(本稿以下Ⅵ稿迄は、『漂白の志士-北有馬太郎の生涯』上梓に際して調べた人物の一部です。参考までに掲載しておきます。)
その一
下総佐倉藩士の倉田施報(幽谷・後安中藩儒官)が記した「北有馬百之略傳」に、「久貝氏賓師を以て君(北有馬太郎・本名中村貞太郎)を侍し、其子弟及び家中諸子の教育を託し、公務のいとまおのれもまた諮詢する所あり。君も亦其志を感じ、教導に心を盡し、大に啓沃する所あり。」と記された一節がある。
北有馬太郎が京都を去り、再び江戸に至って、旗本久貝因幡守正典の屋敷に招かれたのは、嘉永3年(1850)6月29日のことであった。恩師安井息軒の紹介であったと思われる。
久貝因幡守正典は、5,500百石取りの大身旗本で、北有馬太郎の寄寓当時は大番頭の職にあった。大番は大御番とよばれ、戦時の先鋒の精兵で、平時は両番(書院番と小姓組)と共に営中を守ったほか、1年交代で大阪城と二条城の警備に任じていた。12組あって、大番頭12人、大番組頭48人、大番衆600人の総勢であった。大番頭や大番組頭の屋敷は、江戸城西北の番町に集中し、城の守りとなっていて、その知行地も、江戸から20里以内に配置されていた。有事の際の食料補給の役割があったという。『寛政譜以降旗本家百科辞典』によれば、因幡守正典の屋敷は牛込加賀屋敷3,000坪のほか、拝領下屋敷が、小石川大塚9,000坪余と市谷新本町120坪等があった
。
久貝因幡守は、名は甚三郎、後に仙と改めた。字は宗之、諱は正典、諏善堂と号し、養翠等の別号があった。和学者で、歌人としても広く知られた人である。木村芥舟の「幕府名士小傳」(『旧幕府』合本二)に、「(久貝正典は)身躯偉大にして才識衆に過絶す」とある。
久貝因幡守正典は、大番士小林歌城に和歌を学び、詩学にも造詣が深かった。また、当時の文人たちを庇護したことでも知られている。萩原広道の「源氏物語評解」が出版行悩みの状態にあったのを、佐々木春夫に資を出させて刊行させるなど、文學界にも大きな業績を残したといわれる。(久貝正典とその詩については、『跡見学園国語科紀要』収載の伊藤嘉夫「久貝正典の歌と人」に詳しい。)
『寛政重修諸家譜』によれば、久貝氏の祖は正勝といい、徳川家康の旗下本多平八郎に属して数々の戦陣に供奉した。三方原の役では敵の首2級を得る軍功をあげ、後に大番の組頭となった。天正15年(1587)に没し、近江国周知郡田中村の白泉寺(正勝の開基)に葬られたが、この白泉寺は、久貝氏2代正俊の時、江戸の下谷に移されている(現在は巣鴨に移転)。
正勝の子正俊も、大阪の役で敵の首3級を挙げる等の戦功があり、元和5年(1619)には大阪町奉行に任ぜられて、采地1,500石を加増され、旧領1,500石と併せて河内国交野郡の内に3,000を領した。寛永5年(1628)には、従五位下因幡守に叙任され、所領も河内国讃良郡内に2,000石を加増されて都合5,000石を給せられるようになった。正俊を継いだ3代正世の時から甚三郎を名乗るようになったらしい。4代正方は、元禄12年(1699)に御勘定奉行となり、宝永7年(1710)には武蔵国の入間・比企両郡の内の500石を加増され、併せて5,500石を知行するようになっていた。
久貝因幡守正典は、久貝家の11代目を継いだ人である。文化4年(1807)の生まれで、文政10年(1827)8月に寄合から火事場見廻に出仕したのを初役に、火消役(文政13年)、小普請組支配(天保6年)、小姓組番頭(同7年)、書院番頭(同9年)を経て、天保12年(1841)8月から大御番十一番の頭の任に就いていた。正典が従五位下因幡守に叙任されたのは、書院番頭となった天保9年であった。
天保14年(32歳)には、京城守護のために初めて上洛した。翌年任満ちて江戸に戻ったが、その年の夏に愛児を喪い、翌弘化2年(1845)の秋には、最愛の妻と死別するという悲運に見舞われている。正典は悲嘆のなかで数々の歌を残しているが、「妻のみまかりける頃」と題する歌のなかに、次のようなものがある。
