貞太郎の獄死は、文久元年(1861)のことである。

 重義が江戸の兄貞太郎を訪ね、京都に戻った後の様子は殆ど不明である。史料としては、『中山忠能履歴資料』に、嘉永5年9月1日付けの次のような一文が確認できるだけである。
   非常御立退之節は御輿脇御先共非常附御使番相勤候事輿丁は澤村方に而用意
申付置候事
                           吉川 文吾 
                           中村 主計
                           藤田  縫
    右は非常之節早々出勤可仕申渡す。
 中山忠能は、兄貞太郎と共に重義が義兄弟の契を結んだ田中河内介が仕えていた公家である。先の野宮定祥卿家への寄寓がいつまで続いたのかは不明だが、この頃、重義は田中河内介の家に起居していたのかも知れない。

 なお、兄貞太郎の子安井小太郎が後年、「祖父寬平は、かねて京都の中山大納言の家来の田中河内介といふ人と親しかった。その縁か、残る子供をつれて、祖父は京都の東山に住し、瀬戸物を子供達に焼かせていました。」(『大東文化』第17号)、と語っている。父寬平がかねて田中河内介と親しかったとする点については疑問だが、『王政復古義挙録』にも、「太郎、主計ともに河内介の義弟たるべき約を結びし人とぞ。主計は陶器の巧ありて五条坂あたりにて其事を営み世を渡利居て云々。」とあるので、陶業に従事していたことは事実らしい。真偽のほどは定かでないが、重義は清水焼の窯元の娘と良い仲になり、その娘との間に女児まで生まれたという逸話もある。

 余談だが、『宮和田光胤一代記』の中に、「大原御側御用人となり光胤知己人粟田口之陶器師ニテ岸本丹山此度ハ岸本丹後と名乗り云々」、と記した一節がある(『共同研究明治維新』)。
文久2年、勅使大原重徳に従って下向した岸本丹後も、陶器師だったのである。主計が陶芸で生計を立てていたとしても不思議はない。

 豊田小太郎はその著『田中河内介』に、安政3年の田中河内介の九州遊歴について、「彼が先づ島原にいった理由は明かでない。島原は北有馬の故郷ではあるが、ただその縁故ばかりで往ったものとは思われぬ。恐らく何か深い考へがあってのことであろう。」とある。この田中河内介の島原遊歴については、すでに拙稿「北有馬太郎と二人の勤王家」で、その理由と弟重義がこれに同行していたことを明らかにした。重複するが、2人の九州遊歴を次に略記すると。

 安政2年冬、島原に渡った河内介と重義は、中村家一族との確執問題について強硬な談判に及んだ(これは、穏便な解決を望んでいた貞太郎を困惑させた)。河内介と重義の2人はその後、島原の古城を探訪するなどした後、久留米に真木和泉守を尋ねて面会を求めたが、真木は謹慎中で会うことはできなかった。2人は、安政3年6月になって京都に戻った。

 帰京後の重義の動向は不明である。兄貞太郎が獄死した翌文久2年、重義は田中河内介や真木和泉守らが画策した京都挙兵計画に参加した。薩摩の島津久光の卒兵上洛に呼応しようとしたこの計画は、久光による有馬新七ら過激派薩摩藩士の上意討ち(寺田屋事件)で挫折した。田中河内介とその子差摩介らは、薩摩に護送される途中の船上で斬殺され、その遺骸は海に投棄されたという。別船で護送された中村重義と、その同志千葉郁太郎(河内介甥)、海門宮内(秋月藩藩士)の3人も、河内介父子同様、日向国細田島で慘殺されてしまったのである。

3人の無残な死について『王政復古義挙録』には、「宮門、郁太郎、主計の三人は細嶋にて殺されたる由にて細嶋に三人の死骸あり其内壱人は木綿にて腹巻し其木綿に筑前秋月藩海門直求と記しありて、大なる樹に縊り付けられ居たりしとぞ。」とある。時に主計重義は32歳(天保2年生れと推定で)であった。
長兄貞太郎と次兄重義の相次ぐ死を、残された母や弟妹たちはどのような思いで受け止めたことだろう。2人の不名誉(当時)な横死に、母や弟妹たちは、世間の厳しい目に晒されたに違いない。

4 その他の弟たち(1)
 3男直人は、「八木家系図」に「京都に赴く」とあった人である。兄貞太郎の日記の弘化4年11月15日の条に、「直人加元服」とあったことから、その生年を天保4年と推定したことは前記した。その日記には、元服云々の同月3日の条に、「朝直人(原注・弟也)来。齎深井伯父書云々」とある以外、直人の名を見ることは一切ない。この日記にある深井伯父とは、久留米藩槍術師範深井学之進で、直人はこの当時、深井家で暮らしていたのかも知れない。

 直人については、貞太郎が安井息軒に宛てた書簡で、僅かにその人物像の一端を知ることができる。まず、安政3年9月7日付書簡には、「愚弟直人事、東行後、是又便り無之如何致居候哉、江戸表迄無滞相達候事ニ候哉、尚生死之程も無覚束候云々」とある。貞太郎は前年の春、息軒の長女須磨子と結婚し、この年の春に夫婦揃って下総飯岡村の大河家に移居していた。そして、同年の秋、病身の父を迎えるために京都に赴いていたのである。病父を伴い飯岡村に戻ったのは10月中旬であった。したがって、この書簡は京都発信のもので、それ以前に京都にいた直人は、父や兄に先立って江戸に旅立っていたらしい。

 その後、直人は貞太郎夫婦と同居している。翌4年2月27日付け貞太郎の息軒宛て書中に、「飯岡之教授直人へ為相勤候云々。」とあり、自分の代わりに弟直人に大河家での教授を任せたいとの意向が、貞太郎にはあったのである。直人が相応の学問を積んだ人であったことが窺える。なお、翌月5日付息軒の須磨子宛て書簡に、「扨太郎どのより文さしこされ、品によりてはきそへ参られ候よしに候。いよいよ左様に成候はば、そもじは直人どのと老人看病され候かは道理に候。去りながら直人どの実の兄弟の事には候へ得共、若き者二人にて長々の留守致され候事いかがとぞんじ候云々」とある。息軒の心配は杞憂となり、貞太郎の木曽福島行きは実現しなかった。

 この兄貞太郎の木曽云々のことは、家計に窮してのことであった。貞太郎の先の安井息軒宛て書簡に、その窮状が記されている。それによれば、父寬平と五郎の同居の上に、「(病身の父の)薬代十金ニ而は足申間敷」、さらに当時田中河内介家族4人が江戸への移住の準備中で、その移住資金についても捻出送金する約束があったのである。先の書中に、「金十圓才覚仕、京都へ差登セ不申候而は相成不申、其十金之儀才覚仕候得は、薬代之方当無之様相成申候故、いつれとも游歴ニ而十四五金相かせき不申候而は都合出来不申候。」とある。病父の薬代に年間10両以上、さらに田中河内介家族の江戸移住費用に10両を要し、飯岡村大河家の講筵謝金10両では、「身上差迫候」ことは当然のことであった。貞太郎はより実入りのある木曽福島への出張教授を念慮していたのである。

 この貞太郎家族の窮状について、3月4日付けで安井息軒が友人吉野金陵に宛てた書簡に、「扨北有馬儀、病親引請、経用不足ニ付、余程狼狽之様子、気之毒存候。小生救候筈候得共、地震以来物入多、殊ニ去年病気(中略)手本必死と差支、乍心外周済之訳ニ不参、可憫次第ニ御座候云々」と記して、相応の仕官の口でもあれば周旋してくれと依頼している。
 貞太郎のこの苦難は、4月21日の父寬平の死と、田中河内介の江戸移住の中止により、図らずも解決したらしい。河内介の江戸移住中止の理由については、「北有馬太郎と二人の尊王家」に記している。

 同年5月12日付け、貞太郎の息軒宛て書中には、「直人事、久貝氏引取、又々御厄介ニ相成罷在候、全不肖思案違より如此成行、後悔罷在候。いつもいつも御厄介而已相懸恐入候」とある。久貝氏とは、以前貞太郎自身が招かれた旗本久貝因幡守である。息軒の提案だったのだろうか、息軒の紹介で直人を久貝邸に寄寓させたらしい。この3男直人については後に再びふれたい。

 4男の四郎重威については、「八木家系図」に「京師に赴く」とあったが、兄貞太郎の日記には、僅かな記述しかない。弘化4年5月2日、貞太郎が真木和泉守と熊本の旅から久留米の家に帰った日のことで、「夜帰家。此日家父挈家(族欠ヵ)泛筑江南行。留者独森三郎君及重義、重威而已云々。」とある。父寬平が家族を連れて島原へ発った後の久留米に、重義と重威らが残されていたのである。翌月2日の日記には、「携弟重威登宝満山、四日帰家云々。」とある。なお、貞太郎の漢詩集の嘉永3年の項に、「中秋武城観月寄懐弟重義在京、重威在西海」と題する詩があるので、この当時、重威は島原の母のもとにいたのだろう。

 「八木家系図」に「江戸に赴く」とあった5男の五郎重蔵については、貞太郎の日記の弘化4年3月13日の条に、「携舎弟重蔵及僕磯右辞有馬薄暮達港。」とある。貞太郎は前月14日以来、島原の母や弟妹と共にあって、この日5男重蔵を伴って久留米に帰ったのである。貞太郎の日記等には、重蔵の名も、その後安政4年に至るまで確認できない。

5 その他の弟たち(2)
 安政4年正月6日付け、貞太郎の安井息軒宛て書簡に、「五郎事、実は困窮ながら責而当年一年ばかり不肖手許ニ而教育仕候心底ニ候得共、何分親元子供ぎらひに而、朝夕うるさがり申候間、相願候儀に候、行々は医ニ相仕立度由ニ候間、其辺之儀は兼而先方へ被仰通置可被下候。尚又何事も弁不申者ニ候間、別して先方之面倒相重り可申ト、夫のミ案じ罷在候。」とある。これによれば、当時重蔵は直人同様、下総飯岡の貞太郎家族のもとに同居していたらしい。貞太郎は義父息軒を介して、重蔵の教育を誰かに託そうとしていたのだ。

 重蔵の医師修行は僅かの間に過ぎなかった。同年5月27日付け貞太郎の息軒宛て書中に、「五郎事春相頼、今更引取候も余り得手勝手之相に相当り、対春桃院気之毒千万、奉対先生候而も恐入候得共、全く愚父病中邪魔ニ致候而其御地へ相願云々。」、と記されている。病父寬平は前月21日に死去していた。しかし、その父寬平の遺言で、再び重蔵を貞太郎の手許に引き取ることになったのである。その経緯は書中に、「(父寬平)死去前ニ至是非私手元ニ差置読書為致、十五歳ニ相成候ハハ医者ニ仕立呉候様申聞候間」、春桃院には誠に申し訳ないが、「愚父申候我侭ト不被思候様、御尊慮可被下候。」、と記されている。そして、更にこの同じ書中には、父寬平の死により、弟たちの運命が大きく転換しようとしている事実が記されている。その一部を左に転載する

  「今度任遺言、本家和熟之為直人事西国へ差下申候。三月頃迄は和談之儀、愚父一向ニ承引不仕候処、四月中ニ相成候而は漸ク怒りも相解、私より和談掛合候様申付候間、(中略)右ニ付直人儀彼表へ差下し、京都ニ罷在候四郎事同道下向仕、嶋原在住為致候心組ニ仕候。直人事ハ先年本家相続人ニ相立居候嫌も有之故、四郎事ニ相定申候。併未タ幼年ニ候間、直人儀後見ニ相立、一家取立候仕組ニ候。四郎事当年十四歳ニ候得は、いづれ三四年は直人後見不仕而は相叶申間敷、其上は直人事彼地永住仕とも、又は別ニ一身相立候とも、可任当人之心候。」

 親族との確執も、宗家乗っ取りという冤罪と、それに対する父寛平の怒りに起因していたらしい。なお、この件に関して、次弟重義と田中河内介が、島原に乗り込んで強硬に談判したことに、貞太郎が困惑したことは前記した。だが、その後貞太郎の意図した通りに事は運んだらしい(この事実は、拙稿「北有馬太郎と二人の勤王家」に記した)。倉田施報の「百之略傳」に、「早太君の世を早くして継嗣なく、君の弟重威君入りて其宗を継れしときけば云々」とあるから、後に四郎重威が宗家を相続したのである。なお、この書簡で、四郎重威は当時14歳(弘化4年生れ)で、京都に住んでいたことが明らかである。

 貞太郎のもとに残った五郎重蔵は、安政4年当時13歳以下であったことになる。2年後の安政6年9月、貞太郎の日記に、厳しい貞太郎の教導に耐えかねたのか、重蔵が家出をしたことが書き留められている。その事実だけを以下に転記しておこう。「三日、老婆云。五郎君以昨二日亡命。夜雨。」、「五日、之大豆戸(埼玉県鳩山町)、倩人以索五郎。午後之奥富、索五郎也。」、「六日、発使于江戸以索五郎。申後帰宿。」、「七日、索五郎者帰報云。昨日抵村岡渡及熊谷云々。」、「八日、竹翁寄書云。使江戸者帰報云、不見五郎君。」、「二十二日、有人来告五郎在岩殿(同県東松山市ヵ)。乃使久往迎。」
以後、五郎重蔵の名は確認できない。したがって、五郎重蔵がその後、亡父寬平の期待通りの医師になったかどうかは定かではない。

 父寛平と親族との確執問題に翻弄され、総領としての責任感から老父や幼い弟たちの面倒を一手に引受けた中村貞太郎であった。筆者の眼に映る中村貞太郎は、尊王攘夷の志士としての姿は朧気で、不条理な運命を背負って懸命に生きた誠実な男の姿でしかない。
なお、郷里で暮らす母や妹たちへの悲しい想いも、貞太郎の胸中を離れることはなかったらしい。漢詩集のなかにも、その想いを詠んだ詩が散見される。「対月憶郷」と題する五言律詩の詩句には、「帰心尋弟妹 愁夢属爺嬢 客意逢秋色 天涯獨断腸」とある。さらに、「憶郷」と題する安政元年に詠んだ次のような七言絶句がある。
   筑水肥山夢久空 蓬踪□跡七秋風 愧無面目帰郷里 涙落五更蛩韻中
 

【主な参考文献】
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』収載・久留米郷土研究会)
○「北有馬百之略傳」(倉田施報・東京大学史料編纂所所蔵) 
○「廣茅中村太郎先生詩稿」(内田豊吉筆写・内田清氏所蔵)
○『修補殉難録稿』(宮内省・マツノ書店) 
○『野史台維新史料叢書』(日本史籍協会編・東京大学出版会)
○『中山忠能履歴資料』(日本史籍協会編・東京大学出版会) 
○『王政復古義挙録』(小河一敏・『幕末維新史料叢書』5・新人物往来社)
○『共同研究明治維新』(思想の科学研究会・徳間書店) 
○『田中河内介』(豊田小太郎・臥龍会) 
○『安井息軒書簡集』(黒木盛幸監修・安井息軒顕彰会) 
○『[資料紹介]吉野金陵宛安井息軒書翰(芳野家所蔵)の解題と翻印』(町泉寿郎・『日本漢文学研究』第9号・二松学舎大学日本漢文教育研究推進室) 
○『大東文化』第17号(大東文化学院編輯部)

2 【北有馬太郎と西川練造】

その一
 中村貞太郎(北有馬太郎の本名)の漢詩集「廣茅中村太郎先生詩稿」の嘉永3年(1849)の項に、「寄懐川越西川景輔」と題する次のような七言絶句(2首の中の1)がある。
   一別茫々已五年 江城重到夢相牽 旧交雲散消息 満腹心懐誰與傳
 この年の春、貞太郎は父寛平や次弟重義(主計)と過ごした京都を離れ、再び江戸に上っていた。その年の6月には、旗本久貝因幡守正典邸で、家臣やその子弟たちへの教育を託されていたが、この詩はこの年の秋の頃に詠まれたらしい。 