在りし世のありのことごと夢にみえ現に浮ぶ昨日今日かな
独寝の閨のひさしの妻梨にのこる果よいかになれとか
愛する妻子に先立たれた正典の悲しみは、長く癒えることがなかったらしい。妻と愛児を喪った翌年初秋には、正典は大阪在番として再び江戸を後にしたが、この大阪在番中、正典は妻子との死別の傷心からか、生死の境をさ迷う大病に倒れてしまった。病床にあってまどろむ正典の夢に現れたのは、亡き児や亡き妻の姿ばかりで、ここでも妻子を偲ぶ数々の歌を残して、現在にその悲しみを伝えている。その内の二首を記す。
なきがらに櫁手向けしその時の悲しかりしぞけふは恋しき
忘れめやいまわになでし黒髪の長きわかれといひし一言
妻子への情愛の人一倍深い正典は、独り残された悲しみと、亡き妻子たちへの愛惜の念を断ち切れずにいたらしい。歌人として名の残るほどの人なので、豊かな感性の持ち主だったのだろう。
病も癒え、大阪在番の任も満ちて江戸に戻った弘化4年秋から、再び上京する嘉永2年の間に、正典は後添えを娶り、子も生まれたが、その後添えにも先立たれ、生まれたばかりの幼い子と、3歳になる娘にも再び死に別れるという過酷な運命に翻弄されている。その亡き妻子の面影を偲んで詠んだ歌に、次のようなものがある。
小夜ふけて燈火くらき壁しろに吾が影一つなにうつるらむ
ちぎりおきて又も親子になるべきを生まれ来む世に面変りすな
その二
北有馬太郎(30歳)が久貝邸に寄寓を始めたのは、嘉永3年6月29日である。この時、正典(39歳)は大阪から戻っていたのだろうか。久貝邸での貞太郎の動向を伝えるものは何もないが、唯一その日記に、「十月三日、(中略)此日午後孝経を講ず。夜韓非子を講ず。」と見えるのみである。なお、「廣茅中村太郎先生詩稿」のなかに、「歳晩賦呈久貝因州」と題した次のような七絶がある。
何須長鋏嘆車魚 読盡主人萬巻書 代舎半年無一事 愧吾才比馮生疎
久貝正典、膨大な蔵書を有する読書人だったのである。これより4年後の、北有馬の安政元年11月28日付け安井息軒宛て書簡に、「久貝氏之蔵書引出度思案仕候。乍去遠地(当時北有馬は武州下奥富村滞在中)へ離れ居候得は不安心ト存」じ、貸し渋るかも知れないので、「何卒先生より之御口入ヲ以引出候様ニ相願申上度候云々」とある。この書中にはさらに、「久貝氏之へは私より相談仕候心得ニ有之候。実ハ久貝氏蔵書虫ニくわせ置候事は惜敷事ニ候」、とも記されている。その結末はどうなったのだろう。
なお、当時3,000石以上の旗本であれば、家老(重役)、給人、中小姓、側用人、奥用人、納戸役、近習役、勘定方から、武芸師範役、徒士、足軽、中間まで、100人以上の家来がいたというから、5,500石取りの久貝邸には、相当数の家臣がいたと思われる。これらの家来やその子弟たちへの教授の傍ら、貞太郎は自らの研鑽にも励んでいたのである。
北有馬太郎は翌々年の閏2月、久貝邸を去り、北越の地に旅立っている。先の北有馬の漢詩集に、正典との別れに際して詠んだ、「臨別呈久貝因州」と題する次の七絶がある。
三年奇食在君門 疎懶誤遭禮意温 微力敢能贏亥事 有心不負信陵恩
また、翌嘉永6年の正月、貞太郎が新年の挨拶状と共に送ったと思われる「北中新年寄呈久貝因州」と題する次の詩がある。
風光節物入新年 孤客猶留北海辺 君在浪華吾在越 両心共至武城天
当時正典は大阪在番中だったのである。『続徳川実紀』によれば、正典はこの年9月に江戸に戻っている。それから2ヶ月後の11月中旬、北有馬太郎もまた江戸へ帰った。この年6月の米国のペリー艦隊や、ロシア艦隊の来航の報に接してのことであった。
北有馬は北越遊歴から戻った後、再び久貝邸に寄寓することとなった。翌嘉永7年の正月5日には、川越の畏友西川練造が北有馬のもとを訪れ、その12日には、2人揃って浦賀の視察に出かけている。西川練造の娘婿の口上書に、「安政元年より同二年迄市ケ谷御旗本久貝因幡守様屋敷に、練造、北有馬太郎と申人同居随身いたし居候」、とあるというから、西川練造は、この時から北有馬と同居するようになったのかも知れない。
なお、西川練造の久貝邸への寄寓に関して、岸伝平氏の論稿「明治維新の志士西川練造」に、「細田家は練造の実母の生家でもあり、かつて江戸遊学のとき滞在した名主役である細田家の手引で練造は久貝邸にいたものと考察される。」と記されている。しかし、練造の妻の実家でもある細田家が名主役を勤めた高麗郡下川崎村(埼玉県日高市)の領主は、久貝金八郎である(『旧旗下相知行調』)。久貝金八郎の家(900石)は、正典の祖先久貝氏2代正俊の三男正信が分家し、寛文10年(1670)に高麗郡の内に采地を賜っていた。
西川練造の久貝邸への寄寓は、北有馬の推薦があってのことで、練造も久貝氏の家中に兵学等の教授をしたのかも知れない。北有馬はそれから半年後の6月、久貝邸を去り、武州下奥富村(埼玉県狭山市)へ移住している。憂国の至情から行った、幕閣への献策が受け入れられなかった落胆などから、地方での尊王攘夷活動を志してのことだったらしい。なお、「北有馬百之略傳」に、貞太郎は幕閣への建白と共に、「久貝氏の為に其家士に警むるの約束を草し、不慮に応ずるの策を勧む。鑿々皆條理あり、頗る採用さるると云。」とある。
これ以後、北有馬の日記に久貝正典の名を見ることはないが、安政4年5月12日付け北有馬の安井息軒宛て書中に、「直人事、久貝氏引取、又々御厄介ニ相成罷在候云々」とある。この頃、弟(三男)直人は久貝正典邸に寄寓していたのである。息軒の計らいだったのだろう。なお、直人の久貝邸への寄寓は、左程長くはなかったらしい。(「北有馬太郎と四人の弟たち」)
その三
『続徳川実紀』嘉永6年12月23日の条の、家督相続の御禮に登城した者のなかに、「大御番頭因幡守養子久貝数馬」の名がある。継嗣のなかった正典は、旗本遠山美濃守の子数馬を養子を迎えたのである。翌々年の2月には、数馬は久貝氏の通名である甚三郎を名乗り、中奥小姓に任じられている。
安政2年(1855)2月、講武所の開設に当たって、正典は総裁(定員10人)に任じられた。大番頭は兼任であった。『続徳川実紀』安政3年1月の条に、御役替として「御留守過人 大御番頭久貝因幡守」とあるから、大番頭の職は免じられて留守居と講武所総裁の兼帯となったのである。東京市史外篇『講武所』によれば、同年2月に講武所の職制改革があって、正典と書院番頭池田甲斐守長顕の2人が講武所用向主役と心得て勤務すべき旨を命ぜられた。同年4月には講武所の開場(4月25日)を直前にして、正典は「講武所御創建之御用相勤候拝領物」として、時服4を賜っている。
なお、『寛政譜以降旗本家百科事典』では、安政3年2月留守居、安政4年10月講武所総裁兼帯とあって、講武所総裁職は一時離れ、再び復職した如く記されている。『講武所』には、正典は翌安政5年10月9日に大目付、講武所総裁兼帯、2日後の同月11日留守居上席、同月16日には日記懸・鉄砲改を命ぜられたとある。『続徳川実紀』によれば、同じ10月に神奈川開港尽力の命が下っている。
この安政5年は、いわゆる安政の大獄の始まった年で、この9月以来江戸や京都で多くの尊攘派の志士等が逮捕投獄されていた。12月には、寺社奉行板倉静勝、町奉行石谷穆清、勘定奉行佐々木顕、目付松平康正と共に大目付の正典がこの尋問に当たることとなった。五手掛という。正典の尊攘派の浪士たちに対する見方を知るため、正典の歌を次に掲げる。
ほこらかに長太刀はけるしれ者はいたちなき世の鼠なりけり