 そして、同じ漢詩集の嘉永5年の項にも、「西川景輔自川越来訪酔後賦贈」と題した次の七言絶句が記されている。
   相別相逢歓又瑳 回首雲樹七年奢 酔来好発曩時態 談到芳堤枝花
 貞太郎がこれらの詩を呈した西川景輔とは、以後貞太郎と深い関わりを持つこととなる儒医で、志士名の西川練造の名で知られる。川越城下近くの入間郡小仙波村(埼玉県川越市)の人である。字は子涼、全斎と号した。文化14年(1817)の生まれであるから、貞太郎より10歳の年長であった。 

先の詩の承句から推測すると、この時の2人は弘化2年(1645)以来の再会だったのである。貞太郎は弘化2年正月、安井息軒の三計塾に入り、翌年7月からは尾藤水竹の谷口荘に寄寓していた。しかし、同年11月、「家の艱みに遇って姑らく游学を止め」(倉田施報著「北有馬百之略傳」)、郷里に帰っている。郷里の中村家一族間での確執の再燃だったらしい(前稿「北有馬太郎と二人の尊王家」参照)。

一方、西川練造の生家近くにある焔魔堂墓地の練造の墓石に、「従佐藤一斎尾藤二洲修学」(尾藤二洲は文政10年に没している。二洲の子尾藤水竹の誤り。)とあるので、二人の初対面は尾藤水竹の谷口荘であったと推定される。貞太郎は谷口荘に寄寓する以前から、尾藤水竹のもとに出入りしていて、西川練造と知り合ったのだろう。

西川練造の年譜によれば、練造は嘉永5年には豊前小倉藩士井関五助方に同居し、小野派一刀流剣法を学んだというから、江戸に出ていた練造は、この時久貝邸の貞太郎を訪ねたのだろう。なお、練造は、同藩の鈴木彦之進から長沼流軍学を学び、翌年11月に免許を得たという。ちなみに、練造は川越藩大川平兵衛からも神道無念流剣法を学んだといわれる。また、西多摩地方(東京都)に、練造に皇典や漢学を学んだ人が複数人確認できるので、練造は皇典にも造詣が深かったらしい。

貞太郎は、練造と再会した嘉永5年の閏2月、旧交を温める間もなく北越地方に旅立っている。この北越遊歴には、高田城下で私塾(文武済美堂)を開いていた倉石典太(成憲)の仲介があったらしく、請われるままに田村、筒石村、地本村の好学の徒の教導にあたった。貞太郎には、この遊歴中に蝦夷地探訪の計画があったらしいが、翌年の仲冬、米国艦隊来航の報に接して急遽会津を経て江戸に戻り、再び久貝因幡守邸に寄寓することとなった。

貞太郎の日記の翌嘉永7年正月12日の条に、「西川兄と浦賀に赴く。果たせず。途杉田に宿る。」とある。この日2人は、日米修好条約の締結を求めて再度渡来したペリー艦隊見学のため、浦賀に赴こうとしたのである。おそらく警戒中の幕吏によって遮られ、断念せざるをえなかったのだろう。

西川練造の娘婿の記した練造の履歴に、「安政元年より翌二年迄市ヶ谷御旗本久貝因幡守様屋敷に練造北有馬太郎と申人同居随身いたし居り候」とあるという。練造が貞太郎と同居を始めたのが安政元年(1854)のいつ頃かは不明だが、貞太郎はその年6月には久貝邸を去っている。その理由は、幕閣に対して行った対外政策等の建白が受け容れられなかったことなどによるらしい。

失意の内に江戸を去った貞太郎は、川越城下近郊の下奥富村(埼玉県狭山市)の広福寺東隣りに私塾を開き、近隣子弟の教導にあたることとなった。同年8月27日付け貞太郎の恩師安井息軒宛て書中に、「当月四日彼下奥富村へ移寓仕候。追々連中も相増、只今ニてハ五六輩ニ候得共、十月ニ相成候ハハ農隙ニ相成、入門可致旨只今より申込候者も四五輩有之候。来春ニも相成候ハハ三十人位ニハ相成可申見込ニ有之候。」、と記されている。

しかし、その後、塾生は貞太郎の予想ほど集まらなかった。同年11月28日付け息軒宛て書中には、「先ごろ児童輩も年内ニ両三輩は相増可申赴ニ申上置候得共、今以相増不申候、尤私寓居も落着不申、不遠此地引払候儀も難測抔存候て之見合之由、世話人共申候云々。」とある。この後、貞太郎は周辺地域への出張教授に力を入れたらしい。なお、これ以前の8月15日付けの息軒宛て書簡には、「細川様へ釈褐之儀被仰聞、御厚情奉感荷候云々」等とある。しかし貞太郎はこれらを断って、「明春ニ相成候ハハ小野勘左衛門(木曽福島の人)へ相談仕、彼地罷越申度と存候。」と記していた。貞太郎は尊王攘夷活動の自由と、謝礼の多く得られる遠地での出張教授を考えていたのかも知れない。

生活も安定しない翌年の春、貞太郎は塩谷宕陰の媒酌で、恩師安井息軒の長女須摩子と結婚したのである。妻となった須摩子は、再婚であった。前夫は秋元家の御勝手掛用人田中四郎兵衛の倅鉄之介であったが、半年余りで婚家を離縁されていたらしい。貞太郎29歳、須磨子は28歳であった。

貞太郎と須摩子の結婚した年の9月、安井息軒が須摩子に宛てた書簡に、その前月息軒が奥富村の2人の新居を訪れたことが記されている。その文中に、「太郎殿もそもじ兼而申候通り、真実なる人柄候得共、器量ある人ゆへ、心のおき処はそもじ抔の分候ニハなく候云々。」とあって、息軒や妻須磨子が貞太郎を高く評価していたことが明らかである。

その二
貞太郎たちの奥富村での新婚生活は1年間に過ぎなかった。翌安政3年の春、夫婦は下総国飯岡村(千葉県成田市)の豪農大河平兵衛家に招かれ、この地で開塾したのである。月日は不明だが、この年2人の間に長女が生まれている。「糸」と名付けられたこの長女は後年、飫肥藩高橋圭三郎を迎えて安井家を継いだ。貞太郎はその年の秋、自ら京都に赴いて病弱な老父を飯岡の地に招いている。親族間の争いで労苦の多かった父に、孫娘との心温まる生活を味あわせたかったのかも知れない。しかし、その父は翌年4月には病没、その遺骸を大河家近くの永福寺に手厚く葬り、その後1年間の喪に服したのであった。

亡父の喪の明けた翌安政5年4月、貞太郎は飯岡村を去り、再び下奥富村に戻った。その下奥富村に戻る途中、貞太郎は媒酌人塩谷宕陰の強い反対を押し切って、妻須摩子を離縁している。尊王攘夷活動で、恩師安井息軒に類の及ぶことを恐れてのことだったとてう。「百之略伝」に、幕府の対外政策に絶望して自ら立ち上がることを決意した貞太郎は、「一身犠牲に供するの時に至らは必す先身舅氏を係累し、自愛父母にひとしき多年薫陶の師恩を害さん事を恐れ、且先師も君のなすところ或は過激に渉り、禍機に触れむ事を慮り屡箴規の旨りしを以て彼を思ひ此を顧み断然意を決し」、須摩子の離縁に至ったとある。貞太郎の日記からは、息軒から度々戒められるほどの貞太郎の過激な尊攘活動の様子は窺えないが、三計塾の同門で、貞太郎と親交のあった倉田施報の記すところである。無視することは出来ないだろう。

安井息軒や塩谷宕陰の強い怒りが原因だったのだろうか、貞太郎はこの時、1歳にも満たない乳児の糸女を引き取ったのである。もっとも養育は人の手を借りてのことであった。また、離縁当時須摩子は身ごもっていて、この6月には長男小太郎が生まれたが、その小太郎も翌年3月には貞太郎のもとに送り届けられ、乳母に託して育てることとなった。幼くして実母から引き離された2人の乳児もまた哀れであった。この2人の愛児は、後年貞太郎が非業の死を遂げた後は、再び安井家に引き取られ、息軒の跡を継いでいる。

飯岡村滞在当時、貞太郎は上洛して国事に尽瘁する志願があったという。その強い思いを抑えて、貞太郎に下奥富村への再訪を決意させたのは、この地に貞太郎の帰村を切望する人たちがいたらしい。貞太郎の胸中に、その地の若者たちへの尊攘思想の鼓吹と扶植という目論見があったのかも知れない。

富村に戻った翌9月17日の貞太郎の日記に、「西川兄を過る云々」とあり、翌日にも「西川兄を尋ねる云々」と記されている。峯岸登僊著『勤皇家贈従五位西川練造傳』に、「練造は、安政三年以来他を憚って郷里小仙波村を離れ、入間郡富村西方なる森蔵の借家に住ひ、表面は医を行として云々」とある。これに相違なければ、練造は貞太郎が去った翌年には久貝邸を去り、奥富村に移り住んでいたことになる。同書にはさらに、「当時比企郡今宿村大豆戸通称鍋屋隠居所に居た、年来の知己、北有馬太郎と会して国家を論じ、折々江戸お玉ヶ池の八郎宅の会合にも参加して、悲憤慷慨云々。」と記されている。

西川練造が医業を営んだ家は、貞太郎の塾舎の南西至近にあった。この地で2人が、どのような尊王攘夷活動を行ったかは不明だが、貞太郎は奥富村を起点に、大豆戸村(紙幅上現市町村名は省く。以下同じ。)の鋳物師宮崎柳七家、扇町谷の栗原家、黒須村の繁田武兵衛家・諸井与八家・増田勘右衛門家・繁田裕仙家、小島一斎家、小谷田村の増田勘兵衛家、牛沢村の松井五平家、西戸村の修験山本坊、下赤工村の山川家、小瀬戸村の薬王院等々、各地で講筵を開き、また招かれて出張教授をしていたことが、その日記から確認できる。

貞太郎に薫陶を受けた人たちも、藤倉村の内田信之・正信兄弟、下赤工村の山川達造・竹造・春之輔兄弟、福永正蔵、西戸村の相馬辰丸・修徳兄弟、下奥富村の渡辺彦次郎、山下忠次郎・理四郎兄弟、飯能の小能八郎、黒須村の繁田満義、当摩森太郎等々、数多くの人たちの名が確認できる。

余談だが、下赤工村の山川達造・竹造兄弟や福永正蔵は、後に清河八郎の浪士組に参加して上洛している。また、「百之略傳」に、「(貞太郎の)遭難の際、門人山川達蔵急に家中の書を集め、四方交通の文の如きは挙て之を火に投じ、以其證左を滅し、其他は皆擢取して己れの家に秘し、令子の年やや長ずるを待て之を傳える。故を以て今尚幸に存せり云々。」とある。さらに、貞太郎の子小太郎は後年、「(父貞太郎の横死後)私達は、赤工村に父の門人の山川達蔵といふ人がいたので、ここに厄介になった。私はまだ生れて一年も立たない。ここで私は乳の代わりに甘酒ばかりを飲まされました。」(『大東文化』第17号)、と語っている。
なお、藤倉村の内田豊吉は、貞太郎の漢詩集(「廣茅中村太郎先生詩稿」)を筆写して後世に残してくれた人である。また、貞太郎の死後、回向院にその墓石を建てた人でもある。

その三
文久元年(1861)の春、出羽庄内清川村郷士清河八郎は、「深く義勇忠烈の士と盟ひ、秋高風寒に及び、虜をして懲創する所有らしめんと欲」(清河八郎「潜中紀事」)して、尊王攘夷党「虎尾の会」を結成した。その集まる義烈忠勇の士は、「薩邸に居る者七名、幕下に居る者三名、処士に居る者十余名」であった。この「処士十余名」の中に北有馬太郎と西川練造の名があった。

2人の清河八郎との出会いは、小山松勝一郎著『清河八郎』に、「(清河)八郎は広福寺の章意に会いにくるたびに北有馬・西川に会った。八郎は章意から、また伊牟田から両人を紹介された云々」とある。「章意」という人物は、元水戸藩の士であったという。「伊牟田」とは、薩摩喜入郡の領主肝付家の臣伊牟田尚平である。貞太郎とは安井息軒塾の同門であり、安政元年以来の知己で、伊牟田も「虎尾の会」の同志の1人であった。

その伊牟田尚平が清河八郎に宛てた文久元年3月晦日付けの書簡に、「北有馬等長々御邪魔罷成御礼申上候云々」とある。また、「虎尾の会」の同志の1人池田徳太郎が、清河八郎に宛てた同月26日付の書中に、「此内奇偉倜儻之人頻に星聚、又候今日川越山中より客被見候由云々」とあるから、貞太郎と練造は26日以来清河八郎の家に留まったいたのである。先の伊牟田の清河宛て書中に、「総州之二豪傑之宜様云々」とあるから、同志が集まって挙兵についての集議が行われたのかもしれない。「総州之二豪傑」とは、石坂周造と村上俊五郎である。

「虎尾の会」の攘夷挙兵の具体的計画は、5月中旬に決定されたという。その計画は、「秋に及び風寒く気の立ったる八月、九月の中頃を機会」(清河八郎『潜中始末』)として、横浜を焼き打つというものであった。(「虎尾の会」の顛末については、「歴史研究」第614号収載の拙稿「尊王攘夷党『虎尾の会』始末に詳述。後日ここに掲載予定。)

この頃、清河八郎たちの動向は、幕吏の厳しい監視下にあった。東京都千代田区発行の『原胤昭旧蔵資料報告書』によれば、幕府は5月19日には、清河八郎以下北有馬太郎、西川練造を含む8名の捕縛命令を出していたのである。奇しくもその翌日、酩酊した清河八郎が町人を斬殺するという事件が生じた。幕吏の見守る中での出来事だったと思われる。『藤岡屋日記』によれば、その場に居合わせたのは清河を含めて6人で、貞太郎や練造は帰村していて、そのなかにはいなかった。

辛くもその場を逃れた清河八郎、安積五郎、村上俊五郎、伊牟田尚平の4人は、奥富村の広福寺に潜伏するため、密かに江戸を脱出し、同月22日に広福寺に入った。「潜中始末」に、「二十二日奥富村広福寺に至る。西川練三来り会す。」とあるが、貞太郎は当時大豆戸村の宮崎家に滞在していたらしく、翌23日「北有馬太郎来り会す。終日快談時を過ぐ。」とある。誰1人、追捕の身の危機感はなかったらしい。しかし、追手はすぐ身近に迫っていたのである。

この日、川越の浪人某が西川家を訪れて、近くの入間川村(埼玉県狭山市)に関八州取締役他の捕吏百人余が集まってる、と知らせてくれた。練造は直ちにこれを清河らに報知するとともに、自ら様子を探りに出掛けたが、そのまま戻って来ることはなかった。

異変に気付いた清河たちは、一先ず江戸に戻って府内の様子を探ろうと、その夜闇に紛れて奥富村を脱出して行った。「潜中始末」によれば、この時貞太郎も清河たちと行動を共にしようとしたが、「未だ実否のきはまらぬ事故先づ残る事に」して、練造の帰りを待つこととしたという。貞太郎の胸中には、練造の安否とともに、残される子どもたちへの思いもあったのだろう。なお、「明治維新の志士西川練造傳」によると、清河たちの脱出に際して、練造の妻が、清河たちへ心尽くしの肌着の襦袢を贈ったという。