大老井伊直弼は、講武所の小川町開場の際等に臨場している。総裁久貝正典の人物識見を知悉した上での大目付への登用だったと思われる。大獄の最中、寛大な処分を主張した五手掛の一部が更迭された際も、正典は吟味役として残り、井伊直弼の意向のままに、志士たちへの峻厳な処分にあたったのである。幕府創建以来累代の恩顧の念と、幕政参与者としての立場が、幕府の苦衷に乗じた過激派への憎しみとなっていたのかも知れない。
だが、こと西欧列強諸国に対する正典の攘夷の一念は、攘夷派の志士たちと変わるところはなかった。その正典の胸中は、次の歌によって知ることができる。
吾はもよ良き太刀得たり西の洋の夷が輩を撃ちてしやまむ
また、福地源一郎著『幕府衰亡論』のなかに、嘉永6年のペリー艦隊来航の際、幕府がその対応策に関して幕臣たちに意見を求めたのに対し、正典が同役(大番頭)加納遠江守と連署で提出した意見書の一部が載っている。そこには、「御諭しの趣承伏仕らず候節は、速かに打払い仰せ出さるべし。もし危安の御処置に成行き候わば、御為め宜しからず存じ奉り候。」などとあって、当時の正典が攘夷論者であったことが明らかである。
その四
桜田門外の変で大老井伊直弼が斃れた年(1860)の8月、正典は御側衆御用御取次となり、河内守(後更に遠江守)と改称している。文久2年(1862)11月には一転、安政の大獄の際のの裁きの不当を問われて、禄高2,000石を召し上げられ、隠居差控えとなった。『続徳川実紀』の11月15日の条には、「御側御留守居兼帯久貝遠江守 病気ニ付、願之通御役御免、隠居被仰付。家督無相違、養子相模守江被下之。」とある。そして、それから8日後の同月23日の条には、家督を継いだ中奥御小姓久貝相模守(数馬)に対して、次のような処断が下された。
「其方養父遠江守[正典]大目付勤役中。飯泉喜内初筆一件吟味之節。立会被仰付候処。不束之次第有之段達御聴。勤柄別而不似合之事ニ候。依之其方高之内。貳千石被召上。遠江守儀差控被仰付之。」
父祖伝来の2,000石を削られ、隠居差控となった正典の心中はいかばかりだったろう。なお、『続徳川実紀』は、元治元年6月以降の記述が欠落しているので確認できないが、先の『講武所』の「講武所の職制」に、次のように記されている。
「久貝養翠正典。 元治元子六月二十三日中奥御小姓相模守養父。隠居元御側御用取次
元慶応元丑五月十一日先達被召上高之内千石、別段之譯ニて其方江被下之。同年六月十四日卒。」
前年には、禁門の変に続く第一次長州征伐の発令や各地での挙兵騒乱、この年4月には第二次長州征伐が発令され、江戸はその準備に騒然としていた。幕府瓦解寸前の混乱のなかでの正典の死であった。
せまり来る冥路の使待てしばし公のこといまだ成しはいず。
臨終に際しての正典の歌だといわれる。正典は、落日迫る幕府の行く末に心を残しながら逝ったのだろうか。享年は60。東京西巣鴨の白泉寺に葬られた。
【主な参考文献】
○「久貝正典の歌と人」(伊藤嘉夫 『跡見学園国語科紀要』昭和33年3月)
○『旧幕府』第一巻一号(浅華戸川安宅編 原書房)
○『東京市外篇講武所』(安藤直方 聚海書林)
○『続徳川実紀』(黒板勝美・国史体系編修会 吉川弘文館)
○『幕府衰亡論」(福地源一郎 平凡社・東洋文庫)
○『新訂寛政重修諸家譜』(續群書類聚完成會)
○『寛政譜以降旗本家百科辞典』(小川恭一 東洋書林)
○「北有馬太郎日記」(『久留米同郷会誌』収載 久留米郷土研究会)
○「廣茅中村太郎先生詩稿」(内田豊吉筆写 内田清氏所蔵)
○「北有馬百之略傳」(倉田施報 東京大学史料編纂所所蔵)
○『安井息軒書簡集』(黒木盛幸監修 安井息軒顕彰会)
○『埼玉県史調査報告書 旧旗下相知行調』(埼玉県県民部市史編さん室編集)
○『三百藩家臣人名事典』(家臣人名事典編纂委員会 新人物往来社)
○『江戸時代の制度事典』(大槇紫山・歴史図書社)
○『川越叢書』(川越叢書刊行会編集部編・国書刊行会)