その四
広福寺に残った貞太郎と住職の章意は、翌朝捕縛されてしまった。一方の練造も、前日様子を探りに出掛けた先で就縛されていた。貞太郎と練造、そして広福寺住職(後日出牢)はその後江戸に送られて、伝馬町の獄舎に投獄されることとなった。『勤皇家贈従五位西川練造傳』によれば、八州取締役吉田僖平治の情ある計らいにより、護送途中の田無村(東京都田無市)で練造の妻と2人の愛児(澄女と清介)が、仮牢内の練造と涙の別れをしたという。おそらく、この時貞太郎も、2人の愛児(糸女と小太郎)と悲しい別れをしたことだろう。

岸伝平の「隠れたる志士笠井伊蔵」に、貞太郎の入獄時の様子について、練造の娘の澄女が後年語った次のような逸話がある。
「北有馬太郎さんの奥さんが番町の安井仲平先生の娘さんでした。なんでも妻子や師匠
に迷惑をかけては行けぬと思って、捕らえられたときに無宿の浪人だと申立てたので、
江戸の獄中では無宿牢に入れられ(原注・悪者らと合牢)牢中で大変に難渋したと人伝に
聞いて、その獄死には母と共に泣き伏したことがあります。」
 なお、澄女は貞太郎について、「北有馬さんは、立派でやさしい方でした。父は学者として尊敬していました。家では『太郎さん』と呼んでいました。」とも語り残している。

 過酷な獄舎の中から練造が、縁者に宛てた11月14日付の書中に次のようにある。
  「小生儀兎角肥立兼何共困入候次第、誠に骨と皮ばかりに相成、今以歩行も不叶、仍而
此寒に向ひ一命も甚無覚存候。(中略)引続き打臥大小便にも通い兼、人之手に而参り申候。其余飲食衣服着替等は勿論、寝返り迄も人之世話に相成申候。当方は恐敷寒さに御座候。(中略)又湿より此度は打薬を致、うみ沢山出候。」(『勤皇家贈従五位西川練造傳』)

 口述によって同獄者の手によって書かれた書簡なのだろう。揚り屋入りをした練造にして、かかる有様だったのである。牢死者は、年間1200人から2000人に及んだ(石井良助著『江戸の刑罰』)という伝馬町の獄舎である。練造とは異なり、より過酷な無宿牢に投獄された貞太郎は、練造がこの書簡を出した2ヶ月前に黄泉の人ととなっていた。享年は35歳であった。

 貞太郎の死去の日については、門弟内田豊吉たちが建てた回向院の墓石に9月3日とあるが、同志池田徳太郎の手記には「九月廿五日死去」とある。また、「北有馬百之略傳」には、「疾に罹り、竟に六月十四日とかやに悠然長逝し云々」とある。いずれが事実なのかは判然としない。その死因についても、貞太郎の弟中村主計の小伝(『野史台維新史料叢書』第13巻)には、「太郎ハ既ニ幕府ノ獄ニ下リ毒殺セラレタリ」とあが、これも真偽のほどは定かではない。時に貞太郎35歳であった。
 一方の練造も、12月14日の夜半、牢内で息を引き取った。生を享ること45年の生涯であった。

【主な参考文献】 
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』所収・久留米郷土研究会) 
○「北有馬百之略傳」(倉田施報・東京大学史料編纂所所蔵) 
○「廣茅中村太郎先生詩稿」(内田豊吉筆写・内田清氏所蔵) 
○『安井息軒書簡集』(黒木盛幸監修・安井息軒顕彰会) 
○『野史台維新史料叢書』第13巻(日本史籍協会編・東京大学出版会)
○「勤皇家贈従五位西川練造傳」(峯岸登僊・川越市役所) 
○『川越叢書』(川越叢書刊行会編集部編・国書刊行会)
○『清河八郎遺著』(続日本史籍協会叢書・東京大学出版会) 
○『原胤昭旧蔵資料調査報告書(3)―江戸町奉行所与力・同心関係史料―』(千代田区教育委員会) 
○『藤岡屋日記』(須藤由蔵偏・三一書房) 
○『清河八郎』(小山松勝一郎・新人物往来社) 
○『漂泊の志士―北有馬太郎の生涯』(拙著・文芸社) 
○「尊王攘夷党『虎尾の会』始末」(拙稿・歴史研究第六一四号収載)

1 【北有馬太郎と二人の尊王家】

1 はじめに

 『漂泊の志士―北有馬太郎の生涯』は、筆者の幕末維新に関する人物探訪のすべての始まりであった。上梓の経緯は、この本の中で披瀝したが、ほかにも上梓を決意させるに至った忘れ難い二つの出来事があった。その一つは、回向院の北有馬太郎の墓所を訪ねた際のことであった。墓石の前に佇んでいた筆者の背後から突然、「その墓の子孫の方が、昨年島原から50年ぶりに墓参に見え、その際に資料を頂いたので、宜しければ差し上げましょう」、と声を掛けられたのである。それは、塋域を金色に染めた銀杏の葉を掃き集めていた寺の方であった。喜んで頂戴したその資料の中で、福岡県の久留米市立図書館に、北有馬太郎の日記が所蔵されているという事実を知ったのである。

 そして、取り寄せたその日記の写しで、北有馬太郎の父の墓が千葉県成田市飯岡の永福寺にあるらしいことを知り、そこを訪れた際のことであった。無住の寺の塋域を探し回ったものの、墓は確認できず、諦めて帰ろうとした時、ふと目に止まったのが、高く積み上げられた無縁墓群であった。コンクリートで固められ、戒名しか見えないため、無駄とは思いながら近づいて見ると、その最上層に2基の小さな墓石が置かれていたのである。そして、実にその一つが北有馬太郎の父の墓石であった。

後に檀家総代の方にお聞きすると、数年前、寺の裏山が崩れて多くの墓石が土砂に埋まったため、昨年これを掘り出し、無縁の墓を積み上げて塔にしたが、後から出てきた二つの墓石は塔の上に置いたとのことであった。
 この二つの不思議な偶然が、北有馬太郎という人物の生涯を、私個人の記憶の中に留めておくべきではない、との思いに拍車を掛けたのであった。

 余談が長くなったが、『漂泊の志士―北有馬太郎の生涯』は余りにも冗長なため、本稿以下の数稿で、北有馬太郎と、北有馬に関係した人物の何人かを新たな事実も踏まえて紹介することとした。なお、次稿以下Ⅲ稿までは、表題以外は北有馬太郎の本名中村貞太郎(中村太郎の名も使用しているが、母の実家の「八木家系図」には貞太郎とある。)の名を使用する。また、本文中、原注とない限り括弧内は筆者の注記である。

2 若き日の中村貞太郎

幕末の久留米藩内には、水戸学を信奉する天保学連と称する一派があった。忠孝節義を基本に、学問即士道の観点から事実実行を重んじ、内外情勢への高い識見を以て天下国家に裨益することこそ、真の学問であると主張する木村士遠、村上士誠、真木和泉守を中心とする人たちである。

天保15年(1844)7月、この天保学連の同志たちは、江戸滞在中の藩主に藩政の改革を直訴するため、秘かに建白書を呈出することとなり、その使者に選ばれたのが、弱冠18歳の中村貞太郎であった。この一事を以ってして、天保学連同志たちの、貞太郎に対する信望の厚かったことが窺える。その貞太郎の風采について、安井息軒塾の同門佐倉藩士倉田施報は、「北有馬百之略傳」(以下「百之略傳」という)に、「君身体雄偉、眉ふとく眼すすやかにして色浅黒く膚澤やかなり。常に義経袴と称する短□袴をはき、長刀を横たへ、気宇皓々一見して其非凡なるを知るべし云々」、と記している。

中村貞太郎、名は百之。字は誠之。誠所、儲古斎、心外等の号がある。文政10年(1827)に、肥前国髙来郡北有馬村(長崎県南島原市)に生まれた。母の実家八木家の系図に、父の名は寛平義正とある。一説に父は久留米藩の御用商人、或いは質屋であったという。『百之略傳』には、「中村氏は州の望族にして家世富あり」とあるのみで、その事実は不明である。

なお、貞太郎の子安井小太郎が後年、「祖父は(中略)久留米の御用商人となりました。」(『大東文化』第17号)と語っているが、貞太郎の日記に記される父寬平からは、それらしい様子は窺えない。この安井小太郎の談話には、ほかにも「父が十五才のとき久留米に移住した」等、事実と異なる話がある。ちなみに、父貞太郎横死の際、小太郎は4歳の幼児で、父の死後は母方の安井家で養育されている。

「八木家系図」によれば、貞太郎には4人の弟と、早世を含めて6人の妹があった。次弟の重義(主計)は、後年貞太郎と同様に非業の最期を遂げている。なお、貞太郎の4人の弟については、「北有馬太郎の四人の弟たち」に詳述する。

天保4年(1833)、貞太郎7歳の時、家族と共に筑後国久留米に移住した。その理由について『百之略傳』には、「祖君没して後幾許あらずして伯父某亦没し、遺孤早太君後を承け尚幼なり。(中略)父君叔父なるを以て族人相謀り、代りて其家を幹らしむ。(中略)早太君漸く長じ、族中猜忌の徒、父君を早太君に讒する有りて、遂に宗を奪ふの意ありと、早太君之を信じ、嫌隙これより深く、各相党援して争訟やまず」、そのために一家を挙げて久留米に移住したとある。この重い事実は、後年に至るまで貞太郎とその一家に暗い影を落とすこととなった。なお、母と一部の弟妹たちは、後に母の実家である矢櫃村(長崎県南島原市)の八木家に引き取られている。

 久留米移住後の貞太郎は、12歳で重富縄山に、15歳で広瀬淡窓の咸宜園に学び、17歳の時、父の命により藩校明善堂の教官木村士遠の私塾日新社に入った。貞太郎が天保学連同志たちの悲願達成のため、江戸の藩主への藩政改革意見書を託されたのは、その翌年7月のことであった。国禁を犯す決死の行であったが、無事任を果たした貞太郎は、帰郷4日後、藩の奥詰石野陸三郎や木村士遠と共に長崎へ出張した。藩主の内命によるものであった。当時長崎には、オランダ軍艦パレンバンが入港中で、その見聞探索が目的であったらしい。

 貞太郎は長崎から戻って3日後、江戸へ戻る石野陸三郎と共に、学問修行のために上府し、後に幕府の儒官となった安井息軒に師事した。在府中は横山湖山、尾藤水竹家等に寄寓し、小国致遠、西川練造、月足元輔、山崎士謙、山本君山等多くの有志たちと交誼を結んだ。しかし、『百之略傳』によれば、翌弘化3年11月、「父君の意を体して」学半ばで帰省を余儀なくされたのであった。その理由は、「弘化二年に至り、余燼またもえ(一族との)嫌隙さらに深く」なったことによるらしい。「(帰省後は)家の艱みに遇て(中略)、東奔西走為めに盡瘁せられた」のであった。貞太郎が姓名を北有馬太郎と改め、心外と号したのも、この頃のことだったようだ。
帰省後の貞太郎は北有馬の地に赴き、親族等の間を奔走しているが、その詳細は不明である。貞太郎はまたこの間、木村士遠の日新社に寄寓し、学問の研鑽にも励んでいる。

3 真木和泉守保臣

 貞太郎は、江戸から戻った後の翌弘化4年4月、天保学連の重鎮真木和泉守と熊本に遊んだ。この時貞太郎21歳、真木和泉守は35歳であった。和泉守は、名は保臣、紫灘と号した。文化10年(1813)、久留米城外瀬下町の水天宮祠官の家に生まれ、11歳の時、父の急死により家を継いだ。20歳で上京し、神祗管領吉田家から大宮司を許され、従五位下和泉守の官位を授けられている。和泉守は学問にも熱心で、宮原国綸に崎門学を、宮崎信教に国学を学び、また藩校明善堂にも席を置いた。

和泉守は、幼少時から尊王の志が篤かった。文久元年(1861)3月の妻宛ての書中に、「きんり様の事には、いとけなきときより身をすてて御なげき申し候もの云々」、と記されている。天皇の直臣であるという意識のもと、王政復古を生涯の念願とした。南朝の忠臣楠正成への崇敬の念深く、その純忠の精神を継承体現すべく、正成戦死の5月25日には毎年楠公祭を怠らなかったという。

和泉守と貞太郎の関係が資料に残る最初は、貞太郎が天保学連同志の建白書を託されて上府した際のことである。その同じ天保15年の4月、和泉守は水戸遊学を名として江戸に上り、7月20日に念願の水戸に入った。貞太郎が江戸に着いたのは、その翌21日のことであった。貞太郎の日記に、「始めて赤羽邸に達す。講学所に造く。真木泉州在ず云々」とある。貞太郎は、和泉守を介して藩主に上書するよう指示されていたらしい。止むを得ず、貞太郎は直ちに在府の同志野崎平八に建白書を託したのである。

一方、水戸で会沢正志斎に教えを受け、日下部伊三次等と親交を結んでいた和泉守のもとに、7月26日、在府の同志佐田修平から至急江戸に戻るよう、書通があったのである。和泉守は翌日水戸を発ち、28日の夜半に江戸に帰った。翌29日の和泉守の「天保甲辰日記」には、「佐田、野崎、佐藤来る。中村、八重津両生有り。」とある。「八重津」とは、貞太郎に同行した八重津伊三郎である。

翌8月1日の貞太郎の日記には、「平日尾張屋を発つ。不破(孫市)、野崎、真木送って高輪に至る。店に投じて飲みて別る。独り真木又送って品川に至り別る。」と記されている。久留米に戻る貞太郎たちを、和泉守は1人品川宿まで送ってくれたのである。その後の2人の日記には、弘化4年4月の熊本遊歴に至るまで、互いの名は見出せない。
その4月24日、和泉守と貞太郎の2人は久留米を発し、熊本の木下梅里や阿蘇神社大宮司阿蘇惟冶等を訪ね、阿蘇山に登って翌月2日に久留米に帰っている。

 熊本から戻って3ヶ月後の8月6日の貞太郎の日記に、「真木和泉と約し東上、この日予先に大宰府に至り云々」とある。翌7日の真木和泉の「弘化丁未日記」には、「中村孟行先に在り、孟行故在りて大坂に奔る。予其議に預かる云々」と記されている。「其議」が如何なることかは不明だが、当時、貞太郎の伯父八木天山(士禮)が、大坂で藤沢泊園の留守中の塾を預かっていた。その伯父天山に宗家との嫌隔融和への助力を請うための上坂だったと思われる。ちなみに、この八木天山は、貞太郎の母の弟で、藤澤泊園の撰になる「天山先生墓碑銘」に、天山は筑前の亀井昭陽に学んだ後に泊園に師事したとある。貞太郎の良き理解者で、この人から受けた学問上の裨益も大きかったらしい。

一方、真木和泉の上京には、孝明天皇即位式典の拝観という目的があった。入京する和泉守一行とは途中で別れたが、同月28日には、和泉守は貞太郎が滞在する藤沢塾(泊園書院)を訪ねている。同日の貞太郎の日記に、「真木紫灘及び小野(加賀)、藤原二生予を藤沢氏に訪ねくる。乃ち同に堂島に之宿る云々」とあり、翌日の和泉守の日記にも、「昨夜社中と共に藤沢塾中に中村用之を訪ねる云々」、と記されている。2人の日記に互いの名を見るのは、これが最後である。翌年貞太郎は久留米の地を離れていることもあって、その後の2人の関係を知ることはできない。

 嘉永5年(1852)5月、和泉守は久留米藩内の政争事件から蟄居を命じられ、久留米から南に4里離れた水田で幽囚の日々を送ることとなった。安政5年(1858)には、和泉守は「大夢紀」を書いて、親征倒幕の理念を明らかにする。文久2年には、脱藩して京都挙兵計画に参加したが、寺田屋事件で挫折し、再び幽因の身となったが、翌年6月に許されて上洛。同志たちから「今楠公」と呼ばれ、大和行幸策等を立案したが、8月18日の政変で再び挫折し、七卿と共に長州に下った。翌元治元年(1864)6月、久坂玄瑞らと共に、浪士隊の総管として卒兵上洛したが、禁門の変に敗れて天王山で自刃した。享年51。 

4 田中河内介綏猷

 弘化4年8月、貞太郎は伯父八木天山と共に大坂を発ち、久留米を経て島原に渡った。しかし、藤沢泊園塾の代講を勤めるほどの伯父天山が仲裁に入っても、その結果は芳しいものではなかった。そのためだろうか、翌嘉永元年5月、貞太郎は父寛平と共に久留米を去り、京都に上っている。なお、これ以前の3月中旬、弟重義と従弟八木次郎の2人が大坂に向かっていた。この時、母と弟妹たちは、母の実家八木家に身を寄せたらしい。

 上洛後の貞太郎と父寬平は、仏光寺東洞院西街の権田家に寄寓した。「百之略傳」には、入京後の貞太郎について、「星巌梁川氏、宇多野凌雲及び諸公卿の家司一時有名の人々と交わり、又聘に応じて日野公の講筵に侍し、遂に野宮、中山、清水谷の諸公に謁し、因て時事を中山、日野二公に建議し云々」とある。貞太郎が日野資宗、野宮定功、中山忠能、清水谷実揖等の公家に接したことは、貞太郎の日記でも確認できる。野宮卿は、真木和泉孝明天皇即位式典拝観の際、その随身という便宜を得た人である。

 入京後の貞太郎と父は、寄寓先を転々と変えている。その年8月には、貞太郎は父と別かれて田中河内介の家に寄寓。翌月20日には権大納言清水谷実揖の屋敷に移り、12月には座田氏、翌年4月には再び田中河内介家に転居している。そして翌嘉永2年5月、貞太郎は父と共に梨木町に移って、初めて私塾を開いたのである。時に貞太郎23歳であった。しかし、この塾経営は、塾舎の床が抜けるなどのこともあって、芳しいものではなかったらしい。6月末には、父寛平が田中河内介の家に移り、以後長く寄寓することとなったようだ。

 貞太郎が京都で最も親交を深めたのは、この田中河内介で、義兄弟の契りを結ぶほどの仲であった。河内介について、岡藩士小河一敏は『王政復古義挙録』に、「志操胆略ある人」と記し、出羽庄内の郷士清河八郎は『潜中始末』に、「其人となり沈毅にして団り。而して能く衆を容る。実に聞く所に背かざる所なり」、と記している。また、西郷隆盛の某氏への書簡にも、「京都に於て有名之人」とある。丈高く、髷長く、長刀を腰にしていたため、「三長さん」と渾名されていたという。名は綏猷、字は士徳、恭堂また臥龍と号した。文化12年、但馬国香住村の医師小森正造の次男に生まれた。1兄2弟とも医師となったが、河内介は儒者となることを志し、出石藩儒井上静軒に学んだ。天保6年に上京して摩島松南や山本亡羊に師事し、後に家塾を開いたが、天保14年には大納言中山忠能に召されてその侍講となった。その後、中山家の侍田中近江介の養子となり、弘化2年には従六位下、河内介の官位を授けられている。その歌、「大君の御旗のもとに死してこそ人とうまれし甲斐はありけれ」が示す如く、熱心な尊王論者であった。

 貞太郎らが上京した当時、河内介は中山家の庶務一切を担当するほか、忠能の長男忠愛(17歳)、7男忠光(4歳)や慶子姫(14歳)の教育係として獅子奮迅の日々を送っている時期であった。当時の貞太郎と河内介との交友の幾つかをその日記で拾ってみると、上京翌年正月11日には、「士徳と東山に遊ぶ」とあり、8月19日には、「士徳詩を寄せ、出遊を促す云々」とあって、その4日後に黒谷真如堂から吉田山を経て大津に吟遊している。翌年2月某日には、「田中士徳と山田両兄、井上文太、但馬医生山脇生、士徳妻の弟栄三郎を伴い詩仙堂に遊ぶ。(中略)酔うて溝中に墜ち数日起き得ず」などとの記事もある。また、貞太郎の漢詩集(「廣茅中村太郎先生詩稿」)には、「松崎に遊び帰途百花を摘んで士徳に送る」と題する優雅な詩等、2人の親交の深さを思わせる多くの詩が認められる。

 この田中河内介は、貞太郎の次弟重義とも義兄弟の契りを結んでいる。その重義について、貞太郎の在京中の日記には、嘉永元年8月1日の条に、「先月中二子(重義及び八木次郎)前後浪蘤り来る。権田氏に同寓」とあり、翌月10日には「弟重義寓を野黄門家に移る」とある。重義の野宮定祥卿家への寄寓の理由等は定かでない。

 貞太郎と河内介の京都での交友は、2年に満たなかった。嘉永3年3月下旬、貞太郎は父や弟を残して1人江戸へ旅立ったのである。上府後の貞太郎は、旧師安井息軒塾等に寄寓した後、その年6月下旬から、5千5百石取りの旗本久貝因幡守正典に招かれ、その屋敷に寄寓した。「百之略傳」に、「久貝氏賓師を以て君を侍し、其子弟及び家中諸子の教育を託し、公務のいとまおのれもまた諮詢する所あり云々」、とある。

 翌々年2月、貞太郎は久貝氏を去って北越の田村(新潟県上越市)に赴き、12月にはそこを去って筒石村(同県糸魚川市)に滞在。さらにその後地本村(同県胎内市)に留まったが、翌嘉永6年11月に江戸に戻った。いずれの地も、豪農たちの招きによる出張教授であった。帰府後の貞太郎は、再び久貝氏に寄寓している。。

 前後するが、貞太郎は嘉永3年中、「秋日寄懐田中河州」、「歳除寄士徳」等の詩を詠んで、江戸から田中河内介に贈っている。その後も2人の書通は続いたらしく、嘉永5年7月21日の貞太郎の日記に、「書を重義及び田中士徳、寺田政美に寄せる。四、五月の間亦嘗て書を士徳に贈る。未だ能く達したか否かを知らず」とある。

 河内介の主家中山家では前年の3月、慶子姫が典侍天皇の側室)となり、この年9月には中山家で皇子(後の明治天皇)を出産していた。この慶子姫の懐妊に際して、河内介は産殿の造営等一切の御用掛を命ぜられ、多忙な日々を送っていた。この頃、偶々郷里の母危篤の悲報に接した河内介は、「拙者一身、日夜奔走寸暇無く、拙家の家事も相捨て候位の折柄に付」、とても帰郷は覚束ない旨を、兄宛てに記して送っている。貞太郎への返書も思いに任せなかったのかも知れない。

5 田中河内介綏猷(2)

 貞太郎が江戸に戻った嘉永6年は、米国使節ペリー提督が黒船を率いて来航し、日本の開国を迫った年である。貞太郎は、山崎暗斎の流れをくむ木村士遠に学び、強固な尊王攘夷論者である真木和泉守や田中河内介と肝胆相照らしている。その歌、「敷島の我日の本の太刀あるを見せはや四方のあたし国人」や、「黒金の心しもてる人ならば我大君の御楯な李計梨」を見れば、その思念は明らかである。翌嘉永7年3月には、老中松平伊賀守に対して、外夷への対処策と人材登用に関する建白書を、上州安中藩儒臣山田三山と共に提出したが、受け容れられなかった。

 その年8月、失意のうちに江戸を去り、武州下奥富村(埼玉県狭山市)に私塾を開いた。翌安政2年春には、塩谷宕陰の媒酌で恩師安井息軒の長女須磨子と結婚。翌年春には、下総飯岡村(千葉県成田市)の豪農大河家の招きにより、その地で講筵を開くために奥富の地を去った。そして、その年7月には、病父を飯岡村に迎えるために上京し、弟重義や田中河内介との再開を果たしたのであった。

 なお、田中河内介は、前年(安政2年)の冬から島原や久留米を遊歴し、この年6月上旬に帰京したばかりであった。この九州旅行には、貞太郎の弟重義も同行していたのである。これは、翌安政4年9月、貞太郎が安井息軒に宛てた書中に、「両人(河内介と重義)昨年西下仕、彼方(中村宗家)へ申向候言葉有之候故、俄ニ和平ヲ乞候様相成候而ハ、両人之顔無之故之儀云々」とあることで明らかである。河内介と重義は、中村宗家に乗り込み、確執問題を解決しようと強硬な懸け合いに出たらしい。しかし、貞太郎はあくまで穏便な解決を望んでいたのである。

先の書簡にはさらに、「直人(貞太郎の弟)儀京師表ニ而和平之儀、河内、主計抔不同意之趣申聞候」とか、「(河内介と重義の)僅之顔ヲ立てんとて一家之沈淪ヲ差置候わけニは参申間敷く存候」等とある。これは、貞太郎の弟直人が宗家との和解のため、この年兄の代理で島原を訪れようとして、京都で2人に遇った際、2人が前年強行に対応した経緯から、直人の島原行きに反対したのである。貞太郎は息軒への書中で、「(総領の)私一身ニ受取懸リ申候而は何時迄も一家之落着出来不申候様被存候」と記している。これが亡父の遺言だったのである(「北有馬太郎の4人の弟たち」に詳記)。

 河内介と重義の2人は、島原から久留米を訪れていた。真木和泉守の「南僊日録」のこの年5月11日の条に、「陰、午前兵馬来報日、田中河州至自島原、主人説大事、河(州)能領意(下略)」とあり、また同月14日の条には「河州今日上途去」と記されている。真木和泉守は藩命により、嘉永5年以来弟大鳥居啓太方に蟄居中であったため、2人は会うことができなかったのである。

 河内介が、九州旅行から帰った翌月記した「鉄丸記」なる一文によれば、河内介と重義は貞太郎の生地北有馬村の隣村にある島原の古城跡を訪れていた。その際、田地から出土した島原の乱の大小の砲丸を郷人から譲り受け、その内の「大を友人寺田子へ贈る」と記されている。この「寺田子」については、さらに文末に「吾友寺田政美慷慨悲憤之人也。因りて此物を分つ」とある。寺田政美は京都の冨商だったらしい。安政元年8月に、河内介が寺田に宛てた書中に、「僕、常に足下を以て天下第一の知己者と為す」等と記されている。
 貞太郎も在京中にこの寺田政美と親交を深めたらしく、その日記や漢詩集にその名を見ることができる。

6 田中河内介綏猷(3)

 文久元年、田中河内介は長年勤仕した中山家を致仕した。村井正禮の日記の文久2年4月6日の条に、「元中山家侍、昨年位記返上、当時何と名乗居候や不知」(井野辺茂雄著『幕末史の研究』)とあるという。河内介が、致仕3年前の安政5年8月に小河一敏に宛てた書中に、「僕も昨年来不快之事共有之、勤仕相断引籠在候へども、此節は又々出頭云々」とあり、再び勤仕することとなった理由については、翌年9月に河内介が郷里の実兄に宛てた書簡に、「御殿出入之儀も、先年より彼是有之候得共、何分私立去候ては不相叶儀も被為在候に付、実は大納言殿御閉口之儀有之、何分長□主従、無拠何事も思留り、不相替勤仕罷在候」、と記されている。

これらによれば、河内介が中山家勤仕に一方的に不満を抱いたととれるが、安政6年6月に中山忠能が長男正親町公菫に宛てて記した遺書に、「田中河内介はどうも大山気の物ゆへ、下官存命せず候はば、早々永の暇宜しく候。何事を起こすも測り難く候」(『日本文化』第17号)とあるというから、忠能も扱い兼ねていたのである。

 先の河内介の書簡によれば、安政4年から中山家致仕の意思があったとあるが、前記のごとく、安政2年の冬から翌3年の6月まで、河内介は中村重義と共に遠く九州に赴いているのである。この時はまだ祐宮が中山家で養育されており(安政3年9月に宮中に帰る)、「骨を粉にくだきてのみか命さへかねてぞ君にゆだねつる身は」と詠んで、祐宮の養育に身命を賭した河内介である。その河内介が、長期間京都を離れたということは、祐宮養育等に関して、忠能との間にこの頃から疎隔が生じていた可能性も想像される。

 なお、貞太郎が安井息軒に宛てた、安政4年2月27日付けの書中に、「田中河内介より書状到来、三月中ニ是非東下仕候決意之旨、如何様之口ニ而も宜敷候間、御探索被成被下候、尤家族〆四人候」とあって、河内介が江戸移住を決意したため、その勤め口の紹介を息軒に依頼しているのである。この書簡にはさらに、「河内事も愈々東行相決、最早家宅道具抔不残売払夫々始末相付、正月式日中も病気申立、他之往来も不仕位之身之上に相成居候趣」とまで記されている。また、文中に「実以不省違約仕候より難渋相掛ケ痛敷存候」とあるから、前年の貞太郎の上京の際に、既に河内介東下の話は出ていたらしい。

 この年6月13日付けで、河内介が安井息軒に宛てた書中にも、「僕儀も太郎より御承知被下候通、東下之心組ニ候得共少々不都合之事有之趄趑罷在候。乍併当秋ニも相成候得ハ是非々々下向仕候。万端御厄介宜敷奉願候」とあるが、その後東下は断念して中山家に復職したのである。
 貞太郎と河内介の関係を示す資料は、先に中村宗家に対する対応をめぐる、河内介と弟主計との対立に関する、この年9月13日付け貞太郎の息軒宛て書簡以後は確認することができない。

 田中河内介は、この後再び中山家を辞し、文久2年に出羽庄内の郷士清河八郎真木和泉守らと京都で挙兵を謀ったが、寺田屋事件で挫折。鹿児島に護送される途中の船中で、その子瑳摩介と共に薩摩藩士によって慘殺され、48年の生涯を閉じた。北有馬太郎の弟中村重義もまた、河内介と行動を共にして同じ運命を辿っている。

7 おわりに

 中村貞太郎とは異なり、真木和泉守や田中河内介は、当時も今日においても、広く名の知られた人物である。その真木和泉守と貞太郎との年の差は14歳、田中河内介とは12歳の年の開きがあった。特に田中河内介は、梅田雲浜を「尋常有志之人」といい、頼三樹三郎に対しては「不足論人物、僕等僻之」と評したほか、伊丹蔵人は「尋常之愚人」、森寺若狭守は「愚人」と切り捨てるほど人物眼の厳しい人である。北有馬太郎はその河内介と義兄弟の契りを結んでいるのである。貞太郎が確かな人物であったことは明らかであろう。
また、尊王家の真木和泉守と田中河内介が、貞太郎の思想形成に与えた影響の大きかっただろうことも想像に難くない。
  
【主な参考文献等】
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』所収・久留米郷土研究会) 
○「北有馬百之略傳」(倉田施報・東京大学史料編纂所所蔵) 
○「廣茅中村太郎先生詩稿」(内田豊吉筆写・内田清氏所蔵) 
○「八木家系図」(長崎県南島原市矢櫃・八木家蔵)
○「喜多谷中村家系図」(長崎県南島原市・中村家蔵)
○『安井息軒書簡集』(黒木盛幸監修・安井息軒顕彰会) 
○『安井息軒先生』(若山甲蔵・蔵六書房) 
○『真木和泉遺文』(真木保臣先生顕彰会・伯爵有馬家修史会) 
○『真木和泉』(山口宗之吉川弘文館) 
○『田中河内介』(豊田小八郎・臥龍会) 
○『幕末史の研究』(井野辺茂雄・雄山閣) 
○「大東文化」第17号(昭和12年12月28日発行、大東文化学院編集部)
 ○『漂泊の志士―北有馬太郎の生涯』(拙著・文芸社)

この稿は、次稿「北有馬太郎と西川練造」に続きます。